歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪漢字について その2≫

2021-02-28 18:02:14 | 漢字について
≪漢字について その2≫
(2021年2月28日投稿)




【はじめに】


 今回も、魚偏の漢字を解説してみる。例えば、鯖、鰭、鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)、鮭、鱈、鮃(ひらめ)、鰈(かれい)、鯨、鰹(カツオ)、鯑(カズノコ)、鰰(はたはた)といった漢字である。
 あわせて、チョウザメ、熨斗(のし)とアワビについても解説しておきたい。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・鯖という漢字
・鰭という漢字
・鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)という漢字
・鮭について
・鱈について
・鮃(ひらめ)について
・鰈(かれい)について 
・鯨について
・鰹(カツオ)について
・鯑(カズノコ)について
・鰰(はたはた)について
・チョウザメについて
・熨斗(のし)とアワビについて






鯖という漢字


漢字の鯖の由来については、この字は非常に古く、『出雲風土記』(733年)や『延喜式』(927年)に見えている。日本の古辞書・本草書『本草和名』(918年頃)などでは、鯖に佐波(サハ)の訓を与えている。ただ、中国にもともとあった鯖という字を取り違えたものらしい。中国の鯖(せい)は淡水魚で、日本のサバは海水魚であって、まったく別物であるからである(中国の鯖の本名は、青魚(せいぎょ)といった)。
ところで、サバの語源については諸説があるが、江戸時代の貝原益軒説が有力である。サバの歯の特徴から語源を捉え、「この魚、牙小さし、故にサハと云ふ。サは小也」と『大和本草』で説いている。実際にサバは顎に円錐状の歯が生えているだけでなく、口の中にも微細な歯がある(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、87頁~88頁)。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

鰭という漢字


鰭は、魚のヒレのことで、「魚+耆(キ・シ)」からなっている。耆とは「老(年をへた)+旨(味がある、うまい)」を組み合わせた字である。「耆老」といえば、年功をへて味のある老人を意味し、嗜好品(しこうひん)の「嗜」とは、年月をへていてうまいものをさす。そして鰭とは、魚のからだのうち、年月をへて「こく」のある味をもつ部分をさす。中華料理の逸品で、「こく」のある料理として、フカのヒレ(今では魚翅[ユイチー]という)がある。南海のフカのヒレを細かくきざみ、最上のスープでこってりと煮こんだものである。ツバメの巣(燕窩[イエンウオ]という)のスープに次いで、値段のほうも高い。今日の中華料理の大半は、すでに2500年前にあらかたそろっていたようであるが、魚のヒレも古くから嗜(たし)なまれたそうだ(藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書、1986年、183頁~184頁)。

【藤堂明保『漢字の話 上』朝日選書はこちらから】

漢字の話〈上〉 (朝日選書)

鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)という漢字


コノシロの漢字表記に鮗・鯯・鰶・鱅の四字があるが、純国字の鮗以外は、どれも本来の漢字とは意味がずれている。
では日本でどうして鰶の字が創作されたのであろうか。江戸時代、人見必大(ひとみひつだい)の著した『本朝食鑑』(1697年)に、次のように記す。コノシロは狐の好物で、狐の神であるお稲荷さんにコノシロを供えて祭る習慣があったというのである。日本にこのように古い信仰があったため、魚偏に祭と書く鰶でコノシロを表記したと加納は考えている。
後世になると、コノシロは祝い事にも使用されるようになった。
ただし武家社会では、「コノシロ(此の城)を食べる」ということに通じるので嫌われ、武士が切腹する際に用いる風習があったという。
また恐ろしい語源説話が『大和本草』(1708年)にある。コノシロを焼くと、死体を焼くような臭いがするとされた。昔、継母に虐められた子がいた。継母の告げ口を信じた父が、子を殺すように従僕に命じた。彼は気の毒に思い、ツナシを焼いてごまかし、その子をよそへ逃がしてやった。ここからツナシを子の代(しろ)(子の代わりの意)と呼ぶようになったという(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、83頁、126頁)。

鯯は日本ではサッパとも読む。コノシロと似ているから、同じ字を用いたという。サッパはニシン目ニシン科の海水魚で、コノシロのように背びれの末端が糸状に伸びていないし、体長も小ぶりである。『大言海』によれば、コノシロより味がさっぱりしているので、この名がついたという。岡山県倉敷地方の名産であるママカリはこれである。サッパの酢漬けはあまりに旨くて飯が足りなくなり、隣から借りるほどだというのが名の由来である(加納、2008年、128頁)。
ところで、コノシロの約10センチのものをコハダまたはツナシとよぶ。寿司のネタとなる。実は批評家小林秀雄は新子の寿司が好きだった。その妹の高見澤潤子が面白いエピソードを記している。
「兄は寿しが好きで、特に新子(しんこ、こはだの子)の寿しが大好物だった。夏の終り頃から初秋にかけて、ほんの少しの間しか出ない新子を、兄はほとんど毎日のように食べに行ったが、今年も「大繁」の主人が、兄に供えてくれと、新子の寿しを持って来てくれたそうである」(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、46頁)。
この高見澤潤子という女性は、小林秀雄の妹であったが、同時に戦前の人気マンガ「のらくろ」の作者田河水泡(本名:高見澤仲太郎)の妻であった。二人の結婚に際して、妹が結婚を決心したのは、兄秀雄の一通の手紙であった。妹が恵まれた夫婦生活をおくることができたのは、兄のおかげであったと妹は感謝している(高見澤、1985年、21頁~25頁)。

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄


鮭について


鮭という漢字は、日本では「サケ」を指すが、中国漢字の鮭(けい)は、サケと違う魚の名であった。『論衡』(後漢、王充)の言毒篇に、毒のあるものとして、次のように記している。
「魚に在りては則ち鮭(けい)と為す。故に人、鮭の肝を食へば死す」とある。この鮭はまさにフグに違いない。晋の郭璞(かくはん)は鮭を鯸鮐(こうい、フグ)としている。
現代では、ニーダム(イギリスの科学史家)によって、Fugu rubripes(トラフグ)に同定されている。漢和辞典を引いても、鮭の意味として、ふぐ(河豚)が出ているはずである。
ところで、現代の中国では、サケを大麻哈魚(damahayu)というそうだ。この奇妙な名前は、北方民族の言葉の訳語であるようだ。ただし、中国で分類学の科の名称には鮭が使われ、里帰り漢字の一つとなっており、今ではフグの意味はほとんど忘れられた(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、86頁)。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

鱈について


和製漢字の造字法の特徴は、言葉のイメージを図形に表すという中国式とは違い、物にまつわる特徴や故事などをストレートにもってくることである。魚の場合は、さらに形態の特徴だけでなく、味覚や漁期も格好の材料になる。例えば、鱈の場合、この漁期に因むという解釈が有力である。
『本朝食鑑』(1697年)に、「冬月初雪の後に当たりて必ず多くこれを採る。故に字、雪に従ふか」とある。タラは冬場、特に吹雪のある頃によく獲れるというから、魚偏に雪と書く造形の心理が加納は納得できるという。
鱈はほとんど和製漢字であるとみなされている。「ほとんど」というのは、レア物ながら中国の文献にあるからだが、誤字・誤記かもしれないので無視してよいという。
中国ではタラを大頭魚(だいとうぎょ)とか大口魚(だいこうぎょ)というが、実は鱈(xueと読む)も使われている。というのは明治時代になって、近代日本の生物学が中国に伝わり、動物学辞典を編集する際、日本の学術名をそのまま中国側が採用したケースが多いためである。鯰や鯒といった和製漢字が取り入れられたが、鱈も逆輸入漢字の一つである(加納、2008年、59頁~60頁)。

鮃(ひらめ)について


中国漢字の鮃(へい)は、『玉篇(ぎょくへん)』に魚の名としか情報のないマイナーな字なので、日本の鮃(ヒラメ)は半国字(半日本風の漢字)としてよいが、現在は中国でも使われている。里帰り漢字のパターンである。魚偏の漢字に関しては、日本人のアイディアが中国に貢献している例が多々あるという(加納、2008年、107頁)。

鰈(かれい)について 


鰈は、日中共用漢字であるという。漢字の鰈の語源・字源は、この魚の形態的特徴を捉えたもので、「薄い」というコアイメージがもとになっている。葉や蝶と共通の記号、「枼(よう)」を用いて、図形的意匠を構成し、鰈の字が生まれた。漢字表記は現在ではカレイに鰈、ヒラメに鮃を用いて区別しているが、昔は区別していなかった。
葉の草冠をとった部分「枼」は、木の上に葉が生じている図形で、葉の原字である。したがって「薄っぺら」というイメージを表しうる。蝶は薄い羽をもつ昆虫、牒(ちょう、片偏)は文字を記す薄い木の札を意味する。同様に、魚偏の場合、体の薄い魚を暗示させる。体の薄い魚はいくらでもいるが、カレイ(ヒラメも含む)に限定したのは、プライオリティー(優先権)が与えられたからであるという(加納、2008年、159頁~162頁)。

鯨について


中国人にとって鯨は半ば空想的な怪物というイメージが強いという。「京」は高い丘の上に建物がたっている情景を描いた図形である。古代中国では湿地を避けて高い場所に都市を造営した。京の現実の意味は「みやこ」であるが、「高く大きい」というコアイメージを示す記号になる。したがってクジラを「京(音・イメージ記号)+魚(限定符号)」の組み合わせによって表象することができる(加納、2008年、162頁~164頁)。

鰹(カツオ)について


カツオは『古事記』や『万葉集』では堅魚という漢字表記で登場する。この表記はカツオの語源と関係がある。江戸時代の人見必大(ひとみひつだい)は、堅魚の語源を説いて、
「延喜式に堅魚と謂ふは、この魚乾曝(かんばく)すれば則ち極めて堅硬なり、故にこれを名づく」と述べている(『本朝食鑑』。1697年、人見必大の著で、食物関係の語彙を収め、語源にも触れている)。このようにカタウオ(堅魚)がカツオになったというのが通説である。
ただ別説もある。一つは、カツオは擬似餌(ぎじえ)でどんどん釣れるくらい頑(かたくな)な(つまり愚鈍な)魚だから、カタウオ(頑魚)→カツオになったのいうもの。この頑魚説は『高橋氏文(うじぶみ)』(789年、高橋氏の由緒を述べた書)に見えるくらい古い説である。
もう一つは、弱いイワシに対して、強い魚だから、勝つ魚→カツオになったという語源説(吉田金彦)がある。イワシに対してはその通りでだろうが、カジキに対しては弱いらしい。カツオが群れを作るのも、カジキのような天敵から身を守る知恵であるといわれている。加納は堅い魚の説を取っている(加納、2008年、32頁、78頁~79頁)。

鯑(カズノコ)について


ニシンの別名をカドという。ニシンの卵がカドの子、訛ってカズノコである。『本朝食鑑』(人見必大)に鰊鯑をカズノコと読ませているが、『同文通考』(新井白石)では鯑の一字でカズノコとなっている。魚は一般に豊饒のシンボルになることが多いが、魚の卵は生殖と結びつき、子孫繁栄のシンボルとされる。
ニシンは一尾で10万粒ほどの卵を産む。味覚はもちろんだが、子孫繁栄の象徴として格好のものである。『本朝食鑑』でも、正月に数の子を子孫繁多のお祝いに用いると記されている。子孫の数が増えることを願って「数の子」という表記ができたわけである。ここから「こいねがう」の意味をもつ希に魚偏を添えた字が発想されたと考えてよいという(加納、2008年、78頁)。

鰰(はたはた)について


鰰は、「はたはた」と読む。ハタハタの「ハタ」には「はためく=鳴り響く、とどろく」の意味がある。そして鰰のつくり「神」は、「はたはたとどろく神鳴り」を意味し、ハタハタが日本海沿岸で雷のある季節に獲(と)れる魚ということから、この字が当てられたようだ。またハタハタはカミナリウオとも呼ばれ、その名の通り、「鱩」とも書く(江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年、158頁~160頁)。
【江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫はこちらから】

魚へん漢字講座 (新潮文庫)

「しょっつる」とは秋田特産の魚醤油(うおじょうゆ)で、ハタハタの塩漬けを醗酵させてできた「上ずみ液」のことである。ベトナム料理のニョクマム(nuoc mam)も魚醤(ぎょしょう)である。

チョウザメについて


チョウザメは冨田健次先生も言及されていた。
日本人と魚の関係は、魚の名前とそれを表記する文字によく現われている。漢字の本家の中国人は元来、内陸の民族であり、魚と言えば淡水魚である。淡水魚にはめっぽう強いが、海水魚にはからっきし弱い。ベトナムの人々も同様で、長大な海岸線を有していながらも、海水魚にはほとんど無頓着である。ヒラメとカレイの区別もおぼつかなく、日本人に笑われる始末である。海の魚に繊細な日本人は、結局は中国語からその名前を借り入れることができず、自分達で作った漢字を充てるしか手がなかったわけである。魚偏に弱いで足の早い鰯、魚偏に春で鰆(さわら)など、一目でその魚が目に浮かぶ見事な漢字が多い。しかし時には本家の漢字と衝突することもあったらしく、魚偏に有ると書く、かの鮪(まぐろ)は、本家の中国では全く似ても似つかない淡水のチョウザメである点には注意を要する。
(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年、299頁)

【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ

ところで、そのチョウザメの漢字には、「鱘」というのがある。
チョウザメは、サメの仲間ではない。硬い骨を持つ硬骨魚類に分類され、やわらかい骨を持つ軟骨魚類のサメとは違う種類の魚である。ただ、その名前は「姿形が鮫(さめ)に似ている」ことと、「5列ある菱形の大きなウロコが蝶番(ちょうつがい)のように見える」ことに因んでいるそうだ。
ところで、チョウザメはキャビアで有名である。キャビアとは、チョウザメの卵巣の塩漬けのことで、トリュフ、フォアグラとともに「世界三大珍味」の一つである。なお、チョウザメは、「蝶鮫」「鰉(大きい魚の意。ヒガイも指す)」という漢字で書かれることもある(江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年、164頁~165頁)。

【江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫はこちらから】

魚へん漢字講座 (新潮文庫)

熨斗(のし)とアワビについて


慶事には熨斗を用いるようになったのは、日本の中世であるそうだ。
古代の中国では石決明(せっけつめい)といって、アワビを、不老長生、延命若返りの薬的な食物とみなしていた。秦の始皇帝が徐福を遣わして、不死の霊薬を東方海上に求めたのも、一説にはアワビであったといわれる。徐福が上陸したと伝わる紀州(和歌山県)にはアワビを不老長寿の食物とする伝説がある。
また中国料理には、不老長寿を目的とした「参鮑翅」というご馳走がある。参とは海参(ハイセン)(煎海鼠、いりこ)、すなわち海の人参でナマコ。鮑はアワビ、翅は鱶鰭(ふかひれ)である。この三種の高級料理の原料は江戸時代に長崎から俵に詰めて中国へ「俵物(たわらもの)三品」といって輸出されたという。この俵物三品はコンドロイチンという物質を多く含み、現代医学でも老化を防ぐ薬効があるとされている。
日本ではアワビが、生命力を賦与する神秘的な力があるとすると観念され、めでたいシンボルとされるが、中国ではこれに相当するものとして、玉を矢野憲一は想定している。
熨斗という字は、もとは炭火を盛って熱で布のしわを伸ばすアイロン(火熨斗)のことであった。熨は尉の俗字で、火でのばし、おさえ温める意で、斗はひしゃくである。「のし」は動詞「のす(伸)」の連用形の名詞化でのばすことである。伸したアワビの「のす」という語の近似から誤用されて、やがて定着したと推測されている。
他人に進上する物や、祝いなど贈答品には熨斗(のし)を添える習慣がある。現在では、細く切った六角形の色紙の中に、黄色っぽい紙を張り付けたり、省略して「のし」と書くこともある。この熨斗は、正式にはアワビの肉を薄く長くカンピョウのように剥いで乾燥して伸した、いわゆる熨斗鮑(あわび)を用いた。熨斗の真中にはさんである黄色のセロハン紙はそのアワビを偽作した代用品である(矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年
、84頁~86頁、93頁~97頁)。

【矢野憲一『魚の文化史』講談社はこちらから】

魚の文化史


≪漢字について その1≫

2021-02-28 17:42:53 | 漢字について
≪漢字について その1≫
(2021年2月28日投稿)
 



【はじめに】


 以前、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)を紹介した際に、漢字について考えてみた。
 その時の記事に加筆して、漢字をテーマとして、再録してみた。
 参考文献にリンクを貼っておいたので、参考にしていただきたい。



【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ




目次は次のようになっている。
【目次】
<その1>
・魚偏の漢字
・中国人の魚の知識について
・江戸家魚八と加納喜光の本について
・鰯の説明

<その2>
・鯖という漢字
・鰭という漢字
・鮗・鯯・鰶・鱅(コノシロ)という漢字
・鮭について
・鱈について
・鮃(ひらめ)について
・鰈(かれい)について 
・鯨について
・鰹(カツオ)について
・鯑(カズノコ)について
・鰰(はたはた)について
・チョウザメについて
・熨斗(のし)とアワビについて

<その3>
・日本語の歴史について
・漢字の歴史について
・漢字の呉音と漢音について
・藤堂明保の漢字研究について
・日本の漢字のヤヌス性について
・借用された漢字について
・呉音と漢音について―その2―
・日本の風土と勘違いの歌詞について

<その4>
・『説文解字』について
・擬態語について
・中国人と羊について
・羊という漢字と小説『羊と鋼の森』
・「栗鼠」という漢字の読みについて
・紫という漢字

<その5>
・漢語の本質について
・「者」の意味について
・唐宋音について
・和製漢字について
・白川静と漢字学について
・漢字と教育との関係について
・日本語の変わりゆく意味

<その6>
・馬琴と『南総里見八犬伝』と漢字
・『古事記』『日本書紀』『万葉集』と漢字
・漢字と漢文について
・漢字の数について
・漢字に関する小林秀雄の見識
・日本語と小説家の役割
・参考文献

※「羊という漢字と小説『羊と鋼の森』」については、新たに書き下ろしてみた。この小説については、後日、紹介してみたい。





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・魚偏の漢字
・中国人の魚の知識について
・江戸家魚八と加納喜光の本について
・鰯の説明







魚偏の漢字


まず、魚偏の漢字について述べてみたい。
中国人は、本来、淡水魚の魚が身近であったといわれる。そのことは、フグを「河豚」とも書くことにもよく表れているように思われる。この点の経緯については、江戸家魚八『魚へん漢字講座』(新潮文庫、2004年)に次のような説明がある。「その由来は中国の河川の中流域にまでメフグが棲んでいたことから「河の豚」=フグとなったとのことです。」とある(江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年、119頁)。

また、弱い魚と書く鰯(いわし)は、つくりの「弱」=ヨワシがイワシの読みを表す日本的な形声文字であるという。中国では鰮がイワシを意味することがあり、この字は日本でも使われているそうだ。また、水から出るとすぐ死ぬ弱い魚だからという説や、下賤な魚の意で「卑し」からイワシとなったという説がある(江戸家、2004年、134頁)。
そして、鯖という漢字は、本来、魚や鳥獣の肉などを混ぜて煮た料理の名前、つまり「よせなべ」を意味していたようだ。また、淡水魚の一種を指した字でもあった。しかし、日本では、青々とした「サバ」を表すのに、ふさわしいことからサバにこの字が当てられた。またサバの語源は、『大和本草』という資料に「此魚牙小ナリ。故ニサハ(狭歯)ト云」とあり、「狭歯(さば)」→「サバ」となったといわれている(江戸家、2004年、74頁)。

【江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫はこちらから】

魚へん漢字講座 (新潮文庫)

中国人の魚の知識について


魚偏の名前といえば、孔子の子の鯉(り)がよく知られている。字は伯魚である。君からお祝いとして鯉(こい)を賜うたのを記念した名であるという(白川、1970年[1972年版]、89頁)。
また井上ひさしは、『私家版 日本語文法』(新潮文庫、1984年[1994年版])で興味深いことを記している。
日本人は国産の漢字、つまり国字(和字)をつくりだす。「中国産漢字」だけでは日本人の日常生活のこまかいところまではまかないきれないところから、ひとつの必然として生み出されたと井上は捉えている。
文政(1818-1830)のころ、江戸の国学者伴直方(ばんなおかた)は『国字考』という書物のなかに100字以上の国字を掲げている。
とりわけ、魚名の多いのが目立つ。そして次のような注釈をつけた。
 鰯(いわし) 餌や肥料にされる弱い魚
 鱈(たら)  身が雪のように白い
 魚偏に骨で(こち) 骨(こち)ばっている
 鯱(しゃち) 鯨より強くまるで虎
漢字の8割までが形声文字(意味をもつ字と音を示す字とが組み合わされたもの)である。たとえば、療、痘、症の三つの漢字で、疒(やまいだれ)は「やまい」の意味をあらわし、尞、豆、正は音を示している。先に挙げた国字は、形声文字というより会意文字だと解した方がよい。
「やはり日本人は魚肉を喰(これも国字)う民族、肉食を好む中国人の作った漢字では間に合わぬらしい」と述べている(井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]、105頁~106頁)。

【井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫】
【井上ひさし『私家版 日本語文法』はこちらから】

私家版 日本語文法 (新潮文庫)


江戸家魚八と加納喜光の本について


江戸家魚八は『魚へん漢字講座』(新潮文庫、2004年)を著している。寿司屋の湯呑み茶碗に書かれた魚を表す漢字に興味をもち、魚偏の漢字はどういうものがあり、どうしてそういう字を書くのかを調べ、魚のおいしい食べ方を探究した本である。
日本は世界屈指の漁業国で、日本人は世界一の魚食民族であるが、「世界一」の名に恥じないよう、魚偏の漢字文化の豊かさに触れ、魚にまつわる知識をも豊かにする一助としてこの本を活用してほしいという(江戸家、2004年、3頁~4頁)。
彼は、いわゆる物知りで、魚に精通した「魚通」である。「左ヒラメの右カレイ」(または「左ヒラメに右カレイ」)とよくいわれる。つまり腹部を下にしたとき、左側に眼があるのがヒラメの特徴である。それ以外にも、「大口ヒラメの小口カレイ」というのもあるようだ。眼の位置のみならず、口の大きさも違うという(江戸家、2004年、18頁)。
確かに読みやすく、わかりやすく、面白い本である。そしてそれぞれの魚の説明に「おいしい調理の仕方」の項目は役立つ。ただ一つ批評点を挙げるとすると、物足りなさを感じる。というのは、漢字文化にはそもそもどういう歴史があるのか、漢字は何をイメージして作られたのか。魚偏の漢字は、中国と日本でどの点が共通し、またどう異なるのか、日本独自の魚偏の漢字はいつ頃どのように作られたのか、こうした問いを学問的に掘り下げて知ろうした場合、ほとんど答えてはくれず、江戸家魚八の本は物足りなさを感じるのである。

そこで、加納喜光『魚偏漢字の話』(中央公論新社、2008年)を参照してみた。加納喜光は、1940年生まれで、東京大学文学部中国哲学科を卒業し、同大学院修士課程を修了し、現在、筑波大学名誉教授であるという。中国文化、および漢字研究の大家である。
その加納喜光は、かつて魚を調べに中国に行ったことがあるが、魚の名を中国人に尋ねても、鯉(こい)以外はあまり知らないようであったと記している(加納、2008年、7頁)。
それに対して、日本人なら誰でも魚の名を5個や10個は知っており、日本人は魚好きな民族である。そして魚偏(うおへん)には国字(日本製の擬似漢字)が非常に多い。
そこで、加納は、魚偏漢字を次の6つのパターンに分類している。
1)純国字 例えば、鰯・鱈
2)半国字 例えば、鯛・鮎
3)読み違い漢字 例えば、鮪・鱒
4)渡り鳥漢字 ⓐ逆輸入漢字 例えば、鱇 ⓑ里帰り漢字 例えば、鰆
5)日中共用漢字 例えば、鯉・鮒・鰻・鯨
6)中国専用漢字 例えば、鱆・鯢・鱣

加納喜光の本の目的は、日本人は魚偏の漢字をどのように捉えたのか、中国語と日本語の意味のマッチング(照合)をどのように行ったのか―本書のメインである魚偏漢字銘々伝では、そこに視点を据え、日本の古辞書と中国の辞書・本草書とを突き合わせて跡づけていく。
漢字の造形法では、「甬」は「突き通す」というコアイメージを与える記号であるが、これは日本人の発想するものではないという。和製漢字の造字法は、物の抽象化されたイメージを有するのではなく、物の特徴をストレートに何かに見立てることが多い。日本の漢字の見方あるいは造字法にはコアイメージという考えがなかったようだ。鱪(しいら)の創作にはただ「暑い」という訓だけが利用された。コアイメージという深層構造ではなく、ストレートな表層的意味を挿入するのが日本式の造字法であるという(加納、2008年、36頁~37頁、56頁)。
中国式造字法は、イメージを介して視覚記号にする。これは形声的造形法の原則だが、実は会意的造形法でも言えることであるという。しかし、日本式造字法は音を媒介にしないから、会意的方法しか利用できないが、その際、イメージを記号化することなく、ストレートに造字する傾向が強い。その魚にまつわる事実――故事、信仰、漁期(ぎょき)、味覚等等――をストレートに表現する。
漢字の造形法の一つである会意的方法は、二つの物のイメージをぶつけて、別のイメージに昇華させる方法だが、国字の場合はまったく違う。
例を挙げると、タラは雪が多い時季が漁期なので、魚偏に雪を添える「鱈」で表象する。またドジョウを表す漢字に鰌や鰍があるのに、わざわざ「鯲」という国字を作る。「於」は土偏に於を加えた「どろ」の略字で、泥に棲む魚というストレートな意匠がわかりやすかったからである。中国の魚は淡水産が多く、日本の魚は海産が多いという事情から、日中の魚名漢字には意味上の食い違いが多いという(加納、2008年、42頁~43頁)。

現代でこそ魚の栄養価が喧伝されているが、古代中国での評価は低かったらしい。古代に東方に住んでいた民族は東夷とか淮夷と呼ばれ、中華の民とは一線を画されていた。彼らは魚の食の民であった。それに対して、中原で文明を発展させた中国人は魚を常食しなかったらしい。甲骨文字や金文に魚名は一つもない。『詩経』になって魚偏の漢字が初めて登場する。紀元前2世紀の漢代の墓からさまざまな遺物が発掘されているが、魚の骨は6種類である。それに比べ、鳥の骨が11種類、獣の骨が6種類も発見されている。古代中国人は海の魚には馴染みがなく、食べるのはもっぱら淡水魚だったようである。
このことは魚偏の漢字にも反映している。魚の名を表す一字漢字は、圧倒的に淡水魚である。『詩経』に出ている12字の魚偏漢字のうち、海水魚は一つもない。魴・鮪・鱒・鱧は、日本では海水魚の名になっているが、中国ではすべて淡水魚である。魚偏の漢字の登場舞台は、淡水魚の世界であったといえる。
 日本古代の情報革命の時代、魚偏漢字に訓をつける作業でいちばん頭を悩ませたのが、淡水魚の多い漢字と、海水魚の多い日本語の間のマッチング(意味の照合)の作業であったことが容易に想像されると加納は述べている(加納、2008年、37頁~38頁)。
以下、魚偏の漢字を取り上げて、若干の解説を加えておきたい。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

鰯の説明


鰯は日本製の擬似漢字、つまり国字である。鰯は現代中国の辞書にはあるが、近代以前の文献には見当らないといわれる。現代中国語では、イワシは沙丁魚(さていぎょ)というそうだ。中国語音は、shadingyuで、沙丁は英語のsardine(サーディン)の音写である。中国人はイワシを英語名の音写で表現するほど、海水魚に疎く、かつ苦労して漢字で表していることになる(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、49頁~51頁)。

紫式部には、イワシにまつわるエピソードがある。すなわち、紫式部の伝説に、式部がイワシを食べているのを見た公卿が、「いやしいものを食べているな」とひやかしたところ、さすがに紫式部は才媛、「日の本に、はやらせたまうイワシみず、参らぬ人はあらじとぞ思う」と、イワシと石清水八幡宮をかけて和歌で応じたというエピソードがある。
イワシの語源は「弱し」の転で、いたって脆弱な魚だから名づくと『魚鑑』にあり、『東雅』にもイワシは弱しなり、その水を離れればたやすく死すからであると記す。
さらにイワシはイヤシの転だとする説もある。「イワシの頭も信心から」という諺も、もともとイワシをいやしいものだとすることからでているという。
しかしそれは大量に獲れるから見下されたのであり、俚諺(りげん)にも「イワシの頭に雁の味あり」といい、初イワシは徳川将軍家へも献上されたそうだ(矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年、142頁~143頁)。

【矢野憲一『魚の文化史』講談社はこちらから】

魚の文化史


前述したように、鰯は、日本製の擬似漢字、つまり国字である。それでは、いつ、どうして、この「鰯」という漢字が創作されたのであろうかという疑問がわく。この点、加納喜光は次のように説明している。
奈良・平安の頃、その物の名にふさわしい漢字がないとわかった場合、日本人は漢字に似せた字を創作するテクニックを開発していたそうだ。
平安時代の古い辞書『新撰字鏡(しんせんじきょう)』(892年頃)では、魚偏に庶民の庶を書いた字を「以和之」と読ませている。これがイワシに当たる最初の創作字であるという。しかしこの字はまもなく消滅してしまう。
これに代わって登場するのが鰯で、『和名抄(わみょうしょう)』(934年)に登録された。ところが近年になって平城宮跡から発掘された木簡(8世紀のもの)に鰯の字が見つかった。イワシは宮中の貴人たちも食べていたことがわかる。
ところで、加納喜光は、ここで言葉や文字にも優先権(プライオリティ)という大原則があるという。例えば、もし誰かが、イワシを「いわし」と言い、鰯と書くのはそれが弱い魚だからと、語源・字源を説いた場合、弱い魚はイワシに限らないと反論する人がいても、最初に与えられた命名が他を排除するというのである。つまり、弱い魚にイワシと命名し、魚偏に弱と書いてしまえば、たとい他の魚に弱いという特徴で命名しようとしても、イワシに優先権があるというのである。
イワシを「弱い」と結びつけて解釈する説としては、新井白石説がよく知られている。日本語の語源を説いた『東雅(とうが)』(1717年)に、「イワシとは弱也。其の水を離れぬればたやすく死するをいふ也」とある。
ただ、別説として、貝原益軒の『日本釈名(しゃくみょう)』(1699年)があり、「いやしき也。魚の賎しき者也。」と記し、食生活において下賤な魚とされたから命名されたと解釈した。この点、先述したように、紫式部が密かにイワシを食したら、それを目撃した夫君に窘められたという逸話がある(加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年、49頁~51頁)。

【加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社はこちらから】

魚偏漢字の話 (中公文庫)

≪書道の歴史概観 その16≫

2021-02-15 18:35:46 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その16≫
(2021年2月15日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでも、<書について考える>というテーマで述べてみたい。 書について考える際の様々な視点を提示してみようと思う。
例えば、書は線の美かという問題、書はどこまで国際的に理解できるか、国際的な書とは何かといった問題、「書は人なり」という言葉などについて考えてみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<書について考える>
・書はどこまで国際的に理解できるか
・「書は人なり」という言葉について
・現代日本書壇とその批判について
・書は線の美か
・国際的な書とは
・《参考文献》








<書について考える>



書はどこまで国際的に理解できるか


書はどこまで国際的に理解できるか。この問いに、完全に否定的であるのは、大溪洗耳(おおたに せんじ)である。大溪洗耳は、1932年に新潟県に生まれ、1958年に東京学芸大学書道科を卒業した書家である。1979年、1982年には東京新聞後援の個展を開催し、1985年当時、日本教育書道芸術院理事長および東京書作展審査委員を務めていたが、2003年に没した。
『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年、162頁、172頁~174頁)において、次のように述べている。
「書は国際的理解の中で花は咲かないのである。咲いたと思ってもそれは錯覚である。国際的な書を目指すのは、「小字数作品」だなどと、かつて言った馬鹿がいたが、この頃はもう余り聞かない」(大溪、1985年、162頁)
「二つ目は、外国人は書としては何も理解してないという事実である。確然たる理解を得なくてもいい、書は難しく考えて見るものではない、ましてや初めて見る書である、楽しく見てくれればそれでいい、ということをふまえての話ならけっこうである。外国人に解るようになったから、いよいよ書も国際的になったなどとニコニコしないのなら納得する。外国人は書を理解しようがないのである」(大溪、1985年、172頁)。
「何度もくり返すが書は国際的にはなり得ない。なったと思ってもそれは錯覚である。手前味噌である」(大溪、1985年、172頁~174頁)と述べている。
そして、具体的には、国際美術家連盟とかの偉い外人さんが、手島右卿の「崩壊」という作品を見て、読めないのにその印象だけで「崩壊」を感じたというエピソードがあるが、これなど錯覚であると大溪洗耳はいう(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、170頁)。

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

これに対して、書家の岡安千尋(おかやす ちひろ)は異なる見解を示している。岡安には、『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』(日貿出版社、1987年)という著作がある。
その著者略歴によれば、岡安千尋は1951年東京に生まれ、慶応義塾中等部、女子高校に学び、慶應義塾大学理工学部応用化学科を卒業し、そして日本書道専門学校に学び、大田区書道連盟会長の中平南海、専修大学講師の田中常貴に師事したという。そして外国人に書を教え始める一方で、1980年代半ばから後半にかけて、東京の六本木、銀座およびパリにて個展を開いたりした。
その岡安によれば、書において用いられる文字は、ひとつの象徴という大切な意味があるという。書家というのは、モチーフの文字を選ぶ場合、自分が無意識領域の中に抱き暖めている何かを、明確な一つの意を持った文字として意識に還元する作業をやっているのだと述べている。心の中にしまい込んだ文字が、作品になるようだ。自分に内在するものの象徴としての文字を、自分の中にかかえ込んでいて、多くは技術的な種々の問題によって、つっかかっている状態のものらしい。自分の内在するものにくっつく象徴を探し、自己葛藤の中で貯えられた蓄積の文字を自分の中に持つことが書における最も大切なポイントである。ここに書が書たる由縁があり、お習字とは画然とした一本の線が引かれるところがあるという。
こうしたことを、はじめから西洋人にやれというのは無理だが、こうした自覚の下、西洋人が漢字を見て、それに自分に響くものを感じ、象徴として採用するなら、そこに書は成り立つと岡安はみている。それが、漢字の形象面からのもので、よしんばその意味や読みがわからなくとも、要は、それが自分の内在部分の象徴として、どれだけ意味があるかということが大切なのであるという。
(岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社、1987年、205頁~206頁)

外国人に書を教えてきた岡安だからこその持論であり、書の国際的な理解はありえないと否定する大溪洗耳と異なる点である。
また、多くの外国人に書を教えてきた経験から、空間に対する意識の違いに注目していることは興味深い論点である。書ではないが、中近東イスラム圏では、その建築物は平面を装飾意匠で埋め尽くしている。執拗なまでに、文様でびっしりおおわれている。イスラム教の偶像崇拝禁止が影響しているかどうかは不明だが、そこには余白の美などという感覚は全くない点を岡安は指摘している。書は、空間のある一点から来る力が平面の上で仕事をし、又そのもとの一点に収束して戻っていくというような仕事であるという(岡安、1987年、184頁~186頁)。

中国や日本の書には、余白の美が重視される。とりわけ、日本の書である「かな」の作品の特性として、最も特徴的なのが「余白美」である。書家の武田双雲はその「余白美」に、日本独自の芸術観を見いだしている(武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]、110頁~112頁)。

【岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社はこちらから】

書の交差点―脱日本型思考・書の場合

【武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書はこちらから】

「書」を書く愉しみ (光文社新書)

「書は人なり」という言葉について


この「書は人なり」という言葉はよく使われる。あの松本清張も「書道教授」という推理小説でも用いている。
勝村久子の人柄について、東京の良家の老婦人で、残光のような静かな気品があるとほめた後、その書について次のように記す。
「それに、彼女の書だ。ひとを教えるくらいだから、うまいにきまっているが、書にも気品というものがあって、これは上手とは別ものである。勝村久子の字には確かにその気品がある。書は人なりというが、まったく彼女の人柄と合致している。」
(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年、153頁)

【宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫はこちらから】

宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション 中 (文春文庫)


ところで、石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)

また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。
これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。
「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)



現代日本書壇とその批判について


大溪洗耳の著作として、先述したように、『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年)がある。そこで、西川寧、青山杉雨など7人の書家を批判し、真に実力ある書家は、手島右卿、日比野五鳳、小坂奇石、殿村藍田、堀桂琴、田辺古邨、石橋犀水、伊東参州らであると主張している。
西川寧、青山杉雨が主導する日展および書道界の体質について批判している。西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。
大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授、生涯一度も個展を開くことがなかった)が、「うまい書だけが書ではない」と認識している点に関しては、疑問を呈し、大溪は持論を展開している。つまり、「用」を否定することは書の技術を否定することでもあると大溪は考え、書の技術は絶対に必要であるという立場をとっている。
例えば、青山は「書家はたんにうまい字を書けばいいのではない。書とは文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現することであり、そのためには哲学、宗教、絵画などの幅広い教養が必要になってくる。作品とはそうした教養、生活の象徴である。」(『読売新聞』昭和58年12月19日付)と主張している。
この青山の議論に関して、大溪は次のように批判している。「書は究極、たんにうまい字のみを目指すものではない」というのも、一つの考え方であるが、文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現するには、表現する技術の「うまさ」がなければならないと大溪は主張している。
また技術の「うまさ」だけでは再表現はすべてが可能とも言えないが、しかし最低技術による「うまさ」は作家である以上避けて通過することはできないという。技術を馬鹿にする作家はすでに自ら作家であることを放棄しているのと変わらないとする。
かつての芸術院会員であった豊道春海、鈴木翠軒、日比野五鳳といった書家は、その作品のすばらしさで人の心を揺さぶり、感動・驚嘆させた。これらの書家には技術という背景があり、その技術は「うまさ」の根底を作っていたと大溪はみる。そしてその「うまさ」の上に、「うまさ」を超えた「すばらしさ」がある。またこの「すばらしさ」をもひっくるめて「うまさ」とすることもある。
しかし、青山杉雨の作品をみても、書家が最低避けて通れない前段階における技術の「うまさ」すらないと、大溪は批評している。
日展は、いくつかの書道団体が集まってやっている連合社中展であると大溪は規定している。日本の書壇、とりわけ西川寧と青山杉雨の書壇は、展覧会をやることによって支えられてきたという。そして西川、青山は二人とも社団法人の日展の謙慎書道会という最大会派に所属していた。青山が日本の書道界に“理念なき展覧会至上主義”を確立したと大溪はみている。また、書道界には師匠がいて、師匠の言う通り勉強して師匠の手本を貰って入選すれば、礼金がいるという構造で、その悪しき金権的体質を大溪は批判している。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、48頁~70頁、大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、7頁~55頁)

【大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社はこちらから】

戦後日本の書をダメにした七人

大溪と同じく、榊莫山も、日本の書壇のセクト主義を批判している。日本の書は、中国の漢字・漢詩の流れの系譜と、平安の仮名・和歌の流れの系譜がある。書壇は、漢字作家と仮名作家の二つに分断され、書家のえらぶ言葉(詩、成語、熟語)も、宿命的に決まってしまう。書という芸術を、漢字・仮名・篆刻・現代詩・少字数・刻書・墨象など、小刻みのジャンルに分類していて、展覧会になるとジャンルの旗をなびかせて、セクト主義が横行する。このセクショナリズムこそ、書壇の閉鎖的な体質を生む病巣であると榊は考えている。そのセクト主義が、書の新しい造形的発想を閉じこめ、枯渇させ、若い人たちの想像力や創造性を萎靡(いび)していると批判している。
(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、229頁~232頁)

【榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院はこちらから】

中国見聞記―書の源流をたずねて (1982年)

ところで、書作の実質的批判点としては、独立書人団の作品展では、空間章法の悪い作品が多い点を大溪は挙げている。字を書いて作品を書いていないのだという。つまり、字を書くことに腐心するあまり、字以外が見えず、空間が見れていないと批判している。「字は書けても空間が書けない」というのである。この空間が書けるということが現代書の一つの大きな命題であるとする。
例えば、村上三島は、王鐸に没頭しながら、王鐸(1592-1652)の一番すごいところの、行間の章法、行のうねりを学ぼうとしなかったと批判している。王鐸は、明・清二朝に仕えた能書家で、明末ロマンチズムの中心的な存在で、長条幅連綿草の書表現を確立した。
王鐸の技術の三大特徴として、
①行書の各字の線の組立に見える接筆に気を配っている。この点は、米芾や顔真卿や王羲之を超えるところがあると大溪はみている。
②長条幅に見られる各字に亘る因果関係が、直感力だけで布置されていながら、王鐸独特のつっかかりのリズムを出している。
③長条幅における空間は瞠目に値し、天才王鐸の動物的直感からくる呼吸と間のすごさを大溪は賞賛している。
こうした王鐸の書の技術的側面に加えて、明末清初の動乱の中で生きた王鐸の人間性の豊かさを挙げている。
(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、34頁~37頁、163頁~164頁。『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、8頁)

王羲之と王鐸とを対比させながら、その相違について、わかりやすく対話形式で述べた書物として、大溪洗耳は『王羲之大好きオジさんの憂鬱』(日貿出版社、1995年)という著作を出版している。
書家の大溪洗耳自身、10代から20代前半までは、書聖王羲之を尊敬し、「蘭亭序」をすばらしいと思い、「張金界奴本蘭亭序」といった法帖を臨書していた。しかし、大学生時代から、王羲之の書の「かったるさ」が嫌いになり、その体験を踏まえて、この本を書いたようだ。王鐸大好きオジサンが、王羲之大好きオジサンを目の前に座らせて、説教をする形式で、書の極意を伝授していくといった内容である。
例えば、書で重要なのは章法であると、王鐸大好きオジサンは説いている。董其昌も「書は章法を以て一大事となす。行間茂密これなり」と言っている。空間章法は即応力で、本を読んでも会得できない。書がうまくなるのは生活神経で、情念を培うことが大切であるという。
(大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、1頁~24頁、209頁~210頁)

そもそも大溪の基本認識は、こうである。
書家が書作品を評する時に用いる「うまさ」とは、書作の表現技術が勝れていることを意味すると大溪はいっている。例えば、筆がよく使えているとか、紙と筆との関係がよいとか、緩急もよいとか、潤渇のバランスが自然であるとか、線質が生でない、字形が自然な表情で、連綿に合理性がある。太細接筆によく神経がゆきとどいていて、文字章法もよい。天地左右行間字間と全体章法もゆるぎなく、リズムと間のとり方もよいなどを挙げている。
このような書作の表現技術の勝れた「うまさ」だけでは職業書家・プロの「うまさ」の条件には到達せず、「うまさ」の中に背景を持たなければならないと説く。背景とは、本物を身につけることであるという。本物とは、中国の碑帖をさす。例えば、鳴鶴を祖として秋鶴、尚亭に近い作家は、漢魏六朝を至上のものとして学んだ。唐代でも、宋代以降でもいいが、本場の本物を洞察しなければならないという。臨書をし、くり返し書くことで、見るは観るになり、観るは洞察になり、よいものとは何かを認識するという。
(大溪、1985年、23頁~25頁)

良寛の言い分を大溪洗耳が解説すると、こうである。つまり、書家で「うまい」書を作る人はたくさんいるが、勝れた「おもしろい」書ということになると、さっぱりであるという。その理由としては、書家は書の勉強しかしないから、書の世界に埋没して周囲と関わらないから、視野が狭いというのである。
現代の書家でいえば、一年中、あっちの展覧会、こっちの展覧会、そうでなければ書の研究会、書家の集まり、と飛び走り、書が頭から離れない。だから、他の世界に首をつっこんでいる暇がなく、つまらない、いかにも書家らしい書になってしまうのではないかと、説明している。
良寛が字書きの字が嫌だといった所以もそのへんにあるのだろうと推測している。
(大溪、続、1985年、174頁~175頁)
また絵画の世界を見ても、アブストラクトは本来、具象をやって導き出されたものであり、根幹はすべて具象(フィギュラテイフ)からの出発であるとみる。ピカソのキュビズムは、バルセロナ時代の6000枚のデッサンが基盤になっているという(大溪、1985年、137頁~139頁)。
そして、大溪は、書における線質が重要で、それは書作の生命であることを、次のように強調している。
「書における線質は、書作の生命である。線質が悪ければ、どんなに形が勝れていても、見れたものではない。書における線質は絵でいうマチエルである。大方の絵はマチエルを見ればその技術の程度は解かる。書における線質も、大方の場合、その基本技術の、程度がどれくらいか直ぐ解かる。線はくり返し書作をすることで練られてきて、いわゆる「なま」でなくなる。この「なま」でない状態を何時で発揮出来る技術を持ってはじめてプロといえる。書の批評は実作者でないと基本的な部分で見誤ることがあるというのは、この線質如何の見分においてである。実作をして線が「なま」でなくなる過程を十年単位で認識しないと、ほんとうの批評は出来ない。線質は多様で、同一作品中でも、人によったら千変万化する。線質を正しく見極めて、後に造形性云々を言わなければ、書の批評をしたことにはならない。線質が解らないから、形だけの話になる。形だけで作風を言ったり、見た目で言辞を弄する。」
(大溪、続、1985年、130頁~131頁)
「書において線質は生命である。書の線質だけは、書作家でないと解らないという、東洋の墨の美術の最大の特性でもある。」とも言っている(大溪、続、1985年、132頁)。
このように大溪洗耳は書において線質は生命であると考えている。

書は線の美か


ただ「書は線の美」であるというと、不十分であることを石川九楊は論じている。書は線の芸術であるという考えは、文字を構成する「点と画」を「点と線」と言ってしまったところが間違いであるという。
例えば、「大」と書いた時の一点一画は、決して野放図な点と線ではない。「大」の字を三本の線からなると言っても、実際には、第一画の横画は右上がりに書かれるのが基準であり、そこには起筆と送筆と終筆という三つの単位をもって書かれる。
また第二画は「左はらい」と言われるような先端に行くにしたがって尖る形状をもつ。そして第三画は「右はらい」と呼ばれる先端に三角形の力のためとはらいからなる形状を備えている。「大」の字は、「左はらい」と「右はらい」とでは形状が異なり、厳密には決して左右対称ではない。
そして、石川はいう。「大」という「文字」を書くのではなく、作者はなにか切実な理由があって、「大」という「言葉」を書くのであると。その「言葉であるところの文字」は点と画を積み重ねるところから生まれてくる。点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのだと述べている。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、23頁~24頁)

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書に通ず (新潮選書)


国際的な書とは


石川は戦後前衛書を紹介した後に、字句の判読性に書の本質はないと主張している。「書を読む」「書が読める」とは、書として表現された世界を解読することであるというのである。筆蝕と構成と角度の芸術である書は、それらの歴史的蓄積の理解の上に立って、正確に読み解かれるべきであるという。
字句が読めず、理解できなくても、書を読むことは可能であるともいう。この書にまつわりつく謎について、高村光太郎は字句が何と書かれているかわからないのに、その表現を感じとることのできるのはなぜだろうと考え、書の美の要素として、「筆触の生理的心理的統整」の存在を発見していることを石川は紹介している。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、250頁)

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書に通ず (新潮選書)

そして石川は次のように述べている。
「現在は、たとえ書とはとうてい思えない形にまで歪んだ形であっても、書の本質と美質を核とし、そこに東アジアを超え、西欧をも含み込んだ世界の姿を写し込む実験と、演習をしなければなりません。現在はそのような時代であると私は考えています。」と
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、254頁)
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか)」(1972年)などの前衛書をものしている石川の書に対する理解には深いものがあろう。

《参考文献》
魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年
青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年
真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]
宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社、1972年
榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]
榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年
榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年
平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]
平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]
伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]
天石東村『書道入門』保育社、1985年
堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年
堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]
鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]
石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年
石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年
石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年
石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年
石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年
石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年
石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年
石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年
石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊
神田喜一郎『墨林閒話』岩波書店、1977年[1978年版]
何平『中国碑林紀行』二玄社、1999年
松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年
鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]
鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]
会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]
本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年
西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年
西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)
青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年
西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]
西川寧『書というもの』二玄社、1969年[1984年版]
疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年
武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]
上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]
角井博ほか『中国法書ガイド34 雁塔聖教序 唐 褚遂良』二玄社、1987年[2013年版]
佘雪曼編『書道技法講座7 行書 王羲之』二玄社、1970年[1982年版]
吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書、1984年[1988年版]
大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社、1987年
李家正文『筆談墨史』朝日新聞社、1965年
李家正文『書の詩』木耳社、1974年
吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]
吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社、2012年
小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]
田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]
大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年
大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年
大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年
岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社、1987年
紫舟『龍馬のことば』朝日新聞出版、2010年
金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年
村上三島『独習書道技法講座9 草書・十七帖』二玄社、1984年
春名好重『古筆百話』淡交社、1984年
加藤精一『弘法大師空海伝』春秋社、1989年
財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社、1967年[1977年版]
鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年
筒井茂徳『行書がうまくなる本 蘭亭序を習う』二玄社、2009年[2013年版]
金田石城『字のうまくなる本』光文社文庫、1985年

松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年
高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年
白川静『漢字―生い立ちとその背景―』岩波新書、1970年[1972年版]
阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年
阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年
藤堂明保『漢字の話 上・下』朝日選書、1986年
藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]
遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]



≪書道の歴史概観 その15≫

2021-02-15 18:15:19 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その15≫
(2021年2月15日投稿)




【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


今回のブログでも、<書について考える>というテーマで述べてみたい。 書について考える際の様々な視点を提示してみようと思う。
例えば、中国の書と日本の書の相違、中国書史と日本書史の基本的理解、漢字文化圏における書の担い手、日本と中国の漢字の筆順、書道展の相違などについて考えてみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・石川九楊の中国書史と日本書史の基本的理解について
・中国と日本の書について
・漢字文化圏における書の担い手について
・中国の書と日本の書の相違について
・日本と中国の漢字の筆順
・中国と日本の書の相違点
・日本と中国の書道展の相違について






<書について考える>



石川九楊の中国書史と日本書史の基本的理解について


石川九楊は中国書史をどのように理解しているのだろうか。一言で要約すれば、中国書史は、自律的に0(ゼロ)→一→二→三→多→無限という見事な論理、つまりリズム法(折法)をもって展開をとげた姿を描いていると捉えている。
これに対して、日本書史は、中国のような見事な展開の姿を見ないという。その理由を、日本語の特質に求めている。すなわち、
「その理由は、日本語が、政治的・思想的な中国語(漢語)を核として、古くからある再編、再構築された孤島語である和語・テニヲハをこれに添え、漢語(音)の裏に和語(訓)を貼付し、和語の裏に漢語を貼りつけた構造からなる二つの異なる中心をもつ二重複線言語であるからです。日本の書史は自律的に展開しようとしても、絶えず日本語の一方の部分である漢語の国、中国からの書(言葉)の流入によってその自律的な展開が阻(さまた)げられ、乱流します。」と。
このように、その理由について、日本語の二重複線言語という特質から、日本書史は自律的展開を、漢語の国である中国からの書の流入によって阻げられたのだというのである。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、140頁、150頁)

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)

中国と日本の書について


楷、行、草のうち、中国では楷書を基本と考える捉え方であるのに対して、日本では行書を典型(中庸)として捉えている。書における「大陸的」=中国的とは楷書を標準にしている。それに対して「島国的」=日本的とは楷書をくずした行書的な書を基準にしている。このことは、『入木抄(じゅぼくしょう)』などで明らかである。楷書は構築性、直線性、動的、肥の傾向をもつとされ、行書は展開性、曲線性、静的、痩または肥痩の傾向をもち、柔軟、抒情的と表現される。
日本の書史を見た場合、擬似中国文化時代、遣唐使世代に属する三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の書は中国書の吸収、消化期に位置し、中国の書に酷似している。空海の「灌頂記」が顔真卿の影響を受けているという説が流布されるのは、三筆の書が中国色をいまだ払拭しきれない事実を証明している。
ところが、漢語と和語からなる日本語が誕生し、日本が姿を見せはじめたポスト遣唐使世代である三蹟(894年に遣唐使廃止生まれの小野道風、藤原佐里、藤原行成)によって書風は一変した。運筆はなめらかで柔らかく、「S字型曲線」を描くようになり、文字形は円く均整がとれ、肥痩(ひそう)をバランスよく、ないまぜにした美しい和様の日本文字へと昇華した。
つまり、楷書の典型は中国初唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良によって、和様・日本文字の典型は日本の三蹟によって完成した。僧寛建が道風の書を携えて入唐し、僧嘉因が佐理の書を宋の太宗に献上したというエピソードが、三蹟の書の中国風からの脱出を示している。
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、199頁~200頁)

【石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年はこちらから】

現代作家100人の字 (新潮文庫)


漢字文化圏における書の担い手について


書の担い手という問題を考えてみた場合に、どのように要約できるのであろうか。漢字文化圏における書は、文化の中枢にある表現であるから、政治的・文化的中枢部に存在しつづけてきた。
甲骨文は、史官とでも言うべき存在によって亀甲や獣骨に刻りつけられていた。史官というのは、王、王と神との間の通訳である占人と並び、神政政治の中心を担っている存在であった。中国殷代の最初の文字・甲骨文は、王と占人と史官の三者の創製したものと考えられる。
秦の始皇帝時代の篆書を書き、刻りつけもした李斯も、この史官に相当する存在であった。漢代の隷書の書き手や刻者もまた、この史官に準じる存在である書記官であった。草書の時代になると、王羲之など高級貴族が書の書き手となる。
唐代には、皇帝をはじめ、欧陽詢、虞世南、褚遂良といった皇帝周辺の最高級官僚であった。宋代頃から、高級官僚やその挫折者である士大夫が書の表現を担うようになり、これは清代まで続く。
このように、中国において、書は史官、書記官、皇帝、高級官僚、士大夫という、いずれにしても高級政治家、官僚とその周辺に担われていた。
日本においても、同様で、基本的に天皇や皇后、貴族、あるいはその周辺の僧(知識人)によって書は担われてきた。江戸末期になると、新興町人階級の成熟とともに、この力を背景とした都市知識人(いわゆる日本的文人)もこれに加わり、幕末には儒学で武装した維新の革命家、明治の近代以降は、政府の書記官、さらに作家や詩人や学者によって書は担われた。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、69頁~70頁)

【石川九楊『書に通ず』新潮選書はこちらから】

書に通ず (新潮選書)


中国の書と日本の書の相違について


中国の書と日本の書の相違について、石川九楊は興味深い捉え方をしている。
中国では、紀元前千数百年から初唐代まで2000年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を成立させた。このことを象徴的に言えば、石と紙との争闘史であったという。つまり刻ることと書くこととの争闘史であり、また鑿(のみ)と筆との争闘史であった。
中国の書は、行書、草書を従えた楷書を中心に、楷・行・草の三書体セットで立体的に成立した。その楷書書字法の中心に来るのが、「トン・スー・トン」つまり起筆・送筆・終筆の三過折=三折法の構造である。
楷書は、三折法を運筆筆蝕の中心に据え、中国の陰陽二項対立思想から来る、左右対称の構成法の上に成立する構築的、政治的な書であると石川は定義している。
一方、日本の書は、紙と石との、鑿と毛筆との争闘という書史の前提を知ることがなかった。書くと刻ることの相関を知りえなかった日本の書は、三折法をなだらかな「起筆・送筆・終筆」の階調(グラデーション)と読みかえ、「真・行・草」の深い意味合いに目が届かなかった。
「先、行字可有御習候。行、中庸の故也(まず行書からお習いなさい。行書は中庸ですから)」(『入木抄(じゅぼくしょう)』)と言われる日本の書には、極論すれば、楷書がないと石川はいう。
日本の書、とりわけ和様の書は、「トン・スー・トン」ではなく、いわば「スイ・スー・スイ」というなだらかな連続法で、ひとつの字画が「S字型」を描き、かつ左右対称性を「くずした」構成を基本とする。日本書史においては、「和様」と「唐様(からよう)」と「墨蹟」しか成立しなかった。「和様」は、三蹟のひとり小野道風の「屏風土代」がその出発であり、三蹟の藤原行成の「白楽天詩巻」で完全に成立する。また、「唐様」は中国の書の輸入との関係で成立した「中国書くずし」であり、「墨蹟」は中国から輸入した書の「くずし」である唐様の書の、禅僧によるよりいっそうの「くずし」である。中国を含む書史の全体から言えば、日本書史はそれ自体豊穣な蓄積をもってはいるものの、「コップの中の嵐」程度のことにすぎないという。
(石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年、140頁~147頁)

【石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書はこちらから】

書とはどういう芸術か―筆蝕の美学 (中公新書)

日本と中国の漢字の筆順


ところで日本と中国の漢字の筆順について、書家の武田双雲は興味深いことを述べている。武田双雲は、東京理科大学を卒業後、NTT勤務を経て、書道家として独立するという独特の経歴を持つ。書家としては、吉永小百合主演の映画『北の零年』の題字などを手がけている。
その武田は、筆順(書き順)は日本と中国では違いが見られることを論じている。
たとえば、日本の学校では、「右」の筆順は縦が先であると教えられる。それに対して、中国では、横画から書くと統一されているという。また、「有」も日本では縦から、中国では横画が先である。
その他にも、日本と中国では筆順が大幅に異なっている。
①「王」は、日本では横画につづき縦画であるのに対して、中国では横画、横画そして縦画である。
②「必」は、日本ではカタカナの「ソ」に似た部分から書き始めるが、中国では左の点画から右へ順番に書いていく。
③「田」」の中の「十」は、日本では縦画が先だが、中国では横画が先である。
④「母」の中は、日本では二つの点画のあとに横画だが、中国では横画のあとに二つの点画を書く。
このように、日中では筆順が異なるのである。その理由について、武田は次のような推測を述べている。日本では筆順を統一する時に、「右」の筆順のように、古典から推測される筆順に従ったのに対して、中国では「横画が先」と、古典よりは覚え易さ、わかり易さを優先させたものであろうとする。
(武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]、60頁~65頁)


【武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書はこちらから】

「書」を書く愉しみ (光文社新書)


また、筆順に関して、「無」という漢字に関して、石川も言及している。文部省(ママ)推奨の筆順は、第二画目と第三画目の横画につづき、四つの縦画をかき、その後、横画をかく。しかし、この場合には、必然的に第三横筆の短い「無」型の不安定な字形になるという。
一方、歴史的に多数派の書き順は、第二、三、四画目の横筆をかいて、その後、四つの縦画をかくと、第三横筆が長く伸び、安定感のある「無」字となるというのである。
要は、筆順に従って字形も変化するから、字典で筆順を確認し、検討する必要がある。

中国と日本の書の相違点


中国と日本の書の相違点として、西川寧は次の諸点を指摘している。
①中国の書には根底に建築的な強い骨組があるが、日本の書はそれよりも装飾的なあるいは図案的な平面の調和ということに進みやすい。
②中国の書には深い瞑想的なものが表われているが、日本の書はむしろ叙情的な面に特色を出している。
③中国の書には個性的な体臭というものが強く表われているが、日本の書では、ものやわらかい感覚的な味を求めていく。
④華やかな面をとっても、中国の書には重厚で荘重なものがあるが、日本のは軽い優美さが目立っている。
⑤叙情的な面をとっても、中国の書は強い骨格と重厚な精神とに根ざす複雑なものがあるが、日本の書は軽妙な流れに乗った純粋さが目立つ。

料理に例をとると、中国料理は油っこいが、日本料理は淡白である。日本のは淡白の裏に材料の自然を生かして鋭い味覚に訴えるが、中国の料理は手のこんだ作り方で、色々の材料を綜合的にあつかって、その複雑な味は人間の味覚全体を包んでしまうという。これは、中国の芸術の特色と全く同じであると西川寧は考えている。
もう一歩進めて考えた場合、中国の書は広い意味での論理主義を基礎とし、日本のは直観主義に立っていると西川はいう。これは民族性の違いや風土的な特色でもあり、書のみならず、絵画でも文学でも、この違いがある。
また、日本の優美さや純粋さにはいい所があるが、骨格の弱さや構成力の弱さ、あるいは人間的な深い心がとかく忘れがちになって、味や情緒におぼれやすい所は大きな弱点であると指摘している。西川は、作家の立場としては、この点に注意して、常に中国の書の研究につとめていると述べている。
(西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]、227頁~228頁)

【西川寧『書の変相』二玄社はこちらから】

書の変相 (1960年)

日本と中国の書道展の相違について


中国の書道展は、日本のそれとはだいぶ様子がちがっていると榊莫山はいう。書に対する考えも、取り組み方もちがうようだ。
中国のそれの方が伝統的で日常的であるという。日本のように書家集団があって、作品を公募し審査し、肩書をつくって段階的に出世してゆくシステムがない。だから、大美術館で膨大な数をならべる必要もなく、たいがいは、街の人々がよく集まる公園や名所の古風な堂楼を会場にして、いわゆる書の作品と、篆刻の作品をならべる形をとっている。作品にはアマチュアリズムがあふれていると榊はみている。
中国の方が伝統的であるというのは、作風に冒険がなく、伝承性を重んじているという意味で、そのために作風の振幅は単調であるという。篆・隷・行・草・楷という書体の多様性はみられても、今一つ今日的な生々の気に乏しい。
日本の書は、漢字・仮名・篆刻・近代詩文・墨象等々、不必要なまでに細分化して、展覧会づけされているのが、現状である。そして、古典的な伝承性のつよい作風から、抽象絵画に接する新しい作風まで視野を広めつづけているという。
(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、43頁~49頁)

【榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院はこちらから】

中国見聞記―書の源流をたずねて (1982年)



≪書道の歴史概観 その14≫

2021-02-15 17:57:17 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その14≫
(2021年2月15日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログからは、<書について考える>というテーマで述べてみたい。
 書について考える際の様々な視点を提示してみようと思う。例えば、「日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価」、「書のうまさ」について考えてみる。その他、書道史の用語とされる「気韻生動」、「参差(しんし)」、「章法」に関して説明しておこう。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


<書について考える>
・日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
・書の見方・鑑賞について
・ギリシャ美術と書
・「気韻生動」について
・参差(しんし)について
・章法とは
・石川九楊にとって書のうまさとは何か
・書のうまさとは?
・「永字八法」について







<書について考える>


日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について


日本では、とくに禅僧の書を「墨跡」と称して、これを珍重する風習がある。鎌倉時代は禅林様書道の栄えた時代であるといわれる。芸術と人間との相関性を自覚して、その深まりを求めるところに、道におけるきびしい鍛錬、稽古を行なうのが、禅林様の書道精神である。そこには、男性的、個性的、意力的な書風が成立したと理解されている。
鎌倉時代の禅僧で中国に入国した者は、8、90人にのぼり、その墨跡が将来され、無準師範(1177~1249)などの墨跡は今日なお伝存している。
禅僧の墨跡の特色は一般に中国の古い書道の伝統から離れた破格の書であるといわれる。中国のように、根強い文化的伝統を持つ国では、その伝統に反するものは、これを異端として拒否する傾きがつよい。したがって、中国では禅僧の墨跡はむろん疎外されたという。一方、日本においては、書道の一派をなすものとしてその価値を認めている。ここに書に対する両国の相違を平山観月はみている。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、296頁)

【平山観月『新中国書道史』有朋堂はこちらから】

新中国書道史 (1962年)


書の見方・鑑賞について


絵画を言葉で表現するのが難しいように、書を言葉で形容するのも困難である。その際に大いに参考となるのが、平山観月『書の芸術学』(有朋堂、1965年[1973年版])という著作である。
東晋時代の王羲之の「蘭亭序」は典雅(端正で上品)、唐時代の顔真卿の「自書告身帖」は雄渾(雄大でとどこうりない)、一方、日本の平安時代の空海の「風信帖」は淳和(てあつくやわらぐ)、同じく平安時代の伝小野道風の「三体白楽天詩巻」は優婉(やさしくしとやか)と形容している。この点について詳述してみたい。
書道における美的範疇は、主範疇と従範疇に分ける。主範疇に属するものは雄勁・優婉・飄逸の三者であり、これは基本的範疇の崇高(壮美)・純美・フモールに当たるものとする。語義的にいえば、雄勁は雄々しく強いことを意味し、優婉はやさしくしとやかなことであり、飄逸は形にとらわれず、自由無礙、放逸の態を意味し、また明るくのんきなことである。これらの三範疇はそれぞれ書の「強さ」「優しさ」「面白さ」を示す美的賓辞である。芸術書のあり方の基本的な三方向を示すものとして、これを主範疇と平山はしている。
次に従範疇として、主範疇の雄勁に所属するものとしては、蒼古・雄渾・曠達の三者をあげる。蒼古は古色を帯び、さびのあることであり、雄渾は雄大で、滞りない姿であり、曠達は度量ひろく、悠々として物事にこだわらぬ態である。
次に、主範疇の優婉に所属するものとして、淳和・典雅・流麗がある。淳和は手厚く、やわらぐ意味があり、典雅は正しく、上品なこと、みやびていることであり、流麗はなだらかで、麗しい意味がある。
次に主範疇の飄逸に所属するものに、斬新・素朴・雅拙がある。斬新は趣向の新奇なこと、素朴は人為なく、自然のままなるをいい、雅拙は一見子供じみて下手らしくはあるが、よく見れば素朴で純粋美があふれていることを意味する。
このように、主従あわせて、12の範疇に分けている。
ただし、平山は範疇の相互関係について、次の点を指摘している。

①これらのうち、ただ一つの範疇だけでは、複雑な書作品の美の様式を律しきれないことが多い。たとえば、雄勁と見るべきものの中にも、優婉味を帯びたものものあり、飄逸味を含むものもないわけではないという。
②これらの範疇は書の美的体質に名づけられる賛辞であると同時に、書者の精神、生命の動きに対する美的賓辞であることを意味する。というのも、書とはつまり、書者の内部生命の動きが筆墨紙をとおして律動的に表現されたものと平山は考えているからである。そして主範疇である雄勁・優婉・飄逸は、より精神美の方向を端的にあらわし、これに対して従範疇である蒼古以下の諸範疇は、より体感的美の方向を端的にあらわしている。
③これら従範疇のうち、蒼古・淳和・斬新は時間的契機のもとに捉えた範疇であり、雄渾・典雅・素朴は素質的契機のもとに捉えた範疇であり、曠達・流麗・雅拙はリズム的契機のもとに捉えた範疇として観察し得ることである。
なお、雄勁・蒼古・雄渾・曠達と、飄逸・斬新・素朴・雅拙とは、それぞれ対照的賓辞であり、優婉・淳和・典雅・流麗は中和的契機をもつ賓辞であるとする。

このように、平山は、書道における美的範疇の概念を捉え、中国の書の史的流れにそって、画期的な書人の作品を取り上げ、その美的賓辞について検討している。
たとえば、秦の始皇帝はいわゆる「小篆」を作ったが、その代表的な書跡である「石鼓文」(帝の頌徳の石文)は、蒼然たる色を帯び、かつ荘重、雄勁の点も見受けられるが、まず蒼古にはいるべきであろうとする。
東晋の王羲之、王献之父子は楷行草三体をよくし、「楽毅論」はその細楷として第一位に推されるもので、筆力秀勁、筆法の妙をきわむといわれ、行書の「蘭亭序」、「孔侍中帖」、草書の「喪乱帖」など用筆、結体ともに精妙で、毛筆の極致を示すものといわれている。
王羲之の書体は各体とも貴族的であり、その人間性から発散する縹渺たる仙気は、一種の悠然たる風格が備わっている。この風格は、優婉・淳和・典雅とも呼ばれるべきものであるとする。
続く南北朝時代では、北朝は北方人の雄勁な書風で、南朝は流麗な書風で、互いに対立的であった。しかしその南北の対立は、隋唐において融和し、初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の均斉のとれた書風になった。そして盛唐には顔真卿の豊かな生命感にあふれた書が生まれてくる。唐代の書道の盛大をなしたゆえんは、太宗の力に負うところが大きく、その太宗は帝王中第一の能書家といわれ、王羲之の書を敬愛した。初唐の三大家も王羲之に源を求めているが、虞世南の書は典雅においてまさり、欧陽詢の書は雄勁の趣を加え、褚遂良の書は蒼古の風神を湛えている点に特色があると平山は評している。
一方、顔真卿は唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感の強い剛直の士で、妍美なものに激しく反発し、男性的な重みと、剛気とに満ちあふれた主体的なものの表現を求めたといわれる。その書そのものが「自書告身帖」にみられるように、壮重雄渾であった。剛毅であり、野逸でさえあるその書風は、まさに「書は人なり」の感を深くする。
(平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]、182頁~190頁)

その書風は、当時一般に行なわれていた王羲之風の優雅な書風に刺激を与え、書表現の思想や技術が大きく転向した。当時の楷書が隷書に源を求めていたのに対し、顔真卿はさらにさかのぼって篆書にその根底を求めた。だから、顔真卿の楷書は従来のそれに比して、文字の姿態は丸く、線はほぼ楕円形をなし、千金の量感を呈し、雄渾曠達にして度量も広く悠々たる風情があると評せられる。これが顔真卿の楷書の大きな特色である。
次に、宋代の四大家である蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾は、それぞれ個性を発揮して清新な書風を開く。蔡襄の「万安橋記」の書法は顔真卿の型で雄偉、遒麗にして堂々たるものがあり、雄渾といわれる。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」の書について、黄庭堅は「疏々密々、意のまま緩急して、文字の間に妍媚な美しさが百出するもの」と絶賛している。それは、現存する蘇書の中では神品
第一と称せられる。平山は、趣向斬新、流麗な筆致をもって鳴るものと評している。
蘇軾は、顔真卿の書を学び、その上古人の書をよく消化し、独創的な個性を表現しようとした。
黄庭堅も、蘇軾と同じく、顔法を学んだ。彼はとくに魏晋の書に見られる逸気を重んじ、晩年には唐の張旭・懐素に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を学んだ。草書の「李白詩憶旧遊」は、超妙脱塵の境地に達した書といわれ、平山は、瓢逸を主として曠達を兼ねるところの逸品と称賛している。
また米芾は晋人の高古の風を尊び、奔放な宋人らしい主観的な書をかいた。「方円庵記」は行書のうちでとくに著名で、その朗暢な書風は宋代随一と称せられている。その書風の淵源するところは、王羲之、褚遂良にあるが、流麗なリズムの中に、斬新な趣向があるといわれる。
このように宋代の書表現は、自由と個性とを中心としたものであった。
それに対して、元代の書は復古主義に戻ったといわれる。元代の趙子昴は典雅な書をかいた。彼は古人の筆跡を慕い、王羲之の書の伝統が唐の中葉以降かき乱され、宋人の書が放縦にして弊が多いのを見て、晋唐への復古を志した。その代表作「行書千字文」は温雅寛博、円熟に達した書であるといわれている。日下部鳴鶴は、「規矩を自然にし、雄奇を清穆に寓す」と評した。平山は、「まさに典雅の賓辞にふさわしい手跡というべきである」と称賛している。
さて、明代にはいっても、書流としては晋唐を目標にし、そこから脱するところまでは行かなかった。その中で董其昌は軽妙で円熟した書をかいた「項元汴墓誌銘」は、行書を交えた楷書で、遒媚にして暢達、当代第一の大家たる気品があるといわれる。
彼は、元の趙孟頫の一派がもっぱら王羲之の形似を得ることに努めた行き方を退けた。そして晋人の書法に造詣の深い米芾や、晋人の精神を得た顔真卿に共感を示したようだ。概して董其昌の書は、枯淡、秀潤、率意の妙においてすぐれているといわれる。平山は、その範疇により、枯淡は蒼古、秀潤は流麗、率意は素朴の賓辞に近いものと理解している。
清代にはいっては、金石学の興起により、再び北朝の書風が復興される。とくに劉石庵と鄧石如が名高い。劉の「砂金箋」は豊潤でしかも気骨を内に蔵し、静かな情趣をたたえた典雅な書風は品格が高いと評される。鄧の「漢崔子玉坐右銘」は、篆隷を当世に生かしたもので、蒼古、渾厚の気がみなぎっていると平山は解説している。
(平山、1965年[1973年版]、182頁~192頁)

「楷書は立てるがごとく、行書は歩むがごとく、草書は走るがごとし」といわれるが、楷書・行書・草書の相違、特質について、言いえて妙である。
(平山、1965年[1973年版]、264頁)

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書の芸術学 (1964年)


ギリシャ美術と書


西川寧編『書道』(毎日新聞社、1976年)において、美術史家の守屋謙二は「書の芸術性」という評論で、ギリシャ美術と書との関係を見た場合、西洋と東洋の書の相違が明確に浮き上がることを述べている。
西洋美術の本源とも見なされるギリシャ彫刻であるが、その一例として、紀元前400年ごろの製作と推定される「ヘーゲーソーの墓碑(アテナイ、国立美術館蔵)を挙げることができる。墓碑の上部なる破風形の下辺には、ギリシャ文字の銘文「プロクセノスの娘ヘーゲーソー」と刻まれている。この浮き彫りは、ヘーゲーソーが下婢のさし出した小筥(こばこ)から宝石の首飾りを取り出している場面である。その端正な横顔や、豊潤な体躯の表現はパルテノン神殿の彫刻作品にも比肩するほどである。
こうしたすばらしい彫刻的表現にもかかわらず、碑銘の文字は、字画がきわめて簡単であり、多様な雅致に富む表現をとり得ない。文字の描線は、雅拙でたどたどしく、その組み立ては均衡がとれず、不安定である。つまり書の表現は貧弱をきわめる。このことを「あたかも美人に筆を持たせると、みみずのような拙字を書くのに似ている」と守屋は表現している。
彫刻の領域において卓越したギリシャ民族は、必ずしも書道の方面でりっぱなものを生み出すとはかぎらず、二つの美術のジャンル、すなわち彫刻と書道とは実際の製作にあたって、同じ水準に達することなく、全く異なった現われ方をしているとみている。
(西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年、64頁~67頁)

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書道 (1976年)

「気韻生動」について


絵画では六朝の後半期、5世紀頃には、六法論があらわれて、絵画への自覚に根拠が与えられた。六法の第一に「気韻生動」の一条があげられている。精神性の表現を第一とする所に中国人の美意識の特色がある。書論でもこの頃「生気」ということが第一に考えられていた。雄逸・洞達といった風な人格的なものの味得となり、その中枢にはいつも神気があった。
六朝の後半期は、書でも主知的な傾向が動き出して大きな転換をする。一画が三つの構造を確立して、新しい楷書を生み出したのもこの時期である。その挙句は、隋・唐、6世紀終わりから7世紀にかけて、楷書の典型の成立となる。平行線の統一と力の均衡による正しい構成(間架結構法)に飽和された精神、これがこの時期の特色である。そして、欧陽詢はその中心的な存在である。
しかし、典型が成立すると、反典型的な運動、つまり主観の表現を第一とするようになる。北宋の後半、11世紀に蘇東坡があらわれて、この面に新しい世界を大きく開いた。ここで書における神気の充実ということが強く自覚されてくる。書の鑑賞にも、瓢逸とか、疏宕とか瀟洒あるいは雄麗、渾摯、雅醇、婉秀などと、人格的な、性格的な、または情趣的な面が注意されてくるようになる。この視点が、大体後世の鑑賞の標準となる
(西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]、56頁~58頁)

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書の変相 (1960年)


参差(しんし)について


構成は、書の歴史的展開の中で、まず文字の誕生とともに、整斉(せいせい)つまり対称(シンメトリー)と均等(イクオール)を知る。やがて筆で書きつける姿を文字に定着した書字(書くこと=筆蝕)の発見とともに、参差(しんし)を知ることになるという。
参差とは、字画の長短や出入りのことである。これは音楽に喩えれば音階、絵画に喩えれば色彩ということになると石川は説明している。
書論には「整斉中参差あらしむべし」という言葉がある。「整っていると言うことは画一的とは違い、音階の美をもつべきである」という意味らしい。
もともとの甲骨文、金文、篆書の時代には、同じ長さの三本の線で書き表されていた「三」の字が、隷書の時代に入って以降、三つの字画の長さが異なるように書き表されるようになったのは、この参差=音階の美の成立ゆえであるというのである。
書道家が、「作品に変化をつける」と言っているのが、参差に相当する。
(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、52頁)

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書に通ず (新潮選書)

章法とは


一幅の字配りを「章法」、もしくは配字法、布置ともいう。扁額、条幅、扇面などの揮毫にいては、文字の巧拙よりも、むしろ、この章法に留意しなければならないといわれる。
文字を上手に書くというのは平素の練習にあるが、章法はその場合に臨んで、大いに工夫を練る必要がある。
①長い字と、短い字とがある場合に、その釣合いをどうするか、
②何十字という文字を、一幅に収める場合に、それを何行に書けばよいか、
③また書体は何が適すかというように、種々考慮しなければならない。
もっとも簡単に会得できるものではなく、「書くより慣れろ」といわれ、昔から「扇子千本(せんすせんぼん)」という言葉がある。これは扇子の揮毫はなかなかむずかしいもので、千本も書けば初めて上手に書けるようになるという意味である。
(小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、222頁)

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三體千字文 【新版】


石川九楊にとって書のうまさとは何か


一方、石川九楊にとって書のうまさとは何か。このテーマでは、石川は『書と文字は面白い』(新潮文庫、1996年、256頁~257頁)で言及している。
意外に思われるかもしれないと断りつつ、大正9年(1920)に、俳人・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873~1937)が揮毫した「蘭亭序」を「うまいなあ」と感じるとして挙げている。
 その書の書き出し部分「蘭亭序 永和九年」の写真が掲載されているが、王羲之の書風とは全く異にした文字である。その書は、一見、不自然に文字を歪めたかのように見え、抵抗を感じるかもしれない。しかし、「うまい」と言い切れる理由として、次の3点を指摘している。
①文字を紙面に配する構成。
②字画構成法。
③安定した字画運筆律の中に隠された強弱、転調、飛躍の演出法。
これら三者の組み合わせの上に見事な劇(ドラマ)が進行していると石川はみている。書き出しの先の7字について、次のように分析している。
・「蘭」の字の草冠の二つの点の強弱の様子
・「亭」の第一画の長さと傾き
・「序」の第三画のごく細い形状への転調過程
・水紋の広がりを思わせるような「永」字の形状
・「和」の偏と旁の寸法の落差
・扁平な造形と化した「九」字
・四つの横画があって三つめまでは諧調をもって漸減しながら最後に異常なまでに伸長される「年」の姿態
これらの字があいまって、劇的(ドラマチック)な展開をしているという。
また、縦画は下から、横画は右から起筆されており(いわゆる逆筆)、それにつづく次の字画も適切な位置に書かれ、どの字画も納得がゆき、どの文字も見事にきまっていると称賛している。
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、256頁~257頁)。

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書と文字は面白い (新潮文庫)


書のうまさとは?


古典作品は、うまいから残ってきたとは決していえないと武田双雲は明言している。均整がとれている、バランスがいい、線がきれいというだけの話なら、他にもたくさんある。百年、千年の時を経て生き残ってきた書の古典は、素晴らしいものだが、ほとんどの作品は「うまい」とは感じられないというのである。
王羲之の「蘭亭序」といえでも、決して完璧なうまさとはいえず、余白や字形等をみても、すべてが完璧ではないという。
本当にうまい字ということであれば、近代の書家が書いた書作品の方がうまいと武田は思うと述べている。例えば、近代の書を代表する一人でもある日下部鳴鶴(くさかべめいかく、1838-1922)の「楷書千字文」は無駄がなく、「うまい」という。日下部は六朝書道を学び、清国に渡って書学を研究した明治書道界の第一人者である。
それでは、なぜ、古典は人々を魅了するのかという点については、「書は人なり」というのが一つの答えであると武田は理解している。
例えば、良寛の書は決してうまいとはいえないが、絶大なる人気を保っている。その書は、細かくて頼りない線質で、たっぷりと余白があり、丸みのある書で、人々の心を癒してきた。見ているだけで、ほっとする気がする書である。その書は単に手先の問題だけでは書けず、その書には良寛の生き様、人生観がそのままにじみ出ているというのである。
先ほどの王羲之にしても、その書に対する姿勢、練習量はすさまじいものであったといわれる。また彼の生きた時代は、書が単なる記号としての文字から、美意識を持った芸術の域にまで達し始めた頃であった。つまり、王羲之は書が芸術としての価値を高めていった時代の波を創り出した人であったと歴史的に位置づけられる。
「うまい書」ではなく、本当に「よい書」とは、このように時代性と人間性・個性という要素があらわれた書であると武田は捉えている。
(武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]、35頁~44頁)

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「書」を書く愉しみ (光文社新書)

「永字八法」について


右はらいは、ペン字においても、やはり難しく注意を要する。書家の金田石城も次のように解説している。
右へのはらいは、タテの線と45度の角度で、ナナメ右下へスーッとペンをおろしてきて、一度ペンをとめ、筆記具を持った手の力を抜きながら、そっと右側へずらす感じで手をすべらせると、自然な終筆になるというのである。つまり、永、東、京などの右へのはらいは、一度ペンをとめたのち、そのペンを引きずるようにのばして、終わらせる形が良いとする。右へのはらいは、終筆が昆虫の足のように、ひと関節分多いのが特徴で、形としては、ちょうどバッタやカマキリが足をふんばった形のようになると説明している。
(金田石城『字のうまくなる本』光文社文庫、1985年、39頁~40頁、48頁)

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字のうまくなる本―どんなクセもすぐなおる (光文社文庫)