玉川な日々

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シナ的人間(4) - 朱子学

2012-12-14 20:05:43 | 左様出尾蛇瑠
人類史における四大文明、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明発祥の地が、何故に現代では騒乱の地である。それは何故か?この歴史の教訓が分からなければ、皇紀2672年の現在の日本、繁栄から衰退期へと入った現在に対して、その処方箋は見いだせないのである。

この根本的で、今日的な問題、四大文明発祥の地である支那の儒教文明がなぜ滅亡したのか?どこに問題があったのか?それが今回の「シナ的人間」の主題のうちの一つであり、シナ人の根本的な問題へ迫ることが目的である。

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儒とは、漢字から見ますと人+需で人が求めるものですから、儒教とは漢字からは人が人として求められる教えという意味であります。実に、儒教は周代からの貴族階級(大夫)へ仕える者の教養として孔子とその弟子等によりまとめられたもので、宗教的な魂の救いというよりは、政治的・道徳的な教義が主であったということは四書の中核である論語、孟子の内容からも明らかであり、リーダー学の古典であり、人としての道徳であり、普遍的な教えであるために、二千年の時を経てもいまだに輝きを失わずに、書店をにぎわしている訳であります。

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今回は、孔子・孟子以降、一千四百年の暗黒時代を経て宋学から朱子学へと変わっていくわけですが、その主たる思想家をあげてどう変わっていったか見てみましょう。

・韓愈(唐 768-824)、宋学の源流であり、「修身斉家治国平天下の顕彰」、「先王の道」、「道統の説」を説く。

・周濂渓(北宋1017-1073)宋学の最初の大師、「大極図」「聖人学んで至る」、「理想の士大夫」を説く。

・張横渠(1020-1077)唯物論「気の哲学」を説き「西銘」著し「宇宙的家父長制」を説く。

・程明道(1032-1085)・程伊川(1033-1107) 兄弟。周濂渓に学び、儒教に理、天理の思想を持ち込み、「性即理」朱子学の基本思想(客観的観念論)を説く、。

・朱子(1130-1200)、周濂渓→程明道→程伊川→張横渠と展開された「道学」に、首尾一貫した体系を与え朱子学を完成する。支那歴史上、最大思想家とされる。

朱子学の基本区分としては
1)存在論、「理気」説。
2)倫理学あるいは人間学、「性即理」の説。
3)方法論、「居敬・窮理」の説
4)古典注釈学、および著述、「四書集註」「詩集伝」「資治通鑑網目」、「文公家礼」。
5)科挙にたいする意見、社倉法、勧農文、その他具体的な政策論。

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朱子が死んだのは1200年であるが、その朱子が生きていた時代には朱子学は「道学」とよばれていて学問として支配的な地位を確立していたわけではない。朱子の晩年には、「偽学の禁」がおこり「道学」は偽学とよび、官界から追放される運動が起きた。ところが、モンゴル人に支配された元代に入り、南方で学界主流となっていた朱子学が、科挙が復活される際に科目として朱子学が採用されたことにより、皮肉にも異邦人の支配下で圧倒的な権威を有するようになる。

結局のところ、武力だけで文明的な知をもたないモンゴル人が、シナ大陸の野蛮人を支配するために伝統的朱子学が採用された。

悲劇か喜劇か? もともと貴族に仕えるための学問でありましたから、庶民には関係ない話ではあります。

(つづく)