歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪セリーヌ・ディオンの半生 ジョルジュ=エベール・ジェルマンの本を読んで≫

2021-01-07 18:31:54 | 私のブック・レポート
≪セリーヌ・ディオンの半生 ジョルジュ=エベール・ジェルマンの本を読んで≫
(2021年1月7日)




【ジェルマン『セリーヌ・ディオン』はこちらから】

セリーヌ・ディオン―The authorized biography of Celine Dion



【はじめに】


 現代を象徴する偉大なアーティスト、セリーヌ・ディオン Céline Dionは、どのようにして誕生したのであろうか。
どのような家庭環境の中で生まれ、育ち、いかにして歌手デビューを果たし、スターダムにのし上がったのか。その間に試練はなかったのか。よく見られるアイドル路線に乗っかり、順風満帆の人生であったのか。
このセリーヌが1996年のアトランタ・オリンピックのオープニング・セレモニーで「パワー・オブ・ザ・ドリーム」を歌ったり、世界的興業記録を打ち立てた映画『タイタニック』(1997年)の楽曲にも携わったりした偉大な歌姫であることを思うとき、このアーティストを考えることは、“現代社会”を考えることにもつながる側面があろう。

※なお、この記事は、私のブログ「現代の歌姫、セリーヌ・ディオン」(「歴史だより」2011年7月31日投稿)を加筆・修正したものであることをお断りしておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・現代の歌姫、セリーヌ・ディオン
・セリーヌの生い立ちとデビュー
・ルネ・アンジェリルとの悲恋
・『フレンチ・アルバム』について
・姪カリーヌについて
・セリーヌの好み
・フランス人とシャンソンの傾向
・セリーヌとバーブラ・ストライサンド
・その後のセリーヌ
・あとがき






現代の歌姫、セリーヌ・ディオン


その半生を綴った面白い本に、ジョルジュ=エベール・ジェルマン著(山崎敏・中神由紀子訳)『セリーヌ・ディオン』(東京学参、2000年)がある(以下、ページ数は本書による)。現代の諸相と歴史を映し出す鏡のような存在であるセリーヌ。
この本を読むまで、セリーヌ・ディオンという女性を知らなかったのだと痛感した。ただ単にCDの歌を通してのみ、セリーヌのことをすごい歌手だと思っていたにすぎない。この歌手の生い立ちはもとより、人間性など知る由もなかった。声のすばらしさはCDを通して感じてはいたものの、歌のうまさ、奥深さが何に由来するかなど、思いを致すことはなかった。その歌のうまさはどこから来るのかを考える上で本書は打って付けの本である。
本書は、ひとりの若い女性――自由で、独立心にあふれ、愛情深く、肉体的にも精神的にも健全で、強く、柔軟な女性――の物語である。声の深みを決めるのは、シンガーの生まれ育った環境なのであるという(10頁、530頁)。
それでは、この本によりながら、まず簡単にセリーヌの半生の軌跡を辿ってみよう。

セリーヌの生い立ちとデビュー


セリーヌは、1968年3月30日生まれ(牡羊座)で、14人目の末っ子であった。セリーヌの一番上の姉は22歳年上であった。セリーヌがこの大家族で子供時代を過ごしたことは、その人格形成において決定的要素だった。
2歳の時に自動車事故に遭い、頭が骨折してしまうほどであった。1970年4月30日に起こったこの事故は今でも警察の調書が保存してあり、家族の歴史においても忘れられない出来事である(22頁~23頁、34頁)。
ところで、この大家族の中で、セリーヌに音楽的に影響を与えた人物が存在した。それは、セリーヌ・ディオンの母、テレーズ・タンゲである。テレーズ自身、7歳のときにバイオリンをマスターし、その他、ギター、マンドリンを演奏するのを楽しみとした。そして彼女自身、「ス・ネテ・キャン・レーヴ(ただの夢だった)」や「グラン・ママン(おばあちゃん)」といった曲を書き、娘のセリーヌが歌い、デモテープを作り、レコード会社に持ち込んだりした(35頁~39頁、44頁、130頁)。

セリーヌが12歳のとき、つまり1980年12月5日、5年間のマネージメント契約が結ばれた。このとき、彼女の歌に立ち会ったのが、ルネ・アンジェリルであったのである。
セリーヌは、まだ小柄で内気な少女であった。容姿としては、八重歯があり、あごが突き出ており、まつげがとても濃く、あまり美人ではなかったという。だが、大きくて茶色い、賢そうな素晴らしい目をしていた。彼女の一番好きな歌手は、ジネット・レノであった。

セリーヌは、母が書いた曲「ス・ネテ・キャン・レーヴ(ただの夢だった)」をアカペラで歌った。感情豊かに生き生きと歌い、物まね、コピーでなく、自分自身の歌の世界を創造しており、クリエーターとしての才能を持っていた。
アンジェリルは、自分の目と耳を疑った。少女には、本能、力強い声、存在感など、すべてがあった。そして彼は、ディオン夫人に自分を信頼してもらえるなら、5年のうちにあなたの娘をケベックとフランスで大スターにならせてみせると言った。
そしてデビューした当時の新聞でも、「セリーヌ・ディオン、13歳。新たなるジュディ・ガーランド」(1981年10月31日付、日刊紙『ラ・プレス』)という大きな見出しが載った(131頁~132頁、151頁)。

ルネ・アンジェリルとの悲恋


ところで、セリーヌにとって、このルネ・アンジェリルという男性が、プライベートな面においても、運命の人となる。つまり、ルネはセリーヌにとってマネージャー以上の存在になっていった(163頁)。
セリーヌがまだ18歳のとき、ルネとのうわさが広まった。モントリオールやパリの街角で、腕を組んで歩いているふたりを見たとか、エール・フランスの1等席で手を握っていたりキスしたりしたと、人々はうわさし合った。
ルネは人々が憤慨し、ショックを受けるのを恐れて、ふたりの愛を公表したがらなかった。考えてみれば、ルネは1942年生まれであるから、44歳であり、18歳のセリーヌより、倍以上も年上である(この年齢差は、彫刻家ロダンとカミーユとの恋愛を思い起こさせる)。
セリーヌのマネージャーとなったルネ・アンジェリルとは、どのような人物であったのか。彼は、ショービジネスに関して見聞が広く、経験豊富だった。つまり、エルヴィス、ビートルズ、シナトラ、ピアフ、ストライサンドといったショービジネス界や映画界の大物の逸話をよく知っていた。その上、優秀な戦略家、抜け目のないずるさを持った交渉人、生まれながらのギャンブラーという顔ももっていた(163頁)。さらに2回の結婚経験があり、3人の子供もいたのである。彼の父はシリアのダマスで生まれ、仕立て屋を生業としていた。やがてパリへ、そしてモントリオールへ移り住んだ。ルネはほとんどフランス語しか通じないモントリオールの労働者地区ヴィルレイに生まれた(65頁)。

セリーヌの口から、ルネとの悲恋が語られたのは、1992年9月11日、セリーヌが人気番組の収録を行っていた時のことである。その進行役は、巧みな話術で、相手の急所を確実に突く名司会者だった。
インタビューで家族との関係などについて聞かれたが、その最後に恋愛についても尋ねられた。すると彼女は大粒の涙を流しながら、愛する人はいるがアーティスト生命にもかかわることなので、相手の名前は言えないと答えた。そう言って、セリーヌは泣きじゃくってしまったという。この1年ほど前に彼女は、ひとりで生きていくつもりと公言していたのである。
セリーヌは1968年生まれであるから、当時24歳だったが、彼女はルネを心から愛していた。この番組収録の間、調整室にいたルネも、泣いていた。セリーヌは自分の気持ちを世間に告白したかったが、ルネは二人の関係を秘密にすべきだと主張していた。だから彼女は悲しみ苦しんだ。その苦しみとつらさが、番組収録中に一気に感情の波となってあふれ出てしまったのである。
こんなことがあった年の11月に、ケベック市のキャピトル・シアターが改築され、杮落としのショーが開かれた。そのとき、映画『めぐり逢えたら』のテーマ曲になる予定の歌を聞いて、涙と無縁になろうと決心したという。そのテーマ曲とは、「ホエン・アイ・フォール・イン・ユー」である。この曲は、ナット・キング・コールが歌った名曲で、クライヴ・グリフィンとデュエットすることになっていた。その歌詞には、「恋に落ちた時、それは永遠に続くの」とある。
セリーヌは永遠に変わらぬ愛を唯一信じた。彼女の歌に奥深さと息吹が感じられるのは、その裏側に心の痛みが潜んでいるからかもしれない。実際に彼女はその痛みを嫌というほど味わっているから、歌にもそれが反映されてくる。彼女は歌うことで、自らの心の傷をいやした。彼女にとって歌は、痛みを和らげる良薬でもあった(462頁~464頁)。

『フレンチ・アルバム』について


1995年に発表された『フレンチ・アルバム』は、ジャン=ジャック・ゴルドマンと組んだアルバムである。ルネ・アンジェリルは、このアルバムがセリーヌの作品の中で最高のアルバムだと信じている。セリーヌの歌声に輝きと深みと透明感が最高に現れているのだという。ゴルドマンは、豊かで繊細なニュアンスで、その歌声を生かす方法を見出している。
このアルバムの全曲は、フランス語で歌われている。セリーヌにとって母語である。彼女の英語は驚くほど流暢だが、本当はフランス語を使う方が楽なのである。心や魂を語る時は、詩的な言葉であるフランス語を使う。セリーヌの英語アルバムは、プロデューサーが企画する別世界のものである。そこでは内容よりもサウンドの方が重複されるらしい。この意味で『フレンチ・アルバム』は、セリーヌの心の襞までが表現されているアルバムといえるかもしれない。
ともあれ、1995年、『フレンチ・アルバム』は、ジネット・レノの「ジュ・ヌ・スイ・キュヌ・シャンソン」が1981年に打ち立てた35万枚の記録を数週間のうちに破った。それから1年もたたず、カナダでプラチナを6回獲得し、フランス語のアルバムとしては、レコード音楽史上最大のベストセラーとなった。「愛をふたたび」という曲はヨーロッパ各地において、1995年夏のヒット・ソングだった(538頁~539頁)。

このアルバムのライナー・ノートの中で、蒲田耕二氏は次にように記す(1996年8月19日付)。
日本のシングル・チャートで、セリーヌ・ディオンの「TO LOVE YOU MORE」の外国曲が、No.1になったのは、12年ぶりの快挙であった。同じ頃、フランスでも似たような快挙をセリーヌは成し遂げた。このアルバム『フレンチ・アルバム』の1曲目「POUR QUE TU M’AIMES ENCORE(愛をふたたび)」がフランスで大ヒットし、1995年暮れから1996年の春にかけて、パリのどのFM局にチューニングしても、この曲が流れてきたという。
確かに、「ビューティ・アンド・ザ・ビースト」で、グラミー賞を受賞し、「パワー・オブ・ラヴ」で全米No.1を記録したセリーヌなら、あたり前だと思われるかもしれないが、フランスは規制の多い国だから、ことは単純ではないと蒲田氏はいう。
フランス音楽シーンは日本とは対照的に、外国曲、外国タレント上位だったので、フランス政府は、国産音楽の不振に業を煮やして、1996年1月から規制を厳しくした。つまり、音楽放送の時間数にして40%を強制的にフランス語の歌に割りあてるクォーター制を実施した。しかし、フランス人アーティストの絶対数は足りない上に、クォリティも低かった。放送局も困り果てていたところへ、セリーヌのこのフランス語のアルバムが出現したのである。まさに旱天の慈雨であった。
ところで、フランス人には、フランス語をちゃんとしゃべらない人間を人間扱いしない悪い癖がある。外国人がフランス語をたとえしゃべっても訛があるものだという自明の理すらわかっていない場合がフランス人には多いといわれる。
この点でも、カナダ人歌手のセリーヌがヒットしたことも快挙である。彼女以前にも、何人かのカナダ出身の歌手がフランスに進出したが、メジャーな人気は出なかったらしい。フランス人は相手が英語だとある程度あきらめてしまう。しかし、なまじ自分の言葉であるフランス語がしゃべれて、その発音に訛があると、鬼の首でも取ったかのように、ダサイと決めつけるという。これまた悪い癖である。そこには、自分たちが本家で、旧植民地の人間は分家で下であるという意識も働いているようだ。
ケベック出身のセリーヌにも訛があるらしい。そして母音の発音が明瞭でないとか、語尾の子音が口の中で消えてしまいがちだと、目くじらを立てられたこともあった。それでも、フランス人大衆はセリーヌを支持し、彼女がフランスの音楽シーンを席巻した。その理由をセリーヌの類い稀な歌唱力とスター性に蒲田氏は求めている。

先にも触れたように、セリーヌは12歳のプロ・デビュー当時から天才少女とうたわれた。14歳でヤマハ世界音楽祭で金賞を獲得し、ケベックのレコード賞「フェリックス賞」を15回も受賞した。華々しい経歴である。
歌のうまさでは、マライア・キャリーと並んで世界の双璧だとみなされる。つまり「ナイアガラの南にマライア・キャリーがあれば、北にセリーヌ・ディオンあり」と蒲田氏は象徴的に表現している。ただ、二人の歌の味わいは異なる。マライアは、生き馬の目を抜くニューヨークの明るさ、気風のよさを全身で漲らせるのに対して、セリーヌは、しっとりと詩情に富んだ陰影を隠し味にしている。それはフランスからケベックに移植されたヨーロッパ文化の残り香ともいえるらしい。「TO LOVE YOU MORE」も、そんな彼女の持ち味が発揮された佳曲である。穏やかで品のいいメロディーに彼女の“やさしさ”が美しく生かされているといわれる。
その一方で、アトランタ五輪の開会式で熱唱した「パワー・オブ・ザ・ドリーム」では、彼女の声そのものに、巨大なパワーを感じた人も多かろう。このように力強さも、デリケートなやさしさも多彩に表現できる才能を秘めた歌手、それがセリーヌである。
セリーヌが世界的にブレイクしてから、2枚目のフランス語アルバムが『フレンチ・アルバム』である。これは英語アルバムより、彼女のデリカシーをよりよく表しているアルバムと蒲田氏は評価している。曲とサウンドの底流を形作っているのは、一抹のメランコリーを伴うヨーロッパの美意識であるという。また1曲目の「POUR QUE TU M’AIMES ENCORE(愛をふたたび)」、4曲目の「JE SAIS PAS(私は知らない)」には、クリスタル・グラスの工芸品のような澄んだ音の粒のきらめきが感じられると蒲田氏はライナー・ノートに記している。

ところで、この蒲田氏のライナー・ノートにおいてもセリーヌの母語フランス語と、習得言語としての英語の相違について言及していたが、セリーヌは母語でない英語をどのように習得したのであろうかという疑問がわく。セリーヌは、英語の学習のため、ベルリッツに入学した。1日9時間、週5日間で6ヶ月、みっちりと勉強した。ミュージシャンや歌手が簡単に語学を習得してしまうのには、理由があるらしい。それは音、耳、音楽と関係があるからである。それでもセリーヌにとっては、最初のうちはつらい苦行に近かった(245頁)。
ご存知のように、フランス語には“h”の発音がない。だからフランス語圏の人々は、“h”の発音が苦手であり、セリーヌも例外でなかった。ところが、英語にはとても多く、この“h”の発音が出てくるのである。だから毎朝必ず、次のようなフレーズから英語の授業が始まったそうである。
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ? フ、フ、フ、フ、フー・アー・ユー?」、そして「アイ・ハ、ハ、ハ、ハ、ハッド・ア・グレート・タイム」というフレーズである。
これにより、“h”の音が出るようにしていった(357頁~358頁)
セリーヌは一生懸命英語の勉強をして良かったと思った。なぜなら、それにより世界中で歌うことができるようになったから。セリーヌは「人生は面白い。最も困難に思われることこそ、克服した時に深い満足感を得られるものです」と語っている(357頁~358頁)。
もしも、セリーヌが英語を習得することがなかったなら、1996年のアトランタ・オリンピックのオープニング・セレモニーで歌うこともなく、1997年の映画『タイタニック』で「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」が大ヒットすることもなかった。世界的大ヒットも、個人的な努力に支えられていた。

【CD『フレンチ・アルバム』はこちらから】

フレンチ・アルバム ~D'eux

姪カリーヌについて


偉大なるアーティストには、その人生に“光と影”があるとよく言われるが、セリーヌにとっても、その例外ではない。
歌手としてのセリーヌが大きな喜びを感じることは何であろうか。
最大の喜びは、高く批評されたり、観衆の喝采を浴びることでもない。自分の歌った曲が、人々の生きる糧となったり、和解や愛することのきっかけになったと人々から言われることだという。自分の歌は願いであり、訴えなのだというのである。
歌手という職業は、信念の仕事であるのかもしれない。そういえば、シャンソンのシャルル・トレネは、その信念の人である。というのは、第二次世界大戦中、占領中のフランスでは、武器を奪われ、国民も意気消沈し、不安に駆られていた時に、人々の心に明るさが戻るように、「ヤ・ドラ・ジョワ(喜びがあるさ)」という歌を歌っていたといわれる。愛の力を歌うことで訴えた(336頁)。
今日の世界でも、愛を歌うには、強い信念が必要であることには変わりはない。セリーヌの人格と信念を知るのに、貴重なエピソードが本書に記してある。それは姪カリーヌの病気にまつわる。
セリーヌが囊包線維症に関心を寄せるのには、わけがある。セリーヌには、二人で写っている写真が示すように、かわいらしい姪がいたが、この少女は囊包線維症という不治の小児病にかかっていたのである。
姪のカリーヌに対する愛情から、ケベック、モントリオールで囊包線維症の救済のために、イベントや募金キャンペーン活動を行っているのである。不治の病に苦しむ子供たちのことを歌った曲「メラニー」もよく理解されよう(230頁)。

ところで、この病気は、1938年に初めて確認された恐ろしい小児病である。線維症は、肺、消化器官、涙・汗・唾液を分泌する腺をむしばむ病気で、粘液が肺に生じ、呼吸を妨げる。そして囊包線維症は、粘液が消化に必要な膵臓酵素の流れを妨げ、腸の具合を悪くし、いくら食べても痩せたままで、成長を遅くする病気である。
セリーヌの姉リエットの娘カリーヌが、生後2ヶ月も満たないときに、この病気にかかり、9歳のセリーヌは、衝撃を受け、動転した。
その後、叔母のセリーヌが大スターになった後、5歳のカリーヌは、人生が過酷であることを知っていた。カリーヌは、セリーヌの人生において、現実の厳しさと不当さを示す存在となった(56頁~57頁)。
セリーヌはカリーヌについて、次のように語っている。
「カリーヌには多くのことを教えられたわ。知らず知らずのうちに、あの子は私の目を開かせたの。あの子のおかげで、この世界には苦しみ、悲しみ、不当があることを忘れずにいられる。あの子がいなかったら、世界の隠された面で終わっていたかもしれない。」(80頁)。
ところが、1993年3月3日、そのカリーヌはセリーヌに抱かれて、息を引き取ってしまう。まだ16歳にすぎなかった。
この死は、セリーヌの人生観に影響したことはまちがいない。彼女は次のように語っている。
「人生には危険なことがたくさんあるの。病気や事故など。人間は綱渡りをしているようなものなのよ。運の良い人間と、そうでない人間がいる。高いところにある綱が揺れたら、みんな落ちてしまう。何をもって幸福とし、何をもって不幸とするのかは人それぞれ違うけど、これは人生のミステリーのひとつね。その人の人間性とは何の関係もないのよ。ただ単に運の問題なの。運だけで決まるのよ。」(471頁~472頁)

人生、人間を綱渡りにたとえ、人間が幸福になるか、不幸になるかは、運で決まるという。確かにカリーヌの場合、何の罪もないのに、ただもって生まれた病気という不運によって、短い生涯を終えることになってしまった。この愛らしい姪の死を前にして、自分が華やかなスターとして歩みつつある中で、姪と自分との違いは何かを考えて、つきつめていった場合、その時のセリーヌは、人として運命の違いという答えに辿り着いたのであろう。

セリーヌの好み


ここで話題を明るいものに変えてみよう。例えば、セリーヌが好んだ映画は何であったのであろうか。
それは『フラッシュ・ダンス』であった。この映画は、すべての場面を覚えてしまうくらいに、繰り返し見たという。
ストーリーは、貧しく孤独で美しい娘が、溶接工として働きながら、ブロードウェイの大舞台で踊ることを夢見るといったものである。ある日、ヒロインは、一人の老婦人と出会う。その人はかつてクラシック・バレエ団のプリマだった。その人に、あなたは才能があるから、夢を実現し、成功をつかみなさいと励まされる。「夢をあきらめるのは、死んでしまうことなのよ。」と。
セリーヌは、この映画の物語を愛した。とりわけ、このヒロインの粗削りな才能と狂おしい野心と決然たる自由さに魅かれた。そしてその音楽「ホワット・ア・フィーリング」も気に入り、いつの日か、この曲をステージで歌おうと心に決めた(164頁)。
ヒロインと自らを重ね合わせながら、セリーヌはこの映画を見たのであろう。人生は夢を持って生きることが大切であることをこの映画を繰り返しみながら、動機付けをしていたのであろう。そして自らの夢の実現に向けて、セリーヌはたゆまない努力を続け、現代のスターダムにのし上がっていった。
また、セリーヌは名句集を時折読み、読むたびに新しい発見をするのが好きだという。彼女が気に入っているバルベ・ドールヴィリーの言葉として、「美しくて、愛されている人は、ただの女性になる。醜くて、愛されるようになるにはどうすればいいか知っている人は、プリンセスになる」というのがある(578頁)。努力の人セリーヌは、歌の世界でプリンセスになったともいえる。

フランス人とシャンソンの傾向


実際、セリーヌは、世界中で活躍する大スターとなったが、彼女の人気・不人気もその公演先の“お国柄”に作用されることがままある。
例えば、フランスの場合、フランス人は好きなものの変化を目にすることを、非常にためらう国民性らしい。セリーヌは、12歳でデビューした無邪気な少女というイメージがフランスでできあがると、彼女が大きく変貌し、変身をとげて、何年後かに再びフランスで歌うと、フランス人はかつてのイメージと相いれず、受けつけにくくなるという。
また時代の趨勢というのもある。当時のフランスでは、声量のある女性歌手が好まれなくなり、ささやくような声がはやりだった。豊かな声の歌手は、ミレイユ・マチュー以来、スマートではないと決めつけられていたらしい(私は、ミレイユの歌は大好きなので、この評価は非常に残念に思う)。あるいは、神聖な大歌手エディット・ピアフをまねた冒涜的なクローンと思われていたようだ。ちょっと甘ったるいキャラクターであるブリジッド・バルドーやヴァネッサ・パラディ、クリオ、エルザ、ザズゥなどのかぼそい声が好まれたといわれる(283頁)。

セリーヌとバーブラ・ストライサンド


セリーヌが影響を受けたアーティストの中で、最も大きかった人物として、バーブラ・ストライサンドが挙げられる。セリーヌは次のように語っている。
「私は同じ曲をあまり聞かないの。大好きな曲でさえも。アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルド、バーブラ・ストライサンド、エディット・ピアフに凝った、という言い方はできないわ。どの曲を聞いたのも、2度か3度ってところだから。それでも彼女たちからは、それぞれ本当に影響を受けたし、彼女たちは私の人生を変えたわ。中でも、ストライサンドに最も影響されたわね。」と(193頁)。
ここにでてくるストライサンドは、映画『追憶』(1973年、アメリカ)の主題歌をその美しい歌声で歌い上げた。「メ~モリ~ズ♪」で始まるその歌は、今ではスタンダード・ナンバーとなっている。またストライサンドは、この映画で二枚目俳優ロバート・レッドフォードと共演し、ファシズムに抵抗し、自らの信念を貫く貧しいユダヤ人の娘ケイティ役を好演した。
セリーヌとルネ・アンジェリルにとって、バーブラ・ストライサンドは世界最大のシンガーとして映っていた。セリーヌには、憧れの人であった(594頁、596頁、607頁)。セリーヌは、バーブラ・ストライサンド主演の映画『マンハッタンラプソディ』の中の曲「アイ・ファイナリー・ファウンド・サムワン」を、1997年度のアカデミー賞の授賞式で歌った(598頁~599頁)。セリーヌの歌とストライサンドの歌とでは、ロマンチックなのは同じだが、セリーヌの歌はもっと陽気で楽しく、若々しいといわれる(597頁)。
アカデミー賞の授賞式のあと、セリーヌはホテルで花束とバーブラ直筆のメモを受け取った。そのメモには、次のようにあった。
「後であのショーのテープを見ました。私の曲を美しく歌ってくれて、どうもありがとう。あそこにいて聞きたかったと願うばかりです。次は一緒にやりましょう。
追伸:あなたの曲が受賞すべきだったと思うわ。あなたってすごいシンガーね」と(599頁)。
アカデミー賞の受賞式をきっかけとして知り合った二人だったが、その後、バーブラは、セリーヌの歌声を評して、次にように話している。
「あなたの声、まるで蝶みたい。とてもしなやかで軽くて。かと思えば、誰も手の届かないところに飛んでいく鳥になるのね」と。(607頁)。
セリーヌはバーブラのことを世界一偉大なシンガーとして尊敬し、バーブラも、セリーヌを素晴らしい声と心の持ち主と認めていた。セリーヌは、バーブラを姉のような存在であると感じた。
そのバーブラ・ストライサンドにも憧れの歌手がいた。それは映画『オズの魔法使い』(1939年、アメリカ)で、わずか16歳で少女ドロシー役を演じたジュディ・ガーランドである。彼女は、主題曲「オーバー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)」を歌い、今では永遠のミュージカル・ナンバーになっている。バーブラにとって、ジュディはアイドルであった。だからバーブラは、セリーヌの気持ちがよくわかった。そして、バーブラは、セリーヌをディナーに招待した。こうして、セリーヌは憧れの人バーブラとふたりっきりで会うことができ、夢がまた一つ叶った。
セリーヌは言う。
「憧れや夢がなくては誰も生きていたくない。私もそうよ。それがなかったら、この世で何もやる気がしないわ」と(608頁)。

その後のセリーヌ


1997年の映画『タイタニック』のテーマソング「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」は大ヒットした。この歌の作曲者はジェームズ・ホーナーである。彼は、以前からセリーヌと組みたがっており、1990年の夏、スティーブン・スピルバーグの映画『アメリカ物語2 ファイベル西へ行く』のために「ドリームス・トゥ・ドリーム」を作曲した。この曲をセリーヌに歌ってほしかったが、レコード会社との取り引きから、スピルバーグはリンダ・ロンシュタットに依頼したといわれる。
その数ヶ月後、セリーヌは、ピーボ・ブライソンとデュエットで、「ビューティ・アンド・ザ・ビースト~美女と野獣のテーマ~」のレコーディングを頼まれて、大ヒットし、アカデミーのベスト・ソング賞を受賞した。若いケベック人セリーヌは一流スター座に押し上げられた(609頁)。

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あとがき


以上、ジョルジュ=エベール・ジェルマン著(山崎敏・中神由紀子訳)『セリーヌ・ディオン』(東京学参、2000年)という本を味読しつつ、セリーヌの半生についてみてきた。この本では、1998年3月30日、セリーヌの30歳の誕生日までの半生しか描かれていない(611頁)。したがって、このブログも、1997年公開の映画『タイタニック』までのセリーヌの楽曲にしか言及していない。
それでも、セリーヌの生い立ちや生き方、そして考え方の輪郭は浮かび上がったのではないかと思う。つまり、母親が音楽好きで、セリーヌのデビューにはその母親が深く関わり、その後、公私両面にわたり心の支えとなってくれた最良のパートナーであるルネ・アンジェリルと、二人三脚でスターダムにのし上がった。
セリーヌの生き方としては、常に夢を持ち続けて、前へ前へと進んでいった。そこにおいて、憧れの人の存在が彼女の人生に大きな影響を与えた。セリーヌは、バーブラ・ストライサンドに憧れた。そのバーブラにとって、ジュディ・ガーランドが憧れであった。こうみてくると、ジュディ→バーブラ→セリーヌという、歌を通した“精神的系譜”が存在したことがわかる。いわば“見えない糸”で、この三者がつながり、歌の世界を形成してきたとみることもできよう。
その際、セリーヌは母語をフランス語とするものの、フランス本国でなく、カナダのケベック州出身であることは見逃せない。もしセリーヌが生粋のフランス人だったならば、英語を習得し、英語圏のアメリカへ進出したかは疑問であろう。おそらく、英語をマスターしようとは思わなかったであろう。カナダのケベック州出身であるセリーヌであったから、フランス語圏を飛び越して、英語圏のアメリカへ夢を託し、ひいてはその英語を通して、日本にまで知れわたるアーティストに成長したのではないか。こうした飛躍の舞台裏では、セリーヌ個人のひたむきな努力が存在したのである。

【ジェルマン『セリーヌ・ディオン』はこちらから】
セリーヌ・ディオン―The authorized biography of Celine Dion


≪2021年 私のブログのテーマについて≫

2021-01-06 18:00:01 | 日記
≪2021年 私のブログのテーマについて≫
(2021年1月6日)



【はじめに】


 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
 年頭にあたり、私のブログを振り返り、今年のテーマについて記しておきたいと思います。
 「温故知新(おんこちしん)」という言葉があります。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と訓読します。「温故」は、昔の事柄を研究すること、また、かつて学んだことを復習することを意味します。つまり、「温故知新」とは、「前に習ったことや昔の事柄をよく復習・研究することで、新しい知識や見解を得ること。また、昔の事柄の中にこそ、新しい局面に対処する知恵が隠されていること」を指します。出典は、『論語』為政篇で、「子曰はく、故きを温ねて新しきを知らば、以て師たるべし、と」とあるのに拠ります。
 この故事成語に倣って、私も今一度、自分で書いたブログを振り返って、今年のテーマを提示しておこうと思います。



去年までの私のブログ


 去年のブログは、主にルーヴル美術館に焦点をしぼり、「モナ・リザ」について解説された本を紹介してきました。書き足したい部分も多々あり、今後も、文献を更に収集しつつ、改めて考えてみたいテーマですが、ここで一旦お休みにしたいと思います。
 
 ところで、私は、2019年10月19日に「「歴史だより」のバックナンバー」と題して、過去の記事タイトル一覧表を記したことがありました。
「歴史だより」のバックナンバー
ブログ運営上の都合で、「歴史だより」(2009年~14年)にはログインできなくなり、修正しようにも不可能になってしまいました。今なお、こちらの記事にもアクセスがありますので、その中から精選して、幾つかの記事を一部加筆・修正して、書籍のリンクを貼って、再度載せておこうと思います。
 たとえば、「現代の歌姫、セリーヌ・ディオン」(2011年7月31日)などです。そして、「≪冨田先生の著作を読んで≫その1~26」(2014年12月31日)のコメントの部分から、文章読本や書道史についてのコメントを独立させて、修正して記事にする予定です。


 

2021年の私のブログのテーマ


そして、今年2021年は、次の3つのテーマを中心に書いてみたいと考えています。
〇中国書道史
〇フランス語の学び方、フランス文学
〇稲作

これらは、以前に書いた記事を継続したテーマです。
〇中国書道史
まず、中国書道史ですが、以前、「≪冨田先生の著作を読んで≫その1~26」(2014年12月31日)のコメントの部分で、書道史についてコメントしたことがありました。そして、「≪『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇 その1~14≫」(2018年7月19日)を書き、その時は要約に留まっていましたので、そのコメントの意味を含めて、中国書道史(中国書史)についてのエッセイを載せます。
 中でも、石川九楊氏という書家が書いた『中国書史』(京都大学出版会、1996年)は重要な著作です。ですから、詳細に紹介した上で、コメントを付けようかと考えています。

【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


〇フランス語の学び方、フランス文学
 フランス語については、以前のブログ「≪フランス語の学び方あれこれ――その1――≫」(2019年7月31日)を書きましたが、その後、中断しておりました。
≪フランス語の学び方あれこれ――その1――≫
 フランス文学作品として、『星の王子さま』『美女と野獣』『オペラ座の怪人』『ノートル・ダム・ド・パリ』『レ・ミゼラブル』『赤と黒』『ゴリオ爺さん』などを解説してみる予定です。

〇稲作
 このテーマは、2019年から私の生業に関わるものです。
 過去2年間のブログは「わが家の稲作日誌」と題してまとめてみたのですが、今後もこのテーマは追求してゆきます。
 《2019年度 わが家の稲作日誌》 《2020年度 わが家の稲作日誌》