歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【囲碁】本因坊道策について≫

2024-05-05 18:00:02 | 囲碁の話
≪【囲碁】本因坊道策について≫
(2024年5月5日投稿)

【はじめに】


 島根出身の囲碁界の偉人として、道策(1645-1702)と岩本薫氏(1902-1999)が挙げられる。
 俗っぽい表現を使えば、島根が生んだ囲碁界の二大スーパースターである。
 卑近な例えでいえば、芸能の分野で、島根が生んだ古今の二大スーパースター、出雲阿国と竹内まりやさんのような存在である。
 出雲阿国は元亀3年(1572)で没年は不明で、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判になったとされている。
 竹内まりやさん(1955-)は、島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南)の生まれ。生家・実家は、出雲大社・二の鳥居近くに在る明治10年(1877)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」であることは地元ではよく知られている。
 縁結びの神を祀る出雲大社の近くに生れただけあって、「縁(えにし)の糸」(作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎)は、NHK2008年度下半期の連続テレビ小説「だんだん」の主題歌として書き下ろされた。
 ドラマは人と人との出会いと縁がテーマの一つとなっているが、本楽曲も人と人とを結ぶ見えない縁の糸がテーマとなっている。
 本人は、縁結びの神様のお膝元の「八雲立つ出雲」で生まれ育ったため、常々「ご縁」というものをテーマにした歌を書きたいと思っていたという。
 ♪“「袖振り合うも多生の縁」と古からの伝えどおり この世で出逢う人とはすべて見えぬ糸でつながっている”
 ♪“時空を超えて何度とはなく巡り逢うたび懐かしい そんな誰かを見つけに行こう八雲立つあの場所へと どんな小さな縁の糸も何かいいこと連れてくる”
 奈良時代の日本最古の歴史書『古事記』にも、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(古事記・上巻・歌謡)とある。
 
 さて、道策は石見国の馬路(現・大田市仁摩町馬路)で生まれ、7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ上り算悦門に入る。
 岩本薫氏は島根県益田市(旧・美濃郡高津村)の出身。
 益田は、浜田、大田とともに石見(いわみ)の三田といわれ、石見地方西部の中心である。益田市は日本海に面し、高津川下流域を占め、石見地方西部の商業の中心地であった。古くから進取の気性に富んでいたのかもしれない。
石見国の在庁官人筆頭の地位を占めた益田氏は、中世を通じて石見最大の勢力を誇った(益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田文書』が残る)。また、益田は雪舟の終焉の地とされ、医光寺、万福寺にはそれぞれ雪舟庭園(国指定史跡・名勝)が残る。

 ところで、イスラームは「商人の宗教」であると言われる。教祖ムハンマドが隊商貿易に従事する商人であったことも原因の一つであるが、イスラーム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進したようだ。世界各地へとイスラームが拡大したことには、ムスリム商人が大きく関わっていた。
 先日、NHKの「3か月でマスターする世界史」の「第4回 イスラム拡大の秘密」(2024年4月24日)においても、守川知子先生も、イスラム教は「商人の宗教」である点を強調されていた。

 中世の益田は、人と物の交流の最前線であり、人々はその豊富な地域資源と中国と朝鮮半島に近い立地条件を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいた。中世の高津川・益田川河口域は港町として賑わった。砂州の南側から発見された中須東原遺跡は、港町の遺跡の代表例である。出土した陶磁器は、国内はもとより、西は朝鮮半島や中国、南は東南アジアとの交易を物語っている。
 益田氏は江戸時代(近世)初めに残念ながら益田を去らざるを得なくなり、益田は江戸時代に城下町にならなかった。しかし、これにより中世の町並みがそのまま残った。益田の歴史は、中世日本の傑作とも言われる。

ところで、その商業の町・益田出身の岩本薫氏が、囲碁の海外普及に後半生を捧げられたことは、益田の進取的な精神性と関連させてみると私には興味深かった。
岩本薫氏は、橋本宇太郎本因坊と原爆投下時に対局していた。「原爆下の対局」として知られる。原爆という戦争体験と世界平和への希求の思いが重なって、使命感をともない、囲碁文化の海外普及に向かわれたことであろう。
(「原爆下の対局」については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
 また、夏目漱石と並ぶ明治の二大文豪の一人森鷗外(1862-1922)は、その益田市に近い津和野の出身である。石見国津和野藩の御典医の長男として、津和野に生まれた。東大医学部卒業後、陸軍医となり、1884年ドイツに留学した。やはり森鷗外も海外に目が向いていた。

 さて、玉将(王将)から歩兵まで漢字で書かれた将棋の駒と異なり、碁石には階級性はなく、あるのは黒と白の色の違いだけであり、囲碁は原則、どこに置いてもよい。囲碁のルールも簡単である。しかし、ノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成(1899-1972)がいみじくも「深奥幽玄」と揮毫したように、囲碁は奥深く計り知れない趣がある。川端は大の囲碁好きで、本因坊秀哉(1874-1940)の引退碁を扱った小説『名人』という名作がある。
(川端康成の小説『名人』については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)

 日本の囲碁界は、開放的で国際性に富んでいる。例えば、戦前、瀬越憲作らの尽力により中国(福建省出身)から呉清源が来日して活躍したし、戦後も、呉清源門下の林海峰(中国の上海出身)、マイケル・レドモンド(アメリカ)、趙治勲・柳時熏(韓国)、張栩・林漢傑(台湾)など、国籍を問わず、棋力が高ければ活躍できる。(敬称略)

前置きが長くなったが、今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊道策について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]
〇中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇≪本因坊道策について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・碁聖道策
・安井算哲(渋川春海 )の天元打ち
・道策、琉球の名手と対戦
・最初の免状
・道策の遺言
〇玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より
〇原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編』より
〇川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より
〇秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より






碁聖道策


・現代の棋士に古今最強を問うなら、道策、秀策、呉清源にかなりの票を入れるだろうか。
 道策は碁聖と三百年呼ばれ続ける巨人である。

・4世本因坊道策は正保(しょうほう)2年(1645)に石見(島根県)で生まれた。
 将軍家光が鎖国を完成した4年後、満州族の清帝国が明を倒して中国支配を始めた翌年である。
・道策は7歳で母に碁を教わり、14歳のころ道悦に入門したのであろうと、『道策全集』(日本棋院、1991年)に中山典之(六段)が記している。
 御城碁の初出仕は23歳で、道策はどちらかというと大器晩成の棋士であった。
・道策が「生涯の得意」と言ったという安井春知(七段)との二子局は1目負の碁である。
 この碁でも打たれている三間バサミ(白5)は道策の創始といわれ、今日よく打たれている「中国流」や「ミニ中国流」布石の発想は道策が最初である。
・また「手割り」と呼ばれる評価方法の確立など道策によって碁が大きく進歩し、日本の碁は高いレベルに達した。

≪棋譜≫道策「一生の傑作」
 天和3年(1683)11月19日 御城碁
      白 本因坊道策
 1目勝ち 二子 安井春知

※黒4…星の大ゲイマ受け 黒8…小目の二間バサミ

・道策いわく「当代の逸物」春知との二子局では、70手目の黒1に対して、白2から隅の黒を捨て、先手を取って右上に向かったのが素晴らしい。
 道策の碁は柔軟で大局観に優れ、部分戦では随所に妙手があり、ヨセが強く、ミスはほとんどない。

≪棋譜≫捨てて先手をとる
・白2から8までと左下隅を捨石にして下辺を強化し、白10からまた絶妙の打ち回し
(『道策全集』第3巻、日本棋院、1991年)




・本因坊道悦は延宝5年(1677)に隠居願を出して道策に家督を譲り、道策を名人碁所に推薦した。
 このときだけは他家から異論なく、翌年4月17日(家康の命日)の日付で名人碁所の証文が下されたという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、228頁~229頁)

安井算哲(渋川春海 )の天元打ち


・初めての和暦(貞享暦[じょうきょうれき])を作った渋川春海(はるみ)の名は多くの人が知っているだろう。
 渋川春海は碁打ちの安井算哲(1639-1715)である。
 算哲は父の古算哲に学び、高い技量(上手)の碁打ちであったが、若いころから数学や天文、陰陽道を学んで暦法を研究し、中国の古い暦から新暦への改暦を主張した。
・道策に勝てなかった算哲は、秘策によって必ず勝つと豪語して、御城碁で道策に対する。
 秘策は天文研究を応用した起手天元。
 しかし、天元の是非以前に実力の差は歴然で、敗れた算哲は二度と天元に打たなかった。
・やがて算哲は綱吉の命で碁方から天文方に転じ、完成した貞享暦が実施(1685)される。
 安井家は算知が継ぎ、2世となった。

≪棋譜≫起手天元の局
・寛文10年(1670)10月17日 御城碁
 9目勝ち 白 本因坊 道策(跡目)
  先 安井算哲(2世、渋川春海)
※道策は御城碁14勝2敗。敗れた2局は二子局でいずれも1目負。


(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、230頁)

道策、琉球の名手と対戦


・スーパースター道策の時代に本因坊一門は隆盛を極め、門弟3千人と語られている。
 将軍綱吉の側用人(そばようにん)牧野成貞(なりさだ)や儒者の祇園南海(ぎおんなんかい)も門人で、その棋譜や逸話が残っている。
 道策門下から碁で士官する者もあった。
・中継貿易で繁栄した琉球王国は、島津家久の琉球出兵(1609)で薩摩藩に従属させられ、将軍と琉球王の代替わりの都度、慶賀使・謝恩使の江戸上りを強いられた。
 琉球は碁が盛んで、碁法はもともと自由布石であった。
・天和2年(1682)将軍綱吉の襲職慶賀使に、琉球の名手親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)が随行している。
 薩摩藩主島津光久が幕府の許可を得て、道策と浜比賀の国際対局が実現した。
 浜比賀は四子置いて、道策の妙技に敗れる。

≪棋譜≫国際対局の最古の棋譜
・天和2年(1682)4月17日 松平大隅守(薩州侯)邸
  14目勝ち 白 本因坊 道策
  四子     親雲上 浜比賀
 
・江戸時代から昭和初期まで、星に対するカカリには、「大ゲイマ受け」が絶対の定石だった。
 天和2年(1682)に来朝した琉球王国の名手親雲上浜比賀は薩摩藩の斡旋で、4世本因坊道策と対局の機会を得た。
 四子置いて道策に対した浜比賀は、図1の黒2、黒4と大ゲイマに受けている。
 当時の琉球も大ゲイマ受けが定石だった。(116頁)
【図1】


【図2】




・さらに1局の対戦を求め、第2局は3目勝ちだった。
 免状を強く望んだ浜比賀に、名人碁所道策は上手に二子以内の手合と漢文で記した免状を与えた。
 上手(七段)に二子は三段ということである。
 三段は名人に三子の手合。
・初手合の碁(上記の棋譜)は日本の名人の権威を賭けて勝ちにいった道策であるが、2局目は島津光久の顔を立て、免状は上手に二子としたのである。
 光久と浜比賀は大いに喜んだに違いなく、薩摩藩から道策に謝礼として白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壺、浜比賀から白銀10枚が贈られたと記録にある。
・藩主島津氏の祖先は渡来系氏族で、薩摩は戦国時代から碁が盛んであった。
 こののち、薩摩藩は道策の門弟を碁の指南役に迎え、琉球の碁打ちも指導を受けたと伝えられている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、116頁~117頁、231頁~232頁)

最初の免状


・このときの免状が囲碁史上で最初とされ、道策が「段位制」を創ったといわれてきた。
 「ところが、昭和55年に故林裕氏が、長野県塩尻市の旧家から初代本因坊算砂と初代安井算哲の免状の写しを発見した」と水口藤雄が記している。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)
 林裕が「書簡のような免状」と言ったという算砂の免状には、「上手に対し先と二ツの手相に直し置き候」とある。
 上手に先二(四段)が許された釜屋太夫は、白木助右衛門の「国中囲碁三段以上姓名録」に四段とあり、一致する。
 算哲にも免状を貰っている。
(『囲碁年間1997年』日本棋院「免状の歴史と変遷」)

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、232頁、250頁)

道策の遺言


・道策には六天王と謳われた弟子がいた。
 13歳で棋力六段に達したといわれる小川道的は天才中の天才と呼ばれ、16歳で道策の跡目となるが、惜しくも22歳で夭折(1690)。
・星合八碩(ほしあいはっせき)は27歳(1692)で、道的の没後に道策が再跡目とした佐山策元は25歳(1699)で、元禄10年(1697)に道策の研究碁の相手を7局も務めた熊谷本碩(くまがいほんせき、生没年不詳)は23歳で、いずれも他界する。
・吉和道玄(よしわどうげん、生没年不詳)は筑後有馬家に士官し、晩成型で道策より1歳年少の桑原道節(1646-1719)だけが残った。
 道策は実弟を2世因碩(道砂)として井上家を継がせ、道節を道砂因碩の跡目(1690)として3世因碩を継がせる。
・元禄15年(1702)3月、道策が病没。
 同月に新井白石(1657-1725)が『藩翰譜(はんかんぷ)』を綱吉に献上し、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは同年12月である。
 死を前に道策は道節因碩を呼び、
  予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大に憂慮する所(中略)心に叶いたる者、神谷道知一人あるのみ。道知今年13歳にして二つの碁なりと雖も(中略)世に稀なる奇才なれば(中略)汝道知の後見となり(中略)名人碁所たらしむべし。
と、『坐隱談叢(ざいんだんそう)』(安藤如意、1909年)にある。
 また道策は、碁所を決して望んではならないと因碩に誓紙を認(したた)めさせたとある。
 『坐隱談叢』はそのまま信ずるには足りない書であるが。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、233頁)

玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より


第三章 玄妙、道策の世界
第1局 中原雄飛の快局
寛文十年(1670)三月十七日
 本因坊道策
 二子 菊川友碩

名局中の名局という(171頁)



〇玄妙の極致
 白101の利かし一本で中央がほぼ止まり、白103と手どまりの大ヨセに回って遂に追い抜いた。
 序盤の石捌きが芸術品なら、中央経営をめぐっての中盤戦もすばらしく、白103に至る最後の仕上げに至っては玄妙の極みというしかない。
 
※本局は二子局であるが、すべての着手が感動的であり、
道策の作品としては名局中の名局に入ると思うとする。
 (酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]、162頁~171頁)

原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編より


・第11期棋聖戦第3局は広島で打たれ、立会人が岩本薫九段、解説は橋本宇太郎九段だった。
 このときの碁盤と碁石は、歴史に残る「原爆下の対局」で両九段が使用した盤石である。

・第3期本因坊戦は昭和20年(1945)に行なわれた。
 物資が窮乏して前年に新聞から囲碁欄が消え、「碁など打っている時局か」といわれるなかで、広島に疎開していた瀬越憲作(せごえけんさく)八段が本因坊戦の実現に奔走した。
 やがて戦争は終わる。
 囲碁復興のためには本因坊戦の灯を絶やしてはならないと、瀬越は考えたのであった。
・20年5月の空襲で溜池(ためいけ)の日本棋院が焼失。
 焼野原の東京を離れ、広島市で7月23日に七番勝負第1局が開始された。
 第6局までコミなしで3日制。
 日本棋院広島支部長の藤井順一宅で打たれ、屋根に米軍機の機銃掃射を浴びながら、防空壕に入らず打ち終えたという。
 挑戦者岩本薫七段の白番5目勝だった。

・第2局は警察から「危険だから市内で打ってはいけない」と厳命があり、広島郊外の五日市(いつかいち)で8月4日に開始された。
 8月6日午前8時15分、原子爆弾投下。
 3日目の再開直後で、局面は106手くらいだった。

≪棋譜≫(1-106)
〇昭和20年(1945)8月4、5、6日
 広島県五日市
 第3期本因坊戦七番勝負第2局
 中押し勝ち 白 本因坊 橋本昭宇
      先番 七段  岩本薫

※記録係は三輪芳郎五段(1921-94 九段)

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、37頁)

・岩本は『囲碁を世界に』でつぎのように語っている。
  いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。障子とか襖は倒れ、固いドアがねじ切れた。広島から五日市までは二里半、約十キロメートルである。ピカッと来てからドカンまで、実際は三十秒足らずのはずだが、五、六分ぐらいに長く思えた。ひどい爆風で、私は碁盤の上に俯(うつぶ)してしまった。
(岩本薫『囲碁を世界に』講談社、1979年)

・橋本本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。
 ガラスの破片や碁石が散乱した部屋を掃除して対局は続行され、橋本本因坊の白番5目勝ちとなった。
・棋譜をながめて、深い問いを禁じ得ない。
 生きるとはどういうことか。碁とは何なのか。
 
 いっぺん死んだのだ、あとどうすればよいか?
 どうせ死んだものなら、これからひとつ碁界のために尽くそうではないか、そんな気持を抱くようになった。

 岩本九段は後半生を囲碁の国際普及に捧げ、日本棋院海外センターを欧米4都市に設立。
 シアトルの日本棋院米国西部囲碁センターの外壁には原爆対局の棋譜が飾られ、館内の岩本九段のレリーフが、来訪者を惹きつけているという。


※岩本薫(1902-99)
・島根県。広瀬平次郎八段門下。第3、4期本因坊。戦後復興期に一時日本棋院理事長。
 海外普及に貢献。
42年(1967)九段。
 著書『囲碁を世界に』講談社、1979年

※橋本宇太郎(1907-94)
・大阪。瀬越九段に入門。第2、5、6期本因坊。
25年(1950)日本棋院から分離し関西棋院を創立。29年九段。十段2期。王座3期。

※瀬越憲作(1889-77)
・広島県能美島。戦後に日本棋院理事長。
 囲碁文化の普及に貢献し、『御城碁譜』(1952年)、『明治碁譜』(1959年)を編纂。
 30年(1965)引退、名誉九段。

※空襲
・1945年3月10日の東京大空襲では死者10万人。
※原子爆弾投下
・1945年8月6日広島、9日長崎に米軍が原子爆弾投下。
 原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、36頁~38頁、250頁)



川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より


・川端康成の小説『名人』の冒頭は次のようにある。
  第二十一本因坊秀哉名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。

・川端は『雪国』をはじめ日本人の繊細な心を巧みに表現した数々の名作を残した。
 本因坊秀哉名人の引退碁を題材にした『名人』もその一つである。
 昭和43年(1968)に川端がノーベル文学賞を受賞する以前から、ヨーロッパで『名人』の翻訳が出版されていた。
・昭和13年(1938)6月26日に始まった名人引退碁は、持時間各40時間、15回にわたって打ち継がれ、12月4日終局。
 名人の病気入院で3カ月の中断があったとはいえ、半年もかかった空前絶後の長い勝負だった。
・昭和12年秀哉名人が引退を表明。
 引退碁の選士を六段以上の棋士によるリーグ戦で決定することになり、木谷実七段が優勝した。
・毎日新聞(東京日日新聞・大阪毎日新聞)が掲載した川端の観戦記は66回を数え、川端が戦後にそれを小説化したのが『名人』である。
 木谷七段を大竹七段としているほかは実名となっている。
・芝公園の紅葉館で初日は2手だけ、翌日に12手まで進んだところで箱根の奈良屋旅館に移り、7月11日から打ち継がれた。

≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・昭和13年(1938)6月26日~12月4日
 白 名人 本因坊秀哉
 黒 七段 木谷実


・24手目、白1のアテが名人の新手。
・黒2とアタリの石を逃げたとき、白3のオシ。
・ここで次の手が封じ手となった。
・5日後に打ち継がれ、開封された木谷七段の一手は黒4のキリ(アタリ)だった。

※秀哉(1874-1940)
・本名田村保寿(ほうじゅ)。世襲制最後の21世本因坊。
 村瀬秀甫(しゅうほ)の方円社で学んだ後、放浪。
 朝鮮の亡命政治家金玉均(きんぎょくきん)の紹介で19世本因坊秀栄に入門。
 1914年名人。

※川端康成(1899-1972)
・北条泰時の末裔という。碁を好んだ。

※木谷実(1909-1975)
・鈴木為次郎に入門。大正13年(1924)入段。
 昭和8年(1933)呉清源とともに「新布石」を打ち始める。
 最高位2期(1957、58)ほか。本因坊に3度挑戦し敗れる。
弟子を多数育成。木谷一門の総段位は500段位を超える。

※アテ
・アテる=アタリを打つ。アテ=アタリを打つこと。
※新手
・布石や定石において、実際に打たれた新しい有力な手。
※アタリ
・あと一手で囲んで取れる(抜ける)状態のこと。
※オシ
・相手の後から押す手。
※キリ
・相手の連絡を切る手。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、26頁~27頁)

アタリとシチョウ


・『名人』は観戦記ではない。
 川端の眼に映る、秀哉名人を中心とする人物や情景を描写した小説である。
 碁の解説はなく、盤上の一手一手も出来事の一つひとつである。
  死の半月前、名人は日本棋院の囲碁始め式に臨んで、連碁に参加した。
・「祝賀の名刺を置いて行く代り」のような連碁の最後を秀哉が打つことになり、その最後の一手に名人は40分考えたとある。
 秀哉名人は将棋や麻雀でも長考したという。
・碁の手順を前後して様々な描写を織りまぜる『名人』は、この局面にふれていない。
   28手目、白はアタリの一子を白5と逃げ、黒は6にオサエ。そして白7。黒一子がアタリです。しかし黒は逃げず黒8とノビて、白9で一子を取りました。黒10から白13と進み、ここまで「ほとんど必然とみられる」と木谷の解説(『囲碁百年』)にある。

・引退碁は木谷七段の5目勝ちで終局した。

≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・持時間各40時間 消費時間(終局時)
名人 本因坊秀哉 19時間57分
  七段 木谷実  34時間19分


(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、28頁~29頁)

秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より


〇秀哉の生い立ちについて
・明治7年(1874年)6月24日生まれで、昭和15年(1940年)の1月18日に亡くなっているから、数えどしの67歳。
 満65年半の栄光に満ちた生涯だったようだ。
 しかしながら、その少年時代は辛苦そのものの日常だった。
 社会のどん底から這い上がって第一人者となり、それを維持したまま生を終えるまでの道のりは、文字通り一生を貫いた闘争史であった。

・二十一世本因坊秀哉。本名は田村保寿、徳川幕府の旗本だった父、田村保永の長男として生まれた。この親父殿は大局を見損じて、佐幕派の陣に走り、彰義隊に参加したりしたので、官員になったものの将来性は全くなく、失意の日常を好きな碁でまぎらわしていた。保寿は父の碁を眺めているうちに自然と碁を覚える。ときに数えの8歳だったという。
・10歳、近所の碁会所の席亭が勧めるままに方円社を訪ね、村瀬秀甫八段に十三子置いて一局教わり、直ちに入塾を許される。
・11歳で母を亡くし、17歳で父を失う。
 孤高の名人と言われる秀哉は、一人で社会に放り出されて、少年時代から孤独だった。
 頼りになるのは自分だけなのである。

・17歳のとき、方円社から二段格を許されたが、もちろんそれで一家を構えられるわけがなく、方円社の最底辺に在って心はあせるばかりだった。実業界に進出しようとしたが、失敗した。方円社にも顔を出さなかったこともあり、追放処分にされてしまう。ときに田村保寿二段、数えの18歳。
・房州の東福院というお寺さんの和尚に拾われ、自分には碁しかないのだということがわかる。保寿は麻布六本木に教室を開く。そこに、たまたま朝鮮から日本に亡命していた金玉均が入ってきた。金と本因坊秀栄七段は親友であり、時の第一人者秀栄に紹介されたのが開運の端緒になったそうだ。秀栄は保寿に四段を免許し、秀栄の門下生になった。
・ここからの保寿の奮闘ぶり、精進のさまがものすごかったとされる。
 師匠の秀栄には定先で何とかしがみついている程度だったが、競争相手の石井千治をついに先二まで打込み、雁金準一を撃退し、秀栄の歿後に本因坊秀哉を名乗って第一人者となる。

・晩年には鈴木為次郎、瀬越憲作の猛追に苦しみ、最晩年には超新星、木谷実、呉清源の出現を見たが、ともかくも明治晩年から昭和初年に渉る巨匠秀哉だった。 
 亡くなる寸前まで、第一線で活躍した現役の名人本因坊秀哉だった。

・中山典之氏によれば、秀哉名人は古名手たちと比べてみると、世俗的な見方からすれば最も幸福な生涯を得た人といえるようだ。
(幸福と言う語が当たらぬとすれば、幸運と言うべきだろうかとも)
 名人位に在ること満27年。
 功成り名遂げて世の尊敬を集め、本因坊位を後世にゆだね、惜しまれながら去った。
・歴代名手に思いをめぐらせば、名手本因坊秀和は優に大名人の力がありながら貧窮のうちに世を去った。
その秀和師匠が秀策にもまさると評した村瀬秀甫は、本因坊八段になって僅か3か月で死んだ。
名人中の名人と言われた、秀哉の師匠、本因坊秀栄も、名人在位期間は僅々8か月に過ぎない。

・秀哉名人の墓所は、東京の山手線巣鴨駅から北の方へ徒歩10分ほどの、本妙寺にある。
 そこには本因坊道策名人以降の歴代本因坊や跡目の墓石も並んでいる。
 そして、秀哉歿後60余年を経た今でも、命日の1月18日には、日本棋院が主催し、時の本因坊を祭主として、「秀哉忌」が行われているという。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、192頁~195頁)




〇「第十章 秀哉名人の引退と本因坊戦の創設」の「秀哉名人、引退の花道」(173頁~177頁)において、川端康成『名人』について中山典之氏は言及している。

・昭和13年(1938年)6月26日。
 本因坊秀哉名人対木谷実七段の「引退碁」が始まった。
 秀哉ときに64歳、木谷29歳。

・対局場は箱根、伊東と移り、途中で秀哉名人の病気が悪化して3か月の中断があったりしたが、12月4日に漸く終局した。
 結果は木谷七段5目勝ち。
 不敗の名人は最終局を飾れなかったが、64歳にして若い木谷七段をあわやという所まで追いつめた名局であるとされる。

・なお、この碁の観戦記者は文士の川端康成だった。
 また解説は呉清源六段だった。
 毎日新聞も、また粋なはからいをしたものだと思う。
 名局を読者に紹介する観戦記者がヘボ文士であってはならぬし、解説者が凡手であってもならない。
 毎日はこの意味で最善の手を打ったと申せよう。
 川端康成の観戦記は第62譜に及ぶ大がかりのものだったが、氏はこの長期間、盤側を離れることなく、対局両者と対局場の空気を伝えている。

・その62回に及ぶ観戦記を読んでみて、川端先生はやはり最高の観戦記者であると思う、と中山氏は記す。
 当時の棋力はプロに六子ぐらいの碁だから、手のことはチンプンカンプンだったろうと思うが、一刻も目を離すことなく、ピンと張りつめた対局場の雰囲気を伝えてくれたという。

・なお、川端氏は、この観戦記を材料にして、小説『名人』を書いた。
 観戦記では書きにくかったことも付け加えて、木谷七段を「大竹七段」と仮名で登場させているが、その他の棋士や関係者は全員実名で書かれている。

〇その観戦記の第1譜と、第63譜の一部を引用している。
「居並ぶ人々は息を呑む。もう名人は、いつも盤に向ふ時の癖、静かに右肩を落してゐる。その膝の薄さよ。扇子が大きく見える。木谷七段は眼をつぶつて、首を前後左右に振つてゐる。
 名人は立ち上つた。扇子を握つて、それがおのづから、古武士の小刀を携へて行く姿だ。盤の前に坐つた。左の手先を袴に入れ、右手を軽く握つて、昂然と真向きだ。磨かれた名盤を挟んで七段も席についた。名人に一礼して碁笥の位置を正した。無言のまま再び礼をすると、七段は瞑目した。そのしばしの黙想を破るかのやうに、
 「はじめよう。」と、名人が促した。小声だが、なにをしてゐるかといはぬばかりの、力強い挑戦だ。ほつと七段は眼をあいたが、再び瞑目した。驚くべき慎重の態度と思ふ間もなく、戛然(かつぜん)たる一石だ。時に十一時四十分。
 新布石か、旧布石か。星か、小目か。ただの第一著手ではない。満天下の愛棋家の無限の注目を集めた第一著手は、見よ、「17四」、旧布石の典型の小目だつたのだ。」

「名人が、無言のまま駄目を一つつめた瞬間、
 「五目でございますか。」と傍から小野田六段がいつた。敦厚(とんこう)な小野田六段の性格が聞える、敬虔な声であつた。はつきり分つてゐるものを、今更ここで作つてみる、その労を省かうとした、――名人への思ひやりなのである。
 「ええ、五目。」と、名人はつぶやいて、少し脹(は)れぼつたい瞼を上げると、もう作つてみようとはしなかつた。」

なお、最後の秀哉の言葉。もう一人、現場にいた三谷水平さん(ペンネーム芦屋伸伍)は、「左様。五目。」と、力強く応答したと言つている。
つぶやいたか、力強く応じたかは聞く人の感じで違うが、秀哉名人の大役を果した安堵の声が聞こえて来る。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、173頁~177頁)

【補足】
・川端康成の『名人』については、次のような論文がネットで閲覧可能である。 
 後日、紹介してみたい。
〇福田淳子
「「本因坊名人引退碁観戦記」から小説『名人』へ―川端康成と戦時下における新聞のメディア戦略―」 
 『学苑・人間社会学部紀要』No.904、2016年、52頁~67頁


≪【囲碁】本因坊算砂について≫

2024-04-30 19:00:03 | 囲碁の話
≪【囲碁】本因坊算砂について≫
(2024年4月30日投稿)

【はじめに】


  今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊算砂について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇岩本薫・林裕『日本囲碁大系第一巻 算砂・道碩』筑摩書房、1975年



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇≪本因坊算砂について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・堺の繁栄、囲碁文化の発展
・初代本因坊算砂の師とされる仙也
・信長、秀吉、家康に仕えた初代本因坊算砂
・算砂と信長に関する新説
・徳川時代の幕開け、家康が碁打ちに俸禄
・朝鮮の名手と対局
〇三コウの謎の棋譜~岩本薫・林裕『算砂・道碩』より







≪本因坊算砂について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫


堺の繁栄、囲碁文化の発展


・イエズス会『日本通信』に「日本全国この堺の町より安全な所はなく、みな平和に生活し、敵味方の差別なくみな大なる愛情と礼儀をもって応対する」と記された堺は、15世紀後半から百年の間、納屋衆(なやしゅう)または会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる豪商たちが運営した自治都市であった。
・堺は遣明船の発着する貿易商業都市として繁栄し、文化・芸能が著しく発展した。
 茶道の千利休や能楽喜多(きた)流の喜多七大夫(しちだゆう)など数多くの芸能者が活躍し、書籍の出版も盛んに行なわれている。
 そのような堺で、碁を好んだ富裕な人々が碁の発展を支えた。
・「意雲老人は後土御門帝の世(1464-1500)囲碁の良手なり。庵を泉南に結びて居す。みずから可竹と号し」という伝承が『爛柯堂棋話』に記され、「意雲は碁者にして可竹の称宜(うべ)なり」と『本朝遯史』(ほんちょうとんし)にある。
(林裕「人とその時代」『算砂・道碩』1975年)。
・泉南は堺のすぐ南。実在した名手とすると、意雲は堺で活躍した碁の専門家であろう。

※千利休(宗易)1522-91
・信長・秀吉の茶頭(さどう)。堺の納屋衆の子。
※喜多流
・能楽シテ方の一流。堺の医師の子喜多七大夫が祖。
 女流碁界の母、喜多文子(ふみこ)八段(1875-1950)は14代目六平太の妻。
※『本朝遯史』
・林靖(読耕斎)著。1664年刊。隠遁者の伝記。
※会合衆(納屋衆)
・堺や伊勢宇治などで自治を営んだ特権的商人。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)

初代本因坊算砂の師とされる仙也


・実在が確実な重阿に続く名手は仙也(せんや)で、堺の人といわれる。
 厳島明神の神官の手記に、吉田神社の神主吉田兼右(かねみぎ)が神道伝授のため厳島に向かったとき「碁打専哉」を同道した(1570)とある。
・増川は「旅の途中で山口に立ち寄ったときに、そこの長岡という者と専哉が碁を打っている。長岡は専哉に二目置いて三番共負けている。専哉は仙也のことであろう。この頃には碁の上手として知られていたとみなされる」と述べている。
・山科言継(やましなときつぐ)『言継卿記』は碁の記事が多く、天正4年(1576)7月2日徳大寺公維邸の碁会に「碁打仙也」が呼ばれたと記されている。
 「碁打」とあるので碁の専業者といえると、増川は書いている。
・仙也は本因坊算砂の師とされているが、確実な文献に拠るものではない。
 算砂の好敵手で6歳年少の利玄(りげん)も堺の生まれである。
・著者は、裕福な文化都市の堺で、打った碁の棋譜を紙に記す名手が現れたのではないかと推測している。
 高い技術が次代に継承されるようになり、名手が続いたのではないだろうかという。

※仙也 生没年不詳
・日記類には1576-98年に登場する(増川)。
※利玄(利賢) 生没年不詳
・日蓮宗の僧。鹿塩は別人とされる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、215頁~216頁)

4近世(安土桃山時代・江戸時代—260年の平和、囲碁文化の発展―


信長、秀吉、家康に仕えた初代本因坊算砂


・初代本因坊算砂は日蓮宗の僧日海(にっかい)。
 本因坊は日海が住んだ寂光寺の塔頭(たっちゅう)である。
 京都に生まれ、8歳で寂光寺開祖の日淵(にちえん)に入門した。
・以下は、算砂に関する通説である。
 日蓮宗には碁を打つ僧が多く、日海は碁を覚えて上達した。
 師匠は堺の碁打ち仙也である。
 織田信長が上洛したとき碁の名手として聞こえていた若き日海を引見し(1578)、その碁を観て「名人」と嘆称したのが碁の名人の初めという。
 本能寺の変(1582)の前夜、信長公が、
  本因坊と利玄坊の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。子(ね)の刻過ぐる頃、両僧暇(いとま)給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こる。
 
※このように『爛柯堂棋話』にある。
 
・その日の碁という棋譜が載る。
 ただし三劫が生じたのはその日の別の碁とみられる。
 信長の寵遇を受けていた日海は盛大な法要を営み、喪に服した。
 天正16年(1588)に秀吉の御前試合で日海が優勝。
 他の名手たちは本因坊に定先(じょうせん)とする、ただし仙也は師匠であるから互先と書いた朱印状を秀吉が与えた。
 徳川家康は碁を好み、駿河へ隠居の後は不断に碁を楽しんだ。家康は算砂に五子で打ち、信長、秀吉も算砂に五子で打ったという。

・このような通説が江戸時代から今日まで広く流布している。
 それに対して、増川は本因坊家や他の碁家の家伝や伝承を信用せず、信長や秀吉は「碁・将棋にあまり関心がなかったようである」と述べた。
 しかし、秀吉が碁を打ったことは間違いないと著者はいう

※算砂と利玄の棋譜
 (伝承では)天正10年6月1日 本能寺
 信長公御前
 中押し勝ち 白 本因坊 算砂
       先     利玄

※本局は『御城碁譜・巻之一』(日本棋院、1951年)に128手終の棋譜が収められている。
 白の巧手で左下の黒が死に、白の勝勢は明らか。
 本邦初の版本棋書である『本因坊定石作物』(本因坊算砂著、1607年)に、本局の左下と同じ筋の詰碁が収められていることから、この棋譜は実譜とみられている。
 ただし本能寺で打たれた碁とされてることには疑問がある。
 この頃の棋譜は年月日が記されていないが、この棋譜が実局であれば日本最古の棋譜の一つといえる。
 また、利玄は鹿塩利玄と記されてきたが、利玄と鹿塩は別人である、というのが近年の定説。

※本因坊算砂(1559-1623)
・日蓮宗の僧日海(にっかい)。初代本因坊。名人。
 本因坊は戦前まで「ほんにんぼう」であった。
 算砂も当時は「さんしゃ」であったという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、218頁~219頁)

算砂と信長に関する新説


・囲碁史研究家の林裕は『日本囲碁大系(第一巻)算砂・道碩』(1975年)に
「坊主嫌いの信長ではあったが、彼は碁の名手ゆえに、この青年僧(日海)を愛した」
と書いた。
 その2年後に出版の第二巻『算悦・算知・道悦』で、林は
「本因坊算砂に関して従来の定説を洗い直さなければならぬ重要な資料が出てきた」と記し、寂光寺の開基日淵は日海の叔父であると『本山寂光寺誌』(1937年)をもとに新発見を述べている。
・さらに林は「信長が碁を打ったこと自体に疑問符をつけ、算砂を寵愛したなどというのは作り話ではないかと疑ってきた」と書いた。

※林が言うように『信長公記』に碁のことはない。
 信長は碁を打たなかった、と著者も考えている。
 碁を打てば負けることがあり、かといってご機嫌取りは好まない信長だったから。
 しかし信長は碁を理解し、観戦した、と著者はいう。
 碁が役立つことを知っていたのだろう。

・日淵(1529-1609)は堺の妙国寺で日珖(にっこう)らと講学に努めた日詮(にっせん、?-1579)の高弟で、信長が法華宗(日蓮宗)弾圧のために命じた安土宗論(あづちしゅうろん、1579)では、法華宗の代表として日珖らとともに浄土宗と対決した。
 法華宗は一方的に敗北を認めさせられ、布教を制限される。

・熱心な折伏(しゃくぶく)で勢力を拡げた日蓮宗は、叡山僧徒に京都の多くの寺院が破壊される(1536)など他宗に攻撃されたため、寺院の防備を固めていた。
 上洛した信長が日蓮宗の本能寺を宿所としたのは、土塁などがある寺だったからである。
 算砂と並ぶ名手利玄は本能寺の若い僧であったから、信長は本能寺に算砂を招き、利玄との対局を観戦したことは十分にあり得る、と著者はいう。

※算砂に関する通説には、いくつも疑問があるという。
 その一つは、算砂が信長の法要を盛大に営み、喪に服して秀吉の招きにも応じなかったというものである。
 このとき日海は24歳の青年僧。
 師であり叔父の日淵は安土宗論で信長に弾圧された当人である。

※算砂と信長の関係について、著者は新たな視点に立つ説を提示している。
 その視点は碁が遊戯や消閑のためだけでないということである。
 信長、秀吉、家康にとって碁はそれぞれの目的達成に役立つものであった。
 その第一が、長年にわたって力を振るい権力者を苦しめた仏教勢力の懐柔、支配である。
 天下を制するために、権力に妥協しない宗教勢力は容赦なく弾圧した。
 京都や堺で折伏により勢力を強めた法華宗の指導者である日淵の弟子ながら碁で権力者に接する日海は、法華宗の懐柔に役立つ存在であったのである。

・弾圧を避けて教団の存続発展を願う法華宗においても、碁打ち日海は貴重な存在だった。
 日淵は堺の日詮のもとで学んだ頃、堺の納屋衆が好む碁は堺や京都で布教に役立つことを知ったのだろう。
 京都に帰った日淵は碁才がある日海を入門させ(出家は1年後)、堺から名手の仙也を招いて師事させた。
 京都の権力者や富裕層に法華宗を広めようとする日淵は、そのために日海を碁打ちとして育てたのではないか、と著者はみている。
 日淵が日海に信長の法要を営ませたとすると、信長を継ぐ秀吉や家康の弾圧を避けるためであった、と推測している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、220頁~221頁)

秀吉の朝鮮出兵


・日本と朝鮮は長い間にわたり対等な善隣関係を築き、室町時代には使節が度々往来した。
 しかし国内を制覇した秀吉は明の征服を野望し、朝鮮を経由するため朝鮮国王に臣従と入朝を求める。
 それに応じない朝鮮に、秀吉は十数万の大軍を2度にわたり出兵した。
 文禄の役(1592)と慶長の役(1597)である。
 儒教による文治国家であった李朝は武力が弱く、日本軍は朝鮮全土と民衆を蹂躙した。
 明の援軍に敗れ、冬の寒さと飢えに苦しんだ日本軍の死者は5万人を数えたが、日本軍による虐殺、捕虜、略奪、放火など朝鮮の被害は甚大だった。
 農村は荒廃し、その後も悲惨な飢饉が続いた。
 そのため、朝鮮の人々にとって、「韓国併合の立役者とされる伊藤博文と並んで、秀吉は最も悪い日本人」なのである。(上垣外憲一『雨森芳洲』中公新書、1989年)
 日本の農村も重税と人的負担により疲弊し、豊臣政権の崩壊、関ヶ原の戦につながった。

・秀吉に仕えて茶坊主の筆頭となった千利休が切腹させられた(1591)のは、朝鮮出兵に反対したためとする説がある。
 しかし、徳川家康、浅野長政、小西行長、宗義智(そうよしとし)なども反対しており、「処罰された者は一人もいない」ということである。
(桑田忠親『千利休』中公新書、1981年)
・利休が秀吉から拝受した碁盤が現存する。
 利休の父は堺の納屋衆。
 算砂に五子という秀吉より利休は強かったかもしれない。
 利休の「囲碁の文」があり、利玄が対局した碁会に参加したことがわかる。
 千家茶道を再興した千宗旦(そうたん、利休の孫)も碁を打ったということである。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、222頁、252頁)

家康が朝鮮撤兵


・秀吉や家康にとって僧であり碁の名手である日海は重要だった。
 法華宗の側でも、刀狩り(1588)で僧兵や民衆の武器を取り上げ、方広寺の千僧供養会(せんそうくようえ、1596)により仏教勢力全体の支配を目指す秀吉の圧力を避けて勢力を維持する上で、秀吉や家康に近い日海は貴重な存在だった。
 大局を見て、すべてを承知していた本因坊(日海)だからこそ、家康は厚遇したのである。
・信頼のおける公家の日記を中心に論じる増川は、「信憑性の高い本因坊の初出」は、茶人の広野了頓宅で「終日碁や将棋に興じた」ときに「江戸亜相(徳川家康)、予(山科言経)……碁打の本胤坊(ほんいんぼう)、そのほか七、八人」(1594.5.11)が集まったと記す『言経卿記』としている。

・朝鮮に一兵も出さなかった家康は、この頃京都で頻繁に碁会に顔を出している。
 京都の有力者と親交を深め、情報収集に努めたのであろう。
 碁好きの有力者を招くために、本因坊はじめ碁の名手が毎回召し出されている。
 朝鮮に再征した慶長2年(1597)家康が訪れた南禅寺の碁会には仙也も招かれ、これが仙也の最後の記録ということである。
・慶長3年朝鮮で悲惨な戦争が続くなかで醍醐寺の花見を楽しんだ秀吉は、8月家康をはじめ五大老に秀頼を託して病没した。
 家康はただちに朝鮮撤兵を命ずる。
 和議を結ばず退却した日本軍は明軍の追撃を受けながら、多数の捕虜や文物を載せて帰国する。
 亀甲船で日本水軍を打ち破った朝鮮の英雄李舜臣(イスンシン)は、このとき小西軍の退路を断とうとして戦死した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、223頁)

徳川時代の幕開け、家康が碁打ちに俸禄


・関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた。
 「日海が本因坊を氏とし、算砂と名乗ったのは慶長8年とする説がある。家康が征夷大将軍となり、江戸帰府に日海を伴った時点」である、と林裕が述べている。
・慶長17年(1612)家康が碁将棋衆に俸禄を支給した。
 本因坊、利玄、宗桂(そうけい、将棋)、道碩に各50石をはじめ、8名に合計290石が与えられているが、これは一代限りである。
 50石は多いとはいえないが、算砂は裕福だった。
 後援者からの収入が多かったのであろう。

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)

朝鮮の名手と対局


・家康は朝鮮と国交回復を指示し、対馬藩主宗義智らが懸命の努力を重ねる。
 数万人といわれる連行された朝鮮人の帰還を目的に、朝鮮通信使が慶長12年(1607)に来日した。
・「大阪夏の陣」で秀頼と淀殿が自害し(1615.5.8)、豊臣家を滅ぼした幕府は、家康の大坂平定は朝鮮のために報復したものと主張して、大坂平定慶賀の使節派遣を朝鮮に求める。
・元和2年(1616)に家康が75歳で没した。
 元和3年第2回朝鮮通信使(総勢428名)が来日する。
 このとき李礿史(りやくし)という朝鮮の名手が算砂と対局し、三子置いて敗れた李礿史は帰国後に、扁額と盤石を算砂に贈った。
 寂光寺に扁額と碁石・碁笥が保存されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、224頁)

三コウの謎の棋譜~岩本薫・林裕『算砂・道碩』より


〇プロ棋士の岩本薫氏は、先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、「1三劫不吉?」と題して、次のような解説をしている。
・囲碁史によれば、この碁は天正十年(1582)6月1日、本能寺において、信長の御前で打たれた、と記されている。
 譜が未完のため、判然としないのはまことに残念だが、この碁には三劫が生じたと伝えられている。
・ところで、この夜は歴史上有名な“本能寺の変”のあった日である。
 このことから、“三劫不吉の前兆”といわれるようになった。
 が、譜を見る限りどこにも三劫の出来そうな個所はなく、何局か打たれた中の他の局ではないかともいわれている。
・前置きはこれくらいにして、前局はお互いに高目や目外しの打ち合いで、勇壮活潑な碁風だったのに対し、この碁は趣きをがらりと変えて、小目にケイマ掛りの、どちらかといえば腰を落した、秀策流に似た碁といえよう。
 このことから想像するに、草創期でもあり、研究しながら打たれていたものと思われる。
 それと、こんな総掛りの碁も珍しいのではないか。
(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁)

〇先に平本弥星氏(219頁、18手まで)も引用した算砂と利玄のいわゆる「三劫の棋譜」について、128手まで示せば、次のようになる。
≪棋譜≫
(伝)於信長公御前
 中押勝 本因坊算砂
 先   鹿鹽利玄



≪棋譜の部分図≫(123手~128手目)(百番台省略)

(岩本薫・林裕『算砂・道碩』筑摩書房、1975年、32頁~38頁)

〇You Tubeでプロ棋士の桑本晋平氏が、この謎の「三劫の棋譜」について、解説しておられる。興味のある方はご覧になられたらと思う。

〇You Tubeイフウ・チャンネル(囲碁棋士・桑本晋平)
「本能寺の変 三コウの真実に迫る」(約11分)
(2023年7月23日付)
・1582年6月1日の対局したとされる算砂と利玄の、いわゆる「三コウ無勝負の碁」は、平本弥星氏も指摘していたように、128手で終わっている。
 その棋譜には三コウが記されていないが、桑本晋平氏は、信長の御前であったかどうかは別にして、三コウの想定図を提示している。
 左上の一合マスに注目し、左上には両コウ、左下には一手ヨセコウが生じ、これらの2箇所のコウを組み合わせた三コウが想定できるという。
 



≪【囲碁】事前置石制と自由布石≫

2024-04-29 19:00:12 | 囲碁の話
≪【囲碁】事前置石制と自由布石≫
(2024年4月29日投稿)

【はじめに】


 『玄玄碁経』などで昔の中国の棋譜をみていると、変わった布石を見かける。今日の日本の置碁とは違った布石である。
 調べてみると、事前置石制というようだ。
 今回のブログでは、次の参考文献を参照して、この事前置石制と自由布石の歴史について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]
〇橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]

 なお、平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書、2001年、101頁)には、事前置石制と自由布石について、次のような注釈を付している。
※事前置石制
・置碁の置石と区別して「互先(たがいせん)置石制」ともいう。
 日本に中国・朝鮮から伝来した碁は事前置石制とみられる。

※自由布石
・互先の碁で白紙の碁盤に初手から自由に打つ碁のこと。
 日本の碁がいつから自由布石になったかは、大きな謎。
と平本弥星氏は記している(101頁)。



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇事前置石と自由布石~平本弥星『囲碁の知・入門編』
・碁の芸能者重阿
・自由布石に完全移行
〇三国時代の囲碁~中山典之『囲碁の世界』より
・名手・王積薪、老女に学ぶ
〇対局之部の第一局目~橋本宇太郎『玄玄碁経』より






事前置石と自由布石~平本弥星『囲碁の知・入門編』


・中国の碁盤は星が五つであった。
 中国の碁は清朝末期の20世紀初めまで「事前置石制」で、図1のように、まず隅の星に白二子と黒二子を置き、それから打ち始めていた。

【図1】中国の事前置石制


・朝鮮の碁も事前置石制であった。
 「巡将碁(スンジャン・バドゥク)」という朝鮮の碁は、古代から日本が韓国を併合した20世紀初め頃まで、あらかじめ白八子と黒八子を図2のように置いてから、打ち始めていたのである。朝鮮の碁盤の星は17であった。

【図2】朝鮮の事前置石制


・正倉院の宝物「木画紫檀棊局」は、朝鮮の碁盤と同様に、17星である。
 それは、7世紀半ばに百済王が藤原鎌足に贈った碁盤であることを裏付けるものであろう。
・正倉院には、他に二面の「桑木木画棊局」があり、9星の碁盤である。
 9星の碁盤は中国、朝鮮にみられず、作りや装飾も日本的なので、「桑木木画棊局」は日本製とみられる。
 奈良時代の9星盤は、当時すでに日本独自の碁が生まれていたことを示すものではないだろうか。
・棋力差に応じてハンデを設定する置碁(おきご)という方法は、たいへん優れている。
 事前置石の置碁では五子まで5星に置き、置き方は自由布石と異なって四子は図3である。
【図3】事前置石制(中国)の置碁・四子

・九子では印のない所に置くことになる。
 日本の9星の碁盤は、九子まで置くのに適している。
・5星盤の星は主に事前置石の目印であるが、9星盤の星は置石の場所の印である。
 すると、日本では奈良時代に自由布石の碁があったという水口藤雄の説が有力になる。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)

※事前置石制
・置碁の置石と区別して「互先(たがいせん)置石制」ともいう。
 日本に中国・朝鮮から伝来した碁は事前置石制とみられる。
※置碁(おきご)
・二子から九子。それ以上はあまり打たれない。
 アマどうしでは一子一段差が多い。プロにアマ初段は七~九子くらい。
※自由布石
・互先の碁で白紙の碁盤に初手から自由に打つ碁のこと。
 日本の碁がいつから自由布石になったかは、大きな謎。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、100頁~101頁)

大乱の終焉


・三条西実隆(さんじょうにしさねたか、1455-1537)の日記『実隆公記』文明7年(1475)9月14日の記事である。
  夜に入り、御前に於て囲碁五盤(中略)管絃和歌等これあり。深更に及び大飲あり。
各地で戦が続き、京都市街は焼け野原だったが、御所の宴で後土御門天皇は碁に興じている。
 文明9年(1477)畠山義就、大内政弘らが帰国して西軍が解体。
 大乱はようやく終焉する。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、208頁)

碁の芸能者重阿


・『実隆公記』に「参内し小御所に於て東馬道の重阿(ちゅうあ)や(中略)等が碁を打っていて、親王御方は簾中からそれを叡覧になっていた」(1489.6.4)とあり、
 重阿は時宗の者と記されている。

・一遍(いっぺん、1239-89)が開いた時宗は踊りながら、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土宗の一派である。
 時宗の僧は阿弥(あみ)または阿と名乗り、津々浦々を巡って遊行(ゆぎょう)を行なった。
 武士について戦場に行った陣僧は念仏を唱えて死者を弔い、負傷者を助けた。
 時宗は社会の隅々に影響を与え、民衆の支持を得て勢力を拡大する。
 中世に民衆芸能が開花するなかで時宗の人々が果たした役割は大きく、能の世阿弥や立花(たてばな)の立阿弥(りうあみ)など芸能者が阿弥と称するようになった。

・碁の名手重阿は碁会だけでなく、庭の花を賞翫(しょうがん)する会に大勢の公家と二人の武家に加えて、「連歌宗匠の宗祇と碁の上手の重阿」(『宣胤卿記(のぶたねきょうき)』も招かれている。
 増川宏一は重阿に注目し、石見(いわみ、島根県)城主の家訓に
「天下一の上手(じょうず)といふは…重阿といふ碁打なり」
とあると書いている。
(増川宏一『碁』法政大学出版局、1987年。
 増川宏一『碁打ち・将棋指しの誕生』平凡社ライブラリー、1995年)

・足利義満が没した後、義持が北山殿の舎利殿(しゃりでん、金閣)を中心とする一部を臨済宗の禅寺とし、義満の法号鹿苑(ろくおん)院に因んで、鹿苑寺(通称金閣寺)とした。
 鹿苑院の『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』に、
  棊者重阿弥を招き、碁を二番。栗田は石を三つ置き勝つ。また三つ置きまた勝つ
  (1491.4.29)
とある。
 関白、太政大臣を務めた近衛政家の日記『後法興院記(ごほうこういんき)』にも重阿が登場する。
  雅俊朝臣(あそん)が碁の上手な重阿弥ならびに如西などを連れてくる。予の前で碁を打つ。如西は重阿弥に三目置いて三番打った。次に雅俊朝臣が重阿に四目置いて一番打った(1493.4.18)
 「翌々年にも雅俊朝臣は重阿を連れて近衛家を訪れ、終日碁を打っている」(1495.8.21)と増川は記している。(前書)
・重阿は置碁ばかり打っている。
 勝負の碁でなく指導碁や接待碁である。重阿の芸は当時の碁打ちを卓絶し、碁のプロとして立派に身を立てていた、と著者は推測している。

・大納言山科言国(やましなときくに)の日記『言国卿記』には、碁をたいへん愛好した内大臣の西園寺公藤(きんふじ)が重阿に二つ置いて五番打ち、見事な碁だったと記されている。
 五番も打っていることから明らかに接待碁で、二子という近い手合割も、そういう事情からであろう。
 たくさん打たれている置碁の記述を読むと、今日と同様の置碁を打っているとしか思えないという。事前置石制の置碁ではないだろう、と著者は推察している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、208頁~209頁、250頁)

自由布石に完全移行


・著者は重阿が自由布石で碁を打っていたという。
 その理由はつぎの通りである。
①大乱が続いて名手の碁技が受け継がれず、事前置石制を継承する名手が存在しなかった。
②重阿は、伝統的権威や過去の慣習にとらわれない民間信仰の時宗出身者である。
③公家にとって中国渡来の教養であった碁が、大乱を経て純粋に技芸を楽しむものとなった。
④重阿が当時に卓絶した棋力であるのは、過去の知識や伝承にとらわれていないからである。
⑤大幅な棋力向上には自由な発想が必要であり、初手から工夫する自由布石の所産であろう。

・中世の民衆に広まった碁は自由布石であり、自由布石の碁が重阿に始まったのではない、とも著者はいう。
 応仁・文明の乱の後に公家社会で再び碁が盛んになったとき、公家たちは伝統にとらわれず、時宗の僧であり自由布石の名手である重阿を歓迎した。
 重阿の登場によって事前置石の碁が全く廃れ、碁といえば自由布石になったのかもしれないという。

・碁では、先代を大きく凌駕する天才が出現することがある。
 革命的に碁の技術を発展させた江戸時代中期の道策がその代表であるが、重阿もそういう天才であったかと推測している。
 「碁の上手の重阿、弟子の小法師の十歳を連れて参上」(1502.2.18)
と、甘露寺元長(かんろじもとなが)の日記にあり、同年の『実隆公記』にも、碁打の小法師10歳と16歳の二人に打たせて観戦したとある。
 重阿は公家や高僧に支援されて碁で身を立て、弟子を育ててプロの芸を伝えた。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、210頁)

ここから中山典之『囲碁の世界』岩波新書

三国時代の囲碁~中山典之『囲碁の世界』より


・中国の古書を見ると、碁に関する記述は2600年ほども昔の歴史書に出てきて以来、まさに山ほども見られるが、面白いからといっていちいち引用していては、とても紙幅が足りない。
 この際は西暦200年ごろ、中国が魏、呉、蜀の三国に分立していたころから始めることとしよう。
・当時の中国には、もちろん碁が存在し、しかも大いに盛んだった。
 魏の曹操は有名な兵法家であり、詩人であり、書家でありというすごい大人物であるが、囲碁の腕前も一流だったということだ。
・『三国志・魏書一』という書物の武帝紀注に、
「馮翊(ヒョウヨク)ノ山子道・王九真・郭凱等、囲棊ヲ善クス。太祖(曹操)皆與(トモ)ニ能ヲ埒(ヒト)シクス……(後略)」
 ※馮翊=郡の名。今の陝西省大茘縣)
とあるが、山子道、王九真、郭凱らと肩を並べる高手であったとは驚きである。

≪棋譜≫43手まで
 先 呂範(白)
   孫策(黒)


※古代中国では、貴人または技倆の上の者が黒石を持ったという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、31頁)

・どちらが先であるかは分らないが、古書に書かれていることが確かなら、本局は呂範の先番と推定されるらしい。
・なお、中国では、近代まで四隅に置石を置きあってから、一局が始まった。

・呉の英主、孫策もかなりの打ち手であったらしく、その謀臣、呂範との一局が、中国最古の棋譜として今に伝えられているほどだ。
 中国最古の棋譜は、すなわち世界最古の棋譜ということになるが、この棋譜が、はたして孫策が実際に打ったものかどうかは誰にも分らない。
 ただ、その後、ずっと時代を降って、唐代に現れた王積薪、滑能などという「名手」の棋譜が一枚も残されていないことから見ると、『忘憂清楽集』(北宋の時代、11世紀ごろの棋譜が載っている書物)に突然現れたこの孫策・呂範局は、後世の何者かがこしらえたものだろうという説が多い。

・ただし、著者が面白いと思うのは、日本でも歴史に残る棋聖といえば、元禄時代の道策と幕末の秀策だが、孫策とはいかにも碁の強そうな名前であり、願わくばこの棋譜が本ものであってくれたらと祈りたい心境になるから、妙なものだという。
 事実、この碁に見せた孫策・呂範両雄の腕前はなかなかのもので、たぶん現代のプロ低段者に近い実力はあるようだ。
 鬼才、梶原武雄九段に並べて見せたところ、なかなかのものだと感心しておられたから、これは技術上では折紙付きだが、いよいよもって後人の仮託という気配が濃厚であると記す。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、30頁~32頁)

名手・王積薪、老女に学ぶ


「第2章 二千年の昔、既にプロ級?」の「名手・王積薪、老女に学ぶ」(43頁~51頁)
に面白い話が載っている。

・唐の時代、玄宗皇帝の天宝14年(755)、安禄山の乱が起り、玄宗が都から追い落としをくらい、文武百官をひきいて、はるか西南の蜀の国、今の成都に都落ちを余儀なくされた。
 白楽天の詩、長恨歌にもあるが、けわしい山々の奥深く逃げこむこの軍旅は、さんたんたるものであったに違いない。

・唐代の囲碁の名手、王積薪も、翰林院(名儒、学者などが、皇帝の詔勅などを文章にする役所)の役人であったから、この一行の中にあった。
 碁は強くても武術で鍛えていたとも思えない文部省か宮内庁といったあたりの下っ端役人には、下役もつき添っているわけがないし、乗馬などはもちろんなかったろう。
・蜀の山道はいよいよけわしく、道中にある宿場や民宿(?)は政府高官の占有するところとあって、王積薪は泊るべきところもなかった。

・王先生、痛む足を引きずり引きずり、渓谷を深く分け入って行くと、オンボロの小屋があって、老婆と嫁が二人で暮しているところに出くわした。
 もう、一歩も歩けそうもないので、深々と頭を下げて一夜の宿を頼むと、飲料水と燈火を持ってきてくれたが、折しも夕暮れであり、二人の婦人は錠を下して寝てしまった。
 王先生の方は、やむなく軒下で横になったが、体のふしぶしが痛んで、夜が更けても眠れなかった。

・突然、姑が嫁に言う声が聞こえてきた。
 「良い晩ですね。でも、何の楽しみもなくて残念ですわね。碁でも一局打ちましょうか」
「はい、教えていただきましょう」
と嫁の声。
 しかし、不思議なことではある。
 家の中には燈火がないし、第一、二人は別々の部屋に寝ている筈である。
 おかしなことがあるものだと思って、王先生はオンボロ小屋の壁のすき間に耳を当てた。
 「東の五・南の九に打ちました」
 嫁の声が聞こえてきた。嫁の先手番とみえる。
 「東の五・南の十二に打ちましたよ」
 声に応じて姑が答える。 
 「西の八・南の十にいたしました」
少考した後の嫁の声。
 「では西の九・南の十にしましょう」
とおだやかに響く姑の声。

・さてさて、これはどうした棋譜になるであろうか。
 東だの南だのと麻雀みたいなことを言ってサッパリ分らないが、当時の中国の碁は四隅の星(第四線と第四線の交叉点)にお互いに置石を配置して打ったとされ、現代と違って、白が先手だったというから、仮に東西南北と盤端に書き込み、「東の五」は盤端から数えて第五線、「南の九」は盤端から数えて第九線とした棋譜をこしらえてみれば、図示したような布石となるという。
 もちろん、これは仮定の棋譜であり、本ものがどうだったかは分る筈がないけれど、中国の人はもっともらしく話を仕立てるものではある。


≪棋譜≫
西暦755年
 弈於蜀山中
  九目勝 姑(黒)
      嫁(白)
 立会人 唐 王積薪
 記録員 和 中山典之

※対局者が横になり、天を仰いで打ったので、左辺が東になり、右辺が西となった。
※【梶原武雄九段感想】
・白3、黒4はともに感度がすばらしく、特に黒は強い。
 ことによると碁の神様かも知れんな。


(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、46頁)

・ところで、この棋譜だが、白1、黒2は、かつての本因坊武宮正樹九段の宇宙流の傾向があって、なかなかの手であると著者は記す。
・また、白3と嫁が中央に打って出たのに対し、黒4とツケた姑の手は白1に対して分断攻撃の気配を示した一着。
 これまたなかなかの味わいがあり、あるいは名人の打った手かも知れない。
 著者としては、この棋譜の続きをもう少し見たい気分であるという。
 これだけでは、決して弱いとは思えぬが、どれくらい強いか測りようがない。

・さて、この深夜の一局、双方とも一子(し)を下すごとに少考を重ね、ほどよい間合いで進行して行く。
 腕時計、いや腹時計を見たら、もう夜中の二時を回っている。
 36手目、姑が言った。
 「もう、あなたの負けよ。わたしの九枰(へい、九目[もく]のことか)勝ちでしょう」
 嫁もこれに同意し、この一局は終了。
 しばらくすると、スヤスヤと安らかな寝息が聞こえてくるばかりだった。

・王積薪、この35手(ママ)を、しっかりと頭に刻みこんだ。
 夜が明けると、王積薪は衣冠を整え、老婆を拝して、指南を仰ぎたいと申し入れたのである。
 すると老婆は、
 「あなたの思い通りに一局を並べてごらんなさい」
という。王積薪、いつも肌身離さず持っている袋の中から碁盤を取り出すと、考えられる限りの秘術をつくして打ち進めて行く。
 打ち進めること十数手。老婆は嫁をかえり見て、
 「この人には常勢(定石、原則的な模範的進行例)を教えてあげれば充分ですね」
という。
 そこで嫁は、攻、守、殺、奪、救、急、防、拒の手法を教えてくれたが、それは何とも簡単、あっけないほどのものであった。
 よって王積薪、更に教えを乞うと、老婆は笑いながら答える。
 「いやいや、これだけ知れば、人間界では天下無敵でありましょうよ」
 王積薪、恭々しく礼拝して感謝の意をあらわし、では、と別れを告げる。
 十数歩も歩いたろうか。もう一度礼拝しようと振り返ってみると、さきほどまで確かにあった、あのオンボロ小屋は影も形もなくなっていた。

・王積薪は、その後、老婆の予言の如く、誰にも負けぬほどの腕前になったという、めでたしめでたしの怪奇物語である。

・さて、この伝説だが、プロ的に考察すれば、これは何とも難しい物語ではある、という。
 だいたいにおいて、碁盤なしで碁を最後まで完全に打てるのは、現在のプロ棋士の中には一人もいないと断言してよいそうだ。
 まあ、二子(もく)くらい弱くなってもよければ、時間さえかければ何とかなるだろうとも。
・然るに、蜀の山中の老婆たるや、僅か35手で一方の九目勝を読み切った。
 もしこれが事実なら、この老婆はまさしく棋神。
 著者よりも聖目(せいもく)くらい(想像を絶するくらい)強いのは間違いないという。
(中山典之『囲碁の世界』岩波新書、1986年[1999年版]、43頁~48頁)

対局之部~第一局目~橋本宇太郎『玄玄碁経』より


橋本宇太郎『玄玄碁経』(山海堂、1979年[1985年版])には、中国の元代の棋譜として、次のような対局を紹介している。事前置石制の例として興味深い対局である。

第一局目
萬壽圖(まんじゅず)
萬壽観(道教の廟)で対局時の図
東京於州北萬寿観
  郭範 
 饒 李伯祥
 黒先共一百三十著


郭、李、共に元代の人。
饒は勝った事を意味する。
李が先番で勝っているのですが白手で止めてある所が腑に落ちません。
戦端は左下辺から始まり、黒63まで白を皆殺しにしています。
碁はこれで終りなのですが、あと黒が右上隅で失敗します。
白88、90が巧い手順。
碁はこれで細かくなりましたが、序盤の損がひどいので最後は黒の勝ちとなったのでしょう。

【万寿図】(1~130)手
白42 34の所にホウリコむ
黒43 取る(38の所)
白48 34に五子を取る


(橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]、91頁)



≪囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星氏の著作より≫

2024-03-31 18:01:00 | 囲碁の話
≪囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星氏の著作より≫
(2024年3月31日投稿)


【はじめに】


 さて、今回のブログでは、次の参考文献をもとにして、「囲碁と『枕草子』と『源氏物語』」と題して、日本囲碁略史について考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
 目次をみてもわかるように、とりわけ「第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史」の「2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来(きた)る」の部分が関連する。
 また、『枕草子』と『源氏物語』と囲碁との関連を考える際に、大河ドラマ「光る君へ」の展開を考えるとイメージしやすい。平本弥星氏も叙述している歴史上の人物が登場してくるからである。
 ちなみに、大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
 ところで、『源氏物語』にも出てきた楊貴妃だが、彼女と玄宗と囲碁との関連については『玄玄碁経』にも登場している。難しい詰碁の問題を添えておく。(『玄玄碁経』の解説と問題の解答は後日時間の余裕のあるときにでも……)


【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。





【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)







〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇平本弥星氏のプロフィール
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書、2001年)より
・碁を愛した「学問の神様」菅原道真
・醍醐天皇と碁聖寛蓮
・『源氏物語』光源氏のモデル源高明
・『枕草子』の碁話
・藤原道長の「わが世」
・紫式部『源氏物語』
・道長時代の名手
・後三年の役の発端は碁、関白の病が碁で平癒
・女性と碁
・『源氏物語』空蟬

〇【補足】
・『源氏物語』と楊貴妃~桑原博史『源氏物語』より
・『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名について~橋本宇太郎『玄玄碁経』より






平本弥星氏のプロフィール


〇奥付によれば、平本弥星(ひらもと やせい)氏のプロフィールは次のようにある。
・1952年、東京都生まれ。旧名は畠秀史(はたひでふみ)。棋士六段。
・一橋大学卒業。
・高校時代より活躍、1974年学生本因坊。
・1975年、三菱レイヨン入社。
 棋聖戦の創設とオイルショックが重なり、プロ転向を決意し、退社。
・プロテスト合格、1977年日本棋院棋士初段。
・棋士会副会長など日本棋院の運営に尽力。
・古今に比類ない文字詰碁(もじつめご)に定評がある。
・棋士業のかたわら、算数教育にも関心を寄せ、日本数学教育学会、日本教材学会で活動している。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、奥付255頁)

※このように、一橋大学を卒業後、一度、三菱レイヨンに入社して、その後プロ転向を決意し、退社し、プロテストに合格して、日本棋院棋士になった点で、一般のプロ棋士とは異なる経歴がある。
 
〇今回の囲碁略史については、平本弥星氏の著作を参考にしたが、似たような内容を石倉昇九段がYou Tubeで講義しておられる。
 石倉昇九段「知られざる囲碁の魅力」(2023年7月27日付)約40分
・石倉昇九段は囲碁の効力について、
 1考える力、2コミュニケーション、3バランス感覚、4集中力、5右脳(受験に役立つ)、6国際力、7礼儀を挙げて、解説しておられる。
・また、囲碁を愛した人々として、
 紫式部(源氏物語「空蟬」)、清少納言(枕草子「心にくきもの」「したり顔なるもの」)、徳川家康、徳川慶喜、大久保利通、正岡子規、大隈重信、アインシュタイン、ビルゲイツ、鳩山一郎、習近平を挙げている(40分中の22分~29分頃)。
・石倉昇九段のプロフィール
 1954年生まれ、横浜市出身。
 1973年麻布高校卒業、1977年東京大学法学部卒業、日本興業銀行入行、
 1979年退職し、プロ棋士試験合格、1980年日本棋院棋士初段、2000年九段
 2008年東京大学客員教授就任

※石倉昇九段も、東京大学法学部を卒業後、日本興業銀行に入行し、退職し、プロ棋士試験に合格し、日本棋院棋士になっておられる。



囲碁と『枕草子』と『源氏物語』~平本弥星『囲碁の知・入門編』より



囲碁と『枕草子』と『源氏物語』

碁を愛した「学問の神様」菅原道真


・関白藤原基経が没すると(891)、宇多天皇は藤原氏に対抗する菅原道真を重用。
醍醐天皇への皇位継承(897)を道真一人に相談した。
・学者の名家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作ったという。
 道真の『菅家文草(かんけぶんそう)』に碁の詩があり、道真が論語を学んだ唐人が碁を打つ様子を詠んだ24歳のときの碁詩は、唐の名手王積薪にふれている。
 王積薪に碁経があることも、その詩に添え書きしてある。
・道真が遣唐使の大使を命じられた(894)裏に、道真排除を図る藤原氏がいたという説がある。
 道真は再議を求めて派遣を停止。遣唐使はこれをもって廃絶した。
・道真は天皇廃立を謀ったとされ(901)、大宰府に左遷され、悲嘆のうちに他界した。

※菅原道真(845-903)
・899年右大臣。死後、学問の神として尊崇。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、167頁)

醍醐天皇と碁聖寛蓮


・道真を排除した藤原時平も優れた政治家で教養に富み、碁を打った。
 延喜7年(907)、醍醐天皇御前で親王と対局したと『扶桑略記』にある。
・時平が没すると(909)、醍醐天皇は親政を行なうが、飢饉や疫病が続き、人心は荒廃した。右大臣藤原忠平は貴族の利益保護政策を採り、律令制は崩壊に至る。
・日本で初めて碁聖と呼ばれた名手は、宇多法皇と醍醐天皇に寵愛された法師寛蓮である。
 『花鳥余情(かちょうよせい)』に寛蓮は「碁聖」とあり、延喜13年(913)「碁式を作りて献ず」とある。
・『今昔物語集』に醍醐天皇は寛蓮を「常に召(めし)て、御碁を遊ばしけり。天皇も極(いみじ)く上手に遊ばしけれども、寛蓮には先(せん)二つ」の手合とある。
 続く、天皇が寛蓮と金の枕を賭けて打った話は有名である。
 醍醐の従者が枕を毎回取り返しに来るので、寛蓮は金箔を張ったニセ枕を井戸に投げ入れ、持ち帰った本物の金の枕を打ち壊して弥勒寺を建立したとある。

※『扶桑略記』
・比叡山の僧皇園(こうえん、?-1169)による編年体の歴史書。
※寛蓮
・橘良利が出家して寛蓮と名乗り、碁の上手により碁聖といわれたと『花鳥余情』にある。
 『西宮記』には醍醐天皇が寛蓮を召して観碁をしたことが記されている。
 『源氏物語』も棋聖大徳として寛蓮にふれている。
※『花鳥余情』
・『源氏物語』の注釈。30巻。一条兼良(かねら)著、1472年。
※『今昔物語集』
・千を超える古代の説話集。文学的にも優れている。
※『西宮記(さいきゅうき)』
・平安時代中期の有職故実を記した貴重な史料。
※碁式
・現存せず。玄尊の『囲碁口伝』に「碁聖式」から取るとあり、寛蓮の「碁式」ではないかといわれる。
※先二つ
・先と二子の間。先の碁と二子の碁を交代に打つ手合割り。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁~169頁)

平将門の乱


・東国平氏間の争いが発展し、平将門が坂東(ばんどう、関東)に小国家を築こうとした(939)。この「将門の乱」は翌年、平貞盛と藤原秀郷、源経基により収束するが、各地で在地領主化した平氏、源氏が力を蓄えてゆく。
 (平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、168頁)

『源氏物語』光源氏のモデル源高明


・醍醐天皇皇子で賜姓した源高明(みなもとのたかあきら、914-982)は有職故実に精通した明哲で、関白藤原実頼と対立した弟師輔(もろすけ、960没)の娘婿。
 高明の娘は皇太子候補為平(ためひら)親王の妃であった。
・安和2年(969)実頼の末弟師尹(もろまさ)の策謀により、高明は無実の罪で大宰府に左遷される。
・この「安和(あんな)の変」は藤原氏と源氏の争いとされてきたが、今日では藤原氏の内部抗争とみる説が有力である。
 源高明は悲運の人として、光源氏のモデルになった。
・師輔の長男伊尹(これまさ)が摂政となって、高明は召還される(971)が、政治には復帰しない。高明が著した儀式書『西宮記』には、碁に関する記述が多く、高明が碁を好んだことを偲ばせる。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、169頁)

『枕草子』の碁話


・師輔の三男兼家が摂政となり、外孫一条天皇を即位させる(986)。
 兼家を継いだ長男道隆は摂政関白となって、娘の定子を入内(じゅだい)させ、
 長男伊周(これちか)を内大臣にした。
・道隆一門が繁栄を極めていた頃、清少納言は和漢の教養を見込まれて、一条天皇の皇后定子に出仕する(993)。
 『枕草子』は、彼女が見聞きした宮廷社会の日々を巧みに書き記した“かな”の随筆集で、碁の話がいくつもある。「心にくきもの」のつぎの一節は印象的である。
  夜いたくふけて、御前にもおほとのごもり、人々みな寝ぬるのち、外のかたに殿上人などのものなどいふ、奥に碁石の笥(け)にいるる音のあまたたび聞ゆる、いと心にくし。
(夜ふけて、中宮もやすまれ、女房たちも皆寝た後、外の方で殿上人などの話し声がする。奥からは碁石を笥に入れる音が度々聞こえる。たいへん心ゆかしく思える。)

・道隆が疫病で急死(995)すると、一門は凋落する。
 定子の兄伊周は道隆の同母弟道長と対立し、配流された。
 同年、藤原道長が実質的な関白ともいえる内覧(ないらん)の右大臣になる。
・長保元年(999)道長の長女彰子が一条天皇に入内し、翌年には定子が皇后、彰子が中宮という一帝二后の異例の形がとられた。
 その年の12月、定子は第二皇女の出産により、25歳の若さで世を去る。
・清少納言の宮仕えはわずか数年で終わった。今から千年の昔である。

※藤原道長
・摂政兼家の五男。兄の道隆・道兼が続いて没し(995)、内覧の右大臣、続いて左大臣。
 天皇の外戚となり(1016)摂政。
 翌年摂政を長男頼通(よりみち、992-1074)に譲り、“大殿”として権勢を振るう。
 源雅信の娘(頼通の母)、源高明の娘を室とした。
 頼通の子孫が摂関家として発展。
※藤原伊周(974-1010)
・996年、花山天皇狙撃事件を起こす。
※清少納言(966?-?)
・父は歌人の清原元輔。
 晩年に零落したという事実はなく、清少納言を酷評した紫式部の日記が誤伝の因。
※内覧
・天皇に奏上、天皇が裁可する文書を内見すること。その職。
※中宮
・皇后の居所。転じて皇后の別称。一条天皇の代から二人の皇后がしばしば置かれ、おおむね新立の皇后を中宮と称した。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、170頁~171頁)


【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
➡道長のもう一人の妻。父の源高明(小山敦子氏の説では「光源氏」のモデル)が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った。のちに、まひろ(紫式部)の存在に鬱屈がたまっていくという設定だという。

藤原道長の「わが世」


・一条天皇が没し(1011)即位した三条天皇(道長の甥)と道長は不仲であった。
 道長は一族の権勢を維持するために、三条天皇を譲位させて、彰子が生んだ後一条天皇を即位させ、その弟を皇太子(後朱雀天皇)に立てる。
さらに、娘の威子を後一条天皇の中宮に立てた。
・わが世の春を迎えた道長が、威子立后の祝賀の宴で詠んだ歌は有名である。
  この世をば我が世とぞ思ふ望月の
  欠けたることもなしと思へば
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁)

紫式部『源氏物語』


・道長の娘彰子は入内したときまだ12歳で、教養豊かな一条天皇は清少納言が仕える皇后定子を寵愛していた。
・紫式部の宮仕えが始まったのは、彰子の入内(999)と同時とみるのが小山敦子の説。
 彰子のお守役に道長が式部を迎え、『源氏物語』は式部が性教育・情操教育のテキストとして「若紫」の巻から執筆したというものである。
・紫式部が藤原氏でなく源氏の栄華を描いたのはなぜだろうか。
 小山の説はつぎの通りである。
 当時の読者は光源氏の源泉が源高明であることを暗黙に了解し、「安和の変」で悲運の高明に人々は哀感と同情をそそられた。高明の娘明子を室とした道長は、高明一族を敬っていた。

※紫式部
・生没年不詳。父は学者、詩人の藤原為時。
※『源氏物語』
・天皇や皇后が朗読を聞く物語。光源氏の女性遍歴。
※小山(おやま)敦子
・「光源氏の原像」『源氏物語とは何か』勉誠社、1991年。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、171頁~172頁)

道長時代の名手


・鎌倉時代初期の成立といわれる『二中歴(にちゅうれき)』の芸能篇囲碁の部に、10人の碁聖が列記されている。
 「碁聖 寛連(ママ)、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者」
寛蓮のほか祐挙、高行、教覚、道範、長範は「中世囲碁事情」に経歴が記されている。
 その一人祐挙は『権記(ごんき)』長保5年(1003)6月20日の条から確認できる。
   詣左府、北馬場納涼、右衛門督設食、有碁局・破子、祐挙・則友囲碁、祐挙勝、給懸物
・藤原道長(左府)の宮殿で納涼の宴があり、祐挙と則友を招いて観碁が催され、祐挙が勝ち、懸物(かけもの)を給わったということである。(「破子(わりご)」とは弁当のこと)
 名手の碁を観戦して楽しんだ道長は、自身も碁を打ったことだろう。

※『二中歴』
・鎌倉時代初期成立。平安時代に関する貴重な史料。
※『権記』
・権(ごんの)大納言藤原行成(ゆきなり)の日記。摂関期の根本史料。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、172頁~173頁)

後三年の役の発端は碁、関白の病が碁で平癒


・「平忠常(ただつね)の乱」(1028)を鎮定した源頼信に続く頼義、義家の三代は、「前九年の役」と「後三年の役」で東北の武士を傘下に収めようとした。
 「後三年の役」は、清原武則の孫真衡(さねひら)が碁に夢中で、無視された吉彦(きみこ)秀武が怒って帰ったことが発端と伝えられる。
・道長の長男頼通は、後一条天皇の摂政となり(1017)、続く後朱雀天皇、後冷泉天皇の50余年間、摂政・関白の座にあった。
 しかし外孫の皇子を得られず、後冷泉天皇が崩じて対立する後三条天皇が即位(1068)すると、弟の教通(のりみち)に関白を譲った。
・教通が病危急のとき、高僧の言により碁を打たせるとたちまち平癒したと『古事談(こじだん)』にあり、教通は碁狂だったのかもしれない。

※『古事談』
・鎌倉時代の説話集。源顕兼(1160-1215)編。
※源頼信(968-1048)
・道長の近習。
※源頼義(988-1075)
・頼信の長男。
※源義家(1039-1106)
・頼義の長男。天下第一武勇之士と評された。
※前九年の役(1051-62)
・鎮守府将軍源頼義と陸奥の安倍一族の戦。
※後三年の役(1083-87)
・鎮守府将軍源義家と清原一族の戦。
 朝廷は私闘とみなし、勝利した義家に恩賞を行なわなかった。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、173頁)

女性と碁


・碁は、女性と男性が対等にプレイできる競技である。
 碁は身体の大きさや筋力、あるいは障害などの身体的差異が関係ない頭脳のスポーツである。
 碁はマラソンに似て持久力が重要であるが、その面でも男性に負けない女性が少なくないことはいうまでもないだろう。
・事実、昔から女性は碁を打っていた。
 中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をしたと思われる。
 8世紀末の日本では、井上(いかみ)皇后が光仁天皇と碁を打って勝った話が『水鏡』に記されている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)

『源氏物語』空蟬


「源氏物語」は、日本が世界に誇る文化遺産として、筆頭に挙げてもいい傑作長篇の大恋愛小説である。
・今から千年も昔、わが国の王朝華やかなりし平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』を、現代文に翻訳して著した瀬戸内寂聴はこのように記している。
  
・『源氏物語』では碁にふれた一節がいくつかあり、「空蟬(うつせみ)」には対局風景が描写されている。話の「奥の人」が空蟬(受領紀伊守の後妻)で、相手は若い娘(紀伊守の妹)である。
  碁打ちはてて、けちさすわたり、心とげに見えて、きはぎはしうさうどけば、奥の人は、いと静かにのどめて、「待ち給へや。そこは持(ぢ)にこそあらめ。このわたりの劫(こふ)をこそ」
 
 「けち」「持」「劫」と碁の用語を使いこなしていて、紫式部は碁をよくわかっていたことが知られる。
当時の貴族社会で、女性は日常的に碁を打っていたようだ。

・瀬戸内寂聴『源氏物語』(講談社、1996年)では、つぎのように現代語訳されている。
  碁を打ち終って、だめを詰めるところなども機敏そうな感じで、陽気に騒々しくはしゃいでいます。奥の人はひっそりと静かに落ち着いて、「ちょっとお待ちになって、そこは持(じ)でしょう。こちらの劫(こう)を先に片づけましょう」

※著者の平本弥星氏は、次のようにコメントしている。
「けち」を「だめ」と訳しているが、碁で「だめを詰める」のは劫を片づけてから。
 よくわからない「持」はそのままになっている。
 著者が訳せば、つぎのようになるという。
  碁が終わる頃、最後のヨセを打つあたりはキビキビしていて、にぎやかに振る舞っています。奥の人はとても落ち着いていて、「お待ちになって、そこはダメでしょう。こちらのコウを取るべきよ」

・碁をよく知らなければ、紫式部が描写した情景をイメージできない。
 語と語を一対一で対応させる考えも、適切を欠く理由であるという。
 「けち」は「結」で終わりのころのこと。
 碁ではヨセの意味であり、ダメ詰めのこともあるだろう。
 「持」はセキと解釈されてきたが、「持」は双方が五分五分の意。
 セキを意味するほか、ダメの所も「持」であろうという。
 ジゴは「持」であるが、一勝一敗も「持」である。

※ヨセ
・碁の終盤で、双方の地の境界画定をめぐる折衝。
※ダメ
・石の周囲の空点で、地にならない点をいうことが多い。
 ヨセが終わり、残った空点(どちらが打っても得失がない)を埋める「ダメ詰め」をした後、地を計算する。
※コウ
・図の左上のような形。
 黒が1と取ったとき、白がすぐ取り返せない。ほかに一手打ってからであれば取り返せる。
【図】左上はコウ、右下はセキ



※セキ
・図の右下のように、双方の石が切れていて、どちらも相手の石を取れない形。
 双方とも生き石。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、18頁~19頁)

『源氏物語』と楊貴妃~桑原博史『源氏物語』より


・『源氏物語』には、楊貴妃について言及が最初から出てくる。

桐壺更衣
 いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶら
ひたまひけるなかに、いと、やむごとなき際に
はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
初めより、「我は」と、思ひ上がりたまへる御
方々、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。
同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして、
安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心を
のみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、
いと、あつしくなりゆき、もの心細げに里がち
なるを、いよいよ「飽かずあはれなるもの」に
おぼほして、人のそしりをも、えはばからせた
まはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。
上達部・上人なども、あいなく、目をそばめ
つつ、「いと、まばゆき、人の御覚えなり。唐土
にも、かかる、ことの起こりにこそ、世も乱れ
悪しかりけれ」と、やうやう天の下にも、あぢ
きなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の
例も引き出でつべうなりゆくに、いと、はした
なきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの、
たぐひなきを頼みにて、交じらひたまふ。父の
大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ
の人の、由あるにて、親うち具し、さしあたり
て世の覚え花やかなる御方々にも劣らず、とりた
てて、はかばかしき後見しなければ、「事」ある
時は、なほよりどころなく心細げなり。

【通釈】
 どの(帝の)御代であっただろうか、女御や更衣が大勢
お仕え申し上げていらっしゃるなかに、そう高貴な家柄の方
ではない方で、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方が
あった。(そのため宮仕えの)初めから、「自分こそは」と自負
していらっしゃった女御方は、(この方を)心外で気に食わな
い人として、蔑みかつ嫉妬なさる。(この方と)同じ身分(の更
衣)や、それより低い身分の更衣たちは、なおさら(心が)穏や
かでない。朝夕の宮仕えにつけても、他の人(女御や更衣たち)
の心をむやみに動揺させてばかりいて、(人の)恨みを受ける
ことが重なったためであろうか、ひどく病弱になっていって、
なんとなく心細そうなようすで里に引きこもりがちであるの
を、ますます(帝は)「たまらないほどいじらしい者」とお思い
になって、人の非難をも一向気になさらず、世間の悪い前例に
なってしまいそうなおふるまいである。上達部や殿上人など
も、(女性方でもあるまいに)わけもなく目をそむけそむけし
て、「たいそう、見るもまばゆい(ほどの)人(更衣)へのご寵愛
の受け方である。中国でも、こうしたことが原因で、世も乱れ、
よくないことであったよ」と、しだいに世間一般でも、(お二
人には)お気の毒なことながら、人の悩みの種となって、楊貴
妃の例までも(まさに)引き合いに出して(非難しそうになっ
て)いくので、(更衣は)ひどくぐあいの悪いことが多くあるけ
れども、もったいない(帝の)お気持ちの、世にまたとないこ
とだけを心頼みとして、(他の女性に)交じって(宮仕えを)お
続けになっていらっしゃる。(更衣の)父の大納言は亡くなっ
て、母北の方は、昔風の人で由緒のある方であって、両親が
そろっていて、現実に世間の信望が華やかである御方々(女
御・更衣たち)にも劣らぬよう、(宮中の)どんな儀式に対して
も(北の方が)とりはからってこられたが、(更衣には)これと
いってしっかりした後見人というものがいないので、(いざと
いう)大事なときには、やはり頼るところもなく(更衣は)心細
そうである。

【要旨】
・ある帝の御世、さほど身分も高くなく、後見人にも恵まれない一人の更衣が、帝のご寵愛を一身に受けていた。他の女御・更衣からの嫉妬を受け、更衣は心労のため病気がちである。帝は、世間から政治的な非難までも浴びるなかで、いっそう更衣への愛情を募らせてゆくのであった。

【解説】
・物語は光源氏の両親の愛情生活とそれを取り巻く周囲の状況からときおこされる。
 帝の外戚として権力を手に入れることが上級貴族の第一の望みだった時代において、帝と、さほど身分が高くなく、後見のない更衣の純粋な愛は、嫉妬だけにとどまらず、周囲からの猛反発を受けるのである。
(桑原博史『源氏物語』三省堂、1990年[2017年版]、2頁~7頁)


『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名と問題図について~橋本宇太郎『玄玄碁経』より


さて、平本弥星氏も先に見たように、「女性と碁」において、「中国では紀元前2世紀に女性が碁を打ったことが記され、8世紀には楊貴妃が玄宗皇帝の碁の相手をした」としている。(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、17頁)
 また、「碁を愛した中国の皇帝」において、さらに詳しく唐代における碁について、次のようなことを述べている。

・隋が衰退して(618)唐が興り、第2代皇帝太宗(在位626-649)のとき「貞観の治」と呼ばれる繁栄を迎えた。詩や書に優れた太宗は碁を愛し、碁の詩を残している。唐の時代、碁はますます盛んになった。

※太宗の碁の詩「五言詠棋」
 手談標昔美 坐隠逸前良
 参差分両勢 玄素引双行
 舎生非假命 帯死不関傷
 方知仙嶺側 爛斧幾寒芳

 碁には昔から名手が現れ、その名手を超える名手が現れる。
 双方勢力を張り合い、白馬それぞれ陣を敷く。
 碁盤の上では傷ついても殺されても何ら実害はない。
 碁の楽しさを知ってこそ、時を忘れて碁を見ていたという爛柯の故事が解ろうというものだ。(訳詩、森田正己)


・第6代皇帝玄宗(在位712-756)は則天武后、韋后と続いた専制政治「武韋の禍」を終わらせ、数々の改革を行なって「開元の盛世」をもたらした。
 玄宗は琴棋書画(きんきしょが)の諸芸に秀で、碁を好んだ。
・晩年に愛した楊貴妃は美貌に加えて才智溢れる女性で、碁も嗜んだと思われる。
 『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』につぎの話がある。
 あるとき、帝と親王の碁を観ていた貴妃が抱いていた仔猧を盤上に放った。敗勢であった帝は大いに喜んだ。

※琴棋書画
・琴棋書画の四芸は知識階級の嗜みであった。
 成語に関して、青木正児『琴棋書画』(平凡社東洋文庫)。
※『酉陽雑俎』
・20巻、続巻10巻。9世紀中頃、唐の段成式(だんせいしき)撰。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、153頁)

 このように、唐の玄宗と楊貴妃が碁を嗜んだことに因んで、『玄玄碁経』には「明皇遊月宮勢」と題された詰碁の問題がある。
 『玄玄碁経』とは何か?
 この点についても、平本弥星氏は次のような注釈を加えている。
※『玄玄碁経(げんげんごきょう)』
・元(1271-1367)の1350年頃にまとめられた棋書。
 序文は元を代表する学者の虞集(1272-1348)。
 詰碁集の古典として有名。
 原書には班固(32-92、後漢の史家、文学者)の囲碁論『弈旨(えきし)』、馬融(79-166、後漢の学者)の『囲碁賦』や『囲碁十訣』、囲碁用語解説、「定勢」(定石)や対局譜なども収められている。
〇『玄玄碁経集』全2巻、解説呉清源、平凡社東洋文庫、1980年がある
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、151頁)



 今回、私が参照した『玄玄碁経』は、次の書物である。
〇橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]

・『玄玄碁経』の中の玄宗と楊貴妃の題名と問題図について



明皇遊月宮勢(めいこうゆうげつきゅうせい)
・楊貴妃と稀世のロマンスのある唐玄宗明皇が中秋賞月の最中に夢想で月世界の月宮に遊ぶ様な形
・手筋は千層宝塔勢と同じで左下から端を発し、これが全局に及ぶというものです。
 最後は左上に到着します。


 手筋は千層寶塔勢と同じ。
 


(橋本宇太郎『玄玄碁経』山海堂、1979年[1985年版]、353頁)



【参考】『玄玄碁経』と死活事典、手筋事典について



〇趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』日本棋院、増補改訂版1996年
その「はしがき」において、趙治勲氏は次のようなことを述べている。

・この巻は、詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した。
・一口に秀れたといってもその基準がむずかしいが、基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした。
・構成は一応、第1部「玄玄碁経」、第2部「官子譜」、第3部「碁経衆妙」と三つに分けたが、あくまで作品を鑑賞していただくのが目的であり、文献を厳密に紹介しようというものではない。
 したがって、たとえば玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた。
・また、問題に不備のあるものは修正し、むずかしいものは少しやさしくするとか、多少手直ししたものがあることもお断りしておきたい。
・雑誌や新聞紙上などで数々の詰碁に出食わすが、それらの作品が実は玄玄碁経や官子譜や碁経衆妙のものだったり、あるいはその焼き直しだったりすることがなんと多いことか、いまさらながら驚かされると同時に、三大古典の優秀性が改めて知らされるのである。
・本書をまとめるに当り、平凡社刊「玄玄碁経」「官子譜」および山海堂刊「玄玄碁経」「官子譜」「碁経衆妙」を参考にさせていただいたので、お礼の意をこめてお断りしておく。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、3頁~4頁)

※このように、趙治勲『基本死活事典(下)古典死活』(日本棋院、増補改訂版1996年)は、「詰物の三大古典ともいうべき玄玄碁経、官子譜、碁経衆妙から、秀れた作品を抜粋した」ことをまず述べている。
 また、編集にあたって、「基本死活事典の性質上、まずやさしいものを優先し、それから筋のすっきりしたもの、奇抜な内容のものを選び、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにした」という。
 つまり、手数が長く、ただむずかしいものは除外することにしたと断っておられるように、「明皇遊月宮勢」の問題のような、「手数が長く、ただむずかしいもの」は除外してある。
 さらに、「玄玄碁経には長い序文がついていたり、問題に一つ一つ名前がついていたりするのだが、そういったものは省かせていただいた」とあるように、『玄玄碁経』の問題の名前はすべて省略してある点にも注意が必要である。
(この点が、私には、編集上の非常に残念な点であった。藤沢秀行『基本手筋事典』や山下敬吾『基本手筋事典』は基本的にはその『玄玄碁経』の問題の名前(題名)が明記してある)。

なお、趙治勲氏は「玄玄碁経」について、次のような解説を付記している。
・玄玄碁経(げんげんごきょう)は中国盧陵(江西省)の名手、晏天章と厳徳甫の共編によるもので、序文の日付は至正7年、すなわち1347年となっており、いまからざっと六百年余前に完成された本である。
・内容は史論、碁経十三篇、囲碁十訣、術語三十二字などにつづいて定石、実戦譜、それに詰碁376題が収められているが、もっとも価値の高いのはなんといっても詰碁であろう。
 のちの官子譜、わが国の碁経衆妙にも、玄玄碁経の詰碁がそのまま、あるいは手直ししたものが、数多く収められている。
(趙治勲『基本死活事典(下)』日本棋院、1996年、36頁)

※このように、趙治勲氏は、『玄玄碁経』が官子譜や日本の碁経衆妙に与えた重要な文献であることを注目し、とりわけ、詰碁376題の価値の高さを強調している。

≪石の形について~三村智保『石の形 集中講義』より≫

2022-07-31 19:00:45 | 囲碁の話
≪石の形について~三村智保『石の形 集中講義』より≫
(2022年7月31日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、大竹英雄氏の著作を参照して、「石の形」について考えてみた。
 今回は、三村智保氏の次の著作をもとにして、「石の形」について考えてみる。
〇三村智保『石の形 集中講義』毎日コミュニケーションズ、2006年

 この著作は、名著とされている。例えば、最近のYou Tubeにおいても、佐々木柊真氏(野狐9段)が、「【囲碁】ヨム必要が減る「石の形を学ぶ」」(2021年6月28日付)において、石の形については「この1冊で十分すぎる名著」と絶賛している。

 著者の三村智保氏のプロフィールと目次を紹介しておく。
≪三村智保氏のプロフィール≫
昭和44年生まれ。北九州市出身。田岡敬一氏に師事。藤沢秀行名誉棋聖門下。
昭和61年入段、平成12年九段。

 三村智保氏の著作は、目次を見てもわかるように、内容が多岐にわたるので、今回のブログでは、次の点に限って、紹介したい。
〇「第3章 アキ三角」に述べているように、ツケオサエとアキ三角との関係について
 ツケオサエ(定石)は形は悪いが、地が大きいので、石の効率は悪くないと考えられている。ただ、ツケオサエ自体は、あまりあちこちで打つべき形ではないとされる。

〇「第8章 石の動き方」
 効率よく石を動かすために、いくつかの基本的な動きがあるが、第8章では、実戦でよくでてくる、「一間トビ、コスミ、ケイマ、ツケノビ」について解説している。
 ここでは、「攻めはケイマ、逃げは一間」という格言に関連した打ち方、そして石の動き方に関連して、連絡させない形について述べておきたい。




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三村智保『石の形 集中講義』毎日コミュニケーションズ、2006年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
序章
第1章 サカレ形
第2章 二目の頭
第3章 アキ三角
第4章 手拍子で打つ愚形
第5章 ツギ方
第6章 形の急所
第7章 ポン抜き30目
第8章 石の動き方
第9章 重い石と軽い石

目次をさらに詳しくみてみよう 

序章 形を身につける勧め
   本書の読み方
第1章 サカレ形
 サカレ形
 テーマ図1【サカレ形】
 テーマ図2【サカレ形2】
 テーマ図3【弱気が作り出すサカレ形】
 テーマ図4【攻める時に現れるサカレ形】
 テーマ図5【サカレ形を避ける】
 テーマ図6【信じられない形】
 テーマ図7【サカレ形を強要する】
 テーマ図8【読んでもしかたのないところ】
 テーマ図9【アテの方向】

第2章 二目の頭
 二目の頭
 テーマ図1【二目の頭を避ける】
 先にノビるのはいい形
 テーマ図2【先にノビる】
 効率よくツナがる形
 練習問題 パート1、パート2、パート3

第3章 アキ三角
 アキ三角
 テーマ図1【アキ三角を避ける】
 テーマ図2(見出しなし)
 テーマ図3【愚形を避けるツギ方】
 テーマ図4【ツケオサエとアキ三角】

第4章 手拍子で打つ愚形
 悪いアタリ、ケイマの突き出し
 テーマ図1【アテるか否か】
 テーマ図2【先手だから打つ?】
 テーマ図3【ケイマの突き出しの罪】
 テーマ図4【ひと目の手筋?】

第5章 ツギ方
 ツギ方
 守りのカケツギはいい形
 テーマ図1【逃せぬ形】
 テーマ図2【カケツギの好形】
 テーマ図3【カケツギとノゾキ】
 テーマ図4【カケツギに導く手順】
 カケツギの好形を与えないような石の動かしかた
 サバキを封じる固いツギ
 テーマ図5【正しいツギ方】
 テーマ図6(見出しなし)

第6章 形の急所
 形の急所、三子の真ん中
 テーマ図1【逃せぬ一手】
 三子の真ん中
 テーマ図2【三子の真ん中】
 テーマ図3(見出しなし)
 テーマ図4【相手の形を崩すノゾキ】


第7章 ポン抜き30目
 ポン抜き30目
 テーマ図1【当然の一手】
 テーマ図2【ポン抜きの大きさ】

第8章 石の動き方
 テーマ図1【石の動き方】
 テーマ図2【ツケノビとコスミ】
 テーマ図3【模様の消し方】
 ワタリを止める形
 テーマ図4【連絡させない形1】
 テーマ図5【連絡させない形2】

第9章 重い石と軽い石
 テーマ図1【重い石と軽い石】
 テーマ図2【軽い形】
 テーマ図3【軽い受け方】
 テーマ図4【プロの感覚】





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ツケオサエとアキ三角(第3章 アキ三角)
・第8章 石の動き方
 「攻めはケイマ、逃げは一間」という格言に関連して
・第8章 石の動き方~連絡させない形







ツケオサエとアキ三角


「第3章 アキ三角」において、ツケオサエとアキ三角について解説している。

【テーマ図:ツケオサエとアキ三角】
≪棋譜≫(103頁のテーマ図4)

・白1のツメに、黒2、4のツケオサエ。
 これは、あまりよくない手である。
 白の次の一手は決まっている。
※ツケオサエとアキ三角は、意外と縁の深い形であるといわれる。

【ツケオサエに対してアテ】
≪棋譜≫(104頁の1図)

・テーマ図で白番のとき、白1のアテが当然の一手。
・黒2とツガされた姿は、黒二子(13, 三)と(14, 四)とのアキ三角である。
※本来、ツケオサエというのは、形の悪い打ち方なのであると、三村智保氏は強調している。

【参考図:一路あいた形はいい形】
≪棋譜≫(104頁の2図)


・このような形なら、黒はいい形である。
・三角印の白(12, 三)に白石が入っているので、黒三子(12, 四)と(13, 三)と(13, 四)はアキ三角ではない。

【参考図:いきなりコスミツケても悪い打ち方】
≪棋譜≫(105頁の3図)


☆テーマ図のツケオサエはよくない打ち方であるが、だからといって、黒1のコスミツケから、黒3、5と守るのも、悪い打ち方である。

【参考図】
≪棋譜≫(105頁の4図)


※黒は気持ちを前向きに持つことが大切である。
⇒せめて黒1とトンでa (9, 四)や b (17, 八)を見合いにするか、黒1ですぐにa (9, 四)と上辺へ向かいたい場面である。



次に、ツケオサエ定石について説明している。
【ツケオサエ定石】
≪棋譜≫(106頁の5図)

・白1のカカリに、黒2、4と打つ定石がある。
⇒ツケオサエ定石である。

【ツケオサエ定石からアキ三角へ】
≪棋譜≫(106頁の6図)

・上図のツケオサエ定石に続いて、白1とアテられて、黒2とツグ形はまさにアキ三角。
黒の形はあまりよくない。
※ただし、形は悪くても、他のよさがあるので打たれていると、三村智保氏は付け加えている。その理由はこうである。

【ツケオサエの例外:形は悪いが地が大きい】
≪棋譜≫(106頁の7図)

・上図に続いて、黒1、3とカミ取って、黒5とトベば一段落である。
※形は悪いが、隅の黒地が大きいので、石の効率は悪くないと考えられているそうだ。
・むしろ、この定石のほうが例外であると、断っている。
・ツケオサエ自体は、あまりあちこちで打つべき形ではないと、三村氏は強調している。



【やはりツケオサエは愚形になる例】
≪棋譜≫(107頁の8図、9図)


・例えば、このような形で、黒1、3とツケオサエに決めていくと、白4、6で、黒はアキ三角の愚形になる。
※やはり、ツケオサエは、アキ三角になりやすい打ち方であるから、注意が必要であるという。
(三村智保『石の形 集中講義』毎日コミュニケーションズ、2006年、103頁~108頁)

第8章 石の動き方


第8章では、石の動き方について解説している。
〇碁は地を囲むゲームである。
ただ、地を囲う手を打っても効率が悪く、相手より多くの地を作ることはできない。
効率よく自分の石を動かし、形を整え、相手の石の形は崩して、あわよくば攻めてしまう。

〇強い人は、地を囲うだけの手はあまり打たないそうだ。
 「地の大小」よりも「石の効率」を考えたほうが楽しく、碁も強くなることを知っているからだという。

〇さて、効率よく石を動かすために、いくつかの基本的な動きがある。
第8章では、実戦でよくでてくる、「一間トビ、コスミ、ケイマ、ツケノビ」について、その特徴と使い方を解説している。

「攻めはケイマ、逃げは一間」という格言に関連して


【テーマ図1】(白番)
≪棋譜≫(246頁のテーマ図1)


・テーマ図1は白番である。
・三角印の白(10, 十五)、(10, 十七)の二子を逃げるときに、どのように石を動かすのがいいのか?

【正解:白のトビ出し】
≪棋譜≫(247頁の1図)

※「攻めはケイマ、逃げは一間」という格言もある。
・ここは単純に白1、3とトビ出してしまうのが、いい形。

【失敗:ケイマで逃げると、ツケコされる】
≪棋譜≫(247頁の2図)

・逃げる立場の白が1とケイマしたりすると、すかさず黒2とツケコされる。
※ここは黒の勢力圏であるから、白の苦戦は必至。

【参考:ポン抜きではなく効率の悪い石の場合】
≪棋譜≫(248頁の3図)

☆百歩譲って、三角印の黒(3, 十一)の位置を変え、白3のシチョウが成立する場合を考えてみよう。
・たとえ白3のシチョウが成立しても、黒4、6と破られる。
※白はポン抜きではなく、三角印の白(11, 十三)が効率の悪い石であると、三村智保氏は解説している。

今度は立場を変えて、黒番で考えてみよう。
【問題図:黒の石の動かし方】
≪棋譜≫(248頁の4図)


☆下辺の白二子を攻める場合に、黒からはどのように石を動かすのか?

【失敗:黒のトビ】
≪棋譜≫(249頁の5図)

・黒1のトビでは、白1にプレッシャーがかからない。
・白2くらいに構えられ、くつろがれてしまう。

【正解:黒のケイマ】
≪棋譜≫(249頁の6図)

・黒から打つなら、攻めはケイマ。
・黒1とケイマして白にプレッシャーをかけ、白2ならさらに黒3とかぶせていく。

【参考1:白のツケコシは怖くない】
≪棋譜≫(250頁の7図)

・ここは黒の勢力圏であるから、白2のツケコシは怖くない。
・黒3、5と堂々と戦って問題ない。

【参考2:白がかわした場合】
≪棋譜≫(250頁の8図)

・黒1のケイマに白2とかわせば、黒3とトブ。
※攻められている白石が中央への出口を止められて、白は苦しくなる。
(三村智保『石の形 集中講義』毎日コミュニケーションズ、2006年、246頁~250頁)


第8章 石の動き方~連絡させない形


第8章では、石の動き方に関連して、連絡させない形についても解説している。

【テーマ図4:連絡させない形】
≪棋譜≫(264頁のテーマ図4)


☆下辺の三角印の黒(10, 十六)を動くとする。
 左右の白に連絡されないように動きたいのだが、こういう石を動く形があるという。

【失敗:黒のトビ】
≪棋譜≫(265頁の1図)


・黒1のトビはこの場合よくない形。
・白2のツケでワタられてしまう。

【続き:ハネ出しても白の分断不可】
≪棋譜≫(265頁の2図)

・黒1とハネ出しても白8まで。
※これでは白を分断することができない。

【正解:コスミが形】
≪棋譜≫(266頁の3図)

・白の連絡を妨げながら動くのは、黒1のコスミが形。
※この手で白の連絡を妨げることができる。

【続き:白のツケはうまくいかない】
≪棋譜≫(266頁の4図)

・今度は白1のツケがうまくいかない
・黒は同じように黒2とハネ出して、黒4と出ていくことができる。

【続き:黒の好形、白のサカレ形】
≪棋譜≫(267頁の5図)


・続いて白1に黒2と突き出し。
※三角印の黒(11, 十五)が働いて、白はa(11, 十六)と切れない。
・白3には黒4が好形。今度は白がサカレ形。

【参考:トビ】
≪棋譜≫(267頁の6図)


・ワタリを止めるだけなら、黒1のトビで分断することもできる。
・しかし、白2、4と攻められてしまう。

【正解:黒のコスミ】
≪棋譜≫(268頁の7図)

・正しい形である黒1のコスミなら、白2のトビには黒3と中央へ早に進出できる。
※黒a(13, 十六)とカケる調子もある。
(三村智保『石の形 集中講義』毎日コミュニケーションズ、2006年、264頁~268頁)