歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪イネの“ひみつ”~田中修『植物のひみつ』より≫

2022-10-31 18:56:26 | 稲作
≪イネの“ひみつ”~田中修『植物のひみつ』より≫
(2022年10月31日投稿)

【はじめに】


 ようやく、わが家の稲作も終えたので、今回のブログでは、次の稲作関連の本を紹介してみたい。
〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年
 この本は、目次を見てもわかるように、イネに特化した本ではない。10話のうちの一つ「第四話 イネの“ひみつ”」と題して、イネ・お米について、解説している。今回は、その第四話のみを取り上げる。著者は、プロフィールにもあるように、植物学を専門としている。

・植物は、「自分の花粉を自分のメシベについてタネをつくる」ということを望んでいないと著者は説く。そのようにして、子どもをつくると、自分と同じような性質の子どもばかりが生まれる。もしそうなら、いろいろな環境の中で生きていけないからだという。
 しかし、栽培されるイネは、「自分の花粉を自分のメシベにつけてタネをつくる」という性質をもっている。 なぜなら、人間がイネを栽培する過程で、その性質を身につけた品種を育ててきたからである、と田中氏は説明している。

・アジアを中心に、世界人口の約半数の人々が、お米を主食としている。
 2017年では、地球の総人口は国連の統計で約76億人であるから、その約半分の約38億人がお米を主食としていることになる。世界的に多くの人々を養っているお米であるが、日本のお米には、深刻な悩みがあるという。その一つは、現在栽培されているイネの品種の数が少ないことであるそうだ。おいしさを求めて、コシヒカリの性質が引き継がれた品種ばかりが栽培されている。それは、人気のあるお米の品種がコシヒカリの子孫に当たる品種である。そのため、コシヒカリと性質がよく似ている。
①同じ性質の品種ばかりが栽培されていると、もし何かの天候異変がおこり、その異変に弱い性質をもつ品種の不作がおこると、その性質をもつ品種はすべて、不作になるから。
②また、ある病気が流行り、その病気に弱い性質をもつ品種が病気にかかると、その性質をもつ品種はすべて、病気にかかる。
同じ性質をもつ品種ばかり栽培することは、そのようなリスクをはらんでいる。
日本中で、よく似た性質のお米ばかりが栽培されることは、天候異変や病気の流行の可能性を考えると、よくないと田中修氏は主張している。

・イネは、ハチやチョウなどの虫ではなく、風に花粉を運んでもらう植物なのである。そのため、ハチやチョウに目だつ必要がないので、花びらをもっていないのである、と田中氏は説明している。

植物学者らしい見解と主張が随所にみられ、教えられることが多かったので、その内容を紹介してみたい。

【田中修氏のプロフィール】
・1947年(昭和22年)、京都に生まれる。京都大学農学部卒業、同大学院博士課程修了
・スミソニアン研究所(アメリカ)博士研究員
・甲南大学理工学部教授などを経て、現在、同大学特別客員教授
・農学博士 専攻・植物生理学
<主な著書>
・『植物はすごい』(中公新書)
・『ふしぎの植物学』(中公新書)




【田中修『植物のひみつ』(中公新書)はこちらから】
田中修『植物のひみつ』(中公新書)






〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年

【目次】
はじめに
第一話 ウメの“ひみつ”
第二話 アブラナの“ひみつ”
第三話 タンポポの“ひみつ”
第四話 イネの“ひみつ”
第五話 アジサイの“ひみつ”
第六話 ヒマワリの“ひみつ”
第七話 ジャガイモの“ひみつ”
第八話 キクの“ひみつ”
第九話 イチョウの“ひみつ”
第一0話 バナナの“ひみつ”

おわりに
参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


【「第四話 イネの“ひみつ」の項目】
・ジャポニカ米とインディカ米
・なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?
・なぜ、イネは水田で育てられるのか?
・なぜ、イネの成長はそろっているのか?
・イネの花って、どんな花?
・稲刈りのあとの緑の植物は?
・おいしいお米を求めて
・品種数の減少が深刻!
・イネの悩みとは、知られていないこと!






「第四話 イネの“ひみつ」の項目


「第四話 イネの“ひみつ”」(77頁~108頁)

【「第四話 イネの“ひみつ」の項目】
・ジャポニカ米とインディカ米
・なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?
・なぜ、イネは水田で育てられるのか?
・なぜ、イネの成長はそろっているのか?
・イネの花って、どんな花?
・稲刈りのあとの緑の植物は?
・おいしいお米を求めて
・品種数の減少が深刻!
・イネの悩みとは、知られていないこと!

【「第四話 イネの“ひみつ」の項目】


【「第四話 イネの“ひみつ」の項目】
・ジャポニカ米とインディカ米
・なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?
・なぜ、イネは水田で育てられるのか?
・なぜ、イネの成長はそろっているのか?
・イネの花って、どんな花?
・稲刈りのあとの緑の植物は?
・おいしいお米を求めて
・品種数の減少が深刻!
・イネの悩みとは、知られていないこと!

上記の項目について、それぞれ簡単にその内容をまとめてみる。

ジャポニカ米とインディカ米


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「ジャポニカ米とインディカ米」には、次のような内容が述べられている。

・イネの原産地は、中国南部の雲南や東南アジアとされている。
 世界的には、約9割がアジアで栽培されている。
 人口が多い中国やインドなどが、お米の主要生産国となっている。
・日本列島には、イネは縄文時代の後期に朝鮮半島か中国から伝えられ、日本の全域で栽培されてきた。
(気温が低いために栽培が不可能と思われた北海道でも、明治時代には、栽培されるようになった)

<イネの語源について>
・イネという言葉の語源は定かではなく、いろいろな説がある。
 その中の一つに、イネは、「命の根」という語を短縮したものだというものがある。
 遠い昔から、イネがつくりだすお米が、人間の空腹を満たし、命を守り続けてきた。
 そのため、真偽は別にして、もっともふさわしい説のように思う、と田中修氏はいう。

<イネの学名について>
・イネの学名は、「オリザ・サティバ(Oryza sativa)」である。
・イネはイネ科イネ属の植物である。
 属名の「オリザ」はラテン語で、「イネ」を意味する。
 イネの種小名は「サティバ」であり、これは「栽培されている」を意味する。

<インディカ米とジャポニカ米>
〇お米には、インディカ米とジャポニカ米がよく知られている。
・インディカ米は、粒が細長く、炊いても粘り気が出ず、冷えるとパサパサになる。
 ジャポニカ米より粒が長いので、「ロング・ライス」といわれたり、タイが原産地と考えられて、「タイ米」といわれたりする。
・ジャポニカ米は、日本人がふつうに食べるお米である。
 粒がぽっくりと丸く短く、炊くと粘り気がある。
 この粘り気が、食べたときに「にちゃにちゃ」とした食感になる。
 アメリカ人は、この食感を「スティッキー(sticky)」という語で表現し、嫌うこともある。
(「スティッキー」は、「くっつく」や「べとべとする」などの意味)

・多くの日本人は、インディカ米よりジャポニカ米を好んで食べる。
 でも、ジャポニカ米がインディカ米より、お米として質的にすぐれているということはない。
 日本人がジャポニカ米をよく食べ、インディカ米をあまり食べないのは、単にお米の食感の好き嫌いによるものである、と田中修氏は説明している。

※この第四話では、イネの果実に、「お米」という語句を使う、と著者は断っている。
 多くの読者が、「この語は『米』でいいのではないか」と思われるかもしれないが、著者は、子どものころから、「お米」を「米」と呼ぶ捨てのようにしたことはないという。
 お米は、昔から、私たちの空腹を満たし、健康を守ってきてくれた。「お米」の「お」には、ただ丁寧に、あるいは、上品に表現するという意味だけでなく、お米に対する感謝の気持ちが込められ、敬いの気持ちがこもっているとする。
 そのため、穀物の名前として「コメ」を使うことがあっても、多くの場合は「お米」をつかったという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、78頁~80頁)

なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?」には、次のような内容が述べられている。

・6、70年前には、田植え前の田んぼでは、卵形の小さな葉っぱをつけた茎が地面を這うように、レンゲソウが育っていた。
 花が咲くと、畑一面が紫色に染まり、その美しさは、春の田園風景の象徴でもあった。
 
☆「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが育っているのか」という、素朴な“ふしぎ”が抱かれることがあった。
 この“ふしぎ”を解くためには、植物たちの“ひみつ”を知らなければならないそうだ。

・レンゲソウは、タンポポのように、勝手に生える雑草ではない。
 田植えをする田んぼに、前の年の秋にタネをわざわざまかれて、栽培される植物なのである。
 育ったレンゲソウの葉っぱや茎は、田植えの前に土が耕されるとき、そのまま田んぼの中にすき込まれてしまう。
・この植物は、わざわざタネをまいて栽培され、きれいな花が咲いている時期、あるいは、そのあとにタネがつくられる時期に、土の中にすき込まれてしまう。
 それを知れば、「なぜ、せっかく育ってきたのに、土にすき込まれるのか」や、
 「レンゲソウは、何のために栽培されているのか」などの疑問が浮上する。

<レンゲソウの根粒菌>
〇実は、レンゲソウには、すばらしい“ひみつ”の性質がある、と田中氏はいう。
・元気に育つレンゲソウの根を土からそおっと引き抜くと、根に小さな粒々がたくさんついている。
 この粒々は、根にできる粒という意味で、「根粒」といわれる。
 その粒の中には、「根粒菌」という菌が住んでいる。この根粒菌が、すばらしい“ひみつ”の能力をもっている。

※植物が栽培されるときに必要とされる三大肥料は、窒素、リン酸、カリウムである。
・その中でも、窒素肥料は特に重要であるといわれる。
 窒素は、葉っぱや茎、根などを形成するために必要であり、植物が生きていくために必要なタンパク質の成分だからである。
・また、窒素は、光合成のための光を吸収する緑の色素であるクロロフィルや、親の形や性質なども子どもに伝えていくための遺伝子にも含まれる成分だからである。
⇒だから、窒素は、それらの物質をつくるのに必要なものであり、植物が成長するには、必要不可欠な物質である。
 そのため、私たちは植物を栽培するときには、窒素肥料を与えなければならない。

〇さて、レンゲソウをはじめとするマメ科植物の根に暮らす根粒菌は、空気中の窒素を窒素肥料に変える能力をもっている。
・レンゲソウは、根粒菌がつくった窒素肥料を利用する。
 そのため、土に窒素肥料が与えられなくても、レンゲソウのからだには、窒素が多く含まれる。
 空気中の窒素を窒素肥料に変える能力をもつ根粒菌を根に住まわせていることが、レンゲソウの“ひみつ”なのである。

・これが田植えの前に土の中にすき込まれると、緑の葉っぱや茎に含まれていた窒素肥料の成分が土壌に溶け込み、土壌を肥やし、緑肥となる。
 ⇒そのため、レンゲソウは、緑肥作物とよばれる。

※このように、レンゲソウは、緑肥作物として、田植えをする田んぼにタネがまかれて、栽培されていた。

<近年の傾向>
・ところが、近年、レンゲソウ畑が減ってきた。
 化学肥料が普及してきたことが一因であるが、大きな理由は、田植えの機械化が進み、小さなイネの苗を機械で植えるようになり、田植えの時期が早くなったことらしい。
・田植えが機械化される以前の田植えでは、レンゲソウの花の時期が終わるころに、大きく育ったイネの苗を手で植えていた。
 ところが、機械では、大きく育った苗は植えにくいので、小さな苗が植えられるのである。
・田植えの時期が早まると、レンゲソウが育つ期間が短くなる。
 すると、レンゲソウのからだが大きくなる前にすき込まなければならないので、栽培してもあまり役立たなくなった。

<レンゲソウ~プラスアルファの役に立つ性質>
・しかし近年、レンゲソウは、土壌を肥やすだけではなく、プラスアルファの役に立つ性質をもつことがわかりつつあるという。
・レンゲソウの葉っぱや茎が土にすき込まれて分解されると、酪酸(らくさん)やプロピオン酸などという物質が生じるそうだ。これらは、雑草の発芽や成長を抑える効果をもつとされる。
・だから、レンゲソウを緑肥とした畑や田んぼでは、化学肥料を使わずに土壌が肥沃になり、雑草が育ちにくくなるようだ。
⇒レンゲソウが春の畑に復活する日がくるかもしれないという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、80頁~84頁)

なぜ、イネは水田で育てられるのか?


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「なぜ、イネは水田で育てられるのか?」には、次のような内容が述べられている。

・春の田植えで植えられたあと、イネは水田で育てられる。
 「なぜ、イネは水の中で育てられるのか」という“ふしぎ”が興味深く抱かれる。
 イネには、水の中で育てられると、四つの“ひみつ”の恩恵があるという。

①水には、土に比べて温まりにくく、いったん温まると冷めにくいという性質があるということ。
 ⇒水田で育てば、イネは夜も温かさが保たれた中にいられる。暑い地域が原産地と考えられるイネにとって、これは望ましい環境である。

②水中で育つイネは、水の不足に悩む必要がないこと。
・ふつうの土壌に育つ植物は、常に水不足に悩んでいるらしい。
 ⇒そのために、栽培植物には「水やり」をする。そうしないとすぐに枯れてしまう。
 しかし、自然の中で、栽培されずに生きている雑草は、「水やり」をされなくても育っている。
・だから、「ふつうの土壌に育つ植物たちは、ほんとうに、水の不足に悩んでいるのか」との疑問が生じる。
 これは、容易に確かめることができる。
 雑草が育っている野原などで、日当たりのよい場所を区切り、毎日、一つの区画だけに水やりをする。すると、その区画に育つ雑草は、水をもらえない区画の雑草に比べて、成長が確実によくなる。
 
③水の中には、多くの養分が豊富に含まれていること。
・水田には、水が流れ込んでくる。その途上で、水には養分が溶け込んでいる。そのため、水田で育つイネは、流れ込んでくる水の十分な養分を吸収することができる。
⇒このように、水の中は、イネにとって、恵まれた環境である。
 
④「連作障害」が防げること。
・「連作」という語がある。これは、同じ場所に、同じ種類の作物を2年以上連続して栽培することである。多くの植物は、連作されることを嫌がる。連作すると、生育は悪く、病気にかかることが多くならからである。
・連作した場合、うまく収穫できるまでに植物が成長したとしても、収穫量は前年に比べて少なくなる。これらは、「連作障害」といわれる現象である。

<連作障害の三つの原因>
①病原菌や害虫によるもの。
・毎年、同じ場所に同じ作物を栽培していると、その種類の植物に感染する病原菌や害虫がそのあたりに集まってくる。そのため、連作される植物が、病気になりやすくなったり、害虫の被害を受けたりする。
②植物の排泄物によるもの。
・植物は、からだの中で不要になった物質を、根から排泄物として土壌に放出していることがある。連作すると、それらが土壌に蓄積してくる。すると、植物の成長に害を与えはじめる。
③土壌から同じ養分が吸収されるために、特定の養分が少なくなることによるもの。
・「三大肥料」といわれる窒素、リン酸、カリウムの他に、カルシウム、マグネシウム、鉄、硫黄などが植物の成長には必要である。
⇒これらは、肥料として与えられる場合が多い。
 しかし、これ以外に、モリブデン、マンガン、ホウ素、亜鉛、銅などが、ごく微量だが、植物の成長に必要である。

※必要な量はそれぞれの植物によって異なるが、連作すると、ある特定の養分が不足することが考えられる。
・これら三つの連作障害の原因は、水田で栽培されることで除去される。
 水が流れ込んで出ていくことで、病原菌や排泄物が流し出されたり、養分が補給されたりするからである。
 水田で育てば、こんなにすごい恩恵があるのであるから、他の植物たちも「水の中で育ちたい」と思う、と田中氏は考えている。

<水の中で育つための特別のしくみ~レンコンとイネの共通点>
※ただ、水の中で育つためには、そのための特別のしくみをもたなければならない。
・「どのような、しくみなのか」との疑問が生まれる。
⇒そのしくみをもつ代表は、レンコンであるようだ。
・レンコンは、泥水の中で育っているが、呼吸をするために穴をもっている。あの穴に、地上部の葉っぱから空気が送られている。
・実は、イネもレンコンとまったく同じしくみをもっている。
 イネの根には、顕微鏡で見なければならないが、レンコンと同じように小さな穴が開いており、隙間がある。正確には、イネは根の中に隙間をつくる能力をもっている。
というのは、イネは、水田では、その能力を発揮して、根の中に隙間をつくる。
 しかし、同じイネを水田でなく畑で育てると、その根には、水田で育つイネの根にできるような大きな隙間はつくられない。
イネは、置かれた環境に合わせて、生き方を変える能力をもっている。


<中干しが必要な理由>
☆しかし、水がいっぱい満ちている水田で育っていると、困ったこともあるそうだ。
・イネは、水を探し求める必要がないので、水を吸うための根を強く張りめぐらせない。そのため、水田で栽培されているイネの根の成長は、貧弱になる。
・根には、水が不足すると水を求めて根を張りめぐらせるという、“ハングリー精神”といえるような性質がある。
 だから、田植えのあと、水をいっぱい与えられて、ハングリー精神を刺激されずに育ったイネの根は貧弱である。
⇒もしそのままだと、秋に実る、垂れ下がるほどの重い穂を支えることができない。イネは倒れてしまう。イネは倒れると、実りも悪く、収穫もしにくくなる。

・そこで、イネの根を強くたくましくするために、イネに試練が課せられる。
 夏の水田を見てほしい。
 田んぼに張られていた水は、抜かれている。水田の水が抜かれるだけでなく、田んぼの土壌は乾燥させられている。ひどい場合には、乾燥した土壌の表面にひび割れがおこっている。
(イネは水田で育つことがよく知られているので、この様子を見て、勘違いする人がいる。
 「イネに水もやらずに、ほったらかしにしている」とか、「ひどいことをする」と腹を立てる人までいる。
 でも、それはとんでもない誤解である。)
・水田の水を抜き、田んぼの土壌を乾燥させるのは、水が不足すると水を求めて根を張りめぐらせるという、イネのハングリー精神を刺激しているのである。
⇒そうしてこそ、秋に垂れ下がる重いお米を支えられるほどに根を張り、強いからだになることができる。

・土壌の表面のひび割れも、無駄にはなっていない。ひび割れて土に隙間ができることで、この隙間から、地中の根に酸素が与えられる。それは、根が活発に伸びるのに役に立つのである。
 こうして、イネは、秋の実りを迎える。
⇒イネの栽培におけるこの過程は、「中干し」とよばれる。
 この過程を経てこそ、秋に垂れ下がるほどの重いお米を支えるからだができあがる。だから、中干しは、イネの栽培の大切な一つの過程なのである。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、84頁~89頁)

なぜ、イネの成長はそろっているのか?


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「なぜ、イネの成長はそろっているのか?」には、次のような内容が述べられている。

・日本人には、「田園風景」という言葉から思い浮かぶ景色がある。
 そこには、山や畑があり、一面の水田が広がっている。この風景の中にある水田には、イネがみごとに同じような背丈に成長している。イネは、そろって成長するように栽培されている。
・このように栽培されるためには、いろいろな工夫がなされている。
「どのような工夫がなされているのだろうか」とか、「成長をそろえることは、何の役に立つのだろうか」との“ふしぎ”が浮かんでくる。
・近年のイネの栽培では、田植えをせずに田んぼにイネのタネを直接まく「直播(じかま)き」という方法が多く試みられている。
 しかし、日本の伝統的な稲作では、苗代(なわしろ)で育てた苗を水田に植える「田植え」という方法が行われてきた。
 
<イネの苗の成長をそろえるための工夫>
①イネの苗の成長をそろえるための最初の工夫は、田植えで植える苗を育てるためのタネを選別すること。
・その方法は、少し塩を含んだ水にタネを浸すのである。栄養の詰まっていないタネは浮かぶ。
 発芽したあとの苗がよく育つタネは、栄養を十分に含んでいるので、重い。
 そのため、少し塩を含んだ水に浸すと沈む。そこで、沈んだタネだけが、苗代で苗を育てるために用いられる。
②イネの苗の成長をそろえるための2つ目の工夫は、苗代で育てること。
・発芽した芽生えは苗代で育つが、ここで芽生えの成長に差が生じることがある。
 極端に成長が遅れるような苗は、田植えには使われない。だから、田植えでは、同じように元気に成長した苗が植えられることになる。
 
<田植えをして植える理由>
☆「なぜ、わざわざ田植えをして植えるのか」との疑問がもたれる。
①これは、確実に決められた本数の苗が田んぼでそろって成長するためである。
 田植えでは、苗代で育った苗の中から、同じように成長した元気な苗を、たとえば、一箇所に3本ずつをセットにして植えられる。そうすれば、確実に3本の苗を育てることができる。
 
※もし苗を植える代わりにタネをまけば、すべてが発芽し、それらの苗が、同じように成長するとは限らない。発芽しないタネがあったり、極端に成長が遅れる苗などが混じっていたりする。田植えをすることによって、そうなることを避けている。

②もう一つ大きな理由がある。
・同じように成長した苗を選んで植えることができれば、田植えが終わったあとの水田では、苗の成長がきちんとそろう。このように成長すれば、すべての株がいっせいに花が咲き、それらはいっせいに受粉し、いっせいにイネが実る。そうすると、いっせいに株を刈り取ることができる。
・稲刈りは、一面の田んぼでいっせいに行われる。
 もし未熟なものと成熟したものが混じっていると、未熟なものは食べられないから、いっせいに刈り取ることはできない。
 稲刈りで、いっせいに成熟した穂を刈り取るためには、イネは成長をそろえることが大切。
 そのために、田植えが行われている。

※田植えでは、もう一つ、気をつけられていることがある。
・同じような間隔を置いた場所に、苗が植えられることである。
 これは、苗が成長したときに、過密にならないようにするためである。
⇒「過密にすると、何が困るのか」との疑問があるかもしれない。
・植物の栽培では、ある一定の面積では、収穫できる量に限度がある。
 多くの収穫量を得ようとして、一定の面積に多くの株を植えても、収穫量は増えないということである。
 多くの株が密に植えられると、それぞれの株が、養分や光の奪い合いの競争をしなければならない。その結果、競争に負けた株は、成長が遅れたり、成長することができずに枯れたりしてしまう。
 また、健全に育つはずの株が、無理な競争で、ヒョロヒョロと背丈が高くなりすぎたりしてしまう。
⇒だから、田植えでは、田んぼの面積に応じて適切な株数が植えられている。

<間引きについて>
・ダイコンやシュンギクなどのタネをまくとき、多すぎると思うほどのタネをまくことを知っている人もいる。
 そのようなタネのまき方をすることはあるが、その場合には、出てきた芽生えの中から、何日かごとに、成長のよくないものを抜き取っていく。
⇒これは、「間引き」とよばれる作業である。
・間引きすることで、適切な株の数に調節している。間引きされた芽生えは、食べられる。
 だから、多くのタネをまくのは、間引きして食べながら、元気な苗を選んで育てるという栽培法なのである。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、89頁~92頁)

イネの花って、どんな花?


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「イネの花って、どんな花?」には、次のような内容が述べられている。
・イネの花は、タネをつくるために咲く。イネのタネは、お米である。
 田んぼにお米が実っているのを見かけることはある。
 ところが、イネの花を見かけることはあまりない。
だから、イネの花を思い浮かべることができる人は少ない。
☆そこで、「イネの花って、どんな花なのか」という“ふしぎ”が浮かぶ。
 イネは、花の存在を“ひみつ”にしているわけではないが、なぜか、イネの花はよく知られていない。

<植物が属するグループとしての「科」>
※花を咲かせる植物には、いろいろな種類がある。
・植物は、その特徴から、よく似たもの同士として「科」という仲間のグループに分けられる。
 多くの植物が属するグループには、よく知られているものとして、バラ科、キク科、マメ科などがある。
⇒バラ科の植物には、ウメやモモ、サクラやリンゴなどがある。
 キク科の植物には、タンポポ、ヒマワリ、コスモスなどがある。
 マメ科の植物には、ダイズやエンドウ、ラッカセイやインゲンマメなどがある。
 これらの多くは、美しくきれいな、観賞できるような花を咲かせる。
※これらの花には、花びら(花弁)がある。

<バラ科などの花とイネの花の違い~イネの花には花びらがない>
・これらの花とイネの花の大きな違いは、イネの花には花びらがないことである。
 美しくきれいな花びらの役割は、花粉を運んでもらうために、ハチやチョウなどの虫を誘い込むことである。
・イネの花に花びらがないということは、ハチやチョウに花粉の移動を託さないことである。

<イネの花粉の移動>
☆では、「イネは、花粉の移動をどうするのか」との疑問が浮かぶ。
⇒イネは、ハチやチョウなどの虫ではなく、風に花粉を運んでもらう植物なのである。
 そのため、ハチやチョウに目だつ必要がないので、花びらをもっていないのである、と田中氏は説明している。

・イネでは、5ミリメートルぐらいの小さな花が穂のように密に並んで咲く。
 一つの花には、6本のオシベと1本のメシベがある。
 開花している時間は短く、多くの品種で、午前中の2時間くらいである。
 ⇒「そのような性質なら、花粉がつきにくいので、お米ができにくいのではないか」との思いが浮かぶ。
オシベにできる花粉の移動を風に託しているだけでは、イネは不安なのであろう。
 そこで、イネは風に託すだけではなく、開花するときに自分の花粉が自分のメシベについて、タネ(お米)ができるという性質をもち合わせている。

※本来、植物は、「自分の花粉を自分のメシベについてタネをつくる」ということを望んでいないらしい。
 そのようにして、子どもをつくると、自分と同じような性質の子どもばかりが生まれる。
 もしそうなら、いろいろな環境の中で生きていけない。
 しかし、栽培されるイネは、「自分の花粉を自分のメシベにつけてタネをつくる」という性質をもっている。
 なぜなら、人間がイネを栽培する過程で、その性質を身につけた品種を育ててきたからである、と田中氏は説明している。
 花が咲けば、ほぼ確実にお米が実るからである。その結果、イネは、栽培をする私たちに都合のよい作物になっているという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、92頁~95頁)

稲刈りのあとの緑の植物は?


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「稲刈りのあとの緑の植物は?」には、次のような内容が述べられている。
・秋の稲刈りでは、イネは穂とともに地上部を刈り取られる。
 刈り取られて残されたイネの切り株は、そのまま生涯を終えるような印象がある。
 しかし、稲刈りのすんだ田んぼに残されたイネの株は、多くの場合、生涯をそのまま終えるものではない。
・秋晴れの暖かい日が続けば、穂が刈り取られたイネの株から、芽が出て、葉っぱが伸びだしてくる。切り株から、再び芽が出てくる。

<ひこばえ、分けつ>
☆「いったい、これらは何だろうか」との“ふしぎ”が感じられる。
 刈り取られたイネが見せる“ひみつ”の姿かもしれない。
 これらの芽生えは、「ひこばえ」とよばれる。
 「ひこ」とは「孫」のことである。「ひこばえ」は、孫が生えてきたという意味である。
 稲刈りで刈り取られた穂が、株から出た「子ども」とみなすと、そのあとに出てきた芽生えは、「孫」ということである。秋であるから、ひこばえには、葉っぱや茎だけでなく、新しい穂ができていることもある。
・稲刈りで、刈り取られたあとに残る切り株が、芽を出してくる。
 これらの芽は、稲刈りがされるときにすでにつくられている場合もある。
 もし芽がつくられていなかったとしても、イネには、「分(ぶん)けつ」、あるいは、「分げつ」とよばれる能力がある。
 分けつは、茎の根元から新しい芽が出て、新しい茎が生まれることである。
⇒この能力は、田植えのあと、春から秋の成長の過程でも見られる。
 田植えのときに、3本の苗が植えられたとしても、秋には、株の状態になり、20本くらいの穂が出ている。これは、分けつの結果、穂が生まれたのである。
・稲刈りのすんだ田んぼに、ひこばえがきれいに生えそろうと、イネが二期作でもう一度栽培されているかのように勘違いされる場合がある。
 二期作とは、一年に同じ場所に2回、同じ作物を収穫することである。
・ひこばえとは、新しい芽から出てくるものが多いが、すでに花が咲き実る準備をしていた穂が伸びだしてくるものもある。

・イネは、私たち人間に、食糧としてのお米を収穫させてくれる。やがて、冬が来れば、イネの株は確実に枯れる。稲刈りから枯れるまでのわずかの間に、イネは、自然の中をともに生きる小鳥やシカなどの動物に食べものを賄っている。
 ひこばえは、そのための姿なのかもしれない、という。
 イネは、“生きる力”を、自然の中でともに生きる生き物に役に立つように使っていることになるようだ。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、95頁~97頁)

おいしいお米を求めて


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「おいしいお米を求めて」には、次のような内容が述べられている。
・古くから、お米は、私たちの空腹を満たしてきた。
 しかし、現在は、空腹を満たすだけでなく、おいしさが求められるようになっている。
 実際に、「おいしい」といわれるお米に人気があり、多くのおいしいお米の品種がつくられている。

☆「おいしいお米とは、どのような性質をもっているのか」との“ふしぎ”が浮かぶ。
 おいしいので人気となったお米の代表は、コシヒカリである。
 「はぜ、コシヒカリはおいしいのか」との疑問に対する“ひみつ”が明らかにされている。
・たとえば、日本穀物検定協会の食味テストは、次のような6項目で評価される。
①「香り」
②白さやつや、形などの「外観」
③甘みやうまみの「味」
④ありすぎてもなさすぎても減点になる「粘り」
⑤適度な「硬さ」
⑥全体的な印象の「総合評価」

<おいしいお米とアミロース量の関係>
※お米の味は、このような多くの項目で決まってくるものである。
 しかし、この食味テストで、特においしい「特A」という最高の評価が得られるお米に共通なのは、「アミロース」という成分の割合が低いということである。
〇お米には多くのデンプンが含まれるが、デンプンにはアミロースとアミロペクチンという2つのタイプがある。
 このアミロースの含まれる量が、お米の味に大きく影響するのである。
・日本人の多くが「おいしい」と表現するもち米は、アミロースをいっさい含んでいない。
 それに対して、25年ほど前のお米が不作だった年に、細長いインディカ米を緊急に輸入して、不足分を補う対策がとられた。
 しかし、そのときに輸入されたお米は、パサパサしていて、人気がなかった。このお米は、アミロースを約30%も含んでいたからである。
・「コシヒカリはおいしい」と人気になりはじめたころのコシヒカリ以外のお米は、アミロースを20~22%含んでいた。
 コシヒカリは、アミロースを約17%しか含んでなかった。
 このアミロース量のわずかの違いが、私たちが「おいしさ」を感じる大切な“ひみつ”になっているという。
〇だから、おいしいお米をつくるには、アミロースの少ない品種を育てることである。
 「アミロースの含まれる量が少ないお米をつくったら、ほんとうにおいしいのか」と疑問に思われるかもしれない。
 でも、実際にアミロースの含まれる量を少なくしたお米がつくられ、「おいしい」と評価されてきている。

<北海道のお米の評価>
・ひと昔前の北海道のお米は、「あまりおいしくない」といわれていた。
 日本中のお米の生産量を増やすために、北海道のような寒い地域でも栽培できるような品種が育成されてきた。そのため、味は二の次だった。
ふつう、お米が散らばって落ちていれば、鳥はそれらのお米をついばみながら歩くものである。
 ところが、当時の北海道のお米は、ばらまかれていても「鳥はそれらをついばまずに、またいで通る」と揶揄されて、「鳥またぎ米」といわれていたそうだ。
・しかし、近年は、北海道のお米は、品種改良されて、「おいしいお米」と人気がある。
 毎年、日本穀物検定協会が、お米の「食味ランキング」を発表する。
 北海道産の「ゆめぴかり」や「ななつぼし」は、5段階の最高評価である「特A」を獲得している。

<品種改良と「特A」評価>
※北海道だけでなく、各地で品種改良が進められている。
 2018年の2月に、日本穀物検定協会が、その前の年に収穫されたお米の食味調査の結果を発表した。43銘柄が「特A」という評価を受けた。
その中には、近年開発された、次のような興味深い名前のものが入っている。
・青森県の「青天の霹靂(へきれき)」
・山形県の「つや姫」
・栃木県の「とちぎの星」
・福井県の「ハナエチゼン」
・滋賀県の「みずかがみ」
・高知県の「にこまる」
・佐賀県の「夢しずく」
・熊本県の「森のくまさん」

・新しい時代を生きるお米の品種が、各都道府県で、次々に開発されている。
 この理由は、消費者においしいお米が求められているからである。同時に、将来の温暖化に耐える品種が育成されているそうだ。
 お米は、日本だけでなく、世界人口の約半数の人の主食になっている。今後、懸念される温暖化に打ち克つ品種が育成されなければならない、と田中氏は強調している。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、97頁~100頁)

品種数の減少が深刻!


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「品種数の減少が深刻!」には、次のような内容が述べられている。
・国際連合(国連)は、毎年「国際年」と称して、世界的な規模で取り組むべき課題を決め、それを解決するために、啓発活動を行っている。
 たとえば、植物に関するものでは、2010年は「国際生物多様性年」、2011年は「国際森林年」として、植物の存在の大切さを広く知らしめた。
・また、2004年は「国際コメ年」、2013年は「国際キヌア(キノア)年」、2016年は「国際マメ年」と定められた。食糧としてのコメ、キヌア、マメの啓蒙と増産を目指してのものであったそうだ。

※キヌアというのは、日本ではあまりなじみがないが、近年、知られるようになってきた。
 これは、南米アンデス山脈に生育するヒユ科の植物である。
 トウモロコシほどの背丈に育ち、先端部の穂に、直径数ミリメートルの多くの実を結実する。
 古代インカ帝国では、「母なる穀物」とよばれ、人々の健康を支えてきた。

・国連は、人口の増加を支える食糧としての植物の大切さを世界の人々に訴えてきている。
 近年、世界の人口は毎年1億人弱ほど増加している。しかし、増加する人口に見合うほど、穀物の生産量は増えない。穀物の生産に適した栽培地の面積が限られていることが大きな原因である。そのため、食糧不足はますます深刻な問題になってきている。

<2004年の「国際コメ年」>
〇国連の食糧農業機関(FAO)は、2004年を「国際コメ年」と定めた。
 お米の増産を世界的に奨励し、食糧としての重要性を啓発した。
 この年、国連の広報活動のおかげで、地球上でどのくらいの人が、お米を主食としているかが、認知された。
・アジアを中心に、世界人口の約半数の人々が、お米を主食としている。
 2017年では、地球の総人口は国連の統計で約76億人であるから、その約半分の約38億人がお米を主食としていることになる。

<日本のお米の悩み>
・世界的に多くの人々を養っているお米であるが、日本のお米には、深刻な悩みがあるという。
 その一つは、現在栽培されているイネの品種の数が少ないことである。

☆「なぜ、品種の数が少ないのか」という“ふしぎ”が浮かぶ。
⇒これは、おいしい品種が求められ、その象徴であるコシヒカリがあまりにも人気が高すぎることが原因であるようだ。
・人気の高さは、この品種が栽培される面積の大きさでわかる。
 2016年のコシヒカリの作付け面積は、全国で栽培されるすべてのイネの約36パーセントを占めた。
 2番目に多い品種が、「ひとめぼれ」。作付け面積は10パーセント以下。
 コシヒカリが、突出しての第1位である。

・コシヒカリの作付け面積が約36パーセントもあることはすごいことだが、もっとすごいのは、コシヒカリの作付け面積第1位の座が、数十年間も変わることなく維持されていることである。
イネは常に品種改良されているから、ふつうには、何年かが経過すれば、他の新しい品種が出てきて、順位が入れ替わるものらしい。ところが、コシヒカリの場合は、その人気が継続している。
・コシヒカリに次いで多く栽培されているのは、年によって変化するが、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、ななつぼしなどである。
(これらは、コシヒカリが生まれて以後に、新しく開発された品種であるが、コシヒカリを追い越すことができていない)

☆それだけではなく、これらの品種は、もう一つの深刻な問題を抱えているようだ。
 それは、これらがコシヒカリの子孫に当たる品種であるということである。
 そのため、コシヒカリと性質がよく似ている。
・おいしさを求めて、コシヒカリの性質が引き継がれた品種ばかりが栽培されているのである。
 そのために、日本で栽培されるイネの品種の数が少なくなっている。

☆ここで「なぜ品種の数が少ないことが問題なのか」という疑問がおこる。
※イネだけではないが、作物では、多くの品種が栽培されることが望まれる、と田中氏は主張している。
 その理由について、次のように述べている。
①同じ性質の品種ばかりが栽培されていると、もし何かの天候異変がおこり、その異変に弱い性質をもつ品種の不作がおこると、その性質をもつ品種はすべて、不作になるから。
②また、ある病気が流行り、その病気に弱い性質をもつ品種が病気にかかると、その性質をもつ品種はすべて、病気にかかる。
同じ性質をもつ品種ばかり栽培することは、そのようなリスクをはらんでいる。

・日本中で、よく似た性質のお米ばかりが栽培されることは、天候異変や病気の流行の可能性を考えると、よくないそうだ。
 異なった性質の品種が数多く栽培されていれば、そのようときに救われる。
 そのため、それぞれの地域の風土にあった品種が栽培され、各地域で栽培される品種が異なっていることが望まれる、と主張している。
※栽培される品種が減ってきていることに加えて、お米には、もう一つの深刻な悩みがあるそうだ。
 お米は、日本では、古くから、多くの人にほぼ毎日食べられてきている。
 だから、お米のことはよく知られているように思われがちだが、そうではないという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、100頁~104頁)

イネの悩みとは、知られていないこと!


「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「イネの悩みとは、知られていないこと!」には、次のような内容が述べられている。
・お米は、長い間、私たちの食生活の中心にあり、主食として空腹を満たし、健康を守り支えてきた。
 しかし、知られていないことが多くあるらしい。
 この点で、顕著な例を2つだけ紹介している。
①お餅をつくるのに使うお米である「もち米」について
・このもち米という言葉はよく知られているが、漢字がほとんど知られていない。
 多くの場合、「餅米」という、誤った字が書かれる。
 お餅に使われる「餅」という字は、「うすくて平たい」を意味する文字である。
 ⇒だから、ついて伸ばしてお餅になったときに使われるものである。
 (お餅になる前のもち米に、「餅」を使うのは正しくない)
・すると、「もち米」は、どのような字なのか?
 正解は、「糯米」である。
⇒この「糯」という字は、「しっとりとした粘り気のある」という意味を含み、もち米の性質をそのまま表わしている。
・もち米に対し、ふつうの食事のときに食べるお米の名前は、何か?
 そのお米は、「うるち」、あるいは「うるち米」という。
 ところが、この「うるち」という漢字を書ける人は少ない。
 うるちは、「粳」と書かれる。
 この字は、「硬くてしっかりしている」という意味を含み、うるち米の性質を表している。

②お米についてよく知られていない2つ目の例は、「無洗米」について
・近年、このお米は、市販されており、利用が広がっている。
 炊く前に水で洗う必要がないので、ひと手間省ける便利なお米である。
 しかし、多くの人々には、誤解されている。
⇒その特徴から、「一人暮らしの人が、少しのお米を洗わなくても食べられるお米」とか、「冬の寒い日、冷たい水に手をつけなくてもよいお米」とか、「洗い方を知らない人でも、炊けるお米」などの印象がもたれている。
(多くの人に、「無洗米は、不精な人が手抜きのために使うお米」と考えられているようだ)
・それ以上に、「無洗米はおいしくない」という印象がある。
 無洗米は洗う必要がないために、「すでに水洗いされたお米が乾かされたものだろう」と想像される。「水を使って洗ったあとに乾かされたお米が、おいしいはずがない」という観念がその理由になっているようだ。

・ところが、そうではない。
 無洗米を試食した多くの人は、「おいしい」という感想をもつ。
 その通りで、無洗米の大きな特徴は、おいしいことであるという。なぜなら、無洗米は、水を使って洗ったあとで乾かしたお米ではないから。

☆「水を使わずに、どのようにして洗うのか」との“ふしぎ”が浮かぶ。
 これは、炊く前にお米を洗う理由を誤解していることから浮かぶ“ふしぎ”でもある
・お米を洗うのは、お米が汚れているからではない。
 お米の表面をうっすらと覆っているぬかをとるためである。
(「お米を洗う」という表現が使われるが、ぬかや汚れを洗い落とすのではなく、ぬかを取り除くために、「お米を研ぐ」というのが正しい表現といわれる)

※玄米は精米機に入れられて、ぬかや胚芽(はいが)が取り除かれ、精白米になる。 
 ところが、精白米の表面には、まだうっすらと「肌ぬか」とよばれるぬかが残っているそうだ。肌ぬかはおいしくないので、食べる前に洗い落とさなければならない。そのために、炊く前にお米をやさしくかきまぜながら、水洗いする。
・無洗米は、水を使わずに、肌ぬかの性質をたくみに利用して、この肌ぬかを取り除いたものである。
 たとえば、お米を金属製の筒に入れ、お米が壁面にぶつかるように筒内を高速で攪拌するそうだ。
 すると、お米の肌ぬかが壁面につく。その肌ぬかに次々とお米が当たり、お米の表面の肌ぬかが壁面の肌ぬかについて剝がされる。これは、肌ぬかの粘着性が高く、肌ぬか同士がくっつくという性質をたくみに利用しているそうだ。
⇒この方法でできる無洗米は、水洗いよりもきれいに肌ぬかがとれる。だから、おいしいという。
 また、精白米の表面には、おいしさのもととなる「うまみ層」がある。
 水で洗うと、このうまみ層が壊れたりするそうだ。
 粘着力で肌ぬかをとると、うまみ層が傷つかずにそのまま残る。だから、おいしくなる、と田中氏は説明している。

<お米の研ぎ汁は、富栄養化の原因に>
〇無洗米は、おいしいだけでなく、「環境にやさしい」といわれるお米である。
 なぜなら、無洗米には、水洗いの必要がないからである。お米を洗うときに(正確には、お米を研ぐときに)、多くの水が使われる。
 そのときにでる研ぎ汁は、池や沼、湖に流れ込み、富栄養化の原因となる。
 なぜなら、研ぎ汁には多くのリンが含まれるから。
 リンは、窒素、カリウムとともに、池や沼、湖の富栄養化をもたらすものである。
 だから、リンを含む水を流すことのない無洗米は、環境にやさしい、と田中氏は説く。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、104頁~108頁)


≪2022年度 わが家の稲作日誌≫

2022-10-29 19:36:52 | 稲作
≪2022年度 わが家の稲作日誌≫
(2022年10月29日投稿)

【はじめに】


 「2022年度 わが家の稲作日誌」として、今年度の稲作の主な作業日程を振り返ってみたい。合わせて、今年がどのような天候の下での稲作であったのか、回顧しておくことにしたい。
 今年は、地区の集落委員を務めたので、『農業共済新聞』を購読することになり、参照すべき記事がいくつか掲載されていた。
 また、農業関係では、次のような書籍を読んだので、関心のあるところをまとめておいた。
〇近正宏光『コメとの嘘と真実』角川SSC新書、2013年
〇田中修『雑草のはなし』中公新書、2007年[2018年版]
〇田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』中公新書、2018年
時に紹介してみたい。




執筆項目は次のようになる。


・【はじめに】
・【2022年の稲作行程・日程】
・【2022年の稲作の主な作業日程の写真】
・【一口メモ:「地球温暖化影響調査レポート」】(『農業共済新聞』(2022年10月1週号より)







【2022年の稲作行程・日程】


2022年の稲作行程・日程を箇条書きに書き出してみた。

・2022年3月8日(火) 晴 11℃(0~12℃)
  9:00~9:30 春耕作の依頼に伺う

・2022年3月23日(水) 曇 9℃(2~10℃)
  10:00~11:00 永小作の相談に伺う
 
・2022年4月21日(木) 曇 夕方から雨 18℃(10~21℃)
  9:00~11:30 草刈り 
   前々日、コロナワクチン第3回目接種で、昨日は少し肩が痛かったが、今日は何とか回復。曇り空で、直射日光がなく、草刈りには良い。
・草刈りそのものは2時間で混合油が切れる。
(小道と小屋の周辺の草刈りは後日)

【メモ】
・久しぶりに刈り払い機のエンジンをかけるも、最初、なかなか始動せず。
(混合油も、次回は購入しないと足りない)
・畦の内側を優先的に草刈りし、次に畦の上、そして畦の外側という順序で、草刈りを進めて行く。
・雑草としては、カラスノエンドウ、クローバー、スミレ、タンポポが多い。
 とくにカラスノエンドウが、畦と田んぼの中に繁茂しすぎ、手古摺る。
・中央の畦には、モグラの穴が数カ所あり。

【草刈り前の写真】
2022年4月21日の写真




なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?


田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』(中公新書、2018年)の「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが植えられるのか?」には、次のような内容が述べられている。

・6、70年前には、田植え前の田んぼでは、卵形の小さな葉っぱをつけた茎が地面を這うように、レンゲソウが育っていた。
 花が咲くと、畑一面が紫色に染まり、その美しさは、春の田園風景の象徴でもあった。
 
☆「なぜ、田植え前の田んぼに、レンゲソウが育っているのか」という、素朴な“ふしぎ”が抱かれることがあった。
 この“ふしぎ”を解くためには、植物たちの“ひみつ”を知らなければならないそうだ。

・レンゲソウは、タンポポのように、勝手に生える雑草ではない。
 田植えをする田んぼに、前の年の秋にタネをわざわざまかれて、栽培される植物なのである。
 育ったレンゲソウの葉っぱや茎は、田植えの前に土が耕されるとき、そのまま田んぼの中にすき込まれてしまう。
・この植物は、わざわざタネをまいて栽培され、きれいな花が咲いている時期、あるいは、そのあとにタネがつくられる時期に、土の中にすき込まれてしまう。
 それを知れば、「なぜ、せっかく育ってきたのに、土にすき込まれるのか」や、
 「レンゲソウは、何のために栽培されているのか」などの疑問が浮上する。

<レンゲソウの根粒菌>
〇実は、レンゲソウには、すばらしい“ひみつ”の性質がある、と田中氏はいう。
・元気に育つレンゲソウの根を土からそおっと引き抜くと、根に小さな粒々がたくさんついている。
 この粒々は、根にできる粒という意味で、「根粒」といわれる。
 その粒の中には、「根粒菌」という菌が住んでいる。この根粒菌が、すばらしい“ひみつ”の能力をもっている。

※植物が栽培されるときに必要とされる三大肥料は、窒素、リン酸、カリウムである。
・その中でも、窒素肥料は特に重要であるといわれる。
 窒素は、葉っぱや茎、根などを形成するために必要であり、植物が生きていくために必要なタンパク質の成分だからである。
・また、窒素は、光合成のための光を吸収する緑の色素であるクロロフィルや、親の形や性質なども子どもに伝えていくための遺伝子にも含まれる成分だからである。
⇒だから、窒素は、それらの物質をつくるのに必要なものであり、植物が成長するには、必要不可欠な物質である。
 そのため、私たちは植物を栽培するときには、窒素肥料を与えなければならない。

〇さて、レンゲソウをはじめとするマメ科植物の根に暮らす根粒菌は、空気中の窒素を窒素肥料に変える能力をもっている。
・レンゲソウは、根粒菌がつくった窒素肥料を利用する。
 そのため、土に窒素肥料が与えられなくても、レンゲソウのからだには、窒素が多く含まれる。
 空気中の窒素を窒素肥料に変える能力をもつ根粒菌を根に住まわせていることが、レンゲソウの“ひみつ”なのである。

・これが田植えの前に土の中にすき込まれると、緑の葉っぱや茎に含まれていた窒素肥料の成分が土壌に溶け込み、土壌を肥やし、緑肥となる。
 ⇒そのため、レンゲソウは、緑肥作物とよばれる。

※このように、レンゲソウは、緑肥作物として、田植えをする田んぼにタネがまかれて、栽培されていた。

<近年の傾向>
・ところが、近年、レンゲソウ畑が減ってきた。
 化学肥料が普及してきたことが一因であるが、大きな理由は、田植えの機械化が進み、小さなイネの苗を機械で植えるようになり、田植えの時期が早くなったことらしい。
・田植えが機械化される以前の田植えでは、レンゲソウの花の時期が終わるころに、大きく育ったイネの苗を手で植えていた。
 ところが、機械では、大きく育った苗は植えにくいので、小さな苗が植えられるのである。
・田植えの時期が早まると、レンゲソウが育つ期間が短くなる。
 すると、レンゲソウのからだが大きくなる前にすき込まなければならないので、栽培してもあまり役立たなくなった。

<レンゲソウ~プラスアルファの役に立つ性質>
・しかし近年、レンゲソウは、土壌を肥やすだけではなく、プラスアルファの役に立つ性質をもつことがわかりつつあるという。
・レンゲソウの葉っぱや茎が土にすき込まれて分解されると、酪酸(らくさん)やプロピオン酸などという物質が生じるそうだ。これらは、雑草の発芽や成長を抑える効果をもつとされる。
・だから、レンゲソウを緑肥とした畑や田んぼでは、化学肥料を使わずに土壌が肥沃になり、雑草が育ちにくくなるようだ。
⇒レンゲソウが春の畑に復活する日がくるかもしれないという。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、80頁~84頁)


レンゲソウとカラスノエンドウ~根粒菌の働き


田中修『雑草のはなし』(中公新書、2007年[2018年版])においても、レンゲソウ(マメ科)とカラスノエンドウ(マメ科)の根粒菌について解説している。
・根に根粒菌がつくのは、マメ科の植物の特徴である。この植物の根をそうっと引き抜くと、小さなコブのような粒々がいっぱいついている。この粒々の中には、根粒菌が暮らしている。
・根粒菌は、空気を窒素肥料にかえて、この植物(レンゲソウとカラスノエンドウ)に供給し、成長に役立つ。
 だから、カラスノエンドウは、レンゲソウと同じように、この植物の葉や茎を緑のまま土の中にすき込んでしまうと、土を肥やす働きがある。
⇒栽培植物の肥料となるので、「緑肥」と呼ばれる。
 つまり、痩せた土地では、根粒菌に肥料をつくってもらう。
(田中修『雑草のはなし』中公新書、2007年[2018年版]、13頁)

【参考】
 You Tubeでも、「但馬の田舎暮らし どんぐ屋」さんは、「【緑肥】レンゲ草の花が満開になりました【稲作】」(2022年5月10日付)において、この根粒菌について言及している。
 すなわち、根粒菌に空気中の窒素を吸収して、根に蓄える。そのレンゲ草のパワーについて解説している。合鴨農法を行う田んぼにレンゲ草の種まきしたものが、5月初めに満開になった様子を動画にして伝えている。レンゲ草を、有機栽培の救世主としてみている。



・2022年4月25日(月) 晴 26℃(13~27℃)
  9:00~10:00 草刈り 小道と小屋の周辺
   直射日光が当たり、朝から暑い!
   小屋の周辺などはカラスノエンドウが長く伸びていて苦戦。
  10:00~11:30 車庫の周辺の草刈り、裏山のタケノコ取り(10本収穫)

・2022年4月27日(水) 曇 18℃(18~19℃)
  10:00~11:00 土地区画整理事業の安全祈願祭に参列
   昨日の大雨が何とか上がり、無事につつがなく執り行われ、安堵する

・2022年4月28日(木) 晴 18℃(11~19℃)
     畦塗りをし終えたとの連絡あり

・2022年5月2日(月) 晴 18℃(6~19℃)
  10:00~10:40 荒おこしをしておられる 私は畦の草寄せ作業

【作業の様子】
2022年5月2日の作業の様子


・2022年5月9日(月) 曇 15℃(13~17℃)
  9:00~11:30 草刈りと水入れの準備作業
   曇りで肌寒いくらいの天候
   (昨晩19時から神社委員会が開かれ、年間行事の役割分担が決まる)
   2時間ほど草刈り。伸びた草は再び十数センチになっていた。
   進入路の草刈りは小石が飛ぶので注意が必要
   残り30分で、水入れに備えて、水止め用の袋を新しいものに交換
   ちょうど作業が終了した頃、雨がポツリポツリと降ってくる。

・2022年5月10日(火) 晴 17℃(10~19℃)
  9:30草刈り用の混合油 安達石油にて購入 ゼノア25:1(5ℓ 1430円)
  (去年より300円値上がり、やはり世界情勢が影響か)

・2022年5月11日(水) 雨後曇 22℃(14~24℃)
  18:10 委託者より、水を貯めてよいと電話。明日、水を入れること。

・2022年5月20日(金) 晴 24℃(15~24℃)
  18:15~19:00 土地区画整理組合の役員会
  ・委託者より、明日5月21日(土)午前中に代かきを行う予定といわれる
   (下の田んぼは水が多いので、水路の石を取り、水を止めておくように)
  ・そして、5月25日(水)か26日(木)のいずれかに、田植えを行う予定とのこと。
  19:10 役員会の帰りに、田んぼに寄り、下の田の水を止める。
      (下の田の水に鴨が2羽泳いでいた)

・2022年5月21日(土) 曇 20℃(17~24℃)
  10:00 天気予報によれば、中国地方の梅雨入りは若干例年より早く、6月3日頃になるかもしれないという。

・2022年5月23日(月) 晴 25℃(16~26℃)
  10:00~10:30 県用地部の人と地権者で測量のための立会
  11:00~11:40 立会の田畑の草刈り

・2022年5月24日(火) 晴 25℃(12~28℃)
  12:30 委託者より電話。明日、田植えを9:30か10:00から行う予定。
  (下の田の水が少し多かったので、調整しておいたとのこと)

・2022年5月25日(水) 晴 28℃(15~29℃)
   9:00~ 9:20 お弁当(寿司、惣菜、お菓子など)買い出し
   9:30~11:00 田植え
   ※田植え機はGPS付きの新車を購入されたとのこと。
    (古い田植え機は15~16年間使ったので、買い替え時だったらしい)
  11:00~11:30 NOSAIの広報配布

【稲作の写真】


・2022年5月26日(木) 曇 25℃(18~28℃)
  17:00~19:20 土地区画整理組合の総会(監事報告)

・2022年5月27日(金) 快晴 25℃(18~27℃)
   9:30~12:00 田んぼの作業
   ・上の田と下の田に水入れ(1時間ずつ)
   ・四隅など手植え(2時間半で終わらず)
   ・また機械で植えた苗で倒れているものを直す。
   (今年は本数を少なく植えてあるかもしれない。1本の所もある)

・2022年5月28日(土) 晴 25℃(17~27℃)
   9:00~10:00 水入れ(不足分のみ)
   
・2022年5月29日(日) 晴 28℃(17~29℃)
9:00~10:30 上下の田の半分以上、土が出て、水が乾いている。
   なお、ホームセンターで刈払い機のサビ止めスプレーを購入

・2022年5月30日(月) 曇 26℃(16~25℃)
   9:00~10:00 裏山で竹を切る
   (1本高い所にあり苦戦。屋根の上に先端が倒れる)

・2022年5月31日(火) 雨 22℃(18~24℃)
  今朝、雨が降ったので、田の水入れせず

・2022年6月1日(水) 曇のち晴 26℃(14~27℃)
   9:30~10:30 水入れ、苗の補植と倒れた苗の修正
   (2日間曇のち雨で水入れしないと、上下の田とも表土が出ていた)
  10:30~11:30 庭木の剪定

・2022年6月2日(木) 晴 25℃(16~27℃)
   9:30~10:30 水入れ

・2022年6月3日(金) 晴 25℃(16~27℃)
   9:30~10:30 水入れ
   ・残りの肥料と除草剤を撒く。小屋の周辺の草取り。

・2022年6月4日(土) 晴 22℃(17~23℃)
   9:30~10:30 水入れ 
   ・畦の上で、シマヘビが日向ぼっこ(水路に逃げ、とぐろ巻く)
  10:30~12:30 妹と庭木の剪定 

・2022年6月5日(日) 曇のち雨 22℃(17~23℃)
   9:00~10:10 地区の神社清掃

・2022年6月8日(水) 曇 22℃(13~23℃)
   9:30~10:30 水入れ(3日間雨だったので、水入れ不要)

・2022年6月9日(水) 晴 22℃(14~23℃)
   9:30~10:30 水入れ(水路に石を置き水調整)
  10:30~12:00 再び妹と庭木の剪定

・2022年6月10日(金) 晴 22℃(17~25℃)
   9:00~ 9:40 春耕作代支払いに行く

・2022年6月13日(月) 晴 21℃(16~22℃)風があり比較的快適な日
   9:00~11:00 草刈り 久しぶりの草刈りで長い草は十数センチに伸びている。
   (但し、南面は残す)
  11:00~11:30 今度の日曜6月19日が市の清掃活動の日なので道路脇の草刈り

・2022年6月14日(火) 雨 19℃(17~21℃)
  11:00 中国地方 梅雨入り

・2022年6月16日(木) 晴 20℃(18~27℃)
   9:30~10:30 第3回遅ればせながら手植え
   かなり足がはまる。下の田に機械油が浮いている。バケツに入れて捨てる。
  ※北側の人の田には、藻が大量に発生している。温度や富栄養化が原因か。

・2022年6月17日(金) 晴 28℃(18~29℃)
   9:00~10:30 草刈り(南面)
   朝から暑い。小道には葛のツルが伸びている。
  10:30~11:00 道路脇の草刈り(仕上げ)

・2022年6月19日(日) 晴 28℃(21~29℃)
   8:00~ 9:00 市の清掃活動

・2022年6月24日(日) 曇 29℃(28~30℃)
  10:00~11:00 中干し開始(分けつが進み、茎の数が約15本になる)
   最高気温30℃前後の日が1週間続き、雨がほとんど降らず(昨日は34℃まで上がり、夜も28℃の熱帯夜)
  ※上の田は藻は生えていなかったが、下の田には藻がひどく生え黄色になっている。
   特に小屋の北がひどい。北側の人の田も東側が以前から藻がひどい)
  ・下の田の畦(西側)に機械油が浮いている。
<ポイント>
  ・中干しの開始時期は、田植えの約1カ月後(または出穂の約1カ月前)が目安
  ・田面に軽く亀裂が生じる程度(概ね5~7日間)
  ・中干しの後の水管理は間断灌水が理想的。
 


中干しが必要な理由


 田中修『植物のひみつ 身近なみどりの“すごい”能力』(中公新書、2018年)には、中干しがなぜ必要なのかについても、解説している。
「第四話 イネの“ひみつ」の項目である「なぜ、イネは水田で育てられるのか?」には、次のような内容が述べられている。

・春の田植えで植えられたあと、イネは水田で育てられる。
 「なぜ、イネは水の中で育てられるのか」という“ふしぎ”が興味深く抱かれる。
 イネには、水の中で育てられると、四つの“ひみつ”の恩恵があるという。

①水には、土に比べて温まりにくく、いったん温まると冷めにくいという性質があるということ。
 ⇒水田で育てば、イネは夜も温かさが保たれた中にいられる。暑い地域が原産地と考えられるイネにとって、これは望ましい環境である。

②水中で育つイネは、水の不足に悩む必要がないこと。
・ふつうの土壌に育つ植物は、常に水不足に悩んでいるらしい。
 ⇒そのために、栽培植物には「水やり」をする。そうしないとすぐに枯れてしまう。
 しかし、自然の中で、栽培されずに生きている雑草は、「水やり」をされなくても育っている。
・だから、「ふつうの土壌に育つ植物たちは、ほんとうに、水の不足に悩んでいるのか」との疑問が生じる。
 これは、容易に確かめることができる。
 雑草が育っている野原などで、日当たりのよい場所を区切り、毎日、一つの区画だけに水やりをする。すると、その区画に育つ雑草は、水をもらえない区画の雑草に比べて、成長が確実によくなる。
 
③水の中には、多くの養分が豊富に含まれていること。
・水田には、水が流れ込んでくる。その途上で、水には養分が溶け込んでいる。そのため、水田で育つイネは、流れ込んでくる水の十分な養分を吸収することができる。
⇒このように、水の中は、イネにとって、恵まれた環境である。
 
④「連作障害」が防げること。
・「連作」という語がある。これは、同じ場所に、同じ種類の作物を2年以上連続して栽培することである。多くの植物は、連作されることを嫌がる。連作すると、生育は悪く、病気にかかることが多くならからである。
・連作した場合、うまく収穫できるまでに植物が成長したとしても、収穫量は前年に比べて少なくなる。これらは、「連作障害」といわれる現象である。

<連作障害の三つの原因>
①病原菌や害虫によるもの。
・毎年、同じ場所に同じ作物を栽培していると、その種類の植物に感染する病原菌や害虫がそのあたりに集まってくる。そのため、連作される植物が、病気になりやすくなったり、害虫の被害を受けたりする。
②植物の排泄物によるもの。
・植物は、からだの中で不要になった物質を、根から排泄物として土壌に放出していることがある。連作すると、それらが土壌に蓄積してくる。すると、植物の成長に害を与えはじめる。
③土壌から同じ養分が吸収されるために、特定の養分が少なくなることによるもの。
・「三大肥料」といわれる窒素、リン酸、カリウムの他に、カルシウム、マグネシウム、鉄、硫黄などが植物の成長には必要である。
⇒これらは、肥料として与えられる場合が多い。
 しかし、これ以外に、モリブデン、マンガン、ホウ素、亜鉛、銅などが、ごく微量だが、植物の成長に必要である。

※必要な量はそれぞれの植物によって異なるが、連作すると、ある特定の養分が不足することが考えられる。
・これら三つの連作障害の原因は、水田で栽培されることで除去される。
 水が流れ込んで出ていくことで、病原菌や排泄物が流し出されたり、養分が補給されたりするからである。
 水田で育てば、こんなにすごい恩恵があるのであるから、他の植物たちも「水の中で育ちたい」と思う、と田中氏は考えている。

<水の中で育つための特別のしくみ~レンコンとイネの共通点>
※ただ、水の中で育つためには、そのための特別のしくみをもたなければならない。
・「どのような、しくみなのか」との疑問が生まれる。
⇒そのしくみをもつ代表は、レンコンであるようだ。
・レンコンは、泥水の中で育っているが、呼吸をするために穴をもっている。あの穴に、地上部の葉っぱから空気が送られている。
・実は、イネもレンコンとまったく同じしくみをもっている。
 イネの根には、顕微鏡で見なければならないが、レンコンと同じように小さな穴が開いており、隙間がある。正確には、イネは根の中に隙間をつくる能力をもっている。
というのは、イネは、水田では、その能力を発揮して、根の中に隙間をつくる。
 しかし、同じイネを水田でなく畑で育てると、その根には、水田で育つイネの根にできるような大きな隙間はつくられない。
イネは、置かれた環境に合わせて、生き方を変える能力をもっている。

<中干しが必要な理由>
☆しかし、水がいっぱい満ちている水田で育っていると、困ったこともあるそうだ。
・イネは、水を探し求める必要がないので、水を吸うための根を強く張りめぐらせない。そのため、水田で栽培されているイネの根の成長は、貧弱になる。
・根には、水が不足すると水を求めて根を張りめぐらせるという、“ハングリー精神”といえるような性質がある。
 だから、田植えのあと、水をいっぱい与えられて、ハングリー精神を刺激されずに育ったイネの根は貧弱である。
⇒もしそのままだと、秋に実る、垂れ下がるほどの重い穂を支えることができない。イネは倒れてしまう。イネは倒れると、実りも悪く、収穫もしにくくなる。

・そこで、イネの根を強くたくましくするために、イネに試練が課せられる。
 夏の水田を見てほしい。
 田んぼに張られていた水は、抜かれている。水田の水が抜かれるだけでなく、田んぼの土壌は乾燥させられている。ひどい場合には、乾燥した土壌の表面にひび割れがおこっている。
(イネは水田で育つことがよく知られているので、この様子を見て、勘違いする人がいる。
 「イネに水もやらずに、ほったらかしにしている」とか、「ひどいことをする」と腹を立てる人までいる。
 でも、それはとんでもない誤解である。)
・水田の水を抜き、田んぼの土壌を乾燥させるのは、水が不足すると水を求めて根を張りめぐらせるという、イネのハングリー精神を刺激しているのである。
⇒そうしてこそ、秋に垂れ下がる重いお米を支えられるほどに根を張り、強いからだになることができる。

・土壌の表面のひび割れも、無駄にはなっていない。ひび割れて土に隙間ができることで、この隙間から、地中の根に酸素が与えられる。それは、根が活発に伸びるのに役に立つのである。
 こうして、イネは、秋の実りを迎える。
⇒イネの栽培におけるこの過程は、「中干し」とよばれる。
 この過程を経てこそ、秋に垂れ下がるほどの重いお米を支えるからだができあがる。だから、中干しは、イネの栽培の大切な一つの過程なのである。
(田中修『植物のひみつ』中公新書、2018年、84頁~89頁)

・2022年6月27日(月) 曇 32℃(24~33℃)
   9:30~10:30 役員会議(工事見積書の提出、持ち帰り再検討)
  11:00~11:30 中干しの様子見(昨日、一昨日の雨も干上がっている)

・2022年6月28日(火) 晴 32℃(26~35℃)
   9:00~10:30 そば畑(公田)の草刈り
  11:00 中国地方 梅雨明け発表 14日の梅雨期間は最短で、梅雨明けは最も早い
  (季節現象であるため、後日検討され期日が変更となる場合もあり)

・2022年6月30日(木) 晴 32℃(24~33℃)
   9:30~10:00 田んぼの様子見~中干し順調
 ※北側の人の田は藻が黄色くなっている。中干ししていない。

・2022年7月2日(土) 晴 35℃(24~36℃)
  台風4号の接近で明日から雨が降るという。

【一口メモ:半夏生について】
・半夏生は「はんげしょう」と読み、節分や土用などと同じような、雑節のうちのひとつ。
・半夏生は、夏至(6月21日頃)から数えて11日目の7月2日頃から七夕(7月7日)頃までの5日間をいう。
・田植えは半夏生に入る前に終わるものとされ、この頃から梅雨が明ける。「半夏生」は気候の変わり目として、農作業の大切な目安とされる。

・半夏生の呼び名の由来には、2つの説があるようだ。
①漢方薬に使われる半夏というサトイモ科のカラスビシャクが生える頃だからという説。
②ドクダミ科のハンゲショウという植物が、ちょうどこの時期に花をつけるからという説。

・半夏生の時期はちょうど田植えが終わる頃とされた。
田植えを終えた稲や畑の作物が「タコの足のようにしっかり根を張って豊作になるように。」と願いを込めて、農家の人々が神様にタコをお供えした。
これに由来して、半夏生の時期にはタコを食べる習わしが生まれたと言われている。
この風習は関西地方を中心に昔から根付いている。半夏生にタコを食べる地域だけではない。香川県ではうどん、福井県ではサバ、長野県でも芋汁などを食べる。

・2022年7月3日(日) 晴のち雷雨 32℃(25~32℃)
  午後2時前から雷雨。中干し以来、初めてまとまった慈雨となる。

【一口メモ:稲妻について】
・稲妻は、「稲の夫(つま)」の意味から生まれた語であるといわれる。
 古代、稲の結実時期に雷が多いことから、雷光が稲を実らせるという信仰があった。
・日本には、古来、「稲と雷とが交わることで稲穂が実る」と考えられていた。
雷が稲を妊娠させると考えられていた。昔、雷が多いと豊作になることが多いため、「雷光が稲に当たると稲が妊娠して子を宿す」という考え方があった。
・稲妻の「つま」は、古くは夫婦や恋人が互いに相手を呼ぶ言葉で、男女関係なく「妻」「夫」ともに「つま」といった。雷光が稲を実らせるという信仰から、元来は「稲の夫」の意味である。
(しかし、現代では「つま」に「妻」が用いられるため、「稲妻」になった)
・語源的に考えれば、「稲妻」と「雷」の違いは、「稲妻」が「光」であり、「雷」が「音」である。
・気象学的には、実際に雷が多いときは、降水量や日照、気温など、稲の生育に良い条件がそろうようだ。
 昔から「雷の多い年は豊作になる」との言い伝えには、根拠があることが証明されているらしい。
 雷が空中で放電することにより空気中の窒素が分解され、それが雨と混じり、地中に溶け込むことで、その土地は栄養分が豊かになるからとされる。窒素は肥料の3要素の一つで、これが成長を促す。つまり窒素の増加により豊作となるようだ。
(雷の放電によって、N2はO2と化合して、各種の窒素化合物(NOやNO2など)となり、これが雨水によって硝酸(HNO3)となる。硝酸は植物の成長に欠かせない。)

※ただし、窒素過多には注意したほうがよいともいわれる。
たとえば、近正宏光氏は『コメとの嘘と真実』において、有機栽培について説明した項目で、
・肥料に関しては有機肥料といえど最小限しか与えない。
 肥料には窒素分が多く存在し、これが投与過多になるとタンパク質含量が上がってしまい、コメがまずくなると述べている。
また、「アイガモ農法米」について記した箇所で、次のようなことを述べている。
食物としてのコメにとって窒素過多はご法度。当たり前だが、アイガモは田んぼの中で糞をする。これは「未完熟の肥料」。彼らは自然の行為として排泄を行い、タイミングも自然に任せて行う。結果、気を抜くと、肥料の投与量も時期もコントロールを失った、窒素過多のコメが実る場合もあり得る。
※同様の理論で、鯉などを使った栽培法もあるが、消費者がこうむるデメリットも同様。有機米にイメージとしての付加価値ではなく、「おいしさ」「安全性」を求めるのであれば、他の選択肢も検討しなければならない場合があると、近正氏はコメントしている。

(近正宏光『コメとの嘘と真実』角川SSC新書、2013年、146頁~147頁、151頁~152頁)

・2022年7月6日(水) 曇 30℃(25~32℃)
  9:30~10:00 中干し終了
   昨日、台風4号が本土長崎で温帯低気圧に変わり、四国を通過したが、こちらはほとんど風雨なし。
   中干しを終了して、水を入れる
   (良い加減に田んぼの土が乾き、ヒビが入っている)
  14:00~15:00 土地区画役員会 入札

・2022年7月7日(木) 晴 30℃(24~30℃)
  9:00~10:40 田んぼの畦を草刈り(15センチくらい伸びている)
       (但し、北側斜面と小道、小屋周辺は残る)
  14:00~15:00  県の用地部 契約成立(口座と実印)

・2022年7月8日(木) 曇一時雨 28℃(24~29℃)
  9:30~10:00 田んぼの様子見
   (下の田には十分水が溜まっていたが、上の田の北側は少し水不足。用水路の水を石で調節し水を入れる)
   共立の刈払い機の調子を見る。小屋に去年購入した土嚢袋あり
   (後日、残りの草刈りと水止め用の袋を作り、交換すること)

・2022年7月11日(月) 曇 30℃(24~33℃)
  9:10~9:20  御礼の品を届ける
  9:20~10:00 田んぼの様子見
   (上・下の田んぼに水が十分溜まっていたので、水尻の石、板を外し流す)

・2022年7月12日(火) 曇 26℃(24~27℃)
  9:00~10:00  委託者にお礼 代替地の件で相談
・2022年7月13日(水) 曇 28℃(23~29℃)
  9:00~11:00 草刈り
   気温はまあまあだが、無風で蒸し暑い。
   北側・東側の法面と小道(田の畔をもう一度、伸びた草のみ)
   小道脇は、例年通り、葛が繁茂(上部のみ刈る)
   共立製の新しい方の刈払機で今年初めて草刈り
   (グリップハンド方式を忘れていた。気を抜いた時、キックバックに注意)
  ※向こう1週間は雨予報で、梅雨が戻ったような天気(戻り梅雨か)。
来週7月23日から晴になるとのこと。

・2022年7月20日(水) 晴 30℃(23~30℃)
  10:30~11:00 田んぼの様子見(上の田の北側が少し水不足)
  ※1週間ぶりに晴れ。昨日は県内に大雨警報が出るほどに雨が降る。

・2022年7月26日(火) 晴 30℃(25~31℃)
  9:30~10:30  公田の草刈り・立て札
   開始後、30分過ぎ、アシナガバチに左手の人差し指のつけ根を刺される
  (北寄りの畑との境西側にて)
   途中で切り上げ、自宅でムヒS2a(ステロイド成分入り)を塗る
   (夕方、少し腫れがひどい)
  <注意>黒いゴム手袋をはめていたが、やはり黒い色に攻撃的になったか。

・2022年8月1日(月) 晴 33℃(28~37℃)
  9:00~10:30 草刈り
   今夏、一番の暑さか、午後には37℃記録。
畦と進入路のみとりあえず草刈り
  10:30 車庫のかしら草刈り(土嚢袋にひっかけ、チップソーが歪み、回転がぶれる)

・2022年8月2日(火) 晴 33℃(26~36℃)
  10:00~11:00 ホームセンターにてチップソーを購入

・2022年8月3日(水) 晴 31℃(27~33℃)
  9:00~11:30 草刈り(共立の刈払機にて)
   最初の1時間は日差しがきつく、熱中症に注意する
   後半は少し曇り、風も時折吹く。それでもきつい。
   北側の畦と小屋周辺と、小道の草刈り終了。~キックバックに注意

・2022年8月9日(火) 晴 33℃(26~35℃)
  10:00~11:00 刈込鋏にて小屋に生えた雑草を刈る(カヤやツタが主)
   田んぼの水は十分。上の田の畦付近に1本出穂していた!

・2022年8月18日(木) 晴 28℃(23~30℃)
  10:30~11:00 田んぼの様子見~7割方出穂
   ここ2~3日、県内に大雨警報が出るほど雨が降る。
   7割方出穂が進んでいる。ただし、ヒエも勢いよく、下の田は稲よりも背丈が高く生長している。

・2022年8月29日(月) 晴 28℃(19~29℃)
  8:15~8:30 ゼノアの刈払機のチップソー付け替え
  (ゼノアはソケットレンチ13ミリで、共立は19ミリ)
  8:50~10:00 畦を中心に草刈り(小道と法面以外)※くよすの煙浴びる
  10:50~10:20 車庫のかしらの草刈り
  <注意>
  10:30帰宅すると胸のあたり痛くて苦しい。シャワーを浴び、休んでいると元に戻る

・2022年9月2日(金) 雨 25℃(20~26℃)
  9:15~9:45 ポンプ場の固定資産税を支払いに行く(水路管理会の会計として)
  10:00~10:30 水止め
  (南側水路入口を土嚢袋で塞ぎ、北側の土嚢袋を取り除く)
  ※昨日、9月1日 梅雨明けを気象庁が修正
   (中国地方、6月28日頃を7月26日頃に。平年は7月19日頃)
  ※来週9月6日には台風11号が通過予定、注意せよ。
【一口メモ】
・天候経過を事後的に検証し、7月半ばの天候不順を梅雨に含めるべきだと判断したようだ。
(7月半ばの天候不順は偏西風の蛇行に伴い、上空の寒気や前線などの影響で曇りや雨の日が予想外に10日間ほど続いた)
・梅雨明けと当初判断した6月下旬から7月初めにかけては、勢力の強い太平洋高気圧とチベット高気圧で二重に覆われ、極端な暑さが続いたという。

・2022年9月7日(水) 晴 26℃(19~27℃)
  9:00~11:00 草刈り(北側、東側の畦の法面と小道、8月29日の残り)
  昨日の台風11号の強風が心配であったが、田んぼにはさほど影響なく安心する。
  (家では庭に裏山の太い古竹が落ちて来て大変だったが)
  今日は、台風一過で、よく晴れてよい天気。
  
・2022年9月13日(火) 晴 26℃(24~29℃)
  10:30~11:00 田んぼの様子見~ヒエ、雑草を除去すること

【稲の生長の様子(9月13日)】


・2022年9月20日(火) 曇 26℃(18~22℃)
  10:30~11:00 田んぼの様子見
昨日、台風14号が通過したが、幸いに稲の倒伏は免れる
(しかし、水道みちの近くで、4枚ほど倒伏した田んぼがある)
※台風14号は、940hPaで鹿児島県では建設中のクレーンが倒れるほどの強風で心配したが、こちらを通過する時には、970hPaになっていた。

・2022年9月26日(月) 晴 26℃(18~28℃)
  9:00~11:00 田んぼの草刈り(北側の法面以外)
  11:00~11:30 車庫のかしらの草刈り

・2022年10月2日(日) 晴 25℃(15~27℃)
  9:00~10:20  神社そうじ(本殿横の道祖神を中心に)

・2022年10月3日(月) 晴 27℃(18~29℃)
  9:00~10:00 田んぼの草刈り(コンバインの進入路と北側の法面)
10:00~11:30 田んぼのヒエ・雑草取り
(20ℓの紙袋を片手に鋏でヒエを切っていく。足元を稲束にとられバランスを崩す) 
   今年は上の田にタウコギ(キク科センダングサ属)がよく生えていた。
   中には1メートル近いものもあり、その周辺の稲が弱っていた。

【一口メモ:雑草タウコギ】
・センダングサの仲間で、水田などに生える。
・タウゴキ(田五加木)の名前は、樹木のウコギ(五加木)の葉に良く似ることに由来するが、余り似ていないそうだ。
・民間では、健胃や鎮咳、ことに明治37~38年頃に結核の特効薬として評判になったが、実際にはそれほどの効能がなかったらしく、ブームもすぐに去った。
・タウコギは養分や光競合によって稲を減収させるだけでなく、木化した茎が収穫時にコンバインに絡み付くなど、収穫作業時の障害も大きな問題となっているようだ。

〇田中修『雑草のはなし』中公新書

・2022年10月6日(木) 曇 19℃(16~21℃)
  10:30~11:00 ホームセンターにて米袋購入

・2022年10月8日(土) 晴 19℃(14~21℃)
  18:45 委託者から電話~明日夕方から雨だが、明日それまでに稲刈りをしてはどうかとのこと。晴れになる11日(火)か12日(水)にしてもらう。

・2022年10月11日(火) 曇 18℃(13~19℃)
  9:30~11:30 四隅と手植えした畦際の稲を手刈り~上の田の北側はよく実っていた。(ただし、手刈りは、下の田の畔際は時間足りず)

【手刈りした稲の写真(上の田の北側)】


・2022年10月11日(火) 曇 18℃(11~19℃)
  16:45 委託者より電話 明日午前10時~11時の間で稲刈りを始めるとのこと
   (朝早くはまだ露がおりているから、10時半ぐらいから)

・2022年10月12日(水) 曇のち晴 20℃(11~21℃)
  8:30~9:30 買い出し(昼ごはん寿司など)
  9:15     昼ごはんと米袋(16枚)を届ける
  10:00~10:30 手刈りの残り(下の田の畦際)
  10:30~10:30 コンバインで刈ってもらう
  ※四隅の手刈りの面積が足りず(特に上の田の東側と北側)⇒3条×3メートル(8株分)
  ※コンバインで刈る時、特に上の田の畔側 バック時に注意
  ※下の田の東側は雑草ホタルイが繁茂して、絡み付く

【一口メモ:雑草ホタルイ】
・ホタルイは細長い草で、畦際に異常に生えるようだ。
・You Tubeでは、ホタルイ対策としてバサグラン粒剤を散布している人がいた。
・ホタルイは、中干のときに芽が出て、発芽適温は30℃。タネの寿命は20年だという。

【写真:コンバインでの稲刈りの様子】



・2022年10月14日(金) 晴 22℃(12~24℃)
  16:30~17:00 米用冷蔵庫の掃除
   
・2022年10月15日(土) 晴 20℃(13~24℃)
  9:30 委託者より電話 お米ができあがったので、今日搬入したいとのこと
  11:30~12:00 お米搬入、お茶を出す
   
・2022年10月19日(水) 曇 17℃(12~19℃)
  8:40~9:30 秋の耕作代金(刈取、乾燥)を支払いに行く
   
・2022年10月20日(木) 晴 17℃(9~20℃)
  7:30~8:10 祭りの幟おろし(総代4名と委員2名)
  9:00~10:30 公田(そば畑)の草刈り
  10:30~11:00 刈取後の藁を均一にならす

・2022年10月27日(木) 曇 15℃(8~20℃)
  9:30~9:45 そば畑の小作料を支払いに行く

・2022年10月28日(金) 晴 19℃(8~20℃)
  10:00~13:30 父の同僚で友人のお宅に新米を届けに行く
   お昼(出前のお寿司)をいただき歓談(農業や囲碁[結城聡氏の本]、息子さんの話題)、お土産まで頂いて帰宅



【一口メモ:「地球温暖化影響調査レポート」】


〇『農業共済新聞』(2022年10月1週号)によれば、農林水産省は、9月16日、2021年の「地球温暖化影響調査レポート」を公表した。

※地球温暖化による影響は、極端な高温や低温、大雨、干ばつなどの気象現象となり、農業生産に深刻な影響を与えている。
 農林水産省は、2050年までに、農林水産業からの温室効果ガス排出量実質ゼロを目指す「みどりの食料システム戦略」を推進、環境負荷低減を促すそうだ。
 同時に温暖化がもたらす影響に対処する適応策を推進し、農業生産の安定確保に努めている。

「地球温暖化影響調査レポート」の概要では、
・水稲では、例年と同様に出穂期以降の高温による白未熟粒や胴割れ粒の発生が報告された。ほかに、登熟不良などの報告が増加した。
 一方で、高温耐性品種の作付け拡大など適応策の取り組みも広がっているそうだ。
・温室効果ガスの排出を削減する緩和策と合わせ、農作物の安定生産、安定供給を可能とし、生産現場で取り組みやすい適応策の普及が求められるという。



・「地球温暖化影響調査レポート」によれば、具体的には、2021年は年平均気温が平年と比べて、0.61度高く、1898年の統計開始以来で3番目に高い値となった。
・水稲では、別表にあるように、「白未熟粒の発生」が31県から報告された。
・「胴割れ粒の発生」は14県、「粒の充実不足」は13県。
・「登熟不良」は10県で、11年以降で最多だった。
⇒いずれも出穂期(7月)以降の高温が主な原因とされた。
・「虫害の発生」は18県である。カメムシ類やニカメイチュウ、スクミリンゴガイ(ジャンボタニシ)など。
・適応策では、水管理の徹底を22県が実施。
 適期移植・収穫、肥培管理、追肥など栽培技術の徹底も報告された。
・高温耐性品種の作付けは、35府県から報告があった。
・作付面積は、前年比5.1%(7775ヘクタール)増の16万999ヘクタールで、主食用作付面積に占める割合は同1.2ポイント増の12.4%となった。
 西日本を中心に普及が進む「きぬむすめ」が2万2432ヘクタールで最も多かったそうだ。(『農業共済新聞』2022年10月1週号)

【表:水稲の主な影響の発生状況】






≪柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)の序説のまとめ~交換様式論≫

2022-10-17 18:05:35 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)の序説のまとめ~交換様式論≫
(2022年10月17日投稿)

【はじめに】


 世界史は日本史より、わかりにくく、難しいといわれる。
 私の知り合いの高校生も、そう言っていた。
 各国もしくは各地域の歴史の関係がよくつかめないらしい。何か世界史の叙述に一貫性が感じられないようだ。確かにそうかもしれない。
 世界史を捉える際に、何か一定の原理みたいなものはないのか? 
 世界史に流れる一本の筋道みたいなものを元に叙述された本がある。
〇柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]
 これがそうである。
 柄谷行人氏の『世界史の構造』は、そうした世界史嫌い、嫌いとまではいかなくても、世界史への不満をある程度解消してくれるかもしれない。
 世界史の構造を、交換様式の観点から叙述している。
 その際に、世界史にまつわる様々な問いに対する答えを用意している。たとえば、
☆なぜギリシアやローマで、専制国家の体制ができなかったのか。
☆世界史の中で、日本史はどのように位置づけられるのか。
☆西洋の封建制と日本のそれとはどのような違いがあるのか。

こうした問題意識をもって、柄谷行人氏の『世界史の構造』を読むと、その答えが導き出されるかもしれない。
ただ、この本は読みやすい本ではない。
 たとえば、カント、ヘーゲル、マルクスなど哲学や経済学、ウェーバーなどの社会学、ウォーラーステイン、ウィットフォーゲルなどの歴史学、はたまたフロイトの精神分析学といった学際的な議論が随所に出てくる。
 本格的な紹介は、後日に譲るとして、まずは序説の交換様式論を主に紹介してみたい。
 あわせて、序説以外の各章をメモ風にまとめてみた。




【柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)はこちらから】
柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)






【目次】
柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫の目次
序文
序説 交換様式論
第一部 ミニ世界システム
 序論 氏族社会への移行
 第一章 定住革命
 第二章 贈与と呪術

第二部 世界=帝国
 序論 国家の起源
 第一章 国家
 第二章 世界貨幣
 第三章 世界帝国
 第四章 普遍宗教

第三部 近代世界システム
 序論 世界=帝国と世界=経済
 第一章 近代国家
 第二章 産業資本
 第三章 ネーション
 第四章 アソシエーショニズム

第四部 現在と未来
 第一章 世界資本主義の段階と反復
 第二章 世界共和国へ


あとがき
岩波現代文庫版あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・序説 交換様式論~交換様式のタイプ
・権力のタイプ
・社会構成体の歴史
・近代世界システム

〇以下、序説以外の第1部第1章 定住革命などのメモ風まとめ






序説 交換様式論~交換様式のタイプ


柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)の目次を見てもわかるように、柄谷行人氏の主張の根幹は、「序説 交換様式論」の「2交換様式のタイプ」にある。序文には「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする企てである」、とある。(序文、iii頁)

〇交換様式は、互酬、略取と再分配、商品交換、そしてXというように、四つに大別される。
・これらは図1のようなマトリックスで示される。
 【図1 交換様式】






B 略取と再分配(支配と保護) A 互酬(贈与と返礼)
C 商品交換(貨幣と商品) D X


 これは、横の軸では、不平等/平等、縦の軸では、拘束/自由、という区別によって構成される。
・さらに、図2に、それらの歴史的派生態である、資本、ネーション、国家、そして、Xが位置づけられる。
 【図2 近代の社会構成体】
   B 国家   A ネーション
   C 資本   D X

・つぎに重要なのは、実際の社会構成体は、こうした交換様式の複合として存在するということである。
 歴史的に社会構成体は、このような諸様式をすべてふくんでいる。
・部族社会では、互酬的交換様式Aがドミナントである。
 (それはBやCが存在しないことを意味するのではない。たとえば、戦争や交易はつねに存在する。)
 が、BやCのような要素は互酬原理によって抑制されるため、Bがドミナントであるような社会、つまり国家社会には転化しない。
・Bがドミナントな社会においても、Aは別なかたちをとって存続した、たとえば農民共同体として。また、交換様式Cも発展した、たとえば都市として。
だが、資本制以前の社会構成体では、こうした要素は国家によって上から管理・統合されている。交換様式Bがドミナントであるというのは、そのような意味である。
・交換様式Cがドミナントになるのが、資本制社会である。
 資本制社会では、商品交換が支配的な交換様式である。
 だが、それによって、他の交換様式およびそこから派生するものが消滅してしまうわけではない。他の要素は変形されて存続する。国家は近代国家として、共同体はネーションとして。
つまり、資本制以前の社会構成体は、商品交換様式がドミナントになるにつれて、資本=ネーション=国家という結合体として変形される。
(こう考えることによってのみ、ヘーゲルがとらえた『法の哲学』における三位一体的体系を、唯物論的にとらえなおすことができるという。さらに、それらの揚棄がいかにしてありうるかを考えることができるとする)
※マルクスが解明しようとしたのは、商品交換様式が形成する世界だけであった。それが『資本論』である。
だが、それは他の交換様式が形成する世界、つまり国家やネーションをカッコに入れることによってなされた、と柄谷行人氏は考えている。

<柄谷行人氏の試み>
〇異なる交換様式がそれぞれ形成する世界を考察するとともに、それらの複雑な結合としてある社会構成体の歴史的変遷を見ること。
〇さらに、いかにしてそれらを揚棄することが可能かを見届けること。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、8頁~18頁)

3権力のタイプ


3権力のタイプ
 さまざまな交換様式から生じる権力(power)について考えてみよう。
 権力とは、一定の共同規範を通して、他人を自分の意志に従わせる力である。
 まず共同規範には、三つの種類がある。
①共同体の法
②国家の法
③国際法

①共同体の法
 これは掟と呼んでもよい。
 これが明文化されることはほとんどないし、罰則もない。
 しかし、この掟を破れば、村八分にされるか追放されるので、破られることはめったにない。

②国家の法
 これは共同体の間、あるいは多数の共同体をふくむ社会における法だといってもよい。
 共同体の掟がもはや通用しない空間において、国家の法が共同規範として登場する。
 
③国際法
 国家間における法である。
 すなわち、国法が通用しない空間における共同規範である。
 
もう少し詳しくみてみよう。
①共同体の法
・権力のタイプもこうした共同規範に応じて異なる。
 重要なのは、こうした共同規範が権力をもたらすのではないということである。
 逆に、こうした共同規範は、一定の権力(パワー)なしには機能しない。
 通常、権力は暴力にもとづくと考えられる。だが、それが妥当するのは、国家の共同規範(法)に関してだけであると、柄谷氏は注意している。

・贈与することは、贈与された側を支配する。返済しないならば、従属的な地位に落ちてしまうからである。ここでは暴力が働いていない。
 むしろ、一見すれば無償的で善意にみちたものであるようにみえる。にもかかわらず、それは暴力的強制以上に他人を強く制する。
 大事なのは、互酬交換に一種の権力が付随するということである。

②国家の法
・共同体の外、あるいは、多数の共同体が存在する状態では、共同体の掟は機能しない。したがって、共同体を越えた共同規範(法)が必要となる。しかし、それが機能するには、強制する力が必要である。それは実力(暴力)である。
・ウェーバーは、国家権力は独占された暴力にもとづくといっている。
 しかし、たんなる暴力では共同規範を強制するような力とはなりえない。
 国家は、実際には、ある共同体が暴力をもって他の共同体を支配することにおいて成立する。が、それを一時的な略奪ではなく恒常的なものとするためには、この支配を、共同体を越えた共同規範にもとづくようにしなければならない。国家はそのときに存在する。
 (国家の権力は暴力に裏づけられているとはいえ、つねに法を介してあらわれるのである)

・共同体の掟を強いる力が互酬交換に根ざしているように、国家の法を強いる力も、一種の交換に根ざしている。そのことを最初に見出したのがホッブスであるという。彼は国家の根底に、「恐怖に強要された契約」を見た。
 このことは、国家の権力が、暴力的強制だけでなく、むしろ、それに対する(自発的な)同意によって成り立つことを意味している。
 重要なのは、国家の権力は、一種の交換様式に根ざしているということである。
③国際法
・国家間における法、すなわち国法が通用しない空間における共同規範は、いかにして存在するのか。
 ホッブスは、国家間は「自然状態」であり、それを越える法はない、という。
 しかし、現実には、国家間の交易がなされてきた。そして、この交易の現実から生まれてきた法がある。それがいわば「自然法」である。
 これを支えるものは、共同体や国家の力ではない。商品交換の中から生じてきた力(具体的には貨幣の力)である。

・商品交換は共同体と共同体の間に発生したことは、マルクスが強調した。
 そこで成立したのは、一般的等価物(貨幣)による交換である。これは、「商品世界の共同作業」(マルクス)の結果である。
 柄谷氏は、これを商品の間の社会契約だという。
 国家と法がなければ、商品交換は成り立たないが、国家は貨幣がもつような力をもたらすことはできない。
 貨幣は国家によって鋳造されるが、それが通用するのは、国家の力によってではなく、商品(所有者)たちの世界の中で形成された力による。
(国家あるいは帝国がおこなうのは、貨幣の金属量を保証することにすぎず、貨幣の力は、帝国の範囲を越えて及ぶ)

・商品交換は自由な合意による交換である。その点で、共同体や国家とは違っている。
 貨幣の力は、貨幣(所有者)が商品(所有者)に対して持つ権利にある。貨幣は、いつどこでもどんな商品とも交換できる「質権」をもつ。ゆえに、商品と違って、貨幣は蓄積することができる。
 貨幣を蓄積しようとする欲望とその活動、つまり、資本が発生する理由がある。
 貨幣による力は、贈与や暴力にもとづく力とは違っている。
(それは、他者を物理的・心理的に強制することなく、同意にもとづく交換によって使役することができる)
 この貨幣の力は、暴力にもとづく階級(身分)支配とは違った種類の階級支配をもたらす。


<ポイント>
・どの交換様式からもそれに固有の権力が生じるということ、そして、交換様式の差異に応じて権力のタイプもそれぞれ異なるということである。
 以上の三つのタイプの権力は、社会構成体が三つのタイプの交換様式の結合としてあるのと同様に、どんな社会構成体においても結合されて存在する。
・最後に、以上三つの力のほかに、第四の力を付け加えなければならない。
 それは交換様式Dに対応するものである。
 柄谷氏の考えでは、それが最初に出現したのは、普遍宗教においてであり、いわば「神の力」としてである。
 交換様式A・B・C、そしてそこから派生する力は執拗に存続する。
 人はそれに抵抗できない。ゆえに、それらを越えるべき交換様式Dは、人間の願望や自由意志によるよりもむしろ、それらを越えた至上命令としてあらわれる。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、18頁~23頁)

6社会構成体の歴史



6社会構成体の歴史
 交換様式という観点から、社会構成体の歴史を再考する。
 その出発点となるのは、マルクスが「資本制生産に先行する諸形態」で示した、社会構成体の歴史的諸段階である。
 ➡原始的氏族的生産様式、アジア的生産様式、古典古代的奴隷制、ゲルマン的封建制、資本制生産様式
 
 このような分類は、幾つかの条件を付け加えれば、今も有効だと、柄谷氏はみる。
①地理的な特定をとりのぞくこと。
②これらを歴史的な継起と発展の順序とみなさないこと
 【ヘーゲルとマルクスの捉え方】
 マルクスがいう歴史的段階は、ヘーゲルの「歴史哲学」を唯物論的にいいかえたものである。
ヘーゲルは、世界史を自由が普遍的に実現される過程としてとらえた。 
➡アフリカから、アジア(中国・インド・エジプト・ペルシア)を経て、ギリシア・ローマ、さらにゲルマン社会から近代ヨーロッパにいたるものである。
 (自由がまったくない状態から、一人だけが自由である状態、少数者が自由である状態、万人が自由である状態への発展である)
 一方、マルクスは、これを観念論的な把握であるとして、それを生産様式(生産手段を誰が所有するか)という観点から、世界史を見直そうとした。
➡原的共同体的生産様式、王がすべてを所有するアジア的生産様式、さらに、ギリシア・ローマの奴隷制、ゲルマンの封建制、資本制生産様式という順序が見出されるとした。
 マルクスが生産様式から見た歴史的段階は、表1のように定式化できる。
 【表1】
  政治的上部構造    下部構造(生産様式)
  無国家         氏族社会
  アジア的国家       王―一般的隷属民(農業共同体)
  古典古代国家       市民―奴隷
  封建的国家       領主―農奴
  近代国家         資本―プロレタリアート

【柄谷行人氏によりマルクス批判】
・マルクスは、アジア的農業共同体は氏族的共同体からできた最初の形態であり、それがアジア的国家の経済的下部構造であるという。
 しかし、アジア的農業共同体は、氏族社会の連続的発展として生じたものではない。
 それは、アジア的国家によって形成されたのであるとする。
 たとえば、大灌漑農業を起こしたのは国家であり、その下で農業共同体が編成された。
(それは氏族社会からの連続的発展でるかにみえるが、そうではない。むしろ、ギリシアやゲルマンの社会のほうに、氏族社会からの連続性が残っている)
 
・アジア的国家を初期的な段階と見るのはまちがいである。
 官僚制と常備軍をもったアジア的国家は、シュメールやエジプトにあらわれた。
(それはのちに、あるいは近代においてさえも、各地の国家がそれを実現するために長い年月を要したほどの完成度を示している)
 このような集権的な国家は、多数の都市国家の抗争を経て形成された。
 一方で、ギリシアでは、都市国家が統合されず、そのまま残った。
(それは、ギリシアが文明的に進んでいたからではなく、むしろ逆に、氏族社会以来の互酬性原理が濃厚に残っていたからだとする。それがギリシアに民主政をもたらした原因の一つであると、柄谷氏は考えている)

・これらの問題は、「生産様式」から見るかぎり、説明できないと批判する。
➡その観点からは、たとえば、ギリシアやローマに、特に歴史的に段階を画するほどの意義を見出しえない。
 ギリシアの民主政や文明を、奴隷制生産様式によって説明するのはおかしいという。
ギリシアの奴隷制はむしろ、ポリスの民主政、つまり、市民がたえず議会や兵役に参加する義務があるからこそ、不可欠となった。
 ゆえに先ず、いかにして民主政が成立したのかを問うべきである。そのためには、「交換様式」の視点が必要であると主張している。

・氏族的社会構成体、アジア的社会構成体、古典古代的社会構成体、ゲルマン的社会構成体は、歴史的段階として継起的にあったのではない。同時的に相互に関係しあうかたちで存在した。
➡柄谷氏は、この点、ウォーラーステインやチェース=ダンの「世界システム」という考えに従うという。
 チェース=ダンは、国家が存在しない世界をミニシステム、単一の国家によって管理されている状態を世界=帝国、政治的に統合されず、多数の国家が競合しているような状態を世界=経済と呼んで区別した。

〇この区別を、交換様式から見ると、つぎのようになる。
 ミニシステム(国家以前の世界システム)は、互酬原理にもとづくものである。
 世界=帝国は、交換様式Bが支配的であるような世界システムである。
 世界=経済は、交換様式Cが支配的であるような世界システムである。
※ここで念をおしておきたいのは、これらを規模で区別してはならないということである。
 たとえば、互酬原理にもとづく世界システムは一般に小さいが、イロクォイ族の部族連合を見れば、それが空間的に巨大なものとなりうる。
 ➡このことは、モンゴルの遊牧民が築いた巨大な帝国の秘密を説明するものでもある。
(それはローカルにはアジア的な専制君主でありながら、同時に、支配的共同体としては、部族間の互酬的な連合に依拠していた)

・マルクスがいうアジア的な社会構成体は、一つの共同体が他の共同体を制圧して賦役・貢納させる体制である。すなわち、交換様式Bがドミナントな体制である。
 それは、アジア的社会構成体には他の交換様式が存在しない、ということではない。
 アジア的社会構成体は、交換様式AとCが存在しながらも、交換様式Bが支配的であるような社会構成体であると、柄谷氏はみる。

 (もちろん、交換様式Bがドミナントな体制は、封建制や奴隷制をふくめて、さまざまである。それらの違いは、支配者共同体の間に、互酬的な原理が残っているかどうかにある。
➡それが残っていれば、集権的な体制を作ることが難しい。
 集権的な体制を確立するためには、支配階級の間にある互酬性をなくすことが不可欠である。
 それによって、中央集権と官僚制的な組織が可能になる。)

・つぎに、マルクスが古典古代的とかゲルマン的と呼ぶ社会構成体は、それぞれ奴隷制や農奴制にもとづいている。これも交換様式Bを主要な原理としている。
(サーミール・アミンは、封建制を貢納制国家の一変種として見ている)
 その点では、ギリシア・ローマ的社会構成体やゲルマン的社会構成体はアジア的な社会構成体と同じであるが、別の点では大きく違っている。
 それは支配者共同体の間に互酬原理Aがどの程度残っているかを見れば明らかであると、柄谷氏はいう。
 ギリシア・ローマでは、集権的な官僚体制が否定された。
(そのため、複数の共同体や国家を統一的に支配する集権的な体制が成立しなかった)
 それらが世界=帝国となったのは、アレクサンドロス三世(アレクサンダー大王)がそうであったように、アジア的な世界=帝国の型を継承することによってである。
 しかし、その後西ヨーロッパでは、世界=帝国はローマ教会という形式の下でのみ存在しただけである。実際上、多数の封建諸侯の争う状態が続いた。
 ここでは、交易を管理する強力な政治的中心が存在しないため、市場あるいは都市が自立性をもつようになった。
➡そのため、いわば世界=経済が発達した。

【ウォーラーステインとブローデルの見解】
・ウォーラーステインは、世界=経済は16世紀のヨーロッパから出現したと考えた。
 しかし、世界=帝国と世界=経済は必ずしも継起的な発展段階をなすものではない。
・ブローデルが注意したように、世界=経済はそれ以前にも、たとえば、古典古代の社会にも存在した。そこに、国家によって管理されない交易と市場が存在した。
➡それが、アジアの世界=帝国との決定的な違いである。
 ただ、こうした世界=経済は、単独で存在したのではない。それは、世界=帝国の恩恵を受けつつ、それが軍事的・政治的に囲い込めないような“亜周辺”に存在した。
➡西アジアを例にとる。
 メソポタミア・エジプトの社会が巨大な世界=帝国として発展したとき、その周辺の部族共同体は、それによって破壊されるか、ないしは吸収された。
 その中で、ギリシア諸都市やローマは都市国家として発展した。彼らは、西アジアの文明(文字・武器・宗教など)を受け入れながら、集権的な政治システムだけは受け入れず、氏族社会以来の直接民主主義を保持した。
 中心部に対して、そのような選択的対応が可能であったのは、そこから適度に離れた位置にあったからである。
(ウィットフォーゲルは、そのような地域を“亜周辺”と呼んだ)
 もし周辺のように近すぎるならば、専制国家に支配されるか吸収され、遠すぎるならば、国家や文明とは無縁にとどまるだろう。

【柄谷行人氏の見解】
〇ギリシアやローマが東洋的帝国の亜周辺に成立したとすると、いわゆる封建制(封建的社会構成体)は、ローマ帝国の亜周辺にあったゲルマンの部族社会において成立したものだということができる。
・もっと厳密に言えば、それはローマ帝国の崩壊後に、西アジアの世界=帝国を再建したイスラム帝国の亜周辺に位置した。
➡ヨーロッパがギリシア・ローマ文化を受け継いだのは、イスラム圏を通してである。
 その意味で、ギリシア・ローマからゲルマンへ、というヘーゲル的な継起的発展は、西洋中心主義な虚構にすぎないと、柄谷氏は批判している。

〇封建制を専制貢納国家から区別するのは、何よりも、支配階級の間に共同体の互酬原理が存続したことである。
 封建制は、主君と家臣の双務(互酬)的な契約によって成り立っている。
 主君は家臣に封土を与え、あるいは家臣を養う。そして、家臣は主君に忠誠と軍事的奉仕によって応える。この関係は双務的であるから、主人が義務を果たさないなら、家臣関係は破棄されてもよい。
(これはギリシア・ローマからの発展ではない。
 ここには、ギリシア・ローマでは消滅してしまった、氏族社会以来の互酬原理が残っている。 
 それが王や首長に絶対的な地位を許さない)
 ゲルマン人はローマ帝国やイスラム帝国の文明を受け継いだが、専制国家の官僚的ハイアラーキーを拒否した。
(これは世界=帝国の“亜周辺”にのみ可能な態度である。
これは西ヨーロッパ(ゲルマン)に限定されるものではなく、極東の日本にも封建制があった。日本人は中国の文明を積極的に受容しながら、アジア的な官僚制国家とそのイデオロギーは表面的にしか受け入れなかった)

・集権的な国家の成立を拒む封建制の下では、交易や都市が国家の管理を免れて発展することができた。
 具体的にいうと、西ヨーロッパでは都市が、教皇と皇帝の抗争、領主間の抗争の中でそれを利用して自立するにいたった。また、農業共同体においても、土地の私有化と商品生産が進んだ。
 ➡この意味で、封建制は、政治的な統制をもたない世界=経済のシステムをもたらすものである。ヨーロッパから資本主義的な世界システムが出てきた原因は、そこにあるとする。

以上を図示したのが、表2であるという。
 【表2】
社会構成体 支配的交換様式  世界システム
1 氏族的   互酬制A      ミニシステム
2 アジア的   略取―再分配B1  世界=帝国
3 古典古代的 略取―再分配B2
4 封建的    略取―再分配B3
5 資本主義的 商品交換C    世界=経済

(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、34頁~42頁)

7 近代世界システム


7 近代世界システム

・資本主義的な社会構成体とは、商品交換様式Cが支配的であるような社会である。
 これを一つの社会構成体の中からだけでなく、他の社会構成体との関係、すなわち世界システムからも見なければならない。
・まず、世界システムの観点から見ると、ヨーロッパの16世紀から発達した世界=経済が世界中を覆うようになると、旧来の世界=帝国およびその周辺・亜周辺という構造が存在できなくなる。
(ウォーラーステインがいうように、それにかわって成立するのが、世界=経済における、中心、半周辺、周辺という構造である。そこでは、旧来の世界=帝国も周辺部におかれてしまう)

・一国の経済を世界システムから離れて見ることができないように、国家もまた、世界システムを離れて単独で見ることはできない。
 近代国家は主権国家であるが、それは単独に一国内部であらわれたのではない。
 西ヨーロッパにおいて、主権国家は、相互に主権を承認することで成立するインターステート・システムの下で成立した。それを強いたのは世界=経済である。
・だが、それはまた、ヨーロッパによる支配を通して、それ以外の世界の変容を強いた。旧世界=帝国は、インカやアステカのように部族社会の緩やかな連合体である場合、部族社会に解体されて植民地化された。
 一方、旧世界=帝国は簡単に植民地化されなかった。しかし、最終的に、オスマン帝国のように多くのネーション=ステートに分節された。
(それを免れたのは、ロシアや中国のように、社会主義革命によって、世界=経済から離脱するような新たな世界システムを形成した場合である。)

☆このような変化を、一つの社会構成体の中で見てみよう。
・交換様式Cが支配的になるということは、他の交換様式が消滅することを意味しない。
 たとえば、それまで支配的であった略取―再分配的な交換様式Bは消滅したかのようにみえるが、たんに変形させられるだけである。
・それは近代国家というかたちをとるようになる。
西ヨーロッパでは、それは絶対王政として出現した。
 王はブルジョアジーと結託して、他の封建諸侯を没落させた。絶対王政は常備軍と官僚機構をそなえた国家をもたらした。
(これはある意味で、アジア的な帝国においてつとに存在したものをようやく実現したことになる)
 絶対王政においては、封建的地代は地租(税)に転化される。
⇒絶対君主によって封建的特権を奪われた貴族(封建領主)たちは、国家官僚として、地租を分配されるようになる。
 また、絶対王政は税の再分配によって、一種の「福祉国家」を装うようになる。こうして、略取―再分配という交換様式は、近代国家の核心において生きているという。

・絶対王政は、市民革命(ブルジョア革命)によって打倒された。
 だが、市民革命は、中央集権化という点では、それをいっそう推進した。
 絶対主義体制において対抗していた貴族・教会などの「中間勢力」(モンテスキュー)を滅ぼすことによって、商品交換原理を全面的に肯定する社会が形成された。
(しかし、旧来の交換様式が一掃されたわけではない。略取―再分配という交換様式が残っている。ただ、それは、国家への納税と再分配というかたちに変わった)
・王に代わって主権者の地位に立った「国民」は、現実には、彼らの代表者としての政治家および官僚機構の下に従属することになる。
 
※その意味で、近代国家は基本的にそれ以前の国家と異なるものではないが、次の点で異なる。
 アジア的であれ封建的であれ、旧来の国家では交換様式Bが支配的であったのに対して、近代国家では、それが支配的な交換様式Cの体裁をとるようになった。

☆一方、資本主義的社会構成体では、互酬的交換Aはどうなるか。
 そこでは、農業共同体は商品経済の浸透によって解体されるし、それと対応した宗教的共同体も解体される。
 ゆえに、Aは解消されてしまうが、別のかたちで回復されるといってよい。それがネーションである。
 ネーションは、互酬的な関係をベースにした「想像の共同体」(アンダーソン)である。
 それは、資本制がもたらす階級的な対立や諸矛盾を越えた共同性を想像的にもたらす。こうして、資本主義的な社会構成体は、資本=ネーション=国家という結合体(ボロメオの環)としてあるということができる。

以上が、マルクスが提示した社会構成体を、交換様式からとらえなおしたものであるという。

〇しかし、実は、これだけでは不十分である、と柄谷氏は批判している。
 もう一つの交換様式Dについて述べなければならないとする。
 それが交換様式Aの高次元での回復であり、資本・ネーション・国家を越えるXとしてあらわれる。
・が、それは一つの社会構成体の中で見たものでしかない。
 社会構成体はつねに他の社会構成体との関係においてである。
 (いいかえれば、世界システムの中にある)
 そして、交換様式Dは、複数の社会構成体が関係する世界システムのレベルでも考えられるべきである。
 というより、むしろそれは一つの社会構成体だけでは考えることができない。資本=ネーション=国家の揚棄は、新たな世界システムとしてのみ実現されるという。
・ミニ世界システムは交換様式Aによって、世界=帝国は交換様式Bによって、世界=経済(近代世界システム)は、交換様式Cによって形成されてきた。
 そのことがわかれば、それを越える世界システムXがいかにして可能であるかがわかる。
 それは、交換様式Aの高次元での回復によって形成される。
 具体的にいえば、それは軍事的な力や貨幣の力ではなく、贈与の力によって形成される。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、42頁~46頁)

〇柄谷氏の考えでは、カントが「世界共和国」と呼んだのは、そのような世界システムの理念である。
 以上を図示すると、図3のようになる。

【図3 世界システム】
世界=帝国 ミニ世界システム

世界=経済
(近代世界システム) 世界共和国

第1章以下では、次のような問題を論じている。
〇基礎的な交換様式を考察し、それらの接合としてある社会構成体と世界システムが、いかにして資本=ネーション=国家というかたちをとるにいたったか。
〇また、いかにしてそれを越えることが可能なのか。

その前に、幾つかのことを述べている。
・四つの基礎的な交換様式を、それぞれ別個に扱う。
 実は、それらは相関的であり、一つだけを切り離して扱うことができない。
 が、それらの連関を見るためには、それぞれが存立する位相を明確にしておく必要がある。
 マルクスは『資本論』において、他の交換様式をカッコに入れて、商品交換が形成するシステムを明らかにしようとした。柄谷氏は、それと似たことを、国家やネーションについておこなうという。
・その上で、国家、資本、ネーションなどがどう連関するかを見る。
 つまり、それらの基礎的な交換様式が歴史的にどのように連関するかを見る。
 その場合、これを四つの段階に分けて考察するという。
➡国家以前のミニ世界システム、資本制以前の世界=帝国、資本制以後の世界=経済、さらに、現在と未来の四つである。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、46頁)

序説の最後で、「私がここで書こうとするのは、歴史学者が扱うような世界史ではない」と、柄谷氏は断っている。
 柄谷氏が目指すのは次のようなことであるという。
〇複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明すること。
〇それはまた、世界史に起こった三つの「移行」を構造論的に明らかにすることである。
〇さらに、そのことによって、四つめの移行、すなわち世界共和国への移行に関する手がかりを見出すことである。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、47頁)

ここから序説以外


第1部第1章 定住革命


第1部第1章 定住革命
3 成層化
・贈与の互酬によって、共同体は他の共同体との間にある「自然状態」を脱し、平和状態を創出する。
※国家も自然状態の克服であるが、贈与によって得られる平和は、それとは根本的に異なっている。贈与によって上位共同体が形成されるのである。それは、国家の下で組織される農業共同体とは異質である。
・互酬によって形成される高次の共同体は、国家が農業共同体を統合・従属させるのと違って、下位共同体を統合・従属させるものではない。
 部族社会では、たとえ上位の共同体が形成されても、下位の共同体の独立性は消えない。
 その意味で、部族内部にも敵対性が残りつづける。このため、贈与は、他の共同体との間に友好的関係を築くものであると同時に、しばしば競争的なものとなる。

・贈与の互酬は、クラ交易が示すように、多数共同体の連合体、いわば「世界システム」を形成する。
 こうした連邦は固定したものではなく、つねに葛藤をはらんでいるから、時折新たな贈与の互酬によって再確認されなければならない。
 互酬によって形成される共同体の結合は環節的である。
 つまり、上からそれを統治するような組織、すなわち、国家にはならない。
※こうした部族連合体の延長に、首長制国家(chiefdom)を置くことができる。それは国家のすぐ手前にある。
しかし、ここでもあくまで国家に抗する互酬の原理が働く。国家が出現するのは、互酬的でない交換様式が支配的になるときである。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、63頁~65頁)

4 定住革命


・互酬性を、中核において共同寄託的であり、周辺において否定的互酬的であるような空間的配置においてとらえた(サーリンズの見解)。
 これを時間的な発展という軸に置き換えるとどうなるか。
 共同寄託的なバンド集団が始原にあり、そして、それらが互いに互酬的な関係を結び、その社会を成層的に広げてきた、ということができる。

☆問題は、なぜいかにして、そのような変化が生じたのか、である。
・バンド社会は共同寄託、つまり、再分配による平等を原理とする。
 これは狩猟採集の遊動性と不可分離である。
 ⇒彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することができない。
  ゆえに、それを私有する意味がないから、全員で均等に分配してしまう。あるいは、客人にも振る舞う。
これは純粋贈与であって、互酬的ではない。
 (収穫物を蓄積しないということは、明日のことを考えないということである。また、昨日のことを覚えていないということである)
※遊動的なバンド社会では、遊動性(自由)こそが平等をもたらすのである。

・贈与とお返しという互酬が成立するのは、定住し蓄積することが可能になったときからであるという。
 では、なぜ彼らは定住したのか。
<注意>
・それを考えるとき、一つの偏見を取り除く必要があるとする。
 つまり、人が本来、定住する者であり、条件に恵まれたら定住する者だという偏見である。
 たとえば、食料が十分にあれば定住するかといえば、そうではない。
 それだけでは、霊長類の段階から続けてきた遊動的バンドの生活様式を放棄するはずがない。 
 定住を嫌ったのは、さまざまな困難をもたらすからであるらしい。
<定住にまつわる困難>
①バンドの内と外における対人的な葛藤や対立である。遊動生活の場合、たんに人々は移動すればよい。
 ところが、定住すれば、人口増大とともに増える葛藤や対立を何とか処理しなければならない。
⇒多数の氏族や部族を、より上位の共同体を形成することによって、環節的に統合すること、
 また、成員を固定的に拘束することが必要となる。
②対人的な葛藤はたんに生きている者との間にあるだけではない。定住は、死者の処理を困難にする。
 アニミズムでは、死者は生者を恨む、と考えられる。
 遊動生活の場合、死者を埋葬して立ち去ればよかった。
 しかし、定住すると、死者の傍で共存しなければならない。それが死者への観念、および死の観念そのものを変える。
 定住した共同体はリニージにもとづき、死者を先祖神として仰ぐ組織として再編成される。 
  こうした共同体を形成する原理が互酬交換である、という。
⇒このように、定住は、それまで移動によって免れた諸困難に直面させる。
 
☆とすれば、なぜ狩猟採集民があえて定住することになったのか。
 この点、根本的には気候変動のためだ、と柄谷氏は考えている。
 人類は氷河期の間、熱帯から中緯度地帯に進出し、数万年前の後期旧石器時代には、高緯度の寒帯にまで広がった。これは大型獣の狩猟を中心にしたものである。
 しかし、氷河期の後の温暖化とともに、中緯度の温帯地域に森林化が進んで、大型獣が消え、また採集に関しては、季節的な変動が大きくなった。
 そのとき、人々は向かったのは漁業である。
 ⇒漁業は、狩猟と違って、簡単に持ち運びできない漁具を必要とする。ゆえに、定住するほかなかったようだ。
 おそらく、最初の定住地は河口であったと考えられている。

・また、定住は、意図しなかった結果をもたらしている。
 たとえば、簡単な栽培や飼育は、定住とともに、ほとんど自然発生的に生じた。
 栽培に関しては、人間が一定の空間に居住すること自体が、周辺の原始林を食料となる種子をふくむような植生に変える。定住によって栽培が採集の延長として始まるように、狩猟の延長として、動物の飼育が生じる。
 ⇒この意味で、定住こそが、農耕・牧畜に先立っているとする。
※こうした栽培・飼育は、「新石器革命」に直結しなかった。
 しかし、定住は、ある意味で、新石器革命以上に重要な変化をもたらした、と柄谷氏は考える。それが、互酬原理による氏族社会であるという。

【定住と女性の地位の問題】
・定住は、女性の地位に関しても、問題をもたらしたようだ。 
 狩猟採集民は、定住すると、事実上、漁労や簡単な栽培・飼育によって生きるようになるが、
狩猟採集以来の生活スタイルを保持した。つまり、男が狩猟し女が採集するという「分業」が続いた。
 しかし、実際には、男の狩猟は儀礼的なものにすぎない。定住化とともに、必要な生産はますます女によってなされるようになる。
 だが、このこと女性の地位を高めるよりもむしろ、低下させたとみる。
 (何も生産せずに、ただ象徴的な生産や管理に従事する男性が優位に立った)

(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、65頁~72頁)



第1部第2章 贈与と呪術


第1部第2章 贈与と呪術
3 移行の問題
〇定住によって遊動的バンド社会から氏族社会への移行が生じた、と柄谷氏は考えている。
 疑問は、なぜ定住から国家社会に移行したのかではなく、なぜ氏族社会に移行したのかということにある。
いいかえれば、なぜ戦争・階級社会・集権化ではなく、平和・平等化・環節的社会への道がとられたのかということ。
※このようなコースをとられる必然はなかった。現にそうであったから、必然だと思われているにすぎない。むしろ、定住化から階級社会、そして、国家が始まることのほうが蓋然性が高いともいえる。
 だから、氏族社会の形成を、国家形成の前段階としてではなく、定住化から国家社会への道を回避する最初の企てとして見るべきである、と柄谷氏は考えている。
(そのかぎりで、氏族社会はたんなる“未開”ではなく、或る未来の可能性を開示するものである)

〇この問題に関して、フロイトの『トーテムとタブー』(1912年)が重要である、と柄谷氏は主張している。
・フロイトが考えたのは、トーテムというよりもむしろ、未開社会における「兄弟同盟」がいかにして形成され維持されるのかという問題である。
・フロイトは、部族社会における氏族の平等性・独立性がいかにして生じたかという問題について、その原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見出そうとした。これは、エディプス・コンプレクスという精神分析の概念を人類史に適用するものである。
⇒その際、フロイトは当時の学者の意見(特にダーウィン、アトキンソン、ロバートソン・スミス)を参照し、その理論を借用している。
※ただし、今日の人類学者は、このような理論を斥けている。古代に「原父」のようなものは存在しない。そのような原父は、むしろ専制的な王権国家が成立したのちの王や家父長の姿を、氏族社会以前に投射したものだというべきであるとする。

・だが、フロイトの「原父殺し」および反復的儀式という見方の意義が無くなることはない、と柄谷氏は考えている。フロイトは、氏族社会の「兄弟同盟」システムが、なぜいかにして維持されているのかを問うたのだという。

【柄谷氏の解説と批判】
・遊動的バンド社会において、「原父」のようなものは存在しなかった。むしろ、バンドの結合も家族の結合も脆弱であった。(この意味で、フロイトが依拠した理論はまちがっている。)
・しかし、定住化とともに、不平等や戦争が生じる可能性、つまり、国家=原父が形成される可能性は確かにあったのである。
 が、それを抑制することによって、氏族社会=兄弟同盟が形成された。
⇒こう考えると、フロイトの説明は納得がいくという。
 それは氏族社会がなぜ国家に転化しないかを説明するものである。いわば、氏族社会は、放っておくと必ず生じる「原父」を、たえずあらかじめ殺しているのだ。その意味で、原父殺しは経験的に存在しないにもかかわらず、互酬性によって作られる構造を支えている「原因」なのであるとする。

・フロイトは未開社会のシステムを「抑圧されたものの回帰」として説明した。
 一度抑圧され忘却されたものが回帰してくるとき、それはたんなる想起ではなく、強迫的なものとなるという。
 氏族社会に関するフロイトの理論では、回帰してくるのは殺された原父である。しかし、柄谷氏の考えでは、回帰してくる「抑圧されたもの」とは、定住によって失われた遊動性(自由)であるという。それは、なぜ互酬性原理が強迫的に機能するかを説明する。

〇マルクスは生産様式から社会構成体の歴史を考えた。
 生産様式から見るとは、いいかえれば、誰が生産手段を所有するかという観点から見ることである。
 マルクスのヴィジョンは、原始共産主義では共同の所有であり、それが階級社会では、生産手段を所有する支配階級とそうでない支配階級の間に「階級闘争」があり、最終的に共同体所有が高次元で回復されるということになる。
 ※この観点では、遊動的段階の社会と定住的氏族社会が区別されていない、と柄谷氏は批判している。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、85頁~89頁)

第2部第1章 国家


第2部第1章 国家
5 アジア的国家と農業共同体
・マルクスは、アジア的共同体を「全般的隷従制」と呼んだ。
 それは、奴隷制でも農奴制でもない。
 各人は自治的な共同体の一員である。
 だが、その共同体全体が王の所有である。
 人々は共同体の一員であることによって拘束される。
・ゆえに、共同体の自治を通じて、国家は共同体を支配することができる。
・したがって、国家と農業共同体はまったく別のものであるが、分離して存在するのではない。

〇農業共同体とは専制的国家によって枠組を与えられた「想像の共同体」である。
・それは近代のネーションと同様に、集権的国家の枠組が先行することなしにありえない。
・アジア的専制国家は、いわば、専制国家=農業共同体という接合体として存在する。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、119頁)

<アジア的専制国家に対する誤解>
①奴隷制とまちがえる
 アジア的国家では、大衆は残虐に扱われたわけではなく、手厚く保護された。
(たとえば、ピラミッドの工事は、失業者対策、政府による有効需要創出政策としてなされた。ケインズが注目。『雇用、利子および貨幣の一般理論』)
②アジア的国家は、統治のすみずみまで及ぶ強固な専制的体制だという見方
・王権を確保するために、宗教、姻戚関係、封による主従関係、官僚制などが用いられる。
 その結果、神官・祭司、豪族、家産官僚らが、王権に対抗する勢力となる。さらに、内部の混乱を見て、外から遊牧民が侵入してくる。こうして、王朝は崩壊する。その後に、再び、王朝が形成される。
(⇒「アジア的諸国家の絶え間なき崩壊と再建、および休みなき王朝の交替」(マルクス))

※「休みなき王朝の交替」にもかかわらず不変的なのは、なぜか?
 ⇒アジア的な農業共同体であるよりもむしろ、専制国家の構造そのものにある。
  形式的には集権的な国家として完成された形態、つまり官僚制と常備軍というシステムにある。
(真に永続的なのは、農業共同体よりも、それを上から統治する官僚制・常備軍などの国家機構である)
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、119頁~122頁)



☆なぜギリシアやローマで、専制国家の体制ができなかったのか。
 それはギリシアやローマが社会として「進んだ」段階にあったからではない。
 その逆に「未開」であったからである、と柄谷氏は理解する。
 つまり、晩年のマルクスが注目したように、ギリシア・ローマの都市国家では、支配共同体(市民)の間に、集権的な国家に抗する氏族社会の互酬原理が強く残ったからである。
 そのため集権的な官僚的体制が作られなかった。
 また、国家が管理しない市場経済が発展した。しかし、そのことはまた、彼らが、征服した共同体を農業共同体として再編するような専制国家の統治、あるいは、征服した多数の国家・共同体を組み込む帝国の統治ができなかったこととつながっている。
(もちろん、ローマは最終的に広大な帝国となったが、それはむしろ、アジアの帝国システムを基本的に受け継ぐことによってである。)
 ゆえに、アジアに出現した専制国家を、たんに初期的なものとしてではなく、広域国家(帝国)として(形式的には)完成されたものとして考察すべきであるという。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、122頁~123頁)

<柄谷氏によるマルクス批判>
・マルクスはギリシア・ローマの社会構成体を「奴隷制生産様式」から説明しようとした。
 しかし、ギリシア・ローマにアジア的専制国家とは異なる画期的な特質を見るのであれば、それを奴隷制生産から説明することはできない、と柄谷氏は批判している。
・アジア的専制国家(世界=帝国)がとったのは、他の国家や共同体に賦役貢納を課すが、その内部に介入しないという支配の仕方である。そこにも奴隷はいたが、「奴隷制生産」のようなものはなかった。
 一方、ギリシア・ローマでは、賦役貢納国家の方向に向かわず、国家官僚に管理されない、市場と交易が発達したのである。
 ギリシア・ローマに特有の奴隷制生産は、そのような世界=経済がもたらした結果である。
 したがって、重要なのは、ギリシア・ローマにおいて、なぜいかにして世界=経済が発展したのかを問うことである、と柄谷氏は主張している。

〇ギリシア・ローマに生じた現象は「亜周辺」に特徴的なものである。
 たとえば、ギリシアの場合、先行するミュケナイ文明は「周辺的」であった。つまり、エジプト的な集権的国家の影響下にあった。
・ところが、ギリシア人は「亜周辺的」であった。
彼らは、西アジアから鉄器の技術を受け入れ、また、シュメールの楔形文字からフェニキア人が発展させた文字を受け入れたが、帝国中枢の政治システムだけは受け入れなかった。逆に、その結果として、彼ら自身、世界=帝国を築こうとしても築けなかった。
(そもそもアテネもスパルタも、ギリシアの多数のポリスを統合することさえできなかった)
・つぎに、ローマはギリシアのポリスと同様の都市国家であったが、征服した都市国家や部族の有力者を市民として組み込むことによって、また、普遍的な法による支配を通して、版図を広げた。
(つまり、ポリスの排他的な共同体原理を抑制することによって、世界=帝国を形成しえた)
 だが、ローマはポリスの原理を全面的に放棄することができなかった。
⇒ローマ帝国の根底には、ポリスと帝国の原理的相克が存在し続けた。

※ローマ帝国は、それまでのペルシア帝国の版図をさらに越え、西ヨーロッパをふくむ史上最大の帝国となった。しかし、ローマ帝国に注目するのは、そのためではない。
 ⇒それがポリスと帝国の原理的相克を最も明瞭に示すからである。
☆この問題は、近代においてネーション=ステートと、帝国主義・地域主義の問題として反復される。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、175頁~177頁)

<柄谷氏による注目すべき見解>
・古代ギリシアというと、一般にアテネが中心とみなされる。しかし、ギリシアの文明を真にユニークにしたのは、アテネではなく、イオニアの諸都市であるという。
 海外交易の拠点となったイオニア諸都市では、商工業が発展した。そこには、エジプト、メソポタミア、インドなどアジア全域の科学知識、宗教、思想が集積された。
しかし、彼らがけっして受け入れなかったのが、アジア的専制国家で発達したシステム、すなわち、官僚制、常備軍ないし傭兵である。
 通貨の鋳造を開始したイオニアの人々は、アジアの専制国家のように国家官僚による価格統制を行わず、それを市場に任せた。
 価格の決定を、官僚ではなく市場に任せたということが、アルファベットの改良とならんで、ギリシアの民主政をもたらした要因だとする。それらはすべてイオニアで開始された。
(ホメロスの叙事詩が書かれ且つ普及したのも、イオニアにおいてである)

・一般に民主政はアテネに始まり、他のポリスに広がったと見なされている。しかし、それは本来、イオニアに始まった原理にもとづいている、と柄谷氏はいう。
 それは、民主主義ではなく、イソノミアと呼ばれていた。
 柄谷氏によれば、イソノミアという原理は、イオニアに始まり、他のポリスに広がった。
 その原理は、植民者によって形成されたイオニア諸都市に見出される。
 というのも、そこでは植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たに盟約共同体を創設することができたからであるという。
(それに比べると、アテネやスパルタのようなポリスは、従来の部族の(盟約)連合体としてできたため、旧来の氏族の伝統を濃厚に留めたままであった。それがポリスの中の不平等、あるいは階級対立として残った)

※アテネにおける民主主義は、多数者である貧困者が少数の富裕階級を抑え、再分配によって平等を実現することである。しかし、イソノミアとは、自由であることが平等であるような原理である。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、179頁~182頁)

第2部第1章 国家


「第2部第1章 国家 6 官僚制」では次のようなことが述べてある。

6 官僚制


・古代文明は、大河川流域に発生し、大規模な灌漑農業をもっていた。
 したがって、マルクスは東洋的専制国家を灌漑農業と結びつけた。
 ウェーバーもまた、つぎのようにいっている。
「官僚制化の機縁を与えるものとしては、行政事務の範囲の外延的・量的な拡大よりも、その内包的・質的な拡大と内面的な展開との方が、より重要である。この場合、行政事務の内面的発展の向う方向とこの発展を生み出す機縁とは、極めて種々さまざまでありうる。官僚制的国家行政の最古の国たるエジプトにおいては、書記や官僚の機構を作り出す機縁をなしたのは、上から全国的・共同経済的に治水をおこなうことが、技術的・経済的にみて不可避的であったという事情である。(下略)」
(ウェーバー『支配の社会学』Ⅰ、世良晃志郎訳、創文社、88~89頁)

<ウィットフォーゲルの見解>
〇マルクスとウェーバーの観点を受け継いだのが、ウィットフォーゲル
・東洋的専制国家が大規模な灌漑農業を通して形成されたと考えた。
・さらに、地理的な限定をとりのぞいて、それを「水力社会」と命名した。
(このような考えに関して、専制国家と灌漑農業は必然的な結びつきがないという批判がある。また、ロシアのように灌漑農業をもたない地域にも専制国家が成立しているという批判がある。)
・ウィットフォーゲル自身がその後に、ロシアのように「水力的」でない地域に専制国家ができた理由を説明しようとして、それを外からの影響に求めた。ロシアには、モンゴルによる支配を通して、アジア的な専制国家が導入されたという。

※この点に関して、柄谷氏は次のように考えている。
・このこと自体、専制国家が灌漑農業とは別個に考える必要がある。
 「水力社会」が実現した「文明」とは、自然を支配する技術である以上に、むしろ人間を統治する技術、すなわち国家機構、常備軍・官僚制、文字や通信のネットワークである。
 ゆえに、それは灌漑と縁がないような他の地域(たとえばモンゴルの遊牧民)にも伝えられた。人間を統治する技術が、自然を統治する技術に先行した。

☆官僚制はどのようにできたのか。
 巨大な土木事業から官僚制が発達したのは確かであるが、考えるべきなのは、そのような工事に従事する人間はどこから来たのか、また、それらを管理する官僚はどこから来たのか、であるとする。
・氏族社会の人々は従属的な農民となることを嫌う。遊牧民も同様。
 ⇒彼らは支配者となっても、官僚になることを嫌い、戦士=農民にとどまろうとする。
 ※ギリシアのポリスで官僚制がまったく発達しなかったことはその一例。
  ローマでは、官僚制がないために、私人に租税徴収を請け負わせた。
 ゆえに、人がすすんで官僚になることはない、と考えなければならない。

<ウェーバーの見解>
・ウェーバーは、エジプトの官僚は、事実上、ファラオの奴隷であり、ローマの荘園領主は、直接の現金出納を奴隷に託していた、という。
 その理由として、「奴隷に対しては拷問を用いえたからである」という。
 アッシリアでは、官僚の多くが宦官(かんがん)であった。
※この点、柄谷氏は次の点を指摘している。
 それは、互酬的な原理にもとづく共同体の成員の場合、官僚制はありえないということを意味している。(いいかえれば、官僚制は、王と臣下の間に互酬的な独立性が全面的に失われたときに生まれた)
 
・ウェーバーによれば、その後に、官僚制は保証された貨幣俸給制にもとづくようになる。
 その意味で、貨幣経済の完全な発展が、官僚制化の前提条件である、とウェーバーはいう。
 貨幣俸給制によって、官僚は、偶然や恣意のみに左右されない昇進のチャンス、規律と統制、身分的名誉感情をもつようになる。
 さらに、官僚は、頻繁に替わる支配者(王権)に代わって、実質的に国家の支配階級となる。
 だが、官僚は根本的には「奴隷」なのであり、それゆえに主人となる。専制的な君主は、官僚なしには何もできないから。
(ヘーゲルのいう「主人と奴隷」の弁証法は、ここに見出される)

・もう一つ、官僚制の基盤は文字にある。
 文字は、多数の部族や国家を統治する帝国の段階において不可欠のものとなった。文字言語から標準的な音声言語が作られた。
⇒シュメールにおいてもそうであったが、エジプトでは、複数の複雑な文字体系を習得することが、官僚の必要条件であった。
(官僚の「力」は、何よりも文字を知っていることになる)

<柄谷行人氏の補足説明>
・過去および現在の文献を読み書きできないならば、国家的統治はできない。
 中国において、官僚制が連綿として続いたのは、それが何よりも漢字・漢文学の習得を必要としたからである。
・古代中国で専制国家の形態が完成されたのは、漢王朝においてである。
 それ以後、遊牧民による征服が幾度も起こった。しかし、征服王朝はそれまであった国家官僚機構を破壊せず、その上に乗っかっただけであった。
 度重なる征服は、逆に、国家機構を氏族・部族の共同体的紐帯から切れた、中立的なものとする方向に向かわせた。
・8世紀、隋王朝から始まった官僚の選抜試験制度、すなわち、科挙は、官僚制を、どんな支配者(王朝)にも仕えるような独立した機関たらしめた。
 それは、「絶え間なき崩壊と再建、および休みなき王朝の交替」にもかかわらず、モンゴルが支配した一時期をのぞいて、20世紀にいたるまで存続した。
⇒中国で始まった科挙と文官支配は、その周辺国家(朝鮮・ベトナム)でも受け入れられた。
 高麗王朝は、10世紀に科挙制度と文官支配を確立した。
 しかし、日本では、中国の諸制度をことごとく受け入れたにもかかわらず、官僚制度だけはまったく根づかなかった。基本的に戦士的な文化が保持された。(513頁注(18))
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、123頁~127頁、513頁注(18))



第2部第3章 世界帝国


第2部第3章 世界帝国 5 封建制

5 封建制


※マルクスが「アジア的」、「古典古代的」、「封建的」と区別したものが、継起的段階ではなく、世界=帝国という空間における位置関係として見られることがわかる、と柄谷氏は理解している。(198頁~199頁)

a ゲルマン的封建制と自由都市(193頁~198頁)
・ゲルマン的封建制とは、一言でいえば、誰も絶対的な優位に立ちえない多元的な状態である(198頁)
・王、貴族、教会、都市らが、たえず対立し連合した。
 したがって、封建制はつねに戦争状態としてあった。
 王や諸侯たちの戦争による分散化・多中心化が、統一的な国家の形成を妨げた。
 ⇒そこから、王が絶対的な主権を握ったのが、15・16世紀の絶対主義王権国家である。
  王は封建諸侯を制圧し、常備軍と官僚機構を確立した。
※これはある意味で、すでに東洋的な専制国家においてあったものを実現することだった。
※絶対主義王権が東洋的専制国家と異なる点
 ⇒商品交換(交換様式C)を抑えるどころか、その優位を確保し促進することによって成立したということ。
(それが結局ブルジョア革命にいたるのは当然)

〇封建制は、それ以後に資本主義の発展と西ヨーロッパの優位に帰結したため、何か西ヨーロッパに固有の原理のように思われている。
 しかし、ギリシアやローマの特性がエジプトなどオリエントの帝国の亜周辺に位置したことから来ているのと同様に、西ヨーロッパの封建制もローマ帝国、さらにイスラム帝国の亜周辺に生じた現象であると捉える。
 つまり、このような特性は、「オキシデント」一般の特徴ではなく、中核、周辺、亜周辺という位置と関係にもとづくものだというべきである。

〇そのことは、東アジアの日本の封建制を例にとることで明らかになるという。
 マルクスもウェーバーも日本に封建制が成立したことに注目した。
 (この場合の封建制は、人的誠実関係、すなわち、主人と家臣の間の封土-忠誠という相互的な契約関係にもとづく体制を意味する。
  アナール学派のマルク・ブロックやブローデルもこの事実に注意を払った)
 しかし、柄谷氏の見るかぎり、なぜそれがありえたのかを説得的に説明したのは、ウィットフォーゲルだけであるという。(ウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム』
 ウィットフォーゲルは、日本の封建制を、中国の帝国に対して亜周辺に位置したことから説明した。

<「周辺」の朝鮮と「亜周辺」の日本との相違>
・中国の「周辺」である朝鮮においては、中国の制度が早くから導入されていたが、島国の日本ではそれが遅れていた。
 日本で、中国の制度を導入して律令制国家が作られたのは7世紀から8世紀にかけてである。
 しかし、それはかたちだけで、国家の集権性は弱かった。
 ⇒導入された官僚機構や公地公民制は十分に機能しなかった。
  そのような国家機構の外部に(とりわけ東国地方で)、開墾による土地の私有化と荘園制が進んだ。
 そこに生まれた戦士=農民共同体から、封土-忠誠という人格関係にもとづく封建制が育ち、旧来の国家体制を侵食しはじめた。
 13世紀以後、武家の政権が19世紀後半まで続いた。

・一方、その間、朝鮮では、中国化がますます進み、10世紀には高麗王朝で科挙(官僚の試験選抜制度)が採用された。
 文官の武官に対する圧倒的優位が確立された。以来、官僚制は20世紀まで続いた。
 
・しかし、日本では、すべてにおいて中国を範と仰いでいたにもかかわらず、科挙は一度も採用されなかった。
 文官を嫌う、戦士=農民共同体の伝統が強く残った。
 とはいえ、古代の天皇制と律令国家の体制はかたちの上で残され、権威として機能しつづけた。
(それは、封建的国家が、旧来の王権を一掃するかわりにそれを崇めることで、正統性を確保したからである。それが可能だったのは、外部からの征服者がいなかったせいでもある)

※だが、このように旧来の権威を利用することは、封建制的な要素を抑制することになる。
 すなわち、そこにあった双務的(互酬的)な関係を弱めてしまう。
 マルク・ブロックは、日本の封建制がヨーロッパのそれと酷似するにもかかわらず、そこに「権力を拘束しうる契約という観念」が希薄である理由を、「日本では[国家と封建制という]二つの制度は相互に浸透することなく併存していた点に見出している。

・16世紀の戦国時代を経て覇権を握った徳川幕府は、朝鮮王朝から朱子学を導入し、集権的な官僚体制を作ろうとした。さらに、幕府の正統性を、古代からの天皇制国家の連続性の下に位置づけた。
 ゆえに、徳川時代において、封建制よりも集権的な国家の側面が強まったことは確かである。
 しかし、事実上、封建的な体制と文化が維持された。
 (たとえば、武士には「敵討ち」の権利と義務が与えられた。国家の法秩序とは別に、主君との人格的な忠誠関係が重視された。官僚であるよりも、戦士(サムライ)であることに価値が置かれた。別の観点からいえば、理論的・体系的であるよりも、美的あるいはプラグマティックであることに価値がおかれた)

※このように、帝国に発する文明を選択的にしか受け入れないということは、日本の特徴というよりもむしろ、亜周辺に共通した特徴である。
 たとえば、同じ西ヨーロッパの中でも、ローマ帝国に対する関係という面から見て、「周辺的」と「亜周辺的」の違いが存在する。
 フランスやドイツがローマ帝国以来の観念と形式を体系的に受け継ごうとする「周辺的」傾向があったのに対して、イギリスは「亜周辺的」であった。そこでは、より柔軟、プラグマティック、非体系的、折衷的な態度がとられてきた。
 ⇒イギリスは、大陸に向かわず、「海洋帝国」を築き、近代世界システム(世界=経済)の中心となったのは、そのためである、と柄谷氏は考えている。
 (柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、198頁~202頁)
 

第4部第1章 世界資本主義の段階と反復


第4部第1章 世界資本主義の段階と反復

<歴史家ウォーラーステイン氏と柄谷行人氏の考え>
・重商主義、自由主義、帝国主義などを、近代世界システム(世界資本主義)におけるヘゲモニーの問題としてとらえた。つまり、国家を能動的な主体として、歴史家ウォーラーステインは導入した。
・自由主義とはヘゲモニー国家がとる政策である。
 ゆえに、それは19世紀半ばの一時期に限定されない。実際、その他の時期にもあった。
 ただ、ウォーラーステインの考察によれば、そのようなヘゲモニー国家は近代の世界経済の中に三つしかなかった。オランダ、イギリス、そしてアメリカ(合衆国)である。
・オランダは、ヘゲモニー国家として自由主義的であった。
 その間(16世紀後半から17世紀半ばまで)は、イギリスは重商主義(保護主義的政策)をとっていた。
 オランダは政治的にも絶対王政ではなく共和政であり、イギリスよりはるかに自由であった。
(たとえば、首都アムステルダムはデカルトやロックが亡命し、スピノザが安住できたような、当時のヨーロッパで例外的な都市であった)

・ウォーラーステインは、ヘゲモニーの交代はつぎのようなパターンで生じる、という。
≪農=工業における生産効率の点で圧倒的で優位に立った結果、世界商業の面で優越することができる。こうなると、世界商業のセンターとしての利益と「見えない商品」、つまり、運輸・通信・保険などをおさえることによってえられる貿易外収益という、互いに関係した二種類の利益がもたらされる。こうした商業上の覇権は、金融部門での支配権をもたらす。ここでいう金融とは、為替、預金、信用などの銀行業務と(直接またはポートフォリオへの間接の)投資活動のことである≫
(ウォーラーステイン『近代世界システム 1600-1750』川北稔訳、名古屋大学出版会、45頁~46頁)

※このように国家は、生産から商業、さらに、金融という次元に進んでヘゲモニーを確立する。
 しかし、ヘゲモニーは実にはかないもので、確立されたとたんに崩壊し始める。と同時に、生産においてヘゲモニーを無くしても、商業や金融においてヘゲモニーは維持される。

・オランダは製造業においてイギリスに追い抜かれた18世紀後半になっても、流通や金融の領域ではヘゲモニーをもっていた。
 イギリスが完全に優越するようになったのは、ほとんど19世紀になってからである。それが、「自由主義」段階と呼ばれる時期である。
 ただ、自由主義はヘゲモニー国家の政策である。世界資本主義においてイギリスが覇権をもった時期を自由主義と呼ぶなら、オランダが覇権をもった時期もそう呼ぶべきである。
 他方、重商主義とは、ヘゲモニー国家が存在しない時期、すなわち、オランダがヘゲモニーを失い、イギリスとフランスがその後釜を狙って戦った時期である。
 1870年以後の帝国主義と呼ばれる段階も、それと同様である。
 それはイギリスが製造業においてヘゲモニーを失い、他方、アメリカとドイツ、日本などがその後釜を狙って争い始めた時期である。
 このため、重商主義的な段階と帝国主義段階は類似してくる。
 (柄谷氏は、それらを「帝国主義的」と呼ぶことにしている)
 そこで、世界資本主義の諸段階は、表1のようになる。
⇒このように見ると、世界資本主義の諸段階は、資本と国家の結合そのものの変化としてあらわれること、
また、それはリニアな発展ではなく、循環的なものであることがわかる。

・たとえば、表1で「重商主義」(1750-1810年)と呼ぶものは、たんにイギリスがとった経済政策あるいは経済的段階ではない。それは、オランダによる自由主義からイギリスの自由主義にいたるまでの過渡的段階、つまり、オランダが没落しつつあった一方、イギリスとフランスがそれにとってかわろうと熾烈な抗争を続けた「帝国主義的」な段階を意味する。
・同様に、1870年以降の帝国主義とは、たんに金融資本や資本の輸出によって特徴づけられる段階ではなく、ヘゲモニー国家イギリスが衰退する中で、ドイツやアメリカ、そして日本が台頭して争った時代である。
(帝国主義戦争は、新興勢力が「重商主義」時代に獲得された英仏蘭の領土を再分割しようとするものであった。)

※かくして、世界資本主義の段階は、一方で、生産力の高度化によってリニアな発展をするともに、他方で、「自由主義的」な段階と「帝国主義的」な段階が交互に続く、というかたちをとる。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、437頁~438頁)

<柄谷行人氏の見解>
〇こうした諸段階は、それぞれ「世界商品」と呼ぶべき基軸商品の変化によっても特徴づけられる。
 重商主義段階は羊毛工業、自由主義段階は綿工業、帝国主義段階は重工業、後期資本主義段階は、耐久消費財(車と電気製品)である。
 後期資本主義段階は、1980年代から進行してきた新段階(ここではいわば「情報」が世界商品だといってよい)にとってかわれる。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、431頁~432頁)