轟見聞録

表現者・轟ひろたが、学んだことをメモ書きします。(毎週木・日曜更新)

尊重

2012-03-29 | Weblog
プロデューサー、トミー・リピューマのインタビューより


ポール・マッカートニーは一流のミュージシャンであるばかりでなく、ミュージシャンや私のようなプロデューサーとの接し方がとてもうまいんだ。プロジェクトにかかわるミュージシャンやスタッフの役割を尊重するというのは、必ずしもすべてのアーティストにできるものではないんだよ。

いつでも出来る

2012-03-27 | Weblog
思想家、吉本隆明のことば


僕は自分のことを考えたりすると、日本バンダム級7位くらいだと思うわけですよ。そうすると、あんまり言う気もないんですけども、自分のモチーフとしては、なんて言うのか、日本バンダム級7位だけれでも、だいたい世界バンダム級1位といつでも試合出来るというふうにはしておきたい、というモチーフはあるんですよ。

歌わされる

2012-03-26 | Weblog
ウルフルズ、トータス松本のインタビューより


例えば「ガッツだぜ!!」を歌ってくれっていう機会が結構あるんですけど、以前とは歌う時の気構えみたいなものがぜんぜん違うんです。
今も歌わされていることには変わりないんやけど、なんで歌わされてんのかっていうことを考えるようになりましたよね。必要やと思ってくれてる人が少なからずいると。それを実感するというか。

勇気を描きたい

2012-03-25 | Weblog
ミューズのボーカル、マシューのインタビューより


最近U2のボノがさ、日本についての歌を、一人のキャラクターの視点から書いてみたいって話していたんだ。原子炉の冷却のために自らあそこに入って行った人たちの勇気を描きたいと。

2012年3月11日

2012-03-20 | Weblog
轟です。
3月11日福島県に日帰り旅行してきました。そこで感じたことを箇条書きします。


朝7時、曇り。
東京駅発いわき行きの高速バスに乗る。片道3350円。
福島弁訛りのお客さんに囲まれ「福島に行くんだなあ」感に包まれる。石川啄木の「ふるさとの 訛なつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」を思い出す。
テレビ局のカメラマンが東京駅のバスターミナルに来ている。バスの「いわき行」という表示を撮っている。それを露骨に嫌がっている乗客の話声が聞こえる。

バスは途中でスカイツリーのそばを通る。高すぎて頂上が見えない。
浅草を通過し常磐道にのる。
40分も走ると「いわきまで○○キロ」の表示が見えてくる。
東京都、埼玉県、千葉県、茨城県を通過して福島県に行くルートだとわかる。
途中までが茨城県ひたちなか市。私にとっては夏の「ロックインジャパンフェス」に向かう道のりと一緒だったと気づく。
ひたちなか近くの友部サービスエリアの通り過ぎると高速が3車線から2車線に変わる。車の量も格段に減る。
福島県に入る。
車中より外を眺める。いろんな看板が見える。「福島県いわき市 フラガールが生まれた町」「りんどう湖ファミリー牧場」「災害通行止め」、手書きで「がんばろういわき 負けるな農業」
勝手な想像で、福島の人は放射能を懸念してマスクをしている人が多いと思っていましたが、している人がほとんどいない。東京よりもマスク率が低い。みんな花粉症ですらないのか。
カラオケ屋さんの「平日昼間1時間10円。持ち込み可」との看板に驚く。


10時にいわき駅に着く。晴れ。


信号の待ち時間の長さに驚く。まだ家や道がゆがんでいたり、傷跡が残っていました。



そこから歩いて10分。事前にインターネットで調べていた追悼集会に参加しました。
100人ぐらいが参加していました。横に座ったご婦人の訛りが「なにを言っているのかわからないなあ」と思っていたら韓国の人でした。参加している中で30人くらいは外国の人。白人の人も黒人の人も。南米系の人もいました。
そこでいろんな人のいろんな話を聞けました。これまた箇条書き。

僕たちに見える希望は一瞬。すぐに見えなくなるけど信じていきたい。
昨年の3/11で、ある意味すでに自分は終わっていた。でもここまで生きながらえることができた。生かされていることを実感できた。
この一年があっという間に、慌ただしく過ぎていった。
僕たちのこれから進むべき道を指し示してくれた一年。

いろんな話が聞けましたが、ジンバブエ生まれのオーストラリア人の講話が印象深かったです。
「勇気」と「正しいことを話す」ということをテーマに話していました。かいつまむと

紀元前の話。
イスラエル人はエジプト人の奴隷だった。やがて解放されたのだが、自分たちの土地で種をまき、いざ刈取りの時期になるとミデヤ人という種族に根こそぎ略奪された。それも毎年。
イスラエル人はどんどん貧乏になる。そしてミデヤ人が襲ってくるといつもみんなで山に逃げる。そんな中、ギデオンという人がこう言った。「みんなは逃げていい。私は船に隠れて麦をうつ。種を残すために」と。多くのイスラエル人は簡単な選択肢を取った。でもギデオンが逃げることを選ばなかった。

同じように、いま福島県にいる人々は大きな痛みのなか決断した一人一人。「勇気」を持つことを選ばれました。いまみんなが逃げたらこの町はなくなる。皆さんこそが現代のギデオン。皆さんが一つになって立ち続けることでこの町に種を残すことができます。

同時に、ギデオンは自分中心の考え方をとらなかった。ギデオンは街や民衆のことを考えました。個々人の問題ではなく共同体のことを考えた。勇気を持った人々が「正しいこと」を語ることが大切。

ただ政府に委ねるばかりではなく自分たちで立ってみましょう。私たちの持っているものは僅かかもしれない。でも立ち上がる準備はある。2011年3月11日から私たちは一歩ずつ進んでいる。そのことを世界に知らしめましょう。そうすればいつの日か世界から愛の津波が来る。古い日本に戻ることのないように。

以上のような話でした。国籍に関係なく良い盛り上がりの集会でした。この時点で「来てよかった」という気持ちと「まだ半日しかたっていないのに3日分くらいの情報量だ」と感じました。

また会場で偶然、横山大輔さんが会いました。私が主催するイベント「めじろっくフェス」に以前出演してくれたシンガー。「何でここにいるの」と聞くと「いまはいわきに住み込んで支援、表現活動をしている」とのこと。また同じくめじろっくに出てくれた大内恵吏也さんもこの集会のスタッフだったそうです。驚いた。
インターネットで調べて何となく参加した集会なのに。類は友を呼ぶのですね。


会場をひとり離れ昼ごはんへ。お寿司屋さんに行く。
カウンターで食べる。目はテレビ、NHKに行ってしまう。ずっと追悼の番組。
見ると、職人さんも手は休めないけどついついテレビを見てしまう。


午後はJビレッジに向かいました。いわきから車で30分ほど北に向かうとあります。
Jビレッジは双葉郡にある総合型のサッカー施設。いまは福島第一原発の除染作業の前線基地となっています。そして同時に、Jビレッジより北は福島第一原発から半径20キロ圏内。警戒区域です。

以下はJビレッジの現状についてです。公式ホームページより抜粋しました。長文ですが読んでみてください。


「東日本大震災から早や10ヶ月余りが経過しました。昨年12月16日、野田総理大臣が原発事故収束に向けた工程表の「ステップ2」完了を宣言し、同時に「事故収束」を宣言されました。しかし、県内各市町村、特に地元住民からは、早すぎる収束宣言に批判が相次いでいます。我々地元住民の感覚では、残念ながら「事故収束」とは程遠い感覚、状況と言わざるを得ません。しかしながら、「冷温停止状態」になんとか漕ぎつくことが出来たことは、明るいニュースではあります。更なる安全性の高いレベルでの安定状態である真の「冷温停止」が一日も早く実現されることを願って止みません。

震災及び原発事故直後数ヶ月は、Jヴィレッジに関し事実を歪曲した報道がなされ、その反響に不本意ながら対応せざるを得ない時期もありましたが、事実を少しずつながら発信することにより、徐々に沈静化していったように思います。

JFAサッカーナショナルトレーニングセンターであるJヴィレッジは、原発事故直後の昨年3月15日以降現在に至るまで、国及び東電に対し、事故収束のための前線・中継基地としての使用を許諾しています。そして、現在は東電の運営による中継基地として利活用されています。一日当たり平均約3千人の作業員の方々が時間差で来場し、防護服に着替え、福島第一原子力発電所へ行き、作業に従事、終了後はJヴィレッジに戻り、サーベイ(汚染検査)を受け、その結果必要に応じて除染をし、いわき市や湯本の宿舎に戻ります。施設に関しては、Jヴィレッジの一番の特徴であった11面の天然芝フィールドは、2面を除き駐車場、資材置き場、ヘリポート、汚染車両の除染場として利用されており、残念ながらJヴィレッジの以前の風景は見る影もありません。

気になる放射線量ですが、Jヴィレッジの所在地である楢葉町山田岡は警戒区域内では最も放射線量が低い地域(毎時0.35マイクロシーベルト、年間積算量が3.07ミリシーベルト)であることは、朗報です。

さらには、福島県及び地元楢葉町の復興計画の中に「Jヴィレッジの再生」が織り込まれましたが、これは1997年のオープン以来12700チーム、100万人を超えるサッカー愛好者が利用し、スポーツ振興と地域振興に大きく貢献してきたことの社会的価値と存在意義が認められたということでもあり、嬉しく思います。しかしながら、現状は厳しい環境に置かれていることには、変わりありません。

以上がJヴィレッジの現状ですが、使用許諾の条件としては、国及び東電は原状に復旧させることとなっています。故に返還時には元の状態になると確信しています。現時点では、何年後に復旧、復興できるという目処は立っていませんが、Jヴィレッジの復興は、福島県の復興にも大きく寄与できると考えています。現在、福島の復興に関して、大きな障壁となるものの一つとして「風評被害」があります。この問題を克服し、払拭するには、長い年月を要すると考えられますが、Jヴィレッジの復旧、復興は風評被害払拭のための大きな可能性を秘めている、と確信しています。勿論科学的に安全であるという裏づけは必要ですが、宿泊滞在しスポーツ活動をすることに、支障のないレベルに放射線量が低下したならば、JFAやJリーグの理解と協力を得て、日本代表やなでしこジャパンの合宿誘致が出来ると考えています。これらのことが、実現できれば福島県の風評被害克服そして、払拭への大きな力になることは想像に難くありません。

その日がくるまで、Jヴィレッジの灯を絶やさぬよう頑張ってゆきます。」


以上がホームページからの抜粋です。
そしてJヴィレッジに向かいました。

いわき市街を出ると途端に車の量が減りました。
途中こんな光景が見えてきました。


「これ原発ですか」と聞いてみると「火力発電所」とのこと。改めて「自分は何にもわかっていないんだ」と実感しました。

黄色いショベルカーを何十台も見ました。除染作業用。周辺住民は震災前の10分の1になっているそうです。
そして警戒区域に近づくにつれパトカーを見かける回数が増えてくる。警備もさることながら空き巣対策。毎月、各都道府県の警察が持ち回りで警備を担当。今月は大阪県警。
途中にファミリーマートがありました。いま警戒区域付近で唯一やっているコンビニ。平日の朝はJビレッジに勤務する人でごった返すそうです。

そして福島第一原発から半径20キロ。警戒区域。

写真より先は入れません。
そこに広がる光景はいたって普通。静かでした。


Jビレッジに着きました。
まずここでの警備員、職員はほとんどマスクをしていました。またサッカー場は砂利がひかれ駐車場に。プレハブも立っていました。


いざ館内に入ろうとすると「カメラ無断撮影禁止」の貼り紙。文章だけで施設内を表現します。
もともと宿泊施設もあるサッカー施設。ワールドカップの日本代表なども合宿した場所。入口はホテルのロビーのようでした。日曜日だったので人は少なかったです。
入ってまず目についたのが消毒用のアルコールの数。インフルエンザの時期になるとお店とかに置いてあるやつです。そして血圧計。それぞれ5個ぐらい置いてある。「過酷な現場なんだな」と思いました。
ロビーには千羽鶴、応援メッセージ、垂れ幕が。
壁や廊下にはたくさんの注意喚起の貼り紙。阪神大震災の避難所を思い出しました。ただ、貼ってある量と内容が神戸とは違う。まったく同じ内容が2メートル置きぐらいに貼ってある。これでもかと言わんばかりに。内容は「咳エチケット。嘔吐下痢がある人は医務室へ。ほうれんそう(報・連・相)の徹底」「防護服は一人一枚」「保険証が無くても治療受けられます」
壁には貼り紙と一緒にサッカーの写真、「adidas」のロゴ、東京電力の文字が混在している。
歩いていると2分に1回は警察官とすれ違う。天井や廊下にある防犯カメラの量。
清掃係が床を掃除していました。よくよく見ると道具や動きが独特。モップの柄の先に横幅2メートルくらいのクイックルワイパーのようなものが付いていて、前後に細かく動かしながら床を磨いていました。磨くというよりふき取っていたのかもしれません。3人の清掃係が少しずつ少しずつやっていました。
中庭のような所にベージュ色のビニールカバーでできたプレハブがありました。すると私の横をワゴンが通り過ぎてプレハブに入っていく。車の中には水色の防護服を乗った人が数人。「第一原発からの作業を終え、いまから除染作業をする」とのこと。テレビで見ていた光景を目の当りにしたとき背筋がゾクッとしました。


Jヴィレッジからの帰り道。
高速に乗りました。ガラガラ。

14:46。車の中。
NHKラジオから「運転をしている以外の方はぜひ一分間、黙とうの姿勢を取ってください」
黙とう。
サイドミラーから後ろの車を見ると、助手席の女性も黙とうしていました。


小名浜港へ。






少しずつ日が傾きかけていました。今から一年前のこの時間、津波が打ち寄せいていたことが理解できないくらい静かな海。防波堤のある湾内での津波は6メートル。外側は11メートルだったそうです。
漁港があったのですが、私の見たかぎり再開しているようには見せませんでした。
港のいろんなところで一人で腰かけている人、一人で電話をかけている人。この日のこの時間をそれぞれ過ごしていました。


あさり、つぶ貝、うにの浜焼き。
つぶ貝が一番美味しかったです。

湾にある大きなライブハウスにACIDMANの機材車が横づけされていました。
良いライブをやってくれたと思います。


夕方。
冬の福島は「アンコウ鍋」というので近くの割烹に行こうとしたのですが、まんまと道に迷う。そこで近くを歩いていたお婆さんに「道を教えてください」と話すと「その店は自宅の近くだから連れてってあげるよ」との返答。10分ほどいろんな話をしながら歩きました。
あの日は散歩の途中でそのまま山の方へ逃げた。断水したのが辛かった。トイレが流せなかった。今日は港へ行ってお祈りしてきた。
歩いている途中、まだ壁が崩れている場所に来るとお婆さんが「私は古い人間だから」と言ってビニール袋から塩を出してきました。「あなたもまいていくかい」
一緒にまきました。
最後にお店も、帰りに使うバス停まで案内してくれました。

アンコウ鍋はアン肝をといた味噌仕立て。美味しかったです。
それ以上に、一緒にたのんだスッポン鍋の締めの雑炊が旨かった。



食後。路線バスを40分乗り、いわき駅へ。
駅前のBGMは演歌。バスのトイレには生花が飾ってありました。

帰り道。雨。
19:30いわき発の高速バスに乗る。疲れ切っているのに眠れない。いろんなことを思い出し興奮していました。

23時には東京に着きました。
自宅に戻りテレビをつけると、ちょびっとの追悼ニュースとたくさんのバラエティー番組。「東京はいつもと一緒なんだな」と少し物悲しくなりました。

以上が日帰り旅行の話です。
福島県には美味しいものや見どころがたくさんあります。日帰りでも行けますのでぜひ皆さんも。
行って良かったです。