歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《2020年度 わが家の稲作日誌 その3》

2020-12-30 17:23:37 | 稲作
《2020年度 わが家の稲作日誌 その3》
(2020年12月30日投稿)



【はじめに】


今回のブログでは、佐藤洋一郎氏の『稲の日本史』(角川選書、2002年)の著作を読んで、稲作の歴史を考えてみたい。
佐藤洋一郎氏の考える稲の日本史は、従来の捉え方とどのように違うのか。「稲の日本史」の年表やイネの収量から、その違いについて述べておこう。
水田の維持には、水の管理と除草の問題がネックとなっている。かつては「1本のヒエも許さないこと」が水田耕作のこころとされてきた。そこには、どのような意味合いがあったのだろうか。佐藤洋一郎氏の体験談をまじえて、言及している。
 また、米は、胚乳のデンプンの性質によって、種類に分かれている。米のデンプンには、アミロースとアミロペクチンという2種類がある。モチ米とウルチ米の性質の違いは、このアミロースとアミロペクチンの比率によって決まっている。そして、胚乳のデンプン組成の違いは、料理の方法にも影響を及ぼしている。こうした問題を佐藤氏は、解説している。




執筆項目は次のようになる。


・佐藤洋一郎氏のプロフィール
・佐藤洋一郎氏の『稲の日本史』の特徴
・「稲の日本史」の年表
・イネの収量
・反収あたりの最高記録
・水田の維持と除草
・水田耕作のこころ――1本のヒエも許さないことの意味
・モチ米とウルチ米 2種類のデンプン
・調理の方式






佐藤洋一郎氏のプロフィール


『稲の日本史』(角川選書、2002年)の著者の佐藤洋一郎氏は、1952年和歌山県に生まれ、1977年京都大学農学部を卒業し、1979年同大学大学院の農学研究科修士課程を修了した農学博士である。
国立遺伝学研究所助手を経て、1994年より静岡大学農学部助教授で、専攻は植物遺伝学である。
イネの「アッサム・雲南起源説」を否定し、「ジャポニカ長江起源説」を発表した。

佐藤氏の修士論文のテーマは、発育遺伝学的なテーマであり、イネの背丈がどのようにして決まるかということであったそうだ。
遺伝学の世界では、「なぜ」を考えるのに、いろいろなイネの品種を準備するという。例えば、ある田んぼでは、コシヒカリの背丈が90センチ、農林22号では110センチであったのなら、その差20センチはどのように生じたのか、を考えてゆくのだと説明している。

全アジア的にみると、日本のイネは一般に背が低い。熱帯ジャポニカが姿を消したのは、その遺伝学的性質によるところが大であるとする。熱帯ジャポニカは、温帯ジャポニカに比べて、背が高いものが多く、このことが二つのジャポニカの消長を決める大きな要素となったとみている。
イネの「草型(くさがた)」には「穂数型」と「穂重型」の二つがあるといわれる。
穂数型は、小型で多数の穂がつくタイプであるのに対して、穂重型は比較的少数の大型の穂がつくタイプである。
穂重型の品種は穂が長いだけでなく、葉も茎も長い。中には茎の長さが2メートル位のものもあり、これは今普通の田んぼに植わっている温帯ジャポニカの約2倍にあたる。茎の長さや葉の長いことが熱帯ジャポニカの草型を決める大きな要因だという。
ただ、穂重型のイネでは、長い葉がもつれるように重なり合い、群落の中には風も光も通りにくくなり、過繁茂の状態になる。この過繁茂になると、光合成によって生産する以上のデンプンを呼吸によって消費し、イネの生産性は落ちてゆく。

だから、生産性を高めるためには、草型を穂重型から穂数型にするのがよい。先進国では、品種を穂数型にする改良が続けられてきたといわれる。穂数型にするということは、背丈を低くするということである。
例えば、日本の場合、明治時代に国家事業として品種改良が始まってからの100年間で、イネの背丈は約40センチも短くなったと、佐藤氏は説明している。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、142頁~147頁)

佐藤洋一郎氏の『稲の日本史』の特徴


まず、佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川選書、2002年)の章立ては、次のようになっている。



佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川選書、2002年)の目次は次のようになっている。
【目次】
序章
第一章 イネはいつから日本列島にあったか
第二章 イネと稲作からみた弥生時代
第三章 水稲と水田稲作はどう広まったか
第四章 イネと日本人――終章
おわりに




【佐藤洋一郎『稲の日本史』はこちらから】

稲の日本史 (角川ソフィア文庫)

「序章」において、佐藤洋一郎氏は、この書の意図を明記している。
日本のイネと稲作の従来の歴史にはおおきな誤りがあったことをこの書で訴えている。
従来、水田稲作のあり方は、その技術のみならず、社会のしくみやそこに暮らす人々の行動、思想にまで強い影響を与え続けてきたと考えてきた。つまり、稲作のこころは、2000年のながきにわたって、そこに住む人々の社会や思想に深く浸透してきたとする。
だが、こうした捉え方は、虚構や誤りであることが最近わかってきた。

その誤りは、2つの点に及んでいるという。
1 イネと稲作、それにこれらにまつわる文化は一枚岩なのではなく、幾重かの構造をなすこと(これは佐々木高明氏の「日本文化の多重構造」に呼応する)。
その構造をなす主な二つの要素がある。
①「縄文の要素」~縄文時代に渡来したと思われる熱帯ジャポニカと焼畑の稲作
②「弥生の要素」~弥生時代ころに渡来した温帯ジャポニカと水田稲作
この二者は、ヒトの集団について言うならば、日本人の「二重構造」にいわれる「渡来人」と「在来の縄文人」に対応する(人類学者の埴原和郎氏の説)

縄文の要素は、2000数百年まえにやってきた後発の弥生の要素にとって代わられ、姿を消したと考えられてきた。だが、弥生時代以降も、縄文の要素はその後もしぶとく生き残っていたようだ。
米が主食となり、平地が見渡す限りの水田となり、現代日本人の精神構造が表に出てくるのは、近世以降かもしれないとする。
(網野善彦説のように、「米」は、中世までは人びとの暮らしの中で、今の私たちが考えるほどには大きな位置を占めていなかった)

近代にはいり、国が考えたイネと稲作は、弥生の要素を前面に押し出したものであった。弥生の要素が、富国強兵、集約を旨とするものだからである。それは日本の国力を上げ、生活を豊かにさせた。
(イネについても、収量はこの150年間に3倍弱にまで増加した)
だが、この急速な右上がりは、もう一面で、負の要素をもたらした。現在のイネと稲作に対して、行き詰まり感があり、崩壊の危機に瀕しているのは、二つの要素のうち、弥生の要素のほうであるという。

熱帯ジャポニカ(縄文の要素のイネ)と温帯ジャポニカ(弥生の要素のイネ)の交配によって、それまでにはなかった早生の系統ができ、そのことが日本列島に稲作を急速に広める原動力になったと佐藤氏は考えている。
このようにイネも、文化と同じく、雑種化(ハイブリダイゼーション)は沈滞を打ち破る原動力になり得る。
(ここでもう一度縄文の要素を掘り起こし、それを積極的に取り入れてゆくことが肝要であるとする。それは21世紀のルネサンスになりうると考えている)

2「稲の日本史」という名の本が、もう一つある。
 故柳田國男(やなぎたくにお)らが1950年代から60年代にかけて開いた「稲作史研究会」のまとめとしてシリーズで出されたものである。当時一流の研究者たちの研究の集大成の向こうをはって同名の書を出すことにためらいがあったようだ。だが、かつての「稲の日本史」はおおきな誤りを含んでいることも事実であり、この佐藤洋一郎氏の本があえて「稲の日本史」とした理由の一つはここにあるそうだ。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、8頁~11頁)

「稲の日本史」の年表


「第三章 水稲と水田稲作はどう広まったか」において、「イネと稲作の年表」(177頁~179頁)と題して、「稲の日本史」の年表を掲げている。

その歴史を5つの時代に区分する。
①第1時代 イネのない時代、原始農業の時代(6000年より前)
・この時代には、生活の糧の主な部分は、狩猟と採集によっていたが、部分的には原始的な農業も行われていた。
・青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡はこの文化期の典型的な遺跡のひとつといってよい。
⇒栽培されていた植物には、ヒエ、クリ、ヒョウタン、アカザ、ゴボウなどが挙げられる。
※時代は、日本列島中を同じスピードで進んだわけではない
 三内丸山遺跡に巨大集落が誕生したそのころ、西日本各地ではイネの栽培がほそぼそと始まっていた

②第2時代 縄文の要素が拡大した時代(6000年前~2700年前ないし2500年前)
・この時代が始まるのは、西日本では6000年ほど前(縄文時代の前期から中期ごろ)、東日本では、ずっと遅れて3000年ほど前(縄文時代の後期ころ)と、大きな開きが見られる。
・この時代、イネと稲作は、列島の南西部では相当の広がりを見せ、食料生産の柱のひとつになっていた可能性が高い。
(もっとも、「米が主食」というような状態ではなかった)
・この時代が終わるのは、北海道、南九州と南西諸島を除く列島全体を通して、2500年ないし2700年ほど前(縄文時代の晩期ころ)のことである。

③第3時代 弥生の要素が拡大した時代、縄文の要素と並存(2400年前~1700年前~800年前)
・この第3の時代は、大陸から水田稲作の技術が持ち込まれた時期(縄文時代晩期ころ)に始まった。
・この時代は、列島のほぼ全体で中世の終わりころまで続く。
・この時代は、縄文の要素と弥生の要素がせめぎあった時代である。
・弥生の要素は、約1500年かかって北海道の大半を除く日本列島のほぼ全体にゆきわたる。

④第4時代 弥生の要素が定着(800年前~150年前)
・水田稲作が定着した時代
・近世から近代初期がこの時代に含まれる。

⑤第5時代 急成長の時代(150年前から現代)
・近代から現代に至る時代
・稲作もまた西洋の近代化の洗礼をまともに受けた。
・この時代は、弥生の要素と西洋文明のハイブリッドの時代でもあった。

⑥第6時代(?) 21世紀初頭
 (21世紀初頭は、第6時代の幕開けの時期なのかもしれないとする)

佐藤氏の年表は、旧来の年表と比べて、次の2点が違っていると主張している。
〇縄文時代と弥生時代をわける仕切りがほとんどなくなった点
・従来の歴史観によれば、縄文時代は基本的には狩りと採集時代であり、稲作はおろか農耕の要素はほとんどなかったと考えられてきた。
最近では、縄文時代における農耕の要素、いわゆる縄文農耕の存在を認めた考古学者も増えてきている。それでも弥生時代との間におおきな断点をおいて考えるのが一般的である。
しかし、佐藤氏は、イネと稲作の断絶は今まで考えられてきたより、ずっと小さいと強調している。

〇弥生時代以降の水稲と水田稲作のひろまりの捉え方
・従来の主張とは異なり、縄文の要素である熱帯ジャポニカと休耕田だらけの姿は中世末までの列島各地で支配的であったとみられる。
・今私たちが目の当たりにするイネや水田の景観は、近世以降になってやっと登場したものである。
・弥生時代に始まった「水田稲作」の景観はおそらく私たちの常識からはおよそ「水田」とは認めがたいほどに、雑で、反面おおらかなものであったと、佐藤氏は理解している。

ところで、第5の時代(近代)にはいってから、反収は急速に上がりつづけた。その値は、第3時代から第4時代までの2000年間の水準(160~190キロ)から、わずか100年余りの後に3倍弱の518キロに達した。この上がり方はまさに奇跡である。

その理由は何か?
①まず、化学肥料などの開発があげられるという。
 常畑化は地力を低下させるが、それを防いだのが魚カス、堆肥などの有機肥料の発明であった。さらに化学肥料が普及してからは、窒素成分はいくらでも投入できるようになった。「地力の低下」は致命的な要素ではなくなった。

②次に、窒素が充分に供給できるようになると、今度は品種の改良が反収を引き上げた。
・窒素肥料が多いと、草丈が高いイネは倒れて収量が下がる。そこで草丈の低い穂数型品種が育成された。
・また、病気や害虫に強い品種も育成された。
(こうした品種改良を支えたのは、メンデルの法則に基づく遺伝学の知識であるそうだ。品種改良の成立は「近代化」の産物だった)

③栽培技術の改良
・一部の熱心な農家や試験場の先進的な経験は、改良普及所などを通じて全農家に伝えられた。技術の底上げが図られ、平均収量は上がっていった。

④害虫や病気、雑草を駆除する農薬の普及

反収を押し上げた要因をこのように挙げて、佐藤氏は次のように記している。
・化学肥料を多用すると、病害虫や雑草が増え、潤沢な窒素分は、イネだけではなく、雑草の成長も促進する。
・また肥料を吸って体が柔らかくなったイネは病気や害虫に弱くなる。
・第5時代にあっては、農薬使用は反収をあげるために必須のことであった。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、177頁~179頁、182頁~183頁)

イネの収量


「第三章 水稲と水田稲作はどう広まったか」の中で「収穫高は増え続けたのか」(153頁~156頁)と題して、この2000年間におけるイネの1反(10アール)あたりの収穫高(反収[たんしゅう])について、佐藤氏は述べている。

≪イネの収量の経年変化≫
・弥生           190kg
・奈良~平安初期      100kg(安藤広太郎、1951年)
・鎌倉           162kg
・中世終わり(1598年)   177kg
・1880年代(近代育種始まる)180kg(明治20年)
・2000年代         518kg(2001年)

※弥生以前の参考数値として、焼畑地帯(ラオス)における収量(玄米)は、100kg~250kg未満を提示している

なお、2000年も前の田の収穫高を推定することは容易ではないと断りつつ、栽培実験の結果より、190キロという値を採用している。相当の誤差は覚悟しなければならないが、当時の収穫高は、113キロ(7.5斗。1斗を15キロと換算)よ多く、260キロよりは少なかったとする。

米の反収の推移をみると、2000年ほどの間にほとんど増えていないことがわかると佐藤氏は述べている。
明治20年の平均収量が約180キロというのだから驚くほかないと強調している(この値はかなり信頼のおける値であるそうだ)。2000年前から明治20年までの間の収量を正確に推定する方法はまだみつからないとしながらも、全体には160キロ~190キロほどの値で推移したとみている。
つまり、反収に関していえば、右上がりの成長を遂げたのは、明治後半以後の数十~100年の間だけであって、それ以前はずっと伸び悩みを続けてきたことはほぼ確かであると佐藤氏は記している。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、153頁~156頁、173頁)

ところで、日本人の米離れは確実に進んだ。
成人男子1人の年間の米消費量を元に決めたとされる単位である石(こく)は、約150キロである。1食あたりに直すと、130グラムである。(1合[150グラム]に少し欠ける量である)。
それが2000年の調査では約72キロに減少した。
単純に計算すると、米の消費はこの1世紀で半減した勘定である。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、93頁、186頁)

反収あたりの最高記録


佐藤洋一郎氏は、その著作の中で、戦後日本における反収あたりの最高記録を記している。
1960年代に、「米つくり運動」という一種のコンテストが農家の間で広まり、1反からどれほどの米がとれるかを競ったそうだ。
そのコンテストで記録された最高記録は、反あたり1060キロであった。現在の平均(518キロ)の2倍に達する。
(おそらく今の農家が挑戦しても、これだけの値はもう出せないであろうという)

ちなみに、反収当たりの収量として、おおよそ次のような計算をしている。
10アールの田に植えられるイネは、植え方にもよるがざっと2万株。1株のイネはだいたい1000粒ほどの種子をつけるから、10アールの田にある米粒は、ざっと計算しただけでも、2000万粒に及ぶと佐藤氏は計算している。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、151頁、188頁)

水田の維持と除草


「第三章 水稲と水田稲作はどう広まったか」の中で「水田の維持は大事業」(165頁~167頁)と題して、耕作という行為は大変な作業であることを述べている。

今の稲作の方法を簡単に紹介すると、次のようになる。
①種籾(種子)を消毒した上、水や温度をコントロールした苗代に播きつける
②苗が育つまでの間、代掻(しろか)きという作業をする
 (田に水を入れて土をよく砕き、肥料をやった上で土地を平らにならす)
 除草剤は代掻きが済んだところで撒いておく
③田植え~苗代で育てた苗を、代掻きをした田に植える
④田の管理(特に水の管理、除草、肥料など)
・あとはイネの成長に応じて草を取ったり、病気や害虫の発生に応じて薬をまいたりする
・穂が出る前後には必要に応じて、再び肥料をやることもある
・水の管理は重要である
 (毎日朝晩に田を訪れて、水をコントロールする作業は穂が出てしばらくするまで、ただの1日も欠かせない)

こうした一連の作業に、太古の人びとはどう対処したのだろうかと佐藤氏は思いを馳せている。
例えば、肥料まき。化学肥料はおろか堆肥(たいひ)や厩肥(きゅうひ)も知られていなかった時代である。耕作を続けることで地力は確実に落ちたはずだが、「地力の低下→収量の減退」という必然的な流れに、太古の人びとも対処しなければならなかったはずである。

次に除草。雑草は、作物と同じく、ヒトが作った攪乱環境を好む草の仲間である。しかも温室育ちの作物とは違って、常に排除の対象とされてきた歴史をもつだけに強い生命力をもっている。
たとえば、雑草は競争相手となる作物に比べて、発芽直後の成長が早い。種子をつける時期も作物より少しだけ早い。
作物の収穫時期には成熟した種子を地面に撒き散らして、来年以後に備えているそうだ。
雑草の生命力を進化させたのは、皮肉にも作物に対するヒトの過保護であったと佐藤氏は説明している。
雑草は、取れども取れども耕地の中で増え続ける。そして、雑草の害に追い討ちをかけるのが、病気や害虫による被害である。しかも太古の時代には大発生すると手の打ちようがなく、人びとはただ手をこまねいているしかなかったであろう。

水田という、イネだけが生存する生態系を長期にわたって持続させ収穫をあげるには、莫大な量のエネルギーを必要とする。今のように、化学肥料、農薬、ガソリンエンジンなどをもたない丸腰の時代の人びとにとって、水田はその維持が極めて困難なシステムであった。
近世以降になっても、農民は這いつくばるように草を取り、病気や害虫の駆除法を発明し、せっせと肥料を田に運んだのも、そうしなければ、収穫の増加はおろか、水田そのものの維持が危うかった。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、165頁~166頁)

水田での稲作の作業の中で、一番骨がおれる作業は、草取りである。
草取りは、今でこそ除草剤のお陰で重労働でなくなったが、除草剤が開発されるまでは、もっとも過酷な農作業のひとつだった、と佐藤氏は強調している。
①暑いし湿度は高い
②元気に伸びたイネの葉は多量の珪酸(けいさん)を含み、その縁はガラスのように鋭い。それをかき分けての草取りで、腕や首筋には無数切り傷ができる。とがった葉先が目をつくこともしばしばである。
③さらに、イネを踏みつぶさないように、水の張った地面を這いずり回るようにして、草を取る姿勢は、腰や背中に負担をかける。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、92頁)

水田耕作のこころ――1本のヒエも許さないことの意味


かつて田は、葉の色や背丈が隅から隅まで揃い、遠目には絨緞のようにみえた。
田には1本の草もなかった。1本でもヒエを生やした田の持ち主は堕農とまでいわれ、蔑まれたそうだ。
1本のヒエも許さないこと、田を緑の絨緞のように管理しておくこと、それは文字通り、弥生の要素がもつ論理であったと、佐藤氏は捉えている。

1本のヒエが生産に大きな影響を及ぼすわけではないが、1本のヒエを許さないこと自体に意味があったようだ。
それは、農民の心が映す鏡であり、農民の心を試す「踏み絵」のようなものであった。
元はといえば、支配者たちが人びとを「農民」として土地に縛りつけておくために尽くした、てだての精神的産物であったとする。一方、土地に縛りつけられた農民にとって、生態系とのせめぎ合いに勝つしか、そこで生きてゆく道はない。彼らが這いつくばるようにして草をとったのは、それ以外、遷移(せんい)という大自然の力に勝つ術(すべ)がなかったからである。

まじめに耕し心を込めてイネを作ってきた農民は、弥生の要素の中で育ち、土地への執着、勤勉、右上がり志向をたたき込まれてきた。
先祖代々の血と涙と汗が凝集された田が、自分の代で野にかえてしまったとあっては、ご先祖にあわせる顔がないと思い、農民の心は、土地と一体化していた。
(1969年、休耕が政策決定されたとき、農民たちは「米を作るなという政策は日本史上初めての愚策」とその怒りを露わにしたようだ)

ところで、佐藤氏は、若い頃大学の助手時代の、次のような体験を述べている。
研究用に農場で借りた田の雑草について、農場の技官から、しょっちゅうお小言を頂戴したという。
「先生、ヒエはこまめに抜いて下さい。もし種がこぼれたら、来年はひどいことになりますきに」と。
その言葉にはヒエを生やすことは許さない、という強い意思が込められていたそうだ。
今年はたった1本にすぎないヒエも、田んぼで花を咲かせ種子を残すと、翌年には何百という個体になる。
それらの仮に1割が発芽するだけで、翌年田には100本近いヒエが現れることになる。しかも種子は休眠し、その後10年以上にわたって土中に残り、次々と発芽してくるという。
雑草というよりは、「害草」とでもいいたくなるほど、水田のヒエは嫌われものである。
先祖たちが汗水たらして土を作り、這い回るようにして雑草を抜き続けた田を何年もの間放置して草だらけにするなど、考えられもしないことであった。
佐藤氏も、少しはそのこころが理解できたと述懐している。
水田に入り込んでくるヒエなどの雑草は、コメを作る側からすれば、ひとえに邪魔な存在である。
(生態系にとっては、その侵入は、コマを一つ前に進めようとする遷移の所作であるにすぎない。そして雑草をとるというヒトの行為は、遷移にそむいて攪乱(かくらん)を加えようとするこざかしい行為のひとつに他ならないのだが。)
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、8頁、183頁~185頁)

モチ米とウルチ米 2種類のデンプン


米は、胚乳のデンプンの性質によって、いくつかの種類に分かれている。デンプンは、糖が鎖のようにつながった構造をしている。
〇米のデンプンには、アミロースとアミロペクチンという2種類があり、次のような違いがある。
①アミロース  ~糖が1本の鎖のようにつながった構造
②アミロペクチン~糖が穂のような枝分かれ状の構造

〇デンプンのこの構造上の違いは、そのまま物理的性質の違いになっている。
①アミロース  ~分子同士が絡まりあうことが少なく、さらりとした感じになる
②アミロペクチン~枝と枝とが絡まりあって、ねばねばした感じになる

〇また構造の違いは、消化の良し悪しにもつながる
①アミロース  ~1本の鎖のような構造なので、糖に分解されやすい
⇒アミロースの多い米は消化しやすい米
②アミロペクチン~鎖が複雑に枝分かれした構造なので、糖に分解しにくい
         ⇒アミロペクチンの多い米は消化しにくい米

〇モチ米とウルチ米の性質の違いは、このアミロースとアミロペクチンの比率によって決まっている
①モチ米  ~アミロースなし、つまりアミロペクチン100%の米
⇒強いねばねば感がある。モチ米の腹もちがよいといわれるのも、デンプンの性質による。
※なお、デンプンの比率の違いは、モチとウルチの米粒の光学的特性にも影響を及ぼしている。
〇アミロースを含まないモチ米~白色光を透過せず、黒っぽくみえる
〇アミロースを含むウルチ米~白色光の透過率が高く、透けてみえる

②ウルチ米~そのデンプンは、アミロペクチンとアミロースが混ざってできている
⇒モチ米のようなねばりはない
ただし、同じウルチ米でも、アミロースの比率は品種によって異なる(数%~30%)
〇アミロース含量の高い品種ほど、米はぱさついた感じになる
〇一般的にいえば、日本で栽培されるジャポニカの米は、アミロース含量が15%程度である
〇タイなどの東南アジア平野部、欧州や米国のイネの多くは、20%~25%ものアミロースをもつ
※なお、俗説では、インディカがぱさぱさ、ジャポニカがねばねばというが、それは根拠の乏しい話であると佐藤氏は注意を促している。つまり、インディカの中にもモチはあるし、熱帯ジャポニカにも、ぱさぱさ感の強い品種がある。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、68頁~69頁)

調理の方式


胚乳のデンプン組成の違いは、料理の方法にも影響を及ぼしている。
①モチ米  ~水を吸いにくいし、水洗いしただけで炊くと、こげついてしまう。そこで長い時間(たとえば一晩)、水につけておき、それから蒸す。
②ウルチ米 ~モチ米よりは短時間に多く水を吸収するので、長く水につけておく必要はない。とくにアミロースの多い米は日本の米などより多くの水を吸う。

(cf.)1993年に多量のタイ米が入ってきた時、日本の炊飯器で炊いたそれをおいしくないと感じた人が多かった。その理由は独特の香りのほか、水が少なくて硬い感じに炊けてしまったことがあるようだ。

なお、米は粒のまま食べる代表的な粒食の食品だが、中にはこれを粉にして食べる文化もある。
〇南中国からインドシナにかけて、米の粒で作ったビーフンのような麺が豊富にある
〇米の粉を水に溶き、薄く延ばして作るライスペーパーも春巻の素材として欠かせない
〇日本でも米の粉は団子にもする

米と酒との関係でいえば、ウルチ米とモチ米が違った種類の酒になる。
①ウルチ米~日本の清酒や米焼酎(こめじょうちゅう)の原料として使われる
②モチ米 ~味醂(みりん)や白酒(しろざけ)の原料になる
 そのほか、沖縄の泡盛や、これと似たインドシナ山岳部のどぶろくや、さらには蒸留酒の原料にもなる。
※中国の紹興市一帯(浙江省)で作られる紹興酒も、今はウルチで造られることが多いが、もともとはモチ米で造られていた。
(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年、69頁~70頁)

【まとめ】


〇イネと稲作、それにこれらにまつわる文化は幾重かの構造をなすが、その構造をなす主な二つの要素がある。
①「縄文の要素」~縄文時代に渡来したと思われる熱帯ジャポニカと焼畑の稲作
②「弥生の要素」~弥生時代ころに渡来した温帯ジャポニカと水田稲作
この二者は、ヒトの集団について言うならば、日本人の「二重構造」にいわれる「渡来人」と「在来の縄文人」に対応する(人類学者の埴原和郎氏の説)

●縄文の要素は、2000数百年まえにやってきた後発の弥生の要素にとって代わられ、姿を消したと考えられてきた。だが、弥生時代以降も、縄文の要素はその後もしぶとく生き残っていたようだ。
米が主食となり、平地が見渡す限りの水田となり、現代日本人の精神構造が表に出てくるのは、近世以降かもしれないとする。

●近代にはいり、国が考えたイネと稲作は、弥生の要素を前面に押し出したものであった。弥生の要素が、富国強兵、集約を旨とするものだからである。それは日本の国力を上げ、生活を豊かにさせた。

●熱帯ジャポニカ(縄文の要素のイネ)と温帯ジャポニカ(弥生の要素のイネ)の交配によって、それまでにはなかった早生の系統ができ、そのことが日本列島に稲作を急速に広める原動力になった

〇米の反収の推移をみると、2000年ほどの間にほとんど増えていない。明治20年の平均収量が約180キロといわれ、全体には160キロ~190キロほどの値で推移したようだ。
つまり、反収に関していえば、右上がりの成長を遂げたのは、明治後半以後の数十~100年の間だけであって、それ以前はずっと伸び悩みを続けてきた

〇10アールの田に植えられるイネは、植え方にもよるがざっと2万株。1株のイネはだいたい1000粒ほどの種子をつけるから、10アールの田にある米粒は、ざっと計算しただけでも、2000万粒に及ぶと佐藤氏は計算している。

〇水田の維持は大事業である。稲作は、種籾(種子)を苗代に播きつけ、代掻(しろか)きをし、田植えをし、田の管理(特に水の管理、除草、肥料など)をする。

〇水田での稲作の作業の中で、一番骨がおれる作業は、草取りである。草取りは、今でこそ除草剤のお陰で重労働でなくなったが、除草剤が開発されるまでは、もっとも過酷な農作業のひとつだった。

〇米は、胚乳のデンプンの性質によって、いくつかの種類に分かれている。デンプンは、糖が鎖のようにつながった構造をしているが、米のデンプンには、アミロースとアミロペクチンという2種類がある。アミロースの多い米は消化しやすい米のだが、アミロペクチンの多い米は消化しにくい米である。

〇モチ米とウルチ米の性質の違いは、このアミロースとアミロペクチンの比率によって決まっている。モチ米はアミロースなく、つまりアミロペクチン100%の米である。一方、ウルチ米のデンプンは、アミロペクチンとアミロースが混ざってできている。アミロース含量の高い品種ほど、米はぱさついた感じになる。一般的にいえば、日本で栽培されるジャポニカの米は、アミロース含量が15%程度である。

〇胚乳のデンプン組成の違いは、料理の方法にも影響を及ぼしている。モチ米は、水を吸いにくいし、水洗いしただけで炊くと、こげついてしまう。そこで長い時間、水につけておき、それから蒸す。それに対して、ウルチ米は、モチ米よりは短時間に多く水を吸収するので、長く水につけておく必要はない。

【私の一言】
1本のヒエをも許さないという昔の農民のこころは、弥生の要素がもつ論理であったと理解している点で、興味深い主張である。
実際の農作業という点でも、ヒエをこまめに抜いた方がよいことが私もわかった。
今年はたった1本にすぎないにしても、田んぼで花を咲かせ種子を残すと、翌年には100本近いヒエが現れることになるらしい。しかも種子は休眠し、その後10年以上にわたって土中に残り、次々と発芽してくるとなれば、少々面倒でも、ヒエをこまめに抜くことにしたいと改めて肝に銘じた。

≪私の田に生えたヒエの写真~2020年8月3日≫
稲の出穂がこの後8月11日から始まる。ヒエの穂の生長が稲より早く、もう穂が出ている。ヒエは耕作者には悩ましい雑草である。



【佐藤洋一郎『稲の日本史』はこちらから】

稲の日本史 (角川ソフィア文庫)


≪参考文献≫
松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年
佐藤洋一郎『稲の日本史』角川選書、2002年


《2020年度 わが家の稲作日誌 その2》

2020-12-29 18:30:51 | 稲作
《2020年度 わが家の稲作日誌 その2》
(2020年12月29日投稿)


【はじめに】


今回のブログでは、松下明弘氏の著作『ロジカルな田んぼ』(日本経済新聞出版社、2013年)を読んで、稲作の基本的な作業と「おいしい米づくり」について考えてみたい。
 たとえば、日本の稲作において、なぜ「代かき」や「田植え」という作業が必要なのか。そもそも、これらの作業はどういう意味合いがあるのか。それらと除草とどのように関係しているのか。「稲刈り」という行程は、稲作全体の作業の中でいかに重要な意味合いを持つのか。こうした稲作について基本的な考え方が、松下氏の著作を読むと、分かってくる。 
 そして、「おいしいお米」とはどのようなお米であり、それが稲作の行程とどう関わりあっているのかが見えてくる。「おいしいお米」のための理想の反別収量は、どのくらいが適当なのかについても明記している。
この本を読んで、私の所で栽培している「きぬむすめ」という品種の系統についても理解が深まった。



さて、今回のブログの執筆項目は次のようになる。


・松下明弘氏の『ロジカルな田んぼ』という著作
・松下明弘氏のプロフィールと『ロジカルな田んぼ』
・静岡県の専業農家松下明弘氏の年間スケジュール
・代かきの重要性
・なぜ田植えが必要なのか
・松下氏による雑草対策
・理想の反別収量
・コシヒカリについて
・おいしいお米とタンパク質の関係
・玄米食のススメ
・米ヌカの効用
・酒米の山田錦
・お米の多様性が消えた理由
・【参考】コシヒカリの系統と「きぬむすめ」
・コシヒカリの特徴
・【まとめ】






松下明弘氏の『ロジカルな田んぼ』という著作


松下明弘氏のプロフィールと『ロジカルな田んぼ』


全国の稲作農家のうち、専業でやっている人は2割もいない。いまや米作りは、兼業農家が週末にやる仕事になってしまった。
さて、松下明弘氏は、静岡県で有機・無農薬で米を作っている専業農家である。
松下氏は、1963年、静岡県藤枝市に生まれ、静岡県立藤枝北高校を卒業した。その後、段ボール製造工場勤務のあと、藤枝北高校農業科で実習助手をへて、1987年、青年海外協力隊としてエチオピアへ向かう。帰国後は、板金工場に就職し、1996年から専業農家になった。

松下氏は、1995年、全国ではじめて、酒米「山田錦」を有機・無農薬で育てることに成功した。いま日本で有機栽培されている米は、全生産量のわずか0.1%にすぎない。2000年に制度発足した有機JAS認定を受けている稲作農家は、静岡県で2~3人のみで、大きな面積を有機栽培だけをやっているのは、松下氏だけであるという。
加えて、2008年には、コシヒカリの突然変異体を発見し、育種した巨大胚芽米「カミアカリ」を農水省に品種登録した(個人農家が登録するのは静岡県初だそうだ)。
仕事の稲作のあいまに、趣味の稲作をやっているともいう。それは変わった品種をコレクションすることである。古代米から珍品種、突然変異まである。

松下氏が稲作をはじめたのは、29歳である。それから22年間、稲作について考え、いろいろな実験をくり返してきた成果が、『ロジカルな田んぼ』という著作であるという。執筆にあたり、次のような問題が念頭にあったようだ。
〇雑草はなぜ生えるのか?
〇なんのために耕すのか?
〇肥料を入れないとどうなるのか?
〇放っておいたら稲は育たないのか?
〇なぜ田植えが必要なのか?
〇土を育てるってどういうことか?
〇なぜ田んぼに水をはるのか?
〇おいしい米とおいしくない米の違いは何か?
〇どうして病害虫にやられるのか?
〇そもそも土って何なのか?

これらの問題について、「いまだにきれいな答えが出せない問題がある」と断っている。しかし著者が「ひたすら考えつづけ」ていることが、この著作を読むと実感できる。
農作業のひとつひとつは、すべて意味があるといわれる。その意味を知れば、工夫の余地が生まれ、新しい農業が可能になる。
この著作では、農業とはどんな仕事かを具体的に説明しており、一般向けに、農業技術のディテールに踏みこんで解説している。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、「まえがき」3頁~6頁)



松下明弘『ロジカルな田んぼ』(日本経済新聞出版社、2013年)の目次は次のようになっている。
【目次】
まえがき
第1章 豊かなアフリカ、貧しい日本
第2章 雑草の生えない田んぼ
第3章 有機って何だ?
第4章 田んぼの春夏秋冬
第5章 山田錦の魅力
第6章 神様がくれたカミアカリ
第7章 多様性をもとめて




【松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社はこちらから】

ロジカルな田んぼ 日経プレミアシリーズ

静岡県の専業農家松下明弘氏の年間スケジュール


「第4章 田んぼの春夏秋冬」(101頁~150頁)では、1年を通しての年間の農作業を紹介している。農作業のひとつひとつに、すべて意味があるのだという点を知ってほしいという。作業の意味や目的を知れば、工夫の余地があり、改良できるし、省略してしまうこともできるとする。

1年でもっとも最初にやるのが、年間のスケジュール作りである。2月から3月にかけての仕事である。
まずは取引先と相談しながら、品種や数量を確定するという。
品種選びでは、平成24(2012)年の例をあげている。
〇早生(わせ)~「カミアカリ」「コシヒカリ」
〇中生(なかて)~「あさひの夢」
〇晩生(おくて)~「山田錦」「にこまる」
〇それ以外として~もち米「滋賀羽二重(はぶたえ)」、試験栽培「つや姫」「北陸100号」

お気に入りの品種があったとしても、同時期に収穫できる面積には限界があるので、そればかりを作ることはできないそうだ。
稲は、110~130日ほど田んぼで暮らす。田植えは多少ズレても問題ないが、稲刈りだけは融通がきかない。
稲刈りのベストタイミングは、静岡県の場合、5日程度しかないという。その時期を逃すと、味がガクンと落ちるそうだ。
例えば、稲刈りが半分が終わったところで長雨が降りだし、1週間後から再開したとすると、先に収穫した米の食味と、あとから収穫した米の食味は、まったく違う。

松下氏の場合、9町歩(9ヘクタール、サッカーコート13面分)の面積で稲作をしている。その面積に、1品種だけ植えたとしたら、絶対に3日間では刈りとれない。
だから、収穫時期がかさならないように、早生、中生、晩生と複数の品種に分散しているとする。
3日で刈れる面積にしか1品種を植えない。ある品種の稲刈りと次の品種の稲刈りを、5日から1週間はズラしておき、少し雨がつづいても、対応できるようにしておくという。出発点に稲刈りがあり、そこから逆算しているそうだ。

平成24(2012)年の稲刈りの目安を、次のように記している。
カミアカリ9月8日、コシヒカリ9月13日、あさひの夢10月1日、山田錦10月9日と10月10日の2日間、にこまる10月15日
(但し、滋賀羽二重は9月25日)
このように、だいたい5日から1週間あけている。
カミアカリは玄米食専用、山田錦は酒造用、滋賀羽二重は自家用と、独自の用途があるらしい。
残りの食用米3品種については、コシヒカリ(粘り気があるタイプの米)が早生、あさひの夢(シャキシャキした食感の米)が中生、にこまる(あさひの夢にちかい食感だが、高温障害に強い品種)が晩生と、きれいに分かれている。

品種が決まれば、どの田んぼに植えるかを考えるそうだが、田んぼにも個性があって、早生しか作れなかったり、晩生しか作れなかったりすることがあるという。

松下氏は、青年海外協力隊としてアフリカへ行き、そこで作物の生命力に驚かされた経験から、帰国後も、稲作は放任主義が基本である。
自分の力で生きる稲にするために、重要なポイントをふたつ記している。
①稲が健康に育つ田んぼを用意してあげること
②建康な苗を用意すること

この2条件さえ最初に満たしておけば、きびしい環境でも元気に育つのだそうだ。
①の田んぼの準備でもっとも大切なのは、地面が水平であることである。
水平は、稲作にとって基本であり、奥義であると説く。
つまり、田んぼが斜めになっていて、高いところの土が水から顔を出すと、空気にふれて畑雑草が繁殖する上、肥料もかたよってきくから、品質のバラツキにつながるという。

だから、土がかたよっている場所は、高低差をなくす。田んぼの端っこは土が盛り上がりがちだし、道路から機械(コンバインやトラクター)を入れる場所は土が沈みがちである。
雨が降った翌日に見ると、水のたまり具合で傾斜がわかる。その時、水深を調べて、見取り図を描き、バケットをトラクターにとりつけて、土を移動させるそうだ。7割がた土を動かし、最終的な調整は代かきでやるとのこと。
(代かきでは、水を入れた状態で土をかき回すと、細かい泥に変わり、水もちがよくなるし、粘着力も出るので苗を植えやすくなる)

また、いくら水平をとっても、水まわりに問題があったら、水がたまらない。だから用水路のコンクリートや、水の取り入れ口のパイプが割れていたら、3月には修理しておく。そして冬のあいだにモグラが畦(あぜ)に穴をあけるので、畦もぬりなおす。
水もれのない田んぼを作るのが基本中の基本であることを強調している。

平成24年の田植えの時期は、次のように予定していた。
カミアカリ5月20~22日、コシヒカリ5月25日、あさひの夢5月末~6月2日、滋賀羽二重6月3日、にこまる6月5~10日、山田錦6月10~17日ぐらい

このように、松下氏の田植えは、いちばん早いカミアカリで5月20~22日、いちばん遅い山田錦で6月10~17日ぐらいで、品種ごとに時期をズラして植えてゆく。
(田んぼの隅っこは、田植え機が入らないので、そこだけ手で植えているそうだ。それで収量が劇的に増えてわけではないものの、どうしても植えずにはいられないという)

松下氏の田植えの特徴をひとことでいうと、スカスカと表現している。
近辺の農家は、1坪あたり70株を植えるのがふつうであるが、松下氏は1坪50株植えとする(実際には欠株が出るので、実質45株植えぐらいになるという)。
しかも、1株あたりの本数も少ない。ふつうは6~7株の苗を1株として、1カ所に植えつける。松下氏は、苗2~3本で1株にしている。
(株数が少ないだけでなく、1株あたりの本数も少ない。だから、1株に植える苗の合計本数は、慣行田の4分の1とか5分の1しかないようだ。株と株のあいだは、22.5センチ、隣の列とは30センチ離すと記す)

このようにスカスカに植えるのは、1株あたりの生活圏をひろげたいからだと主張している。
自分のまわりに空間があれば、稲は太陽光をもとめて葉っぱをひろげ、横に大きくなる。根も茎もガッチリして、台風がきても倒れない稲になるそうだ。一方、慣行田では、ギッシリ植えるので、稲の周囲に空間がないので、光合成したければ、上に伸びるしかなく、ヒョロヒョロの倒れやすい稲になると説いている。

稲というのは、薄く植えても、厚く植えても、収量はそれほど変わらないそうだ。空間があれば、茎の数を増やしたり、1本の穂につく米粒の数を増やしたりして、すき間をうめていくものらしい。
稲が茎を増やしていくことを「分げつ」という。
田植えしたときは1株に2~3本植わっていたのが、夏のあいだに本数がどんどん増える。
松下氏にとってのベストは、1株17~18本とする。
(あまりに茎が増えすぎた場合は、田んぼの水を抜き、分げつを止めることもある。「中干し」という作業をするという)

さて、8月に入ると、ついに稲穂が出てくる。ここから40~45日かけて、デンプンを米粒に送りこんでいく。「出穂(しゅっすい)」の時期である。
松下氏の田んぼでは、次のようである。
カミアカリ8月3日ぐらい、コシヒカリ8月5日ぐらい、滋賀羽二重8月22日ぐらい、あさひの夢8月25日ぐらい、山田錦9月1日ぐらい、にこまる9月2日ぐらい
※稲穂がみのると、スズメが集まってくる
(まだやわらかい米粒をプチュッとつぶすと、甘いデンプンが出てくる。それが大好物なのである)

(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、102頁~111頁、133頁~136頁、143頁)

代かきの重要性


松下明弘氏は、代かきの重要性を強調している。
松下氏の田んぼは、いわゆる「ザル田」だから、代かきをやらないと、水が落ちてしまい、保水が不可能だそうだ。
代かきをやれば、土が細かく粉砕され、土が沈む過程でギュッと締まる。この作業をやってはじめて、田んぼに水がたまるようになる。

代かきの3~4日前に田んぼに水を入れ、まずは全体にいきわたらす。
水が2~3センチ残っていて、土が見えるか見えないかぐらいの状態がベストである。だから、水深を調整する。
(松下氏の田んぼは一晩で、4~5センチは水が落ちるらしい。前日の時点で、7センチぐらい水がたまっていれば、明朝には2~3センチになると読む)
そして、翌日、トラクターを入れて超浅水代かきをする。

代かきの最大のポイントは、水平をとることであると強調している。
1反(0.1ヘクタール)の田んぼであれば33メートル四方、3反の田んぼであれば、30メートル×100メートルぐらいの大きさである。そこに水をはったとき、両端の水深が誤差1センチ、最悪でも2センチにおさまるように仕上げることが重要だという。

松下氏は、代かきに、ほかの人の倍は時間をかけるそうだ。
中毒患者のように代かきをやって、ピシッと水平がとれたときは「1年の仕事の半分が終わった」と感じると打ち明けている。
ここで時間をかけるから、除草時間がゼロですむようだ。
(意外なほど、農家の人でも、水平の大切さを知らない人が多いらしい。あまりにも無頓着に、水と土を混ぜているだけの場合が多い。水平さえとっておけば、肥料がよくきくし、雑草も劇的に減ると主張している)
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、54頁、111頁~113頁)

【松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社はこちらから】
ロジカルな田んぼ 日経プレミアシリーズ

なぜ田植えが必要なのか


慣行農業では、2.5葉ぐらいの「稚苗(ちびょう)」で田植えするのが一般的である。
苗が小さいほうが作業性がいいので、機械化農業とともに稚苗植えが常識になったようだ。

一方、松下氏は4.5葉から5葉ぐらいの「成苗(せいびょう)」で田植えするそうだ。
その理由は3つあるとする。
①肥料がきくまでのタイムラグ
 化学肥料のように即効性が高ければ、稚苗でも楽に生きていけるが、松下氏は有機肥料で育てているので、そこまでの即効性がないらしい。成苗のほうが栄養分をいっぱいたくわえているので、根を伸ばしやすい。
②害虫の問題
 暖かい土地には、イネミズゾウムシが多く、苗の葉っぱを食べてしまう。2.5葉のうちの1枚を食べられたら大ダメージだが、5葉のうちの1枚なら支障はない。
③ジャンボタニシ(スクミリンゴガイ)の食害
 稚苗の細い茎だと、ポキンと折られてしまうが、成苗まで育てておけば、葉っぱ1枚の被害でくい止められる。
 ※ジャンボタニシは、食用にするために南米からもちこまれた。養殖場から逃げだして、越冬する能力を見につけた。雪の降る土地や、化学肥料・農薬の田んぼにはあまりいないが、静岡県では十数年前から大繁殖しているそうだ。

田植えは、①稲が建康に育つ田んぼ、②丈夫な苗、この両方の条件がそろう必要がある。
稲作は兼業農家が大半なので、会社が休みになるゴールデンウイークに田植えをすることが多い。
松下氏は専業だから、それぞれの品種でベストのタイミング(5月下旬から6月上旬)を選んで、田植えをするそうだ。

なぜ田植えが必要かについて、次のように解説している。
そもそも田んぼに種を「花咲かじいさん」のようにまいても、稲は勝手に育つ。
実際、アメリカやオーストラリア、ヨーロッパ(イタリア、スペイン、ギリシャ、ポルトガル)では、「直播(ちょくは)」という、種を直接まく方法で育てている。

一方、日本人は、わざわざ苗を移植している。
日本の田植えは、フライング・スタートであるという。
「直播」の欧米の稲作は、雨の少ない地域でおこなわれている。ところが、日本のような湿気の多い土地で「直播」は難しい。というのは、まったく同じ条件で、「用意、ドン!」となれば、稲より雑草のほうが先に育ってしまうからである。

しかし、雑草より先に根をはりめぐらせることができたら、稲は栄養を独占できる。
代かきをすませたばかりの田んぼは、見わたすかぎりの泥の海である。このスタートラインには草1本生えていない。ここに、2.5葉ないし4.5葉の苗を移植すれば、発芽からはじめないといけない雑草に対し、圧倒的優位に立てる。
これが田植えの意味であると松下氏は解説している。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、128頁~130頁)

松下氏による雑草対策


松下氏は、農薬や除草剤を使わない雑草対策を工夫している。
松下氏が農業を始めた当初は、田んぼにコナギがビッシリ生え、稲刈りの際にコンバインを入れたら、刃にからみついて前へすすめないほどであったそうだ。
「除草」しようと考えるから、手に負えないのであって、発想を変えて、最初から雑草が生えてこない環境を作ればいいと考え直し、「抑草(よくそう)」の方法をさがしたという。

そもそも、どうして田んぼに水をはるのかという点から考え直している。
稲の成長に必要だからだろうか。
いや、「陸稲(おかぼ)」という畑で育つ稲もあるから、稲に水を飲ませるだけなら、田んぼ全体に水をはる必要はない。
田んぼに水をはるのは、土と空気を遮断するためだとする。つまり、土が空気にふれると、「畑雑草」や「乾性雑草」とよばれる、乾燥を好む雑草が育ってしまう。
水をはれば、畑雑草は生えてこない。「水田雑草」や「湿性雑草」よばれる、湿気を好む雑草だけを警戒していればいい。
水をはることで、畑雑草を抑草することになる。
(これこそ、アジアの先人たちが水田を選んだ理由であると説明している)

では、水田雑草のほうは、どう抑草すればいいのか?
当時、「いかに農薬をつかわず除草するか」という本はたくさんあったが、「雑草が生えない環境を作る」という発想の本はなかったようだ。
だから、水田雑草の生態を解説した本を読み、「雑草の種子が発芽するには、光、温度、水分、酸素が必要である」と書いてあったことを、逆転の発想で、その発芽条件をうばってみることを思いついたという。

「コナギが減ればヒエが増える」と題して、ヒエとコナギという雑草の抑草について、示唆的なことを述べている。
あるおもしろい出来事があったようだ。
友人の田んぼがだいぶ斜めになったので、土を入れて、トラクターで何回も水と混ぜて土をやわらかくしたところ、去年までヒエだらけだったその田んぼに、今年はまったく生えてこなかったという。

除草剤は一切まいていないのに、ヒエがまったく生えなかったのはなぜか?
土を何回かかき回したことにより、雑草が発芽しようとしても、底に沈んでしまい、水を入れてかき混ぜたことにより、土から空気がどんどん抜けたらしい。
(「還元状態」とよばれる、酸素のない状態になる)
ヒエの場合、光はあまり必要でないが、酸素は不可欠だといわれる。逆に、還元状態では発芽できない。

雑草によって発芽にもとめる条件は違うが、ヒエ対策としては、1週間おきに3回ぐらい代かきをやって、酸素がつねに足りない環境にすることであるとする。

一方、コナギの発芽条件は、ヒエと正反対である。つまり酸素は不要なのに、光が必要である。
本には「コナギは代かきが大好きだ」と書いてあったそうだ。コナギの種は水を吸うとふくらんで、風船のようにフワフワと水中をただよい、代かき後に土が沈殿していったあと、最後に土の上に落ちてくる。こうして発芽に必要な光を確保しているようだ。

そこで風船が浮かべないように、水の量を減らして、超浅水で代かきをする。浮かべなければ、最上面を確保できないので、コナギは発芽できなくなるらしい。
代かきが大嫌いな雑草と、代かきが大好きな雑草が相手では、両立は難しい。コナギが激減したけど、ヒエが生える。あるいは、その逆。

この問題を解決したのは、「表層耕起」という耕し方であったそうだ。
田んぼを浅くしか耕さないと、田植え後にフワフワの土が2センチほど盛り上がってきて、雑草の種をおおい隠してしまう。こうなれば酸素も光もとどかなくなるという。
松下氏が専業になって3年目には、ほとんど雑草が生えなくなったと記している(代かきはその後も超浅水でやり、何回もやる必要はなくなったようだ)

表層耕起によりできたフワトロ層の土は、非常にきめ細かく、雑草の種より軽いため、種を上からおおってしまう。光と酸素の両方を遮断するので、コナギやヒエにかぎらず、どんな雑草も発芽できないそうだ。完璧な抑草が実現できたとする。

なお、稲の分げつ(茎が増えていくこと)がすすみすぎたときや、稲刈り前に地面を固めたいときなど、田んぼの水を抜くことがある。土が光や空気に接するのに、もう雑草は生えないそうだ(種は地面の下に埋もれてしまっているからであると松下氏は説明している)

土のなかの雑草の種は、眠った状態で、10~15年も生きつづけるものらしい。15センチも掘り下げれば、それだけの休眠種子を地表面に引き上げる。それに対して、5センチしか耕さなければ、寝た子を起こさないと、松下氏は表層耕起のメリットを説いている。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、48頁~58頁)


理想の反別収量


「第2章 雑草の生えない田んぼ」において、「「マジックナンバー」1反7俵」と題する節が興味をひいた。
全国どこでも、品質のいい米を作る農家は、収量をおさえているという。
数字もだいたい一緒で、雪の降らない土地で1反7俵、雪の降る土地で1反8俵だとする。雪の降る土地のほうが少し多いのは、寒いと代謝が落ちて、米粒もゆっくり充実するからである。松下氏の地元静岡では、稲穂が出て40日で稲刈りだが、東北では50~55日もかかる。時間をかけるぶん、デンプンが密につまった米になる。

松下氏がたずねた名人たちも口をそろえて、7俵(60キロ×7=420キロ)という数字をあげたそうだ。
7俵におさえておけば、虫に強いし病気も出ない。台風がきても倒れない。品質もいいから、高く売れる。リスクを回避したいなら、収量を落ちしたほうがいいようだ。「マジックナンバー」7俵は、バランスが絶妙な数字であることを強調している。

7俵は、420キロである。
松下氏の場合、1坪に50株植えるので、1反(300坪)だと1万5000株を植えることになる。1万5000株で420キロの収穫をめざすのだから、1株でとれる米の総重量が28グラムであればよい。

米粒の重さは、品種ごとに調べられている。1000粒の重さを基準にするので、「千粒重(せんりゅうじゅう)」とよばれる。
例えば、黄金晴の千粒重は21グラムぐらいである。目標とする28グラムは、1300粒強の重さである。つまり、1株に1300粒ついていればいいわけである。
ちなみに、コシヒカリの千粒重は21グラム程度で、酒米の山田錦のそれは、米粒が大きいので、26グラムもある。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、42頁~46頁、168頁)

コシヒカリについて


コシヒカリが昭和30~40年代に登場したとき、多くの人が「こんなおいしい米が存在したのか!」と腰を抜かしたようだ。
コシヒカリは、そもそも新潟県の中山間地(ちゅうさんかんち)で育てるために導入された品種であった。
中間山地は水が冷たく、土地は痩せていて、日照時間も少ない。
ただ、どんなにがんばっても少ししかとれない土地のほうが、米はうまくなるそうだ。肥料過多にならないため、タンパク質の含量が少ない。
いまでは平場でも栽培されているが、最初に出て来たコシヒカリは中山間地で作ったものである。
(松下氏によれば、静岡県藤枝市もこの条件を満たしているという。ただでさえ痩せた土地なのに、いわゆる「ザル田」だから、水と一緒に肥料が抜けてしまうらしい。古くは志太(しだ)郡とよばれた地域で、戦前から戦後にかけて「志太米」は有名であった。寿司米に最適だとして、東京の米屋が買いにきたそうだ)
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、44頁)

おいしいお米とタンパク質の関係


化学肥料を大量投入して、1反12~13俵も収穫する農家が珍しくない。
しかし、量と品質は反比例の関係にある。
米はデンプンの塊である。ただ、肥料を入れすぎると、米粒にふくまれるタンパク質が過剰になり、味が落ちるとされる。

例えば、食味計では、脂肪酸や水分やデンプンなどの物質を計測するが、中でも、もっとも重視されるのが、タンパク質の含量である。
ふつうは、6%台後半だとされる。7%になると、パサパサしておいしくない。5%台だと、粘りがあって、誰もがおいしく感じられるという。

このタンパク質の量と関係してくる稲作作業として、稲刈りがある。
稲刈りの最大のポイントは、刈り遅れをしないことである。
つまり、刈り遅れると脂肪酸が増え、品質は劣化する。栄養分を送りこみすぎるとタンパク過剰米にもなるそうだ。収穫を先送りすればするほど、「過熟(かじゅく)」がすすむ。

このしくみについて、松下明弘氏は次のように解説している。
米粒というのは、稲の種であり、稲も生きものだから、子孫を残そうとする。種が完成した段階で、その種をばらまくことを考える。
タンポポのように軽い種は風に乗るが、稲は種が重いため、そうはいかない。そこで、自分の体をバタンと倒し、その勢いで脱粒(だつりゅう)して種を飛ばそうとする。現代品種は改良されて倒れなくなっているが、原始的な品種は倒伏の性質を残しているようだ。
遠くへ飛ばすには、種は少しでも軽いほうがいい。そこで種の水分を減らす。過熟がすすめば、乾燥もすすむ。そして、水分の少ない米は、加湿や乾燥といった刺激があると、半分に割れる。
(これを「胴割れ[どうわれ]」という。精米したときの歩留まりが悪くなる)
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、43頁、145頁~146頁)

【ポイント】


〇肥料の量とお米の品質は反比例の関係(肥料を入れすぎるとタンパク質が過剰になり、味が落ちる)
〇稲刈りの最大のポイントは、刈り遅れをしないこと
〇刈り遅れ⇒「過熟」⇒タンパク過剰米・脂肪酸増加⇒品質の低下(おいしくないお米)
〇稲の保存のため⇒種の水分軽減⇒「過熟」の進行⇒乾燥の進行⇒「胴割れ米」

稲刈り後の収穫した米粒には、まだもみ殻がついている状態である。収穫後は、乾燥機に入れる。
収穫したばかりのときは、早生(わせ)だと27~28%、晩生(おくて)だと22~23%の水分を含んでいる。これを14~15%まで落とすとされる。

収穫してすぐ乾燥させるのは、ふたつの目的があるそうだ。
①長期貯蔵のため
②もみ殻をむきやすくなるため

①昔はもみ殻をつけたまま貯蔵したが、現代ではもみすりし、玄米にして冷蔵庫で貯蔵する。このとき、食味を落とさないレベルまで、水分を落としておくと、カビにやられない。
②水分を落とすと、もみ殻と玄米のあいだにすき間ができ、もみ殻をむきやすくなる。
(水分が多い状態でむくと、玄米まで傷つけてしまう)
このふたつの目的があって、収穫後の米粒を乾燥させるのだとされる。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、148頁~149頁)

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ロジカルな田んぼ 日経プレミアシリーズ

玄米食のススメ


玄米食は、非常に理にかなった食事法である。
白米はデンプンの塊だから、エネルギー源としては、申しぶんがない。
ところが、ミネラルやビタミン、アミノ酸など、米の栄養分の8割がたは、胚芽やヌカに含まれている。
(精米してから食べるのは、栄養分のほとんどを捨てているのと同じである)

人間の体は20種類のアミノ酸で作られている。
このうち9種類は、人間が体内で合成できない。食事で摂取するしかないので、「必須アミノ酸」とよばれる。この必須アミノ酸のすべてが玄米には含まれる。
リジンだけは、必要量の半分しかないようだ。リジンの塊である大豆で補えばよい。

玄米を主食に、味噌汁でリジンと塩分を補い、菜っ葉でビタミンを補う。日本の伝統食はパーフェクトだった。それだけ食べていれば、1日生きて、働けるだけの最低限のエネルギーは確保できた。
胚芽の部分には、ビタミンB1やビタミンB2が多い。
(「カミアカリ」といった品種の巨大胚芽だと、ふつうの3~4倍のビタミンがとれるそうだ。高血圧を防ぎ、脳の血流をよくする物質として話題の「GABA(γ-アミノ酪酸)」についても同様らしい
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、207頁~208頁)

米ヌカの効用


「第2章 雑草の生えない田んぼ」において、「米ヌカで酸の海に」と題して、米ヌカの効用について述べている。

微生物は有機肥料を分解してくれるだけでなく、抑草にも役立つそうだ。
玄米を精米すると、大量の米ヌカが出る。
松下氏は、専業農家になる前後の時期から、米ヌカを田んぼに戻すようになったという。

米粒とは、稲の種であり、その種が発芽したとき、初期に育つための栄養がたっぷりふくまれている。だから米ヌカを稲のエサにするのは理にかなっていると理解している。
昔から「田んぼのものは田んぼに返せ」といわれてきた。

また、松下氏によれば、米ヌカは抑草に大きな効果を果たしていたとする。
米ヌカにくっつている乳酸菌や、米ヌカをエサにする酢酸(さくさん)菌が、土に増える。それらの菌は乳酸や酢酸を出し、土壌を酸性にかたむけるようだ。
(松下氏は、米ヌカ不足に悩まされているという。1俵60キロの玄米を10%精米したら、6キロの米ヌカが出るが、肥料に毎年2トンちかい米ヌカをつかう。米の消費量が落ちているため、精米所で出てくる米ヌカの量も減っているというのだ)

ところで雑草の種は硬い殻で守られているため、その内部にとどまっているかぎりは安全である。しかし、その殻から発芽してくるのは、やわらかくて弱い細胞である。その雑草が発芽したときに、周囲が酸の海だったら、細胞膜が破壊されてしまう。

ある程度まで育ったあとなら、細胞のひとつやふたつこわれても、大勢に影響はない。でも、最初の1個がこわされてしまうと、もう成長できなくなるらしい。植物にとって発芽というのは、大きな冒険である。
要するに、乳酸、酢酸、酪酸などの有機酸が田んぼに増えると、雑草の発芽が抑制される。
(このメカニズムの説は、栃木県の民間稲作研究所の稲葉光圀氏の著作にあるそうだ)

さらに、微生物は米ヌカなどの有機物を分解する過程で、さかんに酸素を消費する。
田んぼに水をはったあとだと、地表から5センチの狭い範囲が還元状態になるようだ。
⇒これもヒエの発芽条件をうばっている!
微生物は本当に働きものだと松下氏は感心している。

ところで、稲も植物だから、同じことをやられたら、発芽できないはずである。
しかし、稲だけはべつの場所で発芽させ、苗にしてから田んぼに移植されるから、問題は起きないという。
抑草は、田植えを前提とした技術であることを強調している。

松下氏が、先祖から受けついだ田んぼは1町6反(1.6ヘクタール)だったが、近所の田んぼを借りるなどして、平成25(2013)年は9町歩を作ることにしたそうだ。
ただ、借りる田んぼは慣行田だったから、有機物は不足しているし、微生物も棲みついていない。
そこで、乳酸菌で、土壌の体質改善をやったとのこと。乳酸菌を培養する場合、次のことを行ったそうだ。
牛乳(5リットル)と米ヌカ(両手いっぱい)を容器に入れる。米ヌカについている乳酸菌が種菌(たねきん)となり、増えていく。5日から1週間たつと発酵がすすみ、乳酸菌をふくんだ水分である乳清(にゅうせい)が3.5リットルとれる。
この乳清に水を足して70リットルにし、米ヌカ150キロ、焼き米粕(かす)150キロを混ぜるという(焼き米粕とは、玄米茶の工場で玄米を炒るとき、火が入りすぎたりしたものだという)。
米ヌカや焼き米粕は乳酸菌のエサになる。このエサ付きの乳酸菌を、トラクターの肥料散布機に入れて、3反の広さの田んぼにまき、軽くすき込むそうだ。

ちなみに、乳酸菌は、ほかの菌の繁殖をふせいでくれる。乳酸菌は、非常に強い菌で、それに勝てるのは黄色ブドウ球菌や O-157など、食中毒を起こすほど強力な菌だけで、ふつうの菌はまず勝てないらしい。
人間でも乳酸菌飲料を飲むが、あれは胃腸のなかに乳酸菌をひろげ、悪玉菌が増えないようにしている。
人間の胃のなかの乳酸菌と、田んぼの乳酸菌は種類が違うが、狙うところは同じで、春先に田んぼへ乳酸菌をまくと、ほかの菌が活動できなくなる。
乳酸菌に居場所を確保してもらって、あとで肥料にふくまれる麹菌や酵母菌が活発に動けるようになるという。麹菌や酵母菌も稲と共棲している菌で、それらが活躍できれば、有機物を分解するのを待てばよいようだ。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、68頁~72頁、80頁~81頁)

酒米の山田錦


「第5章 山田錦の魅力」(151頁~180頁)では、酒米の山田錦について述べている。
酒米というのは、高級な日本酒を造るための米である。
そもそも酒米という概念は、明治時代まで存在しなかったそうだ。それまでは、食べるために米を作り、あまったぶんを酒造りにまわしていた。
明治時代の「渡船(わたりぶね)」「山田穂(やまだにしき)」など、山田錦の親にあたる世代が、酒造専用に作られた最初の品種であるようだ。
(渡船は江戸時代にも栽培されていた記録があるが、そのころは食用米として作られていたらしい)
現代でも、酒米は、米の全生産量の1%程度しか作られていない。日本酒の7割がたは、ふつうの食用米で作られている。

ところで、酒米は米粒を大胆に削ることが大前提である。
もったいないが、米の表面にはタンパク質や脂質が多いので、そのままつかうと雑味になるからである。すき通った味わいにするには、表面を削り、純粋なデンプンだけを使用する必要がある。
削ることが前提にあるなら、酒米の米粒は大きいほどいい。実際、コシヒカリの千粒重は21グラム程度だが、酒米の山田錦は26グラムもあるそうだ。

また、粘り気のない米のほうが、麹菌となじみがいいといわれる。
米粒の中心に「心白(しんぱく)」というすき間のあるほうが、麹菌が入りやすい。酒米の条件として、最大の条件は粒が大きいことである。

われわれが食べている白米は、玄米の表面10%ぐらいを削ったものである。これを「精米
歩合」90%と表現する。大吟醸酒ともなれば、精米歩合40~50%という世界である。つまり米粒の半分以上を削るわけである。だから大きくないと、粉々になってしまう。

酒米として登録されている品種は、100ちかくあるそうだ。
生産量では、1位の「五百万石」と2位の「山田錦」で6割を占める。
五百万石は、昭和32(1957)年に新潟県で生まれた品種である。新潟県の米生産量が500万石(80万トン)を突破したことを記念して、このネーミングになったといわれる。味もいいし、収量も多い。早生だから北国でも作れる。

五百万石と山田錦とは、どこが違うのか?
そのもっとも大きな違いは、五百万石は現代品種であるという点であるという。
化学肥料・農薬がつかわれる時代になってから生まれた品種だけに、「耐肥性」がある。肥料を多めに入れても、問題が起きにくい。
酒米にかぎらず、稲は肥料をたくさん入れると、収量は増えるけれども、背が伸びて倒れやすくなる。
倒れると、コンバインで収穫するときに支障が出る。だから肥料を入れても倒れないことが、現代品種の必要条件とされる。

一方、山田錦とは、どのような酒米なのか?
山田錦は、大正12(1923)年に交配がはじまり、昭和11(1936)年に兵庫県で登録された古い品種である。
化学肥料・農薬が普及する前だから、耐肥性がない。現代品種とくらべると野性が残っていて、肥料を入れただけ吸ってしまう。裏をかえせば、少ない肥料でよく育って、味がよく、収量もそこそことれる。これで当時は満点だった。たしかに倒れやすい性質はあるが、当時は手刈りの時代だから、立っていようが倒れていようが、手間は変わらなかった。

古い品種である山田錦に、現代農業の感覚で化学肥料を入れるのは厳禁である。
というのは、どんどん肥料を吸って大きくなり、風が吹いたら倒れ、病気にも害虫にも弱くなるからである。
(実際に本場の兵庫県以外に、静岡県でも何人か、山田錦に挑戦した人がいたが、コシヒカリ並みの化学肥料を入れて、その性質を無視して、失敗したという。山田錦は米にできれば御の字といわれるほど、難しい品種であったようだ)

松下氏の稲作は肥料をおさえる手法だから、山田錦によくフィットしたそうだ。イモチ病やカメムシに弱い性質は、強い体に育てることでクリアできた。結局、松下氏が静岡県ではじめて栽培に成功することになった。そして、有機・無農薬では、全国初であった。
(有機・無農薬で山田錦を作るのは、今でも非常に珍しいらしい。その後、全国的に栽培されるようになったが、少なくとも減化学肥料・減農薬で作っているとのこと)

山田錦は気難しい品種である。耐肥性がないだけではない。「脱粒(だつりゅう)」という性質もある。
脱粒とは、稲穂がみのると、尖端からボロボロこぼれてくる性質のことである。現代品種は人間の収穫を待ってくれるが、山田錦には自分の子孫を残す本能が強いので、油断すると種をばらまかれてしまう。

そして発芽能力も異様に高い。稲刈り直前に3日ぐらい雨がつづくと、米粒が穂についたままの状態で発芽してしまう(「穂発芽(ほはつが)」という)。
胚芽の部分が水を吸いこむと、糖化酵素アミラーゼが分泌され、米粒のデンプンを分解する。発芽して成長するためのエネルギーを用意する。デンプンの密度が低くなるから、精米したときに破砕してしまうのである。

ここで、酒の品質と精米との関係で問題が発生すると解説している。
大吟醸酒は精米歩合が40~50%であることは先に言及したが、その精米歩合は、精米機が判定する。その際、米を削ったヌカの重量ではかっている。米の全重量の半分のヌカが出てきたら、50%精米が終わったと判断している。しかし、破砕しやすい米は精米機のなかで粉々になって、ヌカと一緒に出てゆき、出てくる重量ばかり増えることになる。精米機に残っている米はまだ50%も削られていないのに、50%精米が終わったと判定されてしまう。当然、日本酒の品質は落ちる。

だから、玄米にした時点で、ひとつも胴割れ米が見当たらないぐらい、品質に気をつかう必要がある。
穂発芽しなかったとしても、刈り入れが遅れたら胴割れ米は増える。松下氏が、稲刈りに神経質になるのは、品質のバラツキをおさえるためであると強調している。
(松下氏は、山田錦という世話の焼ける品種を作っていると、植物が本来もっている生命力を実感するという。山田錦の野性味を知ってしまうと、飼いならされた現代品種はつまらなく感じるそうだ)

背が低いほうが喜ばれる現代品種と違い、山田錦は背が高くて、キリンの首のように穂が伸びる。現代品種は葉っぱよりも下に稲穂がつくが、山田錦は葉っぱの上に稲穂が出る。もみ殻の表面には細かい毛(穎毛[えいもう])が生えているが、山田錦はその毛も長く、夕日が当たると感動的なぐらいに輝き、まさに黄金色の田んぼになるそうだ。

ところで、松下氏は、山田錦が台風被害にあった体験を記している。
それは、平成23(2011)年9月21日、藤枝市を直撃した台風の時である。風速45メートルもの暴風が吹き、早生の稲刈りは終わっていたが、中生と晩生はまだであった。翌日見にいくと、稲穂や葉っぱの先端がちぎれ飛んでいたが、倒れたものは1本もなかったようだ。根っこが強いから、地上部を引きちぎられても倒れなかった。
山田錦は、穂が出て20日目ぐらいであった。米粒にデンプンを半分ほど送り終わった時期である。そんなときに穂先を強風で叩きつけられると、穂先の米粒は未熟のままかたまってしまう。そこで稲はもう養分を送っても無駄だと考えて、穂の先端3分の1は殺してしまうものらしい。育ちそうな米粒にだけ養分を送るようになる。

米粒にデンプンがつまらなければ、それはクズ米になり、売りものにならない。
例年、山田錦のクズ米率は12~13%だが、この年は倍の24%にも達したそうだ。収穫の4分の1がクズ米である。
ところが残された76%の米粒へ懸命に養分を送りこんだ結果、いつもより質のいい米になったという。

植物はピンチになると、逆にがんばる生きものである。
根っこが強ければ、自分の力で挽回できる稲になると強調している。
初期に根っこさえ育てておけば、地上部は梅雨明けぐらいからグーッと伸びて、慣行田の稲にすぐ追いつけるという。
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、132頁~133頁、167頁~173頁、205頁)

お米の多様性が消えた理由


松下明弘氏は、「第7章 多様性をもとめて」(213頁~237頁)の中で、日本では戦後なぜお米の多様性が消えたのかについて解説している。以下、紹介しておこう。

かつては全国各地で、その土地に合ったさまざまな品種が作られていた。近代になって品種登録された稲は800種ほどあるが、そのうち今も残るのは500種ぐらいといわれる。
(品種登録という概念のなかった江戸時代以前には、もっとたくさんあったようだ)

作家の石川英輔氏は『大江戸番付づくし』(講談社)で江戸時代の「米どころ」について書いている。
そのランキングによれば、東の大関は遠州掛川米で、西の大関は肥後米である。
(江戸時代に横綱は存在しなかったので、最高の位は大関)
三河米や美濃米も人気が高かったらしい。今の静岡県、愛知県、岐阜県など東海地方が、意外と上位に食いこんでいる。
なお、東北は皆無に近いのは、当時の東北は冷害に耐えられる品種がなかったから。米どころになるのは戦後である。

また、室町時代までは、近畿の米が一番うまいとされていた。江戸時代になって、全国で新田開発がすすみ、東海の米がそれに代わった。
(新しくひらいた土地は土が生きているから、新しい味が生まれる。それが新鮮に感じられるために、米どころは移り変わってきたようだ)

戦前のお米は、土地による多種多様な味があったといわれる。いわゆるテロワールが当たり前に存在していた。
しかし、その多様性が戦後、消えてしまった。
その理由は何か。二つあるといわれる。
①化学肥料・農薬の普及
②品種の多様性の消失

②について、松下明弘氏は「コシヒカリ・ファミリーの天下」と題して、次のように説明している。
まず資料として、平成21(2009)年に農水省が調べた品種別の収穫量を掲載する。
 1位コシヒカリ(36.5%) 2位ひとめぼれ(10.0%) 3位ヒノヒカリ(9.5%) 4位あきたこまち(7.8%) 5位はえぬき(3.1%) 6位キヌヒカリ(3.0%) 7位ななつぼし(2.4%) 8位きらら397(2.0%) 9位つがるロマン(1.8%) 10位まっしぐら(1.4%)

全収穫量の4割ちかくがコシヒカリである。
さらにトップ5だけで7割ちかく、トップ10で8割ちかくを占めている。
(500品種あるといっても、その中のごく一部しか栽培されていない)
しかも、2位以下の9品種にはすべて、交配の過程でコシヒカリの系統が混じっているそうだ。どれも、コシヒカリの子や孫、ひ孫にあたる。
コシヒカリ・ファミリーだけで、日本の米収穫量の8割(ママ)ちかいのである。
11位以下まで調べたら、この数字ももっと大きくなる。

【参考】コシヒカリの系統と「きぬむすめ」


ウィキペディアによれば、コシヒカリの子品種としては、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、孫品種としては、はえぬき、キヌヒカリ、ひ孫品種としては、きらら397がある
 なお、きぬむすめは、キヌヒカリの系統で、その特徴は次のようなものである。
〇きぬむすめは、キヌヒカリの後代品種となることを願って、「キヌヒカリの娘」という意味で命名された。
〇2006年3月7日、九州沖縄農業研究センターが育成した新品種である。
〇交配系譜としては、きぬむすめ(水稲農林410号)は、愛知92号(後の「祭り晴」)とキヌヒカリを交配させたものである。
〇コシヒカリ(水稲農林100号)並みの良食味と、作りやすい優れた栽培適性をもっているのが特徴である。コシヒカリより1週間程度晩生である。

全国どこでもコシヒカリである。
たしかにコシヒカリは偉大な品種である。
登録されたのは、昭和31(1956)年で、60年以上前である。
いまだにこれをこえる品種があらわれず、これだけ1品種の人気が持続したことは、かつてないようだ。

まだ米の自給もできず、「食えるものがあればいい」という時代に、いきなりコシヒカリが登場した。

コシヒカリの特徴


コシヒカリの特徴について、松下氏は次の点を挙げている。
〇あんなに粘り気がある米はそれまで存在しなかった。そして、あんなに甘くてやわらかい米も存在しなかった
〇しかも、初期に出まわったのは、「どんなにがんばってもまずく作れない」中山間地の米
〇そのデビューは衝撃的。昭和40年代に「こんなにおいしい米があるのか!」と口コミでひろがっていく。コシヒカリが「幻の米」として話題になった時点で、中山間地だけでなく、平場の農家も作りはじめる(こうして、新潟県を代表する品種になる)
〇昭和50年代は「ササニシキ」の人気も高く、「コシ・ササ時代」とよばれた。
 (しかし、今やササニシキの作付面積はピークの15分の1。平成5(1993)年の記録的冷夏で壊滅的な打撃をうけて、人気が離散したそうだ。その後もコシヒカリがトップの座を守り続けているのと対照的。)

アンチ・コシヒカリの本命はまだ登場していない。
松下明弘氏が可能性を感じるのは、「旭」だという。
戦前、「東の亀ノ尾、西の旭」と並び称された品種である。
コシヒカリの粘りを重たく感じる人は、シャキシャキとキレのある旭系統を好むといわれる。

米の好みにも地方色があって、東では、コシヒカリのような口どけのいい米が好まれる。一方、西では硬めで歯ごたえのある米が好まれる。
(静岡では、旭系統の米が昔からよく食べられているそうだ)
(松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社、2013年、226頁~232頁)

【まとめ】


松下明弘氏の著作には、稲作の基本的な考え方と「おいしい米づくり」のヒントが隠されている。以下、私が読んで勉強になった点を挙げておく。

〇代かきの最大のポイントは、水平をとることである。ここで時間をかけるから、除草時間がゼロですむようだ。つまり、水平さえとっておけば、肥料がよくきくし、雑草も劇的に減るとのこと。

〇日本人は、わざわざ苗を移植している。日本の田植えは、フライング・スタートであるという。「直播」の欧米の稲作は、雨の少ない地域でおこなわれているが、日本のような湿気の多い土地で「直播」は難しい。その理由は、同じ条件で、スタートすれば、稲より雑草のほうが先に育ってしまうからである。

〇ヒエの場合、光はあまり必要でないが、酸素は不可欠だといわれる。逆に、還元状態では発芽できない。雑草によって発芽にもとめる条件は違うが、ヒエ対策としては、1週間おきに3回ぐらい代かきをやって、酸素がつねに足りない環境にすることであるとする。

〇「マジックナンバー」1反7俵が目安である。品質のいい米を作る農家は、収量をおさえているという。名人たちも口をそろえて、7俵(60キロ×7=420キロ)とする。
7俵におさえておけば、虫に強いし病気も出ない。台風がきても倒れない。品質もいいから、高く売れる。リスクを回避したいなら、収量を落ちしたほうがいいようだ。
「マジックナンバー」7俵は、バランスが絶妙な数字である。

〇米はデンプンの塊である。ただ、肥料を入れすぎると、米粒にふくまれるタンパク質が過剰になり、味が落ちるとされる。

〇このタンパク質の量と関係してくる稲作作業として、稲刈りがある。
稲刈りの最大のポイントは、刈り遅れをしないことである。
つまり、刈り遅れると脂肪酸が増え、品質は劣化する。栄養分を送りこみすぎるとタンパク過剰米にもなるそうだ。収穫を先送りすればするほど、「過熟」がすすむ。
そして、刈り入れが遅れたら胴割れ米は増える

先にも【ポイント】として次のように要約しておいた。
●肥料の量とお米の品質は反比例の関係(肥料を入れすぎるとタンパク質が過剰になり、味が落ちる)
●稲刈りの最大のポイントは、刈り遅れをしないこと
●刈り遅れ⇒「過熟」⇒タンパク過剰米・脂肪酸増加⇒品質の低下(おいしくないお米)

〇稲は肥料をたくさん入れると、収量は増えるけれども、背が伸びて倒れやすくなる。
倒れると、コンバインで収穫するときに支障が出る。だから肥料を入れても倒れないことが、現代品種の必要条件とされる。

〇古い品種である山田錦に、現代農業の感覚で化学肥料を入れるのは厳禁である。その理由は、どんどん肥料を吸って大きくなり、風が吹いたら倒れ、病気にも害虫にも弱くなるからである。
背が低いほうが喜ばれる現代品種と違い、山田錦は背が高くて、キリンの首のように穂が伸びる。現代品種は葉っぱよりも下に稲穂がつくが、山田錦は葉っぱの上に稲穂が出る。

【松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社はこちらから】

ロジカルな田んぼ 日経プレミアシリーズ


《2020年度 わが家の稲作日誌 その1》

2020-12-28 17:08:13 | 稲作
《2020年度 わが家の稲作日誌 その1》
(2020年12月28日投稿)




執筆項目は次のようになる。


・【はじめに】
・【2020年の稲作行程・日程】
・【2020年の稲作の主な作業日程の写真】
・2020年の稲作をふりかえって
・田植え後の水管理
・田んぼの雑草
・【2020年の稲の生長記録の写真】






【はじめに】


 今年は新型コロナウイルスの問題で振り回された一年であった。いまだ収束の兆しは見えない状況である。
 稲作は自然が相手なので、3密は回避できるものの、地域や会合の場ではどうしても注意しなくてはならない場面も当然でてきた。
 去年、父親を亡くして、田んぼを引き継ぎ、耕作することになった。田植えと稲刈りはどうしても機械がないとできないので、委託している人のお世話になりつつ、田んぼの水管理、草刈りは自分一人でせざるをえない。やはり自然が相手だから、人間の思うようには事は運んでくれない。せめて、天気の情報などをきちんと知ってから、田んぼの管理に反映させることとなる。
 去年よりは、「おいしいお米」「安心して食べられるお米」をめざして、稲作に励むこととなる。経験不足は知識で補わざるをえない。そこで、今年は2冊の本を読んで勉強してみた。
それが、次の2冊である。
〇松下明弘『ロジカルな田んぼ』(日本経済新聞出版社、2013年)
〇佐藤洋一郎『稲の日本史』(角川選書、2002年)

上記の2冊については、次回以降のブログで、次のような執筆項目で詳述したい。
≪その2 松下明弘『ロジカルな田んぼ』を読んで≫
・松下明弘氏の『ロジカルな田んぼ』という著作
・松下明弘氏のプロフィールと『ロジカルな田んぼ』
・静岡県の専業農家松下明弘氏の年間スケジュール
・代かきの重要性
・なぜ田植えが必要なのか
・松下氏による雑草対策
・理想の反別収量
・コシヒカリについて
・おいしいお米とタンパク質の関係
・玄米食のススメ
・米ヌカの効用
・酒米の山田錦
・お米の多様性が消えた理由
・【参考 コシヒカリの系統と「きぬむすめ」】
・【コシヒカリの特徴】
【松下明弘『ロジカルな田んぼ』日本経済新聞出版社はこちらから】
ロジカルな田んぼ 日経プレミアシリーズ

≪その3 佐藤洋一郎『稲の日本史』を読んで≫
・佐藤洋一郎氏のプロフィール
・佐藤洋一郎氏の『稲の日本史』の特徴
・「稲の日本史」の年表
・イネの収量
・反収あたりの最高記録
・水田の維持と除草
・水田耕作のこころ――1本のヒエも許さないことの意味
・モチ米とウルチ米 2種類のデンプン
・調理の方式
【佐藤洋一郎『稲の日本史』はこちらから】
稲の日本史 (角川ソフィア文庫)


こうした“座学”を勉強しつつ、今年の稲作行程を振り返ってみたい。


【2020年の稲作行程・日程】


2020年の稲作行程・日程を箇条書きに書き出してみた。

・2020年3月8日(日) 曇り 12℃
  8:00~9:30 袋路の水路そうじ 
・2020年3月12日(木) 晴 15℃
  10:00 春耕作の依頼に伺う 
・2020年4月22日(水) 曇り 12℃
  14:00~15:30 一人で草刈り  
・2020年4月24日(金) 晴 13℃
  依頼人により畦塗り終了
・2020年4月27日(月) 晴 19℃
  14:00~16:30 草刈り仕上げ  畦の斜面の草刈り、キックバックに注意
・2020年5月 7日(木) 晴 12~19℃
  11:45 依頼人より電話 水溜めを開始してよいとのこと 数日後に中切り
  14:30~15:00 水溜め開始  
  15:00~16:30 草刈り 田んぼの道と真ん中の畦 前回の干し草をゴミ袋に
  土嚢に土を入れ、水路に石と土嚢を置いて、水を溜め始める
  ※下の田の水溜めに特に注意すること(下の田んぼは水入りが少ない)。溜めすぎに気を付けること
・2020年5月 8日(木) 晴 21℃
  14:30~15:45 水溜めの袋替えと草寄せ 
・2020年5月 9日(土) 小雨 18℃
  9:45~10:15 水止め(水が十分溜まっている) 
・2020年5月13日(水) 晴 16~22℃
  午前中、依頼人により代かき終了
  14:45~15:45 水の調整   
(特に下の田んぼの北側の水の排水口は水が漏れるようなので、畦波板を鋏で切り差しておく)
・2020年5月17日(日) 曇り 16~21℃
  7:50 依頼人より電話あり 今日、田植えをするので、水の調整をすること
      水が多すぎるので、地がポツポツと見えるくらいに、しておいてほしいと
  8:00~9:30 上下の田んぼの水を少し抜いて調整
  依頼者により、田植え終了
・2020年5月21日(木) 晴 17℃
  11:00~ 水の調整
  14:30~17:00 田んぼの四隅の補植
   上の田んぼの北側は苗の活着が悪い 真ん中の畦に沿って列ごとに補植
  ※なお、カエルの卵や泡をすくい取り除く
・2020年5月23日(土) 晴 23℃
  9:40~10:40  水足し(下の田んぼ少ない)
・2020年5月24日(日) 晴 26℃
  10:00~10:30  水足し(上の田んぼ少ない)
・2020年5月25日(月) 晴 24℃
  9:45~10:15  水調整
・2020年5月27日(水) 晴 22℃
  14:20~15:20  水調整 北側の畦の草刈り
・2020年6月2日(火) 晴 17~27℃
  8:40 依頼人に春耕作代金の支払い
  9:00~10:00  水調整 
  14:30~15:30  草刈り
・2020年6月3日(水) 曇り 25℃
   9:20~10:20  水入れと草処理
・2020年6月4日(木) 晴 28℃ 暑い
   9:50~10:40  水入れと草処理(45ℓと30ℓのゴミ袋に)
・2020年6月8日(月) 晴 28℃ 
   10:00~11:00  水入れ
・2020年6月10日  ※中国地方の梅雨入り
・2020年6月12日(金) 曇り 26℃ 
   10:00~10:30  水入れ(とくに上の田んぼ)
・2020年6月14日(日) 雨 26℃ 
   10:30  水を見に行く
・2020年 6月 17日(水) 晴 26℃
   15:00~16:30草刈り
・2020年 7月 2日(木) 曇り 23℃ 湿度75% 半夏生
 10:30  中干し 水止めの土嚢を外し、石を取り除く
・2020年 7月 16日(木) 曇りのち晴 25℃ 
   14:10~15:45 草刈り(畦道)
・2020年 7月 30日(木) 晴 30℃ 湿度80% ようやく梅雨明け
・2020年 7月 31日(金) 晴 30℃ 湿度75% 
   9:50~11:10 草刈り(通り道)
 <注意>
・熱中症対策~30℃の中の日差しがきつい。マスクが汗でくっつき鼻を出さないと息苦しい
・刈り払い機のキックバックに注意~特に斜めの畦の草刈り
・ズボンの汚れ~飛沫してズボンに草や土がつく
・2020年 8月 3日(月) 晴 25~32℃
  10:30~11:10  西廻りの境界の立ち合い
  14:00~15:30  水入れ(北側を土嚢で塞ぐ)と草刈り
・2020年 8月 4日(火) 曇り 27℃
  10:00~11:00  水入れを止める、草処分(ゴミ袋45ℓ)

≪稲作情報≫
〇出穂後のカメムシ類による吸汁被害を軽減するため、畦畔の草刈りは出穂10日前までに行うこと(『稲作だより』No.3 令和2年6月5日号)
〇きぬむすめは、最高分げつ期頃(5/5~7/7)に「茎数が少ない」「葉色が薄い」場合は、中間追肥を窒素成分で10a当たり1kg程度施用すること

・2020年 8月 7日(金) 曇り 28~31℃ 立秋
  9:30~11:00  田んぼが乾いていたので、水入れ(浅水管理を心掛ける)
 ※今日は立秋なのに、依然暑い。午前7時なのに30℃で湿度70%もあり、残暑が厳しく、秋の気配はない。本当に大暑→立秋→処暑と移り変わるのか、疑問に思うような暑さ。

・2020年 8月 11日(火) 晴 27~35℃ 湿度55% 出穂始まる
  10:00~11:00 上の田に水入れ 下の田は水が溜まっている
  ※上の田には、かなりヒエが生えている
・2020年 8月 17日(月) 晴 24~34℃ 湿度70% 
10:00~11:00 出穂が順調 下の田の水が少し少ないので入れる ヒエ伸びる
・2020年 8月 18日(火) 晴 25~32℃ 湿度82%
  10:00~11:00 出穂そろう 
・2020年 8月 24日(月) 晴 32℃ 
  15:00~16:30 草刈り(通り道以外) レーキを忘れ草寄せできず
・2020年 9月 5日(土) 曇り 30℃  土地区画整理総会出席
・2020年 9月 8日(火) 晴  32℃  水抜き
  10:20~10:50 水抜き(土嚢と石を外し、土を被せ注水口を塞ぐ)
 ※昨日は、七十二候で「白露」。台風10号接近。32℃で晴れたが強風が吹き荒れる。
  市内の最大瞬間風速も高く、近くの田んぼの稲は倒伏していた。県内ではビニールハウス被害も報道されていた。
・2020年 9月 10日(木) 曇りのち小雨  30℃  
  14:10~15:40  草刈り(進入路も草刈り。キックバックに注意) 
・2020年 9月 23日(水) 曇り  25℃ 
  10:00~11:30  草刈りとヒエ摘み、田んぼの中の雑草取り
  明日、明後日が雨の予報なので、午前中に草刈り
・2020年 10月 2日(金) 晴  14~27℃ 
  14:30~16:30  草刈り(特にコンバインの進入路)
  ※依頼人の奥さんに、来週の月曜日か火曜日で稲刈りをしてもらうようにお願いする
・2020年 10月 5日(月) 曇り  18~22℃ 
  8:00  依頼人より電話 今日は天気が良くないので、明日10:30から稲刈り予定
  14:30~17:30 四隅刈り(6株×8株で、4カ所+6ヵ所の合計10カ所)
 ※【手刈りをしてわかったこと】
  ・小屋の北側の稲の育ちが一番良い(きちんと水がたまり肥料も効いたかもしれない)
  ・小屋が建っていると、手刈りの面積が広くなり負担が大きくなる
  ・真ん中の畦があると、補植や草刈りの面積が広くなり負担が大きくなる(特に真ん中の畦の斜面は草刈りがしにくく、腰に負担がかかる)
 ※【その対策】
  ①小屋を撤去 ②真ん中の畦を取り、上下の田んぼの段差をなくす

・2020年 10月 6日(火) 晴  13~22℃ 
  8:30~9:30  依頼人夫妻に昼食を届ける 稲刈りの開始時刻を13:30に変更
  13:00~13:30 稲刈りの準備
  13:30~14:30 依頼人によりコンバインで稲刈り
  14:30~15:00 稲刈りの後片づけ
・2020年 10月 8日(木) 雨  19℃
  16:20 依頼人より電話(お米ができたとの電話あり。明日16時以降届けるとのこと)
・2020年 10月 9日(金) 曇り  20℃
  17:15~17:55 お米が届き冷蔵庫に入れる(反収15袋+2kg くず米29kg)
  ※今年は不思議なことにお米がよく乾燥していた乾燥機に入れて10分で終了したとのこと




2020年の稲作の主な作業日程の写真


〇2020年5月13日(水)晴21℃  代かき
〇2020年5月17日(日)曇り18℃  田植え
〇2020年8月11日(火)晴34℃~8月18日(火)晴32℃  出穂(田植えから87~94日目)
〇2020年10月6日(火)晴22℃  稲刈り(田植えから123日目)

〇2020年5月13日(水)晴21℃  代かき


〇2020年5月17日(日)曇り18℃  田植え


〇2020年8月11日(火)晴34℃~8月18日(火)晴32℃  出穂(田植えから87~94日目)


〇2020年10月6日(火)晴22℃  稲刈り(田植えから123日目)


2020年の稲作をふりかえって


2020年7月30日(木)晴30℃ 湿度80%

ようやく梅雨が明けた。今年の梅雨入りは6月10日(水)であった。昨年より、16日も早く、以来、延々と雨空が続いた。今年の梅雨は、6月10日から51日間で、期間中の降水量(速報値)は、松江739.5ミリ(平均409.9ミリ)で、約1.8倍あった。山陰地方は、1.5~2倍ほど上回ったそうだ。
(過去最も遅かったのは、1998年8月3日だそうだ。)
今年は、7月初めに熊本県南部を豪雨が襲い、被害が出た。7月14日、島根県も江の川支流が氾濫し、浸水被害に見舞われた。
日照不足で野菜の生育が悪く、トマト、ホウレンソウは前年比の2倍、キュウリも1.5倍の高値で推移している。
今年は、新型コロナウイルス感染で大変である。
①マスク着用
②手洗い
③「3密の回避」を実践したい。
さらに心配として、熱中症がある。酷暑、炎天下でのマスク着用は息苦しく、長時間は持たない。こまめな水分補給などの対策をして乗り切りたい。

【7月30日の写真と梅雨の明けた翌日7月31日の写真】
2020年 7月 30日(木)に、ようやく梅雨明けたので、翌日7月31日早速、草刈りをした。その前後の写真である


田植え後の水管理


田植え後の水管理についてのポイントをまとめてみた。
〇田植え後、水を更新しない
・苗が隠れるくらい深水しているから。
・水田が藁の分解で還元化して泡が発生する。還元化が激しいと、ドブのようになって根が育たない。それと風下に泡が寄って来て稲にくっ付いて呼吸困難になり、苗が消えてなくなる。

〇水管理
・最初は多少多くてもよいが、3~4日位で活着したら、極浅水(自然落水)で管理する。
・除草剤を撒いたら、4日程度は土が出ないように水を管理する
 この頃から、還元化・表層剥離が発生するので、土が絶対乾かないように浅水管理(除草剤効果が継続)
・還元化が激しくとも除草剤散布後、1週間は落水はしない。
・浅水で雨が降ると還元化が消え、表層剥離も消えるが、好天が続くと復活する。やむを得ない場合は、1日落水してその後は浅水で。

〇土づくり
・最近の土壌診断では、水田土壌の7割以上が鉄不足の傾向にあるようだ。
・良質で安定した稲作栽培には、鉄分の補給と、その他ミネラル等の成分を含んだ「土づくり肥料」による地力の底上げが必要不可欠。
・土壌が還元状態になると、硫化水素が発生する。すると、根に障害を起こし、ごま葉枯病や秋落ちの発生を助長することになる。

田んぼの雑草


・田植え後すぐの初期成育段階では、雑草に栄養を奪われ、稲の生育が阻害されてしまう
・稲作中期以降で稲の丈が伸びて雑草に負けなくなっても、今度は雑草が種を増やして収穫時に混じってしまったり、翌年に雑草が多く生えてきたりする。

ヒエについて


ヒエは、生育初期から稲刈り直前まで稲作で悩まされるイネ科の植物である。姿も稲に似ていて見分けづらいので、とても厄介な雑草である。
ヒエの見分け方は、根本の色であるようだ。ヒエは成長すると根本が赤くなる。その他の見分け方としては、生えている場所と手触り。稲は田植え機で植えるので、均等間隔で生えている。一方、ヒエは、自然に生えたものなので、稲同士の間隔をみて判断できる。また、ヒエは稲に比べて柔らかいので、慣れれば触った感じでも見分けることができる。

対策としては、手で抜くか、鎌で刈り取るか、またはクリンチャーなど、ある程度成長したヒエにも効く除草剤を撒くことくらいである。
・クリンチャーは、日産化学工業 1キロ1700円くらい
 
慣行栽培の田んぼでは、除草剤を散布することだが、無農薬栽培ではチェーン除草と米ぬか除草法を併用して対処できるそうだ。
米ぬかは窒素、リン酸、カリが多く含まれている。かといって加えすぎると、発酵が進み、田んぼから腐敗臭がすることがある(有機酸が発生して稲に悪影響)。
ちなみに米ぬかと同様に米のとぎ汁にも窒素、リン酸、カリが含まれている(家庭菜園では、肥し代わりに米のとぎ汁を与える場合もある)

【除草剤散布のポイント】
・水稲除草剤は圃場の水によって広がり、ゆっくり土壌に吸収され田面に「処理層」を作ることで効果を発揮する。
・上手に除草剤を効かせるポイントを守り。効果的に使用する必要がある。
・田面の凹凸がなくなり、均平となるよう耕起・代かきを丁寧に行なう。
・除草剤使用後7日間は止水し、除草剤が水田外に出ないようにする。
・水口・水尻をしっかり止め、5~7日間は5㎝程度の水深を確保する。
・入水が必要な場合は、ゆるやかに入水する。
・毎年、雑草が問題となる圃場や、代かきから田植えまでの期間が長くなる場合は、「体系処理」を行う。
(『稲作ごよみ』JA全農、2020年、6頁)

≪ヒエの写真≫
今年もヒエには悩むことになった。しかし、除草剤は今年も結局使用しなかった。


【2020年の稲の生長記録の写真】


ここで最後に、2020年の稲の生長記録を写真でたどっておこう。

・2020年4月17日(金)代かき前
 

・2020年4月24日(金)畦塗り終了後 


・2020年5月17日(日) 田植え


・2020年6月14日(日) 分けつが進行中
 
  
・2020年 6月 26日(金) 分けつが進行中


・2020年 7月 10日(金) 分けつが進行中


・2020年 8月 11日(火)~8月 18日(火)出穂が順調


・2020年 9月 4日(金) 稲穂の生長


・2020年 10月 2日(金) 稲穂の熟成


・2020年 10月 5日(月) 四隅刈り


・2020年 10月 6日(火) 稲刈り








≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その15≫

2020-12-27 18:02:05 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その15≫
(2020年12月27日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、フィレンツェの持参金について、考えてみたい。
 「モナ・リザ」のモデルとされるリサ・ゲラルディーニの持参金をめぐる問題、つまりリサの父親アントンマリア・ゲラルディーニは持参金をどのように用意したのだろうか、またリサの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドは、娘の持参金についてどのように考えていたのか、リサの娘には、修道院に入った者もいたが、リサはどのように娘を見守ったのか。
こうした点の解説は、ダイアン・ヘイルズ氏の本領が発揮されている。「モナ・リザ」の解説本の他の類書には見られない問題をヘイルズ氏は論じている。「モナ・リザ」を見る際に新たな視点を与えてくれることであろう。
 あわせて、フィレンツェ社会の特質についても述べておこうと思う。ヘイルズ氏は、リサの時代のフィレンツェ社会は、男性優位の家父長制社会(patriarchal society, Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)とみている。
 それでは、そのイタリアのルネサンス期の社会と文化の特徴はどのように捉えられるのだろうか。
最後に、この問題を考えるあたり、ピーター・バーク氏の『イタリア・ルネサンスの文化と社会』(岩波書店、1992年)をもとに、ルネサンス期のイタリアの600人の「文化的エリート」、すなわち画家、彫刻家、建築家、人文主義者、著述家などの芸術家、著述家を視野に入れて、検討しておこう。そして、この時代における女性の芸術活動についても触れておこう。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フィレンツェの持参金
・アントンマリア・ゲラルディーニとリサの持参金
・リサ・ゲラルディーニとその娘
・男性優位社会のフィレンツェ共和国
・ピーター・バーク氏によるイタリア・ルネサンスの文化と社会研究
・イタリアのルネサンス期の女性の芸術活動






フィレンツェの持参金


フィレンツェの経済社会を考える上で、興味深い章は「6 金銭と美貌」「11 家族の事情」で論じている持参金の問題である。結婚にまつわるトスカーナ地方の言い習わしに、「嫁をもらう人はカネを欲しがる」というのがある。フィレンツェの持参金について、簡単に紹介しておこう。

フィレンツェが作り出した美しい作品として、フローリン金貨がある。それは24金3.53グラムを含む金貨である。この金貨は何世紀にもわたって全ヨーロッパで珍重されてきた。時価は130~150ドルとされる。
フィレンツェでは、フローリン金貨さえあれば、何でも手に入った。
例えば、
・ラバ=50フローリン
・奴隷=60フローリン
・教会の祭壇背後の壁飾り=90フローリン
・紳士用の最高級マント=177フローリン
・大きな屋敷=3万フローリン

結婚には持参金が必要とされた。アントンマリア・ゲラルディーニ(1444年~1525年頃、リサの父親)の時代、新郎側は新婦側からの多額の持参金を期待するようになった。
14世紀から15世紀のフィレンツェで、持参金の額はうなぎ登りになる。1350年には350フローリンだった。しかし1401年には1000フローリンになり、15世紀最後の四半世紀には1400フローリンが相場になった。
貴族の家では、身分の低い階層との結婚を避けたかったから、2000フローリン(およそ27万ドルから30万ドル)を奮発する者もいた。

払う父親からすれば、頭が痛い。娘をうまく嫁がせることが、父親にとって最大の難題だった。高給取りの高級官僚や弁護士でさえ、何人も娘がいたら払うのに四苦八苦だった。
そこで、銀行というシステムを定着させたともいえるフィレンツェは実用的な便法を考案した。モンテ・デッレ・ドティ(持参金の山)と呼ぶ信託預金方式である。あらかじめ預金をしておくと、時間とともに利子でかなり増えていく。その仕組みとは、娘が5歳~10歳になると、父親は60フローリンから100フローリンの間の金額を預金する。銀行は、この資金を市の財政赤字の補塡として運用する。一方、預金者は、その預金が15年後に500フローリン、7年半で250フローリンに膨らむといった具合である。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、139頁~140頁)

なお、原文では次のように述べている。
Chapter 6: Money and Beauty
“Eccolo!” (Here it is!) the man beside me exclaims as we inch our way
up a stone staircase to the exhibit entrance. “The most beautiful thing
ever created in Florence!”
Suspended within a gleaming sheet of glass, a nickel-sized gold florin
shimmers in a perfectly positioned spotlight. For centuries the shiny coin,
containing 3.5 grams of 24-carat gold (worth $135 to $150 at today’s ex-
change rates), reigned throughout the Western world.
In their hometown, florins could buy anything: a mule for 50, a slave
for 60, a church altarpiece for 90, a gentleman’s cloak lined with the soft
fur of squirrel bellies for 177, a great mansion for 30,000. Everything had
a price ― including a prospective husband.

“Chi to’ donna, vuol danari” goes an old Tuscan dialect saying. He who
takes a wife wants money. As fathers in Antonmaria Gherardini’s time
realized, grooms and their families were demanding more denaro (money
in modern Italian) than ever. Dowry amounts escalated steadily from an
average of 350 florins in 1350, to 1,000 florins in 1401, to 1,400 florins in
the last quarter of the fifteenth century. An aristocratic family, anxious to
avoid the disgrace of marrying below their rank, could end up paying up-
ward of 2,000 florins (the equivalent, depending on exchange rates, of as
much as $270,000 to $300,000).
Fathers were getting desperate. “Nothing in our civil life is more diffi-
cult than marrying off our daughters well”, historian Francesco Guicciar-
dini goused. Even well-paid senior civil servants, lawyers, and university
professors couldn’t afford the exorbitant sums, especially with more than
one daughter at home.
The city that had practically invented banking came up with an in-
genious solutions: a savings fund, called the Monte delle Doti (literally,
Dowry Mountain), in which citizens made an initial investment that
grew substantially over time.
An Italian economist I meet at a group dinner explains to me how the
system worked: A father deposited an amount, ranging at different times
from 60 to 100 florins, when his daughter was five (the average age) or
younger, with exceptions up to age ten. Florence, which used the fund for
its debts and operating expenses, paid interest at variable rates, depend-
ing on how long the money remained in the account. A deposit of 100 flo-
rins, for instance, would yield a dowry of 500 florins over fifteen years or
250 florins over seven-and-a-half years.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.93-95.)

【単語】
gleam  (vi.)きらめく  (n.)微光、きらめき
shimmer  (vi.)ちらちら[かすかに]光る (n.)微光
mule    (n.)ラバ(雄ロバと雌馬との雑種)
altarpiece  (n.)祭壇のうしろの飾り(reredos)
cloak    (n.)(そでなし)外套、マント
fur    (n.)毛皮
squirrel   (n.)リス(の毛皮)
belly   (n.)腹、おなか
prospective  (a.)予期された、将来の
anxious   (a.)心配な(about)、熱望して、しきりに~したがって(to )
disgrace   (n., vt.)恥辱(を与える)
equivalent  (a., n.)同等の、同等の物、相当する物
desperate  (a.)絶望的な、死に物狂いの、必死の
gouse    (n., vi.)≪話≫不平(を言う)
civil servant 役人、公務員 senior civil servant 古参の役人
exorbitant  (a.)法外な、途方もない
invent   (vt.)発明する、こしらえる
come up with (考えなどを)思いつく、見つける、追いつく
<例文> He came up with a really creative solution to the problem.
     彼はその問題に対する非常に独創的な解決法を見つけた
ingenious (a.)器用な、巧妙な
substantially  (ad.)実体上、大いに
deposit  (vt.)置く、預ける (n.)堆積物、預金
account  (n.)計算、口座
yield    (vt.)産する、(利益を)もたらす

アントンマリア・ゲラルディーニとリサの持参金


ところで、フィレンツェで持参金預金制度(dowry financing)が導入されたのは、1425年である。その後も改定を重ねるが、フィレンツェの家庭の5分の1近くが、この制度を利用した。トルナブオーニ家やストロッツィ家など上流階級の3分の2も活用した。

ただ、アントンマリア・ゲラルディーニが、リサのためにフローリンを預金していたという記録は見つからないようだ。
そこで、ヘイルズ氏は、次のような推測を述べている。
キャンティ地方に平和が戻り、ひところの損失を補塡し、田舎の地所からの現金収入が再び得られるようになって、何とかまかなえそうだという自信を取り戻したか、あるいは、フィレンツェは絶えず戦争に巻き込まれるようになる気配だから、預金しておいても取りはぐれてしまうことを恐れたかもしれないとする。
ゲラルディーニ家にはプライドがあり、名家だけに傲慢なところがあって、一般庶民とは違うという意識が強かった。だから、多くが利用する金融商品に参加することは、いさぎよしとしなかったかもしれないとヘイルズ氏は推測している。

一般に、裕福な家庭では、娘がティーンエイジャーになる前から、将来の結婚相手の打診をこっそりと始める。たいていは、仲人を介してであるが、プロの仲介屋(センサーレ)の場合もあるし、親類に頼むこともある。平均的に言えば、娘が15歳か16歳になる前に相手を決めたいから、リサの父であるアントンマリアもそう願ったに違いない。もし娘が未婚のまま17歳を迎えると、「大惨事(a catastrophe)」だと思ったであろう。

当時のフィレンツェの結婚で愛があるかどうかは関係がないようだ。フィレンツェで問題なのは、「金銭(デナーロ)」のみという厳しい現実があった。もしリサのために十分な持参金が用意できなければ、残るは美しさだけである。
リサ・ゲラルディーニが生まれつきの美女であったかどうかは、判断材料がないとヘイルズ氏は記している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、140頁~141頁)

原文には次のようにある。
Florentine dowry financing, established in 1425, underwent extensive
modifications over the years to allow for different contingencies. If a girl
died, the Monte delle Doti repaid the deposit “one year and one day” after
her death. If “spurning carnal wedlock,” she entered a convent to “join the
celestial spouse in marriage” and vowed to be “perpetually cloistered,” the
Monte turned over a much lower “monastic” dowry to the nunnery.
Nearly one-fifth of the heads of Florentine households invested in the
dowry fund ― two-thirds from upper-crust families such as the Torna-
buoni and Strozzi. There is no record that Antonmaria Gherardini ever
deposited a florin on Lisa’s behalf. Perhaps, with the return of peace to
Chianti, he was confident that he could reverse his losses and extract
cash from his country properties. Perhaps he feared that Florence, con-
stantly waging costly wars, would default and not honor its commitments
(which sometimes happened).
Personally, I blame Gherardini pride. The arrogant magnate clan
that had resisted every pressure to behave like ordinary folk would have
balked at partaking of commoner’s cash. For Antonmaria, refusing to in-
vest may have seemed a matter, like so much else, of family honor. None-
theless, he may have begun to worry as Lisa approached adolescence.
Affluent parents of preteens began sending discreet signals to the
families of prospective suitors, often via an intermediary ― either a sensale
(professional matchmaker) or a mezzano (a relative of one of the fami-
lies). Like other fathers, Antonmaria would have wanted to finalize a be-
trothal by the time. Lisa reached fifteen or sixteen. Once an unmarried
girl passed seventeen, she risked being written off as “a catastrophe.”
Love had nothing to do with this harsh reality. What mattered, as
always in Florence, was denaro. Without enough money, Lisa’s future
might depend on a currency more valuable but more volatile than florins:
beauty.

Lisa Gherardini may or may not have been born beautiful…
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.95.)

【単語】
modification  (n.)修正
contingency   (n.)偶発事件
wedlock    (n.)結婚(生活)
perpetually   (ad.)永久に、絶え間なく
cloister    (vt.)(修道院などに)閉じ込める (n.)修道院
upper-crust  (a., n.)上流階級(の)、貴族階級(の)
confident  (a.)確信している、自信のある
affluent (a.)富裕な  (n.)豊富
volatile   (a.)揮発性の、一時的な、はかない

持参金の支払いは、分割払いも可能であった。あるいは、積立金が満期になる時期まで待ってもよかった。
リサが、デル・ジョコンド家に入ったあとも、父アントンマリアは条件変更交渉を続けたようだ。1495年3月5日、リサの父は公証人の事務所で署名した。つまり、キャンティにあるサン・シルヴェストロの農地の名義を、リサの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドに変更した。アントンマリアとしては、先祖伝来の不動産を失ったので、残念だったかもしれない。

ただ、ヘイルズ氏はこの点に関して、コメントしている。
花嫁の父アントンマリアは、革新的な「現金に代わる現物支給」を成し遂げ、意気揚々と事務所を出て、自宅に引き揚げたのではないかとする。というのは、特上とは言えない農地で埋め合わせして、裕福な義理の息子を婚姻によって、手に入れたからである。いわば、「エビでタイを釣る」快挙を成し遂げた(Lisa’s father had bagged one of matchmaking’s biggest jackpots: a wealthy son-in-law.)と思ったとヘイルズ氏は想像している。アントンマリアは“してやったり”と思ったというのである。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、177頁)

Dowries were paid only after a marriage was consummated, often in a se-
ries of payments or when the funds in the Monte delle Doti had matured.
As Lisa Gherardini began her life within the del Giocondo household,
her father kept his part of the bargain. On March 5, 1495, Antonmaria
Gherardini, in the office of his notaio, signed over the San Silvestro farm
in Chianti to Francesco del Giocondo.
Although he might have rued the loss of any family property, I can see
the father of the bride walking home through the streets of Florence and
reflecting on what a coup he had pulled off. As a hard-nosed business-
man, Francesco del Giocondo would have considered himself the craftier
negociator, but the vir nobilis had struck the better bargain. In exchange
for a penniless daughter and a modest farm, Lisa’s father had bagged one
of matchmaking’s biggest jackpots: a wealthy son-in-law.
Perhaps a sly grin inched onto his lips ― the telltale smile of a
Gherardini.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.122.)

【単語】
consummate (vt.)成就[完成]する (cf.) consummate a marriage初夜を過ごす
mature   (vt., vi.)熟させる[する]、満期になる
bargain   (n.)契約、取引、安い買物
notaio    (イタリア語)公証人
sign over  =sign away(権利・財産などを)署名して処分する、(~を人に)売り渡す
rue    (vt., vi.)悔む、悲しむ
reflect   (vi.)熟考する、回想する(on)
coup    (n.)一撃、大成功
pull off  (難事・悪事などを)うまくやりとげる、(賞などを)取る
hard-nosed  (a.) ≪話≫頑固な、抜け目ない
crafty (a.)(通例-er型)悪賢い、ずるい(sly, wily)(◆cunningより策略に富む)
struck   (v.)<strike(vt.)打つの過去分詞 
(cf.)strike a bargain売買(契約)を成立させる、もちつもたれつにする
bag   (vt.)袋に入れる、しとめる、≪俗≫(悪意なく)失敬する
matchmaking  (n.)結婚仲介、試合の組み合わせ (cf.) matchmaker 結婚仲介人、仲人
jackpot  (n.)積立て賭け金、積立て賞金
sly    (a.)ずるい、陰険な
grin   (n.)にやにやと笑うこと、(歯が見えるくらい)にこっと笑うこと
telltale  (a.)自然にあらわれる、隠しきれない (n.)告げ口する人、暴露

リサ・ゲラルディーニとその娘


ところで、フィレンツェの持参金問題について付言しておくと、1511年4月22日、最高議決機関シニョリーアは、過剰な持参金を支払い悪習が近年は目に余るようになってきたとして、規制しようと動きだす。持参金状況はエスカレートして、3000フローリンという巨額まで出現した。娘の結婚相手の社会階層を下げて嫁にやるか、修道院に入れてしまうかする親が増えてきたようだ。そこで新たな法律は、フィレンツェ市民の持参金上限を1600フローリンと定めた。

この新法は、ほぼすべての家庭に影響をもたらした。ゲラルディーニ家(つまりリサの実家)も、デル・ジョコンド家(つまりリサの嫁ぎ先)も例外ではない。
持参金が用意できなければ、婚儀は成立しない。社会でも認知されない。リサの2人の妹カミッラとアレサンドラも、修道院に行かざるを得なかった。そこには、アントンマリア・ゲラルディーニの妹(つまりリサのおばさん)も籍を置いていて、みな修道女(シスター)になった。修道院の名はサン・ドメニコ・ディ・カファッジョ(のちサン・ドメニコ・マリオ)である。
(場所は受胎告知教会と市の外壁との間の、さびれた場所。ここで暮らしているのは、おおむね良家の子女だったが、資産には恵まれない家庭も多かった)
リサの夫フランチェスコは先を読む父親だったようだ。リサの娘カミッラ(1499年生まれ、リサ20歳ときの娘)のために、持参金1000フローリンを別枠で取って置き、修道院に行く場合の200フローリンも考慮に入れていた。
フランチェスコは商人として成功していたし、ある程度の政治権力も持っていた(それにリサの血筋からすると、かなり上玉の結婚相手を射止められる可能性があったとヘイルズ氏は推察している)
だが、1511年、フランチェスコとリサのデル・ジョコンド夫妻は、12歳の娘カミッラを叔母や大叔母と同じドメニコ会の修道院に入れている。その動機は分からない。

ここでヘイルズ氏は想像している。
フランチェスコが適切だと思える結婚相手を見つけられなかったためか、あるいは、彼が業界から閉め出された可能性も考えられるとする。また、リサの立場から想像すると、修道院に入れば、カミッラは精神的な深い達成感を得ることができ、世迷いごとを超越し、心の安寧や人生の意義を摑めるという考え方があったのかもしれないとする。

いずれにせよ、カミッラの修道院への持参金は編み籠に入れられ、最低限の衣類とともに運ばれた。
母親のリサは毎日カミッラのことを思っていただろう。できるだけ頻繁に修道院に足を運んだことだろう。娘カミッラをサン・ドメニコに預けた理由がどのようなものであったにしても、リサはいくらか後悔していたかもしれないと、ヘイルズ氏は想像をめぐらしている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、263頁~266頁)

On April 22, 1511, the Signoria tackled a troubling civil and family matter:
“the reprehensible habit, introduced here not long since, of giving large
and excessive dowries.” The situation had indeed gotten out of hand, with
dowries soaring as high as 3,000 florins. An increasing number of fami-
lies either had to marry a daughter beneath their station or consign her to
a religious life. To prevent further “inconvenience and injury”, a new law
set a maximum of 1,600 florins on the dowries of every “daughter of a
Florentine citizen.”
This issue struck home in just about every household, including those
of the Gherardini and del Giocondo. With no dowries, no suitors, and no
acceptable place in society, two of Lisa’s sisters had had no choice but to
enter a convent. Joining their aunt (Antonmaria’s sister), they took vows
at Suor Camilla and Suor Alessandra (their birth names) in the Convent
of San Domenico di Cafaggio (later known as San Domenico del Ma-
glio), located in the open countryside between the church of Santissima
Annunziata and the city walls. Its roster of nuns came mainly from fami-
lies with noble bloodlines but less-than-notable means.
Francesco del Giocondo, a foresighted father, had set aside funds for
a dowry for his oldest daughter,. Camilla ― 1,000 florins for marriage, 200
florins for entry to a nunnery. Given his professional and political stand-
ing, along with Lisa’s Gherardini pedigree, the girl should have attracted
a reputable suitor. But in 1511, instead of negotiating a marriage alliance,
Lisa and Francesco placed the twelve-year-old in the same Dominican
convent as her aunts and great-aunt.
We do not know the reasons why. Perhaps Francesco could not ar-
range an advantageous union. Perhaps the market had closed him out.
But the decision strikes me as more Lisa’s than Francesco’s. While his
sons claimed his priority, Francesco would have trusted their mother to
choose what was best for his daughters…
Perhaps Lisa focused on another possibility. Once fatta monaca (made
a nun), Camilla might attain profound spiritual fulfillment and a sense of
peace and purpose transcending mere mortal concerns…
Her mother would have been thinking of Camilla every day and vis-
iting the convent whenever possible ― if only to glimpse her daughter
through an altar grille at Mass. Whatever her motives for placing Ca-
milla in San Domenico, Lisa would soon have reason to second-guess her
decision.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.185-187.)

【単語】
tackle  (vt.,vi.)タックルする、(問題に)取り組む
reprehensible (a.)非難すべき
get out of hand  手に負えなくなる
<例文> The fire got [became] out of hand.その火事の勢いは手に負えなくなった。
soar  (vi.)舞い上がる、(物価などが)急に上がる(◆主に新聞語法)
marry beneath one’s station  身分が下の人と結婚する
 (cf.)⇔marry above one’s station身分が上の人と結婚する、身分不相応な結婚をする
consign  (vt.)委託する、引渡す、発送する
injury  (n.)損害
struck(v.)<strike(vt.)打つの過去(分詞) (cf.)strike home致命傷を与える、急所を突く
suitor (n.)原告、懇願者、求婚者
vow  (n.)(神にかけた)誓い、誓約 take vows修道生活に入る、修道士[女]になる
roster  (n.)(勤務)名簿、名簿に載っている人々
foresighted  (a.)先見の明のある
nunnery  (n.)女子修道院
alliance  (n.)同盟、姻戚関係
great-aunt (n.)大おば(祖父母の姉妹=grandaunt)
fulfillment  (n.)遂行、実行、達成
transcend  (vt.,vi.)超越する、しのぐ
glimpse   (vt.,vi.)ちらりと見る
grille    (n.)(窓などの)鉄格子
second-guess (vt.)あと知恵を働かす、結論を修正する

男性優位社会のフィレンツェ共和国


イタリアのさまざまな都市国家には、国王や公爵が君臨し、プリンスがいて、少数で例外
的ではあるものの、女性も権力を継承し、あるいは新たに権力を得て、直接にあるいは父親や配偶者の力を借りて、影響力を行使した。
だが、フィレンツェ共和国は男性優位社会で、状況が異なったとヘイルズ氏はみている。
フィレンツェには芸術界の天才がひしめいていたし、大物商人がたくさんいたし、有能な人文学者も数多くつどっていた。ある歴史家は、「女にとって、西欧のなかでもフィレンツェに生まれるのは、不幸きわまりないことである」と表現している。

フィレンツェの女性は二級市民でしかなく、固定資産を購入することができなかったし、参政権はなかった。またオフィスを開くことができず、大学に通えず、医学や法律を学ぶことができず、ギルドに入れてもらえないし、経営することも認められず、一人暮らしも許されなかったそうだ。

女性の知性を高く評価する詩人や哲学者がいたにしても、男性に従属する状況をくつがえせるほどの論はなかった。
中産階級の女性なら、重労働からは解放されるものの、家庭内の小さな宇宙に閉じ込められ、全エネルギーを家事、主人、育児に費やす。豊かな家庭の女子は家に幽閉されたような状態で、貞節を守った。そして父親の野心的な結婚戦略の「質ダネ」になってごく若いうちに嫁に行くか、婚期を逸すれば修道院に入って笑いものになることを避けるか、さもなければ、経済的に干上がるしか、選択の余地はない。裕福な家のお嬢さんともなれば、年齢が二倍もある男性と結婚するので、4分の1ほどが未亡人になったといわれる。
リサ・ゲラルディーニのようなフィレンツェの女性は、生まれてから死ぬまで男性に依存していなければならなかったとヘイルズ氏は述べている。

ルネサンス期のイタリアは、男性優位の家父長制社会(patriarchal society)だったといわれる。一般的には、息子の誕生のほうが歓迎され、男の系列で家系が受け継がれていく。ビジネスにしても農地にしても、男が引き継ぐ。男の役目は一族の威信を高めるとともに、息子がいれば、優良で筋のいい家のお嬢さんをかなりの持参金つきで嫁に迎える点にある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、113頁、132頁)

原文には次のようにある。
Lisa’s addition to the rolls of Florentine citizens may have been marked
less formally. As new fathers had for centuries, Antonmaria Gherar-
dini would have selected a bean ― white for a girl rather than black for a
boy ― and dropped it into a designated receptacle, possibly at or near the
Baptistery. Sometimes fathers didn’t bother to acknowledge the birth of
a daughter. In this patriarchal society, families exulted more in the arrival
of a son, who could continue the male line, take over the business or farm,
and increase a clan’s prestige and wealth by acquiring a well-bred bride
with a sizable dowry.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.74.)

≪訳文≫
リサがフィレンツェの住民に加わったことは、すぐに公表されたわけではあるまい。何世紀にもわたって父親がやる習慣に従って、アントンマリアも女の子だから白い豆を選び(男の子なら黒い豆)、所定の場所(おそらく洗礼堂の近く)の容器に入れた。女の子の場合、このしきたりを省いてしまう父親もいる。男性優位の家父長制社会だったから、一般的には息子の誕生のほうが歓迎され、男の系列で家系が受け継がれていく。ビジネスにしても農地にしても、男が引き継ぐ。男の役目は一族の威信を高めるとともに、息子がいれば、優良で筋のいい家のお嬢さんをかなり持参金つきで嫁に迎える点にある。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、113頁)


ピーター・バーク氏によるイタリア・ルネサンスの文化と社会研究


ピーター・バーク氏は、『イタリア・ルネサンスの文化と社会』(岩波書店、1992年)の「第三章 芸術家と著述家」において、ルネサンス期のイタリアの600人の「文化的エリート」、すなわち画家、彫刻家、建築家、人文主義者、著述家などの芸術家、著述家を視野に入れて、検討している(67頁~140頁)。

創造的エリートは偶然的な分布ではなく、地理的な偏りを示している。イタリアを7つの地域に分けると、その出身地は、トスカーナが約26パーセント、ヴェネトが23パーセント、教会国家が18パーセント、ロンバルディアが11パーセント、南イタリアが7パーセント、ピエモンテが1.5パーセント、リグーリアが1パーセントである。
(他の7パーセントはイタリア外の出身。残りの5.5パーセントは不明)
このように、トスカーナ、ヴェネト、教会国家、ロンバルディアの4つの地域が、芸術家と著述家を多く輩出している。

また、視覚芸術に携わるエリートの比率も地域によって差異を示している。トスカーナ、ヴェネト、ロンバルディアでは視覚芸術が支配的である。一方、ジェノヴァと南イタリアでは著述家の方が優勢である。つまり出身地は、個々の人物が創造的エリートの仲間入りをする上でだけでなく、どの分野に属するかにも影響を及ぼした。

そして成功した芸術家や著述家になる機会(少なくとも600人の文化的エリート)は、個人が生まれた共同体の規模にも影響された。約13パーセントのイタリア人が、人口1万人あるいはそれ以上の都市に住んでいたが、それらの都市からは少なくとも60パーセントの創造的エリートが輩出された。
ローマ出身のエリートが少ないことは、強調されてよい。この時代には、たった4人のローマ出身の芸術家しかいなかった(ルネサンスにおけるローマの重要性は、創造的な個人をイタリアの他の地域から引き寄せたパトロネージの中心地としての重要性であった)。
この当時ローマはイタリアで8番目の都市にすぎなかったとはいえ、それより小さな都市であったフェラーラでさえ、15人の創造的エリートを生み出し、さらに小さなウルビーノでさえ7人を生み出している。
例えば、ウルビーノの人口は5000人にも満たなかったが、この町からは、歴史家ポリドーレ・ヴェルジル、画家のラファエッロなどが生まれている。建築家ブラマンテもこの町の近郊で生まれた。

次に出自について、みておこう。
創造的エリートの出自は、地理的にばかりでなく、社会的にも偏りをもっていた。彼らの57パーセントの父親の職業は不明なので判断には慎重を要するようだが、残る43パーセントは、かなり限定された社会環境の出身者で占められているという。
当時のイタリアの住民の大多数は農民であったが、創造的エリートのうちで、農民出身者と確認できるのは7人だけである。
残る美術家のうち、114人が職人と店舗主の子供、84人が貴族の子供、48人が商人と専門的職業人の子供である場合が多い。このコントラストは著しいそうだ。

少なくとも96人の美術家が職人や店舗主の家系出身である。そこでこのグループをさらに分類すると次のようになる。
手工芸者の息子の場合、その職種が絵画や彫刻に近いほど、美術家になる機会は多かった。
26人は美術とは関係なく、仕立屋[サルト](アンドレア・デル・サルトの場合)であったり、鶏肉商[ポッライウォーロ](アントニオ・デル・ポッライウォーロの場合)であった。34人の場合は、美術と間接的な関係があり、父親は大工、石工、石切職人などである。36人は、ラファエッロの場合にように、美術家の息子であった。美術が家族を通じて受け渡されたことは明らかである。ミラノなどで活躍した彫刻家のソラーリ一族は少なくとも5代にわたって名が知られ、そのうち4人は、創造的エリートの仲間入りをしている。
こうした美術家一族の数の多さは強調に値し、イタリア・ルネサンスの美術家をとってみると、その約50パーセントは美術に携わる親類縁者をもっている。例えば、マザッチョの場合、彼の兄ジョヴァンニは画家で、ジョヴァンニの2人の息子、その孫、曾孫もすべて画家であった。ティツィアーノにも画家の兄と息子がいた。ティントレットには2人の画家の息子と画家の娘マリエッタがいた。

それでは、これらの美術家の家系はどんな意味をもっているのだろうか。
ピーター・バーク氏は社会学的に説明している。
ルネサンス期のイタリアでは絵画や彫刻は、雑貨商や織物業と同様、家族的職業であった。
美術家が自分の子供に家業を継がせようと望んだ証拠も残っている。例えば、美術家が自分の息子に古代の有名な芸術家の名前をつけている。建築家ヴィンチェンツォ・セレーニは息子にヴィトルヴィオ[ウィトルウィウス]という名をつけ、息子は希望通り建築家に成長している。
組合(ギルド)の規約も、親方の親類の入会費を減免して家業の存続を支援している。親方はまた親族を労賃を支払わずに徒弟として雇うことができた。
また、創造的エリートの約半分の美術家が美術家の親類をもっていたことが知られる。しかし、文学と学問の場合には、家族的なつながりは弱く、4分の1強まで下がるようだ。

こうした美術家の地理的・社会的出自に関する情報は、なぜイタリアで美術が繁栄したのかを説明する上で助けになると、ピーター・バーク氏はみている。
社会的な力が偉大な芸術家を産み出すことはないにしても、社会的な障害が芸術家の産出を邪魔することはありうる。
イタリアを含む近世初期のヨーロッパでは、貴族と農民という二つの対極的な社会階級に属する有能な男性が、芸術家となる上で、大きな障害に直面した。
まず、貴族の場合、良家出身の才能ある子供が画家や彫刻家になることは難しかった。というのは、彼らの親がこれらの手仕事を下等な職業と見なしたからである。
ヴァザーリはその『美術家列伝』で、親が反対した話をいくつも伝えている。次のような例を挙げている。
① ブルネッレスキの場合
父親は自分と同じ公証人になるか、曾祖父のように医者になることを望んだ。だから、フィリッポが芸術に熱中することを「非常に不快に思った」という。

(cf.)ここで、レオナルド・ダ・ヴィンチの父親セル・ピエロ[1427-1504]も公証人であったことが想起されることに注意しておこう。

私のブログ≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫(2020年11月1日投稿)において、レオナルドの謎としては、鏡面文字の謎の問題について、北川健次氏の著作を参考に解説した。
北川氏は、次のような推察をしていたのが思い出される。代々公証人の家柄であり、フィレンツェ政府の公証人まで務めた野心家の人物ならば、子を自らの後継者とするのが、普通であるが、しかし、そうはせず、画工という、未だ職人としての不安定な立場に甘んじなければいけない職業の方に息子を進ませた。
(このあたり、レオナルドの画才に驚いた父が、息子の才能を開花させるために、友人のヴェロッキオの門を叩いたという話がある。北川氏は、その説を採らず、それは後世という結果論から逆回ししたものとみなす)

息子が算術の計算に長けており、利発な面を幼い頃から発揮していたのに、父セル・ピエロに、ある断念があったと北川氏は想像していた。北川氏は、むしろ公証人という職業の具体的な内容の中にあるとみている。公証人は、法律や個人の権利に関する事実を、公に証明するための書類を作成する仕事である。もし、レオナルドがその頃すでに鏡面文字しか書けず、それが既に矯正不可能なまでに身についてしまっていたとしたら、公証人として記さねばならない重要な書類は、無用物と化してしまう。その上、意固地なまでに自分の欲する事のみに専念する性分が、その頃すでに芽生えていたならば、父としても断念せざるをえなかったのではないかと想像していた。
(北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社、2012年、15頁~42頁)

【北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社はこちらから】

絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)

話をバーク氏に戻そう。
② アレッソ・バルドヴィネッティの場合
家業が代々商人だったため、アレッソは「商人になることを望んでいた父親の意に反して」絵画の道に進んだといわれる。
③ 都市貴族の息子であったミケランジェロの場合
ヴァザーリは、彼の父はミケランジェロが芸術家になることを「おそらくは」古い家柄にふさわしくないと考えていた、と述べている。
しかし別のミケランジェロの弟子は、ミケランジェロの父と叔父は芸術を嫌い、息子が芸術家になることを恥に思った、と述べている。

次に、もう一方の社会階級である農民の場合は、彼らの息子が美術家や著述家になることは難しかった。たとえ、そういう職業が存在することを知っていたとしても、必要な修業の機会をつかむことが容易にはできなかったためである。
ただ、農民出の美術家については、伝説めいた話が伝えられている。
① 14世紀の偉大な画家ジョットの場合
羊飼いの少年だった頃、岩に石片で素描しているところを通りかかった画家のチマブーエに発見されたと伝えられている。
この話はギベルティによって語られ、ヴァザーリはそれを踏襲している。
② アンドレア・デル・カスターニョの場合
家畜の世話をしていた時に、岩に羊を描いているところをあるフィレンツェ市民に見出され、町に連れて行かれたといわれる。ヴァザーリは、たぶんこの市民はメディチ家の人であったとつけ加えている。
③ ドメニコ・ベッカフーミの場合
「羊番をしながら、小川の砂べりに棒で絵を描いていた時に」地主に才能を見出され、シエナに連れて行かれたという。
④ アンドレア・サンソヴィーノの場合
「ジョットと同じように家畜番をしながら、地面に見張り中の動物の絵を描いている」ところを見出され、修業のためにフィレンツェに連れて行かれた、と述べている。

こうした幼少期に関する神話を額面通り受け取ってはならないが、これらの伝説は才能に恵まれた貧しい子弟に対する当時の人びとの理解のしかたを表わしていると、バーク氏はみなしている。
(ちなみに、画家フラ・アンジェリコと人文主義者ジョヴァンニ・アントニオ・カンパーノは、貧しい子弟にとっての伝統的な階梯、つまり僧院に入った)

貴族や農民の子弟とは異なり、美術家の子弟はこうした親の反対や障害にぶつかることはなかった。彼らの多くは、子供の頃から父親の仕事を観察しながら、見よう見まねで、自然に技術を身につけていった。

この時代に視覚芸術が繁栄するためには、職人たちが集中して居住していること、つまり都市的環境が不可欠であったとバーク氏は理解している。
15~16世紀においてヨーロッパで最も高度に都市化された地域は、イタリアとネーデルラント地方である。実際、この二つの地域から大多数の重要な芸術家が輩出した。

そして、バーク氏は、美術家が育つのに最も好都合な環境について考えている。ナポリやローマのように商業やサーヴィス業が盛んな都市よりも、フィレンツェのような手工業生産の盛んな都市であったとする。また、ヴェネツィア美術がフィレンツェ美術を追い抜くのは、ヴェネツィアが貿易から産業に転じた15世紀の末になってからのことであった。

文学や人文学(ヒューマニズム)、科学において貴族や専門職業人の子弟が優位だった理由を説明することは、難しいことではない。大学で教育を受けるには、徒弟修業よりずっと高い費用がかかった。職人の子が著述家や人文主義者や科学者になることは、農民の子が美術家になるのと同じくらい難しかった。ただ、次のような例も見られる。医師のミケーレ・サヴォナローラ(著名な説教僧の父)は織物職人の息子であり、詩人ブルキエッロは大工職人の息子であった。

社会的に見ると、創造的エリートは一つではなく、二つに分けられるとする。つまり、美術家グループは職人階層から人材を補給し、文学者グループは上層階級から人材を補給した。
ただ、美術における主要な革新的芸術家の出身階級は職人ではないとバーク氏は断っている。ブルネッレスキ、マザッチョ、レオナルドはいずれも公証人の息子である。そしてミケランジェロは都市貴族の出身である。
すなわち、新しい潮流の創造に最も大きな貢献をなしたのは、地元の職人的伝統と関わりの薄かった、社会的および地理的な意味でのアウトサイダーたちだったと、バーク氏は指摘している。
(ピーター・バーク(森田義之・柴野均訳)『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店、1992年、67頁~79頁、134頁~135頁)

【ピーター・バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店はこちらから】

イタリア・ルネサンスの文化と社会 (NEW HISTORY)

イタリアのルネサンス期の女性の芸術活動


ピーター・バーク氏は、イタリア・ルネサンス期の芸術家と、著述家といった「文化的エリート」に占める女性について言及している。
600人のうち、女性はたった3人だけである。その3人とは、ヴィットリア・コロンナ、ヴェロニカ・ガンバーラ、トゥッリア・ダラゴーナである。3人はすべて詩人で、すべてルネサンスの末期に登場した。
こうした偏りは、心理学的に、子どもを産む能力に代わりに与えられた男性の創造力と説明されたり、あるいは社会学的に、男性支配社会における女性の諸能力の抑圧と説明されたりする。しかし、イタリア特有のものでも、この時代に限られたものでもない。

ただ、興味深いことに、社会的障害が通常よりもいくらかでも軽いときには、女性の芸術家や著述家が出現しやすいという現実が見出されるという。
たとえば、画家の娘はしばしば絵を描いた。ティントレットの娘マリエッタは肖像画を描いたことが知られている。ただし確実にマリエッタのものとされる作品は1枚も残っていない。
その他に、ヴァザーリは次のような修道女について述べている。すなわち、ウッチェロにアントニアという娘がおり、彼女は「素描が巧みであった」が、カルメル会の修道女になったという。
修道女は、聖女として知られているカテリーナ・ダ・ボローニャのように、しばしば写本彩飾の仕事に携わった。また、ボローニャで活動したプロペルツィア・デ・ロッシという女性彫刻家もいた。ヴァザーリは、彼女の伝記を書き、彼女をカミッラやサッポーのような古代の才能ある女性と比較している。
(ピーター・バーク(森田義之・柴野均訳)『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店、1992年、67頁~68頁)

【ピーター・バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店はこちらから】
イタリア・ルネサンスの文化と社会 (NEW HISTORY)


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その14≫

2020-12-25 18:20:04 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その14≫
(2020年12月25日投稿)


【はじめに】


 今回のブログでは、「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」「ミラノの貴婦人」といったレオナルドが描いた肖像画について、ヘイルズ氏がどのように解説しているのかを、紹介してみたい。
 「モナ・リザ」とともに、これらのレオナルド作品が、四分の三正面像であった点について、西岡文彦氏の著作を通して、振り返ってみたい。あわせて、田中英道氏と佐藤幸三氏が「ジネヴラ・ベンチの肖像」について、どのように解説しているのかも、述べておこう。

〇Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」と「モナ・リザ」
・「四分の三正面像」としてのレオナルド作品
・チェチーリア・ガッレラーニについて
・ジネヴラ・デ・ベンチについて
・田中英道氏と佐藤幸三氏による「ジネヴラ・ベンチ」の解説
・「ミラノの貴婦人」について






「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」と「モナ・リザ」


「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」(=「白貂を抱く婦人像」)と「モナ・リザ」について、ヘイルズ氏は次のように述べている。

In Milan, Leonardo had painted his portraits of Ludovico Sforza’s mis-
tresses on walnut, a dense, hard wood. But in Florence, he stuck with the
local artists’ preference: poplar. (Canvas had not yet become popular in
Italy, except in Venice.) The thin-grained plank he selected, sawn length-
wise from the center of the trunk, was trimmed to about 30 inches high
by 21 inches wide. To prevent warping, Leonardo painted on its “outer”
rather than “inner” face. Instead of the standard primer of gesso, a mix of
chalk, white pigment, and binding materials, he applied a dense under-
coar with high levels of lead white (detected in modern chemical analysis).
From his favored apothecaries, Leonardo would have purchased pre-
cious dyes, such as cinnabar, red as dragon’s blood, and brilliant blue ul-
tramarine from the exceedingly rare and costly lapis lazuli stone. As he
preferred, he would mix the rich colors with oil, slower to dry than the
eggs he had used for tempera paints in Verrocchio’s studio and more
suited to the subtle shadings that he alone among Florentine painters had
mastered.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.158.)

【単語】
walnut  (n.)クルミ
warp  (vi.)反る (vt.)反らせる、ゆがめる
pigment  (n.)顔料、絵の具
apothecary (n.)薬屋、薬剤師
cinnabar  (n.)辰砂(しんしゃ)、鮮紅色、朱
lapis lazuli  (n.)ラピスラズリ、瑠璃色、群青色
tempera   (n.)テンペラ画[絵の具]

≪訳文≫
レオナルドはミラノに滞在している間に、ルドヴィーコ・スフォルツァのために、愛人の肖像画を描いたが、そのときは硬いクルミの板を使った。だがフィレンツェでは、多くの画家が好んで使うポプラ板に固執した(カンバスは、イタリアではヴェネツィア以外では普及していなかった)。木目が薄く、幹の中心に近い柾目(まさめ)の板を選び、タテ75センチ、ヨコ52.5センチほどの大きさに切る。レオナルドは表ではなく、裏側に描く。そのほうが反りにくいからだ。普通はジェッソという、チョークに白い塗料を混ぜた下地を塗って発色をよくするのだが、レオナルドは鉛白を厚く塗った(最近の化学分析によって分かった)。
 彼は、高価な顔料や塗料を、なじみの薬剤師から購入していた。たとえば、「ドラゴンの血」と呼ばれる鉱石から採られる濃い赤のシナバー(辰砂[しんしゃ])、貴石ラピスラズリから得られるきわめて稀少で高価だが明るいブルーのウルトラマリーンなどだ。レオナルドは、これらの顔料をオイルで混ぜ合わせた。これは、卵で溶くテンペラより乾きが遅い。レオナルドもヴェッキオ宮殿のときにはテンペラを使ったが、オイル混合の手法を巧みに使いこなせる画家は、フィレンツェではレオナルド・ダヴィンチだけだった。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、226頁~227頁)

【コメント】
「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」は硬いクルミ(walnut)の板を使った。「モナ・リザ」は、周知のように、ポプラ(poplar)板に描かれた。フィレンツェでは、多くの画家がポプラ板を好んで、カンバスは、イタリアではヴェネツィア以外では普及していなかったと但し書きをつけている。
レオナルドは反りにくいからという理由で、裏側に下地として鉛白を厚く塗って描いたという。
そして、レオナルドは濃い赤のシナバー(辰砂、cinnabar)や明るいブルーのウルトラマリーン(brilliant blue ultramarine)などの高価な顔料は、なじみの薬剤師(apothecary:薬屋、薬剤師)から購入していた。これらの顔料を、卵で溶くテンペラと違い、オイルを混ぜ合わせて、巧みに使いこなしたそうだ。

「四分の三正面像」としてのレオナルド作品


続けて、ヘイルズ氏は次のように記している。

At the very center of the composition, Leonardo would place Lisa’s
heart, framed in the pyramid of her torso rising majestically from the
base of her folded hands and seated hips to the crown of her head. As
he did for his portraits of the self-proclaimed tigress Ginevra de’ Benci
in Florence as well as for Il Moro’s mistresses in Milan, Leonardo chose
a forward-facing three-quarter pose. Firmly grounding Lisa in a pozzetto
(“little well”), a chair with a stiff back and curved arms, he instructed her
to twist into a contrapposto pose, her right shoulder angled backward and
her face turning in the opposite direction.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.159.)

≪訳文≫
「モナ・リザ」の絵の中心部はリサのトルソー(体のボディ部分)で、前面で組んだ両手の上部にピラミッドのようにそびえ、頭部につながる。全体の構図は、それまでにレオナルドがフィレンツェで描いた「メストラ」を自認するジネヴラ・デ・ベンチとか、ミラノで作成した「イル・モーロ」ことルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像と同じように、真正面向きではなく、四分の三ほど斜(はす)に構えている。レオナルドはリサを、背が固く丸みのある肘掛け椅子に正面向きにすわらせ、少し体をひねって右肩を後ろに引き、顔を反対方向に向かせた。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、227頁)

【コメント】
〇「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」~「メストラ(tigress)」を自認
〇「チェチーリア・ガッレラーニの肖像」(=「白貂を抱く婦人像」)
 ~ミラノで作成した「イル・モーロ」ことルドヴィーコ・スフォルツァの愛人
〇「モナ・リザ」

全体の構図は、3枚とも、真正面向きではなく、四分の三ほど斜に構えている(a forward-facing three-quarter pose)点で、共通しているとダイアン・ヘイルズ氏も指摘している。
西岡文彦氏は、「四分の三正面像」と称して解説していた。
〇西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年、162頁~169頁を参照のこと
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、180頁~184頁の「肖像画 三つの顔の向き」を参照のこと

例えば、西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)の第三部に相当する【第三の回廊 絵画史のスペクタクル】、第十一章から第十三章のうち、「第十二章 『モナ・リザ』誕生」では、『モナ・リザ』が誕生する前史について、人物画、南北ヨーロッパの精神風土などを中心に解説していた。
 たとえば、正面像(フロンタル)・側面像(プロフィル)・斜方像(四分の三正面像)といった3種類の人物画があるが、四分の三正面像は、ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。
 ヨーロッパの気風は、北のゲルマン気質において現実主義的、南のラテン気質において理想主義的とされている。「南」の温暖で平穏な地中海気候は、古代ギリシアの哲学やイタリア絵画の理想主義を生んだという。これに対して、「北」の寒冷で不順な気候は、屋内での内省的な思考と、現実的な観察眼を形成し、北方絵画の現実主義を生んだといわれる。
こうした南北ヨーロッパの精神風土の違いを反映して、肖像画の好みにも相違がみられる。すなわち、「南」のイタリアの肖像画は、永遠のイメージをたたえた側面図としてのプロフィルを好んだ。一方、「北」のフランドルの肖像画は、自然な四分の三正面像としてのアングルを好むことになった。
 側面像(プロフィル)でありながら、ポライウォーロの『婦人の肖像』(1475年頃、ウフィッツィ美術館)は、人間としての生命感がみなぎっており、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
画中の人物の存在感と生命感の点で、絵画史上最高の表現は、『モナ・リザ』において示されているが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見していると西岡氏は高く評価している。

 ところで、50歳を目前にしたレオナルドが、ミラノからフィレンツェに帰った。この時期、フィレンツェで着手されたのが、『モナ・リザ』である。レオナルドが絵画の理想とした薄暮の光景に描かれた画面は、ボッティチェルリのヴィーナスがルネッサンスの青春を象徴していたように、その黄昏(たそがれ)を象徴していると西岡氏はみていた。
この薄暮の光景に、「北」伝来の四分の三正面像で、油彩の写実を凝らして描かれたのが、『モナ・リザ』である。イタリア・ルネッサンスは、その「南」ならではの「永遠」の相を刻みつつ、かつていかなる絵画作品も得たことのない、生命感を獲得することになる。

西岡氏によれば、人物画は顔の向きで3種類に大別されるとする。
① 正面像~真正面から描く。フロンタル
② 側面像~真横から描く。プロフィル
③ 斜方像~顔を斜めから描く。こちらは採用する頻度が多い角度をとって、四分の三正面像と呼ばれることが多い。
※画中の顔の向きによって、人物画は、その印象を一変する。

① フロンタルについて
フロンタルとは、礼拝像のための、「聖なる角度」である。
神か、聖母か、聖人か、ともかく礼拝や祈りの対象になる人物を描く際の視点である。王族といえど、一個人が、この正面像で描かれるケースはほとんどない。
フロンタルの作例としては、ウェイデン『キリスト像:ブラック家祭壇画』(中央部)(1452年頃)が挙げられる。
② プロフィルについて
プロフィルは、古来のメダルの伝統を持つ、「永遠なる角度」である。
個人の風貌を永遠の中に刻み込む様式で、イタリアの個人肖像画は、これを基本様式にしている。
作例として、ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』(1485年頃)が挙げられる。
③ 四分の三正面像について
四分の三正面像は、「自然なる角度」である。
 人物が最も自然に描けるのが、この角度である。
 ヨーロッパ北方絵画の中心、フランドル地方で創始された。
 作例としては、ヤン・ファン・アイク『妻の肖像』(1468年、ブリュージュ市立美術館)。  
 また、ボッティチェルリ『メダルを持つ若者の肖像』(1475年頃)は、イタリア最初期の斜め向きの肖像画として貴重である。
 なお、『モナ・リザ』は、この角度で描かれている。

真正面からの直視は、人に威圧感を与える。真横からの横顔は、顔の形は明示できるが、親密感は抱かせない。互いに、やや斜めに向き合う角度が、話も人柄もいちばん伝わりやすいといわれる。これは、絵に描かれた顔も同じで、モデルの人柄を自然に伝えるには、四分の三正面像が最適であると、西岡氏は主張している。
これに比べれば、フロンタルもプロフィルも、不自然そのものであるという。
(肖像画に、この不自然なプロフィルを好んだ点で、イタリア絵画は、古来のメダルの伝統もさることながら、その永遠への憧憬を物語っているようだ)
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、162頁~169頁)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

チェチーリア・ガッレラーニについて


レオナルド・ダヴィンチ(仙名訳ではこのように表記)が1482年にフィレンツェを離れてミラノに向かった。
そのミラノにおけるルドヴィーコ・スフォルツァの絵画における最初の要望は、愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像を描くことだった。
(レオナルドは、おそらくフィレンツェではチェチーリアのような女性には出会ったことがなかったとヘイルズは推測している)

〇レオナルド「白貂を抱く婦人像」(1490年頃 チャルトリスキ美術館)
そのチェチーリア・ガッレラーニは、どのような女性だであったのだろうか。
チェチーリアは、シエナからミラノに赴任していた大使のお嬢さんである。父は彼女が7歳のときに亡くなった。頭のいい女の子で、6人の兄弟がいた。みな、レベルの高い教育を受けた。
チェチーリアは10歳のとき、名家の息子と婚約した。持参金の一部を納め、カップルは公式に成立した。
(だが、肉体的な接触はなく、やがて婚約は解消された)

チェチーリアは詩人としても優れていたし、楽器演奏に秀で、歌唱も巧みだった。会話力も抜群で、ラテン語による演説も得意な才女だったそうだ。
また10代のときに、ルドヴィーコ・スフォルツァの目に止まった。ルドヴィーコが招き入れ、田舎に愛の巣を作った。ほどなく壮大な屋敷カステッロ・スフォルセスコにスイートルームを与えられた。1489年に16歳で妊娠した頃には、ミラノ宮廷でスーパーウーマンになっていた。

ただ、ルドヴィーコ公は友好関係にあるフェラーラ公のお嬢さんベアトリーチェ・デステ(あのイザベラ・デステの妹)と婚約していた。気乗りがしないために結婚式を何回も先延ばししていた。しかし、宮廷内では愛人チェチーリアに対する風当たりが強まってきた。

チェチーリアの肖像を描く立場のレオナルドは、面倒な三角関係に巻き込まれたようだが、持ち前の機転と分別ぶりを発揮した。肖像画の制作を進めるとともに、1491年のルドヴィーコ公の結婚式を思い切り派手なものに演出したといわれる。

ここでヘイルズ氏は、チェチーリア・ガッレラーニと、ジネヴラ・デ・ベンチの肖像を比較している。
両者とも、四分の三ほど斜め向きのポーズである。チェチーリアの場合、上げた視線を画面の外に向け、まるで部屋に入って来た恋人に向けている感じであるとヘイルズ氏は表現している。その衣装は控えめだが、冴えないものではなく、かなり思い切った出で立ちで、メッセージ性を持たせている。
また、金色っぽい白テンを抱き、ベールをかぶり、黒いヘッドバンドをはめ、長いネックレスを首に巻いたうえ、ゆるく胸に垂らしている。
(後宮に幽閉された側室の拘束感が表現されているという解釈もある)

二つの肖像画の大きな相違点として、ジネヴラの方は清純さが感じられるが、チェチーリアの方は色気を発散している点をヘイルズ氏は指摘している。チェチーリアはほっそりした白テンを抱えて右手でなでているが、この動物はイスラム教徒のムーア人を象徴しているともいわれている。そのテンのギリシャ語は、彼女の名前に音が似ている。

レオナルドが描いた写真のような肖像画は、この女性の生涯を巧みに捉えたものである。当時の画風としては斬新だった。ミラノの宮廷詩人は、次のように評した。
「天才レオナルドの絵筆は、チェチーリアの美しさをあますところなく描き出し、彼女の瞳の輝きは、陽の光さえさえぎってしまう」
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、129頁~132頁参照)

なお、原文は次のようにある。

Leonardo might never have met a woman quite like Cecilia in Florence.
The daughter of an ambassador from Siena who died when she was
seven, the bright little girl, along with her six brothers, received an out-
standing education. At age ten she was pledged to the son of a prominent
family. Although part of the dowry was paid and the couple was officially
betrothed, the union was never consummated, and the arragements
eventually dissolved.
Cecilia, an accomplished poet, musician, and singer and a clever
conversationalist who could deliver orations in Latin, caught the eye of
Ludovico Sforza. With a wave of his royal hand, he set the teenager up
in a bucolic love nest. Before long the girl, lauded as “bella come un fiore”
(beautiful as a flower), relocated to a suite of rooms in the immense Ca-
stello Sforzesco. By 1489 the pregnant sixteen-year-old had ascended to
“dominatrice della corte di Milano”(the woman who dominated the court
of Milan).
In a not-at-all-minor complication, Duke Ludovico happened to be
engaged to Beatrice d’Este, the daughter of an important ally, the Duke
of Ferrara. When he repeatedly postponed his nuptials with the young
woman he described as “piacevolina”(just a bit pleasing), a polite way of
saying “plain,” the lords and ladies of the court blamed “quella sua innamo-
rata”(that beloved of his).
Caught in the middle of this love triangle, Leonardo would have had
to rely on his ample reserves of charm and discretion while painting Ce-
cilia’s portrait at the same time that he was planning spectacular festiv-
ities for several weddings, including the Duke’s marriage to Beatrice in
1491.
As with his portrait of the self-proclaimed tigress Ginevra de’ Benci,
Leonardo chose an unconventional three-quarter view, with Cecilia’s ap-
praising eyes looking outside the frame of the picture as if her lover had
just entered the room. Rather than appear demure or drab, she makes a
bold fashion statement. Her gold frontlet, tied veil, black forehead band,
and draped necklaces, art critics observe, suggest the restrained captive
status of a concubine.
Unlike the antiseptic Ginevra, Cecilia sizzles with an erotic charge.
With her right hand, in a curiously suggestive gesture, Cecilia strokes
a sleek ermine (white weasel), a symbol of Il Moro, whose many titles
included the honorary Order of the Ermine, and a play on the Greek
word for ermine, similar to her name. The animal cradled in Cecilia’s
arms also captures the essence of the man to whom she is bound, sex-
ually and socially ― a predator with a vigilant eye and menacing claws
splayed against her red sleeve.
Leonardo’s almost photographic portrayal of an animated moment
in this woman’s life represented something radically new among paint-
ers of the time. Milan’s court poets praised “the genius and the hand of
Leonardo” for so adeptly capturing “beautiful Cecilia, whose lovely eye /
Makes the sunlight seem dark shadow.”
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.87-88.)

【単語】
pledge  (vt.)誓約させる、質に入れる
betroth  (vt.)婚約する ⇒ be betrothed to ~と婚約している
conversationalist  (n.)話上手の[好きな]人
oration   (n.)(風格ある)演説、弁論
bucolic   (a.)いなか[田園]の
laud   (vt.)賛美する、称賛する
ally   (n.)同盟者[国]、援助者
nuptial  (n.)(通例pl.)結婚(式)
discretion (n.)思慮、分別
tigress   (n.)雌のトラ
demure   (a.)まじめな、しかつめらしい、取り澄ました
drab    (a.)淡褐色の、単調な
frontlet   (n.)(動物の)前額部、ひたい飾り
captive   (a.)捕虜にされた、魅惑された
antiseptic   (a.)防腐の、非人間的な、気迫を欠いた
sizzle    (vi.)かんかんに怒る
sleek     (a.)つやつやした、なめらかな
ermine   (n.)白テン(の毛皮)
weasel   (n.)イタチ
cradle   (vt.)揺りかごに入れる、育てる
predator  (n.)捕食動物、略奪するもの
vigilant  (a.)警戒している、油断のない
splay  (vt., vi.)外へ広げる[がる]

【補足】ベアトリーチェ・デステとイザベラ・デステとレオナルド
のちに、1497年1月に、ミラノに思いもかけない事態が発生した。
ルドヴィーコ公爵夫人のベアトリーチェ・デステが、22歳(満21歳)の若さで急死した。晩餐会の最中に倒れて陣痛が始まり、胎児は死産で、ベアトリーチェも直後に亡くなった。イザベラ・デステは、この公爵夫人の姉である。レオナルドが1499年12月にミラノを離れて、マントヴァに立ち寄った際に、イザベラ・デステは歓待した。その代わりに肖像画を描いて欲しいと要望した。レオナルドはとりあえずスケッチをし、いずれ描くと約束した。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、198頁~200頁比較参照のこと)

ジネヴラ・デ・ベンチについて


時代は少し遡るが、レオナルドは徒弟期間を終えたのちも、ヴェロッキオの下で働いた。
1474年ごろ(レオナルド作品の年代にはいくつもの説があるとヘイルズ氏は断っている)、レオナルドははじめての肖像画を描いた。これが最初の名画とされる。モデルはジネヴラ・デ・ベンチ(1457年ごろ~1520年)である。彼女はフィレンツェの美女で、リサ・ゲラルディーニより20歳ほど先輩である。

実家は裕福な特権階級で、ジネヴラはそこのお嬢さんだった。祖父は、コジモ・デ・メディチに用立てる銀行の頭取である。父は人文学者のインテリで、銀行マンで、メディチ家に継ぐ資産家だったそうだ。
ジネヴラと6人の兄弟たちは、ベンチ家の大邸宅で、家庭教師による教育を受けた。10歳になると、ジネヴラは修道院の寄宿舎で勉強を続けた。
 16歳のころ、ジネヴラは修道院学校をやめて、衣服商人と結婚した。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ、多くの文人たちがジネヴラの美しさや頭のよさを称えた詩を詠んでいる。思いを寄せる男性は多くいた。ベルナルド・ベンボもその一人である。ベンボは、
ヴェネツィアからフィレンツェに大使として赴任していた中年の既婚者であった。メディチ家が開いた馬上槍試合の折に、ジネヴラを見そめた。ベンボはジネヴラを公の場でアテンドする役を申し出た(これは、プラトニックなルネサンス式のお遊びだった)。

レオナルドにジネヴラの魅力的な肖像を描いてもらおうというのは、彼女の夫の発想ではなく、ベンボのアイディアだったとヘイルズ氏はみている。
(似たようなケースとして、「モナ・リザ」の注文者の別説を指摘している。つまり、何年ものち、リサ・ゲラルディーニの美しさに魅されたロレンツォ・デ・メディチの末っ子が、レオナルドに肖像を描いてもらうよう取り計らったという説がある)。
また、ベンボはさらに、ジネヴラを称える10編の詩を作るよう、メディチ家の文学サークルで提案して賞金を出したという。

 ところで、ジネヴラは、この時代の女性としては珍しく自らも詩を書いた。断片的に残った詩の中に、「ごめんあそばせ。あたしは、暴れトラなの」という一句がある。
レオナルドの未完の肖像画を見ると、このメストラの不思議な魅力がうかがい知れるとヘイルズ氏は捉えている。
ヘイルズ氏は、そのジネヴラの印象を記している。
・自尊心は強そう
・非のうちどころがない美貌
・くっきりした二重まぶたにネコのような瞳
・冷徹で強烈な視線
・憂いを含んだ表情
・肌理(きめ)の細かい肌
・長い巻き毛が白い額にかかる

背景には、西岡文彦氏も指摘するように、人物の素性を物語る要素が描き込まれている。
ビャクシンという針葉樹の木は、イタリア語では「ジネプロ」といい、彼女の名前ジネヴラと音が似ている。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、52頁~53頁)
「彼女のとげとげしい性格を尖った葉っぱで象徴しているのかもしれない」とヘイルズ氏はみている。

また、絵の裏には意味深長な紋章が描かれている。ビャクシンの小枝を月桂樹が包み込むような図柄である。これはジネヴラをベンボが保護している象徴とも、ヘイルズ氏は受け取っている。そして、「彼女の持ち味は美にあり」という書き込みがあると付記している。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、94頁~96頁参照)

原文には、次のようにある。
Even after finishing his own professional apprenticeship, Leonardo con-
tinued to work with Verrocchio. Around 1474 (a date, like so many in his
career, still in dispute) the young artist began his first portrait ― and his
first masterpiece. Its subject, Ginevra de’ Benci (c.1457-1520), another
donna vera of Florence, was born about twenty years before Lisa Gherar-
dini into immense wealth and priviledge. Her grandfather had served as
general manager for the bank of his friend Cosimo de’ Medici. Her father,
a humanist intellectual and art patron as well as a banker, reported a for-
tune second only to that of the Medici.
In the stately Benci palazzo, Ginevra and her six brothers received a
superb education in literature, mathematics, music, Latin, and perhaps
Greek. At ten, after her father’s death, Ginevra continued her studies as a
boarding student at one of Florence’s exclusive convents, Le Murate (for
the “walled-in ones”), renowned for its nuns’ exquisite embroidery and
angelic singing.
At about age sixteen, Givevra left the convent school to marry a cloth
trader. Young humanists, including Lorenzo de’ Medici, wrote verses in
praise of her beauty and wit. She also attracted a devotee whom she may
or may not have welcomed: Bernardo Bembo, the married, middle-aged
Venetian ambassador to Florence, who first beheld the young beauty at a
Medici joust.
Despite a wife and son in Florence and a mistress and love child else-
where, Bembo threw himself into a public courtship of Ginevra ― a not
uncommon and completely platonic Renaissance diversion. He, rather
than Ginevra’s husband, may have hired Leonardo to capture her allure
in a painting. (Many years later, some believe, a similarly smitten admirer
of Lisa Gherardini ― none other than the youngest son of Lorenzo de’
Medici ― may have urged Leonardo to paint her portrait as a similar trib-
ute.) Bembo also commissioned ten poems in Ginevra’s honor by mem-
bers of the Medici literary circle.
Like only a few women of her day, “La Bencia” wrote poetry her-
self, but only one enigmatic fragment survives: “I beg for mercy, and I
am a wild tiger.” Leonardo’s unsettling painting captures the tigress’s mys-
tique: a proud and perfect head, heavy-lidded feline eyes, an icy and un-
flinching gaze, a brooding expression, skin smoothed into perfection by
his own hand. Masses of the ringlets that would become his trademark
twirl around her pale face, ser against the background of a juniper tree ―
ginepro in Italian, a play on her name and perhaps her prickly character as
well. On the portrait’s reverse, Leonardo painted a “device”, an emblem of
laurel and palm enclosing a sprig of juniper ― a poetic representation of
Bembo entwined with Ginevra ― and an inscription, VIRTUTEM FORMA
DECORAT (She adorns her virtue with beauty).
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.59-60.)

【単語】
convent  (n.)女子修道院
boarding  (n.)寄宿 (cf.) boarding school寄宿学校
exquisite  (a.)精巧な、極めて美しい
devotee  (n.)心酔者、熱愛者
diversion  (n.)注意をそらすこと、気晴らし、娯楽
allure   (n.)魅力
smitten  (v.)<smite(vt.)強打する、打ちのめす、魅するの過去分詞
enigmatic  (a.)不可解な
tigress  (n.)雌のトラ
unflinching  (a.)しりごみしない、断固たる
brooding   (a.)気をめいらせる、憂鬱にさせる
twirl    (vt.,vi.)くるくる回す[る]、ひね(く)る
juniper   (n.)ネズ、トショウ(杜松)
prickly   (a.)とげの多い、≪話≫おこりっぽい、厄介な
sprig   (n.)若枝、小枝

≪訳文≫
レオナルドはプロとなるための徒弟期間を終えたのちも、ヴェロッキオの下で働いていた。1474年ごろ(彼の仕事に関する年代にはいくつもの説があって、断定できないものが多い)、彼ははじめての肖像画を描いた。これが最初の名画で、モデルはジネヴラ・デ・ベンチ(1457ごろ~1520)。フィレンツェの美女でリサ・ゲラルディーニより20歳ほど先輩だ。実家は裕福な特権階級で、彼女はそこのお嬢さんだった。祖父は、コジモ・デ・メディチに用立てる銀行の頭取。父は人文学者のインテリで、画家のパトロンもやった銀行マンで、メディチ家に継ぐ資産家だったと言われる。
 ベンチ家の大邸宅で、ジネヴラと六人の兄弟たちは、最高の家庭教師による教育を受けた。文学・算数・音楽・ラテン語、それにギリシャ語も学んだかもしれない。父が亡くなったあとも、10歳のジネヴラは勉強を続け、ムラーテ(壁に囲まれた、の意)という名の修道院の寄宿舎で、精巧な刺繍や天使のような歌を学んだ。
 16歳のころ、ジネヴラは修道院学校をやめて、衣服商人と結婚した。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ、多くの文人たちがジネヴラの美しさや頭のよさを称えた詩を詠んでいる。思いを寄せる男子は目白押しだったが、彼女のタイプもいたし、嫌いな性格の者もいた。ヴェネツィアからフィレンツェに大使として赴任していたベルナルド・ベンボは中年の既婚者で、メディチ家が開いた馬上槍試合の折にはじめてジネヴラという若い美女を見そめた。
 彼の妻子はフィレンツェに滞在していたが、彼にはほかの愛人と隠し子もいた。彼はジネヴラを公の場でアテンドする役を申し出たが、これはほくあるケースで、あくまでプラトニックなルネサンス式のお遊びだ。レオナルドにジネヴラの魅力的な肖像を描いてもらおうというのは、彼女の夫の発想ではなく、ベンボのアイディアだったようだ(似たようなケースとして、何年ものち、リサ・ゲラルディーニの美しさに魅されたロレンツォ・デ・メディチの末っ子が、レオナルドに肖像を描いてもらうよう取り計らった、という説がある)。ベンボはさらに、ジネヴラを称える10編の詩を作るよう、メディチ家の文学サークルで提案して賞金を出した。
 この女性、いわば「ラ・ベンチア」は、この時代の女性としては珍しく自らも詩を書いたが、ごく一部が断片的に残っているだけだ。たとえば、こんな一句がある。「ごめんあそばせ。あたしは、暴れトラなの」。レオナルドの未完の肖像画を見ると、このメストラの不思議な魅力がうかがい知れる。自尊心は強そうだが、非のうちどころがない美貌、くっきりした二重まぶたにネコのような瞳、冷徹で強烈な視線、憂いを含んだ表情、肌理(きめ)の細かい肌、やがてレオナルドが得意とするようになる長い巻き毛が白い額にかかっている。背景には、ビャクシンという針葉樹の木々が描かれている。イタリア語ではジネプロで、彼女の名前ジネヴラと音が似ているし、彼女のとげとげしい性格を尖った葉っぱで象徴しているのかもしれない。絵の裏には意味深長な紋章が描かれている。ビャクシンの小枝を月桂樹が包み込むような図柄で、これはジネヴラをベンボが保護している象徴とも受け取れる。そして書き込みがあり、彼女の持ち味は美にあり、と記されている。
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、94頁~96頁)

田中英道氏と佐藤幸三氏による「ジネヴラ・ベンチ」の解説


レオナルドの肖像画「ジネヴラ・ベンチの像」(42×37㎝、ワシントン、ナショナル・ギャレリー、表記法は田中英道氏に従う)を見ると、女性個人の性格がまず人を打つ。娘時代の終わりに近い女性の、聡明さと一途な性格がその眼や口もとから見てとれる。背景にはネズの樹が茂り、彼女の内面の豊かさを示すかのようであると田中氏は述べている。
それは気品のある姿で、魅力にあふれた像である。
(しかし、その図像から女性というものの普遍性を見出すことは困難だともいう)

レオナルドに影響を受けたラファエロの、次の婦人像は「ジネヴラ・ベンチの肖像」の延長線上にあるという。
〇ラファエロ「マッダレーナ・ドーニの肖像」(フィレンツェ、ピッティ美術館)
〇ラファエロ「一角獣を抱く女性像」(ローマ、ボルゲーゼ美術館)
これらの作品の彼女らの性格描写でほとんど完結しているという。ただ、これらは美化されているとはいえ、このレオナルドの貴婦人像のような理想化の度合いが少ないと評している。

また逆に次の作品になると、その理想化が性格描写を摘んでしまい、「美人画」に堕してしまう傾向があるとする。
〇ラファエロ「ラ・ヴェラータ」(フィレンツェ、ピッティ美術館)

さて、レオナルドが風景の意味を重視する傾向は、「ジネヴラ・ベンチの肖像」にもっともよくあらわれているとされる。
この女性の肖像の背後に鬱蒼としげるネズの樹は、ローマの方言でジネヴラと呼ばれるものであり、この女性の名を象徴させたものである。それは絵の裏に描かれている棕櫚と月桂樹の環のなかのジネヴラの小枝とも関連している。また、この絵の裏には、「美が徳を飾る」というラテン語の文字が書かれているが、まさにこの女性は、フィレンツェの徳と美の二つを兼ね合わせもった女性であった。
彼女はフィレンツェ商人アメリゴ・デ・ベンチの娘である。16歳のとき、後にロレンツォのもとでフィレンツェの長官になるルイジ・ニッコリーニと結婚している。
彼女の祖父は、1443年、フラ・フィリッポ・リッピに自分の建てたムラーテ尼院の祭壇画を依頼している美術愛好家である。そして、父アメリゴは、フィチーノの主宰するプラトン・アカデミーに出席し、フィチーノにプラトンの写本を贈呈している。
このような環境に育った彼女には、ロレンツォ・デ・メディチから二つのソネットを献じられている。

ロレンツォが、ジネヴラの家にいた叔母にあたる23歳の女性に恋をしてスキャンダルになったとき、ジネヴラもフィレンツェから逃げ出さざるをえなかった。ロレンツォは、ジネヴラに自分を怒らないくれ、疑わないでくれと懇願し、彼女の「やさしい心情」「慈悲ぶかい気持」に訴えている。

そのやさしさは、画面から直接感じられないかもしれない。表情には微笑もなく、ただ聡明さだけが感じられる。だが、もし9センチほど切られた下部に、柔和な両手が描かれ、右手が胸のひらきをそっと抑えるような仕草をしているとしたら、そのいささか堅い調子はやわらいでいたにちがいないと、田中英道氏は想像している。
(ウィンザー王宮図書館にある銀筆のデザイン「女性の手」21.5×15㎝は、その下の部分を予測させるものといわれている)

このジネヴラの兄のジョヴァンニとレオナルドとは深い関係にあった。書物とか地図とかをお互いに貸し合う仲であった。さらにレオナルドは、未完成の「三王礼拝」図をこの家に託すほどのことまでしていた。
(「三王礼拝」図は、ジョヴァンニの息子アメリゴ・ベンチの家にあったとヴァザーリは伝えている)

妹ジネヴラの1474年の結婚式のために、この肖像画をレオナルドが描いたという推測も充分可能であると田中氏はみている。画面からいっても、まだ若い緊張した筆致が消えない頃の作品であるからと、その理由を述べている。また、この家族がメディチ家に近かったことは、レオナルドがこの頃、その周辺にいたことを証拠だてているようだ。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、62頁~65頁、74頁、266頁)

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レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯 (講談社学術文庫)

佐藤幸三氏も、この「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」(表記法は佐藤氏のそれに従う)について、言及している。
「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」は、もともと長方形の絵であったが、下の部分4分の1ほどが切り落とされたという(ワシントン、ナショナル・ギャラリー蔵)。いつ頃、なぜ、手の部分が切断されたかは謎であるといわれる。その肖像が完成していたら、現在、ウィンザ―城王室図書館蔵の「手の習作」のような手が描かれていたことだろう。
もともとこの絵は長い間ベンチ家にあったが、1733年、リヒテンシュタイン家の財産目録が公表されたとき、下部が切断されたこの作品が含まれていたという。「リヒテンシュタインの貴婦人」とも呼ばれていたが、1967年、ワシントンのナショナル・ギャラリーがリヒテンシュタイン家から購入し、現在に至っている。

また、ダ・ヴィンチの同僚ロレンツォ・クレディの「ジネヴェラ・デ・ベンチの肖像」が、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。その肖像画には手が描かれている(ただし、レオナルドのデッサンの手の形とは異なる)。

さて、ジネヴェラ・デ・ベンチとは、どのような女性だったのかという点について、次のように佐藤氏は説明している。
ベンチ家は代々メディチ銀行の総支配人を務めた。豪華王ロレンツォの時代、当主はアメリーゴ・デ・ベンチであった。長男はジョヴァンニ、長女はこの絵の主人公ジネヴェラ(ママ)であった。
ベンチ家はダ・ヴィンチの父ピエロにとって大事な顧客であり、ダ・ヴィンチもしばしば父とともにベンチ家に出入りした。
佐藤氏も述べているように、ダ・ヴィンチとジョヴァンニは年齢もあまり変わらず、二人はすぐに親しくなった。ベンチ家の人々も、ダ・ヴィンチを歓迎したようだ。それは娯楽の少なかった時代、リラを弾きながら、詩を吟じるダ・ヴィンチの美声に感動したからであった。
ヴァザーリが記すように、≪彼はまたもっともすぐれた吟誦詩人でもあった≫。この席には、ジネヴェラもいたことだろうと佐藤氏は推測している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、123頁~128頁)

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「ミラノの貴婦人」について


「ミラノの貴婦人」(ラ・ベッレ・フェロニエーレ[La Belle Ferronnière])という肖像画をめぐっても、ミステリーがあるとダイアン・ヘイルズ氏は記している。
これはレオナルドがミラノのルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニの肖像を描いた板と同じ木から取られた板に描かれている。

美術史家たちは最初、このモデルはフランス国王の愛人ではないかと見ていた。この女性はやがて金物細工師と結婚したので、フェロニエーレ(金物商)と呼ばれていたようだ。
だがのちに、モデルはルクレツィア・クリヴェッリ[Lucrezia Crivelli]だと判明した。この女性はミラノのベアトリス公爵夫人の侍女(女官)で既婚だが、のちに別の公爵の愛人になった。

この肖像も、やや斜めの構図(the three-quarter pose:四分の三正面像)である(レオナルドのトレードマーク[hallmark]になっている)。
また、その衣服の複雑な模様やリボンの結び方も、レオナルドの特徴を示している。それにもかかわらず、レオナルドの作を疑う者もいまだにいる。

ヘイルズ氏が、この肖像画をルーヴル美術館で最初に見たとき、モデルの決然とした視線(unflinching gaze)に取り憑かれたという。
そして、次のような疑問を呈して、回答を本書では保留している。
・レオナルドの意図はどこにあったのか。
・彼女はどうしてこのように鋭い目つきをしているのか。レオナルドの受け取り方のせいなのか、それとも彼女がレオナルドをそのような視線で眺めたのか。

原文には次のようにある。

Another mystery revolves around a painting called La Belle Ferron-
nière (the beautiful ironmonger’s wife), which Leonardo painted on a
panel cut from the same tree used for Cecilia’s portrait. Art historians
at first thought the model was a French king’s lover, who happened to be
married to an ironworker. Later she was identified as Lucrezia Crivelli, a
married lady-in-waiting to Duchess Beatrice of Milan, who became an-
other of the Duke’s mistresses.
Some still question the attribution, despite such Leonardo hallmarks
as the three-quarter pose and the intricately patterned and ribboned
dress, a testament to the artist’s wondrous way with fabrics. But what
captivated me when I saw the portrait in the Louvre was the sitter’s un-
flinching gaze. What was it about Leonardo and the ladies he chose to
paint that brought out such intensity? Was it the way Leonardo looked at
women or the way looked at him?
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.105.)

【単語】
・ironmonger (n.)金物商、鉄器商人
・hallmark  (n.)特徴、目印
・flinching  (a.)ひるまない、決然とした、しり込みしない、断固たる
・intensity  (n.)激しいこと、熱心さ
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、155頁参照のこと)