歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その1≫

2020-06-25 17:09:43 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その1≫
(2020年6月26日投稿)
 

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


 前回のブログまで、小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を章別に要約してきたが、今回のブログからは、【読後の感想とコメント】を記してゆきたい。
 小暮満寿雄氏の著作の特徴として、次の3点を指摘しておきたい。
〇画家特有の解説が随所に散見できること
〇ルーヴル美術館のスペイン美術(とくにゴヤ)に注目していること
〇ルーヴル美術館のみならず、パリの三大美術館の他の2つ、オルセー美術館、ポンピドゥー芸術文化センターにも目を向けていること

これらの特徴をさらに発展させる形で、私なりの感想とコメントを考えてみた。その構想内容は、下記に書き出してあるので、ここでは、大まかなの方向性について略述しておきたい。
◇やはり、ルーヴル美術館に主眼が置かれているので、このルーヴルのコレクション(とりわけ絵画)は、どのような形で収集されてきたのか。この点について、ピエール・クォニアム氏の叙述により説明しておきたい。

◇また、ルーヴル美術館の歴史を考えた場合、グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式については、ユベール・ロベールの絵画とともに、小暮氏も言及していた(149頁)。この点についても補足しておきたい。

◇ルーヴル美術館の作品の中で、小暮氏は「近代絵画の父ゴヤ」と題して、歴史的に位置づけて記していた(「第Ⅲ章 スペイン美術のスーパースターたち」112頁~116頁)。従来の私のブログではほとんど言及してこなかったスペインの画家ゴヤについて、高階秀爾氏の著作などに依拠しつつ、解説しておきたい。

◇小暮氏の著作『堪能ルーヴル』の構成として、第Ⅰ章から第Ⅴ章まではルーヴル美術館にあて、「第Ⅵ章 パリの美術館」として、オルセー美術館とポンピドゥー芸術文化センターを取り上げている。この構成の仕方は、私にとって教えられる所が多く、また西洋美術史を考える際に示唆的であった。
そこで私なりに、オルセー美術館について調べ直してみることにした。オルセー美術館の歴史および所蔵作品について、【読後の感想とコメント】その3において、まとめてみた。

◇ルーヴル美術館からオルセー美術館、ポンピドゥー芸術文化センターへと、パリの美術館巡りを小暮氏が説いているのは、近代西洋美術史を考えてみる際に、重要な視座を与えてくれる。そこで、新古典主義からロマン主義、写実主義、印象派、象徴主義へと移っていく西洋美術史の流れを略述することにした。「ルーヴルからオルセーへの西洋美術史」と題して、【読後の感想とコメント】その4において、叙述してみた。参照にしていただきたい。

◇小暮氏は紙幅の都合で、オルセー美術館の作品としては、ゴッホの≪オーヴェールの教会≫の解説にとどまった(237頁~240頁)。そこでオルセー美術館が所蔵する作品の画家、印象派のルノワールや象徴主義の画家モローなどについて、【読後の感想とコメント】その5~7において解説を試みた。





【読後の感想とコメント】の構想は次のようになっている。
【目次】
<その1>
ピエール・クォニアム氏によるルーヴル美術館の絵画コレクション略史
◇フランソワ1世のコレクション/フランソワ1世の後継者/ルイ14世のコレクション/ルイ15世およびルイ16世のコレクション/大革命後の美術館/ナポレオン時代/王政復古時代/七月王政以降/第二帝政期/1869年のラ・カーズ博士の寄贈/第二帝政期の最後の購入/第三共和政期/第一次世界大戦以降/

風景画家ユベール・ロベール
ユベール・ロベールとルーヴル
【補足】ユベール・ロベール
グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式について
ルーヴル美術館の鑑賞の留意点

<その2>
【補足】アングルのヴァイオリン
アングルの≪トルコの浴場≫と、マン・レイの≪アングルのヴァイオリン≫
「近代」の先駆者ゴヤ
ロマン主義時代のゴヤ
フランス語で読むゴヤの解説文
コローの絵にみえる詩情
フランス語で読むコローの解説文
【補足】ドラクロワのショパンの肖像画
【補足】ジョットの≪聖痕をうけるアッシジの聖フランチェスコ≫

<その3>
観光地としてのオルセー美術館
オルセー美術館の主な作品
観光地としてのポンピドゥー芸術文化センター
【補足】木村尚三郎氏によるオルセー美術館の解説
【補足】オルセー美術館 ~宮殿が駅舎に、そしてオルセー美術館に
オルセー美術館の特色――小島英煕氏の著作を通して――
オルセー美術館の解説をフランス語で読む

<その4>
ルーヴルからオルセーへの西洋美術史
<新古典主義からロマン主義へ >
<新古典主義について>
<新古典主義の画家アングル>
<ロマン主義について>
<ロマン主義絵画の先駆者としてのジェリコー>
<ロマン派の代表ドラクロワ>
<ドラクロワとショパン>
<ロマン主義時代の文学と絵画と音楽>
<写実主義について>
<写実主義の画家クールベ>
<「農民画家」としてのミレー>
<象徴主義について>
<象徴主義の画家モロー>

<その5>
<印象派について>
<「印象派の父」マネ>
<「色彩の詩人」モネ>
<ルノワール>
<「近代絵画の父」セザンヌ>
<後期印象派のゴーギャン>
<波瀾の人生を歩んだ「炎の人」ゴッホ>
印象派からの挑戦状
印象派の登場とフランスの社会背景
印象派と日本人
マネの<草上の昼食>の三人のモデル

<その6>
オルセー美術館所蔵のルノワールの絵
ルノワールとアリーヌ
唯一の職人階級出身画家ルノワール
ルノワールとドガのタッチの違い
小林秀雄のルノワール論

<その7>
ルノワールの『陽光を浴びる裸婦』と『浴女』の画風の違い
ルノワールの『舟遊びをする人々の昼食』の魅力
ルノワールの3枚のダンスの絵
ルノワールの「舟遊びをする人々の昼食」と映画『アメリ』

<その8>
オルセー美術館にある、マネの『オランピア』とカバネルの『ヴィーナスの誕生』
マネとモネの混同エピソード
マネとモデルのヴィクトリーヌ・ムーラン
ドガと印象派の画家
ドガという画家の特徴
ナヴレ『気球から見たパリ』

<その9>
ゴッホの生涯と苦悩と絵画
オルセー美術館のゴッホ作品
ゴッホの渦巻くタッチ
小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
ドラクロワとゴッホの影響関係――補色とタッチ
ゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫のフランス語の解説文を読む

<その10>
観光地としてのギュスターヴ・モロー美術館
モローとギュスターヴ・モロー美術館
2枚のモローの『出現』
ワイルドの『サロメ』
ワイルドの『サロメ』に影響を与えた文人たち
サロメの踊りをフランス語で読む
ビアズリーの挿絵――孔雀・薔薇・蝶
『サロメ』のラストシーンとビアズリーの挿絵
【補足】モローの『出現』と切られた首





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


ピエール・クォニアム氏によるルーヴル美術館の絵画コレクション略史
◇フランソワ1世のコレクション/フランソワ1世の後継者/ルイ14世のコレクション/ルイ15世およびルイ16世のコレクション/大革命後の美術館/ナポレオン時代/王政復古時代/七月王政以降/第二帝政期/1869年のラ・カーズ博士の寄贈/第二帝政期の最後の購入/第三共和政期/第一次世界大戦以降/

風景画家ユベール・ロベール
ユベール・ロベールとルーヴル
【補足】ユベール・ロベール
グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式について
ルーヴル美術館の鑑賞の留意点






≪主要な参考文献≫


高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年
高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年
Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001.
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
アネッテ・ロビンソン(小池寿子・伊藤已令訳)『絵画の見方 ルーヴル美術館』福武書店、1991年
川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年
Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musée nationaux, 1998.
木村尚三郎『パリ――世界の都市の物語』文春文庫、1998年
地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 パリ』ダイヤモンド社、1996年
高階秀爾監修『NHKオルセー美術館3 都市「パリ」の自画像』日本放送出版協会、1990年
高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]
朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班『世界 名画の旅1 フランス編1』朝日新聞社、1989年
小島英煕氏『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』丸善ライブラリー、2001年
星野知子『パリと七つの美術館』集英社新書、2002年
中川右介『教養のツボが線でつながる クラシック音楽と西洋美術』青春出版社、2008年
オスカー・ワイルド(福田恆存訳)『サロメ』岩波文庫、1959年[2009年版]
山川鴻三『サロメ――永遠の妖女』新潮選書、1989年[1993年版]
Oscar Wilde, Salome : A Dual-Language Book, (Independently published), 2018.
Jean-Pierre Jeunet et Guillaume Laurant, Le fabuleux destin d’Amélie Poulain, Le Scénario,
Ernst Klett Sprachen, Stuttgart, 2003.
イポリト・ベルナール『アメリ AMÉLIE』株式会社リトル・モア、2001年[2002年版]



【読後の感想とコメント】


ピエール・クォニアム氏によるルーヴル美術館の絵画コレクション略史


『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』(日本放送出版協会、1986年)は、当時、東京大学教授の高階秀爾氏と、フランス美術館総審議官のピエール・クォニアム(Pierre Quoniam)氏が監修を務め、NHKとTF1(フランステレビ1)との共同制作番組「ルーブル美術館」シリーズに基づいて編集されたものである。

そのピエール・クォニアム氏は、「コレクションの歴史」と題して、ルーヴル美術館の7部門コレクションの発展の推移について略述している。7部門とは、絵画部、素描部、古代ギリシャ・ローマ部、古代エジプト部、古代オリエント部、彫刻部、工芸美術部である。
(※2003年に「イスラム美術部門」が創設され、8部門に分類される)

ここでは、絵画部門についてまとめておきたい。
ルーヴルにこれらの7部門(ママ)のうちで、絵画部は最も大きな規模を誇るだけでなく、最も古いものである。
その中心をなすものは、大革命の最中の1793年8月10日に、ルーヴルが中央美術博物館として開館された折、グランド・ギャラリーにおいて展示された絵画である。その大多数は王室コレクションに源を発する。
(王室コレクションの歴史が、ある意味で、ルーヴル美術館の歴史の発端である)

【フランソワ1世のコレクション】


アンシアン・レジーム(旧体制)下で、国王の「絵画室」(Cabinet des tableaux)と呼ばれていたものが創設されたのは、フランソワ1世が16世紀初期にフォンテーヌブロー城に当時のイタリア絵画を集めたことに遡る。
この中に含まれていたのが、次のような作品である。
〇レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」、「洗礼者ヨハネ」、「岩窟の聖母」
〇フランスに招かれたアンドレア・デル・サルトの「慈愛」
〇ラファエロの「聖家族」、「竜を退治する聖ミカエル」、「ジャンヌ・ダラゴン」
〇ティツィアーノの「フランソワ1世の肖像」

【フランソワ1世の後継者】


16世紀中葉から17世紀中葉にかけての1世紀間、フランソワ1世の後継者たちは、このコレクションをあまり増やすことはなかった。
アンリ4世(在位1589~1610年)や、ルイ13世(在位1610~43年)は、ヨーロッパの大画家たちに作品を注文することはあったが、それは主に宮殿の装飾のためであった。それらのいくつかは、ルーヴルのコレクションに入っている。
たとえば、
〇ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」
1622年から25年にかけてルーベンスが描いた壮大な連作で、アンリ4世妃のマリー・ド・メディシスの生涯を描いたものである。もともとマリーの居城であるリュクサンブール宮殿を飾っていた。

【ルイ14世のコレクション】


ルイ14世(在位1643~1715年)の下で、国王の絵画室は飛躍的に発展し、場所もルーヴル宮に移された。
先王ルイ13世の宰相であったリシュリュー枢機卿は、彼のコレクションを1642年に王に遺贈し、マザラン枢機卿の死(1661年)後、彼が前任者リシュリューに倣って収集した見事なコレクションの一部は王に買い上げられた。
中でも特筆すべきは、次の作品である。
〇ラファエロの「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」
次いで、銀行家エーヴァハルト・ヤーバッハから、次の作品が購入された。
〇ティツィアーノ作といわれる「田園の奏楽」
〇カラヴァッジオの「聖母の死」
〇現在ルーヴルが収蔵しているホルバインの全作品

ルイ14世はその在世中、とくにヴェルサイユ宮殿を飾るために王室画家(ル・ブラン、ミニャール)に作品を描かせる一方、過去のフランスの画家(プッサン、クロード・ロラン、ヴァランタン・ド・ブーローニュ)、イタリアの画家、フランドルの画家(ヴァン・ダイク、ルーベンス)、オランダの画家(レンブラント)などの作品の入手に努めた。
1709~10年に作成された王室絵画室の収蔵品目録の点数は1478点にのぼる。

【ルイ15世およびルイ16世のコレクション】


ルイ15世(在位1715~74年)は熱心な収集家ではなかったので、購入数はずっと減少し、当時のフランスで活躍していた画家の作品に限られた(ブーシェ、ランクレ、シャルダン、ジョゼフ・ヴェルネ、ナティエ)。

ルイ16世(在位1774~92年)の時代になると、当時の芸術創造に刺激を与えるためにルーヴルに美術館を開設しようという考えが生まれる。
その準備として、王室建築物監督官ダンジヴィエ伯爵は、精力的に収蔵品を増やした。
〇フランスの画家(ル・ナン兄弟、ル・シュウール)
〇当代の画家ダヴィッドの「ホラティウス兄弟の誓い」
〇フランドル派のルーベンスの「エレーヌ・フールマンの肖像」
〇オランダ派のレンブラントの「エマオのキリスト」
〇スペイン派のムリーリョの「乞食の少年」

【大革命後の美術館】


そして同時に行なわれたグランド・ギャラリーを美術館に改装するための準備をふまえて、大革命後、国民公会による1793年の美術館開館が可能になった。
王室絵画室からは、当時展示中の537点という大部分の絵画が国有財産として美術館に入った。
〇絵画アカデミーのコレクションからのものとして、ヴァトーの「シテール島の巡礼」
〇国外亡命者からの没収作品として、イザベラ・デステの書斎を飾っていた絵画、グァルディの一連のヴェネツィアの風景画
〇教会財産として押収した作品として、ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」
その後、革命期や帝政期のナポレオンの外征により、ベルギー、オランダ、イタリア、ドイツ、オーストリアなどからもたらされた作品群が加えられる。

【ナポレオン時代】


19世紀のはじめ、館長に任命されたヴィヴァン・ドゥノンは、「ナポレオン美術館」と改称されたこの美術館の威光を高める目的で、多くの作品を購入した。
しかし、1815年に帝政が崩壊すると、ナポレオンを打ち破った対仏同盟諸国は、美術作品の返還を要求し、ルーヴルから2500点の絵画が持ち出された。
流出をまぬがれたのは、100点ばかりであった。その一つが、次の作品である。
〇ルーヴル最大の絵画ヴェロネーゼの「カナの婚礼」

【王政復古時代】


王政復古時代(1815~30年)に、この惨状を回復する努力が行なわれた。
リュクサンブール宮に置かれていた作品が、美術館のコレクションに付加されたり返却されたりした。
〇ヴェルネの「フランスの港」
〇ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」
当時の画家の作品購入として、次の作品がある。
〇ジェリコーの「メデューズ号のいかだ」
〇ダヴィッドの「レカミエ夫人」、「サビーヌの女たち」、「テルモピライのレオニダス」
〇ドラクロワの「ダンテの小舟」、「キオス島の虐殺」

【七月王政以降】


そして、1818年には、リュクサンブール美術館が創設されて、当時活躍中の画家の作品を納めるとともに、国立の大美術館の予備室としての役割を果たすことになった。
しかし、七月王政(1830~48年)の期間中は、寄贈や購入などによる新収蔵品は少なかった。
これは、ルイ・フィリップ王がヴェルサイユの歴史美術館のコレクションの方により興味を抱いていたためと、彼自身のスペイン絵画のコレクションの方に力を注いだためらしい。
(このスペイン絵画のコレクションは、ルーヴルに数年間展示されたが、王の亡命とともに国外に持ち出され、結局1853年にロンドンで競売にかけられた)

【第二帝政期】


ナポレオン3世の第二帝政期には、ルーヴルが拡張整備されて大飛躍を遂げた。絵画部門はこの恩恵を充分に受けた。
高額の購入の中でも最も輝かしいのが、ローマにおいてカンパーナ侯爵の集めた14世紀および15世紀のイタリア絵画コレクションを、1862年に購入したことである。

カンパーナ侯はローマの銀行の頭取であったが、美術品の収集に熱中するあまり公金を流用したため、逮捕され、そのコレクションが売り立てに出された。そこで、ナポレオン3世は、436万400フランという巨額で買い取った。
総数は1万点を超える。そのうちイタリア初期ルネサンスを中心とする絵画の数は300点、しかしその3分の2は各地方美術館に分散され、ルーヴルにはおよそ100点余りが残った。

【1869年のラ・カーズ博士の寄贈】


また、絵画の寄贈の歴史上特筆すべき出来事が、この時期にあった。
それはラ・カーズ博士により1869年の寄贈である。
総点数272点である。その中には次のような作品が含まれていた。
〇レンブラントの「バテシバの水浴」
〇フランス・ハルスの「ジプシー女」
〇ル・ナン兄弟の「農民の食事」
〇ヴァトーの「ピエロ(ジル)」
〇フラゴナールの「水浴の女たち」
〇リベラの「えび足の少年」

【第二帝政期の最後の購入】


1870年、第二帝政下の最後の購入の中で注目すべき作品は、次の作品である。
〇フェルメールの「レースを編む女」
今日、フェルメールの真作は世界に30数点しかないが、その中の1点である。購入価格は当時の金額にして7500フラン。フェルメールの名声が極まった今日では、フェルメールを1点でも持つことは美術館の誇りである。

※ ルーヴルでは、その後、フェルメールの「天文学者」を購入し、貴重なフェルメールの作品を2点所有することとなった。

【第三共和政期】


第二帝政が崩壊(1870年)しても、収蔵品は増加した。第三共和政の時期、1914年までの間には、リュクサンブール美術館から恒常的に絵画が移入されるとともに、そして多くの寄贈が行なわれた。
〇19世紀のフランス絵画の多くが加えられた(ジェリコー、アングル、ドラクロワ、シャセリオー、コロー、ミレー、ルソー、バルビゾン派の画家たち、クールベ、印象派の画家たち)
購入品としては、
〇1882年、ボッティチェリのフレスコ画(いわゆるレンミ荘の壁画)の購入
〇1904年、「アヴィニョンのピエタ」の購入
〇1913年、ファン・デル・ウェイデンの「ブラック家祭壇画」の購入

【第一次世界大戦以降】


第一次世界大戦後は、財政の縮小とアメリカの諸美術館が競争相手として登場したことなどから、収蔵品の増加にブレーキがかかったが、第二次大戦前夜、そしてその後に再び増加するようになる。
ルーヴル友の会の支援や、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、フォンテーヌブロー派の画家たちのようなよく知られていなかった作品を再発見する学芸員の優秀な能力、遺産相続税を美術作品で代納できる法的措置、購入予算の増額などのおかげで、絵画は増加し続けたそうだ。
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、126頁~128頁)

【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】


ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)

風景画家ユベール・ロベール


ユベール・ロベール(1733~1808年)は、18世紀の後半に活躍した風景画家である。
彼はイタリアで11年間を過ごし、古代の建物やとくに廃墟の風景を好んで描いたために、“廃墟のロベール”といわれた。

〇ロベール「コロセウムの内部」(油彩、245×320cm)は、そのひとつである。
古代ローマの巨大な遺跡コロセウムの崩れ落ちた内部を描いて、かつての栄華をしのび、そのはかなさを味わうという趣向の絵画である。遠くにコンスタンティヌスの凱旋門の一部が見える。

当時のヨーロッパでは、古代ギリシャ、ローマへのあこがれが広まっていた。18世紀の半ばには、紀元79年のヴェスヴィオ火山の爆発によって埋もれた古代ローマの都市ポンペイやヘルクラネウムの廃墟を描いた絵が世間にもてはやされたのも、このような風潮によるものである。

フランスに帰国後のロベールは、パリやフランス各地の風景を描き続ける。セーヌ河にかかるノートル・ダム橋の上にあった建物をとりこわす光景を描いた「ノートル・ダム橋上の家の取り壊し」(油彩、73×140cm)も、ロベールの廃墟趣味のひとつである。1786年に家々が取り壊された時の情景を写し出した作品である。

ところで、ロベールは、ルイ16世の絵画コレクションの管理者に任命され、当時、王のコレクションの多くが保管されていたルーヴル宮との深いつながりができる。
革命後、ルーヴルは共和制政府によって美術館として公開されることになる。ロベールはルーヴルの美術館としての展示プランを様々な絵に描いている。
“廃墟のロベール”にふさわしく、遠い未来に廃墟となったルーヴルの風景を描いたものもある。

〇ユベール・ロベール「廃墟となったルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図」(油彩、32.5×40㎝)
ロベールは早くからルイ16世の美術品管理官に任じられ、美術館開発計画にかかわり、革命後、新しい展示計画を発表した。それと同時に、この作品のように、遠い将来におけるルーヴルの廃墟の状態を想像して描き出した。すべてが破壊された後に「ベルヴェデーレのアポロン」だけが静かに立っているのが象徴的である。

〇ユベール・ロベール「ルーヴルのグランド・ギャラリー」(油彩、37×41㎝)
ロベールは、実際のグランド・ギャラリーの状況を描き出したいわば実情報告の作品ものこしている。この作品がその一例である。
1793年、革命政府によって実際にコレクションの一部が展示公開された時の状態を描き出している。
(もっともロベールは、1793年から翌年まで、一時革命の混乱の中で虜われの身になっていたから、彼の釈放後、おそらく1795年頃のギャラリーを示していると考えられている)
この作品の中央の彫像は、ジョヴァンニ・ダ・ボローニャの「メルクリウスの像」であるそうだ。

〇ユベール・ロベール「ルーヴル美術館グランド・ギャラリーの改造計画」(油彩、46×55㎝)
1790年代、ロベールはサロンに何回にもわたってグランド・ギャラリーの改造と作品展示計画案を出品している。
当時のグランド・ギャラリーは、天井は半円筒形穹窿で完全に塞がれており、光は窓から入るだけであった。
それに対して、ロベールは、窓を塞いで天井をガラス張りにし、いわゆるトップ・ライト方式による展示場という、きわめて近代的な構想を提示した。
この考え方は、他のロベールの計画案でも一貫しているそうだ。長い歳月の後、現在ほぼこの基本的考えが実現されている。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、121頁~123頁)

【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】



フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)

ユベール・ロベールとルーヴル


風景画家ユベール・ロベール(1733~1808年)は、フラゴナール(1732~1806)とイタリア留学期に親交し、ともにティヴォリの庭などを描いたことがある。つまり、フラゴナールとまったく同世代に、ロベールは属する。
(このことは二人の生没年が近いことでもわかる)

ロベールの風景も、自然の情緒への共感という点で、先ロマン主義的な傾向をみせるといわれる。ロベールの名は、ルーヴル美術館の最初の館長であったという事実でも忘れることができない。
17世紀の幾何学式庭園にかわって、イギリス風の自然庭園の好まれたこの時期、ロベールはイタリアから帰国後まもなく王の庭園の画家となる。

そしてルーヴル美術館の監視官となるが、1784年である。今日のルーヴルが正式に開館するのは、1793年であるが、すでに大革命前に美術館開催はルイ16世によって勅許され、この時ロベールはルーヴルのグランド・ギャラリーの陳列計画を命じられている。
大革命時に、彼は逮捕されるが、1801年には再びルーヴルの館長となっている。
(中山公男「一八世紀ロココの美術」170頁、高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年所収)

【補足】ユベール・ロベール


ユベール・ロベールは、1766年にアカデミー会員となり、1778年以降は美術館設立委員会のメンバーとして積極的に活動した。
ルーヴル宮殿所蔵の絵画の管理者でもあったロベールは、1779年から1806年までルーヴル宮殿に住んでいた。
ルイ16世の時代に、ロベールはルーヴル宮殿の「大ギャラリー」に美術館を開くための計画を立てた。
ブレスク氏も指摘しているように、「大ギャラリー」にはガラス張りの天井から光をとるための研究が行なわれた。
また、ロベールが1796年に描いた絵画に注意を向けている。
〇ユベール・ロベール「ルーヴル グランド・ギャラリー改造計画」(油彩 45[ママ]×55㎝)
Hubert Robert, Projet d’aménagement de la Grande Galerie du Louvre, en 1796,
Paris, 1796. Huile sur toile, 46×55cm.

この絵では、画面右手下には、ラファエロの有名な聖母子像と、その前で模写する画家の姿が描かれている。そのほか、同じくイタリアの有名画家だったレーニやティツィアーノの作品が見える。
(ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年、74頁、79頁)

【ブレスク『ルーヴル美術館の歴史』(創元社)はこちらから】


ルーヴル美術館の歴史 (「知の再発見」双書)




グランド・ギャラリーのトップ・ライト方式について


執政政府時代に工事に関わっていた建築家ジャン・アルノー=レイモン(1742~1811)に代わって、1805年からはペルシエ(1764~1838)とフォンテーヌ(1762~1853)がナポレオン美術館(Musée Napoléon)の整備計画と監督にたずさわるようになる。美術館機能の充実を目的とする宮殿の増改築は新しい局面を迎えることになる。

まず、1805年から10年にかけてグランド・ギャラリーの改築が行なわれた。
グランド・ギャラリーの採光を側面の窓から行なう従来の方法に代えて、トップ・ライト方式にする案は、すでに旧体制時代からユベール・ロベールらによって検討されてきた。

ここで、トップ・ライト方式について、歴史的に遡って、少し説明しておく。
そもそも、グランド・ギャラリー展示スペースに使用するための最大の障害は、当時そこに小さな窓が設けられていただけで、採光がきわめて悪かった点である。
建築家ジャック=ジェルマン・スフロ(1713~1780)は、その窓をふさいで、ギャラリー上部に高窓を設ける案を出した。しかし、そのためには、建物内外に大幅に手をつけねばならず、委員会の容れるところとならなかった。

一方、美術品の展示室の天井をガラス張りにして採光を行なう、いわゆるトップ・ライト方式が当時すでに実用化されていた。
1789年にはサロン・カレがこの方式に従って改装された。また、1784年ダンジヴィレール伯爵の推薦によって、ルーヴル宮に計画中の美術館の管理官(Conservateur)になっていたユベール・ロベールが、1796年のサロンに出品したグランド・ギャラリー改装案の油彩画もトップ・ライト方式になっている。
(だが、ダンジヴィレール伯爵の委員会の組織されていた時代には、旧体制は余命10年あまりで、グランド改造計画にも、これ以上の進展はなかった。そして、ダンジヴィレール伯爵は計画の実現を見ることなく、1789年の革命を迎え、1791年には亡命貴族(エミグレ)の列に加わることになる)

しかし、実現するにいたっていなかった。
ナポレオン美術館の時代にも再びこの問題が浮上した。ただ、ドノンが、採光の便と絵画の展示用の壁面の確保のために、トップ・ライトを望んだのに対し、フォンテーヌは建築としての美観上の理由から窓を残すことを主張した。
今回の改造では、最終的に天井の一部分のみがトップ・ライトに変えられ、壁際に規則的に並んだ2本ずつ対をなした円柱が天井のアーチを支える構造が付け加えられた。
グランド・ギャラリー全体のトップ・ライト化が実現したのは、20世紀に入ってからである。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、274頁、319頁~320頁)

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』

ルーヴル美術館の鑑賞の留意点


このブログでルーヴル美術館の作品をできるだけ多く紹介してきた。鑑賞する上での留意点を最後に述べておきたい。

パリを旅する人はほとんどルーヴル美術館を訪れるが、ルーヴルを「よかった」とはいっても、そこで「感動を受けた」と述べる人は意外と少ない、と田中英道氏は記す。
その理由は何か?
巨大な建物の中に名作・絶品の類がすべて一緒にならべられて、一時に十の交響楽が奏でられているからという。
例えば、レオナルドの『モナ・リザ』とジョルジョーネの『田園の奏楽』が、ヴェロネーゼの大作『カナの饗宴』と同じ部屋に所狭しと並べられている(田中氏の執筆当時)。
これでは、訪れる人はどの絵の音も落ち着いて聞き入ることはできないというのである。
和して大合奏をする必要もない、これらの作品が隣り合ってお互いの楽の音を殺し合い、一つの作品への感動が次々に相殺されてしまうようだ。作者が全精神・全技量をかけてつくり出した傑作が、百科事典の如く、並べられていては、感動も薄れるのもわかる。

そこで、田中氏は、1960年代の終わりに、ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの作品だけを、ルーヴルに見に行っていた時期があったと回想している。
そのとき、ラ・トゥールの作品のあるグランド・ギャラリーまでほとんど耳をふさぐようにして向かっていったそうだ。他の作品に関心がないからではなく、一人の画家の作品を見るためには、他の音の重なりをなるべく感じないようにするためである。
田中氏のような贅沢な鑑賞は、一般人にはできない。せめて、ルーヴル美術館を訪れる前に、下調べを十分にして、自分は何を見たいのかを決めて、鑑賞することがお勧めである。
その際に、このブログで紹介した本が少しでも役立てば幸いである。
(田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年、152頁)

【田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』はこちらから】


美術にみるヨーロッパ精神


≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫

2020-06-20 17:44:19 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫
(2020年6月20日)




【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅵ章「パリの美術館」を紹介してみたい。
 今回、紹介する第Ⅵ章において、パリの美術館として、オルセー美術館とポンピドゥー芸術文化センターを取り上げている。
 小暮満寿雄氏の著作のタイトルが、『堪能ルーヴル』であるので、ルーヴル美術館の作品が主に解説されていた。この第Ⅵ章では、パリの美術館として、ルーヴル以外に、これらの2つの美術館をも訪問することを勧めている。

オルセー美術館の建物は、1900年、万国博のときにオルレアン鉄道のパリ終着駅として建造されたものである。鉄道会社は、わずか39年で閉鎖に追い込まれたが、50年近く経過した1986年12月に、ミュージアムとして復活したのが、オルセー美術館(Musée d’Orsay)である。多くのコレクションは、昔の印象派美術館(現ジュ・ド・ポーム国立ギャラリー)と、ルーヴルやプティ・パレから、印象派を中心にした作品が移されたものである。時代的には二月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品が収められている。
 一方、ポンピドゥー芸術文化センター(Centre National d’Art et de Culture Georges-Pompidou)は、1969年、時のフランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥーにより、ボーブールの中央市場跡に文化センターの建設を決定され、1977年に開館した。このセンター内には、パリ三大美術館のひとつ、国立近代美術館(Musée National d’Art Moderne)があり、20世紀以降の近現代美術の作品を展示している。
 古典のルーヴル、印象派のオルセー、近現代のポンピドゥーといったパリ三大美術館をまわれば、美術史はもちろん西洋文明の旅が体験できる。
 
 さて、今回のブログでは、次の作品を取り上げる。
(小暮氏はルーヴル美術館の作品を中心に紹介しているので、オルセー美術館、国立近代美術館の作品で取り上げたものは少ない)
【オルセー美術館】
〇ゴッホ(1853~1890)≪オーヴェールの教会(オーヴェル・シュル・オワーズの教会、後陣)≫1890年 94×74.5㎝ オルセー美術館
【ポンピドゥー芸術文化センター(国立近代美術館)】
〇 ヨーゼフ・ボイス(1921~1986)≪グランドピアノのための均質浸透≫1966年
 ボイスの作品には京都竜安寺の石庭などに通ずるような、観客の間にある種の緊張感を生じさせる力があるという




※【読後の感想とコメント】においても言及するが、オルセー美術館については、差し当たり、次の文献を参照して頂きたい。
〇高階秀爾監修『NHKオルセー美術館3 都市「パリ」の自画像』日本放送出版協会、1990年
〇川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』世界文化社、1995年
〇小島英煕氏『活字でみるオルセー美術館――近代美の回廊をゆく』丸善ライブラリー、2001年

【高階秀爾監修『都市「パリ」の自画像 (NHK オルセー美術館)』はこちらから】

都市「パリ」の自画像 (NHK オルセー美術館)

【川又一英『名画に会う旅② オルセー美術館』はこちらから】

オルセー美術館―アートを楽しむ最適ガイド (名画に会う旅)

【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』はこちらから】

活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)




本書の第Ⅵ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅵ パリの美術館 
 オルセー美術館
 ポンピドゥー芸術文化センター




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第Ⅵ章 パリの美術館
オルセー美術館
・終着駅だったオルセー美術館
・印象派の誕生
・印象派の光と色
・ゴッホの≪オーヴェールの教会≫の青い色

ポンピドゥー芸術文化センター 
・モダンアートのメッカ
・アヴァンギャルドのススメ






小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅵ章 パリの美術館


ルーヴル美術館を第5章までで終え、第6章では、「パリの美術館」と題して、オルセー美術館と、ポンピドゥー芸術文化センターについて説明している。簡潔に紹介しておきたい。


オルセー美術館


終着駅だったオルセー美術館


オルセー美術館は、日本でもなじみの深い印象派の画家たちが目白押しである。例えば、
〇エドゥアール・マネ( Édouard Manet, 1832~1883、印象派)
〇クロード・モネ(Claude Monet, 1840~1926、印象派)
〇オーギュスト・ルノワール(Auguste Renoir, 1841~1919、印象派)
〇フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853~1890、後期印象派) 
〇ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848~1903、後期印象派)
〇ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839~1906、後期印象派)

オルセー美術館の建物は、1900年、万国博の時にオルレアン鉄道のパリ終着駅として建造されたものであった。オルセー駅は風格をそなえた建築物であった。しかし、わずか39年で閉鎖に追い込まれた。
それから50年近く経過した1986年12月に、ミュージアムとして復活したのが、オルセー美術館である。

吹きぬけになっているオルセー美術館には、ゴージャスな時計や、その裏側にある元VIPルーム(現在カフェ)がある。多くのコレクションは昔の印象派美術館(現ジュ・ド・ポーム国立ギャラリー)と、ルーヴルやプティ・パレから、印象派を中心にした作品が移されたものである。

時代的には二月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品が収められている。
(ルーヴルを起点にオルセー、ポンピドゥーをまわれば、美術史はもちろん西洋文明の旅ができる)
時間に余裕のある観光客なら、東洋美術のギメ美術館やピカソ美術館、オランジュリー美術館、ラ・ヴィレット、中世美術館、カルナヴァレ美術館をまわることを小暮氏は勧めている。
(小暮、2003年、230頁~231頁)

印象派の誕生


開放的な空間を持つオルセー美術館では、やはり外界の光で描かれた印象派絵画がぴったり合う。
明るく鮮明な色を駆使した印象派絵画は、今でこそ美術の世界の本流になっているが、その初期においては、アカデミーに対する反発が出発点であった。
当時のアカデミーは、保守的な幹部によって硬直化しており、1863年に行われたサロン展では、5000点の応募に対し3000点が落選という厳しいものであった。

当時の前衛美術家だったマネやピサロたちは、そのためにサロン展で、切り捨てられてしまった。しかし、それに反発して(ナポレオン3世の助言もあって)、サロン展の隣で「落選展」を開催したのが、印象派のはじまりであった。

印象派、印象主義という呼び名は、その後、「落選展」に刺激された若い芸術家たちが、キャプシーヌ大通りで開いた展覧会に由来する。
その時の記者が、モネの≪印象、日の出≫を見て、「よくモノを見ずに、印象だけで絵を描く連中」という意味で、「印象主義者」という言葉を使ったのが、そのままこのグループの名前となった。
(小暮、2003年、232頁~234頁)

印象派の光と色


オルセー美術館は大きさがコンパクトで、コレクションも適度な明るさと軽やかさがあるため、だいぶ楽に見ることができる。
印象派を生み出したものは何だったのかについて、小暮氏は私見を述べている。その理由について、次のように箇条書きで列挙している。
① 保守的なサロン絵画に、芸術家も観客も嫌気がさしてきたこと
② 写真技術が発達し、必ずしも描写的な絵を描く必要がなくなってきたこと
(日本の浮世絵が熱狂的に受け入れられたのも、平面的な輪郭表現が新鮮に感じられた)
③ チューブ式絵具(コンパクトで取り扱いが簡単)が製造されるようになり、野外で写生ができるようになったこと
④ 化学染料など、今まで出せなかったような鮮やかな色が簡単に得られるようになったこと
⑤ 光と色の見えるしくみが判明していったこと

1番の理由を除いて、どれも科学の発達に関連しており、特に⑤の理由は重要であるという。というのは、色とは何かということは、学者やアーチストを悩ましてきたことであったから。
色について、小暮氏は次のように説明している。
色彩つまり光とは、目で感じることができる電磁波のことである。
一番波長の長い色は赤で、それから橙→黄→緑→青→青紫(ヴァイオレット)という順番で、波長が短くなる。
色彩とは、その波長、パルスを、人間の脳が認識するサインであり、実体がない。
(長いこと「色とは何か」が解明されてこなかったのは、視神経や脳のしくみがわからなかったからである。「色即是空」とは、よく言ったもので、当たらずとも遠からずであるという)

印象派の時代になって色彩と光の原理の研究が進み、学者たち(シュブルールやヘルムホルツ)が、画家たちの直観から、ひとつの色彩理論をつくりあげていった。
たとえば、絵具の赤と黄を混ぜるとオレンジになり、それに白を混ぜれば、西洋人の肌の色に近くなるといった具合に、色というのは原色を混ぜれば新しい色ができるかわり、混ぜるほどに鮮やかさや明るさは失われていく。

そのような混色された色調を、より明るい状態で見るには、画面の上に点描、つまりドットで複数の色を置いて、離れて眺める方法が考案された。これをディビジョニスムという。
複数の色は混合された上に、より鮮明な状態でとらえるというものである。
(今日のカタログのオフセット印刷も、藍・紅・黄・墨[C・M・Y・BL]のアミ点4色で構成されているが、それはこのような理論が基になっているようだ)

印象派の画家たちは、ある医学生を通じて、この情報を得たといわれている。それがモネ以降の印象派作品(カミーユ・ピサロ Camille Pissarro, 1830~1903、印象派)やジョルジュ・スーラ Georges Seurat, 1859~1891、新印象派)など、まさに、光の粒で構成された色彩の洪水のような作品を生み出していった。
(小暮、2003年、234頁~238頁)

ゴッホの≪オーヴェールの教会≫の青い色


小暮氏は、印象派絵画の特徴として、もう一つあると指摘している。
それ以前の絵画に比べて、印象派の絵画の声がさらにハッキリと聞こえるようになったことを挙げている。

ルーベンスのような、それまでの画家は、映画制作のように大勢のスタッフを集めて大作を作ることが主流であった。しかし、オルセーに置かれている作品群は、どれも画家がひとりで描き上げたものばかりである。
それだけに、画家の肉声がどの絵の中に込められているという。ルーヴルに収蔵されている画家たちは、パトロンのニーズを聞かなければ生活できなかったが、印象派以降の画家は、食えなくても、自分の絵を描こうとする人も出てきた。ゴッホやセザンヌは、生涯まるで絵が売れなかった。その点、カラヴァッジョはいくら破滅型だといっても、やはり売れっ子であった。

ここで、小暮氏は、ゴッホの≪オーヴェールの教会≫という絵について解説している。
〇≪オーヴェールの教会≫(1890年 94×74.5㎝ オルセー美術館)
≪オーヴェールの教会≫は通称名であり、正式名は、≪オーヴェール・シュル・オワーズの教会、後陣≫というそうだ。
ゴッホほど実物の色と印刷された色が違う画家もいないといわれる。これは物理的にいえば、チューブから出したそのままの色をキャンバスに塗りつけている(一番彩度の高い色)を使用しているからである。
ゴッホくらい自分の心の中をストレートに塗りたくった画家はおらず、画面から発散するオーラのようなものがあるという。これは印刷インキでは表現しきれないと小暮氏はいう。

そして、この絵の空のブルーに注目している。この青い色は、ヨーロッパの空の色、それも8月頃、夜の10時頃になって、ようやく陽が落ちるパリの空は、こんな感じの色をしているという。
このゴッホの≪オーヴェールの教会≫という絵は、一見、非現実的なようで、きわめて実物をよく観察して描いた絵として、小暮氏は読み取っている。そして絵を眺めながら耳を澄ませると、心の中に画家の声が響くかもしれないとアドバイスしている。
(小暮、2003年、238頁~240頁)

ポンピドゥー芸術文化センター


モダンアートのメッカ


モダンアートの殿堂ともいうべきものが、ポンピドゥー芸術文化センターである。
この前の広場には、大道芸人や似顔絵描きの画家が多く、ここはモンマルトルの丘同様、アーチストのたまり場である。

ポンピドゥー芸術文化センターは1969年、時のフランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥーにより、ここボーブールの中央市場跡に文化センターの建設を決定されたのが、はじまりである。
設計は、レンゾ・ピアノ(伊)とリチャード・ロジャース(英)らの共同プランである。1977年のオープン時から、この建築はルーヴルのピラミッド同様、賛否両論であった。しかし、今はすっかりパリの顔のひとつになっている。
(もちろん、未だにこの工事中みたいな建築をいやがる人も少なくないが)

ポンピドゥーセンターは、建物もモダンアートにふさわしいポップな造りである。ここの円筒形ガラス張りのエスカレーターを上がると、5~7階(フランスではNiveaux4~6)がパリ三大美術館のひとつ、国立近代美術館になる。
このエスカレーター自体が、モダンアートの作品のようなものである。
(小暮、2003年、241頁~242頁)

アヴァンギャルドのススメ


アヴァンギャルドな作品の多い5階を見ながら、モダンアートを楽しく鑑賞するコツを小暮氏は述べている。
(一般的に現代美術というと、6階の常設展示室に置かれているピカソやマティスを思い出す人が多いが、時代の区分けによっては、彼らはすでに古典のカテゴリーに入っている芸術家だという)

5階に展示されているのは、よりポップで前衛的な作品である。ピカソやマティスたちより、さらに形が崩れ、中には展示作品か、備品か判別できないようなものもある。
前衛芸術、アヴァンギャルドは理解不能な作品が多い。しかし、前衛芸術によく当てはまる言葉を小暮氏は紹介している。
それは、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のセリフに「芸術家とは暗闇で獲物を探すハンターのようなものだ。獲物が何なのか、、、命中したのかどうかもわからない」というのがある。
(このセリフは同名の原作ではなく、同じトーマス・マンの小説『ファウストゥス博士』にある言葉であるそうだ)

小暮氏によれば、意味はあとからついてくるものであるという。アヴァンギャルド芸術に求められることは、様々な表現上の実験を繰り返すことによって、見る人の感覚や脳を刺激することであると考えている。そしてモダンアートで一番肝心なことは、理解するしないということより、その場の雰囲気を楽しむことを勧めている。

例えば、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys, 1921~1986)の作品を例として挙げている。
ボイスは、ドイツの現代美術作家である。毛布、フェルト、脂肪、鉄、木を用いた彫刻を制作するとともに、人間を「社会的彫刻」と見なし、パフォーマンスなどの活動を行ったそうだ。
ボイスの作品に、グランドピアノをフェルトで包んだ作品がある。一般に、ボイスの作品には京都竜安寺の石庭などに通ずるような、観客の間にある種の緊張感を生じさせる力があるといわれる。
モダンアートにおいて、その場の雰囲気は大切であり、作品の置かれている空間も含めたすべての表現こそが芸術であると小暮氏は主張している。
(小暮、2003年、242頁~249頁)

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』



≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫

2020-06-19 17:00:48 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年6月19日)
 

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅴ章「ルーヴルのフランス絵画」を紹介してみたい。
 目次を見てもわかるように、ルーヴル美術館に所蔵されたフランス絵画の次のような画家を取り上げている。
 〇ラ・トゥール
 〇シャルル・ル・ブラン
 〇シャルダン
 〇ダヴィッド
 〇アングル
 〇ジェリコー
 〇ドラクロア

ラ・トゥールは、謎に包まれた生涯と30点に満たない作品数において、オランダのフェルメールと共通した人気を誇っている。光と影の画家として知られるが、その敬虔な作風とは裏腹に、本人は貪欲で暴力的な人間だったのは、意外である。小暮氏は、そうした人物像を浮かび上がらせ、絵だけでなく、カラヴァジオに近いものがあったとする。

次に、シャルル・ル・ブランは、ルイ14世の主席画家として、当時大変な権勢を誇った画家である。つまり王立絵画・彫刻アカデミー総裁となり、そして王立ゴブラン織り制作所監督にも任命され、宮中での権勢を手中におさめた。小暮氏は、その絵に作者の慢心を看取している。

18世紀フランスは、シャルダンという素晴らしい静物画家を輩出させた。18世紀フランス絵画の主流であった宮廷的なロココ絵画とは対照的に、台所の什器類を主題とする静物画や庶民の日常生活をテーマとする作品を多く残した。ルーヴル美術館のシャルダンの作品といえば、普通≪食前の祈り≫が取り上げられ、解説される。私のブログでも、井出洋一郎氏、中野京子氏、鈴木杜幾子氏の解説を紹介してきた。ところが、小暮満寿雄氏は、この≪食前の祈り≫については、一切言及していない。その代わり、静物画家としてのシャルダンに注目して、解説している。そして、シャルダンの静物画の系譜は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソといった巨匠たちに受け継がれていくと、位置づけている。

そして、フランスの新古典主義の画家ダヴィッドについては、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫と並んで、ルーヴル美術館でも最大の絵のひとつである≪皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫を解説している。パトロンのナポレオン・ボナパルトが、この絵を見た時、「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」と感嘆して言ったことはよく知られている。この点についての小暮氏のコメントが面白い。芝居がかった名言をいっぱい残しているナポレオンにしては、もう少し気のきいたセリフがあってもよさそうなものであると付言している。

続いて、ダヴィッドの弟子であるアングルの≪グランド・オダリスク≫等の作品を取り上げている。その振り向いた時のポーズに注目して解説しているが、菱川師宣の≪見返り美人図≫と同様、こういう姿は誇張して描かないとサマにならない場合が多いと指摘している点は、画家らしい視点であろう。そして、アングルという画家の特技として、ヴァイオリンを挙げ、かの有名なパガニーニと弦楽四重奏団を結成したエピソードを紹介している。フランス語では、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン」ということにも触れ、小暮氏は節の見出し名にしている。

新古典主義に対抗して登場するロマン派の画家として、ジェリコーとドラクロアを取り上げている。二人とも、ブルジョワジーという新興勢力の裕福な家庭に生まれた画家であった。ジェリコーの代表作≪メデューズ号の筏≫を、寿命を吸い取った超大作として捉えているのは、小暮氏の画家としての感性かと思う。このジェリコーの絵画は、ジャーナリズムの役割を果たしたともいう。
また、ドラクロアについては、≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫といった代表作を解説するとともに、ドラクロアの出生の秘密として、タレーラン実父説に言及している。
 
 さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇ラ・トゥール ≪大工の聖ヨセフ≫≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫
〇ル・ナン兄弟 ≪農民の家族≫
〇シャルダン  ≪赤エイ≫
〇ダヴィッド  ≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫
〇アングル   ≪グランド・オダリスク≫≪ヴァルパンソンの浴女≫≪リヴィエール夫人の肖像≫
〇ジェリコー  ≪メデューズ号の筏≫
〇ドラクロア  ≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫



※なお、ダヴィッド、ジェリコー、ドラクロワ、シャルダンについては、私のブログでもこれまで紹介してきた。
次の私のブログを参照して頂きたい。
【ダヴィッドの≪ナポレオンの戴冠式≫について】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その2 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その4 私のブック・レポート≫

【ジェリコーについて】【ドラクロワについて】
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その2 私のブック・レポート≫

【シャルダンの≪食前の祈り≫について】
≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その4 私のブック・レポート≫
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫





小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年

本書の第Ⅴ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅴ ルーヴルのフランス絵画
 光と影の画家ラ・トゥール
 サロンとフランス絵画(シャルル・ル・ブラン)
 静物画家シャルダン
 ナポレオン美術館(ダヴィッドとナポレオン)
 アングルのヴァイオリン
 メデューズ号の筏(ジェリコー)
 民衆を導く自由の女神(ドラクロア)





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第Ⅴ章 ルーヴルのフランス絵画
光と影の画家ラ・トゥール
・忘れ去られていた画家ラ・トゥール
・ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫
・ラ・トゥールの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫
・ル・ナン兄弟の≪農民の家族≫

サロンとフランス絵画(シャルル・ル・ブラン)
・王の主席画家シャルル・ル・ブラン
・サロンの花咲くもとで

静物画家シャルダン
・シャルダンのアカデミー入会術
・シャルダンの≪赤エイ≫
・静物画のランキング

ナポレオン美術館(ダヴィッドとナポレオン)
・ダヴィッドとナポレオン
・ルーヴルの歴史とナポレオン

アングルのヴァイオリン
・アングルの≪グランド・オダリスク≫
・アングルの≪ヴァルパンソンの浴女≫と≪リヴィエール夫人の肖像≫

メデューズ号の筏(ジェリコー)
・ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫

民衆を導く自由の女神(ドラクロア)
・ドラクロア――その出生の秘密
・ドラクロアとジェリコーの絵画の相違
・≪キオス島の虐殺≫
・≪民衆を導く自由の女神≫




小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅴ章 ルーヴルのフランス絵画




光と影の画家ラ・トゥール


忘れ去られていた画家ラ・トゥール


ラ・トゥールの作品は、ルーヴル美術館にはわずか5点ほどだが、特異な存在感を示している。
謎に包まれた生涯と30点に満たない作品数という点において、今日、ラ・トゥールという画家はオランダのフェルメールと共通した人気を誇っている。しかし、その名が本当に注目されるようになったのは比較的最近である。

ラ・トゥールの作品がはじめて注目されるようになったのは、彼の死後から200年ほど経過した、19世紀半ばくらいであるそうだ。
カラヴァジオ流に光と影のコントラストをつけた手法は、その当時はスルバラン(1598~1664、17世紀スペイン絵画を代表する画家、セビーリャ派)やムリーリョといった、スペインの画家だと間違われていた。それがフランス北部にあったロレーヌ公国の画家、ラ・トゥールであることがわかったのは、20世紀になってからのことであった。

ロレーヌ公国は三十年戦争(1618~48年の30年間、ドイツを舞台にヨーロッパ諸国を巻きこんだ戦争)の舞台にもなり、その打撃により1634年、フランスに併合され消滅した小国であった。
こうした複雑な地域に生まれた画家の宿命のためか、30点足らずの作品数と、ラ・トゥール自身については、あまりわかっていない。
ただ、その敬虔な作風とは裏腹に、本人は貪欲で暴力的な人間だったそうだ。

パン屋の息子だったのに、警察との裁判記録など残っており、きわめて素行のわるい人だった。例えば、自分を貴族と主張してケンカを起こしたとか、猟犬を放して田畑を荒らし農民を殴りつけたとか、税金を払わなかったなどである。
絵だけでなく、ラ・トゥール本人もカラヴァジオに近いものがあったそうだ。これはアートと本人が違うよい例である。

この点について、小暮氏は独自の見解を記している。
アーチストというものが、「巫女(みこ)」に近い性格を持っており、作品(特に傑作)といわれるものは、そのまま天から降りてきたようなものが多く、神さまの媒体として存在するという。
例えば、音楽の例を引いている。ポール・マッカートニーが『イエスタデイ』を作曲した時、朝起きた時に突然、頭の中で曲が出来あがっていたという。初めから終わりまでが完璧に出来あがっていたので、「実は誰かが作った曲ではないか」とまわりに聞いて確認したそうだ。
天から本当に何かが降りてくるのか、それとも人間の大脳のなせる技か、不明だが、傑作が出来る時というのは、そんなことが往々にしてあるものらしい。
(小暮、2003年、180~182頁)

ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫


ラ・トゥールの≪大工の聖ヨセフ≫(1640年頃 137×102㎝ 油彩)も同様、天から精霊が降りてきたような神々しさである。
この≪大工の聖ヨセフ≫は少年時代のキリストが、父ヨセフに語りかけている様子を描いたものである。ただ、彼らの衣装などは完全に当時の民衆を描いており、いわゆる風俗画として見ることができる。

数少ないラ・トゥールの絵のほとんどは、風俗画とマグダラのマリアを描いたものであった。娼婦だったマグダラのマリアが、現世の欲望を捨てて、キリストに仕えるというテーマはこの時代、大変人気が高かったようだ。
(小暮、2003年、182~184頁)

ラ・トゥールの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫


ルーヴルの≪聖なる火を前にしたマグダラのマリア≫(1640~45年頃)は、全く同じ構図の絵がロサンゼルス郡立美術館にある。
ルーヴルのものは少しだけ大きく、マグダラのマリアの頭の角度、本の位置、ロウソクの明るさが微妙に違う以外は、ほとんど同じである。
どちらかが贋作というのではなく、生前のラ・トゥールの人気を考えると、当時流行したマグダラのマリアをテーマに、同じ絵のリクエストが2枚あったと小暮氏は理解している。
(ルーベンスのように、同じ絵が複数あるというのは、西洋絵画では珍しくない)

ラ・トゥールは、西洋絵画では珍しい直毛、黒髪、ロングヘアの女性をマグダラのマリアのモデルに描いている。
マリアが膝にかかえたガイコツは、当時流行した「ヴァニタス画」という、死をテーマにした一連の静物画の流れを汲むものである。
(ここルーヴル美術館にもガイコツや書物を描いた「ヴァニタス画」がたくさん展示されているから、注意して見ていくと面白いという)
(小暮、2003年、184頁~185頁)

ル・ナン兄弟の≪農民の家族≫


ル・ナン兄弟(アントワーヌ 1588~1648、ルイ 1593~1648、マテュー 1607~1677)は、ラ・トゥールと同じ時期に活躍した。
その代表作が、≪農民の家族≫(1642年頃 113×159㎝ 油彩)である。
それまで絵画の主流はゴージャスな宗教画だったのが、17世紀になると、ル・ナン兄弟やラ・トゥールに見られるような、貧しく敬虔な農民を描いたものが好まれるようになった。
もちろん絵を買い上げていたのは貴族たちであるが、三十年戦争に代表される度重なる宗教戦争の影響もあったのであろう。彼らは貧しい人々の姿にキリストや使徒たちの生き方を重ねて見ていたに違いない。
17世紀中ごろのヨーロッパは宗教戦争に加え、飢饉やペストといった死と隣り合わせの時代であったから、貴族たちもみずからの贖罪に腐心したのかもしれないという。
そのような時代背景を考えて、絵を見ると、粗野だったラ・トゥールがなぜこのように敬虔な作品が描けたのかがわかるような気がすると小暮氏は述べている。
(小暮、2003年、183頁、185頁)

サロンとフランス絵画


王の主席画家シャルル・ル・ブラン


シャルル・ル・ブラン(1619~1690、フランスのバロック)は、ルイ14世の主席画家として、当時大変な権勢を誇っていた。彼は同時代に飛ぶ鳥を落とす勢いだった財務官フーケ(1615~80、ブルターニュの大商人の子)のごひいきとして出世した。

その後、フーケは、対抗勢力だったコルベール(1619~83、ルイ14世の財務総監)に追い落とされ失脚するが、その不興はル・ブランまで及ばなかった。
そして、コルベールのために仕事をはじめたル・ブランは再び王の主席画家となった。ル・ブランは王立絵画・彫刻アカデミー総裁となり、王立ゴブラン織り制作所監督にも任命され、王立絵画の管理もまかされ、宮廷での権勢を手中におさめる。

ル・ブランの≪アレキサンドロス大王物語≫の連作4点はその後に描かれた作品である。それぞれ高さが、約5メートル、幅は10メートル前後という大作である。
(例えば、その1枚≪アルベラの戦い≫(1669年 470×1264㎝)
今では、この絵はルーヴルの中で、最も大きく最も注目されない作品のひとつになってしまったかもしれないという。
これだけの群像を仕上げる技量、体力というのは並はずれたものだが、凡作であると評されている。小暮氏は、この絵には作者の慢心が描かれているような気がするという。ル・ブランは≪アレキサンドロス大王物語≫の連作を完成させた時、自分がミケランジェロに比肩されることを望んだというが、相当に鈍感な人と評している。
(小暮、2003年、186頁~189頁)

サロンの花咲くもとで


通常、サロンとは社交場としての集まりを意味するが、美術でいうサロンというのは、ル・ブランの時代、1667年、時の財務総監コルベールによって設立されたフランスの公募展のことを指す。サロンの正式名は、「王立絵画・彫刻アカデミー」という。
(日展や院展など上野で行われている公募展も、そのルーツは「サロン」をお手本に創設された)

公募団体というのは、アーチストという社会的に不安定な人々を、丸がかえで面倒を見るという点では、悪いしくみではない。芸術家を見出し、売り出し、作品の価格を査定し、仕事を与えるというのは、アーチスト個人ではできないことだから、そのようなマネージメントを肩代わりするというのは、特定の作家にとってはありがたいシステムである。

ところが「絶対権力は絶対腐敗する」の言葉のとおり、社会的権威が高まるほど、どんなものでも堕落する。いちど権力を手にした人間は、それを手放さない。画家や彫刻家なども同様である。新しいタイプの絵画やデザインは、ある意味で自分の地位を危うくする。そのため、自分たちの基準に沿ったアーチストのみを会員に推挙するようになっていった。

そもそもサロン展の創設者コルベールは、自由思想を厳しい検閲によって弾圧した人であった。それを主席画家ル・ブランの指導の下で、君主の栄光をたたえる学芸を奨励したのだから、出発からして、それは保守的なものであった。
サロン出品展はサロンの会員などに限られ、出品作の道徳面での検閲が行われていたから、次第に閉塞状態におちいる。
1863年に行われたサロン展では、5000点の応募に対し、3000点を落選させるという厳しいものであった。そこで、マネ、ピサロ、ファンタン・ラトゥールらが、サロン展の隣で有名なサロン落選展を行なった。それは結果として、サロン批判の声を高めることとなり、印象派の台頭へとつながっていく。
(西洋絵画の世界にも、そんな背景もあることを知っておくと、名画として後世に残っているものが、発表当時、必ずしも高い評価を得られなかった理由もわかる)
(小暮、2003年、190頁~192頁)

静物画家シャルダン


シャルダンのアカデミー入会術


保守的なイメージの強いサロン展――王立アカデミーであるが、悪い面ばかりでもなかった。ポンパドゥール夫人(1721~1764、本名ジャンヌ・アントワネット・ポワソン、パリの商人の娘)のもとで、サロンはロココ芸術を開花させている。その中でジャン・シメオン・シャルダン(1699~1779)という素晴らしい静物画家を輩出させている。

ところで、シャルダンが生きた18世紀になっても、描く絵のジャンルによって、画家の番付が定められていた。最も格上とされたのは相も変わらず歴史画であった。これは古代ギリシア・ローマ時代の知識や教養が必要とされたからである。次が風俗画や肖像画で、最低ランクとされたのはシャルダンの得意とする静物画であった。

なぜ、シャルダンは当時格下だった静物画を描いたのであろうか。
おそらくそれは、シャルダンが貧しかったことと、正規のアカデミー教育を受けていなかったからといわれている。シャルダンは20歳近くになって画家修業をはじめた、いわば奥手の画家であった。
コアペルという肖像画家のもとで静物部分を描きはじめたのが、画家としての出発だったようだ。
(小暮、2003年、193頁~194頁)

シャルダンの≪赤エイ≫


≪赤エイ≫(1728年 114×146㎝ 油彩)は、シャルダンがアカデミー入会に推挙されるきっかけとなった作品である。
それには、次のようなエピソードがある。
当時のフランスにおいて静物画は、まだ番付の低いジャンルであったが、北方ルネサンスの流れをくむオランダ絵画では、すでに確立された分野であった。シャルダンがどこでオランダ静物画を学んだのかわからないが、彼はそのスタイルを充分に吸収していた。

頭のいいシャルダンは、この≪赤エイ≫が自分の作品であることを言わず、アカデミーの審査委員に、あたかも自分が絵の持ち主であるように見せた。≪赤エイ≫をオランダ絵画と間違えた審査委員は、「素晴らしい絵をお持ちでいらっしゃる」と手放しで賛美した。
その審査委員は、あとになって≪赤エイ≫がシャルダンの作品と知らされるが、一度作品を誉めた手前、発言を撤回するわけにもいかず、彼のアカデミー入会はその日のうちに許可された。
(小暮、2003年、194頁~196頁)

静物画のランキング


シャルダンには、≪赤エイ≫以外にも次のような作品がある。
〇通称名≪タバコ入れ≫(パイプと水差し)1737年頃 32.5×42㎝ 油彩
〇≪銅の貯水器≫1734年頃 28.5×23㎝ 油彩

画面のタバコ入れには手が入りそうな感じである。そして水差しの表面などは、日本の志野焼きのテクスチュアそっくりで、何やら釉薬の感触や温度まで伝わってきそうである。
一方、銅の貯水器と銀のゴブレットは、触るとヒヤッとしそうである。銅の貯水器からは、水滴の音が聞こえてきそうなほどの実在感である。
ヨーロッパには、「鍋ひとつにも精霊が宿る」という考えがあるが、まさにシャルダンの静物画はモノに何かが宿っているようである。

ところで、アカデミーに入会したあとも、シャルダンの生活は豊かではなかったらしく、来た注文は静物画であろうと風俗画であろうと、修復の依頼だろうと、何でも引き受けていたそうだ。
そして、次第に名声が高まると、シャルダンは静物画家から風俗画家に転じた。セーヌ川の生活をテーマに、食卓のようすや台所で働く人、カード遊びやシャボン玉をする少年などを描くようになった。

ただ、それには次のようなエピソードがあったらしい。
シャルダンと親しかった肖像画家アヴェドは、シャルダンによく意見やアドバイスを求めていた。自画像や猿が絵筆を持つ擬人画などを見てもわかるように、シャルダンは分析的な上、辛辣な人だったようだ。
ある日、指摘された意見が余りにきつすぎたのか、アヴェドは思わずこういったそうだ。
「そりゃ、君にはわからんだろうけど、これは詰め物料理やソーセージを描くように簡単なことじゃないのさ!」
売り言葉に買い言葉であるが、シャルダンは相当に気を悪くし、以来風俗画を描きはじめるようになったという。

しかし、やがて時代が下るにつれ、歴史画、風俗画、静物画の序列は次第に崩れていき、やがてシャルダンの静物画の系譜は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソといった巨匠たちに受け継がれていく。
(小暮、2003年、196頁~199頁)

ナポレオン美術館


ダヴィッドとナポレオン


ダヴィッド(1748~1825)の≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫(1805~07年 621×979㎝ 油彩)は、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫と並んで、ルーヴルでも最大の絵のひとつに数えられる。

パトロンのナポレオン・ボナパルトは、この絵をはじめて見た時に感嘆し、こう言ったそうだ。
「これは絵ではない。画面の中に歩いて入れるようだ」
(小暮氏は、芝居がかった名言をいっぱい残したナポレオンにしては、もう少し気のきいたセリフがあってもよさそうなものですとコメントしている)

ナポレオンという人は、当時からメディアの力をよく理解しており、多くの芸術家や美術品を自らのナポレオン神話に利用した。
1804年12月、パリのノートルダム寺院で行われたナポレオンの戴冠式の様子を、3年の歳月をかけて完成させたのが、この大作である。
ダヴィッドという人は、1789年から99年にかけてのフランス革命初期に、熱烈な革命派画家として売り出した人である。歴史上、画家で政治活動に身を投じた人がいないことはないが、ダヴィッドのように死後180年もたってからでも、名声とともに数々の作品を残した人は珍しい。
フランス革命中期の1794年、親交の深かったロベスピエール(1758~94)が、「テルミドールの反動」で失脚し処刑されると、ダヴィッドも投獄され、その後また運よく恩赦されて出てくる。
この人の注目すべきところは、必ずしもコバンザメのように革命家や政治家にくっついて絵を描いたのではないことであると小暮氏は理解している。
のちにナポレオンがダヴィッドを主席画家に任命したのは、この20年近く年長の画家に敬意をはらい、心酔していたからだったとみる。
司令官時代のナポレオンは、ローマ時代の英雄を描いた≪ホラティウス兄弟の誓い≫などのダヴィッドの作品を見て、「いつの日か、この画家に自分の姿を描いてもらいたい」と思い続けていたと推測している。

もっとも、≪モナ・リザ≫も、アルトドルファーの≪アレキサンドロス大王の戦い≫も、持っていた額に合わせて絵を断裁したといわれるナポレオンであるから、とりたてて美術愛好家というわけではなかったとも小暮氏は断っている。

≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠≫は、ルーヴルの中でも≪カナの婚礼≫に次いで大きな作品である。
ナポレオンの戴冠式は、はじめ広場で行われる予定だったが、混乱を避けるため、ノートルダム寺院の中で挙行された。
ナポレオンはローマ教皇がかぶせようとした冠を、自分の両手で受けとり、自らの頭上に置いてしまう。ダヴィッドの絵では、そのような不遜な瞬間ではなく、ナポレオンが自らの頭に置いた冠を、皇妃ジョゼフィーヌにかぶせる場合を採用している。
はじめてこの絵を前にしたナポレオンは、1時間近く見つめ続けた後、愛用の帽子を脱いで、画家ダヴィッドに対して最敬礼したという。
(この絵は、フランス人にはルーヴルで最も人気のある作品だといわれる)
(小暮、2003年、200頁~203頁)

ルーヴルの歴史とナポレオン


エジプトのピラミッド、インドのタージ・マハルがそうであるように、権力者が自分のために造ったものが文化遺産になってしまうというパターンは多い。ナポレオンがルーヴル宮を美術館としてリニューアルさせたことも同様であった。

ルーヴル宮は今から800年ほど前、イギリスの攻撃に備えて建てられた城塞を宮殿として造営されたものであった。
ところが、17世紀になってルイ14世がヴェルサイユ宮殿に引っ越すと、ルーヴル宮は空家同然となり、アーチストや職人たちがアトリエとして勝手に住みつくようになる。ルーヴルでは芝居が頻繁に上演され、展覧会が開かれたりと、芸術の場として定着するようになり、やがて中央美術館として開設されることになる。

そして1802年、その中央美術館に目をつけたナポレオンは、自分の戦利品を無料で一般市民に公開した。これが現在のかたちになっているルーヴル美術館の原型である。
ナポレオンは、ルーヴル宮に住んでいたアーチストたちを追い出し、中央美術館をナポレオン美術館と改称し、荒れ果てた建物の大改築を試みた。

ナポレオンは美術館をメディアと位置づけていたので、ダヴィッドやグロのナポレオン絵画も、そうしたプロパガンダの一貫として描かれた作品である。
例えば、グロの≪アルコル橋のボナパルト≫(1796年 73×59㎝ 油彩)という作品がある。
グロはダヴィッドの弟子で、ナポレオンにも気に入られていた。各地を遠征するナポレオン軍に同行し、ナポレオン伝説の伝道師として活躍した。グロはナポレオンに心酔しきっていたといわれる。
(小暮、2003年、202頁~206頁)

アングルのヴァイオリン


アングルの≪グランド・オダリスク≫


フランス新古典主義のアングル(1780~1867)が描いた≪グランド・オダリスク≫(1814年 91×162㎝ 油彩)は、長く引き伸ばされた背中で有名である。
首から左肩にかけての曲線、そして背中から腰にかけての広い背中など、実際の人体はこのようなポーズをとることはできないといわれる。
ただ、振り向いた時の姿というのは、江戸時代の浮世絵の菱川師宣(ひしかわもろのぶ、?~1694)の≪見返り美人図≫でもそうだが、誇張して描かないとサマにならない場合が多いと小暮氏は主張している。

そもそも振り向きざまのポーズというのは、通常の人間にとって長時間耐えられる自然な姿ではないという。
アングルが残した習作のデッサンを見ればわかるように、モデルに負担のかかるムリなポーズをさせて、それをそのまま描くと、どうしても苦しそうな裸体になってしまうそうだ。
オダリスク(トルコのハーレム美女)がシスティナ礼拝堂の≪最後の審判≫みたいに、背中をねじる苦悶のポーズでは、文字通り絵にならない。
絵というのは単なる描写だけではなく、モチーフに対する印象を平面の中に封じ込める役割がある。だから、ハーレムで優雅にくつろぐ美女を、このようなポーズで描こうとすれば、実際の人体ではありえない誇張が必要になってくると小暮氏は説いている。

ところが、名画の常として、同時代、アングルのこの絵の批評は散々なものだった。
デッサンが不正確であるとか、脊椎が三つあるだとか、のっぺりしていて、まるでクラゲのような無脊椎動物のようだとか。
当時のフランス画壇は厳格なルールを旨としていたので、アカデミックな視点から酷評した。
(小暮、2003年、207頁~209頁)

アングルの≪ヴァルパンソンの浴女≫と≪リヴィエール夫人の肖像≫


ただ、アングルという人は勤勉でまじめな人だったそうだ。
例えば、ルーヴル美術館の次の3点をよく見てほしいという。
〇≪グランド・オダリスク≫(1814年 91×162㎝ 油彩)
〇≪ヴァルパンソンの浴女≫(1808年 146×97㎝ 油彩)
〇≪リヴィエール夫人の肖像≫(1805年 116×90㎝ 油彩)

これら3点は、なめらかそのものという女性たちの木目細かな肌のテクスチュアに注目してほしいと小暮氏はいう。なめらかな女性の体を描かせたら、この人の右に出る画家はいないと賞賛している。
(バサバサと筆跡が残されているドラクロアの台頭が許せなかったというのも、納得できると付言している)
≪リヴィエール夫人の肖像≫の絹やカシミヤのテクスチュアの感触が触れそうなほどに伝わってくる。

アングルは社会的なステータスの高い歴史画の分野に意欲を燃やしていたが、本当に芸術性の高い仕事は裸婦と肖像画に集中している。
歴史的なテーマを扱うドラマチックな群像は、アングルの体質とは異なっていた。≪アンジェリカを救うルッジェーロ≫を見てもわかるように、劇的な構図に対して、絵の持つテクスチュアはまったりしているという。
(ドラマチックな素材を得意にしていたドラクロアに対して、アングルは嫉妬していたかもしれないとみる)

余談だが、アングルは大変なヴァイオリンの名手だったそうだ。その腕前たるや、イタリアで仲よしになったパガニーニ(1782~1840、イタリアの伝説的ヴァイオリニスト)と、ベートーベンの弦楽四重奏を共演したことがあるそうだ。フランスでは、本業以外の特技を「アングルのヴァイオリン(Violon d’Ingres)というそうだ。
(小暮、2003年、209頁~211頁)

メデューズ号の筏


ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫


フランス革命の最中に生を受けたジェリコーとドラクロアという二人の画家は、ルーヴルの歴史の中では新参ものであるが、≪モナ・リザ≫のレオナルドとともに、ルーヴル美術館の顔となるコレクションを描いたアーチストである。

〇ジェリコー(1791~1824)≪メデューズ号の筏≫(1818~19年 491×716㎝ 油彩)
まず、ジェリコーの「メデューズ号の筏」は、想像していた以上に大きな絵である。
ドラクロアの≪キオス島の虐殺≫も、≪民衆を率いる自由の女神≫も大きな絵であるが、それよりひと回りもふた回りも大きな作品である。

この絵を仕上げた時、ジェリコーはまだ27歳の若さであった。彼はその5年後、32歳の若さで世を去る。まさに、この作品は死の臭いが漂ってきそうな作品であると小暮氏は思っている。“寿命を吸い取った超大作”と形容している。

この≪メデューズ号の筏≫が話題を呼んだのは、それまでの絵画がキリスト教的な主題や、神話の世界をモチーフにしていたのに対して、スキャンダラスな「事件」をモチーフにしたことである。

1816年、約400人を乗せて西アフリカの植民地に向かっていたメデューズ号は、セネガル沖で難破する。船長は真っ先に避難してしまう。タイタニック号のように、北極海で沈むのと違い、そこは西アフリカの海で、落ちただけでは簡単に死ねない。
救命ボートに乗れなかった149人は、崩壊したメデューズ号の残骸を集めて筏を作り、12日間漂流する。救助船アルゴス号によって救出された時、生存者はわずか15人であった。

この事件が世間を騒がせたのは、単なる海難事故だっただけではない。
まず、船長は政治的なコネで地位を得た人物だった。その人物が事故の責任を果たすどころか、真っ先に救命ボートに避難し、さらには筏とボートを結んだロープを断ち切って、149人を見放してしまった。
漂流中、生き残った人々はわずかに残った水と食料をめぐって争うことになり、悲惨な顚末になってしまう。

怒りに駆り立てられたジェリコーは、このメデューズ号事件をテーマに作品を描くことを考える。事件に関する調査書類を作り、生存者たちにインタビューを行い、綿密なスケッチを作成する。画家は、どうしてもひとつのドラマを一枚の絵に集約させなければならない。この事件のどの場面をビジュアル化するか、この若い画家は随分迷ったであろうが、最終的には、生存者が救出船アルゴス号を発見するシーンに絞ることになる。
(その後も多くのスケッチや油彩の習作を描いており、このルーヴルにもいくつか収蔵されている。習作は筏が大きく、アルゴス号もはっきり描かれていたり、画家がペンで下絵を描いていた跡が確認できたりするという)

ジェリコーはこの作品のために、数多くの死体のスケッチを残し、死体に執着した。アーチストが死体に執着したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの解剖図にはじまるが、ジェリコーの場合、近くの病院にたのみこんで、首や手足をアトリエに持ち帰って描いていたそうだ。
こうして完成させた大作も、当時のフランス政府にとっては目の上のタンコブにすぎなかった。というのは、政府はメデューズ号の船長をその地位につけたという関係もあったからである。結局、国の買い上げにはならず、画家は失望した。
ジェリコーはイギリスにこの絵を持ち込んで、入場料を取って公開することにした。ゴシップ好きのイギリス大衆は、一目この絵を見ようと5万人が押しかけ、大変な成功をおさめた。いわば、絵画がジャーナリズムの役割を果たした。
(小暮、2003年、212頁~217頁)

民衆を導く自由の女神


ドラクロア――その出生の秘密


1789年7月14日、バスティーユ監獄の襲撃に端を発したフランス革命は、王侯貴族が支配する世界を転覆させ、その後の政治指導者は変わり続ける。
ジェリコーやドラクロアは、その変わり行く社会の中で登場したブルジョワジーという、新興勢力の裕福な家庭に生まれた画家であった。

ジェリコーは豊かな商人の息子としてルーアンに生まれた。ウージェーヌ・ドラクロアは、政府高官シャルル・ドラクロアを父にした家庭に生を受けた。
ところが、ドラクロアに関して、その出生には生前から奇妙な噂があった。実はドラクロアの実父はシャルルではなく、世界的に名声の高かった外交官タレーラン(1754~1838)だというのである。
タレーランは、自己保身の天才といわれ、コウモリのように常に時の権力の中枢を渡り歩いた。人からは「タレーランは金儲けに精を出していないときは、陰謀を企てている」と揶揄された。
(いわば「タヌキおやじ」の政治家と小暮氏はいう)

このように世間の評判は必ずしもよくなかったが、ナポレオンからルイ18世の外相を務め、その政治手腕に高い評価があった。
ただ、タレーランは「英雄色を好む」の言葉どおりに、各界の女性と浮き名を流しており、「タレーランの落とし子」がいたことでも知られていた。
そのタレーランがドラクロアの実父というゴシップは単なる噂ではなく、確率の高い事実と、近年の調査から考えられるようになったようだ。

というのは、次のようなことがわかっているそうだ。
・父とされるシャルルは、ドラクロア誕生以前から重い膀胱炎をわずらっていて、子種を残せる状態ではなかったこと
・母の妊娠時期とシャルルの単身赴任時期が合わないという事実も、そのことを裏付けている
・ドラクロアの母ビクトアールは、この有能な外交官に魅力を感じていたといわれる
・何よりもドラクロアの風貌がシャルルに少しも似ておらず、目つきや口元、黄みがかった肌がタレーランにそっくりである
・父シャルルはドラクロアが7つの時、64歳で世を去っているし、母ビクトアールは16歳の時に死んでいる
・やがてドラクロアは、サロンデビューをして、次々と注文を受けるようになるが、そこには実父タレーランが舞台裏にいたともいわれる
(小暮、2003年、218頁~220頁)

ドラクロアとジェリコーの絵画の相違


フランス革命以後、ダヴィッドのように政治運動に参加する画家は数多く登場した。
ただ、ドラクロアは実父タレーランのことを知ってか知らずか、直接は政治に参加したがらなかったようだ。
しかし、ドラクロアが描いたルーヴル美術館の次の2枚の絵を見ると、彼の決意が窺える。
〇ドラクロア≪キオス島の虐殺≫1824年 417×354㎝ 油彩
〇ドラクロア≪民衆を導く自由の女神≫1830年 260×325㎝ 油彩

これらの絵には、ドラクロアの「祖国のために銃をとらなかったかわりに、絵筆で戦う」決意があらわれていると小暮氏は捉えている。
どちらもジェリコーの≪メデューズ号の筏≫と同様、実際の事件に触発されて描かれている。

≪キオス島の虐殺≫は、1822年、トルコの支配下から独立運動を起こしたギリシアが、キオス島で2万2000人の虐殺を受けた事件を描いている。
一方、≪民衆を導く自由の女神≫は、1830年、あの七月革命の勃発にインスピレーションを得て、絵筆をとった作品である。
七月革命は、「栄光の三日間」と呼ばれた民衆による革命で、時のフランス王シャルル10世が倒されたが、結果的には、王家と同じ血縁のオルレアン家ルイ・フィリップの即位による七月王政の成立となる。しかし、ヨーロッパ全土に自由主義の台頭が促されたことは、後世にとって大きな意味があったとされる。

ところで、小暮氏の私見によれば、ドラクロアのこの2点と、ジェリコーの≪メデューズ号の筏≫は、一見よく似たタイプの絵であるが、本質的な違いがあるという。
それは、ジェリコーの作品は着眼が、「死」と「生への執着」に向いているのに対して、ドラクロアの方はそうではない。特に≪民衆を導く自由の女神≫は、「希望」に向かって描かれた作品であると解釈している。

≪メデューズ号の筏≫では、救出される直前の瞬間を描いているのに、画家ジェリコーの興味は極限状態の人間と死体に向けられている。人体を含めて全体の画面は、苔むしたような緑に覆われていて、暗く、「死のオーラ」がひしひしと伝わってくる。

日本で平安時代には葬儀や死体というのは、それに近づくと引き込まれてしまうということで、禁忌(きんき)されていた。
この絵を描いたジェリコーが、その後、乗馬で脊髄を痛めて長生きできなかったことは、偶然ではないように思われ、みずから死に神を引き寄せたように感じられると小暮氏は述べている。

一方、≪キオス島の虐殺≫≪民衆を導く自由の女神≫には、トルコ軍の虐殺や七月革命に想を得ているにもかかわらず、そういった死のイメージはないという。
(小暮、2003年、221頁~224頁)

≪キオス島の虐殺≫


≪キオス島の虐殺≫が完成されたのは、ちょうどこの年のはじめにジェリコーが32歳の若さで亡くなった年であった。
この絵が発展されたサロンでは、テーマの現実性の生々しさに、「これは絵画の虐殺」だと、激しい非難が浴びせられたそうだ。ただ、今見ると、さほど残虐な描写が描かれているわけではなく、これならば、磔刑にさらされるキリスト像や、生首を持つサロメなどを描いたものの方が、はるかに残虐であると小暮氏はみている。

ここには虐殺され、死屍(しし)累々と横たわる島民の死骸は小さくしか描かれていない。ドラクロアは、畏友の念を持っていた友人ジェリコーの早すぎる死に衝撃を受け、死体を描くのを避けたのではないか、とも小暮氏は憶測している。そして、絵のサイズ(417×354㎝)がひとまわり小さいのも、早世した7歳年長の友人に対して、敬愛を込めて一歩下がったかもしれないと推測している。

なお、この≪キオス島の虐殺≫という作品の発表によって、物議をかもし出してから、アカデミーとドラクロアの間に確執が生まれた。それでも、なぜか彼はアカデミー会員にこだわり続け、毎年サロン出品をくり返し念願かなってアカデミー会員となったのは、この絵を発展してから、30年以上経った59歳の時だった。
(小暮、2003年、221頁、224頁~226頁)

≪民衆を導く自由の女神≫


18世紀後半から19世紀半ばのフランスでは、王党派、共和派が度重なる政権交代を繰り返していた。当時のフランスも革命と政権交代を繰り返し、少しずつ近代国家への脱皮をしていく発展途上国であった。

そんな1830年、再び王政をとりもどしたシャルル10世が、勝手に議会を解散させてしまったことで、民衆が蜂起し、俗にいう七月革命が起こる。
≪民衆を導く自由の女神≫は、この事件にインスピレーションを得たドラクロアが、民衆の勝利の喜びをテーマに描いた作品といわれている。
現実には、フランスの三色旗をふりかざした女性が登場したわけではなく、構図その他すべてドラクロアの創作である。

さて、自由を勝ち取ったと思われた七月革命であるが、政治的には頭がすげかわっただけであった。資本家たちは、ルイ・フィリップというオルレアン家の王族を国王に迎え、七月王政と呼ばれる政権を樹立する。
そんな七月王政の政府にとって、この絵は少々煙たい作品だった。名目上、国家はこの絵を買い上げたが、その後、このルーヴルに展示されたのは、画家の死後、11年が経ってからのことであった。

≪民衆を導く自由の女神≫は、七月革命に触発された作品だが、このような群像作品というのは、歴史画に代表されるように、どうしても絵画の技術以外の教養が必要となる。
ドラクロアは、文学や音楽にも造詣の深かった人である。フレデリック・ショパンとも親友の間柄だった。
〇ドラクロア≪フレデリック・ショパンの肖像≫(1838年 45.5×38㎝ 油彩)
このショパンの肖像画は、実物を見ると、実に顔色悪く描かれており、なるほど39歳の若さで結核で死んだというのも、わかる気がすると小暮氏は述べている。
(小暮、2003年、226頁~228頁)

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』



≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫

2020-06-16 17:25:09 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年6月16日)
 

【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅳ章「市民が育てた北方ルネサンス」を紹介してみたい。
 今回、紹介する第Ⅳ章において、ルーヴル美術館所蔵のフランドル(ファン・アイク)およびオランダ(ルーベンス、レンブラント、フェルメール)の画家を主に取り上げ、解説している。
 これら4人の画家については、これまで私のブログでも、何度も紹介してきたが、画家としての小暮満寿雄氏の独特の解説も見られる。
 例えば、ルーベンス工房とレンブラント工房との違い、ルーベンスとカラヴァッジョの物語を4コマ漫画で説明し、二人の対照的性格を浮かび上がらせるなど、叙述に工夫もみられる。また、画家らしく、絵画の贋作問題にも留意を払い、レンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)の調査結果などにも言及している。
 そして、画家としての独自の審美眼と作品鑑賞の視点から、オランダ美術の静物画の中で、ヘームの≪デザート≫という作品は、オランダ静物画の中でも最大にして最高の作品であるとし、ルーヴル美術館の隠れた名品と評している。

 
 さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇ファン・アイク ≪宰相ロランの聖母≫
〇ルーベンス  ≪マリー・ド・メディシスの生涯≫
〇レンブラント ≪バテシバの水浴≫
〇フェルメール ≪レースを編む女≫≪天文学者≫
〇ハルス    ≪ジプシー女≫≪リュートを弾く道化者≫
〇ヘーム    ≪デザート≫~オランダ静物画の中でも最大にして最高の作品(ルーヴル美術館の隠れた名品)




※なお、フランドル(ファン・アイク)およびオランダ(ルーベンス、レンブラント、フェルメール)については、私のブログでもこれまで紹介してきた。
次の私のブログを参照して頂きたい。
【ファン・アイクについて】
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その7 私のブック・レポート≫

【ルーベンスについて】および【レンブラントについて】

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その8 私のブック・レポート≫

≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その3 私のブック・レポート≫

【フェルメールについて】
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その1 私のブック・レポート≫






小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年

本書の第Ⅳ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅳ 市民が育てた北方ルネサンス
 ファン・アイクの油彩画体系
 ヨーロッパを席巻したルーベンス・ブランド
 ルーベンスの弟子たち
 魂の画家レンブラント
 オランダ美術は市民のための芸術だった(ハルス、フェルメール)





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


ファン・アイクの油彩画体系
・フランドル、ネーデルラントについて
・ファン・アイクについて
・油彩画の発展史
・ゴシックと北方ルネサンス
・「市民」の芸術

ヨーロッパを席巻したルーベンス・ブランド
・あの『フランダースの犬』のルーベンス
・ルーベンスの≪マリー・ド・メディシスの生涯≫
・ルーベンスの人となりを語るエピソード
・ルーベンスの順調な人生
・ルーベンス工房作品
・マリー・ド・メディシスの生涯
・ルーベンス・ブランドが欲しい!
・カラヴァジオとルーベンスという2人の画家

ルーベンスの弟子たち
・ルーベンス工房とスタッフ
・自意識をも描いたヴァン・ダイク

魂の画家レンブラント
・レンブラント工房の画家たち
・レンブラントの技法について
・レンブラント・リサーチ・プロジェクト
・画家は不幸を糧に絵を描いた?
・作品≪バテシバの水浴≫

オランダ美術は市民のための芸術だった(ハルス、フェルメール)
・バブルが育てたオランダ絵画
・見る喜び、描く喜び――オランダ静物画
・ハルスの≪ジプシー女≫と≪リュートを弾く道化者≫
・フェルメールはシュールレアリズムの先駆者
・下絵はカメラ・オブスキュラで
・イメージについて




小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅳ章 市民が育てた北方ルネサンス




ファン・アイクの油彩画体系


フランドル、ネーデルラントについて


ヤン・ファン・アイク(1390?~1441、フランドル)の≪宰相ロランの聖母≫(1435年、
66×62㎝、油彩)は緻密な写実描写である。それがかえって、作品に神秘的な雰囲気をたたえている。

15世紀のこの時代、イタリアではフィレンツェを中心としてルネサンスが花盛りを迎えていたが、一方でアルプスの北側にあたる、フランスやドイツ、ネーデルラントにも新しい芸術が生まれた。
その中でもドイツからネーデルラントにかけての地域で起こったものを「北方ルネサンス」と呼んでいて、西洋絵画史の中でも重要な位置を占めている。

ネーデルラントは、低地を意味するオランダ語で、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、いわゆるベネルクス三国周辺の文化圏を総称する呼び名のことである。フランドルというのは、その中でも、南部にあたる地方で、現在のベルギー西部からフランス北端部にかけての地域を指す。15~16世紀において、フランドル地方はネーデルラントの中でも政治や文化、経済の中心地になっていた。
(小暮、2003年、120頁~122頁)

ファン・アイクについて


そのフランドル絵画の創始者と呼ばれているのが、このファン・アイクである。
俗にファン・アイク兄弟と呼ばれるが、単にファン・アイクと呼ぶ場合は、弟のヤンを指しているケースが多い。兄のフーベルトについては謎に包まれており、≪ヘント祭壇画≫の共同制作をした。兄弟がどういった形で仕事を分担していたかという記録は残っていない。
また、油絵具がファン・アイク兄弟によって作られたという伝説がある。特にフランドル絵画の人気が高かったイタリアでは、それが通説とされてきた。実際には彼ら以前にも油彩画はあったのであるが、それを完成させたのが、ファン・アイク兄弟だったといわれる。
(小暮、2003年、122頁~123頁)

油彩画の発展史


古代ギリシアには植物油を絵具に用いると、光沢と透明感のある絵ができることは、すでに知られていた。ただ、乾燥に時間がかかったため、実用には至らなかった(おそらく、サラダ油で絵を描くようなイメージか)。

千年以上経った12世紀頃になって、ようやく実用に耐えうる油性塗料が使われるようになったものが、15世紀はじめフランドル地方で発達した。それを芸術の表現手段として耐えられるように高めたのが、ファン・アイク兄弟だという。

当時の油絵具は柔らかく、今でいうとペンキのような粘度だったようだ。一度に厚塗りができないので、厳密な下描きに従って絵具を丹念に重ねて完成させていった。
数ミクロンの薄い層が重なっているため、絵の透明感も抜群で、500年以上経過しているのに、彼らの絵は堅牢で良好な保存状態にある。

手軽で便利なチューブ絵具が登場した19世紀以降の画家は、ターナーでも、アングル、マネの作品でも150年そこそこで、大きなヒビが入っているのに比べると、対照的であるそうだ。
ちなみに、ゴッホだけは、チューブから出した絵具を揮発油で溶かず、そのままキャンパスに塗りつけていたため、この時代の画家としては異例なほど良い状態で保存されているという。

ところで、油彩画が普及する前は、テンペラという技法が西洋絵画の中心だった。このテンペラ技法について、小暮氏は図説を用いながら説明している。
テンペラは、卵黄の中身にリンシード油(亜麻仁油、固着する力がある)を入れてかきまぜ、ダンマル樹脂(松ヤニ)とテレピン油(揮発性油)を加え、顔料を入れ、水に溶いて使うと小暮氏は述べている。
(14世紀には、卵黄1個に対して等量の水という処方だったようだが、時代が下ると、油脂や樹脂の添加が行なわれるようになったという)
テンペラ技法は、基本的に卵などを用いて、マヨネーズ状のメジューム(溶材)を作り、顔料を固着させるテクニックをテンペラ画という。

また、16世紀ヴェネチアで、画布(キャンバス)を用いた油彩が流行するまでは板の上に油彩やテンペラが描かれていた。
(ちなみに、≪モナ・リザ≫は、ポプラ板に油彩で描かれている)
ゴシック建築の大きな祭壇画は、何枚もの板をつなげて、絵の基底材(ベース)を作った。祭壇画の裏側は、木が反らないためのカンヌキをつける専門の職人がいたそうだ。
(小暮、2003年、123頁~126頁)

ゴシックと北方ルネサンス


15世紀初頭、イタリアのルネサンスが花咲きはじめた頃、北方のネーデルラントやドイツでは、まだ中世ゴシック様式の中にとどまっていた。
もともとゴシックとは、ヴァザーリ(1511~1574)をはじめとするイタリア人が、北国のゴート人を蛮族として、ネーデルラントやフランドル美術を揶揄する意味で用いたものである。
ヴァザーリは、『ルネサンス画人伝』(美術家列伝)を書いたことで知られるアーチストである。絵描きとしては理屈っぽすぎたのか、凡庸であった。
(ルーヴルにある≪受胎告知≫も、どうやら天使の羽にドクロか何かが隠されているように描かれているが、迫力と驚きに欠けると小暮氏は評している)
そのヴァザーリの言った「ゴシック」という言葉は19世紀になって、西ヨーロッパ中世美術の様式を指す美術用語として用いられた。
ゴシック様式の建築で典型的な例をあげるとすれば、パリのノートルダム寺院はその代表格である。それから、ドイツのケルンの大聖堂、イギリスのウェストミンスター寺院もそうである。これらは、いわば天に摩すような、細長い尖塔形の建築物である。その中を装飾するステンドグラスや絵画、彫刻、工芸品なども、ゴシック様式と考えてもよい。

例えば、ノートルダム寺院には、塔の上に「キマイラの回廊」と呼ばれるところがある。そこに鎮座し、下界を見下ろしている、ガルグイユと呼ばれる小鬼たちや、細長い聖人たちの彫刻なども、典型的なゴシックといえる。
(映画『バットマン』のゴッサム・シティなんかは、ゴシック的な要素を取り入れた美術セットで、ホラー系のビジュアルにも大きな影響を与えていると小暮氏は指摘している)

ところで、天を仰ぎ見るようなゴシック様式建築の中では、イタリアの教会みたいに巨大な壁にフレスコやテンペラ画を装飾するスペースはない。
ルーヴル美術館の北方ルネサンスの部屋を歩けば、わかるように、ファン・アイク(1390?~1441)、ウェイデン(1400~1464)、メムリンク(1440?~1494)など、どれも大きさがコンパクトである。これには、スペース的な都合以外に、材料のサイズ制限もあった。

15世紀初頭にはキャンバスがまだ発明されておらず、組み木に祭壇画を描いていた。また材料学的な意味での油彩技術も、薄塗りを重ねる方法でしか描くことができなかったため、大きな面積には不向きであったようだ。
ヨーロッパ北方では、絵画というのは祭壇画か、貴族や一部の裕福な商人の部屋を飾るものに限られていた。
(小暮、2003年、126頁~129頁)

「市民」の芸術


ウェイデンの≪受胎告知≫(1435年 86×93㎝ 油彩)を見ると、イタリア絵画の≪受胎告知≫とは、舞台設定が違うことに気づく。
レオナルドやフラ・アンジェリコなどイタリアの受胎告知では、天使ガブリエルが聖母マリアにお告げをするのは、だいたい柱廊やテラスである。それに対して、ウェイデンのそれは裕福な市民の一室が舞台になっている。
また、窓から差し込んでくる光は、やはり北部ヨーロッパならではのものだといわれる。

ファン・アイクの≪宰相ロランの聖母≫(1435年頃 66×62㎝ 油彩)にしても、絵の発注主であるニコラ・ロラン宰相が、聖母子と対等に向き合っているという、ともすると不遜ともとれる構図をとっている。
(この頃のフランドル絵画の特徴で、右の聖母子と左にいる宰相ロランは、実は別の次元、空間に分かれているといわれる。背景を流れる川は両者を隔てており、ロラン側は民家、聖母子の側は教会の塔が林立する世界が展開されている。これは人間と神の住む世界を分けているといえる。聖母子はいわば現実に見えるものではなく、ロランが夢想する心の中の像とも理解しうるそうだ。)

当時のフランドル美術では、こうしたキリスト教の物語を、裕福な貴族や市民の部屋に取り入れることが流行していた。
ただし当時使われていた「市民」という言葉は、現在のものとは少々、意味が異なる。この時代のヨーロッパでは、国政に参加できる地位にあった人、あるいは城塞の中に住むブルジョワと呼ばれる人を市民と呼んだ。

例えば、メムリンク(1440?~1494)というフランドルの画家がいる。メムリンクは1465年、現在のベルギー、ブリュージュで市民権を得てから、銀行家や裕福な商人相手に作品を描いて、大邸宅を3軒も建てて子孫に残した画家である。
メムリンクは一説によると、ブルゴーニュ公国の傭兵をしていたことがあるそうだ。ある日、彼は傭い主のシャルル豪胆王が、戦争で倒れ、狼に襲われた無残な姿を見てしまい、兵隊を辞め、画業に専念するようになったともいわれる。

そのメムリンクの作品には、≪ヤコプ・フロイレンスの聖母≫(1489年 130×160㎝ 油彩)がある。
フランドルの市民は自分たちを聖人に見立てて、聖母マリアを拝んでいる姿に描いてもらうのが好きであった。ただ、この絵に描かれた人のほとんどはペストによって死んでしまったそうだ。

この時代において、画家は顧客が満足することをもっとも要求された。メムリンクは後世になって、裕福なブルジョワを満足させただけの凡庸な画家という評価をされてきた。
しかし、メムリンクの≪老女の肖像画≫(1472年頃 35×29.2㎝ 油彩)など、モデルの内面がにじみ出るような素晴らしい肖像画であると小暮氏は評している。イタリア絵画の影響からか、北国の霜が溶けるような、あたたかみが感じられるという。

一方、イタリアでも、ラファエロの≪美しき女庭師≫を見てもわかるように、バックにゴシック様式の建物が描かれていたり、フランドル美術の持っていた精緻さを熱狂的に受け入れた。
ことイタリアにおいて、フランドル絵画の影響により、それまでのテンペラ絵画から、ヴェネチア美術に見られる巨大な油彩に発展する。ただ、フランドルにおけるコンパクトな油彩が、イタリアでは巨大なドラマチックなキャンバス画に発展したのは、アルプスを挟んだ文化圏の違いであろう。
(小暮、2003年、129頁~132頁)

ヨーロッパを席巻したルーベンス・ブランド


あの『フランダースの犬』のルーベンス


ルーヴル美術館の白眉ともいえるのが、ルーベンス(1577~1640)の≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作24点である。

さて、日本でルーベンスといえば、アニメ『フランダースの犬』のラストシーン、クリスマスの夜にネロと愛犬パトラッシュが最後に見る祭壇画として知られている。
「ほら、、、見てごらん、パトラッシュ。あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」
ちなみにフランダースというのは、フランドル(フランス語)の英語読みで、オランダ語ではフランデレンと呼ぶ。
『フランダースの犬』でネロ少年が最後に見る祭壇画は、ベルギーのアントウェルペン大聖堂に置かれている。
ルーベンスがアントウェルペンに戻って間もなく制作したもので、キリストの昇架と降架などを描いた、三連の祭壇画となっている。1610~11年の制作である。
(小暮、2003年、133頁~134頁)

ルーベンスの≪マリー・ド・メディシスの生涯≫


ルーベンスは美術全集には必ず名を連ねる巨匠である。
しかし、日本人でルーベンスに心酔しているという人は少ない。ただ、ルーベンスという人は、日本人の感覚と遠いところにいる画家であると同時に、西洋絵画を読み解く上で鍵となる画家であると小暮氏は理解している。

≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の24点の大作には、豊満そのものの裸体が描かれている(これはやはり肉を主食にした人種でないと描けない絵であると小暮氏はいう)。
この24点をルーベンスはたったの4年で仕上げている。しかも、外交官を兼業していた激務の間にである(もちろん、弟子に分業させて描いたということはあるが、それにしてもスゴイ)。

当然ながら、ルーベンスはモデルの内面にスポットを当てて描き出すタイプの画家ではなかった。外交官という役職もあってか、モデルとなる王侯貴族たちをいかに満足させるかということに神経を費やしたとみられる。
(小暮、2003年、134頁~135頁)

ルーベンスの人となりを語るエピソード


ルーベンスは幸福と名声に彩られた生涯を送り、なおかつ遺した作品が後世にも評価されているという稀有の画家である。
ルーベンスは温厚な人格者で、商才にも長けて莫大な富を築いたが、次のようなエピソードがある。
ロンドンの錬金術師ブレンデルという人物が、ルーベンスの富を狙ってやってきた時、彼は自分の錬金術がいかに効果があるかを、こと細かに説明した。そして、もしルーベンスがそれに必要な設備の研究所と道具を揃えてくれたら、全利益の半額で自分の秘術のすべてと賢者の石を提供しようと持ちかけた。

ルーベンスは、このペテン師のいうことを辛抱強く聞いて、こう言った。
「あなたの好意に何とお礼を申し上げてよいか言葉も見当たりません。しかし、あなたの訪問は20年ほど遅かったようです。私はその間に絵筆の力で、その賢者の石とやらを見つけてしまったのですから」
(小暮、2003年、134頁~136頁)

ルーベンスの順調な人生


ルーベンスは、ベルギーのアントウェルペンの法律家の家に6番目の息子として生を受けた。
早くに父を失うが、母の意志でラテン語学校で教育を受け、その後ラレング伯未亡人という人の小姓を務め、宮廷での礼儀作法や古典の知識を身につける。
やがて3人の画家のもとで修業生活を経てから、23歳になった時、芸術先進国イタリアのヴェネチア行きの切符を手に入れる。
この時からルーベンスの輝かしい快進撃がはじまる。旅先で、マントヴァ侯ゴンザーガの知遇を得て、一気に宮廷画家に出世した。ゴンザーガ侯は、ルーベンスの才能を見抜き、太っ腹にも画家の思うままにイタリアを旅させる。
ヴェネチア派の画家たち(ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、ティントレット)、それからカラヴァッジョなどの作品群に感銘を受けたルーベンスは、フィレンツェ、ジェノヴァ、パルマ、ローマの各地に滞在し、その間に名声を高めていく。

8年のイタリア生活の後、アントウェルペンに帰り、アルブレヒト大公の宮廷画家の地位につき、多忙な生活を送る。名声が高まったルーベンスのもとには、フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパ中の外交先から、注文が殺到した。
(小暮、2003年、137頁~138頁)

ルーベンス工房作品


生涯に油彩画1500点といわれるが、いくらルーベンスでもすべてを一人でこなしたわけではない。
画家が独力で絵を描くという常識は、比較的近い時代になってからのことである。ルーベンスが生きていた17世紀には、画家が工房を持ち、弟子に分担させるのが当たり前だった。

ルーベンス工房の場合、師匠のルーベンスは下絵を描いたあと、途中までは弟子たちに任せ、仕上げの筆だけ自分で入れるという方法をとっていたそうだ。
人を使う作業というのは、芸術的感覚とは別の管理能力を必要とするようだ。画家であるばかりでなく、外交官としても手腕をふるっていたルーベンスは、そのあたりの力量もあったであろう。
(小暮、2003年、138頁~139頁)

マリー・ド・メディシスの生涯


≪マリー・ド・メディシスの生涯≫は、ルーベンスの生涯の集大成であるだけではなく、バロック(ゆがんだ真珠を意味するポルトガル語)絵画の代名詞ともなっている作品である。

マリー・ド・メディシスはその名のとおり、フィレンツェのメディチ家からアンリ4世に嫁いだ人である。ルイ13世の実の母であるが、子との折り合いが悪く、親子で権力争いをしていた。

マリーはメディチ家のお姫さま育ちだった。嫁いだ当時、ルーヴル宮で暮らしていたが、なじむことができなかった。
故郷フィレンツェのことが忘れられず、皇后マリーは少女時代を過ごしたピッティ宮殿を模して、リュクサンブール宮殿を建立させた。
その大饗宴の間に、マリーの生涯を描いた作品を並べる計画を思いつき、ルーベンスに白羽の矢をたてた。
(リュクサンブール宮殿は、パリ市内セーヌ左岸、リュクサンブール公園にあり、現在はフランス国会上院として使われている。フランス革命の時は宮殿から監獄へと変わり、画家ダヴィッドもここに投獄され、ここの窓越しに見た素描を残している)

ところで、その≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作の1枚第9図≪マリーのマルセイユ到着≫では、半人半魚みたいな女性が描かれている。
これは、マリーのスキャンダルのカモフラージュに、ギリシア神話を織りまぜて描いていると小暮氏は理解している。
つまり、貴族の場合、血なまぐさい因縁や確執があるが、マリーの場合でも、息子のルイ13世にパリを追い出されていて、そういったことをそのまま描くのはまずかったからという。

その後、母子骨肉の争いは、ルイ13世の筆頭顧問だったリシュリュー卿の仲裁で、事なきを得たが、最後にマリーは息子に故国を追放され、ドイツのケルンでひっそりとその生涯を閉じている。

1802年、リュクサンブール宮殿が、国会の上院となったため、この≪マリー・ド・メディシスの生涯≫は、ルーヴルに移され、現在に至る。リシュリュー卿の名を冠したこのリシュリュー翼に「ギャラリー・メディシス」があるというのも、そんないわくがあるからだろうと小暮氏は推測している。
(小暮、2003年、139頁~141頁)

ルーベンス・ブランドが欲しい!


ヨーロッパの大きな美術館では、ルーベンスの大作が数十点単位で見ることができるらしい。
圧倒的な作品数に加えて、外交官で各国王室を駆け回っていたこともあり、その名声は全ヨーロッパに鳴り響いていた。
(今でいえば、ハリウッド大作の配給に近いとたとえている)

絵というのは、じっと眺めていると、たとえばゴッホの絵のように、画家の心の中でくすぶっているものがどこかに見出せるものであると小暮氏はとらえている。でも≪マリー・ド・メディシスの生涯≫には、それが全くないが、だからといって大きいだけの凡庸な絵ではないという。

小暮氏が西洋絵画を読み解く鍵が、ルーベンスにあるといったのは、この点であるようだ。つまりヨーロッパにおいて、ルーベンスとは、自分の絵画ブランドをもっとも成功させた人で、当時のヨーロッパの貴族は、ルーベンスの絵を欲しがった。

頭のよいルーベンスは、どうしたら王様や貴族を喜ばせ、満足させられるのか、そして自分のブランドを欲しがるようになるのか、相当に計算したと小暮氏は想像している。これは個人の内面を重視する近代以降のアートとは異なった考え方であるが、これは別の意味で深いものがあると主張している。
(小暮、2003年、141頁、144頁)

カラヴァジオとルーベンスという2人の画家


カラヴァジオとルーベンスは絵画史上最も対照的な画家であると小暮氏は捉えている。そして4コマ漫画に2人の物語をまとめているので、内容を紹介しておこう。

絵筆を持つ外交官としてのルーベンスの生活は朝4時起床だった。最初の奥さんとは死別で、次に2番目の妻エレーヌは友人の娘で、37歳年下だった。
まずは教会のミサに出席し、朝食を摂った後に、アトリエ入りして制作を開始する。チョークで下描きした後、色を指定し、それに合わせて弟子が描く。
外交関連などの手紙を口述筆記させ、その上、来客とも話し、八面六臂の活躍ぶりだった。またBGMがわりに古典の書物を朗読させていたそうだ。

一方、カラヴァジオは、2週間ものすごい集中力で仕事をこなした後、取りまきと1~2ヶ月間、乱痴気騒ぎをする。これの繰り返しの生活だったらしい。挙句の果てに酒場の乱闘で人を殺し、ナポリ、シチリアに逃亡するが、逃亡先で病死してしまう。その人殺しの絵に感銘し、買い付けにかかわったのが、若き日のルーベンスだったというオチがついている。
(小暮、2003年、142頁~143頁)

ルーベンス工房とスタッフ


ルーヴル美術館の2階は主に天井から採光しており、日射しが変わると、部屋の明るさや絵の色も変化する。
ところで、ルーベンス工房は、「窓のない大きな部屋で、採光は天井の開口部のみ」だったといわれる。だから、ルーベンスの工房は、現在イタリア絵画が展示されている所であるような採光状態だったと、小暮氏は想像している。
ちなみに、ルーヴルがこのようなトップライト式になったのは、1800年前後の頃、画家ユベール・ロベールが天井をガラス張りにする提案をしてからのことである。
〇ユベール・ロベール≪1796年のルーヴル<グランド・ギャラリー>改造計画≫(1796年、45×55㎝、油彩)

また、ルーベンスの工房では、若い弟子たちが大勢働いており、大量の作品が同時進行していた。どの作品にも、あらかじめチョークで師匠のルーベンスがデッサンを描き、服や背景の部分には色指定が書き込まれていた。そして、仕上げはルーベンス自身が行なったそうだ。多い時には100人以上、入門希望者がルーベンス工房にいた。

ルーベンスは弟子だけではなく、すでに名の知れた画家を共同製作者として協力してもらった。
例えば、ヴァン・ダイク(1599~1641)やヨルダーンス(1593~1678)は下描きを実物大に引き延ばす作業を担当した。そして、花を描いたのは、静物画で緻密な花の描写が優れていたため「花のブリューゲル」といわれた、ヤン・ブリューゲル(1568~1625)であった。また動物や静物の部分は、フランス・スネイデルス(1579~1657)が描いた。
このように、超豪華メンバーによってルーベンス工房は成り立っていた。

ところが、ルーベンスはもともと作品数が多い上に、そのほとんどが工房による共同作品のため、師匠の筆が入っていない作品もルーベンス作として流布したようだ。
例えば、東京上野の国立西洋美術館に収蔵されたヨルダーンスの≪ソドムを去るロトとその家族≫(1618~20年頃、169.5×198.5㎝)は、1993年まではルーベンス作品とされていた。
ところが、これとほとんど同じ図柄の作品が世界中に、3点存在した。鑑定の結果、アメリカの美術館に収蔵された1点がルーベンスの真筆、もう1点はただの模写、上野のものはヨルダーンス20代の時の模写という結果が出た。

ルーベンスの真作は青の部分に高価なラピス・ラズリが使用されているのに、20代のヨルダーンスは高い顔料が買えず、その青には別の顔料が使われていたという。
(ちなみに、この絵を国立西洋美術館が購入した価格は、1億5千万円であった。ルーベンスの作品としては安すぎるが、贋作ではなく、ヨルダーンスの作品だったのだから、よしとすべきだとされる)
(小暮、2003年、145頁~147頁)

自意識をも描いたヴァン・ダイク


ヴァン・ダイク(1599~1641)は、偉大な師匠の呪縛から解き放たれて、自らのスタイルを築き上げた類まれな画家である。
例えば、画家の名前を用いた色名というのが少ないながら存在する。ヴェロネーゼ・グリーンとか、ティティアン・レッド(ティツィアーノ)とかがある。油絵具にあるバンダイク・ブラウンというのは、このヴァン・ダイクからとられたものと考えられている。

また、肖像画家にとって、一番重要なことは、パトロンの自意識を満足させることであるが、≪狩り場のチャールズ1世≫をみれば、それがわかる。
この肖像画では、威厳と傲慢、さらに憂愁を含んだ王の複雑な表情を描ききっていると小暮氏は捉えている。
モデルの自意識まで描いた肖像画の素晴らしい例と賞賛している。
ただ、姿よく描かれているが、人を人とも思わないようなこの視線は、心なしか、のちにピューリタン革命によって断首刑にされる王の運命を予見しているようだともいう。のちに、この絵を買い取ったルイ16世も、フランス革命で処刑されるという“因縁”の肖像でもある。

ヴァン・ダイクは、ジェノヴァの貴族たちに呼ばれたり、イギリスに呼ばれて9年間で400点も肖像画を描きまくった。
ルーベンス同様、ヨーロッパのどこに行っても作品が見られる画家であるが、残念ながら42歳の若さでロンドンにて没してしまう(パトロンのチャールズ1世の処刑を見る前に世を去ったのは、まだ幸いか)。
(小暮、2003年、147頁~150頁)

魂の画家レンブラント


レンブラント工房の画家たち


レンブラント(1606~69)の作品には、贋作が多いといわれる。
ただし贋作というと語弊がある。それらの作品は決して不正に作り上げられた「ニセモノ」ではなく、正しくはレンブラント監督のもとで、弟子たちによって描かれた「工房作品」と言うべきだと小暮氏はいう。

17世紀のヨーロッパでは、ルーベンス工房のように分業制が当たり前で、「工房作品」だからといって、とりたてて問題にするようなことではない。
しかし、レンブラント工房では、ルーベンス工房のような分業制をとっておらず、すべてレンブラント自身が描くか、弟子が全部描くかという手法をとっていたようだ。つまり、自分が描いた作品も、弟子が描いた作品も、レンブラント作品としてクライアントに引き渡していたという。
(さらにレンブラントは、自画像もお金になることを知っていたからか、自分の姿を弟子に描かせて売りさばいていたのではないかという、判定結果が出たそうだ。)
(小暮、2003年、151頁~154頁)

レンブラントの技法について


師匠のとおり描ける弟子がいたことはありうる。油彩の技法を説明しつつ、小暮氏は次のようにいう。
油絵具は一度乾いた上から、何度でも厚く塗り重ねることができる。その際、暗い絵具は薄塗りでも下地の色をカバーできるのに対して、明るい色の絵具の場合は厚めに塗る必要がある。
レンブラントの作品は、そんな油絵の特性を生かし、光が当たっている部分には絵具を厚塗りして、乾燥させた上に半透明の「おツユ」をかけていく技法によって描かれていると解説している。
複雑な技法を積み重ねたレンブラントの絵画であるが、基本的な手順はさほど難しくないため、修練を積んだ弟子なら、師匠に近い作品が描けたであろうと、小暮氏は推測している。
(また、レンブラントは弟子に自分の作品以外から学んだことを許さなかったといわれ、師匠のやり方以外では描けなかったかもしれないという)
(小暮、2003年、154頁~155頁)

レンブラント・リサーチ・プロジェクト


修練を積んだ弟子なら、師匠レンブラントに近い作品が描けたということは、後世のコレクターや美術館には、衝撃的なことだった。

1968年、レンブラントの生誕300年を前に、母国オランダの美術史家たちによって「レンブラント・リサーチ・プロジェクト」(RRP)が発足したそうだ。
X線や赤外線写真による画面構造分析はもちろん、キャンパスの繊維や、支持体のパネル板、絵具などの年代測定を行い、徹底的な調査をはじめたという。

その結果、280作品のうち、真筆は146点と判定され、あとは工房作品か、関係者作品とされた。

日本にある唯一のレンブラント作品とされた、ブリヂストン美術館蔵≪ペテロの否認≫もクロと判定された。
レンブラント作品でも傑作とされてきた≪黄金のかぶとの男≫(1650~55年頃 67.5×50.7㎝ 油彩 ベルリン美術館蔵)までもレンブラント周辺の画家と判定されてしまった。この作品は、レンブラント・ブランドを失ったため、弟子の作品に番付が下げられた、元・レンブラントの傑作である。
レンブラントを所蔵する美術館関係者のショックはたいへんなものであった。

ただ、RRPとしては、レンブラントの芸術的価値をおとしめるために判定をしたのではなく、「どのように工房のシステムが運営されていたか」を明らかにすることが目的であったようだ。
レンブラントにしても、注文が殺到して仕事がサバききれなくなった時、やむなく、自分の技法を弟子に漏らしたのかもしれない。そう考えると、弟子に自分の作品以外から学ぶのを禁じた話も、わかると小暮氏は考えている。
外交官で人心掌握術に長けていたルーベンスにひきかえ、レンブラントは金と女性にルーズで、管理能力に欠けていたともみている。
(小暮、2003年、155頁~157頁)

画家は不幸を糧に絵を描いた?


さて、レンブラントといえばアムステルダムにある代表作≪夜警≫(1642年 363×437㎝ アムステルダム国立美術館蔵)が不評を買い、当時、絶頂期にあった画家は、たちまち転落の一途を送っていったといわれる。

確かにレンブラントの前半生は栄光に満ちていた。上流階級の娘、サスキアとの結婚によって、お金持ちの顧客を得て、豪邸に住み、大勢の弟子を抱えていた。
しかしその後、ふたりの間にさずかった子供たちは次々と先立ち、≪夜警≫を完成させた年にはサスキアが死去してしまう。それをきっかけにレンブラントのどん底が続く。

レンブラントは女性にだらしなく、ただひとり生き残った息子ティトゥスの乳母だった、ヘルチェ・ディルクスと関係をもつ。ところが、別に家政婦として雇っていたヘンドリッキェと内縁の関係を結んでいたことから、婚約不履行で訴えられてしまう。
加えて前妻サスキアの遺産相続が絡んで、上流階級のクライアントから信頼を失い、仕事が激減する。そして、ついには内縁の妻ヘンドリッキェと、息子ティトゥスの死である。その翌年、レンブラントは独り寂しくその生涯を閉じる。
(小暮、2003年、157~158頁)

作品≪バテシバの水浴≫


ルーヴル美術館に、レンブラントの≪バテシバの水浴≫(1654年 142×142㎝ 油彩)がある。
バテシバは旧約聖書に登場する人妻である。
ダヴィデ王は部下ウリアの妻バテシバが水浴している姿に心をうばわれ、亭主を最前線に送って戦死させて自分のモノにしてしまう。
この絵のモデルは、レンブラントの内縁の妻であったヘンドリッキェである。
当時のオランダ絵画は、聖書をテーマにした作品を当時のインテリアやファッションで描くことが流行していたそうだ。
この≪バテシバの水浴≫も、≪エマオの巡礼者≫(1648年 68×65㎝ 油彩)も、まるでキャンバスの裏側から光を発しているかのような輝きがある。
インテリアの世界でも、影の中から深みのあるオレンジの光が浮かび上がってくるさまを、“レンブラント・ライト”と呼んでいる。まさにこの光と影の表現は、この画家以外では考えられないものである。
(小暮、2003年、151頁、159頁~160頁)

オランダ美術は市民のための芸術だった


バブルが育てたオランダ絵画


17世紀以降のオランダ絵画は、イタリア絵画を中心にしたグランド・ギャラリーに比べて、絵のサイズもこじんまりと小さく、見ていても楽なものが多い。
そして聖書以外のテーマを取り上げた絵が多い。風景画や静物画、あるいは教会や建物の中や、フェルメールのように室内を描いた風俗画といったジャンルが多い。これらのジャンルは、イタリアやフランスでは格下とされていたが、オランダでは好まれて描かれた。

というのは、当時のオランダというのは商人たちによる新興国家だったからである。絵画を買い求めた人が、王侯貴族や教会ではなく、豊かになりはじめた市民層だった。
オランダ独立戦争(1568~1648)により、スペインの支配から独立したネーデルラント連邦共和国オランダは、商魂たくましい商人たちの活躍で、たちまちヨーロッパ随一の貿易国に躍り出た。オランダの商船は、大航海時代の波に乗り、世界中の海に進出した。1602年、オランダ東インド会社を設立し、オランダ人は日本にやって来て、徳川幕府と交易をはじめるのも、17世紀である。
(九州ほどの狭い国土に加え、全体の面積のうち4分の1が海面より下という立地では、物量において諸外国に劣るので、オランダ人は交易による発展を選択したのは、自然の成りゆきでもあった)

商業の繁栄にともない、裕福になった市民はこぞって絵を買い求めた。当時のオランダ市民は一般層の人でも、部屋の中に絵を飾ることを好んだが、投資目的もあったともいわれる。
(余談だが、1634~37年頃のオランダでは、チューリップの変種に対する投機が大流行した。一時はチューリップの球根1個で家1軒買えるといわれるほど、バブル景気だったらしい。絵画では、幸いチューリップのような騒ぎにならなかった。ただ、日本はバブル時代、絵画投機で大赤字を出したが)
(小暮、2003年、161頁~163頁)

見る喜び、描く喜び――オランダ静物画


オランダ美術というと、レンブラントとフェルメールが有名であるが、小暮氏は、オランダ絵画で好きなのは、まず静物画であるという。その理由は、静物画というジャンルほど、物の質感を突き詰めて表現できる分野はないからとする。写真のなかった時代ではなおさらである。

例えば、ウィレム・ヘーダ(1597~1680)の≪軽食≫(1637年 44×55㎝ 油彩)がある。
この画家は、グレー系の微妙な色調を使い分けた静物画で知られる。1620年代後半から40年代に流行したモノクローム・バンケッチェ(モノクローム風の晩餐図)を代表する画家であるそうだ。
金や銀食器など素材感の違いによる表現力には定評がある。この≪軽食≫では、銀の塩入れと、錫のジョッキの輝きを表現するという超絶技工に加え、ワイングラスに映った窓を描きこんでいる。

それから、ヤン・ダヴィス・ヘーム(1606~1683? 84)の≪デザート≫(1640年 149×203㎝ 油彩)がある。
小暮氏は、「オランダ静物画の中でも、最大にして最高の作品」と絶賛している。「これはルーヴルの隠れた名品ともいうべき作品」と評している。
黒ブドウにマスカット、オレンジ、桃、ネクタリン、そしてチェリーに剝いたレモンなどの果実が、籠や磁器の上に置かれていて、その色彩は華麗きわまりない。懐中時計やリュート、天球儀や書物や布といった、あらゆるモチーフに彩られている。ルイ14世のお好みだったのも窺える逸品であると賞賛している。

ところが、静物画は美術を学ぶ人にとって、一番最初に取り組むジャンルとされている。その理由として、小暮氏は次の点を挙げている。
① 静物は文字どおり動かないので、じっくり観察ができる
② 立体物をどうしたら平面に置き換えられるか、理解させるのに都合がよい
③ 質感の描き分けを学ぶのに都合がよい

静物に対して人体というのは、骨格や筋肉に対する知識と理解が必要であり、初心者にとって少々難しいモチーフである。
さらには聖書の物語などを群像によって表現するのは、ある程度の才能に加えて、技術的に訓練が必要であるそうだ。

おそらく、こうした技術的難易度や、当時の美術界のランキングが相まって、静物画を描く画家が格下という、おかしなヒエラルキーができたと小暮氏は推測している。
しかし、これらのオランダ静物画を見ると、そうしたランキングがナンセンスであり、いかにオランダ人画家が観察することに腐心したかが窺えると主張している。
(小暮、2003年、163頁~165頁)

ハルスの≪ジプシー女≫と≪リュートを弾く道化者≫


オランダ絵画において宗教画が少ないというのには、もう一つ理由があるという。というのは、絵画を買い求めた市民層の多くがプロテスタントであったからである。
プロテスタントというのは基本的に偶像崇拝を禁止していたし、それまでオランダを支配していたスペイン・ハプスブルク家への反発というのもあったであろう。
当時のオランダ絵画市場というのは、歳の市やケルメス(教会で行われる縁日)などで、かなり安価に絵画が売りさばかれていたそうだ。

絵の売り買いをする「画商」という職業も、オランダではじまった。それまでの美術の世界が、王侯貴族を相手にした完全受注制だったのに対して、市場へのビジネスに発展していった。レンブラントやフェルメールまでもが画商を兼業していた。

ところで、フランス・ハルス(1581?85~1666)の≪ジプシー女≫(1630年 58×55㎝ 油彩)という作品がある。
このタイトルは後世の人が呼んだ名前で、彼女がジプシーかどうか不明らしく、モデルは明らかに娼婦であるといわれる。乱れた髪で流し目の視線で、はだけた胸元で描かれている。スペイン・カトリックの政権下だったら、異端審問にかけられて火あぶりにされそうな作品と小暮氏はみている。
そして、ハルスの≪リュートを弾く道化者≫(1626年以前 70×62㎝ 油彩)を見てもわかるように、ハルスが描いた人物画は、上流階層の人々ではなかった。そして、このようにあけすけな表情を絵に描いた画家はいなかったのではないかという。

そして、絵のタッチの革新性に注目している。それまでの画家は筆跡の残った絵というのは下品とされていたため、タッチをどう隠すかに苦心していた。ハルス以前の絵に、のっぺりとした絵が多いというのは、こうした理由による。ところが、ハルスの絵は筆跡が勢いよく残されたタッチである。勢いのある筆さばきは、絵に新鮮さを与えている。
ハルスの絵は、オランダ市民による新たなルネサンスとでも称されうるとも、小暮氏は理解しているようだ。
(小暮、2003年、165頁~171頁)

フェルメールはシュールレアリズムの先駆者


ルーヴル美術館では、フェルメール(1632~75)の現存する36点のうち、≪天文学者≫(1668年 51×45㎝)と≪レースを編む女≫(1670~71年 24×21㎝)の2点を見ることができる。

ルーヴルの絵画には、見ていて軽やかな気分になるものと、私たちの心に斬り込んできて、心拍数を上げるものがあると小暮氏はいう。フェルメールは前者の代表で、後者にはジェリコーやドラクロアの大作が挙げられるとする。

フェルメールのこれらの絵は、一見何の変哲もない室内の風景を描いた作品なのに、不思議としか言いようのない絵である。小さな作品だというのに、室内の空気がこちらまで溢れてきそうだ。

スペインのシュールレアリズムの画家サルヴァドール・ダリ(1904~1989)は、フェルメールの熱心な信奉者であった。フェルメールの描いたデルフトの眺望を、自分の絵の中に何度も取り入れていた。
シュールレアリズムというのは、20世紀になって登場した非日常的な世界を描いた絵画である。ダリの絵には、見たことのない生物、バターのように柔らかい時計、奇妙きわまりない風景が描かれている。ただ、見る人を絵の世界に引きずり込み、画家の脳の裏側に潜んでいる世界を、見る人間に共有させることが、シュールレアリズムの本質であるといわれる。

フェルメールの持っている不思議な空間が、20世紀になって、ダリという天才の心をとらえたのは、その意味で、きわめて興味深いと小暮氏はみる。絵画というのは単なる描写ではなく、画家の目と脳をファクターにして、今まで目にすることのできなかった心の中を見せる行為でもあると持論を示している。

ところで、フェルメールが画商をしていたというのは有名な話である。当時のオランダ美術市場は作品がだぶつき気味だったため、よほどの売れっ子作家を別にして、副業を持っていた場合が普通だった。
ヤン・ステーンはデルフトで居酒屋を経営し、レイデンでホテルを営んでいた。また風景画家ロイスダールは「外科理髪師」という、簡単な手術ができる床屋も兼業していた(現在、床屋の目印に使われている青と赤のグルグルは、静脈と動脈を表す名残りである)
(小暮、2003年、172頁~173頁、175頁)

下絵はカメラ・オブスキュラで


フェルメールとともに、デルフト派を代表する画家ピーテル・デ・ホーホ(1629~84)の代表作に≪オランダ家屋の裏庭≫(17世紀 60×49㎝ 油彩)がある。
ホーホはフェルメールほど輝きのある画家ではないが、この人の絵も不思議な空間を生み出している。
部屋のまた向こうに、幾つもの空間が見え、想像力、イマジネーションをかき立ててくれる絵である。

さて、フェルメールやホーホの絵に貢献した技術が、意外にも17世紀のヨーロッパで発達した天体望遠鏡や顕微鏡といった光学技術であったそうだ。それは、現在のカメラの原型ともいえる、カメラ・オブスキュラ(ラテン語で黒い箱)と呼ばれた外界の景色を映し出す装置の発達である。
これはピンホールカメラに凹レンズをとりつけたもので、フィルムはもちろん乾板もなかった時代だが、画家たちは絵の下絵にこぞって、この装置を用いたようだ。

部屋のまた奥に、次々と別の部屋が連なる空間が表現できたのも、カメラ・オブスキュラの力が大きかったとみられている。
フェルメールが描いたハイライトに置かれた光の粒も、カメラ・オブスキュラを通して見えたものだという説が有力であるそうだ。
(小暮、2003年、174~176頁)

イメージについて


シュールレアリズムの語が出たので、小暮氏は、イマジネーションについて私見を述べている。
イマジネーションとは、そこに記されていないものを感じることだという。たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』には、そこには書かれていない音楽が全編に流れているとされる。
そして、トーマス・マンの『魔の山』では標高3000メートルのサナトリウムを舞台にしているにもかかわらず、海のどよめきが聴こえてくる。
また、『源氏物語』の「宇治十帖」には単に「風の音もいと荒ましく」としか記していないのに、宇治川の急流と吹きすさぶ風の音が常に聴こえてくるといわれる。

美術作品でも同様に、絵を見ることによって、画家が暮らしていた町の景色や気候、匂いや鳥のさえずりなどが、ふと感じ取れる一瞬があるという。
それが作品を媒体にして、見る人の心のアンテナに受信されるのがイメージであると小暮氏は考えている。
(小暮、2003年、176頁~178頁)

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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』



≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-06-12 17:54:33 | 私のブック・レポート
≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年6月12日)
 



【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】


小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』

【はじめに】


今回のブログでは、小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版、2003年)の第Ⅲ章「スペイン美術のスーパースターたち」を紹介してみたい。
 今回、紹介する第Ⅲ章において、ルーヴル美術館所蔵のスペイン画家の絵画を解説している。
 イタリア絵画やフランス絵画に比べて、スペイン絵画はイメージしにくいのが普通ではないだろうか。
 そこで、小暮氏は、イタリア絵画とスペイン絵画の違い、スペインの地域性と美術の特色などについても説明している。
 例えば、スペインという国は、ピレネー山脈を隔ててフランスに接し、地中海を通じてイタリアやギリシア、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸、大西洋を通じてイギリスやアイルランド、北欧の民族や文化が流入してくる。スペインはヨーロッパの一部ではあるが、それ以外のアフリカ大陸(イスラム圏)、地中海、大西洋と、4つの地理的要素をすべて持った国だという。
 こうした地域性がスペインの文化や美術を生み出したとする。ルネサンス期のイタリアでは星の数ほどのアーチストが生まれたのに対して、スペインでは1世紀に1~2人ほどの割合で、偉大な芸術家が登場したようだ。20世紀のスペインではピカソやダリが有名であるが、17世紀のバロック時代ではヴェラスケス、18世紀末から19世紀初めの近代絵画ではゴヤがいる。
 ヴェラスケスは西洋絵画史上に燦然と輝く巨匠であり、小暮氏は個人的にも最も尊敬する画家のひとりであるそうだ。マドリードのプラド美術館に収蔵され、絵画史上最大の作品とされる≪ラス・メニーナス≫にも言及しているが、ルーヴル美術館にもわずかながら肖像画作品があり、解説している。
 ヴェラスケスの得意技であった肖像画の特徴として、顔かたちを描くだけでなく、モデルの心の中や人格をも表現していることを挙げている。また、その描き方は、絵に近づいて見ると、ただの抽象画のような斑点だったりするが、離れてみるとリアルに見えてくるものであった。この描き方は印象派の先駆けとなった技法であると指摘している。
 また、近代絵画の父として位置づけられるゴヤの肖像画についても、モデルの感情や雰囲気までも絵に描き込んでいるとみている。ヴェラスケスがあくまで、どのモデルからも一歩離れてから、その心の中に入ったのに対して、ゴヤはもっと感情移入をしながらモデルと接していたという。
 スペイン美術を解説する際に、映画『天井桟敷の人々』、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』、堀田善衛の名著『ゴヤ』を引き合いに出して、読者に理解を深めてもらおうとする姿勢にも好感がもてる。
 
 さて、今回のブログでは、次のルーヴル美術館所蔵の絵画作品を取り上げる。
〇リベラ≪エビ足の少年≫
〇ムリーリョ≪乞食の少年≫
〇ヴェラスケス≪王女マルガリータの肖像≫
〇ヴェラスケス≪王妃マリアーナの肖像≫
〇ゴヤ≪羊頭のある静物≫
〇ゴヤ≪カルピオ女伯爵≫

※なお、スペイン絵画(ベラスケス、ムリーリョ)については、中野京子氏も言及していた。次の私のブログを参照して頂きたい。
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫






小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』まどか出版、2003年

本書の第Ⅲ章の目次は次のようになっている。
【目次】
Ⅲ スペイン美術のスーパースターたち
 ピカレスクな画家たち
 スペインの巨星ヴェラスケス
 近代絵画の父ゴヤ




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


ピカレスクな画家たち
・スペインの画家は、なぜ「貧しき人々」を描いたか?
・スペイン美術の遍歴
スペインの巨星ヴェラスケス
・官僚画家ヴェラスケス
・心の中をも描いた肖像画
近代絵画の父ゴヤ
・近代絵画はゴヤよりはじまる
・ゴヤの≪カルピオ女伯爵≫




小暮満寿雄『堪能ルーヴル』の要約 第Ⅲ章スペイン美術のスーパースターたち




ピカレスクな画家たち


スペインの画家は、なぜ「貧しき人々」を描いたか?


イタリア絵画のあとは、スペイン絵画について解説している。

〇ホセ・デ・リベラ≪エビ足の少年≫(1642年 164×93㎝ 油彩 ルーヴル美術館)
このコントラストのくっきりした立体的な表現は、カラヴァジオからの影響である。17世紀以降のヨーロッパ絵画はカラヴァジオの影響なしには考えられないといわれる。

ホセ・デ・リベラ(1591~1652)はスペインの画家である。
リベラはスペインのヴァレンシアの生まれであるが、若い頃にイタリアに渡り、当時スペインの副王領だったナポリ(飛地領土)に永住した。副王の宮廷画家として活躍し、ヨーロッパ諸国で評価された最初のスペイン人画家ともいわれる。
リベラはローマやナポリでカラヴァジオの作品に触れたことで、そのスタイルを受け継いだ作品を数多く残した。

多くの画家たちがカラヴァジオの呪縛を受ける中、リベラはこの≪エビ足の少年≫にも見られるように、そのスタイルから脱却した。
ナポリの明るく青い空を背景にして、芝居がかったカラヴァジオの人物とは一味違う、少年の屈託ない自然な表情をあらわしている。絵のモデルは、おそらくナポリにいた少年であろう。このエビ足の少年は物乞いだったようで、彼が持っている紙切れには、ラテン語で「お恵みを。おいらに神さまのお慈悲をおくれ」と書いてある。

そして同じタイプの絵として、次の作品がルーヴル美術館にある。
〇ムリーリョ≪乞食の少年≫(1645~1650年 134×110㎝ 油彩 ルーヴル美術館)
こちらの少年は、≪エビ足の少年≫に比べると、もっと困窮している感じがする。
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617~1682)は、17世紀後半のスペイン盛期バロック絵画を代表する画家である。生涯のほとんどをセヴィーリャで過ごした。
聖母などを描いた宗教画が知られるほか、貧しい少年や物乞いの姿を描いた秀作がある。生前からロマン主義時代に至るまで200年以上もの間、名声は頂点に達していたが、20世紀に入ると、画風が甘く感傷的という理由で評価が低下した。ただ、1980年以降、再評価の動きがあるそうだ。

ところで、17世紀のスペインでは、ピカレスク(悪漢)小説というジャンルが流行した。シラミだらけの物乞いや泥棒、詐欺師が、下級貴族と対決し、冒険するといった内容だったそうだ。
(映画『天井桟敷の人々』に「堅気のくせに、なぜヤクザものを描こうとする」というセリフがあるが、人間というのは昔からハミ出しものの話が好きだと小暮氏は付言している。ピカレスク小説を喩えていえば、スペイン版・冒険する「寅さん」という)

ピカレスク小説の影響は絵画にも広がり、ヨーロッパ各地でこうした貧しい人々を描いた絵が流行したようだ。17世紀になって、ナポリやセヴィーリャでは、こうした貧しい少年やピカレスク小説の主人公の絵に金持ちは夢中になる。
(その流れはフランスのラ・トゥールなどに受けつがれていったとされる)
豊かな人々の持っていた「満たされていることに対する贖罪」という意味もあったとも考えられている。
(小暮、2003年、97頁~101頁)

スペイン美術の遍歴


このように、イタリア絵画とスペイン絵画とは、同じラテン系の美術でもずいぶん違う。
ところで、ナポレオンはスペイン遠征の際に「ピレネーを越えると、そこはアフリカ」と言ったが、地政学的に見て、スペインは特殊な地域である。

小暮氏は、スペインの地域性と美術について注目している。
スペインという国はピレネー山脈を隔ててフランスに接し、地中海を通じてイタリアやギリシア、ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸、大西洋を通じてイギリスやアイルランド、北欧の民族や文化が流入してくる。
スペインはヨーロッパの一部ではあるが、それ以外のアフリカ大陸(イスラム圏)、地中海、大西洋と、4つの地理的要素をすべて持つ。なおかつ、どの地域からも離れていることが、スペインの美術を生み出したと、小暮氏は理解している。
スペインは、7世紀から700年あまりにわたって、イスラム世界の支配下にあった。ちょうど日本語における漢字のように、スペイン語の10分の1はアラビア語を語源とするそうだが、その一方でイスラムから解放されたあとは、その反発からか、ファナティック(熱狂的)なまでのキリスト教が再興した。

ところで19世紀のロシアの小説家ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で、この時代のスペイン・セヴィーリャを舞台にしたエピソードを書いているそうだ。
それは15世紀のセヴィーリャに復活したキリストが、異端審問にかけられ、火刑に処せられるという、象徴的な宗教劇である。つまり、スペインにおいては、イタリア、フランス、ケルト、アラブなどの文化や人種がクロスオーバーした上に、イスラム文化と激烈なキリスト教が交錯するという、複雑な状況をつくり出した。

また、スペインはどの地域からも遠く、情報は最後にゆっくり入ってくるという傾向があった。そして、一度入った情報は、なかなか変化しないという体質があった。
この点、文化の爛熟したルネサンス期のイタリアのように、常に新鮮な情報が行き来する場所とは大きく異なっていた。
ルネサンス期のイタリアでは数多くのアーチストが生まれたのに対して、スペインでは1世紀に1~2人ほどの割合であった。スペインの複雑な背景を統合できる人間は、なかなか生まれ育たないからかもしれないと小暮氏はみている。
20世紀のスペインが、ピカソやダリといった巨人を輩出したのも偶然ではない。
(小暮、2003年、102頁~104頁)

スペインの巨星ヴェラスケス


官僚画家ヴェラスケス


スペインには1世紀に1~2人の割合で、巨大な芸術家が生まれるといわれる。
ディエゴ・ヴェラスケス(1599~1660)こそは、西洋絵画史上に燦然と輝く巨星である。
(個人的にも小暮氏が最も尊敬する画家のひとりであるという)

絵画史上最大の作品とされる≪ラス・メニーナス(女官たち)≫などヴェラスケスの重要な作品のほとんどは、マドリードのプラド美術館に収蔵されている。ルーヴル美術館にも、わずかながら、ヴェラスケスの作品がある。
マルガリータの肖像は数多く残されており、オーストリア・ハプスブルク家に贈られた、お見合い写真代わりに使われた作品や、≪ラス・メニーナス≫の中にも、その姿は描かれている。ルーヴル美術館にもその肖像画がある。
〇ヴェラスケス≪王女マルガリータの肖像≫(1654年頃 70×58㎝ ルーヴル美術館)
ただ、この王女はドイツ皇帝レオポルト1世に嫁いだあと、22歳の若さで世を去る。

さて、ヴェラスケスは巨匠と呼ばれる芸術家の中ではちょっと変わった存在である。きわめて温厚な性格の持ち主のうえ、役人としても成功した画家である。
ヴェラスケスは、11歳の時、当時の腕きき画家ビエーホに弟子入りしたが、その師匠とはソリが合わず、別の画家パチェーコの門をたたく。パチェーコは、画家としては凡庸だったが、学者肌で無類の好人物であった。ヴェラスケスはパチェーコの娘を嫁にもらう。その後パチェーコはこの娘婿が宮廷内で出世していくのを我が事のように喜んだそうだ。

ヴェラスケスは宮廷画家として順調に出世したあと、画家としてはマイナスになる宮廷内の職務を黙々とこなし、そのことに誇りすら抱いていたようだ。
巨匠の中で例外的に作品が少ないのは、宮廷役人、つまり官僚としての仕事に追われていたからといわれている。
(この点、破滅型の代表ともいうべきカラヴァジオとは、正反対の位置にいた画家というべきである)

当時は芸術家の地位が低かったこともあり、宮中で出世するには別の職務をこなす必要があったのだろうが、それにしても普通のアーチストには官僚の仕事などできないと小暮氏は強調している。
ヴェラスケスは24歳で宮廷画家として召し抱えられた時、「絵筆を持つ貴族」という意識が生まれたといわれる。ちなみに、ヴェラスケスを宮廷画家に任命した際、フェリペ4世は、ヴェラスケス以外の画家に自分の肖像を描かせないと約束したという。
(小暮、2003年、105頁~108頁)

心の中をも描いた肖像画


〇ヴェラスケス≪王妃マリアーナの肖像≫(1652~53年 209×125㎝ 油彩 ルーヴル美術館)

この絵は、ヴェラスケス工房の作品といわれているが、顔や手の描写は、ヴェラスケスの筆によるものである。
誇り高い貴族だったヴェラスケスは、魑魅魍魎はもちろん、天使や悪魔といった空想上のモチーフはほとんど描かなかった。神話の世界のテーマに取り上げても、あくまで現実の空間に置きかえて描いた。

ヴェラスケスの得意技は、やはり肖像画である。顔かたちを描くだけでなく、そのモデルの心の中や人格を、まるで手でつかめるように表現していると小暮氏はみている。
この絵のモデルである王妃マリアーナは、30歳近く年上の伯父フェリペ4世と近親結婚させられた女性である。この時、マリアーナはまだ15歳である。
政略結婚は当時のヨーロッパ王室では当たり前だったが、マリアーナの表情は華美な衣装を着せられて、戸惑っていることが読み取れるという。
ヴェラスケスの絵は近づいて見ると、ただの抽象画のような斑点だったりするが、離れるとリアルな布や宝石の輝きが見えてくるといわれる。
(この描き方は印象派の先駆けとなった技法である)
それ以上に、ヴェラスケスが捉えようとしていたのは、人の心やその場の空気、空間であったのではないかと小暮氏はみている。

それが表現されている作品としては、次の3点の肖像画を取り上げている。
〇ヴェラスケス≪イノケンティウス10世の肖像≫(ローマ)
〇ヴェラスケス≪道化ファン・カラバーサス≫(プラド)
〇ヴェラスケス≪バリョーカスの少年≫(プラド)

≪イノケンティウス10世の肖像≫は、ローマ法王という地位をすり抜けて、猜疑心の強い一人の男が描かれているという。
(疑り深そうなローマ法王にくらべて、マルガリータもマリアーナも何と無垢なことだろうと、小暮氏は感想を記している)
≪道化ファン・カラバーサス≫や≪バリョーカスの少年≫では、知的障害を持った人の心の中へ入り込んでいるそうだ。

人の心やその場の空気など、目に見えにくいものを描くには、細密描写をする必要はなく、描く人間が目に見える画面の向こう側にある何かを感じて、表現することが大切である。それを「イメージ」と呼ぶが、ヴェラスケスの場合、自分のイマジネーションを空想の世界ではなく、現実の世界に向けていたという。
(小暮、2003年、108頁~111頁)

近代絵画の父ゴヤ


近代絵画はゴヤよりはじまる


ヴェラスケスの死後120年あまり後に生まれた、もうひとりのスペイン美術の巨星が、フランシスコ・ゴヤ(1746~1828)である。近代絵画はゴヤからはじまったといわれる。

〇ゴヤ≪羊頭のある静物≫(1808~12年頃 45×62㎝ ルーヴル美術館)
ゴヤの静物画は珍しいものである。20世紀に登場するフランシス・ベーコン(1909~92、アイルランド出身の画家)を感じさせる、荒々しい色彩と筆致による存在感あふれる作品であると小暮氏は評している。

静物画や風景画というのは、肖像画や歴史画と違い、画家の心の中が一番反映されるモチーフである。この≪羊頭のある静物≫は、その意味でゴヤの持つダークサイドが顔をのぞかせた作品であるという。

この小さな静物画ひとつとってみても、見るものの目を惹きつける強烈なインパクトがあるようだ。
それには、ほぼ同時期に描かれた≪巨人≫や≪マドリード1808年5月3日≫、その後1820年頃に描かれた≪黒い絵≫と呼ばれる14点の連作(すべてプラド美術館収蔵)に共通するものが感じられるとする。
人の心の奥底にドロドロと流れる怒りや嫉妬、憎しみや恐怖心といったダークサイドを掴んだ、恐ろしい絵である。

ところで、ゴヤは、82歳まで長生きし、ナポレオンによるスペイン支配や、フェルナンド7世による専制政治といった動乱の時代をくぐり抜いた。そんな晩年近くを代表する≪黒い絵≫のシリーズは、ゴヤが病にかかって聴覚を失ってから描いたものである。
(何の病気かは諸説あるが、堀田善衛による名著『ゴヤ』には、原因は梅毒とする。この名著は全4巻の大作だが、ゴヤという画家の分析と時代背景を余すところなく記していると、一読を薦めている)

マドリード近郊に「聾者[ろうしゃ]の家」と呼ばれる家を購入したゴヤは、食堂と応接室の壁に、この≪黒い絵≫のシリーズを描いた。当時、周囲の人はゴヤが発狂したと思ったそうだ。
未だにこの連作がどういう意図によって描かれたのかは謎に包まれている。
これらの作品は、「芸術は人のためではなく、自分の内面にあるものを吐き出すもの」として制作された、最初の西洋絵画として小暮氏は理解している。
そして、ゴヤの≪羊頭のある静物≫は、佳作ながら、そのようなことを感じさせる重要な作品であろうという。
(小暮、2003年、112頁~115頁)

ゴヤの≪カルピオ女伯爵≫


ヴェラスケス同様、ゴヤの重要な作品はプラド美術館に収められているが、ルーヴル美術館に収蔵されているものは、ほとんどが肖像画である。
ゴヤは生涯に500点近くもの肖像画を残しているが、モデルによって様々な様相を呈している。

例えば、ゴヤの≪カルピオ女伯爵≫(1794~95年頃 181×122㎝ 油彩、ルーヴル美術館)がある。
この絵のモデルとなったカルピオ女伯爵は、本名マリア・リタ・デ・バルネチアといい、わずか38歳の若さで世を去っている。
当時のスペインは女性でも爵位を持つことができたが、あまり充分な教育を受けられないのが普通だった。それに対して、マリアは数多くの戯曲を残し、才女として知られた人であった。

ただ、この肖像が描かれたのは、死ぬ数ヵ月前と言われており、彼女は自分の命がもう長くないことを悟り、ゴヤに肖像画を依頼した。
この絵からは、死を前にしたモデルの孤独感が漂い、それはマリアの知的な雰囲気が相まって痛々しいほどであると小暮氏は評している。
(ゴヤ自身もちょうどこの頃、病で死線をさまよい、耳が聞こえなくなっていたから、その気持ちがよくわかったと推測している)

ヴェラスケスがあくまで、どのモデルからも一歩離れてから、その心の中に入っていったことに比べ、ゴヤはもっと感情移入をしながらモデルと接していったようだ。
(小暮、2003年、115頁~116頁)