歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その9≫

2020-05-31 10:23:02 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その9≫
(2020年5月31日投稿)
 

【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】


はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 今回のブログでは、ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』の解説補足をし、フランス語の解説文を読んでみたい。
 そして、篠田達明氏の『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』(新潮新書、2003年)をもとにして、『モナ・リザ』の目元の脂肪塊、レンブラントのバテシバ像について、解説してみたい。
 あわせて、グルーズという画家について考えてみたい。とりわけ、グルーズは理想的にはどのような画家になろうとしたのだろうか。グルーズの画家としての志向性に関心を抱きつつ、述べてみたい。また、グルーズの作品『壊れた甕』について、若干の感想を付記しておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク
・ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』のフランス語の解説文を読む
・『モナ・リザ』の目元の脂肪塊について
・レンブラントのバテシバ像について
・グルーズとシャルダン
・ディドロとグルーズ
・【補足】グルーズの結婚と晩年
・グルーズ作『壊れた甕』についての私の感想ひとこと~歌「花はどこへ行った」と映画『シェルブールの雨傘』
・参考文献






【読後の感想とコメント】


イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク(1599~1641年)


中野氏は「第⑭章その後の運命 ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』を取り上げていた(中野、2016年[2017年版]、187頁~197頁)。

木村氏も、「イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク」と題して、「第4章フェイス~肖像画という名の伝記~」の中で述べている(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、173頁~176頁)。

スチュアート朝2代目の王チャールズ1世(在位1625~1649年)のこの肖像画は、“馬から降りた騎馬像”とでもいうべき作品で、一風変わった肖像画であると木村氏は捉えている。
この作品のどこが一風変わっているのか。
この時代の王侯貴族の騎馬像といえば、立派な馬に乗っている姿が理想化されて描かれるのが普通だったのに、チャールズ1世に馬から降りてもらって描いているからである。
チャールズ1世は生真面目な人物であったが、当時からその風采の上がらなさは有名だったそうだ。
(ただし、チャールズ1世は偉大な収集家で、美術に関して高い審美眼の持ち主で、死去の際には1387枚の絵画と、387体の彫刻を所有していた)

そこでアンソニー・ヴァン・ダイクは、チャールズ1世のために、ヴァン・ダイク風の理想化を図る。この作品では馬から降りてもらい、肘鉄をくわすようなポーズをとってもらったようだ。背景には、緑豊かなイングランドが広がり、王の前で美しい馬も頭を垂れている。
この絵が優雅であると同時にリラックスした肖像画として、評判になる。控えめなエレガンスや、さりげない威厳を好むイギリス貴族の嗜好に合ったのである。これ見よがしに権威を振りかざした肖像画よりも、ずっとすばらしいとされた。

チャールズ1世のお気に入りであるヴァン・ダイクは、イギリス貴族の間でも人気肖像画家となる。
チャールズ1世の家臣たちも、こぞって肖像画を依頼するようになる。例えば、第7代ダービー伯爵の肖像画がある。
〇ヴァン・ダイク「第7代ダービー伯爵と夫人と娘」
(1636年頃 246.2×213.7㎝ ニューヨーク フリック・コレクション)
※ちなみに、この絵は伯爵位を継承する前に描かれている

チャールズ1世は王権神授説に固執し、さらにフランス王女でカトリックのマリアと結婚したために議会との関係が悪化し、1649年1月断頭台の露と消える。第7代ダービー伯爵は、そんなチャールズ1世と最後まで運命をともにした人物であるそうだ。

この肖像画で、ヴァン・ダイクの優れたところは、この夫妻が何を描いてもらいたいのかがよくわかっている点であると木村氏はいう。
例えば、ダービー伯爵の後ろに島影があるが、これはマン島である。ダービー伯爵家は、マン島の領主だから、その島を背景に描いたようだ。
奥方のシャルロットは、ブルボン家の血筋を引く名門貴族出身である。フランスから嫁いできた彼女の後ろには海が広がっている。そして、二人の間に生まれた娘は半分オレンジ色のドレスを着ている(なぜかといえば、彼女の母方の祖父にあたる人物は、オランダ建国の父オラニエ公である。オラニエ公は英語でいうとデューク・オブ・オレンジであり、ここからドレスの色をオレンジ色に決めたそうだ)。

だから、当時の人たちがこの肖像画を見れば、「マン島の領主であるダービー伯爵家、そしてオラニエ公の血が、この夫妻の娘には流れているのだ」とすぐに理解できたようだ。
このように、ヴァン・ダイクは、モデルが描いてほしいと求める自分の地位や心理状態の表現が巧みであった。その手法は、優美で洗練された18世紀イギリスの肖像画の基礎となっていく。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、173頁~176頁)

【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】


名画の言い分 (ちくま文庫)



ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』のフランス語の解説文を読む


フランソワーズ・ベイル氏は、ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』について、次のような解説文を記している。
PEINTURE DU NORD
Antoon Van Dyck, Charles Ier, roi d’Angleterre, à la chasse,
vers 1635-1638, huile sur toile, 266×207㎝

Après avoir travaillé dans l’atelier de Rubens, Van Dyck voyage
en Italie et en Angleterre, où il finit par s’installer. S’inscrivant dans
la lignée de Titien, celui que l’on baptisa le « Mozart de la pein-
ture » définit par ce portrait du roi Charles Ier, dont il était le
peintre officiel, le portrait aristocratique en Angleterre, où son
influence sera considérable.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.59.)

≪訳文≫
北方絵画
アントーン・バン・ダイク「狩りをするイギリス王チャールズ1世」:1635~1638年頃、油絵・カンバス、266×207㎝

バン・ダイクは、ルーベンスのアトリエで働いたあとイタリアとイギリスを訪れ、最終的にイギリスに落ち着くことになる。ティツィアーノの系譜に連なる彼は『絵画界のモーツアルト』と呼ばれたが、宮廷画家として国王チャールズ1世を描いたこの肖像画によって、イギリスにおける貴族の肖像画の地位を決定づけ、大きな影響力をもつことになる。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、59頁)

【語句】
la chasse [女性名詞]狩り(hunting)
Après avoir travaillé <助動詞avoirの不定形+過去分詞(travailler)不定法過去
 travailler 働く(work)
l’atelier  [男性名詞]アトリエ、工房(studio, atelier)
où il finit par <finir終わる(finish, end)の直説法現在
 finir par+不定法 最後には~する、ついに~する(end by doing)
 <例文>
  Il finit par l’acheter. とうとう彼はそれを買った(In the end, he bought it.)
  Le renard a fini par s’apprivoiser. キツネはついに飼い慣らされた
  Tout finira par s’arranger.    万事うまく結着するだろう
 La vérité finissait par émerger.  ついに真相が明らかになった
s’installer 代名動詞 (à, dansに)落ち着く、身を寄せる(settle in)
S’inscrivant <代名動詞 s’inscrire登録する、加入する(sign on, register)の分詞法現在
la lignée  [女性名詞]血統、子孫(line)
Titien   [男性名詞]ティツィアーノ(1493/1490頃~1576)イタリアの画家(Titian)
l’on baptisa <baptiser洗礼を授ける、命名する(baptize)、あだ名で呼ぶ(nickname)
の直説法単純過去
Mozart  モーツァルト(1756~1791)オーストリアの作曲家
la peinture [女性名詞]絵画(picture)
définit par  <définir 定義する、明確にする(definite)の直説法現在
ce portrait  [男性名詞]肖像画(portrait)
il était   <êtreである(be)の直説法半過去
aristocratique  [形容詞]貴族の(aristocratic)
son influence [女性名詞]影響(力)(influence)
sera <êtreである(be)の直説法単純未来
considérable [形容詞]大きな、相当な(considerable)

【Valérie Mettais, Votre visite du Louvre, Art Lysはこちらから】


Visiter le Louvre




『モナ・リザ』の目元の脂肪塊について


中野氏は、『モナ・リザ』を解説した際に、「目元の脂肪塊についての研究まである」と指摘していた(中野、2016年[2017年版]、237頁)。
この点についてコメントを付しておきたい。
篠田達明氏は『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』(新潮新書、2003年)において、このことを述べている。
篠田氏は、「肖像画を医学的見地から推理する」というテーマで、エッセイをかいてほしいという芸術新潮編集部の依頼によって執筆されたそうだ。
篠田氏が、看護学校で講義を担当したとき、「モナ・リザはピザやスパゲッティの食べすぎで高脂血症を患っていたんだ」などと脱線すると、それまで眠そうだった看護学生たちの目がぱっちりひらくのが楽しみだったと「あとがき」で書いておられる(205頁)。

篠田氏によれば、モナ・リザは高脂血症だったそうだ。このことは「第一章 あの「名作」に隠された“病い”」の中で述べている。この第一章では、「バテシバの乳癌」「ヴィーナスの外反母趾」「ラス・メニナスの軟骨無形成症」といった項目とともに、「モナ・リザは高脂血症」(12頁~18頁)を叙述している。

モナ・リザの左の目頭(めがしら)には黄色いしこり(米粒よりやや大きな腫瘤)がある。
(上に掲載した洋書の表紙『モナ・リザ』の写真でも、黄色いしこりが確認される)
以前から医療人の間では、このことは取沙汰されていたらしい。欧米の医学者たちはモナ・リザのモデルになった女性は高脂血症ではなかったかという説を唱えた。
コレステロールの多い食物を長年摂りつづけると、余分なコレステロールが肘やまぶたによくたまり、黄色いしこりが盛りあがるという。モナ・リザの目頭のしこりも、コレステロールの多い食物の摂りすぎによる高脂血症から生じた黄色腫と目されるようになった。

この絵のモデルには諸説あるが、フィレンツェの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドの三度目の妻リザとした場合、リザ夫人が24歳から27歳ごろに描かれたことになる(ただ、生活習慣病である高脂血症を患っていたとすると、少し年齢が若すぎるともいう)。

モナ・リザが描かれた16世紀初頭のイタリアは、ルネサンス華やかりし時代であった。多くの裸婦像も描かれたが、そこにみられる女性たちはむっちりと肥満していて、脂身の多い獣肉やバター、チーズ、鶏卵など、コレステロールの多い食べ物をせっせと口にしたので、そのような肉体がつくりだされたと篠田氏は想像している。

モナ・リザも着痩せしてみえるが、当時の多くの女性と同様、豊満な肉体を呈していたと推測している。一見、つつましやかにみえるモナ・リザも、じつは相当の食いしん坊で少女のころからコレステロールたっぷりの料理を飽食していたことはあり得る。目をこらすと、上唇の右側にアフタ(口内炎)を思わせる小さな発疹らしきものがみえるそうだ。口内炎はブドウ酒の飲みすぎか、消化不良をおこして、胃が悪くなったときによくできる。レオナルドは科学者の正確さをもってこれを見逃さず描いたかもしれないという。

篠田氏も、画面の中のモナ・リザは、生活習慣病である高脂血症を患っていた可能性が十分にあるとみている。また、若いうちからの発症などを考えると、家族性高コレステロール血症ともみられるらしい。
皮膚科の医師によれば、なぜか家族性高コレステロール血症の女性は美人が多く、肌が生き生きとしてきれいだそうである。ただし、皮膚科医の先生は、モナ・リザの眼瞼腫瘤の色や形、そしてそれが左側だけにあることを考えると、黄色腫と決めつけるのは問題であり、母斑(ぼはん)の変種かもしれないという(絵だけをみて確定診断をつけてはいけないとたしなめられたそうだ)。

篠田氏は「レオナルドはモナ・リザに対する愛着がことのほかつよく、晩年をすごしたフランスのクルー城館まで画像をもってゆき、最期まで手離さなかったと伝えられる」と付記することも忘れない。
(篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、12頁~18頁)
レオナルドは晩年まで『モナ・リザ』に手を加えたので、目頭のしこりも、本当に24歳から27歳ごろのリザ夫人の顔にできていたのだろうかと私もふと疑問に思った。それと同時に、最期まで手元に置いて、普遍的な究極の美を追求したレオナルドは、なぜ目元の脂肪塊のような個人的特徴を示すものを描き残したのだろうか。私にとっても疑問であるとともに謎である。

【篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)はこちらから】


モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ (新潮新書)

レンブラントのバテシバ像について


レンブラントは、ゴッホとともにオランダの生んだ世界的な画家である。日本ではゴッホに人気があるが、ヨーロッパではレンブラントのほうが評価が高い。濃い陰影の中に内部から、じわりとにじみでる深い精神性をたたえているからである。
『旧約聖書』の中に「バテシバ」というあでやかな美女がでてくる。ヘト人ウリヤの妻だったが、イスラエルの王ダヴィデにみそめられ、召されて王妃となり、ソロモン王子を生んだ。

中野京子氏も解説していたように、ダヴィデは、たまたまバテシバが入浴している姿を屋上から目にして、彼女にぞっこん惚れこんだ。バテシバの夫を戦場に出陣させ、その間に彼女をものにしようと誘いの手紙を送りつけた。ぜひ王宮にくるようにという艶書を手にした貞淑な妻バテシバは思い悩んだ。
その彼女の姿を、レンブラントは当時28歳だった若い愛人ヘンドリッキェ・ストッフェルスをモデルに描いた。

ところで、篠田達明氏は「バテシバの乳房」と題して、次のように述べている(『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、25頁~30頁)。
バテシバの左乳房に注目すると、乳房の外側には明確な陥没がみとめられ、乳癌の症状をあらわしているという(乳房の外上四分円が好発部位。バテシバの左乳房の表面が陥没し、でこぼこしているのは癌と皮膚とのあいだに癒着がおこっている証拠だそうで、乳癌はかなりすすんだ状態らしい)。

ヘンドリッキェは、≪バテシバ≫のモデルとなってから9年後に37歳で他界した。おそらく、乳癌の転移がもとで亡くなったものと篠田氏は推察している。死にいたるまでの期間がやや長いが、乳癌の多くは進行がゆるやかで、ヘンドリッキェの病状も緩慢な経過をたどったとみる。

≪バテシバ≫が描かれたのは、1654年とされる(日本では徳川4代将軍家綱の治世に当たる)。欧州の医師によって、このバテシバが、どうやら乳癌らしいと取沙汰されだしたのは、1990年前後である(発症からじつに300数十年を経て、ようやく診断がついた珍しい症例だそうだ)。

光と影の巨匠レンブラントは、愛する女性がそのような病気だとはつゆ知らず、その病像を精緻に細部描写した。
篠田氏は、この絵を「医学史上も、未治療乳癌を視覚的にとられた希有の例であり、きわめて価値のある逸品」(30頁)と評している。
(篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、25頁~30頁)

【篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)はこちらから】
モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ (新潮新書)



グルーズとシャルダン


ジャン=バティスト・グルーズ(1725~1805)の風俗画は、生前、市民の間で絶大な人気を誇ったが、次代の新古典主義によってその様式を全否定されてしまう。最近、復権がなされつつあると中野氏は、グルーズについて評している。
グルーズとシャルダン(1699~1779)はよく対比される。中野氏も、「第⑧章 ルーヴルの少女たち」と題して、グルーズの『壊れた甕』とシャルダンの『食前の祈り』という風俗画を取り上げていた。中野氏は、グルーズの腕を評価していた。『壊れた甕』では、故意に主題を曖昧にしたとしている。グルーズほどの腕があれば、明快なメッセージはいかようにも可能だったはずだが、敢えてそうはしなかったとみている。
一方、シャルダンは、「色を使って感情を描く」と言った画家らしく、ただの道徳画を超え、見る者に家庭の温かさなどを思い起こさせると、高い評価を与えている。
(中野、2016年[2017年版]、115頁~123頁。とくに118頁、122頁)

グルーズは、卑俗な風俗画で、いわば教訓的な情緒を表現した。それに対して、シャルダンの静物や風俗は、同じロココ的な繊細で甘美な情緒性をたたえながら、物と物との関連、空間の静かな秩序を探求することによって、たとえばセザンヌの静物などに先駆するともいわれる。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、169頁)

【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)



【シャルダンの自画像】
田中英道氏は、『美術にみえるヨーロッパ精神』(弓立社、1993年)において、「自己を理想化できない十八世紀以後の画家」と題して、シャルダンの『自画像』(ルーヴル美術館)を取り上げている。

18世紀の自画像の典型は、シャルダンの、この奇妙な部屋着姿の像にみとめることができるという。76歳の自らを写実的に描いている。ナイト・キャップとして頭にマフラーを巻き、丸い眼鏡の上に青い庇をつけている。これは当時のフランス庶民の姿そのものであるそうだ。そこには、芸術家としての尊大な姿はない。
この点、スペインの画家ゴヤの『自画像』(プラド美術館)も同じで、宮廷画家であったにもかかわらず、1815年、70歳のときに描かれた、その肖像画に少しも気取りがない。
(田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年、136頁~137頁)

【田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』はこちらから】美術にみるヨーロッパ精神

ディドロとグルーズ


18世紀最大の美術批評家とされるディドロは、シャルダンとグルーズを評価した。
ディドロの絵画観を、18世紀のフランスの歴史画の発展にも関わりをもった画家グルーズとディドロとの関係の面から、鈴木氏は検討している。

1760年代のグルーズは、テーマの面でも様式の面でも、ロココの享楽主義やバロック的ダイナミズムとの訣別の方向に向かっていたようだ。
1750年代には、肖像画や通俗的なセンチメンタリズムの風俗画の描き手であったグルーズは、1760年代前半を中心に新しいタイプの風俗画を制作するようになる。

それは、道徳的教訓、すなわち父親の権威、母親の慈愛、青年の孝心、娘の純潔といった観念の称揚を盛りこんだドラマティックな風俗画であった。それは、当時台頭しつつあった市民社会の家庭を健全に維持するための、道徳であったようだ。

代表的な作品として、鈴木氏は次のものを挙げている。
〇≪村の花嫁≫(1761年、ルーヴル美術館)
〇≪親孝行≫(1763年)
〇≪慕われる母親≫(1765年)

これらは家庭内の情景を描き出している点では、17世紀オランダの風俗画を継承する性格をもつ。また個々の人物の役割が年齢・性別・服装・仕種・表情などの手段で明示されている点では、英国のホガースの作品と一脈相通ずるものをもっているそうだ。

しかし、その一方で、これらの作品は、17世紀の正統的な歴史画の方式に近い性格もあるといわれる。例えば、強い道徳的主張を行ない、舞台のように限定された空間に人物たちが明快に配置されている点がそうである。

グルーズはのちに1770年代になって、このような新様式をいっそう徹底して、制作している。例えば、次の作品がある。
〇≪父親の呪い≫(1777年、ルーヴル美術館)
〇≪罰された息子≫(1778年、ルーヴル美術館)
この二作品のテーマは、先の作品群に比べ、道徳的観念の単純な称揚の域を脱していると鈴木氏はみている。
父親の意志にそむいて家を出た息子が戻ってきた時には、すでに父は死の床にあり、むこうみずな息子の行為は、彼自身の悔恨と一家の不幸を生む。

このテーマの根底にあるものが父権的な家庭道徳の称揚である点に変わりはないが、一つの明確な方向性をもつ観念を示していると鈴木氏は述べている。
ストーリーの一場面といて平板に描き出すのではなく、主役である息子の行為の瞬間とその時の人々の反応を
パセティックに描き出しているという。
(当時の批評は、この二作品を17世紀のオランダの風俗画によりも、むしろラファエロやプッサンに比して賞讃している)

1760年代および70年代のグルーズの風俗画は、その観念的な内容によって、観る者に「解読」の喜びと「思索」の機会を与える絵として人気を博した。形骸化した歴史画やロココ的テーマの無内容にあきた人々がそうであった。

それにもかかわらず、グルーズ自身は歴史画家になろうとする野心を抱いていた。
そして、1769年にいわゆる≪セウェルスとカラカラ≫事件をひきおこした。
これは、それまでアカデミーの準会員であったグルーズが正式の会員になるための入会作品として、≪父の暗殺を企てたかどで息子カラカラを糾弾するセウェルス帝≫(1769年、ルーヴル美術館)を提出し、会員として認められはしたものの、「歴史画家としてではなく風俗画家の資格で入会を認める」という条件が付された事件である。

この事件については、1769年のディドロのサロン評に見出されるようだ。風俗画家の資格という条件付きに、グルーズは落胆し立腹し、この作品をルーヴル宮内の審査会場に残したまま立ち去ったという。そして、作品は、同年のサロンの出品作として展示され、容赦のない批評を浴びた。

批判の中には、造形的に当たっているものもあったが、古代ローマのテーマを明白なプッサン様式で描いている(アカデミーの綱領に合致させている)のに、当時の人々の扱いは苛酷であった。純粋な作品評価のほかに、人々の反感があったと鈴木氏は解釈している。つまり、これまで風俗画家として認められてきたグルーズが自分の領域を脱して、歴史画家としての地位に野心を示したことに対する反感である。

実際、ディドロもサロン評で次のように記している。
「グルーズは自分の分野から出てしまった。自然の細心な模倣者であった彼は、歴史画を要求する一種の誇張にまで己れを高めることができなかった」と。

17世紀のアカデミーが設立した画題の序列は、画家の序列でもあった。その壁はそれを乗り越えようとする者にとっては、グルーズの例にみるように、厚くまた高かった。
グルーズはこのあとは、従来の歴史画的な構成の風俗画や肖像画の制作に戻ったが、最晩年の1800年までサロンに出品することはなかった。

ところで、ディドロは、このようなグルーズの軌跡に最も大きな影響を与えた人物であった。ディドロはルソーの友人でもあり、若い時から旧来の芸術や思想の貴族趣味や形式主義に異議を申し立てていた。ディドロは、演劇においては、中産階級の人々の直面する課題を教訓的にとりあげた市民劇を主張した(実例として、戯曲『私生児』(1757年)や『一家の父』(1758年)を執筆)。
またルソーと同じくディドロは、道徳的な教訓を含んだ心理小説を書いた、英国の人気作家リチャードソンを好んだ。グルーズの風俗画に対するディドロの共感は、彼のこのような道徳的傾向によるものであったらしい。

1761年に、サロン評を執筆した際に、グルーズの≪村の花嫁≫(1761年、ルーヴル美術館)
について、ほとんど満点に近い評価を与えている。
ディドロによれば、この絵は、嫁ぐ娘の持参金を支払い、結婚の手続を終えた農村の父親が娘婿に花嫁を幸福にするよう頼んでいる場面である。
そして、この絵はパセティックであり、グルーズはオランダ17世紀の風俗画テニールスに比べて、自然をいっそう優美で美しく心地よいものに高めていると評している。
その後もディドロは、グルーズの作品を丁寧な記述で批評し、グルーズの風俗画の道徳性とその表現形式を高く評価している。
ディドロにとって絵画の内容の市民的堅実さは好ましいものであった。

だが、ディドロが絵画の領域として最も重要なものと考えていたのは、本来の歴史画であった。歴史画の中でも、形骸化したエロティシズムに陥りやすい神話ではなく、主にローマの歴史から採られた道徳的テーマの歴史画であった。
そして、ディドロは帝政期のローマの威容に夢中になり、ローマの賢人たちの事績を描くためには、17世紀の歴史画の様式が不可欠であると考えた。
例えば、17世紀フランス最大の歴史画家ニコラ・プッサン(1594~1665)の≪エウダミダスの遺言≫(1653年頃、コペンハーゲン、国立美術館)を理想的な傑作とみなしていた。

ディドロは、このような絵画観の持ち主であったから、グルーズが風俗画にあき足らなくなり、適当な歴史画のテーマを求めて相談した時、≪ブルートゥスの死≫を奨めた。
グルーズは、それまで風俗画として多くの制作した経験のある「家族間の葛藤」の主題に近い≪セウェルスとカラカラ≫のテーマを古代史から選んだ。

ディドロが≪セウェルスとカラカラ≫の完成作に対して批判的であったのは、テーマの選定に関してグルーズがディドロの助言を最終的には受け入れなかったという事情も一因となっていたかもしれないといわれる。
さらなる理由としては、「グルーズは自分の領域から出てしまった」というディドロの言葉に示されているように、ディドロは歴史画を尊重する伝統的な思想の持ち主であったので、歴史画家たらんとする風俗画グルーズの心意気は、分を越えたものと感じられたのであろう。
ディドロがもっとも好んでいたシャルダンについても、「シャルダンは歴史画家ではないが、偉大な人物である」と記し、ディドロは画家の序列にも厳格な考え方をしていた。

ディドロの絵画観に、内容と形式の点で完璧に合致していた作品の描き手は、ダヴィッドであったと鈴木氏はみている。
ただ、ディドロの没した1784年は、ダヴィッドがフランス新古典主義絵画のピークとみなされ、彼自身の代表作でもある数点の作品の内、まだ半数も描いていない時期に当たっていたとも断っている。
歴史の偶然は、この二人が充分に理解し合う機会を与えたとはいえないが、それでもディドロは限られた機会に、この若い画家について好意的な文章を書きのこしているそうだ。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、64頁~71頁)

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』



【補足】グルーズの結婚と晩年


18世紀の後半に活躍した画家グルーズは、ロココの絶頂にあって、ロココ絵画の享楽的なエロティシズムに対抗するかのように、当時の市井風俗を描いた。そこにしばしば教訓的意図を盛り込んだ。1761年のサロンに出品された『村の花嫁』(ルーヴル美術館)は、グルーズの教訓的風俗画のいい例である。

グルーズの絵は少々通俗的で大げさだが、爛熟したロココ絵画の人工的な美よりも、市民的なモラルを重視しようとするディドロら当時の啓蒙思想たちに支持された。グルーズも18世紀後半の芸術の中に重要な位置を占める画家である。

もっとも、グルーズが見かけほどロココのエロティシズムと無縁ではなかったことを示す作品が、『壊れた甕』である。ここに描かれた少女はいかにも愛くるしく、水甕を壊してしまったことを悔いているような様子であるが、よく見ると思わせぶりである。彼女が腕に持っている水甕が壊れて穴があいていることは、すでに彼女が無邪気な少女時代に別れを告げたことを暗示する。

ところで、グルーズは1759年、美しい女性アンヌ・ガブリエルと結婚し、自らの初期の作品に彼女を理想的なモデルとして描く。しかし、実際の彼女は薄っぺらで自堕落な女だったらしく、スキャンダルをたびたび起こし、幸福な結婚生活ではなかったようだ。のちにグルーズは離婚するにいたる。
フランス革命が起こってからは、グルーズは世間から忘れ去られ、貧困のうちに世を去った。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、104頁~106頁)

【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)



グルーズ作『壊れた甕』についての私の感想ひとこと~歌「花はどこへ行った」と映画『シェルブールの雨傘』


私は、中野京子氏のグルーズ作『壊れた甕』の解説を読んで、私なりの感想をひとこと述べておきたい。

このグルーズの絵は、歌「花はどこへ行った」(原題Where Have All The Flowers Gone、1961年)と映画『シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)』(1964年)と重なり合う。

「花はどこへ行った」(原題Where Have All The Flowers Gone、1961年)は、世界で一番有名な反戦歌とも言われるフォークの楽曲である。
アメリカン・フォークの父とも言われるピート・シーガー(Pete Seeger)による作詞作曲であり、シーガーの代表作でもある。
(シーガーは、3番までの歌詞で、4番と5番の歌詞はジョー・ヒッカーソン[Joe Hickerson]が書き加え、1961年に著作権が登録し直されたそうだ。この歌詞への加筆によって反戦歌としての色彩が鮮明になったといわれる)

1961年、キングストン・トリオがこの曲を録音して発表し、翌1962年にヒットした。1962年には、ピーター・ポール&マリーによってもカバーされ、こちらもヒットした。その背景には、アメリカがベトナム戦争に関わり始めたことがあったとされる。「花はどこへ行った」という曲は、反戦歌として広く親しまれるようになる。

さて、ご存じのように、「花はどこへ行った」の歌詞は、おおたたかし訳詞によれば、1番から5番まである。1番で「野に咲く花はどこへゆく」という問いに対して、「野に咲く花は少女の胸にそっとやさしくいだかれる」と答える。
同様に2番では「かわいい少女はどこへゆく」→「かわいい少女は若者の胸に恋の心あずけるのさ」。3番では、「その若者はどこへゆく」→「その若者は戦いにゆく 力づよく別れを告げる」。4番では、「戦い終りどこへゆく」→「戦い終り 土にねむる やすらかなるねむりにつく」。5番では、「戦士のねむるその土に野バラがそっと咲いていた」→「野バラはいつか少女の胸にそっとやさしくいだかれる」

つまり、「野に咲く花」→「少女の胸」→「若者の胸」→「戦場」→「お墓」→「野バラ咲く」→「少女の胸」と循環法的に元に戻る歌詞の構造になっている。そして、一種の反戦歌となっている。
(例えば、松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』ドレミ楽譜出版社、1994年、162頁~164頁)。

【松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』はこちらから】


学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編

一方、グルーズ作『壊れた甕』に描かれた“ルーヴルの少女”は、中野氏が解説したように、胸に飾った薔薇は花弁がむしられて、腹部あたりで、散った薔薇をドレスの裾で抱えている。本作の成立には、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人が直接グルーズに依頼したともいわれ、彼女は若き日、無邪気にも最初の恋の相手を真に愛したかもしれないという(中野、2016年[2017年版]、118頁~120頁)。

一方、映画『シェルブールの雨傘』のストーリーはこうである。
時代と舞台は、1957年、アルジェリア戦争だた中のフランス、港町シェルブールである。
20歳の自動車整備工ギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)と、17歳のジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は結婚を誓い合った恋人同士だった。

しかし、やがてギイに召集令状が届き、アルジェリア戦争において、2年間の兵役をつとめることになった。別れを惜しむ二人は、その夜、結ばれる。
ギイが入営したあと、1958年、ジュヌヴィエーヴは妊娠していることを知る。その後、二人はすれ違いの人生を歩み、それぞれ別の人と結婚することになってしまう。
1963年の12月の雪の夜、入営の日にシェルブール駅で別れて以来、二人は偶然にも再開するが、、、
カトリーヌ・ドヌーヴが演じたジュヌヴィエーヴという女性と、このグルーズの『壊れた甕』の少女が重なる。また、「花はどこへ行った」で戦争が愛する二人を引き裂いた点で、映画『シェルブールの雨傘』とストーリーが重なるのである。

【映画『シェルブールの雨傘』はこちらから】

シェルブールの雨傘 デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]



≪参考文献≫


鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔――』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年
J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫、1987年
飯塚信雄『ロココの時代――官能の十八世紀』新潮選書、1986年
中山公男編『大日本百科事典 ジャポニカ21 別巻世界美術名宝事典』小学館、1972年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年
Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001.
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年
高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書、2010年
木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年
中西進『万葉集入門』角川文庫、1981年
佐佐木信綱編『白文 万葉集 上巻』岩波文庫、1930年[1977年版]
松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』ドレミ楽譜出版社、1994年




≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その8≫

2020-05-29 18:35:56 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その8≫
(2020年5月29日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 今回のブログでは、ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』について考えてみたい。
 ルーベンスといえば、あの『フランダースの犬』のネロが憧れた「バロック絵画の王」である。このルーベンスと、マリー・ド・メディシスは、不思議な因縁で結ばれていたようである。
 ルーベンスの出身地フランドルと、アンリ4世のフランスとでは、女性に対する美意識も相違していたことが、木村泰司氏の著作を読むとわかってくる。
 なお、ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』の中から1枚『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』についてのフランス語の解説文を読んでみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・『マリー・ド・メディシスの生涯』
・マリー・ド・メディシスの一生とルーベンスの連作
・【マリー・ド・メディシスの一生】
・【マリー・ド・メディシスによる連作の注文】
・『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』のフランス語の解説文を読む







【読後の感想とコメント】


『マリー・ド・メディシスの生涯』


中野氏は「第⑥章 捏造の生涯」において、ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』を解説していた(中野、2016年[2017年版]、83頁~97頁)。

木村泰司氏も、17世紀のフランドル絵画といえば、この人なくしては語れないとしてルーベンスに言及している(あの『フランダースの犬』のネロが憧れた「バロック絵画の王」である)。
ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』の傑作の中から1枚『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』(1622~1625年 ルーヴル美術館 リシュリュー翼3階 394×295㎝)を取り上げている。
海の中にいる3人の海の精たちが、なぜ、ぽっちゃりしすぎに描かれているのかについて、木村氏は私見を述べている。

そこには、フランスとフランドルとの間での美意識の違いがみられるという。
フランスでは、13世紀後半にすでにパリの宮廷風の「優美様式」というものができあがっていた。S字曲線のスレンダーな人物を美しい、エレガントであると見なす美意識であった。フランスはもともと直線的な美を好むお国柄だという。

例えば、時代は少し下り、
〇16世紀のフォンテーヌブロー派による『狩りの女神ディアナ』
(1550~1560年頃 192×133㎝ ワシントン ナショナル・ギャラリー)
この絵にも、この美意識は見てとれる。
この絵は、ディアーヌ・ド・ポワティエという女性をモデルにしている。彼女はあのフランソワ1世の息子、アンリ2世(在位1547~1559年)の公式の愛妾である(王妃はカトリーヌ・ド・メディシス)。ディアーヌ・ド・ポワティエは、他の肖像画で見ると、もう少しがっちりとした体型をしているが、この絵は少々理想化されているといわれる。
16世紀になると、フランス宮廷は、洗練されていく。100年遅れとはいえ、イタリアからルネサンスを輸入した当時の宮廷人たちは、神話にも精通するようになる。
ディアーヌ・ド・ポワティエは、自分と同じ名前の女神、月と狩りの女神ディアナ(フランス語でディアーヌ)に扮している。

このあと、ヨーロッパでは、貴婦人が古代の女神や神話の登場人物に扮する肖像画が流行していく。このような寓意的肖像画というのは、貴族階級の芝居観賞や仮面舞踏会からくる変身願望がベースにあるようだ。

肖像画は17世紀に著しく発展し、それぞれの国で、傑作、名作と呼ばれる作品が誕生してくる。というのも、私たちがイメージするヨーロッパの国々というのは、17世紀に形づくられたといわれる。ネーデルラント連邦共和国が独立したのもそうである。フランスもルイ14世の絶対王政を経て、ヨーロッパ屈指の国へと成長していく。
それぞれの国の政治的、宗教的背景のもとで、美術も独自の発展をしていく。

一方、ルーベンス(1577~1640年)は、その17世紀バロック時代の画家である。ルーベンスは、フランスの隣りの国、フランドル人であり、別の伝統や美意識があった。
歴史的にみて、17世紀のバロック時代より1世紀前、フランドルは大変な状況になっていた。プロテスタントへの過酷な弾圧、宗教戦争、独立戦争など、相次ぐ戦争によって大地は荒れ果て、人々は飢えで苦しんだ。そうした状況は17世紀になって、やっと落ち着いてきた。
そのような故郷の歴史を知っているルーベンスにとっては、このようにふくよかな女性こそがまさに豊かさ、美しさ、そして平和の象徴であった。
「ところ変われば品変わる」である。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、159頁~162頁、169頁~173頁)

【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】


名画の言い分 (ちくま文庫)


ただし、マリー・ド・メディシスの“名誉”のために、木村泰司氏のもう1冊の本『美女たちの西洋美術史』(光文社新書、2010年)には、マリーの20歳頃の肖像画が載っている。
つまり、ピエトロ・ファケッティによる『マリー・ド・メディシスの肖像』(1595年頃)がそれである。マリーの生没年は、1575~1642年であるから、制作年の1595年頃は、20歳頃である。
この肖像画を見ればわかるように、元々は端正な顔立ちの美しい娘だったと木村氏も評している。

ただ、1600年、代理結婚式が執り行われ、マルセイユ港に到着した25歳の頃には、すでに肥満傾向にあったようだ。
1600年10月5日に、フィレンツェでは、ベルガルト公がアンリの代理を務めてマリーとの代理結婚式が執り行われたが、当時イタリア滞在中のマントヴァ公に仕えていた画家ルーベンスも、お供としてこの結婚式に参加している。
(以後、マリーとルーベンスは、晩年まで不思議な因縁で結ばれた関係となる)

フィレンツェを後にしたマリーは、ジェノヴァの港からお供に付き添われ、11月3日にマルセイユに到着する。その姿を見たフランス人は、その威厳と風格に感銘したが、彼女の容姿にはそこまで感心はしなかった。20歳代半ばの頃には、すでに肥満傾向にあった。
マリーがフランスの大地に降り立ってから約1週間後、やっとリヨンで初めてアンリと対面するときが来た。しかし、実物のマリーはアンリが目にしていた肖像画のようにほっそりとした繊細な美人でなかった。フランス美女を見慣れたアンリからしたらマリーは田舎臭く見えたようだ。

ルーベンスは『マリー・ド・メディシスの肖像』(1622~25年、プラド美術館)をも残している。
ルーベンスとマリー・ド・メディシスは不思議な因縁で結ばれている。若きルーベンスは、前述したように、フィレンツェでのマリー・ド・メディシスの代理結婚式に参列している。そしてリュクサンブール宮殿のために制作した24枚の連作は二人の名前を未来永劫のものにした。
また、1631年にマリーが再び息子によって追放され、ブリュッセルに亡命した際には、アントウェルペンのルーベンス邸も訪れている。彼女の最期にも、その因縁が感じられる。つまり、1640年、ルーベンスは北ヨーロッパ最大の画家として名誉に輝きながら、その人生を終えるが、彼より2歳年上のマリーは、その2年後の1642年、亡命先のケルンの民家で、貧困と屈辱の中に、その生涯を終える。
奇しくも、その家は、両親が宗教問題によってアントウェルペンから亡命中に、ドイツで生まれた幼いルーベンスが暮らした家だったそうだ。
(木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書、2010年、168頁~183頁)

【木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書はこちらから】


美女たちの西洋美術史~肖像画は語る~ (光文社新書)



マリー・ド・メディシスの一生とルーベンスの連作


【マリー・ド・メディシスの一生】


トスカナ大公の娘マリー・ド・メディシスが1600年にフランス王アンリ4世と結婚した時、27歳になっていた。
10年後にアンリ4世が暗殺された時、二人の間の長男、後のルイ13世はわずか9歳だったので、マリー・ド・メディシスが摂政を務めることになる。

ルーヴル宮が安全でないと考えて、マリーはセーヌ河の向こう岸に、サロモン・ド・ブロッスに命じて華麗な城館を造営させる。それが1615年から22年にかけて建てられたリュクサンブール宮殿である。
マリーが娘時代に故郷フィレンツェで住んでいたピッティ宮を思わせる造りとなっている。花嫁として初めてルーヴル宮に足を踏み入れた時、ここは宮殿よりは牢獄にふさわしいと言ったと伝えられる。マリーにとって、王侯にふさわしい住居とはイタリア・ルネサンス風のものでなければならなかったようだ。

1614年、ルイ13世が成年に達してからも、母后マリーはイタリア人の側近を重用して政治の実権を握り続けていた。とくに重用したのが、コンチーニである。彼は、マリーの侍女で幼な友達でもレオノーラ・ガリガイの夫であった(コンチーニはダンクル元帥という称号を与えられている)。

しかしマリーに対する敵意から、1617年にコンチーニは暗殺され、マリーも都落ちすることになる。マリーはルイ13世に反旗を翻したが敗北し、1620年にルイ13世と和解した。彼女は対立の間中、味方してくれた枢機卿リシュリューを国務会議に加えるよう計らったが、リシュリューが王に影響力をもつことを恐れて、のちには彼を権力から遠ざけようとしたそうだ。
しかし、リシュリューは状況を逆転させ、1630年に母后マリーは再びパリを逃れることになり、今度は亡命生活のまま、1642年にケルンで没した。
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、172頁)

【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】



ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)

【マリー・ド・メディシスによる連作の注文】


マリーがルーベンスにリュクサンブール宮の2つのギャラリーを装飾させたのは、この2回の危機にはさまれた、つかの間の安泰期のことであった。

ルーベンスを起用したいというマリーの意向は1621年末に伝えられたようだ。ルーベンスは翌年の1月には既にパリに来ている。正式な契約が結ばれたのは2月末である。
この契約で、ルーベンスは長さ約60メートルの細長い広間である東西のギャラリーを、それぞれアンリ4世とマリー・ド・メディシスの生涯を表わした連作で飾ることになった。

まず、1622年から25年にかけて、マリーの連作が描かれる。次いで着手されたアンリ4世の連作は、マリーの失脚で結局未完に終わった。

マリー・ド・メディシスの栄光に捧げられた連作は、24画面から成っている。マリーとその両親の3点の肖像画に始まって、高さ約4メートルの伝記的画面(幅は3通りで、約1.5メートル、約3メートル、約7メートル)が、ギャラリーを一巡する。

このいわゆる「メディチ・ギャラリー(ギャルリー・メディシス)」では、歴史的忠実さと寓意性とをとり混ぜた表現である。フィレンツェの公女からフランス王妃となり、次いで摂政となったマリーの生涯の主な出来事が語られている。
誕生、マルセイユ到着、1601年のルイ13世の誕生、1610年のサン・ドニ聖堂におけるマリーの戴冠、摂政政治の至福、息子との和解などである。

ルーベンスは、実在の人物と寓意像とを巧みに混在させることにより、本当はあまり栄光に満ちていたとは言いかねる歴史的事実に、英雄叙事詩の壮大さをまとわせたとされる。
碩学たちが繰り上げたこの連作のプログラム(古典学者としても、ひとかどの存在だったルーベンスも参加)は、単に危うくなったマリーの権威に力を回復させようとする政治的意図のみから生まれたわけではないようだ。
マリー・ド・メディシスは、自分の非凡な運命を絵画化させることにより、物語のヒロインや過去の名高い女性に同化することを望んだという。
例えば、次のような女性が挙げられるそうだ。
〇旧約聖書では、敵将の寝首を掻いた救国の女傑ユーディット
〇古代ローマ史では、貞操を汚されたことを恥じて自害したルクレツィア
〇同じく古代ローマ史では、仲間の娘たちをはげまして人質となっていた敵国から脱走し、その勇気を敵からも称えられたクレリア
〇ルネサンス文学では、イタリアの詩人トルクァート・タッソーの叙事詩『解放されたエルサレム』の中の女戦士クロリンダ

マリーが栄光に満ちた女性というテーマに執着していたことは、リュクサンブール宮殿のドームの周囲を著名な女性たちを表わした8体の彫刻で飾ろうとした事実からもうかがえるそうだ。
(マリーの顧問は、昔の名君の母や妻だったことで名高い王妃を選んだが、ルーベンスの意見がいれられて、最終的には諸徳を表わす8人の女性寓意像に落ち着いたという)
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、172頁)



『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』のフランス語の解説文を読む


ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』の傑作の中から1枚『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』について、フランス語の解説文を読んでみよう。

PEINTURE DU NORD
Pierre Paul Rubens, L’Arrivée de Marie de Médicis à Marseille le 3 novembre 1600,
1622-1625, huile sur toile, 394×295㎝

En 1622, Marie de Médicis, reine de France et veuve de Henri IV assassiné en 1610, fait appel au Flamand Rubens pour peindre « les histoires de la vie très illustre et gestes héroïques » de la reine et de sa régence. Ces vingt-quatre tableaux devront décorer une galerie du palais du Luxembourg dont la construction vient de s’achever. Le contrat
spécifie que Rubens doit peindre lui-même cet ensemble ― près de trois cents mètres carrés de peinture qu’il réalisera en moins de trois années ! Le projet est très original, car la vie d’un personnage historique, Marie de Médicis, est racontée, non plus par un jeu d’allégories complexes ou de récits mythologiques, mais sur un mode à la fois narratif et épique : chaque scène illustre un événement de la vie de la reine, qui apparaît comme une « héroïne » idéalisée et protégée par les dieux. L’artiste, alors célèbre dans toute l’Europe, réunit ici les caractéristiques du style baroque : compositions d’une grande clarté, profondeur de l’espace, dynamisme des scènes, coloris raffinés obtenus au moyen de glacis superposés qui donnent aux carnations leur transparence légendaire.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, pp.58-59.)

≪訳文≫
北方絵画
ピーテル・パウル・ルーベンス「1600年11月3日の王妃マリー・ド・メディシスのマルセーユ上陸:1622~1625年、油彩・カンバス、394×295㎝

1610年に暗殺されたアンリ4世の妻であるフランス王妃マリー・ド・メディシスは、1622年に、自分の王妃時代とそれに続く摂政時代の『名高い生涯と英雄的な行為の数々』を描くようフラマン人ルーベンスに依頼した。
この24点の絵画は建築が終了したばかりのリュクサンブール宮殿の回廊を飾るためのものだった。その契約にはルーベンス自らがこの連作のすべてを描くと明記されていた。しかも、延べ300平方メートルにもなる絵画を3年以内に仕上げるという内容だった。
その制作方針は、マリー・ド・メディシスという歴史的人物の人生を、それまで多く見られた寓意劇や神話に仮託した物語で描くのではなく、説明的で叙事詩的な手法で語るという画期的なものだった。それぞれの場面で王妃の生涯に起こった出来事が描かれ、王妃は常に神々に守られた理想的な『ヒロイン』として描かれている。
当時ヨーロッパ中にその名を知られていたこの画家はここでバロック様式の技法を駆使してみせた。明晰な構図、奥行きのある空間、躍動感のある情景、透明絵具の重ね塗りによる洗練された色合いなどがそれであり、伝説にまでなったあの透明感のある肌色も生まれた。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、58頁~59頁)

【語句】
L’Arrivée [女性名詞]到着(arrival)
Marseille マルセイユ(フランス南東部ブーシュデュローヌ Bouches-du-Rhône県の県庁所在地;地中海に面したフランス最大の港。フランス第2の都市)
※<注意>英語の綴りは最後にsをつける→Marseilles
reine     [女性名詞]王妃(queen)
veuf →veuve[女性名詞]未亡人、寡婦(widow)
assassiné <assassiner暗殺する(assassinate)の過去分詞
fait    <faire~する(do)の直説法現在
appel    [男性名詞]呼ぶこと(call)、訴え、呼びかけ(appeal)
  faire appel à... ~に訴える、すがる(appeal to)
<例文>L’historien doit aussi faire appel à l’archéologie.
歴史学者は考古学の力をも借りなければならない。
Flamand  [男性名詞、女性名詞]フランドル人(Fleming)
Rubens   ルーベンス(1577~1640)フランドルの画家
pour peindre  描く(paint)
 (cf.)peindre à l’huile油彩で描く(paint in oils)
histoire   [女性名詞]歴史(history)、来歴、物語(story)
illustre   [形容詞]名高い、著名な(glorious, famous)
gestes   [女性名詞]<複数>行動、行為(behavio[u]r)
héroïque  [形容詞]英雄的な、勇ましい(heroic)
sa régence  [女性名詞]摂政政治[の期間](regency)
tableau(x)  [男性名詞]絵画(painting)
devront <devoir+不定法 ~しなければならない(owe)、~することになっている(be [supposed] to)の直説法単純未来
décorer   (室内を)飾る(decorate)
une galerie [女性名詞]回廊(gallery)
palais [男性名詞]宮殿(palace)
Luxembourg [男性名詞]ルクセンブルク[大公国](Luxemburg)、リュクサンブール宮(フランス上院)[=le Palais du Luxembourg](英語:the Luxembourg Palace)
dont    [代名詞]<関係代名詞>~前置詞deを含む関係代名詞 それについて、~の、その(of which)
la construction [女性名詞]建築、建設(construction)
vient de s’achever <venir de+不定法 (近接過去)~したばかりである(have just done)の直説法現在
<例文> Il vient de sortir. 彼は今出かけたばかりです(He has just gone out.)
s’achever 代名動詞 終わる、完成する(end)
Le contrat [男性名詞]契約(contract)
spécifie <spécifier明示する、指定する(specify)の直説法現在
Rubens doit <devoir+不定法 ~しなければならない(must, have to)の直説法現在
cet ensemble  [男性名詞]全部(whole)、集合(set, group)
près de   ~の近くに、およそ(close to, about)
carré     [形容詞]正方形の、平方の(square)
 mètre carré 平方メートル(square metre)
peinture   [女性名詞]絵画(painting)
qu’il réalisera  <réaliser成し遂げる、実現させる(achieve, realize)の直説法単純未来
en moins de  ~[の期間]以内に(within)
Le projet   [男性名詞]計画、企画(project)
est <êtreである(be)の直説法現在
original   [形容詞]最初の、独創的な(original)
car  [接続詞]というのは(for, because)
la vie    [女性名詞]生命、人生(living, life)
est racontée <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(raconter)受動態の直説法現在
 raconter 語る、物語る(tell, relate)
non plus..., mais... もはや~ではなく~である
<例文> Je porte non plus des lunettes, mais des lentilles de contact.
 私はもうめがねではなく、コンタクトレンズを使っている
un jeu    [男性名詞]遊び(play)、演技(playing)
allégorie  [女性名詞]寓意、アレゴリー(allegory)
complexe  [形容詞]複雑な、入り組んだ(complex)
récit    [男性名詞]話、物語(story, recital)
mythologique [形容詞]神話の(mythologi[cal])
un mode  [男性名詞]様式、方法(mode)
à la fois   一緒に(both)、同時に(at the same time)
 <例文>Elle est à la fois aimable et distante. 彼女は愛想はいいが、冷たさもある。
narratif  [形容詞]物語体の、語りの(narrative)
épique   [形容詞]叙事詩的な(epic)
scène   [女性名詞]場面(scene)
illustre <illustrer 挿絵を入れる、(実例で)明快に説明する(illustrate)の直説法現在
un événement [男性名詞]出来事、事件(event)
 <注意>2番目のéは1979年以降 èと書く例も多くなっている。évènement
qui apparaît <apparaître現れる(appear)の直説法現在
une « héroïne » [女性名詞](物語の)女主人公、ヒロイン(heroine)
idéalisée  <idéaliser理想化する、美化する(idealize)の過去分詞
protégée <protéger保護する、守る(protect)の過去分詞
dieu    [男性名詞]神(god)
L’artiste  [男性名詞、女性名詞]芸術家(artist)
célèbre [形容詞]有名な、名高い(famous, celebrated)
réunit  <réunir 結びつける、一つのまとめる(join)の直説法現在
caractéristique [女性名詞]特質、特性(characteristic)、
[形容詞]特徴的な(typical, characteristic)
baroque [形容詞]バロック様式の(baroque)
composition [女性名詞]構成(composition)
clarté [女性名詞]明るさ(brightness)、明快さ(clarity)
profondeur  [女性名詞]深さ、奥行き(depth)
dynamisme [男性名詞]活力、ダイナミズム(dynamism, drive)
coloris   [男性名詞]色あい(colo[u]r)、彩色法(colo[u]r scheme)
raffiné (←raffinerの過去分詞)[形容詞]洗練された(refined)
obtenus  <obtenir得る(obtain)の過去分詞
glacis  (←glacerの過去分詞)[男性名詞]上塗り、<絵画>(色調)をやわらげるため地の絵の具の上に塗る)透明絵の具
 (cf.) glacer冷やす、<陶芸>釉薬をかける、<絵画>(絵の具の表層に)透明な絵の具をうすく施す、グラッシをかける
superposé (←superposerの過去分詞)[形容詞]重ねられた(superposed)
qui donnent <donner与える(give)の直説法現在
carnation   [女性名詞]肌の色(complexion, flesh tint)
transparence [女性名詞]透明(度)(transparency)
légendaire  [形容詞]伝説の(legendary)

【Valérie Mettais, Votre visite du Louvre, Art Lysはこちらから】


Visiter le Louvre




≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その7≫

2020-05-27 18:33:44 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その7≫
(2020年5月27日投稿)
 



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はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 今回のブログは、中野京子氏が取り上げた『モナ・リザ』『宰相ロランの聖母』『アヴィニョンのピエタ』について、補足説明を試みたい。
 そして、次の作品について、フランス語の解説文を読んでみたい。
〇『モナ・リザ』
〇『宰相ロランの聖母』
〇『アヴィニョンのピエタ』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・【『モナ・リザ』の展示場所の変遷】
・フランス語で読む、『モナ・リザ』
・【チュイルリー宮殿の歴史】

・【補足】ヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』
・ヤン・ファン・エイクと宰相ニコラ・ロラン
・『宰相ロランの聖母』のフランス語の解説文を読む
・『アヴィニョンのピエタ』のフランス語の解説文を読む








【読後の感想とコメント】





【『モナ・リザ』の展示場所の変遷】


1519年にレオナルド・ダ・ヴィンチが亡くなると、フランソワ1世は、『洗礼者ヨハネ』とともに、相続人の弟子メルツィから、『モナ・リザ』を買い上げ、フォンテーヌブロー宮に置いた。その値段は4000エキュ(1万2000フラン)であったといわれる。
(『聖アンナと聖母子』だけはメルツィがイタリアに持ち帰り、1629年に枢機卿リシュリューによって買い取られている。)

『モナ・リザ』は、それ以後ずっとフランスの王室の第一級の財宝として大切に保管され、最後にはルーヴル美術館入りする。
ただ、その間にも国王の居住地の移動にともなって移転している。

17世紀中頃までは、フォンテーヌブローの宮廷にあったことが何度も記録されている。1625年に当宮廷を訪れたカッシアーノ・デル・ポッツォは、この絵をはじめて「ラ・ジョコンダ La Gioconda」と認定した。
また、当時大使としてフランスに来ていたバッキンガム公がこの絵を英国王の結婚の贈り物として手に入れようと画策していたこと、しかしルイ13世の側近がそれを阻止したことを伝えている。

1683年にはルイ14世のコレクションの目録に記されている。1695年には、ヴェルサイユ宮殿のプティット・ギャラリーに置かれていたことが知られている。
1706年には、一時パリの王宮内絵画室に置かれていたが、1709年に再びヴェルサイユに戻り、18世紀の末までそこにあった。

1800年には、チュイルリー宮のナポレオンの寝室に置かれていた記録がある。
1804年には、ルーヴル宮のナポレオン美術館(ルーヴル美術館の前身)に移された。

ところで、1911年に『モナ・リザ』はルーヴル美術館で盗難事件に遭う。8月21日、イタリア人の装飾職人ペルッジアは、この作品を盗み出して、フィレンツェに持ち帰り、2年間その行方はわからなかった。
しかし、1913年11月29日に、フィレンツェの骨董屋に持ち込まれ、ウフィツィ美術館で鑑定された結果、本物と認められる。
(約400年ぶりに「里帰り」した『モナ・リザ』は、フィレンツェやローマ、ミラノで公開された後、12月29日にフランスに返還された)
翌1914年1月4日にルーヴルに再陳列された。

その後、『モナ・リザ』は、3度だけルーヴルを離れている。
最初は第二次世界大戦中の一時疎開のためで、1946年までフランス西南部の極秘の場所に移された。2度目は、1963年1~3月のアメリカ行きで、ワシントン(ナショナル・ギャラリー)とニューヨーク(メトロポリタン美術館)で公開されている。3度目は、1974年4~6月の日本行きである。

このヨーロッパ絵画史の最高傑作が今後ルーヴルを離れることは二度とないといわれている。
(ルーブル美術館学芸部「ルーブル 名品その経緯」より。高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、170頁~171頁所収)

【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】



ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)



フランス語で読む、『モナ・リザ』


Léonard de Vinci, La Joconde,
vers 1503-1506, huile sur bois, 77×53cm

Les contours de la Joconde appuyée sur une balustrade sont estompés : c’est le fameux sfumato. « Les contours des choses sont ce qu’il y a de moins important dans les choses...
Donc, ô peintre, ne cerne pas tes corps d’un trait », affirme Léonard, qui ne vise pas à décrire précisément les traits de la Joconde, mais à peindre son âme, sensible dans son regard et son sourire énigmatique. Accrochée dans la chambre de Bonaparte, La Joconde est ensuite exposée au Louvre où elle suscite bien des commentaires.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.75.)

≪訳文≫
レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」:1503~1506年頃、油彩・板、77×53㎝
欄干にもたれたモナ・リザの輪郭はぼやかされている。これは有名な『スフマート』技法で、「事物の輪郭などは全く重要ではない。(中略)だから、画家たちは体の輪郭をはっきり描くことなどしないほうがいい」とレオナルドは断言している。
彼はモナ・リザの描線を正確にしようとはせず、その視線と謎の微笑によって感受性豊かな彼女の魂を描こうとしたのである。
モナ・リザは、ナポレオンの寝室に飾られたあとルーヴルに展示され、多くの議論を生み出した。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、75頁)

【語句】
contour [男性名詞]輪郭(線)(contour, outline)
la Joconde [女性名詞]モナ・リザ(Léonard de Vinciの婦人肖像画)(the Mona Lisa)
appuyée <appuyer支える(support)(contre, à, surに)もたせかける(lean on[against])の過去分詞
une balustrade [女性名詞](階級・バルコニーの柵になった)手すり、欄干(balustrade, handrail)
sont estompés  <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(estomper)受動態の直説法現在
 estomper <美術>擦筆でぼかす(stump, shade off)、ぼかす(blur)
c’est  <êtreである(be)の直説法現在
fameux  [形容詞]有名な(famous)
sfumato ≪イタリア語≫[男性名詞]<絵画>スフマート(物の輪郭線をなだらかにぼかして、明部から暗部まで描く画法)。レオナルド・ダ・ヴィンチが代表的。
(cf.)sfumare「煙を立てる、ぼかす」の過去分詞より(『仏和大辞典』)
sont   <êtreである(be)の直説法現在
ce qu’il  →ce que~のところのもの(こと)(what, that which) que は関係代名詞
il y a  ~がある、~がいる(there is[are])

moins  [副詞]より少なく、より~でない(less)
 (cf.)le pays où il y a le moins de miséreux 貧民が最も少ない国
important  [形容詞]重要な(important)
Donc   [接続詞]それゆえ、だから(therefore, so)
<例文> Je pense, donc je suis. 我思う、ゆえに我あり。(I think, therefore I am.)
ô    [間投詞]おお(oh!)
peintre  [男性名詞]画家(女性にも男性形を用いる。とくに区別を要するときはfemme peintreという)(painter, artist)
ne cerne pas <cerner取り巻く(surround)、輪郭をはっきりさせる(outline, determine)の直説法現在の否定形
corps   [男性名詞]体(body)
un trait  [男性名詞](一筆の)線、描線、輪郭線(stroke, line, outline)
affirme  <affirmer断言する、主張する(affirm)の直説法現在
qui ne vise pas à<viser[自動詞]( àを)ねらう、目指す(aim at)の直説法現在の否定形
décrire (線、図形を)描く(describe)
précisément  [副詞]正確に、まさしく(precisely)
mais [接続詞]しかし、(否定のあとで)~ではなくて(but)
à peindre  [他動詞]<美術>描く(paint, picture)
(cf.) peindre à l’huile 油彩で描く(paint in oils)
sensible   [形容詞]敏感な、感受性が強い(sensitive)
 (cf.)avoir le œur sensible 非常に気が優しい(have a tender heart)
son regard  [男性名詞]視線、まなざし(look, gaze)
son sourire [男性名詞]微笑、ほほえみ(smile)
énigmatique [形容詞]なぞの、不可解な(enigmatic)
Accrochée dans <accrocher 掛ける(hang up)
la chambre [女性名詞]部屋、寝室([bed] room)
est ensuite exposée<助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(exposer)受動態の直説法現在
exposer 展示する(display, expose)
 ensuite [副詞]次に(next)、それから(then)
où elle suscite<susciter(感情を)呼び起こす(stir up, provoke)、生じさせる(bring about)の直説法現在
bien des+名詞 [bienは副詞]多くの、たくさんの(many, a great deal of)
commentaire [男性名詞]注釈、解説、コメント(commentary, comment)

【コメント】
このように、ベイル氏は『モナ・リザ』のスフマート技法について言及している。
中野京子氏は、紹介した本の中で、レオナルドのスフマート技法や『モナ・リザ』の絵画としての魅力について言及していた。
例えば、スフマートとは「煙」からきた言葉で、輪郭線を靄のようにぼかす効果のことであると説明し、ダ・ヴィンチの『絵画論』を引用し、スフマート技法で描かれたリザ夫人はまるで生きてそこにいるかのように生々しいと評している。

また、『モナ・リザ』の魅力については、「何といってもこの絵の吸収力は、彼女の不可思議な笑みにある」とする。そして、心理実験をもちだして、個人より複数の女性の顔をコンピューターで合成した顔のほうが、美人と認知される確率が高まると説明したあとに、「たとえモデルはリザ夫人でも、彼がその先に求めたのは、それこそコンピューター合成のような、どこにも実在しない究極の美だった」と中野氏は解説していた。
(中野、2016年[2017年版]、238頁~239頁)

一方、ベイル氏はどうか。
レオナルドのスフマート技法に注目することは、中野氏と同様であるが、『モナ・リザ』の魅力については、「その視線と謎の微笑によって感受性豊かな彼女の魂を描こうとした」と理解している。
つまり、レオナルドの追求した究極の美について、「彼女の魂を描こうとした(mais à peindre son âme)と、ベイル氏は表現していることに注目しておきたい。

その後、ベイル氏の解説は、『モナ・リザ』がナポレオンの寝室に飾られたあと、ルーヴルに展示されたと、その筆を進めている。

ナポレオン1世がフランス皇帝だったときには、チュイルリー宮殿の寝室に飾られていた。ここで、チュイルリー宮殿の歴史について略述しておこう。

【Valérie Mettais, Votre visite du Louvre, Art Lysはこちらから】


Visiter le Louvre




【チュイルリー宮殿の歴史】


<カトリーヌ・ド・メディシスがチュイルリー宮殿を建設する>
アンリ2世の死後も王太后として長く権勢を誇ったカトリーヌ・ド・メディシスは、ルーヴル宮殿に大きな不満を感じていた。なかなか改築工事が終わらないうえに、要塞だった昔の部分もかなり残っていたからである。
そこでルーヴル宮殿の500メートル西側に、新しい宮殿を建てようと考えた。そこは以前に瓦(チュイル)の製造所があった場所だったので、新しい宮殿はチュイルリー宮殿と呼ばれることになった。
王太后は建築家フィリベール・ドロルムに設計を任せ、後継者のジャン・ビュランが1564年から72年にかけて巨大な宮殿の一部を完成させた。
(しかし、カトリーヌ・ド・メディシスはチュイルリー宮殿の工事は中止される)

1666年にルイ14世の母がルーヴル宮殿で死んだあと、ルイ14世はすっかり元気を失い、チュイルリー宮殿に移り住んだ。チュイルリー宮殿はル・ヴォーが正面(ファサード)を統一し、中央のドームを手直しして、立派な住居に改築されていた。またこの宮殿には造園家アンドレ・ル・ノートルが設計した美しい庭園があった。しかし、1678年に、ルイ14世はチュイルリー宮殿を離れ、パリをあとにし、ヴェルサイユ宮殿に身を落ち着けた。
(ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年、37頁、61頁~62頁)

【ブレスク『ルーヴル美術館の歴史』(創元社)はこちらから】


ルーヴル美術館の歴史 (「知の再発見」双書)

【補足】ヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』


中山公男氏は、「北方ルネサンスの美術」と題して、フランドル派ヤン・ファン・エイクについて解説しているので、紹介しておこう。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年、156頁~167頁)

ルネサンスは、本来は、イタリア的な文化現象であって、とりわけ、古代の人間中心主義なり形態の理念の再生(ルネサンス)と考えるなら、北方諸国は少なくとも15世紀まで、ほとんどイタリア・ルネサンスと無関係であった。

たとえば、名著『イタリア・ルネサンスの文化』のヤーコプ・ブルクハルトは、ルネサンスを純粋にイタリアのものとしている。そして『中世の秋』のホイジンガは、15世紀の北方美術を、しだいに死滅に向かう、しかし豊熟した中世の秋の芸術とみなしている。

しかし、それにもかかわらず、フランドル(現在のベルギーにあたる地域)は、その後期ゴシックのなかにヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンたちを生み、視覚を再現する自然主義的技法の点でも、情緒的な新鮮さの点でも、新しい時代のひとつの先駆となった。風景と肖像画でイタリアに先駆け、また微細な質感や明暗を表現する油彩の技法の開発という点でも先駆的であった。
事実、イタリアの15世紀の芸術擁護者は大金を払って、フランドル絵画を購入した。イタリアの芸術家は、油彩の技法など多くをフランドルに負っている。
そして、レオナルド、ラファエロたちの肖像画の確立も、フランドルに多くを負っていると中山公男氏は主張している。
(15世紀には、イタリアのルネサンス的胎動にほとんど無関心であった北方諸国も、16世紀になると、方向を変え、イタリアで達成されたものを学び、受け入れようとするのだが。)

【フランドルとヤン・ファン・エイク】
フランスが百年戦争のために、首都パリから宮廷を地方に転々とさせざるをえなかった時、フランドルが北方の美術の中心となった。
この15世紀フランドル文化の開花は、この土地の支配者となった4代にわたるブルゴーニュ公たちの趣味と政策による部分が大きい。1380年、フィリップ豪胆公は、首都ディジョンの近くシャンモールに、カルトジオ会修道院を創建したが、これがブルゴーニュ公家による芸術保護の中心となる。

やや時期は下るが、1419年、ブルゴーニュ公国のフィリップ善良公がその宮廷を本拠地ディジョンのほかにフランドルのブルージュにも置いてから、この地がフランドル繁栄の中心地となった。13世紀から14世紀にかけて、ブリュージュは毛織物工業を中心として商工業が発達し、ヨーロッパ有数の商業都市となった。15世紀初めにブルゴーニュ公国の宮廷所在地となってからは、最盛期を迎える。フィリップ善良公は本来の領地であるフランスのブルゴーニュよりもフランドルを愛したといわれる。

そのフランドルの新しい絵画の偉大な創始者がヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441年)である。宮廷で劇的ともいえるほどの様式的、技法的な転換をなしとげた画家、そしてルネサンスの基礎を据えた芸術家がヤン・ファン・エイクである。
兄ヒューベルトとともに制作したゲントのシント・バーフォ大聖堂の大祭壇画「神秘の小羊の礼拝」(1432年、板、油彩、137.7×242.3cm)がある。
兄が制作途上で逝った後、弟ヤンが引き継いで1432年に完成させた、との銘文をもつ「ゲントの祭壇画」は、ゲント大聖堂内の一礼拝堂にある。前景に生命の泉のある天国の緑野で、キリストの犠牲を象徴する神秘の小羊が、天使と諸聖人の礼拝を受けている。
泉水の石材と水、草花、後景の建築部分などの細部は驚異的迫真性をもって描かれ、写実的技法の限りを尽くしている。

〇「アルノルフィニ夫妻」(ロンドンのナショナル・ギャラリー)
ヤン・ファン・エイクの作品は、風景表現、大気や光の表現、あるいは事物の質感の的確なとらえ方だけでなく、世俗人の風姿をとらえるヴィジョンにおいても、新しい時代の眼と精神を見せてくれる。

〇ルーヴルは、ヤン・ファン・エイクの傑作の一点「宰相のロランの聖母」を所蔵している。
豪華な室内で聖母子とニコラ・ロランが向かいあっている。ニコラ・ロランはブルゴーニュ公国で宰相の地位にいた人物で、画面左側で厳粛な顔をして祈っている。
聖母子と注文者を同一空間に描く本図の構想は、宗教的観点からみて、大胆なものであるように思われる。しかし仔細にみると、聖母子とロランが次元を異にする存在であることがわかる。ロランの相貌が写実的に描かれているのに対し、マリアとイエスは類型化されている。聖母子と天使は、祈るロランの想念の中の像と考えられている。
聖俗の区別は背景の風景にも認められる。聖母子の背後、川の右岸には教会の塔が林立するのに対し、ロランの背後の左岸は民家が大勢を占めている。
バルコニーから景色を眺めている2人の人物が ファン・エイク兄弟だという説がある。この説に根拠はないようだが、この後ろ姿が観者を画中の空間に引き込む上で、大きな役割を果たしている。例えば、この絵を見る人は、基盤の目のような床の遠近法効果に導かれて、アーチのむこうに広がる風景へと視線を移すことになる。すると、その途中のバルコニーに二人の人物がいる。小さく描かれているけれども、この絵の中心に置かれていることが興味深い。

また、ヤン・ファン・エイクは、油彩技法の発見者であったというのは、伝説にすぎないにしても、この新しい技法の可能性を確実なものとし普遍的なものにした。そしてこの技法のイタリアへの伝播なしには、イタリア・ルネサンスもかなり変わったものになったであろう。
(中山公男「北方ルネサンスの美術」高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年、8頁~12頁、156頁~158頁)

【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会はこちらから】



ヤン・ファン・エイクと宰相ニコラ・ロラン


中野氏は、「ルーヴルにはもっと不遜な寄進者がいる」と記して、ブルゴーニュ公国フィリップ善良公の宰相ニコラ・ロランを紹介していた。そのロランが寄進した祭壇画がヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441年)の『宰相ロランの聖母』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室41)であった(中野、2016年[2017年版]、170頁~174頁)

木村泰司氏もその著『名画の言い分』(筑摩書房、2011年)において、ヤン・ファン・エイクとニコラ・ロランについて触れている。

【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】


名画の言い分 (ちくま文庫)

ヤン・ファン・エイクは、15世紀のネーデルラント絵画を代表する人物で、油絵具の技法を完成させた人物といわれる。これによりネーデルラント絵画の特徴である独特の透明感をもつ緻密な描写が可能となった。
多才で多芸なヤン・ファン・エイクの代表作は、ゲントのシント・バーフ大聖堂にある『ゲントの祭壇画』(1432年完成、343×349㎝)である。
(はじめは兄のヒューベルトが制作していたが、兄が亡くなったために弟のヤンが引き継いだ)

閉じた状態のパネルには、ゲント市参事会員を務めた寄進者の夫妻や受胎告知などが描かれ、開いた状態の下の段の中央パネルが有名な『神秘の小羊』である。祭壇上の生贄の小羊で表されているのはイエス・キリストである。
この祭壇画のテーマは「ヨハネの黙示録」に示されている贖罪、つまりイエス・キリストの受難である。それは命の泉の石縁に「ヨハネの黙示録」の一節が刻まれていることからもわかる。カトリックの美術はこのようにイエス・キリストの受難が最大のテーマとなっている。
(15世紀のこの時点では、まだカトリックしかない。のちに登場するプロテスタントは聖像崇拝を禁止し、マリアの地位もカトリック教会ほど高くない)

さて、ヤン・ファン・エイクの『宰相ニコラ・ロランの聖母』(1435年頃、66×62㎝、ルーヴル美術館)について、木村氏も取り上げている。その記述の中で、注目したい点として、イエス・キリストの右手と橋が見事に重なっている点を指摘している。そして橋の上を見ると、たくさんの人物が橋を渡っていることに気づく。つまりイエス・キリストによってのみ天国に導かれるという考えを絵にしていると説明している。
また、聖母マリアの純潔と慈愛のシンボルである白百合と薔薇が描かれている。
この絵の特徴は、すべてのもののディテールが緻密に描かれていることである。すべては神の創造物であるという考え方の表れであり、油絵具の登場によって、それを写実的に描くことができるようになった。当時は自国語の聖書があったわけではなく、聖書はラテン語のみであった。しかも市民のほとんどは文字が読めなかったので、彼らは祭壇画や宗教画に描かれた世界、教会を信じるしかなかった。

ところで、このニコラ・ロランが注文した絵画として、木村氏はもう一作を紹介している。
それはロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400~1464年)の『最後の審判の祭壇画』(1443~1450年頃、560×135㎝、[中央パネル]、フランス、ボーヌ施療院)である。
ウェイデンはヤン・ファン・エイクと並ぶ巨匠である。
この祭壇画には、当時の考え方がよく表れているという。天国に行くのは圧倒的に女性が少なく、地獄に行くグループの方に女性が多く描かれていて、当時は女性の方が罪深いと考えられていた。。
(地獄に行く人々が少々精神を病んでいるように描かれているが、15世紀のネーデルラントでは、精神を病むのは悪魔に魅入られたからだと考えられていた)

この絵はニコラ・ロランが注文し、病人の魂の救済のために施療院の大ホールに置かれていたものである。つまり、これを見ることによって、自分もいつかは最後の審判を受けるのを当たり前のこととして受け入れるように、というわけである。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、110頁~115頁)



『宰相ロランの聖母』のフランス語の解説文を読む


フランソワーズ・ベイル氏は、『宰相ロランの聖母』について、次のように解説している。

PEINTURE DU NORD Les « Primitifs flamands »
Jan Van Eyck, La Vierge au chancelier Rolin,
vers 1434, peinture sur bois, 66×62cm

La Vierge à l’Enfant qu’un ange s’apprête à couronner
apparaît comme dans une vision à Nicolas Rolin, chance-
lier du duc de Bourgogne Philippe le Bon. Le réalisme
méticuleux de la peinture de Van Eyck, peintre officiel du
duc, rend tout présent et vivant :...
Mais ce réalisme ne doit pas tromper. Car ces réalités matérielles
peintes avec tant de soin illustrent la signification spiri-
tuelle du tableau. Par exemple, les fleurs représentées dans
le petit jardin clos sont autant d’allusions à la Vierge ou
au Christ : le lis symbolise la chasteté et la virginité de
la Vierge, les pâquerettes son humilité... Tout ici prend
sens. Chaque détail compte.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, pp.54-55.)

≪訳文≫
<北方絵画 フランドルのルネサンス前派>
ヤン・ファン・エイク「宰相ロランの聖母」
(1434年頃、油絵・板、66×62cm)

今まさに天使によって冠を載せられようとしている聖母マリアが、神の子イエスを抱いた姿で、ブルゴーニュ公フィリップ(善良王)の宰相であるニコラ・ロランの前に幻のように現れている。
公爵の宮廷画家だったファン・エイクは絵画にリアリズムを持ちこみ、すべてをあるがままに生き生きと描いた。(中略)
しかし、このリアリズムに惑わされてはいけない。なぜなら注意深く描かれた現実性豊かなこの絵画にも、精神的な意義が示されているからである。例えば、窓外の小さな庭に描かれている花々は聖母マリアやキリストを暗示している。ユリの花は聖母マリアの貞節と処女性を象徴し、ヒナギクは謙譲を表すなど、ここではすべてのものに意味があり、細かい部分のそれぞれが計算しつくされている。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、54頁~55頁)

【語句】
La Vierge à l’Enfant [絵画]聖母子像
à   →à +定冠詞+名詞 ~のある、~を持った(with)
 <例文>jeune fille aux yeux bleus 青い目の娘(girl with blue eyes)
un ange [男性名詞]天使(angel)
s’apprête à <代名動詞s’apprêter à+不定法 ~する準備をする(prepare to do)の
直説法現在
couronner  王冠を戴かせる(crown)
apparaît <apparaître現れる、姿を現す(appear)の直説法現在
une vision [女性名詞]視覚、心像、幻想(vision)
chancelier [男性名詞]総裁、首相(chancellor)
duc     [男性名詞]公爵(duke)
le Bon →bon [形容詞]善良な(good)
Le réalisme [男性名詞]写実主義、リアリズム(realism)
méticuleux [形容詞]細心な、念入りな(meticulous)
peintre [男性名詞]画家(painter)
officiel [形容詞]公認の、公式の(official)
rend <rendre返す、与える(render)
rendre+属詞~にする(make)の直説法現在
présent [形容詞]存在している、今なおあり続ける(present)
vivant [形容詞]生きている、生き生きした(alive, vivid)
Mais   [接続詞]しかし(but)
ne doit pas  <devoir+不定法 ~しなければならない、~すべきだ(must)の否定形
tromper だます(deceive)
Car   [接続詞]というのは、なぜなら(for, because)
réalité [女性名詞]現実(性)(reality)
matériel(le) [形容詞]物質的な、実際的な(material)
peintes <peindre描く(paint)の過去分詞
tant de 非常にたくさんの、それほど多くの(so much, so many)
soin   [男性名詞]細心さ、注意(care)
illustrent <illustrer(実例で)明快に説明する(illustrate, make clear)の直説法現在
la signification  [女性名詞]意味、意義(signification, meaning)
spirituel(le)  [形容詞]精神的な、霊的な(spiritual)
tableau   [男性名詞]絵画(painting, pecture)
Par exemple  例えば(for example)
représentées <représenter表す、描写する(represent)の過去分詞
jardin    [男性名詞]庭(garden)
clos (←cloreの過去分詞)[形容詞]閉じた(closed)、囲まれた(enclosed)
 (cf.)jardin clos de haies垣根で囲った庭
sont  <êtreである(be)の直説法現在
autant de+名詞 同じくらいの、同じ数の(as many[much])
allusion [女性名詞]暗示、ほのめかし(allusion)
le lis [男性名詞]ユリ(lily)
symbolise <symboliser象徴する(symbolize)の直説法現在
la chasteté [女性名詞]貞節(chastity)
la virginité  [女性名詞]処女性(virginity)
pâquerette  [女性名詞]ヒナギク、デージー(daisy)
humilité   [女性名詞]謙遜(humility)
prend <prendre取る(take)の直説法現在
sens  [男性名詞]感覚(sense)、意味(meaning)
 (cf.)mot pris dans un sens extensif 広い意味で用いられる語
   prendre un mot au sens large 言葉を広義にとる
compte <compter数える、計算する(count)の直説法現在
 
【Valérie Mettais, Votre visite du Louvre, Art Lysはこちらから】


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『アヴィニョンのピエタ』のフランス語の解説文を読む


フランソワーズ・ベイル氏は、『アヴィニョンのピエタ』について、次のように解説している。
PEINTURE FRANÇAISE
Enguerrand Quarton, Pietà de Villeneuve-lès-Anvignon,
vers 1455, détrempe sur bois, 163×218㎝

La Pietà, où la Vierge Marie tient son Fils mort sur ses genoux, devient un thème
de prédilection pour les artistes de la fin du Moyen Âge. Une inscription court
sur le bord du tableau : « Ô vous tous qui passez par ce chemin, regardez et voyez
s’il est douleur pareille à la mienne », phrase tirée des Lamentations de Jérémie
(1, 12) et mise probablement ici dans la bouche de la Vierge.

(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, pp.30-31.)

≪訳文≫
フランス絵画
アンゲラン・カルトン「アビニョンのピエタ」:1455年頃、テンペラ・板、163×218㎝

聖母マリアが膝の上に死せる神の子をのせたピエタの図は中世末期の芸術家たちが好んだテーマである。
作品の端に見える「この道を通る汝らすべてよ。われをさいなむ苦しみと同じ苦しみがあることをその眼で見て、悟るがよい」という言葉は、旧約聖書の一節「エレミアの哀歌」(1, 12)」からとられたものであるが、ここでは、聖母マリアの口から出た言葉として描かれていると思われる。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、30頁~31頁)

【コメント】
アンゲラン・カルトンの『アヴィニョンのピエタ』の解説で中野氏も画面を縁どる文言は、『預言者エレミヤの哀歌』1章12節からのものであることを指摘していた。
つまり、金地バックの上縁部には、『預言者エレミヤの哀歌』1章12節が記されている。
「これまでの憂苦が世にあろうか」という言葉で、まさに聖母が感じたそのままを指すと、中野氏は解説していた。
(中野、2016年[2017年版]、165頁~166頁)

【語句】
détrempe [女性名詞]<美術>テンペラ画(tempera)
La Pietà [女性名詞]ピエタ(Pietà=Vierge de pitié) pitié[女性名詞]哀れみ(pity)
tient <tenir持つ、抱く(hold)の直説法現在
son Fils  [男性名詞]息子(son)<カトリック>Fils神の子、御子(Son)
mort  <mourir死ぬ(die)の過去分詞
genou(複数~x) [男性名詞]ひざ(knee)
devient <devenir~になる(become)の直説法現在
un thème [男性名詞]主題、テーマ(theme)
prédilection [女性名詞]偏愛、ひいき de prédilectionとくに好きな(favo[u]rite) 
Moyen Âge [男性名詞]ヨーロッパ中世(Middle Ages)
Une inscription [女性名詞]記入、銘(inscription)
court <courir走る、流れる、流れるように動く(run)の直説法現在
 (cf.) répondre en courant à une lettre 急いで手紙の返事を書く
faire courir sa plume sur le papier 筆の赴くままに書く
le bord [男性名詞]ふち、端(edge)
tableau [男性名詞]絵画(painting)
Ô [間投詞](呼びかけ)おお(O!)
qui passez <passer通る(pass)の直説法現在
ce chemin [男性名詞]道(path, way)
regardez <regarder見る(look, watch)の命令法
voyez <voir見る、考えてみる、分かる(see)の命令法
 (cf.) Je vois.よく分かります。分かった(I see.)
s’il est <êtreである(be)の直説法現在
douleur [女性名詞]痛み(pain)、苦しみ(grief, distress)
pareil(le) à [形容詞]同じような(like)、~によく似た(similar to)
la mienne [代名詞](所有代名詞)私のそれ(mine)
tirée  <tirer引く、引き出す、抜き出す(pull, draw)の過去分詞
Lamentation [女性名詞]悲嘆(lament[ation]) [複数]哀歌(lamentations)
Jérémie [男性名詞]<聖書>エレミヤ(ヘブライの悲観的預言者)(Jeremiah)
mise  <mettre置く(put)の過去分詞
probablement  [副詞]たぶん(probably)
la bouche [女性名詞]口(mouth)

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≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その6≫

2020-05-24 16:27:03 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その6≫
(2020年5月24日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 今回のブログは、ラファエロについて補足しておきたい。
 あわせて、ラファエロの次の作品についてのフランス語の解説文を読んでみたい。
 〇「カスティリオーネの肖像」
 〇「聖母子と幼児聖ヨハネ」(「美しき女庭師」)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ラファエロについて
・ラファエロの「カスティリオーネの肖像」
・【補足】ラファエロの自画像
・【補足】ラファエロの肖像画のすばらしさ
・赤瀬川原平氏のルネサンスの見方
・ラファエロの「カスティリオーネの肖像」のフランス語の解説文を読む
・フランス語で読む、ラファエロの「聖母子と幼児聖ヨハネ」(「美しき女庭師」)








【読後の感想とコメント】


ラファエロについて


盛期ルネサンスの古典様式は、1500年前後の2、30年の間続いたにすぎない。
それは、幾多の要素の幸福にして微妙な均衡の上に立っていたからである。芸術表現上の調和統一や、歴史的状況、そして作家の個人的性向が絡み合っていた。
16世紀になると、イタリアの政情不安、宗教改革の嵐、スペイン軍による「ローマの劫略(サッコ・ディ・ローマ)」のような外的事件に加えて、マニエリスムという芸術様式が誕生し、古典様式は長く維持し得なかった。

ラファエロ(1483~1520年)は、15世紀人文主義文化の重要な拠点をなすウルビーノに画家の子として生まれ、古典様式を体得し、ひとつの時代の総合調和の表現を実現した。それは歴史の恵みであった。
ラファエロは師ペルジーノの静謐で抒情的な芸術を純化し、高い形式美のもとに統一しようと志向した。彼は、眼にふれたものを自己の秩序に適合させる天与の才に恵まれていた。加えて、自身の能力を発揮させるためには、つねに刺激を必要とするタイプの人でもあったようだ。

1504年にフィレンツェを訪問して、その芸術に新たな飛躍の機会を得た。この地で、「モナ・リザ」を制作中のレオナルドの霊妙な明暗法に心動かされた。
そして、フラ・バルトロメオの穏和な情緒表現やミケランジェロの造形も学んだ。
これらの成果が現われた作品として、佐々木英也氏は次のようなラファエロの作品を列挙している。
〇「大公の聖母」(ピッティ美術館)
〇「聖母子と幼児聖ヨハネ(美しき女庭師)」(ルーヴル美術館)
〇「まひわの聖母」(ウフィツィ美術館)
〇「ドーニ夫妻の肖像」(ピッティ美術館)

これらは一連のマドンナ像と肖像画である。
風景や建物を背景としたピラミッド形構図に先人の影響が認められるとされる。20歳を過ぎたばかりの若さで美の理想をつかんだかと思わせるほど、これらうら若き聖母の繊細な心情のたゆたい、形体の美しさは無類であるといわれる。

1508年、ラファエロはローマに移り、ユリウス2世の破格な好意によって、ヴァティカン宮の装飾を委ねられた。「署名の間」の壁画として、次のような作品を手がけた。
〇「アテネの学堂」
〇「聖体の論議」
〇「パルナッソス」
これらは、キリスト教的プラトニズムの概念に拠りながら、「真、善、美」を歴史、寓意、象徴のかたちを借りて形象化したものである。
ラファエロの総合調和の才と、ギリシャ精神とキリスト教精神の総合というカトリック教会の世界主義的意図との稀有の合致をしるしている。ルネサンス人文主義はここに至高の表現を得ることになった。
(佐々木英也「盛期イタリア・ルネサンスの美術」170頁~172頁、高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年所収)

ラファエロの「カスティリオーネの肖像」


ローマでラファエロは肖像画も多く描いたが、ルーヴル美術館の「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」(1516年頃、カンヴァス・油彩、82×67cm)はラファエロの肖像画の最高傑作のひとつとされる。これは、この時代の知識人の姿を典型にまで高めたものである。

モデルのカスティリオーネ(1478~1529年)はイタリア各地の宮廷(ミラノ、マントヴァ、ウルビーノ)で訓練をつんだ当代最高の職業的外交官である。
著名な宮廷作法書『廷臣論』の著者として知られた教養人でもある。
この肖像が描かれた頃(1516年頃)はマントヴァのゴンザーガ侯の大使としてローマにいた。ラファエロは5歳年長のこの貴族(38歳頃)の風貌を深い敬愛と魂の共感をこめて描いている。
その顔は気品と威厳、ふるえるような感受性と鋭い知性に溢れている。衣装は、彼自身が『廷臣論』のなかで最も優雅な色とみなす黒で統一されている。その結果、画面もモノクロームに近い典雅な灰色―褐色調でやわらかく統一されている。

ところで、ラファエロの場合、レオナルドやミケランジェロらの先人から優れたところを吸収して、自分のものとして統合していった。ラファエロが一番多く影響を受けたのは、レオナルドだといわれている。
例えば、ラファエロの「聖母子と幼児聖ヨハネ(美しき女庭師)」とレオナルドの「聖アンナと聖母子」とを比べてみると、気品、しぐさのやさしさ、表情などの本質的な美しさに共通のものがあるといわれる。

また、ラファエロの肖像画「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」は、レオナルドの「モナ・リザ」にヒントを得ているとされる。例えば、身体をちょっと斜めにしたポーズ、眼差し、手の位置、色彩を抑えた黒い衣装など、共通点が多い。

カスティリオーネは、ラファエロの友人で、保護者だった貴族である。
マキャヴェリの『君主論』とならんで、当時有名だった『廷臣論』を書いた人である。この本は、理想の宮廷人のあるべき姿を書いた本である。
カスティリオーネ自身、洗練された社交家で、馬術、弓術、剣術、舞踏、リュートとヴィオラの演奏までやってのけた。ドイツ皇帝カール5世が、カスティリオーネのことを「当代きっての完璧な貴族」と評した。
ラファエロは、いかにも教養人らしい、その風貌と精神をとらえて、完璧な肖像画にしている。

そして、当世きっての最も気品高く教養ある婦人のひとり「ジョヴァンナ・ダラゴーナの
肖像」(1518年、板からカンヴァス・油彩、120×95cm)もまた、完璧さのシンボルである。
モデルのジョヴァンナ・ダラゴーナ(1500~77年)は、ナポリ副王アスカンニオ・コロンナの妃で、当代きっての教養高い貴婦人として知られていた。
この肖像はフランス駐在大使の枢機卿ビッビエーナがフランソワ1世に贈呈するためにラファエロに注文した作品である。

ラファエロの晩年(といっても35歳の頃)、亡くなる2年ほど前に描かれた作品である。
もっとも、頭部だけラファエロが描き、他の部分は弟子のジュリオ・ロマーノが描いたといわれる。色彩も冷たく、明暗の対比も強く、次の世代に登場するマニエリスムの特徴が感じられる。ジュリオ・ロマーノはマニエリスムの推進者のひとりになる。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年、88頁~90頁。)

【補足】ラファエロの自画像


このように、ラファエロが肖像画において、黒色を重視したことは、ラファエロの自画像などからも確認できる。
ラファエロ自身は、「アテネの学堂」の中で、黒いベレーをかぶり、イル・ソドマと共に右端にいる。この黒色はメランコリーの色であり、その憂いに満ちた顔と共に「天才」を刻印する共通な顔をしていると田中英道氏は指摘している。

イタリアのウフィッツィ美術館所蔵のラファエロの「自画像」(1504~06年、47.5×33㎝、油彩・板絵)も、黒い帽子、黒い服に身をつつんでおり、この像と軌を一にしている。虚ろげな目をこちらに向けた、21~23歳の若き日の端正な顔の青年として描かれている。
しかし、このような理想像は、いわば本当の顔とは異なるものであると田中英道氏は断っている。
ラファエロの自画像は白面の少年の如きであるが、実際は眼は鋭く男らしく、かなり計算家らしい一面ももっていたことを田中氏は強調している。
このような一面を示した図は残念ながら残されていないが、ラファエロの経歴が物語っているという。ラファエロは、レオナルドやミケランジェロをしきりに学びながら、出世にかけては、彼らより早く法王庁に取り入る術を知っていた。ミケランジェロより8歳も年下なのに、30年も早く名誉あるサン・ピエトロ教会堂建築総監督になっている。
(田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年、125頁参照のこと)

【田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』はこちらから】


美術にみるヨーロッパ精神

【補足】ラファエロの肖像画のすばらしさ


このラファエロの「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」(1516年頃)を賞讃する人は多い。
例えば、赤瀬川原平氏もその一人である。次のように述べている。
「この絵の中で色として見えるのは青い目の二点、そしてわずかに肌色、あとは黒と白と灰色である。その黒がじつに鮮やかだ。黒を色として塗ったのは19世紀のマネ、その前にわが日本の写楽がいるが、この絵はそのもう一つ前だ。画面を手のところでカッティングした大胆さもこの絵の力の原因だ。」
(赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]、5頁)

黒っぽく押さえた服装の男の肖像画だが、ラファエロの鮮やかな黒色を絶賛している。
加えて、衣服の皺の形だけでなく、質感までも描き出しているのは天才だという。肩の下から腕の辺りにまとっているような銀色のフカフカの毛皮が圧巻である。赤瀬川氏も、ラファエロの最高傑作だと太鼓判を押している。

ラファエロには、他にも「聖母子と幼児聖ヨハネ」など傑作といわれるものがあるが、テーマへの義理立てがまず先に立って画家の感覚が押さえ込まれているとみている。
これはキリストを中心とするこの時代のテーマ絵画の特徴であって、どうしてもスコーンと抜けるものがないそうだ。
ところが、この肖像画は素晴らしい透明感をたたえていると褒めている。ラファエロは絵の腕が早熟で描き上げるのも早かったというが、その軽さがうまく作用して、ここでは生命の気配をさっと摑んでいるようだ。タッチを表に出すことを封じられていた時代の奇蹟ともいえると赤瀬川氏は主張している。
(赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]、5頁、37頁)

【赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社はこちらから】


ルーヴル美術館の楽しみ方 (とんぼの本)

赤瀬川原平氏のルネサンスの見方


赤瀬川氏は、ルネサンスの絵について、独自の見方をしている。
ルーヴルの作品を見て、改めて感じたことは、ルネサンスの絵からは細部が消えていくことだったと明記している。つまり、絵の中の博物的細部が消えていって、中心のテーマだけが描写されるというのだ。
頭では、ルネサンス=素晴らしい、と思いながら、見ていてどうもホンネのところで面白くないのは、そこに原因があるとみている。
ルネサンスを境に、どうも絵が教訓的になってくるそうだ。絵の中の面白味のすべてがひとつのテーマへの経済性に支配されて、「ムダな」細部が整理されてしまう。
(新建材でムダなく合理的に出来た家みたいで、味気ないと喩えている。ルネサンスというのは人間復興というより、人間独裁のはじまりともみている)

赤瀬川氏は、もちろんレオナルド・ダ・ヴィンチの絵や、ミケランジェロのデッサンも、好きであるようだが、ルネサンスとう風潮が、つまるところ自然に対する優位、人間の力の讃美、人工の力の崇拝であったと理解している。
一方、テーマを塗り潰していくように描かれた絵が存在した。細密描写だけでなく、博物的な描写をした画家として、ファン・アイク、ホルバイン、クエンティン・マセイス、ボッシュ、ブリューゲルを挙げている。
これらの画家たちは、すべてを観察して、それを均等に描き出し、人々はそれを見て、それぞれが発見をしていったと主張している。

例えば、見えるものをすべて描くのをほとんど使命のようにして、遠くも近くも見えるままに、ピントを合わせて描きつづけた。絵としては、ファン・アイクの「宰相ロランの聖母」(1435年頃、66×62㎝)を挙げている。
テーマである人物像が綿密に描かれているのはもちろんだが、室内の物品類がすべてびっしりと、窓の外に広がる風景も、建物の一つ一つ、樹の一本一本、遠くの橋を渡る人や車から畑で何かをしている点のような人や犬まで、とにかく見えているもの一切が、繊細の一本一本を描くように、近景から無限遠までピントを合わせて描き込まれている。本物そっくり技術の極致であると赤瀬川氏は捉えている。
(赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]、58頁~59頁、88頁~89頁)


ラファエロの「カスティリオーネの肖像」のフランス語の解説文を読む


フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』(Art Lys、2001年)より、ラファエロの「カスティリオーネの肖像」についてのフランス語の解説文を読んでみたい。


Raffaello Sanzio, dit Raphaël, Baldassare Castiglione,
1514-1515, huile sur toile, 82×67cm

Homme de lettres et ambassadeur à la cour d’Urbin, ville natale de Raphaël, Baldassare
Castiglione fut l’ami et le conseiller du peintre ― leur correspondance en témoigne.
Son portrait illustre l’essence du parfait gentil-homme, tel que l’a définie Castiglione
dans son ouvrage, Le Courtisan, qui fut à son époque un best-seller dans
toute l’Europe. L’homme « distingué » est grave, aimable, identifiable par son seul
maintien. La palette restreinte met en valeur son visage légèrement coloré
et surtout son regard bleu, qui le rend très présent ― on raconte que
souvent des enfants voulaient l’embrasser, tellement il avait l’air vivant.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.76.)

≪訳文≫
ラファエロ・サンツィオ(通称ラファエロ)「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」:
1514~1515年、油彩・カンバス、82×67cm

文人であり、またラファエロが生まれた街ウルビーノの宮廷の大使でもあったバルダッサーレ・カスティリオーネは、ラファエロの友人であると同時に相談役をも務めていた。これは2人の間でかわされた書簡からもわかる。この肖像画は完璧な貴族というものの本質を描いたものといえよう。
そのことはカスティリオーネ自身が彼の著作「廷臣論」の中でも述べている。この著作は当時のヨーロッパでベスト・セラーとなった。それによれば『気高く品の良い』人間は厳粛であって、人当たりがよく、いつも変わらぬ物腰をしているとされている。画家は、限られた色を使い、少し色づいた顔つきや特に存在感あふれる青い目を強調している。この絵があまりにも生き生きしているので、子供たちがしばしばキスしようとしたとも言われている。

(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、76頁)


【語句】
lettre [女性名詞]文字、手紙(letter)、[複数]文学(letters)
→homme de lettres文学者(man of letters)
ambassadeur  [男性名詞]大使、使節(ambassador)
la cour [女性名詞]庭(yard)、宮廷(court)
ville  [女性名詞]都市、町(town, city)
 (cf.)la Ville éternelle 永遠の都(ローマ)(the Eternal City)
natal(e) [形容詞]生まれた(native) (cf.)pays natal生まれ故郷(native place[land])
Castiglione fut <êtreである(be)の直説法単純過去
l’ami(e)   [男性名詞、女性名詞]友人(friend)
le conseiller  [男性名詞]相談係、顧問(counsel[l]or, adviser)
leur correspondance [女性名詞]対応、(集合的に)書簡、手紙(correspondence)
en témoigne <témoigner de qch (何)を証明する、立証する(bear witness to sth, testify to sth)の直説法現在
en [代名詞](副詞的人称代名詞;前置詞de+名詞 ~de cela などの意味をもつ)それの
   それを(に、で)
Son portrait  [男性名詞]肖像画(portrait)
illustre <illustrer挿絵を入れる、(実例で)明快に説明する、例証する(illustrate)の直説法現在
 <例文>Cette anecdote illustre bien le caractère du personnage.
  この逸話は登場人物の性格をよく物語っている。
l’essence [女性名詞]本質(essence)
parfait [形容詞]完全な(perfect)
gentil-homme [男性名詞]紳士(gentleman)、(世襲の)貴族(nobleman)
tel que ~のような(like, such as)
l’a définie <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(définier) 直説法複合過去
son ouvrage [男性名詞]仕事、作品、著作(work)
Le Courtisan 『廷臣論』 courtisan[男性名詞]宮廷人、廷臣(courtier)
qui fut <êtreである(be)の直説法単純過去
époque   [女性名詞]時代(epoch, age)
un best-seller  [男性名詞]ベストセラー(bestseller)=livre à succès
« distingué » (←distinguerの過去分詞)[形容詞]気品のある、上品な(distinguished)
est  <êtreである(be)の直説法現在
grave   [形容詞]おごそかな、重々しい(solemn, grave)
aimable  [形容詞]あいそのよい、好感のもてる(amiable, kind)
identifiable (←identifier)[形容詞]同一視できる、識別[確認]しうる(identifiable)
maintien  [男性名詞]維持(maintenance)、態度、物腰(carriage, bearing)
La palette  [女性名詞]パレット、(画家の)特有の色調(palette)
restreint(e)  (←restreindreの過去分詞)[形容詞]制限された、限られた(confined)
met en valeur <mettre 置く(put)の直説法現在
 →mettre en valeur開発する(develop)、引き立たせる、強調する(set off)
 (cf.) mettre en valeur une couleur色を引き立たせる
 <例文>La discrétion de l’accompagnement met en valeur la beauté de la mélodie.
 控え目な伴奏は旋律の美しさを際だたせる。
son visage  [男性名詞]顔、顔つき(face)
légèrement [副詞]軽く、少し(lightly, slightly)
coloré   <colorer 色づける(colo[u]r, dye)の過去分詞
surtout   [副詞]特に、とりわけ(above all, especially)
son regard [男性名詞]視線、目つき(look, gaze)
qui le rend <rendre返す(give back)、rendre+属詞~にする(make)の直説法現在
présent    [形容詞]存在している、いる(present)
on raconte que <raconter語る、話す(tell, relate)の直説法現在
souvent   [副詞]しばしば(often)
voulaient <vouloir~したい(want)の直説法半過去
embrasser  キスする(kiss)、抱擁する(embrace)
tellement  [副詞]とても(so)
il avait l’air <avoir持つ(have)の直説法半過去
 (cf.) avoir l’air de~のように見える(look)
vivant  [形容詞]生きている(living, alive)、生き生きした(lively)、
生きているような(vivid)


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フランス語で読む、ラファエロの「聖母子と幼児聖ヨハネ」(「美しき女庭師」)


フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』(Art Lys、2001年)より、ラファエロの「聖母子と幼児聖ヨハネ」(「美しき女庭師」)についてのフランス語の解説文を読んでみたい。

Raffaello Sanzio, dit Raphaël,
La Vierge, l’Enfant et le petit saint Jean, dit La Belle Jardinière,
1507, huile sur bois, 122×80cm

La coiffure très élaborée de la Vierge et son expression douce
la rattachent à la tradition florentine. Mais la scène, qui se
déroule dans un paysage paisible, n’en est pas moins intense,
probablement en raison de l’attitude et des regards échangés
par les trois protagonistes disposés selon un schéma pyramidal
classique : attentifs et recueillis, la Vierge et saint Jean-Baptiste
ont tous deux les yeux tournés vers l’Enfant. Celui-ci tente
de saisir le livre posé sur le bras de la Vierge où est annoncée
sa Passion, tandis que saint Jean-Baptiste tient la croix, autre
préfiguration du sacrifice futur.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.77.)

≪訳文≫
ラファエロ・サンツォオ(通称ラファエロ)の「聖母子と幼児聖ヨハネ」(別名「美しき女庭師」):1507年、油彩・板、122×80㎝

聖母マリアの入念に結い上げられた髪型と慈愛あふれる表現は、フィレンツェの伝統を取り入れたものだ。しかし、この平和な風景の中に繰り広げられる情景はただおだやかだというわけではない。
3人の中心人物の動きとそれぞれが交わす視線が古典的なピラミッド状の図式にしたがって配され、聖母マリアと洗礼者聖ヨハネの視線が注意深く、そして深い思いを込めて神の子イエスに注がれている。
イエスは聖母マリアの腕に置かれた、彼の受難を告げる書籍を取ろうとしている。一方、洗礼者聖ヨハネは十字架を手にしているが、これも後に待ちうる受難を予告するものである。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、77頁)


【語句】
La coiffure [女性名詞]帽子(hat)、髪の結い方、髪形(hair style, hairdo)
élaboré(e)  [形容詞](←élaborerの過去分詞)念入りに作られた(elaborate)
la Vierge   [女性名詞]聖母、聖マリア(the [Blessed] Virgin)
son expression [男性名詞]表現(expression)
douce →doux [形容詞]甘い(sweet)、優しい(gentle, mild)
la rattachent à <rattacher [他動詞](再び)つなぐ(refasten)、関連づける(link up)の直説法現在
 (cf.)rattacher l’œuvre à la personnalité de l’auteur 作品を作者の人となりに重ねてみる
la tradition  [女性名詞]伝統(tradition)
florentin(e) [形容詞]フィレンツェの(of Florence, Florentine)
la scène [女性名詞]背景、光景(scene)
qui se déroule <代名動詞se dérouler 繰り広げられる、展開する(develop, unfold)の直説法現在
 <例文>
Le paysage se déroulait devant nos yeux.
広々とした風景が私たちの目の前に広がっていた
(The landscape unfolded before our eyes.)
un paysage [男性名詞] 風景、景観(landscape)
paisible  [形容詞] 平和な、穏やかな(peaceful)
n’en est pas <êtreである(be)の直説法現在の否定形
moins    [副詞]より少なく、より~でない(less)
intense   [形容詞]激しい、強烈な(intense)
probablement [副詞]たぶん(probably)
en raison de qch (何)の理由で、(何)のため(owing to sth, on account of sth)
l’attitude  [女性名詞]姿勢、態度(attitude)
regard   [男性名詞]視線、まなざし(look, gaze)
échangés <échanger交換する(exchange)、取り交わす(interchange)の過去分詞
protagoniste [男性名詞、女性名詞]主要登場人物、中心人物(protagonist)
disposés  <disposer 並べる、配置する(dispose)の過去分詞
selon    [前置詞]~に従って、~に応じて(according to...)
un schéma  [男性名詞]図式、図表(diagram, sketch)
pyramidal [形容詞]ピラミッド形の(pyramidal)
classique  [形容詞]古典主義の、古典の(classical, classic)
attentif  [形容詞]注意深い(attentive)
recueilli [形容詞](←recueillirの過去分詞)瞑想にふけった、内省的な(rapt)
saint Jean-Baptiste →saint Jean聖ヨハネ(12使徒のひとり)(St. John)
ont... tournés <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(tourner) 直説法複合過去
 tourner 回す、向きを変える(turn)
enfant  [男性名詞、女性名詞]子供(child)
Enfant de Dieu神の子(キリスト)(Infant of God)
Celui-ci tente de <tenter de +不定詞 ~しようと試みる(attempt to do)の直説法現在
saisir   つかむ(siege)
posé sur <poser 置く(lay, put)の過去分詞
où est annoncée <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(annoncer)受動態の直説法現在
 annoncer 知らせる(announce)、予告する(herald)
sa Passion  [女性名詞](キリストの)受難(Passion)
tandis que  [接続詞句]~する間に(while)、一方では~であるのに(whereas)
tient   <tenir持つ、抱く(hold)の直説法現在
la croix   [女性名詞]十字架(cross)
préfiguration  [女性名詞]予示(prefiguration)
sacrifice    [男性名詞]犠牲(sacrifice)

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≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その5≫

2020-05-23 14:28:10 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その5≫
(2020年5月23日投稿)
 



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はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 今回のブログは、引き続きダヴィッドという画家と作品について、考えてみたい。
 あわせて、ダヴィッドの弟子アングルにも、言及しておきたい。
 また、ルーヴル美術館の前身であるナポレオン美術館館長ドノンについて、紹介してみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ダヴィッドの作品計画と挫折と功績
・戦争の絵を描かなかったダヴィッド
・ダヴィッドの弟子グロの作品
・首席画家ダヴィッドの限界
・アングルによるナポレオンの肖像画

・ドノンの生涯
・ドノンとナポレオンとの出会い――エジプト遠征
・ナポレオン美術館館長のドノン
・ナポレオン美術館館長ドノンと、ダヴィッドの批評の相違――ジェリコーの騎馬肖像をめぐって

※ドゥノンとドノンの表記の相違は、出典によることをお断りしておく







【読後の感想とコメント】


ダヴィッドの作品計画と挫折と功績


帝政初期のダヴィッドが、帝国草創の叙事詩を情熱と期待をかけて描こうとしていたかは、1806年6月19日、執事ダリュに提出した、皇帝の即位関係の4点の作品の計画案に、はっきり示されている。
① ≪聖別式≫(≪戴冠式≫)
つまり、これが≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫
② ≪即位式≫
③ ≪鷲の軍旗の授与≫
④ ≪皇帝の市庁舎到着≫

※①と③の油彩画は完成し、④は全体の構想を描いた素描がある。

この1806年という年には、ダヴィッドは1748年生まれなので、すでに60歳に近かった。
にもかかわらず、大画面の制作を計画していたということは驚くべきことである。ただ、実際に完成にいたったのは、2点である。①の≪聖別式≫は、6.29×9.79メートル、③の≪鷲の軍旗の授与≫は6.10×9.70メートルである。

その最大の原因について、鈴木氏は次のように推測している。
第一帝政という時代が、人々に精神的な面でも現実的な面でも、決して安定感を与える時代ではなかったことを挙げている。
皇帝はしばしば遠征にでかけて留守であったし、しかも戦場にあったその不在の間、つねに生命の危険にさらされていた。ナポレオンが計画した土木建築関係の事業の大半が中断されているが、この時代の計画は突然の中止の可能性をはらみつつ進められていた。

帝国の不安定さは現実面においても、様々な計画に支障をもたらした。ダヴィッドの場合にも、絵の注文はしばしば口頭で行なわれ、いざ制作を開始してからも必要な経費がなかなか支給されなかった。
ダヴィッドは前述の4点の作品の1点ずつに10万フランを要求し、皇帝はそれを法外な額として拒否した。
(その要求価格に、はるかに及ばない小額の経費さえ、支給されるまで幾度となく当局と書類上の応酬が必要だったらしい)

ダヴィッドの首席画家としての仕事は、数量的には期待されるほどの達成をみなかった。
ダヴィッドがナポレオンの帝政に、かつて革命に寄せていたような政治的な共感をもっていたとは思わないと鈴木氏はみている。
おそらく、フランス国内の様々な利害関係の思惑と、一人の人間の専制によって支えられ、引きずられていた第一帝政自体が、そうした情熱の対象には、なりえないものであったとみる。

ただ、ダヴィッドを虜にしていたのは、帝政の理想や理念ではなく、帝国誕生の華麗なドラマを首席画家としてほとんど独占的に描き、後世に残すことができるという、歴史画家としての本能的な悦びであったのだろうと解釈している。
現代史のできごとを従来の歴史画に匹敵する規模と構成で描き出すという試みは、≪ジュ・ド・ポームの誓い≫の中断によって、ダヴィッドは挫折した。しかし、ダヴィッドはその試みを帝政期の作品によってみごとに実現し、19世紀絵画への道を開いたと鈴木氏は理解している。そしてダヴィッドはこの帝政期の作品によって、フランス絵画史にも新しい地平を開いたとみている。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、195頁~197頁)

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』




戦争の絵を描かなかったダヴィッド


ダヴィッドの弟子グロ(1771~1835)において、フランス絵画史は大きく方向転換すると鈴木氏はみている。

ダヴィッドは皇帝ナポレオン1世の首席画家の地位にありながら、ナポレオン最大の事業であった戦争の絵を描いていない。この意外な事実は、どのように考えたらよいのかと、その理由について鈴木氏は次のように考えている。

その理由は、ダヴィッドが「成功した歴史画家」であったことに関わっているという。
ダヴィッドの世代の正統的歴史画家にとって、描くべき主題は、まず第一にギリシア・ローマの歴史と神話であった。そして、こうした異教的主題と並んで、ルネサンス以来歴史画の二本目の柱となっていたのは、キリスト教主題であった。
しかし、啓蒙主義時代とフランス革命期は、無神論や理神論の支配をした時代であったので、宗教主題には、野心的な歴史画家は熱意を傾けなかった。

一方、19世紀の歴史画家がしばしば扱っている中世以降の歴史・文学はこの時代にはまだ例外的な主題であった。そして同時代のできごとが歴史画にふさわしい大画面に、しかも寓意的表現を用いずに描かれることは、ロマン主義以前には、きわめてまれであった。
(ロマン主義派の画家ジェリコーが、1816年の難破事件を扱った≪メデューズ号の筏≫を制作したのが、1818年~1819年であった。491×716㎝の大作であった。)

ダヴィッドも一般的傾向に従って、1点の≪キリストの磔刑≫(1782年、マコン、サン・ヴァンサン教会蔵)を残してはいるが、彼の歴史画のほとんどすべては、古典古代の主題を描いている。
例外として、革命やナポレオンに関わる作品がある。
革命関連作品の≪ジュ・ド・ポームの誓い≫(1791年、ヴェルサイユ宮国立美術館)は、大画面の歴史画としては未完にとどまった。
またナポレオン関係の大作として完成された≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫(1807年、ルーヴル美術館蔵)や≪鷲の軍旗の授与≫(1810年、ヴェルサイユ宮国立美術館)は、同時代主題の歴史画といっても、皇帝の即位にまつわる儀式の記録という点で、同時代性よりはむしろ記念性が要求された作品であると鈴木氏はみている。
(その意味では正統的な歴史画に近い意識で制作することが可能であったのではないかという)

一方、戦争画は、一定の現実感が要求される画題であった。その構図は、戦場の地形や布陣のようすに基づいていなければならず、描かれる挿話は戦況を端的に伝えるものでなくてはならなかった。
ダヴィッドが首席画家に任ぜられたときに、すでに50歳代半ばを過ぎており、戦争画のような未知の領域に食指を動かさなかったのは当然であったと鈴木氏はみる。

このような事情によって、ナポレオン時代の戦争画の描き手はダヴィッドの弟子やその世代の画家たちであった。その戦争画には、2つのタイプがある。
① 視点を遠く取って、戦場の地形や布陣の様子がはっきりと判るように描いたもの。  バクレ=ダルブ(1761~1824)、ルジュンヌ(1775~1848)
② 視点を近く取って、ナポレオンや将軍たちをクローズ・アップして描くもの。
第2のタイプの最高峰はダヴィッドの弟子グロ(1771~1835)、ジロデ(1767~1824)、ジェラール(1770~1837)によって描かれている。
  例えば、グロは、ナポレオンについて理念的主張を盛り込んで描いた。

2つのタイプの戦争画は、共通の特徴として、フランスが勝利をおさめた戦争しか描かれないことが挙げられる。
人物がクローズ・アップして描かれた第2のタイプの戦争画の全般的傾向としては、流血の場面がなく、味方がいかに寛大に敵に接したかに重点が置かれているということを鈴木氏は指摘している。この型の戦争画が歴史画家によって歴史画の伝統にのっとって描かれたため、ある種の品位が必要とされたからであるようだ。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、96頁~100頁)

【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書はこちらから】


フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで (講談社選書メチエ)



ダヴィッドの弟子グロの作品


ダヴィッドの弟子グロの代表的な作品として、次のものがある。
〇グロ≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫~「勇敢な総司令官」の礼賛
 (1804年、ルーヴル美術館)
〇グロ≪アイラウの戦場のナポレオン≫~「慈悲深い皇帝」の称揚
 (1808年、ルーヴル美術館)
いずれも縦横数メートルに及ぶこともある大画面を等身大以上の人物像で構成することは、歴史画家としての訓練なしには不可能であった。

それぞれの作品を簡潔に解説しておく。

〇グロ≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫~「勇敢な総司令官」の礼賛
 (1804年、ルーヴル美術館)
この絵は、エジプト遠征中におこなわれたシリア侵攻の際のできごとを描いている。
1799年初め、フランスはトルコ軍の本拠地攻撃のため、シリアに軍を進めたが、途中徹底抗戦を試みたヤッファの町で、ペストが流行した。ボナパルト将軍は病院を訪れ、病人に声をかけて励ましたといわれる。

ルーヴル美術館にあるグロの作品は第一執政官ボナパルトが直接画家に注文した作品である(1804年のサロンに出品された)。
グロは遠征に従軍したドノンの助言を得て、1799年3月11日の総司令官の病舎訪問の情景を描き出している。
中央に立つボナパルトは、一人の裸体の病人の胸に手を触れて励ましている。感動した様子の病人は、敬礼するように片手を頭上に挙げている。
グロがこの絵を歴史画として描こうとしたことは、このボナパルト像が、伝統的歴史画に描かれている、「癒しの奇跡」をおこなう絶対者(キリスト、聖人、王、皇帝)のイメージに重ね合わされていることにも看取できるとされる。

こちら向きに頬杖をついてうずくまる病人は、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の「最後の審判」に描いた亡者を思わせる。かつて僅かな期間ローマを訪れたグロがひかれたのは、明澄なラファエロの世界ではなく、暗い情念に満ちたミケランジェロの芸術であったようだ。

ミケランジェロへの直接の暗示のほかにも、このグロの絵には、西洋美術の伝統との関連をみることができるとされる。
例えば、何人かの病人が裸体で描かれていることである。新古典主義時代の画家にとって、古典古代美術の特徴である裸体表現は、自分たちの作品を美術の正統に近づけるためのものであった。
このグロの≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫と相前後して、ダヴィッドが制作した≪サビニの女たち≫≪テルモピュライのレオニダス≫に裸体が多く描かれているのも、そのことを示している。

ただし、この18世紀末から19世紀初めという時期は、裸体表現に対する人々の感覚が微妙に変化し始めた時期でもあった。ダヴィッドの2作品に対しても、ギリシア・ローマの正統を継承するものという見方と同時に、裸体が目立ちすぎるという批判もあった。
こうした感覚の変化は、現実主義的意識が伝統尊重の意識にとって代わったことを意味していた。不必要な裸体表現には抵抗を感じる、市民的な「良識」を重んじる感性が生じたようである。
ダヴィッドの弟子グロが描いた病人の裸体は、現実的な場面に西洋美術の伝統を導入する一種の妥協策であったと鈴木氏は考えている。

〇グロ≪アイラウの戦場のナポレオン≫~「慈悲深い皇帝」の称揚
 (1808年、ルーヴル美術館)
1807年2月8日にプロイセン東部のアイラウでの合戦は、雪中での戦いが長時間続き、寒冷地の困難な戦闘であった。合戦の翌朝に皇帝は戦場を視察した。
このときの皇帝の姿を描くコンクールの開催が決定され、ナポレオン美術館館長ドノンが主題を決定した。アイラウの合戦の翌日、皇帝は戦場を訪れ、負傷したロシア兵の手当を命じた。その慈悲を見て、一人の若いリトアニアの兵士が感謝の念を表したという主題であった。
グロがこのコンクールに応募して、入賞を果たした。その完成作が、ルーヴル美術館に所蔵されている作品である。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年、54頁~59頁。鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、96頁~109頁。)



首席画家ダヴィッドの限界


皇帝の首席画家としてのダヴィッドの公式の仕事は、戴冠の式典に関して計画された4点の大作の内の2点の完成などにとどまった。
それらが制作されたのは、帝政開始後から、≪鷲の軍旗の授与≫完成の1810年までの丸6年の期間であるが、その作品数は決して多くない。
その原因の一端は、帝政下の絵の注文がしばしば口頭で、しかもナポレオン自身のみならず、執事などが介在したため、制作の条件や価格が明確に決定されていないことにあった。だから画家が安心して次々に作品を完成することができなかった。

ダヴィッドが1806年に提出した4点の大作の文章による計画案も、前年1805年にダヴィッドが≪聖別式≫の制作を開始して以来、当局と画家との間の支払いの問題に関する話し合いが容易につかなかったのを収拾するためだった。
(そもそもこの計画案以外に、当局とダヴィッドとの間で正式の契約書が、とりかわされた形跡は全くないそうだ)

現在からみれば、1810年から12年にかけての時期には、首席画家の仕事は事実上終わりを告げていたと鈴木氏は判断している。
ただ、ダヴィッド自身は、そのことを認識していず、彼自身は、ルイ14世時代のル・ブランのような地位を望んでいたようである。ル・ブランは美術行政、教育、制作の3つの領域に関して絶大な権力を振るっていた。
一方、ダヴィッドの時代においては、美術行政は旧体制下の外交官上がりの政治力によって、皇帝をはじめ人々の信頼を得ていたドノンの手中に握られていた。そして教育に関しては、アンスティチュの絵画部門が権限をもっていた。
(ダヴィッドはアンスティチュのメンバーではあったが、他の多くのメンバーは旧アカデミー会員であり、革命期にはアカデミーを廃止に追い込んだダヴィッドに対して、良い感情をもっていなかった)

このように、ダヴィッドは美術行政の面でも教育の面でも、最高権をもつことができなかった。
ダヴィッドはせめて制作の面でル・ブランの後継者たろうと試みたようだ。1812年9月、ダヴィッドはダリュの後継者シャンパニー執事に対して、ルーヴル宮を歴史画で飾る権限を首席画家に与えるよう要求している。

しかし、首席画家の地位はダヴィッドのために名誉ある称号として創設されたもので、実際の権限はもたず、ダヴィッドは皇帝に命ぜられた作品を制作すればよいので、制作を提案したりするのは、美術館長の役目であるとされたようだ。
(いうまでもなく、美術館長とあるのは、ルーヴル宮のナポレオン美術館長のドノンのことである)

ダヴィッドは帝国を正統的な歴史画によって飾るという理想を抱いたが、現実をみなかった。おそらくナポレオンは仮にダヴィッドでなくとも、ただ一人の人間の芸術観によって国家の美術行政のすべてが律される時代では、もはやないと知っていたのではないかと鈴木氏は推察している。
事実、帝政末期にダヴィッドの芸術観を相対化する美術の新しい潮流が流れはじめていた。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、237頁~243頁)

アングルによるナポレオンの肖像画


新古典主義の総帥ダヴィッドの弟子アングル(1780~1867)が描いたナポレオンの肖像画として、20代半ばに描いた代表的なものとして、次の2点がある。
〇アングル≪第一執政官ボナパルト≫リエージュ、美術館
〇アングル≪玉座のナポレオン一世≫パリ、軍事博物館

これらの作品は、西欧中世への暗示によって特徴づけられると鈴木氏は捉えている。
美術における中世風への好みは、1790年代後半から流行の兆しをみせていたようだ。革命がもっとも急進的であった1790年代の前半には、非キリスト教化の傾向が強く、教会や宝物の破壊が盛んにおこなわれたが、この「ヴァンダリスム」への反省の最初の現われが見られる。1795年、パリのプチ・ゾーギュスタン修道院にフランス記念物美術館を創設する。展示品の時代は13世紀から17世紀に及び、18世紀啓蒙主義や革命によって「野蛮」「迷妄」として否定された中世美術・キリスト教美術が日の目を見る。

ちなみに、同じ時代にルーヴル宮殿の中央美術館(1803年以降はナポレオン美術館と改称)が古典古代彫刻やルネサンス以降の古典主義的絵画に重点をおき、伝統的な美術観に基づく収集をおこなっていた。一方、フランス記念物美術館は、それとは対照的なコンセプトの美術館であったといえる。

アングルはダヴィッドの弟子の中でも世代が若い。
それまでの伝統的価値観と相反する非古典主義的美術への志向は流行になりつつあり、これはのちのロマン主義につながる流れの萌芽であったので、若いアングルも、それに鈍感ではいられなかった。

≪第一執政官ボナパルト≫は、第一執政官自身が1803年、23歳のアングルに注文した作品である。
第一執政官は、1794年のオーストリアの攻撃によって破壊されたリエージュ市(当時フランス領、現在ベルギー領)の地区の復興の資金を市に与えた。この肖像画は、その記念としてボナパルトが市に贈ったものである。
完成は1804年で、そのままリエージュの美術館に所蔵されている。

窓の外にはゴシック様式のサン・ランベール大聖堂が描かれている。
(この大聖堂は結局復興されず、リエージュ市復興の象徴として、アングル個人の選択によって描いたのだそうだ)
新古典主義世代の画家はゴシック建築をほとんど描くことがなかったが、アングルはこの絵の重要なモティーフとして選んだ。加えて、アングルはこの肖像画全体においても、新奇な様式を採用している。執政官の衣服などの材質感が克明に表されている反面、床は手前に向かって不自然に急傾斜し、執政官や椅子は宙に浮遊しているように見える。
こうした細部と空間のアンバランスは、ゴシック期の絵画にしばしば見られるが、師のダヴィッドにはなかったものである。

こうした「ゴシック風」や「奇妙な(ビザール)手法」であるアングル独特の様式は、終生批評家の批判の対象となった。その風当たりは、≪玉座のナポレオン一世≫が発表された時に頂点に達したそうだ。

例えば、ショッサールという美術批評家は、「アングル氏は美術の進歩を四世紀後退させることしかしていない。彼はわれわれを美術の揺籃期に連れもどし、ヤン・ファン・エイクの手法を復活させてしまった」とこの絵を批判した。

ヤン・ファン・エイクは、ゴシックから北方ルネサンスへの移行期の15世紀フランドルの画家である。初期油彩技法による細密な描写で知られる。
ところが、ヨーロッパ絵画の主流は、イタリアの盛期ルネサンス以降、ファン・エイク風の克明な細部表現よりもラファエロ風の理想化された全体像の描出を目的とするようになった。
これが古典主義絵画の伝統である。
アングルの時代の一般の美意識もまだその延長上にあった。
(ショッサールが、アングルのファン・エイク的手法は美術を後退させたと述べているのは、このような事情を示していると鈴木氏は解説している)

この≪玉座のナポレオン一世≫は立法院の注文によるもので、1806年に完成した(現在はパリの軍事博物館の所蔵になっている)
この肖像画は、玉座に座った戴冠の衣装の皇帝を描いたものである。この肖像画のどのような点がファン・エイク的かについて鈴木氏は次のように説明している。

まず、正面から描いた肖像画というのは近代ではきわめて例外的である。レオナルド・ダ・ヴィンチの≪モナ・リザ≫以降の肖像画は、半身像や全身像などの相違はあっても、人物を斜めの角度から描くのが普通であった。
真正面や真横から見た肖像画には動きが出にくく、不自然である。それに対して、斜めから見られた人物には空間の中にそれが存在しているという実在感を与えやすい。
アングルのこのナポレオン像がそうした近代の肖像画の系譜に属するというよりは、むしろファン・エイクの≪ヘントの祭壇画≫に描かれたキリストの像に近いものであると批評家たちは指摘したとされる。中世絵画においては、全能のキリスト像はつねに厳然と正面を向いた姿で描かれた。

またアングルの絵の克明な細部描写も、ファン・エイク的であるといわれる。例えば、白貂(しろてん)の毛皮や紅のビロードや金糸の材質感は手でさわって確かめたくなるほどである。このような手法は、ラファエロ以降の正統派絵画がめざしてきた「理想化」の逆をゆくものであった。

そして≪玉座のナポレオン一世≫の「中世風」の雰囲気は、アングルの手法だけでなく、皇帝が手にしている品物が実際に中世からフランス王室に伝えられてきたものであることによっても強められている。
例えば、皇帝の左膝にたてかけられている、長い笏の頂きについている象牙の手である。これは「正義の手」と呼ばれ、本体は10世紀に作られたものだそうだ。

また右手の笏(頂きにシャルルマーニュの像がついている)は、「シャルル5世の王笏」といい、14世紀後半の品である。さらに皇帝が帯びている剣は、「ジョワイユーズ」という銘をもち、10世紀か11世紀に作られたが、シャルルマーニュの持ち物であったとする伝説のある剣である。

これらの品は、シャルルマーニュの帝冠を考証復元して制作された帝冠とともに、1804年12月2日の戴冠式の際に用いられた(現在ではルーヴル美術館のアポロンのギャラリーに展示されている)。これらの品は、この肖像画の中世風の雰囲気を高める役割を果たした。

ナポレオン1世は、これら王室ゆかりの品々を戴冠式の小道具に用いることによって、フランスの正当な君主であることを示そうとした。

皇帝の戴冠式用の盛装は、皇妃のそれと同じく、イザベイ(1767~1855)の意匠になるものである。画家イザベイは1805年に「皇妃の首席画家」の称号を得、つねに皇帝夫妻の身近にいて、公私にわたる催し事の計画を担当した人物である。
皇帝夫妻の衣装には、古代風と王朝風との二種のデザイン・ポリシーの共存をみてとることができるようだ。

皇帝がかぶっている柏と月桂樹の冠は古代風である。他方、白貂の毛皮、白サテン、紅のビロード、金糸などの使用材料は王朝風である。
ルイ14世やルイ15世の公式肖像画の衣装の素材もこれと同じものである。異なっているものは、歴代の王の場合、ビロードのマントに金糸で刺繍されているのが、フランス王室の紋章の百合である。一方、ナポレオンの場合には、カロリング王朝のシンボルに倣って制定された、皇帝の紋章の蜜蜂である。

皇帝ナポレオン1世の戴冠式用の盛装は、持ち物は中世伝来のもの、衣装は古代風と王朝風の混在という、三つの要素から成立していた。
この三要素は、19世紀初頭の、フランスの人々の価値観と美意識を正確に伝えている。
古代風は、ルネサンス以来の正統的美術観の集大成ともいうべき新古典主義美術の特質である。それはヨーロッパの個々の国々や地域を超えた普遍的価値と考えられたものを表象していた。それに対し、中世風と王朝風はフランス史の産物であった。

ヨーロッパ諸国共有の文化的源流としての古典古代から各国固有の歴史への関心の移行は、一般にロマン主義時代の特質であるといわれる。フランス絵画においても、中世以降の歴史の挿話を、史的考証をおこないつつ描く、いわゆる「吟遊詩人」様式が19世紀前半に流行する。イザベイのデザインによる皇帝夫妻の戴冠の衣装は、そのような美意識の最初のあらわれであるが、それは新帝国の構想にしたがって計画された、式典全体の文脈と関連しつつ生まれてきたものであるといわれる。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年、95頁~103頁)

【鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成』筑摩書房はこちらから】


ナポレオン伝説の形成―フランス19世紀美術のもう一つの顔 (ちくまライブラリー)





ドノンの生涯


ドミニック=ヴィヴァン・ドノン(1747~1825)は、今なお、ルーヴル美術館の一翼にその名を残している。
(中野京子氏の著作では、ドゥノンと表記されていたが、鈴木杜幾子氏の著作ではドノンと表記されているので、本節では、その表記に従う)

ドノンは、シャロン=シュール=ソーヌで、ユダヤ系と思われる裕福な両親のもとに生まれた。
若くしてルイ15世に信頼されて、寵姫ポンパドゥール夫人の古代のメダル類の収集の管理を委ねられた。また外交官として聖ペテルブルクに派遣された。
ルイ16世時代にもひきつづき、王の信任を受けて、1782年から85年にかけてナポリに勤務し、かたわらコレクター、美術史家、素描家としても知られるようになった。

1785年、38歳の時に外交官の職をしりぞき、父親から相続したブルターニュ地方の資産を頼りに、芸術愛好家としての生活を始める。
この頃、ナポリ時代に知り合ったダヴィッドやカトルメール・ド・カンシー(1755~1849、フランス新古典主義美術の理論的指導者で考古学者)との親交を再開する。

そして1787年には、アカデミー会員になる。
入会作品は、ルカ・ジョルダーノの≪羊飼の礼拝≫原画のエッチングである。所属は、「版画その他の領域の芸術家たち」の部門であった。

コレクターとしては、ギリシア、エトルリアの陶器、素描、版画を収集していたが、1788年6月、その一部を国に売却して、イタリアに赴く。
目的は、絵画史の執筆で、ヴェネツィアに5年間滞在し、版画を教えたり、魅力的な博識ぶりを発揮して社交につとめたりの日々を送る。
(1792年にヴェネツィアに滞在した女流画家ヴィジェ=ルブラン夫人(1755~1842)は、ドノンのゆきとどいた配慮のもとにヴェネツィア美術に堪能したり、芸術愛好家のサークルでの社交を楽しんだりした日々のことを書き残しているそうだ)

ところが、現実には、1789年に革命が勃発して以降は、ドノンには様々な心労があった。そしてブルターニュ地方に残してきた財産を保持するためには、亡命貴族(エミグレ)とみなされることを避ける必要があった。だから、ドノンは1793年12月にパリに帰還する。
(当時はフランス革命が最も急進的であった時期であった。二人の王に仕え、革命初期に永く外国に滞在していたので、ドノンにとっては困難な時代であったようだ。シュヴァリエ・ド・ノンからシトワイヤン・ドノンに名を変えるなどして、この状況を乗り切ろうとしていた)

そのドノンを救ったのが、ダヴィッドであった。
ダヴィッドは急進的革命派として、この頃の美術行政に絶大な権力をふるっていた。そのダヴィッドの尽力で、ドノンは「国民の版画家」の称号を得て、革命政府関係の仕事に携わるようになる。
(この時期のドノンのスケッチブックには、エベールなどの革命の大立者たちの風貌や、共和国政府の役職のための衣装のデザインが描きのこされているそうだ)

テルミドールの反動以降は、一時投獄されたのち釈放されたダヴィッドや、その弟子ジェラールと交際したり、1793年に開館していた中央美術館に通ったりして時を過ごしている。
1796年には、フランスが収奪によって多数の美術品をそれらが生み出された環境から持ち出すことに反対する、カトルメール・ド・カンシーの音頭取りによって実現した請願書に署名しているという。
(これはのちにナポレオン美術館の館長として、イタリアやドイツからの収奪に尽力することになるドノンらしからぬ行動とされる。だが同じ請願書には、やはりナポレオン美術館に造営の面で深く関わることになる建築家シャルル・ペルシエとピエール・フォンテーヌも名を連ねている)

この事実をどう解釈するかという点について、鈴木氏は私見を述べている。
1796年の時点では、フランス人たちはまだ自国フランスをヨーロッパ諸国の間での特権的な存在とみなしていなかったことを物語ると解釈している。
1796年にイタリア遠征軍総司令官に任命されたナポレオン・ボナパルトがヨーロッパの覇者への階梯を駆けのぼり始め、フランス人たちは初めて自国を他の諸国の支配者と感じ、パリを汎ヨーロッパ的大帝国の首都に擬して、美術品のパリ集中を考えるようになったと推測している。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、302頁~304頁)

ドノンとナポレオンとの出会い――エジプト遠征


イタリアから帰還したボナパルト将軍は、早くも翌1789年には、エジプト遠征に出発する。
(これは、宿敵英国のインド支配を脅かすことを直接の目的としていたが、ボナパルト将軍の個人的野望も強い動機として働いていた)

ボナパルト将軍は、1795年1月に旧王立アカデミーに代わって設立されたフランス学士院の会員に選出されており、1789年前半には、その会合に熱心に出席していた。エジプト遠征軍には多数の学者が随行し、学術調査の性格をも帯びることになった。

ドノンは遠征の計画が発表されるとただちに随行を志願し、ジョゼフィーヌのとりなしで将軍の許可を取りつけた。ボナパルト将軍はドノンが51歳という年齢で随行を望んだことに驚き、彼に関心を抱いたという。
これがナポレオン・ボナパルトとドノンの最初の出会いであった。

ドノンの参加資格は、考古学者あるいは素描家としてのものであった。素描家としてのドノンは、15カ月間の遠征中、エジプトの建造物、風景、合戦のようすをデッサンした(のちに『上下両エジプト旅行記』[1802年刊]にまとめられた)。
この著作によって、ドノンは、エジプトの風土文明の記録者として近代エジプト学の基礎づくりに貢献した。そして、エジプト遠征の合戦を描いた絵のイコノグラフィの創始者にもなった。

のちに、ダヴィッドの弟子グロ(1771~1835)がエジプト遠征中の一事件を描いた名作≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫を制作する際、ドノンが見たヤッファの光景をグロに語って聞かせたというエピソードが伝えられている。

グロのほかにもエジプトの戦場を描いた画家は多いが、大方の場合エジプトを実見していなかったので、ドノンの版画や素描による記録は貴重な資料として役立ったようだ。
またドノンのこの時の体験の拡がりは、のちのナポレオン美術館の収集の幅の広さを生む一つのきっかけにもなった。

なお、ルーヴル美術館所蔵のグロの作品としては、次のものがある。
〇グロ≪アルコレ橋頭のボナパルト≫(1796年、ルーヴル美術館)
〇グロ≪アイラウのナポレオン≫(1807年、ルーヴル美術館)
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、304頁~305頁)


ナポレオン美術館館長のドノン


1797年1月、中央美術館代表評議会が設置された。それは中央美術館の運営に当たる機関であったが、1802年の時点では管理官がフベールであった。
一方、ドノンはエジプト遠征以来ボナパルト執政に信頼され、しばしば美術行政に関して個人的進言を行なっていた。
ドノンは、ついに1802年11月19日の執政の布令によって、中央美術館館長(Le directeur général du musée central des arts)に任じられる。
この時以降、中央美術館は共和国美術館の性格を完全に失い、執政ボナパルトの腹心ドノンの絶大な権力のもとに、のちのナポレオン美術館としての実質を備えるようになる。

そして1803年8月、第二執政カンバセレスの「この貴重な収集の名称としてよりふさわしいのは、それをわれわれに与えた英雄の名だ」という提案によって、中央美術館はついにナポレオン美術館(Musée Napoléon)と名を変えるにいたる。
(これは翌1804年の皇帝即位に先がけて、ナポレオンの(姓ではなく)名前が公的に用いられた最初の機会であったそうだ)

ナポレオン皇帝と、館長ドノンとの関係は終始良好なものであった。
ドノンが洗練された宮廷人の物腰の魅力的な人物であったことを物語るエピソードは多い。
例えば、旧体制時代の二人の王やポンパドゥール夫人に仕える一方で、ヴォルテールとも親交があった。また1812年、皇帝が教皇ピウス7世をフォンテーヌブロー宮に幽閉していた時に、その相手を務めたのもドノンであった。
そのようなドノンは、皇帝夫妻の美術関係の事柄の良き相談相手となった。モニュメントの建設は、皇帝にとって大きな関心事であったが、ドノンは次のような建設の相談にあずかっている。
ヴァンドームの円柱、ドゼー将軍記念碑、カルーゼルの凱旋門の装飾的部分、バスティーユの象(バスティーユ跡地にブロンズで作られるはずであった巨大な象で、木と石膏の原型のみが何十年か置かれていた。この木製の象については、ユゴーが『レ・ミゼラブル』の中で語っている)

例えば、ドノンは、カルーゼルの凱旋門頂上に置かれた、勝利と平和の擬人像に先導される四頭立ての馬車(馬はヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂からの収奪品であった)の御者をナポレオンの姿に造らせた(1806年8月15日除幕)。

ウルムとアウステルリッツにおける大陸軍の勝利を記念して建てられたヴァンドームの円柱の頂上に、当初のシャルルマーニュ像の計画を変更してナポレオンの像を立てさせた(1810年8月15日除幕)。
(ただし、皇帝は謙譲の風を装って、凱旋門からは自分の彫刻を撤去させ、円柱の場合にも不服なようすを示した)

皇帝とドノンが見解を異にしていた唯一の問題があったようだ。
彫刻はそれが肖像彫刻であってさえ、裸体でなくては優れた作品にはなり得ないとドノンは考えていた。
それに対して、ナポレオンは、カノーヴァが「ベルヴェデーレのアポロン」(B.C.4世紀のギリシア原作のローマ模刻、ヴァティカン美術館)にならって制作した裸体の皇帝像(1806年、ロンドン、アプスリー・ハウス)や、ダヴィッドの「テルモピュライのレオニダス」にならったブロンズのドゼー像を嫌ったという。

このような好みの相違がなぜ生じたのか。この点について、鈴木氏は次のように推察している。
① まず、個人的な相違として、ドノンが旧体制時代の教育を受けて、教養人であったのに対して、ナポレオンはコルシカという片田舎の出身で早くから軍人教育を受けた皇帝であった。
② 芸術思潮としては、ドノンを養った古典主義的風土が革命の進展とともに次第にブルジョワ的なものに変わっていった点を指摘している。

彫刻に関して、二人は見解を異にしたが、ドノンは皇帝に代わって作品を注文するマエケナスの役割を果たした。帝国の発展とともに、国威の発揚や皇帝の称揚のための美術品の需要は増加した。
例えば、皇帝の即位関係の公式行事(即位式、戴冠式、軍旗の鷲の授与式、皇帝のパリ市庁舎訪問)を4点の大作に描くことがダヴィッドに依頼された。

また、ドノンはある時、帝国の建築や彫刻に使用される大理石の欠乏を心配して、イタリアの大理石産地カララの併合を皇帝に進言したという。
大抵の美術品の発注に関し、ドノンは常に目を配る立場にあり、芸術家たちに公平であるべく努めたようだ。
例えば、「皇帝の首席画家」ダヴィッドやジョゼフィーヌに気に入られていたイザベイが多額の制作報酬を要求した時には、その額を抑えるように努力している。

ナポレオン美術館および帝国の美術行政全般に関して、ドノンは、ほとんど独力でこなしていたようだ。ドノンの諸美術館館長の地位は形式上は内務大臣に所属するものであり、またナポレオン美術館には館長ドノンのほかに、事務総長、各部門の部長ポストがあったが、ドノンは皇帝と特別に親しい関係にあり、事業が両者の間で超機構的に行なわれることもあった。
そしてこの二人は、諸国から美術品の収奪という一件において、協同を示した。「皇帝は畑を耕し、ドノンはみごとな腕前の刈り取り手であった」と鈴木氏は表現している。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、305頁~309頁)

ナポレオン美術館館長ドノンと、ダヴィッドの批評の相違――ジェリコーの騎馬肖像をめぐって


ルーヴル美術館には、テオドール・ジェリコー(1791~1824)の騎馬肖像がある。
〇ジェリコー≪突撃する近衛猟騎兵士官≫(1812年のサロンに出品、ルーヴル美術館蔵)
〇ジェリコー≪砲火を逃れる胸甲騎兵≫(1814年のサロンに出品、ルーヴル美術館蔵)

ジェリコーといえば、≪メデューズ号の筏≫(1819年完成、ルーヴル美術館蔵)という歴史画の大作が有名であるが、上記2点の作品は、修業時代に「大陸軍」の軍人を描いたものである。これらは、20代半ばで、画家として一家を成すことを望んでジェリコーが自主的に制作したものである。
その意味で、同じ20代半ばのアングル(1780~1867)は次の2作品を描いている。
〇アングル≪第一執政官ボナパルト≫(1804年、ベルギーのリエージュの美術館)
〇アングル≪玉座のナポレオン一世≫(1806年、パリの軍事博物館)
これらは、公的な注文(第一執政官自身や立法院の注文)を受けたものであり、性格が全く異なる。

ジェリコーの騎馬肖像をめぐって、ドノンとダヴィッドは対照的な批評をしている。そのことを述べる前に、ジェリコーは、画家として、どのような人生を辿ったのかを略述しておく。

ジェリコーは、少年時代をパリで過ごすが、馬と絵に夢中であった。彼は曲馬師の経営する「シルク(サーカス)・オランピック」に通い、ノルマンディの親戚の家に滞在して乗馬を楽しんだ。
絵に関しては、当時リュクサンブール宮殿にあったルーベンスの≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作を見るのを好んだという。
少年時代に好きだった馬と絵画を結びつけ、馬を描く機会が多い歴史画家をこころざしたようだ。

1810年、19歳のときに新古典主義の画家ゲランに弟子入りした。
ゲランは、王政復古期には学士院会員になり、王立美術学校の教授になる歴史画家であった(そこでの弟弟子にドラクロワがいたことはよく知られている)。

数年後、ジェリコーはローマ賞に失敗し、1816年から17年にかけて私費でローマへ留学する。
そしてイタリアからの帰国後最初の歴史画である≪メデューズ号の筏≫(1819年完成、ルーヴル美術館蔵)を制作し、サロンに出品する。
これは、周知のように、実際に起きた難破事件を描いたものである。難破の原因が政府の責任とされて社会問題となっていた事件だけに、作品は大きな波紋を呼んだ。「在野の」歴史画家ジェリコーの存在を印象づけた作品であった。

ところが、その5年後、1824年には、落馬が原因の病で33歳の若さで、この世を去る。
(早世したジェリコーにとっては、≪メデューズ号の筏≫がほとんど唯一の歴史画となる)

ちなみに、1824年のサロンで弟弟子のドラクロワは、ギリシア独立戦争を主題とする≪キオス島の虐殺≫を世に問うた。ドラクロワが兄弟子ジェリコーから継承したのは、この「在野の」歴史画家という美術史上かつてみなかった役割であったといわれる。
一方、1824年のサロンには、ダヴィッドの弟子アングルが保守的画壇での出世の糸口となった≪ルイ13世の誓い≫を出品している。
1824年というこの年を境にフランス画壇がアカデミー陣営の大家アングルと、ロマン主義の領袖ドラクロワの両巨匠に二分される。このことは美術史上の定説となっている。

さて、ジェリコーの騎馬肖像≪突撃する近衛猟騎兵士官≫に話を戻そう。
この兵士官は、アレクサンドル・ディユードネという名で、革命期とナポレオン時代の合戦に参加した陸軍の古参兵である。1807年に中尉に任命され、この絵のモデルをつとめた1812年に戦死したという。
(もしジェリコーの絵筆によってその名をとどめられることがなかったなら、戦地で命を落とした無数の兵士として忘れ去られていたことであろう)

画面では、第一帝政を支えた、すでに若くはないディユードネ中尉が、美々しい軍服に身を包み、斑模様の灰色の馬にまたがって、ふりかえって突撃の合図を与えている。ここに描かれた中尉が所属する近衛隊は、皇帝のそば近く勤務するためもあって、軍隊の中でも重きを置かれ、軍服も一段と豪奢である。

ところで、この作品が発表された時、サロンの批評は二つに分かれたといわれる。
その代表的なものが、ドノンとダヴィッドのものである。
ナポレオン美術館館長ドノンは、好意的な批評であった。ドノンは「(ジェリコーが)きわめて巧みな戦争画家の誕生を保証する作品でデビューした。(中略)彼の描き振りは情熱に満ちている」と言い、ジェリコーに金のメダルを与えた。

それに対して、ダヴィッドは、次のような批判的な感想を述べた。
「これはいったいどこから出てきたのか、私はこんなタッチは知らない」と。
ダヴィッドはジェリコーのタッチに対する違和感を表明している。ジェリコーの筆使いは、新古典主義の巨匠ダヴィッドには、見慣れぬものであった。ダヴィッドにとっては、筆の跡がはっきりと見えてよいのは習作においてのみであった。
(プッサンを規範として17世紀にアカデミックな作画法が確立して以来、これは鉄則であったとされる)

一方、ドノンは、ナポレオン美術館館長という美術行政の中枢の地位にあったものの、個人的にはヴァトーなどの非古典主義的な絵画を愛好するなど、柔軟な感性の持ち主であった。
ドノンが「情熱に満ちた描き振り」という時、それは画家が心と手の動きをそのまま伝えるタッチを、作画上の常識に縛られて消し去ろうとしていないことを指した。
ダヴィッドが「知らなかった」このタッチは、ジェリコーからドラクロワに受け継がれた。そして19世紀フランス絵画史においてアカデミックに「仕上げられた(フィニ)」絵画に対する「仕上げられていない(ノン=フィニ)」絵画の革新的な流れを形作ることになる。

この革新こそが最終的には、ルネサンス以来の絵画的伝統を崩壊させ、20世紀への道を開いた印象派の革命へとつながってゆくと鈴木氏は、近代西洋絵画史を理解している。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年、130頁~135頁)

【鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成』筑摩書房はこちらから】
ナポレオン伝説の形成―フランス19世紀美術のもう一つの顔 (ちくまライブラリー)