歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【雑感】小林秀雄とその文章≫

2021-06-16 17:24:38 | 文章について
≪【雑感】小林秀雄とその文章≫
(2021年6月16日投稿)
 

【はじめに】


 以前に、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)の【読後の感想とコメント】を書いた際に、小林秀雄について述べたことがあった。今回の記事は、その時の記事に加筆したものである。参考文献などにリンクを貼っておいたので、参照していただきたい。
 なお、高田宏『エッセーの書き方』(講談社現代新書、1984年[1988年版])を読み直して、作家の文章読本についての記事を加筆してみた。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄の文章観について
・殺し文句の小林秀雄
・「人生観」という言葉
・小林秀雄の文章は悪文か?
・小林秀雄による漱石と鷗外の位置づけ
・小林秀雄と『本居宣長』
・小林秀雄の批評
・小林秀雄の谷崎潤一郎読本の評価について
・小林秀雄の文章の魅力
・小林秀雄の歴史観について
・小林秀雄とツキジデスの歴史に対する見方の根本的相違について
・【補足】文章を書くということ~高田宏『エッセーの書き方』 より
・【補足】書くということ~谷崎潤一郎の『文章読本』のハイライト







小林秀雄の文章観について


小林秀雄は、言葉に対する考え方について、たとえば、「様々なる意匠」の冒頭で、次のように述べている。
「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾(しそう)しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、202頁。新潮社編『人生の鍛錬』新潮社、2007年、12頁)。

※【引用者の注釈】
・指嗾(しそう)とは、「人に指図して、悪事などを行うように仕向けること。指図してそそのかすこと。」
・「嗾」は、「けしかける」「そそのかす」の意味。◆「しぞく」と読むのは誤り。
・<例文>「生徒を指嗾して騒ぎを起こす」

【『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房はこちらから】

現代日本文学大系 (60)

【新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

つまり、言葉というものは、人心眩惑の魔術を持っているというのである。
ところで、より実務的、体験的アドバイスとしては、批評家小林秀雄のそれが有用かもしれない。
小林は「文章について」の中で、評論を書き始めた頃は、自分の文章が平板で一本調子な点に不満を覚えていたことを記している。
同じ問題を色々な角度から眺めて、豊富な文体を得ようとしたが、どうしたらよいかわからなかったので、仕方がないから、ある問題の一面をできるだけはっきり短い文章を書き、そして連絡を考えずに、反対な面から眺めたところをまたはっきりと短い文章を作り上げたという。
それはちょうど切籠(きりこ)の硝子(ガラス)玉を作るような気分であったようだ。そうした短章を原稿用紙に芸もなく2行開きで並べていった。そんなことを暫くやっているうちに、玉を作るのにまず一面を磨き、次に反対の面を磨くという様な事をしなくても、一と息でいろいろの面で繰り展(の)べられる様な文が書ける様になったというのである(新潮社編、2007年、91頁)。

たとえば、「骨董」というエッセイの中で、骨董の所有について次のような文があるのが、小林のいう「切籠の硝子玉」でも作る気分の文章であったのであろう。
「美しい物を所有したいのは人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である」(新潮社編、2007年、124頁)。ただ、これは、出典年譜によれば、1948年、46歳のときの作品であるので、書き始めた頃の文章ではない。
また、「批評」というエッセイでは、「批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。」(新潮社編、2007年、211頁)。
これも、「切籠の硝子玉」のような文章であるといえよう。「批評」は、1964年1月の作品で、62歳の目前のエッセイであるので、老年に至っても、この文章作法は維持されていたのであろう。
ちなみに、小林秀雄は「徒然草」という批評の中で、
「文章も比類のない名文であつて、よく言はれる枕草子との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見さうは言えないのは、彼が名工だからである」と述べている。つまり『徒然草』の文章は「比類のない名文」であり、「正確な鋭利な文体」であると、小林は高く評価している。
そして、その著者の吉田兼好は、詩人ではなく、批評家であったと捉えている。つまり「物狂ほしい批評精神の毒を呑んだ文学者」であったというのである。兼好は、よく引き合いに出される、『方丈記』を著した鴨長明なぞには似ておらず、フランスのモンテーニュに似ているという。モンテーニュが生まれる200年も前に、兼好は遥かに鋭敏に簡明に正確にやったというのである。つまり『徒然草』が書かれたという事は、新しい形式の随筆文学が書かれたというような事ではなく、純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件として理解している。『徒然草』の二百四十幾つの短文は、すべて兼好の「批評と観察との冒険」であったというのである(小林、1969年、256頁~257頁)。

殺し文句の小林秀雄


殺し文句にかけて海内無双の名手といえば、これはもう知れたこと、小林秀雄であると向井敏はいう。
大正末年、24歳の秋に、発表したランボー論にはじまって、晩年の大作『本居宣長』にいたる、およそ半世紀間のその著作歴は殺し文句の絢爛たるオンパレードの観を呈したとみる。この人の生涯は、人を悩殺し、驚倒させ、感服させる名文句を工夫することに明け暮れたと向井は評している。小林秀雄ほど、殺し文句に憑かれた人はいないという(向井敏『文章読本』文春文庫、1991年、105頁)。

【向井敏の『文章読本』はこちらから】

文章読本

「人生観」という言葉


たとえば、「人生観」という言葉がある。われわれはこの言葉を解かり切ったように使っているが、この言葉について、評論家小林秀雄は、「私の人生観」という講演の中で、改めて注意を促している。この言葉が日本で普通に使われ出したのは、やはり西洋の近代思想が入ってきて、人生に対する新しい見方とか考え方がおこった時からであろうという。しかしそうかといって、人生観という言葉は外国にはないようで、観という言葉には日本人独特の語感があると指摘している。この「観」という言葉に非常な価値を置いたのは、仏教の思想であったとして、『無量寿経』などをもとに解説している(小林、1969年、305頁~306頁)。
なお、西洋史家で小林の従弟(いとこ)である西村貞二によれば、小林自身の口から、「やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツァルト』ぐらいかなア」と語られたということである。
「私の人生観」というのは、昭和23年(1948年)、新大阪新聞社主催の講演会で行なった「私の人生観」と題する講演記録に手を加えたものであるが、小林秀雄自らが会心の文章というだけあって、読み応えがある(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、305頁~329頁、西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年、74頁、川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]、176頁~177頁)。

【西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂はこちらから】

小林秀雄とともに

【川副国基『小林秀雄』学燈文庫はこちらから】

小林秀雄 (学灯文庫)

 読み応えのする箇所を具体的に挙げてみると、たとえば小林は批評活動について、次のように記している。
「批評しようとする心の働きは、否定の働きで、在るがまゝのものをそのまゝ受納れるのが厭で、これを壊しにかゝる傾向である。かやうな働きがなければ、無論向上といふものはないわけで、批評は創造の塩である筈だが、この傾向が進み過ぎると、一向塩が利かなくなるといふをかしな事になります。」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、317頁)

批評活動のもつ否定的傾向について触れ、それが向上に役立つ半面、度が過ぎればいたずらに観念上の混乱に陥りやすいことを指摘している。このことを小林は「批評は創造の塩」という巧妙な比喩を用いて表現している。つまり、批評というものは、ものごとをつくり出す上で、料理の味をつける塩のような役割を果たすもので、向上心を刺激し創造に役立つという本来の意味がはたされるはずのものであるという。

小林秀雄の文章は悪文か?


小林の文章は難解である。このことは誰もが認めるところであろう。ただ、小林の文章は悪文かというと、この点については見解が分かれる点であろう。このことに関連して、小林自身にまつわる面白いエピソードがある。小林自身も、自らの文章を“悪文”と評したことがあるのである。
小林秀雄の言葉を拾い集めた簡便な本として、新潮社編『人生の鍛錬』(新潮社、2007年、179頁)があるが、この本に次のように記してある。
「あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何だかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。へえ、そうかい、とあきれたが、ちかごろ家で、われながら小言幸兵衛(こごとこうべえ)じみてきたと思っている矢先き、おやじの面目まるつぶれである。教育問題はむつかしい」(出典「国語という大河」)

このエピソードは、小林自身の身内でも、よく知られたエピソードであったらしく、妹の高見澤潤子も、引用している(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、226頁)。
話の内容は、娘の国語の試験問題を見せられた親父である小林秀雄が、意味のわからない悪文だから、わかりませんと書いておけばいいと答えたら、実はお父さんの本から引用した文章であると先生が言われたと娘が笑い出し、親父の面目がまるつぶれになってしまったというのである。これは小林秀雄が自分の文章を悪文と思わず評してしまい、娘に一本を取られてしまった笑い話である。
小林は、日常生活では、うっかりした性格のところがあったらしい。たとえば、旅行先でパスポートをなくしたと騒いでいたら、ちゃんとホテルに置いてあったり、カフェのテラスにカメラを置き忘れたりと、「忘れものの名人」であった。また、講演旅行の時には、ホームに荷物を置いたまま、列車に乗り込んでしまったことなどもあったようだ。これらのことは、従弟の西村貞二や妹の高見澤潤子が証言している(西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年、31頁、119頁。高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、232頁~233頁)。

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄

小林秀雄による漱石と鷗外の位置づけ


小林秀雄は「私小説論」の中において、漱石と鷗外を次のように位置づけている。
「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである。彼等の洞察は最も正しく芥川龍之介によつて継承されたが、彼の肉体がこの洞察に堪へなかつた事は悲しむべき事である。芥川氏の悲劇は氏の死とともに終つたか。僕等の眼前には今私小説はどんな姿で現れてゐるか」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、216頁)。
つまり、鷗外と漱石は抜群の教養をもっていたので、自然主義小説の不具を洞察しており、私小説運動と運命をともにしなかったと理解している。彼らの洞察は芥川龍之介に継承されたものの、その芥川は夭逝してしまう。

森鷗外と本居宣長についての小林秀雄の言及


鷗外と宣長について、小林秀雄は『無常といふ事』において、次のように記している。
「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。」(小林、1969年、253頁~254頁。新潮社編、2007年、108頁)。

『古事記』といえば、因幡の白兎、国引き、オロチ退治、海幸山幸、天の岩屋戸の話など、親しみやすい古典である。
ところで、西郷信綱は、『古事記伝』という宣長という縦糸と、イギリス社会人類学の横糸とを交錯させる新しい問題意識にたって、古事記を読み解いた。西郷は、『古事記』を、そのいわゆる潤色・作為とかをふくめて、古代人の経験のあらわれとして読んでいった(西郷信綱『古事記の世界』岩波新書、1967年、12頁)。

【西郷信綱『古事記の世界』岩波新書はこちらから】

古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)

小林秀雄と『本居宣長』


本居宣長という人物について、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)でも、言及されていた。
「「棄民」としての角屋七郎兵衛―ベトナムにあだ花を咲かせた松阪商人」の中で、
伊勢松阪にまるわる歴史上の有名人として、
1)江戸時代の偉大な国学者で、生涯をかけて著した『古事記伝』が有名な本居宣長
2)呉服商や両替商として巨万の富を築き、財閥三井家の基礎を築いた三井高利
3)松阪の城主でもある戦国の武将蒲生氏郷(後に会津92万石の大名となった名将)
こうした有名人の他に角屋七郎兵衛(かどや しちろうべえ)という松阪商人を挙げておられた。角屋七郎兵衛は、伊勢を基点として、堺、長崎そしてホイアンを結ぶ海外貿易圏を確立した商人である。
(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年、233頁~240頁)
【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ

それ以来、私も、本居宣長に関心を抱くようになった。
ところで、昭和53年(1978)、小林は『本居宣長』という大著で、日本文学大賞を受賞した。その時に、次のような挨拶をしたといわれる。
その挨拶の中にも、小林の文章観の一端が如実にあらわれているといえよう。
その挨拶とは、
「どんな本でも売れなくっちゃ話になりません。これは本居宣長さんの根本思想で、医者だった宣長さんは、自家製滋養丸の広告などうまいものでした。私も宣長さんの教えにならって、本の広告をしましたが、私の文章は、読み進むうちに、立ちどまったり、前へ戻ったりしないとわからないように工夫がこらしてあります。知らず知らず、二度三度読むような文章になっています。定価は四千円ですが、長さからいえば、一万二千円クラスの本で、大変な割引になっております。」(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、214頁)。

つまり、小林の文章は、立ちどまったり、前へ戻ったりしないと文意が辿れないように工夫してあるので、「知らず知らず、二度三度読むような文章」だと自ら語っている。
なお、『本居宣長』という本の見返しには、日本画家の奥村土牛(おくむらどぎゅう、1889~1990)が描いた山桜の絵が載せてあり、花好きの小林を想起させるようになっている(高見澤、1985年、195頁)。

小林が推敲して、文章を削っていったことについて、妹高見澤潤子も次のように証言している。
「兄は原稿をよみ返し、書き直している間に、だんだん原稿がへって行く。私などよみ返すたびに書き足すので、原稿がふえる方が多いが、「本居宣長」など毎月の原稿を書いているうちに、はじめは十何枚かあったのに、だんだん減って、三枚ぐらいになってしまうこともある。それほど煮つめ、凝縮させてしまう。大抵の人が原稿半枚ぐらい書くところを、二、三行ですましてしまう。言葉を運び、文章を工夫し、表現にみがきをかけるために苦しむ。そのために難解にはなるが、詩のように言葉に盛られた内容は重い。詩の評論とも、評論の詩ともいえるのではないだろうか。」(高見澤、1985年、223頁)。

これによれば、普通の人は、原稿を読み返すと、文章を書き足すのだが、小林は逆で、煮つめて、凝縮させる方向に向かう。原稿半枚ぐらいを2~3行ですますくらい、言葉を選び、文章を工夫し、表現にみがきをかける。だから、小林の文章は、「詩のように言葉に盛られた内容は重い」というのである。小林の評論を、「詩の評論」もしくは「評論の詩」と形容されるのは言い得て妙であろう。
また、兄小林秀雄が色紙を頼まれた時に、よく書いた言葉として、「批評とは無私を得んとする道なり」というのがあることを妹は記している。この言葉は確かに形而上的である(高見澤、1985年、225頁)。

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長(上) (新潮文庫)

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長

小林秀雄の批評


<文学>観念を所有しているにもかかわらず、具体的な場に即すことで、<文学>というオブセッションを超克し得た例があり、近代の評論の実質が形成されてきた。一例が小林秀雄の場合である。
小林の批評的営為は、批評を文学として自立させた最初の試みとして位置づけられることが多い。その意味では、彼の努力は<文学>に向かって行われており、<文学>自体を撃つことはなかったともいえるのだが、小林にはその登場のはじめから、自らの<言葉という体験>に対する稀有のつきとめといったものがあったといわれる。それを手離しては、どのような観念にも上昇しなかった点に特色があり、その点で<文学>という観念にも問われなかったと樫原はみている(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、263頁)。

小林秀雄の谷崎潤一郎読本の評価について


「一見平凡に見えて読了して考へてみるとやつぱり名著だと思つた。
文学志望の知人がこれを読んで、やゝ心外の面もちで、一向面白くない、と言つた。僕も同感である。読みやうによつては一向面白くもない本だと思ふ。(中略)
氏は通俗を旨として書いた、文人や専門家に見せるものではない、と断つてゐる。僕は文人でも専門家でもないから、色色教訓を得た。この書の説く処は通俗かも知れないが、空論といふものが一つもなく、実際上の助言にみち、而もあれだけ品格のある通俗書といふのは、到底凡庸な文人や、専門家の能くするところではない。」(小林秀雄『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社、1983年、75頁)。
小林秀雄は、「菊池寛論」の中で、「僕が会った文学者のうちでこの人は天才だと強く感じる人は、志賀直哉氏と菊池寛氏とだけである」と述べている。二人の鋭敏さは端的で少しも観念的な細工がないという(新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、57頁~58頁)。

小林秀雄の文章の魅力


小林秀雄のエッセイ集『無常といふ事』に対して、批評家河上徹太郎は推賞文として、次のように記している。
「本書の文章は、リズムが明確で、感覚が冴えていて、知性の強い筋金がしっかりと入っている。繰り返して読んで飽きることがなく、また繰り返して読むことによって始めてその含蓄の深さに驚く。言葉の最もすぐれた意味における作品である。」
川副は、小林秀雄独特の思考が随処にひそめられており、それだけに難解な点も少なくないともいう(川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]、64頁)。

【川副国基『小林秀雄』学燈文庫はこちらから】

小林秀雄 (学灯文庫)

小林秀雄の歴史観について


小林のいう歴史は、近代的歴史観、あるいは知の枠組そのものに鋭く対立するものであるという理解を樫原修はしている。しかもそう考える小林自身、近代的語彙で語らざるを得ないところから、問題は二重に解きがたくなっている。
同様のことは、歴史に限らず、『無常といふ事』の全体を通していえることだというのが樫原の理解である。小林の文章の難解さを吉田熈生は「文体の問題」に帰したのに対して、樫原は、意味から切り離されたところの文体などというものに求めてはならないと主張している。そして小林の文章は、一見平明な論理をたどりつつ、常識に逆らう冥(くら)いものを表現しているとみる。その意味で中村光夫の「合理的手段以外に表現の技術を知らぬミスチック」という把握は至当の言だと考えている(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、206頁~207頁)。

【樫原修『小林秀雄 批評という方法』はこちらから】

小林秀雄 批評という方法

ところで、『無常といふ事』の諸篇は、古典を生き生きと現代に蘇らせた鮮明な論として注目された。中でも「当麻(たいま)」では、「無用な諸観念の跳梁」する近代と対照して、乱世といわれる室町時代を「現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑はなかつたあの健全な時代」と呼んでいるが、これが小林の中世像の基調となっている。そこに、それぞれの中世人の生と文学の形が描かれているとした。
また小林の描いた実朝像は、対象の実像の鮮明といったことからは遠いものであり、小林の描いた中世像は、小林の反近代の志向が生んだ幻像であるとするのが、一般の傾向であると樫原はみている(樫原、2002年、199頁~201頁)。

小林の得た歴史の方法として、有名だが誤解された部分として、次のような箇所がある。
「子供が死んだといふ歴史上の一事件の掛替への無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい」
小林はここで、「生き物が生き物を求める欲望に根ざす」本来の歴史発生の場に居つづける母親の智慧について悟り、それを自己の方法とするといっている。
「客観的」な歴史観に対立する主観的歴史観を提出しているわけではないと樫原はみる(樫原、2002年、231頁~239頁)。

国立国語研究所室長をへて、早稲田大学の教授でもあった中村明の『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)でも指摘しているように、小林秀雄独特の修辞が用いられている点は注意しておいてよい。
たとえば、「ゴッホの手紙」(昭和26~27年)において、
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない。」
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。」
これらは反復否定で、「~ではない」と一度打ち消したあと、「決して~ではない」「絶えて~ない」と強く念を押し、強調的に駄目を押す文の展開である。これは批評家小林秀雄が多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞であるが、小林は恐れずに用いていると中村明は解説している。
また極言は、人を驚かす内容にふさわしい形式であるともいう。たとえば、「当麻」で、世阿弥の美論に言及した際には、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という表現がこれに相当する(小林、1969年、252頁。新潮社編、2007年、106頁)
これは「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものといわれる。小林という批評家は、こうした方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されるべきだと中村は説く。強調すべき点の見定めに、小林は天才的な冴えを示す批評家であったというのである(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)。

【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)

小林秀雄とツキジデスの歴史に対する見方の根本的相違について


西村貞二は、小林秀雄の批評を皮肉って、アテネの歴史家ツキジデスを例に出して、次のように記している。
「歴史は神話である。史料の物質性によって多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」(『ドストエフスキイの生活(序)』)なんて聞いたら、トゥーキュディデスは吹き出すかもしれない。」
「歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知してゐるところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ」なんて聞いたら、トゥーキュディデスは呆れるだろう。」と。
つまり、「歴史は神話である」という小林秀雄の言い方をもしツキジデスが聞いたら、吹き出し呆れるというのだ。というのは、ツキジデスは、神話・伝承と事実を峻別することが歴史の始まりであると主張したからである(西村、1994年、172頁~173頁)。
樫原も指摘しているように、小林の歴史観について探ろうとすると、困難な問題が存在する。つまり「彼は<歴史>について、核心の部分ではいつも、曖昧とさえいえるような含みの多いいい方をするのだし、明瞭な歴史観を再構成しようとすると、互いに矛盾するようにみえる言葉が存在するのである。その点で、小林の<歴史>は、まだ十分に明らかにはされていないと思われる。」(樫原、2002年、159頁)。

また、小林秀雄は西村の文章に対しては、厳しかったようである。間延びした拙劣な文章を書いた西村に対して、「あゝいふ短文ででもカッチリしたものを書かうと心掛けてゐないと文章はいつまで経つても上手にならないものである。(中略)つまらぬ短文ででも文章を作る覚悟をしてゐなければ、文章上達の機を逸して了ふ」と手紙を送っている(西村、1994年、140頁)。
小林の歴史観には問題があったものの、文章に対する姿勢には当代随一の評論家らしく、従弟に対してまで厳しかったことがわかろう。

【補足】文章を書くということ~高田宏『エッセーの書き方』 より


井上ひさしの『自家製文章読本』にも「冒頭と結尾」という一章があって、井上はここで、
「文章とは、冒頭から結尾にいたる時間の展開である」ことを語っている。
ここにいう結尾というのは、結論という大袈裟なことではなくて、ただの終わりのことである。重点は冒頭のほうにある。
井上が引用している時枝誠記(ときえだもとき)の一行を引用しておく。つまり、国語学者・時枝誠記の『日本文法・文語篇』のなかの一行である。
「文章は、冒頭文の分裂、細叙、説明等の形において展開するので、冒頭文の展開の必然性を辿ることは、正しい文章体験の基礎である。」
いかにも学者らしい堅苦しい書き方だが、ここにも最初の一行が分裂し展開してゆくことが語られている。
言葉が言葉を呼ぶのである。
そこには言葉の力、ひろい意味の論理がはたらく。文章を書くということは、その展開の必然性を辿ることであると、高田宏は主張している。
(高田宏『エッセーの書き方』講談社現代新書、1984年[1988年版]、25頁)

【補足】書くということ~谷崎潤一郎の『文章読本』のハイライト


似たようなことを、谷崎潤一郎が自分の体験から語っている。
谷崎の『文章読本』のなかで、少々遠慮がちに言っているが、ここが谷崎読本のハイライトであるといわれている。
最適な言葉をえらぶという話を書いたあとに、こう書いている。
「然(しか)らば、或る一つの場合に、一つの言葉が他の言葉よりも適切であると云うことを、何に依って定めるかと申しますのに、これがむずかしいのであります。第一にそれは、自分の頭の中にある思想に、最も正確に当て嵌(は)まったものでなければなりません。
しかしながら、最初に思想があって然る後に言葉が見出だされると云う順序であれば好都合でありますけれども、実際はそうと限りません。その反対に、まず言葉があって、然る後にその言葉に当て嵌まるように思想を纏(まと)める、言葉の力で思想が引き出される、と云うこともあるのであります。一体、学者が学理を論述するような場合は別として、普通の人は、自分の云おうと欲する事柄の正体が何であるか、自分でも明瞭には突き止めていないのが常であります。そうして実際には、或る美しい文字の組み合わせだとか、または快い語調だとか、そう云うものの方が先に頭に浮かんで来るので、試みにそれを使ってみると、従って筆が動き出し、知らず識らず一篇の文章が出来上る、即ち、最初に使った一つの言葉が、思想の方向を定めたり、文体や文の調子を支配するに至ると云う結果が、しばしば起るのであります。(中略)
私の青年時代の作に「麒麟(きりん)」と云う小篇がありますが、あれは実は、内容よりも「麒麟」と云う標題の文字の方が最初に頭にありました。そうしてその文字から空想が生じ、あゝ云う物語が発展したのでありました。ですから、一つの単語の力と云うものも甚だ偉大でありまして、古(いにしえ)の人が言葉に魂があると考え、言霊(ことだま)と名づけましたのもまことに無理はありません。これを現代語で申しますなら、言葉の魅力と云うことでありまして、言葉は一つ一つがそれ自身生き物であり、人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがあるのであります。」(谷崎潤一郎『文章読本』)

谷崎潤一郎の言うことに素直に耳を傾ける必要がある。その話が理屈に合っているかどうかなどとは考えず、言葉についての谷崎の作家としての体験をまるごと受け入れることが大切であると、高田は説いている。

谷崎は「言霊」ということまで言っている。言いかえれば、「言葉の魅力」「言葉の力」と言っている。
言葉には不思議な力がある。
高田によれば、その力を信じて原稿用紙に立ち向かうのが、書くということであるとする。
そのとき、一見偶然に使ったかに見える一つの言葉が、いつか必然になってくるものらしい。
(上記に引用したように、谷崎も「麒麟」という青年時代の作品を例に挙げている)

谷崎の言うように、書くこと、つまり言葉の力を信じて書くことは、新しい自分の発見でもあるようだ。自分には見えていなかった自分が、書くことによって姿をあらわしてくる。その自己発見のよろこびが、書くという行為にはともなっていると、高田はいう。
(高田宏『エッセーの書き方』講談社現代新書、1984年[1988年版]、25頁~29頁)

【高田宏『エッセーの書き方』はこちらから】

エッセーの書き方 (講談社現代新書 (743))


≪粟津則雄の小林秀雄論 その2≫

2021-06-14 18:24:42 | 文章について

【はじめに】


今回のブログも、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
 今回は、小林秀雄の『モオツァルト』、バルザック論、ドストエフスキー論、ラスコーリニコフとムイシュキンを中心に述べてみたい。



【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)




粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
初期創作の意味
ボードレールとランボオ
批評の自覚
志賀直哉論
批評の展開
心理と倫理
「私」の解体
『私小説論』の位置
『ドストエフスキイの生活』
ラスコーリニコフとムイシュキン
意識と世界
悪の問題
批評の成熟
歴史と生
文学の社会性
戦争と文学
事実の思想
『無常といふ事』
倫理と無垢
『モオツァルト』
『ゴッホの手紙』
『近代絵画』
『本居宣長』
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林の『モオツァルト』論に対する粟津の解釈
・小林秀雄のバルザック論
・小林秀雄のドストエフスキー論~ロシヤと日本の社会と思想界
・ラスコーリニコフとムイシュキン
・小林秀雄の批評の信条






小林の『モオツァルト』論に対する粟津の解釈


小林は、「モオツァルトの音楽の深さと彼の手紙の浅薄さとの異様な対照」という問題について、次のように述べている。
「成る程、モオツァルトには、心の底を吐露する様な友は一人もいなかつたのは確かだらうが、若し、心の底などといふものが、そもそもモオツァルトにはなかつたとしたら、どういふ事になるか。(中略)彼は、手紙で、恐らく何一つ隠してはゐまい。不器用さは隠すといふ事ではあるまい。要はこの自己告白の不能者から、どんな知己も大した事を引出し得まいといふ事だ」

モオツァルトは、不思議な孤独をかかえていたとする。つまり、閉じることによってではなく開くことによって、他人に対して鎧うことによってではなくいかなる鎧もつけえぬことによって孤独であるような孤独。つねにおのれの全身をわれわれにさらしていながらわれわれを超えた謎であるような孤独。
このように、粟津は説明している。そして、この孤独こそ、小林が『モオツァルト』で、渾身の力をもって描きあげようとしたものであったと、粟津は理解している。

『モオツァルト』の第一稿が書き始められたのは、昭和18年末から昭和19年6月に至る中国旅行中であるといわれる。(新潮社版全集の吉田熙生の解題による)
つまり、『実朝』執筆に続く時期であることに粟津は注目する。そして、『モオツァルト』には、実朝でとりあげた主題をさらに純化拡大したようなところがあるという。

『実朝』のなかで、小林は、実朝について、次のように語っていた。
「奇怪な世相が、彼を苦しめ不安にし、不安は、彼が持つて生れた精妙な音楽のうちに、すばやく捕へられ、地獄の火の上に、涼しげにたゆたふ」と。

また、実朝と西行について、次のように語る。
「成る程、西行と実朝とは、大変趣の違つた歌を詠んだが、ともに非凡な歌才に恵まれ乍ら、これに執着せず拘泥せず、これを特権化せず、周囲の騒擾を透して遠い地鳴りの様な歴史の足音を常に感じてゐたところに思ひ至ると、二人の間には切れぬ縁がある様に思ふのである。二人は、厭人や独断により、世間に対して孤独だつたのではなく、言はば日常の自分自身に対して孤独だつた様な魂から歌を生んだ稀有な歌人であつた」と。

小林は、実朝や西行のうちに、このような孤独を見定めた。
小林は、『モオツァルト』のなかで、「モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)といふものだ」というスタンダールの評言や、ゲオンの「tristesse allante」という評言に共感を示している。
そして、次のように語る。
「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。(中略)まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせつてもゐないし急いでもゐない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺つてゐないだけだ。彼は悲しんではゐない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのまゝの命であり、でつち上げた孤独に伴ふ嘲笑や皮肉の影さへない」と。

『実朝』から『モオツァルト』へという道は、小林にとっては、ごく自然な純化の道であったようだ。
小林は、『西行』『実朝』『モオツァルト』という順序で書いていった。
この順序は、孤独がついに言葉から離れ去るにいたる順序であると、粟津は捉えている。ここに小林の孤独の観念の特質を見てとる。
小林がこのような順序をとったのは、ひとつには、イデオロギーに対する激しい嫌悪のせいであるようだ。そして、「十九世紀の文学が、充分に注入した毒に当つた告白病者、反省病者、心理解剖病者等」に対する激しい嫌悪のせいであった。
こういったことに対する嫌悪が、また否応ない歴史の流れのなかで、小林が味わっていた孤独が、小林の孤独の観念を、モーツァルトの孤独にまで純化拡大することを要求したと、粟津はいう。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、369頁~374頁)

小林秀雄のバルザック論


小林秀雄は、『私小説について』(昭和8年10月)および『文学界の混乱』8昭和9年1月)において、私小説を論じている。

久米正雄は、次のような意味のことばを残した。
芸術は、真の意味で別の人生の「創造」ではなくせいぜいその人びとの踏んできた一人生の「再現」としか思われない、バルザックの大小説も結局作りものとしか思われず彼が制作の苦痛を語った片言隻語ほども信用が置けぬ。

この久米のことばを引いて、小林は記す。
「極く普通に読めば、かういふ考へ方は自然主義の影響がいかにも強く現れてゐるので、一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術であるといふ明瞭な意識を、わが国の作家は今日に至つてはじめて持つたのである」

つまり、故郷を失い、青春をも失ったという、そのことが、人びとに、こういう明瞭な自覚や意識を持つことを可能にした。
小林は、このような自覚や意識にもとづいて、次のように断言する。
「バルザックの小説はまさしく拵へものであり、拵へものであるからこそ制作苦心に就いての彼自身の隻語より真実であり、見事なのだ。そして又彼は自分自身を完全に征服し棄て切れたからこそ拵へものの裡に生きる道を見つけ出したのである」

小林は人びとにこのような自覚や意識を強いた重要な契機として、マルクス主義の到来をあげている。粟津は、この点に着目している。
小林は、その登場以来、当面の敵として、マルクス主義文学の抽象性と観念性とを、終始一貫して攻撃し続けてきた。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、148頁~149頁)

小林は、「文学は絵空ごとか」(昭和5年9月)において、正宗白鳥とバルザックとドストエフスキーについて、次のように論じている。
「若し散文的精神といふものが、言語上の観念美は勿論の事、世のあらゆる造型美に誑かされない精神を指すとすれば、正宗氏の精神は正しく生れ乍らの散文精神である。氏は深刻な雑文家である。ドストエフスキイとかバルザックとかの、普通の小説概念では律し切れない茫漠たる小説家には、この深刻な雑文精神が見られる。正宗氏は恐らく生れ乍らの最も散文的な小説家だ、この点で、現在の作家の中で氏に最も近い作家は、人々は奇妙に思ふかも知れないが、私は宇野浩二氏だと思つてゐる」

小林は、正宗白鳥の「深刻な散文精神」のうちに、ある解放を味わっているようだ。
(そこにおのれの批評性がもっとものびやかに吸収しうる場所を見出していると、粟津は見ている)
白鳥の「散文精神」は、ドストエフスキーやバルザックのうちに見られるものとつらなっている。つまり、小林は、大正期の作家のひとりである正宗白鳥の「散文精神」のうちに、ドストエフスキーやバルザックと直接つながる契機を見てとっている。
(ただ、白鳥は、これらの大作家たちのように、巨大なロマネスクを編みあげはしなかったのだが)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、116頁~117頁)

小林秀雄のドストエフスキー論~ロシヤと日本の社会と思想界


小林の『ドストエフスキイの生活』の重要な特色として、ドストエフスキーの生きた社会がはらむ「矛盾」に強い光をあてている点を、粟津は指摘している。

「理想と現実との大きなひらきの為に、西欧の浪漫主義はロシヤの文学界に鮮やかな姿をとつて実現されなかつたのみならず、当然複雑な混乱を巻き起した。だが、当時やうやく貴族階級の手を離れて、職業化しはじめたロシヤの文学に生気を与へたものは、又この混乱に外ならなかつたのである。ロシヤの社会が浪漫派文学を生んだのでも、受け入れたのでもなく、西欧の浪漫派文学の輸入によつて、ロシヤに文壇といふ一社会がはじめて出来上つたのだ、と、やや逆説的だが言ふ事が出来るだらう」と小林はいう。

ロシヤが19世紀を通じて苦しまなければならなかった独特の矛盾として、次のものを挙げている。
〇ブルジョアジイの発達にとって、君主政体のみならず君主独裁すら必要とする矛盾
〇皇帝の独裁を甘受せざるを得なかった当時の薄弱な工業資本主義も、その市場の獲得とともに、産業の組織に必須なインテリゲンチャを必要とした
〇ロシヤのインテリゲンチャの頭脳にまず棲息したものが、西欧の革命的ブルジョアジイの夢であった
〇ロシヤのインテリゲンチャが、西欧派と国粋派の両派に分れて論戦をした時、ナロオドという農民の姿があった

この農民の姿とインテリゲンチャとの関係について、小林は次のように記す。
「尚インテリゲンチャは足許にナロオドといふ深淵を感じて思索する不安を無くする事は出来なかつた。この不安は、ロシヤ十九世紀思想家等に独特なものであり、彼等の天才と偉大と悲惨との心理的苗床であつた。彼等は遂に西欧の十九世紀思想家等の抱いた知識に対する教養に対する毅然たる自信を獲得する事は出来なかつた。自分達の知識や修養は借り物である、ナロオドの土地から育つたものではない、といふ意識が絶えず彼等を苦しめたのだ」

この小林の叙述は、19世紀ロシヤの社会や思想界ではなく、20世紀日本の社会や思想界であるような錯覚を覚えると、粟津はいう。
(もちろん細部においてはちがいがあると断りつつ)

〇皇帝の独裁と工業資本主義との結びつきは、天皇制と明治の資本主義との結びつきに通じる
〇西欧の浪漫主義文学の輸入によってはじめて文壇という一社会が出来たという指摘について、浪漫主義文学に自然主義文学を付け加えれば、日本に適用しても、見当外れでない
〇ナロオドのかげにおびえ、おのれの思考の架空性に苦しむ西欧派と国粋派の対立も、日本における西欧派と国粋派の対立に(さらに「ブルジョア文学者」と「プロレタリア文学者」の対立に)あてはめることができる

なお、小林は、『私小説論』において、明治にいたるまで持続した文学伝統が、西欧文学を輸入するに当たって、いかに独特の変形を行ったかを、精到に分析している。
そして、日本独特の事情と、19世紀中ばのロシヤの若い作家たちが直面したものとのちがいについて、小林は次のように記す。
「新しい思想を育てる地盤がなくても、人々は新しい思想に酔ふ事は出来る。ロシヤの十九世紀半ばに於ける若い作家達は、みな殆ど気狂ひ染みた身振りでこれを行つたのである。併し、わが国の作家達はこれを行はなかつた。行へなかつたのではない、行ふ必要を認めなかつたのだ。彼等は西欧の思想を育てる充分な社会条件を持つてゐなかつたが、その代りロシヤなどとは比較にならない長く強い文学の伝統を持つてゐた」

ただ、日本の場合、このような事態を生み出した文学の伝統は、急激な近代化を通して解体し四散した。もはやそれは「育つ力のない外来思想」を平然と無視しうるほどの力を持たなかった。ただ、その外来思想は、新たなる伝統を形作るには程遠かった。こうして、混乱そのものが社会の特質となったとする。

一方、ロシヤの場合も、19世紀中葉のロシヤ社会の混乱が、混乱そのもののもっとも純化されたありようとして、なまなましくよみがりえた。このような混乱のなかで生きたロシヤの作家が、当時の小林にも緊急の問題となりえた。

小林は、『ドストエフスキイの生活』のなかの『作家の日記』を論じた章で、ドストエフスキーとフローベルを比較して次のように記す。
「フロオベルに孤独なクロワッセが信じられたのも、己れの抱懐した広い意味での教養に、衆愚を睥睨する象徴的価値が信じられたが為だ。併しドストエフスキイには、信ずるに足るクロワッセの書斎がなかつた。ロシヤの混乱を首を出して眺める窓が彼にはなかつた」

この点、粟津はコメントしている。
信ずるに足る書斎も、社会の混乱を首を出して眺める窓も持たぬ点は、ドストエフスキーも小林も同様であっただろう。小林もまた、文芸時評における伝統の欠如というかたちで、このことを思い知らされていたはずだろう。
小林にとって、ドストエフスキーとは、どんな人物であったのか。
にわか普請の書斎や抽象的な窓を作ることなく、むしろ進んで混乱のなかに身を横たえ、混乱をおのれの特権と化したような人物として、映ったようである。

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、180頁~183頁)

ラスコーリニコフとムイシュキン



「人生の門出に際して、ムイシュキンは、その清らかな視力、無垢な生命感を、どう取扱ふべきかを知つてゐない。併し作者にはそれで充分だつた。それだけで既に充分に晴朗なものであり、同時に威嚇的なものと見えたに違ひない。凡そ人間的可能性を剝奪されたともみえるムイシュキンの極度の無抵抗性の上に、無気味な独特な人間観照の世界が自ら開けて行く様を見給へ。人々は彼を白痴と呼びながら、知らず識らずのうちに、この世界に足をとられる。ムイシュキンは己れの善良の故に亡びるのだが、人々の平安は又ムイシュキン故に、破れるのである」
と小林は記す。

ラスコーリニコフは、その孤独を抱いてシベリヤにまで追いやられたのに対して、ムイシュキンの孤独は、その「清らかな視力」と「無垢な生命感」をもって、人びとのなかに立ち戻る。
しかし、ムイシュキンの孤独が、人びとと融和するに至ったということではなく、ムイシュキンもまた、ラスコーリニコフと同様、人びとのあいだにあって充分に孤独である。
ただ、ムイシュキンには、ラスコーリニコフにはまだあったような、人びとを拒むという動機が、最初から欠けていた。つまり、ムイシュキンは、彼をとりまく人びとをそのままに受け入れながら、充分に孤独であった。

ラスコーリニコフが、殺人という架空の行為やソーニャとの出会いを通して、孤独をわがものとしたのに対して、ムイシュキンの孤独は、そのまま日常感になっている。そのために、ムイシュキンの孤独は、一見いかにも日常的でありながら、魔的である。

小林は、『白痴』を、「一種の比類ない恋愛小説」と評した。
ドストエフスキーが描いた奇妙な恋愛関係を次のように分析した。
「三人の男女はムイシュキン無しには生きてゐない。彼等はムイシュキンといふ不可解な男を糧としてわづかに生を享けてゐる。而もムイシュキンには人々に働きかける能力が全くかけてゐる。彼等はムイシュキンの極端な無抵抗性のうちに、自分等の姿を、自ら限定せざるを得ない。彼等にとつてムイシュキンは空気の様に無色であり必須である。四人の関係に、恋愛関係、いや人間関係とすら言ひ切れぬものの存するのは、この関係を宰領するムイシュキンの言はば魔性によるのだが、彼自身、自分の魔性を、明らかに意識してはゐない」

この小林のことばは、この恋愛関係の特質を簡潔に要約している。
そして、さらに記す。
「彼らの演ずるものは、外見はどう見えようとも、恋愛劇でも心理劇でもない、悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何の責任も持たない。言行に責任を持たぬ人間等の手によつて凡そ劇は出来上らないのである。繰り拡げられるのはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」

この小林のことばは、『白痴』という作品の見事な分析である。
そればかりではないと粟津はみている。
ラスコーリニコフの孤独にその身を重ねあわせた小林の批評意識が、ムイシュキンを通して、その批評意識の新たな、危機をはらんだ相を確認しているという。

小林はまた記す。
「ムイシュキンは常に不安であるが、これは殆ど不安な意識とさへ呼び難いもので、彼が不断に人前に曝してゐるものは、言はば生れたばかりの命の動揺であり不均衡である」
このような小林のことばから、小林が批評に際して、ムイシュキンのように、対象の前でおのれが、「生れたばかりの命の動揺」や「不均衡」と化するのを覚えたのではないかと、粟津は推察している。そして、ムイシュキンをこのような姿にまで追いつめたドストエフスキーの歩みが、小林自身の批評の歩みの背後でなまなましく響いていたとする。
いわば、小林は、ラスコーリニコフとムイシュキンとのうちに、小林自身の批評の危機にあふれた両極を見たという。そして、ドストエフスキーが、この二人の人物を、ある感覚や予覚と化しながらその生の精髄を描き出したことのうちに、小林自身の批評の可能性を見たとする。

小林は、『白痴』論の冒頭で、ドストエフスキーの作家的特質について語っている。ドストエフスキーが「何を置いても深刻な生活人」であり、「その表現とは、その生活情熱の分析に他ならなかつた」と小林は記す。

そして、フロベールとドストエフスキーとを比較して、次のように正確な指摘をしている。
「例へば、フロオベルの様な何を置いても冷酷な観察家であつた人が、若しドストエフスキイの様な絶望的な境遇にあつて制作を強ひられたなら、自分の仕事を守るために専ら境遇と戦つたであらう」

そしてドストエフスキーの場合は、
「絶望的な境遇を彼がいかに嘆かうが、実際には境遇は彼の仕事にかけがへのない内容を提供してゐるのである。動かし難い必要物と化してゐるのだ。こゝからフロオベルの均整のとれた静観的リアリズムとは凡そ反対な荒々しい実践的な彼のリアリズムは発してゐる」
ドストエフスキーとフロベールのリアリズムに関して、荒々しい実践的なリアリズムと、均整のとれた静観的なリアリズムを対比して捉え、ドストエフスキーの場合、絶望的な境遇がその小説の内容を提供したという。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、217頁~219頁)

小林秀雄の批評の信条について


「重要なのは思想ではない。思想がある個性のうちでどういふ具合に生きるかといふ事だ」と小林は記す。
これは、批評家として出発した当初からの小林の批評の信条にほかならなかったと、粟津は捉えている。
この信条を、ラスコーリニコフという危険な存在を通して確かめることに、『罪と罰』論における小林の批評的冒険があったとする。


老婆殺しを犯した大学生ラスコーリニコフは、反逆児だが、19世紀文学がばらまいたどの反逆児にも似ていないと小林は言う。
「彼は飽くまでも見すぼらしい。どういふ意味ででも彼を理想化する余地はないのだ。彼が好んでかぶるニヒリスト、乃至はマニヤックの仮面も、その効用を彼に説く力はない。むごたらしい自己解剖が彼を目茶々々にしてゐる」という。
そしてこの奇妙な反逆児にとっての、この事件の空想性、架空性を精妙に分析している。

小林は、『罪と罰』という作品の内部に閉じこもり、次のようなラスコーリニコフ像を描いている。
ラスコーリニコフとは、「自分の行動が確然たる自分の思索の結果である事を、はつきり知つてゐる一方、自分が行動に引摺られる単なる弱虫である事もはつきり知つてゐる」といった男である。
(小林は、こういう男が「どの様な身振り」で老婆を殺すかということについて、眼をこらした)

小林は、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの孤独の独創性に注目した。
(J.M.マリーは、ラスコーリニコフのあいまいさと不徹底とを見た。ラスコーリニコフの行為の架空性に飽き足りず、「寧ろスヴィドリガイロフにこの小説の真の主人公、この作者の真に新しい言葉を見付け出さう」としたと、小林自身も触れている)

ラスコーリニコフにとって、「孤独はあらゆる意味で人生観ではない、人生にのぞむ或る態度たる意味はない。彼は孤独の化身なのである」と小林は言う。
「彼は自分の孤独をどういふ意味ででも観念的に限定してゐないのである。彼にとつて孤独とは『啞で聾なある精神』だ。彼は孤を抱いてうろつく。そして現実が傍若無人にこの中を横行するに委せるのだ。彼はたゞこれに堪へ忍ぶ」という。

このような小林の評言は、のちに書く『実朝』や『西行』のなかにあっても、さしつかえないようなものであると、粟津は理解している。
つまり、小林が、その後の文章のつねに変わらぬ主調音となった感のある「孤独」という観念を、ラスコーリニコフの孤独を通して確認したように思われるという。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、204頁~209頁)



≪粟津則雄の小林秀雄論 その1≫

2021-06-13 18:34:11 | 文章について
≪粟津則雄の小林秀雄論 その1≫
(2021年6月13日投稿)

【はじめに】


 今回と次回のブログでは、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
 今回は、小林の批評や歴史観の特色、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』および本居宣長論などを中心に述べてみたい。
 


【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)




粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
初期創作の意味
ボードレールとランボオ
批評の自覚
志賀直哉論
批評の展開
心理と倫理
「私」の解体
『私小説論』の位置
『ドストエフスキイの生活』
ラスコーリニコフとムイシュキン
意識と世界
悪の問題
批評の成熟
歴史と生
文学の社会性
戦争と文学
事実の思想
『無常といふ事』
倫理と無垢
『モオツァルト』
『ゴッホの手紙』
『近代絵画』
『本居宣長』
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・粟津則雄の著作について
・小林の批評 「批評の展開」「批評の成熟」より
・小林秀雄の歴史観 
・美しい『花』と『花』の美しさ
・「倫理と無垢」
・小林秀雄の『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』
・小林秀雄の本居宣長論
・宣長の『源氏』論と『古事記伝』







粟津則雄の著作について


「あとがき」にあるように、若年期の粟津則雄にとって、小林秀雄は、「決定的な意味を持った文学者」であったようだ。
戦争中、中学生の頃に読んだランボオについての翻訳と評論や『ドストエフスキイの生活』に接して以来、この批評家の強い魅力の渦中に引きこまれたという。
粟津則雄の『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)という著作は、粟津が雑誌「海」の昭和53年4月号から昭和55年12月号まで、25回にわたって連載したものである。小林秀雄の伝記的部分への言及は、必要最少限にとどめ、能うかぎり、小林秀雄の作品そのものに即しながら、その思考の展開を跡づけたという。

そこには、さまざまな事件や問題に対する小林の分析や判断が見てとれるようだ。小林の時代的限界や、その思考の歪みをあげつらうことはせず、この批評家の仕事のあるがままの姿を見定めようとしたという。
(わが国の近代文芸批評がはらむ深い不幸や宿命を粟津は痛感しているが、小林の仕事との苦い対話を重ねることによって、この不幸を乗りこえる必要性を、粟津は説いている)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、452頁~456頁)

小林の批評 「批評の展開」「批評の成熟」より


粟津による小林秀雄像としては、一方では、「理智の極端な速度」の持主であり、「知的倦怠」を嚙み続けてきた人物であり、今一方では、その意識を「生活欲情」と結びつけずにはおかぬ「生ま生ましくド強(ぎつ)い眼」の持主でもあったといえる。
このように、一見両立しがたい、このふたつの特質が共存していたようだ。
小林は、この両者を、ともにおのれの精神の機能として受け入れた。単なる共存であったものを、鋭く緊迫した精神の劇にまで高め、このような諸機能の全体的な活動のうちに、おのれの個性を現前させようとした。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、115頁~116頁)

小林の批評は、次の二つの柱を展開しているとされる。
〇無秩序で混沌とした現実のありようの無私な受容
〇そういう現実に耐える「思想」

小林にとって、「読者」や「大衆」は「思想」の体現者といってもいい。
(両刃の剣とも化すのだが)

小林は、「純文学に新しい命を吹き込む」手段として、純文学が「健全な物語性、通俗性を取返す」べきだと主張している。
また、「小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいといふ、実に通俗な人情に、その源を置いてゐる。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去る事は出来ないのである」と述べている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、266頁~267頁、270頁)

小林は、『アシルと亀の子 Ⅰ』では、中河与一や大宅壮一の著書に、『アシルと亀の子 Ⅱ』では三木清の評論に、辛辣な論難を加えている。
これらの著書や評論が、その立場も方法も異なっているにもかかわらず、「虚無」に身を焼くこともなく、それゆえに個物としての人や作品を受け入れることもない、中途半端で観念的な代物という点で共通しているからである。

たとえば、中河与一の著書は、「形式の動的発展性図式」なるものを核として文学を形式の展開としてとらえたものらしい。小林の「虚無」は、「己れの芸術活動を、己れの他の活動と同一水準面に並列させて眺め始める事が出来ない様な自意識が、芸術理論を築かうとするのは無意味なわざだ」という評言として現われる。
(「虚無」にまでいたりつくことによって具体的な個物としての人や作品を受け入れるという小林の批評の構造とかかわってくると、粟津は捉えている)

『アシルと亀の子 Ⅱ』という評論には、「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」という、あまりにも有名になりすぎたことばがある。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、102頁~104頁)

小林秀雄の歴史観


小林は、歴史が新しい解釈などでびくともするものではないことを合点するに応じて、「歴史はいよいよ美しく感じられた」という。
ところで、森鷗外はその晩年の厖大な考証を始めることによって、「恐らくやつと歴史の魂に推参した」。『古事記伝』にこめられた「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という思想こそ、「宣長の抱いた一番強い思想」である。このように、小林は主張する。
そして、「解釈だらけの現代には一番秘められた思想である」という。

この点には、粟津は異論はない。しかし、このようなことを主張する小林には、『渋江抽斎』や『古事記伝』の作がなことが気にかかるという。粟津は、小林が史伝小説や古典註釈を行なうべきだったと、言っているのではない。鷗外や宣長にとっての『渋江抽斎』や『古事記伝』に相当するものは、小林にとっては『無常といふ事』という書物であったとは言い得ないとする。
この『無常といふ事』には、『渋江抽斎』や『古事記伝』のような書物で支えられることによって、はじめてのびやかに展開する思考を、それだけで虚空に浮かびあがらせているようなところがあると、粟津は評している。

小林にとって、歴史とは、「人間の生死に関する思想」から、さまざまな「夢」をぬぐい去り、『当麻』で叙述したような「単純な純粋な形」に収斂する場にほかならない。

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、337頁、341頁)

美しい『花』と『花』の美しさ


小林は、世阿弥の「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」ということばを引き、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」と言う。
これは、小林の思考を端的に示すことばとして有名になった。
(粟津によれば、これは『当麻』で述べた中将姫とルソーとの対照のヴァリエーションであるとする)

たしかに、「『花』の美しさという一般化が、人びとを現に在る「美しい『花』」から遠ざけるとは言いうる。物数を極め、工夫を尽すのは、そういう一般化から「美しい『花』」を救い出すための、必須の手段にほかならない。

ここで粟津は、次のように、解説している。
だからといって、「『花』の美しさ」を、現代の美学者がもてあそぶ一般概念に解消してしまうのは、「美しい『花』」そのものを、痩せた、孤立した存在としてしまうことになりかねないと。

かつてマラルメは語った。
「私が『花』と言う。すると、現実のどんな花束でもないような純粋な花の観念そのものが、音楽的に立ちのぼる」と。
粟津は言う。
この「花」も、まさしく「美しい『花』」であるが、「『花』の美しさ」は、ここでは、「美しい『花』」を支える要素にほかならない。それはたしかに、「美しい『花』」を消し去りかねないが、そういう危うい性質を通して、「美しい『花』」に、充実した豊かさを与える。

一方、小林は、世阿弥が言いたいのは、「肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙も深淵だから」ということだと言う。
世阿弥の思想としてはそう言いうるだろうが、それを、小林のように、われわれすべてがとるべき態度となしうるかどうかは、粟津は疑問とする。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、345頁)

「倫理と無垢」



評論集『無常といふ事』には、『当麻』と『無常といふ事』のほかに、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』という四篇のエッセーがおさめられている。執筆はこの順序になっている。このような対象を選び、こういう順序で書いたということは、小林秀雄の批評の質と構造を端的に示していると、粟津は考えている。
(『無常といふ事』は、「文学界」(昭和17年6月号)に、『平家物語』は翌月の「文学界」に発表された)

『無常といふ事』の末尾で、
「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である」という。
こうした言い方のなかに、小林の姿勢をはっきりと見てとることができる。

そして、『平家物語』は、「無常」のなかで生きる人びとの生そのものを見定めようとした試みであったという。この平家物語論においても、「平家のあの冒頭の今様風の哀調」を、人びとにとってのつまずきの石であるとする。
そこには、平家の作者の思想や人生観がこめられているにはちがいないが、平家の作者は優れた思想家ではない点が肝腎だと指摘する。そして、作者を動かし導いたものは、叙事詩人の伝統的な魂であったと、小林は主張する。
(平家の作者が優れた思想家ではなく、「たゞ当時の知識人として月並みな口を利いてゐたに過ぎない」という。もちろん、この点には、異論もある)

このとき、小林は、平家物語に関する観念的解釈を乗りこえようとしていたようだ。小林の動機の一つには、ある史観によって過去を再構成しようとする志向に対する嫌悪があったといわれる。

「平家の哀調」は、仏教思想などに由来するものではなく、「この作の叙事詩としての驚くべき純粋さ」から来ると小林はいう。つまり「平家の作者達の厭人も厭世もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如きは、時代の果敢ない意匠に過ぎぬ」とする。無常の思想が、「時代の果敢ない意匠」にすぎない、「厭人も厭世もない詩魂」は、さまざまな思想が次々と脱落していったのちに現われ出るものであった。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~348頁)

粟津則雄は、「心理と倫理」において、「無垢」な「私」という観念は、小林の仕事のなかで、さまざまに転調しながら、独特の成長をとげると述べている。
たとえば、ドストエフスキーに関する仕事においても、もっとも本質的な観念としてそれが見られる。
また、『無常といふ事』や『モオツァルト』において、それが美しい結晶を示す。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、131頁)

小林秀雄の『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』


小林は、思想を超えたものを、思想に迷いこむことによってではなく、思想から醒めることによって見ようとする。
平家の作者の思想は当時の知識人の常識であり、無常の思想は「時代の果敢ない意匠」にすぎぬというような言い方は、そういったことの現われであると、粟津はみる。

『平家物語』に続いて、翌8月号の「文学界」には、『徒然草』が発表される。
このエッセーで小林が描き出している兼好には、小宰相が見たような自然を見てしまった批評家とでも言いたいようなところがあるという。小林は、このエッセーの冒頭で、兼好にとっての「つれづれ」ということばの意味について触れている。このことばのなかに、兼好ほど辛辣な意味を見出した者は、兼好以前にも以後にもなかったとする。

小林によれば、「兼好にとつて徒然とは『紛るゝ方無く、唯独り在る』幸福並びに不幸」であった。そして、そのような徒然に身を置いた兼好のうちに、何かを書いたところで心が紛れるわけではなく、「紛れるどころか、眼が冴えかへつて、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さ」を見てとっている。

このことは、当時の小林にとっての批評が置かれた場所を端的に示していると、粟津は捉えている。小林にとっての批評の辛さは、彼があらゆる物の根底にあの自然を見てしまうという、まさしくその点から発しているとする。

あの自然を見た小宰相は、やがて「南無ととなふる声共に」海に身を沈める。一方、小林は、このような自然を心に抱きながら、なおも生き続けなければならない。
このような自然そのものから現に在る物を見返さねばならない。
それに際しての複雑な工夫、それが小林にとっての批評にほかならないと、粟津はいう。

小林が『徒然草』のなかの「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」という文章を引いて、兼好は「利き過ぎる腕と鈍い刀の必要を痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然
草の文体の精髄である」と評する。
このことは、さらには小林自身のことをいっているようだ。

『徒然草』に続いて、小林は『西行』を書き、次いで『実朝』を書く。
小林は、『平家物語』で「自然」を、『徒然草』で「批評」を主題とした。そして、西行と実朝という二人の歌人を通じて、小林の精神のもっとも本質的な構成要素である「倫理」と「無垢」という主題をとりあげた。

小林の西行論の特質は、この生得の歌人のうちに、内省的な一人の倫理家を見ているという点にある。つまり、生得の歌人とこういう倫理家とが、西行の歌の姿と調べのなかで、独特の均衡を作りあげているさまを、見定めようとしている点にある。

小林は、西行という存在の意味について、次のように述べている。
「平安末期の歌壇に、如何にして己れを知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあつたのではない。陰謀、戦乱、火災、饑饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた。彼の天賦の歌才が練つたものは、新しい粗金であつた。事もなげに古今の風体を装つたが、彼の行くところ、当時の血腥い風は吹いてゐるのであり、其処に、彼の内省が深く根を下してゐる(後略)」

これは、西行のもっとも深いところを的確にとらえた評言であると、粟津はみなしている。つまり、この評言は、小林自身の精神のありようをも、あざやかに照らし出しているという。
西行はこういう歌人であった。
そのような歌人でありえたのは、西行の内省が、ただおのれの内部だけに閉じた運動ではなく、おのれをこえたものによってつらぬかれ、突き動かされていたためであるようだ。

俊成や定家とくらべた場合、西行の歌のはらむ強い倫理性は直ちに見てとりうる。
そして、西行の倫理性もまた、いわば倫理をこえたものによって激しくゆり動かされた。内省が内省をこえようとし、倫理が倫理をこえようとする、そういう点に、小林は西行の歌が生れ出る立場を見ていた。(これは、小林自身の中心的な主題だった)

兼好の批評は、自然と倫理とをおのれのなかで、はげしく衝突させるところから生れたと小林は見ている。西行の歌もまた、同様の衝突を、その内的動機としていた。
小林の西行像は、「天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚はれぬ、自在で而も過たぬ、一種の生活法の体得者」という姿で描かれた。
烈しい内省がきわまるところに、ある自由と化する一点を目標とし、この一点を純粋なかたちで体現する存在が西行であったようだ。

このような小林の西行像について、粟津はコメントを付している。
内省と自由が結びつく一点に、性急に西行を現前させようとしているようなところが、小林にはあると、粟津はいう。
たとえば、西行の歌に、次のものがある。
「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」
これに対して、小林は次のように言う。
「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る鋭敏多感な人間を素直に想像してみれば、作者の自意識の偽らぬ形が見えて来る。西行とは、かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み、前人未到の境に分入つた人である」

この点、粟津は、「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る」ことと、「かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃」むこととを結ぶものが、気にかかるとする。
西行は、そのようにして前人未到の境に分け入ったにはちがいないが、西行がえた自由には、「やつかいな述懐」がはらんでいた生のざらついた雑駁な手触りを、あまりにも見事におのれのなかにとかしこみすぎているようなところがあるという。

小林は、『西行』の末尾で、次の有名な歌を引いている。
「風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな」
そして、小林は次のように述べている。
「一西行の苦しみは純化し、「読人知らず」の調べを奏でる。人々は、幾時とはなく、こゝに「富士見西行」の絵姿を想ひ描き、知らず知らずのうちに、めいめいの胸の嘆きを通はせる。西行は遂に自分の思想の行方を見定め得なかつた。併し、彼にしてみれば、それは、自分の肉体の行方ははつきりと見定めた事に他ならなかつた」

これは、西行の肉体もまた、そのあるがままの姿で、その自由のなかでの純粋なヴィジョンと化したと、粟津は解釈している。そのような西行のありようは、このまま小林の極点をなしているとする。

西行の歩みは、倫理がきわまるところ無垢に達したといえる。
若年期のランボオ論以来、小林の批評の中心にあった無垢という主題は、『西行』に続いて書かれた『実朝』において、そのもっとも純粋な表現を与えられたと、粟津はみている。

小林は、『実朝』の冒頭で、「僕等は西行と実朝とを、まるで違つた歌人の様に考へ勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである」と述べている。西行と実朝を結びつけているのは、倫理と無垢との美しい合体であった。
もちろん、そのあらわれようは、それぞれにおいて異なっている。
(この点、西行の場合、ラスコーリニコフを思わせるようなところがあり、実朝の場合、ムイシュキンを思わせるようなところがあると、粟津はみている。)

そして、西行も実朝も、その生や制作は、ある強い倫理的動機につらぬかれていて、たとえ彼らが、いかに新古今風の美学に近づいているように見えても、その歌の姿ははっきりと異なると付言している。
たとえば、実朝には、西行のように、ひたすらおのれに執した執拗な内省の動きは感じられないとする。「やつかいな述懐」にのめりこみながら、それを「歌の唯一の源泉と恃」むというようなところは見られない。

実朝の場合、その倫理性は、彼の感覚にとけこんでしまっているようにさえ見える。
小林は、実朝について、次のように述べている。
「頼家が殺された翌年、時政夫妻は実朝殺害を試みたが、成らなかつた。この事件を、当時十四歳の鋭敏な少年の心が、無傷で通り抜けたと考へるのは暢気過ぎるだらう。彼が、頼家の亡霊を見たのは、意外に早かつたかも知れぬ。(中略)さういふ僕等の常識では信じ難く、理解し難いところに、まさしく彼の精神生活の中心部があつた事、また、恐らく彼の歌の真の源泉があつた事を、努めて想像してみるのはよい事である」

そして、小林は、このような源泉から生れる実朝の歌について記す。たとえば、
「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめたまへ」の歌について、
「彼は、たゞ、『あめやめたまへ』と一心に念じたのであつて、現代歌人の万葉美学といふ様なものが、彼の念頭にあつた筈はない」という。
さらに「殊更に独創を狙つて、歌がこの様な姿になる筈もない。不思議は、たゞ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまゝ彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだらうか」という。

小林のこのような分析は、実朝の生と制作をつらぬく、無垢と倫理性との合体と、その独特のありようを、的確に示している。
実朝に世間一般の歌人に見られるような成熟は見られない。
小林は、西行について、「彼の歌は成熟するにつれて、いよいよ平明な、親しみ易いものとなり、世の動きに邪念なく随順した素朴な無名人達の嘆きを集めて純化した様なものとなつた」と評している。

実朝には、そのようなかたちでの成熟さえなかった。実朝のなかには、人生の時間は流れていなかったとさえ言えると、粟津はいう。何ひとつ拒むことなく、すべてを受け入れる実朝の無垢は、ランボオと同様、おのれを沈黙の状態において、おのれのうえを人生の時間を通過させただけだとも表現している。

そして、西行を論じた小林が、次いで実朝を論じたのも、よくわかるとする。
西行には、無垢と倫理性とのあいだの激しいドラマが見られたが、実朝には、それが消え、すべてがただあるがままに実朝のなかに流れこんでいる。ここには無垢の観念のひとつの極限がある。

次に、実朝の歌の鑑賞について、小林の記述を粟津は紹介している。
実朝の歌「大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも」について、小林は次のように言う。
「いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあつたといふより寧ろ彼の孤独が独創的だつたと言つた方がいゝ様に思ふ。自分の不幸を非常によく知つてゐたこの不幸な人間には、思ひあぐむ種はあり余る程あつた筈だ。これが、ある日悶々として波に見入つてゐた時の彼の心の嵐の形でないならば、たゞの洒落に過ぎまい」

もうひとつの歌
「うば玉ややみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」
この歌について、小林はいう。
「実に暗い歌であるにも拘らず、弱々しいものも陰気なものもなく、正直で純粋で殆ど何か爽やかなものさへ感じられる。暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌はうとする様な曖昧な不徹底な内省では、到底得る事の出来ぬ音楽が、こゝには鳴つてゐる」

これらの小林の鑑賞は、従来の通念を一挙に打ち破った精妙な鑑賞であると、粟津は評価している。鑑賞にともないがちな迂路に迷いこむことなく、また考証といった作業にのめりこむことなく、集中力をもって、ある中心へ向かっているという。
(それは実朝の中心であると同時に、小林自身の中心でもある。それは小林の批評に一貫する態度である)

ところで、小林は、『平家物語』『徒然草』『西行』について、その思考を推し進めてきた。
〇平家の作者における、無常の思想と厭人も厭世もない詩魂との結びつき
〇兼好に見られる「自然」と生の結びつき
〇西行に見られる無垢と倫理性との結びつき
そして、実朝にいたって、小林の思考はひとつの円を結び終ったように見えると、粟津は理解している。

小林は、実朝について、次のように記す。
「彼には、凡そ武装といふものがない。歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける。これに対し彼は何等の術策も空想せず、どの様な思想も案出しなかつた。さういふ人間には、恐らく観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ様な歴史の動きが感じられてゐたのではあるまいかとさへ考へる」

小林もまた、「歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける」のに耐えていた。そのことによって、観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ歴史の動きを感じていた。
それは、小林が『実朝』で、実朝と彼をとりまく社会との微妙な交感について、精妙な分析を行っていることからもうかがいとれると、粟津はいう。
小林の場合、このようにして、歴史の動きを感じとることが、歴史をあまりに内面化することとなった。小林としては、このようなかたちで、おのれを純化するほかなかったようだ。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~360頁)



小林秀雄の本居宣長論


小林秀雄は、昭和40年の6月号から、雑誌「新潮」に『本居宣長』の連載を始めている。
それ以前、小林は、昭和33年から5年にわたって、ベルクソンの思想を綿密に分析していた。

小林は、ベルクソン批評になおもつきまとう合理的分析の作業を、宣長を論ずることによって、さらに乗りこえようとしたと、粟津は捉えている。
ベルクソンを論ずるにあたって、その遺書から小林は始めているが、同様に、宣長論でもまず宣長の墓と遺言書について語っている。粟津はこの点に注意を促している。

宣長は、遺言書のなかで、墓の作りを図解入りで綿密に指定し、おのれの葬式、法事、墓参についても事こまかに指図している。小林は、この遺言書が宣長の「人柄を知る上での好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言ひたい趣きのもの」であるという。

そして、そのような宣長を「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家」と小林はみた。宣長にとって、遺言書は、その思考の徹底がおのずから生み出したものであったようだ。だから、「遺言書と言ふよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」と小林は記している。
この点、粟津は次のように解釈している。
死に対する宣長のこのような姿勢には、宣長自身に対する小林秀雄の姿勢と微妙に対応するところがある。小林は、宣長を論ずるに当って、死に対する宣長の姿勢を模倣することで始めたと解している。そして、宣長論は、小林自身の遺言書といった色合いを帯びると、粟津はみる。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、421頁~428頁)

小林は、宣長の思想の具体的な分析に入るに先立って、契沖、藤樹、仁斎、徂徠といった国学者や儒家について語っている。
小林が目指しているのは、思想史的な影響関係の解明でなく、彼らの肉声に耳をかたむけることである。

契沖は、激しい理想主義と事実に対するきわめて即物的な眼をあわせ持っていた。藤樹も、外部の劇をそのままおのれの内部の劇と化した孤立した意識を持っていた。
仁斎も、一徹な内省によって、『論語』や孔子の動かしようのない「姿」に直面し、それを「見て見抜き」、「『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と、こちらが相手に動かされる道」を行った。
徂徠の学問の支柱には、変らぬものを目指す『経学』と、変るものに向ふ『史学』との交点の鋭い直覚があると、小林は評している。

この徂徠像には、小林の歴史観が濃厚にかげを落としていると、粟津はみている。
小林もまた、人生如何に生くべきかという問いと、歴史を深く知ることとの交点に、その思考を注いできた。
契沖から徂徠の像は、小林の思考を鋭く体現しており、それぞれが小林の自画像であるともいえる。
(たとえば、画家がさまざまな人間の肖像画を描いた場合、それぞれ異なった人相をしていながら、不思議に画家自身に似通ってくるのに類似していると、粟津は説明している)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、432頁~437頁)

宣長の『源氏』論と『古事記伝』


「物のあはれをしる情(ココロ)の感(ウゴ)き」が極まるところ、われわれは「死の観念」に出会う。
われわれに持てるのは、死ではなく「死の予感」だけである。ただ、われわれは、愛する者を亡くしたとき、「死んだのは己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれる」。
このように、「他人の死を確める」ことによって、われわれの死の観念は完成する。
そして、小林は、このとき「彼は、どう知りやうもない物、宣長の言ふ、『可畏(カシコ)き物』に、面と向つて立つ事になる」と言う。
(これは、宣長の『源氏』論と『古事記伝』をつなぐ、もっとも本質的な流れであると、粟津は解している)

小林秀雄は、われわれが歴史に出会う契機として、子供を失った母親の悲しみについて、くりかえし語っていた。
小林は、この「可畏き物」に触れることによって、小林の批評の究極に触れたと、粟津は捉えている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、450頁~451頁)


《饗庭孝男の小林秀雄論 その3》

2021-06-09 18:20:01 | 文章について
《饗庭孝男の小林秀雄論 その3》
(2021年6月9日投稿)



【はじめに】


今回のブログも、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介するが、ベルクソン、ランボー、モーツアルト、ドストエフスキーなどの西欧の人物と作品について、小林秀雄がどう論じたかのかを紹介してみたい。




【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代





饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄とベルクソン
・小林秀雄とランボオ
・小林秀雄の思考
・小林秀雄のモーツァルト論
・小林秀雄とドストエーフスキイ
・小林がドストエーフスキイと取り組んだ理由








小林秀雄とベルクソン


昭和14年に、ヴァレリーを論じた「『テスト氏』の方法」において、小林は次のように述べている。
「ヴァレリイは、人間を抽象して、cogitoといふ認識の一般的形式を得たのではない、自分の純化に身を削つたところに、テスト氏といふ極めて純粋なもう一人の人間を見付けた」

そして、さらにそれを補完するために、ベルクソン の「ラヴェソンの生涯と業績」における、あらゆる色彩のニュアンスを収斂レンズに透して一点にみちびき、純粋な白光をうるという「直観」への比喩をかりて、ヴァレリーが、「彼独特の視力の純化」によって「テスト氏」を得たとのべた。

このようなジード、ヴァレリー、ドストエーフスキー体験がベルクソン にゆきつく。
いや、逆に、すでに学生時代からのベルクソン体験の潜在的力というものが、こうした個性のなかにベルクソン的視角をつくり出したとも、饗庭はみている。そうであってみれば、小林秀雄の生涯にわたる批評と、その人間認識の射程は、ベルクソンによって支えられていたと考えることもできるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、284頁)

ベルクソンと小林秀雄の「経験」をめぐるちがいについて、饗庭は述べている。
ベルクソンへのふかい共感と同意から出発しながら、小林は、「経験」の問題を実生活の方向に屈折させ、生の知恵としての「常識」の問題とむすびつける。そのことによって、普遍的な開かれた場におかず、空間における事物と存在との直接経験の側に、いわば日常の世界におきかえていった。
ここにベルクソンと小林の「経験」をめぐるちがいがある。
ベルクソンの「祖述」ではなく、小林の理解する「経験」のとらえ方がここにあると、饗庭はみている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、276頁)

小林が「経験」とともにベルクソンに共感した点は、「見る」というヴィジョンにかわる審美的な領域の問題であるといわれる。
すでに「沈黙の言語」としての絵画や、陶器から知覚について得たこの直接的な対象を得る道は、身体論的認識とつながりながら、「当麻」や「オリムピア」における「精神と肉体」とのあいだの内密的な関係への、あるいは意識と行為の関係、思考と身体の思惟性との連関の有機性にたいする小林の鋭い関心のあらわれであった。

小林は、もともとベルクソンが芸術と哲学を「直観」でつないでみせたその点に共感した。
その小林にとって、「自然の深さとは、一切を忘れてこれを見る人の感覚の深さの事」(『近代絵画』)というように、概念を排した知覚の拡大であり、「知覚と呼ぶより寧ろvisionと呼ぶべき」(「私の人生観」)ものであった以上、「経験」の実在性への依拠よりもましてこの「直観」の問題が重要であった。

ただ、ベルクソンはこう述べている。
「芸術とは、たしかに、現実のより直接なヴィジョンにほかならない。しかし知覚のこの純粋性は、有用な因襲とのある断絶、感覚ないしは意識の先天的な、しかも特に範囲を限られたある利害感の欠如、要するに人が理念主義(イデアリスム)と呼んできた生の一種の非物質性を含んでいる」(『笑い』)

このことから、小林が「見る」ことは、「画面の物質性を貫いて、その背後にある生命性にまで達する」という時、それは「実相観入」としての、あの東洋的認識と「直観」としての知覚の拡大が、小林の裡に一つの内密的(アンチーム)な合意をうんだ。であってみれば、小林がこのヴィジョンを、「心眼」とも「観」とも呼んでいる。
いいかえれば、それはまた、小林がセザンヌが得ようとしていた「見る」という行為を考え、「自然といふ持続する存在」(『近代絵画』)に達することであったとのべたこととひとしい。

不思議なことに、メルロ=ポンティは、その「眼と精神」という論文の冒頭に、J.ガスケの『セザンヌ』のなかの一文
「私があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっとも神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉と絡みあっているのです」(滝浦・木田訳)をひいている。
これはベルクソンと小林秀雄とメルロ=ポンティの、たとえばセザンヌを具体的媒介にした精神的血縁の系譜をものがたる例であると、饗庭はみている。

さて、この「見る」ということに関して言えば、すでに西田幾太郎は『芸術と道徳』のなかで、芸術を「生命の表現」として、ベルクソンなどを援用しながら、一つの視覚作用と身体の運動の、筋覚を内在的にふくんだ「人格作用」と呼んでいる。

この西田の思考の系譜にも小林はまた入るようだ。
(ここでもベルクソンの媒介は重要である)
なお、メルロ¬=ポンティについては、彼はベルクソンの「見る」ことを一つの契機とするように、自らの身体が世界の織目のなかに取りこまれていること、その意味で、セザンヌが「自然は内にある」と考えたことを肯定し、質、光、色彩、奥行は外にあるとともに内に反響を呼びさまし、むかえ入れるからこそ知覚できるものであるとした。

このような、ベルクソン、メルロ=ポンティ、あるいは西田幾太郎の「見る」問題のなかに、小林も「実相観入」のプリズムをとおしながら位置づけることができると、饗庭は捉えている。
小林は西田よりもまして、ベルクソンの理論とセザンヌの絵画の具体的な媒介によって、この精神的血縁性を示している。

しかしながら、「見る」という行為によって得たものをいかに言葉の領域にもたらすか、という点に関しては、小林はさほど多くをかたっていない。もとより小林によってベルクソンが「詩人」として映じた以上、言葉にたいするベルクソンの精通の仕方をとりあげ、知性のかぎりをつくすことが「言葉の限りを尽す」ことであり、「実在の本質的な不正確さが、正確な言葉に敵対し抵抗する。少しも構はない。彼は出来るだけ正確な言葉を採り上げる」(「私の人生観」)であると見ている。

このような見方の背後にあるものは「論理を尽すが言葉を尽してをらぬといふ事である。観念の群れが、合理的に整合しさへすれば、これに言葉といふ記号を付けることなどわけはない」(同前)とする小林の批判である。

こうした小林の断言からうかがわれるものは、若い日、象徴主義の言語における「表現」の自立性を、マルクス主義文学の言語の「伝達」性に拮抗させた思考の遠い反響というべきものである。それにもまして、ベルクソンの言う、「言葉の上の解決を放棄」することによって得た哲学的方法の開眼と「経験」の重要性に立ちかえるという考えであると、饗庭はみる。

小林は本来、観念と分析による現実の把握に嫌悪をもっていたので、ベルクソンの言葉にたいする深い反省に強く共感したようだ。
ただ、いかにして言葉と実在との関係を回復するかについて、小林はさして多くの言葉をついやしてはいない。
むしろ「実相観入」の無言語的な身体論的把握や「経験」のとらえ方に小林の思考の比重がかかっている。観念と分析が「個」の「表現」とともに、いかに現実にたいする言葉の記号的な認識が、「あいまい」かつ不備なものであろうと、それが世界における事物と存在の「配分」と再構成を行う<知>の機能であり、現実の不透明さにたいする認識とロゴスへの還元のあいだに、せめぎあいがあると考える態度への相対的視角が働いていないように感じられる。
このことは、「詩人的」な「表現」にかわらぬ関心を持ちながらも、小林が「経験」と「実在」とのむすびつきへの関心を、「実相観入」の軸にそい、ベルクソン的な視角をふかめる方向に思考の重心を置いていたためであるようだ。

だが、ベルクソンの「経験」と「実在」への「直観」的認識を支えるものは、プラトンからカントに至る「すべて可能な経験を既存の鋳型に入れ、直観を忘却する」ことによって、「固定したものから動くものへ向う符号的認識」の量的増大を行ってきた西欧的<知>の働きについての鋭い批判であったとされる。
ベルクソンとは、言葉をめぐってまさに「不動」と「変化」の間における弁証法的関係のなかに、そしてその史的展望のなかの<知>の反動(リアクション)の個人的な出現であったといわれる。

ベルクソンのこうした、自己をふくんだ<知>の反省は、たとえば、あらためてミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかで、一そう精密に解明した問題でもあった。
フーコーは次のように考えている。
・16世紀において、言語(ランガージュ)が、たとえ記号(シーニュ)の働きをすでにもっていたとしても、なおそれ自体が解読されるべき「物」としての「謎」をもち、「物」の類似であった。

・それに対して、17世紀以降、言葉(パロール)は、「書かれたもの(エクリチュール)」に、その真理をゆずりわたし、言語(ランガージュ)は、何かを記号(シーニュ)によって示すばかりではなく、それ自体、体系(システム)として構造化され、「物」としての「謎」を失って中性化し、透明化して「秩序」の量的増殖と複雑化にむかって進んできた。

ベルクソンが、言語の分節化への史的展望をつくったのにたいして、フーコーは、いわば言語の記号(シーニュ)の構造的様相をとらえたといえる。
このフーコーの論理は、ゆきつくところ、デカルト的な「われ思う」がなぜ「われ在り」の明証性につながらないかという点に至る。主体の「純粋思惟」がロゴス的な還元を果すことができず、「経験」と言語の乖離が極限に達した。
こうしたフーコーをベルクソンの延長線上につなぐまでもなく、西欧の<知>の自己批判が、ふたたび『野性の思考』を呼びもとめ「経験」のまことの意味を問い直すという点で、その「経験」にはつねに記号(シーニュ)(言語)への緊張にみちたディアローグが内包されていると見なければならない。

このように考えてみると、小林がベルクソンに触発されてふかめようとした「経験」の問題は、この「言葉」への還元とは何か、という自問を同時に内包していなければならなかったはずである。
しかし、晩年の『本居宣長』においても明らかなように、小林は、言霊(ことだま)という「物」の「謎」にむかって、あるいはハイデッガーが神話的言語と科学的言語をわけた、その神話的言語にむかって、文学的に遡行することはあっても、それが科学的<知>としての「分析」と体系とに、どのようにかかわるかを、一対の不可分な問題としてとらえなおす視野を欠いていたと、饗庭はいう。

したがって、言葉は「分析」ではなく、詩的言語のレヴェルにとどまり、「経験」は「物」としての言霊(ことだま)にむかって収斂され、その根底に「実相観入」の思考をもちながら、小林の言語観は、ディアローグよりもモノローグのトートロジー的な方向に働いて行った。
「感想」のなかに圧倒的に「経験」について、くりかえしのべられている個所が多いのもそのためであるようだ。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、278頁~283頁)

小林秀雄とランボオ


小林のランボオ体験は、「ランボオⅠ」(大正15年)「ランボオⅡ」(昭和5年)「ランボオⅢ」(昭和22年)の三つの評論を重ねあわせて読むべきである。衝撃の刻印は、「ランボオⅠ」にある。

ここには、ランボオの「純粋単一な宿命の主調低音」、芸術家が「最初に虚無を所有する必要」、生命とその宿命との交錯による「絶対」への参与、実行家としてのランボオ、人生斫断、自然の掠奪、生活者としての意識などがかたられている。
「ランボオⅡ」「ランボオⅢ」と後にゆくにしたがい、最初のランボオとの出会いと、ランボオの意味が相対化され、精密になっている。
小林の意識の「球体」は、あらあらしいランボオの実行によってうちくだかれ、生は「斫断」され、夢想はランボオの「生活意識」によって否定されたと、饗庭は理解している。

小林秀雄は、ボードレール的「純粋単一な宿命の主調低音」をランボオの「無意識」のなかにみとめ、それを契機として「絶対」に参与した。その時、「宿命」とはすでにヴァレリー的な純粋自我とニュアンスをことにしていると、饗庭は解釈している。というのも、ヴァレリーの意識は非人格的で非個性的な働きとなるからである。ヴァレリーの意識のとらえ方は、小林のいう「宿命の主調低音」と無意識の重なりとは意味をことにするという。

小林のボードレール体験とは、ボードレール固有との出会いではなく、むしろ自意識とは何か、創造とは何か、という原理的な問題をつきつめる一つの例であったにすぎないという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、52頁~57頁)

小林秀雄の思考


小林には、マルクス主義であると否とを問わず、「思想」に憑かれ「夢」に憑かれるところに、人間の本性を見るという思考があるといわれる。それは、すでに「様々なる意匠」のなかで、ネルヴァルについて「各自の夢を築かん」とする考えにもあらわれている。

小林は、一方で「私小説論」にみるように、日本の自然主義とその私小説を否定し、他方で、マルクス主義運動のなかに、本能的に「思想」に憑かれた人間を見、それを正宗白鳥との、トルストイの家出をめぐる論争に重ねるという作業を行ってみせた。
小林が、時代の左翼にたいして批判的であろうと、本質的に人が「思想」と「夢」によってしか生きえないという原理的な問題をそこに見ようとした。その結果が、白鳥との「思想と実生活」にあらわれているとされる。
とすれば、この論争は、文学における「私」の死ののち作品が再生するフローベール的な枠組をもちながら、マルクス主義の同伴者として「思想」の息づく様をまのあたりにした小林の体験のリアリティによって支えられていると、饗庭はみている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、129頁)

小林秀雄のモーツァルト論


小林秀雄は、『モオツアルト』を昭和21年12月に文学雑誌『創元』に書いた。

小林は、昭和21年2月の『近代文学』同人との座談会で、次のようなことを語っている。
・美術品などにかかわるうちに得た「文学は又形である」ということをのべながら、自分はもう文芸時評の世界にはかえらないこと
・それよりも「天才の思想の国」や「美の国」という一流の世界に、自分の一生の時間が足りないほど惹かれること
・また、言葉は実質ある材料であって、論理をすすめる手段ではないこと
・そして批評の表現についても、解っていることを紙に写すのではなく、「解らないことが紙の上で解ってくる」「即興」の文章が書ければいいということ

こうした考えが、「当麻」「西行」や「実朝」、ドストエーフスキイをめぐる論考にあらわれていると饗庭はみている。そして、『モオツアルト』も『ゴッホの手紙』も、その延長線上から出てくるとする。

ところで、小林は、昭和21年の5月、母の精子を失っている。
『モオツァルト』の献辞に「母上の霊に捧ぐ」とあるのは、そのためである。
小林は、戦争中に『モオツアルト』を書きはじめたが、一度中断、それを改めて書きなおし、昭和21年の12月、『創元』第1集に発表した。

妹・高見澤潤子の回想(『兄 小林秀雄』)によれば、新稿については「あんな風な調子のものになるとは思ってもみなかった」とのべ、「あの『モオツアルト』の悲しみは、母の死の悲しみから出て来たものだろう」とかたったという。
(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年)

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄

小林が、この評論のなかで、モーツアルト(饗庭孝男の表記、以下同じ)が友人と父宛に母親の死について書いた手紙にふれ、それをよくモーツアルトにある「転調」とむすびつけ、母親の死から何でもない日常の出来事にモーツアルトが移る条りを書いているあたり、小林自身の体験が重なっていると見られている。

たとえば、次のようにある。
「死んだ許りの母親の死体の傍で、深夜、ただ一人、虚偽の報告と余計なおしやべりを長々と書いてゐるモオツアルトを、僕は努めて想像してみようとする。僕には、彼の裸で孤独な魂が見える様だ。それは、人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかつたとでも言ひたげな形をしてゐる」

そして、すぐあとに、スタンダールとアンリ・ゲオンの言う「かなしさ」(tristesse)の例の個所がつづく。
このように、小林の母の死にモーツアルトの母の死が重なり、妹・高見澤潤子の回想にあったように、旧稿とは思ってもみなかった調子(トーン)がうまれたようだ。
この調子がある程度、小林のモーツアルト像の旋律の一つの特色をなしている。

このことは、「感想(一)」のなかで、小林は次のようにのべている。
「母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争といふ大事件は、言はば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかつた様に思ふ」
また、『モオツアルト』にたいする母への献辞も、
「極く自然な真面目な気持から」であり、「私は自分の悲しみだけを大事にしていた」と、正直な私情をかたっていることにつながると、饗庭は解説している。
(なお、この「感想(一)」が後のベルクソン論となる発端を示す)

小林が「戦争といふ大事件」よりも「母」の喪失という私情を中心にしたとのべた点に、饗庭は注目している。
江藤淳も「戦後と私」のなかで、「この世の中に私情以上に強烈な感情があるか」とかたっているが、母の死と戦後の「家」の喪失をむすんだ江藤の感性は、ある点で、小林の批評のあり方ともつうじているとする。

小林にとっては、人間の理解について、「私といふ人間を一番理解してゐるのは、母親」であり、それは彼女が彼を一番愛しているからだという(「批評家失格Ⅱ」)。
その母の内面にたち入りながら、「歴史」という大きな「時間」をも、母親にとって死んだ子供への愛情からとらえられるとした解釈に見られる「母」の意味をあらためて想起すれば、『モオツアルト』の「かなしみ」の基底に息づいている「母」の意味の大きさに注目せざるをえないと、饗庭は理解している。

小林は結果として「母」という、隠されたモチーフによってこの評論のリアリティを獲得することができた。『モオツアルト』の主要な主題としての「死」の透明な旋律も、この隠された「母」のモチーフとむすびついている。

饗庭は、小林の『モオツアルト』の根底を支えているのは、小林の三つの体験であるとみている。
①「ト短調シンフォニイ」(K.550)をもって、観念をうちくだかれた体験
 大阪の道頓堀をうろついていた時に、突然、「ト短調シンフォニイ」の有名なテーマが鳴りひびき、「脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄へた」という体験
 観念のいりくんだ透明な世界を一瞬のうちに透明にしてみせた恩寵にも似た体験
②「自然」とともに生に感覚的実存の形(フォルム)を与えられた体験
 昭和17年5月、友人の青山二郎の家で、D調クインテット(K.593)を聞いたとき、モーツアルトの音楽の形(フォルム)が、感覚的実存となり、「自然」と交感しながら、出現し、聴くものの生自体が支えられていると感じた体験
③「母」の死という愛するものの「死」によって見えた生の「かなしみ」(tristesse)を感じた体験

これらの体験について、饗庭は次のように解説している。
「それらのいずれもは日常の時間と観念をつきくずし、一瞬にして生の展望をかい間見せるとともに、生の仮象をとり去りながら、時空をこえる別の宇宙に彼を純化しつつ置き換える体験である」ともいえる。
換言すれば、「全ての意識の下から感覚をとおして出現する、しばしば「突然」に彼をとらえる啓示の体験」とも称している。
いわば、生の「経験」の全的な提示である。この契機によって、小林ははじめてモーツアルトの意味とつかんだとする。

日本における西洋音楽の受容の歴史についても、饗庭は触れている。
日本ではじめてモーツアルトが演奏されたのは、明治20年7月、上野音楽取調掛における「音楽演奏会」で、「交響曲変ホ長調」(K.543)のメヌエットが演奏されたという。また、モーツアルトの音楽史上の位置づけは、森鷗外が「楽塵<西楽と幸田氏>」(明治29年、幸田氏は幸田延子のこと)で記している。

これ以降、モーツアルトの演奏はかなり多くなったが、圧倒的な量を誇っていたのは、ベートーヴェン以降の19世紀音楽であった。
モーツアルトの作品の紹介は昭和を俟たなければならなかったようだ。
(交響曲では、「ト短調」と「ジュピター」が抜きんでて多く演奏されたが、ベートーヴェン以降には及ばなかった)
この事実は、西欧文化にたいする明治・大正にかけての受容の態度と密接にかかわっているといわれる。
たとえば、和辻哲郎が「生は不断の戦いであるゆえに苦患と離れることができない」(「べエトオフエンの面」)とのべ、ベートーヴェンの面をみて、「この顔こそは我らの生の理想である」とした。このように、大正教養主義における、倫理的で理想的な側面を代表する人として、ベートーヴェンを捉え、人格主義と自我昂揚のにない手の一人にベートーヴェンを擬した。
一方、モーツアルトには、ベートーヴェンのような言語的にも自らの思想を開陳し、あるいは主題としてそれを音楽に提示するようなところはない。(いわば、思想の手がかりを与えない音楽そのものの美しさを与えるから)

この点、饗庭は、小林を文学史的に位置づけている。
小林が『白樺』派と武者小路実篤をとおした形で接点をもちながら、その影響少なく他方で、すでに教養主義の末尾に位置してはいたものの、それに深い懐疑を覚えていた芥川龍之介をも否定的媒介としてのりこえようとした。
小林は、そこにおのれの思想的位置を得た。そのことは、小林の前の世代のもつ、観念的で概念的な「近代」理解を否定するところに来ていたことを意味する。
そのことからも、「ト短調」体験における観念否定がうまれ、「D調クインテット」の「自然」との融合と交感があらわれたと、饗庭はみている。
つまり、小林のモーツアルト受容は、日本における「近代」理解の一つの転換を、個人の内部で果たす役割を演じたともいえる。
(単にロマン派批判のみではなかった。これは一つの日本における精神史的文脈[コンテクスト]に属する問題であるという)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、201頁~211頁)

小林は、『モオツアルト』を書くにあたり、厖大な文献的渉猟をし、できる限りのレコードとスコアに接したといわれる。
小林はスタンダールの『ハイドン、モーツァルト、メタスターシオ伝』、『ロッシーニ伝』、アンリ・ゲオンの『モーツァルトとの散歩』をとりわけよく読みこんだようだ。またゲーテの『エッカーマンとの対話』のモーツァルトについての僅かな言及にも目をとどめている。

小林はスタンダールのモーツアルトに関する論考から、かなりの示唆を受けた。
もともと、ハイドンに関するスタンダールの評論は、ジュゼッペ・カルパーンから、そして『モーツァルト伝』はウインクラーから剽窃に近いものとされる。ただ、その肉付け、構成、そして解釈がスタンダール固有の魅力をもっている。小林も、このことをふまえながら読み、啓示を受けている。

たとえば、スタンダールは「音の組合わせは、一つの感情、一つの想、一つの性格を常に力強く明快に表現する。この、音楽という言語の明晰性に匹敵するものはなにもない」(『ロッシーニ伝』高橋・富永訳)とのべている。
この言葉は、小林に原理的な認識を喚起したようだ。
「音楽家の意識の最重要部は、音で出来上つてゐる」とのべ、「明確な形もなく意味もない音の組合せの上に建てられた音楽といふ建築」と、小林は記している。

それはモーツアルト自身、1777年の父に宛てた手紙にある「言葉でなく音でなら光と影、表情と仕草を表現することができる」とした部分の引用とむすびつく。
(小林は、芸術表現における音楽言語の自立性について言及している)

さらに「『ロッシーニ伝』序論」の「イタリアにおけるモーツァルト」のなかで、この天才が「時として彼の音楽の力は余りに強く、ために、そこに現われてくるイメージもそれと定かに見きわめられぬままに、聴く者の心はその力に突然捉えられ、憂愁の洪水に浸され」るあたりは、ゲオンの「疾走する悲しみ」とあいまって、小林が「突然に」このモーツアルトの根源的なかなしみにとらわれる意味を明らかにしてくれると、饗庭は解釈している。

また、スタンダールが『モーツァルトの生涯』で、モーツアルトの感性と肉体の不均衡をかたっている部分は、小林がいうモーツアルトがつまるところ「音楽という霊」でしかありえないような見方につながっているとする。

そしてこの点は、スタンダールが「モーツァルトの手紙」の最後をしめくくるにあたってのべた「かつてはモーツァルトと呼ばれ、今日イタリア人が『あの怪物じみた才人』と異名を与えているこの驚くべき存在において、肉体の占める部分は能うるかぎり少なかった」という言葉に呼応する。そして、小林も「あたかも、無用なものを何一つ纏はぬ、純潔なモオツアルトの主題の様に鳴」りひびくという。

饗庭は、この点、「実朝」において歌われた「無垢」の旋律と同じだと解している。そして、この『モオツアルト』の主調低音のように、スタンダールの『パルムの僧院』の主人公、ファブリスの「無垢」とも共鳴しあっているともいう。

小林がスタンダールのモーツアルトによせた短文を「洞察と陶酔との不思議な合一を示して、いかにも美しく、この自己告白の達人が書いた一番無意識な告白の傑作」であり、「自分の魂の感ずるまゝに自由に行動して誤たぬ人間、無思想無性格と見えるほど透明な人間の作者」とした理由は、モーツアルトをとおしてスタンダールをみつめ、そこに「実朝」やランボオを透かして、「無垢」と「孤独」の旋律を見ようとした小林の感性の本質的な志向をあらわしていると、饗庭はみている。小林がここに心理分析者としてのスタンダールを見まいとしたのも、うなずける。
(ただ、スタンダールはあくまで感覚の純化と「生きる歓び」をそのイタリアニスムに求めていたのに対し、モーツアルトはフリーメーソンにおける「死」の幸福を最終的に考えていた点がことなると、断っている)

次に、P.J.ジューヴから、小林は次のような影響を受けたという。
たとえば、「彼の聖歌は、不思議な力で僕を頷かせる。それは、彼が登りつめたシナイの山の頂ではない。それはバッハがやつた事だ。モオツアルトといふ或る憐れな男が、紛ふ事ない天上の歌に酔ひ、気を失つて仆れるのである。而も、なんといふ確かさだ、この気を失つた男の音楽は」という条りがある。

これは、ジューヴの次の言葉から換骨奪胎したものであるそうだ。
「モーツァルトは消え失せます。彼は、バッハがシナイ山上のモーゼの頂きまで登りつめたように、彼自身の頂きに達するのではなくして、恍惚のうちに喪神するのです」(高橋英郎訳)

この「喪神」は、モーツアルトの音楽がもつ個人の輪郭のなかに働く音楽そのものの霊によるものであろう。それは小林が考えるモーツアルトの音楽の「確かさ」でもあり、このことは「死」の問題とも通底している。

小林は次のように記す。
「何故、死は最上の友なのか。死が一切の終りである生を抜け出て、彼は、死が生を照し出すもう一つの世界からものを言ふ。こゝで語つてゐるのは、もはやモオツアルトといふ人間ではなく、寧ろ音楽といふ霊ではあるまいか」と。

このように、ジューヴにとって、「死」が「精霊」の働きと見たものを、小林は「音楽といふ霊」としてとらえる。

さらに、小林は、『モオツアルト』の終り近く、その音楽が「罪業の思想に侵されぬ一種の輪廻を告げてゐる様に見える」と書く。
この認識も、ジューヴの幻視(ヴィジョン)の影響がみられるようだ。モーツアルトの天才は、「死の星のもとにある」とのべ、それが生と死の純粋は働きとして、「罪業そのものの上に――信仰に照らし出され、しかも美の黄金律にしたがって、理性的精神を働かせてそびえ立っている」とジューヴは記す。
(ただ、ジューヴの視線にある信仰の光の相が小林にはなく、生の輪廻の相があったというちがいにとどまると、饗庭は補足している)

小林は、モーツアルト論において、スタンダールとジューヴの影響を受けた。
それにもまして、アンリ・ゲオンから多くの啓示と示唆、そして共鳴を受けとっていた。
先述したように、「走る悲しみ」(tristesse allante)について、ゲオンは、「むせび泣きすらが旋律」であり、「初めから終わりまで、純粋な音楽のみがほとばしり、流れている」と、「ト短調」(K.516)のアレグロについてのべている。
小林も、「確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつかない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる」とする。

この部分が、小林の『モオツアルト』のなかのひとつの頂点をなす「歌」である。ゲオンの旋律を抜きにして、小林の「歌」を聴くことはできないと、饗庭は捉えている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、212頁~215頁)

小林の『モオツアルト』には、ランゲの肖像にモーツアルトの内面と「ト短調」と重ねて見るような、一種の倫理的で文学的な音楽の聴き方があることも否定できないといわれる。
それは芸術と実生活の完全な分離をモーツアルトに見るような、一種の倫理的で文学的な音楽の聴き方があることも否定できないといわれる。
それは芸術と実生活の完全な分離をモーツアルトに見えるような視線からすれば、「孤独な魂」と「走る悲しみ」の感傷のヴェールを重ねて聴く態度とつながって、不透明な印象を与えかねない部分ともいえる。
(換言すれば、「人間の心理学的な扱いにおいて、詩と真実とをあまり区別しなかったロマン派伝来の天才像」(ヒルデスハイマー[渡辺健訳]『モーツァルト』)の残滓を小林もまた持っていたともいえる)


モーツアルトを「悲劇的、喜劇的側面のすべてを含む生の充実」を描く表現者としても見ることもできる。
それにまたモーツアルトに「孤独な魂」の表現があるというより、モーツアルトにあっては、舞台と観客との意識の「間主観的共同体」の自由な表現があったとする。
(シュッツ[中矢一義訳]「モーツァルトと哲学者」)

ところで、モーツアルトの時代は、なおも「個」と共同体が分ちがたくまじり合っていた時代だった。共同体から、教会から、貴族からの注文がなければ、そして演奏会場での観客や聴衆の意識上の共同体的な参加がなければ、作曲家の「個」などは存在しない時代だった。
この点については、小林はいささかもふれていないと饗庭は批判している。さらに、モーツアルトがフリーメーソンに入って、「死」をも「幸福」と考える程の思考を得たとすれば、それは一に「個」の信仰のレヴェルよりは、フリーメーソンという共同体の信仰のイデ―によっていたともみることができる。

ここで、饗庭は次のような例をあげている。
〇モーツアルトは「夕べの思い」(K.523)の作曲にさいし、「最愛の人」という最初の献辞を後に削除し、「おお、友よ」と変えているが、その「友」とはフリーメーソンの「友」にほかならない。
〇キャサリン・トムソンは『モーツァルトとフリーメイソン』(湯川新・田口孝吉訳)のなかで、モーツアルトが父の死の10日前に完成した「弦楽五重奏曲ト短調」(K.516)についてのゲオルク・クネプラーの解釈を引用している。
それは、「個人の悲しみが集団の調和をうち崩す。一人で悲しみにくれる者は人間社会にいかなる慰めをも見出すことはできない」こと、「最も深い悲しみであろうとも、人間の共同体のなかで克服することができる」とモーツアルトが考えていたという点の強調である。
〇さらに『魔笛』の最終合唱の「アレグロ」8小節がトランペットのファンファーレとともに「人間の友愛」の地上への成就であるとするトムソンの考えも注目に値する。

そうすると、モーツアルトの「突然」の転調も、生の光と影のようにその全的な表現として、たとえ「死」の星の下に人間があろうとも、「悲しみ」と歓びが刻々に織りなす、生の表現であったにちがいない。
そうであれば、さまざまな不安をこえながら、モーツアルトが父に宛てて、「死は、よく考えてみれば、われわれの生存の真なる目的地ですから」とのべていること、友バリザーニの死について「彼にまた相まみえる喜びの日まで」と書いたことも、納得がいくという。
共同体の目にみえぬ「死=幸福」の信条(クレド)に支えられた透明な音楽こそ、モーツアルトの本質であると、饗庭は解説している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、222頁~224頁)

小林秀雄とドストエーフスキイ


小林秀雄がドストエーフスキイに着目したきっかけの一つに、ジードの『ドストエーフスキイ』があったといわれる。
(小林のドストエーフスキイ研究に大きな示唆を与えたジードの『ドストエーフスキイ』(武者小路実光・小西茂也訳)が出たのが、昭和5年であった)
「私はドストエーフスキイ以上に矛盾や首尾一貫しないことに富む作家を知らない」とジードは記している。

小林はジードの『ドストエーフスキイ』から多くの示唆を受けた。
意識や心理を倫理と不可分なものと見、矛盾と複雑さをそのまま生かし、一見、架空、「荒唐無稽」にみえがちなものをなりたたせる細部の陰翳の表現に忠実なリアリズムをドストエーフスキイに見る点などが挙げられる。
ただ、小林がジードのその書に強いリアリティを覚えたとすれば、それは単にジードの意識にかかわるドストエーフスキイ解釈に共感しただけではないと、饗庭は主張している。
ジードのその解釈自体にうかがわれる西欧小説にたいするジードの反省をとおしての共感であったという。

ここで、饗庭はこの点について解説している。
〇ジードは、バルザックを例にとりながら、西欧の小説の場合には知性と意志を主人公が貫徹する。それに対して、ドストエーフスキイの小説の主人公は知性を放棄し、「個人的意志を棄権し自己放棄によってのみ神の国に入る」という考え方を示している。
〇そして、ここに見られる「知性」と「意志」こそ、少なくとも、ドストエーフスキイに至る小林秀雄のフランス文学体験にもとづく、その批評の要(かなめ)となっていた問題であった。
〇したがって、ドストエーフスキイを読むことは、小林にとって、この二つの問題への反省と検討を迫り、明晰な知性によって解きあかしうる意識の根底に自己放棄によって思いがけない展開をみせるドストエーフスキイの作品の、力動的に息づく不可測な存在の「闇」を凝視することであった。

これがジードに小林が学んだ主要なことであった。

(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、139頁~144頁)

小林がドストエーフスキイと取り組んだ理由


小林は、「Xへの手紙」のなかで、「自己解体」をかたり「ただ明確なのは自分の苦痛だけだ」ということをのべている。
それは時代のなかで、次のこととむすびつくと饗庭はみている。
〇太宰治の「自己喪失」
〇亀井勝一郎の言う「苦痛」による新しい自我の発見
〇保田與重郎の考える「盲目の精神の闇」をとおす自己確認
〇中村光夫の提唱する「自己の内奥の苦痛」の表現の必要

これらとひびきあい通底し、ドストエーフスキイに収斂したようだ。

ドストエーフスキイの文学とその「個」の意識という地下室の「闇」のような「自己」に収斂してゆく有様は、偶然というより、むしろともに時代の暗部に下りたつような必然性を感じさせると、饗庭は捉えている。

ちなみに、蔵原惟人は、昭和3年「プロレタリア・レアリズムへの道」(雑誌『戦旗』)のなかで、ドストエーフスキイの文学を「純粋にブルジョアジーの立場にも立ち得ず、また積極的にプロレタリアートの立場にも移つてゆくことが出来」ない、動揺しつつある、博愛、正義、人道主義的な小ブルジョワ・レアリズムにすぎないと批判している。
(この判断は、宮本顕治「敗北の文学」のなかで、芥川批判と重なっていくことになる)

芥川龍之介が、その詩「手」のなかで、ブルジョワを白い手に、プロレタリアを赤い手に擬し、自らもその「赤い手」に数えながら、「しかし僕はその外にも一本の手を見つめてゐる。/――あの遠国に飢ゑ死にしたドストエフスキイの子供の手を」とした懐疑にゆれうごく。
その人道主義は、宮本、蔵原の否定すべき対象としての意味をもっていた。
ドストエーフスキイも、「自己解体」の「苦痛」に何ほどか見合うべき、自己再検討と再生の象徴として映じていたようだ。

「芥川的なるもの」から「ドストエーフスキイ的なるもの」への転位の過程は、このようにして転向によって明らかな道すじを示した。
亀井勝一郎の転形期の自我の「苦痛」も、保田與重郎の盲目の「闇」も、中村光夫の「苦痛」の認識もいずれもが、ドストエーフスキイに収斂した。そして、それは、太宰治の「自己喪失」の表現としての小説の手法をふくみ、小林秀雄の、明瞭な「苦痛」の自覚をよびさました。
シェストフの「不安」を一つの大きな共鳴盤としながら、ほとんど時代の暗い主調低音となって、あたらしい「自己」凝視とその造型に人々をみちびいたと、饗庭は捉えている。そして、ここにも小林が、自らの希求とともに、時代にうながされて、ドストエーフスキイと取組まざるをえなかった一つの大きな理由があるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、136頁~138頁)


《饗庭孝男の小林秀雄論 その2》

2021-06-06 18:42:24 | 文章について
《饗庭孝男の小林秀雄論 その2》
(2021年6月6日投稿)



【はじめに】


 今回のブログでは、饗庭孝男『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)において、論じられた日本古典論について解説しておきたい。
 まず、「当麻」「平家物語」「徒然草」、そして「西行」および「実朝」といった小林秀雄の古典論について、饗庭孝男がどのように捉えていたのかを説明してゆく。
 そして、小林秀雄の大著『本居宣長』と言語観について、饗庭がどのように理解しているのかについて、述べてみたい。



【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】

小林秀雄とその時代



饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄の古典論
・小林秀雄の古典論に対する饗庭孝男の理解
・「信」としての<知>――『本居宣長』
・小林秀雄の「言語」観と『本居宣長』






小林秀雄の古典論



小林秀雄にとって開戦の翌年から、昭和18年にかけては、古典論を書くことに専念した期間であった。
「当麻」「無常といふ事」「平家物語」「徒然草」、そして「西行」が昭和17年に、「実朝」が翌年である。

その間、昭和17年の10月には、「近代の超克」(『文學界』)に出席している。この大座談会における小林の発言は、古典論と並行している時だけに多くの示唆をふくんでいると、饗庭はみている。
小林は、歴史は変化であり、進歩と見なす考えに懐疑を覚え、「何時も同じもの」があり、それを貫く人の書いた作品を「古典」とし、「美学」と呼び、現代にいても「古人の達したより以上のものは絶対にできんといふ謙遜な気持」をもつことを力説している。
ここに歴史から古典への移行が期せずしてかたられている趣きがある。

「当麻」は、形ある美しさへの直接経験にのみ認識の根拠を求めようとする思想から書かれたものである。古典論のはじめが、身体的行為としての能の表現についてのエッセイであることは、その意味で象徴的である。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、184頁~185頁)

小林秀雄の古典論に対する饗庭孝男の理解


沈黙のなかで戦争という歴史の劇を生きながら、小林は言いようのない「孤独」を感じていたはずである。
「徒然草」から「西行」「実朝」に至る評論を一貫して流れるものは、抗しがたい歴史(必然)の運命を前にした自意識の「孤独」が奏でる、あるパセティックな短調とでもいうべき、暗く低い旋律であったと、饗庭は捉えている。

兼好も西行も、実朝のいずれもが戦乱のなかで歴史(必然)に打ち砕かれる思想を「孤独」の裡に織っていた。そこに小林がおのれの姿を重ね、古典を現前させ、あるいは逆に古典のなかにおのれを織りこみ、いわば時をこえて生きつづける存在の「あかし」を願おうと考えたとする。

「当麻」は、そうした巨大な現実を前にし、それに拮抗しようとする小林の態度をものがたる古典論の「序奏」とでもいうべき作品であった。
この小さな「形」のなかに、「近代」日本にたいする自らをとおした総括的反省がこめられているとともに、歴史の闇のなかの「孤独」を「花」と化し、逆にそこに自らの「歴史」をイメージによって現象させようとした小林の意図が息づいているとみる。

「当麻」につづいて書かれた「平家物語」のとらえ方についても、「当麻」と同じく、イメージによる把握と「肉体の動きに則つて観念の動きを修正」しようとする小林の意図を看取できるようだ。
「言葉の故郷は肉体だ」とのべた思考が「当麻」と同じく、この「平家物語」をもつらぬいているという。
(こういう思考とは、かつて志賀直哉に小林が見た「自然」と「行為」の表現にたいする讃嘆の延長線上にあるものである。小林が志賀直哉論以来、歴史(自然)認識をへて対象のなかに、おのれの思考と共振するものをよみ、いかにそれをリアリティあるものとしているか否かが、そこでは問題であった。小林は『平家物語』に、いわば自らの思考と出会うもののみをイメージで表現した)

一方、『徒然草』に対しては、別の接近の仕方を行った。わずか2頁半のこのエッセイで小林が描いたものは、小林が批評行為の中心においた「見る」ことに徹した兼好の態度であった。
小林は「生死」と「自然」を見、それを表現するモラリスト的な形式の見事さと文体に感嘆した。「見る」行為と表現の形式と文体への関心こそ、このエッセイの本質であると、饗庭は理解している。

ところが、「西行」と「実朝」は、これまでの、対象にたいする独自な接近と、その切り口の提示が身上であった古典論と趣きをことにするようだ。そこには対象の全体を小林なりの視角からとらえようとする意図がある。

小林は西行を描くにあたって、「根は頑丈で執拗な」人間であると見た。小林が見ようとしたのは、「生得」の詩人であるばかりでなく、たとえば「世の中を反き果てぬといひおかんと思ひしるべき人はなくとも」という歌にみられる意志をつらぬこうとする勁い人間であった。
この視角から西行は「自ら進んで世に反いた者の世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望との渦巻く青春の歌」をうたう人として映じ、「女々しい感傷」をもたぬ「空前の内省家」となる。その苦い内省によって、そのまま放胆で自在な、しかも正確な歌をよむ詩人と、小林は考えた。

だから、小林はこう言い切る。
「天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚はれぬ、自在で而も誤たぬ、一種の生活法の体得者だつたに違ひないと思ふ」

定家がいかにして歌を作るかという悩みをいだいていたのに対して、西行はいかにしておのれを知るか、という自問を持っていた詩人であると、小林は見る。西行にとって、「自然」とむかいあう、そのあらわな心の「孤独」を歌うことが唯一の生のあかしとなったという。
西行は「自然」にさらされた「孤独」をいだきながら、北面武士の俤をもち、勁い意志により、自意識の苦痛をもちながらも「行為」のひととして生きたとする。

この西行像は、「自然」をめぐり、ランボオから志賀直哉を経て、展開されてきた「わが心」(意識)を「行為」によってのりこえようとする反「近代」的な、あるべき人間像であると、饗庭は捉えている。
小林は西行の歌と「行為」のなかに「自然」にふれて放たれる勁い「孤独」の共鳴音(レゾナンス)をもった旋律をききとったであろう。つまり、小林の「西行」とは、「個」の懐疑の果てに「近代」の否定にたどりつき、その上で「自然」(歴史)の覚醒によってあらわにされた「わが心」の「孤独」を西行の行為と歌をとおして彫琢しようとした批評行為の所産にほかならないとする)

次に小林の「実朝」はどうか。
小林は昭和18年、『文學界』(2月号、5月号、6月号)に「実朝」を書いている。一方、太宰治は前年の10月ごろから書下しの小説『右大臣実朝』にとりくみ、小林と同じ昭和18年の9月にこれを出版している。両者の暗合は不思議である。

太宰は天稟をもった実朝を「神様」のように無垢で清澄きわまりない人間とし、そこにキリストの犠牲を重ね、「アカルサハ、ホロビの姿」という予感のなかに息づいていた破滅へのいそぎをあらわした。
しかし、小林の実朝は、「無垢」の天稟をもった詩人という点では共通していても、万葉の精神と出会う資質をもち、約束多い和歌の枠を自在にこえ、その詩魂に独創的な孤独を宿した詩人であると見る点でことなっていた。
太宰は「滅亡」のフィルターをとおし、小林は「孤独」をとおして、ともに時代のなかにおける自己証明のように実朝を描いたようだ。

小林が実朝に見たのは、歴史の暗闘のなかで不可避な「死」をかかえた「無垢」の詩人であった。この点、西行が旅のなかに生き、俗と僧との間に矛盾をかかえて生きながらも、何よりも「わが心」のありようを求めたのとはちがう。
12歳で征夷大将軍となり、右大臣となった28歳の惨死まで政治のなかに生きた実朝は、「愛惜」としての歴史の名に値いする人間である。そして歴史の必然にうちくだかれる悲劇の詩人である。
小林は「孤独」の独創性を実朝に感じた。
小林が「歴史について」や「歴史と文学」でのべてきた「愛惜」ともっとも呼ぶにふさわしい対象が、この実朝であったと見ることができる。

実朝は天与の詩才をいだきながら政治の渦中に生き、それなりに「物」が見えた人間である。この実朝を描く小林の筆致は、緊張し、高揚し、終末にむかって、あたかもおのれ自身をおいあげ、純化してゆくような美しさをたたえているといわれる。饗庭は、小林の古典論のなかで、もっとも見事な達成をここに見ている。
実朝は、小林にとって、「行為」の領域に運命的に生きながらも、すぐれた「天分」によってその運命をこえ、時の外に出て、しかも「伝統」のつねに「現前」する存在の典型に見えた。

小林は、史料を過信せず、感性的認識によって実朝の歌を、その「色や線や旋律」から、「夕暮」や「白波」あるいは「見え隠れする雪を乗せた島」からとらえたイメージをとおして、「詩魂」の内部に直接に推参しようとする。

小林は、「物」であの「形ある美」のリアリティを考えるに、観念や概念をこえて直接経験を重要視する人間であった。「大切な事は、真理に頼つて限定する事では」なく、「見る事が考へる事と同じになるまで、視力を純化する」(「私の人生観」)ことが、実朝の歌に対する感覚的把握の根底に働いていた。
「もの」にしたがい、その現前性をとらえ、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」(「無常といふ事」)「伝統」の実体に迫る上で、おのずから遥かな日本の伝統的認識の仕方を小林は体現した。
この心性(メンタリティ)の個人的顕在こそ、小林の古典論を支えたものであると、饗庭は捉えている。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、187頁~195頁)

「信」としての<知>――『本居宣長』


饗庭孝男は、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)において、「第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』」において、小林秀雄と『本居宣長』について、次のように述べている。

饗庭は、小林秀雄という批評家を次のように規定している。
「小林秀雄は、生涯にわたって「言語」とは何かを考えつづけてきた人間であった」(311頁)

そして小林の著作『本居宣長』について、次のように評している。
「『本居宣長』は、その意味でこうした「言語」を中心とし、それを「伝統」への「信」を前提としながら神話的共同体へと開いてみせた小林の批評の到達点であり、その集成とも呼んでいいものである」(312頁)

小林の『本居宣長』の主題は、「何よりも小林秀雄にとって重要であったのは、少くともこの『本居宣長』に関するかぎり、「言語」の発生のありようであった」(313頁)

宣長の「言語」についての論議は、賀茂真淵の『冠辞考』を問題にするあたりからはじまっているが、そこには2つの方向があったと饗庭は解説している。
①「ひたすら言語の表現力を信ずる歌人の純粋な喜び」という詩的言語への重視→歌人の「個」の表現
②「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出る」、声や抑揚をもつ歌の原初性への重視→「言語」の身体性

①には、象徴主義の「言語」観の痕跡がある。②には、荻生徂徠の、音声を文字に優位させる、いわば現象学的な思考の反映があると饗庭はみる。
そして小林秀雄の『本居宣長』における「言語」論は、この2つが分ちがたくむすびついているとする。

また、饗庭は、小林の『本居宣長』に対する批判点として、次のようなことを述べている。
本居宣長の「物のあはれ」論から「古語」を明らかにすることで「道」をとく思考過程を、単に物語論と歌道、そして古語にかかわる「言語」論の水準で考える困難がここにあると饗庭は指摘している。
「古語」と「道」との関係をときほぐすために、宣長が生きた時代と彼の階級意識、そしてそこに息づく思想の交点を見ることが、小林秀雄にはさけてとおることのできない問題であったとする。
つまり、『古事記』が形成していた言語空間を、宣長の思想にそって想像力のなかで有機的な連関をとらえる手続が必要であったという。
宣長の「思想」が明確になるのも、時代と階級とのディアレクティック(弁証法)によってであると饗庭は批判している。
(そのことによって、逆に宣長の思い描いた『古事記』の宇宙が一層見えてきただろうとする)

宣長がどのように徂徠の「言語」観から「音声」と文字の関係を見て行ったかについて、いささかも小林は論争をしているわけではないと、饗庭は指摘している。
彼は稗田阿礼の「誦習(ヨミナライ)にむかい「言語」の「いきほひ」をのべるに至るのであるが、この過程にあらためて「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」とし「言に物有る物」と「行ひに格有る事」とし「理」よりも「事実」を重んずるに至った徂徠の「言語」観を採用する。

(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、311頁~314頁)

小林秀雄の「言語」観と『本居宣長』


小林秀雄は、生涯にわたって「言語」とは何かを考えつづけてきた人間であったと、饗庭は規定している。

小林の「言語」観は、象徴主義やヴァレリーの詩的言語をたてとし、伝達の機能よりも表現の意味作用を「個」と文学の自立性とにむすんだという。そして、それはマルクス主義と対峙した。その「言語」観は、「歴史」と「伝統」に出会うことによって、「言霊」の原初に遡行していった。

小林の批評の本質的な意味作用について、
〇「個」から「無私」へ
〇象徴主義の「言語」から共同体の「言霊」へ
と移っていった。

小林の『本居宣長』は、その意味で、こうした「言語」を中心とし、それを「伝統」への「信」を前提としながら、神話的共同体へと開いてみせた小林の批評の到達点であり、その集成であると、饗庭は理解している。
(饗庭孝男「「信」としての<知>」『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年所収、311頁~312頁)

小林の「言語」についての論議には、二つの方向があったといった。
その一つは、荻生徂徠の、音声を文字に優位させる、いわば現象学的な思考の反映があると饗庭はみている
(ジャック・デリダやフッサールの現象学における「言語」を解読しながらのべた「声(phoné フォネ)としての気息の精神性」(『声と現象』)に似た側面)

そして小林秀雄の『本居宣長』における「言語」論は、この二つが分ちがたくむすびついているとしたが、饗庭は、このことを時代の展望のなかにおきなおしている。
徂徠は、「言語」を漢字文化のなかで考えぬいたが、宣長は、漢意を排し、歌をとおして『古事記』のもつ口承的言語の原日本語的「言葉(パロール)」に移行した。
(ただ、宣長がどのようにして徂徠の「言語」観から「音声」と文字の関係を見て行ったかについて、小林は論証しているわけではないと、饗庭は断っている)

そして、饗庭は次のように記している。
「おそらくベルクソンを読み、そこにおける記号的認識にたいする深いベルクソンの懐疑と小林の「経験」主義にもとづく「物」への「無私」で直接的な感受の態度が、宣長の独自な「言語」観と共鳴しつつ、「見る」ことという態度とともに「古語を得る」宣長の内的経験の想像力的な復元にあって、その現象学的な接近を可能にしたにちがいない」
(饗庭孝男「「信」としての<知>」『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年所収、313頁~316頁)

言葉が力をもつとすれば何か、という自問を、小林は身体論的なレヴェルにつねに戻して考える習慣をもつようになっていた。それゆえ「言葉の故郷は肉体だ」(「オリムピア」)と小林が言うのも当然である。

小林は『本居宣長』のなかで、「古言」を得ることは「手答へのある『物』」であるとのべている。また、「言葉」について「私達の力量を超えた道具の『さだまり』」とする。
また、言葉を「たましひ」をもっている「生き物」と見る。「言語表現の本質を成すものは」「その人の持つて生れて来た心身の働きに、深く関はつてゐる」と考えている。

こうした認識のなかに、小林の「言語」観が一つのものとなってむすびついているといえる。
『本居宣長』における言語論の根は深い。
いいかえれば、小林は記号的な「言語」にたいする懐疑から、神話的言語へと遡行してきたと饗庭は捉えている。いわば≪自然≫に根ざし、存在と事物が認識の渇望によって呼び出される時、その根源の場でうかびあがる「言語」に小林は心惹かれてきたという。
多義的で重層しながら肉体を失わない原初の「言語」の意味作用(シニフィカシヨン)への関心が、小林をみちびいて本居宣長に至った。

「歴史」から「伝統」、そして古典の神話的言語空間へと、初期において得た西欧の象徴主義的な「言語観」は、日本の心性のなかでためされ、遡行の働きを得、小林の内部において「古語を得る」宣長の追体験への希求の道すじをたどって変容をとげた。

さて、小林は、こうした「言語」観を根底にもちながら、古典文学を題材とした次のような批評を書いた。「当麻」「無常といふ事」「徒然草」「西行」「実朝」等。
そして、日本近世の思想家たちのありかたに関心を集中させるようになる。
それは、パスカル、デカルト、ベルクソンといったフランスの思想家、ソクラテスやプラトンという古代の思想家にたいする関心と重なり、あるいはそれを契機として深められた。
小林のモラリスト的志向がたとえばモンテーニュをとおし、吉田兼好に「物が見え過ぎる眼」の「物狂しさ」と「死」への認識をよみとっていたのも、そうした糸口をつくっていたと、饗庭は推測している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、292頁~293頁)