≪囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星氏の著作より≫
(2024年3月31日投稿)
さて、今回のブログでは、次の参考文献をもとにして、「囲碁と『枕草子』と『源氏物語』」と題して、日本囲碁略史について考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
目次をみてもわかるように、とりわけ「第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史」の「2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来(きた)る」の部分が関連する。
また、『枕草子』と『源氏物語』と囲碁との関連を考える際に、大河ドラマ「光る君へ」の展開を考えるとイメージしやすい。平本弥星氏も叙述している歴史上の人物が登場してくるからである。
ちなみに、大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
ところで、『源氏物語』にも出てきた楊貴妃だが、彼女と玄宗と囲碁との関連については『玄玄碁経』にも登場している。難しい詰碁の問題を添えておく。(『玄玄碁経』の解説と問題の解答は後日時間の余裕のあるときにでも……)
【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。
【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇奥付によれば、平本弥星(ひらもと やせい)氏のプロフィールは次のようにある。
・1952年、東京都生まれ。旧名は畠秀史(はたひでふみ)。棋士六段。
・一橋大学卒業。
・高校時代より活躍、1974年学生本因坊。
・1975年、三菱レイヨン入社。
棋聖戦の創設とオイルショックが重なり、プロ転向を決意し、退社。
・プロテスト合格、1977年日本棋院棋士初段。
・棋士会副会長など日本棋院の運営に尽力。
・古今に比類ない文字詰碁(もじつめご)に定評がある。
・棋士業のかたわら、算数教育にも関心を寄せ、日本数学教育学会、日本教材学会で活動している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、奥付255頁)
※このように、一橋大学を卒業後、一度、三菱レイヨンに入社して、その後プロ転向を決意し、退社し、プロテストに合格して、日本棋院棋士になった点で、一般のプロ棋士とは異なる経歴がある。
〇今回の囲碁略史については、平本弥星氏の著作を参考にしたが、似たような内容を石倉昇九段がYou Tubeで講義しておられる。
石倉昇九段「知られざる囲碁の魅力」(2023年7月27日付)約40分
・石倉昇九段は囲碁の効力について、
1考える力、2コミュニケーション、3バランス感覚、4集中力、5右脳(受験に役立つ)、6国際力、7礼儀を挙げて、解説しておられる。
・また、囲碁を愛した人々として、
紫式部(源氏物語「空蟬」)、清少納言(枕草子「心にくきもの」「したり顔なるもの」)、徳川家康、徳川慶喜、大久保利通、正岡子規、大隈重信、アインシュタイン、ビルゲイツ、鳩山一郎、習近平を挙げている(40分中の22分~29分頃)。
・石倉昇九段のプロフィール
1954年生まれ、横浜市出身。
1973年麻布高校卒業、1977年東京大学法学部卒業、日本興業銀行入行、
1979年退職し、プロ棋士試験合格、1980年日本棋院棋士初段、2000年九段
2008年東京大学客員教授就任
※石倉昇九段も、東京大学法学部を卒業後、日本興業銀行に入行し、退職し、プロ棋士試験に合格し、日本棋院棋士になっておられる。
囲碁と『枕草子』と『源氏物語』
・関白藤原基経が没すると(891)、宇多天皇は藤原氏に対抗する菅原道真を重用。
醍醐天皇への皇位継承(897)を道真一人に相談した。
・学者の名家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作ったという。
道真の『菅家文草(かんけぶんそう)』に碁の詩があり、道真が論語を学んだ唐人が碁を打つ様子を詠んだ24歳のときの碁詩は、唐の名手王積薪にふれている。
王積薪に碁経があることも、その詩に添え書きしてある。
・道真が遣唐使の大使を命じられた(894)裏に、道真排除を図る藤原氏がいたという説がある。
道真は再議を求めて派遣を停止。遣唐使はこれをもって廃絶した。
・道真は天皇廃立を謀ったとされ(901)、大宰府に左遷され、悲嘆のうちに他界した。
※菅原道真(845-903)
・899年右大臣。死後、学問の神として尊崇。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、167頁)
・道真を排除した藤原時平も優れた政治家で教養に富み、碁を打った。
延喜7年(907)、醍醐天皇御前で親王と対局したと『扶桑略記』にある。
・時平が没すると(909)、醍醐天皇は親政を行なうが、飢饉や疫病が続き、人心は荒廃した。右大臣藤原忠平は貴族の利益保護政策を採り、律令制は崩壊に至る。
・日本で初めて碁聖と呼ばれた名手は、宇多法皇と醍醐天皇に寵愛された法師寛蓮である。
『花鳥余情(かちょうよせい)』に寛蓮は「碁聖」とあり、延喜13年(913)「碁式を作りて献ず」とある。
・『今昔物語集』に醍醐天皇は寛蓮を「常に召(めし)て、御碁を遊ばしけり。天皇も極(いみじ)く上手に遊ばしけれども、寛蓮には先(せん)二つ」の手合とある。
続く、天皇が寛蓮と金の枕を賭けて打った話は有名である。
醍醐の従者が枕を毎回取り返しに来るので、寛蓮は金箔を張ったニセ枕を井戸に投げ入れ、持ち帰った本物の金の枕を打ち壊して弥勒寺を建立したとある。
※『扶桑略記』
・比叡山の僧皇園(こうえん、?-1169)による編年体の歴史書。
※寛蓮
・橘良利が出家して寛蓮と名乗り、碁の上手により碁聖といわれたと『花鳥余情』にある。
『西宮記』には醍醐天皇が寛蓮を召して観碁をしたことが記されている。
『源氏物語』も棋聖大徳として寛蓮にふれている。
※『花鳥余情』
・『源氏物語』の注釈。30巻。一条兼良(かねら)著、1472年。
※『今昔物語集』
・千を超える古代の説話集。文学的にも優れている。
※『西宮記(さいきゅうき)』
・平安時代中期の有職故実を記した貴重な史料。
※碁式
・現存せず。玄尊の『囲碁口伝』に「碁聖式」から取るとあり、寛蓮の「碁式」ではないかといわれる。
※先二つ
・先と二子の間。先の碁と二子の碁を交代に打つ手合割り。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁~169頁)
・東国平氏間の争いが発展し、平将門が坂東(ばんどう、関東)に小国家を築こうとした(939)。この「将門の乱」は翌年、平貞盛と藤原秀郷、源経基により収束するが、各地で在地領主化した平氏、源氏が力を蓄えてゆく。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁)
・醍醐天皇皇子で賜姓した源高明(みなもとのたかあきら、914-982)は有職故実に精通した明哲で、関白藤原実頼と対立した弟師輔(もろすけ、960没)の娘婿。
高明の娘は皇太子候補為平(ためひら)親王の妃であった。
・安和2年(969)実頼の末弟師尹(もろまさ)の策謀により、高明は無実の罪で大宰府に左遷される。
・この「安和(あんな)の変」は藤原氏と源氏の争いとされてきたが、今日では藤原氏の内部抗争とみる説が有力である。
源高明は悲運の人として、光源氏のモデルになった。
・師輔の長男伊尹(これまさ)が摂政となって、高明は召還される(971)が、政治には復帰しない。高明が著した儀式書『西宮記』には、碁に関する記述が多く、高明が碁を好んだことを偲ばせる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、169頁)
・師輔の三男兼家が摂政となり、外孫一条天皇を即位させる(986)。
兼家を継いだ長男道隆は摂政関白となって、娘の定子を入内(じゅだい)させ、
長男伊周(これちか)を内大臣にした。
・道隆一門が繁栄を極めていた頃、清少納言は和漢の教養を見込まれて、一条天皇の皇后定子に出仕する(993)。
『枕草子』は、彼女が見聞きした宮廷社会の日々を巧みに書き記した“かな”の随筆集で、碁の話がいくつもある。「心にくきもの」のつぎの一節は印象的である。
夜いたくふけて、御前にもおほとのごもり、人々みな寝ぬるのち、外のかたに殿上人などのものなどいふ、奥に碁石の笥(け)にいるる音のあまたたび聞ゆる、いと心にくし。
(夜ふけて、中宮もやすまれ、女房たちも皆寝た後、外の方で殿上人などの話し声がする。奥からは碁石を笥に入れる音が度々聞こえる。たいへん心ゆかしく思える。)
・道隆が疫病で急死(995)すると、一門は凋落する。
定子の兄伊周は道隆の同母弟道長と対立し、配流された。
同年、藤原道長が実質的な関白ともいえる内覧(ないらん)の右大臣になる。
・長保元年(999)道長の長女彰子が一条天皇に入内し、翌年には定子が皇后、彰子が中宮という一帝二后の異例の形がとられた。
その年の12月、定子は第二皇女の出産により、25歳の若さで世を去る。
・清少納言の宮仕えはわずか数年で終わった。今から千年の昔である。
※藤原道長
・摂政兼家の五男。兄の道隆・道兼が続いて没し(995)、内覧の右大臣、続いて左大臣。
天皇の外戚となり(1016)摂政。
翌年摂政を長男頼通(よりみち、992-1074)に譲り、“大殿”として権勢を振るう。
源雅信の娘(頼通の母)、源高明の娘を室とした。
頼通の子孫が摂関家として発展。
※藤原伊周(974-1010)
・996年、花山天皇狙撃事件を起こす。
※清少納言(966?-?)
・父は歌人の清原元輔。
晩年に零落したという事実はなく、清少納言を酷評した紫式部の日記が誤伝の因。
※内覧
・天皇に奏上、天皇が裁可する文書を内見すること。その職。
※中宮
・皇后の居所。転じて皇后の別称。一条天皇の代から二人の皇后がしばしば置かれ、おおむね新立の皇后を中宮と称した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、170頁~171頁)
【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。
・一条天皇が没し(1011)即位した三条天皇(道長の甥)と道長は不仲であった。
道長は一族の権勢を維持するために、三条天皇を譲位させて、彰子が生んだ後一条天皇を即位させ、その弟を皇太子(後朱雀天皇)に立てる。
さらに、娘の威子を後一条天皇の中宮に立てた。
・わが世の春を迎えた道長が、威子立后の祝賀の宴で詠んだ歌は有名である。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の
欠けたることもなしと思へば
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁)
・道長の娘彰子は入内したときまだ12歳で、教養豊かな一条天皇は清少納言が仕える皇后定子を寵愛していた。
・紫式部の宮仕えが始まったのは、彰子の入内(999)と同時とみるのが小山敦子の説。
彰子のお守役に道長が式部を迎え、『源氏物語』は式部が性教育・情操教育のテキストとして「若紫」の巻から執筆したというものである。
・紫式部が藤原氏でなく源氏の栄華を描いたのはなぜだろうか。
小山の説はつぎの通りである。
当時の読者は光源氏の源泉が源高明であることを暗黙に了解し、「安和の変」で悲運の高明に人々は哀感と同情をそそられた。高明の娘明子を室とした道長は、高明一族を敬っていた。
※紫式部
・生没年不詳。父は学者、詩人の藤原為時。
※『源氏物語』
・天皇や皇后が朗読を聞く物語。光源氏の女性遍歴。
※小山(おやま)敦子
・「光源氏の原像」『源氏物語とは何か』勉誠社、1991年。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁~172頁)
・鎌倉時代初期の成立といわれる『二中歴(にちゅうれき)』の芸能篇囲碁の部に、10人の碁聖が列記されている。
「碁聖 寛連(ママ)、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者」
寛蓮のほか祐挙、高行、教覚、道範、長範は「中世囲碁事情」に経歴が記されている。
その一人祐挙は『権記(ごんき)』長保5年(1003)6月20日の条から確認できる。
詣左府、北馬場納涼、右衛門督設食、有碁局・破子、祐挙・則友囲碁、祐挙勝、給懸物
・藤原道長(左府)の宮殿で納涼の宴があり、祐挙と則友を招いて観碁が催され、祐挙が勝ち、懸物(かけもの)を給わったということである。(「破子(わりご)」とは弁当のこと)
名手の碁を観戦して楽しんだ道長は、自身も碁を打ったことだろう。
※『二中歴』
・鎌倉時代初期成立。平安時代に関する貴重な史料。
※『権記』
・権(ごんの)大納言藤原行成(ゆきなり)の日記。摂関期の根本史料。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、172頁~173頁)
・「平忠常(ただつね)の乱」(1028)を鎮定した源頼信に続く頼義、義家の三代は、「前九年の役」と「後三年の役」で東北の武士を傘下に収めようとした。
「後三年の役」は、清原武則の孫真衡(さねひら)が碁に夢中で、無視された吉彦(きみこ)秀武が怒って帰ったことが発端と伝えられる。
・道長の長男頼通は、後一条天皇の摂政となり(1017)、続く後朱雀天皇、後冷泉天皇の50余年間、摂政・関白の座にあった。
しかし外孫の皇子を得られず、後冷泉天皇が崩じて対立する後三条天皇が即位(1068)すると、弟の教通(のりみち)に関白を譲った。
・教通が病危急のとき、高僧の言により碁を打たせるとたちまち平癒したと『古事談(こじだん)』にあり、教通は碁狂だったのかもしれない。
※『古事談』
・鎌倉時代の説話集。源顕兼(1160-1215)編。
※源頼信(968-1048)
・道長の近習。
※源頼義(988-1075)
・頼信の長男。
※源義家(1039-1106)
・頼義の長男。天下第一武勇之士と評された。
※前九年の役(1051-62)
・鎮守府将軍源頼義と陸奥の安倍一族の戦。
※後三年の役(1083-87)
・鎮守府将軍源義家と清原一族の戦。
朝廷は私闘とみなし、勝利した義家に恩賞を行なわなかった。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、173頁)
・碁は、女性と男性が対等にプレイできる競技である。
碁は身体の大きさや筋力、あるいは障害などの身体的差異が関係ない頭脳のスポーツである。
碁はマラソンに似て持久力が重要であるが、その面でも男性に負けない女性が少なくないことはいうまでもないだろう。
・事実、昔から女性は碁を打っていた。
中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をしたと思われる。
8世紀末の日本では、井上(いかみ)皇后が光仁天皇と碁を打って勝った話が『水鏡』に記されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)
「源氏物語」は、日本が世界に誇る文化遺産として、筆頭に挙げてもいい傑作長篇の大恋愛小説である。
・今から千年も昔、わが国の王朝華やかなりし平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』を、現代文に翻訳して著した瀬戸内寂聴はこのように記している。
・『源氏物語』では碁にふれた一節がいくつかあり、「空蟬(うつせみ)」には対局風景が描写されている。話の「奥の人」が空蟬(受領紀伊守の後妻)で、相手は若い娘(紀伊守の妹)である。
碁打ちはてて、けちさすわたり、心とげに見えて、きはぎはしうさうどけば、奥の人は、いと静かにのどめて、「待ち給へや。そこは持(ぢ)にこそあらめ。このわたりの劫(こふ)をこそ」
「けち」「持」「劫」と碁の用語を使いこなしていて、紫式部は碁をよくわかっていたことが知られる。
当時の貴族社会で、女性は日常的に碁を打っていたようだ。
・瀬戸内寂聴『源氏物語』(講談社、1996年)では、つぎのように現代語訳されている。
碁を打ち終って、だめを詰めるところなども機敏そうな感じで、陽気に騒々しくはしゃいでいます。奥の人はひっそりと静かに落ち着いて、「ちょっとお待ちになって、そこは持(じ)でしょう。こちらの劫(こう)を先に片づけましょう」
※著者の平本弥星氏は、次のようにコメントしている。
「けち」を「だめ」と訳しているが、碁で「だめを詰める」のは劫を片づけてから。
よくわからない「持」はそのままになっている。
著者が訳せば、つぎのようになるという。
碁が終わる頃、最後のヨセを打つあたりはキビキビしていて、にぎやかに振る舞っています。奥の人はとても落ち着いていて、「お待ちになって、そこはダメでしょう。こちらのコウを取るべきよ」
・碁をよく知らなければ、紫式部が描写した情景をイメージできない。
語と語を一対一で対応させる考えも、適切を欠く理由であるという。
「けち」は「結」で終わりのころのこと。
碁ではヨセの意味であり、ダメ詰めのこともあるだろう。
「持」はセキと解釈されてきたが、「持」は双方が五分五分の意。
セキを意味するほか、ダメの所も「持」であろうという。
ジゴは「持」であるが、一勝一敗も「持」である。
※ヨセ
・碁の終盤で、双方の地の境界画定をめぐる折衝。
※ダメ
・石の周囲の空点で、地にならない点をいうことが多い。
ヨセが終わり、残った空点(どちらが打っても得失がない)を埋める「ダメ詰め」をした後、地を計算する。
※コウ
・図の左上のような形。
黒が1と取ったとき、白がすぐ取り返せない。ほかに一手打ってからであれば取り返せる。
【図】左上はコウ、右下はセキ
※セキ
・図の右下のように、双方の石が切れていて、どちらも相手の石を取れない形。
双方とも生き石。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、18頁~19頁)
・『源氏物語』には、楊貴妃について言及が最初から出てくる。
桐壺更衣
いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶら
ひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際に
はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御
方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして、
安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心を
のみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、
いと、あつしくなりゆき、もの心細げに里がち
なるを、いよいよ「飽かずあはれなるもの」に
おぼほして、人のそしりをも、えはばからせた
まはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
上達部・上人なども、あいなく、目をそばめ
つつ、「いと、まばゆき、人の御覚えなり。唐土
にも、かかる、ことの起こりにこそ、世も乱れ
悪しかりけれ」と、やうやう天の下にも、あぢ
きなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の
例も引き出でつべうなりゆくに、いと、はした
なきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの、
たぐひなきを頼みにて、交じらひたまふ。父の
大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ
の人の、由あるにて、親うち具し、さしあたり
て世の覚え花やかなる御方々にも劣らず、とりた
てて、はかばかしき後見しなければ、「事」ある
時は、なほよりどころなく心細げなり。
【通釈】
どの(帝の)御代であっただろうか、女御や更衣が大勢
お仕え申し上げていらっしゃるなかに、そう高貴な家柄の方
ではない方で、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方が
あった。(そのため宮仕えの)初めから、「自分こそは」と自負
していらっしゃった女御方は、(この方を)心外で気に食わな
い人として、蔑みかつ嫉妬なさる。(この方と)同じ身分(の更
衣)や、それより低い身分の更衣たちは、なおさら(心が)穏や
かでない。朝夕の宮仕えにつけても、他の人(女御や更衣たち)
の心をむやみに動揺させてばかりいて、(人の)恨みを受ける
ことが重なったためであろうか、ひどく病弱になっていって、
なんとなく心細そうなようすで里に引きこもりがちであるの
を、ますます(帝は)「たまらないほどいじらしい者」とお思い
になって、人の非難をも一向気になさらず、世間の悪い前例に
なってしまいそうなおふるまいである。上達部や殿上人など
も、(女性方でもあるまいに)わけもなく目をそむけそむけし
て、「たいそう、見るもまばゆい(ほどの)人(更衣)へのご寵愛
の受け方である。中国でも、こうしたことが原因で、世も乱れ、
よくないことであったよ」と、しだいに世間一般でも、(お二
人には)お気の毒なことながら、人の悩みの種となって、楊貴
妃の例までも(まさに)引き合いに出して(非難しそうになっ
て)いくので、(更衣は)ひどくぐあいの悪いことが多くあるけ
れども、もったいない(帝の)お気持ちの、世にまたとないこ
とだけを心頼みとして、(他の女性に)交じって(宮仕えを)お
続けになっていらっしゃる。(更衣の)父の大納言は亡くなっ
て、母北の方は、昔風の人で由緒のある方であって、両親が
そろっていて、現実に世間の信望が華やかである御方々(女
御・更衣たち)にも劣らぬよう、(宮中の)どんな儀式に対して
も(北の方が)とりはからってこられたが、(更衣には)これと
いってしっかりした後見人というものがいないので、(いざと
いう)大事なときには、やはり頼るところもなく(更衣は)心細
そうである。
【要旨】
・ある帝の御世、さほど身分も高くなく、後見人にも恵まれない一人の更衣が、帝のご寵愛を一身に受けていた。他の女御・更衣からの嫉妬を受け、更衣は心労のため病気がちである。帝は、世間から政治的な非難までも浴びるなかで、いっそう更衣への愛情を募らせてゆくのであった。
【解説】
・物語は光源氏の両親の愛情生活とそれを取り巻く周囲の状況からときおこされる。
帝の外戚として権力を手に入れることが上級貴族の第一の望みだった時代において、帝と、さほど身分が高くなく、後見のない更衣の純粋な愛は、嫉妬だけにとどまらず、周囲からの猛反発を受けるのである。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、2頁~7頁)
さて、平本弥星氏も先に見たように、「女性と碁」において、「中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をした」としている。(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)
また、「碁を愛した中国の皇帝」において、さらに詳しく唐代における碁について、次のようなことを述べている。
・隋が衰退して(618)唐が興り、第2代皇帝太宗(在位626-649)のとき「貞観の治」と呼ばれる繁栄を迎えた。詩や書に優れた太宗は碁を愛し、碁の詩を残している。唐の時代、碁はますます盛んになった。
※太宗の碁の詩「五言詠棋」
手談標昔美 坐隠逸前良
参差分両勢 玄素引双行
舎生非假命 帯死不関傷
方知仙嶺側 爛斧幾寒芳
碁には昔から名手が現れ、その名手を超える名手が現れる。
双方勢力を張り合い、白馬それぞれ陣を敷く。
碁盤の上では傷ついても殺されても何ら実害はない。
碁の楽しさを知ってこそ、時を忘れて碁を見ていたという爛柯の故事が解ろうというものだ。(訳詩、森田正己)
・第6代皇帝玄宗(在位712-756)は則天武后、韋后と続いた専制政治「武韋の禍」を終わらせ、数々の改革を行なって「開元の盛世」をもたらした。
玄宗は琴棋書画(きんきしょが)の諸芸に秀で、碁を好んだ。
・晩年に愛した楊貴妃は美貌に加えて才智溢れる女性で、碁も嗜んだと思われる。
『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』につぎの話がある。
あるとき、帝と親王の碁を観ていた貴妃が抱いていた仔猧を盤上に放った。敗勢であった帝は大いに喜んだ。
※琴棋書画
・琴棋書画の四芸は知識階級の嗜みであった。
成語に関して、青木正児『琴棋書画』(平凡社東洋文庫)。
※『酉陽雑俎』
・20巻、続巻10巻。9世紀中頃、唐の段成式(だんせいしき)撰。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、153頁)
このように、唐の玄宗と楊貴妃が碁を嗜んだことに因んで、『玄玄碁経』には「明皇遊月宮勢」と題された詰碁の問題がある。
『玄玄碁経』とは何か?
この点についても、平本弥星氏は次のような注釈を加えている。
※『玄玄碁経(げんげんごきょう)』
・元(1271-1367)の1350年頃にまとめられた棋書。
序文は元を代表する学者の虞集(1272-1348)。
詰碁集の古典として有名。
原書には班固(32-92、後漢の史家、文学者)の囲碁論『弈旨(えきし)』、馬融(79-166、後漢の学者)の『囲碁賦』や『囲碁十訣』、囲碁用語解説、「定勢」(定石)や対局譜なども収められている。
〇『玄玄碁経集』全2巻、解説呉清源、平凡社東洋文庫、1980年がある
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、151頁)
今回、私が参照した『玄玄碁経』は、次の書物である。
〇橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]
明皇遊月宮勢(めいこうゆうげつきゅうせい)
・楊貴妃と稀世のロマンスのある唐玄宗明皇が中秋賞月の最中に夢想で月世界の月宮に遊ぶ様な形
・手筋は千層宝塔勢と同じで左下から端を発し、これが全局に及ぶというものです。
最後は左上に到着します。
手筋は千層寶塔勢と同じ。
(橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]、353頁)
〇趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』日本棋院、増補改訂版1996年
その「はしがき」において、趙治勲氏は次のようなことを述べている。
・この巻は、詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した。
・一口に秀れたといってもその基準がむずかしいが、基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした。
・構成は一応、第1部「玄玄碁経」、第2部「官子譜」、第3部「碁経衆妙」と三つに分けたが、あくまで作品を鑑賞していただくのが目的であり、文献を厳密に紹介しようというものではない。
したがって、たとえば玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた。
・また、問題に不備のあるものは修正し、むずかしいものは少しやさしくするとか、多少手直ししたものがあることもお断りしておきたい。
・雑誌や新聞紙上などで数々の詰碁に出食わすが、それらの作品が実は玄玄碁経や官子譜や碁経衆妙のものだったり、あるいはその焼き直しだったりすることがなんと多いことか、いまさらながら驚かされると同時に、三大古典の優秀性が改めて知らされるのである。
・本書をまとめるに当り、平凡社刊「玄玄碁経」「官子譜」および山海堂刊「玄玄碁経」「官子譜」「碁経衆妙」を参考にさせていただいたので、お礼の意をこめてお断りしておく。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、3頁~4頁)
※このように、趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』(日本棋院、増補改訂版1996年)は、「詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した」ことをまず述べている。
また、編集にあたって、「基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした」という。
つまり、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにしたと断っておられるように、「明皇遊月宮勢」の問題のような、「手数が長く、ただむずかしいもの」は除外してある。
さらに、「玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた」とあるように、『玄玄碁経』の問題の名前はすべて省略してある点にも注意が必要である。
(この点が、私には、編集上の非常に残念な点であった。藤沢秀行『基本手筋事典』や山下敬吾『基本手筋事典』は基本的にはその『玄玄碁経』の問題の名前(題名)が明記してある)。
なお、趙治勲氏は「玄玄碁経」について、次のような解説を付記している。
・玄玄碁経(げんげんごきょう)は中国盧陵(江西省)の名手、晏天章と厳徳甫の共編によるもので、序文の日付は至正7年、すなわち1347年となっており、いまからざっと六百年余前に完成された本である。
・内容は史論、碁経十三篇、囲碁十訣、術語三十二字などにつづいて定石、実戦譜、それに詰碁376題が収められているが、もっとも価値の高いのはなんといっても詰碁であろう。
のちの官子譜、わが国の碁経衆妙にも、玄玄碁経の詰碁がそのまま、あるいは手直ししたものが、数多く収められている。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、36頁)
※このように、趙治勲氏は、『玄玄碁経』が官子譜や日本の碁経衆妙に与えた重要な文献であることを注目し、とりわけ、詰碁376題の価値の高さを強調している。
(2024年3月31日投稿)
【はじめに】
さて、今回のブログでは、次の参考文献をもとにして、「囲碁と『枕草子』と『源氏物語』」と題して、日本囲碁略史について考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
目次をみてもわかるように、とりわけ「第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史」の「2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来(きた)る」の部分が関連する。
また、『枕草子』と『源氏物語』と囲碁との関連を考える際に、大河ドラマ「光る君へ」の展開を考えるとイメージしやすい。平本弥星氏も叙述している歴史上の人物が登場してくるからである。
ちなみに、大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
ところで、『源氏物語』にも出てきた楊貴妃だが、彼女と玄宗と囲碁との関連については『玄玄碁経』にも登場している。難しい詰碁の問題を添えておく。(『玄玄碁経』の解説と問題の解答は後日時間の余裕のあるときにでも……)
【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。
【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
碁を打つ
プロの碁と囲碁ルール
アマチュア碁界の隆盛
脳の健康スポーツ
第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
碁とは
定石とはなにか
生きることの意味
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展
終章 新しい時代と囲碁
歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
自ら学び、自ら考える力の育成/
生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
囲碁で知る
おわりに
参考文献
重要な囲碁用語の索引
連絡先
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇平本弥星氏のプロフィール
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書、2001年)より
・碁を愛した「学問の神様」菅原道真
・醍醐天皇と碁聖寛蓮
・『源氏物語』光源氏のモデル源高明
・『枕草子』の碁話
・藤原道長の「わが世」
・紫式部『源氏物語』
・道長時代の名手
・後三年の役の発端は碁、関白の病が碁で平癒
・女性と碁
・『源氏物語』空蟬
〇【補足】
・『源氏物語』と楊貴妃~桑原博史『源氏物語』より
・『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名について~橋本宇太郎『玄玄碁経』より
平本弥星氏のプロフィール
〇奥付によれば、平本弥星(ひらもと やせい)氏のプロフィールは次のようにある。
・1952年、東京都生まれ。旧名は畠秀史(はたひでふみ)。棋士六段。
・一橋大学卒業。
・高校時代より活躍、1974年学生本因坊。
・1975年、三菱レイヨン入社。
棋聖戦の創設とオイルショックが重なり、プロ転向を決意し、退社。
・プロテスト合格、1977年日本棋院棋士初段。
・棋士会副会長など日本棋院の運営に尽力。
・古今に比類ない文字詰碁(もじつめご)に定評がある。
・棋士業のかたわら、算数教育にも関心を寄せ、日本数学教育学会、日本教材学会で活動している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、奥付255頁)
※このように、一橋大学を卒業後、一度、三菱レイヨンに入社して、その後プロ転向を決意し、退社し、プロテストに合格して、日本棋院棋士になった点で、一般のプロ棋士とは異なる経歴がある。
〇今回の囲碁略史については、平本弥星氏の著作を参考にしたが、似たような内容を石倉昇九段がYou Tubeで講義しておられる。
石倉昇九段「知られざる囲碁の魅力」(2023年7月27日付)約40分
・石倉昇九段は囲碁の効力について、
1考える力、2コミュニケーション、3バランス感覚、4集中力、5右脳(受験に役立つ)、6国際力、7礼儀を挙げて、解説しておられる。
・また、囲碁を愛した人々として、
紫式部(源氏物語「空蟬」)、清少納言(枕草子「心にくきもの」「したり顔なるもの」)、徳川家康、徳川慶喜、大久保利通、正岡子規、大隈重信、アインシュタイン、ビルゲイツ、鳩山一郎、習近平を挙げている(40分中の22分~29分頃)。
・石倉昇九段のプロフィール
1954年生まれ、横浜市出身。
1973年麻布高校卒業、1977年東京大学法学部卒業、日本興業銀行入行、
1979年退職し、プロ棋士試験合格、1980年日本棋院棋士初段、2000年九段
2008年東京大学客員教授就任
※石倉昇九段も、東京大学法学部を卒業後、日本興業銀行に入行し、退職し、プロ棋士試験に合格し、日本棋院棋士になっておられる。
囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星『囲碁の知・入門編』より
囲碁と『枕草子』と『源氏物語』
碁を愛した「学問の神様」菅原道真
・関白藤原基経が没すると(891)、宇多天皇は藤原氏に対抗する菅原道真を重用。
醍醐天皇への皇位継承(897)を道真一人に相談した。
・学者の名家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作ったという。
道真の『菅家文草(かんけぶんそう)』に碁の詩があり、道真が論語を学んだ唐人が碁を打つ様子を詠んだ24歳のときの碁詩は、唐の名手王積薪にふれている。
王積薪に碁経があることも、その詩に添え書きしてある。
・道真が遣唐使の大使を命じられた(894)裏に、道真排除を図る藤原氏がいたという説がある。
道真は再議を求めて派遣を停止。遣唐使はこれをもって廃絶した。
・道真は天皇廃立を謀ったとされ(901)、大宰府に左遷され、悲嘆のうちに他界した。
※菅原道真(845-903)
・899年右大臣。死後、学問の神として尊崇。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、167頁)
醍醐天皇と碁聖寛蓮
・道真を排除した藤原時平も優れた政治家で教養に富み、碁を打った。
延喜7年(907)、醍醐天皇御前で親王と対局したと『扶桑略記』にある。
・時平が没すると(909)、醍醐天皇は親政を行なうが、飢饉や疫病が続き、人心は荒廃した。右大臣藤原忠平は貴族の利益保護政策を採り、律令制は崩壊に至る。
・日本で初めて碁聖と呼ばれた名手は、宇多法皇と醍醐天皇に寵愛された法師寛蓮である。
『花鳥余情(かちょうよせい)』に寛蓮は「碁聖」とあり、延喜13年(913)「碁式を作りて献ず」とある。
・『今昔物語集』に醍醐天皇は寛蓮を「常に召(めし)て、御碁を遊ばしけり。天皇も極(いみじ)く上手に遊ばしけれども、寛蓮には先(せん)二つ」の手合とある。
続く、天皇が寛蓮と金の枕を賭けて打った話は有名である。
醍醐の従者が枕を毎回取り返しに来るので、寛蓮は金箔を張ったニセ枕を井戸に投げ入れ、持ち帰った本物の金の枕を打ち壊して弥勒寺を建立したとある。
※『扶桑略記』
・比叡山の僧皇園(こうえん、?-1169)による編年体の歴史書。
※寛蓮
・橘良利が出家して寛蓮と名乗り、碁の上手により碁聖といわれたと『花鳥余情』にある。
『西宮記』には醍醐天皇が寛蓮を召して観碁をしたことが記されている。
『源氏物語』も棋聖大徳として寛蓮にふれている。
※『花鳥余情』
・『源氏物語』の注釈。30巻。一条兼良(かねら)著、1472年。
※『今昔物語集』
・千を超える古代の説話集。文学的にも優れている。
※『西宮記(さいきゅうき)』
・平安時代中期の有職故実を記した貴重な史料。
※碁式
・現存せず。玄尊の『囲碁口伝』に「碁聖式」から取るとあり、寛蓮の「碁式」ではないかといわれる。
※先二つ
・先と二子の間。先の碁と二子の碁を交代に打つ手合割り。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁~169頁)
平将門の乱
・東国平氏間の争いが発展し、平将門が坂東(ばんどう、関東)に小国家を築こうとした(939)。この「将門の乱」は翌年、平貞盛と藤原秀郷、源経基により収束するが、各地で在地領主化した平氏、源氏が力を蓄えてゆく。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁)
『源氏物語』光源氏のモデル源高明
・醍醐天皇皇子で賜姓した源高明(みなもとのたかあきら、914-982)は有職故実に精通した明哲で、関白藤原実頼と対立した弟師輔(もろすけ、960没)の娘婿。
高明の娘は皇太子候補為平(ためひら)親王の妃であった。
・安和2年(969)実頼の末弟師尹(もろまさ)の策謀により、高明は無実の罪で大宰府に左遷される。
・この「安和(あんな)の変」は藤原氏と源氏の争いとされてきたが、今日では藤原氏の内部抗争とみる説が有力である。
源高明は悲運の人として、光源氏のモデルになった。
・師輔の長男伊尹(これまさ)が摂政となって、高明は召還される(971)が、政治には復帰しない。高明が著した儀式書『西宮記』には、碁に関する記述が多く、高明が碁を好んだことを偲ばせる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、169頁)
『枕草子』の碁話
・師輔の三男兼家が摂政となり、外孫一条天皇を即位させる(986)。
兼家を継いだ長男道隆は摂政関白となって、娘の定子を入内(じゅだい)させ、
長男伊周(これちか)を内大臣にした。
・道隆一門が繁栄を極めていた頃、清少納言は和漢の教養を見込まれて、一条天皇の皇后定子に出仕する(993)。
『枕草子』は、彼女が見聞きした宮廷社会の日々を巧みに書き記した“かな”の随筆集で、碁の話がいくつもある。「心にくきもの」のつぎの一節は印象的である。
夜いたくふけて、御前にもおほとのごもり、人々みな寝ぬるのち、外のかたに殿上人などのものなどいふ、奥に碁石の笥(け)にいるる音のあまたたび聞ゆる、いと心にくし。
(夜ふけて、中宮もやすまれ、女房たちも皆寝た後、外の方で殿上人などの話し声がする。奥からは碁石を笥に入れる音が度々聞こえる。たいへん心ゆかしく思える。)
・道隆が疫病で急死(995)すると、一門は凋落する。
定子の兄伊周は道隆の同母弟道長と対立し、配流された。
同年、藤原道長が実質的な関白ともいえる内覧(ないらん)の右大臣になる。
・長保元年(999)道長の長女彰子が一条天皇に入内し、翌年には定子が皇后、彰子が中宮という一帝二后の異例の形がとられた。
その年の12月、定子は第二皇女の出産により、25歳の若さで世を去る。
・清少納言の宮仕えはわずか数年で終わった。今から千年の昔である。
※藤原道長
・摂政兼家の五男。兄の道隆・道兼が続いて没し(995)、内覧の右大臣、続いて左大臣。
天皇の外戚となり(1016)摂政。
翌年摂政を長男頼通(よりみち、992-1074)に譲り、“大殿”として権勢を振るう。
源雅信の娘(頼通の母)、源高明の娘を室とした。
頼通の子孫が摂関家として発展。
※藤原伊周(974-1010)
・996年、花山天皇狙撃事件を起こす。
※清少納言(966?-?)
・父は歌人の清原元輔。
晩年に零落したという事実はなく、清少納言を酷評した紫式部の日記が誤伝の因。
※内覧
・天皇に奏上、天皇が裁可する文書を内見すること。その職。
※中宮
・皇后の居所。転じて皇后の別称。一条天皇の代から二人の皇后がしばしば置かれ、おおむね新立の皇后を中宮と称した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、170頁~171頁)
【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。
藤原道長の「わが世」
・一条天皇が没し(1011)即位した三条天皇(道長の甥)と道長は不仲であった。
道長は一族の権勢を維持するために、三条天皇を譲位させて、彰子が生んだ後一条天皇を即位させ、その弟を皇太子(後朱雀天皇)に立てる。
さらに、娘の威子を後一条天皇の中宮に立てた。
・わが世の春を迎えた道長が、威子立后の祝賀の宴で詠んだ歌は有名である。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の
欠けたることもなしと思へば
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁)
紫式部『源氏物語』
・道長の娘彰子は入内したときまだ12歳で、教養豊かな一条天皇は清少納言が仕える皇后定子を寵愛していた。
・紫式部の宮仕えが始まったのは、彰子の入内(999)と同時とみるのが小山敦子の説。
彰子のお守役に道長が式部を迎え、『源氏物語』は式部が性教育・情操教育のテキストとして「若紫」の巻から執筆したというものである。
・紫式部が藤原氏でなく源氏の栄華を描いたのはなぜだろうか。
小山の説はつぎの通りである。
当時の読者は光源氏の源泉が源高明であることを暗黙に了解し、「安和の変」で悲運の高明に人々は哀感と同情をそそられた。高明の娘明子を室とした道長は、高明一族を敬っていた。
※紫式部
・生没年不詳。父は学者、詩人の藤原為時。
※『源氏物語』
・天皇や皇后が朗読を聞く物語。光源氏の女性遍歴。
※小山(おやま)敦子
・「光源氏の原像」『源氏物語とは何か』勉誠社、1991年。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁~172頁)
道長時代の名手
・鎌倉時代初期の成立といわれる『二中歴(にちゅうれき)』の芸能篇囲碁の部に、10人の碁聖が列記されている。
「碁聖 寛連(ママ)、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者」
寛蓮のほか祐挙、高行、教覚、道範、長範は「中世囲碁事情」に経歴が記されている。
その一人祐挙は『権記(ごんき)』長保5年(1003)6月20日の条から確認できる。
詣左府、北馬場納涼、右衛門督設食、有碁局・破子、祐挙・則友囲碁、祐挙勝、給懸物
・藤原道長(左府)の宮殿で納涼の宴があり、祐挙と則友を招いて観碁が催され、祐挙が勝ち、懸物(かけもの)を給わったということである。(「破子(わりご)」とは弁当のこと)
名手の碁を観戦して楽しんだ道長は、自身も碁を打ったことだろう。
※『二中歴』
・鎌倉時代初期成立。平安時代に関する貴重な史料。
※『権記』
・権(ごんの)大納言藤原行成(ゆきなり)の日記。摂関期の根本史料。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、172頁~173頁)
後三年の役の発端は碁、関白の病が碁で平癒
・「平忠常(ただつね)の乱」(1028)を鎮定した源頼信に続く頼義、義家の三代は、「前九年の役」と「後三年の役」で東北の武士を傘下に収めようとした。
「後三年の役」は、清原武則の孫真衡(さねひら)が碁に夢中で、無視された吉彦(きみこ)秀武が怒って帰ったことが発端と伝えられる。
・道長の長男頼通は、後一条天皇の摂政となり(1017)、続く後朱雀天皇、後冷泉天皇の50余年間、摂政・関白の座にあった。
しかし外孫の皇子を得られず、後冷泉天皇が崩じて対立する後三条天皇が即位(1068)すると、弟の教通(のりみち)に関白を譲った。
・教通が病危急のとき、高僧の言により碁を打たせるとたちまち平癒したと『古事談(こじだん)』にあり、教通は碁狂だったのかもしれない。
※『古事談』
・鎌倉時代の説話集。源顕兼(1160-1215)編。
※源頼信(968-1048)
・道長の近習。
※源頼義(988-1075)
・頼信の長男。
※源義家(1039-1106)
・頼義の長男。天下第一武勇之士と評された。
※前九年の役(1051-62)
・鎮守府将軍源頼義と陸奥の安倍一族の戦。
※後三年の役(1083-87)
・鎮守府将軍源義家と清原一族の戦。
朝廷は私闘とみなし、勝利した義家に恩賞を行なわなかった。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、173頁)
女性と碁
・碁は、女性と男性が対等にプレイできる競技である。
碁は身体の大きさや筋力、あるいは障害などの身体的差異が関係ない頭脳のスポーツである。
碁はマラソンに似て持久力が重要であるが、その面でも男性に負けない女性が少なくないことはいうまでもないだろう。
・事実、昔から女性は碁を打っていた。
中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をしたと思われる。
8世紀末の日本では、井上(いかみ)皇后が光仁天皇と碁を打って勝った話が『水鏡』に記されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)
『源氏物語』空蟬
「源氏物語」は、日本が世界に誇る文化遺産として、筆頭に挙げてもいい傑作長篇の大恋愛小説である。
・今から千年も昔、わが国の王朝華やかなりし平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』を、現代文に翻訳して著した瀬戸内寂聴はこのように記している。
・『源氏物語』では碁にふれた一節がいくつかあり、「空蟬(うつせみ)」には対局風景が描写されている。話の「奥の人」が空蟬(受領紀伊守の後妻)で、相手は若い娘(紀伊守の妹)である。
碁打ちはてて、けちさすわたり、心とげに見えて、きはぎはしうさうどけば、奥の人は、いと静かにのどめて、「待ち給へや。そこは持(ぢ)にこそあらめ。このわたりの劫(こふ)をこそ」
「けち」「持」「劫」と碁の用語を使いこなしていて、紫式部は碁をよくわかっていたことが知られる。
当時の貴族社会で、女性は日常的に碁を打っていたようだ。
・瀬戸内寂聴『源氏物語』(講談社、1996年)では、つぎのように現代語訳されている。
碁を打ち終って、だめを詰めるところなども機敏そうな感じで、陽気に騒々しくはしゃいでいます。奥の人はひっそりと静かに落ち着いて、「ちょっとお待ちになって、そこは持(じ)でしょう。こちらの劫(こう)を先に片づけましょう」
※著者の平本弥星氏は、次のようにコメントしている。
「けち」を「だめ」と訳しているが、碁で「だめを詰める」のは劫を片づけてから。
よくわからない「持」はそのままになっている。
著者が訳せば、つぎのようになるという。
碁が終わる頃、最後のヨセを打つあたりはキビキビしていて、にぎやかに振る舞っています。奥の人はとても落ち着いていて、「お待ちになって、そこはダメでしょう。こちらのコウを取るべきよ」
・碁をよく知らなければ、紫式部が描写した情景をイメージできない。
語と語を一対一で対応させる考えも、適切を欠く理由であるという。
「けち」は「結」で終わりのころのこと。
碁ではヨセの意味であり、ダメ詰めのこともあるだろう。
「持」はセキと解釈されてきたが、「持」は双方が五分五分の意。
セキを意味するほか、ダメの所も「持」であろうという。
ジゴは「持」であるが、一勝一敗も「持」である。
※ヨセ
・碁の終盤で、双方の地の境界画定をめぐる折衝。
※ダメ
・石の周囲の空点で、地にならない点をいうことが多い。
ヨセが終わり、残った空点(どちらが打っても得失がない)を埋める「ダメ詰め」をした後、地を計算する。
※コウ
・図の左上のような形。
黒が1と取ったとき、白がすぐ取り返せない。ほかに一手打ってからであれば取り返せる。
【図】左上はコウ、右下はセキ
※セキ
・図の右下のように、双方の石が切れていて、どちらも相手の石を取れない形。
双方とも生き石。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、18頁~19頁)
『源氏物語』と楊貴妃~桑原博史『源氏物語』より
・『源氏物語』には、楊貴妃について言及が最初から出てくる。
桐壺更衣
いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶら
ひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際に
はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御
方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして、
安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心を
のみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、
いと、あつしくなりゆき、もの心細げに里がち
なるを、いよいよ「飽かずあはれなるもの」に
おぼほして、人のそしりをも、えはばからせた
まはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
上達部・上人なども、あいなく、目をそばめ
つつ、「いと、まばゆき、人の御覚えなり。唐土
にも、かかる、ことの起こりにこそ、世も乱れ
悪しかりけれ」と、やうやう天の下にも、あぢ
きなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の
例も引き出でつべうなりゆくに、いと、はした
なきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの、
たぐひなきを頼みにて、交じらひたまふ。父の
大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ
の人の、由あるにて、親うち具し、さしあたり
て世の覚え花やかなる御方々にも劣らず、とりた
てて、はかばかしき後見しなければ、「事」ある
時は、なほよりどころなく心細げなり。
【通釈】
どの(帝の)御代であっただろうか、女御や更衣が大勢
お仕え申し上げていらっしゃるなかに、そう高貴な家柄の方
ではない方で、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方が
あった。(そのため宮仕えの)初めから、「自分こそは」と自負
していらっしゃった女御方は、(この方を)心外で気に食わな
い人として、蔑みかつ嫉妬なさる。(この方と)同じ身分(の更
衣)や、それより低い身分の更衣たちは、なおさら(心が)穏や
かでない。朝夕の宮仕えにつけても、他の人(女御や更衣たち)
の心をむやみに動揺させてばかりいて、(人の)恨みを受ける
ことが重なったためであろうか、ひどく病弱になっていって、
なんとなく心細そうなようすで里に引きこもりがちであるの
を、ますます(帝は)「たまらないほどいじらしい者」とお思い
になって、人の非難をも一向気になさらず、世間の悪い前例に
なってしまいそうなおふるまいである。上達部や殿上人など
も、(女性方でもあるまいに)わけもなく目をそむけそむけし
て、「たいそう、見るもまばゆい(ほどの)人(更衣)へのご寵愛
の受け方である。中国でも、こうしたことが原因で、世も乱れ、
よくないことであったよ」と、しだいに世間一般でも、(お二
人には)お気の毒なことながら、人の悩みの種となって、楊貴
妃の例までも(まさに)引き合いに出して(非難しそうになっ
て)いくので、(更衣は)ひどくぐあいの悪いことが多くあるけ
れども、もったいない(帝の)お気持ちの、世にまたとないこ
とだけを心頼みとして、(他の女性に)交じって(宮仕えを)お
続けになっていらっしゃる。(更衣の)父の大納言は亡くなっ
て、母北の方は、昔風の人で由緒のある方であって、両親が
そろっていて、現実に世間の信望が華やかである御方々(女
御・更衣たち)にも劣らぬよう、(宮中の)どんな儀式に対して
も(北の方が)とりはからってこられたが、(更衣には)これと
いってしっかりした後見人というものがいないので、(いざと
いう)大事なときには、やはり頼るところもなく(更衣は)心細
そうである。
【要旨】
・ある帝の御世、さほど身分も高くなく、後見人にも恵まれない一人の更衣が、帝のご寵愛を一身に受けていた。他の女御・更衣からの嫉妬を受け、更衣は心労のため病気がちである。帝は、世間から政治的な非難までも浴びるなかで、いっそう更衣への愛情を募らせてゆくのであった。
【解説】
・物語は光源氏の両親の愛情生活とそれを取り巻く周囲の状況からときおこされる。
帝の外戚として権力を手に入れることが上級貴族の第一の望みだった時代において、帝と、さほど身分が高くなく、後見のない更衣の純粋な愛は、嫉妬だけにとどまらず、周囲からの猛反発を受けるのである。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、2頁~7頁)
『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名と問題図について~橋本宇太郎『玄玄碁経』より
さて、平本弥星氏も先に見たように、「女性と碁」において、「中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をした」としている。(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)
また、「碁を愛した中国の皇帝」において、さらに詳しく唐代における碁について、次のようなことを述べている。
・隋が衰退して(618)唐が興り、第2代皇帝太宗(在位626-649)のとき「貞観の治」と呼ばれる繁栄を迎えた。詩や書に優れた太宗は碁を愛し、碁の詩を残している。唐の時代、碁はますます盛んになった。
※太宗の碁の詩「五言詠棋」
手談標昔美 坐隠逸前良
参差分両勢 玄素引双行
舎生非假命 帯死不関傷
方知仙嶺側 爛斧幾寒芳
碁には昔から名手が現れ、その名手を超える名手が現れる。
双方勢力を張り合い、白馬それぞれ陣を敷く。
碁盤の上では傷ついても殺されても何ら実害はない。
碁の楽しさを知ってこそ、時を忘れて碁を見ていたという爛柯の故事が解ろうというものだ。(訳詩、森田正己)
・第6代皇帝玄宗(在位712-756)は則天武后、韋后と続いた専制政治「武韋の禍」を終わらせ、数々の改革を行なって「開元の盛世」をもたらした。
玄宗は琴棋書画(きんきしょが)の諸芸に秀で、碁を好んだ。
・晩年に愛した楊貴妃は美貌に加えて才智溢れる女性で、碁も嗜んだと思われる。
『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』につぎの話がある。
あるとき、帝と親王の碁を観ていた貴妃が抱いていた仔猧を盤上に放った。敗勢であった帝は大いに喜んだ。
※琴棋書画
・琴棋書画の四芸は知識階級の嗜みであった。
成語に関して、青木正児『琴棋書画』(平凡社東洋文庫)。
※『酉陽雑俎』
・20巻、続巻10巻。9世紀中頃、唐の段成式(だんせいしき)撰。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、153頁)
このように、唐の玄宗と楊貴妃が碁を嗜んだことに因んで、『玄玄碁経』には「明皇遊月宮勢」と題された詰碁の問題がある。
『玄玄碁経』とは何か?
この点についても、平本弥星氏は次のような注釈を加えている。
※『玄玄碁経(げんげんごきょう)』
・元(1271-1367)の1350年頃にまとめられた棋書。
序文は元を代表する学者の虞集(1272-1348)。
詰碁集の古典として有名。
原書には班固(32-92、後漢の史家、文学者)の囲碁論『弈旨(えきし)』、馬融(79-166、後漢の学者)の『囲碁賦』や『囲碁十訣』、囲碁用語解説、「定勢」(定石)や対局譜なども収められている。
〇『玄玄碁経集』全2巻、解説呉清源、平凡社東洋文庫、1980年がある
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、151頁)
今回、私が参照した『玄玄碁経』は、次の書物である。
〇橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]
・『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名と問題図について
明皇遊月宮勢(めいこうゆうげつきゅうせい)
・楊貴妃と稀世のロマンスのある唐玄宗明皇が中秋賞月の最中に夢想で月世界の月宮に遊ぶ様な形
・手筋は千層宝塔勢と同じで左下から端を発し、これが全局に及ぶというものです。
最後は左上に到着します。
手筋は千層寶塔勢と同じ。
(橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]、353頁)
【参考】『玄玄碁経』と死活事典、手筋事典について
〇趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』日本棋院、増補改訂版1996年
その「はしがき」において、趙治勲氏は次のようなことを述べている。
・この巻は、詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した。
・一口に秀れたといってもその基準がむずかしいが、基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした。
・構成は一応、第1部「玄玄碁経」、第2部「官子譜」、第3部「碁経衆妙」と三つに分けたが、あくまで作品を鑑賞していただくのが目的であり、文献を厳密に紹介しようというものではない。
したがって、たとえば玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた。
・また、問題に不備のあるものは修正し、むずかしいものは少しやさしくするとか、多少手直ししたものがあることもお断りしておきたい。
・雑誌や新聞紙上などで数々の詰碁に出食わすが、それらの作品が実は玄玄碁経や官子譜や碁経衆妙のものだったり、あるいはその焼き直しだったりすることがなんと多いことか、いまさらながら驚かされると同時に、三大古典の優秀性が改めて知らされるのである。
・本書をまとめるに当り、平凡社刊「玄玄碁経」「官子譜」および山海堂刊「玄玄碁経」「官子譜」「碁経衆妙」を参考にさせていただいたので、お礼の意をこめてお断りしておく。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、3頁~4頁)
※このように、趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』(日本棋院、増補改訂版1996年)は、「詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した」ことをまず述べている。
また、編集にあたって、「基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした」という。
つまり、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにしたと断っておられるように、「明皇遊月宮勢」の問題のような、「手数が長く、ただむずかしいもの」は除外してある。
さらに、「玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた」とあるように、『玄玄碁経』の問題の名前はすべて省略してある点にも注意が必要である。
(この点が、私には、編集上の非常に残念な点であった。藤沢秀行『基本手筋事典』や山下敬吾『基本手筋事典』は基本的にはその『玄玄碁経』の問題の名前(題名)が明記してある)。
なお、趙治勲氏は「玄玄碁経」について、次のような解説を付記している。
・玄玄碁経(げんげんごきょう)は中国盧陵(江西省)の名手、晏天章と厳徳甫の共編によるもので、序文の日付は至正7年、すなわち1347年となっており、いまからざっと六百年余前に完成された本である。
・内容は史論、碁経十三篇、囲碁十訣、術語三十二字などにつづいて定石、実戦譜、それに詰碁376題が収められているが、もっとも価値の高いのはなんといっても詰碁であろう。
のちの官子譜、わが国の碁経衆妙にも、玄玄碁経の詰碁がそのまま、あるいは手直ししたものが、数多く収められている。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、36頁)
※このように、趙治勲氏は、『玄玄碁経』が官子譜や日本の碁経衆妙に与えた重要な文献であることを注目し、とりわけ、詰碁376題の価値の高さを強調している。
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