前にも申したことでありますが、
因縁というものは、
根本的に善悪を超えたものであります。
そう思うのであります。
無実の罪、
或いは王難の苦に遭う。
違うと無実であると言っても無駄なことです。
中には、監獄に入って、
そこからずーっと無実を叫びつづけ、
何十年かのお勤めのあとに、再審請求が認められる。
そういう人生を送られる方もいます。
ですが、
私たちは「因縁切りの行」に入っているのです。
それを甘んじて受けることも大事ではないか。
そう思うのです。
師の行を始められたころの話を、
私はよく聞き返すのですが、
師は嫌なことを受けると、
それだけ因縁が切れるから、
私は甘んじてそれを受けるのだと言われていました。
因縁切りの行は、
仏様との契約関係を結ぶことであります。
仏様とご縁を結ぶということは、
仏様に対して、これこれこれだけの事をいたしますから、
どうか私の悪因縁を切ってくださいと、
契約を交わすわけです。
ですから、
困った時の神頼みで、
苦しい時に仏様に助けてほしいと頼む。
仏様は慈悲深いですから、助けてはくれますよね。
ですが、
❝仏の〇〇も三度まで❞というように、
仏の顔にも限度があるわけです。
ですから、
そう何度も何度もというわけにはいかない。
自分にある徳がなくなると、
仏の救済力が通用しなくなるのです。
そこで、
仏様に助けていただけるような行為が必要になるわけです。
それが『因縁解脱の行』です。
それには、
まず徳を積む、
仏様に喜んでいただけるような行為を行う。
それを梵行というのですね。
それも条件があるのです。
三宝の下で梵行を積んでいく。
それが必須条件です。
その三宝とは、
①仏の御元において、②正法において、③聖衆において
梵行を行うというのです。
その三宝が仏教においては絶対条件でありまして、
この本物の三宝がそろって初めて、
解脱成仏力が生じるのです。
これが大事であって、
解脱成仏力のないところでいくら修行を行っても、
まったく因縁解脱はできない。
成仏は不可能なんです。
驚いたでしょう?
え何も?
だって、他の宗派でもやっているんだから、
どこでもいいんじゃないですかと、
あなたは言うかもしれませんね。
宗派は問いません、どこでもよろしい。
ですが、
本物の仏様と本物の正法である成仏法、
そして本物の霊性開顕した阿闍梨耶がおられますかな?
それがそろっていたら、構わないでしょうね。
それが修行の場を形成するのです。
法界、
つまり法の領域になりますが、
その場で梵行を行うことが成仏の条件なのです。
今の大乗仏教では、
成仏、成仏ということを強調しますが、
お釈迦様は元々、
因縁解脱ということを説かれていたのではないでしょうか。
お釈迦様ははじめに、
運命学を学ばれていたからです。
宗教はすべて運命学から始まっているのです。
運命学の理論を体得して、
その理論の下に宗教を始められるのです。
だから、
お釈迦さまも同様に、運命学の理論をもとにして、
修行を進められたのではないかと思いますね。
そうでなければ、
運命の限界を超えることができないからです。
運命の範囲内で努力することが、
人間の最善の努力であり、
行いであるということになるからです。
運命を越えることが因縁解脱なのであり、
運命転換なのであり、成仏なのであります。
それが仏法なんです。
それを理解する時、
これまでの仏教にたいする考え方が、
180度変わることに、
あなたは驚くでしょう。
そして、
さまざまなことが分かるようになれば、
改めて、
あなたは甘んじて受け入れるという意味がわかるようになる。
そういうように思うんですね。
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