(2022年6月28日投稿)
【はじめに】
今回は、次の蕎麦についての本を紹介してみたい。
〇片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年
ソバの生産に少し関わってみようかと考えている。
その際に念頭に置いておかなくてはならないのは、うまい蕎麦とはどのような蕎麦なのかということ、そして、うまい蕎麦はどのようにつくられるのかということである。
今回、紹介する本は、いわば「食べる側」の本である。
著者の片山虎之介氏は、「あとがき」(193頁~196頁)にもあるように、もともと写真家で各地を旅するうちに、蕎麦に興味を持ち、おいしい蕎麦屋を食べ歩き、取材したという。その集大成が本書であるといえる。そのタイトルにもあるように、蕎麦屋に焦点が当てられている。だから、「生産者の側」の本ではない。
しかし、おいしい蕎麦とは何かを探究しているので、おのずと、ソバ畑にも関心が向いている。(事実、『仲佐』という蕎麦屋の主人は、ソバ畑で農作業にも汗をかき、蕎麦粉にこだわっている)。そして、著者は生産者の方々を取材して、ソバ栽培の難しさ、楽しさをも教わったと、「あとがき」で述懐している。
この本を読むと、おいしい蕎麦にもバリエーションがあり、地方の文化が反映されていることがわかる。私の地元である島根県にも郷土蕎麦の一つ「出雲蕎麦」があり、片山氏も言及している。その発展には、松江藩の第七代目藩主、松平不昧公の影響が大きい。
ソバのつくり方を教える本ではないが、生産者も大いに学ぶべきことが述べられている本である。
以下、私の関心に沿って、内容を紹介してみたい。
【片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新書)はこちらから】
片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新書)
片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年
【目次】
まえがき
第一章 「藪蕎麦」を知れば蕎麦がわかる
第二章 蕎麦屋の常識・非常識
第三章 蕎麦のうまさは、どこからくるのか
第四章 手打ち蕎麦と機械打ちの蕎麦
第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代
あとがき
参考文献
掲載店情報
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・意外に多い蕎麦の常識
・色の白い蕎麦と黒っぽい蕎麦
・蕎麦の味を決める要素
・在来種と改良品種のソバ
・手で刈るか、コンバインで刈るか
・ソバの栽培は、痩せた土地がよい?
・岐阜県下呂市の『仲佐』という蕎麦屋
・各地の郷土蕎麦
・どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』
意外に多い蕎麦の常識
「意外に多い蕎麦の常識」(44頁~45頁)では、蕎麦にまつわる“常識”について検討している。
蕎麦には、守らなくてはいけない常識というものがあるといわれる。
たとえば、
「蕎麦はぐちゃぐちゃ噛んじゃいけない。ザッとのどごしで味わるものだ」といった類いのことである。
その他、
「蕎麦つゆを蕎麦湯で割って飲んだとき、甘さ、辛さのバランスが崩れず、鰹節や醤油の味が出しゃばってこないものが、よい蕎麦つゆだ」というのも、蕎麦つゆに関する常識のひとつとされる。
こうした常識は、蕎麦好きの先輩から蕎麦の初心者に、蘊蓄の一部として語られる。
懐石の作法のように厳格な決まりではないようだが、それが蕎麦屋の常識だと言われれば、やはり気になるが、「なぜ、そうなんですか」と尋ねたところで、教えてくれた先輩本人も理由を説明できなかったりするものらしい。
〇「ソバ」「そば」「蕎麦」の三種類の表記について、著者は次のように使い分けている。
・「ソバ」というカタカナの表記
植物としてのソバを指す場合に使う。
畑に栽培されているのはソバであり、畑に蒔くのはソバの実である。
・「蕎麦」という漢字の表記
人間が食べる食品になると「蕎麦」という漢字表記に変わる。
(「そば」とひらがなで書く場合もある)
⇒このように、基本的には植物の意味で使う場合は「ソバ」。食品の場合は「蕎麦」あるいは「そば」と表記するという。
※難しいのは、畑で育ったソバの実が、どの段階から食品としての「蕎麦」に変わるのかという判断である。
収穫し、乾燥させるあたりまではソバだとしても、ソバの実の汚れをとる「磨き」をかけたら、これは食べることが目的の作業なのだから、その段階で「蕎麦」になる。
ただ、磨きをかけた蕎麦であっても、翌年畑に蒔いて発芽しないわけではないので、ソバであるとも言えるらしい。
(もっとも、磨きをかけると発芽率は低下するようだが)
〇「生蕎麦」の読み方について
・この文字には、「なまそば」「きそば」という二通りの読み方がある。
・茹でる前の麺は生蕎麦と書いて「なまそば」と読む。
・つなぎを入れない十割蕎麦の場合も同じく生蕎麦と書くのだが、こちらは「きそば」と読む。
小麦粉のつなぎを入れずに、純粋に蕎麦だけで打った麺という意味である。
(だから、茹でる前の十割蕎麦なら、生蕎麦(きそば)の生蕎麦(なまそば)ということになる)
・蕎麦屋の暖簾に書いてあるのは「きそば」のほうである。
(暖簾を見て、頭の中で「なまそば」と読んだとしても、口に出すときは「きそば」と発音すること)
蕎麦つゆにどっぷり浸してはいけないか
・東京では、蕎麦をつゆにどっぷり浸してはいけないと言われている。
(落語にもそんな噺が出てくるが、そうした影響も大きいとされる)
☆箸で持ち上げた蕎麦を、蕎麦つゆに全部浸すと、どういうことが起こるのか。
最大の問題は、蕎麦の香りがわかりにくくなると、著者は考えている。
蕎麦の表面が蕎麦つゆで覆われてしまい、蕎麦のほのかな香りや味を感じるのが難しくなる。
だから、下のほうだけちょっとつけて、蕎麦つゆのついていない部分から立ちのぼる香りを楽しみつつ、つゆも味わうのがよい食べ方と言われている。
⇒このアドバイスは、蕎麦の香りが失われないようにするための知恵だと、著者は考えている。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、44頁~48頁)
色の白い蕎麦と黒っぽい蕎麦
〇東京の蕎麦は、細くて白い蕎麦である。
・蕎麦の色が白いということは、ソバの実の中心部の粉を主に使って蕎麦を作っているということである。
・米にたとえれば、精米した白米を食べるのに似ている。白い蕎麦は、つまり炊きたての白米のようなもの。甘くて軟らかくて、癖がない。毎日食べても飽きない食べ物。
⇒白いご飯を、おいしいおかずで味わうのと同じと考えると、東京の白い蕎麦と蕎麦のつゆが、どういう関係であるのかがわかってくる。
〇一方で、いわゆる田舎蕎麦などと呼ばれる、色の黒っぽい蕎麦を出す店もある。
・これは、ソバの実の外側の部分まで、しっかり挽き込んだ蕎麦粉を使った蕎麦である。
・蕎麦の香りは主に実の外側の部分にあるので、黒っぽい蕎麦は香りが強い。
・食感も白い蕎麦とは微妙に異なり、蕎麦独特の風味が強くなる。
・この黒っぽい蕎麦を米にたとえると、玄米ご飯に相当するようだ。
よく噛むと味が濃厚でおいしいが、主張が強いために、何度も続けて食べると飽きるかもしれない。
※白い蕎麦と黒い蕎麦。どちらを好むかは、人それぞれである。
同じ人でも、ときにはさっぱりした白い蕎麦をごまだれで食べたいときもあるだろうし、冷たくキリッと締まった風味の強い蕎麦を、ササッと手繰りたくなることもあろう。
〇東京では、つゆにどっぷり浸してはいけないと言われることが多いが、信州へ行くと、少し事情が変わってくる。
⇒信州の蕎麦つゆは、東京に比べると、薄いものが多いようだ。
地元の人たちは、この薄めの蕎麦つゆに、やや太めの蕎麦をどっぷり浸して、ときには箸でしっかり沈めてから食べたりする。
・信州の蕎麦屋で東京風の濃い蕎麦つゆを出すと、地元の人には「しょっぱすぎる」と敬遠されてしまうという。
濃いつゆだからといって、麺の下のほうだけつゆに浸けて食べるということは、あまりしない。
信州では、蕎麦は蕎麦つゆにしっかり沈めてから食べるものである。
・この違いについて、次のように著者は考えている。
昔ながらの信州の蕎麦は、ソバの実の、風味の強い外側の部分まで粉に挽き込んで使ったものが多い。だから、色も黒っぽくなり、香りの強い蕎麦になる。
香りの強い蕎麦ならば、麺の表面がつゆに覆われたとしても、香りが失われる心配はない。
噛むことで、蕎麦の持つ香りや味が、麺の内部からあふれ出してくるからである。
⇒これが、信州など、蕎麦そのものがおいしい地方の、蕎麦を楽しむための知恵なのだと、著者は考えている。
つまり、ところ変われば蕎麦も変わる。蕎麦そのものが違うのだから、つゆも異なり、食べ方もまた別の方法になるのは、当然の成り行きだというのである。
蕎麦は、蕎麦つゆにどっぷり浸してはいけないのか。その答えは、その土地の食文化によりさまざまであるという。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、48頁~50頁)
蕎麦のアクについて
・蕎麦の強い風味は、実の外側に近い部分とか、甘皮などに多く含まれる。
また蕎麦のアクといわれるものも、主に甘皮やソバの実の外側部分に含まれている。
・蕎麦のアクとはいったい何か?
一言でいうと、アクとは、不味(ふみ)成分のことであるという。
(食品に含まれる、苦みや渋み、いやな臭いなどのもととなる物質を、このように呼ぶ)
・具体的にいうと、食品の渋みのもとは、タンニンやアルデヒドなどである。
・タンニンは、お茶などに含まれる重要な成分である。
濃いお茶を飲むと、口の中がシワい感じになるが、これがタンニンの影響である。
アクは不味成分といわれるが、お茶のタンニンはうまさのもとでもある。
・また、タンニンには、魚などの生臭さを消す働きもある。
蕎麦つゆには醤油や鰹節、鯖節などが使われるが、こうした醤油臭さや魚臭さを消すのに、蕎麦のタンニンは役立っている。
・ポリフェノールもアクの成分のひとつに数えられている。
ダッタン蕎麦が苦いのは、ポリフェノールのルチンがたくさん含まれているからである。
ルチンも蕎麦が体にいいといわれる重要な成分のひとつである。
※甘みでもうまみでも同じであるが、必要以上に強すぎれば、味を壊すことになる。
苦み、酸味、渋みも、適量であってバランスがよければ、おいしさのもとになる。
だから、アクは蕎麦にとって、必ずしも悪いものではない。
むしろ全粒粉を使った十割蕎麦などは、わずかなアクが蕎麦の魅力になっている。
しかし、かすかな甘みが持ち味のさらしな蕎麦では、苦みや渋みは雑味となる。だから甘皮部分を徹底的に取り去り、実の中心部のさらしな粉だけで作るそうだ。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、168頁~170頁)
本当の蕎麦の風味
「本当の蕎麦の風味」(53頁~57頁)では、蕎麦の風味について著者は考えている。
・「やっぱり新蕎麦は最高!」かどうかについて、著者は異論を唱えている。
蕎麦は収穫してすぐよりも、2~3カ月経過した後のほうが、どうやらおいしくなるという。
甘みも増し、豊かな穀物の香りが生まれ、本当の蕎麦の風味が備わってくるとする。
・「新蕎麦よりも、2~3カ月してからのほうがうまくなる」という評価は、科学的な研究を積み重ねた結果、たどりついた結論というわけではないようだ。
しかし、蕎麦の味を追求し続ける蕎麦職人の、名人たちの多くが感じていることであるそうだ。
たとえば、岐阜県下呂市の『仲佐』主人、中林新一さんは、「香りの薄かった新蕎麦が、2~3カ月したある朝、ソバを打ち始めると突然、よい香りを漂わせる」と話している。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、53頁~57頁)
蕎麦の味を決める要素
蕎麦の味を決める要素を列挙している。
〇そのソバは、どういう土の畑で育てられたのかということ。
〇種を蒔いたのはいつか。
〇品種は何か。
〇種を蒔いた後の天候は、どんな様子だったのか。
〇その年の夏は猛暑だったのか、あるいは冷夏だったのか。
〇畑の周辺の地形は、谷なのか平地なのか。
〇日のあたり具合はどうなのか。
〇昼夜の気温差は大きいのか小さいのか。
〇いつ刈り入れをしたのか。
〇収穫する際、種実の黒化率はどのくらいだったのか。
こうした、たくさんの要素の積み重ねで、味はきまってくる。
同じ産地といっても、そこで収穫され出荷されるソバの味は千差万別。
去年と今年でも、まったく違ったソバができたりする。
蕎麦は、産地や品種、そしてどのように栽培、処理されたかによる。
(栽培、乾燥を管理する生産者の意識のあり方次第で、蕎麦の味は決まる)
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、69頁、75頁)
在来種と改良品種のソバ
・蕎麦のほとんどは、在来種をもとに品種改良して作られた「品種改良」のソバの実が原料になっている。
・町の蕎麦屋さんで食べられているのは、概ね、「品種改良」のソバ
つまり、大規模栽培、大規模流通で、生産コストを抑えて採算性をあげた、いわば合理的な方式で作られたソバ
・合理的な方式で作られたソバとは、次のようなソバである。
北海道などの広い畑で大規模に栽培され、コンバインで刈り取られ、そのまま大型の乾燥施設に入れられる。
(地域によってはバーナーで石油を燃やした熱風を当てて乾燥処理される)
☆「品種改良」のソバと「在来種」のソバとの相違について
〇「在来種」のソバ
・とても生産性が低いことが特徴のひとつ。
・水はけの悪い畑を嫌い、種を蒔くときに雨が降ったり、畑が湿地だったりすると、発芽率も低下し、育ちも悪くなる。
・病気も出やすく、実のつきも少なくなる。
・風などにも弱く、倒伏しやすいのも大きな弱点。
⇒強い台風などがくると、畑のすべてのソバがなぎ倒されることも珍しくない。
台風がくると、栽培農家はソバの様子が気になってしまい、強風の中を何度も畑に足を運ぶことになる。
・せっかく実っても、実が脱粒しやすく、刈り入れるとき、特に乱暴に扱っているわけでもないのに、ポロポロと落ちてしまう。
草姿をみれば、枝の分岐も少ないので、そこに実の数も多くなりようがない。
・「在来種」のソバは極めて生産効率の悪い作物
たとえば、在来種の「こそば」の場合
「もり蕎麦」1枚分の蕎麦を作るのに、畑の面積で1畳分ほどのスペースが必要
これでは、少々広い畑で栽培しても、収穫したソバはあっという間になくなってしまう。
〇「品種改良」のソバ
・枝の分岐を多くするなどして実のつきをよくし、広い畑で栽培して、機械で管理し、大量に流通させる。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、69頁~71頁)
手で刈るか、コンバインで刈るか
「第二章 蕎麦屋の常識・非常識」の「手で刈るか、コンバインで刈るか」(71頁~75頁)で、手刈りかコンバイン刈りかについて、次のような議論を紹介している。
〇畑で、ほぼ理想的なソバが実ったとしても、その先には、ソバの味を左右するさらに大きな試練が待ち構えている。それが、刈り入れと乾燥の工程。
〇手刈りの場合
【刈り入れ】
・昔は生産者が鎌を持ち、手刈りで行っていた。
・手刈りの長所は、ソバをいたわって収穫できること。
⇒ソバは実が落ちやすい作物。特に在来種は脱粒しやすい。だから、そういうソバの実を、なるべく落とさないように注意しながら刈り入れることができる。
※昔からの言い伝え
ソバの産地には、「ソバは蠅が三匹たかったら刈れ」という言い伝えがある。
つまり、たくさんなっているソバの実のうち、三粒ほど黒くなったら、もう刈り取りなさいという意味である。
まだ多くの実が緑色のうちに刈れば、脱粒が軽減できる。より多くの実を収穫するための、先人の知恵だそうだ。
※しかし、そこまで早い段階での刈り入れは、適正な収穫とは言いがたいと、著者はいう。
早期に刈り取ることで発生する問題を是正するため、昔の方法では「後熟」という段階を設けた。
手で刈り取ったあと、枝から実をすぐには離さず、「島立て」や横に渡した木の棒などにかけて干す「はざかけ」の状態にして、数日間置く。
すると、すでに刈り取ったあとにもかかわらず、枝の栄養はソバの実に送り込まれ続ける。
かくしておいしいソバの実ができるそうだ。
※その他の昔からの言い伝え
ソバ産地には「ソバは刈られても三日気がつかない」といった言葉さえある。
土から切り離されても枝になった実は熟し続けるためだという。
【乾燥作業】
・手刈りの場合、後熟させたあと、叩いて枝から実を落とし、それを広い場所に広げ、陰干しで乾燥させる。
※これが昔から連綿と続いてきた、ソバの収穫の基本となる手順
〇コンバインによる収穫の場合
・近年は大規模に栽培されるようになり、機械で収穫するのが主流。
【刈り入れ】
・昔ながらの方法では、脱粒を防ぐため早めに刈ったのが、コンバインを使う場合は、もっと実が熟してから収穫する。その理由は、なるべく多くの実を収穫したいから。
※「なるべく多くの実を収穫したい」という同じ目的であっても、手刈りでは早めに刈り、コンバインだとできるだけ遅く刈るという正反対の作業になる。
・コンバインによる収穫では、刈ったその時点で枝からソバの実を落としてしまう。
その後、直ちに乾燥機に入れて、短時間で乾燥させるという手順。
※だから、ソバの実は、刈り入れる時点で熟していなくてはならない。
(つまり、後熟という、昔から行われていた時間のかかる工程は省略)
※しかし、この後熟の時間こそ、ソバの実の味と香りを醸成する大切なひとときだったと、片山氏は強調する。
ソバは熟しすぎないほうが、風味はよくなるようだ。
あまり黒化率を上げてしまうと、ソバの実の甘皮の部分は緑色を失い、香りが弱くなってしまう。
※したがって、どの程度熟したタイミングで収穫するのかは、蕎麦の味、香りを左右する大きな要素である。
【乾燥の工程】
・この乾燥のときに高熱をかけて乾燥させたら、ソバは確実に質が落ちる。
※困ったことに、そのような劣化した蕎麦でも、見た目では区別がつかない。
そういう蕎麦から作った蕎麦粉で打つと、長くつながった麺を作るのは難しい。
かつてはそのような蕎麦粉も出回り、それが、「十割蕎麦は、打つのが難しい。未熟な者が打つと短く切れてしまう」という誤信を生み出す一因になったのではないかと、片山氏は考えている。
正しく処理された蕎麦粉なら、生粉打ちでも、つながった蕎麦を作るのはそう難しいことではないようだ。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、71頁~75頁)
ソバの栽培は、痩せた土地がよい?
「第三章 蕎麦のうまさは、どこからくるのか」の「ソバの栽培は、痩せた土地がよい?」(90頁~91頁)は、ソバを栽培する者にとって参考になる。
〇ソバという作物は、水はけのよい畑が大好きである。
居心地のよい畑で気持ちよく育つと、うまい蕎麦ができる。
・「ソバは痩せた土地でも育つ」と、昔から言われている。
しかし、それを取り違えて、ソバを栽培するには痩せた土地のほうがいいと思っている人がいるが、それは誤解だという。
痩せた土地のほうがいい作物などというのは、たとえば、際立って辛い大根を育てたいといった特殊な目的がある場合などを除いて、基本的にはないようだ。
十分な栄養がバランスよく含まれた土に、うまい蕎麦は育つ。
〇また、ソバの実の味は気候にも左右される。
昼と夜の気温差が大きい場所に、うまい蕎麦ができる。
日昼、ソバの葉は太陽の光を受け、光合成で糖を作り出す。夜になるとこれを、葉から実の中に送り込む。昼夜の気温差があると、この作業がうまくいくのだそうだ。
(逆の状態だと、あまり芳しくない)
・「うまい蕎麦ができる条件」と逆のことをするのが、ハードルを倒すということである。
つまり、水はけの悪い畑や痩せた土の畑で栽培する、昼夜の気温差の少ない場所で栽培する、といったことである。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、90頁~91頁)
岐阜県下呂市の『仲佐』という蕎麦屋
・岐阜県下呂市は温泉で有名な町で、そこに『仲佐』という蕎麦屋がある。
中林新一さんという蕎麦職人は、岐阜から県境を越えた長野県の農家に依頼し、ソバを栽培してもらっている。そして種蒔き、刈り入れの時期には、下呂の店を休業にしてソバ畑に行き、自分で農作業をするそうだ。
(収穫されたソバは、市場で売買される価格の3倍の値段で買い取る。)
・そのソバ畑の様子を著者は紹介している。
そのソバ畑は、岐阜県から安房(あぼう)峠を越えて長野県に入った、松本市の稲核(いねこき)という地域にある。
北アルプスの山ひだが深い谷をつくるその一角に、1ヘクタールほどの畑がある。
そのソバ畑では、「稲核在来(いねこきざいらい)」というソバが栽培されている。
・この「稲核在来」の実は小粒で収量が少なく、脱粒しやすく、倒伏しやすいといった、いわば在来種の特性といわれるものをすべて備えたソバである。もちろん、おいしいという特性も備えている。
・土は水はけが良好で、栄養の管理にも留意している。
畑は深い谷の底にあり、午前中は日が差すが、午後になると日が陰る。
これは重要なことであるという。
というのは、朝から晩までずっと日が当たり続ける畑では、太陽の熱で実が熱せられて、暑さの厳しい年には香りが弱くなる可能性があるから(「作焼け」と呼ばれる現象)。
※適度に日当たりの悪い谷間の畑が、ソバの栽培には理想的なのだという。
・加えて、その畑は、もうひとつ大きな特徴がある。
ソバを栽培するには昼夜の気温差が大きいほうがよい。
その畑の裏山は、天然の冷蔵庫になっているそうだ。
というのは、山の内部を北アルプスの雪融け水が流れていて、山全体が冷たく冷やされているから。山の裾にはいわゆる風穴があり、中に入ると真夏でも肌寒いほどらしい。
(養蚕が盛んな時代は、ここに蚕の卵を保存したという)
⇒畑に隣接する山がそういう状態だから、夏の日中、日差しがあるうちは気温も上がるが、日が沈むと、裏山から冷気が下りてくる。かくして昼夜の気温差は、極めて大きくなる。ソバを栽培するには絶好の環境である。
・この畑で稲核在来を育て、しかも手刈り、天日干し。そのソバを小さな石臼で手で回して、毎日、必要な量だけを手挽きする。こうすると、製粉時に蕎麦粉に発生する熱も抑えられるので、風味豊かな蕎麦に仕上げることができるそうだ。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、91頁~96頁)
各地の郷土蕎麦
「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「魅力あふれる各地の郷土蕎麦」(151頁~154頁)において、全国的に知られている郷土蕎麦のある蕎麦処を紹介している。
それは青森県、岩手県、福島県、長野県、福井県、島根県などにある。
これらの土地にある郷土蕎麦を、簡単に述べておこう。
①青森県の津軽蕎麦
・これは水に浸した大豆を擂(す)りつぶし、蕎麦粉に混ぜて打つ蕎麦である。
・蕎麦の保存性がよくなるといわれ、温かいかけ蕎麦などで食べることが多い。
②岩手県のわんこ蕎麦
・客の脇に給仕役が控え、客が椀の中の蕎麦を食べると間髪を入れず、椀の中に途切れることなく蕎麦を投げ入れる。お代わりを無理強いする蕎麦振る舞いで、旧南部藩領では、これが一番の御馳走とされた。
(客が椀にふたをするまで給仕は続けられる)
③福島県の高遠蕎麦
・福島県の会津地方の郷土蕎麦は、もとは信州・伊那の高遠藩で行われていた蕎麦の食べ方。
⇒大根おろしの汁で、冷たい蕎麦を食べる。
・その食べ方が、高遠藩の領主であった保科正之(ほしなまさゆき)が、会津の領主として赴任した際に、この地方に伝えられたといわれる。
(本家本元の信州・高遠では、いつしかその食べ方が忘れられていった)
・保科正之が藩主として会津の地に赴いたのは、寛永20年(1643)のこと。
保科は会津領主として農業政策に力を入れ、会津藩の米の収穫量は、かつてないほど増大したという。
・寛永20年(1643)には、江戸時代初期の代表的な料理書『料理物語』が登場している。
この本には、蕎麦の「汁」として「煮貫(にぬき)」と「垂味噌(たれみそ)」が挙げられ、そこに大根の汁を加えることが薦められている。
④長野県の信州蕎麦
・信州蕎麦といっても、特定の食べ方があるわけではない。
県内各地にその地域特有の蕎麦の食べ方があり、信州蕎麦は、それらの総称といえる。
・代表的なところでは、戸隠神社周辺で食べられる戸隠蕎麦や、柄のついた小さな籠に蕎麦を入れ、鍋の汁でしゃぶしゃぶのように温めて食べる「とうじ蕎麦」などがある。
⑤福井県の越前おろし蕎麦
・福井県の越前地方では、大根おろしをかけて味わう。
⑥島根県の出雲蕎麦
・色が黒めの蕎麦を、割子(わりご)と呼ばれる器に入れて食べる。
(これも知名度が高い蕎麦)
※「郷土蕎麦」とは、その地域の人々が、「この食べ方はおいしいね」と、暗黙のうちに了解し、多くの人々が日々の生活の中で、その食べ方を実践している蕎麦のことをさすと、著者は定義している。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、152頁~154頁、159頁~161頁)
どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』
「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」
〇どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』
〇奥深く多彩な出雲蕎麦
〇神話の時代から
〇松平不昧公の功績
(175頁~192頁)
どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』
「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』」(175頁~177頁)
〇「どじょう蕎麦」とは
・出雲の人たちが、自分たちの郷土蕎麦を、親しみを込めて呼んだ蕎麦。
・短くて、色が黒くて、ちょっと太めで、曲がっていたりする。
・島根県松江市『ふなつ』の「割子そば」は、昔のスタイルを踏襲した出雲蕎麦で、「どじょう蕎麦」というネーミングに、ふさわしい容姿をしている。
※関東地方の食べ方のように、細くて長い蕎麦を、ザッと手繰って、のどごしを楽しむなどという芸当は不可能。
・昔の人々は、どじょう蕎麦を愛し、その味を伝統として伝えてきた。
松江藩七代目藩主、松平治郷(はるさと、不昧[ふまい])公(1751~1818)は、蕎麦と茶を愛した風流大名として知られる。
蕎麦好きの間では不昧公が詠んだ、次の歌が有名である。
≪茶をのみて道具求めて蕎麦を食ひ 庭をつくりて月花を見ん そのほか望みなし 大笑々々≫
不昧公は、正しい蕎麦の食べ方について、次のように言ったと伝えられている。
「汁は少し辛めに作り、蕎麦にはなるべく少なくかけ、十分攪拌(かくはん)したあと、よく噛み締めて食うのがよい。」
※ここでも、やはり、のどごしではなく、よく噛んで食べるのがよいと勧めている。
・出雲で栽培された蕎麦は、土の質の関係で、長くつながりにくい特徴を備えたものになるという。
だから、地元の人たちは昔から、短く切れたどじょう蕎麦を賞味してきた。
つながりにくい蕎麦は、あるがままの姿で食べるのが、最もおいしいものなのである。
・ところが交通事情がよくなって、関東方面からたくさんの観光客が訪れるようになると、蕎麦を食べた客が、「細く長くつながっていなくちゃ、蕎麦じゃない」などということを言い出した。
そこで蕎麦店は観光客の要望に合わせて、無理矢理、細く長くつながった蕎麦を作り出した。
その結果、いつの間にか出雲蕎麦は、関東風の細くて長い麺になってしまったらしい。
〇しかし『ふなつ』の蕎麦は、関東風になることを拒否した出雲蕎麦である。
この店の「割子そば」を注文すると、昔はこのようであったのだろうと思われる、太くて短いどじょう蕎麦が運ばれてくる。
この味は、一度食べたら忘れられないと、片山氏はいう。
出雲蕎麦とは、本来、どういうものであったのかを教えてくれる蕎麦である。
※この店の味を知らないのは、一生の不覚と言っても過言ではないと賞賛している。
特に「かまあげそば」(出雲蕎麦のもうひとつの主役)というメニューをぜひとも賞味してほしいという。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、175頁~177頁)
奥深く多彩な出雲蕎麦
「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「奥深く多彩な出雲蕎麦」(177頁~181頁)
・出雲蕎麦とは何かと問われれば、「小さな割子に入れた色の黒い蕎麦を、何段にも重ねて供する出雲地方の郷土蕎麦」という答えが一般的。
・出雲蕎麦のイメージはこのようなものだが、これだけでくくれるほど出雲蕎麦の全体像は単純ではないと、片山氏はいう。
出雲地方には場所により、時代により、奥深い蕎麦の世界が広がっている。
出雲にも、客の脇から給仕が椀の中に蕎麦を投げ入れる、「わんこ蕎麦」に似た風習があったそうだ。
この食べ方を出雲では、「かけ蕎麦」と呼んだ。
※こういう食べ方は、長野県松本市の奈川地区にもあったし、瀬戸内海の小島にもあったようだ。
・出雲蕎麦は、基本的に生蕎麦(きそば)である。
つまり小麦粉などのつなぎを用いない十割蕎麦である。蕎麦粉そのものがおいしい地方では、自然にこういう食べ方になるようだ。
〇出雲蕎麦には、多彩なバリエーションがある。
地元では「釜揚げ蕎麦」も人気の高い食べ方である。
「釜揚げ蕎麦」は、蕎麦の甘さ、香り、餅のような食感を、「割子蕎麦」より豊かなに楽しむことができる。
「釜揚げ蕎麦」とは、釜で茹でた蕎麦を、その茹で汁とともに器に移し、熱いうちに食べる食べ方である。
丼に入れられた熱い蕎麦なので、一見したところ、関東で食べる温かい「かけ蕎麦」と同じように見える。
【「かけ蕎麦」と「釜揚げ蕎麦」の違い】
・ただ、「かけ蕎麦」の作り方は、釜で茹でた蕎麦を、いったん冷水で締め、それを再び湯にくぐらせてから、丼に用意した温かい「かけ蕎麦」用の汁「甘汁」に入れて食べるというもの。
一度冷水で締める目的は、麺にしっかり腰を与えるためである。
それに対して、「釜揚げ蕎麦」は、途中で冷やすことなく、釜から熱いまま、直接、器に移して食べる。
茹でて軟らかくなった蕎麦のおいしさが、ダイレクトに味わえる。
※「釜揚げ蕎麦」は、「かけ蕎麦」とは、似て非なる食べ物である。
〇そのほか出雲では、「茶蕎麦」や「たまご蕎麦」、「魚蕎麦」などと呼ばれる食べ方があった。
・「茶蕎麦」とは、蕎麦粉に薄茶と、生卵2~3個を割り入れて打った蕎麦。
葛の餡をかけて食べた。
・「たまご蕎麦」は、蕎麦粉1升に、8個ほどの卵を混ぜ、その水分だけで打った蕎麦。
昔は贅沢な食べ物であった卵を大量に使う「たまご蕎麦」は、出雲ならではの食べ方と言えるようだ。
・「魚蕎麦」は、珍しい蕎麦。
魚肉をすり鉢ですり、蕎麦粉と塩、地伝酒(じでんしゅ)と卵少々を加えて作る。
宍道湖や日本海に面した、この地方ならではの郷土蕎麦。
※地伝酒とは、「出雲地伝酒」ともいい、島根県で生産されている特殊な酒。
製法は、もち米をベースに米麹を日本酒の倍量使う。だが、仕込み水は日本酒の半分ほどしか入れないため、かなり濃厚な味になる。十分に時間をかけて発酵させたところに、木灰(きばい)を加え、搾って仕上げる。
※地伝酒の特徴は、何より甘みが強いこと。うまみも日本酒の数倍。
魚の生臭さを消す力もあるため、魚料理などに甘みの強い調味料として使用された。
この地方の郷土料理である宍道湖七珍料理など、出雲の食文化の土台を支えてきた調味料。
地伝酒はまた、出雲蕎麦の伝統の汁作りにも欠かせないものだった。
・出雲では元々「もり蕎麦」のような、蕎麦猪口に入れたつゆに蕎麦を浸けて味わう食べ方ではなく、器に盛った蕎麦に汁を直接かけて食べる「ぶっかけ」と呼ばれる食べ方をした。
この「かける汁」の材料に地伝酒が使われた。
基本は水と鰹節、それに地伝酒、砂糖、醤油など。
※このように本来の出雲蕎麦には、郷土に根づいた伝統的な食材が使われていた。
まさしく、ここでしか味わえない、独特の汁だった。
※ちなみに「魚蕎麦」の薬味には、葱と大根おろしだけを使うという。
いずれも魚の臭みを消すのに役立つ薬味。
先人たちが工夫した、蕎麦をおいしく食べるための知恵が、出雲蕎麦にはぎっしり詰め込まれている。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、177頁~181頁)
神話の時代から
「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「神話の時代から」(181頁~186頁)
『ふなつ』で使っているソバは、どのような畑で育つのか。
それを知れば出雲蕎麦が、なぜこのようにうまいのか、理由の一端が見えてくると、片山氏はいう。
【島根県の奥出雲町とソバ】
・島根県東部の山間地域は、柔らかな曲線の山ひだに隠れるように、小さな盆地があちこちに開けている。季節を見計らって訪れると、白い花を付けたソバ畑が広がっている。
・山深い奥出雲町は、日本神話の舞台となった土地である。
スサノヲノミコトが高天原(たかまのはら)を追放されて、降り立ったのが、出雲国の鳥髪(とりかみ)の地。(現在の地名だと、奥出雲町鳥上)
ここでスサノヲノミコトはヤマタノオロチを退治するのだが、その尾から一口の剣が出てくる。これが後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれる、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。
・昔から奥出雲は良質な砂鉄の産地である。
「たたら」と呼ばれる初期の製鉄が、6世紀ごろには行われていたと考えられている。
この鉄で剣が造られた。
たたら製鉄で砂鉄を集める方法は、鉄穴(かんな)流しと呼ばれる。
山を切り崩し、その土を川に流して砂鉄を選別するという荒っぽいものであった。川に流された土砂は下流に堆積して、農業生産に被害を与えることになる。
場所によっては川底に堆積した土で、川の高さが農地より上になってしまい、雨の季節にはそれが氾濫して、生活にまで深刻な打撃を与えたという。
・切り崩された山の斜面に火を放って焼き畑が行われ、栽培されたのがソバだった。
※奥出雲地方のソバ栽培は、「たたら」の歴史と、分かちがたく結びついている。
・耕作地が少ない山間部では、ソバは貴重な作物となった。
この地域は谷が多い地形のため、「谷風」と呼ばれる冷涼な風が吹き、昼夜の気温差が大きい。
加えて土壌の水はけもよく、うまいソバが育つ条件は揃っていた。
〇特に奥出雲町の八川(やかわ)という地域でとれるソバは、際立って風味がよいと定評があった。
江戸時代には松江藩が江戸幕府に納める献上蕎麦に、八川産のソバを使っていたという。
※その八川で作られていたソバが、現在の「横田小そば」と呼ばれる在来品種と同じソバである。谷が多い奥出雲には、当時、谷ごとに個性の異なる在来種の系統が栽培されていた。
・ところで、昭和44年から始まった米の生産調整は、平成7年からさらに強化され、奥出雲地方でも、米の作付けができない農地が増えることになった。
そうした農地を荒らさないで維持するには、米以外の何か手のかからない作物を栽培しなければならない。
そこで町は、水田転作の奨励作物にソバを選び、平成8年から作付け面積を増やしていった。
・横田の在来は粒が小さいうえに、倒伏が多いので収量が少ない。
蕎麦の実、千粒の重さで比較する「千粒重(せんりゅうじゅう)」を見ると、「横田小そば」の場合、21グラムしかない。
これを改良品種と比べてみると、信濃1号の場合、千粒で31グラム。
⇒「横田小そば」とは実に1.5倍もの開きがある。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、181頁~186頁)
松平不昧公の功績
〇蕎麦という名前は同じでも、土地が変われば蕎麦も変わる。
蕎麦が変われば食べ方も変わる。
太い蕎麦を、よく噛み締めて食べることが正しい食べ方の土地があれば、それとは反対に、
細い蕎麦を噛まずに丸呑みするのが「粋」だとされる土地もある。
蕎麦を食べることは、人の生き方、価値観、美学にまで連動する、日常のなかの小さな儀式とさえ言えると、片山氏は述べている。
人が真剣に取り組めば、蕎麦はきちんと応えてくれる。出雲蕎麦の伝統が人々に支持されている理由は、実はそこにあるのではないかという。
〇ところで、出雲蕎麦に真剣に取り組んだ先人、それは松平不昧公であるといわれる。
とにかく蕎麦が大好きだった。このことは前述の歌をみればわかる。
いったい蕎麦の何がそこまで、不昧公を虜にしたのだろうかという問いかけをして、不昧公について調べている。
・不昧公には、「楽山(らくざん)」という名の別荘があって、折にふれ、松江城から舟を出して楽山を訪れた。山全体を別荘にしたこの地を愛し、邸内を散策したり、茶会を催したりした。
ここに蕎麦職人が出向いて、蕎麦を打って差し上げたという。
不昧公は明和4年(1767)、17歳の若さで松江藩主になった。
18歳で茶道を、19歳で禅を志した。
この時代、江戸では茶の湯の乱れがあったという。
茶の湯の本質を理解していない人が多く、本来質素であるべきものが華美になり、料理も贅沢になっていると不昧公は嘆いている。
そうした風潮への反発もあり、不昧公は、その時代の主流であった茶の湯よりも、茶の湯の原点である、利休の草庵の侘茶(わびちゃ)に返ることを理想とした。
※不昧の研究書『不昧流茶道と史料』などの著書がある島田成矩(しげのり)さんは、不昧の茶について、次のようにいう。
「不昧公が入門した茶の湯の流派は、『石州流茶道』。片桐石州が流祖です。この流派は、将軍家や大名が多く学んでいた流派で、不昧公は石州流の流れをくむ伊佐派の門人となりました。もとをたどれば不昧公が入門した流派は、利休が初代です。(中略)
生真面目な石州流に学びながら不昧公は、原点である利休の侘茶を基本とし、不昧流を完成させたのです」
・松平不昧公が生まれた1751年は、『蕎麦全書』が書かれた年である。
まさに蕎麦が最盛期であった時代である。蕎麦の食文化が花盛りの時代だった。
江戸の蕎麦好きの人々は、蕎麦の食べ歩きをして、それを日記に書いたりしていたそうだ。
さらしな蕎麦から、信濃の蕎麦、二八蕎麦から生粉打ちの蕎麦。細切りも、太打ちもあり、藪蕎麦と呼ばれる店もすでに現れていた。
『本朝食鑑』に記録が残る幻の蕎麦「寒ざらし蕎麦」も、すでに将軍家に献上されていた。
(当時の江戸には、蕎麦なら、なんでもあったようだ)
・江戸へは、松平不昧公も、参勤交代で何度となく出向いた。
蕎麦が全盛のこういう状況を、その目で見て、体験していたことになる。
そのころ、出雲の地元の蕎麦は、おそらく黒い蕎麦だったと推測される。
出雲産の蕎麦をおいしく食べる方法は、短くてブツブツ切れる、黒いどじょう蕎麦がいちばんなのだから、そのようにして食べていたと考えるのが自然である。
江戸の様子を見て、白い蕎麦も、黒い蕎麦も、不昧公は知っていた。
・また松平不昧公の時代の、葵の紋が入った蕎麦道具が、出雲に残されている。
不昧公は徳川家康の孫の子孫であった。
「越前おろし蕎麦」で知られる、福井、越前の、松平秀康の三男直政の後裔にあたる家系である。
※出雲文化伝承館に残されている蕎麦の器を見ると、面白いことがわかるという。
これはいわゆる「ぶっかけ」の食べ方をするための器と考えられるそうだ。
蕎麦猪口に入れた蕎麦のつゆに、蕎麦をつけて食べる食べ方ではなく、器の中に入れた蕎麦に、汁をかけて食べる食べ方である。
(松平不昧公が書き残した、正しい蕎麦の食べ方も、まさに、ぶっかけの食べ方である)
・江戸の「ぶっかけ」は、元禄(1688~1704)のころからあったようだ。
当初は下品な食べ方とされていた。
その後「ぶっかけ」は、寒い季節に蕎麦と汁を温めて食べる「かけそば」に進化していく。
ぶっかけという食べ方が江戸の町に流行ると、汁に蕎麦をつけて食べる食べ方を「もり」として区別されるようになった。
安永2年(1773)の『俳流器の水』に載っている「お二かいはぶつかけ二ツもり一つ」がもりの初見であるそうだ。
だから、松平不昧公の時代、「もり」の食べ方もあったことになる。
それなのに不昧公は「ぶっかけ」という気取らない食べ方をしている。
葵の紋がついたぶっかけの器というのは、どう考えても不思議な気がする。
松平不昧公はあえて、太くて短い黒い蕎麦をぶっかけで食べるという方法を選んだ。
やはりそこには不昧公の、何らかの意図があったと、片山氏は考えている。
〇さて、不昧公は、なぜ江戸で流行の白い蕎麦ではなく、地元の野暮ともいえる黒い蕎麦を、自分の蕎麦として選んだのだろうか。
当時の江戸の茶の湯の世界は華美に走り、本質を見失っていた。
それを嘆いた不昧公は、利休の侘茶を理想とする自らの思いを、当世流行りの白い蕎麦ではなく、黒い蕎麦に託して表現したと、片山氏は考えている。
太くて、ブツブツ切れる色の黒い出雲蕎麦は、不昧公にとっては侘びの精神を表現する道具のひとつだった。そう考えると、葵の紋が入ったぶっかけの器の謎も解けてくるという。
(そうであるならば、黒くて太くてブツブツ切れる、どじょう蕎麦こそが、松平不昧公の侘茶の精神が反映された「ほんとうの出雲蕎麦」の姿だということができるとする)
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、186頁~192頁)
掲載店情報
巻末には、この本で言及されていた店情報が付記されている。
都道府県の町名と電話番号まで記載されているが、詳しい情報は本を参照していただきたい。
掲載店のうち、『仲佐』(岐阜県下呂市)と『ふなつ』(島根県松江市)については、この記事でも比較的詳しく紹介してみた。
片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』
掲載店 住所
1 かんだやぶそば 東京都千代田区
2 並木藪蕎麦 東京都台東区
3 上野藪そば 東京都台東区
4 藪蕎麦宮本 静岡県島田市
5 神田まつや 東京都千代田区
6 仲佐 岐阜県下呂市
7 桐屋(権現亭) 福島県会津若松市
8 大名草庵(おなざあん) 兵庫県丹波市
9 天山 福島県双葉郡
10 蕎麦切り きうち 大阪府大阪市中央区
11 ふなつ 島根県松江市
12 こそば亭 新潟県妙高市
13 美濃作 沖縄県那覇市