(つづき)
『阿毘達磨俱舎論』より、
「前に、世の別は、みな、業によりて生ずと言うなり。
しかして、かくの如き業は、随眠を離れたる業は、有を感ずる能なし。」
とある。
これは「業」と「随眠」(無意識の意識のこと)と、
深いかかわりがあることを述べた言葉である。
では、
どのようなかかわりがあるのか?
つまり、“世の別は業に由りて生ず。思および思の所作なり”
“思はすなわち意業なり。所作はいわく身語なり”
とある。
「思」は想いとか考えるとかを意味している。
精神作用全般を指すと思ってよい。
そして、
「所作」はその思の結果、
言葉を発したり行動に移したりすることだから、
「思」が行を生ずるということである。
そこで、
「思」の本体は何か?ということになるが、
思は無意識の働きを含めているから、
精神作用の中の「随眠」という領域を指すことになる。
「随眠」とは、思が深く眠っている状態だというのだ。
ひきつづき、
「随眠」の説明に入ると、
“随眠は諸有(あらゆる存在)の本なり。”
“これが差別(しゃべつ)に、六あり。”
“貪と愼とまた慢と無明と見と及び疑なり。”
とこうある。
つまり、
随眠が目を覚ますと、所作を生じ、
そして「業」を生むのである。
だから、
まず「随眠」を起こさないようにすること、
そして、
眠ったままの「随眠」を、
ある方法で消滅させることが大事なのである。
やがては、「随眠」が時に応じて目を覚まし、
思の所作(業)を引き起こさないようにするためである。
それが仏陀釈迦の説いた成仏する方法であるというのだ。
それが『阿含経』という経典の中に、
釈迦が直々に説いた仏法として。残されているのだ。
(つづく)