歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その16 コメントと雑感≫

2023-04-30 18:00:02 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その16 コメントと雑感≫
(2023年4月30日投稿)

【はじめに】


今回は、石川九楊氏の次の著作に関するコメントと雑感を記しておく。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
なお、本文に出てくる人名について、敬称略であることを最初に断っておきたい。
また、参考文献に挙げた論文は、ネットで閲覧可能である。


さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇石川九楊『中国書史』(京都大学出版会、1996年)に対するコメント・雑感
・中国の書と日本の書の相違について
・中国と日本の書について
・漢字文化圏における書の担い手について
・「書は人なり」という言葉について
・日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
・石川九楊の書史(中国書道史)の捉え方と中国歴史家や中国文学者の捉え方の相違
・王羲之という名について
・西林昭一の「蘭亭叙」についての見解
・狂草について~張旭と顔真卿と懐素
・書の歴史から見る連綿の表現
・懐素の狂草について
・柳公権について
・宋代の書について
・蘇軾の「黄州寒食詩巻」について
・黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」について
・神田喜一郎による祝允明の捉え方
・平山観月による中国書道史の捉え方
・西川寧による中国の書に対する見解
・【補足】行書の起源と完成について
・【補足】つづけ書きについて
・【補足】行書上達のための筆の持ちかた
(敬称略)




中国の書と日本の書の相違について


中国の書と日本の書の相違について、石川九楊は興味深い捉え方をしている。
中国では、紀元前千数百年から初唐代まで2000年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を成立させた。このことを象徴的に言えば、石と紙との争闘史であったという。つまり刻ることと書くこととの争闘史であり、また鑿(のみ)と筆との
争闘史であった。
中国の書は、行書、草書を従えた楷書を中心に、楷・行・草の三書体セットで立体的に成立した。その楷書書字法の中心に来るのが、「トン・スー・トン」つまり起筆・送筆・終筆の三過折=三折法の構造である。
楷書は、三折法を運筆筆蝕の中心に据え、中国の陰陽二項対立思想から来る、左右対称の構成法の上に成立する構築的、政治的な書であると定義している。

一方、日本の書は、紙と石との、鑿と毛筆との争闘という書史の前提を知ることがなかった。書くと刻ることの相関を知りえなかった日本の書は、三折法をなだらかな「起筆・送筆・終筆」の階調(グラデーション)と読みかえ、「真・行・草」の深い意味合いに目が届かなかった。
「先、行字可有御習候。行、中庸の故也(まず行書からお習いなさい。行書は中庸ですから)」(『入木抄(じゅぼくしょう)』)と言われる日本の書には、極論すれば、楷書がないという。
日本の書、とりわけ和様の書は、「トン・スー・トン」ではなく、いわば「スイ・スー・スイ」というなだらかな連続法で、ひとつの字画が「S字型」を描き、かつ左右対称性を「くずした」構成を基本とする。日本書史においては、「和様」と「唐様(からよう)」と「墨蹟」しか成立しなかった。「和様」は、三蹟のひとり小野道風の「屏風土代」がその出発であり、三蹟の藤原行成の「白楽天詩巻」で完全に成立する。また、「唐様」は中国の書の輸入との関係で成立した「中国書くずし」であり、「墨蹟」は中国から輸入した書の「くずし」である唐様の書の、禅僧によるよりいっそうの「くずし」である。中国を含む書史の全体から言えば、日本書史はそれ自体豊穣な蓄積をもってはいるものの、「コップの中の嵐」程度のことにすぎないという。
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、140頁~147頁)

中国と日本の書について


楷、行、草のうち、中国では楷書を基本と考える捉え方であるのに対して、日本では行書を典型(中庸)として捉えている。書における「大陸的」=中国的とは楷書を標準にしている。それに対して「島国的」=日本的とは楷書をくずした行書的な書を基準にしている。このことは、『入木抄(じゅぼくしょう)』などで明らかである。楷書は構築性、直線性、動的、肥の傾向をもつとされ、行書は展開性、曲線性、静的、痩または肥痩の傾向をもち、柔軟、抒情的と表現される。

日本の書史を見た場合、擬似中国文化時代、遣唐使世代に属する三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の書は中国書の吸収、消化期に位置し、中国の書に酷似している。空海の「灌頂記」が顔真卿の影響を受けているという説が流布されるのは、三筆の書が中国色をいまだ払拭しきれない事実を証明している。

ところが、漢語と和語からなる日本語が誕生し、日本が姿を見せはじめたポスト遣唐使世代である三蹟(894年に遣唐使廃止生まれの小野道風、藤原佐里、藤原行成)によって書風は一変した。運筆はなめらかで柔らかく、「S字型曲線」を描くようになり、文字形は円く均整がとれ、肥痩(ひそう)をバランスよく、ないまぜにした美しい和様の日本文字へと昇華した。
つまり、楷書の典型は中国初唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良によって、和様・日本文字の典型は日本の三蹟によって完成した。僧寛建が道風の書を携えて入唐し、僧嘉因が佐理の書を宋の太宗に献上したというエピソードが、三蹟の書の中国風からの脱出を示している。(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、199頁~200頁)

漢字文化圏における書の担い手について


書の担い手という問題を考えてみた場合に、どのように要約できるのであろうか。
漢字文化圏における書は、文化の中枢にある表現であるから、政治的・文化的中枢部に存在しつづけてきた。
甲骨文は、史官とでも言うべき存在によって亀甲や獣骨に刻りつけられていた。史官というのは、王、王と神との間の通訳である占人と並び、神政政治の中心を担っている存在であった。中国殷代の最初の文字・甲骨文は、王と占人と史官の三者の創製したものと考えられる。

秦の始皇帝時代の篆書を書き、刻りつけもした李斯も、この史官に相当する存在であった。漢代の隷書の書き手や刻者もまた、この史官に準じる存在である書記官であった。草書の時代になると、王羲之など高級貴族が書の書き手となる。
唐代には、皇帝をはじめ、欧陽詢、虞世南、褚遂良といった皇帝周辺の最高級官僚であった。宋代頃から、高級官僚やその挫折者である士大夫が書の表現を担うようになり、これは清代まで続く。

このように、中国において、書は史官、書記官、皇帝、高級官僚、士大夫という、いずれにしても高級政治家、官僚とその周辺に担われていた。
日本においても、同様で、基本的に天皇や皇后、貴族、あるいはその周辺の僧(知識人)によって書は担われてきた。江戸末期になると、新興町人階級の成熟とともに、この力を背景とした都市知識人(いわゆる日本的文人)もこれに加わり、幕末には儒学で武装した維新の革命家、明治の近代以降は、政府の書記官、さらに作家や詩人や学者によって書は担われた。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、69頁~70頁)

「書は人なり」という言葉について


石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)

また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。

これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。

「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)。

日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について


日本では、とくに禅僧の書を「墨跡」と称して、これを珍重する風習がある。鎌倉時代は禅林様書道の栄えた時代であるといわれる。芸術と人間との相関性を自覚して、その深まりを求めるところに、道におけるきびしい鍛錬、稽古を行なうのが、禅林様の書道精神である。そこには、男性的、個性的、意力的な書風が成立したと理解されている。
鎌倉時代の禅僧で中国に入国した者は、8、90人にのぼり、その墨跡が将来され、無準師範(1177~1249)などの墨跡は今日なお伝存している。
禅僧の墨跡の特色は一般に中国の古い書道の伝統から離れた破格の書であるといわれる。中国のように、根強い文化的伝統を持つ国では、その伝統に反するものは、これを異端として拒否する傾きがつよい。したがって、中国では禅僧の墨跡はむろん疎外されたという。一方、日本においては、書道の一派をなすものとしてその価値を認めている。ここに書に対する両国の相違を平山観月はみている(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、296頁)。

青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に愛知県に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬章を受けた。

青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)。

石川九楊の書史(中国書道史)の捉え方と中国歴史家や中国文学者の捉え方の相違


石川九楊は「蘭亭序」および書の勉強の仕方について、次のように述べている。
「詳しい事情はわからぬが、中国のことだから、清の乾隆帝が価値づけたという「第一本」「第二本」「第三本」という序列に意味はあったのではないだろうか。
それにしても、と私は思う。なぜ「第二本」を軽視し、「第三本」を不当に高く買うようなへんてこな常識が書道界にまかり通っているのだろうか。ここに現在の書の学習法の間違いがあると思う。
私はどうしても最近の書の勉強の仕方に疑問を感じる。長老書道家は「最近の書道家は勉強しなくなった」とぼやく。「書道家も文章くらい書けるようにしなければだめだ」と小言を言う。それはそうかもしれない。しかし、この時、長老書道家は「勉強」という言葉にどんな意味を込めているかが問題だ。
最近の「蘭亭叙」の研究というと、墨跡本や拓本の種類を探したり、整理することになる。少し漢文が読めると、中国での「蘭亭叙」についての学説の探索や整理ということになる。あるいは中国史学者や中国文学者の後塵を拝するに決まっている王羲之の伝記的穿鑿に走ろうとする。もっと勉強家は、東洋史を勉強して、中国の時代背景や時代思想と「蘭亭叙」を結びつけようとする。
むろんこれらの研究のひとつひとつの進展が、全体として「蘭亭叙」の研究を進めることだからそのこと自体大切で必要なことではある。しかし、これらの研究は、東洋史や中国文学の一分野であっても、それ自体はまだ書の領域での学問ではない。
書をする者にとって書を勉強するとは、書自体を読み込み、解き明かすことだ。書の鑑賞の仕方なんて各人の自由で、いろいろと解釈できるものだというのは、間違った考え方である。書自体を読むとは、文章を読むのではない。書、つまり筆跡の美を読み込むことなのだ。私自身書家でありながら文章も書いているのだから口はばったい言い方になるが、必ずしも書家が文章を書いた方がいいとは思えない。問題はそんなところにはない。それよりも書自体を読み込むこと。読み込んで、読み込んで書を見る眼を微細な感受性をもつものへと鍛えていくことだ。
むろん書についての「見方や解釈は各人の自由」式の印象批評ではしかたがない。書写の過程を追い、その筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかみえた時、はじめて書を読んだと言える。それこそが書の学問の中心に来るべきものだと思う。
それは実作経験者である書の実作者の得意とするところである。「実作者にしかできない」というのは言い過ぎだとしても、日頃筆蝕の中に表現を盛ることに腐心し、筆蝕の意味や価値と苦闘している実作者が最も理解しやすい。有利な位置にあることは確かだ。おそらく微細な読みは、中国歴史家や中国文学者では不可能なことだと思う。もしも書の実作者ががんばって、書を読んで読んで、読み込んだ上で、書について語れるなら(文章に書いた方がいいに決まっているが必ずしも書かなくてもよい。語ってもよいのだ)、そこまでやれれば、その成果は逆に東洋史や中国文学にも益をもたらすことになる。その時、書家や書の研究家は、東洋史や中国文学者や文献学者たちと同列に肩を並べる存在となる。
書の学問というのは、東洋史や中国文学者や文献学者の後塵を拝し、そのまねごとをすることではない。眼前にある書――とりわけその美――を解き明かすことなのだ。
なぜなら、書というのは、意識的か無意識的であるかは別にして、人間の表現したものとして存在している。つまりその表現の美――その意味や価値――を扱わねばならないからだ。」(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、123頁~124頁)

中国史学者(東洋史学者)や中国文学者が「蘭亭序」を研究する場合と、書家や書の研究家(書を学ぶ者)が書の勉強をする場合とでは、学問の領域が異なることを石川は強調している。例えば、「蘭亭序」を研究する場合、前者は墨跡本や拓本の種類の探索や整理、中国での学説整理、王羲之の伝記的穿鑿、「蘭亭序」と中国の時代背景や時代思想との関係を探究することになる。それに対して、後者の書の領域の学問は、書自体(筆跡の美)を読み込み、解き明かすことであるというのである。すなわち、筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかむことであるという。
石川九楊の持論が十分に反映されている記述であろう。

王羲之という名について


草野紳一「心に慕い手に負う―「書聖」王羲之という幻体への作法」(石川九楊『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年所収)に興味深い話がある。

王羲之は、幼時、訥(とつ、吃音)であったといわれる。成長するや、弁が立ったというが、吃音の克服があったという。
長男でなかったらしい王羲之の「羲之」の名からして、名に呪われている。「羲之」の「之」は道教徒たるを示す符名記号といわれている。また犠牲の羊を鋸(のこぎり)で切った形象の「羲」は、羲皇(ぎこう)、太古淳樸の聖天子伏羲(ふくぎ)のことにほかならないという。「易」の八卦(はっけ、はっか)の創始者に当てられ、文字(書契)の発明者にも擬されている。
二十四孝の王祥(おうしょう)以来、名門化した王一族は、二王のみならず、みな筆をよくしたという。この「羲」の名には、聖天子たれというより、書の名人たれの願いが、託されていたのではないかと草野紳一はみている。
父の曠の事蹟は、謎に包まれ敵軍への降伏説さえあるが、どのような気持ちで「羲」とつけたのかと、草野は疑問を投げかけている
(草野紳一「心に慕い手に負う―「書聖」王羲之という幻体への作法」石川九楊『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年所収、82頁)。

西林昭一の「蘭亭叙」についての見解


西林昭一は、西林昭一編『中国法書ガイド15 蘭亭叙<五種>東晋 王羲之』(二玄社、1988年[1998年版])において、「蘭亭叙(ママ)」についての見解を述べている。以下、紹介しておこう。

「蘭亭序」28行、全文324字は、東晋の穆帝の永和九年癸丑(353)の歳、王羲之47歳時(魯一同『右軍年譜』による)の行書作で、書の歴史上最高傑作として評価され、現代になお光彩を放っている。
しかし、原跡そのものの真偽問題をはじめ、伝本各種の評価に関しても、さまざまな論議があって、現在になお多くの問題をのこしている。

「蘭亭序」について事典風にいえばこうである。王羲之が永和9年3月3日、会稽山陰の蘭亭(いまの浙江省紹興県)に、謝安ら41人の名士を招き、袚禊(ふつけい)の礼に行なったのち、流觴曲水の雅宴を催して詩酒に興じた。この時に成った詩集の序文を、王羲之が書いた。その草稿が現行「蘭亭序」の原跡であると伝えている。内容と状態からみれば、蘭亭詩集序稿とでもいうべきであろうが、唐代以前は「蘭亭集序」また「臨河序(りんかじょ、『世説新語』企羨篇および注引)」といい、唐代以後に「蘭亭序」(序を叙と書くのは家諱を避けた蘇軾以後の襲用)、あるいは禊帖(けいじょう)などともいう。

伝来については、唐の劉餗(りゅうそく)『隋唐嘉詰』、何延之『蘭亭記』ほかで小説用に仕立て、いまさら言うまでもないほど有名であるが、唐の太宗が王書を崇尚し、苦労の末、真跡を内府に納れさせ、崩御に臨み、昭陵に随葬させたという。
したがって現存の「蘭亭序」は、貞観年間(627-649)に、搨書人の趙模(ちょうも)、韓道政、馮承素、諸葛貞にそれぞれ搨摹させたうちのある種のものと、欧陽詢、褚遂良らの名手の臨摹させたと伝えるものがあり、中でも欧陽詢の臨本がすぐれていたため、これを刻石したといい、定武本の原石がこれであるという。
ただし、宋以後も臨摹や模勒が重ねられているため、どれがどこまで原跡の面目を留めているか、まさに“蘭亭衆訟”で定説をみない。
また郭沫若は文章そのものが偽託だとする清の李文田の説を襲ぎ、南京象山新出土の王氏一族の墓誌の書体などをも傍証に、現行「蘭亭序」は、隋の智永の作だと断案した(「由王謝墓誌的出土論到蘭亭序的真偽」『文物』1967-6所収)。ただし、この説は、すでに否定の傾向にあるという。

伝来の「蘭亭序」中、搨摹本および臨本には次の6種が現在ある。
(1)「八柱第一本」(北京故宮博物院蔵)
(2)「八柱第二本」(同上)
(3)「八柱第三本」(同上)
(4)「絹本蘭亭序」(湖南省博物館蔵)
(5)「黄絹本領字従山蘭亭序」(台北故宮博物院蔵)
(6)「陳鑑摹蘭亭序」(北京故宮博物館蔵)
このうち(1)(3)は搨摹であろうが、貞観当時のものかどうかは断定できないと西林はいう。
(2)(4)(5)(6)は褚遂良の臨本およびその摹本とみられているが、これまた確証はない。ところで(1) (2) (3)にいう八柱本とは、清の乾隆帝の収蔵品中、「蘭亭序」および「蘭亭」ゆかりの墨跡計8種を、石柱に刻して、かの円明園に置いたことにちなんでの命名である。

八柱石は、1917年、中山公園に移置され、現在、亭を築いて保護されているが、西南の廊廡にはまた、正面に蘭亭修禊図(らんていしゅうけいず)を線刻し、背面に乾隆帝の題詩三首などを刻した石屏があり、この乾隆帝題詩第一首の注に、乾隆43年(1778)、8冊の墨跡を1冊ずつ柱刻した事情をいっている。
この8冊とは、
(1)虞世南臨蘭亭
(2)褚遂良臨蘭亭
(3)馮承素摹蘭亭
(4)柳公権書蘭亭詩并後序
(5)戯鴻堂刻柳公権書蘭亭詩原本
(6)于敏中補戯鴻堂刻柳公権書蘭亭詩闕筆
(7)董其昌倣柳公権書蘭亭詩并跋
(8)乾隆帝臨董其昌倣柳公権書蘭亭詩并跋・題八柱冊並序
である。八柱帖の三本は、乾隆帝の収儲以前、ともに各種の集帖に刻入され、定武本とともにもっとも著名な蘭亭序である。

「八柱第一本」は、本幅は白麻紙本で、高さ24.8cm。巻末に「臣張金界奴上進」とあることで、一に「張金界奴本」という。本幅内には南宋の高宗の「紹興」印をはじめ、明清の鑑蔵印が鈐されている。後幅には南宋の楊益の淳煕5年(1178)の観題をはじめ、明清人の跋十数種がある。明の董其昌跋の中に、虞世南が臨書したものだろう、という説をうけ、清初にこの巻を収蔵した梁清標(りょうせいひょう)は、巻首に「唐虞永興臨禊帖」と標題したことから、乾隆帝に帰して以後、「石渠宝笈」「蘭亭八柱帖」さらには「蘭亭墨蹟彙編」など、ともに虞世南の臨本としている。ただし虞臨とみるのは董其昌の臆断で、何の根拠もない。清の王澍「虚舟題跋」には、褚遂良の臨摹とし、呉升「大観録」には、宋の王著の臨摹本ではないかというが、これまた単なる印象論でしかないと西林は否定している。

原巻は幾たびかの改装の際、汚れをとるため洗われたりして墨気の抜けたあとへ、淡墨で全面に筆を加えてあり、そのため著しく筆勢が殺がれている。西川寧は精到な様式論的考察を根底として、この帖を双鉤本とみ、搨摹本の第一に推している。
また谷村憙斎は、現存の羲之帖に対し、王羲之が一紙8行で2cm間隔に折罫を付けた料紙(右軍箋と命名する)を使用していることを検証し、八柱三本中、この第一本の原跡は、右軍箋を使用していると考証する。が一方、しばしば原本に接したという啓功は具体例を挙げ、宋人が定武本に拠った臨写本ではないかとみている。
刻帖には、餘清斎帖、戯鴻堂帖、玉煙堂本、秋碧堂帖ほかがある。餘清斎帖本と秋碧堂帖本は佳刻ながら刻調にちがいがあり、評価もまちまちである。

「八柱第二本」は、淡黄紙本で高さ24.0cm。前隔水に清初の収蔵家卡栄誉が、北宋の蘇易簡の筆跡とみる「褚摸王羲之蘭亭帖」の題簽があり、褚遂良の摹本と伝承されてきたが、これまた確証はないと西林はいう。
西川寧は、米芾以後の臨本とみている。啓功は初行「永和九年」の右に鈐された「太簡」印を、卡栄誉が蘇易簡と判定したそれは、他から移して嵌めこんだ印であること、米芾の「題永徽中所摸蘭亭叙」(『宝晋英光集』)の末に、題詩中の語が載せられていて、米芾は褚臨本とはみてないとするなどの新見を示し、米芾の自臨自跋ないしは米芾の臨写の重摹本かと結論している。後幅の米芾題詩がすぐれた作風であることから、種々議論があるが、米芾の題詩とそのあとの観款ごと、他から移して改装されたとも考えられている。
いずれにしても、本幅の書風は、筆がもつれて濁り、生彩に乏しい。翁方綱も米臨かとみているが(『蘇米斎蘭亭考』)、米芾のもつ流滑快利の筆致はない。なお、第15行の「怏然」を、この本のみ「快然」につくっている。なお、刻帖は「三希堂帖」のみである。

「八柱第三本」は、白麻紙本で、高さ24.5cmである。古くは前隔水に題簽の右半が残っているように、唐摹蘭亭と称されていた。しかし元代以後、首行の上方「神・品」連珠印の右紙縫に、唐の中宗(在位705-707)の年号である「神龍」印の左半が、また末行「者亦」左方の紙縫に同印の右半が見えることから、「神龍本」ないし「神龍半印本」とよばれるようになった。ただし、翁方綱はこの印を信用していない。
また、明末の所蔵者である項元汴が、馮承素の搨摹と断定したことで、乾隆内府に帰してのちは、馮承素本ともよばれた。しかし、これまた何の根拠もないと西林はみなしている。
本幅内に「紹興」印がみえ、一時期、南宋の高宗の秘庫にあったことが知られる。南宋末に理宗の皇女が楊鎮に降嫁する際に、持参品の一として出庫した、ということが、元の郭天錫の後跋にみえている。
本幅の前後には、夥しい数の収蔵印が鈐されているほか、後幅には、北宋の熙寧9年(1076)の許将をはじめとし、元の趙孟頫ら著名人の跋や観款がつらなる。
また、本幅がはたして搨摹によるか否かも問題がある。啓功は具体的な問題を例挙して、これこそ原本との距離がきわめて近い搨摹本とみる。が、西川寧は敷き写したものとみている。
この帖は、第8行の「和」の旁を「日」につくり、また首行「歳」、3行「羣」「畢」、7行「觴」、14行「静」「同」、23行「死」にいわゆる破筆(はひつ)が見える点や、13行「因」、17行「向之」、21行「痛」「毎」、25行「夫」、終行「文」は、重ね書きして改写した字であるが、墨色をかえている点などからみても、きわめて忠実な墨跡本であると西林はみている。
この刻帖には、集帖本として、「鬱岡斎帖」、「玉煙堂帖」、「墨池堂帖」、「三希堂帖」、「嶽雪楼帖」などの各本がある。また明代中期に、王済が所蔵していたおり、豊坊が手摹し、章乙甫(しょういつほ)に刻させた精緻な単帖がある。この原石は、のち天一閣に伝わって拓本が流布したが、紙本では末の5、6行の行間が詰まっている(啓功はこの点を搨摹本の条件の一つに数えている)のを、この単帖本は行間をそろえ、字間も少しずつ動かしている。その上、紙本にはない「貞観」「開元」「褚氏」「米芾」その他の偽印を刻入している。

さて、墨跡影印本がなく、刻帖によってしか接することのなかった時代に、もっとも評価を得ていたのは定武本で、この一石にのみ諸家の論議が集中した感さえあるので、定武本には一言付け加えている。定武本の生出や伝来もまた多くの謎に包まれている。
欧陽詢が臨書した「蘭亭序」を、唐の太宗が刻石せしめ、宮中に留められていた。この原石は、五代の石晋の乱に、契丹の耶律徳光が中原から奪い取って北へ帰る途中、殺虎林で遺棄した。その後は所在不明であったが、宋の慶暦中(1041-1048)に李学究が定武軍で発見し、ついで宋祁(そうき)に帰した。この発見にちなんで欧陽詢臨本刻石拓本を、定武本とよんだ。熙寧年間(1068-1077)に至り、薛□(王+尚)が定武軍の太守に官したが、拓本を求める人が多くなったので、別に一石を覆刻した。またその子の薛紹彭も模刻をつくった。このとき原石の湍、帯、右、流、天の五字をわざと欠損した。この五字が備わっているときの拓本を「五字未損本」といい、定武本では珍重される。
原石は長安に持ち帰ったが、徽宗の大観年間(1107-1110)に、詔して原石を取り宣和殿に置いた。しかし、靖康の変(1127)で金人に奪去され、その後は所在不明となった(この石は薛紹彭の模刻とする説もある)。

一体、宋代でさえ幾種の定武系があったか。士大夫の家は、それぞれ翻刻の石を持ったというから、夥しい数にのぼったのである。ちなみに、定武原石の単帖で著名なものに、落水本(五字未損本、所在不明。裴景福旧蔵文明書局影印本を啓功は偽物と断案する)、呉炳本(五字未損本、東京国立博物館蔵)、韓珠船本(五字未損本、中村氏書道博物館蔵)、独孤長老本(五字已損本、東京国立博物館蔵)がある。

「蘭亭序」はその原跡の有無も出現の事情も謎につつまれている。したがって、墨跡本や刻帖のいずれがどれだけ原跡に近いかという議論は空転のおそれが多分にある。ただし、現行蘭亭序の原跡が、かりに隋唐期の偽託であるとしても、書としての評価が無になるわけではない。蘭亭序は一見したところ至って平凡な造型のようであるが、西川寧の説く“力の均衡”による、非凡な造型感覚に裏づけされた、遒勁で変化多端な書風を形成していて、これに匹敵する行書作は見出せない。

たとえば蘭亭序の様式をいうとき、何廷之『蘭亭記』のいう「重なる字があると、ともに別体に構えている。之の字がもっとも多く、20箇あるが、変転ことごとく異なっていて、同じ構えは一つもない」が引き合いに出される。「蘭亭序」がこの話に合わせるように拵えた代物であれば、自然な別構にはできない。全文324字中、2回以上重出している字は45例ある。このうち例えば、「所」(7例)、「其」(5例)、「也」「為」(4例)、「有」(3例)といった字は、さほど別構にしたというほどではないが、その他(5回以上重出する例)は、その構えはもとより、強弱、大小まことに変化多端である。
しかも、それぞれが全幅の中にしっくり納まって、不自然さはみられない。こうした面から捉えても、「蘭亭序」の劇跡たる書道史的位置はゆるがないであろう(なお、原跡はやはり王羲之であろうことを示唆する西川寧の「張金界奴本について」(前掲書)の様式論的解明は是非とも参照してほしいという)(西林昭一編『中国法書ガイド15 蘭亭叙<五種>東晋 王羲之』二玄社、1988年[1998年版]、12頁~21頁)

狂草について~張旭と顔真卿と懐素


張旭の狂草が革新の先達とするならば、この気風をなお一層推し進め、発展させたのが顔真卿であるといって過言ではないと田淵保夫はいう。張旭の酒気を帯びた狂草とは異なり、顔真卿の革新的動向は真正面から王法にあたって、王羲之の典型を脱した独特の「顔法」なる書法を創出し、後世への指針たり得るものとしているとみる。

開元年間の末より天宝年間にかけて篆・隷書が流行したが(隷書では徐浩[703―782]、篆書では李陽冰[不詳])、時代の流行から顔真卿も篆隷を熟知していたであろう。特に楷書に篆書の手法を取り入れて新しい楷書の法を完成させたことは、書道史上でも特筆すべきことである。褚遂良は王法のとらなかった隷書をとり入れて褚法となしたが、顔真卿は篆書をとり入れて顔法としたことは正統派に対する反発であり、書道史上における革新といえるものであると、田淵保夫は捉えている(田淵保夫「中唐における革新派懐素の書とその周辺―書道史上よりみた―」『立正大学文学部論叢』53号、1975年、105頁~106頁)。

田淵の参考文献に『書道全集』(平凡社)を挙げていることから、神田喜一郎の見解に影響と受けていることは推測できる。その他の参考文献としては、中田勇次郎『中国書人伝』(中央公論社)、真田但馬『中国書道史』(木耳社)、平山観月『新中国書道史』(有朋堂)、伏見冲敬『書の歴史』(二玄社)などを挙げていることからも、うなづける(田淵、1975年、121頁)。
まだ、1975年には石川九楊の『中国書史』(京都大学学術出版会、1996年)は出版されていない。

書の歴史から見る連綿の表現


石川の連綿論との関連で連綿に関して、他の研究者の見解も紹介しておきたい。
「連綿」という言葉で書を形容したのは梁の袁昂(461-540)が『古今書評』においてであるようだが、書の歴史から見て、字と字を続けて書くことは戦国時代、秦、漢代に遡れるとする見解もある。承春先は秦の木簡や漢簡の出土品、例えば2004年、中国の長沙市で出土された「長沙市走馬楼前漢簡」の中には「属」字や「夫」字はすでに点画の省略と連続線のある書法が現れていると指摘している。

後漢の張芝の登場によって草書はさらに個性化が進んだものと推測され、魏晋南北朝以来、書家の王羲之、王献之父子をはじめ、草書の表現はさらに進んだ。現在二人の確実な真跡と言えるものは残っていないが、搨模本などは相当数ある。それを見ると、草書の中に混在する字と字の連筆の書法はほぼ規範化されている。王羲之が、草書に連綿を表現しようと心懸けていたことは、彼の『題衛夫人筆陣図』の「若し草書を学ばんと欲せば、又た別に法有り。須らく前に緩く後に急にし、字体形勢、状は龍蛇の如く、相い鉤連して断たざるべし。(下略)」(若欲学草書、又有別法。須緩前急後、字体形勢、状如龍蛇、相鉤連不断)といった記事から、承春先は推測できるとみている。

ただし、王羲之の「喪乱帖」「秋月帖」(唐の双鉤塡墨)を見ると、連綿と言えるものはさほど感じとれないと承春先は断っている。例えば、両帖ともに「知足下」という三文字が続けて書かれているが、「喪乱帖」にある「知足下」三字の筆意は強くて連綿より連筆と言ったほうが適切であるという。現在、王羲之の真蹟は残っていないため、彼が言う「相い鉤連して断たざるべし」の実際の姿を確認することはできないが、『淳化閣帖』などの刻本の資料を見ると、「連」と「綿」両方の要素を含んだものはないと承春先は考えている。

唐代の草書は新しい風格を創り出し、王羲之と異なる狂草のスタイルを生み出し、その代表的な作家は張旭と懐素で、その書き方は連綿に近いとみている。張旭の「古詩四首」は初めは小ぶりの字を行書しているが、五行過ぎから最後まで奔放自在な筆法で狂草に近い書である。例えば、「豈岩上登天」五字の書き方は「龍蛇飛動」のように連続する。そして動きの激しい「仙隠不別」「其書非」の連続法は「驚いた蛇が草に入る」という形容を思い出させると説明している(承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年、81頁~85頁)。

承春先は『草書連綿字典』を作ることを試みて、日本で見られる晋の王羲之から清の包世臣まで歴代80人の行草書の法帖にある全ての続き書きを収集し、計6000弱の条目を集めたそうだ。その中、二字の「連綿」は70%以上を占め(4000強)、三字の連綿は15%で(約900)、四、五字の連綿は僅か0.8%で、それ以上の10字を超えたものはたった、1、2点のみであったという。そしてこれらのものも、「連綿」という要素があまり含まれていない連続書きのものであったとする。特に二字連綿の連綿線のほとんどは、上の字の最後の一筆が下の字を書く準備線のような線質で書かれ、連筆としか言えない。三字連綿の場合もほぼ同様で、四、五字のものでようやく「連綿」を感じることができるとしている。また、これらの「連綿」している文字の種類は、「不」「之」「其」「面」「以」「天」「無」「為」「所」という九文字に限られているという。これらの文字の結構はほとんどが独体で、偏と旁からなる他の漢字より「符号」にし易いという特徴を持っていると承春先は指摘している。漢字の草書の連続表現にある程度の制限性が認められるのではないかと推測している(承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年、89頁)。

連綿体について、神田喜一郎も王羲之の「十七帖」との関連で言及していた。
「この法帖に用いられている書体は、単に草書といっても、今日われわれの草書とは異なり、いわゆる独草体と称ばれる種類のものである。一字一字が単独にかかれ、ときには二字ほど続けてかくこともあるが、後に唐代になって発達した張旭とか懐素の書いたような連綿体の草書とは性質がおのずから別のものである。」と。(「中国書道史4東晋」『書道全集』4巻、5頁。神田喜一郎『中国書道史』岩波書店、1985年、86頁に再録)。

※「結構」とは、字画を積み重ねて文字をなす、その構成法を、「構えを結ぶ」という意味で、「結構」と呼ぶ。文字の「構え」に力点(アクセント)を置いた呼称である。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、52頁~53頁)

懐素の狂草について


五代(907-960)では、楊凝式(873-954)が「題懐素酒狂帖後」(『全唐詩』巻715)の中で、懐素について次のように詠っている。
 十年揮素學臨池 十年素(きぬ)に揮いて臨池を学び
 始識王公學衛非 始めて王公(王羲之)の衛(衛夫人)を学ぶことの非なるを識る
 草聖未須因酒發 草聖未だ酒に因りて発するを須(もち)いざるに
 筆端應解化龍飛 筆端応に解(よ)く龍と化して飛ぶべし
(七言絶句平起式、平声支韻池、平声微韻非飛通用)
十年素(きぬ)に筆を揮い修業を積んで、はじめて王羲之の衛夫人を学んだことの非なるを知った。草書の聖人の域を達すると、酒にたよって書かなくても、龍と化して飛ぶように運筆することができるだろう。

王羲之が衛夫人(272-349)の書を学んだことについては、杜甫が「丹青の引」(曹将軍覇に贈る)詩の中で「書を学びて初め衛夫人を学ぶも、但だ王右軍(王羲之)に過ぐる無きを恨む」と詠っているように、唐にはすでに知られていたようである。

しかしながら、王羲之は「始めて衛夫人の書を学ぶも、徒に年月を費やすのみを知る」(『法書要録』巻1「王右軍(王羲之)題衛夫人筆陣図後」)というように、かつて師事した衛夫人の書を貶めており、その一方で、「張(張芝)は、精熟人に過ぐ。池に臨み書を学べば、池水尽く墨となる。……惟だ鐘(鐘繇)、張(張芝)は故(もと)より絶倫と為す。その余はこれを小佳と為すのみ、意を在(とど)むるに足らず」(『法書要録』巻1「晋王右軍自論書」)というように、魏の鐘繇や漢の張芝の書を称揚したのである。

したがって、楊凝式の詩句にいう「始めて王公の衛を学ぶことの非なるを識る」は、おそらく『法書要録』巻1「王右軍題衛夫人筆陣図後」に「始知學衛夫人書、徒費年月耳」と見える、その意を汲んだものと松永恵子は解釈している。楊凝式は、懐素の草書に対して酒にたよって書くだけでなく、書の修練が備わっているとして高く評価したという。

ところで、張旭の狂草についての記載は、『全唐詩』『全唐文』『全五代詩』『全宋詩』などには全く見られないことから、五代および北宋初期では、張旭への評価は途絶えていたようだ。また懐素の狂草についても、上記の楊凝式の題詩の他、数例しか見られないことから、張旭と懐素の狂草を慕う者はほとんど跡を絶ったと松永はみている。

その代りに、北宋の淳化3年(992)に『淳化閣帖』が作られ、王羲之と王献之の書が尊ばれた。このような状況が生まれた要因として、松永は2点を指摘している。
① 唐末、五代の戦乱によって、おびただしい文物が亡失し、南唐や蜀などの一部の地域を除き、文化全般が壊滅状態に陥ったこと。
② 書の流れから見た要因の一つとして、晩唐頃から、狂逸的な草書は主に僧侶によって書かれるようになり、文人との結びつきを失ってしまったと推察できること。もともと狂草は僧侶や僧侶と繋がりのある一部の限られた士大夫によって書かれ、主に僧侶の世界でもてはやされた。その狂草の多くは狂怪になり、正統的な書風から離れてゆき、次第に衰退していき、それゆえ文人による狂草批評も五代から宋初にかけて衰滅してしまったというのである。

ところが、北宋中期の欧陽脩や蔡襄あたりから、正統的な書と世俗的な書への見直しがなされるようになり、再び張旭と懐素への批評が多く見られるようになった。蘇軾や黄庭堅は張旭と懐素の狂草に対する評価を確立した。蘇軾は張旭の「神逸」さを好み、懐素を「道ある者に近い」とし、黄庭堅は張旭の「超軼絶塵」なるところを称賛し、懐素を「書法の極に臻る者」とした(松永恵子「中晩唐から北宋中後期に至る「狂草」評価の変遷」『書学書道史研究』第15号、2005年、44頁~45頁、50頁)。

柳公権について


石川九楊は『選りぬき一日一書』(新潮文庫、2010年)において、柳公権の「神策軍紀聖徳碑」(843年)の中から、なまなましい書きぶりの「幸」という字に解説を加えている。蚕頭(さんとう)型の第2画の起筆、わざとらしい第3画や第7画の終筆は顔真卿ゆずりであるという。そして中国の書論では二人を対比して、「顔筋柳骨」(顔真卿は筋、柳公権は骨)といわれる。ただ、米芾は柳の書を「醜怪悪札(悪筆)の祖」と断じたが、その因(もと)は顔真卿にあると石川九楊はみている。
(石川九楊は『選りぬき一日一書』(新潮文庫、2010年、61頁)

宋代の書について


【唐代から宋代へ】
唐の太宗期には、王羲之の書が普及したが、唐の中ごろからは、かえって俗書とみなされるほどになった。やがて、宋代になって江南に伝えられた伝統文化が主流をなすようになると、もはや士大夫の間では顧みられなくなってしまう(しかし、元代にいたり、趙子昴がでて王羲之の書の復興をとなえるにおよんで、再び「集字聖教序」(唐の僧懐仁がでて、王羲之の書を集めてつくったもの、碑は西安の孔子廟に現存している)の碑が光彩を発揮することになる)。(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、14頁~15頁)。

唐代から宋代への書の特徴は、唐の法則的、形式的な書から、宋の飛動的、個性的な書へといった具合に移っていったものと、捉えられている。換言すれば、唐人が書法や型に束縛されて、生気を失ったのを知って、宋人は唐人の形成した殻を破って、自由に自己を表現しようと考えた。そのために、奔放粗野になり、気品において劣るものの、その意気と努力は壮とすべきであるとされる。そのような革新の巨頭が、蔡襄(1012-1067)、蘇東坡(1036-1101)、黄庭堅(こうていけん、1045-1105)、米芾(1051-1107)のいわゆる宋の四大家である。
北宋の末から禅僧の間に蘇東坡、黄庭堅の書風が流行し、自由奔放な書が多く現れ、日本の鎌倉時代の禅林の間に流行し、やがて茶道と結ばれて、広く愛翫された(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、67頁~69頁)。

中国の書の歴史を振り返った際に、「書はすべからく晋唐を宗とすべきだ」とよく言われる。一般に中国の書に対する関心は、晋唐時代が中心であり、宋元代以降は従来あまり顧みられなかった。
書をやっている人は、一般に晋代の王羲之や王献之、あるいは唐初の欧陽詢、虞世南、褚遂良、そして顔真卿といった中世(ママ)の書家に関心を抱いてきた。晋唐の書を神経質なまでに分析して、とことん習得しようと努めてきた。つまり中国の書の歴史的視野というものは、晋唐に始まり晋唐で終ると見られてきた。そして近世にあたる宋元代以降の書には従来、あまり関心がなかったのが実情であった。

歴史的な書を研究する場合に大切なのは、その時代の資料(史料)であるが、晋唐時代の書の作品は不明瞭な拓本がほとんどである。それに対して、宋元代以降のものは直接肉筆で見ることのできるものである。書法に対する鮮明という点では、拓本の場合のように彫られた上摩滅した解釈のしにくいものよりは、肉筆の方が明白で、筆の動き方などが一目瞭然でよくわかるという利点がある。
今日では晋唐時代の書を異常に高くする偏向した考え方もだいぶ修正され、近世以降の書も、中世の書と同様に重要であると考えられるようになったという。
北宋で書の名家として、蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾という四大家がいる。それぞれに異なった持味の書をつくっているが、蔡襄は廉清、蘇軾は重厚、黄庭堅は俊敏、米芾は繊美と表現される。名人の書がその人格にもつながる質のものであるとみなされている。そこには卒意な運筆が随所にみられ、いわゆる唯美的な表現を極力避けようとしていることが看取できるといわれる。唐代の書家とは違い、技術を至上のものとせず、また他人の模倣を厳しく忌みきらう宋人の誇り高き生活態度を感じとることができるという。
ただ、これらの宋代の四大家は晋唐時代の書の伝統と断絶したところから出たのではなく、宋代は唐代以上に王羲之が尊重された時代であるらしく、四人は四人とも揃って王羲之をよく習ったのみならず、顔真卿をも併せて習っていた。つまり、王法・顔法を一度自分のものとして吸引して、自分の書として再表現される時には、主体的な自己主張の方が表に出て、王法・顔法は技術として形の裏にかくされてしまったのだと青山杉雨は理解している(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、49頁~51頁、65頁~70頁)。


それでは、米芾自身は、自らの書をどのように見ていたのであろうか。この点について、寺田透は、興味深いことを記している。
すなわち、書学士として徽宗皇帝に呼び出さた米芾が、同時代の名書人について、蔡京は筆を得ず、蔡卞(べん)は筆を得れども逸韻少し、蔡襄は字を勒し、沈遼(しんりょう)は字を排(なら)べ、黄庭堅は字を描き(写すようにえがくが描の原義―寺田注)、蘇軾は字を画く(直線的に書くの意で言っていようか。絵のようだという意だろうか―寺田注)などと称して憚るところがなかった。
これに徽宗が、では卿の書はどうか、と反問すると、臣は書を刷ると答えたと伝えられている。寺田透はこの話に次のようなコメントを付している。描、画、刷などの文字の使い方に理解しがたいものはあるが、米芾の自信の烈しさと、気象の強さを窺われる話であるという。
また別の機会に徽宗の命を受け、宮中の屏風に書いた米芾が、自分の字に見とれて、二王(王羲之、王献之)の悪札を一洗して、皇宋(皇帝の時代なる宋の時代)を万古に輝かしたと独語したという話も伝えられている(寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」、中田勇次郎編『中国書人伝』中央公論社、1973年所収、165頁)。

蘇軾の「黄州寒食詩巻」について


「黄州寒食詩巻」の詩文についてみておく。
空庖煮寒菜 空庖 寒菜を煮
破竈燒濕葦 破竈(はそう) 濕葦を燒く
那知是寒食 那(なん)ぞ知らん 是れ寒食なるを
但見烏銜帋 但だ見る 烏の紙を銜(ふく)むを
君門深九重 君門 深きこと九重
墳墓在萬里 墳墓 萬里に在り
也擬哭塗窮 也(ま)た塗(みち)の窮するに哭せんと擬(ほっ)す
死灰吹不起 死灰 吹けども起(た)たず
≪解釈≫
からっぽの台所で粗末な野菜を煮んものと、こわれたかまどに湿った葦をくすべる。どうして寒食の日だと知れよう、ただ紙銭をくわえて飛ぶからすを見るばかり。天子のいますところ、その門は余りにも深く(祭るべき)墳墓は万里のかなた。あの阮籍(210-263、竹林の七賢のひとり)のように、わが生のきわまって道なきを慟哭しようにも、燃えつきた灰にも似て、もはやその力さえも残っていない。

この詩に対して、解説を加えておく。
紙をくわえて烏の飛ぶのを見れば寒食の感慨が湧くのは、烏の嘴にひらひらする紙銭を作って、墳墓を祭るのは寒食の習俗だからである。また「君門 深きこと九重」というのは朝廷に帰ろうにも、その門は九重の深さがあって望みがたいことを意味する。「君門」を言い出したのは、流竄の身とはいえ官吏で、一旦は死に当ると覚悟した罪の一等を減ぜられて、黄州(湖北省)への流刑だけですんだ詩人の心理を暗に伝える措辞と寺田は解釈している。

「九重」「死灰」などいずれも「楚辞」や宋玉の賦に典拠を持つ用語だといわれるが、重要なのは、「也た塗の窮するに哭せんと擬す」という句である。これは杜甫の「章留後侍御に陪して南楼に宴す」の詩に「此の身醒めて復た酔う、塗の窮するに哭すると擬せず」の句を逆転活用したもので、そこに杜子美ほどには現実の中で喜怒哀楽をきわめる詩人でなかった蘇軾の自画像があると寺田はみている。強いて言えば、彼は魏の阮籍のように、塗窮まれば哭して帰ることを自分にふさわしいこととしてひとであるとみる。阮籍も、気のむくままに馬車をやって道をたどらず、車が動けないところに行きつくと、哭(な)いてひき返したという(『書道全集』15巻、165頁。石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、226頁~227頁図版参照のこと。小川環樹・山本和義『蘇東坡詩選』岩波文庫、1975年[1996年版]、207頁~209頁。寺田透「蘇軾 黄庭堅 米芾」『中国書人伝」』所収、1973年、150頁~151頁)。

黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」について


【黄庭堅の「松風閣詩巻」】
「松風閣詩巻」(『書道全集』15巻、図78-85、黄庭堅、崇寧元年(1102)、紙本)
黄庭堅が晩年四川の地方に流謫されてから後の作には特にすぐれたものが多く、この詩巻もその晩年の作として最も著名なものの一つである。彼の自作の「松風閣詩巻」一首を、楷書で29行に書いたもので、落款はない。

「松風閣詩巻」は、黄庭堅の詩集にも掲載されているもので、彼が流謫の身をもって湖北鄂城県の樊山に遊んだ時、この地の風光を愛し、その山中の松林の間にある一楼閣に「松風」という名をつけた時の詩である。
その詩句に「東坡道人已に泉に沈み、張侯何れの時にか眼前に到らん」とあり、この時、蘇軾はすでに没していたし、同門の張耒がこの地へやって来ることになっていたが未だやって来ないという。この詩巻もほぼこの詩を作った頃、およそ崇寧元年(1102)9月、彼の58歳の秋の作であろうとされる。

黄庭堅は唐の顔真卿の書法を学んだとみずから称しているが、この詩巻は顔の書法をよく学ぶとともに柳公権の筆意をもよく兼ねあわせて、円熟の境地に到っている。黄庭堅の禅家のごとき人物と、文学において名高い江西派の祖となったその詩風を味わいながら、この筆蹟を鑑賞することができると中田勇次郎は解説している(『書道全集』15巻、図版解説、中田勇次郎、171頁)。

神田喜一郎による祝允明の捉え方


『書道全集』17巻の神田喜一郎「中国書道史12」では、祝允明について次のように捉えていた。このことは後の著作『中国書道史』(岩波書店、1985年、232頁~233頁)でも再説している。すなわち、
「明代の書家として、最初に気を吐いた巨匠は文徴明(1470-1559)と祝允明(1460-1526)とである。いずれも明の中ごろ、弘治、正徳、嘉靖の三代にわたって活躍した斯道の大家である。しかもこの二人が相並んでいまの江蘇の蘇州の出身であることを注意せねばならぬ。(中略)文徴明と祝允明とは、いずれも王羲之の典型を宗としたが、明初の諸家よりもはるかに天分に恵まれていたうえに、これまでの書家のように趙孟頫をとおして王羲之の書法を学ぶのではなく、直接に王羲之の書法にさかのぼろうとした。これがこの二人の傑出していた点である。それにこの二人になると王羲之の典型を宗としたけれども、必ずしも王羲之にばかり一辺倒するのではなく、いろんな異なった書法をとりいれた。(中略)
祝允明は、李応禎の女婿で、その書は専ら家学にうけたというが、文徴明に比較すると、いくらか力量の劣るのが感ぜられる。またかれの書は古勁であるが、文徴明の書は遒麗ともいい得るであろう。ただ祝允明の書には、どうかすると放恣を極めた草書があって、これがかれの代表的作品であるかのごとく考えられているが、解縉の草書とともに、これは決して本領ではない」と神田喜一郎はいう。

平山観月による中国書道史の捉え方


平山観月は中国書道史のおよその流れを次のように要約している。つまり、上古(秦より以前)に端を発した中国書道は、中古(秦漢から唐)にはいって漢末に大成し、晋魏に興り、唐にいたって整い、近古(宋から明まで)にはいっては、北宋においてくずれ、それ以後、近世(清代以後)を含めて衰退したと平山はみている。
書道の隆昌をみるのは、国家興隆のときであり、またその萎微沈滞をみるのは、国力衰退のときである。まさに書は人をあらわすと同時に、時代の精神、民族の特性を表現するものであるとみる(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、21頁~26頁)。

【書の見方・鑑賞について】
絵画を言葉で表現するのが難しいように、書を言葉で形容するのも困難である。その際に大いに参考となるのが、平山観月『書の芸術学』(有朋堂、1965年[1973年版])という著作である。

東晋時代の王羲之の「蘭亭序」は典雅(端正で上品)、唐時代の顔真卿の「自書告身帖」は雄渾(雄大でとどこうりない)、一方、日本の平安時代の空海の「風信帖」は淳和(てあつくやわらぐ)、同じく平安時代の伝小野道風の「三体白楽天詩巻」は優婉(やさしくしとやか)と形容している。この点について詳述してみたい。

平山は、書道における美的範疇の概念を捉え、中国の書の史的流れにそって、画期的な書人の作品を取り上げ、その美的賓辞について検討している。
たとえば、秦の始皇帝はいわゆる「小篆」を作ったが、その代表的な書跡である「石鼓文」(帝の頌徳の石文)は、蒼然たる色を帯び、かつ荘重、雄勁の点も見受けられるが、まず蒼古にはいるべきであろうとする。

東晋の王羲之、王献之父子は楷行草三体をよくし、「楽毅論」はその細楷として第一位に推されるもので、筆力秀勁、筆法の妙をきわむといわれ、行書の「蘭亭序」、「孔侍中帖」、草書の「喪乱帖」など用筆、結体ともに精妙で、毛筆の極致を示すものといわれている。
王羲之の書体は各体とも貴族的であり、その人間性から発散する縹渺たる仙気は、一種の悠然たる風格が備わっている。この風格は、優婉・淳和・典雅とも呼ばれるべきものであるとする。

続く南北朝時代では、北朝は北方人の雄勁な書風で、南朝は流麗な書風で、互いに対立的であった。しかしその南北の対立は、隋唐において融和し、初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の均斉のとれた書風になった。そして盛唐には顔真卿の豊かな生命感にあふれた書が生まれてくる。唐代の書道の盛大をなしたゆえんは、太宗の力に負うところが大きく、その太宗は帝王中第一の能書家といわれ、王羲之の書を敬愛した。初唐の三大家も王羲之に源を求めているが、虞世南の書は典雅においてまさり、欧陽詢の書は雄勁の趣を加え、褚遂良の書は蒼古の風神を湛えている点に特色があると平山は評している。

一方、顔真卿は唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感の強い剛直の士で、妍美なものに激しく反発し、男性的な重みと、剛気とに満ちあふれた主体的なものの表現を求めたといわれる。
その書そのものが「自書告身帖」にみられるように、壮重雄渾であった。剛毅であり、野逸でさえあるその書風は、まさに「書は人なり」の感を深くする。
その書風は、当時一般に行なわれていた王羲之風の優雅な書風に刺激を与え、書表現の思想や技術が大きく転向した。当時の楷書が隷書に源を求めていたのに対し、顔真卿はさらにさかのぼって篆書にその根底を求めた。だから、顔真卿の楷書は従来のそれに比して、文字の姿態は丸く、線はほぼ楕円形をなし、千金の量感を呈し、雄渾曠達にして度量も広く悠々たる風情があると評せられる。これが顔真卿の楷書の大きな特色である。

次に、宋代の四大家である蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾は、それぞれ個性を発揮して清新な書風を開く。蔡襄の「万安橋記」の書法は顔真卿の型で雄偉、遒麗にして堂々たるものがあり、雄渾といわれる。

蘇軾の「黄州寒食詩巻」の書について、黄庭堅は「疏々密々、意のまま緩急して、文字の間に妍媚な美しさが百出するもの」と絶賛している。それは、現存する蘇書の中では神品
第一と称せられる。平山は、趣向斬新、流麗な筆致をもって鳴るものと評している。
蘇軾は、顔真卿の書を学び、その上古人の書をよく消化し、独創的な個性を表現しようとした。
黄庭堅も、蘇軾と同じく、顔法を学んだ。彼はとくに魏晋の書に見られる逸気を重んじ、晩年には唐の張旭・懐素に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を学んだ。草書の「李白詩憶旧遊」は、超妙脱塵の境地に達した書といわれ、平山は、瓢逸を主として曠達を兼ねるところの逸品と称賛している。
また米芾は晋人の高古の風を尊び、奔放な宋人らしい主観的な書をかいた。「方円庵記」は行書のうちでとくに著名で、その朗暢な書風は宋代随一と称せられている。その書風の淵源するところは、王羲之、褚遂良にあるが、流麗なリズムの中に、斬新な趣向があるといわれる。
このように宋代の書表現は、自由と個性とを中心としたものであった。

それに対して、元代の書は復古主義に戻ったといわれる。元代の趙子昴は典雅な書をかいた。彼は古人の筆跡を慕い、王羲之の書の伝統が唐の中葉以降かき乱され、宋人の書が放縦にして弊が多いのを見て、晋唐への復古を志した。その代表作「行書千字文」は温雅寛博、円熟に達した書であるといわれている。日下部鳴鶴は、「規矩を自然にし、雄奇を清穆に寓す」と評した。平山は、「まさに典雅の賓辞にふさわしい手跡というべきである」と称賛している。

さて、明代にはいっても、書流としては晋唐を目標にし、そこから脱するところまでは行かなかった。その中で董其昌は軽妙で円熟した書をかいた「項元汴墓誌銘」は、行書を交えた楷書で、遒媚にして暢達、当代第一の大家たる気品があるといわれる。
彼は、元の趙孟頫の一派がもっぱら王羲之の形似を得ることに努めた行き方を退けた。そして晋人の書法に造詣の深い米芾や、晋人の精神を得た顔真卿に共感を示したようだ。概して董其昌の書は、枯淡、秀潤、率意の妙においてすぐれているといわれる。平山は、その範疇により、枯淡は蒼古、秀潤は流麗、率意は素朴の賓辞に近いものと理解している。

清代にはいっては、金石学の興起により、再び北朝の書風が復興される。とくに劉石庵と鄧石如が名高い。劉の「砂金箋」は豊潤でしかも気骨を内に蔵し、静かな情趣をたたえた典雅な書風は品格が高いと評される。鄧の「漢崔子玉坐右銘」は、篆隷を当世に生かしたもので、蒼古、渾厚の気がみなぎっていると平山は解説している(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、182頁~192頁)。

西川寧による中国の書に対する見解


西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。

大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子が青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授)である。
中国と日本の書の相違点として、西川寧は次の諸点を指摘している。
①中国の書には根底に建築的な強い骨組があるが、日本の書はそれよりも装飾的なあるいは図案的な平面の調和ということに進みやすい。
②中国の書には深い瞑想的なものが表われているが、日本の書はむしろ叙情的な面に特色を出している。
③中国の書には個性的な体臭というものが強く表われているが、日本の書では、ものやわらかい感覚的な味を求めていく。
④華やかな面をとっても、中国の書には重厚で荘重なものがあるが、日本のは軽い優美さが目立っている。
⑤叙情的な面をとっても、中国の書は強い骨格と重厚な精神とに根ざす複雑なものがあるが、日本の書は軽妙な流れに乗った純粋さが目立つ。

料理に例をとると、中国料理は油っこいが、日本料理は淡白である。日本のは淡白の裏に材料の自然を生かして鋭い味覚に訴えるが、中国の料理は手のこんだ作り方で、色々の材料を綜合的にあつかって、その複雑な味は人間の味覚全体を包んでしまうという。これは、中国の芸術の特色と全く同じであると西川寧は考えている。

もう一歩進めて考えた場合、中国の書は広い意味での論理主義を基礎とし、日本のは直観主義に立っていると西川はいう。これは民族性の違いや風土的な特色でもあり、書のみならず、絵画でも文学でも、この違いがある。
また、日本の優美さや純粋さにはいい所があるが、骨格の弱さや構成力の弱さ、あるいは人間的な深い心がとかく忘れがちになって、味や情緒におぼれやすい所は大きな弱点であると指摘している。西川は、作家の立場としては、この点に注意して、常に中国の書の研究につとめていると述べている(西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]、227頁~228頁)。



【補足】行書の起源と完成について


一般的推論として、古文から篆隷が生まれ、隷書から楷書、楷書の速書きから行書、行書の略化から草書が生まれたであろうということになっていた。しかし20世紀になって漢代の木簡が楼蘭で発見され、この説はくつがえってしまった。
楷、行、草の三体はいずれも漢代に萌芽して漢末には完成していたが、その成立の順序は、草、行、楷と考えられるようになった。

この点を詳述すると次のようになる。漢代の隷書の特長は「曹全碑(そうぜんひ)」のように、横画の終筆を右にはね、のびのびとした流麗な波勢を長くつくっていることにある。隷書をより平易に便利に速く書きたいという要求から略化が進み、草体が生まれていった。木簡の資料が示すように、一字一字独立したいわゆる章草(しょうそう)とよばれる草書が前漢時代にすでにできていた。これは隷書の波勢をまだ残していた。これがさらに波勢を省略して下に続ける工夫が重ねられて、後漢の初めには今日の草書が確立された。

行書の成立は草書よりずっと遅れているが、漢末には完成している。行書も隷書を簡易にしたものといわれている。楷書は行書よりさらに遅れて、漢隷が波勢を失って次第に楷書の姿をあらわしたのは、漢末から三国時代のころであると考えられるようになった。

ともあれ、行書は書をより速く、より書きよく、より能率的なものにしたいという実用上の要求から、点画を続けたり、省略したり、時には筆順を変化させたりして、できあがった書体である。
たとえば、点画が省かれる場合、「雲」や「草」という字では、「雨」の左右の点や「くさかむり」を二つの点にしたり、「然」や「馬」などでは点を三つにしたり、ときには一本の線にしたりする場合がある。

行書・草書の筆順について補足しておくと、たとえば、「禾(のぎへん)」は、楷書では縦画は第三画であるが、行書では第一画からすぐ縦画に続き、その終筆から横画に続くように書く。そのほうが上から字が続いてきたときに縦の流れが出るし、また速く書け、しかも自然なのである。このように行書では筆順が変わる。

草書になると、点画の省略がいっそう激しくなり、形そのものが変わってしまう。たとえば、「人偏(にんべん)」「彳(ぎょうにんべん)」「氵(さんずい)」「言(ごんべん)」はみな同じ形に書かれる。このように、草書では部首の扁(へん)や冠(かんむり)などのほとんどが、何種類のものを同じ形に書く。
たとえば、唐の孫過庭の撰書として「書譜」がある。これは草書の経典であるばかりでなく、その内容の書論は、六朝以来の諸家の書論を集大成したものである。その「書譜」の中の「断可極於所詣矣」の部分について、「詣」の字は、「臨」とか「治」とかいろいろ読まれている。この点、松井如流は「孫過庭考」において、ヘンは言ベンで、「詣」が正しいものとみなしている。その理由は、「書譜」の中に散水を棒のように書いたものはなく、また「臨」と見ることは無理があると主張している(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、193頁、204頁~205頁)。

ところで、隷書や楷書は一点一画を幾何学的に組み立てているので、厳正な整斉美を感じさせる。だから、行書や草書のような流動の美はあまりあらわれない。行書はすらすらと続けて書くから、筆脈が自然に紙面にあらわれ、点画や形に円味が多くなって、自由さと流麗さが加わり、流動感の強いものになっている。
漢代に萌芽して漢末には定形化したと思われる行書は、六朝時代になって、書聖・王羲之の出現によって、完成をとげるにいたった。王羲之は楷行草の完全な普遍的様式化に心血をそそぎ、端正典雅な書風を樹立した。その貴族的気品の高さは、宮廷を中心に中国の人々に愛され、日本においても書法の典型として今日に及んでいる。
王羲之の行書としては、「蘭亭序」、唐の僧懐仁が王羲之の書を集めてつくった「集字聖教序」、そして「興福寺碑」が名高い。「集字聖教序」は、行書の基本的用筆を理解するための千古極則であるといわれる。
行書の古名蹟を見ると、それなりの特徴をもっている。王羲之の「蘭亭序」は、背勢ですっきりとして清冽(せいれつ)そのものであり、唐の顔真卿の「争座位稿」は、向勢で素朴剛健、情熱がほとばしっているといわれる。また唐の太宗の「温泉銘」や「晋祠銘」になると、博大敦厚、悠々としてせまらざるものがあると評せられる(上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]、12頁~13頁、19頁、26頁)。

【補足】つづけ書きについて


よいつづけ書きは、一行の下部がだんだん右の方へ流れるという。それはすぐれた筆者のばあい、文字と文字のつづけかたに無理がないからだといえる。
行頭から行末へすすむ(おりる)にしたがって、右へ流れる運筆の例は、漢字ならば、王羲之の「喪乱帖」、空海の「風信帖」の行書書簡などがある。
とくに日本のかな書道は連綿性がきわだっている。伝紀貫之「寸松庵色紙」や伝小野道風「継色紙」の流れが下部におりるにしたがって特別右寄りになっていることは有名である。
「つづけ書き」(連綿)が、いかに正確に右流れに傾斜して運筆されるものであるかがわかる(駒井鵞静『つづけ字の知識と書きかた』東京美術選書、1990年、270頁~273頁)。

【補足】行書上達のための筆の持ちかた


鉛筆の持ちかたは、中指がうしろ側で鉛筆の軸を支えているが、だいたい人差し指と親指で、文字を書く鉛筆の執りかたである。人差し指と、親指は器用すぎるくらい発達していて、その分、あとの三本の指(中指・薬指・小指)が、かなり鈍くなっている。本当の毛筆感覚というものは、体の中にある。それを育てるためには、中指や薬指たちの後れをとりもどすことが先決である。手首を折り、折った手首の下部を用紙の上に置き、中指と薬指で文字を書く。人差し指と親指は上の方で軸の安定を助ける程度のはたらきをするだけである。
大切なことは、手首を折ることとともに、親指の先を上の方に向けることである。手首をきちんと屈折させ、働いているのは、中指・薬指である。体の感覚で書くことが重要である。指先だけのわるい持ちかたで、カチカチになって執ったのでは、鉛筆であろうと筆であろうと、百年練習したって同じことであると駒井はいう(駒井鵞静『つづけ字の知識と書きかた』東京美術選書、1990年、253頁~257頁)

《参考文献》
【論文】
・田淵保夫「中唐における革新派懐素の書とその周辺―書道史上よりみた―」『立正大学文学部論叢』53号、1975年
・松永恵子「中晩唐から北宋中後期に至る「狂草」評価の変遷」『書学書道史研究』第15号、2005年
・承春先「漢字草書における「連綿」現象再考」『学苑・文化創造学科紀要』第829号、2009年
※これらの論文は、ネットで閲覧できる。興味のある人は検索して頂きたい。

【著作】
平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]
平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]
伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]
鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]
石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年
石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年ⓐ
石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年ⓑ
石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年
石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年
石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年
石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年
石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年
石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊
神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]
神田喜一郎『中国書道史』岩波書店、1985年
松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年
鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]
鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]
会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]
本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年
西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年
西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)
青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年
青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年
西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]
西川寧『書というもの』二玄社、1969年[1984年版]


≪石川九楊『中国書史』を読んで その15≫

2023-04-23 18:00:06 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その15≫
(2023年4月23日投稿)
 

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、結論の次の各章の内容である。
●結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


結論
〇第1章 中国史の時代区分への一考察
・中国書史の概略
・書から見た中国史の時代区分の表
・中国の文字史について まとめ表

〇第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
・日本書史の特徴

〇第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察
・石川九楊氏の中国書史と日本書史の基本的理解について
・文字と歴史
・国字について
・両刃の剣としての漢字について
・『中国書史』後記より





結論 第1章 中国史の時代区分への一考察


中国書史の概略



この殷周代と秦代に挟まれる春秋戦国期に、孔子、孟子、老子等のいわゆる諸子百家が生まれる。その言説は、いかに古代宗教国家を脱け出んとするかのさまざまな思想運動である。このような背景から読み解けば、例えば、孔子の「怪力乱神を語らず」という句は、古代宗教国家からの脱出過程での言辞である。さらに孟子の革命説は、宗教国家から政治国家への革命の正当性を主張したといえる。

ここで西方に目を転じてみると、エジプトの場合、宗教国家から政治国家への転生、つまり象徴記号たる文字から字画文字への転生に失敗したようだ。
ギリシアの場合、字画文字に代わり音写文字(アルファベット)化した。西欧においては、この音写文字化によって、音声言語を根拠とし音声と音楽史を中核とする、西欧型の言葉の文化史を築くことになる。
(この点、東アジアにおける文字と書史と、異なる)
中国の書史は、ヨーロッパの音楽史と同様のものだと考えれば、書や書史への理解も深まることになろう。
ただ、中国の場合、この字画文字の誕生が、古代宗教国家を葬り去り、古代政治・文明国家をもたらした。

したがって、甲骨文の次なる頂点は、列国正書体金文を総括して生まれた最後の列国正書体・秦の小篆である、と石川氏は捉えている。
古代原基宗教性を払拭して字画を成立させ、垂直に伸び、国家を成立させた。(「泰山刻石」の前219年頃が一つの目安である)

秦始皇帝は、車輪幅、度量衡、貨幣制などを定めて、中国は政治と文明の国家へ突き進む。
(それゆえ、実印や印判の文字として2000年以上を経た現在も、篆書体を使用している)
この字画文字=政治文字の創出に至ったという意味では、秦代は、書に喩えれば、春秋戦国期の終筆であり、また漢代への起筆である。
(日本に中国語と文字が流入するのは、最も遡っても、この秦代と石川氏は推察している。それ以前の秘儀的条教文字が東海の孤島まで届くとは考えがたいとする。その意味で、字画文字秦代に中国人・徐福が倭へやってきたという伝説はありえない話ではない。)

字画文字が成立したとはいえ、篆書体の本質は、脱宗教国家宣言にあった。この篆書体をはみ出す、簡牘上の書字の運動は、さらに脱神話性を徹底しており、すでに、戦国期の木簡の文字は篆書体の枠をはみ出し、隷書化していた。
この意味において、隷書は秦の始皇帝時代に獄吏の程邈(ていばく)がつくったというのは、事実はともかく、時代としては十分に符合する。脱神話と正書体として登場するために、いささか無理に体裁を整えた小篆体は、政治国家への転生の象徴の役目をもって終わる。小篆体は、16年で亡んだ秦代と同様に、永続化しなかった。

さて、次なる正書体は、隷書体である。
漢の建国は、楚国の貴族出身の項羽を倒した安徽宿県・沛の農民出身の劉邦によって実現した。このことは、最底辺の「簡」の文字たる隷書体の正書体化とその字姿を暗示している。
隷書体は、横画に主律され、水平を基本ベクトルとしている。つまり、木簡の縦理(め)に抵抗する筆触の発見により造形されたものである。
隷書体の特徴として、次の点を指摘している。
①木簡の理(め)という対象の性状の発見による自己の性状の発見
②縦に伸長した篆書体の垂直体に代わる水平体の創製
古代原基的宗教国家を、垂直化した篆書体=字画文字がこれを無効化したが、その脱宗教化=政治化は引き続き、漢代に徹底されていった。
その脱宗教化の徹底の姿が、隷書体の水平・扁平体の姿に他ならない。その意味で、隷書体は文明文字の誕生である。

ちなみに、「文明」つまり「市民化(シビライゼーション)」とは、文の明らかなること、つまり文字の浸透を意味する。この隷書体が、現在の日本においても、紙幣の文字や新聞の題字として生きているのは、その文明化の末裔に位置しているからである。
おそらくこの紀元前202年から紀元後220年の前漢、新、後漢代臺官の隷書期に、この文明文字は、その担い手たる中国人を含めて、大量に倭の地方へも入り込んだはずである、と推測している。
ちなみに、福岡県志賀島から発見された金印に「漢の倭の地方の奴国王印」とあるように、倭は、大漢帝国の東海の後進地方であった。

ここまでが、東アジアにおける、ひとつの文明啓蒙(エンライトメント)・水平拡大期であった。この啓蒙時代の最終局面に、大秦王安敦(ローマ帝国のマルクス=アウレリウス=アントニヌス)の後漢の朝貢の逸話を想起したい。
いわば国家が徹底的に古代宗教性を払拭して、俗の国家、正真正銘の文明国家として、その頂点の姿を見せていた。たとえば、後漢代の書では、その水平体がその水平性の明証たる波磔を長く、堂々と輝かせ、極端な扁平体を見せている。「孔彪碑」(171年)や「曹全碑」(185年)がそうである。ここまでが、水平体・正視体時代であるとする。

次に、その水平体・正視体を脱し、草書体を書体として認知されるまでに高める。その時代が、東晋・王羲之の時代、おおよそ紀元350年頃である。
草書体の本格的誕生は、3つの点で、重大な歴史的転換を意味している、と石川氏は理解している。
①横画が右に上がる角度体を成立させることによって、文字が背景、つまり人間が自然的社会に貼りついていた段階から、それを浮き立たせ、表現の成立の基礎を整備したこと。
②隷書時代に胚胎した筆触を不動のものとし、字画文字から筆触文字への転生をはかり、現在とほぼ同様の書字を可能にしたということ。
それは、省略された文字と省略されていない文字とを、書きぶりたる筆触(筆順、速度、深度、力)の同一性によって等価交換しうるという方程式の成立をも意味するという。
③この筆触の誕生は、鑿の時代に代わる毛筆表現の時代の到来を意味する。

これらは、歴史を、宗教や政治という背景から剝がし、文明的人間を歴史の中に造形しはじめたということである。
通常の中国史で、六朝期の中世貴族制と言われるものの意味は、このような、政治の背景から、いくぶんか文明的人間の表現が垣間見られる時代になったということを意味する。
(むろんまだ十全のものではなく、書においてもその名の残るものは、東晋の王羲之、王献之父子と北魏の鄭道昭くらいのものであるはあるが)

こうして、草書体は、書史の起爆力となって、その後の歴史を造形した。
草書体が自らを正書体化しようとする運動が、初唐代までに至る書史である。草書体が正書体たらんとして姿を変えるのが、行書体であり、ついに正書体に行き着いた姿が楷書体である。

そして、北魏時代には、「牛橛造像記」(495年)、鄭道昭の「鄭羲下碑」(511年)などの行書体の石刻体が堂々たる姿を石の上に、また、摩崖の上に曝すことになる。
(しかし、それは外に刻蝕を露骨に曝しており、また内には行書体の連続性を失っていないという意味で、極限には至りえなかった)

そして、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書)
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている

649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分される、と石川氏は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成する、と石川氏は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという。
唐太宗時代の楷書体の成立によって、六朝時代に体裁を整えた草書体は、石の上に正書体として聳え立った。それは貴族つまり文明的人間政治の「正書体化」でもあった。
宋に至るまでの精神史上の激震の頂上は、張旭、顔真卿、懐素の8世紀にあった。それは、太宗の「貞観の治」に対する玄宗の「開元の治」の時代である。

【「盛唐」という呼称に対する疑問】
詩の上では、この時代を「盛唐」とよぶ。
ここで、石川氏は、「盛唐」という呼称に対する疑問を呈している。

歴史家も「この開元に続く天宝をあわせて43年間の玄宗の時代には、唐初からつちかわれてきた芽がおいのびて満開の花を咲かせた」(鈴木俊『中国史』)と書く。
しかし、書を見るかぎり、そうとは言い切れないという。
褚遂良の「雁塔聖教序」倒伏の太宗撰文の「序」と高宗撰文の「序記」との間には、後者に乱れが見られる。高宗時代に始まり、則天武后の周王朝を成立させ、やがては安史の乱へとつながる時代の下降の予兆が書き込まれているとする。
さらに、張旭や顔真卿、懐素の姿を見る時、「盛唐」という呼称は、いささかこの時代の姿を見誤らせるように思える、と石川氏は記す。
書が文学である以上、李白や杜甫の詩は、書における張旭、顔真卿、懐素の狂草と類似の表現であったと言える。
初唐代の詩人に虞世南が名を連ねていることを思えば、初唐期までの詩と、杜甫や李白の詩は、楷書と狂草ほどの巨大な差をもつ。

狂草はもはや太宗の草書とは似ても似つかず、顔真卿の楷書は初唐代の楷書と隔絶している。
石川氏は、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分されると考える。
ちなみに、「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に似ているという。
また、安史の乱に立ち向かった顔真卿が、王羲之と並んで書史に高く記されるのは、中国史における安史の乱と均田制の崩壊のもつ意味も含めて考える時に、重大な意味をもってくる。
確かに、唐は黄巣の乱等を経て907年に滅びるわけだが、その滅亡に向かう、すなわち新しく誕生する宋代へ向けての精神は、653年には始まり、その後史を象徴する狂気的姿が、いわゆる盛唐期に出現しているのである。
その点において、唐代を書に喩えれば、旧法の初唐までと、宋代につながる新法の初唐以降とを区別して考えるのがよい、と石川氏は考えている。



宋代、蘇軾・黄庭堅・米芾の「黄州寒食詩巻」(1082年)、「李白憶旧遊詩巻」(1094年以降)、「蜀素帖」(1088年)は、盛唐期に生まれた新法のひとつの帰結として、六朝期以降の筆触史を完全に終わらせ、新法・筆蝕の完全な定着と筆蝕史の新しいスタートを意味するものである。
二折法=筆触時代を完全に脱し、完全三折法=完全筆蝕時代として、筆蝕が角度を組織していく時代である。
(東アジア的「個」は宋代に生まれ、その「個」がいわゆる商品経済を加速する。むろん、それは西欧的、資本主義的近代や「個」とは異なるのだが)

唐代に2万6千字の字数をもつに至り、おそらく宋代には3万字にまで増殖した文字は、全文字が2字熟語形成可能であるとすれば、この時点で9億語という途方のない可能性をもつまでになった。この「言葉」が、西欧では「地理上の発見」時代に可能となる羅針盤、火薬、印刷術の発明などを宋代に発現させることになり、商品経済の発展をもたらした。
宋代に入ると、文字の災厄は、のっぴきならぬ段階に至った。ここに、その文字の抑圧を脱けんとして白話文や詞による口語体運動が始まり、文字を治めんとする皇帝と国家と、白話文や詞による口語体の文学運動とに二重化する。

蒙古族が元朝を樹てるからだろうか、その後の歩みはいささかのろい。
 しかし、「李白憶旧遊詩巻」をふまえて、15世紀後半から16世紀初頭に、祝允明(1460~1528)などの書に、文字が背景を飛び出す姿、つまり人間が背景を飛び出す姿が確認できるという。
(その姿に、宋元時代に始まり明代に活潑化する華僑の精神を重ねてもよいとする。明代から中国人は皇帝と国家の域から離脱し、いわば世界市民意識とも宇宙市民意識ともいうべきものを形成しはじめた。文字の宇宙化に裏づけられた中国の宇宙化という)
そして、17世紀半ば前後、明末清初を頂点とする筆蝕角度を垂直に立ち上げた筆蹟角度正書体とでも呼ぶべき長条幅連綿草が、またひとつの頂点を形成する。

【明末連綿草について】
明末の黄道周、倪元璐や王鐸、傅山等の際限なく文字が連続する型のいわゆる連綿草書体は、歴史的脈略を感じさせない清代の金農、鄭燮を筆頭とする碑学の書と、どのように関連しているだろうか。その解明を放置したまま、明末連綿草と清朝碑学の書の異質な落差を時代のせいにばかりしておくわけにはいかないだろうという。
なるほど副島種臣、中林梧竹、日下部鳴鶴、巌谷一六、西川春洞等、明治維新以後の日本の書の表現の頂上部分は中国の書にならい、それまでの和様、唐様の次元を超えて一変した。そのように、中国の王朝も明から清へ交替したのだから、日本の江戸時代から明治期のように書も一変したと考えられるかもしれない。そして、こと中国の文字や書については、近代以前には、変わらねばならない必然的な内在的な力に従って、自力で書は変わるしかなかったともいう。

さて、明末の連綿草と、蘇軾や黄庭堅、米芾等の宋代行草書との違いは、明末連綿草が一人一型と言ってもよいように、作者の筆蝕が型をもって現れてくるところにある。
①筆尖をこすりつけるような筆蝕の倪元璐
②筆毫をひらひらさせる筆蝕の傅山
③剃刀で剥削(けず)りとるような筆蝕の張瑞図
④速度はもつものの、こすりつけるような筆蝕の王鐸
⑤筆蝕と構成がひねりを孕む黄道周

まさに「狂」と呼ぶにふさわしい明末連綿草を通して書の表現は書史上何を実現していたのだろうかという問いに対して、明代に縦に長い、いわゆる長条幅=屏が生まれたということは、石が紙と化した唐代の位相(ステージ)に変わって、紙がそのまま石=碑に転じたことを意味すると石川氏は説明している。
「微分筆蝕」に自覚的でない間は、傅山のように、篆書体や金文を書いても、本質は行書や草書体にすぎなかったのである。(石川、1996年、第42章の369頁~372頁)

17世紀半ば前後、明末清初を頂点とする筆蝕角度を垂直に立ち上げた筆蝕角度正書体とでも呼ぶべきいわゆる長条幅連綿草が、またひとつの頂点を形成する。
長条幅連綿草は宋代以降の角度筆蝕による表現法の微細化であり、その総括である。角度や距離、展度などを駆使することによって、背景を飛び出していく文字を、いわば正書体として象徴化した姿である。
石川氏の考えでは、東アジア史の別名である中国史はここで終わる。この時代に中国史は総括され、西欧史との緊張と西欧史の吸収の中で新しい歩みを始める。この段階に至ったのは、1700年代半ば、乾隆帝の治政の半ば頃、金農(1687-1763)の無限折法がそれを証す。
この無限折法の成立はすべての書字を自己の微粒子を単位として構築すること、つまり文字も字画も筆触も筆蝕もすべては、自らが組織する以外にないという現代的な段階(ステージ)である。18世紀、清代康熙帝時代を経て乾隆帝時代前半期には中国史は少なくとも意識の上では、現代の段階に立ったのである。

乾隆帝後半時代の鄧石如(1743-1805)以降のいわゆる隷書や篆書さらには篆刻の復興は、中国的枠組みに自閉・擬態することによって自己組織化をはかった。壮年西欧が生んだ青年・アメリカや自らが生み出した幼児・日本のふるまいぶりを測定しているのである。ここに中国が諸外国=西欧近代に対して特異な角度をもつ理由があるという。
以上が、石川による中国史の素描である。これらの過程を歴史区分に結びつければ、次の表のように、630年~650年(おそらく649年)をもって前史と後史を分ける頂点とする六分法となるという。

乾隆帝後半時代の鄧石如(1743-1805)以降のいわゆる隷書や篆書さらには篆刻の復興は、中国的枠組みに自閉・擬態することによって自己組織化をはかった。壮年西欧が生んだ青年・アメリカや自らが生み出した幼児・日本のふるまいぶりを測定しているのである。ここに中国が諸外国=西欧近代に対して特異な角度をもつ理由があるという。

以上が、石川氏による中国史の素描である。これらの過程を歴史区分に結びつければ、次の表のように、630年~650年(おそらく649年)をもって前史と後史を分ける頂点とする六分法となるという。
(石川、1996年、401頁~405頁)。

<書から見た中国史の時代区分の表>


石川九楊氏は、上記のような中国書史の概略を記した後、次のような「書から見た中国史の時代区分の表を掲げている。

第一期――殷・周・春秋戦国(歴史発生時代)――古代
・古代原基宗教国家の疎外と脱宗教化
・文字の時代
第二期――秦・漢             ――古代
・古代政治国家の疎外と文明の疎外期
・字画の時代
第三期――六朝・初唐           ――中世前期
・貴族制と法の疎外期
・筆触の時代・刻蝕の時代
・二折法(折法の成立)
第四期――初唐・唐・五代         ――中世後期
・貴族制の解体と民衆の誕生期
・筆蝕の時代
・三折法
第五期――宋・元・明           ――近世
・商品経済の疎外期
・筆蝕の時代
・角度筆蝕の時代
第六期――清               ――近代
・自己組織化の不可避性の成立と成熟
・筆蝕の時代
・無限折法

<中国の文字史について まとめ表>
・古代原基的(一次的)宗教国家[中国・エジプト]  ――文字(原単位複合)
・秦 ~字画化(政治化)[政治の垂直化]      ――字画
・漢 ~書くこと(書き言葉の成立)       ――字画
・六朝~筆触化(文明化)            ――筆触
・初唐~三次元化                ――筆蝕
・北宋~四次元化                ――角度
・清 ~〃                   ――書字の微粒子的律動
(石川、1996年、405頁)

これらの表は、「第7章  書の七五0年――王羲之の「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで」において、要約した「六朝代から初唐代への転移の構造について」などを参照してもらえば、更にわかりやすいことと思う。(再説しておく)

六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになる、と石川氏はいう。

中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書)
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている

本書の「書からみた中国史の時代区分への一考察」(401頁~405頁)によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分される、と石川氏は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成する、と石川氏は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている

このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったもの、と石川氏は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる。
(石川、1996年、98頁~100頁)

第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学


「日本書史」については、別の機会に詳述したい。
ここでは、日本書史の特徴として、次の点を論じていることを指摘しておきたい。
一、書史の前提を欠く
二、楷書を中心とする楷・行・草の立体的構造に無知
三、三折法の理解が浅い
四、角度を知らぬ

たとえば、「一、書史の前提を欠く」については、次のように論じる。
日本の飛鳥、白鳳時代、つまり中国では隋唐代である。したがって、楷書体成立以降の書が日本の書のモデルとなっている。
このため、甲骨・金文・篆書はもとより、隷書に至るまでの「刻る書」という書史の前提を欠く。後の時代も近代に至るまで、書史の前提に思いを馳せ、この高みを輸入することはなかった。
つまり、本来、書とは鑿で「掻(か)く」あるいは「欠(か)く」ものであり、その姿を筆で「書(か)く」ことの中に写し込むことによって、毛筆書史に転じたという書史の深みを最初から見失っている、と石川氏は日本書史を捉えている。
すなわち、日本書史は、中国を厚みと高さと広がりとする書史という列車に楷行草の時代から途中乗車したというのである。そして、日本は東アジア諸国ではいち早く近代化を達成することによって、また、書史からいち早く途中下車もした。
(日本書史の水準では高峰にあると言えても、中国書史をも含めた東アジアの全体からながめた時には、空海や嵯峨天皇や橘逸勢の書は、おそらく、書史の大海の中のひとつの小波にすぎないともいう。)

一方、中国書史は、甲骨文、金文、篆書、隷書の前史を終えた後は、王羲之を象徴とする六朝書から初唐代楷書を経て、宋代の蘇軾、黄庭堅の時代までで一巡する。さらに、それを出発点とし、明末連綿草、清朝碑学を経て、鄧石如や趙之謙の書の本領が、石そのものを刻る篆刻と化した。このことに象徴されるように、二巡し、書は歴史的幕を閉じた。
 日本書史とは、何かと問われれば、中国を中心とする東アジア書史に途中乗車し、途中下車した歴史である、と石川氏は答えている。
(石川、1996年、414頁、420頁~423頁)

第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察


石川九楊氏の中国書史と日本書史の基本的理解について


石川九楊は中国書史をどのように理解しているのだろうか。一言で要約すれば、中国書史は、自律的に0(ゼロ)→一→二→三→多→無限という見事な論理、つまりリズム法(折法)をもって展開をとげた姿を描いていると捉えている。
これに対して、日本書史は、中国のような見事な展開の姿を見ないという。その理由を、日本語の特質に求めている。すなわち、
「その理由は、日本語が、政治的・思想的な中国語(漢語)を核として、古くからある再編、再構築された孤島語である和語・テニヲハをこれに添え、漢語(音)の裏に和語(訓)を貼付し、和語の裏に漢語を貼りつけた構造からなる二つの異なる中心をもつ二重複線言語であるからです。日本の書史は自律的に展開しようとしても、絶えず日本語の一方の部分である漢語の国、中国からの書(言葉)の流入によってその自律的な展開が阻(さまた)げられ、乱流します。」と。
このように、その理由について、日本語の二重複線言語という特質から、日本書史は自律的展開を、漢語の国である中国からの書の流入によって阻げられたのだというのである。
(石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年、421頁、426頁~448頁。石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、140頁、150頁)。

文字と歴史


「文字の誕生」によって書かれることが可能になり、言葉が記述性や記録性や保存性を獲得したというようなことではなく、それらの文字が言葉の中に還流し定着する構造が文明や文化の展開を担ったのである。
紀元前1400年頃に生じたという中国最古の文字「甲骨文」の数は約3000と言われる。この頃3000の文字が言葉に組み込まれた。文字を組み込んだ言葉は加速度的に増殖し、文字数だけでも漢代には9000字以上、六朝時代に18000字、唐代に26000字、明代に33000字、清代に42000字と驚異的に増殖する。
この文字増殖によって、厖大なめくるめく言葉の宇宙が生まれ、いささかこのエネルギーに現実の社会がふりまわされる「文字禍」=「言葉禍」を招くことにもなり、その整理と統御がいわば為政の中心となるのである。
(石川、1996年、429頁~430頁)

国字について


石川氏の中国書史を以上のように、振り返ってみると、日本文化史についても、鋭い見解を提示しているので、いくつか紹介しておこう。
言葉が文字をもつことによって累乗的に文化を高めるが、中国語の頂上と核心部分を採りいれることのなかった日本は、ついぞ言葉と文化の増殖を実現することはできなかった。
それは倭製中国語=国字が、「峠」や「凩」、「榊」や「畑」、「働」や「辿」などいわば寿司屋の湯呑み茶碗の魚偏の文字程度のものにすぎなかったことからも明らかだろう。それゆえ、日本は中国語の流入という言葉と文化生産のせっかくの機会を、「文字を教わった」という程度に、さしたる意味なく無為に過ごしてきたのであるという。
(石川、1996年、434頁)

両刃の剣としての漢字について


日本人が抽象的思考に極端に弱いのも、また中国人が巨大な文字宇宙をつくり上げたがゆえに、文字に苦しむのもそれゆえであろう。
文字と言葉との乖離という現象も起こすことがある。おそらく、中国史はそこに悩みぬいてきた歴史であると言えよう。そして文字は具体的、現実的な生産物であるから、漢字文化圏においては、文字自体が事物化するという傾向をももつ。声を重視する西欧とは異なり、世界を文字と見なす無自覚的な宇宙観も生まれている。
その意味で一対一・対応性の漢字は文字という枠組みで受けとめることによってきわめて高度な造語力をもつが、同時に悪しき災厄をももった両刃の剣とも言えるのだという。
また文字=書字中心文化圏は「見る」文化であり、中国には註釈と書法の文化があるのに対して、他方西欧の声中心型文化は「声を聞き」「声を読む」、「声」の文化と言ってもよいという。(石川、1996年、439頁)

文字と言葉という観点から中国史、日本人の思考様式などの特徴について鋭い指摘をしている。
そして西欧と中国との歴史を対比的に次のように述べている。
「文字史を欠いた西欧においては、声と音楽の周囲に絵画、彫刻、演劇などを引きつれて表現が展開した。声は浮動的であるがゆえに、歴史の歩みは遅いが、経験主義、実証主義、現実主義の功罪を生む。それに対して、文字史をもつ中国においては、文学と書を中心とする圧倒的な表現に他の表現が吸収された。文字は宇宙化するがゆえに歴史の速度は求心・遠心し、歴史主義、理念主義、幻想主義の功罪を生む」という。西欧近代を絶対視する観点を相対化して、言葉と文字を軸に、東アジアの書は西洋の音楽に相当するはずだという観点からこのような着想メモを石川氏は描いている。
(石川、1996年、405頁)

『中国書史』後記より


石川九楊『中国書史』の後記において、次のように記している。
本書がどれだけ書の評語を豊かにしえたかと問われれば、心許ない部分も多々あるが、と断りつつ、
①書自身をして書史を語らしめるという方法を貫いたこと
②およその書史の展開の構造を描きえたこと
③書の作品の解読を通じて、書の彼方に、わずかではあるが、作者や時代を垣間見たことについては触れている。

中国書史における王羲之のもつ意味の大きさについて、石川氏は次のように考えている。
むろん王羲之というのは毛筆という筆記具に適した二折法筆触の比喩であり、王羲之個人や具体的な王羲之の作品そのものではない。
毛筆に適した二折法(素朴率直)が、毛筆に適さない三折法(立体表現)を完璧に達成するまで、おおよそ350年から1100年頃までの750年を要している。
中国においては書が芸術表現と化すまでにおおよそ750年の歳月をかけていることになる。中国書史というのは二折法と三折法の争闘史であるという理解に達して、王羲之の書史上担う意味つまり二折法をめぐる謎もまた氷解するに至ったのであると石川氏はいう。
(石川、1996年、452頁~453頁)



≪石川九楊『中国書史』を読んで その14≫

2023-04-16 18:00:01 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その14≫
(2023年4月16日投稿)

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。今回も、引き続き、清代の書について取り上げてみる。
●第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
●第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
●第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
●第43章 現代篆刻の表出
●第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
●第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
・鄧石如
・日本の近代書と碑学

〇第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
・何紹基
・何紹基の書の特徴

〇第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
・明代の書
・趙之謙の書~書の終焉

〇第43章 現代篆刻の表出
・呉昌碩と斉白石の篆刻

〇第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
・篆刻の革命家としての呉昌碩
・篆刻としての書

〇第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
・碑学の書
・篆刻という名の書
・斉白石の篆刻
・書の歴史(総括)




第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」


鄧石如


清代・鄧石如の書は中国書史上の一大転換をもたらした。石板や木版刷りの法帖よりも現存する石碑やその拓本を、書の原典の再現性において優位と考え、石碑上に残る隷書体や篆書体を新しい書体として描き出してみせる書のスタイルは、鄧石如に始まるという。
鄧石如と鄧石如以降の書は、新しい型を生み出すのではなく、秦漢の篆書体や隷書体を典型(モデル)としながら、それを毛筆によって擬古的に再現する新しい型を生み出すのである。鄧石如、呉熙載、楊沂孫、徐三庚、趙之謙はあたかも隷書体あるいは篆書体の習字の手本風の共通の表現相をもっている。

金農と鄭燮の生きた時代がそれぞれ、1687-1763年、1693-1765年である。また鄧石如(1743-1805年)、徐三庚(1826-1890年)、趙之謙(1829-1884年)。金農、鄭燮の活躍した18世紀初頭から18世紀半ば過ぎまでと、18世紀半ば以降19世紀の碑学派の書は表現を違える。書を見るかぎりにおいて、18世紀半ば頃に、中国書史には歴然たる亀裂があり、表現上の隔絶が見られるのである。

18世紀半ばにおける書の亀裂の姿は、金農の書と鄧石如の書を比較対照すれば理解しやすい。
横画超肥・長体の金農の隷書体の書や、ガリ版文字のような楷書体の書から、その出発点となった古典がいったい何であるかを思い浮かべるのは困難だが、鄧石如の篆書は「説文解字」や李陽冰と「泰山刻石」「瑯邪台刻石」、楊峴の隷書は「礼器碑」、徐三庚の篆書は「天発神讖碑」、趙之謙の楷書は「龍門造像記」などの北魏の楷書というように、鄧石如以降の碑学派の書はその出自が明らかであり、やすやすとその「お里が知れる」のである。

鄧石如以降のいわゆる碑学派の書は、書の生命であるところの筆蝕的抵抗力を失い、型式という外枠で辛うじて立っている。この意味において、物理的な紙のサイズや文字の寸法は大きいものの、書の表現のスケールそのものは小さくなった。篆刻の世界を「方寸」(一寸四方)と喩えるのにならって言えば、表現自体は小さく「方寸の紙」へと退縮した。
18世紀半ば以降で、画期的な質をもつ書と言えば、劉墉(1719-1804)と何紹基(1799-1873)であってみれば、この時期の清代はもはや新しい書を産み出す力を枯渇させていた、と石川氏はみている。
書自体は表現規模(スケール)の低下と、書史の終焉の始まりの姿を造形しはじめた。
(石川、1996年、351頁、356頁~357頁)

日本の近代書と碑学


鄧石如の書の出現後、法帖に依拠する帖学に対して、石碑、拓本の優位を説く阮元の『南北書派論』『北碑南帖論』が出版される。また包世臣が『芸舟双楫(げいしゅうそうしゅう)』で「逆入平出」を説き、徐三庚、趙之謙等のいわゆる碑学派の書家達が輩出する。
しかしながら、これらの論は、決して普遍的な書論、書史論ではなく、限定的・党派的な理論にすぎなかったようだ。
(この点について、日本の内藤湖南も批判している)
このいささか党派的な書の表現と書論とは、日本近代の書を次の三つの流派(エコール)に造形したと石川氏は捉えている。
① 日下部鳴鶴など、「六朝書」派
② 中村不折と河東碧梧桐による特異な「碑学受容」
③ 副島種臣による中国書史の独自の受容

① 日下部鳴鶴など、「六朝書」派
日下部鳴鶴、巌谷一六、西川春洞等近代初頭の書家達は、日本書史上欠落していた、石刻の書、刻る書の存在に驚き、「六朝書」という名称(スローガン)で、いわゆる北碑の書の学習と定着と普及につとめた。
比喩的、実際的に鄧石如、徐三庚、趙之謙の書の流れの後につながった。
そして、日下部、巌谷、西川春洞、西川寧に至る日本の書壇の主流は、日本における書字の一般的水準を、教育的、習字的側面において圧し上げた。
たとえば、日本の隷書体の看板文字や紙幣の基準体として存在しつづける隷書体は、いわば日本の近代初頭におけるこの「碑学の洗礼」によるものである。また、楷書体と上代様仮名を組み合わせた明朝体を基盤とする印刷文字も、この「碑学の洗礼」による楷書体の一般化のもとに達成されたものである。
この第一の道について、石川氏は次のような意義を見出している。日本書史は、江戸時代までの骨格を失った和様および唐様文字しかもたなかったが、近代という時空で中国石刻文字によって書字の骨格を学んだというのである。

② 第二の道は、中村不折や河東碧梧桐による特異な「碑学受容」である。
中村不折と井土霊山が康有為の『広芸舟双楫』を翻訳し、『六朝書道論』という書名で出版した。それは、「碑学」を語りつつも、石刻の書や刻る書以上に、「六朝期」を書史上のルネサンスととらえる史観で接近したものである。
つまり碑学を六朝書に拡張し、六朝書を「かたり」ながら、近代の書の表現を試みたものである。
その表現は、鄧石如、呉熙載、楊沂孫、楊峴、徐三庚、趙之謙等の型式化した篆書や隷書とはまったく異なるようだ。六朝期の「爨宝子碑」や「爨龍顔碑」等の隷楷体とでも呼ぶべき書風に目を止め、方形の素朴で可能性を孕んだ造型の書を基盤に据えている。そのことによって、西欧近代美術造型の意識を書に持ち込み、日本語の姿を、日本書史にも中国書史にも存在しない書法で描き表そうと試みた、と石川氏は説明している。
そして、この第二の道は、石刻文字の骨格よりも、むしろ中国「六朝期」を「古今集」「新古今集」に対する「万葉集」というような表現上のルネサンスととらえるところに最大の意味を有したとする。

③ 第三の道が副島種臣による中国書史の独自の受容である。
副島の訪清以降の一時期の書に、篆書や金文風の書が見られ、また、その書の「刻りの深さ」の中に碑学の影響が見受けられるそうだ。しかし、その篆書や隷書といえども、筆蝕表現上の厖大な容量はその字体に依存する度合いをはるかに凌ぎ、鄧石如以降の型式化した表現とは全く異なるものである。むしろそれは、鄧石如以前の金農、鄭燮に連なる碑学とでも考える方がよいと石川氏はみている。
京都の南画家・富岡鉄斎の隷書、篆書も金農、鄭燮に連なるとする。そして、しばしば、刀剣の銘文の刻り跡にも似た冴えを見せる中林梧竹の篆隷の書も、鄧石如以降の書史に連なると言うよりも、金農、鄭燮の書に連なりつつ、鄧石如的、篆隷筆法に辿りついたとされる。

このように、近代日本の書は、清朝碑学の受容をめぐる問題として、石川氏は総括している。
① 現在の書壇に連なる日下部鳴鶴、巌谷一六、西川春洞等は、後期碑学派・鄧石如以降の中国書史に連なった。
② 中村不折や河東碧梧桐は碑学派を「かたり」つつ、近代という時空での表現を模索した。
③ 副島種臣は後期碑学派的形骸化には目もくれずに、前期碑学派の後に自らの書を位置づけた。
この第三の道は、鄧石如以降のいくぶんか自閉し、党派化した書史を参照することなく、それ以前の書史に自らの書史をつなげ、新しい書史を日本において展開した。
以上のように、近代日本の書について、石川氏は理解している。
(石川、1996年、355頁~356頁)

第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」


何紹基


何紹基(1799-1873)の書はいつ見ても気持ちがいいという。濁りがなく澄明だ。運筆と気象がゆったりとしていて大きく、また正統でありながら、緻密な謀り事で大胆に定型を逸脱してもいる。その味わいはすがすがしく、書風の育ちの良さ、書風の貴族性は疑うことができない。
外観に反して、何紹基の隷書はのびやかで壮大な気宇をもっている。対して、趙之謙のそれは外観に反して、その構成法、展開法等を仔細に観察すると、とてもスケールが小さい。言ってみれば趙之謙の書は篆刻、「方寸の世界」なのだと言ってもいいだろうという。何紹基の隷書は繊細であり微細であり、きめ細かな思想を背負っているところの書そのものである。
何紹基の書は伝統的であり正統である。その例はひとつの文字の最終画を終わりの意味合いを込めて強くしっかりと書くことだけからも、理解できる。しかもその伝統、正統をふまえながら、それが従来の書に見られぬ書きぶりにまで引き上げたところに、何紹基の書の非凡さががある。
ただし、イメージの暴走と筆蝕の暴走もあるという。
(石川、1996年、359頁、362頁~364頁)

何紹基の書の特徴


清朝は碑学の盛んであった時代である。
帖学に代わって碑学の立場に立った書は多い。そして北魏、六朝の楷書や隷書、篆書、さらには古文を書いてみせた書家も多い。
ただ、作品に即してその中から碑学の最高峰の三人を選ぶとすると、石川氏は、金農、鄭燮、そして時代はずっと下がるが、何紹基を挙げている。
金農は、石碑の文字の、刻る書の秘密に到達して斬り削り、削ぎ落とすような書を残した。また鄭燮は、その石碑文字の奇怪さを知って奇怪な書を残した。
そして何紹基は、彼らとは異なって、碑学とは思わせないような書きぶりの中に隷書や北魏書の精髄を忍び込ませた。碑学的ではあるけれども、何紹基は、碑学主義者ではなかったと石川氏はみている。

たとえば、何紹基の隷書の屏「荘子逍遥遊篇」の作なども、その穏やかに見える書きぶりに反して、スケールのとても大きな作であると評している。
逆に入筆して、多くは下そり(字画の中ほどが下に下がる)に書かれるのびやかな横画が一気に書かれているわけでもないのに、穏やかでのびやかで、不思議に印象的である。

また、何紹基の「行草山谷題跋語四屏」は、書を書く楽しさが満ち溢れている。
生まれた文字達は曲折を秘めつつも、のびのびとその生を謳歌している。生まれ育ちのよい、幸福な文字達であると石川氏は表現している。
そこには北魏、隷書にとどまらず、蘇軾や黄庭堅の姿も見えるらしい。一辺倒の碑学派ではなく、帖学派もしっかりとふまえているという。
(それが時代とともにありながら、時代の流行に堕ちずに、生まれ育ちのよさを秘めている理由であると推察している)

何紹基の生きた時代は、碑学の諸家(スーパースター)が、ぐるりととり巻く碑学派全盛の時代であった。たとえば、何紹基の前に鄧石如、その後に徐三庚や趙之謙、同世代に呉熙載という碑学の諸家がいた。
しかし、何紹基の書は、いわゆる碑学派的ではなく、帖学派でもなく、碑学帖学という小さな党派闘争を超えた存在であったようだ。
その理由を石川氏は次の点に求めている。
何紹基は、「無限折法」を隷書や篆書に擬態的に組織するだけで満足せず、書字の現場をくぐらせることによって、行草書に用いるというスタイルを樹立したことにあるという。
(石川、1996年、368頁)

第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」


明代の書


明代になり、祝允明あたりから、とりわけ徐渭の書に至ると、書の荒れの迫力とでもいうような表現が定着されてくる。墨が渇れただけでなく、荒れたかすれが強く表現され、かすれそのものが筆蝕の速度や深度表現のひとつの武器となるのである。
筆が荒れることは、書の表現史上明代頃になって自覚的に出現してくる。王羲之や孫過庭の「書譜」など宋の時代においては偶然は別にして、祝允明や徐渭によって表現されたような形での「荒れ」や「かすみ」は決して描き出されえない。
微粒子的律動そのものが、その振幅を強めて露出した時、「荒れ」や「かすみ」が造形される。その振幅を強めた筆蝕=「微分折法」の成立が明代の徐渭の文字の極端な大小と落差を伴った大胆な書を成立させたのである。徐渭を経て、「渇れ」と「荒れ」の魅惑的な倪元璐の書も、各体をまぜた王鐸の「行書詩巻」のこすりつけるような筆蝕も、また黄道周や傅山、許友等の大胆な筆蝕の展開による狂ったような造形も可能になった。
明末連綿草と金農等の碑学派との間をつないだのが、書の表現の上から推量すれば、朱耷・八大山人の書である。いわば筆で「こすりつけただけ」にすぎない、俗に言う「みみずの這った」ような朱耷の書が、書史上異彩を放つのは三折法の枠組みを壊すまでにも至った「無限折法」「無限微分筆蝕」の姿をもつからである。
八大山人の書の魅力は、日本人が考えているような、愛らしさにあるのではなく、「無限微分筆蝕」にこそある。つまり朱耷の書はいわば明末連綿草と清朝碑学を結ぶ結節点の役目を担ったのである。
(石川、1996年、370頁~372頁)

趙之謙の書~書の終焉


清朝末期、時代は追いつめられ、書もまた追いつめられていることを趙之謙の書を見ると思い知らされるという。方寸の小さな枠組みという陣地の中に身を置くことによって、辛うじて書は守られているとも言える。ひとつの書の終焉の風景であり、これ以後、中国においては、郭沫若、毛沢東を除けば、これと言える書がほとんど出現しない理由である。中国の書が西欧世界を震源とする世界史の18~19世紀以降の激動と無縁でなくなってしまったせいであろう。
中国書史は東アジア的な枠組みにおいては趙之謙の書をもって終焉する。もっともその起源にまで溯れば、金農、鄭燮で終わりであり、どんなに下っても何紹基で終わったという言い方も可能であろう。
(石川、1996年、377頁)

第43章 現代篆刻の表出


呉昌碩と斉白石の篆刻


書とは異なった表出原理の上に成立する篆刻という芸術がある。
中国明清代から日本の近代、現代の篆刻の印譜(いんぷ、印影集)を時系列的に鑑察していくと、表出が変わったと指摘できるポイントがいくつかある。
中でも中国の呉昌碩(1844-1927)、斉白石(1863-1957)、日本では、河井荃廬(1871-1945)、中村蘭台二世(1892-1969)の印影では、時代を画するほど新しい篆刻世界が表出されている。

呉昌碩と河井荃廬でひとつの大きな変わり目があり、近代的表出であると石川氏は称している。そして斉白石や中村蘭台二世の篆刻が、きわめて斬新で現代的な表出に転じている事実は多くの人に共有されるようだ。

表出された印影自体に即して印影のどこがどのように転位したことが、近代的、現代的世界を表出していると言えるかどうかについて、具体的に石川氏は解説している。
石川氏は、印と書の表出上の最も本質的な差は輪郭の有無にあると考えている。
文字や絵が輪郭や枠で囲まれているのが印、囲まれていないで開放された場に文字が浮かび上がるのが書であるとする。その姿を思い描けば、印と書の本質的な差を確認できるという。

呉昌碩の篆刻がある近代性を備えているように見えるのは、その最も本質的な点で、篆刻が「風化」「風蝕」の美を再現することに気づき、文字の「風化」や「風蝕」の姿を人工的に描き出した点にあると石川氏は主張している。日本でその姿を再現したのは、河井荃廬だという。

輪郭の周囲を砕き、砕いた姿が人工的に再構成されている例として、呉昌碩の「石人子室」の朱文(文字が朱色で現れる)の印は代表的である。
呉昌碩の「石人子室」は、「風化」「風蝕」の美を抽象的、人工的に大胆に構築している。呉昌碩の印では刻ることがそのまま欠けることであるような刻法の段階(ステージ)にせり上がっている。この点で篆刻の世界では、呉昌碩を近代篆刻の父と考えるのは理由のないことではない、と石川氏は考えている。

そして、呉昌碩の到達した篆刻の表出段階(ステージ)をさらに推し進めたのは斉白石である。
白文「老白」の四隅は、自然のはたらきを連想させる「風化」や「風蝕」ではなくて、印面や輪郭、枠や輪辺の人工的変形という段階(ステージ)にまで圧し上げられている。「白山」の印のいわゆる欠けは、もはや「風化」や「風蝕」を再構成する姿から遠く隔たっており、代わって、白文の場合に字画の片側だけを斬り割(さ)く、単刀直截法によって、石を斬り割いたという雰囲気の字画が出現している。
ここでは印刀が石を斬り砕く刀痕=刻痕=刻蝕=筆蝕が露出している。
(この筆蝕の露出を好ましく思ったからこそ、彫刻家・高村光太郎は斉白石の刻した「光」の印を終生愛用しつづけたとされる)

趙之謙等によって自覚的に発見、再現された「風化」「風蝕」の欠けは、呉昌碩によって人工度を増して「風化」「風蝕」の範囲から、剝がれはじめる。ついに斉白石に至って、「風化」「風蝕」とのつながりを基本的に断って、刻蝕=筆蝕となり、刻面の構図、構成の現出のために従えられるようになった。

字画の輪郭の欠けは、自然との一体性から離れて表現の武器に転じたと石川氏は捉えている。つまり、篆刻の近代が「風化」「風蝕」の美を人工的に再現しようとしたのに対して、斉白石と中村蘭台二世は「風化」「風蝕」の美学の延長線上に、篆刻を新しい段階(ステージ)へせり上げた。異空間を形成する輪郭、輪辺こそ印の証しであったが、斉白石と中村蘭台二世はその輪郭を消し去ろうとした。
(そのおそらく無意識の試行は、篆刻が印であることから脱して書に近づこうとしている姿に違いないともいう)

斉白石の篆刻の斬り割いたような字画刻蝕、中村蘭台二世の斬り込み、刻み込む字画刻蝕は現代の書にも似た筆蝕を表出している。この頃からの書の「にじみ」や「かすれ」は、篆刻の「割れ」や「欠け」の比喩としてつながる構造が成立するようだ。
(現代日本の篆刻家や書家達が呉昌碩までは評価しえても、斉白石になると、「格調が低い」とか「泥くさい」とか評せざるをえないのは、斉白石段階(ステージ)の篆刻について評する言葉を新たに形成しえないでいるからだと石川氏は批判している)
(石川、1996年、378頁~384頁)

第44章 境界の越境――呉昌碩の表現


篆刻の革命家としての呉昌碩


呉昌碩は、自らの芸術を篆刻第一、書第二、画第三と評した。
石川氏は、やはり、呉昌碩は篆刻家であるとみている。篆刻にひとつの革命をもたらした大篆刻家であるというのである。つまり、呉昌碩の書も絵も評判の高いものであるが、それらは篆刻ほどのものとは思えないようだ。
(石川氏によれば、呉昌碩の書いた書は篆刻であり、描いた絵もまた篆刻であった。ここに呉昌碩の表現を解く鍵があるとする)

呉昌碩の篆刻が、趙之謙までの篆刻表現の水準を超えた最大の特徴点は、「境界の越境」にあると石川氏は主張している。ここに、呉昌碩による篆刻の革命があった。
たとえば、朱文「蘭阜髙興」の印を例に挙げている。この印では、文字と飾り枠が一体化している。この表記は伝統的に言えば、きわめて異様な構成法である。文字の本体をなす字画と輪郭と結界線は異質の水準のものであるにもかかわらず、呉昌碩は同質のものととらえている。

篆刻の本質を「風化風蝕」の美学に高めた呉昌碩は、「風化風蝕」の比喩として字画や輪郭を徹底的に欠かす。つまり、字画と、輪郭と区切り線の境界の越境である。
呉昌碩の印の中でも傑出した作である「大龢(和)元気」にも、その姿を見ることができる。「龢」字においては、字画の中央まで虫に食われたような状態に刻られており、かつその姿がなかなか見事な決まり方をしていると評している。
このように、呉昌碩は、篆刻の美の秘密が「風化風蝕」にあることを知り、かつ表現した。呉昌碩は、字画と非字画、輪郭と非輪郭の間の境界を越境し、両者の対立をぼかし崩している。

呉昌碩の印は穏やかだが、また鈍重である。
対して趙之謙の方は、字画間に緊張があり鮮やかで鋭く、また刻られなかった朱の部分も鮮やかに目にしみるという。趙之謙の白文の印の緊張は、朱を鮮明にきわめ立たせ、疎・密、すなわち朱と白との対立的戦略(篆刻法)を駆使している。呉昌碩と較べれば、趙之謙は字画構成も水平・垂直に近づけ、また字画の太さも均質にし、字画の両端も抑制的に整えている。
呉昌碩は、字画構成の疎・密においても、その疎密の境界を越境し、取りはらおうとしている。趙之謙によって鮮やかになった疎密を再び越境しようとしている。

趙之謙は極限と対位法を知り、それに拘泥した一級の篆刻家であった。その趙之謙の書は、もっぱら「逆入平出」の運筆法に従ったように、印もひとつの定法を発見した後は、その法に従った。趙之謙の印は、おおむね白文の字画は太く、朱文のそれは細い。
一方、呉昌碩は、白文も、朱文印も、ともに字画が太いか、あるいは中間的であり、対位法の無頓着、あるいは対位法の越境の姿を見せている。

趙之謙の印も呉昌碩の印も、ともに日本では、人気のある篆刻である。
むろん対位法を際立たせた鮮やかで都会的な趙之謙よりも、さまざまな段階で境界を「くずし」「ぼかし」た暖かみ(ママ)と野趣がある呉昌碩の方が人気が高いそうだ。
しかし、その野趣に見えるところが単なる野趣にとどまらず、字画と輪郭、字画と非字画、存在と非在の境界を溶かしてみせるというような、通常は思いつかない革命的な仕掛けをもっているところが、呉昌碩の篆刻の真の非凡さであると、石川氏は評している。
(石川、1996年、385頁~388頁)

篆刻としての書


呉昌碩の「壽蘇詞」は、呉昌碩が長尾雨山に送った書である。
これは篆刻家の書である。書家なら決してこうは書かないし、書家としてはありえない書であると石川氏はみている。
この書は比喩的に言えば、隷書体的字画で書かれ、字画が密に描かれているところは篆刻的篆書を思わせている。
清代の王澍は、その著『論書賸語』の中で、
「結字、すべからく整斉中に参差あらしむるべし」
「篆書に三要あり。一に曰く円、二に曰く痩、三に曰く参差」
と記している。

書は整斉と参差を武器として成立する表現である。整斉とは、均質と統一、つまり和音、参差とは微妙な差、落差つまり音階であると石川氏は説明している。
整斉であると同時に、参差の微妙は書の表現に不可欠の要素である。書は和音(反和音)と音階(反音階)の美学でもあるというのである。
そして、呉昌碩の「壽蘇詞」という書は、整斉はともかく、参差の表現の微妙度が足りないと評している。この書は、いわば「和音あって、音階なし」の画一の世界として描き出されているという。
(石川、1996年、389頁~391頁)

第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現


碑学の書


碑学の書と一口に言っても、いわゆる楊州八怪の金農や鄭燮の碑学の書は、その後の鄧石如、呉熙載、楊沂孫、張裕釗、徐三庚、趙之謙等の書と相当貌立ちを異にしている。後者の中で異色の存在が何紹基であり、多少異質な存在が張裕釗であり、その碑学の書の最後に趙之謙が位置するという。
これらの碑学の書の中で魅力的なものは、金農や鄭燮のいわば前期碑学派の書である。
ところが鄧石如、徐三庚や趙之謙ともなると、書はある種の型として膠着し、安定した趣のものと化している(石川、1996年、第42章の372頁)。

篆刻という名の書


鄧石如、呉熙載、何紹基、楊峴、張裕釗、徐三庚、趙之謙等の活躍した中国の18世紀後半から19世紀は、中国碑学の黄金時代であった。
ところが、一転して20世紀に入ると書として見るべきものは少ない。呉昌碩や康有為の書あたりでは、ちょっと首をかしげざるをえない。毛沢東の奇筆と郭沫若の正系の書には興味をそそられるが、これらとて書史上の何事かであるとは言い難い。だが、呉昌碩と斉白石の篆刻は注視に値するという。
(石川、1996年、395頁)

斉白石の篆刻


彫刻のような高村光太郎の書の傍らに添えられた刻蝕の鮮やかな「光」の印がある。この「光」の印は斉白石(1863-1957)の手で刻られたものである。

呉昌碩と斉白石の篆刻は注視に値すると石川氏は評価している。
呉昌碩の篆刻が、近代の篆刻の中で、標準(スタンダード)の位置を占めるのは、それが、篆刻の美学を風化・風蝕の美学として実践的に確立した点にあるとされる。文字の字画や輪郭や輪辺を欠かし、その欠けをあたかも自然の営為による風化・風蝕であるかのように、再構成したと石川氏は捉えている。

一方、斉白石の篆刻はどうか。
その鮮やかさは、字画や輪辺の欠けや割れの背後に幻視された自然の風化、風蝕の厚みを鮮やかに剝ぎ取って、直截的な字画や輪辺の割れや欠けをそれ自体として、つまり字画の変形、歪形として提示している点にあるという。
この点で、斉白石は呉昌碩の表出の段階(ステージ)をはるかに抜きん出ていったようだ。
斉白石のいわゆる「単刀直截」法による、ガリガリと石を削る音の聞こえるような字画は、篆刻の表出の次元を変えた。伝統的な見かたからすれば、篆刻をねじ曲げている。

20世紀に入って魅了する中国書の少ない中で、斉白石の篆刻は、光を放っている。中国の書は、20世紀に印という小さな表現空間に立て籠ることによって、書の段階(ステージ)を圧し上げたと石川氏は評している。
少なくとも斉白石の篆刻には、東アジア漢字文化圏の芸術がひとつの臨界に届いて苦しみ、かつ自らの可能性を全開している姿があるとみなす。

ただ、斉白石の篆刻には、「格の低さ」という評価が、最近の日本の篆刻界には定着している。
斉白石の篆刻の世界が深さと重厚さを欠如し、表層的浮薄に見える点が指摘されている。正方形の四つの角を人工的に少し丸めただけという不自然な輪辺作法(さくほう)が、印面の厚み感を欠落させ、薄っぺらな感じをふりまいているという。
この点、薄ぺらな印面と深く鮮やかな字画刻蝕という対位が斉白石の篆刻の特異性であると石川氏は考えている。
(石川、1996年、395頁~398頁)

書の歴史(総括)


甲骨文に始まり、金文、篆書、隷書、草書、行書、楷書という書体の転遷を達成し、古代宗教文字から政治文字、文明文字そして言葉の文字へと転生し、その内部にあっては文字を書くことから字画を書くこと、さらに筆触、そして筆蝕を書くことへと展開し、また二折法から三折法、三折法から多折法、多折法から無限折法、無限微分筆蝕へと書史は発展した。その背後に、刻蝕と筆触との争闘の歴史があり、今なおその闘いを永続しているのであるという。
(石川、1996年、398頁)


≪石川九楊『中国書史』を読んで その13≫

2023-04-09 18:00:18 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その13≫
(2023年4月9日投稿)

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。今回は、清代の書について取り上げてみる。
●第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
●第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
●第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
●第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
・不思議な書である朱耷の書

〇第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
・金農(冬心、1687-1763)
・日本での評判が高い金農の書と画

〇第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
・鄭燮の「懐素自叙帖」

〇第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
・劉墉の「裴行検佚事」
・劉墉の「裴行検佚事」の筆蝕




第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」


不思議な書である朱耷の書


八大山人・朱耷(しゅとう)の書は、不思議な書であると石川氏は評している。
まず、棒状の書線も不思議である。そして朱耷の「臨河叙」には、「會」字のように、一字を構成する字画ブロックが右下へと切れていく文字があるし、「脩」字のように、逆に左下へ切れていく文字がある。しかもそれが、必ずしも有機的なつながりをもっていない。

それでは、朱耷の書は大した価値なきものとして看過できるかと言うと、素朴なたたずまいがある。
また、中国書史には、100年以上後に、清朝の伊秉綬(いへいじゅ)という、似たような味わいを引き継ぐ書家がいる。だから触れないですますわけにはいかない。

朱耷のほとんど均一な太さの書線の書は、いささか「けち」な書であるとも石川氏はいう。
毛筆の筆尖がこすり切れた、いわゆる「禿筆」で書かれたと推定される。
朱耷作「臨河叙」は、字画の太さが、原物で1センチ内外の一定の太さで書かれている。つまり、その書線の状態は、鋭利な三角形の切り込みがなく、均一の太さである。

そして、石川氏は、この作品を次のように特徴づけている。
・朱耷作「臨河叙」は、筆毫の「あたり」部の近辺を用い、筆毫は垂直気味で、いささか無造作な「トン」と下ろす起筆に始まり、鋭い角度も苦心の距離も見かけられない書である。
・筆毫の開閉度である「展度」も、「禿筆」のせいもあろうが、ほとんど一定であり、変化に乏しい。
・その最大の特徴は、力の加減状態が表面上に姿を曝さぬほどに内向し、「けち」られ、「展度の一定性」とも呼ぶべき姿を実現しているところにある。
・朱耷の「臨河叙」に、従来の書には感じられなかった素朴さを鮮明に感じるとすれば、それは筆蝕の劇(ドラマ)である以前に、「展度の一定性」が、いくぶんか対重力表現を減じ、絵画の描線のような質を盛っているという点にその理由を求めている。

一般に朱耷の書は、筆毫の開き具合に発する「展度」が一定化の傾向を見せ、「縦肥横痩」の原則(縦画は太く、横画は細くの原則)から、いくぶんか自由である。朱耷にとって書字することが、描画するような位置へ移動(シフト)しており、朱耷の書は、絵画的であり、いや絵画であると、石川氏はいうことができるとする。

「展度の一定」をもたらす第二の理由は、筆蝕の無限微分である。字画が均一な太さで書かれるためには、筆毫の抑揚が抑制され、筆尖に伝えられる力が一定性をもたねばならない。筆毫の抑揚が抑制されることは、どの瞬間においても、たえず力を加圧されつづけるということであり、それは「筆蝕の無限微分化」によって可能になると、石川氏は理解している。
(石川、1996年、321頁~323頁)

第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」


金農(冬心、1687-1763)


金農の書「横披題昔邪之廬壁上」は刀を呑み込んだ書であるという。
40歳前後の書と言われる「臨書・華山廟碑」は中国の同時代の一般的な書法による隷書表現であることを超えるものではない。ひとつの「金農らしさ」=個性(個性とは歴史とのせめぎ合いから生まれるものだ)が、うかがえるようになるのは、40歳代中頃の作と言われる「茶説」あたりからであろう。
金農の書の歩みを見ていると、本質を抽象化する卓抜した力に驚く。まずは隷書にとってはなくてはならないはずの横に長く伸びる波磔画を短く退化させた点に「らしさ」の誕生がある。隷書であることの証であり、それゆえ長く伸ばし、強調すべき波磔画と波磔を逆転的に退化させたのである。なぜかといえば、隷書の本質が横へ伸びる力・ベクトルの集合体であることをつかんだからである。

このように、40歳代中頃の作といわれる「茶説」あたりから、隷書の本質を抽象化する卓抜した力が看取できると石川氏はみている。つまりこの頃から、隷書の本質が横へ伸びる力・ベクトルの集合体であることをつかんだという(石川、1996年、329頁~330頁)。

金農の最晩年、76歳に登場する「横披題昔邪之廬壁上」は究極の「切り削り」の書である。慎重かつ大胆な姿は、金農の書の辿りついた究極の姿と言ってよいだろう。すさまじいとしか言いようのない書の姿である。金農は書史を逆転して見せた、おそるべき巨人である。そしてその金農の表現を可能にした中国清代、乾隆帝の時代というものの底知れない深さをも同時に知ることになるのである。書写の微粒子的律動という書字を構成する単位が、自らの姿を露岩した、この「無限折法」こそは書がいわば近代的段階(ステージ)に立った証明である。「書は筆蝕の芸術であり、筆蝕の美である」ことをどのような言葉を費やした証明よりも、はるかに雄弁に宣言している。書自身が書史の展開を通じて、ついに自らを批評し、論述したのである。
(石川、1996年、335頁)

日本での評判が高い金農の書と画


金農の書や画は、日本でも評判が高く、ファンも多い。
画家・橋本関雪に「読乞水図」というエッセイがある。芥川龍之介は金農の字に小穴隆一の字が似ているので、複製を見せてあげるという趣旨の葉書を出しているそうだ。武者小路実篤は、金農の画を「平和な落ちついた処があるやうに思ふ」と、「石涛雑感」の中でほめている。自らも一見金農に似た書を書いた、画家の中川一政は「書について」の中で、金農を高く評価している。
石川九楊氏は、「金農の書はすごい」と評している。金農の書は奇抜な書には違いないが、、実際には本格的な研鑽に裏づけられた、書史上に聳え立つ書であるとする。
(石川、1996年、329頁)

第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」


鄭燮の「懐素自叙帖」


鄭燮の「懐素自叙帖」は、狂草で有名な唐代の懐素の「自叙帖」の一部を書いたもので、スケールの大きな作である。
一見楷書風だが、実際はいくつかの書体がこきまぜられている。鄭燮のこの書では各体入り乱れている。この「懐素自叙帖」の書体は楷・行書主体であると言えるだろうが、そこには草書も隷書も交じっている。

鄭燮は筆毫に角度をもち、筆毫を開きつつ圧しつける。つまり筆毫の可能性の限界、極限までを定めようとしているのだ。筆毫の極小と極大の極限をたえず抱き込みながら書いている。筆蝕はいつも豊かである。痩せず、枯れず、潤いがある。この両極を抱いている鄭燮の筆蝕はどのような事態にも対応できるようにいつも張りつめ、いつも身構えている。鄭燮の文字造形法、構成法も卓抜である(石川、1996年、336頁~339頁)。

書というのは筆蝕の芸術であり、その筆蝕は時間=速度と空間=深度の函数として現れるというのが石川氏の書の持論である。
筆蝕上の力点が鄭燮においては、空間=深度に置かれている。各書体のこきまぜといい、大胆な転調はその筆蝕自体に込められた筆蝕の空間=深度性に主律された時間=速度の分節的統合に支えられている。つまり時間=速度を軸に空間=深度を従えるのではなく、空間=深度を軸に時間=速度を従えているのである。
鄭燮はおそらくはその文字の大小落差の巨大さを徐渭などに学びながら、徐渭から明末諸家の速度=時間主導型を超えて、空間主導型へと筆蝕を転換し、転換することによって、徐渭の時間=速度主導を超え、明末の書のステージを超えたのである。
この明末連綿諸家の改良的な書と、清代鄭燮や金農の革命的な書との差は、明末の傅山が篆書で書いた長条幅の書と較べてみるとわかりやすい。傅山の篆書体の書は行書体の書と何ら変わりのない速度=時間性の筆蝕で書かれている。
(石川、1996年、339頁~340頁)


第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」


劉墉の「裴行検佚事」


劉墉(石庵)の書はけったいな書である。「けったいな」というのは、「希代な」「世にも稀な」という語がなまって生まれたという説もあるから、その意味をも含めてけったいな書である。
線の肥痩の落差の大きさは、趙孟頫や鮮于枢ら元代の書とのつながりを感じさせ、筆蝕そのものの抑揚の大きさは黄庭堅を思わせるところがあり、蘇軾のように筆蝕にばねをきかせるところがある。また抑揚の大きさにもかかわらず、曲折がなく、ぽってりとなめらかな筆蝕には王羲之や智永がおり、転折を見せず、曲折の少ない「ころころした」という表現にふさわしいいささか素朴な文字構成には鐘繇の影響を見てとることができる。
劉墉はさまざまな歴史上の書を習得し、それらの影響によってその書が生まれたと多くの書評家は説く。また劉墉の書に後続する鄧石如、呉熙載、楊沂孫、徐三庚、趙之謙等の北派・碑学派との比較で、帖学派の書として、その書の歴史的価値を多くの書評家は一般に定める。
確かにその通りなのだが、劉墉の書の価値はそれら古典の影響や帖学派であること自体にはなく、劉墉の書そのものの世界つまり表現そのものの中にあるはずだ。劉墉の書の価値、それは一体何なのだろう。そのひとつの秘密は「兎糞」「墨猪」にあるという。
つまり、劉墉の書の価値の秘密のひとつは、その字画のころころ形状や字形から「兎糞」と呼ばれ、また「肉あって骨なし」という意味での「墨猪」と仇名されるところにあると石川氏はいう。(石川、1996年、343頁~345頁)

劉墉の「裴行検佚事」の筆蝕


大方の評者は、劉墉の小楷(小さな文字で書かれた楷書)を評価するようである。
しかし、石川氏は「裴行検佚事」に見どころがあるという。表面加工された蠟箋に相当な濃墨で書かれた、いわゆる「墨猪」の書がよいらしい。

書する者にとって墨の濃度の選択というのは、思想であり、スタイルであるといわれる。ひとりの作者には一定の墨の濃度の選択の型がある。劉墉の場合、濃墨であった。ちなみに、現代の書家・比田井天来は濃墨を選びとったのであり、鈴木翠軒は淡墨を選びとった。

さて、劉墉の「裴行検佚事」の筆蝕(書きぶり)について、石川氏は、次のように想定している。
「どろどろ」になるまでよく摺った墨を相当上等な筆につけた状態を思い浮かべてみるのがよいそうだ。そして、上等の筆とは、細い、つまり多数の獣毫でできていながら、かつ腰のある入念につくられた筆を指す。この作品をなぞると、途中で筆尖が二つに割れることがあり、肥痩の落差が大きいから、比較的軟らかな短めの穂の筆と石川氏は推定している。その「どろどろ」とし、「ぽちゃぽちゃ」した状態が、この書を書いている時の筆毫の状態であると思えばいいとする。
この関係に生じる筆蝕の劇(ドラマ)が、この「裴行検佚事」の書の劇(ドラマ)であると理解している。

この筆と紙との関係である、この筆蝕関係に生じる「裴行検佚事」の書の最大の特徴は、「すべり」であるようだ。葉書に毛筆で文字を書きつけるように、対象である紙の状態が墨を吸いにくくて、筆がすべりやすい。
また、その「すべり」だけではなく、その上にさらに「ひねり」をもっていると指摘している。この特異な「ひねり」をもたらすものは、字画と字画の間に挟入される間(ま)である。筆脈と筆脈の間にひそかに「間」が忍び込み、その書字法が、劉墉の書をこの時代の書から「希代(きだい)」にする理由であると石川氏は考えている。

劉墉の書字の筆蝕は縦横に平面に広がろうとするよりも、むしろ「奥」への立体動の方にははるかに親しい。「奥」と言っても、劉墉の場合はいわば「ゴム毬」の筆触だから、奥に刻り込むのではない。むしろ力を加えることによって、高く反撥してくるような紙の表面に墨を盛り上げる表現である。劉墉の「すべり」の筆触には、間(ま)が忍び込む。

ここで、黄庭堅と劉墉の書の違いについて言及している。
「裴行検佚事」の「裴」の「非」部の第二縦画の「ゆれ」は、黄庭堅の「伏波神祠詩巻」や「松風閣詩巻」の「ゆれ」とは異なる。黄庭堅の方は、三折法あるいは、その三折法の陰に隠れていた九折法の運筆に従った「ゆれ」である。
一方、劉墉の書は、黄庭堅の書のように折法上の戦略(九折法)によるものではなく、もっぱら筆触のすべりに起因している。その筆触上のすべりは、字画と字画との間の自然なリズムさえも「すべらせる」ことによって、「間(ま)」を生むことになる。
(石川、1996年、345頁~349頁)


≪石川九楊『中国書史』を読んで その12≫

2023-04-02 18:00:19 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その12≫
(2023年4月2日投稿)

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。明代の書について取り上げてみる。
●第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
●第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
●第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
●第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
●第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
●第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
・祝允明の「大字赤壁賦」~角度筆蝕の成立
・宋代から明代へ 「意」から「態」へ
・角度の明確化 祝允明の「大字赤壁賦」

〇第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
・黄庭堅と文徴明
・黄庭堅の書
・文徴明の「行書詩巻」の特徴~「夢追いの書」
・黄庭堅と趙孟頫と文徴明の筆蝕上の差
・文徴明の速度への傾斜

〇第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
・徐渭の「美人解詞」

〇第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
・懐素と黄庭堅と董其昌の書
・董其昌の「行草書巻」の特徴

〇第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
・呉説の「遊糸書」と一折法
・張瑞図の「飲中八仙歌」

〇第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
・王鐸の「行書五律五首巻」
・王鐸の書に対する評価




第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」


祝允明の「大字赤壁賦」~角度筆蝕の成立


唐代の張旭の作とされる「古詩四帖」と宋代の黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」と明代の祝允明の「大字赤壁賦」を並べてみると、祝允明の「大字赤壁賦」の書の根底に眠る思想がよく読み取れるという。
「古詩四帖」は、いわば最初から最後まで線でつながれたような「線化」の書であり、「李白憶旧遊詩巻」は、「線化」と「点化」の均衡のとれた、それゆえ典型的な格調をもつ書であり、「大字赤壁賦」は、実際には決してそうではないのだが、一見したところ点だけからなるがごとくの「点化」の書である。
「点化」の嚆矢は、黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」にあろうが、「大字赤壁賦」はさらに徹底しており、「之下江流有聲」とりわけ「下江流」にその極限の姿を確認することができる。前後の文から切り離して、13箇の点の形状からなるこの箇所を取り出したら、読解することはほとんど不可能であるが、たとえ解読できなくとも、ささくれ立った点の形状から、その筆蝕は生き生きとよみがえり、書を読むことはできる。

羊毫のような繊維が細く柔らかい筆毫は、このようなささくれ立った形状を残すことはないが、いささか剛(かた)い筆毫からなる筆尖を、紙に向かって突き込むような書きぶりであると分析している。すなわち紙に筆尖をくじくように突き込む筆触(タッチ)と手応え、また荒々しい筆痕を表現しようとして、剛毫筆を用いたものであるという。
そして、点の形状が長楕円の形状を呈しているところから、筆毫が角度をもって突き込まれたこともわかるようだ。「下江流」の「下」の第一筆は、字画としての動きを極限近くまで縮めた姿であり、「江」字の「工」部は、三画ぶんの動きをあたかもひとつの点と見まごうばかりの形に凝縮している。「大字赤壁賦」の表現は、この角度をもって打ち込まれ、ささくれ立った点がその過半を象徴しているというのである(石川、1996年、273頁)。

ところで、六朝期から初唐期までは、紙はいくぶんか木簡的意味を裏側に貼りつけ(それゆえ、この時期の紙の上の表現体の第一は手紙文=一尺幅の木簡をも意味する「尺牘」であった)、初唐代には木簡の意味を完全に払拭し、初唐代から宋代までは、木簡の呪縛から解放された紙であり(それゆえ初唐代以降の紙の上の主表現体は手紙文を放逐し詩文であった)、草書体が石に字画を刻ることに起因する三折法に組み替えられた宋代以降は、紙はいくぶんか石の姿に支えられることになる。

木簡の呪縛から解き放たれるに従って、書字は厳格な行の枠組みからはみ出そうとする。その第一段階が唐代の張旭や懐素の狂草、第二段階が宋代の黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」、そして第三段階が祝允明の「大字赤壁賦」である、と石川氏は捉える(行からはみ出ようとするような行間がつまった「大字赤壁賦」のような姿が明代以降立ち現れてくる)。
換言すれば、明代以降の書に展開される筆蝕の劇(ドラマ)は、その本格的な角度筆蝕の成立によって、唐代の懐素の「自叙帖」や宋代の黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」のいわば古典性(クラシック)を超え、個別的で多彩な劇(ドラマ)と化した。「大字赤壁賦」の背後に、やがてくる明末連綿草の「十人十蝕」の時代を垣間見ることができる、と石川氏はみている。
(石川、1996年、279頁~280頁)

宋代から明代へ 「意」から「態」へ


宋代の書を「意」と呼び、明代の書を「態」と呼ぶ。中国の書論で言う「意」から「態」への転化は、明代における、単純化とも受けとめられかねない筆蝕の明瞭化という事態に負う。それは宋代以上に筆蝕が単純化し、輪郭を明瞭化したということである。確かに筆蝕は単純化した。
だが単純化したことは、例えば祝允明を例にとれば、強く打ち込み起筆せざるをえない必然が作者に強まったということを意味する。強くくじくように、いささか人為的に打ち込まざるをえない(むろんそれとは対称的な弱勢や触れるような起筆も従えた上でだが)、必然が祝允明に生じたということである。
(石川、1996年、276頁)

角度の明確化 祝允明の「大字赤壁賦」


「角度」の成立は
・ 副毫のはたらきを生かした側筆を主体とする蘇軾
・ 垂直筆を主体とし王羲之型の構成法を脱した黄庭堅
・ 新構成法に立つ米芾等の宋代にその出発点を求めることができるが、
・ 本格的に明確化した例として、祝允明の「大字赤壁賦」を挙げることができるという。
喩えて言えば、「ビシッ」と強く打ち込みか、おだやかに「そっ」と筆を下ろすかが自覚されるということは、対象と自己との距離と角度、そしてはたらきかけるべき対象が明瞭になったということであり、対象への距離をはかり、切り込む角度を明確にし、ある力をもって対象と関係することが可能になったということである。

「大字赤壁賦」の作品そのものは、その個的筆蝕にいささか酔うようなところがあって、必ずしも傑作とは言い難いが、個別的な筆蝕が現れたという意味において、書史的には特筆すべきであるという。
(石川、1996年、278頁)

第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」


黄庭堅と文徴明


文徴明の書は、中国書史上、沈周と並び、黄庭堅風の書でつとに名高い。
たとえば、この文徴明の「行書詩巻」の構成だけを見ていると、黄庭堅の「松風閣詩巻」等によく似ている。
ただ、文徴明の「行書詩巻」と黄庭堅の「松風閣詩巻」とでは、次のような筆蝕上の差が認められる、と石川氏は主張している。
第一に、黄庭堅においては、一点一画の書きぶりが微細であり、一点一画に厖大な情報が盛られている。それに対して、文徴明においては、一点一画が書きとばされており、筆蝕の劇(ドラマ)性に乏しい。つまり、黄庭堅の一点一画の筆蝕とその道行き(書きぶり)には、巨大な劇(ドラマ)が描き込まれている。それに対して、文徴明は詩を書きつけただけと言ってもいいほどであると石川氏は評している。
黄庭堅の一画は、文徴明の一字に、また黄庭堅の一字の情報量は、文徴明の詩巻全体に相当すると言っていいほどだともいう。

文徴明の書は情報量が少ないのは、唐宋代に典型的に完成した書字の鉄則から逸脱していることに起因しているようだ。
その具体的な形は次の点にみられるとする。
① 摩擦の原則の回避
② 参差の軽視
③ 三折法上の省略
④ 左右対称の軽視
(石川、1996年、281頁)

黄庭堅の書


黄庭堅の書は、紙=対象に対して垂直=立体的に剔る筆蝕に主律されている。中国の書論には、「錐画沙(錐[きり]をもって沙[すな]に画く)、印印泥(印をもって泥に印する)」という言い方が古くからある。
黄庭堅も『山谷題跋』の中で、王羲之の書法を「如錐畫沙、如印印泥(錐もて沙に画くごとく、印もて泥に印するがごとし)」と表現しているが、まさしく黄庭堅の書こそは「錐画沙と印印泥」を複合した「錐印泥」とでも呼ぶべきものであろう。
黄庭堅が描き出した背景世界は粘質の泥土であったと考える時、黄庭堅が船頭の舟の櫓の動きを見て、書法を悟ったという逸話(エピソード)も生きてこよう。
その垂直=立体的に対象を剔る姿は、「松風閣詩巻」の筆毫をくじくような筆法で書かれた「山」の字に明らかである。
ところで、黄庭堅というと、直筆蔵法というのが一般的理解だが、実際には「山」の字においても、縦筆部は筆尖を左、横筆部は筆尖を上に通るという「角度」をもっている。「角度」とは、垂直=立体を基軸にしつつ、それへの戦術としての筆毫の対象へ切り込む角度を言う。
(石川、1996年、285頁)

文徴明の「行書詩巻」の特徴~「夢追いの書」


文徴明の「行書詩巻」は、確かに構成面では黄庭堅の「松風閣詩巻」風を見せているが、修辞(レトリック)的に似せたというべきであり、筆蝕を追いかけていくと、趙孟頫の書に近い姿である、と石川氏はみている。例えば、「道」や「四」字の筆蝕は、黄庭堅的であるよりも、はるかに趙孟頫的である。
「行書詩巻」を文徴明の代表作ととらえ、文徴明を明代初期を代表する書家だととらえた場合、書史上にどのように位置づけられるかといえば、明代初期の書は、趙孟頫等元代の書の影響を存分に受けつつ、元代ではなく、黄庭堅等宋代の夢を追った「夢追いの書」である、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、287頁~288頁)

黄庭堅と趙孟頫と文徴明の筆蝕上の差


書字上の筆尖には、ふり下され、再び戻ってくる基点というものがある。
黄庭堅と趙孟頫の筆蝕の最も大きな差は、黄庭堅においては、運筆技法的には、筆が高い位置を基点としている(俗に言う釣り上げる力が強い)ために、紙=対象よりもはるかに高い位置にあった筆尖が紙に深く着地し、着地した後は、対象からの反撥力を敏感に感じとって高く撥ね上がる。
それに対して趙孟頫の場合においては、筆が低い位置を基点としており(俗に言う釣り上げる力が弱い)、低い位置から紙に圧しつけられ、反撥力に対する感度が鈍く、反撥力をねじふせることにもつながっている。反撥力をねじふせることによって、筆毫の開閉が率直ではなく、いくぶん捩れ、「ザラザラ」とした暗い筆蝕を生じることとなる、と石川氏はみている。

趙孟頫や文徴明においては、その基点が低く、低い位置から筆毫を紙に圧しつけ、また低い位置に戻すという運筆で描き出されている(その代表的な例は転折である)。
一方、黄庭堅の「松風閣詩巻」においては、転折を形づくる前の横筆部で、筆尖は宙空に高く舞い戻り、その後再び高い位置からふり下された筆尖が転折を形づくる。
文徴明の「行書詩巻」においては、筆尖が高く上がらず、連続的に書かれている。「影」字の「彡(さんづくり)」の三つの点が連続的に圧しつけるように書かれているところもその好例であるという。
(石川、1996年、287頁)

文徴明の速度への傾斜


この情報量の過少の傾向は、筆蝕が深度よりも速度に傾斜するところから生まれるそうだ。
黄庭堅の書は、深度を主体とした速度との均整のとれた筆蝕の劇(ドラマ)として描き出されている。それに対して、文徴明においては、深度が浅く、速度が露岩している、と石川氏は表現している。

黄庭堅は起筆、送筆、終筆を確実に定着させようとしている。紙は何らかの抵抗体として意識され、それゆえ、筆尖は高く放たれ、深く打ち込まれ、対象の質をまさぐりつつ、抵抗に負けぬように幾度も加力されることによって、送筆は揺れ、終筆は深く打ち込まれ、沈められていると解説している。
ところが、文徴明においては、いくぶんか抵抗体意識を弱め、平面的、連続的につなげることが優先されているとする。
(石川、1996年、284頁)

第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」


徐渭の「美人解詞」


筆毫の開閉や捩れやひねり反転を総動員して、筆触(タッチ)の快(快と不快)を描き出している徐渭の「美人解詞」の書は、宋代の書の段階をまた一段引き上げた。
宋代の書の表現は、手=自我の存在を盛るだけであったが、徐渭のこの作は、表を向き、裏を向き、側面を向く手=自我の態様そのものを描き出しているからだ。ここにも「明代の書は態」と呼ぶにふさわしい表現がある。(石川、1996年、293頁)

徐渭が描き出したこの書の世界は、中国国家に対する勝味のない宣戦布告であり、戦闘宣言であり、戦乱場である、と石川氏は表現している。
徐渭の「美人解詞」には、明末のさまざまな長条幅連綿草の書がよみがえってくるとする。例えば、「鑼皷」の連続的運筆の中には黄道周がおり、「聲」や「風」のかすれには倪元璐がおり、「不知」には傅山が、また文字が右傾し、左傾しつつ線状でつながる「妖嬌樓」には王鐸がいる。そればかりでなく、点が多用される「桃花地下地」の部分には、徐渭の書の発生源とでもいうべき祝允明がいる。明代から清初にかけての書で言えば、董其昌だけがいないという表現であるという。

黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」は祝允明の「大字赤壁賦」を生み、それはまたさらに、徐渭の「美人解詞」によって新しい段階(ステージ)に高められ、黄道周や倪元璐、傅山や王鐸等の連綿草を生むことになる。明末連綿草の混沌(カオス)が徐渭のこの作品の中に存在し、明末連綿草は徐渭に胚胎した、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、295頁~296頁)

第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」


懐素と黄庭堅と董其昌の書


唐代の懐素、宋代の黄庭堅、明代の董其昌の書について、構成という観点から、石川氏は次のように解説している。
唐代・懐素の「自叙帖」の構成は、書字現場の中で強い筆蝕で描きたいという意図がせり上がってくるのを抑え込み、抑え込んでもなおせり上がり、また抑え込むという熟成を経て、大きな文字と強い筆蝕とを出現させたという。
抑制に抑制を重ねた果てに壮大な構成が出現するに至った、必然的な過程が、「自叙帖」からは見えるそうだ。

また、宋代・黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」の構成は、文字形が縦に伸び、また一転して横に伸びる文字が連ねられていくというように、とても人工的な構成に見える。しかも字画の描出についても、字画筆蝕が分節され、分節されたその筆蝕が結合されて、ひとつの字画を描き出すという具合に、人工的な字画描出法によって成立している。
ただ、その字画描出法と構成とは、内在的に結合されており、不自然な人為性を感じることはないとする。つまり、「李白憶旧遊詩巻」を読み込んでいくと、作者・黄庭堅の「貌」に出会うことになる。

ところが、董其昌の「行草書巻」は、筆蝕や構成において、その意図が明解に見え、董其昌の「手」に出会うという。董其昌の書には、わざとらしい姿態がある。つまり書かれた書の姿が、結果的に美しく「きまる」というよりは、故意にポーズをとっている風である。ポーズをとって、「どうだ美しいだろう」と問いかけている風である。言い換えれば、董其昌の書においては、レトリックがレトリックとして見えてしまうところがあるそうだ。
表現の内側からせり上がってくるというよりも、外部から附加しているという印象が強い。

懐素の「自叙帖」のように、内的エネルギーを蓄積しながら、せり上げて到達したという趣ではない。いわば最初から一行一字の大きな字を書こうという企図があって、既定のコースとして大きく書いたという風である。
だから、そこには「自叙帖」に見られたような、息詰まるような大きな劇性を見られず、小さな企図がいたるところに、姿を曝しているというあんばいである、と石川氏は説明している。

董其昌の書は力(五次元)や速度(四次元)の表出が、直截に平面(二次元)的=筆触的に拡大し、拡張する。一方、黄庭堅の書はそれらが、立体的(三次元)的=筆蝕的に定着されている。

董其昌の「行草書巻」からうかがえるのは、歴史的字画筆蝕から逸脱して、作者が人工的にレトリックを駆使して、平面(二次元)上の筆触の展開図として書字を拡張する姿であるとする。
この新しい書字法は、元代趙孟頫らの書を経て、明代の書に始まる、書字史上の新段階である。折法の枠組みから逸脱できなかった宋代の書は三次元的に潜行した。逸脱を経験した明代の書は、五次元や四次元的世界までが二次元に定着した。
「行草書巻」の筆触は、字画を描き出す筆触の現場に従うというよりも、<手>の成り行きに委ねられている。董其昌の書は、成り行きに任せつつ、逸脱するものであるという性格があるという。

祝允明、徐渭、董其昌ともに、筆蝕の様態たる「手つき」をまざまざと見せてくれる。これらの無謀とも見える筆蝕は、書における角度(スタイル)筆蝕熟成の事情を物語っている。
「行草書巻」は、その意味で、祝允明の「大字赤壁賦」や徐渭の「美人解詞」と較べると、いささかその筆蝕角度戦法(書法)での逡巡が見られる。とはいえ、すでに書は、書巻=書簡=尺牘をはみ出すばかりの姿を見せている。
(石川、1996年、301頁、304頁)

董其昌の「行草書巻」の特徴


董其昌の「行草書巻」の中の末尾「次」字の「欠」部について、石川氏は次のように読み込んでいる。
伝統的な書字法に従えば、殺字(くずし字)といえども、「欠」を連続的に書くように運筆される。草書体が楷書体や行書体に組み込まれた宋代以降の伝統的な書字法に従えば、そこには「欠」部を楷書や行書で書くのと基本的に異ならない加速・減速と加圧・減圧に彩られた連続性があるのが通常であるはずと言える。
ところが、「行草書巻」においては、加速・減速・加圧・減圧を複合した複雑な書字過程が大胆に省略され、踏み外しが行なわれている。懐素にせよ黄庭堅にせよ、宋代までの書はどのように速く書かれようとも、歴史的、書字史的規範を踏み外すまでの速度で描き出すことはなかった。どこかに超えられない書字規範の限界があり、痕跡は残されていた。
一方、董其昌の「次」字は「次」字と信じられる動きをしているだけの蛇行の姿に変えられている。
(石川、1996年、300頁)

このように董其昌の書の特徴として指摘できる箇所がある。つまりそれは「次」字の末尾のように、末尾が開放されるという性格であるというのである。
董其昌の書の筆蝕は決して軟弱ではない。しかし書という表現の特徴は時間と空間との転換構造にある。力と速度と深度とが二次元の平面に「角度」と化して投影されているのが書である。
書は筆蝕と構成との相関に成立する。筆尖と紙とのタッチの一種である筆蝕が、文字を組み立てていく構成を保証する。明末の書史は臨界に届いていた。
(石川、1996年、303頁~304頁、313頁、336頁)

第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」


呉説の「遊糸書」と一折法


呉説の「王安石・蘇軾三詩巻」(1145年)は「李白憶旧遊詩巻」(1094年以後)のほぼ50年後に書かれた。それは我々日本人には馴染みにくい書である。このような書が書の正史上存在すること自体が少々信じ難いほどである。
大きな抑揚もなく、一筆で書かれたこの書は、かげろうのような書(伏見冲敬)だとか、風に舞い散る蜘蛛の糸のような書(日原利国)だとかいう意味で、「遊糸書」と呼ばれる。
日本では珍奇な書として処理されがちだが、はたしてそうだろうか、と石川氏は疑問を呈している。

今仮にこの「王安石・蘇軾三詩巻」と、明代・解縉(1369-1415)の「文語」、明末・王鐸の王献之「豹奴帖」の臨書(1643年)を並べて見ると、そのぐるぐる渦巻く筆蝕展開上の類似性から、決して呉説の「遊糸書」が戯れの書ではなく、解縉や王鐸の書の出発点に位置すると石川は捉えている。
「遊糸書」は一見奇妙だが、書の歴史上に、根拠をもったひとつの表現の型である。
現代の日本の書道家は、この種の書を「戯れ」と錯覚する。書家、青山杉雨の『明清書道図説』の説もその範疇である、と石川氏は批判している。

「遊糸書」は本来つなげなくてもいい間をすべてつなげる一筆書きである。呉説の「遊糸書」は筆蝕の中から明瞭に速度を分離し、抽象化して描き出す表現の極である。このように、宋代から明末に至る書は、筆蝕の中から速度と深度を抽象的に分離し、複合的に描き出すことによって、多彩な筆蝕表現を可能にした時代なのである。
中でも「遊糸書」は、書の筆蝕の属性の中から速度の側を抽象した書の誕生であり、それは筆蝕上の速度と深度がそれぞれはっきりと分化・統合される時代に至った証しであるとする。「遊糸書」は歴史の必然から生まれ、その後の書の歴史に深い影響を与えたひとつの書法の型、いわば「一折法」であるという。書はまた新しい段階(ステージ)に突入したのである。
また筆蝕属性と折法の相乗がもたらす明代の書として、墨跡風と称せられる陳献章(1428-1500)の「再次玉台呈諸同遊」の詩巻を挙げている。それはいわば筆蝕属性のうちの「深さ」と折法上の「三折法」のマトリックスに成立する書であると言ってもいい。
(石川、1996年、306頁~308頁)

張瑞図の「飲中八仙歌」


張瑞図が唐代の詩人・杜甫の詩「飲中八仙歌」を書いた1627年の作は畏ろしい書である。行書が草書に妥協しつつ行き着いたひとつの例である。きわめて「角度」の鮮明な書である。「角度」というのは、筆蝕と構成の射影であり、筆蝕と構成を現実化する力である。「角度」は基本的には対象への切り込み方=書体(スタイル)の別名である。
書の「角度」をめぐる問題がある。側筆と側鋒と露鋒は「角度」表現の如何を定着する戦術であり、直筆と直鋒と蔵鋒とは「半角度」、もしくは「角度」の媒介を少なくすることによって、直截に筆蝕と構成を定着せんとする戦術である。ちなみに呉説の「遊糸書」が奇異である理由は、筆を突き立てるだけで成立する「半角度」的表現への異和であると言えよう。
宋代には書は「角度」による表現をもち、起筆にかぎらず、筆蝕上の角度を明代に演習し、その「角度」=書体=スタイルが鮮明になるのが、明末連綿草であると言えるのである。

張瑞図「飲中八仙歌」の筆はまるで、薄く鋭利な剃刀であるという。
剃刀の刃を立て、鋭く切り込み、しばしばすくい上げるように、左下から右上方向へ横に横画を切り裂く。剃刀のバネを利用しながら、剝いで剝いで剝りまくる書である。
また、「飲中八仙歌」を書いた翌年(1628年)、張瑞図は失脚する。
その失脚の運命と、晩年にはいささか萎えてしまう張瑞図の書の運命は、この一枚の作から読み取ることができるとする。いささか気負い、鋭い力はあるが、根こそぎ掘り返すような深さがなく無理をしているという。
「飲中八仙歌」は政治家の書というより剣士の書であり、詩人の書である。
(石川、1996年、311頁~312頁)

第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」


王鐸の「行書五律五首巻」


中国明代・王鐸が自作の詩を書いた「行書五律五首巻」はおかしな書であるという。ひとつひとつの字の姿は、なかなか見事に決まった姿態をとっている。文字が抑揚、大小をもって展開していく姿も見事なものであり、筆蝕も一見重厚である。
ところが、それらに有機的な脈絡が感じられない。「上手いなァ」と感じても、魂を揺さぶるようなところがなく、感動するところがない。どこかつくりものの感じ、どこか態(わざ)とらしさが感じられてしまうというのである。
書体分類から言えば、行書体の書なのだが、書字の過程を辿ると、楷書的な書字律動をもっている。この「行書五律五首巻」は書体区分ではなく、表現の上では楷書体と呼んでいいとみる。

王鐸の書そのものに即して辿れば、この「行書五律五首巻」は強い定型的筆蝕と構成への傾斜において、元代・趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」などの書との類似性がとても高い。つまり王鐸の書はその表現世界においては、趙孟頫の子であるという。
そして形態、構成上の姿態の気どり方から言えば、米芾「蜀素帖」の子でもあるとみる。つまり構成上の気どり方が米芾の書ととても似ている。
米芾の書はどちらかと言えば、構成上の「媚態」だが、王鐸の書の特徴は筆蝕上も構成上も「媚態」の書である。
(石川、1996年、313頁~315頁)

王鐸の書に対する評価


王鐸の書は、中国では必ずしも高く評価されていないと言われている。
その理由は、明朝と清朝と二つの朝廷に仕えた二臣であったからと言われている。政治の国・中国のことゆえ、むろんそれもあろう。

ただ、石川氏は真の理由はその書の中にあるとみている。
その筆蝕は一見、重く暗い。
字形も格好よく決まっており、文字や筆蝕の展開と抑揚も一見申し分なく、大小の姿もなかなか見応えがあり、バランスもよい。だが、その筆蝕の重さや暗さにも内実が足りない。
そして、格好のよい文字やバランスも内実を欠いたようなところがあって、興味に欠ける、と石川氏は評している。
書字が作者の書字の過程から自然に発露される内在的な筆蝕の妙とならず、突くことやくじくことやねじ込むこと、つまり外部からの反撥関係に生じる外部的筆蝕の快感で書いていると推測している。あえて言えば、「提灯屋の字」的な部分が見え隠れするという。

そこが日本の現代の書道家から評価される理由でもあるようだ。つまり、この書字の「気どり」と「媚態」が書を二流にとどめているという意味で、中国ではあまり評価されないのだろうと石川氏はコメントしている。中国の書への評価は正直なものであると付言している。
(石川、1996年、319頁~320頁)