朝日新聞3月24日社説より
「無投票知事―選挙って何だろう」
秋田県知事選で、現職の無投票当選が決まった。
1月には山形の知事も無投票で再選された。平成に入ってからそれまで、無投票の知事選は2例のみ。まさに異例である。
対立候補が出なければ有権者は選択の機会を奪われ、民主主義が機能しなくなる。ふつうの社説なら、こう警鐘を鳴らすところだろう。
だが、ここでは別の観点から選挙とは何かを考えたい。
秋田での無投票の直接の理由は、自民、公明、社民の各党が支持する佐竹敬久知事に対し、民主党が対立候補の擁立に失敗し、共産党も見送ったためだ。
ただ佐竹氏は、有権者にも対立を望まない空気があったとみる。再選後、こう語っている。
政治家は、選挙で無理やり対立の構図をつくり、現実味の乏しい公約を掲げがちだ。それでは政治や行政は停滞し、世の中は変わらないと、有権者は気がついてきた――。
実際、秋田では、非自民勢力が推す前知事の後半、県議会自民党は知事の提案を次々に拒否。子育て教育税の導入も地域振興局再編も実現せず、県政の停滞が続いた。
その末に、敵をつくらないのが持ち味の佐竹知事が誕生。1期目に住宅リフォームの助成など共産党の提案も採り入れ、同党の擁立見送りにつながった。
再び知事の発言に戻る。
高度成長期には、年々増える予算で「何かをやる」ために選挙で激しく争った。いまは「何かをやめる」選択にならざるをえない――。
少子高齢化と財政難の時代、選挙は意義を問われている。
できることは限られているのに、選挙で争うために、相手との違いを際立たせる。何かをやめるという難しい合意形成はさらに困難になり、「動かない政治」に有権者の不信が募る。
国政でも、そんな悪循環が繰り返されてきた。
選挙は大切だが、それだけで民主主義が機能するとは限らない。選挙の限界をどう補うか。問われているのはそこである。
その点で、無投票当選の知事たちの動向に注目したい。
有権者から信任を得る機会を逃したのだから、民意をくむ工夫を凝らさなければなるまい。情報公開を進め、公約の実施状況を明らかにし、対話の場を設けることが不可欠だ。責任転嫁する相手はおらず、議会を説得する努力や技量も問われる。
本来、すべての政治家が心すべきことが再認識されるとすれば、無投票当選もあながち捨てたものではない。