歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【補足 その3】中国文化史~王義之と顔真卿≫

2023-09-24 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その3】中国文化史~王義之と顔真卿≫
(2023年9月24日投稿)

【はじめに】


 私は、以前のブログで、次の石川九楊氏の著作を紹介し、王義之と顔真卿についても取り上げてみた。
〇石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年
たとえば、≪石川九楊『中国書史』を読んで その5≫(2023年2月26日投稿)など。

 今回のブログでは、高校の世界史で、王義之と顔真卿がどのように解説されていたのかを復習しておきたい。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
〇川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』(帝国書院、2022年)
 
 また、最近、書にかんする次の随筆を読んだ。
〇小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]
 この随筆には、巻頭の口絵には、◆王羲之の「喪乱帖」(宮内庁蔵)が掲載されて、作家駒田信二氏と井上靖氏の随筆が収められている。
〇「王羲之」 駒田信二
〇「顔眞卿」 井上靖
 この二つの随筆を紹介することにより、王義之と顔真卿の人物像について考えてみたい。
 この二人の作家が描いた王義之と顔真卿という歴史上の人物は、書家の石川九楊氏とは違った
形で描かれていることがわかるであろう。

※王義之の生没年については、諸説ある。
・駒田信二氏は、清の魯一同の説をもとに、王義之は永嘉元年(307)に生まれ、興寧3年(365)数え年59歳で死んだということになる、と記述している(64頁)。
・しかし、近年、比較的信頼性があるとされているのは、王義之の生没年を303年~361年とする。(だから、駒田氏の記述にみられる王義之の年齢にはズレが生じるので注意)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇高校世界史に記述された王義之と顔真卿
〇書家・石川九楊氏の捉え方
〇王義之と顔真卿~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より
〇「王羲之」 駒田信二~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より
・駒田信二氏のプロフィール
・『晋書』の「王羲之伝」の書き出し
・『世説新語』の王羲之の結婚にまつわるエピソード
・王羲之の生年と没年の謎、エピソード
・王羲之の経歴と思想
・王羲之の「蘭亭序」
・王羲之の退官後
・「喪乱帖」(口絵より)

〇「顔眞卿」 井上靖~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より
・井上靖氏のプロフィール
・西安の碑林
・顔眞卿の書
・顔眞卿という人と書
・安禄山の乱と顔眞卿
・顔眞卿の最期~「資治通鑑」より
・顔眞卿に対する書論について~井上靖氏の評言
(執筆項目の見出しは、随筆の内容を考えて、筆者がつけたものである)






高校世界史に記述された王義之と顔真卿



〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍
●南北朝の文化
 江南の呉と東晋、および南朝の四つの王朝が交替した六朝時代には、貴族が主導する六朝文化が花開いた。詩の陶潜(陶淵明、365ごろ~427)、書の王羲之(307ごろ~365ごろ)、絵画の顧愷之(344ごろ405ごろ)らがこれを代表し、散文では、四六駢儷体という華麗な文章が好まれた。梁の昭明太子(501~531)が編集した『文選』は、古来のすぐれた詩文を集めたもので、日本文化にも大きな影響を与えた。貴族の間では、「竹林の七賢」の言行にみられる清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)

●唐代の社会と文化
  美術では、書の褚遂良(596~658)・顔真卿(709~786ごろ)、絵の閻立本(?~673)・呉道玄(8世紀)らが出た。絵画の題材には山水が好まれ、水墨の技法による山水画が発達した。工芸では、唐三彩で知られる陶器に特色があらわれた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)

〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社
●魏晋南北朝の文化
 当時の文化の一つの特色は、精神の自由さを重んずるということである。貴族のあいだでは、道徳や規範にしばられない趣味の世界が好まれた。魏・晋の時代には世俗を超越した清談が高尚なものとされ、文化人のあいだで流行した。文学では田園生活へのあこがれをうたう陶潜(陶淵明、365頃~427)や謝霊運(385~433)の詩が名高い。対句をもちいたはなやかな四六駢儷体が、この時期の特色ある文体であり、その名作は梁の昭明太子(501~531)の編纂した『文選』におさめられている。絵画では「女史箴図」の作者とされる顧愷之(344頃~405頃)、書では王羲之(307頃~365頃)が有名で、ともにその道の祖として尊ばれた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、84頁~85頁)

●唐代の制度と文化
 唐代には仏教が帝室・貴族の保護をうけて栄えた。玄奘や義浄はインドから経典をもち帰り、その後の仏教に大きな影響を与えた。もともと外来の宗教であった仏教はしだいに中国に根づき、浄土宗や禅宗など中国独特の特色ある宗派が形成されてきた。
 科挙制度の整備にともない、漢代以来の訓詁学が改めて重視され、孔穎達(くようだつ、こうえいたつ, 574~648)らの『五経正義』がつくられた。また、科挙で詩作が重んじられたこともあり、李白(701~762)・杜甫(712~770)・白居易(772~846)らが独創的な詩風で名声を博した。唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運がうまれてきた。韓愈(768~824)・柳宗元(773~819)の古文復興の主張、呉道玄(8世紀頃)の山水画、顔真卿(709~785頃)の書法などはそのさきがけといえる。

<顔真卿の書>
彼は従来の典雅な書風を一変させて、書道史上に一時期を画した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、89頁~90頁)

〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
●南北朝の文化
 Culture in the Southern and Northern Dynasties

In the period of Six Dynasties, when the Wu and the Eastern Jin in Jiangnan, and four
dynasties of the Southern dynasties came to power in turn, the culture of the Six Dynasties,
led by nobles, blossomed. Tao Qian (Tao Yuanming, 陶淵明) of poetry, Wang Xizhi (王羲之) of calligraphy, Gu Kaizhi (顧愷之) of painting were among others.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)

●唐代の社会と文化
 Society and Culture of the Tang Dynasty

In art, Chu Suiliang and Yan Zhenqing were leading calligraphers and Yan Liben and Wu
Daoxuan were famous artists. Landscapes were favorite subjects for artists and landscape
paintings with China ink wash painting techniques developed. In craft, ceramics such as a
famous three-colored painting (sancai) were distinguished in the Tang dynasty.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)

なお、東京書籍の方では、元代の書家の趙孟頫(趙子昂)に言及していた。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍

●元代の社会と文化
 宋代からの庶民文化は、モンゴル人の統治下でもひきつづき発展し、モンゴル支配への抵抗を秘めた民謡や雑劇(元曲)が流行した。元曲の代表作品としては、封建的な束縛に抗して自由な恋愛をえがく『西廂記』、匈奴に嫁いだ王昭君の悲劇を劇化した『漢宮秋』、琵琶を弾きつつ出世した夫との再会を果たす女性を主人公とした『琵琶記』などがある。また民間での講談もさかんであり、『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』の原型がつくられた。書画の分野では、東晋の王羲之の伝統をつぐ趙孟頫(趙子昂、1254~1322)や文人画の黄公望(1269~1354)、倪瓚(1301~74)などがあらわれ、物語の挿絵として流行した細密画(ミニアチュール)は、イル=ハン国を通して西方に影響を及ぼした。いっぽう、イスラーム天文学の知識にもとづいて郭守敬(1231~1316)が授時暦をつくり、この暦は、日本の江戸時代、渋川春海(安井算哲、1639~1715)が作成した貞享暦の基礎となった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)

●元代の社会と文化
Society and Culture of the Yuan Dynasty

The culture of common people continuously developed since the Song period even
under Mongol’s control, and folk songs and Zaju (雑劇, Yuan musical 元曲) concealing resistance
against Mongolian control became popular. Representative Zaju were, among others,
Xixiang Ji (西廂記), or Tale of the Western Chamber depicting free love rebelling against the
feudal restraint, Han Gong Qiu (漢宮秋, The story of the Han palace) dramatizing a tragedy about
Wang Zhao Jun who married to the Xiongnu and Pi Pa Ji (琵琶記, The Lute), a story about a
heroin who, with playing a lute, finally could meet again with her husband. Private
storytelling was also popular and original forms of Water Margin (水滸伝), Journey to the West
(西遊記) and Romance of the Three Kingdoms (三国志演義) were created. In the field of drawings and paintings, Zhao Mengfu (趙孟頫) succeeding traditions of Wang Xizhi (王羲之), and Huang Gongwang(黄公望) and Ni Zan (倪瓚) of literati paintings appeared.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)

※木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社には、言及がない。

〇川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』(帝国書院、2022年)には、王義之と顔真卿について、次のように記述している。

魏晋南北朝
3南朝の優雅な貴族文化(六朝文化)
・王義之「蘭亭序」
 王義之は東晋の書家。名門に属し、会稽近郊の蘭亭で詩宴を催して序文をつけ“書聖”と称された。書体は手本となり、真筆は唐の太宗に好まれ陵(りょう)に副葬された。
(川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』帝国書院、2022年、99頁)

唐代の社会と文化
3書道・工芸
・顔真卿の書~盛唐の書家として知られ、従来の上品な王義之派の書風に対し、力強い書風を確立した。優れた軍人でもあり、安史の乱では義勇軍を率いて乱の鎮圧に貢献し、その功績で栄達するも、その剛直な性格から何度も左遷され、最後はとらえられて殺された。
(川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)』帝国書院、2022年、103頁)
 なお、川北稔・桃木至朗監修『最新世界史図説 タペストリー(二十訂版)(帝国書院、2022年)の巻末には、中国文化史の次のような表がついている。


書家・石川九楊氏の捉え方


 書家・石川九楊氏は中国書史について、どのような捉え方をしていたのか。そして、王羲之と顔真卿の書について、どのように理解していたか。
 この点に、若干解説しておく。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

石川氏は、書史を次のように定義している。
「書史は、文字に発し、字画を書くことへと転位した筆触以前に発し、筆触を発見し、ついに筆蝕を発見し、さらにその筆蝕を筆蝕として組織し、構築しつづけてきた歴史である。その過程と力動(ダイナミズム)を明らかにすることこそが書史である」(8頁)
※注意~石川氏は、「筆触」と「筆蝕」を区別し、使い分けている。

王羲之と顔真卿~石川九楊『中国書史』より


結論的には古法二折法の象徴として王羲之であり、新法三折法の象徴として顔真卿であるという点に尽きよう。例えば顔真卿の「顔勤礼碑」の文字ぶりは、「九成宮醴泉銘」のそれとは全く異なり、臭気まで漂わせるほどに太く生々しく、そしていささか「ぶれ」をもつ字画から成り立っている。
「九成宮醴泉銘」のように普遍や典型の姿はないが、顔真卿の姿、形、息づかいが見えそうだという趣がある。「蚕頭燕尾」「蚕頭鼠尾」と言われるように起筆を蚕の頭のように描き出し、右はらいを燕や鼠の尾のように長く引き出す書きぶりは、蝕筆と触筆が相互に浸透し、練り上がった状態を示している。
(石川、1996年、32頁)

石川九楊氏の書史(中国書道史)の捉え方


石川氏は「蘭亭叙」および書の勉強の仕方について、次のように述べている。
「詳しい事情はわからぬが、中国のことだから、清の乾隆帝が価値づけたという「第一本」「第二本」「第三本」という序列に意味はあったのではないだろうか。
それにしても、と私は思う。なぜ「第二本」を軽視し、「第三本」を不当に高く買うようなへんてこな常識が書道界にまかり通っているのだろうか。ここに現在の書の学習法の間違いがあると思う。
私はどうしても最近の書の勉強の仕方に疑問を感じる。長老書道家は「最近の書道家は勉強しなくなった」とぼやく。「書道家も文章くらい書けるようにしなければだめだ」と小言を言う。それはそうかもしれない。しかし、この時、長老書道家は「勉強」という言葉にどんな意味を込めているかが問題だ。
最近の「蘭亭叙」の研究というと、墨跡本や拓本の種類を探したり、整理することになる。少し漢文が読めると、中国での「蘭亭叙」についての学説の探索や整理ということになる。あるいは中国史学者や中国文学者の後塵を拝するに決まっている王羲之の伝記的穿鑿に走ろうとする。もっと勉強家は、東洋史を勉強して、中国の時代背景や時代思想と「蘭亭叙」を結びつけようとする。
むろんこれらの研究のひとつひとつの進展が、全体として「蘭亭叙」の研究を進めることだからそのこと自体大切で必要なことではある。しかし、これらの研究は、東洋史や中国文学の一分野であっても、それ自体はまだ書の領域での学問ではない。
書をする者にとって書を勉強するとは、書自体を読み込み、解き明かすことだ。書の鑑賞の仕方なんて各人の自由で、いろいろと解釈できるものだというのは、間違った考え方である。書自体を読むとは、文章を読むのではない。書、つまり筆跡の美を読み込むことなのだ。私自身書家でありながら文章も書いているのだから口はばったい言い方になるが、必ずしも書家が文章を書いた方がいいとは思えない。問題はそんなところにはない。それよりも書自体を読み込むこと。読み込んで、読み込んで書を見る眼を微細な感受性をもつものへと鍛えていくことだ。
むろん書についての「見方や解釈は各人の自由」式の印象批評ではしかたがない。書写の過程を追い、その筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかみえた時、はじめて書を読んだと言える。それこそが書の学問の中心に来るべきものだと思う。
それは実作経験者である書の実作者の得意とするところである。「実作者にしかできない」というのは言い過ぎだとしても、日頃筆蝕の中に表現を盛ることに腐心し、筆蝕の意味や価値と苦闘している実作者が最も理解しやすい、有利な位置にあることは確かだ。おそらく微細な読みは、中国歴史家や中国文学者では不可能なことだと思う。もしも書の実作者ががんばって、書を読んで読んで、読み込んだ上で、書について語れるなら(文章に書いた方がいいに決まっているが必ずしも書かなくてもよい。語ってもよいのだ)、そこまでやれれば、その成果は逆に東洋史や中国文学にも益をもたらすことになる。その時、書家や書の研究家は、東洋史や中国文学者や文献学者たちと同列に肩を並べる存在となる。
書の学問というのは、東洋史や中国文学者や文献学者の後塵を拝し、そのまねごとをすることではない。眼前にある書――とりわけその美――を解き明かすことなのだ。
なぜなら、書というのは、意識的か無意識的であるかは別にして、人間の表現したものとして存在している。つまりその表現の美――その意味や価値――を扱わねばならないからだ。」
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、123頁~124頁)

中国史学者(東洋史学者)や中国文学者が「蘭亭叙」を研究する場合と、書家や書の研究家(書を学ぶ者)が書の勉強をする場合とでは、学問の領域が異なることを石川氏は強調している。例えば、「蘭亭叙」を研究する場合、前者は墨跡本や拓本の種類の探索や整理、中国での学説整理、王羲之の伝記的穿鑿、「蘭亭叙」と中国の時代背景や時代思想との関係を探究することになる。それに対して、後者の書の領域の学問は、書自体(筆跡の美)を読み込み、解き明かすことであるというのである。すなわち、筆蝕を解き明かし、その筆蝕のよってきたる思想や美を言葉でつかむことであるという。

私のブログ記事≪石川九楊『中国書史』を読んで その5≫(2023年2月26日投稿)を参照のこと。

王義之と顔真卿~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より


 最近、次の随筆集を読んだ。
 その中から、王義之と顔真卿について、紹介してみたい。
〇小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]
「王羲之」 駒田信二
「顔眞卿」 井上靖
「喪乱帖」(口絵)◆王羲之



「王羲之」 駒田信二~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より


駒田信二氏のプロフィール


・1914年生まれ 小説家・評論家・中国文学者
・学生の頃より創作に励む。応召、復員後、旧制高校教授として高橋和巳、篠田一士らを教えた。
・その後も久しく大学の教壇にあったが、一方で、創作や評論、翻訳などを精力的に発表。
・主な著作に、『島』『遠景と近景』『水滸伝(翻訳)』など、収録作は1982年。
▷『中国書人伝』芸術新聞社、1985年12月
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、255頁)

『晋書』の「王羲之伝」の書き出し


<王羲之、字は逸少、司徒導の従子なり>
・司徒導というのは、東晋の元勲であった宰相王導(276~339)のことである。
 父の名を書かずに、父の従兄弟(いとこ)にあたる王導の名を挙げている。
・従子とは、父の兄弟姉妹の子(つまり甥あるいは姪)のことだが、王羲之は王導の甥ではない。
 従兄弟の子なのである。
(ただ、大家族の排行(はいこう)の上で従兄弟同士も兄弟とみなすならば、王羲之は王導の従子といってもよいのかもしれない)
・なぜ、父の名をはぶいたのか?
 王羲之の父は王曠(おうこう)という。西晋の末年に淮南太守になったといわれている。
 そのころ、西晋の王族(司馬氏)の瑯邪(ろうや)王司馬睿は、西晋王朝に見切りをつけていて、自分の封地の瑯邪(山東省東南部の江蘇省に接する地)にもどろうとしていたところ、たまたま徐州軍事総督に任ぜられた。
 司馬睿は任についたが、北方の動乱が瑯邪をふくめてこの地にまで及んでくることは必至であると見て、瑯邪の王氏の王導やその従兄弟の王敦(266~324)らとともに、今後の拠るべき地について協議を重ねていた。その密談の席へ乗り込んできたのが、王曠だった。
 「謀叛の相談か。仲間に入れてくれなければ密告するぞ」と彼はいった。司馬睿はしかたなく仲間に加えると、王曠は、江南の地へ退いてそこを根拠にすべきであると主張した。
 王曠の主張で衆議は一決した。司馬睿はそこで、願い出て徐州軍事総督から揚州軍事総督に転じ、三国の呉の首都だった建康(今の南京)に進駐した。

※王曠については、この江南の地を根拠にすべきであると主張したということのほかには、格別の伝録がない。
※南朝の宋の劉義慶(403~444)が著した魏晋の人物のエピソード集である『世説新語』にも、王曠の名はない。

※王曠という人が早く死んだらしいことは、王羲之が永和11年(355)会稽内侍を辞任するときに書いた祭墓文に、
<羲之不天(ふてん)、夙に閔凶(びんきょう)に遭い、過庭(かてい)の訓(きん)を蒙らず、母兄(ぼけい)に鞠育されて庶幾(しょき)に漸(ちかづ)くを得たり>
とあることによって知られる。
・「閔凶」とは、父母の死という意味である。
・「過庭の訓」とは、庭訓(ていきん)、家庭教育の意。
・「母兄」とは、母を同じくする兄という意味である。
⇒つまり、王羲之は、幼いときに両親を失い、従って家庭教育を受けることなく、兄に養育されて成人した、というのである。
(ただ、王羲之に兄があったということは、『晋書』にも『世説新語』にも記されていない)
 幼くして父母を亡くした王羲之は、同族の族長である王導の屋敷に引きとられて、排行を同じくする者たちといっしょに一棟に住んでいたようだ。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、61頁~63頁)

『世説新語』の王羲之のエピソード


※次のような『世説新語』のエピソードがそれを示している。

<太傅の郗鑒(ちかん)が京口(建康の東、鎮江県)にいたとき、宰相の王導のところへ使者を送って手紙をとどけ、娘に婿をもらいたいと申し入れた。すると王導はその使者にいった。
「東の屋敷へ行って、気に入った者をお選びください」
使者は京口へ帰って郗太傅に復命した。
「王家の息子さんたちは立派な方ばかりでした。ただ、お婿さんをさがしにきたということがわかると、みんなとりすましておられましたが、お一人だけ、東側の寝台の上に腹ばいになったままで、まるで関心のない様子の方がおいででした」
郗太傅はそれをきくと即座に、
「よし、それにきめた」
といった。王家へ問いあわせてみたところ、それが王羲之だった。そこで郗太傅は娘を王羲之のもとへ嫁がせた>

・この郗鑒の娘は名を璿(せん)といった。郗璿は王羲之とのあいだに七男一女を生み、王羲之の死後、三十余年も長らえて90歳を越える長寿を保った。七男のうちの末子が王献之である。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、63頁~64頁)

王羲之の生年と没年の謎、エピソード


・不明なのは、父のこと、母のこと、兄のことだけではない。
 王羲之その人についても不明な点が多く、その生没年についてもさまざまな説がある。

・生年と没年については、魯一同(ろいつどう)の『右軍年譜』の推定を妥当とする人が、近年は多い。
 それに従えば、王羲之は永嘉元年(307)に生れ、興寧3年(365)数え年59歳で死んだということになる。
 その生年の永嘉元年は、7月に司馬睿が王導や王敦らに従えて建康に進駐した年である。
 そのとき王義之の父の王曠も、司馬睿に従ったと思われるが、王曠は淮南太守だったというから、あるいは徐州から淮南の郡治である今の安徽省寿県に帰ったかもしれないし、建康に進駐した後に帰ったかもしれない。

<注釈>王羲之の生没年代について
・王義之の生没年については、諸説ある。
・駒田信二氏は、清の魯一同(1805~1863)の説をもとに、記述している。
・しかし、近年、比較的信頼性があるとされているのは、王義之の生没年を303年~361年である。(だから、駒田氏の記述にみられる王義之の年齢にはズレが生じるので注意)
※王義之の生没年代については、 
 ・303年~361年(『東観余論』の説)
 ・307年~365年(清の魯一同の説)
 その他、306年~364年、321年~379年、および303年~379年(姜亮夫の説)がある。
(ウィキペディアの王義之の項目、および次の福田哲之論文を参照のこと)

〇福田哲之
「王義之 生卒年代の再検討――魯一同「右軍年譜」を中心として」
(『福島大学教育学部論集』第45号(人文科学)、1989年、1~10頁)
※この論文は、ネットで閲覧可能である。

なお、福田哲之氏は、その論文で次のように英文で要約している。
Tetsuyuki FUKUDA
“Re-Examination of the Years of Wang Zi-zhi’s (王義之) Birth and Death
---- As Regards “You-Jun Nian-Pu”(右軍年譜) written by Lu Yi-tong (魯一同) ----”

 This paper is written about the years of Wang Zi-zhi’s (王義之) birth and death
which are important for the history of Chinese calligraphy.
  Lu Yi-tong (魯一同) writes in his “You-Jun Nian-Pu”(右軍年譜) that Wang Zi-zhi
(王義之) was born in 307 and died in 365. This is now widely supported. But when
we examine the ground of his argument in detail, we can find the theory groundless.
  On the other hand, Tao hong-jing (陶弘景), in Liang (梁), insists in his “Zhen-Gao”
(真誥) that Wang Zi-zhi (王義之) was born in 303 and died in 361. Lu Yi-tong (魯一同)
misunderstood this theory by the “Shu-Duan” (書断), written by Zhang Huai-guan
(張懐瓘) in Tang (唐). This theory can be supported when one studies the calligraphy,
Dao-Jiao (道教), and so on in detail.



・問題はそのころ王義之の母がどこにいたかということである。
 そして王義之の生れたのが7月よりも前だったのか、後だったのか、ということである。
 それらによって王義之の生れた土地もちがってくるはずだが、建康で生れたということはあるまい、と駒田氏は推測する。瑯邪か、淮南の郡治の寿県かという。

・そして、いつまでその土地にいたのか、幼くして父母に死別したのはいつか、それらのことはわからない。ただ、郗鑒の娘を娶ったのは16歳のときだから、そしてそのときは瑯邪の王氏一族の族長王導の屋敷にいたわけだから、彼が王導に引きとられたのは、それより数年前、おそらくは司馬睿が建康において晋の王位についた太興元年(318)前後であろうと、駒田氏は考える。
(太興元年とすれば王義之は11歳である)

〇そのころのエピソードが、『晋書』や『世説新語』には、幾つも見られる。
・王義之は少年のときからすでに能筆の評判が高かったが、甚だ口重(くちおも)だったという。
一説には、癲癇(てんかん)の発作のために、ひどいどもりになっていたともいう。
 従って、人前に出ることをいやがる、引込み思案の少年だった。
 このことは、幼いときに両親を亡くしたことと、あるいは、かかわりがあるのかもしれない。

・そういう少年の気持を引きたてて、弱気を強気に転じさせていったのは、王導と王敦だった。
 ある日、少年がそのころ大将軍の官にあった王敦に呼ばれて、その部屋で遊んでいると、司空の王導と近衛軍司令の庾亮(ゆりょう)がたずねてきた。庾亮は堂々たる体軀の論客だった。
 少年が気圧(けお)される思いで、そっと部屋から出ようとすると、王敦が呼びとめていった。
「大きな躰で大声を出すからといって、なにもおそれることはない。おまえの大叔父さんの司空がいるじゃないか、近衛軍司令だってこわがることはないよ」
 13歳のときには、王義之はもう弱気を克服していたようである。
 尚書左僕射の周顗(しゅうがい)は豪放な性格と酒好きで知られていた人だが、ある日、宴会を催して高官たちを招いた。王導らとともに王義之も招かれたのである。そのとき周顗は牛の心臓の丸焼きを、まっさきに王義之にすすめた。
「わたしのような弱輩にどうして」
と王義之がきき返すと、周顗は、
「主人のわたしがすすめるのだ、遠慮することはない」
といった。満座の者が王氏一族の少年に注目していると、王義之は、
「それでは頂戴します」
といい、その丸焼きの心臓を切り割いてむしゃむしゃと食べた。
※王義之の評判は、それから東晋の貴族社会の中で、にわかに高くなったという。 
 これはおそらく、かつては引込み思案だった少年が、それを裏返して反骨を見せはじめたという意味のエピソードなのであろうと、駒田氏はコメントしている。

・王義之が郗鑒の娘を娶ったのは、それから3年後の16歳のときだった。
 その年、王義之のいわば育ての親の一人であった王敦が反乱をおこして、長沙を奪った。
 司徒であると同時に王氏一族の族長でもあった王導は、反乱軍の討伐に力をつくした。
・そして2年後の太寧2年(324)、反乱軍を破り、王敦を敗戦の中で死に至らしめた。
 そのとき、王義之は18歳だった。
 王導も王義之にとっては親代わりの大恩人である。

※王義之は、この二人の、道を別にしてしまったそれぞれの行動を、どう見ていたのであろうか。
 おそらくは権力を握った者の運命のようなものを見たのではなかろうか、と駒田氏は想像している。王義之が王氏一族の逸材として貴族社会の中で注目を浴びながら、容易に官途につこうとしなかったことの中に、それがうかがわれる、とする。官途についてからの出処進退の中にも、それがうかがわれるらしい。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、64頁~67頁)

王羲之の経歴と思想


・咸和9年(334)、28歳のとき、王義之は征西将軍庾亮の招きに応じ、参軍として武昌へ行き、数年間をその地ですごした。これがはじめての任官だったのである。
※『晋書』にはそれ以前すでに秘書郎の官にあったと記されているが、いつごろか判然としないところに疑問が感じられるし、また後に王義之が殷浩に送った書簡に、自分には廟廊(びょうろう)の志(宮廷に仕えたい気持)はなく、叔父宰相(王導)にもしばしば任官をすすめられたが応じなかった、と書いていることとも矛盾するという。

・東晋の国土は揚子江の南岸だけであって、華北の地はすべて匈奴・羯(けつ)・鮮卑・氐(てい)・羌(きょう)のいわゆる五胡に占領されていた。
 南遷してきた漢民族の東晋にとっては、中原を回復して長安・洛陽の古都に帰るということは悲願だったのである。
 従ってしばしば北伐の軍をおこして五胡と戦いもしたが、同時にまた、江南の地に住みついて、その風土になじんでくると、次第に定着性が身についてきて、北帰の念願がうすれてもいく。
 
※王義之には、廟廊の志はなかったが、辺境の地への関心は強かった。
 王義之よりも年長の者にとっては江南の地は南遷してきた地だったが、王義之にとっては江南の地は自分たちの地なのだ。この地で成長したのであって、中原の地を知らないのである。従って、中原を知っている者のような北帰の念願はなかったといってよいと、駒田氏はみている。
 辺境の地への関心は、王義之の場合は、自分の成長した江南の地を守るためだったという。

・王義之が、庾亮の招きに応じ、参軍として武昌へ行ったのは、庾亮が北伐の主張者だったからかもしれない。庾亮の弟の庾翼も北伐の主張者だった。
 この庾翼はかつて、王義之が庾亮に送った章草(草書の一体)の書簡を見て感嘆し、「自分は以前、伯英(張芝)の章草を愛蔵していたが、戦火の中で失ってしまった。今あなたの煥(かん)として神明の如き章草を見て、まことによろこびにたえない」という意味の書簡を送ったことがあった。
 ※王義之の書は、そのころすでに完成の域に達していたといわれている。

・咸康5年(339)、王導が死に、つづいて郗鑒も死んだ。そしてその翌年には、庾亮が死んだ。
 永和2年(346)、庾亮が征西将軍だったときの幕僚の殷浩が楊州刺史になり、王義之に書簡を送って、仕官をすすめてきた。
 そのときの王義之の返書のなかに、さきに引いた「廟廊の志」のないということが記されている。
 そして、つづいていう。「もう子供たちもみな片づいたので、隠遁生活を送りたいと思っている。しかし、もし辺境の地へ行けといわれるなら、どんなところへでも行く」

・その結果、王義之は護軍将軍に任命された。その後間もなく、宣城郡(安徽省宣城県)へ行きたいと願いでた。
 そこには、山越(さんえつ)と呼ばれている原住民の住んでいる山嶽地帯があった。山越はしばしば反乱をおこした。王義之はその鎮圧と宣撫工作とを行なおうとしたのである。
 だが、その願いは却下された。
 その末に、王義之は、右軍将軍という官位で、会稽郡内史(ないし)の職につくことを命ぜられた。永和7年(351)、45歳のときである。

※世俗を避けて隠遁したいという心を持つ反面、官職につけば辺境の地へ出たがり、動乱の地へ行きたがる名門王氏一族の有名人を会稽郡内史にしたということは、内地(揚子江以南の地)に封じ込める、あるいは敬して遠ざける、という意味があったかもしれないという。
 
※会稽郡は、「山陰道上に従いて行けば、山川自ら相映発(えいはつ)して人をして応接に暇(いとま)あらざらしむ」といわれた風光明媚の地である。また、王氏一族や謝氏一族などの貴族の荘園が散在する富裕な郡であって、皇子が王として封じられるところであった。
 郡の長官は太守と呼ばれるが、会稽郡の長官を太守と呼ばずに内史というのは、王国の領する郡だったからであるそうだ。
 敬して遠ざけられたのだったとしても、優遇だったようだ。

・右軍将軍会稽郡内史という官位が、王義之のついた最後の官であり、そして最高の官でもあった。
 王右軍と呼ばれるのはそのためである。
 名門貴族の俊英のついた最後の官としては、高いものとはいえない。
 しかし王義之にも会稽郡内史という職は不満ではなかったはずである。
 この地には、尚書僕射の謝安(しゃあん)の別荘があった。
 道士の許詢、僧支遁(道林)などもこの地に移ってきていた。王義之はそれらの人々や、土着の豪族孔巌らと交わりながら、会稽郡内史としての職責をつくすことにも努めた。

・『世説新語』に、王義之と謝安との、次のような対話が記されている。
<王右軍と謝太傅とが、いっしょに冶城(やじょう、建康の東南にある城)に登った。謝太傅が悠然として思いを馳せ、世俗を超越する心境にひたっていると、王右軍が声をかけた。
「夏の禹王は政治に努めて、手足に胼胝(たこ)ができるほど国中を歩きまわり働きまわったというし、周の文王も政治に努めて、夜になってからようやく食事をしてもまだ日が足りぬほどだったという。今は絶えず五胡の脅威を受けていて、人々はそれぞれ国家のために力をつくさなければならないというのに、空虚な談論にふけって仕事をなおざりにしたり、軽薄な文章をたっとんで要務のさまたげをしたりしていることは、時宜にかなったことではあるまい」
すると謝太傅は答えた。
「秦は法治主義の商鞅を起用し、きびしく人々をしめつけて富国強兵をはかったが、わずか二代で滅んでしまったではないか、清談がわざわいをもたらしたというわけではなかろう>

【『世説新語』に見られる、王義之と謝安との対話で注目したい点】
王義之が、夏の禹王や周の文王の政治に言及していることや、謝安の話の中で、秦は法治主義の商鞅を起用した点、富国強兵をはかって、わずかに二代で滅んでしまったことを例示に引いていることが興味深い。そして、この時代の風潮であった清談にも触れている。

※謝安は官僚としても文人としても、よく時代の風潮を体得した知識人で、王義之を清談に引き入れた一人だといわれている。
 王義之の思想が老荘から仏教、さらには五斗米道へと傾いていったのは、謝安のほか、僧支遁らとの交友によってであると、駒田氏は解説している。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、67頁~71頁)

王羲之の「蘭亭序」


・永和9年(353)3月3日、王羲之は会稽郡山陰県(ここに郡治があった。今の浙江省紹興)の名勝蘭亭で禊(みそぎ)が行なわれたとき、清談の友を招いて宴遊した。
 集まったのは謝安ら41人。このとき集った人たちが作った詩を一巻にまとめ、その巻首に王羲之が自ら筆をふるって書いたのが、有名な「蘭亭序(らんていじょ)」である。

※その文章には、王羲之の当年の思想がよくあらわれている。
 その書き下し文を掲げている。

 永和九年、歳(とし)、癸丑(きちゅう)に在り。暮春の初(はじめ)、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事を脩むるなり。群賢畢(ことごと)く至り、少長咸(みな)集(つど)う。此の地、崇山峻領(嶺)にして、茂林脩竹あり、また清流激湍ありて、左右に暎帯す。引いては以て流觴の曲水を為し、其の次に列坐す。糸竹管弦の盛無しと雖も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙するに足る。
 是の日、天朗(あきら)かに気清く、恵風和暢す。仰いで宇宙の大いなるを観(み)、俯して品類 の盛んなるを察(み)る。目を遊ばしめ、懐(おもい)を馳する所以にして、以て視聴の娯(たのしみ)を極むるに足る。信(まこと)に楽しむ可きなり。夫れ人の相与(とも)に一世を
俯仰するや、或は諸(これ)を懐抱に取りて一室の内に悟言し、或は寄託する所に因りて形骸の外に放浪す、趣舎万殊にして、静躁同じからずと雖も、其の通う所を欣(よろこ)び、暫く己に得るに当りては、怏然(おうぜん)として自足して、老の将に至らんとするを知らず。其の之く所既に惓(う)み、情、事に随って遷(うつ)るに及んでは、感慨之に係る。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎょう)の間に、以(すで)に陳迹と為る。猶之を以て懐を興(おこ)さざること能はず。況や脩短、化に随い、終に尽を期するをや。古人云う、死生も亦大なりと。豈痛まざらんや。毎に昔人の感を興すの由(よしみ)を攬(み)るに、一契を合わすが若し。未だ嘗て文に臨んで嗟悼せずんば非ず。之を懐に喩すこと能はず、固(まこと)に死生を一にするは虚誕たり。彭殤(ぼうしょう)を斉しくするは妄作たることを知る。後の今を視ること、亦由(なお)今の昔を視るがごとし。悲しいかな。故に時の人を列叙して、其の述ぶる所を録す。世殊に事異(い)なりと雖も、懐を興す所以は其の致(むね)一なり。後の攬る者、亦将に斯の文に感ずること有らんとす。

・王義之は、俗塵を遠くに見て清談の友人たちと宴遊することを事としていたわけでは決してない。
 王義之が会稽郡内史として誠実であったことは、『晋書』に載せられている謝安にあてた書簡一つを見ても明らかである。
 それは王義之が、この地方に課せられる繁重な賦役を軽減するように上疏して争い、ついに成功したことや、北方役人の不誠実さを直視して官紀を粛正したことや、住民の生活を安定させるために積極的に努力したことなどのうかがわれる書簡であるという。

・しかも王義之は会稽郡内だけに眼を向けていたわけではない。北方政策にも絶えず注意を払って、当事者たちに忌憚なく意見を述べた。
永和2年(346)、桓温(かんおん、312~373)が成(五胡の一つの氐族)を討ち、翌年これを滅ぼして征西大将軍・臨賀郡公になった。
 そのとき会稽王昱(いく)は、殷浩を重用して桓温を牽制させた。
 その後、殷浩は桓温と争って無謀な北伐をくわだてる。
 王義之にとって殷浩は、その下で護軍将軍となったことがあるという点で、恩顧を受けた人である。しかし、王義之は、殷浩の北伐をあやぶんで、中止するよう再三忠告し、会稽王昱にも書簡を送って、殷浩の北伐をやめさせるよう進言した。
 そこには、敗戦によって招く祖国の損失を憂える衷情からの忠告だったのである。
 だが、殷浩はきかず、敗戦して失脚した。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、68頁~73頁)

王羲之の退官後


・永和11年(355)、王羲之は病と称して、会稽郡内史を辞任した。
 王羲之とは意見の合わなかった前任者の王述が、殷浩の失脚後、楊州刺史になり、会稽郡の行政監察を行なったことが辞任の動機だったという説もある。
・退官後も王羲之は会稽に住みつづけた。
 そして、さきに蘭亭に集った人たちの中心になって、山水に遊び、清談を楽しんだ。
 道士許邁(きょまい)とともに東南の諸郡を遍歴したこともある。
 ある道士に「道徳経」(『老子』)を書いて与え、一羽の鵞鳥と交換したというのも、そのころのエピソードである。
・「東方朔画賛」、「黄庭経」、「孝女曹娥碑」など、今日法帖によって伝えられている彼の書も、みな退官後に書かれたものといわれている。

・ただ、王羲之は隠遁者になってしまったわけではなさそうだ。
 北方政策には、絶えず注意を払っていた。
 「孔侍中帖(こうじちゅうじょう)」とともに王羲之の真蹟を鑑賞するには最上のものといわれている「喪乱帖(そうらんじょう)」は、永和12年(356)、桓温が洛陽を奪回し、瑯邪にある王氏の祖先の墓が修復されたということをきいて歓喜し、まもなくそれらが再び失われたことを悲しんだものと解されているが、これは北方に対する(つまり祖国の安否に対する)彼の関心の深さのあらわれに他ならない。

※王羲之は、その伝記には不明な部分が少なくないけれども、彼は世(名利という意味ではない)を捨てることのできない現実主義者であって、自分自身に対しても他者に対しても、真正直に生きた人と、駒田信二氏は理解している。
 この時代の知識人の多くがそうだったように、隱逸にあこがれる一面はあったけれども、隱逸をよそおって自分を韜晦(とうかい)するような人ではなかったとする。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、61頁~75頁)

「喪乱帖」(口絵より)



「喪乱帖」
羲之頓首。喪亂之極。先墓再離荼毒。追
惟酷甚。號慕摧絶。痛貫心肝、痛當奈何
奈何。雖卽脩復。未獲奔馳。哀毒益深。
奈何奈何。臨紙感哽。不知何言。羲之頓
首頓首。
二謝面未。比面。遲詠良不
靜羲之女愛再拜。
想邵兒悉佳。前患者善。
所送議當試尋省。
左邊劇。
得示知足下猶未佳。耿々。吾亦劣々。
明日出乃行。不欲觸霧故也。遲散。羲之
頓首。
(王羲之「喪乱帖」『王羲之全書簡』森野繁夫・佐藤利行編著、白帝社刊より)

羲之頓首、喪亂の極(きわ)み、先墓再び荼毒(とどく)に離(かか)る。追惟(ついい)しては酷(いた)み甚(はなは)だしく、號慕(ごうぼ)摧絶(さいぜつ)し、痛みは心肝(しんかん)を貫(つらぬ)く、痛みは當(は)た奈何奈何(いかんいかん)。卽ち脩復すと雖(いえど)も、未(いま)だ奔馳(ほんち)するを獲(え)ず。哀毒(あいどく)益々(ますます)深し。
奈何せん奈何せん。紙に臨(のぞ)んで感哽(かんこう)し、何の言あるかを知らず。羲之頓
首頓首。
二謝(にしゃ)、面するや未(いま)だしや。比(このこ)ろ面するも、詠に遲(おく)れ、良(まこと)に靜(おだや)かならず。羲之女愛、再拜。想うに邵(しょう)の兒(こ)は悉(ことごと)く佳(か)ならん。前(さき)に患(わずら)う者も善(よ)からん。送る所の議(ぎ)、當(まさ)に試(こころ)みに尋省(じんせい)すべし。左邊(さへん)劇(はげ)し。
示を得て、足下(そっか)の猶(な)お未(いま)だ佳(か)ならざるを知り、耿耿(こうこう)たり、吾(われ)も亦(ま)た劣々(れつれつ)たり。明(あす)、日出(い)ずれば乃(すなわ)ち行(い)かん。霧に觸(ふ)るるを欲せざるの故(ゆえ)也(なり)。遲散。王羲之頓首。



「顔眞卿」 井上靖~小松茂美編『日本の名随筆64 書』より


井上靖氏のプロフィール


・1907年生まれ 小説家
・近年のシルクロードへの一般の関心を高めた一人で、名作『敦煌』(1959年)をはじめ、中国、西域を舞台にした作品は数多い。
・また、美術評論家としてもきわめてすぐれ、西洋絵画から東洋美術までその対象の幅の広さと着眼の妙、思索の深さには定評がある。『エッセイ全集』だけで10冊を数える。
▷『中国書人傳』(中田勇次郎編)中央公論社、1973年11月
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、255頁)

西安の碑林


・1964年(昭和39年)、井上靖氏は、招かれて中国に赴き、その折、西安の碑林を訪ねた。
 唐、宋以後の石碑や法帖の石刻600余面が収蔵されてある、世界的に有名な場所である。
 そこへ足を一歩踏み入れてみた時、文字通り碑の林だと思ったという。
 大きな石碑の一つ一つが他とは無関係に己れを主張しているような奇妙な印象を受けた。一堂に集めるべきでないものを集めてしまったといった、そんな不気味さと恐ろしさがあったという。

※美術作品となるとこのようなことはない。ルーブルであれ、プラドであれ、ウフィツであれ、そこに並べられている絵や彫刻は、それぞれに自己を主張してはいるが、おだやかな形において自己を主張しているようなところがあって、それほどきびしく他を拒否してはいない。不気味さも感じなければ、恐ろしさも感じない。

・その点、碑林は全く異なっていたようだ。
 そこに置かれてある何面かの碑は、厳として他を許さぬ何個かの精神であり、人格であったと記す。碑というものに対して、石の面(おもて)に刻みつけられた文字に対して、これまでの考え方を根本的に改めなければならぬような思いにさせられたようだ。

〇井上靖氏は、西安の碑林で、顔真卿の二つの碑を見たという。
①「唐多宝塔感応碑」
・頭部を欠いた亀の上に乗っている碑
・碑頭には、“大唐多宝”“塔感応碑”と四字ずつ二行に刻まれてあり、二行とも最下位の文字の“宝”と“碑”の部分はむざんに壊れている。そして碑の面には、ぎっしりと小さい文字が刻まれている。
・これが顔真卿の文字として、書道の本でよくお目にかかっているあの高名な拓本の原物であるかと思った。
・天宝11載(752)の顔真卿の筆になり、44歳の壮年期のもので、顔真卿の正書の中で、最も広く世に知られているものである。

②「顔氏家廟碑」
・これは建中元年(780)、顔真卿72歳の時の書である。これも顔真卿の正書の代表的なものとして有名である。
(この拓本にもまた、書道の本を開く度に必ずお目にかかっている)
・この碑も亀の台石の上に乗っているが、「唐多宝塔感応碑」の場合とは異なって、亀は頭部を欠くことなく、満足な形を保っている。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、76頁~77頁)

顔眞卿の書


〇顔眞卿の書から私たちが受けとるものは、ひと口に言うと、古武士的なもの、古武士的な精神のたたずまいの立派さである、と井上靖氏はいう。
・妥協も阿諛(あゆ)も、ごまかしも、甘えも、いっさいのそうしたものの通用しない精神であるという。
 強固な意志、信念、誇り、そうしたものがその形成に参画している精神である。
 もちろん、顔眞卿の書も、その書体によって異るし、初期、中期、晩年と、その長い生涯の時期時期によって、かなり大きい変化を見せている。しかし、顔眞卿の書である限り、上述した特色はすべてのものを一貫して流れていると言えるとする。剛勁とか剛直とかいう言葉を以て評せられるゆえんである。

〇書というものはふしぎなものである。
 書とそれを書いた人との関係は、美術における作品と作者の関係とは違い、もっと直接的である、と井上靖氏はいう。
 こうした関係は、特に顔眞卿の場合において目立っている。
 そもそも顔眞卿なる人は、書というものをそのようなものとして考え、そのようなものとして筆をとり、まさにそのようなものとしての書を生み出したのである。
 顔眞卿の書道史上に占める位置は、書というものに対するそうした考え方の確立者としての重さと大きさである。書を人と不離一体のものとしたことである。
・顔眞卿の書は、顔眞卿という一個の非凡な人格の表出であり、それ以外の何ものでもないのである。顔眞卿という書というものに関して、このような理念を打ちたて、それを自ら完璧な形において実践した人と言える、という。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、78頁~79頁)

顔眞卿という人と書


〇顔眞卿とはいかなる人であろうか。
 いかなることをし、いかなる人生を歩んだ人であろうか、と井上靖氏は問いかける。

 その書が永遠の生命を持つ独自なものであるように、顔眞卿その人の人となりも、その生涯も、独自であり、非凡である。
 その書を真似ることができないように、顔眞卿の生涯も、その生き方も、また余人が企てて遠く及ばないものなのである。剛勁であり、剛直である。

【顔眞卿の出自と経歴】
・顔眞卿は字は清臣(せいしん)、琅邪臨沂(ろうやりんぎ)の人である。
・「顔勤禮碑」、「顔氏家廟碑」において、顔眞卿自身が記しているように、その家は学者の家柄であり、能書家の一門である。

〇安禄山の叛まで、顔眞卿がいかなる人生の道を歩いて来たか、そのあらましを、宋の留元剛(りゅうげんごう)の「顔魯公(がんろこう)年譜」によって、井上氏は拾っている。

・開元22年、26歳にして進士に挙げられ、28歳にして朝散郎秘書省著作局校書郎という役目を授かる。
・これを振り出しに顔眞卿は、文官吏としての道を歩き、京兆府醴泉(れいせん)県尉、長安尉を経て、天宝6載、39歳の時、監察御史に進む。
・そしてこの年、河東朔方軍試覆屯交兵使に当てられ、地方を旅し、翌7載には河西隴右(ろうゆう)軍試覆屯交兵使に、翌々8載には再び河東朔方軍試覆屯交兵使に当てられている。
・天宝8載、41歳の時、殿中侍御史(でんちゅうじぎょし)になるが、間もなく東都採訪判官に遷(うつ)される。
 これは政界内部の争いを難詰して、宰相李林甫(りりんぽ)と並ぶ時の権力者楊国忠一派の憎むところとなったためである。
・しかし、翌9載には再び侍御史となるが、これも長くは続かず、11載にはまた武部員外郎判南曹という役に転出する。
・12載、45歳の時、平原太守。そして在任2年にして、顔眞卿は任地において、安禄山の叛を迎えることになったわけである。

以上が、顔眞卿45歳までの経歴のあらましである。
 
〇この期間の顔眞卿の人となりを示す挿話を、殷亮(いんりょう)の「顔魯公行状」によって拾っている。
・顔眞卿は39歳にして監察御史になっているが、この役は地方官の非行、腐敗をただすのを任としている。河西隴右方面の査察旅行の折、五原郡では旱魃が続いていた。ところが、顔眞卿が無実の罪で入獄している者あるを知って、それを救い出すと、たちまちにして降雨があった。監察御史顔眞卿が政治の紊(みだ)れを直したための雨であるとし、地方の人たちはこれを御史雨と呼んだという。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、81頁~83頁)

〇顔眞卿が中国の歴史の上に花々しく登場してくるのは、安禄山によって引き起され、一時唐朝の存続をその根柢から揺すぶった天宝の大乱の時である。
 もし安禄山の叛乱事件がなかったら、顔眞卿の名は、中国書道史上において今日と変りない大きさを持っているとしても、その名から受けるものは大分異ったものになっていたに違いないという。

・今日、中国書道の改革者としての顔眞卿という大きい名は、既倒の危きにあった唐朝を孤軍よく支えた誠忠の人顔眞卿の大きい名と重なっているからである。
・それからまたいまに遺る顔眞卿の筆蹟の大部分のものは、安禄山が叛した天宝14載以降のものである。つまり、顔眞卿が乱後の端倪すべからざる複雑な政情の中に己れを貫きとおしている時に生まれたものである。
●「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」
 ●「祭伯文稿(さいはくぶんこう)」
 ●「争坐位帖(そうざいじょう)」
 ●「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」
 ●「大唐中興頌(だいとうちゅうこうしょう)」
 ●「顔氏家廟碑」
 これらはみな然りである。

・その叛によって、武人としての顔眞卿の名を不朽のものとしたばかりでなく、書家としての顔眞卿を大成させる大きなきっかけを作ったと言える。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、79頁~80頁)

安禄山の乱と顔眞卿


・安禄山が突如范陽(はんよう)に叛したのは、天宝14載(755)11月である。
 異民族の出である安禄山は、時の皇帝玄宗の寵愛を受け、辺境一帯の権力者としての地位を獲得、ひそかに異志を蓄えること十年、機熟して叛旗をひるがえすに到った。
――禄山、鉄轝(てつよ)に乗り、歩騎精鋭、煙塵千里、鼓譟(こそう)して地に震う。時に海内久しく承平にして、百姓、累世、兵革を知らず、にわかに范陽の兵起ると聞き、遠近震駭す。
「資治通鑑」は、こう記している。

また詩人白居易が「長恨歌」において、
「漁陽の鼙鼓(へいこ)地をどよもして来り」と歌っているのは、この時のことである。

・安禄山の叛が唐朝に伝えられたのは、安禄山が大軍を率いて范陽を発してから6日経っていた。
 この日から都長安は混乱の坩堝と化した。
 直ちに将軍封常清は命を受けて、東京(とうけい、洛陽)に赴き、6万の兵を募って、敵の大軍を迎え討つ備えを固めた。それから旬日を経ずして、早くも安禄山の軍は東京に迫ろうとする。
 おそらくこの頃、唐朝に平原太守顔真卿から密使が派せられた。
 禄山の叛と、それによる山東省一帯の動きを奏して来たものであった。禄山の南下に際して、河北24郡ついに一人の義士もないか、と悲観的観測が行われている時だったので、玄宗の悦びはたいへんなものであった。

・「自分は顔真卿がどんな顔をしていたか覚えていない。それなのに、顔真卿の方はこのように忠勤をぬきんでてくれる」。玄宗は言った。
※この話は、新、旧「唐書」にも「資治通鑑」にも出ている。
⇒このような形において、顔真卿は歴史の上に登場してくるのである、と井上靖氏はいう。
 いやしくも平原太守である。都に在る時は、何回も玄宗に謁しているに違いないのであるが、いっこうに玄宗の記憶にのこっていないとうことは、奇妙と言えば奇妙であるが、顔真卿とはそのような人物であったのである、という。
 権力者の記憶に残るようないかなる自己表現も、顔真卿とはもともと無縁であったのである。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、80頁~81頁)

・さて、天宝15載(756)、春正月、安禄山はついに大燕皇帝を称し、年号を聖武と改元する。
 こうした情勢のもとに官軍賊軍相対峙したまま、容易に戦機は動かなかった。
 安禄山も病み、哥舒翰もまた病んでいたのである。この時期、唐朝に僅かでも明るいものがあるとすれば、都長安を遠く離れた地方地方で、武人が兵を挙げていることである。捷報もあれば、敗報もあったが、節を守って難に赴く士は漸く全国各地に現われ始めたのである。
 李光弼、郭子儀、張巡といった人人である。こうした気運を作ったのは顔真卿であり、その従父兄に当る常山郡の太守顔杲卿(がんこうけい)であった。
 顔杲卿の方は武運拙く、敵の大軍に包囲され、その身は捉えられるに到る。顔杲卿が安禄山の前に引き出されて処刑されたという悲報は、2月長安に届く。

・戦機は動かぬままに、春は去った。この頃から将軍哥舒翰に対するあらぬ風評が流れ始め、疑心暗鬼に躍らされた唐朝は、自ら敗亡の源を作っていく。
 聖旨に従って、哥舒翰が全軍に出動の命を発したのは、6月10日であった。
 霊宝県の西原で、それぞれ興廃を賭けて、安禄山の軍と唐軍はついに干戈を交えた。勝敗は1日で決まった。哥舒翰は破れたのである。

・これを境にして、唐朝も、都長安も、未曾有の混乱に陥って行く。
 6月13日、玄宗、宰相楊国忠、楊貴妃等は近衛兵に守られて都を落ちて行く。目指すところは蜀の国である。しかし、都から程遠からぬ馬嵬(ばかい)駅において、事態は楊国忠、楊貴妃をはじめとする楊氏一族が兵たちによって誅されるという悲劇に発展して行く。
 そして蜀へ向う途中、玄宗は太子亨(こう)を留めて人民を慰撫せしめることし、太子と兵士たちと別れる。この時が唐朝にとって最も暗い時だった。玄宗皇帝は楊貴妃を喪(うしな)った悲しみの涙がまだ乾かぬ時、太子亨とも別れなければならなかった。

・玄宗が蜀にある一年の間に、天は再び唐朝に味方し、時代は大きく転換してゆく。
(霊武における太子亨の即位、将軍郭子儀、顔真卿などの活躍、回紇(ウイグル)からの救援、安禄山の非業の死、そして、長安、東京の回復。)
 玄宗が都を棄ててから、叛軍の勢力は大きくなり、郭子儀、李光弼などの将軍も河北から兵を引き揚げて行かざるを得なくなる。顔真卿はそうした情勢の中で最後まで平原城に拠っていたが、ついに城を棄てる決心をしたのは、15載10月である。そして霊武における粛宗(太子亨、この年7月即位)に謁したのは、至徳2載4月である。顔真卿は49歳、憲部尚書兼御史大夫に任じた。

・粛宗が長安に帰ったのは、至徳2載10月のことである。そして安禄山亡きあとの賊軍の総帥である史思明などがたおれ、7年に亘った安禄山の叛乱事件が全く片付いたのは宝応2年、粛宗は亡くなり、そのあとを継いだ代宗の時代である。そして、代宗の時代が15年ほど続いて徳宗の時代へと移って行くが、その間唐朝は少しも平穏とは言えなかった。権臣、宦官入り乱れて、私利私権を争い、政治は腐敗の極に達する。
 こうした時代を顔真卿は生きたのである。しかも節を曲げず、あくまで正しきを正しきとし、誤れるを誤れるとして生きたのである。

※顔真卿は粛宗が長安に帰ったばかりの時、奏している。
――春秋の昔、新宮焼けるや、魯の成公は三日哭したと聞く。いま太廟は賊のために毀(こわ)されている。帝は宜しく野壇を築き、東面して哭し、しかるのちに使者を遣わすべきである。
 顔真卿の礼制を重んずることかくのごとくである。
 非常の時といえども、国家として礼制を軽んじることは許されないというのが、顔真卿の考え方なのである。
ただし、この献言は実を結ばず、顔真卿はこれが禍(わざわい)して、地方に転出することになる。

※顔真卿は3回地方に転出させられているが、その尽くが、権臣、宦官に敬遠されてのことであった。中央の要職についたかと思うと、地方に転出し、また呼び返されて、中央の要職につくといったことを繰返している。地方生活で最も長い場合は10年を越えているが、この地方に在任している期間に多くの文人墨客と交わったことは、文章家として、書家としての顔真卿の大成に大きい役割を果たしたと、井上靖氏は考える。
「祭姪文稿」「祭伯文稿」「麻姑仙壇記」、それから今に遺っていないが「韻海鏡源(いんかいきょうげん)」360巻の編集などは、貶謫地(へんたくち)の生活が生んだものであるという。

・顔真卿が3回目の長い貶地生活を打ちきって、都長安に召し返されたのは、大暦12年(777)である。顔真卿を敵視して都から遠ざけていた宰相元載が殺されたあとのことである。
 時に顔真卿69歳、刑部尚書に返り咲き、翌年、吏部尚書に転じた。
(いずれも唐朝の大官で、顔真卿は漸くにして重く遇されたのである)

・しかし、翌年代宗が薨じ、徳宗の時代が始まると、顔真卿の地位は安定したものではなかった。
 楊炎が宰相に任ぜられると、すぐ顔真卿は吏部尚書から、さして実権のない太子少師という役に移されている。これから翌年にかけて、唐朝は大きく揺れに揺れる。その時、大きい事件は将軍郭子儀が没したことである。やがて李希烈によって引き起こされる大乱へと、時代は歩を進めていた。
 淮西節度使李希烈が叛意を明らかにしたのは、建中3年(782)のことである。
 
・唐朝はたちまちにして安禄山の乱以来の難局に立たされるに到った。
 この時、宰相盧杞は徳宗に奏して、顔真卿は忠直剛決、その名声は天下に聞えている、顔真卿を李希烈のもとに派して、その順逆の理を説かしむべきであるとした。
 直ちに詔は降った。淮西反乱軍を宣撫する使者――淮寧宣慰使というのが、使節としての顔真卿に与えられた役名であった。
(顔真卿に課せられた任務が死を意味する以外の何ものでもないことは、誰の眼にも明らかであった)
・顔真卿は、抜刀した千人の兵に囲まれた中で、李希烈に詔旨を伝えた。
 顔真卿がそのまま叛軍の館に停め置かれたことは言うまでもあるまい。
 やがて李希烈から宰相として仕えることを説く使者が派せられてきたが、もちろん顔真卿の諾
くところとはならなかった。懐柔も、威嚇もきかなかった。顔真卿はすでに死を覚悟していた。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、83頁~88頁)

顔眞卿の最期~「資治通鑑」より


・顔真卿が捕らえられている間に、戦線には多少の変化があった。
李希烈は汝州を棄て、蔡州に移らなければならなかった。それに従って顔眞卿も蔡州に連れて行かれ、竜興寺の一室に幽せられた。
 顔眞卿がどれだけの月日を蔡州竜興寺で過したか、はっきりしたことは判っていない。
・貞元元年(785)のこと、ある日戦線にある李希烈のもとから使者が派せられて来た。

※『資治通鑑』には、次のようにある。
「勅あり」
と、使者は言った。顔眞卿は恭しく頭を下げた。
「いま卿に死を賜う」
再び使者の声が聞こえてきた。
「老臣、無状にして、罪は死に当る」
顔眞卿は自分が死を賜わったことは当然だと思ったのである。
それにしても、もう再びその土を踏むことができなくなった都長安を、使者は一体いつ頃発ってきたのであろうか。顔眞卿はそのことを使者に訊いた。
「大梁より来たのだ。長安から来たのではない」
この使者の言葉で、顔眞卿は自分がとんでもない勘違いしていることに気付いた。
「それならば賊以外の何ものでもないではないか。勅とは何ごとであるか」
顔眞卿は烈しい声で叫んだ。間もなく死がやってきた。顔眞卿は七十七歳で縊殺(いさつ)されたのであった。

翌貞元2年、叛将李希烈もまた部下の将に殺されている。乱が鎮まったあと、顔眞卿の遺骸は長安に送られ、万年県鳳棲原(ほうせいげん)の祖先の墓に合葬された。

〇欧陽脩の「集古録跋尾(しっころくばつび)」巻140には、顔眞卿の「二十二字帖」について記した文章が収められている。
・この人の忠義は天性に出で、その字画剛勁にして独立、前蹟を襲(おそ)わず、挺然(ていぜん)として奇偉、その人となりに似たり。

※武人として、書家としての顔眞卿を評して、まさに至言と言うべきであろう、と井上靖氏は記す。

顔眞卿に対する書論について~井上靖氏の評言


〇顔眞卿の伝記を綴るに当って、一番興味深く感じたことについて、井上靖氏はしるしている。
 顔眞卿礼讃の書論が夥しい数に上ることはもちろんであるが、その反対の否定的批判というものもある。
・それが実に生き生きとして、自由で、辛辣で、しかも充分納得できるものであるということであったという。

〇顔眞卿讃仰の書論の中に挟まって、否定的批評もまた堂々と居坐っている。
顔眞卿に関する古い記述を蒐めた「顔魯公集」の中には、そうした批評も収められている。
・“項羽が兜をかかげ、樊噲(はんかい)が強弓をひっ摑(つか)み、鉄柱でも張ろうとしているが如くで、昂然として犯すべからざる気色だ。”(これなどはなかなか辛辣)
・“頭は蚕で、尾は鼠だ”(当たらないでもない)
・“意を用うるに過ぎ、平淡天成の趣がなく、醜怪悪札の祖なり”
・“書法の壊、顔眞卿より始まる”
・“腕組みして突立っているところは田舎の親父のようだ”
・“肥えて重いところは蒸した餅に似ている”

※顔眞卿は時代時代で否定、肯定の批評を浴びている。
 否定的批判をさえ己が名声を支える道具にしているようなところがある。
 傑作が生き遺るということは、おそらくこうした否定、肯定の中を通って、なお生きたいということであろう、と井上靖氏はいう。
 結論として言えることは、中国が書の国であるということである。顔眞卿の書にしてなおこの批判を受けているのである、という。
(小松茂美編『日本の名随筆64 書』作品社、1988年[1989年版]、88頁~90頁)

【補足】
※『資治通鑑』の原文には、次のようにある。
 李希烈聞李希倩伏誅、忿怒、八月、壬寅、遣中使至蔡州殺顔真卿。中使曰:「有敕。」
真卿再拜。中使曰:「今賜卿死。」真卿曰:「老臣無状、罪當死、不知使者幾日發長安?」
使者曰:「自大梁來、非長安也。」真卿曰:「然則賊耳、何謂敕邪!」遂縊殺之。
(ネットで閲覧可能:維基文庫)

≪【補足 その2】中国文化史~『論語』と渋沢栄一≫

2023-09-17 19:00:12 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その2】中国文化史~『論語』と渋沢栄一≫
(2023年9月17日投稿)

【はじめに】


 吉沢亮という人気俳優がいる。
 この俳優は、映画『キングダム』(原泰久原作、2019年など)で人気を博した。シリーズ1では、秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年、在位:紀元前221年~紀元前210年)になる以前を描いていた。その名もまだ嬴政(えいせい)を名のっている(また嬴政と瓜二つの容姿をした漂の役も演じた)。また、シリーズ2では、呂不韋[佐藤浩市]が登場する。(法家の李斯は、その呂不韋の食客となり、政王に仕える近侍となる)。教科書にもあるように、秦の始皇帝は、法家(李斯)を重用して、法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行なった焚書・坑儒でも知られる。
 一方、その吉沢は、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、主人公・渋沢栄一(1840~1931)を演じた。いうまでもなく、渋沢は、名著『論語と算盤』の中で、道徳と経済の一致を説いたことも周知のことである。
 ということは、吉沢亮は、儒家思想と法家思想という真逆の思想を信奉した、日中の著名な歴史上の人物を奇しくも演じたことになる。
 
 さて、今回のブログでは、儒教の『論語』などを深く理解する意味で、その渋沢栄一の『論語と算盤』を読んでみたい。
 その際に、次の文献を参考とした。
〇渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版] 

※鹿島茂先生は、名著『「レ・ミゼラブル」百六景』(文春文庫、1994年[1998年版])などで知られる、著名なフランス文学者である。なぜ、フランス文学の専門家が、渋沢栄一についての著作があるかといえば、渋沢は幕末(1867年)にパリで行われた万国博覧会に、徳川昭武(将軍慶喜の異母弟)に随行した経験がある。この時の経験を通じて、ヨーロッパ文明に驚き、人間平等主義にも感銘をうけた。この見聞した経験が、渋沢の人生を大きく変えた。
 鹿島先生は、『渋沢栄一 上 算盤篇』および『渋沢栄一 下 論語篇』を著して、渋沢栄一の詳しい評伝を記した。上下巻それぞれ500頁をこえる労作である。
 その著作で、渋沢栄一の思想については、『論語』と、フランス第二帝政下に普及したサン=シモン主義思想が深く影響を与えたと論じている。その一部を述べてみたい。
(詳しくは、後日、別の機会に紹介してみたい)




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇渋沢栄一『論語と算盤』(角川文庫)を読んでみよう
・「罪は金銭にあらず」
・「真正の利殖法」
・「義理合一の信念を確立せよ」
・「仁に当たっては師に譲らず」
・「失敗らしき成功」
・渋沢栄一『論語と算盤』に記された岳飛と秦檜

〇鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)を読んでみよう
・第三回 経済感覚を高めた帰納法的教育
 「例外だった栄一の「学問のはじめ」」
 「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」
・第二十六回「官」と「民」
 「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」
 「比較的新しかったフランスの官民平等思想」
・第三十四回 大蔵省を去る
 「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」

〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』(文春文庫)を読んでみよう
・「第六十二回 「論語」と「算盤」」
 「儒教の核心は道徳と経済にある」
 「金銭を卑しんだ江戸時代」
・「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」
 「子供の質問に真正面に答える」






〇渋沢栄一『論語と算盤』(角川文庫)を読んでみよう


「罪は金銭にあらず」


<仁義と富貴>
「罪は金銭にあらず」(135頁~139頁)

 余は平生の経験から、自己の説として、「論語と算盤とは一致すべきものである」と言っている。孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間、経済にも相当の注意を払ってあると思う。これは論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある。もちろん、世に立って政(まつりごと)を行なうには、政務の要費はもちろん、一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係を生ずることは言うまでもないから、結局、国を治め民を済(すく)うためには道徳が必要であるから、経済と道徳とを調和せねばならぬこととなるのである。ゆえに余は、一個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むるために、常に論語と算盤との調和が肝要であると手軽く説明して、一般の人々が平易にその注意を怠らぬように導きつつあるのである。
 昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行なわれたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉(せいれん)とか言う美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心掛けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
 かつて某新聞紙上にアリストートルの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しておるが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然、仁義の道に外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるため、斯様な過激なる言葉を用いたものかと思われる。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、137頁~138頁)

「真正の利殖法」


<仁義と富貴>
「真正の利殖法」(124頁~127頁)

「支那の学問に、ことに千年ばかり昔になるが、宋時代の学者が最も今のような経路を経ている。仁義道徳ということを唱えるにつきては、かかる順序から、かく進歩するものであるという考えを打ち棄てて、すべて空理空論に走るから、利慾を去ったら宜しいが、その極その人も衰え、したがって国家も衰弱に陥った。その末は遂に元(げん)に攻められ、さらに禍乱が続いて、とうとう元という夷(えびす)に一統されてしまったのは、宋末の慈惨(さんじょう)である。ただ、とかは空理空論なる仁義というものは、国の元気を沮喪(そそう)し、物の生産力を薄くし、遂にその極、国を滅亡する。ゆえに仁義道徳も悪くすると、亡国になるということを考えなければならぬ。」
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、125頁)

「義理合一の信念を確立せよ」


<仁義と富貴>
「義理合一の信念を確立せよ」(142頁~145頁)

 余が平素の持論として、しばしば言う所のことであるが、従来、利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不充分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」「利につけば仁に遠ざかり、義によれば利を失う」というように、仁と富とを全く別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は、利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について、多年痛歎措く能わざるものであったが、要するに、これ後世の学者のなせる罪で、すでに数次(しばしば)述べたるごとく、孔孟(こうもう)の訓(おし)えが「義理合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
 後世、儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に、「計を用い数を用いるは、仮令(たと)い功業を立て得るも、ただこれ人慾の私(わたくし)にして、聖賢の作処(さしょ)とは天地懸絶(けんぜつ)す」と説き、貨殖功利のことを貶(けな)している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」といえる言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人染みた人の行なうべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは、仁義道徳を外(よそ)にしても構わぬといふに帰着するのである。かくのごときは、決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派(びんらくは)の儒者によって捏造された妄説に外(ほか)ならぬ。しかるにわが国では元和寛永の頃より、この学説が盛んに行なわれ、学問といえば、この学説より外にはないと云うまでに至った。しかしてこの学説は、今日の社会に如何なる余弊を齎(もたら)しているのであろうか。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、145頁~144頁)

※閩洛派の儒者とは、建陽すなわち閩(びん)の出身であった朱熹、そして洛陽の出身であった程顥(ていこう)・程頤(ていい)をさす。彼らの学を総称して、「洛閩の学」ともいう。
※元和寛永は、江戸時代の元号で、元和(げんな、1615~1624年)、寛永(1624~1644年)をさす。

「仁に当たっては師に譲らず」


<算盤と権利>
「仁に当たっては師に譲らず」(225頁~228頁)

 基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人ではないように思われる。基督や釈迦とは、全然その成立を異にしたものである。ことに、孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、すでに比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものというべく、両者に相違を生ずることは、もとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には、全然、権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓(ひら)きたいと思う。
 論語主義はおのれを律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。しかしてこの主義を押し拡めて行けば、遂には天下に立てるようになるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために、説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を施き国を富まし、民を安んじ、王道を充分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一つの経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々(いろいろ)雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人といっても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐に亘り、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼学を問われた。この問答を集めたものが、やがて論語二十篇とはなったのである。(中略)

 しかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とは、ほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では、「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は、「己の欲せざる所を人に施す勿れ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致するといえる言のごとく、この二者も終局の目的は遂に一致するものであろうと考える。
 しかして余は、宗教として将た経文としては、耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。こはあるいは余が一家言(いっかげん)たるの嫌いがあるかもしれぬが、ことに孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇跡が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇跡がたくさんにある。(中略)
 論語にも明らかに権利思想の含まれておることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」といった一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かっては、飽くまでも自己の主張を通してよい。師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているのではないか。独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことができるのである。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、225頁~228頁)

「失敗らしき成功」


<成敗と運命>
「失敗らしき成功」(299頁~302頁)
 支那で聖賢といえば、堯舜がまず始まりで、それから禹湯(うとう)、文武、周公、孔子となるのであるが、堯舜とか禹湯とか文武、周公とかいう人達は、同じ聖賢の中(うち)でも、いずれも皆今の言葉でいう成功者で、生前においては、はやくすでに見るべき治績を挙げ、世人の尊崇を受けて死んだ人々である。これに反し、孔夫子は今の言葉のいわゆる成功者ではない。生前は無辜(むこ)の罪に遭って、陳蔡(ちんさい)の野に苦しめられたり、随分、艱難ばかりを嘗(な)められたもので、これという見るべき功績とても、社会上にあった訳ではない。しかし千載(せんざい)の後、今日になって見ると、生前に治績を挙げた成功者の堯舜、禹湯、文武、周公よりも、一見その全生涯が失敗不遇のごとくに思われた孔子を、崇拝する者の方がかえって多く、同じく聖賢の内でも、孔夫子が最も多く尊崇せられている。(中略)
 眼前に現れた事柄のみを根拠にして、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成(くすのきまさしげ)は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は、確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏は、かえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平について見ても、時平は当時の成功者で、大宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として、全国津々浦々の端においても祀(まつ)られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これかえって真の成功者である。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、299頁~301頁)

※楠木正成(くすのきまさしげ、1294[諸説あり]~1336)
・元弘の乱(1331~1333)で後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府倒幕に貢献
・建武の新政下で、記録所の寄人(最高政務機関)に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。 
・延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞らと共に南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害。
※南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受けた。
⇒「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生[けしょう]」、「日本開闢以来の名将」と称された。
・明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈された。また、湊川神社(兵庫県神戸市)の主祭神となった。
(戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価された)

渋沢栄一『論語と算盤』に記された岳飛と秦檜


 渋沢栄一は、『論語』のみならず、中国史についても、精通していたようである。
 宋代の岳飛と秦檜について、次のように述べている。

<成敗と運命>
「湖畔の感慨」(304頁~305頁)
 大正三年の春、支那旅行の途上、上海(シャンハイ)に着いたのは五月六日であったが、その翌日は鉄道で杭州に行った。杭州には西湖という有名な景勝の湖水があり、その辺(ほとり)に岳飛の石碑がある。その碑から、四、五間ほど離れた処に、当時の権臣、秦檜(しんかい)の鉄像があって相対しておる。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間にはしばしば戦いがあって、金のために宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破って、将に燕京を恢復(かいふく)しようとしたのであるが、奸臣、秦檜は、金の賄賂を納(い)れて岳飛を召還した。岳飛その奸を知って、「臣が十年の功一日にして廃(すた)る、臣職に称(かな)わざるにあらず。実に秦檜、君を誤るなり」と言ったが、彼は遂に讒(ざん)によりて殺された。この誠忠なる岳飛と奸侫(かんねい)なる秦檜とは、今数歩を隔てて相対しておるのだ。如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である。今日岳飛の碑を覧(み)に行った人々は、ほとんど慣例のように、岳飛の碑に対(むか)って涙を濺(そそ)ぐとともに、秦檜の像に放尿して帰るとのことである。死後において忠好判然たるは実に痛快である。
 今日、支那人中にも岳飛のような人もあろう。また秦檜に似たる人がないとも言われぬけれども、岳飛の碑を拝して、秦檜の像に放尿するというのは、これ実に孟子のいわゆる「人性善(にんせいぜん)」なるに、よるのではあるまいか。天に通ずる赤誠(せきせい)は、深く人心に沁(し)み込んで、千載の下(もと)、なおその徳を慕わしむるのである。これをもっても人の成敗というものは、蓋棺(がいかん)の後に非ざれば得て知ることができない。わが国における楠正成(ママ)と足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆しかりというべきである。この碑を覧るに及んで、感慨ことに深きを覚えた。
(渋沢栄一『論語と算盤』角川文庫、2008年[2009年版]、304頁~305頁)



渋沢栄一『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)では、次のように記してある。

第10章 東アジア世界の変容とモンゴル帝国
1 唐の崩壊後の東アジア
【金の華北支配と南宋】
 いっぽう宋は、金が燕雲十六州を獲得したことをめぐって、金との同盟関係をつづけることに失敗した。金の大軍によって首都開封は占領され、1127年には、譲位していた徽宗や皇帝欽宗(在位1125~27)など皇族や重臣たちの多くが捕虜として北方につれ去られ、宋は崩壊した(靖康の変、1126~27)。
 江南にのがれた徽宗の子の高宗(在位1127~62)は、1127年、宋(南宋、1127~1279)を再興して、臨安(浙江省杭州市)を都とした。しかし、金の攻撃ははげしく、軍事的に勝つ見込みにとぼしかったため、徹底抗戦を唱える主戦派の岳飛(1103~41)をやむなく処刑して、和平派の宰相秦檜(1090~1155)の主導のもとで、ほぼ淮河を境界とし、かつ金に対して臣下の礼をとるという条件のもとで1142年に和議を結び、毎年、多額の銀や大量の絹を貢ぎ物(歳貢・歳幣)として贈ることを強いられた。

※和議の後、両国間の戦争をへて、金と宋の君臣関係は、おじ・おいの関係に改められた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、174頁)

〇渋沢栄一の『論語と算盤』に関連して、「岳飛と秦檜」について、木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)では、次のように記している。
第6章 内陸アジア世界・東アジア世界の展開
2 東アジア諸地域の自立化
【宋の統治】
 12世紀初め、遼を滅ぼした金はつづいて華北を占領し、都の開封を陥落させて上皇の徽宗(在位1100~25)と皇帝の欽宗(在位1125~27)をとらえた(靖康の変、1126~27年)。そこで皇帝の弟の高宗(在位1127~62)が江南に逃れて帝位につき、南宋(1127~1276)をたて、臨安(現在の杭州)を首都とした。政治抗争の焦点は、金に対する政策へと移り、和平派(秦檜[1090~1155]ら)と主戦派(岳飛[1103~41]ら)との対立の末、結局和平派が勝利をおさめて金とのあいだに和議を結んだ。この結果、淮河をさかいに、北は金、南は南宋という二分の態勢が固まり、宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年、銀や絹を金におくることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、162頁)

〇渋沢『論語と算盤』(304頁~305頁)の岳飛と秦檜に関連して、本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)では、次のように記しある。

Chapter 10:Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
■Jin’s Control of North China and the Southern Song Dynasty
While the Song failed to maintain the alliance with the Jin concerning the Jin’s
acquisition of Yanyun Sixteen Prefectures, its capital, Kaifeng, was
occupied by the Jin’s large force invading toward the south.
And in 1127, Huizong, who already abdicated, and the emperor Qinzong, as well
as many of other imperial family members and bureaucratic elites, were captured
and taken away to the north. This resulted in the collapse of the Song dynasty
(Jingkang Incident 靖康の変)
Gaozong, a son of Huizong, escaped to Jiangnan, and placed its capital in Lin’an
(臨安, Hangzhou of Zhejiang Province) in 1127, and restored the Song dynasty
(the Southern Song 南宋). The Song, however, against the Jin, which often attacked
the Southern Song, extended its power to the whole of North China, executed
Yue Fei (岳飛), a chauvinist leader who advocated exhaustive resistance.
But under the leadership of pacifist Chancellor Qin Hui (秦檜), the Song entered
into a peace treaty with the Jin in 1142, which fixed border at the Huai River,
to endure humiliating conditions to become the vassal of the Jin. And the Song was
also forced to donate a large sum of silver and voluminous silk as tribute.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、137頁)

鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)を読んでみよう


鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版])より

第三回 経済感覚を高めた帰納法的教育


「例外だった栄一の「学問のはじめ」」


「例外だった栄一の「学問のはじめ」」(36頁~38頁)
「栄一と諭吉の微妙な教育観の相違」(38頁~39頁)

・渋沢栄一は、8歳頃から従兄で10歳年上の尾高惇忠について漢籍を学んだと回想している。

 当時の一般的な常識からすれば、名主見習であるとはいえ、農民にすぎない栄一の父(晩香)が自ら漢籍に親しみ、子供にもその手ほどきをするということ自体が、むしろかなりの例外に属することだったようだ。
 また近在の村に住む従兄の尾高惇忠が、論語や大学・中庸を修めたインテリである。その尾高惇忠が栄一の家庭教師になってくれたことも、同じく大変な例外だった。

 それが当時の「当たり前」ではなかったことは、渋沢と同時代人の福沢諭吉の幼年時代の回想に当たってみると、よくわかるらしい。

「私の父は学者であった。普通(アタリマエ)の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。(中略)今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。
 私は勿論幼少だから手習いどころの話ではないが、もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習いをするには、倉屋敷の中に手習いの師匠があって、其家(ソコ)には町家の子供も来る。そこでイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪のことだから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然(アタリマエ)の話であるが、そのことを父が聞いて『怪しからぬことを教える。幼少の子供に勘定のことを知らせるというのはもっての外だ。こういう所に子供は遣っては置かれぬ。何を教えるか知れぬ。さっそく、取り返せ』と言って取り返したことがあるということは、後に母に聞きました。」
(『福翁自伝』)

ここから、次のような事実がわかるという。
①福沢諭吉の父は経理担当の下級武士であったが、自分の仕事を嫌い、純粋な学問としての儒学にあこがれていた。

②にもかかわらず、自分で子供に素読を教えるような時間もなかったので、しかたなく、「手習いの師匠」のところに子供を通わせていたが、そこには、町人の子供も来ていて、漢籍というよりも、寺子屋のような「読み書き算盤」が中心だった。

③父は「手習いの師匠」の実利的な教え方が気にいらず、子供を取り返したこともある。だが、父が亡くなってからというもの、諭吉はそうした「手習いの師匠」のところにさえ行けなかった。

・実利的教育を嫌う武士であっても、子供に学識のある専属の家庭教師をつけるような余裕はなく、町人の子供と一緒に「手習いの師匠」のところで、「読み書き算盤」を習わせるほかはないというような事態が、大阪のような大都市でもかなり一般的になっている。しかも、もし福沢家のように、一家の大黒柱が早死にしてしまった場合は、武士の子供といえども、手習いも受けずに放置されたという事実が明らかになる。

・だから、6歳のときから父に素読を受け、その後は専属の家庭教師から漢籍を学んだ渋沢栄一は、当時の農民としては、例外的な学問的環境に置かれていた。
・しかも、その教師が、「手習いの師匠」ではなく、同じく豪農のインテリの従兄であったという点は、この頃の渋沢一族がいかに教育熱心であり、その教育レベルもかなり高かった。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、38頁~39頁)

第二十六回「官」と「民」


「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」


「朱子学の創り出した金銭感覚の風潮」(313頁~315頁)
 渋沢栄一がフランス人のヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの対話を観察することで得た官・民平等の認識は、形式や名称ではなく、むしろエートス(共同的倫理観)に近いものだったらしい。
 渋沢が、「日本の此有様は改良せねばならぬ」と痛感したのは、江戸時代の「武士と町人・農民」、明治の「官吏と民間人」という官・民の制度上の違いというよりも、金銭に直接触れない「士=官吏」が、金銭にたずさわる「農工商=民間」に対していだく、金銭蔑視の差別感情である。
 渋沢にいわせれば、そのエートスは、江戸時代の朱子学からきているという。
 日本の儒学や朱子学は、儒学本来の教えとはことなり、本質的に金銭を蔑視する傾向が強かった。だから、それをバックボーンとする徳川の武士階級は、金銭に携わる農工商の階級をさげすみ、逆に、自らの階級を金銭にかかわりないがゆえに尊いものとして、学問を一切、金銭の獲得のための技術から切り離した。
 それゆえに、学問を得た武士階級は、実業とは無縁になり、実業に携わる農工商の階級は学問とはかかわりなくなってしまった。
(つまり、金銭というものが、「官・民」を区別する最大の指標となった。)

これは、『論語』の思想に対する誤解に基づく認識であると、渋沢はいう。
なぜなら、江戸の儒学者や朱子学者が、金銭と農工商階級蔑視の根拠とした、孔子の『論語』の次のような箇所は、彼らによって完全に誤読されているからである。

「富と貴(たつとき)とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、其の道を以てせずして之を得れば去らざるなり」
 これに対する、渋沢の解釈は次のようなものである。
「この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじたところがあるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えてみれば、富貴を賤しんだところは一つもない、その主旨は富貴に淫するものを戒められたまでで、これをもってただちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚しと言はねばならぬ、孔子の言わんと欲する所は、道理をもった富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である、して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所は更にないではないか、この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく『道を以てせずして之を得れば』という所によく注意することが肝要である」
(渋沢栄一述『論語と算盤』国書刊行会)

〇これは、渋沢栄一の経済思想のみならず、人生哲学の根底を成す「道徳経済合一主義」、俗に「論語と算盤」の思想をひとことで言い切った部分であると、鹿島氏はいう。
・パリで渋沢栄一が目撃したヴィレット大佐と銀行家フリュリ=エラールの会話は、まさに渋沢が従来の『論語』解釈に対して抱いていた疑問に目の覚めるような解答を与えたものだったとする。
⇒渋沢栄一が、フランスの二人の関係にあれほどのこだわりを見せたのは、渋沢が17歳のときに岡部の代官所で経験した屈辱以来、ずっと自問しつづけてきた金銭と道徳の関係という問題が伏線にあったからこそ、コペルニクス的な転換となりえたと、鹿島氏は理解している。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、313頁~315頁)

「比較的新しかったフランスの官民平等思想」


「比較的新しかったフランスの官民平等思想」(317頁~318頁)

 しかしながら、渋沢栄一が感激したこの官・民の平等というものは、じつは、フランスでも大昔から存在していたのではないと、フランス文学者・鹿島氏は解説している。
 それどころか、こうした対等な関係が成立したのは、1789年のフランス革命以後のことにすぎないという。

・それ以前はどうなっていたのかというと、「官」を牛耳る貴族・僧侶階級(第一・第二身分)と、「民」のブルジョワ階級(第三身分)とは截然と区別され、日本の武士と農工商との違いにも等しい金銭感覚の相違が存在していた。

・儒教は金銭蔑視の宗教であると思われていたが、金銭蔑視という面でははるかに強烈なのがキリスト教であるという。
 キリスト教は、地上の富よりも天上の富を高く評価する。それゆえ、自分がより天上に近いと思うものほど、金銭を蔑視する。
 では、そうしたことができるのは、いったいどんな階層なのか?
 それは、働かずして衣食住になに一つ不自由のない生活を送っていた者、つまり、先祖代々ゆずり受けた広大な土地を持つ貴族階級と僧侶階級である。
 彼らは、金銭に不自由しないがゆえに、金銭を蔑視し、よりキリストの教えを実践していると思い込むことができた。

・これに対し、ブルジョア階級とは、自己の労働と創意工夫しか資本を持たぬがゆえに、金銭に敏感にならざるをえない階級である。
 そして、それは同時に金銭蔑視のキリスト教からは本来排除されるべき階級だった。
 しかし、ブルジョア階級が力を持ち出すと、キリスト教のほうでも、金銭に触れているからといって、彼らを排除できなくなる。
  
・ここで生まれたのが、いわゆるプロテスタンティズムである。
 ルターとカルヴァン、とくにカルヴァンのプロテスタンティズムは、金銭とかかわりを持たざるを得ないブルジョア階級が、それでもなおキリスト教の内部にとどまれるようにするために発明された宗教だといえる。

※つまり、刻苦勉励し、金銭を貯蓄することが「天職」として、神の意思に沿うのだとするカルヴァンの教義は、ある意味で、経済と道徳は矛盾するどころか、一致するという渋沢の『論語』理解とよく似たところを持っていると、鹿島氏は見ている。
 
・もし、渋沢がフランスでこのカルヴァン派のプロテスタンティズムに触れたというのであれば、その影響関係は至って理解しやすくなったはずである。だが、現実には、渋沢がパリで接したのは、このプロテスタンティズムではなかった。
 なぜなら、フランスはカトリックの国である。プロテスタンティズムはあっても、ごく限られた階層と地域にしかないからである。
 
・渋沢の理解とは異なり、現実のフランスは、官僚主義の強い国である。
(つい最近まで、良家の優秀な子弟は、日本と同じように、まず「官」を目指した。「民」に行くのは、エリートのトップクラスではなく、その下のクラスと決まっていた。この点では、フランスと日本は過去も現在もよく似ているという)

・だが、フランスの歴史において、極めて例外的ながら、エリートが「官」ではなく、こぞって「民」を志向した一時期があったそうだ。それが、1852年から1870年にかけての第二帝政であった。なぜなら、ナポレオン3世とそのブレーンの信奉するサン=シモン主義は、「官」を否定し、金銭と直接的に接する「民」、すなわち産業人を全面的に肯定する思想だからであるという。
(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、317頁~319頁)

第三十四回 大蔵省を去る


「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題


「「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題」(419頁~420頁)
・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」(405頁~418頁)では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介している。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。

 渋沢栄一は明治政府に一時期出仕したが、その大蔵省時代についても、みておこう。

・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。

・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
 その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
 (三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)

〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
 このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
 というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)

⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
 そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
 当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
 明治4年9月下旬のことだった。

(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)

【鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫はこちらから】
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)

〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』(文春文庫)を読んでみよう


「第六十二回 「論語」と「算盤」」


第七章 「論語」を規範とした倫理観
「第六十二回 「論語」と「算盤」」(288頁~301頁)

「儒教の核心は道徳と経済にある」


「儒教の核心は道徳と経済にある」(288頁~289頁)
 渋沢栄一は、実業界を引退した後、時間の許すかぎり、講演や談話を引き受け、おのれの信ずるところを公に披露した。
 それらは『青淵百話』を始めとする講演・談話集に収録されている。
 なかでも『論語と算盤』と題されて出版された講演集は、そのタイトルが示すように、「義利合一(ぎりごういつ)」という、渋沢が一生の信条とした思想が語られているので、注目に値すると、鹿島氏はいう。
 すなわち、利潤追求を旨とする企業人においても、道徳(義)と経済(利)は矛盾しないどころか、むしろ、その両者のバランス感覚こそが孔子が『論語』で説く儒教思想の核心であると、繰り返し力説している。

 たとえば、『論語と算盤』収録の講演の一つ「罪は金銭にあらず」で、上記の引用のように記していた。
 
・この部分を、儒教道徳で育った、いかにも明治人らしい、古風な考えだと簡単に片づけてしまってはいけないという。
 なぜなら、「論語」と「算盤」の調和というこの思想は、東西の文明が例外的に出会って一つに融合した、「渋沢というメルティング・ポット」から生まれた一種の奇跡といってさしつかえないからとする。
 つまり、「論語と算盤」という理念は、儒教で育った明治人に共通するものでは決してなかった。むしろ、渋沢以外の人間には思いつくことができなかった「特殊」な経済思想なのかもしれない。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、288頁~289頁)

「金銭を卑しんだ江戸時代」(289頁~294頁)
 われわれは、「論語」と「算盤」の調和という考えなら、江戸時代にすでに一般的になっていたのではないかと想像してしまう。しかし、渋沢によれば、事実はその逆である。
 宋から輸入された朱子学の解釈によって、元和・寛永の頃から「論語」と「算盤」は完全に切り離された。儒学を学ぶ武士階級は金銭とはかかわりを持つべきではないとされるに至ったという。渋沢は次のようにいう。

「宋儒程子や朱子の解釈は高遠の理学に馳せ、やや実際の行事に遠ざかるに至れり。我が邦の儒家藤原惺窩(せいか)・林羅山のごとき、宋儒の弊を承けて学問と実際とを別物視し、物徂徠(ぶつそらい、荻生徂徠のこと)に至つては学問は士大夫以上の修むべきものなりと明言して、農工商の実業家をば圏外に排斥したりき。徳川氏三百年の教育は、この主義に立脚したりしかば、書を読み文を学ぶは実業に与らざる士人の業となり、農工商多数の国民は国家の基礎たる諸般の実業を担任すれども、書を読まず文を学ばず無智文盲漢となり終りぬ。(下略)」(『論語講義』)

※これは、儒学者三島中洲との共著というかたちで、数えで84歳のときに世に問うた『論語講義』の総説の一部である。
 なぜ、渋沢が『論語』を新しく解釈し直そうと試みたのか、その真意を語っている。
 すなわち、「算盤」と調和することこそが『論語』の本質なのであり、「論語」と「算盤」を分離しようとした江戸以来の儒学者の解釈は『論語』を読みちがえている、だからこそ、新たな解釈による『論語』を刊行するという。
 
 では、渋沢が『論語』再解釈の眼目とした教訓はどんなものなのだろうか?
 それは主として「里仁篇」の次の教えであるとされる。
 「富と貴とはこれ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処(お)らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪(にく)む所なり、その道を以てせずして之を得れば去らざるなり」

 これに対して、渋沢は『論語と算盤』収録の「孔子の貨殖富貴観」という講演において、次のような解釈をしている。
 (すでに引用) 

・富貴を求める欲望、それ自体は、人間ならだれしもこれを持つのは当然であり、孔子はこれを否定してはいない。否定しているのは道義に基づかない手段方法に拠った場合である。
富貴を求める欲望があまりに激しいと、たしかに悪い結果をもたらすことが多いが、しかし、だからといって、富貴を求める欲望そのものを否定してしまっては、人々は働く意欲を失う。
そして、やがては、国全体がうまくいなかくなり、社会は衰亡に向かう。これが渋沢が主張したかったことである。
 
 渋沢は、その例として、朱子学を奉じた宋の国の衰退をあげて、『論語と算盤』の「真正の利殖法」でこう説明する。
(別に引用、原文125頁)
※鹿島氏の引用した版では、「宋末の慈惨」が「宋末の悲惨」とある。
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、289頁~294頁)

第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢


第八章 近代性に貫かれた家庭人としての渋沢
「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」(488頁~501頁)

「子供の質問に真正面に答える」


「子供の質問に真正面に答える」(490頁~497頁)
 渋沢秀雄は、『父 渋沢栄一』という伝記で、飛鳥山に住むようになってからの晩年の渋沢栄一の日常を「思い出」として随所に挿入している。だから、われわれが「人間渋沢栄一」を知るのには、またとない資料となっている。
 渋沢秀雄の筆に拠りながら、等身大の渋沢のエピソードをいくつか、鹿島氏は紹介している。
(その中に、『論語』にある、例の葉公の話が出てくることに注目したい)



 渋沢秀雄は、中学五年生の頃、朝食のあとで庭を散歩する父の伴をしたとき、こんな質問をした。
「もし父さまが大石良雄でしたら、吉良にワイロをお贈りになったでしょうか? それとも何もなさらなかったでしょうか?」(『父 渋沢栄一』)
 すると、渋沢は「さあ、……むずかしい問題だね」といったきり黙ってしまった。
 秀雄は、その沈黙を自分が良い質問をしたしるしだと感じ、いささかの得意を覚えた。
 ややあって、渋沢は口を開くと、「ワシが大石良雄だったら、恐らく相当の礼物を贈ったろうね」と言ってから、次のような『論語』の辞句をすらすらと引用した。
 「葉公(ショウコウ)孔子ニ語(ツ)ゲテ曰ク、吾党ニ躬(ミ)ヲ直クスル者アリ。其父羊ヲ攘(ヌス)メリ。而シテ子之ヲ証スト。孔子曰ク、吾党ノ直キ者ハ是ニ異ナリ。父ハ子ノ為メニ隠シ、子ハ父ノ為メニ隠ス。直キコト其中ニアリ」

 羊を盗んだ父を告発する息子という紅衛兵時代の中国を思わせるような葉公の正直者の定義に対し、孔子は、自分たちの考える正直者というのはそういうものではない。父のためなら罪を子が隠すのは当然だし、子のために父が隠すのもまた当然だ。正直というのはそうした関係にあると答えたのである。渋沢はこの辞句を引いて、次のように結論づけたのである。
 「つまり、直きことも人情に適った直きことでなくてはならない。元禄時代に贈賄は法律上の罪ではなかった。そして吉良の貪欲は定評があったらしい。もし贈賄しなければ浅野家に禍がふりかかりそうな予想はついた筈だ。もとより贈賄は武士のイサギヨシとしないところだが、時と場合による。それで一国一城の危急が救えるなら、贈るのが人情であろう。……これが父の解釈だった。父はいつも、子供の質問にも真正面から答えてくれる人だった」(『父 渋沢栄一』)

<鹿島氏のコメント>
※この例からもわかるように、親が子供の質問に真正面から答えるには、込み入って矛盾した倫理の問題にも即答できるような体系的な教えがなくてはならない。
 渋沢の場合、それはいうまでもなく『論語』であり、この倫理規範に照らすことによって、すべての問題に答えを用意できた。
・われわれは、戦後、倫理体系としての『論語』を失い、それに代わるものも持ち得ないところから、自信喪失に陥ったといってもいいすぎではない。

〇渋沢秀雄は、渋沢の思考や行動様式がすべて『論語』から演繹されていることを、次のようなエピソードでも示している。
「なんでも克己寮時代と覚えているが、ある日家で父が私に、何かをもっとシッカリ勉強しろといったとき、私は、勉強したところで先が知れているという意味の返事をした。
 すると父はいくらかキッとした語調で、
『お前にはみずからを画する悪い性癖がある。自分に見きりをつけるようでは何事も出来ないぞ。その欠点は改めなければいかんよ。』
 といった。なるほど私の一生には思い当る節の多い言葉だ。私は最近論語の『雍也第六』で孔子が弟子の冉求(ゼンキュウ)を『今ナンジ画(カク)せり』(画[カギ]レリと読ませる本もある)と戒めているのを発見して、父の言葉がやはり論語から出ていたことを五十年ぶりで知った。その当時は父の論語マニアに何となく反感を持っていた私も、今となっては懐かしく思いだす。『同ジテ和セズ』から『和シテ同ゼズ』の心境に進歩したのかもしれない。時というものは不思議な作用をする」(『父 渋沢栄一』)
(鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]、495頁~497頁)

≪【補足 その1】中国文化史~儒教と『論語』と『孟子』≫

2023-09-10 19:00:26 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その1】中国文化史~儒教と『論語』と『孟子』≫
(2023年9月10日投稿)

【はじめに】


 中国の春秋戦国時代は諸子百家の時代で、教科書の記述に見られるように、様々な思想が現れた。
 それらの思想が近現代にまで影響を与えてきたことは、例えば、“日本の資本主義の父”である渋沢栄一(1840~1931)は、『論語』をバイブル的な拠り所としてきたことでもわかる。
 また、『日本のいちばん長い日―運命の八月十五日』の著者として知られる、ジャーナリストで作家の半藤一利(はんどう・かずとし、1930~2021)は、『墨子』を読むように妻に遺言のように告げたらしい(半藤には、『墨子 よみがえる』(平凡社)という著作もある)。戦争は非人間的であるとした半藤の言葉には、今の世界状況を見るに、その意味合いは深いといえる。
(兼愛・非攻を主張した墨子については、私も今後の宿題としたい)

 さて、今回のブログでは、諸子百家の中でも、中国の政治史・文化史に大きな影響を与えた儒家について、取り上げたい。
 儒家の著作の中でも、『論語』と『孟子』について見てゆきたい。
 狙いとしては、次の2点である。
〇儒家と法家の思想を対比的に捉え、春秋戦国時代の歴史的状況の中で理解すること。
〇儒教の古典の中でも、『論語』と『孟子』について、漢文と英文を併記して解釈すること。

まず、最初に、儒家と法家について、高校世界史では、どのように記述されていたのか、振り返ってみよう。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍
第4章 東アジア世界1東アジアにめばえた文明
【諸子百家の群像】
春秋戦国時代の激動は、政治や社会のあり方をめぐる多彩な思想をよびおこし、諸子百家とよばれる思想家たちがあらわれた。
 春秋時代末期の魯の思想家で、儒家の祖となった孔子(前551ごろ~前479)は、家族道徳(孝)の実行を重視し、為政者にも仁徳をもって統治することを求めた(徳治主義)。『論語』は、孔子とその弟子の言行を編集したものである。孔子の思想を受けた孟子(前372ごろ~前289ごろ)は、上古には行われたという善政(王道)を理想とし、生来の善なる心をのばすべきとする性善説の立場から、力による政治(覇道)を批判したが、荀子(前298ごろ~前235ごろ)は、人は生来悪となりやすいので礼をもって導かなければならないとする性悪説の立場から、君主による民の教化を容認した。商鞅(?~前338)や韓非(?~前233)などの法家は、法律による統治(法治主義)を説き、秦の強国化に貢献した。これに対して、墨子(前480ごろ~前390ごろ)を祖とする墨家は、博愛主義(兼愛)や絶対平和(非攻)を主張し、老子や荘子(前4世紀ごろ)などの道家は、あるがままの自然に宇宙の原理(道)を求めて、政治を人為的なものとして否定した(無為自然)。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)

〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社
【春秋・戦国時代の社会変動と新思想】
(前略)
 戦争の続く時代のなかで、人々は新しい社会秩序のあり方を模索した。また、独創的な主張によって君主に認められる機会も多かった。その結果、春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ、諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
 諸子百家のなかで後世にもっとも大きな影響を与えたのは、春秋時代末期の人、孔子(前551頃~前479)を祖とする儒家の思想である。孔子は、親に対する「孝」といったもっとも身近な家族道徳を社会秩序の基本におき、家族内の親子兄弟のあいだのけじめと愛情を広く天下におよぼしていけば、理想的な社会秩序が実現できるとした。孔子の言行はのちに『論語』としてまとめられ、その思想は、万人のもつ血縁的愛情を重視する性善説の孟子(前372頃~前289頃)や、礼による規律維持を強調する性悪説の荀子(前298頃~前235頃)など、戦国時代の儒家たちによって受け継がれた。
 その他、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説く墨子(前480頃~前390頃)の学派(墨家)、あるがままの状態にさからわず(無為自然)すべての根源である「道」への合一を求める老子(生没年不明)・荘子(前4世紀)の道家、強大な権力をもつ君主が法と策略により国家の統治をおこなうべきだとする商鞅(?~前338)・韓非(?~前233)・李斯(?~前208)らの法家などがあり、いずれもその後の中国社会思想の重要な源となっている。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、70頁)

〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
■Brief description of a Hundred Schools of Thought
 The convulsion of the Spring and Autumn Period and Warring States period brought out
various thoughts on politics and society. Thinkers in this period called Hundred Schools of
Thought(諸子百家) emerged.
Confucius(孔子) was a thinker from the state of Lu in the end of the Spring and Autumn
Period who originated Confucianism(儒家). He made much of execution of family ethics (filial piety, xiao) and asked rulers to govern people with rende (perfect virtues and humanness). The Lunyu (論語 Analects) was the collection of saying and ideas attributed to Confucius and his followers. Mencius(孟子) was influenced by Confucianism. He thought the rule of right which was practiced in ancient China, was ideal. He asserted the innate goodness of the individual, and criticized the rule of power. Xunzi(荀子) believed that the nature of man is evil; his goodness is only acquired by training based on li (propriety). He allowed rulers to train people. The School of Law, such as Shang Yang(商鞅) and
Han Fei(韓非), said that rulers should rule people with laws (Legalism).
Legalism(法家) supported the states of Qin to be a strong state. Mo Jia(墨家) was originated by Mozi(墨子), and promoted philanthropy (impartial love ) and peace at any
price (condemning aggression). Taoists(道家) such as Laozi (Lao Tsu老子) and
Zhuangzi(荘子) sought the principle of the universe (way, tao) in the nature as it was and denied political movement as unnatural (inaction and spontaneity).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)





【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・孔子と孟子~『論語』と『孟子』
・【孔子について】
・魯国について
・【孟子について】
・性善説~『孟子』告子上より

・孔子と『論語』の解説 ~加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)より
・儒家と法家~徳治政治と法治政治
・魯国型社会と斉国型社会
・『孟子』~小林勝人『孟子』(岩波文庫)より
・呉清源の儒教理解~江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)より






孔子と孟子~『論語』と『孟子』


高校生向けの古典の参考書には、孔子と孟子について、次のようなことが記されている。
〇金谷治『論語・孟子(明解古典学習シリーズ16)』三省堂、1973年[1979年版]

【孔子について】


〇金谷治『論語・孟子(明解古典学習シリーズ16)』三省堂、1973年[1979年版]では、孔子と『論語』について、次のように述べている。

『論語』為政篇では、
・孔子は自らの一生を次のように述べている。
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従つて、矩を踰えず」
【要旨】
・孔子が晩年に至って(73歳で死亡)、15歳から70歳までの、自分の学問の向上と人格の向上を、10年単位に回顧した。
【研究】
・この文から年齢を表わすことばと、その年を摘記すると、
 十五=志学(しがく)、三十=而立(じりつ)、四十=不惑(ふわく)
 五十=知命(ちめい)、六十=耳順(じじゅん)、七十=従心(じゅうしん)
・孔子の一生は、結局どうであった、と自ら言っているのかについては、
 15歳から学問、人生の探究にのり出し、70歳に至って、やっと目的にたどりつけたが、
 思えば苦難と努力の連続であったという。

【解説】
・『論語』為政編のこの文は、孔子の一生の回顧、告白の一章である。
・この章の解釈には大別して、次のような説があるようだ。
①孔子を聖人化し、学問・道徳とも天才的に最高の理想的境地に到達したとし、孔子が自らその一生を誇らしげに回顧したものとする説。
②孔子を教師、努力の人、政治的に失敗の連続の人、と見なし、15歳から70歳まで、道を求めて努力、苦難に満ち、試練にさらされて成長した生涯を、無限の感慨をこめて回顧したものとする説。
・確かに最後の「心の欲する所に従つて、矩を踰えず」は、自己の意欲と理性の合致、すなっわち、主観的規範と客観的規範の合致の状況で、最高の道徳的価値である。
 その最高の道徳的価値は、どういう順序・段階をふんで達成されたか。
⇒それが、15歳から始まる55年間の学問熟達、道理の追求である。
・「三十而立」は、学問的自立
・「四十而不惑」は、事物の道理の通曉
・「五十而知天命」は、天の道理をわきまえたこと
・「六十而耳順」は、あらゆる事象・事情の網羅を知悉(ちしつ)の状況

〇こういう10年単位の不断の苦難に満ちた努力による学問的進歩の結果、晩年にやっと最高の境地にたどりついたものであろう。
(個人的、主観的な信念や、宗教的解脱や悟りによるものであるならば、むしろ、孔子の人格の独善性・主観性、つまり孔子という人間の小ささ・弱さの強調にほかならない。)
(金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]、18頁、295頁)

補足~貝塚茂樹『論語』(講談社現代新書)


〇貝塚茂樹『論語』講談社現代新書、1964年[1994年版]

・数え年74歳で死んだ孔子が、晩年に自分の一生の経歴を振り返って述べた自叙伝のようなものである。
・貝塚氏は、「五十而知天命」を「五十歳で運命のなんであるかを知り」と訳している。そして次のように解説している。
 50歳になると、そのころの貴族階級に仲間入りして、魯国の政治に参画できるようになったが、孔子は、大国の干渉を排して魯国の国家を自立させ、三桓氏という家老たちの専制を倒すことに全力を尽くしたが、この企図は不幸にして失敗に帰した。そしてついに国外に亡命せざるをえなくなった。
 天命を知るとは、ひとりの人間が理想をもっていても、なかなかこれを実現することができない。歴史的条件のいかんともできないものがある。この年ごろになって、人間の力の限界をはっきりと知ったことをさしていると、貝塚氏は解釈している。
(貝塚茂樹『論語』講談社現代新書、1964年[1994年版]、44頁~45頁)

魯国について


〇貝塚茂樹『論語』(講談社現代新書、1964年[1994年版])では、第3章の「八佾編―伝統の擁護」で、魯国について、次のように述べている。

・魯国は、周王朝の礼、つまり文化と制度とを定めた周公の子孫が取り立てられた、日本でいえば大名、藩にあたるという。
 この藩の家老として勢力があったのが、季孫氏(きそんし)・孟孫氏(もうそんし)・叔孫氏(しゅくそんし)のご三家であった。
その中でももっとも有力であったのは、季孫氏、つまり季氏である。
・孔子の生まれたころは、季氏の勢力は絶頂に達し、かんじんの魯の本家はまったくあれども無きがごとく、君主はご三家にあやつられる人形にすぎなかった。
 孔子はこの三家の専制を打破し、魯国の君主の権力を回復しようと苦心していた。
 周の天子、諸侯、家臣などの位階にもとづいた制度の基本を季氏が破ったことに、激しいいかりを感じた。
 矛盾的行為が平気のように見える中国人が、案外原則を尊重する精神が、次のような孔子のことばにも表れているように見えると、貝塚氏はいう。

『論語』八佾編
孔子謂季氏、八佾舞於庭。是可忍也、孰不可忍也。
(孔子、季氏を謂わく、八佾(はちいつ)、庭(てい)に舞わす。是れをも忍(しの)ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。
【現代語訳】
孔子が季氏の専権について非難されました。「季氏のやつめが、天子でなければ許されない八人八列の舞人を、家の祖廟の庭前で舞わしたそうな。これを平気で見過ごすことができるならば、世に平気で見過ごせぬことはなにもなくなるではないか」と。
※この編も第一の文章の主要な語である八佾(はちいつ)が編名となっている。
 魯の伝統である礼制、周公の文化を解説し、この精神を守ることが論ぜられている。
(貝塚茂樹『論語』講談社現代新書、1964年[1994年版]、60頁~61頁)

【孟子について】


・生卒年は明確ではないが、一説には前372年生まれ、前289年没といわれ、今の山東省の鄒(すう)という小国に生まれた。
 鄒は孔子の生国魯(曲阜)とわずか3, 40キロしか離れていない。
・父は幼いころに死に、賢母に育てられ(孟母三遷・孟母断機)、成長して孔子の国、儒学のメッカ魯に遊学し、その時、孔子の孫の子思(孔伋)はすでに死んでいたので、その門人について孔子の道を学び、孔子を理想的な人物と仰ぎ、その学統を継承発展させた。
・ついに性善説・王道政治論を確立し、20余年に及ぶ遊説に出た。
・梁(魏)・斉・宋などの間を往来し、諸侯に仁義王道の政治論を説いたが、富国強兵や外交上の策謀などの現実的な効果の上がる施策を求めていた諸侯からは、現実離れで理想にすぎるとして、受けいれられなかった。
・晩年には、孔子と同じく、母国に帰り、門人の公孫丑・万章などの教育にあたり、また自己の著作の仕事をすすめた。

・思想的には、孔子の「仁」の思想をさらに発展させて、孟子は「仁義」を主張した。
 新たに「義」という思想を付加した。孟子の説明によれば、「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり」つまり「他人の不幸・不遇を痛み憂える心が仁の芽ばえであり、不義・不正をみにくしとしていやがる心が義の芽ばえである」というわけである。
・孟子は王道論を説くために仁義の説を説き、仁義の説のために性善説を説くに至った。
 つまり斉の宣王、滕(とう)の文公に王道論を説く過程で、王道論の実現を動機づけるために説かれたのである。
 「上孟」すなわち公孫丑編での性善説に王道論の根拠として説かれており、原初的である。
 その内容は、人間にはだれにでも、子供が井戸に陥ろうとする時、反射的本能的に救おうとする「人に忍びざるの心=怵惕(じゅってき)惻隠の心(人の不幸不遇をいたみあわれむ心)」がある。同様に、羞悪の心、辞譲の心、是非の心が必ずあり、それらは、それぞれに仁・義・礼・智の芽ばえである。その四端を拡充すれば、それぞれ仁・義・礼・智の四徳として完成される
 つまり、人間の本姓は先天的に良知・良能・良心など善なるものである、という主張である。
・のちに性善説を否定する論として性悪説(荀子)が出たが、また孟子の当時にも性無善無不善説(告子)があった。
(金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]、300頁~302頁)

性善説~『孟子』告子上より


〇金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]では、孟子の性善説について、次のような解説を載せている。

『孟子』告子上の性善(原文、英文は後に掲載)
【要旨】
・人間の本性論で、告子は、本来的に善でも悪でもないと述べたのに対し、孟子は善であると論駁した。

【語釈】
・告子~名は不害。孟子と同時代の学者で、孟子の性善説に反対し、仁義道徳を後天的な人のしわざだといい、道徳以前の動物的本能が人間の本性だと主張した。
・人無有不善(人に善ならざるもの有る無く、)
 本性が善でない人はいない⇒だれでも本性は善である
 ※「無」と「不」の二重否定⇒強い肯定

【研究】
☆告子と孟子の本性論の違いを述べよ。
●孟子 ①性は善である。
    ②不善をするのは外的な理由による。
●告子 ①性は善でも不善でもない。
    ②導き方でどちらでもなる。

【解説】
・人間の本性が、①善であるか(性善説)、②悪であるか(性悪説)、③どちらでもないか(性無記説)は、永遠の問題である。
人間の本質に迫って人間を探究しようとしたのが、この時代の“人間の本性論”である。
・特に孟子と告子は、この問題を巡って、4回も論争を繰り返し、対立のまま終わっている。
 彼等の論争は、厳密に科学的、合理的、学問的に繰り返されたのではなく、4回とも比喩を用いて進められた。
 したがって、比喩・弁舌の巧みなほうが、論争に勝ったようにしるされている。
 すなわち、孟子は、告子の比喩の弱点、不備をうまく突いて、「水は東に流れるも西に流れるも区別はないが、必ず低いほうに流れる」「性が善におもむくのは、水が低いほうに流れるのと同じだ」と相手の論理を逆に利用して、快勝した形を取っている。
・「水が低きに流れる」ことは科学的必然であるが、「性が善である」ことには何の必然性もない。またその比例関係もまったくかってなこじつけにすぎない。

※論争では巧みな弁舌で、勝ってはいるが、その論争は「性が善である」という命題の科学的検証とは全く無関係である。
(金谷治『論語・孟子』三省堂、1973年[1979年版]、268頁~270頁)

孔子と『論語』の解説 ~加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)より


〇加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書、1984年[1995年版])において、孔子と『論語』について、次のような節で、解説している。

〇「農民の父と巫女の母と」(66頁~68頁)
〇「親の罪は隠すべし」(42頁~44頁)
〇「人々が慕いくる政治」(44頁~46頁)

〇「農民の父と巫女の母と」(66頁~68頁)
 孔子は家庭的に恵まれなかった。
 その出生において、すでに不幸であった。
 というのは、孔子の母の顔徴在(がんちょうざい)は、後妻であるが、父の孔紇(こうこつ)と正式の結婚をしなかったのである。いや、許されなかったようである。
 孔子の母は、孔子の父と「野合して孔子を生む」<孔子世家>と言われている。(中略)
 問題は、母方である。
 白川静『孔子伝』(中央公論社・昭和47年)が主張するように、母親の顔徴在の実家は、宗教的雰囲気の濃い家であった。
 個人祈祷を職業とするシャーマン的一族(これを「原儒」と言っておく)であった。これは農民と異なった一族である。
 顔徴在は、尼丘(じきゅう)山の野外に祭壇を作り子授けを祈って、天が感応し孔子を妊娠したとされる。
 もちろん一般の人々も、子授けを祈るという行為を行なうが、顔徴在の場合は本職的な行為であったようであり、祈祷を職業とした一族の人間のようである。
 白川静は、この顔徴在のところに行き、通い婚的な関係をしたのが、孔子の父であるとする。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、66頁~68頁)

〇「両親の愛を知らず」(68頁~70頁)
・このような女性の場合、シャーマン外の人と結婚しようとしても、邑(むら)の差別意識を持っていたであろう人々の圧力が、それを許さなかったことであろう。
 また、父の孔紇は前妻との間に、足の不自由な一人の息子と、数人の娘とを生んでいる。彼らもまた、おそらく後妻の顔徴在を喜ばなかったことであろう。
 とすれば、顔徴在は、孔子を生んだ後、孔子の家でいっしょに生活することができなかったものと考える。別居である。しかも父は、孔子がまだ幼児のころに亡くなる。その上、14、15歳ごろには別居していた母をも失なう。
 ということは、孔子はその幼少期から青年期にかけて、両親を知らない家庭に育ったことになる。(中略)
 後年、孔子は孝という両親に対するありかたを強く主張することになるが、それは、孔子にとって、かつて充たされなかった家庭生活に対する思いが強くこめられてもいたと、加地氏は考えている。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、68頁~69頁)

〇「親の罪は隠すべし」(42頁~44頁)

 孔子が生きていた時代は、法が登場しはじめたころである。
 当時、法優先は異端の思想であった。それは、共同体という体制の根幹をゆるがす、<悪の思想>とみなされていた。孔子は、その<悪>の摘発者であったと、加地氏はみなす。
こういう話があるとして、次の葉公の話を紹介している。

 晩年、おそらく60代も半ばを越えたころ、孔子は為政者としての地位を求めて、諸国を流浪していた。
 あるとき、葉(しょう)という街に立ち寄ったらしい。
 この街は、南方の強国であった楚国の一行政地区である。その街の長官の葉公が、孔子にこう言った。
 自分の街に「直躬(ちょっきゅう)」(正直者の躬)という仇名(あだな)の者がいる。
 その父親が羊を盗んだとき、その子は父の犯罪を隠さないのみならず、盗んだことの証言をした、と。
 ところが、孔子は言い返した。私の仲間の「直」という仇名の男の行動は違います。
 「父は子のために[子の犯罪を]隠し、子は父のために[父の犯罪を]隠す。直[の本当のありかたは]、その中に在り」<子路>と。

【加地氏のコメント】
・この問答を読んだとき、現代人のわれわれの大半は、おそらく葉公の言い分、すなわち父といえども犯罪者は法の裁きを受けるべきであり、証言に立つ子の立場を正しいとするであろう。
 それは、人間社会における法優先の立場である。
 近代国家では、それが正しい、善いことである。
・しかし、孔子のころは、まだ各種共同体が現実に機能していた時代である。
 仮に犯罪が起っても、共同体でそれを裁く長老は、いろいろと事情を考えて罰を決める。
 時には、罪として、公にしないで、事件を闇から闇へと処理するだろうし、時には皆への見せしめに、窃盗程度でも死刑にすることすらある。
 そのように、裁量のはばが広い。
 その罰を決めるのは、共同体をリードする道徳に、どのようにそむいているかという点である。

・だから、たとえば共同体の有力者が、明らかに罪を犯し、裁かれるとき、その有力者の犯罪の証言を拒否する部下は、法優先の公の立場からは指弾されても、同じ共同体メンバーの立場からは、逆に賞讃を受けることであろう。
 このように、法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもってなかなか善悪の判断のむつかしい問題を抱えている。

・秦の始皇帝を代表者として、中国古代の秦・漢帝国が成立したころ、法的社会を作ろうとする側と、従来からの道徳的共同体とは、到るところで衝突を起したのである。
 まして、法がしだいに社会的に認知されつつあった春秋時代、すなわち孔子が生きていた時代では、法は、共同体側から見れば、自分たちの体制を崩す悪であるとするのが正常であった。
 各種共同体が機能しなくなってしまった現代では、法的処理の間にはさみこまれる共同体的処理が、逆に不正なこと、悪であるとされる。
 たとえば、今日、老父の罪を見逃してもらうために、贈賄すればどうなるか。
 子は罪を犯すことになる。しかし、老父を捕えた検事や警察の側が、その父を老人であるがゆえに、その罪を公にしないとすると、一転して、温情ある処置として美談となる。
 共同体的感覚による行為である贈賄と美談とは紙一重の差なのであると、加地氏はいう。
 このように、法的社会が形成されて以後、共同体との関係というやっかいな問題を、人間は抱え込んできて、今日に至っており、いまなおその解決方法に苦しんでいるとする。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、42頁~44頁)

※【補足】
 この葉公の話は、鹿島茂氏も次の著作で言及している。次回のブログで紹介する。
〇鹿島茂『渋沢栄一 下 論語篇』文春文庫、2013年[2020年版]
 「第七十六回 『論語』倫理と「明眸皓歯」」(488頁~501頁)の「子供の質問に真正面に答える」(490頁~497頁)を参照のこと。

儒家と法家~徳治政治と法治政治


〇加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)では、儒家と法家、つまり徳治政治と法治政治との特徴をうまくまとめている。

〇「人々が慕いくる政治」(44頁~46頁)
 さて、共同体の指導原理は、道徳であるから、指導者はその条件として道徳性を身につけなくてはならない。
 ちょうど、法的社会の指導原理が法であり、指導者はその条件として、法を守りかつ政策能力を身につけなくてはならないのと同じように、あえて言えば、共同体社会は規模が小さく、前例主義なので、新しい政策の立案といったようなことはあまりなかった。

・この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。
 だから、孔子は葉公に対して「近き者(近くの人々)は説(よろこ)び、遠き者(遠くの人人)は[慕い]来る」<子路>と述べている。
 これが道徳政治というものの姿である。

・すなわち、<共同体⇒共同体のきまり(慣習)⇒道徳>という体系に合わせて、
 <共同体の指導者⇒共同体のきまり(慣習)の熟達者⇒道徳的完成者(聖人)>という図式を考えだしたのである。
 そして、道徳的完成者(聖人)を最高指導者とし、その人の道徳に感化され教化される政治を道徳政治(徳治政治)としたのである。
 これは、<法的社会⇒法的社会のきまり⇒法>に基づく、
 <法的社会の指導者⇒法的社会のきまりの実行者や政策プランナー>という図式による法的政治(法治政治)と鋭く対立する。

※前者の道徳政治を主張したのが、儒家であり、その組織的理論化や、理論的指導を行なった最初の人が、孔子であった。
※後者の法的政治を主張したのが、孔子よりずっと後に出てきた法家(たとえば韓非子)である。
 その方式に基づく大政治家が、秦王朝を建てた始皇帝である。

・ただ、孔子の時代では、この法家的立場の者は、まだまだ少数であった。
 この少数派に対して、孔子は、厳しく批判して、こう言っている。

 子曰く、これ(大衆)を道(みちび)くに[行]政(まつりごと)[上のきまり]をもつてし、[従わないとき]これを斉(ととの)ふるに刑[罰]をもつてすれば、民[は、なんとか]免れんとして[工夫して逃れ、しかもそれをすこしも]恥づるなし。[しかし]これ(大衆)を道(みちび)くに[道]徳をもつてし、これを斉ふるに礼[儀]をもつてすれば、恥[を知る気持が]ありて、かつ[慕つて]格(きた)ると<為政>。
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、44頁~46頁)

さて、『論語』(巻第一、爲政第二)から引用しておく。
 子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以徳、齊之以禮、有恥且格、

 子の曰わく、これを道(みち)びくに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬが)れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥(はじ)ありて且つ格(ただ)し。

※格し――新注では「至る」と読んで善に至ることと解する。今、古注による。

【現代語訳】
先生がいわれた。「[法制禁令などの小手先きの]政治で導びき、刑罰で統制していくなら、人民は法網(ほうもう)をすりぬけて恥ずかしいとも思わないで、道徳で導びき、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる。
※礼――法律と対して、それほどきびしくはない慣習法的な規範。
(金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、27頁~28頁)

BOOK II-3
3. The Master said, ‘Guide them by edicts, keep them in line with
punishments, and the common people will stay out of trouble but
will have no sense of shame. Guide them by virtue, keep them in
line with the rites, and they will, besides having a sense of shame,
reform themselves.’
(D.C.Lau, Confucius THE ANALECTS(Lun yü), PENGUIN BOOKS, 1979, p.63)

魯国型社会と斉国型社会


〇加地伸行『「論語」を読む』(講談社現代新書)では、魯国型社会と斉国型社会とを対照的に捉え、次のように述べている。

「魯国型社会と斉国型社会と」(56頁~58頁)
〇『論語』では、斉国と魯国・衛国とを対比的に記している。
「子の曰わく、斉、一変せば魯に至らん。魯、一変せば、道に至らん」<雍也>
(孔子は、斉[国が態度を改めて]一変すれば、魯[国のようなありかた]に至らん。魯[もさらに]一変せば、[本当の]道[徳政治]に至らん、と言う)

さらに、
「子の曰わく、魯衛の政は兄弟なり」<子路>
(孔子は、魯[国と]衛[国と]の政は、兄弟なり、と言う)

※岩波文庫版には「※魯の先祖の周公旦と衛の先祖の康叔(こうしゅく)とは兄弟で、もともとその善政も似ていた。雍也篇第二十四章(85ページ)参照」とある。
(金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、176頁)

〇加地氏は、これらの記述は政策の相違をモデル化したものであろうと、解説している。
●衛国と魯国とは、ともに農業経済中心型の国家であった。
●それに対して、斉国は商業経済中心型の国家であった。
⇒斉国は、海岸線が長く、重要物資の塩がとれた。
・さらに海産物も豊富であり、これらを諸国に高く売りつけ、非常な収益をあげていた。
・国民の所得があがり、余暇には美女による華やかな歌舞劇を楽しんでいた。
・斉国のこの消費経済は、隣国の魯国の人々に影響を与えてゆき、節約経済でつつましい生活を送っていた魯国の人も、しだいに消費経済型へと変貌をとげていく。(『史記』貨殖伝)

●しかも、斉国は、管仲という大政治家によって強国となった。
 ⇒その管仲は、法に基づく立場、いわゆる法家思想家の先駆者である。

※そうすると、魯・衛・斉という国家の性格についての孔子の分析に基づいて、次のようにモデル化することができる。
①魯国―農業経済中心型―節約経済―共同体―道徳[による]政治―孔子・孟子らの儒家思想―
   ―道徳的完成者(先王)を政治的指導者とする
②斉国―商業経済中心型―消費経済―法的社会―法[による]政治―管仲・韓非子らの法家思想―
   ―政策実行能力者(後王)を政治的指導者とする

※孔子は、斉国での仕官に失敗し、後に衛国に行く。そこでも仕官に失敗するが、衛国を根拠地とすることになる。
(これは、孔子にとって、斉国に比べて衛国のほうが、まだ自分の思想に合うという判断であったようだ)
(加地伸行『「論語」を読む』講談社現代新書、1984年[1995年版]、56頁~58頁)

『論語』(巻七子路第十三)から引用しておく。
葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隠、子爲父隠、直在其中矣。

 葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰(い)わく、吾が党に直躬なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証す。孔子の曰(のたま)わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す。直きこと其の中に在り。

※直躬なる者――「躬(み)を直くする者」と読むのがふつう。

 葉公(しょうこう)が孔子に話した、「わたしどもの村には正直者の躬(きゅう)という男がいて、自分の父親が羊をごまかしたときに、むすこがそれを知らせました。」孔子はいわれた、「わたしどもの村の正直者はそれとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然にそなわるものですよ。」
(金谷治訳注『論語』岩波文庫、1963年[1994年版]、181頁)

BOOK XIII-18
18. The Governor of She said to Confucius, ‘In our village there is
a man nicknamed “Straight Body”. When his father stole a sheep,
he gave evidence against him. ’ Confucius answered, ‘ In our village
those who are straight are quite different. Fathers cover up for
their sons, and sons cover up for their fathers. Straightness is to
be found in such behaviour.’
(D.C.Lau, Confucius THE ANALECTS(Lun yü), PENGUIN BOOKS, 1979, p.121)

『孟子』~小林勝人『孟子』(岩波文庫)より


『孟子』について、次の本より引用しておく。
〇小林勝人『孟子(上)』岩波文庫、1968年[1997年版]

〇公孫丑上、不忍人之心
孟子曰、人皆有不忍人之心、先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣、以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上、所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隠之心、非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於郷黨朋友也、非惡其聲而然也、由是觀之、無惻隠之心、非人也、無羞惡之心、非人也、無辭譲之心、非人也、無是非之心、非人也、惻隠之心、仁之端也、
羞惡之心、義之端也、辭譲之心、禮之端也、是非之心、智之端也、人之有是四端也、猶其有四體也、有是四端而自謂不能者、自賊者也、謂其君不能者、賊其君者也、凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始達、苟能充之、是以保四海、苟不充之、不是以事父母、

孟子曰く、人皆人に忍びざるの心有り。先王(せんのう)人に忍びざるの心有りて、斯ち人に忍びざるの政(まつりごと)有りき。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行なわば、天下を治むること、之を掌(たなごころ)の上に運(めぐ)らす[が如くなる]べし。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)(猝)に孺子(幼児)の將に井(いど)に入(お、墜)ちんとするを見れば、皆怵惕惻隠(じゅってきそくいん)の心有り、交(まじわり)を孺子の父母に内(むす、結)ばんとする所以にも非ず、譽(ほまれ)を郷黨朋友に要(もと、求)むる所以にも非ず、其の聲(な、名)を惡(にく)みて然るにも非ざるなり。是れに由りて之を觀れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり。
羞惡の心は、義の端なり。辭譲の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端あるは、猶(なお)其の四體あるがごときなり。是の四端ありて、自ら[善を為す]能(あた)わずと謂う者は、自ら賊(そこな)う者なり。其の君[善を為す]能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。」凡そ我に四端有る者、皆擴(おしひろ)めて之を充(だい、大)にすることを知らば、[則ち]火の始めて然(も、燃)え、泉の始めて達するが若くならん。苟(いやしく)も能く之を充(だい)にせば、以て四海を保(やす)んずるに足らんも、苟も之を充にせざれば、以て父母に事(つこ)うるにも足らじ。

※不忍人之心とは、他人の苦痛や不幸を見るに忍びないあわれみの心・同情心をいう。

【現代語訳】
孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心(同情心)はあるものだ。むかしの聖人ともいわれる先王はもちろんこの心があったからこそ、しぜんに温かい血の通った政治(仁政)が行なわれたのだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行なうならば、天下を治めることは珠(たま)でも手のひらにのせてころがすように、いともたやすいことだ。では、誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかといえば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうと[の一念から]とっさにすることで、もちろんこれ(助けたこと)を縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。してみれば、あわれみの心がないものは、人間ではない。悪をはじにくむ心のないものは、人間ではない。譲りあう心のないものは、人間ではない。善し悪しを見わける心のないものは、人間ではない。あわれみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、悪をはじにくむ心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見わける心は智の芽生えである。人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。それなのに、自分にはとても[仁義だの礼智だのと]そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。またうちの殿様はとても仁政などとは思いもよらぬと勧めようともしないのは、君主を見くびった失礼な話である。だから人間たるもの、生れるとから自分に具わっているこの心の四つの芽生えを育てあげて、立派なものにしたいものだと自ら覚りさえすれば、ちょうど火が燃えつき、泉が湧きだすように始めはごく小さいが、やがては[大火ともなり、大河ともなるように]いくらでも大きくなるものだ。このように育てて大きくしていけば、遂には[その徳は]天下をも安らかに治めるほどにもなるものだが、もしも育てて大きくしていかなければ[折角の芽生えも枯れしぼんで]、手近(てぢか)な親孝行ひとつさえも満足にはできはすまい。」
(小林勝人『孟子(上)』岩波文庫、1968年[1997年版]、139頁~142頁)

〇公孫丑上、不忍人之心
D.C.Lau, Mencius,BOOK II・PART A-6
6. Mencius said, ‘No man is devoid of a heart sensitive to the
suffering of others. Such a sensitive heart was possessed by
the Former Kings and this manifested itself in compassion-
ate government. With such a sensitive heart behind compas-
sionate government, it was as easy to rule the Empire as rolling
it on your palm.’
‘My reason for saying that no man is devoid of a heart
sensitive to the suffering of others is this. Suppose a man were,
all of a sudden, to see a young child on the verge of falling into
a well. He would certainly be moved to compassion, not be-
cause he wanted to get in the good graces of the parents, nor
because he wished to win the praise of his fellow villagers or
friends, nor yet because he disliked the cry of the child. From this
it can be seen that whoever is devoid of the heart of compassion is
not human, whoever is devoid of the heart of shame is not
human, whoever is devoid of the heart of courtesy and modesty
is not human, and whoever is devoid of the heart of right and
wrong is not human. The heart of compassion is the germ of
benevolence; the heart of shame, of dutifulness; the heart of
courtesy and modesty, of observance of the rites; the heart
of right and wrong, of wisdom. Man has these four germs just
as he has four limbs. For a man possessing these four germs to
deny his own potentialities is for him to cripple himself; for him
to deny the potentialities of his prince is for him to cripple his
prince. If a man is able to develop all these four germs that he
possesses, it will be like a fire starting up or a spring coming
through. When these are fully developed, he can tend the whole
realm within the Four Seas, but if he fails to develop them, he
will not be able even to serve his parents.’
(D.C.Lau, Mencius, PENGUIN BOOKS, 1970[2003], pp.38-39.)

〇告子上、性善





D.C.Lau, Mencius,BOOK VI・PART A-2
2. Kao Tzu said, ‘Human nature is like whirling water. Give it
an outlet in the east and it will flow east; give it an outlet in the
west and it will flow west. Human nature does not show any
preference for either good or bad just as water does not show
any preference for either east or west.’
‘It certainly is the case, ’ said Mencius, ‘that water does not
show any preference for either east or west, but does it show
the same indifference to high and low? Human nature is good
just as water seeks low ground. There is no man who is not
good; there is no water that does not flow downwards.’
‘Now in the case of water, by splashing it one can make it
shoot up higher than one’s forehead, and by forcing it one can
make it stay on a hill. How can that be the nature of water? It
is the circumstances being what they are. That man can be made
bad shows that his nature is no different from that of water in
this respect.’
(D.C.Lau, Mencius, PENGUIN BOOKS, 1970[2003], p.122.)

呉清源の儒教理解~江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)より


これは、まったくの余談であるが、直木賞作家の江崎誠致が『昭和の碁』(立風書房)において、昭和で最強の棋士ともくされる呉清源の思想について、言及していたので、紹介しておく。
〇江崎誠致『昭和の碁』立風書房、1978年[1982年版]

 呉清源がこころみた真似碁は、棋力のない世人から見れば、勝つための手段としか映らないし、ズルイヤといった感想を大なり小なりいだいたにちがいない。
 しかし専門棋士は、とくに矛を交えた木谷実は、この若い中国の天才少年にそなわった得体の知れぬ妖気を感じとったにちがいない。

 のちに、呉清源は次のようなことを述べている。
「老子はいきなり天元を布石した。孔子は隅の方から石を打ちはじめた。老子の学は哲理が宏大無辺で、たやすく世人に理解されなかった。孔子の学は人の道をわかりやすく組み立てたので一般に理解された。しかし、二人の学問の発したところは一つである。老孔は一如である。だから、人が道を行うのも、碁が大自然の意を求めて行くのも同じであると思う。」

 老子、孔子の学は、日本にも古くから伝わっていて、ある程度は消化されている。したがって、この呉清源の言葉に奇異な感じはないし、むしろ共感をおぼえる人も多いだろう。しかし、こんな考え方を、碁の世界に持ちこめるのは、やはり呉清源が老孔の国の人であるからだと思う。老子はいきなり天元に布石した。呉清源も、そのようにいきなり天元に布石し、盤上に自然の意を求めて行こうとしたのである。真似はその手段にすぎない。その真似に、日本人は、卑怯、ズルイヤという感想をいだく。だが、呉清源の立場から見れば、そんな感想は問題にならない。

 この一事を見ても、呉清源の発想がそれまでの日本の碁界にはなかった別次元のものであることが理解されよう。それを最初に受けとめ、以後ライバルとして昭和の碁界をリードして行くことになったのが木谷実である。言葉の上で表現はしなくても、誰よりも先に、呉清源の桁はずれの発想を理解したのは、怪童丸木谷その人であったにちがいない。
(江崎誠致『昭和の碁』立風書房、1978年[1982年版]、15頁~16頁)

 呉清源が孔子老子を学び、紅卍や璽光尊に帰依したのは、碁に勝つためではない。彼の信仰心は不断のものであり、自然の心情の流露によるものである。無欲なのだ。そこに、平常心が生れる。彼の碁に失着が少く、あっても腐ることがなく、したがって失着の上塗りをしないのは、ねばり強い民族性というだけではない。無欲な平常心の賜(たまもの)と言えよう。
 奔放自在な呉清源の棋風に、類を見ない安定感があるのも、彼が勝敗不明の局面でしばしば運を引きよせるのも、多分そこに秘密がある。
(江崎誠致『昭和の碁』立風書房、1978年[1982年版]、59頁)

≪中国文化史(下)~高校世界史より≫

2023-09-03 18:00:28 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪中国文化史(下)~高校世界史より≫
(2023年9月3日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、中国文化史(宋代から清代まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中国文化史(宋代から)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・中国文化史(宋代から)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






中国文化史(宋代から)の記述~『世界史B』(東京書籍)より


〇宋代の文化


 儒学では、万物生成の理法や人間の本性を論理的に追究する宋学が、北宋の周敦頤(1017~73)らによっておこされた。南宗の朱熹(朱子、1130~1200)は、宋学を大成し(朱子学)、君臣上下の秩序を絶対視する大義名分論を唱え、儒学の経典として四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視した。また、朱子はきびしい国際情勢に対応して、周辺諸民族に対する中華帝国の優位論を展開した。朱子学は、その後、儒学の正統とされ、日本や朝鮮半島、またベトナムにも伝えられ、官学として繁栄した。客観的な事物の理を追究する朱子に対して、陸九淵(陸象山、1139~92)は心(主体性)の確立を主張し、実践を重視するその思想は、のちの陽明学に影響を与えた。北宋の司馬光(1019~86)は、歴史のうえから大義名分を説き、編年体の通史『資治通鑑』を編纂した。仏教では、禅宗と浄土宗が栄えたが、禅宗は道教に刺激を与え、修養を重んじる全真教が金治下の華北で創始された。文学では、散文がさかんとなって欧陽脩(1007~72)・王安石(1021~86)・蘇軾(蘇東坡、1036~1101)らの名文家が輩出し、韻文では、唐代の詩に対して、民謡から発展した叙情的な詞が流行した。また民間では、一種の歌劇である雑劇がさかんとなった。
 手工業の発達を背景に、美術工芸も発展をとげた。絵画では、宮廷の画院を中心に写実的で装飾性の強い院体画(北宗画)が成立し、文人や禅僧の間では水墨画の手法による文人画(南宗画)が全盛となった。工芸の面では、すぐれた漆器や織物のほか、景徳鎮などで青磁・白磁に代表される高度な水準の陶磁器(宋磁)がつくられた。科学技術も発達し、五代以来の木版印刷の技術はさらに発展して普及し、大量の書物が出版された。また火薬と磁針(のちの羅針盤)が実用化され、これらの技術はムスリム商人を介して西方に伝えられた。

<「桃鳩図」と「漁村夕照図」>
・「桃鳩図(とうきゅうず)」~北宋の徽宗皇帝は画院を保護し、自らもすぐれた絵画を残した。図は、彼が描いた院体画の代表作である。
・「漁村夕照図」~南宋の禅僧である牧谿(もっけい)の作品。日本の室町期の水墨画に大きな影響を与えた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)

〇元代の社会と文化  


 元は、農耕社会の統治にあたって、遊牧系の軍事政権でありながら、中華帝国の伝統そのままに、官僚制による中央集権体制を採用した。しかし、モンゴル語を公用語とし、政府の高官や地方長官にはモンゴル人をあて、中央は遊牧系の近衛兵で固め、実際にはモンゴル伝統の側近政治を行った。中央アジアや西アジアの出身者(色目人)はとくに優遇され、ムスリム商人出身のイスラーム教徒を、徴税や物資の流通の面で活躍させた。ただし、こうした出身にもとづく差別は、必ずしも厳格なものではなく、有能な人材であれば、民族を問わずに要所に採用した。同様に、初期には儒教を重視せず、科挙を廃止したが、やがて、膨大な官僚なくしては大陸統治は困難であることから、とくに江南の地では、儒教を学ぶ学院(廟堂)の設立を奨励し、14世紀初頭には科挙を復活させた。
 元は、徴税請負人を使ってきびしく徴税したが、農耕社会の内部にはあまり干渉せず、佃戸制はそのまま維持された。また駅伝制(ジャムチ)によって交通・交易網は整備され、大運河をはじめ運河の修復にも努め、都市の商工業もさかんであった。貨幣経済はいっそう進展し、元が発行した紙幣(交鈔)は、銀との交換が保証されたため普及し、ときには西アジアでも流通した。
 宋代からの庶民文化は、モンゴル人の統治下でもひきつづき発展し、モンゴル支配への抵抗を秘めた民謡や雑劇(元曲)が流行した。元曲の代表作品としては、封建的な束縛に抗して自由な恋愛をえがく『西廂記』、匈奴に嫁いだ王昭君の悲劇を劇化した『漢宮秋』、琵琶を弾きつつ出世した夫との再会を果たす女性を主人公とした『琵琶記』などがある。また民間での講談もさかんであり、『水滸伝』『西遊記』『三国志演義』の原型がつくられた。書画の分野では、東晋の王羲之の伝統をつぐ趙孟頫(趙子昂、1254~1322)や文人画の黄公望(1269~1354)、倪瓚(1301~74)などがあらわれ、物語の挿絵として流行した細密画(ミニアチュール)は、イル=ハン国を通して西方に影響を及ぼした。いっぽう、イスラーム天文学の知識にもとづいて郭守敬(1231~1316)が授時暦をつくり、この暦は、日本の江戸時代、渋川春海(安井算哲、1639~1715)が作成した貞享暦の基礎となった。
 宗教は、唐・宋の時代とおなじく道教と仏教が民間でさかんであった。ただ、チベット仏教サキャ派の法王、パスパ(パクパ、1235ごろ~80)がフビライの帝師となったことで、モンゴル貴族層の信仰を集めたのはチベット仏教であり、これへの過度の帰依・寄進が元末の財政破綻の一因となった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)

〇明代の思想と文化


 産業の発達は都市の発展を促し、とくに江南では豊かな郷紳層や商人を中心とする都市文化が生まれた。喫茶の習慣や陶磁器が普及し、大衆芸能や木版印刷による出版がさかんになり、戯曲、小説がひろく読まれ、『水滸伝』・『三国志演義』・『西遊記』・『金瓶梅』の四大奇書が完成した。また、科学技術への関心が高まって実用的な学問(実学)が発達し、李時珍(1523ごろ~96ごろ)の『本草綱目』、宋応星(1590ごろ~1650ごろ)の『天工開物』、徐光啓(1562~1633)の『農政全書』などが刊行された。
 こうした科学技術の発展の背景には、ヨーロッパからの刺激がある。16世紀半ばから、イエズス会系の宣教師の来航があいつぎ、イタリア人のマテオ=リッチ(Matteo Ricci、利瑪竇、1552~1610)、ドイツ人のアダム=シャール(Adam Schall、湯若望、1591~1666)らが、布教の手段として西洋の科学技術を伝えた。明の士大夫も刺激を受け、徐光啓はマテオ=リッチとともに、エウクレイデスの幾何学を翻訳した(『幾何原本』)。
 思想面では、朱子学が知識や教養を重視したのに対して、16世紀初頭に王守仁(王陽明、1472~1528)が、子どもや庶民が心にそなえているという真正なる道徳を実践する「知行合一」説を説く陽明学をおこした。
 キリスト教、科学技術、実用書、陽明学のいずれもが日本など東アジア諸国にも広まっていった。

<マテオ=リッチとアダム=シャール>
・明の皇帝は、天文学、暦学、地理学、数学、砲術などの新知識の受容を認めた。マテオ=リッチは『坤輿万国全図』を作成して、世界の地理・地誌を地球球体説とともに紹介した。アダム=シャールは『崇禎暦書』の編纂を指導した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)

〇清代の経済と文化


 明は、16世紀の世界経済の発展に対して十分に適応できないまま衰退したが、清は現状肯定的な政策を採用した。まず、満洲人の王朝であり、モンゴル人を体制内にとりいれていたため、北方防衛の負担が少なかった。また、海上貿易は、1684年に海禁を解いて民間貿易を認めたので、ふたたび活発となった。清からは、生糸や陶磁器、茶が輸出され、多量の外国銀が流入した。
 1757年、清は欧米諸国との貿易を広州一港に限定した。特許商人組合である公行(広東十三行)を中心に対外貿易を請け負わせたり、広州ではなくマカオに外国人商人や家族を居住させて貿易の際に広州に出入りさせたりするなど、欧米からみれば強い管理のもとに置かれた。18世紀後半には清からの茶の輸入が増加したイギリスは、清に対して貿易に関する障壁を撤廃するように求めた。
 税制では、明の後期からすでに一条鞭法など銀納に移行していたが、清もこれを継承した。18世紀初頭には丁銀(人頭税)が地銀(土地税)にくりいれられ(地丁銀)、やがて廃止されて課税対象が土地に一本化された。そのため、国家は小農の家族を把握する必要がなくなり、郷紳を通じた徴税や治安維持にたよるようになった。
 清代には明にひきつづき、郷紳や商人らによる都市文化が発展した。彼らの生活は、社会の上層家庭の日常生活における感情の機微を描いた『紅楼夢』や科挙と社会生活をあつかった『儒林外史』などに描きだされている。また短編の怪奇小説を集めた『聊斎志異』も歓迎された。陶磁器や工芸品などの品質や技術も向上したが、その意匠はしだいに繊細で精緻なものとなっていった。
 思想では、明末清初という政治激動期に、顧炎武(1613~82)や黄宗羲(1610~95)らが、より現実的な学問のあり方を主張し、清の体制を批判して考証学の道を開いた。この考証学は、清のきびしい思想統制のもとで、純学問的な古典研究へと性格をかえたが、清の中期にはその厳密な史料批判の方法が歴史学の発展をもたらし、銭大昕(1728~1804)などによる史学(清朝考証学)が栄えた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)

中国文化史(宋代から)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


【宋代の文化】


 唐代を代表する陶磁器の唐三彩と、宋代を代表する白磁・青磁をくらべてみると、色彩豊かで具象的な唐三彩に対し、宋の白磁・青磁はすっきりした理知的な美しさをもっている。それは、外面的な装飾をそぎ落とし、ものごとの本質に直接せまろうとする宋代文化の特徴をあらわしている。このような変化は、学問・思想から美術までさまざまな分野にみられるが、唐代後期以来のこの文化革新の流れを担ったのは、貴族にかわり官界に進出した士大夫、すなわち儒学の教養を身につけた知識層であった。
 儒学では、経典のなかの一つ一つの字句の解釈を重んずる訓詁学にかわって、経典全体を哲学的に読みこんで宇宙万物の正しい本質(理)にいたろうとする宋学がおこった。それは北宋の周敦頤(しゅうとんい、1017~73)に始まり、南宋の朱熹(朱子、1130~1200)によって大成されたので朱子学ともいわれる。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、日本や朝鮮の思想にも大きな影響を与えた。経典のなかでは、とくに四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)が重んじられるようになった。宋代の儒学の発展は、社会秩序を正そうとする士大夫の実践的意欲とも結びつき、華夷・君臣・父子などの区別を重視する大義名分論が盛んになった。宋代の歴史学を代表する司馬光(1019~86)の『資治通鑑』は、君主の統治に資する(役立つ)ことを目的に書かれた編年体の通史である。唐末以来の古文復興の動きを受け継ぎ、宋代にも欧陽脩(1007~72)・蘇軾(1036~1101)らの名文家が出た。
 美術では、宮廷画家を中心とする写実的な院体画とならんで、士大夫による文人画も盛んになった。水墨あるいは淡彩で自由な筆さばきをたっとぶ文人画は、対象のたんなる模写ではなく、観察をつうじて作者の心がつかみとった自然の生気をうつし出そうとするものであった。工芸では、白磁や青磁など、高温で焼いたかたい磁器の生産が盛んになった。
 都市商業の繁栄を背景に庶民文化も発展し、小説・雑劇や、音曲にあわせてうたう詞が盛んにつくられた。宗教では禅宗が官僚層によって支持され、また金の統治する華北では、儒・仏・道を調和した全真教(開祖は王重陽(1113~70))が道教の革新をとなえておこった。唐代頃に始まった木版印刷は宋代に普及し、また活字印刷術も発明された。同じ頃にすすんだ羅針盤や火薬の実用化の技術は、イスラーム世界をつうじてヨーロッパに伝わった。

<院体画(「桃鳩図」)>
「風流天子」といわれた徽宗の作。
宋代には美術を愛好する皇帝が天下の巨匠を画院に集め、写実や装飾性を重んずる画風をうみだした。

<文人画(墨竹図)>
書家・文豪としても知られる蘇軾の作。
胸のなかにある竹のイメージを墨一色で一気に描きあげた作品である。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、163頁~165頁)

【元の東アジア支配】


 相続争いを経て即位した第5代のフビライ(Khubilai, 在位1260~94)は、自分の勢力の強い東方に支配の重心を移し、大都(現在の北京[ペキン])に都を定め、国名を中国風に元(1271~1368)と称し(1271年)、ついでに南宋を滅ぼして中国全土を支配した。(中略)
 元は中国の統治に際して、中国の伝統的な官僚制度を採用したが、実質的な政策決定は、中央政府の首脳部を独占するモンゴル人によっておこなわれた。また、色目人と総称される中央アジア・西アジア出身の人々が、財務官僚として重用された。金の支配下にあった人々は漢人、南宋の支配下にあった人々は南人と呼ばれた。武人や実務官僚が重視され、科挙のおこなわれた回数も少なかったため、儒学の古典につうじた士大夫が官界で活躍する機会は少なかった。
(中略)
 元の政府は、支配下の地域の社会や文化には概して放任的な態度をとったので、大土地所有も宋代以来引き続き発展し、また都市の庶民文化も栄えた。なかでも戯曲は元曲として中国文学史上に重要な地位を占め、『西廂記』『琵琶記』などがその代表作として知られる。

【モンゴル時代の東西交流】


 モンゴル帝国の成立により、東西の交通路が整備されたため、東西文化の交流が盛んになった。当時十字軍をおこしていた西ヨーロッパは、イスラーム地域を征服したモンゴル帝国に関心をもち、ローマ教皇はプラノ=カルピニ(Plano Carpini, 1182頃~1252)、フランス王ルイ9世はルブルック(Rubruck, 1220頃~93頃)を使節としてモンゴル高原におくった。またイタリアの商人マルコ=ポーロ(Marco Polo, 1254~1324)は大都にきて元につかえ、その見聞をまとめた『世界の記述』(『東方見聞録』)はヨーロッパで反響を呼んだ。
 モンゴル帝国ではムスリム商人がユーラシアの東西を結んで活躍し、キプチャク=ハン国やイル=ハン国のモンゴル君主はイスラームに改宗した。また当時、元にきた色目人にイスラーム教徒が多かったことから、中国にもイスラーム教がしだいに広まった。イスラームの天文学を取り入れて郭守敬(1231~1316)がつくった授時暦は、のち日本にも取り入れられた(江戸時代の貞享暦)。また元からはイル=ハン国に中国絵画が伝えられ、それがイランで発達した細密画(ミニアチュール)に大きな影響を与えた。
 イル=ハン国はその初期にネストリウス派のキリスト教を保護し、ヨーロッパのキリスト教諸国やローマ教皇庁と使節を交換していたが、これがきっかけとなって、13世紀末にはモンテ=コルヴィノ(Monte Corvino, 1247~1328)が派遣され、大都の大司教に任ぜられた。中国でカトリックが布教されたのは、これがはじめてであった。
 モンゴル支配下の広大な地域では、漢語・チベット語・トルコ語・ペルシア語・ロシア語・ラテン語など多様な言語がもちいられていた。モンゴル語を表記するパスパ文字は、フビライの師であったチベット仏教の教主のパスパ('Phagspa, 1235/39~80)がつくったものであるが、しだいにすたれて、ウイグル文字でモンゴル語を表記することが一般的になった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、167頁~169頁)

【明後期の社会と文化】


 国際商業の活発化は、中国国内の商工業の発展をうながした。長江下流域では綿織物や生糸に代表される家内制手工業が盛んになり、原料となる綿花や養蚕に必要な桑の栽培が普及した。このため、明末には長江中流域の湖広(現在の湖北・湖南省)があらたな穀倉地帯となり、「湖広熟すれば天下足る」と称せられた。また江西省の景徳鎮に代表される陶磁器も生産をのばした。生糸や陶磁器は、日本やアメリカ大陸・ヨーロッパに輸出される代表的な国際商品であった。
 商業・手工業の発展にともない、山西商人や徽州(新安)商人など明の政府と結びついた特権商人が全国的に活動して巨大な富を築いた。大きな都市には、同郷出身者や同業者の互助や親睦をはかるための会館や公所もつくられた。税の納入も銀でおこなわれるようになり、16世紀には各種の税や徭役を銀に一本化して納入する一条鞭法の改革が実施された。貨幣経済の発展とともに都市には商人や郷紳など富裕な人々が集まり、庭園の建設や骨董の収集など文化生活を楽しんだ。明を代表する画家・書家の董其昌(とうきしょう、1555~1636)のように、高級官僚を経験しながら芸術家として名声を得た文化人も多かった。
 木版印刷による書物の出版も急増し、科挙の参考書や小説、商業・技術関係の実用書などが多数出版されて書物の購買層は広がった。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』などの小説が多くの読者を獲得し、庶民向けの講談や劇も都市の盛り場や農村でさかんに演じられた。儒学のなかでは、16世紀初めに王守仁(王陽明、1472~1528)が、無学な庶民や子どもでも本来その心のなかに真正の道徳をもっている(心即理)と主張し、外面的な知識や修養にたよる当時の朱子学の傾向を批判した。ありのままの善良な心を発揮し(致良知)、その心のままに実践をおこなう(知行合一)ことを説いた陽明学は、学者のみならず庶民のあいだにも広い支持を得た。
 明末文化の一つの特色は、科学技術への関心の高まりである。『本草綱目』(李時珍[1523頃~96頃]著)、『農政全書』(徐光啓[1562~1633]編)、『天工開物』(宋応星[1590頃~1650頃]著)などの科学技術書がつくられ、日本など東アジア諸国にも影響を与えた。当時の科学技術の発展には、16世紀半ば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も重要な役割をはたした。日本でのキリスト教普及の基礎を築いたイエズス会宣教師のフランシスコ=ザビエル(Francisco Xavier, 1506頃~52)は、中国布教をめざしたが実現せず、その後マテオ=リッチ(Matteo Ricci, 1552~1610)らが16世紀末に中国にはいって布教をおこなった。キリスト教が庶民層にまで広まった日本と異なり、中国では、ヨーロッパの自然科学や軍事技術に関心をもつ士大夫層がキリスト教を受け入れた。リッチが作製した世界地図の「坤輿万国全図」は、中国に新しい地理知識を広め、日本などにも伝えられた。西洋暦法による『崇禎暦書』や「ユークリッド幾何学」の翻訳である『幾何原本』なども刊行された。

<郷紳>
科挙の合格者や官僚経験者は、郷里の名士として勢力をもった。このような人々を郷紳という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、182頁~184頁)

【清代の社会と文化】


 三藩の乱の鎮圧と台湾の占領によって清朝の支配が安定すると、清朝は海禁を解除し、中国商人のジャンク船による交易やヨーロッパ船の来航をつうじて、海上貿易は順調に発展した。生糸や陶磁器・茶などの輸出によって中国には銀が流れこみ、国内商業の発展を支えた。東南アジアとの貿易をおこなう福建や広東の人々の一部は、清朝の禁令をおかして東南アジアに住み着き、農村と国際市場を結ぶ商業網をにぎって経済力をのばし、のちの南洋華僑のもとになった。18世紀半ばになると乾隆帝はヨーロッパ船の来航を広州1港に制限し、公行(こうこう、コホン)という特定の商人組合に貿易を管理させた。
 18世紀には政治の安定のもと、中国の人口は急増した。アメリカ大陸から伝来したトウモロコシやサツマイモなど、山地でも栽培可能な新作物は、山地の開墾をうながして、人口増を支えた。しかし土地の相対的な不足は多くの土地なし農民をうみだした。税制では、18世紀初めの地丁銀制により、丁税(人頭税)が土地税にくりこまれて制度の簡略化がはかられた。
 明代後期の文化が動乱期の世相を反映してダイナミックな力強さを感じさせるとすれば、それに比較して清代の文化はおちついた繊細さをみせているといえる。明清交替の混乱を経験した顧炎武(1613~82)など清初の学者は、社会秩序を回復するには現実を離れた空論でなく、事実に基づく実証的な研究が必要だと主張した。実証を重視するその主張は清代中期の学者に受け継がれ、儒学の経典の校訂や言語学的研究を精密におこなう考証学が発展し、銭大昕(1728~1804)などの学者が出た。『紅楼夢』や『儒林外史』など清代中期の長編小説も、細密な筆致で上流階級や士大夫たちの生活を描写している。
 清朝はイエズス会の宣教師を技術者として重用した。暦の改定をおこなったアダム=シャール(Adam Schall, 湯若望, 1591~1666)やフェルビースト(Verbiest, 南懐仁, 1623~88)、中国全図の「皇輿全覧図」作製に協力したブーヴェ(Bouvet, 白進, 1656~1730)、ヨーロッパの画法を紹介したり円明園の設計に加わったカスティリオーネ(Castiglione, 郎世寧, 1688~1766)らはその例である。イエズス会宣教師は布教にあたって中国文化を重んじ、信者に孔子の崇拝や祖先の祭祀などの儀礼を認めたが、これに反対する他派の宣教師がローマ教皇に訴えたことから、儀礼に関わる論争(典礼問題)がおこった。教皇はイエズス会宣教師の布教方法を否定したため、これに反発した清朝は雍正帝の時期にキリスト教の布教を禁止した。
 一方、宣教師たちによってヨーロッパに伝えられた儒教・科挙など中国の思想・制度や造園術などの文化は、ヨーロッパ人のあいだに中国に対する興味を呼びおこした。18世紀の啓蒙思想家のあいだでは、中国と比較してヨーロッパの国家体制の優劣が論じられ、また芸術のうえでもシノワズリ(chinoiserie, 中国趣味)が流行した。

<円明園>
円明園は雍正帝から乾隆帝の時期に北京郊外に建設された離宮。
バロック様式の西洋建築を含む広大な庭園であったが、アロー戦争の際の英仏軍の略奪・破壊によって、廃墟と化した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、191頁~192頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


〇宋代の文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
 Culture of the Song Dynasty
In Confucianism, the Song Study(宋学) which studied the theory of generation of all things in
the universe as well as human nature, was theoretically founded by Zhou Dunyi (周敦頤) and others
of the Northern Song. Zhu Xi (朱熹 Zhuzi 朱子) of the Southern Song reconstituted the Confucian
tradition and shaped Neo-Confucianism (朱子学) where he justified the order between the sovereign
and subjects as an absolute principle and attached importance on the Four Books (四書、the Great
Learnig (大学), Doctrine of the Mean (中庸), the Analects (論語) and Mencius (孟子)) as the Confucian classics. Zhu Xi extended the theory of superiority of China over surrounding peoples corresponding to
the severe international environments. Zhu Xi’s Neo-Confucianism became the legitimate
Confucianism in China, and was introduced to Japan, the Korean peninsula and Vietnam,
and was prospered as bureaucratic learning. As opposed to Neo-Confucianism which
studied the principles of things objectively, Lu Jiuyuan (陸九淵) claimed the establishment of mind
(subjectivity) putting importance on practice, and his thought later influenced the philosophy
of Wang Yang-ming (陽明学). Sima Guang (司馬光) of the Northern Song justified the “theory of legitimate reasons” using Chinese history and compiled Zizhi Tongjian (資治通鑑, Comprehensive Mirror for Aid in Government) , a chronological historiography text of China. In Buddhism, the Zen sect
and the Pure Land sect prospered, and the Zen sect spurred a Taoism, and Quanzhen school (全真教)
which respected moral culture was founded in North China under the Jing government. In
literature, the prose style became popular, and masters of style such as Ouyang Xiu (欧陽脩), Wang
Anshi (王安石) and Su Shi (蘇東坡、蘇軾) appeared. In verse style, unlike the poems in the Tang period,
lyrical Ci (詞), evolved from folk songs, became popular. Among the common people zaju (a kind of
Chinese classical opera) became popular.
Arts and crafts developed with the handicraft manufacturing development as a
background. In paintings, very realistic and decorative yuan ti hua (the Northern Song school of painting, 院体画, 北宗画) materialized. This was led by the painting institute of the royal court,
and paintings by literary artists (the Southern Song School of paintin,文体画, 南宗画)
based on technical skills of China ink painting most prospered among writers and Zen priests.
In handicrafts, magnificent lacquerware and textiles were produced, and high quality ceramics (Song ceramics 宋磁) represented by celadon porcelain (青磁) and white porcelain (白磁) were produced mainly in Jingdezhen (景徳鎮). Scientific technologies also developed, woodblock printing techniques (木版印刷) from the Five Dynasties developed even further, and thus many books were published. Gunpowder and the magnetic needle were put to practical use, and such technologies were transferred
to the western area through Muslim merchants.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、139頁~140頁)

〇元代の社会と文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
Society and Culture of the Yuan Dynasty
With regards to the governing of agricultural society, the Yuan dynasty, being a nomadic
military regime, nevertheless adopted centralism based on the bureaucracy following that of
Chinese Empire tradition. However, the Mongolian language was designated as the official
language, and Mongol people were appointed as government’s high officials and local
governors, and the central government was guarded by the Imperial guards. Thus actually
Mongolian traditional politics by close associates was carried out. People from Central
Asia and West Asia (Semu) were treated favorably among others. Muslim merchants were
entrusted with tax collection and trading goods. Mongols were positioned highest in the
ranking system at least initially, however, capable and talented people could be employed
and placed in key positions regardless of race. In the same way, initial Confucianism was
not well respected and thus the Imperial Examination system was abolished. But gradually
realizing it was not practical to govern the vast continent without enormous number of
bureaucrats, the Yuan promoted the establishment of institutes for studying Confucianism,
especially in Jiangnan, and in the beginning of the 14th century the Imperial Examination
was revived.
The Yuan dynasty collected tax strictly employing tax collectors but did not intervene in
the internal agricultural society much, and maintained the tenant farmer system as it was.
Also, traffic and trade networks were consolidated by the station relay system (jamchi) and
canals including the Grand Canal were restored. Because of this, urban commerce and
industry flourished. A monetary economy further developed. Paper money issued by the
Yuan, which guaranteed its convertibility into silver, was widely used, and sometimes
circulated even in West Asia.
The culture of common people continuously developed since the Song period even
under Mongol’s control, and folk songs and Zaju (雑劇, Yuan musical 元曲) concealing resistance
against Mongolian control became popular. Representative Zaju were, among others,
Xixiang Ji (西廂記), or Tale of the Western Chamber depicting free love rebelling against the
feudal restraint, Han Gong Qiu (漢宮秋, The story of the Han palace) dramatizing a tragedy about
Wang Zhao Jun who married to the Xiongnu and Pi Pa Ji (琵琶記, The Lute), a story about a
heroin who, with playing a lute, finally could meet again with her husband. Private
storytelling was also popular and original forms of Water Margin (水滸伝), Journey to the West
(西遊記) and Romance of the Three Kingdoms (三国志演義) were created. In the field of drawings and paintings, Zhao Mengfu (趙孟頫) succeeding traditions of Wang Xizhi (王羲之), and Huang Gongwang
(黄公望) and Ni Zan (倪瓚) of literati paintings appeared. And miniatures, which became popular as
illustration of stories, influenced the western world through the Il Khans. On the other hand, based on
the knowledge of Islamic astronomy, Guo Shoujing (郭守敬) made The Lunar and Solar Calendar
(Shou shi li 授時暦). This was used as the base for the Jokyo Calendar, which was made by Harumi
Sibukawa(渋川春海) in the Edo period of Japan.
In terms of religion, Taoism and Buddhism were popular among people the same as the
time of Tang and Song period. However as Phags-pa (パスパ), a pope of Sa skya sect of Tibetan
Buddhism, became a teacher for the emperor of Khubilai (帝師), Tibetan Buddhism prevailed
among Mongolian aristocrats. The excessive belief in and contribution to this religion was
one of the reasons for the financial bankruptcy in the final stage of the Yuan dynasty.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)

〇明代の思想と文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)

Thoughts and Culture in the Ming Period
Development of industries prompted growth of cities, and especially in Jiangnan. Urban
culture evolved with rich local gentries and merchants as the cores. Tea drinking became
customary and the use of pottery spread and public entertainment, as well as publishing
by wood printing, became prosperous. Due to this, dramas and novels were broadly read,
resulting in completion of the Four Great Classical Novels: Outlaws of the Marsh (水滸伝), Three
Kingdoms (三国志演義), Journey to the West (西遊記), and The Golden Lotus (金瓶梅), as interests
in scientific technologies rose, practical studies (practical science) advanced, and Compendium of
Materia Medica (Bencao Gangmu 本草綱目) by Li Shizhen (李時珍), Tiangong Kaiwu (天工開物)
by Song Yingxing (宋応星) and Nong Zheng Quan Shu (農政全書) by Xu Guangqi (徐光啓) and others
were published.
Such development of scientific technologies were influenced by Europe. Since the
middle of the 16th century, missionaries of the Society of Jesus visited the Ming one after
another, and the Italian Matteo Ricci (マテオ=リッチ, Li Madou 利瑪竇) and German Adam Schall
(アダム=シャール, Tang Ruowang 湯若望) introduced western scientific technology as a means of
propagation. The Ming scholar-bureaucrats were also stimulated, and Xu Guangqi (徐光啓) translated
Euclid’s Geometry (エウクレイデスの幾何学) (Original Geometry 幾何原本) together with
Matteo Ricci.
In the aspect of thoughts, while Neo-Confucianism emphasisized knowledge and culture,
in the beginning of the 16th century, Wang Yangming (王陽明) started the Philosophy of
Yang-Ming (陽明学), which preached that “Awareness comes only through practice”.
Genuine morality, with which the hearts of children and the general public were said to be
endowed, was to be executed.
Christianity, scientific technology, technical manuals and the Philosophy of Yang-Ming
all spread to Japan and other East Asian countries.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、171頁)

〇清代の経済と文化


(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)

Economy and Culture of the Qing
The Ming declined, being unable to adapt to the development of a world economy in the
16th century, while the Qing adopted policies to acknowledge the status quo. Firstly, since
it was a Manchu dynasty and Mongolians were incorporated into the state structure, the
burden of defending the northern area was small. Also, regarding sea trade, the ban on the
maritime trade was lifted in 1684 and private trade was also allowed. Raw silk, potteries
and teas were exported from the Qing. In exchange a huge amount of foreign silver flowed
in.
In 1757, the Qing restricted trade with Western countries to the Guangdong (sic 広州) port only.
Foreign trade was undertaken by the Gong Hang (公行(コホン), Guangdong Thirteen Gong Hang (広東十三行)), a guild of licensed merchants. Foreign merchants and their families were allowed to live in
Macao (マカオ) but not in Guangzhou. They were forced to come in and go out from Guangzhou
for trading business, and thus, from a Western point of view, they were placed under strong control of
the Qing. In the latter half of the 18 th century, when import of tea from the Qing increased,
England requested to lift trade barriers to the Qing.
Regarding the tax system, the Qing succeeded the tax payment by silver such as the
Single-whip System (一条鞭法) which was already adopted in the late Ming period. In the beginning
of the 18 th century, a per capita tax (丁銀) was incorporated into the land tax (地丁銀) and subsequently
abolished to become a single tax on the land only. Therefore, the government did not
necessarily know the number of the small farmers’ family members, and became dependent
on local gentries for the tax collection and maintenance of public peace.
During the Qing period, urban culture, led by the local gentries and merchants,
continued to develop following the Ming period. Their lives were described in A Dream
of Red Mansions (紅楼夢) which depicted the secrets of human nature in daily lives of Manchu
aristocrats and Scholars (儒林外史), which dealt with the higher civil service examination and social
lives. Strange Tales from the Liaozhai Studio (聊斎志異), a collection of short weird novels, was well
received. The quality and techniques of potterymaking and industrial art objects were
improved, and their design gradually became more sophisticated and precise.
Regarding thoughts, during between the end of the Ming and the beginning of the Qing,
when political situation was highly unstable, Gu Yanwu (顧炎武) and Huang Zongxi (黄宗羲) insisted that study and learning be realistic, criticized the Qing’s governing system and paved the way
for the study of historical investigation (考証学). This study of historical investigation changed
character to the academic bibliographical study of Chinese classics under tight thought
control by the Qing, but its strict critical method of historical materials brought about the
development of the study of history, and historical science (Study of Historical Investigation of
the Qing dynasty (清朝考証学)) by Qian Daxin (銭大昕) and others flourished.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、176頁~177頁)


≪中国文化史(上)~高校世界史より≫

2023-09-01 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪中国文化史(上)~高校世界史より≫
(2023年9月1日投稿)

【はじめに】


 前回のブログまでで、西洋史を一応終え、今回以降から、いわゆる東洋史に関する世界史をみてゆきたい。
 今回のブログでは、高校世界史において、中国文化史(唐代まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、例によって、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 なお、中国文化史の【補足】は、(上)(下)を終えてからにする。
中国以外にも、次のようなテーマでまとめていく予定である。
●インドの歴史と文化
●イスラーム
●東南アジアの歴史




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・中国文化史(唐代まで)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・中国文化史(唐代まで)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






中国文化史(唐代まで)の記述~『世界史B』(東京書籍)より


 福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])から、中国文化史の項目を抽出すると、次のようになる。このうち、今回は、唐代までを取り上げてみる。

【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの/邑制国家の誕生
 (福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)

〇諸子百家の群像
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)

〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)

〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)

〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)

〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)

〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)

〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)

〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)




第4章 東アジア世界 1東アジアにめばえた文明
【黄河文明のあけぼの】


 おおよそ秦嶺山脈から淮河にいたる線を境として、その北部の黄河流域一帯(華北)は、冷帯から温帯に属し、降雨は夏期に限られる乾燥度の強い地域であり、モンゴル高原から季節風によって運ばれてきた黄土が分厚く堆積している。黄土は畑作に適した肥沃な土壌であり、黄土地帯では、水さえ上手に使えば、石や木などの粗製農具によっても、アワ・キビなどの穀物の栽培ができた。
 淮河以南の長江の流域一帯(華中)は、温帯に属し、照葉樹林と湖沼が広がる湿潤な地域であり、一部の地域には、古くから個性的な諸文化が生まれた。長江下流域(江南)では、前5000年ごろに新石器文化がめばえ、稲作が成立していたことが確認できる。前3300年ごろに出現した良渚文化では、巨大な祭壇や精巧な玉器がつくられた。
 いっぽう華北の新石器時代は、前6000年ごろにさかのぼり、黄河流域の広い範囲に、穀物を栽培し豚や犬などの家畜を飼養する文化が生まれ、半地下式の竪穴住居の集落が形成された。黄河文明の出発点をなすこの農耕文化は、二つの文化期に分けられる。最初にあらわれるのが、前5000年から前3000年ごろの仰韶文化(ヤンシャオ、ぎょうしょう)であり、明るい彩色文様の土器をともなうところから彩陶文化ともいわれる。仰韶文化は、前2900~前2000年ごろに出現した竜山文化(ロンシャン、りゅうざん)に受けつがれた。この文化は、粗製ではあるが実用的な灰陶と、良質の研磨土器である黒陶によって特徴づけられる。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~79頁)

【邑制国家の誕生】


 黄土地帯で、最初に集落を営むことができたのは、洪水の危険が少なく、小さな河川や湧き水を利用できる台地などに限られていた。このために、黄河中・下流域では小規模な集落(邑[ゆう])が数多く点在することになり、おのおの氏族制のもとで共同体的な生活が営まれた。竜山文化の末期に各地の農耕文化が衰退するなか、四方の文化を吸収し、アワやキビ・稲・大豆などの多様な穀物を栽培していた中原地域では、竜山文化が発展をとげ、周辺の邑を服属させ、城壁をめぐらす都市国家(大邑)もあらわれた。こうして新石器時代の農耕文化は、一つの文明としての姿を整えたのであり、多くの邑は軍事や交易面で連携をすすめて、より強力な年国家のもとに組織化された。黄河文明が生みだした最古の王朝として確認される殷(商)は、前1600年ごろ、商という大邑を中心に成立したこれらの都市国家の連合組織(邑制国家)であった。
 殷王朝後期の遺跡である殷墟(河南省安陽市)からは、捕虜か奴隷を殉葬したらしい竪穴式の巨大な墓が発掘されており、出土した甲骨には、殷王が天帝の神意を占った内容が、漢字の原型となった甲骨文字で記録されており、当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。また青銅器時代はこのころにはじまり、殷代の精巧な青銅製の祭器類は、はるか長江流域や四川盆地からも出土している。

<甲骨文字の刻まれた牛骨>
専門の占い師が、獣の肩甲骨や亀の腹甲にできるひび割れで神意を読みとり、その結果を文字で刻んだ。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、79頁~80頁)

第4章 東アジア世界1東アジアにめばえた文明
【諸子百家の群像】


春秋戦国時代の激動は、政治や社会のあり方をめぐる多彩な思想をよびおこし、諸子百家とよばれる思想家たちがあらわれた。
 春秋時代末期の魯の思想家で、儒家の祖となった孔子(前551ごろ~前479)は、家族道徳(孝)の実行を重視し、為政者にも仁徳をもって統治することを求めた(徳治主義)。『論語』は、孔子とその弟子の言行を編集したものである。孔子の思想を受けた孟子(前372ごろ~前289ごろ)は、上古には行われたという善政(王道)を理想とし、生来の善なる心をのばすべきとする性善説の立場から、力による政治(覇道)を批判したが、荀子(前298ごろ~前235ごろ)は、人は生来悪となりやすいので礼をもって導かなければならないとする性悪説の立場から、君主による民の教化を容認した。商鞅(?~前338)や韓非(?~前233)などの法家は、法律による統治(法治主義)を説き、秦の強国化に貢献した。これに対して、墨子(前480ごろ~前390ごろ)を祖とする墨家は、博愛主義(兼愛)や絶対平和(非攻)を主張し、老子や荘子(前4世紀ごろ)などの道家は、あるがままの自然に宇宙の原理(道)を求めて、政治を人為的なものとして否定した(無為自然)。また、兵家(兵法家)の孫子や呉子(呉起)、外交術を駆使した縦横家の蘇秦(?~前317)や張儀(?~前309)、陰陽五行説を唱えた陰陽家の鄒衍(前305~前240)、また論理学派である名家の公孫竜(前4世紀~前3世紀ごろ)、新しい農業技術を普及させた農家なども登場し、時代の要請にこたえた。この時代に編集された文学作品として、周の王室の儀式の歌と黄河流域の民謡を集めた『詩経』、楚の詩人屈原(前340~前278)の詩や長江流域の詩歌を集めた『楚辞』があり、それぞれ華北と華中・江南の風土が反映されている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)

〇漢代の文化


 漢代には、五経などの儒教の経典が新たに編集され、後漢の鄭玄(127~200)らによる字句の解釈をめぐる学問(訓詁学)が発達した。漢王朝の正統化のために史書の編集が奨励され、前漢の司馬遷(前145ごろ~前86ごろ)の『史記』と後漢の班固(32~92)の『漢書』は、のちの歴史書の模範となった。後漢期には、科学技術の面でも進歩がみられ、張衡(78~139)は天球儀や地震計を考案し、蔡倫(?~121ごろ)は紙の製法を大幅に改良した。また、官営工場を中心に精巧な絹織物、漆器、銅鏡がつくられ、その技術や製品は西方にも伝播した。この時代、海・陸両路による東西交渉が活発であり、仏教がインドから西域経由で中国に伝来したのは、後漢期のこととされる。

<『史記』と『漢書』>
・『史記』は上古から武帝期までの通史。『漢書』は前漢一代の歴史書であり、叙述の形式は、帝王や皇帝の年代記(本紀)と重要人物の伝記(列伝)で構成される紀伝体である。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)

〇南北朝の文化


 江南の呉と東晋、および南朝の四つの王朝が交替した六朝時代には、貴族が主導する六朝文化が花開いた。詩の陶潜(陶淵明、365ごろ~427)、書の王羲之(307ごろ~365ごろ)、絵画の顧愷之(344ごろ405ごろ)らがこれを代表し、散文では、四六駢儷体という華麗な文章が好まれた。梁の昭明太子(501~531)が編集した『文選』は、古来のすぐれた詩文を集めたもので、日本文化にも大きな影響を与えた。貴族の間では、「竹林の七賢」の言行にみられる清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎された。これに対して北朝では、北魏の歴史地理書『水経注』や農業技術書『斉民要術』のような、現実的で実用的な文化が開花した。
 仏教は、南北朝時代の社会不安のなかで、中華文明の世界に根をおろした。華北では、五胡十六国時代に西域の亀茲(クチャ)出身の仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ ?~348)や鳩摩羅什(くまらじゅう、クマラジーヴァ、344~413)らが布教に努め、身分を問わず平安を願う多くの人々に受けいれられた。江南では、インドにおもむいた東晋の求法僧法顕(337ごろ~422ごろ)の活躍もあって、老荘思想をとおして理解され、貴族の間に流行し、南朝の首都の建康には仏寺が林立した。北魏で国教とされたのは、寇謙之(363~448)によって大成された道教であったが、やがて仏教が国家の庇護を受けることになり、首都洛陽を中心に多くの寺が建立された。敦煌(甘粛省)の石窟寺院の造営は、五胡十六国時代にはじまり、北魏の雲崗(山西省大同市の西郊)・竜門(洛陽市の南郊)をへて、のちの時代に受けつがれた。

<法顕>
・法顕は、399年に長安を出発して陸路インドに入り、海路シンハラ(現在のスリランカ)をへて412年に帰国し、『仏国記』(法顕伝)を著した。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)

〇唐代の社会と文化


 唐の中ごろから、農業生産が一段と発展した。華北では、冬小麦を裏作とする二毛作が普及した江南では、水稲栽培の技術も向上し、水田地帯はさらに南方に広がった。水陸の交通網は一段と整備され、都市間の物資流通が充実した。また、首都長安の市(西市・東市)のように、都城内の一定の区域に限定されてはいたが、各種の商店や手工業の工房も繁栄した。対外交易も発展し、西域経由の東西貿易が安定したほか、広州や泉州を中心に南海貿易もさかんになり、やがて広州には国家が貿易を管理する市舶司が設置され、アラビアやペルシアのムスリム商人の来航も多くなった。こうして首都長安は、東西の人々の行きかう国際都市となった。
 経済の発展に支えられて文化も栄えた。唐代の文化の特色は、華北と江南の文化が融合した点にあったが、同時に東西交易の盛況を背景として国際色豊かであった。儒教は、国家の保護を受け、支配者層の必須の教養科目となった。科挙の試験科目となったこともあって、経典類の編集・研究がすすみ、孔穎達(574~648)らによる欽定の注釈書『五経正義』が編集された。文学では、六朝時代の形式美がすたれ、韓愈(韓退之、768~824)や柳宗元(773~819)らは古文の尊重を唱えた。また科挙で詩賦が重視されたこともあって、唐詩が隆盛し、李白(701~762)・杜甫(712~770)・王維(701ごろ~761)・白居易(白楽天、772~846)らの詩人が活躍した。
 美術では、書の褚遂良(596~658)・顔真卿(709~786ごろ)、絵の閻立本(?~673)・呉道玄(8世紀)らが出た。絵画の題材には山水が好まれ、水墨の技法による山水画が発達した。工芸では、唐三彩で知られる陶器に特色があらわれた。
 宗教では、仏教が前代につづいて発展した。玄奘(600ごろ~664)や義浄(635~713)らのように仏典を求めてインドにおもむく僧も多く、仏典の漢訳と教理の研究もすすんだが、浄土宗や禅宗などの新しい宗派が誕生し、最澄(767~822)や空海(774~835)が日本に伝えた天台宗と真言宗は、平安仏教に大きな影響を与えた。いっぽう、道教も帝室の保護のもとに発達し、民間には仏教以上に広まった。また西方諸国との交流がさかんになると、祆教(ゾロアスター教)・マニ教・回教(イスラーム教)・景教(ネストリウス派キリスト教)なども伝わり、それらの寺院も建てられた。

<玄奘と義浄>
・玄奘の行路は往復とも西域経由のルートであり、帰国後に『大唐西域記』を著して、中央アジアやインドの事情を伝えた。義浄は往復とも海路を使い、『南海寄帰内法伝』を著して、インドや東南アジアの状況を報告した。

<コラム「木簡から紙へ」>
春秋戦国の時代になると、官僚制度が整って行政文書が飛びかうようになり、また諸子百家などの各種の書物が流布するようになった。この事情に応じて、戦国時代のころから、一般の書物から行政文書にいたるまで、うすくけずった木や竹の札が、広く、大量に使用されるようになった。
 これらの木簡や竹簡では、墨で文字が書かれ、書きそんじたら小刀でけずって訂正された。役人たちが「刀筆の吏」とよばれたのはこのためである。いく枚かの札でまとまりがつくと、それらを縦にならべて2~3本の糸で横に綴る。その姿が「冊」であり、これを巻くと「巻」になる。こうして形をなした書冊を何度も繙くと、綴り糸が切れることもおこる。「韋編(いへん、綴り糸)三絶」とは、よく勉強したという意味である。
 ぼろ布や亜麻の繊維などをすいてつくられる紙は、後漢の宦官、蔡倫の発明とされる。しかし、粗製ながらも前漢期の紙が発見されており、文献にも、蔡倫より以前の紙の記録がある。たしかに紙は、後漢時代から急速に普及していった。しかし、それ以降にあっても、木簡や竹簡が紙とならんで使用されつづけた。近年、つぎつぎと発掘・発見される大量の木簡は、戦国末期から三国時代にまでいたっている。
 751年、タラス河畔の戦いで唐軍がやぶれたとき、製紙技術者が捕虜となり、製紙法は西方に伝わったともいわれている。バグダードには製紙工場がつくられ、その後、エジプトからアフリカ北部沿岸をへて、12世紀半ばにイベリア半島に伝わった。この間に改良を重ねながら、製紙法がヨーロッパ各地へと普及していったのは、13世紀以降のことである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)


中国文化史の記述(唐代まで)~『詳説世界史』(山川出版社)より


「第2章アジア・アメリカの古代文明」の「3中国の古典文明」
【中国文明の発生】


 前6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として、粗放な農耕が始まっていた。前5千年紀には、気候の温暖化とともに農耕技術も発展し、数百人規模の村落がうまれてきた。黄河中流域では、彩文土器(彩陶)を特色とする仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化が有名であり、長江中・下流域でも、同じ頃に人工的な水田施設をともなう集落がつくられていたことが、明らかになっている。
 前3千年紀には、これら地域間の交流はしだいに緊密化した。黄河下流域を中心に、南は長江中・下流域、北は遼東半島にいたるまで分布する黒色磨研土器(黒陶)はそれを示すものである(竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化)。交流にともなう集団相互の争いは、それぞれの地域で政治的統合をうながした。この時期の遺跡にみられる大量の武器や戦争犠牲者の埋葬跡、また集団作業で土をつき固めた城壁や支配層の巨大な墓は、政治権力の集中と階層差の拡大を反映している。
 

【初期王朝の形成】


(前略)
 現在確認できる最古の王朝は、夏につづいておこったとされる殷(商、前16世紀頃~前11世紀頃)である。20世紀初めの殷墟(河南省安陽市)の発掘によって、甲骨文字を刻んだ大量の亀甲・獣骨や、多数の人畜を殉葬された王墓および大きな宮殿跡が発見され、殷王朝が前2千年紀に実在したことがはっきりと証明された。
 殷王朝は、多数の氏族集団が連合し、王都のもとに多くの邑(ゆう、城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが、王は盛大に神の祭りをおこない、また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し、強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。現在の漢字のもとである甲骨文字はその占いの記録に使われたものであり、複雑な文様をもつ青銅器の多くも祭祀用の酒器や食器であった。
(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、66頁~68頁)

【春秋・戦国時代の社会変動と新思想】


(前略)
 戦争の続く時代のなかで、人々は新しい社会秩序のあり方を模索した。また、独創的な主張によって君主に認められる機会も多かった。その結果、春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ、諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
 諸子百家のなかで後世にもっとも大きな影響を与えたのは、春秋時代末期の人、孔子(前551頃~前479)を祖とする儒家の思想である。孔子は、親に対する「孝」といったもっとも身近な家族道徳を社会秩序の基本におき、家族内の親子兄弟のあいだのけじめと愛情を広く天下におよぼしていけば、理想的な社会秩序が実現できるとした。孔子の言行はのちに『論語』としてまとめられ、その思想は、万人のもつ血縁的愛情を重視する性善説の孟子(前372頃~前289頃)や、礼による規律維持を強調する性悪説の荀子(前298頃~前235頃)など、戦国時代の儒家たちによって受け継がれた。
 その他、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説く墨子(前480頃~前390頃)の学派(墨家)、あるがままの状態にさからわず(無為自然)すべての根源である「道」への合一を求める老子(生没年不明)・荘子(前4世紀)の道家、強大な権力をもつ君主が法と策略により国家の統治をおこなうべきだとする商鞅(?~前338)・韓非(?~前233)・李斯(?~前208)らの法家などがあり、いずれもその後の中国社会思想の重要な源となっている。さらに論理学を説いた名家、兵法を講じた兵家(孫子)、外交策を講じた縦横家(蘇秦・張儀)、天体の運行と人間生活の関係を説いた陰陽家、農業技術を論じた農家など多様な分野で思想・学問の基礎が築かれた。『詩経』『春秋』など儒家の経典をはじめとする諸子百家の文献に加えて、『楚辞』などの文学作品もまとめられた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、70頁)

【漢代の社会と文化】


(前略)
 漢代の初めには法家や道家の思想が力をもったが、武帝の時代には、董仲舒(前176頃~前104頃)の提案により儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。儒学の主要な経典として五経が定められ、とくに後漢の時代には、鄭玄(127~200)らの学者により、経典の字句解釈を重んずる訓詁学が発展して、経典の詳しい注釈書がつくられた。
 当時の書物はおもに竹簡に書かれていたが、後漢の時代に製紙技術が改良されて紙がしだいに普及した。文字は、今日の漢字と大差のない隷書に統一され、辞書もつくられた。漢代以前の歴史をわれわれに伝えるもっとも重要な書物は、武帝の時期の人、司馬遷(前145頃~前86頃)がまとめた『史記』で、太古から武帝期にいたる歴史を紀伝体で叙述し、個性ある人物群をとおして動乱の時代をいきいきと描いている。『史記』とそれにつづく後漢の班固(32~92)の『漢書』以後、紀伝体が中国の歴史書のもっとも基本的な形となった。

<紀伝体>
皇帝の事績(本紀)と功臣などの伝記(列伝)を中心に構成される歴史書の書き方をいう。これに対し、年月順に記すものを編年体という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、73頁~74頁)

【魏晋南北朝の文化】


 魏晋南北朝の動乱時代は、国家の統制も弱まり、多民族がまじりあう状況のなかで、多様な思想・文化が花開いた時期であった。仏教はすでに1世紀頃には西域から伝えられていたが、中国で広まったのは4世紀後半からである。仏図澄(?~348)や鳩摩羅什(344~413)は西域からやってきて華北での布教や仏典の翻訳に活躍し、法顕(337頃~422頃)は直接インドに行って仏教をおさめ、旅行記『仏国記』を著した。仏教の普及にともない、華北では多くの石窟寺院がつくられた。敦煌では粘土製の塑像と絵画により、北魏の時代から造営された雲崗・竜門では石像と石彫により、仏教の世界が表現された。華北では仏教は庶民にまで広まったが、江南では貴族の教養として受け入れられた。仏教の普及に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説を取り入れてできたもので、道士の寇謙之(363~448)は教団をつくって北魏の太武帝に信任され、仏教と対抗して勢力をのばした。
 当時の文化の一つの特色は、精神の自由さを重んずるということである。貴族のあいだでは、道徳や規範にしばられない趣味の世界が好まれた。魏・晋の時代には世俗を超越した清談が高尚なものとされ、文化人のあいだで流行した。文学では田園生活へのあこがれをうたう陶潜(陶淵明、365頃~427)や謝霊運(385~433)の詩が名高い。対句をもちいたはなやかな四六駢儷体が、この時期の特色ある文体であり、その名作は梁の昭明太子(501~531)の編纂した『文選』におさめられている。絵画では「女史箴図」の作者とされる顧愷之(344頃~405頃)、書では王羲之(307頃~365頃)が有名で、ともにその道の祖として尊ばれた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、84頁~85頁)

【唐代の制度と文化】


(前略)
 首都長安は、皇帝の住む宮城から南にのびる大通りを軸に各種の施設が東西対称に配される広大な計画都市で、東アジア各地域の首都建設のモデルとなった。長安には、周辺諸国からの朝貢使節・留学生や商人たちが集まり、仏教寺院や道教寺院のほか、キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。とくにササン朝の滅亡時には多くのイラン人が長安に移住し、ポロ競技などイラン系風俗が流行した。イラン系風俗の流行は、当時の絵画や唐三彩の陶器にも反映されている。外国人がその才能を見こまれて官僚に取り立てられることもあり、長安はアジア諸地域の人々を結びつける国際色豊かな都市であった。一方、海路中国にいたるアラブ・イラン系のムスリム商人も増え、揚州・広州など華中・華南の港町が発展した。
 唐代には仏教が帝室・貴族の保護をうけて栄えた。玄奘や義浄はインドから経典をもち帰り、その後の仏教に大きな影響を与えた。もともと外来の宗教であった仏教はしだいに中国に根づき、浄土宗や禅宗など中国独特の特色ある宗派が形成されてきた。
 科挙制度の整備にともない、漢代以来の訓詁学が改めて重視され、孔穎達(くようだつ、こうえいたつ, 574~648)らの『五経正義』がつくられた。また、科挙で詩作が重んじられたこともあり、李白(701~762)・杜甫(712~770)・白居易(772~846)らが独創的な詩風で名声を博した。唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運がうまれてきた。韓愈(768~824)・柳宗元(773~819)の古文復興の主張、呉道玄(8世紀頃)の山水画、顔真卿(709~785頃)の書法などはそのさきがけといえる。

<玄奘>
玄奘は西域経由でインドに17年間にわたる旅行をおこない、仏教を深く学ぶとともにインド各地の仏跡を訪れた。インドからもち帰った大量の仏典をもとに、帰国後、大翻訳事業をおこない、中国の仏教学の水準を飛躍的に高めた。その旅行の記録である『大唐西域記』は、当時の西域・インドの状況を詳しく伝えている。

<顔真卿の書>
彼は従来の典雅な書風を一変させて、書道史上に一時期を画した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、89頁~90頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


 福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])と村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)との対応関係は、だいたい次のようになる。

【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの、邑制国家の誕生
 (福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)
 Dawn of the Huang He Civilization/Emergence of Village-Based States
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)

〇諸子百家の群像 
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
 Brief description of a Hundred Schools of Thought
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)

〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
 Culture in the Han Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)

〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
 Culture in the Southern and Northern Dynasties
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)

〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
 Society and Culture of the Sui and Tang Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)

〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
 Culture of the Song Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、139頁~140頁)

〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
Society and Culture of the Yuan Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)

〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)
Thoughts and Culture in the Ming Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、171頁)

〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)
Economy and Culture of the Qing Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、176頁~177頁)

それでは、唐代までの文化史の記述をみてみよう。

中国文化史について
〇Chapter 4:The East Asian World 1 Civilization Growth in East Asia
■Dawn of the Huang He Civilization



North China or the drainage area of the Huang He (Yellow River, 黄河) is located in the northern part of the Huai River-Qin Mountains line. The area, which belong to the subarctic and temperate zones, is very dry, has rain only in summer. There lies a thick loess (黄土) which the monsoons brought from the Mongolian plateau. Loess tend to develop in very rich soils which is suitable for agriculture. In the loess area, it was possible to raise foxtail millet, proso millet or other crops if only by conserving water and preventing its waste, and with simple agricultural tools of stone or wood.
Mid-China, the drainage area of the Changjiang River (長江), which is located to the south of the Huai River, has a cool or warm temperate climate. There are glossy-leaved forests and lakes. The area was wet and the humidity was high. Old and original culture
developed in some of the area. In the lower reaches of the Changjiang River (Jiangnam),
Neolithic cultures developed in about 5000 BC, and rice is found to have been cultivated.
However, since higher technologies were required for the further development of rice
farming, it was difficult to make paddy field with primitive tools, so that the cultures in the Changjiang River basin were not able to develop into a unified culture.
On the other hand, there were Neolithic cultures in North China in 6000 BC. In wide
area of the Huang He, the cultures, which raised crops and livestock such as pigs and dogs,
developed. Villages of pit-dwellings (semi basement type) were formed. This agricultural
civilization, which the beginning of the Huang He civilization (黄河文明) was divided into two periods. The Yangshao culture (仰韶文化) emerged first in the period from 5000 BC to
3000 BC. Since bright color potteries were made during this period, this culture is also called the colored earthenware culture. The Yangshao culture was inherited by the Longshan culture (竜山文化), which emerged from 2900 BC to 2000 BC. A feature of the
Longshan culture was its grey pottery, which was rough but very practical, and black pottery, which was of good quality and finely polished.

■Emergence of Village-Based States


In the loess area, in early days, people could make villages only on plateaus which were
relatively safe from flood; this made it possible to use small rivers and springs. Therefore,
there were many small villages (邑) in the middle and the lower reaches of the Huang He.
The villages were run on a clan system as a community. In the end of the Longshan culture,
there also emerged city states (large cities) which ruled surrounding villages and constructed walls around the city. In this way, the Neolithic farming culture established a distinct form of civilization. Villages were connected to each other through military affairs
and trade. They were organized under the powerful city states. The Yin dynasty (殷, the Shang dynasty 商) is considered the oldest Chinese dynasty which was an alliance of states
(village states) formed under a larger village state, Shang, in about 1600 BC.
Huge tombs with burial pits were discovered in Yinxu (殷墟 Anyang, Henan), an archeological site of the late Yin dynasty. They contained skeletons of slaves or captives who seemed to be buried with their superiors. Animal bones and tortoise carapaces excavated from the tombs had oracles which were divined by the Yin Emperor in writing with oracle bone script (甲骨文字). This script was considered a prototype of Chinese characters (漢字). Through the oracle bone script, we can see the range of the Yin sovereignty and its unique political system. The Bronze Age (青銅器時代) started around this time; precise bronze ritual utensils of this period were found even in distant locations such as the Changjiang River basin or the Sichuan Basin.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)

〇諸子百家の群像
■Brief description of a Hundred Schools of Thought


 The convulsion of the Spring and Autumn Period and Warring States period brought out
various thoughts on politics and society. Thinkers in this period called Hundred Schools of
Thought(諸子百家) emerged.
Confucius(孔子) was a thinker from the state of Lu in the end of the Spring and Autumn
Period who originated Confucianism(儒家). He made much of execution of family ethics (filial piety, xiao) and asked rulers to govern people with rende (perfect virtues and humanness). The Lunyu (論語 Analects) was the collection of saying and ideas attributed to Confucius and his followers. Mencius(孟子) was influenced by Confucianism. He thought the rule of right which was practiced in ancient China, was ideal. He asserted the innate goodness of the individual, and criticized the rule of power. Xunzi(荀子) believed that the nature of man is evil; his goodness is only acquired by training based on li (propriety). He allowed rulers to train people. The School of Law, such as Shang Yang(商鞅) and
Han Fei(韓非), said that rulers should rule people with laws (Legalism).
Legalism(法家) supported the states of Qin to be a strong state. Mo Jia(墨家) was originated by Mozi(墨子), and promoted philanthropy (impartial love ) and peace at any
price (condemning aggression). Taoists(道家) such as Laozi (Lao Tsu老子) and
Zhuangzi(荘子) sought the principle of the universe (way, tao) in the nature as it was and denied political movement as unnatural (inaction and spontaneity). Sunzi(孫子)
or Wuzi (呉子 Wuqi) created Bingjia (兵家 Bingfajia). Su Qin(蘇秦) and
Zhang Yi(張儀) were experts in strategy (diplomacy). Zou Yan(鄒衍) proposed yin-yang theory(the School of Naturalist) saying that universe consisted by yin-yang and the Five Phases (wuxing); namely wood, fire, earth, metal and water. Gong Sunlong(公孫竜)
was a member of the School of Logicians or School of Names. Agriculturalism, or the School of Agrarianism, introduced new agricultural technologies. All schools of thoughts were created by the demand of the times. Some of literary works were as follows. The Shijing (詩経 Classic of Poetry) was a collection of songs and poems from the ceremonies of the Zhou dynasty and from folk songs of the Huang He region. Words of the Ch’u
(楚辞) was a collection of poems by Qu Yuan(屈原) from Ch’u and of poems and songs of the Changjiang River basin. The former reflected the scenery and climate of North China; the latter reflected those of Middle China and Jiangnam.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)



  Hundred Schools of Thought 諸子百家
儒家 Confucius 孔子
  The Lunyu (Analects) 論語
  Mencius 孟子
  Xunzi 荀子
法家 Shang Yang 商鞅
  Han Fei 韓非
墨家 Mozi 墨子
道家 Laozi (Lao Tsu) 老子
  Zhuangzi 荘子
兵家(兵法家) Sunzi 孫子
  Wuzi (Wuqi) 呉子
縦横家 Su Qin 蘇秦
  Zhang Yi 張儀
陰陽五行 Zou Yan 鄒衍
Gong Sunlong 公孫竜
     
人と作品 Shijing 詩経
  Qu Yuan 屈原
  Words of the Ch’u 楚辞
地名・地域 the Changjiang River 長江
  Jiangnam 江南


〇漢代の文化



 Culture in the Han Period
 In the Han period, the Five Classics (Wujing) and other Confucian Classics were newly
compiled. In the Later Han period Zheng Xuan (鄭玄) and others discussed interpretations of
Chinese letters and phrases and this movement developed to exegetics. Editing history
was encouraged to justify the Han dynasty. The Shiji (史記, “Historical Records”) by Sima Qian (司馬遷) of the Former Han period and Han-shu (漢書) by Ban Gu (班固) of the Later Han period became the
models of later history books. Scientific technologies progressed in the Later Han period.
Zhang Heng (張衡) invented armillary sphere and seismoscope. Cai Lun (蔡倫) greatly improved paper
making processes (紙の製法). Precise silk fabrics, lacquer ware and copper mirrors were produced
in government operated factories and elsewhere. Their technologies and products spread
even to the Western Regions. In this period, transportation between east and west became
active on both land and sea. It was said that Buddhism was officially introduced from India
through Western Regions to China in the Later Han period.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)

〇南北朝の文化


 Culture in the Southern and Northern Dynasties

In the period of Six Dynasties, when the Wu and the Eastern Jin in Jiangnan, and four
dynasties of the Southern dynasties came to power in turn, the culture of the Six Dynasties,
led by nobles, blossomed. Tao Qian (Tao Yuanming, 陶淵明) of poetry, Wang Xizhi (王羲之) of calligraphy, Gu Kaizhi (顧愷之) of painting were among others. In prose, people preferred luxuriant writing called siliu pianliti (a Chinese style of composition with alternating lines of four and six characters to other styles). Zhaoming Crown Prince of the Liang dynasty compiled Wen Xuan, which
was an anthology of ancient Chinese poetry, and even influenced Japanese culture. Qingtan,
like the speech and behavior of the Seven Sages of the Bamboo Grove, became very
popular among nobles. They also hailed Taoism. In contrast, during the Northern dynasties,
Shuijingxhu, a book of commentaries on the waterways classic, and Qiminyaoshu, a book
on the Chinese agricultural teachings, of the North Wei, and other practical cultures,
flourished.
With the social unrest during the Southern and Northern dynasties period, Buddhism
took root in the Chinese cultures. In North China, during the Five Barbarians and Sixteen
Kingdoms period, Fotucheng (仏図澄, ブドチンガ) and Kumarajiva (鳩摩羅什, クマラジーヴァ) from Kucha (Quizi) in the Western Regions, endeavored to propagate Buddhism. It was accepted by
many people who had hoped for peace, regardless of their social rank. In Jiangnan, partly because of
missionary activities of Faxian (法顕), a dharma-seeking Buddhist monk of the Eastern Jin, who had
traveled to India, people in Jiangnan understood Buddhism through Taoism. Buddhism became popular
among nobles and many temples were constructed in Jainkan, the capital of the Southern
dynasties. In the Northern Wei, the Taoism (道教) propagated by Kon Qianzhi (寇謙之) became an official state religion. But eventually Buddhism became protected by the Northern Wei, and many
Buddhist temples were constructed in the capital of Luoyang and its surrounding area.
Construction of Buddhist stone-cave temples in Dunhuang (敦煌), Gansu Province, started in the
Five Barbarians and Sixteen Kingdoms period. Yungang (雲崗) caves (Datong City, Shanxi Province)
in the Northern Wei period and Longmen (竜門) caves (southern suburb of Luoyang City) followed
and the construction of Buddhist cave temples continued in later periods.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)

〇唐代の社会と文化


 Society and Culture of the Tang Dynasty

 From around the middle of the Tang dynasty, agriculture began to develop even
more. Double cropping system, in which winter wheat could be harvested during the off
season, was popularized in North China. In Jiangnan , technologies on wet rice cultivation
developed and paddy fields expanded further south. Transportation on land and water
developed further. Distribution of goods between cities became smooth. Some areas in the
capital Chang’an such as Markets (市) (the West Market and East Market), had various prospering
shops and handicraft workshops. Foreign trade developed. Through the Western Regions,
trade between east and west became stable. Guangzhou and Quanghou were the center
of trade between China and countries in the southern area. Eventually, state government-
controlled public offices managing maritime trade (shibosi) were placed in Guangzhou.
Many Muslim merchants from Arabia or Persia visited it and the capital Chang’an became
an international city.
Based on the development of economy, many fields of culture also became prosperous.
One of the features of the culture during the Tang dynasty period was a fusion of the
cultures of North China and Jianguan, but it was also an international culture against a
backdrop of the prosperous trade between east and west. Confucianism was protected by
the state and Confucian Classics became essential subjects for the Establishment. Editing
and study of the Classics advanced partly because Confucian Classics became the subjects
of the Imperial Examination. Officially authorized version of the annotated Correct
Meaning of Five Classics was edited by Kong Yingda and others. In literature, beauty of
form in the Six dynasties went out. Han Yu and Liu Zongyuan were the founders of the
classical prose movement. Poetry became an important subject of the Imperial Examination
and the Tang poetry prospered. Li Bai (李白), Du Fu (杜甫), Wang Wei (王維) and Bai Juyi
(白居易、白楽天) were all well known poets in the Tang dynasty.
In art, Chu Suiliang and Yan Zhenqing were leading calligraphers and Yan Liben and Wu
Daoxuan were famous artists. Landscapes were favorite subjects for artists and landscape
paintings with China ink wash painting techniques developed. In craft, ceramics such as a
famous three-colored painting (sancai) were distinguished in the Tang dynasty.
In religion, Buddhism developed in the same way as the previous Sui dynasty period.
Many monks such as Xuanzang (玄奘) and Yijing (義浄) went to India seeking for the texts of Buddhism. Chinese translations of the Buddhist scriptures and the studies of the Buddhist doctrines
advanced. New schools of Buddhism such as the Jodo sect and the Zen sect originated.
The Tendai and Shingon sects were transferred to Japan b Saicho and Kukai respectively.
Buddhism in China influenced Japanese Heian Buddhism to a significant extent. Taoism
also developed under the protection of the Tang dynasty and spread to become more
popular among people than Buddhism. When interaction with western countries became
active, Zoroastrianism (祆教、ゾロアスター教), Manichaeism (マニ教), Islam (回教、イスラム教), and Nestrorianism (景教、ネストリウム派キリスト教) were transferred to China
and their temples were constructed.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)