歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪小林秀雄『鐔』とセンター試験≫

2022-09-30 19:00:29 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪小林秀雄『鐔』とセンター試験≫
(2022年9月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、2013年センター試験国語の第一問に出題された小林秀雄の『鐔』を取り上げる。
その解説と解説を書くに際して、次の論説を参照にした。
 (いずれも、インターネットで閲覧可能である。)
〇石原千秋「意義を欠いた好みの押しつけ」
(『産経新聞』2013年2月18日付)
〇高野光男(東京都立産業技術専門学校)「小林秀雄教材の今日的意義」
(『高校国語教育』2014年夏号、三省堂)
〇吉岡友治「小林秀雄のために―2013年センター試験第一問解説」
(「吉岡友治の三日坊主通信」2013年4月8日付)
〇吉崎崇史「センター試験2013(本試験)国語第1問(1)」
(「ロジカルノート」2019年2月4日付)





【参考文献】
〇石原千秋「意義を欠いた好みの押しつけ」
(『産経新聞』2013年2月18日付)
〇高野光男(東京都立産業技術専門学校)「小林秀雄教材の今日的意義」
(『高校国語教育』2014年夏号、三省堂)
〇吉岡友治「小林秀雄のために―2013年センター試験第一問解説」
(「吉岡友治の三日坊主通信」2013年4月8日付)
〇吉崎崇史「センター試験2013(本試験)国語第1問(1)」
(「ロジカルノート」2019年2月4日付)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・2013年センター試験【国語】第一問の問題と解答
・石原千秋氏と高野光男氏のコメント
・吉岡友治氏の解説
・吉崎崇史氏の解説
・【補足】小林秀雄の文章について(私のブログより)~「【雑感】小林秀雄とその文章」(2021年6月16日付)
・【補足】小林秀雄の思想や歴史観について(私のブログより)~「饗庭孝男の小林秀雄論 その1」(2021年6月1日付)






2013年センター試験【国語】第一問の問題と解答



【第1問】
次の文章を読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。(配点 50)
 鐔というものを、ふとした機会から注意して見始めたのは、ここ数年来の事だから、未だ合点のいかぬ節もあり、鐔に関する本を読んでみても、人の話を聞いてみても、いろいろ説があり、不明な点が多いのだが。
 鐔の歴史は、無論、刀剣とともに古いわけだが、普通、私達が鐔を見て、好き嫌いを言っているのは、室町時代以後の製作品である。何と言っても、応仁の大乱というものは、史上の大事件なのであり、これを境として、A日本人の鐔というものの見方も考え方も、まるで変って了った。所謂鐔なるものは、この大乱の産物と言ってよいのである。私は鐔を弄ってみて、初めて、この事実に、はっきり気附いた。政令は無きに等しく、上下貴賤の差別なく、ドウ(ア)リョウ親族とても油断が出来ず、毎日が、ただ強い者勝ちの刃傷沙汰に明け暮れるというような時世が到来すれば、主人も従者に太刀を持たせて安心しているわけにもいくまい。いや、太刀を帯取にさげ佩いているようでは、急場の間には合わぬという事になる。やかましい太刀の拵などは、もはや問題ではない。乱世が、太刀を打刀に変えた。打刀という言葉が曖昧なら、特権階級の標格たる太刀が、実用本位の兇器に変じたと言っていい。こんな次第になる以前、鐔は太刀の拵全体のうちの、ほんの一部に過ぎなかったのだが、拵無用の打刀となってみても、実用上、鐔という拵だけは省けない。当然、実用本位の堅牢な鉄鐔の製作が要求され、先ず刀匠や甲冑師が、この要求を満すのである。彼等が打った粗朴な板鐔は、荒地にばらまかれた種のようなものだ。
 誰も、乱世を進んで求めはしない。誰も、身に降りかかる乱世に、乱心を以て処する事は出来ない。人間は、どう在ろうとも、どんな処にでも、どんな形ででも、平常心を、秩序を、文化を捜さなければ生きて行けぬ。そういう止むに止まれぬ人心の動きが、兇器の一部分品を、少しずつ、少しずつ、鐔に仕立てて行くのである。やがて、専門の鐔工が現れ、そのうちに名工と言われるものが現れ、という風に鐔の姿を追って行くと、私の耳は、乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音を聞くようである。

信家作と言われる或る鐔に、こんな文句が彫られている。「あら楽や人をも人と思はねば我をも人は人とおもはぬ。」X現代
人が、言葉だけを辿って、思わせぶりな文句だとか、拙劣な歌だとか、と言ってみても意味がないのである。これは文句ではない。鉄鐔の表情なので、眺めていれば、鍛えた人の顔も、使った人の顔も見えて来る。観念は消えて了うのだ。感じられて来るものは、まるで、それは、荒地に芽を出した植物が、やがて一見妙な花をつけ、実を結んだ、その花や実の尤もな心根のようなものである。
 鐔好きの間で、古いところでは信家、金家と相場が決っている。相場が決っているという事は、何となく面白くない事で、私も、初めは、鐔は信家、金家が気に食わなかったが、だんだん見て行くうちに、どうも致し方がないと思うようになった。花は桜に限らないという批評の力は、花は桜という平凡な文句に容易に敵し難いようなものであろうか。信家、金家については、はっきりした事は何も解っていないようだ。銘の切り方から、信家、金家には何代かが、何人かがあったと考えらえるから、室町末期頃、先ず甲府で信家風の鐔が作られ、伏見で金家風の鐔が作られ始めたというくらいの事しか言えないらしい。それに夥しい贋物が交って市場を流通するから、厄介と言えば厄介な事だが、まあ私などは、好き嫌いを言っていれば、それで済む世界にいるのだから、手元にあるものを写して貰った。
 井戸茶碗の身元は不詳だが、茶碗は井戸という言葉はある。同じ意味合いで、信家のこれはと思うものは、鐔は信家といい度げな顔をしている。井戸もそうだが、信家も、これほど何でもないものが何故、こんなに人を惹きつけるか、と質問して止まないようである。それは、確定した形というより、むしろ轆轤や槌や鑿の運動の節奏のようなものだ。信家は、武田信玄の鐔師で、信という字は信玄から貰った、と言われている。多分、伝説だろう。Yだが、事実ではあるまいと言ったところで面白くもない事だ。伝説は、何時頃生れたのだろう。「甲陽軍鑑」の大流行につられて生れたのかも知れない。「甲陽軍鑑」を偽書と断じたところで、幾つでも偽書が現れるほど、武田信玄や高坂弾正の思い出という本物は、生き生きとして、当時の人々の心に在った事を想えば、別段面白くもない話である。何時の間にか伝説を生み出していた鐔の魅力と伝説であって事実ではないという実証とは、何んの関係もない。こんな解り切った事に、歴史家は、案外迂闊なものなのだ。魅力に共感する私達の沈黙とは、発言の期を待っている伝説に外なるまい。
 信家の鐔にぶら下っているのは、瓢簞で、金家の方の図柄は「野晒し」で、大変異ったもののようだが、両方に共通した何か一種明るい感じがあるのが面白い。髑髏は鉢巻をした蛸鮹のようで、「あら楽や」と歌っても、別段構わぬような風がある。
 この時代の鐔の模様には、されこうべの他に五輪塔やら経文やらが多く見られるが、これを仏教思想の影響というような簡単な言葉で片附けてみても、Bどうも知識の遊戯に過ぎまいという不安を覚える。戦国武士達には、仏教は高い宗教思想でもなければ、難かしい形而上学でもなかったであろう。仏教は葬式の為にあるもの、と思っている今日の私達には、彼等の日常
生活に糧を与えていた仏教など考え難い。又、考えている限り、クウ(イ)バクたる問題だろう。だが、彼等の日用品にほどこされた、仏教的主題を持った装飾の姿を見ていると、私達は、何時の間にか、そういう彼等の感受性のなかに居るのである。
 何時だったか、田辺尚雄氏に会って、平家琵琶の話になった時、平家琵琶ではないが、一つ非常に古い琵琶を聞かせてあげよう、と言われた。今でも、九州の或る処には、説教琵琶というものが遺っているそうで、地鎮の祭などで、琵琶を弾じながら、経文を誦する、それを、氏の音楽講座で、何日何時に放送するから、聞きなさい、と言われた。私は、伊豆の或る宿屋で、夜、ひとり、放送を聞いた。琵琶は数分で終って了ったが、非常な感動を受けた。文句は解らないが、経文の単調なバスの主調に、絶えず琵琶の(ウ)バンソウが鳴っているのだが、それは、勇壮と言ってもいいほど、男らしく明るく気持ちのよいものであった。これなら解る、と私は感じた。こういう音楽に乗って仏教思想は、学問などに用はない戦国の一般武士達の間に滲透したに違いない、と感じた。仏教を宗教だとか思想だとか呼んでいたのでは、容易に解って来ないものがある。室町期は時宗の最盛期であった。不明なところが多すぎるが、時宗は民衆の芸能と深い関係があった。乱世が来て、庶民的な宗教集団は、庶民とともに最も早く離散せざるを得なかったであろうが、沢山の遊行僧は、従軍僧として戦場に入り込んでいたであろう。彼等は戦うものの最期を見届け、これをその生国の人々に伝え、お札などを売りつけて、生計を立てていたかも知れない。そういう時に、あのような琵琶の音がしたかも知れない。金家の「野晒し」にも、そんな音が聞えるようである。

 鉄鐔は、所謂「下剋上」の産物だが、長い伝統的文化の一時の中断なのだから、この新工芸の成長の速度は速かった。平和が来て、刀が腰の飾りになると、鐔は、金工家が腕を競う場所になった。そうなった鐔は、もう私の興味を惹かない。鐔の面白さは、鐔という生地の顔が化粧し始め、やがて、見事に生地を生かして見せるごく僅かの期間にある。その間の経過は、いかにも自然だが、化粧から鐔へ行く道はない。
 鉄の地金に、鑿で文様を抜いた鐔を透鐔と言うが、この透というものが鐔の最初の化粧であり、彫や象嵌が発達しても、鐔の基本的な装飾たる事を止めない。刀匠や甲冑師は、ただ地金を丸く薄く固く鍛えれば足りたのだが、いつの間にか、星だとか花だとか或は鎌だとか斧だとか、日常、誰にでも親しい物の形が、文様となって現れて来た。地鉄を鍛えている人がそんな形を抜きたくなったのか、客の註文に答えたのか、そんな事は、決して解る筈がないという処が面白い。Cもし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう。装飾は、実用と手を握っている。透の美しさは、鐔の堅牢と軽快とを語り、これを保証しているところにある。様々な流派が出来て文様透がだんだん巧緻になっても、この基本の性質は失われない。又、この性質は、彫や象嵌の世界ででも、消極的にだが守られているのであり、彫でも象嵌でも、美しいと感ずるものは、必ず地金という素材の確かさを保証しているように思われる。戦がなくなり、地金の鍛えもどうでもよくなって来れば、鐔の装飾は、大地を奪われ、クウ(エ)ソな自由に転落する。名人芸も、これに救うに足りぬ。

先日、伊那にいる知人から、高遠城址の桜を見に来ないかと誘われた。実は、この原稿を書き始めると約束の日が来て了ったので出掛けたのである。高遠には、茅野から杖突峠を越えて行く道がある。峠の下に諏訪神社の上社がある。雪を残した八ヶ岳の方から、冷たい強い風が吹いて、神社はシン(オ)カンとしていた。境内の満開の桜も見る人はなかった。私は、高遠の桜の事や、あそこでは信玄の子供が討死したから、信玄の事など考えていたが、ふと神殿の後の森を見上げた。若芽を点々と出した大木の梢が、青空に網の目のように拡がっていた。その上を、白い鳥の群れが舞っていたが、枝には、近附いて見れば大壺ほどもあるかと思われる鳥の巣が、幾つも幾つもあるのに気附いた。なるほど、これは桜より余程見事だ、と見上げていたが、私には何の鳥やらわからない。社務所に、巫女姿の娘さんが顔を出したので、聞いてみたら、白鷺と五位鷺だと答えた。樹は何の樹だと訊ねたら、あれはただの樹だ、と言って大笑いした。私は飽かず眺めた。そのうちに、白鷺だか五位鷺だかは知らないが、一羽が、かなり低く下りて来て、頭上を舞った。両翼は強く張られて、風を捕え、黒い二本の脚は、身体に吸われたように、整然と折れている。嘴は延びて、硬い空気の層を割る。D私は鶴丸透の発生に立会う想いがした。
                             (小林秀雄「鐔」による)

(注)
1  鐔――日本刀で、柄や刀身の間にはさむ装具(次ページの図を参照)。
2  帯取にさげ佩いている――帯取(太刀を結び付けるひも)で腰からさげている。
3  打刀――相手に打ち当てて切りつける実戦用の刀。
4  標格――象徴(シンボル)。
5  甲冑師――かぶとやよろいなどの武具を作る職人。
6  信家――桃山時代の代表的な鐔工。金家も同じ。
7  写して貰った――この文章にはもともと写真が添えられていた。ただし、ここでは省略した。
8  井戸茶碗――朝鮮半島産の茶碗の一種。
9  節奏――リズム。
10 甲陽軍鑑――武田信玄・勝頼二代の事績、軍法などを記した、江戸時代初期の書物。
11 高坂弾正――高坂昌信(1527~1578)。武田家の家臣。「甲陽軍鑑」の元となった文書を遺したとされる。
12 野晒し――風雨にさらされた白骨。特に、されこうべ(頭骨)。
13 五輪塔――方・円・三角・半月・団の五つの形から成る塔。平安中期頃から供養塔・墓塔として用いた。
14 形而上学――物事の本質や存在の根本原理を探求する学問。
15 田辺尚雄――東洋音楽を研究した音楽学者(1883~1984)。
16 平家琵琶――「平家物語」を語るのに合わせて演奏する琵琶の音曲。
17 バス――低音の男声。
18 時宗――浄土教の一派。一遍(1229~1289)を開祖とする。
19 遊行僧――諸国を旅して修行・教化した僧。
20 象嵌――金属などの地に貝殻など別の材料をはめ込んで模様を作る技法。
21 鉄の地金のこと。



問1 傍線部(ア)~(オ)の漢字と同じ漢字を含むものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。解答番号は( 1 )~( 5 )。

(ア)ドウリョウ  ( 1 )
  ①若手のカンリョウ ②チリョウに専念する ③荷物をジュリョウする 
  ④なだらかなキュウリョウ ⑤セイリョウな空気

(イ)クウバク  ( 2 )
  ①他人にソクバクされる ②冗談にバクショウ ③サバクを歩く
  ④江戸にバクフを開く ⑤バクガトウを分解する

(ウ)バンソウ  ( 3 )
  ①家族ドウハンで旅をする ②ハンカガイを歩く ③資材をハンニュウする
  ④見本品をハンプする ⑤著書がジュウハンされる

(エ)クウソ  ( 4 )
  ①ソエンな間柄になる ②ソゼイ制度を見直す ③緊急のソチをとる
  ④被害の拡大をソシする ⑤美術館でソゾウを見る

(オ)シンカン  ( 5 )
  ①証人をカンモンする ②規制をカンワする ③ユウカンな行為をたたえる
  ④勝利にカンキする ⑤広場はカンサンとしている

問2 傍線部A「日本人の鐔というものの見方も考え方も、まるで変って了った」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 6 )。

①鐔は応仁の大乱以前には富や権力を象徴する刀剣の拵の一部だったが、それ以後は命をかけた実戦のための有用性と、乱世においても自分を見失わずしたたかに生き抜くための精神性とが求められるようになったということ。
②鐔は応仁の大乱以前には特権階級の富や権力を象徴する日常品としての美しさを重視されていたが、それ以後は身分を問わず使用されるようになり、平俗な装飾品としての手ごろさが求められるようになったということ。
③鐔は応仁の大乱以前には実際に使われる可能性の少ない刀剣の一部としてあったが、それ以後は刀剣が乱世を生き抜くために必要な武器となったことで、手軽で生産性の高い簡素な形が鐔に求められるようになったということ。
④鐔は応仁の大乱以前には権威と品格とを表現する装具であったが、それ以後、専門の鐔工の登場によって強度が向上してくると、乱世において生命の安全を保証してくれるかのような安心感が求められるようになったということ。
⑤鐔は応仁の大乱以前には刀剣の拵の一部に過ぎないと軽視されていたが、乱世においては武器全体の評価を決定づけるものとして注目され、戦いの場で士気を鼓舞するような丈夫で力強い作りが求められるようになったということ。

問3 傍線部B「どうも知識の遊戯に過ぎまいという不安を覚える」とあるが、そこには筆者のどのような考えがあるか。最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 7 )。
①仏教を戦国武士達の日常生活の糧となっていた思想と見なすのは軽率というほかなく、彼等と仏教との関係を現代人が正しく理解するには、説教琵琶のような、当時滲透していた芸能に携わるのが最も良い手段であるという考え。
②この時代の鐔にほどこされた五輪塔や経文の意匠は、戦国武士達にとっての仏教が、ふだん現代人の感じているような暗く堅苦しいものではなく、むしろ知的な遊びに富むものであることを示すのではないかという考え。
③戦国武士達に仏教がどのように滲透していたかを正しく理解するには、文献から仏教思想を学ぶことに加えて、例えば説教琵琶を分析して当時の人々の感性を明らかにするような方法を重視すべきだという考え。
④この時代の鐔の文様に五輪塔や経文が多く用いられているからといって、鐔工や戦国武士達が仏教思想を理解していたとするのは、例えば仏教を葬式のためにあると決めつけるのと同じくらい浅はかな見方ではないかという考え。
⑤戦国武士達の日用品と仏教の関係を現代人がとらえるには、それを観念的に理解するのではなく、説教琵琶のような、当時の生活を反映した文化にじかに触れることで、その頃の人々の心を実感することが必要だという考え。

問4 傍線部C「もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう。」とあるが、それはどういうことをたとえているか。最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 8 )。
①実用的な鐔を作るためには鉄が最も確かな素材であったので、いくつもの流派が出現することによって文様透の形状は様々に変化していっても、常に鉄のみがその地金であり続けたことをたとえている。
②刀剣を実戦で使用できるようにするために鐔の強度と軽さとを追求していく過程で、鉄という素材の質に見合った透がおのずと生み出され、日常的な物をかたどる美しい文様が出現したことをたとえている。
③乱世において武器として活用することができる刀剣の一部として鉄を鍛えていくうちに、長い伝統を反映して必然的に自然の美を表現するようになり、それが美しい文様の始原となったことをたとえている。
④「下剋上」の時代において地金を鍛える技術が進歩し、鐔の素材に巧緻な装飾をほどこすことができるようになったため、生命力をより力強く表現した文様が彫られるようになっていったことをたとえている。
⑤鐔が実用品として多く生産されるようになるにしたがって、刀匠や甲冑師といった人々の技量も上がり、日常的な物の形を写実的な文様として硬い地金に彫り抜くことが可能になったことをたとえている。

問5 傍線部D「私は鶴丸透の発生に立会う想いがした。」とあるが、その理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 9 )。
①戦乱の悲劇が繰り返された土地の雰囲気を色濃くとどめる神社で、巣を守り続けてきた鳥の姿に、この世の無常を感じ、繊細な鶴をかたどった鶴丸透が当時の人々の心を象徴する文様として生まれたことが想像できたから。
②桜が咲きほこる神社の大樹に棲む鳥がいくつも巣をかけているさまを見て、武士達も太刀で身を守るだけでなく、鐔に鶴の文様を抜いた鶴丸透を彫るなどの工夫をこらし、優雅な文化を作ろうとしていたと感じられたから。
③神社の森で巣を守る鳥が警戒しながら飛びまわる姿を見ているうちに、生命を守ろうとしている生き物の本能に触発された金工家達が、翼を広げた鶴の対称的な形象の文様を彫る鶴丸透の構想を得たことに思い及んだから。
④参拝者もない神社に満開の桜が咲く華やかな時期に、大樹を根城とする一羽の鳥が巣を堅く守る様子を見て、討死した信玄の子供の不幸な境遇が連想され、鶴をかたどる鶴丸透に込められた親の強い願いに思い至ったから。
⑤満開の桜を見る者もいない神社でひたむきに巣を守って舞う鳥に出会い、生きるために常に緊張し続けるその姿態が力感ある美を体現していることに感銘を受け、鶴の文様を抜いた鶴丸透の出現を重ね見る思いがしたから。

問6 この文章の表現と構成について、次の(i)・(ii)の問いに答えよ。
(i) 波線部X「現代人が、言葉だけを辿って、思わせぶりな文句だとか、拙劣な歌だとか、と言ってみても意味がないのである。」と、波線部Y「だが、事実ではあるまいと言ったところで面白くもない事だ。」とに共通する表現上の特徴について最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。解答番号は( 10 )。

①「言葉だけ」の「だけ」や「面白くも」の「も」のように、限定や強調の助詞により、問題点が何かを明確にして論じようとするところに表現上の特徴がある。
②「と言ってみても」や「と言ったところで」のように、議論しても仕方がないと、はぐらかしたうえで、自説を展開しようとするところに表現上の特徴がある。
③「意味がない」や「面白くもない」のように、一般的にありがちな見方を最初に打ち消してから、書き手独自の主張を推し進めるところに表現上の特徴がある。
④「思わせぶりな」や「拙劣な」、「事実ではあるまい」のように、消極的な評価表現によって、読み手に不安を抱かせようとするところに表現上の特徴がある。

(ii) この文章は、空白行によって四つの部分に分けられているが、その全体の構成のとらえ方として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。解答番号は( 11 )。
①この文章は、最初の部分が全体の主旨を表し、残りの三つの部分がそれに関する具体的な話題による説明という構成になっている。
②この文章は、四つの部分が順に起承転結という関係で結び付き、結論となる内容が最後の部分で示されるという構成になっている。
③この文章は、それぞれの部分の最後に、その部分の要点が示されていて、全体としてはそれらが並立するという構成になっている。
④この文章は、人間と文化に関する一般的な命題を、四つのそれぞれ異なる個別例によって論証するという構成になっている。



【国語の第1問解答】
問1 (ア)① (イ)③  (ウ)①  (エ)①  (オ)⑤
問2 ①
問3 ⑤
問4 ②
問5 ⑤
問6 (i)③ (ii)①

石原千秋氏と高野光男氏のコメント


・以前のブログで石原千秋氏の次のような著作を紹介した。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]

・その石原千秋氏は、『産経新聞』(2013年2月18日付)において、「意義を欠いた好みの押しつけ」と題して、小林秀雄の『鐔』がセンター試験に出題されたことについて、コメントをしている。おおよそ、次のような内容である。
・大学入試センター試験の現代文に、小林秀雄の随筆が出題されたが、問題を見て、妙な思想を持った素人が作ったことがすぐに分かった、と酷評をしている。

・小林秀雄の文章にはある種の型があって、「学問」や「現代」を否定しながら、その時代の実用性が美を鍛えたという結論に至る。出題された文章も、刀の鐔が美しさを持ったのは美についての思想があったからではなく、実用性の中から自然に生み出されたものだと言っている。
 ただし、いかなる根拠が示されるわけでもなく、そういう文章の型があるだけだという。
 その型を知っていれば、設問は難しいものではなかったとする。
 しかし、根拠のない文章は好みの押しつけにすぎない、と厳しく評している。

・石原千秋氏によれば、大学の入試問題には二つの意義があるはずだとする。
①高校までの学習が身についているかを確かめること。
②大学に入学してから研究ができる能力があるかを確かめること。
 今回の問題は、いずれの観点からしても失格であるという。
(つまり、高校の国語にはこの手の文章は収録されていないし、大学に入学してからこの手の文章を書いたのでは研究にはならない。事実を示した実証にせよ論理的な実証にせよ、ある種の根拠を示さなければ、研究として議論さえできない。大学は好きか嫌いかを押しつけ合う場ではないと釘をさしている)

・そもそも、問題文の選定がまちがっているという。注が21。これだけ注をつけなければならない文章を選ぶべきではないと主張している。
(しかも、はじめの一字「鐔」にいきなり注がついている)
⇒ということは、出題者はテーマになっている「鐔」を受験生が知らない可能性があると認識しながら、問題文を選んだことになる。受験生が知らないかもしれないものについて書いた文章を解かせようとするとは、非常識であるとする。
・また、冒頭からいきなり傍線が施してあって、その部分を問う問題は、かつては、邪道として叱りとばされた作問だという。作問のノウハウを持っていなかった素人が作った問題であると批判している。
・文章も読点「、」が非常に多く読みにくい。小林秀雄の文章としても、十八番の型にそったお手軽に書いた拙劣な部類であるという。「この文章を選んだことを、小林秀雄のためにも悲しむ」と石原氏は結んでいる。


 
石原千秋氏のコメントは、このように手厳しいものであった。
 予備校の先生や受験生も、小林秀雄の『鐔』がセンター試験に出題されたことに対して、批判的なコメントが多かったようだ。
 そのような中で、次に紹介する高野光男氏は、小林秀雄の文章に好意的である。
〇高野光男(東京都立産業技術専門学校)「小林秀雄教材の今日的意義」
(『高校国語教育』2014年夏号、三省堂)
高野氏は、石原千秋氏の『産経新聞』(2013年2月18日付)の記事を受けて、次のようなコメントを付している。

・石原氏は、「鐔」における小林の主張には「いかなる根拠が示されているわけでもなく」、「根拠のない文章は好みの押しつけにすぎない」と批判し、大学入試問題には二つの意義があり、「いずれの観点からも失格である」と出題者を断じている。
⇒石原氏の主張は、入試問題という観点からの正論だとする。
・しかし、小林秀雄教材の価値・可能性について考えるとき、積極的な意義も見いだせると高野氏はいう。
 現行高校評論教材の主なものは言語論・身体論・メディア論など、言語論的転回以降の思想状況を基盤として成立したポストモダンの文章である。ポストモダンの限界が指摘され、ポスト・ポストモダンの模索が課題となっている現在、ポストモダン的な発想をどう超えるかという観点から小林秀雄は読み直される価値があると主張している。
・小林のいう「物」は、「フォーム」「姿」「文体」「実感」「絶対言語」などと言い換えられている概念である。「美を求める心」では「言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にした……」という文脈の中で登場している。
(この、言葉に対する「実感」は、茂木健一郎によって「クオリア」(感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感であり、脳科学で注目されている概念だという)として再評価されてもいるようだ)
・新しい文芸批評の創造という小林秀雄の批評的営為のジャンル特性を捉えつつ、現代の思想・文化の相対化という真の意味での「古典」としての読み方が要請されている、と高野氏はいう。

吉岡友治氏の解説


〇吉岡友治氏は、東京大学社会学科からシカゴ大学人文科学へ留学した経験があるという。駿台予備校・代々木ゼミの元国語・小論文の講師である。その吉岡氏が、「小林秀雄のために―2013年センター試験第一問解説」(「吉岡友治の三日坊主通信」2013年4月8日付)と題して、2013年のセンター試験の第一問(小林秀雄『鐔』)について、詳しく解説している。

・2013年のセンター試験は、第一問の小林秀雄『鐔』のおかげで、思うように点数がとれず、平均点が下がった、と大騒ぎになった。
 受験生だけではなく、予備校の解説者まで、「そもそも小林秀雄には、論理性がないんじゃないか」とか「根拠が見当たらない随筆だからね」などと論評する人も少なくない。
・しかし、吉岡氏は、こういう解説や意見は、自分の理解力のなさを棚に上げて、文句を言っている場合がほとんどであると、批判している。
 高校生のときに小林秀雄のシャープなロジックにイカれた吉岡氏としては、こういう中傷を放っておくのは腹立たしいという。そこで、私淑した「小林秀雄のために」、解説を試みたという。どういう風に論理がつながっているかを示したそうだ。
 シンプルによく出来た問題なのに、解く方が基礎的読解の原理が分っていないので、得点がとれない。人のせいにする前に、自分の力を反省すべきだという。
・この文章は、論理的文章と随筆の混合形であると主張している。
 前者は評論などで、問題+解決+根拠の形を取る。後者は随筆・エッセイなどで、その基本は、体験+感想+思考という要素からなるとする。この読み分けが、問題の一番の肝であるという。

〇課題文の構造を簡単な表にまとめている。
 表の左側に、言いたいことの中心(ポイント)、右側に、その説明・例示などの補助的情報(サポート)を記している。
 矢印は、どちらが先に書いてあるかを示す。
 コロンの前の「説明」「対比」などは、要素の名前を表す。
 課題文を横に置きながら、どこと対応しているか、見てほしいという。
※なお、こういう用語の意味と用法については、吉岡友治『いい文章には型がある』(PHP新書)を参照してほしいと記す。

【課題文の構造】


<要約>
・刀は、室町時代の応仁の乱を境に、権力の象徴から凶器に変わっていった。鐔のとらえ方も、それにつれて実用本位に変わっていった。だが、乱世でも人間は平常心・秩序・文化を探すので、凶器の部分品である鐔も、自然に美しい文様や透で飾られるようになった。その魅力は、装飾しつつ素材を生かしてみせるバランスにある。そういうものをじっと眺めることで、その時代の人々の感受性が、観念ではなく、じかに伝わってくるのだ。(198字)


問1
 当然省略。辞書を見よ。


問2
 変化は、前と後を比べて、その違いを認識するところから始まる。
 「応仁の大乱」を「境として」変わったのであるから、その前と後を比べる。
 2行後から、その比較があることはすぐ分かるはず。刀の変化があり、それにつれて鐔の意味も変わった。
  時代   刀                          鐔
  乱以前  太刀=特権階級の標格(注によれば、象徴・シンボル)  拵えの一部
  乱以後  打刀=実用本位の凶器              実用本位の堅牢な鉄鐔
 しかし、変化はこれに終わらない。第三段落を見れば、「人間はどう在ろうと平常心を、秩序を、文化を探さなければ生きていけぬ。…凶器の一部分品を…鐔に仕立てて行く」とある。
 前の図式にそれを入れれば、次のようになるという。
 時代   刀          鐔
 乱以前  太刀=特権階級の標格(注によれば、象徴・シンボル)  拵えの一部
 乱以後1 打刀=実用本位の凶器              実用本位の堅牢な鉄鐔
 乱以後2 同上 平常心・秩序・文化

 だから、鐔の美しさとは、実用本位の凶器でありながら、平常心・秩序・文化を求めて装飾されているバランスにあるわけである。
 
【選択肢の吟味】
 この図式に合わせて、選択肢を検討する。
 選択肢を前後に区切って、前・後のそれぞれが以上のまとめと対応しているかどうかを見る。
 〇1~「拵の一部」 後1「実戦のための有用性」 後2「自分を見失わず…精神性」と、上のまとめに対応する部分がある。
 ×2~前「特権階級…象徴する日用品」。「象徴」はいいが「日用品」が「実用」とは違う。
    後1「身分を問わず使用」に対応する本文なし。後2「平俗な装飾品」が「平俗」が余計。
 ×3~前「実際に使われる可能性の少ない」が怪しい。後1「武器」はO.K。
    後2「手軽で生産性の高い」は文化的側面を無視している。
 ×4~前「権威と品格を表現する装具」はやや危ないがO.K。
    しかし、「専門の鐔工…によって強度が向上してくる」は変化の原因の取り違え。
    後2「安心感」も感覚・感情であり、文化とは言えないとする。
 ×5~前「軽視されていた」が余計な記述。後1「武器全体の評価を決定づける」に対応する本文なし。後2「丈夫で力強い」は文化的側面を無視。


問3
 傍線部Bのすぐ後を見ると、次のようなつながりになっているとする。
 戦国武士達には、仏教は…思想でもなければ、…形而上学でもなかったろう。…だが、彼らの日用品…装飾の姿を見ていると…彼らの感受性のなかに居るのである

 形而上学は、ものごとの第一原因を思考するなど、空疎な観念の意味である。つまり、筆者にとって、思想・形而上学などを手がかりとした観念的理解はダメで、感受性というアプローチがいいらしい。つまり、本文は、次のような対比構造になっている。
  宗教思想・形而上学⇔感受性

 もちろん、Bの後の段落の話「説教琵琶」は、Bを含む段落の裏付けとなる体験と感想になっている。
【選択肢の吟味】
 問2と同じで、選択肢を前半・後半の二つに分けて検討する。
 ×1~「思想と見なすのは軽率」は一見よさそうだが、「軽率」は軽はずみという意味である。
    本文にそれに対応するところはない。
    後半「芸能に携わるのが最も早い」は「感受性」の例に過ぎないので不正確。
    そもそも「最も」と言えるほど、他の可能性を吟味していないはず。
 ×2~前半「暗く堅苦しい」は思想・形而上学の本来の意味ではなく、そのニュアンスにずれている。
    後半「知的な遊び」も「感受性」と同義ではない。
 ×3~前半「思想を学ぶことに加えて」の「加えて」は接続がダメ。「思想を学ぶことではなく」でなくてはならない。
    後半「感性」は悪くないが、「分析」(=細かく調べること)は「感受性」の反対なのでダメ。
 ×4~前半「思想を理解…浅はか」という続き具合は間違っていないが、後半「同じくらい」という比較は本文にはない。
 〇5~前半「観念的に理解するのではなく」はO.K。後半「実感する」も「感受性」に近い表現である。


問4
 比喩表現の問題の設問である。
 傍線部Cの二文前からの言い換えを見ればすぐ解るとする。
 一般に、接続の言葉がないまま続く二文は同じ意味と考えるのが、論理的文章を読む際の基本であるという。つまり、以下のような言い換えが成立する。
 いつの間にか…文様となって現れてきた。
 =地金を鍛えている人(職人)が抜きたくなったのか、客の註文に答えたのか、…解る筈がない
 =Cもし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出しただろう。

 傍線部Cは「鉄に生があるなら」と、わざと非現実的な仮定をして、鐔を植物にたとえている。「水をやれば…芽を出す」のは、植物の自然だから、鐔の文様透も自然にできたのだ、と言っている。
 実際、Cの前の文では「誰が主体なのか解らない」、さらにその前の文も「いつの間にか」と、誰かが格別に何かしたのが原因ではなく、自然に文様ができたことを言っている。
【選択肢の吟味】
 ×1~「文様透…変化していっても」と逆接仮定条件になっているので、この文全体の帰結が文様透と関係ないことが解る。もちろん「鉄のみがその地金」など書いていない。
 〇2~「おのずと…出現した」が比喩に合っている。
 ×3~「自然の美の表現」ではない。「表現」をするなら、その主体がいるはずという。
 ×4~同上の理由でダメ。「生命力をより力強く表現」ではない。「表現」をするなら、その主体がいるはずという。
 ×5~「写実的」(=現実に似せる)が比喩の意味と対応していない。


問5
 最後の所は、まったく体験と感想の部分。第三パートの主張「文様透は(誰が作ったというのではなく)自然に現れた」を裏付けている部分なのである。
 これだけで、選択肢の吟味は可能であるという。
※選択肢は、本文に書いていない余計な情報が含まれている種類が多いと注意している。

【選択肢の吟味】
 ×1~「この世の無常」が余計。
 ×2~「優雅な文化」も余計。
 ×3~「生き物の本能に触発された」が余計。
 ×4~「不幸な境遇を連想」は、鳥に気づく前の状態であるという。
 〇5~読点のところで三つに分かれるが、選択肢の「巣を守って舞う鳥」「力感ある美」は課題文の「かなり低く降りてきて」「強く張られて」と対応するとする。


問6
(i) 選択肢の「表現上の特徴がある」はすべて共通なので、カットして考える。
  波線部については、X[「…と言ってみても意味はない」、Y「…と言ったところで面白くない」とかなり強く批判していることに注意したい。
【選択肢の吟味】
 ×1~「限定や強調の助詞」を使えば「問題点が…明確」になるわけではない。
    これでは、そもそも助詞の意味理解が間違っているという。
 ×2~「はぐらかし」てはいない。強く明確に否定しているのである。
 〇3~「ありがちな見方を…打ち消し」が強い批判に該当。
 ×4~「ホラーやサスペンス小説ではないのだから、論理的文章なので『読み手に不安を抱かせ』るはずがない」と、吉岡氏は解説している。

(ii) 全体構成については、最初の「課題文の構造」を見てほしいという。
  最初のパートだけが論理的文章(評論)の構造「問題+解決+根拠」になっているが、
 後は、ほとんど直観的文章(エッセイ・随筆)の「体験+感想+思考」になっている。
 論理的文章としては、最初のパートで言いたいことは尽きている。
 したがって、冒頭の要約でも最初のパートを主にまとめ、後は補足として使えばよいという。
 
 第二パート移行は、第一パートから派生した論点に関連して、鐔に対する観念的味方を批判したり(第二パート)、鐔の美しさとは素材と装飾(化粧)のバランスにあると考えたり(第三パート)、鶴丸透の発生について感じたり(第四パート)している。
 ここから正解はただちに分かるという。
【選択肢の吟味】
 〇1~「最初…全体の主旨を表し」はO.K。「残りの三つの部分がそれに関する具体的な話題による説明」も、上の説明と対応しているとする。
 ×2~もちろん「起承転結」が間違い
    「起承転結」は、漢詩の構造で、感情が高まって、どんでん返しから結末に至る、というような仕組みを言うと、吉岡氏は解説している。
 ×3~「最後に…要点が示されて」はポイント・ラストの意味だろうが、「課題文の構造」を見ればそうなっていないことが分かる。
 ×4~「命題」とは「…は~である」という言明の形である。
   「人間と文化に関する一般的命題」とは、「人間と文化は~である」という形の文になる。
   それに当たるのは「人間は、どんな時代・状況でも文化を求める」というところだろうが、この文章の話題は「鐔」であって、「人間と文化に関する一般的命題」ではない。
 それに「論証」とは、命題の変形によって、結論を導き出すことで、例示はその補助になるだけである。だから、そもそも「個別例によって論証する」ことはできないという。

<吉岡友治氏のアドバイス>
 小林秀雄の主張や思想をより深く知るためには、どうすればいいのか。
 この点について、吉岡氏は次のようなアドバイスをしている。

①読解の方法は共通。それを把握しないで、勘とか知識とかで解いているから、間違う。
 ちょっと古ぼけた表現が使われていようが、見かけにだまされてはいけないと警告している。
②どうせ、知識を言うなら、小林秀雄の精神形成過程で、マルクス主義が大きな影響を及ぼしたことくらいは知っておくべきだろうという。
 小林秀雄の初期の作品は、ほとんど、当時流行だったプロレタリア文学や、その亜流の実証主義・歴史主義への反発だったことを知っているべきであるという。
 (だから、途中で形而上学や実証主義が激しく批判されているわけである)
 今から考えれば、小林秀雄が何でこんなに「学者・観念はダメだ」的なことを言いつのるか分かりにくいが、学者はすべて唯物史観もどきだった時代状況がある。そのあたりの事情は、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』の難解な序文「歴史について」を読んでも分かると、吉岡氏はいう。

吉崎崇史氏の解説


・吉崎崇史氏は、「センター試験2013(本試験)国語第1問(1)」(「ロジカルノート」2019年2月4日付)において、問4について、次のような解説をしている。

・粗探しをする思考に基づく消去法ではなく、問題の指示(何が聞かれているのか)をもとに答に必要な情報(何を言えばよいのか)を考える方法も大切である。
(この方法だと情報の発信力を試す記述型問題にも対応できる)
問4で具体的に考えてみよう。

・問4は「もし鉄に~」という比喩表現についての問題である。
「鉄に生命があるならば、『水をやれば』すなわち『生き続けていれば』、文様透が出現しただろう」と言っている。
 「『鉄』を素材にして鐔を作ったこと」から「『文様透』という装飾に辿り着くこと」は自然の流れであるということである。
 その理由については、「装飾は…」以下で述べられている。
 「ただ綺麗なだけではダメで、実際に使用する場面を想定した装飾でないといけない」と読み替えてもよい。
 その後、「透の美しさは、鐔の堅牢と軽快とを語り、それを保証しているところにある」という表現が続く。
 →「透という装飾が美しいのは、鐔の堅牢と軽快を実現しているからだ」という内容である。

・刀という武器の一部分であるから、鐔は堅牢でないといけない。鐔が堅くないと、手を守ること、命を守ることができない。そのニーズに応えるために鉄を素材にして鐔を作ることになったのだろう。
 しかしながら、鉄を素材にして鐔を作ると、重さの問題が生じる。
 鐔が重いと実戦の場面で刀を扱うのに支障が生じるので、「堅さと軽さを両立させよう」と考えた結果、鉄の鐔を鑿でくり抜くことになった。

 Q:「もり鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう」とあるが、それはどういうことをたとえているか。
 A:「鉄を素材にして鐔を作ったことによって堅さと軽さを両立させる必要が生じ、その結果として透というアイデアに至ったのは自然なことだ」ということをたとえている。

・上記のQ&Aをもとに考えると、問4の答に必要な情報は「堅さと軽さの両立」となる。
 ⇒では、選択肢を確認してみよう。
 答に必要な情報である「堅さと軽さの両立」について言及しているのは選択肢②のみとなる。

※仮にこの問題を「『×』を探す消去法」で解くとなると、何度も課題文と選択肢の見比べ作業が必要となり、非常に時間がかかる。
 「『◎』を探す一本釣り的な解き方」であれば、短時間で正確に辿り着くことができると、
吉崎氏は強調している。
※消去法の練習ばかりを続けて「どのような情報を示すべきなのか」を考えるトレーニングをしてこないと、このような事態に陥る。
 粗探しのスキルだけでなく、「何を言えばよいのか」を考えるトレーニングもしてほしいという。



【補足】小林秀雄の文章について


かつて、私のブログでは、小林秀雄の文章について言及したことがある。
それは、「【雑感】小林秀雄とその文章」(2021年6月16日付、ブログのカテゴリー:文章について)である。
 そこでは、次のように述べている。今回のセンター試験の問題と関連するので、引用しておこう。

国立国語研究所室長をへて、早稲田大学の教授でもあった中村明の『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)でも指摘しているように、小林秀雄独特の修辞が用いられている点は注意しておいてよい。
たとえば、「ゴッホの手紙」(昭和26~27年)において、
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない。」
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。」
これらは反復否定で、「~ではない」と一度打ち消したあと、「決して~ではない」「絶えて~ない」と強く念を押し、強調的に駄目を押す文の展開である。これは批評家小林秀雄が多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞であるが、小林は恐れずに用いていると中村明は解説している。
また極言は、人を驚かす内容にふさわしい形式であるともいう。たとえば、「当麻」で、世阿弥の美論に言及した際には、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という表現がこれに相当する(小林、1969年、252頁。新潮社編、2007年、106頁)
これは「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものといわれる。小林という批評家は、こうした方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されるべきだと中村は説く。強調すべき点の見定めに、小林は天才的な冴えを示す批評家であったというのである(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)。

【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)

つまり、批評家の小林秀雄が多用する修辞として、反復否定がある。
反復否定で、「~ではない」と一度打ち消したあと、「決して~ではない」「絶えて~ない」と強く念を押し、強調的に駄目を押す文の展開である。これは批評家小林秀雄が多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞であるが、小林は恐れずに用いていると、早稲田大学の教授でもあった中村明氏は、『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)でも指摘していたのである。

【ブログのリンク~「【雑感】小林秀雄とその文章」(2021年6月16日付)はこちらから】
「【雑感】小林秀雄とその文章」(2021年6月16日付)

【補足】小林秀雄の思想や歴史観について


かつて、私のブログでは、小林秀雄の思想や歴史観について言及したことがある。
それは、「饗庭孝男の小林秀雄論 その1」(2021年6月1日投稿、ブログのカテゴリー:文章について)である。
饗庭孝男『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介してみた。あわせて、小林の文章観、歴史観について解説した。

【ブログのリンク~「饗庭孝男の小林秀雄論 その1」(2021年6月16日投稿)はこちらから】
「饗庭孝男の小林秀雄論 その1」(2021年6月1日投稿)

【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)はこちらから】

小林秀雄とその時代


≪小林秀雄の哲学~高橋昌一郎氏の著作より≫

2022-09-28 19:01:52 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪小林秀雄の哲学~高橋昌一郎氏の著作より≫
(2022年9月28日投稿)

【はじめに】


 以前のブログで、石原千秋氏の次の著作を紹介した際に、小林秀雄について触れたことがある。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
 すなわち、「第一章 大学受験国語は時代を映す」の「小林秀雄と市民社会派の失墜」(25頁~28頁)以降では、戦後の大学受験国語の定番の変遷を振り返っていた。
・昭和40年代後半くらいまで、「高校受験の中村光夫、大学受験の小林秀雄」と言われていた。 つまり、高校受験の水準では中村光夫の「です、ます」体の、当時としては平易な文章が出題された。大学受験になると、何が書いてあるのかサッパリわからない小林秀雄の文章が出題されるという意味だそうだ。
少なくとも昭和40年代までは小林秀雄の文章が評論の中心的存在だった。
 小林秀雄一流の非常に飛躍の多い、論理的には破綻しているとしか思えない文章が、大学受験国語にはちょうどよかったのだ、石原氏はみていた。
現在の感覚では、小林秀雄の文章はどれも評論としては読めないと、石原氏はみなしていた。
 
 ところが、今回、紹介する高橋昌一郎氏の著作を読むと、2013年、大学センター試験の国語の長文問題に小林秀雄の『鐔(つば)』が出題されたことがわかる。
(つまり、石原氏の著作が2007年に出版された後の2013年に、再び、小林秀雄の文章が大学センター試験の国語の長文問題に出題された! その年は、高橋氏の著作によれば、小林秀雄の文章を批判していた丸谷才一が亡くなった翌年の2013年である!!)
 その文章は、小林の骨董に関するエッセイの一部で、日本刀の鐔がどのようなものかを知らない現代の受験生に対して、問題文には21もの脚注が付けられている。この問題のおかげで、この年の国語の平均点は、前年度から約17点も下回り、センター試験始まって以来の過去最低記録となったそうだ。
この件について、高橋氏は次のようなコメントを付している。
「なぜ膨大な数の小林の著作の中から、この特殊な作品が選ばれたのかは不明である。多くの高校教員から批判されているように、21もの脚注が必要とされる時点で、すでに「現代文」の出題として「不適当」だとみなされるのも当然かもしれない。もし小林が生きていたら、この問題を見て何と言ったか、想像してみるとおもしろい。」
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、23頁~25頁を参照のこと)
この点、今回のブログで取り上げてみることにする(なお、問題の解説と解答は次回のブログで記す)。
 それと同時に、小林秀雄の哲学について、高橋昌一郎氏の次の著作を参照にして、述べてみたい。
〇高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年

【高橋昌一郎氏のプロフィール】
・1959年生まれ。國學院大學文学部教授。
・ミシガン大学大学院哲学研究科修士課程修了。
・「おわりに」(238頁)にも記してあるように、高橋昌一郎氏は、アメリカの大学と大学院に進学し、およそ7年間をミシガン州の大学街で過ごしたという。
 数学科と哲学科に籍を置いていたので、アメリカ人と毎日のように英語でディスカッションしていたそうだ。知的刺激を与えられる一方で、目前の試験や論文に追われる日々が続いたらしい。そのような状況のなかで、日本から持参した『新訂 小林秀雄全集』をボロボロになるまで読むことで、どれだけ救われたことか、筆舌に尽くし難いと記している。
 小林秀雄の文章を読み始めると、小林の世界に這入って浮世を忘れることができたそうだ。
 その文章は適度に難解で、ある程度集中して読まなければ文意が見えなくなるので、雑念が払われる仕組みになっている。
・専門は、論理学・哲学
〇主な著作として、『理性の限界』(講談社現代新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)



【高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』(朝日新書)はこちらから】
高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』(朝日新書)




〇高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年

【目次】
序章  小林秀雄の魅力と危険性●『文学の雑感―質疑応答』
第一章 自意識と批評●『様々なる意匠』
第二章 逆説と実践●『Xへの手紙』
第三章 思想と実生活●『戦争について』
第四章 戦争と無常●『私の人生観』
第五章 美と常識●『美を求める心』
第六章 直観と持続●『感想』
第七章 人生と無私●『無私の精神』
おわりに
参考文献



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・本書の構成
・本書の目的
・小林秀雄の論法の五つの特徴
・小林秀雄の論理
・2013年の大学センター試験の国語の長文問題に出題された小林秀雄の『鐔』
・小林秀雄の文章と囲碁
・小林秀雄と中野重治
・ベルグソンとラッセル
・【補足】小林秀雄の『鐔』(2013年の大学センター試験問題[国語])







本書の構成


本書の構成は、「おわりに」(237頁~245頁)に明記してある。
著者の次のような問題意識から始まる。つまり、『小林秀雄全集』のなかから気に入った文章の抜粋(しかも新書四ページ程度の分量)を八カ所ほど選ぶとしたら、どの作品のどの部分から抽出するか?

この問いに、本書のために小林の全作品から著者が選択した抜粋は、目次にあるように、
●『文学の雑感―質疑応答』
●『様々なる意匠』
●『Xへの手紙』
●『戦争について』
●『私の人生観』
●『美を求める心』
●『感想』
●『無私の精神』

以上の八カ所になったという。
最初の『文学の雑感―質疑応答』を除けば、年代順であり、本文との関連も熟慮してこのような結果になったようだ。
この抜粋を見て、疑問に思う読者もいるかもしれないという。つまり、ランボーやボードレール、ゴッホやセザンヌ、実朝や本居宣長が省かれている。
この点は、本書の目的は「小林秀雄の哲学」を明らかにすることにあるため、「小林のモーツァルト」や「小林のドストエフスキー」のように小林の創造した天才像については、「ベルグソン論」を除いて、すべてカットしたという。
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、239頁~240頁)

本書の目的


・本書の目的は、「小林秀雄の哲学」に焦点を当てて、小林の魅力と危険性を掘り下げられるところまで掘り下げてみること。
 具体的には、彼の生涯を追いながら、彼の根底で一貫して揺るがなかった彼の論法を追究することであるという。(30頁)

なお、本書には、小林の作品を読んだことのない現代の読者のために、小林の原文を引用して、掲載されている。
小林秀雄は、全集を読むことの意義について、次のように述べている。
「ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる。
 これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。」(『読書について』1939年)

小林の「文」に迫るということは、彼の「人」に迫ることに他ならないと、高橋昌一郎氏は考えている。ただし、小林の「文」が「心眼を狂はせる」点に注意が必要であるともいう。
小林の魅力を語るにしても危険性を語るにしても、いずれにしても、小林はもっと読まれるべき近代の日本を代表する思想家であると、高橋氏は強調している。
本書が読者の知的刺激になることを望んでいる。(31頁~32頁)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、30頁~32頁)

小林秀雄の論法の五つの特徴


・小林秀雄の論法の五つの特徴について、高橋氏は指摘している。
①<逆説>
②<二分法>
③論点の<飛躍>
④<反権威主義>
⑤<楽観主義>

例えば、①<逆説>について、次のような表現がある。
・小林秀雄は、歴史といえば過去を研究することだという常識を覆して、「過去を現在に生き返らせるのが本当の歴史家」だと主張する。
※読者は、この主張に虚を衝かれて驚く一方、まったく新たな視界に目を開かされる気がするのではないか。

その他、よく知られた小林の言葉として、逆説的な特徴をもつものがある。
・≪美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない≫(『当麻』1942年)
・≪私達は、私達の一番よく知っているものについて、一番よく知らない≫(『感想』1958年)
・≪善とは何かと考えるより、善を得ることが大事なのである≫(『論語』1958年)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、15頁~18頁)

小林秀雄の論理


〇小林秀雄の論理として、高橋氏は次のように捉えている。
小林の論理は、小林の思索と体験の交錯が、そのまま読者の感情に直結するように構成されているという。それは、むしろ読者の意識的な思索を拒み、読者を説得し陶酔させるための<信仰の論理>とさえいえるとする。
つまり、読者が小林の作品を理解する最良の方法は、意識も分析も忘却し、無心で小林の論理に飛び込むことである。読者にできることは、すでに小林の手で完成されたビルを訪れ、内部から茫然と見物することであるという。

その顕著な例は、小林の描いた天才像に表れているとする。
たとえば、音楽評論家の吉田秀和は、「小林秀雄の書いた『モオツァルト』の中にモーツァルトがいたか? というとこれは疑問だ」と指摘している。
≪小林秀雄はあの中で「一つのモーツァルト」、「彼のモーツァルト」を書いたのだ。……彼は「自分のモーツァルトを創るのに成功した」のである。≫(『之を楽しむ者に如かず』)

因みに、小林が『モオツァルト』を執筆したのは、第二次大戦末期である。終戦を迎え、その翌年、小林は最愛の母親を失った。「母上の霊に捧ぐ」という副題を持つ『モオツァルト』が刊行されたのは、その翌年だった。
≪モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡(うち)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。≫(『モオツァルト』1947年)

小林の文章は、荒廃した人々の心に浸透し、戦後のモーツァルト・ブームを引き起こした。
しかし、小林が実際に『モオツァルト』で取り上げた楽曲は、短調系列の弦楽奏や交響曲に偏り、モーツァルトがまったく別の姿を見せる長調のピアノ協奏曲やオペラについては、ほとんど言及がない。小林の創作した「一つのモーツァルト」は、あくまで「走る悲しみ」に彩られなければならなかった。
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、22頁~23頁)

2013年の大学センター試験の国語の長文問題に出題された小林秀雄の『鐔』


・小林秀雄のモーツァルト論の、そのような「一面性」を考慮に入れたとしても、小林の文章は「名文」と呼ばれ、数多くの高校の教科書に採用され、大学入試にも頻繁に出題された。

その風潮に対して、小林秀雄の文章を批判したのは、評論家の丸谷才一だった。
≪小林の文章は飛躍が多く、語の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがちである。それは入試問題の出典となるには最も不適当なものだらう≫(『桜もさよならも日本語』)

また、丸谷は、2007年、「日本の批評」を振り返って、次のように指摘した。
≪ここ数十年間の日本の批評は、小林秀雄の悪影響がはなはだしかつた。彼の、飛躍と逆説による散文詩的恫喝(どうかつ)の方法が仰ぎ見られ、風潮を支配したからである。無邪気な批評家志望者たちはみな、彼のやうにおどしをかけるのはいい気持だらうなとあこがれた。さういふ形勢を可能にした条件はいろいろあるけれど、大ざつばな精神論が好まれ、それはとかく道学的になりやすく、その反面、対象である作品の形式面や表現の細部を軽んじて、主題のことばかり大事にしたのが深刻に作用してゐるだらう≫(『袖のボタン』)

・皮肉なことに、その丸谷が亡くなった翌年の2013年、大学センター試験の国語の長文問題に小林秀雄の『鐔(つば)』が出題された。
この文章は、小林の骨董に関するエッセイの一部で、日本刀の鐔がどのようなものかを知らない現代の受験生に対して、問題文には21もの脚注が付けられている。
この問題のおかげで、この年の国語の平均点は、前年度から約17点も下回り、センター試験始まって以来の過去最低記録となったそうだ。

この件について、高橋氏は次のようなコメントを付している。
「なぜ膨大な数の小林の著作の中から、この特殊な作品が選ばれたのかは不明である。多くの高校教員から批判されているように、21もの脚注が必要とされる時点で、すでに「現代文」の出題として「不適当」だとみなされるのも当然かもしれない。もし小林が生きていたら、この問題を見て何と言ったか、想像してみるとおもしろい。」

このコメントの後に、「国語の入試問題」にまつわる、小林と娘との例の有名な会話文を引用している。

≪あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何んだかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。へえ、そうかい、とあきれたが、ちかごろ、家で、われながら小言幸兵衛(こごとこうべえ)じみてきたと思っている矢先き、おやじの面目まるつぶれである≫(『国語という大河』1958年)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、23頁~25頁)

【補足】
〇2013年の大学センター試験の国語に出題された小林秀雄の『鐔』を、このブログの最後に載せておく。参考にしてほしい。なお、解答と解説は次回のブログで記す。

小林秀雄の文章と囲碁


〇作家大岡昇平にとっての小林秀雄
・作家の大岡昇平は、小林を「人生の教師」と呼び、その根底に「忍耐の主体」を見ている。
≪小林は、人生の教師として、人間の生き方、考え方を教えてくれるだけではない。また隅々まで神経が行き届いた文体によって、われわれを諾かせるだけではない。一つの男らしい不変の視点に貫かれた作品を、引き続いて生む努力、忍耐の主体として、われわれの前にいるのである≫(『人生の教師』)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、26頁)

〇作家の坂口安吾にとっての小林秀雄
・この大岡の「教師」像に対して、小林を「教祖」と呼び、彼の文章が「心眼を狂はせる」と主張したのは、作家の坂口安吾(さかぐちあんご)だった。

≪思ふに小林の文章は心眼を狂はせるに妙を得た文章だ。私は小林と碁を打つたことがあるが、
彼は五目置いて(ほんとはもつと置く必要があるのだが、五ツ以上は恰好が悪いやと云つて置かないのである)けつして喧嘩といふことをやらぬ。置碁(おきご)の定石(じょうせき)の御手本通りのやりかたで、地どり専門、横槍を通すやうな打方はまつたくやらぬ。こつちの方がムリヤリいぢめに行くのが気の毒なほど公式的そのものの碁を打つ。碁といふものは文章以上に性格をいつはることができないもので、文学の小林は独断先生の如くだけれども、本当は公式的な正統派なんだと私はその時から思つてゐた。然し彼の文章の字面からくる迫真力といふものは、やつぱり私の心眼を狂はせる力があつて、それは要するに、彼の文章を彼自身がさう思ひこんでゐるといふこと、そして当人が思ひこむといふことがその文学をして実在せしめる根柢(こんてい)的な力だといふことを彼が信条とし、信条通りに会得(えとく)したせゐではないかと私は思ふ≫(『教祖の文学』)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、27頁)

碁会所を開くほどの腕前だった坂口に立ち向かうためには、小林も五目置いて定石通りに戦う他はなかったのかもしれない、と高橋氏も述べている。

いずれにしても、小林の「文章の字面からくる迫真力」が「文章を彼自身がさう思ひこんでゐるといふこと、そして当人が思ひこむといふことがその文学をして実在せしめる根柢的な力だといふことを彼が信条」とするせいだという指摘は、まさに小林が自分と読者との間に<信仰の論理>を構成していることを意味しているという。

坂口の『教祖の文学』は1947年に発表されたが、小林は公式には何も反論していないそうだ。
その翌年、太宰治が自殺した頃から坂口は鬱病に罹り、不規則な生活の中で睡眠薬を多用したため、幻視や幻聴に悩まされるようになったという。
1949年には、薬物中毒と神経衰弱のため狂乱状態に陥り、東京大学医学部附属病院に入院させられた。その坂口を見舞った小林の話を、安吾の妻の坂口三千代が、次のように語っている。

≪おかしかったのは、小林秀雄さんがお見舞に見えたときで、持続睡眠療法がおわり、後遺症状が未だ残っていて、毎日相当量のブドウ糖を打っていたときだが、彼がドモって思うように口がきけないのにひきかえ、小林さんにベラベラとベランメエでまくしたてられ、数十回も「テメエは大馬鹿ヤロウだ」といわれていたときだった。(中略)
数十回も「テメエは大馬鹿ヤロウだ」が実は小林さん一流の励ましの文句であった。彼は終始嬉しそうにニコニコとしていた≫(『クラクラ日記』)

小林に「テメエは大馬鹿ヤロウだ」と言われると「嬉しそうにニコニコとして」しまうのは、すでに小林の論理構造に組み込まれている読者も、この言葉から坂口と同じように「励まし」を感じるはずだからであると、高橋氏はいう。

ここで興味深いのは、「テメエは大馬鹿ヤロウだ」というたった一言の言葉のなかに、<逆説・二分法・飛躍・反権威主義・楽観主義>という小林の<スタイル>が、見事に凝縮されていると、高橋氏はみる。
ソクラテスは「無知の知」を説いたが、小林の<人格>からは「テメエは大馬鹿ヤロウだ」という言葉が滲み出ているという。
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、27頁~30頁)

小林秀雄と中野重治


 高橋氏は、ベルグソンと小林秀雄、ラッセルと中野重治とを、類比的に捉えている。
〇ベルグソン~小林秀雄 「反論理的」 直観的
〇ラッセル~中野重治 「論理」(反論理的と小林秀雄を批判)

中野重治


・中野重治は、小林が『様々なる意匠』で文壇にデビューして以来、おそらく最も早い段階から小林を批判し続けてきた人物である。
〇中野は、小林と同じ1902年に生まれる。第四高等学校卒業後、小林と同じように、東京帝国大学に進学した。
⇒文学部独文科在籍中から詩や小説を書く。窪川鶴次郎や堀辰雄らと同人誌「驢馬」を創刊。
 一方でプロレタリアート文学運動に参加。
・小林が女優の卵の長谷川泰子と同棲していた頃、同じように女優の原泉子(はらせんこ)と交際して結婚したというところまで似ている。

・中野は、戦前の1936年4月、小林が正宗白鳥と「思想と実生活論争」を行っていた最中に、雑誌「新潮」に、次のような小林批判を述べている。
≪横光利一や小林秀雄は小説と批評との世界で論理的なものをこきおそうと努力している。横光や小林は、たまたま非論理に落ちこんだというのでなく、反論理的なのであり、反論理的であることを仕事の根本として主張している。彼らは身振り入りで聞き慣れぬ言葉をばらまいているが、それは論理を失つたものの最後のもがきとしてしか受けとれぬ≫(『閏二月二十九日』)

・中野は、小林の「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育つた思想が遂に実生活に袂別(べいべつ)する時が来なかつたならば、凡そ思想といふものに何の力があるか」という言葉に対して、次のように酷評した。
「思想が遂に実生活に袂別する」とは何を意味するのか不明確であり、このような「わからない言いまわしでなしには小林は何ひとついえない」と。(『閏二月二十九日』)

〇これに対して、小林は、「君は僕の真の姿を見てくれてはいない。君の癇癪が君の眼を曇らせているのである」と言って、次のように答えている。
≪僕という批評家は、たまたま非論理的である批評家ではない、仕事の根本に非合理主義を置いている批評家だと君はいう。しかし僕には非合理主義の世界観というような確乎たる世界観なぞないのだ。また、わが国の今日のあわただしい文化環境が、そんな世界観を育ててくれもしなかった。第一日本の近代批評がはじまって以来、僕等は合理主義と非合理主義の間の深刻な争いなどというものも一度も経験しはしなかった≫(『中野重治君へ』1936年)

戦後、中野と小林との間には、次のようなエピソードがあるそうだ。
戦後の1947年に、中野は、日本国憲法公布後初の参議院選挙に日本共産党から立候補した。ある夜、小林が青山二郎と美術書籍出版の求龍堂社長の石原龍一と神田のバーで飲んでいると、そこに中野が偶然入ってきた。
その姿を見た小林は、いつものように「なぜおまえさんは参議議員なんてバカなものに立候補したんだ」と絡み始めた。

そこで二言三言の応酬があったと思ったら、いきなり中野が小林の顔を「思いきりぶん殴った」という。
石原が「何をするか」と叫んで中野を殴り返そうとしたが、青山が笑いながら止めに入ったので、それ以上の大事には至らなかった(吉田凞生『レクイエム小林秀雄』)

小林は、赤く腫れ上がった頰をなでながら、次のように説法を始めた。
「バカ、お前はそそっかしくていけない。人の話は最後まで聞くもんだ。見ろ、おれの顔がこんなになっちゃったじゃないか。君のように、詩人としてこれほどすぐれた才能を持った人間が、どうして政治家になろうとするのか。詩人中野重治を失うことが日本の文学にとってどれほど痛手になるか」と。
しばらくすると中野は、「おれが悪かった」と小林の手を握って泣き出したという(吉田凞生『レクイエム小林秀雄』)

このエピソードで興味深いのは、「論理」を主張する中野が感情に流され、「反論理的」と批判されている小林が冷静に宥(なだ)めているところであろうと、高橋氏は指摘している。
なお、結果的に、中野は全国区で当選し、1950年まで参議院議員を務めた。
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、172頁~175頁)

ベルグソンとラッセル


ベルグソンの哲学


・アンリ・ベルグソンは、1859年に生まれた。
 国立高等師範学校を卒業後、日本の高等学校に相当するリセの教員として働きながら、『時間と自由』や『物質と記憶』を執筆した。
 1900年に国立の市民大学に相当するコレージュ・ド・フランス教授に就任し、一般市民を対象に講義を行った。
 ⇒ベルグソンの講義は常に大好評で、講堂から聴衆が溢れ出るほどだったという。

・1907年の『創造的進化』によって「生の哲学」を確立、一方では『笑い』や『思想と動くもの』のような哲学的エッセイが文学的に高く評価されて、1927年に「ノーベル文学賞」を受賞した。
・1932年に『道徳と宗教の二源泉』を執筆した後は引退し、1941年、ナチスドイツ占領下のパリで、肺炎のため81歳で亡くなっている。

※ベルグソンは、いわゆるアカデミックな哲学界に身を置いたことはなく、常に専門家ではなく一般市民を対象に、講義や講演を行った。
⇒文学者のポール・ヴァレリーが「ベルグソンは大哲学者で大文筆家であるばかりでなく、偉大な人類の友人だった」と葬儀で弔辞を述べているように、「学者」というよりも「友人」としてパリ市民に浸透していた。

※小林は、そのようなベルグソンの生き方に共感して、「敬愛の情」を抱いたに違いないと、高橋氏は推察している。
そして、ベルグソンも小林も立派な「友人」であるかもしれないが、それと同時に「危険な思想家」でもあるという点も指摘している。

この点について、高橋氏は、ベルグソンの『哲学入門』での、次のような前提を挙げている。
≪哲学の定義と絶対の意味をそれぞれ比較すると哲学者の間に一見相違があるにも拘らず物を知るのに非常に違つた二つの見方を区別する点ではぴつたり合つてゐることに気が付く。第一の知り方はその物の周りを廻ることであり、第二の知り方はその物の中に入ることである。第二の知り方は視点には関はりなく符号にも依らない。第一の認識は相対に止まり、第二の認識はそれが可能な場合には絶対に到達すると云える≫(『哲学入門』)

ベルグソンの『哲学入門』によれば、人間の認識には、「物の周りを廻る」方法と「物の中に入る」方法の二つがあるという。
そこで読者には、次の二種類の読者がいると、高橋氏はいう。
①<思索する読者>
②<信仰する読者>

①<思索する読者>とは、次のような数えきれないほどの疑問を抱く読者である。
・そもそも人間の認識には「物の周りを廻る」方法とか「物の中に入る」方法の二者択一しかないのか、他の方法はないのか。
・人間は「五感」を通して外界を知覚しているが、その「五感」による認識とベルグソンの「認識」は何が違うのか、など。

②<信仰する読者>とは、
・ベルグソンの作品を理解する最良の方法は、意識も分析も忘却し、無心でベルグソンの論理に飛び込む読者をさす。
・ベルグソンは、読者に立ち止まって考える隙を与えず、「物の周りを廻る」方法は「視点と符号」に依存して「相対」に止まるが、「物の中に入る」方法は「視点と符号」に依存せず「絶対」に達すると、どんどん話を先に進めていく。
⇒つまり、ベルグソンが想定しているのは、「思索」することなくベルグソンの論理に組み込まれる読者である。これが<信仰する読者>であるという。
※小林秀雄は、これに類似した読者像を想定していると、高橋氏は考えている。

・ベルグソンの論理は、最初の前提が実は結論でもあるように構成されているようだ。
この前提つまり結論を読者に納得させるために、その先には数多くの比喩や類推が登場する。
ただ、なぜ人間の認識には「物の周りを廻る」方法と「物の中に入る」方法しかないのかという根底の立論理由については、何も説明されない。
・ベルグソンの比喩や類推は、文学的に洗練されていて、読者の共感を生みやすいことはたしかである。
⇒たとえば、あらゆる視点から一つの町の写真を撮って無制限にその写真を繋ぎ合わせても、「我々が散歩してゐる町」とは違う。また、あらゆる言語で一つの詩を翻訳して、無制限にその翻訳を照らし合わせても、「原文の内的な意味」を表現することはできない。
・「写真」と「翻訳」という記号は、対象を分析して生じる結果であり、写真家の視点と翻訳家の言語に依存する「相対的」認識にすぎないとベルグソンは考える。
・それに対して、「我々が散歩してゐる町」や「「原文の内的な意味」を実感するために必要な「絶対的」認識を、ベルグソンは「直観」と呼ぶ。
⇒この「直観」とは、分析することも言語で表現することも不可能な認識である。
 したがって、定義することは不可能なのだが、しいて説明するならば、それは「対象の内部に身を移すための同感のこと」であり、「持続の中に身を置く」行為でもあるという。

〇したがって、ベルグソンが真の実在を認識するための学問とみなすのは、次のような「哲学」であるようだ。
≪事象を相対的に知る代りに絶対的に把握し、事象に対する視点を取る代りに事象の中に身を置き、分析をする代りにその直観を持ち、また延いてはあらゆる符号的言表、飜訳(ほんやく)、表現に依らずに事象を把握する方法があるとすれば、哲学は正にそれである≫(『哲学入門』)

※このベルグソンの「哲学」が、そのまま小林の「哲学」になっていると、高橋氏はみている。
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、200頁~204頁)

ラッセルの哲学


☆ベルグソンの哲学が上記のようなものだとすれば、ラッセルの哲学はどう理解されるのか。
 ラッセルの『哲学入門』は、どのような内容なのか。この点についての高橋氏の解説をみてみよう。

・ベルグソンが1913年に『哲学入門』(英語版)を上梓したのとほぼ同時期の1912年、ケンブリッジ大学教授の論理学者バートランド・ラッセルが『哲学入門』を発表した。
 この本は、かつてないほど明快な哲学入門書と評価された。
 (多くの英米系の大学の哲学入門講座でテキストとして用いられるようになった)

〇ラッセルの『哲学入門』は、「どんな理性的な人間も疑わないような確実な知識が、世界にはあるのだろうか」という疑問から議論を始める。
 「現象」や「実在」のような哲学用語を日常用語によって定義し、何を仮定したら、どのような結論が導かれるか、筋道を立ててわかりやすく解説している。

・読者は、議論の道筋において、自分が何を理解して何が不明なのか、意識的に確認することができる。
 その反面、読者は、デカルト以来の認識論的な哲学的諸問題が存在し、それらの問題にどのような対処が考えられるのか、論理的に見極めることが要求される。
 つまり、ラッセルの哲学入門書は、先述した<思索する読者>を対象としている。
(この点、ベルグソンが<信仰する読者>を対象としているのと対照的である)

・ラッセルという哲学者
 ラッセルは、1872年に生まれたので、ベルグソンよりも13歳年下ということになる。
 イギリス首相ジョン・ラッセルの孫である。貴族の家庭で幼少期から英才教育を受けて大学教授となる。
(この点でも、ユダヤ系のパリ市民ベルグソンとは対照的である)
・ラッセルの代表作は記号論理を体系化した『プリンキピア・マテマティカ』である。
 「ラッセルのパラドックス」の発見で知られるように、何よりも一流の論理学者であった。
・ラッセルは、人間の「理性」を基盤とする「論理的思考」と「合理主義」を最優先に掲げた。
 思想の自由を尊重する『幸福論』や『教育論』のような哲学エッセイを発表し、1950年に「ノーベル文学賞」を受賞した。

※このように、ベルグソンとラッセルは、フランスとイギリスで環境的にも思想的にも対極に位置しながらも、どちらもノーベル文学賞の栄誉に輝いた20世紀初頭を代表する哲学者であった。
(というわけで、双方が強く批判し合うようになったのも当然だった)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、204頁~206頁)

ラッセルによるベルグソン批判


・まず1912年、ラッセルは、哲学雑誌「モニスト」誌上で、ベルグソンの時間論を批判した。
 それにベルグソンの弟子ウィルドン・カーが答え、さらにラッセルが再批判を掲載する論争を行った。
 その後も弟子たちが論争を繰り返し、とくにラッセルが1946年に発表した大著『西洋哲学史』では、徹底的にベルグソンを罵倒しているそうだ。

・ラッセルによれば、ベルグソン哲学の大部分は、「分析」に対する「直観」の優位を説き、「知性」に対する「内的経験」の優位を説く膨大な<例証>であり、これらは何一つ<立証>されない「妄想」にすぎないという(『西洋哲学史』)
・ベルグソンの『創造的進化』は、「直観」を「本能」の進化した最良の形態とみなしている。しかし、ラッセルによれば、「直観」は「成人より子供」あるいは「人間より犬」の方が発達しており、「直観」に基づく哲学を信じる人は「森の中で好き勝手に生きるべきだ」という(『外部世界はいかにして知られうるか』)
・「直観」が絶対に誤らない例として、ベルグソンが「自己」についての認識を挙げている。これに対して、ラッセルは、「自己」に関する認識ほど「思い込みや錯誤」に陥り易いものはないとして、これを退ける。
・「知性」よりも「直観」を優先すべきであることを立証するためには、「直観では認識できるが、知性では認識できない」具体例が必要となる。
 そのためにベルグソンが挙げた例証を、ラッセルは一つ一つ追いかけては論理的に否定する。
 「直観が最上の姿で現れるのは原始時代」であり、ベルグソンの「直観」のような概念が無批判に受け入れられることのない学問こそが「哲学」でなければならないと結論付けている(前掲書)

※以上のように、ベルグソンとラッセルの哲学を解説して、高橋氏は、次のようなコメントをしている。
・改めてラッセルのベルグソン批判を振り返ってみると、中野重治が小林秀雄を罵倒したのと同じように、論理主義者の反論理主義者に対する強い憤りを感じるという。
 そして、論理主義者の論法が「正しい」ことは明らかであるにもかかわらず、反論理主義者の気持ちの方が「わかる」という印象を読者に与えるのはなぜだろうか、と問いを投げかけている。
(⇒どちらかを選ぶか、決めるのは読者であるとする。そこに、ベルグソンと小林が「危険な思想家」である所以があると、高橋氏は考えている)
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、206頁~208頁)

・「おわりに」(238頁)にも記してあるように、高橋昌一郎氏は、アメリカの大学と大学院に進学し、およそ7年間をミシガン州の大学街で過ごした際に、日本から持参した『新訂 小林秀雄全集』をボロボロになるまで読むことで、どれだけ救われたことか、筆舌に尽くし難いと記している。
 小林秀雄の文章を読み始めると、小林の世界に這入って浮世を忘れることができたそうだ。
 その文章は適度に難解で、ある程度集中して読まなければ文意が見えなくなるので、雑念が払われる仕組みになっている。
 小林の読者が<思索>を放棄して、小林の世界に組み込まれざるをえない筋書であるという。
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、238頁)

【補足】小林秀雄の『鐔』(2013年の大学センター試験問題[国語])


〇2013年の大学センター試験の国語に出題された小林秀雄の『鐔』を参考までに掲載しておく。


【第1問】
次の文章を読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。(配点 50)
 鐔というものを、ふとした機会から注意して見始めたのは、ここ数年来の事だから、未だ合点のいかぬ節もあり、鐔に関する本を読んでみても、人の話を聞いてみても、いろいろ説があり、不明な点が多いのだが。
 鐔の歴史は、無論、刀剣とともに古いわけだが、普通、私達が鐔を見て、好き嫌いを言っているのは、室町時代以後の製作品である。何と言っても、応仁の大乱というものは、史上の大事件なのであり、これを境として、A日本人の鐔というものの見方も考え方も、まるで変って了った。所謂鐔なるものは、この大乱の産物と言ってよいのである。私は鐔を弄ってみて、初めて、この事実に、はっきり気附いた。政令は無きに等しく、上下貴賤の差別なく、ドウ(ア)リョウ親族とても油断が出来ず、毎日が、ただ強い者勝ちの刃傷沙汰に明け暮れるというような時世が到来すれば、主人も従者に太刀を持たせて安心しているわけにもいくまい。いや、太刀を帯取にさげ佩いているようでは、急場の間には合わぬという事になる。やかましい太刀の拵などは、もはや問題ではない。乱世が、太刀を打刀に変えた。打刀という言葉が曖昧なら、特権階級の標格たる太刀が、実用本位の兇器に変じたと言っていい。こんな次第になる以前、鐔は太刀の拵全体のうちの、ほんの一部に過ぎなかったのだが、拵無用の打刀となってみても、実用上、鐔という拵だけは省けない。当然、実用本位の堅牢な鉄鐔の製作が要求され、先ず刀匠や甲冑師が、この要求を満すのである。彼等が打った粗朴な板鐔は、荒地にばらまかれた種のようなものだ。
 誰も、乱世を進んで求めはしない。誰も、身に降りかかる乱世に、乱心を以て処する事は出来ない。人間は、どう在ろうとも、どんな処にでも、どんな形ででも、平常心を、秩序を、文化を捜さなければ生きて行けぬ。そういう止むに止まれぬ人心の動きが、兇器の一部分品を、少しずつ、少しずつ、鐔に仕立てて行くのである。やがて、専門の鐔工が現れ、そのうちに名工と言われるものが現れ、という風に鐔の姿を追って行くと、私の耳は、乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音を聞くようである。

信家作と言われる或る鐔に、こんな文句が彫られている。「あら楽や人をも人と思はねば我をも人は人とおもはぬ。」X現代
人が、言葉だけを辿って、思わせぶりな文句だとか、拙劣な歌だとか、と言ってみても意味がないのである。これは文句ではない。鉄鐔の表情なので、眺めていれば、鍛えた人の顔も、使った人の顔も見えて来る。観念は消えて了うのだ。感じられて来るものは、まるで、それは、荒地に芽を出した植物が、やがて一見妙な花をつけ、実を結んだ、その花や実の尤もな心根のようなものである。
 鐔好きの間で、古いところでは信家、金家と相場が決っている。相場が決っているという事は、何となく面白くない事で、私も、初めは、鐔は信家、金家が気に食わなかったが、だんだん見て行くうちに、どうも致し方がないと思うようになった。花は桜に限らないという批評の力は、花は桜という平凡な文句に容易に敵し難いようなものであろうか。信家、金家については、はっきりした事は何も解っていないようだ。銘の切り方から、信家、金家には何代かが、何人かがあったと考えらえるから、室町末期頃、先ず甲府で信家風の鐔が作られ、伏見で金家風の鐔が作られ始めたというくらいの事しか言えないらしい。それに夥しい贋物が交って市場を流通するから、厄介と言えば厄介な事だが、まあ私などは、好き嫌いを言っていれば、それで済む世界にいるのだから、手元にあるものを写して貰った。
 井戸茶碗の身元は不詳だが、茶碗は井戸という言葉はある。同じ意味合いで、信家のこれはと思うものは、鐔は信家といい度げな顔をしている。井戸もそうだが、信家も、これほど何でもないものが何故、こんなに人を惹きつけるか、と質問して止まないようである。それは、確定した形というより、むしろ轆轤や槌や鑿の運動の節奏のようなものだ。信家は、武田信玄の鐔師で、信という字は信玄から貰った、と言われている。多分、伝説だろう。Yだが、事実ではあるまいと言ったところで面白くもない事だ。伝説は、何時頃生れたのだろう。「甲陽軍鑑」の大流行につられて生れたのかも知れない。「甲陽軍鑑」を偽書と断じたところで、幾つでも偽書が現れるほど、武田信玄や高坂弾正の思い出という本物は、生き生きとして、当時の人々の心に在った事を想えば、別段面白くもない話である。何時の間にか伝説を生み出していた鐔の魅力と伝説であって事実ではないという実証とは、何んの関係もない。こんな解り切った事に、歴史家は、案外迂闊なものなのだ。魅力に共感する私達の沈黙とは、発言の期を待っている伝説に外なるまい。
 信家の鐔にぶら下っているのは、瓢簞で、金家の方の図柄は「野晒し」で、大変異ったもののようだが、両方に共通した何か一種明るい感じがあるのが面白い。髑髏は鉢巻をした蛸鮹のようで、「あら楽や」と歌っても、別段構わぬような風がある。
 この時代の鐔の模様には、されこうべの他に五輪塔やら経文やらが多く見られるが、これを仏教思想の影響というような簡単な言葉で片附けてみても、Bどうも知識の遊戯に過ぎまいという不安を覚える。戦国武士達には、仏教は高い宗教思想でもなければ、難かしい形而上学でもなかったであろう。仏教は葬式の為にあるもの、と思っている今日の私達には、彼等の日常
生活に糧を与えていた仏教など考え難い。又、考えている限り、クウ(イ)バクたる問題だろう。だが、彼等の日用品にほどこされた、仏教的主題を持った装飾の姿を見ていると、私達は、何時の間にか、そういう彼等の感受性のなかに居るのである。
 何時だったか、田辺尚雄氏に会って、平家琵琶の話になった時、平家琵琶ではないが、一つ非常に古い琵琶を聞かせてあげよう、と言われた。今でも、九州の或る処には、説教琵琶というものが遺っているそうで、地鎮の祭などで、琵琶を弾じながら、経文を誦する、それを、氏の音楽講座で、何日何時に放送するから、聞きなさい、と言われた。私は、伊豆の或る宿屋で、夜、ひとり、放送を聞いた。琵琶は数分で終って了ったが、非常な感動を受けた。文句は解らないが、経文の単調なバスの主調に、絶えず琵琶の(ウ)バンソウが鳴っているのだが、それは、勇壮と言ってもいいほど、男らしく明るく気持ちのよいものであった。これなら解る、と私は感じた。こういう音楽に乗って仏教思想は、学問などに用はない戦国の一般武士達の間に滲透したに違いない、と感じた。仏教を宗教だとか思想だとか呼んでいたのでは、容易に解って来ないものがある。室町期は時宗の最盛期であった。不明なところが多すぎるが、時宗は民衆の芸能と深い関係があった。乱世が来て、庶民的な宗教集団は、庶民とともに最も早く離散せざるを得なかったであろうが、沢山の遊行僧は、従軍僧として戦場に入り込んでいたであろう。彼等は戦うものの最期を見届け、これをその生国の人々に伝え、お札などを売りつけて、生計を立てていたかも知れない。そういう時に、あのような琵琶の音がしたかも知れない。金家の「野晒し」にも、そんな音が聞えるようである。

 鉄鐔は、所謂「下剋上」の産物だが、長い伝統的文化の一時の中断なのだから、この新工芸の成長の速度は速かった。平和が来て、刀が腰の飾りになると、鐔は、金工家が腕を競う場所になった。そうなった鐔は、もう私の興味を惹かない。鐔の面白さは、鐔という生地の顔が化粧し始め、やがて、見事に生地を生かして見せるごく僅かの期間にある。その間の経過は、いかにも自然だが、化粧から鐔へ行く道はない。
 鉄の地金に、鑿で文様を抜いた鐔を透鐔と言うが、この透というものが鐔の最初の化粧であり、彫や象嵌が発達しても、鐔の基本的な装飾たる事を止めない。刀匠や甲冑師は、ただ地金を丸く薄く固く鍛えれば足りたのだが、いつの間にか、星だとか花だとか或は鎌だとか斧だとか、日常、誰にでも親しい物の形が、文様となって現れて来た。地鉄を鍛えている人がそんな形を抜きたくなったのか、客の註文に答えたのか、そんな事は、決して解る筈がないという処が面白い。Cもし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう。装飾は、実用と手を握っている。透の美しさは、鐔の堅牢と軽快とを語り、これを保証しているところにある。様々な流派が出来て文様透がだんだん巧緻になっても、この基本の性質は失われない。又、この性質は、彫や象嵌の世界ででも、消極的にだが守られているのであり、彫でも象嵌でも、美しいと感ずるものは、必ず地金という素材の確かさを保証しているように思われる。戦がなくなり、地金の鍛えもどうでもよくなって来れば、鐔の装飾は、大地を奪われ、クウ(エ)ソな自由に転落する。名人芸も、これに救うに足りぬ。

先日、伊那にいる知人から、高遠城址の桜を見に来ないかと誘われた。実は、この原稿を書き始めると約束の日が来て了ったので出掛けたのである。高遠には、茅野から杖突峠を越えて行く道がある。峠の下に諏訪神社の上社がある。雪を残した八ヶ岳の方から、冷たい強い風が吹いて、神社はシン(オ)カンとしていた。境内の満開の桜も見る人はなかった。私は、高遠の桜の事や、あそこでは信玄の子供が討死したから、信玄の事など考えていたが、ふと神殿の後の森を見上げた。若芽を点々と出した大木の梢が、青空に網の目のように拡がっていた。その上を、白い鳥の群れが舞っていたが、枝には、近附いて見れば大壺ほどもあるかと思われる鳥の巣が、幾つも幾つもあるのに気附いた。なるほど、これは桜より余程見事だ、と見上げていたが、私には何の鳥やらわからない。社務所に、巫女姿の娘さんが顔を出したので、聞いてみたら、白鷺と五位鷺だと答えた。樹は何の樹だと訊ねたら、あれはただの樹だ、と言って大笑いした。私は飽かず眺めた。そのうちに、白鷺だか五位鷺だかは知らないが、一羽が、かなり低く下りて来て、頭上を舞った。両翼は強く張られて、風を捕え、黒い二本の脚は、身体に吸われたように、整然と折れている。嘴は延びて、硬い空気の層を割る。D私は鶴丸透の発生に立会う想いがした。
                             (小林秀雄「鐔」による)

(注)
1  鐔――日本刀で、柄や刀身の間にはさむ装具(次ページの図を参照)。
2  帯取にさげ佩いている――帯取(太刀を結び付けるひも)で腰からさげている。
3  打刀――相手に打ち当てて切りつける実戦用の刀。
4  標格――象徴(シンボル)。
5  甲冑師――かぶとやよろいなどの武具を作る職人。
6  信家――桃山時代の代表的な鐔工。金家も同じ。
7  写して貰った――この文章にはもともと写真が添えられていた。ただし、ここでは省略した。
8  井戸茶碗――朝鮮半島産の茶碗の一種。
9  節奏――リズム。
10 甲陽軍鑑――武田信玄・勝頼二代の事績、軍法などを記した、江戸時代初期の書物。
11 高坂弾正――高坂昌信(1527~1578)。武田家の家臣。「甲陽軍鑑」の元となった文書を遺したとされる。
12 野晒し――風雨にさらされた白骨。特に、されこうべ(頭骨)。
13 五輪塔――方・円・三角・半月・団の五つの形から成る塔。平安中期頃から供養塔・墓塔として用いた。
14 形而上学――物事の本質や存在の根本原理を探求する学問。
15 田辺尚雄――東洋音楽を研究した音楽学者(1883~1984)。
16 平家琵琶――「平家物語」を語るのに合わせて演奏する琵琶の音曲。
17 バス――低音の男声。
18 時宗――浄土教の一派。一遍(1229~1289)を開祖とする。
19 遊行僧――諸国を旅して修行・教化した僧。
20 象嵌――金属などの地に貝殻など別の材料をはめ込んで模様を作る技法。
21 鉄の地金のこと。



問1 傍線部(ア)~(オ)の漢字と同じ漢字を含むものを、次の各群の①~⑤のうちから、それぞれ一つずつ選べ。解答番号は( 1 )~( 5 )。

(ア)ドウリョウ  ( 1 )
  ①若手のカンリョウ ②チリョウに専念する ③荷物をジュリョウする 
  ④なだらかなキュウリョウ ⑤セイリョウな空気

(イ)クウバク  ( 2 )
  ①他人にソクバクされる ②冗談にバクショウ ③サバクを歩く
  ④江戸にバクフを開く ⑤バクガトウを分解する

(ウ)バンソウ  ( 3 )
  ①家族ドウハンで旅をする ②ハンカガイを歩く ③資材をハンニュウする
  ④見本品をハンプする ⑤著書がジュウハンされる

(エ)クウソ  ( 4 )
  ①ソエンな間柄になる ②ソゼイ制度を見直す ③緊急のソチをとる
  ④被害の拡大をソシする ⑤美術館でソゾウを見る

(オ)シンカン  ( 5 )
  ①証人をカンモンする ②規制をカンワする ③ユウカンな行為をたたえる
  ④勝利にカンキする ⑤広場はカンサンとしている

問2 傍線部A「日本人の鐔というものの見方も考え方も、まるで変って了った」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 6 )。

①鐔は応仁の大乱以前には富や権力を象徴する刀剣の拵の一部だったが、それ以後は命をかけた実戦のための有用性と、乱世においても自分を見失わずしたたかに生き抜くための精神性とが求められるようになったということ。
②鐔は応仁の大乱以前には特権階級の富や権力を象徴する日常品としての美しさを重視されていたが、それ以後は身分を問わず使用されるようになり、平俗な装飾品としての手ごろさが求められるようになったということ。
③鐔は応仁の大乱以前には実際に使われる可能性の少ない刀剣の一部としてあったが、それ以後は刀剣が乱世を生き抜くために必要な武器となったことで、手軽で生産性の高い簡素な形が鐔に求められるようになったということ。
④鐔は応仁の大乱以前には権威と品格とを表現する装具であったが、それ以後、専門の鐔工の登場によって強度が向上してくると、乱世において生命の安全を保証してくれるかのような安心感が求められるようになったということ。
⑤鐔は応仁の大乱以前には刀剣の拵の一部に過ぎないと軽視されていたが、乱世においては武器全体の評価を決定づけるものとして注目され、戦いの場で士気を鼓舞するような丈夫で力強い作りが求められるようになったということ。

問3 傍線部B「どうも知識の遊戯に過ぎまいという不安を覚える」とあるが、そこには筆者のどのような考えがあるか。最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 7 )。
①仏教を戦国武士達の日常生活の糧となっていた思想と見なすのは軽率というほかなく、彼等と仏教との関係を現代人が正しく理解するには、説教琵琶のような、当時滲透していた芸能に携わるのが最も良い手段であるという考え。
②この時代の鐔にほどこされた五輪塔や経文の意匠は、戦国武士達にとっての仏教が、ふだん現代人の感じているような暗く堅苦しいものではなく、むしろ知的な遊びに富むものであることを示すのではないかという考え。
③戦国武士達に仏教がどのように滲透していたかを正しく理解するには、文献から仏教思想を学ぶことに加えて、例えば説教琵琶を分析して当時の人々の感性を明らかにするような方法を重視すべきだという考え。
④この時代の鐔の文様に五輪塔や経文が多く用いられているからといって、鐔工や戦国武士達が仏教思想を理解していたとするのは、例えば仏教を葬式のためにあると決めつけるのと同じくらい浅はかな見方ではないかという考え。
⑤戦国武士達の日用品と仏教の関係を現代人がとらえるには、それを観念的に理解するのではなく、説教琵琶のような、当時の生活を反映した文化にじかに触れることで、その頃の人々の心を実感することが必要だという考え。

問4 傍線部C「もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう。」とあるが、それはどういうことをたとえているか。最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 8 )。
①実用的な鐔を作るためには鉄が最も確かな素材であったので、いくつもの流派が出現することによって文様透の形状は様々に変化していっても、常に鉄のみがその地金であり続けたことをたとえている。
②刀剣を実戦で使用できるようにするために鐔の強度と軽さとを追求していく過程で、鉄という素材の質に見合った透がおのずと生み出され、日常的な物をかたどる美しい文様が出現したことをたとえている。
③乱世において武器として活用することができる刀剣の一部として鉄を鍛えていくうちに、長い伝統を反映して必然的に自然の美を表現するようになり、それが美しい文様の始原となったことをたとえている。
④「下剋上」の時代において地金を鍛える技術が進歩し、鐔の素材に巧緻な装飾をほどこすことができるようになったため、生命力をより力強く表現した文様が彫られるようになっていったことをたとえている。
⑤鐔が実用品として多く生産されるようになるにしたがって、刀匠や甲冑師といった人々の技量も上がり、日常的な物の形を写実的な文様として硬い地金に彫り抜くことが可能になったことをたとえている。

問5 傍線部D「私は鶴丸透の発生に立会う想いがした。」とあるが、その理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は( 9 )。
①戦乱の悲劇が繰り返された土地の雰囲気を色濃くとどめる神社で、巣を守り続けてきた鳥の姿に、この世の無常を感じ、繊細な鶴をかたどった鶴丸透が当時の人々の心を象徴する文様として生まれたことが想像できたから。
②桜が咲きほこる神社の大樹に棲む鳥がいくつも巣をかけているさまを見て、武士達も太刀で身を守るだけでなく、鐔に鶴の文様を抜いた鶴丸透を彫るなどの工夫をこらし、優雅な文化を作ろうとしていたと感じられたから。
③神社の森で巣を守る鳥が警戒しながら飛びまわる姿を見ているうちに、生命を守ろうとしている生き物の本能に触発された金工家達が、翼を広げた鶴の対称的な形象の文様を彫る鶴丸透の構想を得たことに思い及んだから。
④参拝者もない神社に満開の桜が咲く華やかな時期に、大樹を根城とする一羽の鳥が巣を堅く守る様子を見て、討死した信玄の子供の不幸な境遇が連想され、鶴をかたどる鶴丸透に込められた親の強い願いに思い至ったから。
⑤満開の桜を見る者もいない神社でひたむきに巣を守って舞う鳥に出会い、生きるために常に緊張し続けるその姿態が力感ある美を体現していることに感銘を受け、鶴の文様を抜いた鶴丸透の出現を重ね見る思いがしたから。

問6 この文章の表現と構成について、次の(i)・(ii)の問いに答えよ。
(i) 波線部X「現代人が、言葉だけを辿って、思わせぶりな文句だとか、拙劣な歌だとか、と言ってみても意味がないのである。」と、波線部Y「だが、事実ではあるまいと言ったところで面白くもない事だ。」とに共通する表現上の特徴について最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。解答番号は( 10 )。

①「言葉だけ」の「だけ」や「面白くも」の「も」のように、限定や強調の助詞により、問題点が何かを明確にして論じようとするところに表現上の特徴がある。
②「と言ってみても」や「と言ったところで」のように、議論しても仕方がないと、はぐらかしたうえで、自説を展開しようとするところに表現上の特徴がある。
③「意味がない」や「面白くもない」のように、一般的にありがちな見方を最初に打ち消してから、書き手独自の主張を推し進めるところに表現上の特徴がある。
④「思わせぶりな」や「拙劣な」、「事実ではあるまい」のように、消極的な評価表現によって、読み手に不安を抱かせようとするところに表現上の特徴がある。

(ii) この文章は、空白行によって四つの部分に分けられているが、その全体の構成のとらえ方として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。解答番号は( 11 )。
①この文章は、最初の部分が全体の主旨を表し、残りの三つの部分がそれに関する具体的な話題による説明という構成になっている。
②この文章は、四つの部分が順に起承転結という関係で結び付き、結論となる内容が最後の部分で示されるという構成になっている。
③この文章は、それぞれの部分の最後に、その部分の要点が示されていて、全体としてはそれらが並立するという構成になっている。
④この文章は、人間と文化に関する一般的な命題を、四つのそれぞれ異なる個別例によって論証するという構成になっている。


≪【本の紹介】渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版≫

2022-09-19 18:52:28 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【本の紹介】渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版≫
(2022年9月19日投稿)


【はじめに】


 前回のブログでは、小林公夫氏の論理思考、論理学の本を紹介した。
 今回のブログでも、引き続き、論理力について、考えてみたい。
 その際に、今回は、次の著作を参照した。
〇渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]
 この書籍は、帰納法・演繹法・弁証法といった伝統的な論理思考法のみならず、最近注目されている思考のツールとしてMECE(Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive)、ピラミッドストラクチャについて、紹介している。この点が、渡辺氏の本書の特徴である。
(ただし、内容は必ずしも大学の受験生を対象にしてはいない。むしろ一般人向けといえるかもしれない。しかし、国語の読解力を身に付けるには良い内容であろう)

 なお、論理力を鍛えるには、『論理学』(東京大学出版会、1994年)の著者でもある野矢茂樹氏の次のような本もある。
〇野矢茂樹『論理トレーニング』産業図書、1997年[2003年版]
(こちらの本は、別の機会に紹介することにしたい)

【渡辺パコ氏のプロフィール】
・大学で哲学を専攻(23頁より)
・1960年生まれ。コピーライターとして広告、会社案内の制作、PR戦略の企画立案などを担当。
・1988年に独立し、100社以上にコーポレートコミュニケーションプランを提供する。
・1998年からはweb系を中心とするベンチャービジネスのコンサルティング活動を開始。




【渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』(かんき出版)はこちらから】
渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』(かんき出版)





渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]

【目次】
はじめに
プロローグ〇脳で汗をかこう!
第1部 理論編 論理思考の基礎
第1章●論理思考ができる仕事はどう変わる?
第2章●論理思考のツール
第3章●思考をドライブするための手法
第2部 実践編 論理思考のトレーニング
STEP 1●確実に言えることを判断する
STEP 2●短い命題の論理の穴を発見する
STEP 3●会話をしながらイシューを押さえる
STEP 4●長文の論理を構造化して理解する
STEP 5●ロジックの弱点を発見し、効果的に主張をつくる
エピローグ●論理思考を身につけるために




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・伝統的な論理思考法
・MECEについて~思考のツール
・ピラミッドストラクチャ
・STEP 1●確実に言えることを判断する
・STEP 2●短い命題の論理の穴を発見する
・長文の論理を構造化して理解する
・論理思考を自分のものにしよう






伝統的な論理思考法


・論理思考と一口に言っても、さまざまな手法がある。
 歴史的に見れば、哲学の傍流としての論理学がある。そこでは帰納法や演繹法、弁証法などの思考法が形作られてきた。

【伝統的な論理思考法】
①帰納法
②演繹法
③弁証法

①帰納法
 帰納法は、演繹法と並んで、最も歴史のある推論の方法の一つである。
 自分がロジカルであるという自覚があるか否かにかかわらず、多くの人が無意識に日常的に行っている。
 帰納法の基本は、以下のようなものである。

・人は必ず死ぬ=結論
←孔子は死んだ 平清盛は死んだ 祖父が死んだ

・帰納法の論理構造は、実例を何件もあげ、その実例に共通する命題(意見)は正しい、と結論づけることである。
※帰納法での推論は、多くの実例から予想される結論を導き出しているにすぎないので、「人間は必ず死ぬ」のような自明の事実に見える結論でも、あくまで「推論」にすぎない。「おそらく……という命題は正しいだろう」という以上の結論を導き出すことは、原理的に難しい。
 そのため、帰納法では、「蓋然性(がいぜんせい)」という概念が必要になってくる。
 蓋然性とは、「正しさの度合い」という概念である。「この推論は蓋然性が高い」などと使う。
 帰納法では蓋然性の高い推論(結論)を導き出せれば、論理的に正しい議論ができる。


②演繹法
 演繹法は、帰納法と並ぶ論理展開の基本である。
 最も基本的な演繹法のロジックは、以下のようなものである。

・祖父は必ず死ぬ=③結論
←祖父は人間であり、ほ乳類だ(②小前提)←ほ乳類は必ず死ぬ(①大前提)
 ①大前提、②小前提、③結論で、大前提と小前提が正しいなら、必ず結論は正しくなるのが、演繹法のロジックである。
※ただし、①の大前提をどうやって導き出したかが、問題になってくる。大前提は、帰納法を使って導き出したと考えるのが普通なのだが、そうなると、帰納法の問題点が、演繹法の中にも影響を及ぼしてくる。

③弁証法
・弁証法での論理展開は非常に高次元の脳の活動のため、社会生活では応用しにくいが、知的活動としての価値は大きい。
・両者を結合した新しい社会(合)
            ⇑
ブルジョア[資本家](正)⇔プロレタリアート[労働者](反)

(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、40頁~49頁)

MECEについて~思考のツール3


・物事を考えるとき、一度に全体を考えようとすると思考が分散して、収拾がつかなくなる。
 このようなトラブルを防ぐのが、MECEという概念である。

〇MECEとは
・MECEとは、「ミッシー」「ミーシー」などと読まれる。
 「Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive」の頭文字をとったものである。
 「相互に排他的な項目」による「完全な全体集合」を意味するようだ。
 簡単に言えば、「モレなくダブリなく」複数の領域に分けて考えるという意味になる。
・物事を考えるとき、一度に全体を考えようとすると思考が分散して、収拾がつかなくなる。このようなトラブルを防ぐのが、MECEという概念である。論理学には欠かせない概念。
・マッキンゼーをはじめとする主要なコンサルティング・ファームがビジネスに使いやすいように体系化し直したことから、知られるようになった。
・最近では、日本の企業内にも、整合性のとれた話をまとめるためにはMECEでなければならないという理解が進んでいるようだ。

・では論理的というと、MECEが登場するのはなぜか?
 MECEでないということは、モレがあったりダブリがあったりするということである。
 たとえば、市場を分析するときに、年齢に切り分けて、それぞれの特性を考えるというような方法がある。
 +0~19歳、+20~29歳、+30~45歳、+46~60歳、+61歳~
 この分け方はモレもダブリも生じないので、完全なMECEである。
 これに対して、
 +児童・学生、+OL、+ビジネスマン、+主婦、+高齢者という分類はどうか?
 一見網羅性があるように見えるが、「仕事を持つ主婦」「ビジネスの一線に立つ高齢者」などはどの分類に入るのか、複数の分類に入る可能性もあるから、MECEとは言えないことがわかる。
(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、50頁~51頁)

ピラミッドストラクチャ


・ロジックツリーとピラミッドストラクチャは、できあがった形はどちらも樹形の図になるが、思考の手法はまったく異なる。

【ロジックツリーとピラミッドストラクチャの違い】
〇ロジックツリー
・課題を先にはっきりと立て、そこから下位の概念にブレイクダウンしていく。
・上位概念から思考することで、最底辺のメッセージが非現実的になる可能性がある。

〇ピラミッドストラクチャ
・最底辺、つまり具体的な情報や観察事項から上位の概念に向けて、推論を進めていく。
・下辺から出発するので、事実をはずす心配がない。そのかわり、上位の概念を適切につくることが難しく、思考の手法としてはロジックツリーより難しく感じることが多い。

 それでは、次のような例文を通して、ピラミッドストラクチャの基本を見てみよう。
・【例文】気候変動とCO2濃度の変化
 このまま何もしないままに時がたつと、22世紀の初頭には地球の平均気温は最大摂氏6度も上がるという予測が出た。6度といわれてもぴんと来ないが、逆に平均気温が6度下がると、地球は氷河期になるらしい。20世紀に入って大気のCO2(二酸化炭素)濃度は上がり続けており、これからもCO2の排出量は減る見込みが立っていない。CO2濃度の変化は全地球的な気候の変動と深く関係していることは事実であり、前述の予測が正しいか否かにかかわらず、CO2濃度の上昇を放置しておくことは、大きな気候変動を招く危険性が高い。世界は98年の京都議定書でCO2削減に合意したものの、各国が批准をためらって、実効が上がっていない。早急にCO2排出を抑制するルールづくりに取り組むべきだ。

この文章の中心的な主題(メインメッセージ)は、文末にあるように、
世界は早急にCO2排出を抑制するルールづくりに取り組むべきだ。

そのメインメッセージを支える理由づけとして、2つをあげている。
①CO2濃度上昇による気候変動は人類の生活を脅かす
②CO2削減の国際的な合意が上がっていない

メインメッセージと、2つの理由を図で表すと、
〇世界はCO2排出を抑制する新たなルールづくりに取り組むべきだ。
    ●
  ●   ●←キーラインメッセージ
  ①   ②
メインメッセージを頂点に、それを直接理由づけるサブ的なメッセージで支える図になっている。⇒これがピラミッドストラクチャの基本
メインメッセージを直接理由づけるメッセージを「キーラインメッセージ」と呼ぶ。
(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、62頁~64頁)

STEP 1●確実に言えることを判断する


〇「第2部 実践編 論理思考のトレーニング」の「STEP 1●確実に言えることを判断する」では、次のようなことが述べてある。

・最初の課題は、「与えられた情報から確実に言えること」と「与えられた情報からでは言えないこと」を区別するという課題である。
・この章では、論理思考を鍛えるSTEP 1として次のような課題を出している。
 文章を読み、その文章だけから判断できることを推論し、最も適切な推論を、あとの5つの中からひとつ選びなさい。そのひとつを選んだ理由、他を選ばなかった理由も説明しなさい。

⇒まず、課題の文を読み、自分なりに正解と思われるものをじっくり考えること。
 そして、それを選んだ理由もである。

【課題3 遺伝子組み換え作物】


【課題文】
「受粉をコントロールする従来の方法による品種改良では、
 近縁品種の新種をつくるのに数年かけるのが普通だった。
 しかし遺伝子組み換えでは、ほんの一瞬の遺伝子操作によ
 って、縁の遠い遺伝子が結びついた新種が生まれている。
 こういった縁の遠い(自然界では通常一緒にならない)遺
伝子をひとつにするという<不自然>なことは、自然界で
は数百年、数千年の時間が必要であるが、遺伝子組み換え
ではそれを短時間ですませることを意味する。それだけに、
できた新種が本当に自然界や人間に悪影響がないのか、従
来以上の試練や調査を行うべきだ」

文章を読み、その文章だけから判断できることを推論し、最も適切な推論を、あとの5つの中からひとつ選びなさい。
そのひとつを選んだ理由、他を選ばなかった理由も説明しなさい。

【選択肢】
①遺伝子組み換えは今日確立された技術である。
②遺伝子組み換え作物は安全性が確認されていない。
③植物と植物以外の遺伝子を組み合わせることも可能だ。
④十分な試験をすれば、遺伝子組み換え作物は安全だ。
⑤通常の品種改良は自然な行為である。

【正解とその理由】
 正解② 
<②が適切である理由>
・文書に安全性を確認されたという記述はない一方で、悪影響に関する更なる試験や調査が求められていることから、遺伝子組み換えは安全性が確認されていないと言える。

<①が不適切である理由>
・遺伝子組み換え技術は、自然界や人間にどのような影響を及ぼすのかわからず、その意味で現在研究中の技術であり、確立されているとは言えない。

<③が不適切である理由>
・自然界では考えられない遺伝子組み合わせ範囲として、文中では、植物と植物以外の組み合わせ可否まで言及していない。
※植物に動物の遺伝子を組み込むことは、本文からは、可能であるとも可能でないとも言えない。よって、「可能だ」と断言している③のメッセージは、適切ではないと考えるとよい。

<④が不適切である理由>
・遺伝子組み換え作物は新種であるため、安全を測る十分な試験が何なのか、まだわからないため安全とは言い切れない。
⇒この理由づけするのが一番説得力がある。

<⑤が不適切である理由>
・通常の品種改良でさえ、長い年月が必要となるものを、数年で起こしてしまうものである。そう考えると、通常の品種改良も自然な行為とは言えない。
(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、92頁~94頁、107頁~112頁)

STEP 2●短い命題の論理の穴を発見する


〇「第2部 実践編 論理思考のトレーニング」の「STEP 2●短い命題の論理の穴を発見する」においては、次のようなことが述べてある。

言葉の意味をいつも吟味する


・論理は、いつも言葉によって組み立てられている。
 論理の基本的な単位はセンテンスだが、センテンスをつくっているのは当然単語である。 
 単語の意味があいまいだと、センテンスの意味があいまいになり、できあがるロジックも、意味が定まらないものになってしまう。
 論理思考に慣れるには、論理を組み立てる個々のブロックにあたる単語の意味を、常に吟味する習慣を身につけることが重要である。

・言葉には、その言葉の中心的な意味(内包)と、その中心から派生した周辺的な意味(外延)の両方が含まれている。辞書や用語の意味には含まれないが、言葉に付随して伝わってくる意味を「外延」と呼ぶ。
 言葉の意味は、内包から外延に連なるグラデーションの総体である。
 言葉を選ぶときには、ふつう、内包から外延の広い意味から、自分が最も適当だと思う意味だけに限定して使っている。しかしその言葉を聞く(読む)人は、その限定された意味でとらえるとは限らない。そこで、同じメッセージでも、異なる内容でとらえられてしまうことがある。
・このステップでは、このような言葉の持つあいまいさ(多様性)を発見し、その中からどのような意味で言葉を使っているのかを理解した上で、適切なイメージをつくるためのトレーニングを行う。

<この章の課題>
☆提示される、少ないセンテンスからなる主張(命題)は、一見正しそうに見えるように書かれている。一見正しそうなメッセージの中の、どこが問題か。
①その問題のある単語や言葉を抜き出して、問題点を指摘すること(抜き出す言葉はひとつとは限らない)。
②その上で、メッセージ(命題)が妥当だとしたら、どのような場合か。
③妥当でないとしたらどのような場合か。

【課題5 仕付け糸】


【課題文】
「M先生は、しつけについてこんな話をしてくれた。『仕付け糸』という言葉の通り、大まかな位置を決めることです。大まかな位置とは、子供が社会の中で自立して生きて行くこと。自分で選び、行動することです」

【質問】
 この主張(命題)は、一見正しそうに見えるように書かれている。一見正しそうなメッセージの中の、どこが問題か?
①その問題のある単語や言葉を抜き出して、問題点を指摘すること(抜き出す言葉はひとつとは限らない)。
②その上で、メッセージ(命題)が妥当だとしたら、どのような場合か。
③妥当でないとしたらどのような場合か。

<Aさんの回答>
①「子供」とあるが、人によって想起する「子供」の年齢はそれぞれ。
 子供のしつけ方はその成長段階により異なるため、このようなあいまいな表現はふさわしくない。
「大まかな位置とは、子供が社会の中で自立して生きていくこと」とあるが、「大まかな位置」の説明として「自立して生きていくこと」というのは説明になっていない。
「大まかな位置」とは、基本的な道徳や善悪の区別、あるいは環境に対する取り組み方、などを表しているものと思うが、それらを身につけた上で「自立して生きていくこと」が可能になる。説明文の前後で述べられていることにずれがある。
「自分で選び、行動すること」を「自立して生きていくこと」の補足としてあげているが、どちらも抽象的すぎる。子供が自ら選択し行動すればそれで本当に自立して生きているといえるのか。好き勝手やることにはならないのか。

②聞き手が「子供」像を共有している場(たとえば小学校の父母会など)で、「自立して生きていくこと」について正しい共通のイメージを持つことができる場合(つまり子供の好き勝手にさせる、といった誤解をする人がいないとわかっている場合)。また、子供の選択と行動に対し、的確なアドバイスができる場合。

③しつけの対象となる子供が、自立するには幼すぎる場合。
 また、障害などを持ち、両親の保護が必要な場合。
 あるいは、特定の宗教を信じ、その教えにそって生きることを是とする社会である場合など。

・Aさんはまず3つの問題点を指摘している。
 「子供」「大まかな位置」「自立」など、課題文のキーワードはAさんの指摘の通りかなりあいまいに、書き手の勝手な解釈で意味づけられており、端的に言ってまったくロジックになっていない。
 とくにひどいのが「自立して生きていくこと」と「大まかな位置」との関係である。
 これをイコールであるかのように主張するのはまったく根拠がない。
※実はこの課題文は実在のある教育学者の言葉を聞いた人がまとめたものであるそうだ。
 前後を読むと、もとの話をした学者も、あまりロジカルに話していた様子はなく、それをさらに論理的でない書き手が伝文的に書いたので、ますます筋の通らない文章になってしまったようだ。
 しかし、実社会ではこのような筋の通らない文章が、堂々と書かれていることが意外に多いという。とくにその先生の意見を、上司が信奉しているような場合には、たちが悪い。

※こうした「なんとなくわかったような論法」で進む文章こそ、実は最も悪影響の大きなロジックなのであると著者は警告している。
 Aさんが問題の指摘に成功している理由は、具体的なシーンを提示して、問題を指摘している点である。
 STEP2の課題は、一見正しいように見える文章から難点を指摘し、その難点がなぜ適切ではないのかを誰にでもわかるように指摘することであった。
その際のポイントは次のようなものである。
<3つのポイント>
①言葉と文章のつながり両方に注意して問題点を探す
②論理的に指摘するのはもちろん、相手に伝わるように指摘する
③具体的なシーンを想定して考え、指摘する
(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、121頁~124頁、140頁~145頁)


長文の論理を構造化して理解する


「第2部 実践編 論理思考のトレーニング」の「STEP 4●長文の論理を構造化して理解する」においては、第2章で述べられていたピラミッドストラクチャの演習問題を紹介してある。

ピラミッドストラクチャのふたつの役割


・ピラミッドストラクチャにはふたつの役割がある。
①他者が書いた論説文や企画書、他社のプレゼンテーションなどを構造化することによって、相手の主張を理解すること。
そして、その理解をもとに、賛同や反論を的確に行うこと。

②自分が何らかの主張を行うときに、自分のメッセージを支える論理構造をピラミッドストラクチャで構築し、それをもとに文書を作ること。


ピラミッドストラクチャ再構築の方法


・論説文や企画書など、相手に何らかのメッセージを伝えることを目的にして作られた文書から、ピラミッドストラクチャを再構築する方法について、説明している。

・まず、文書のメインメッセージを発見する。メインメッセージは文書の中にある筆者の中心的な主張である。
 これを、×××は〇〇〇すべき、という形になるように書き出す。
※論説文は、自分の主張によって読み手や第三者に行動を促すことで情報としての価値を持ってくるので、メインメッセージはこのような「~すべき」という文体で表現できるはずである。
 メインメッセージを発見する場合に気をつけたいのは、本文が否定形で書かれている場合である。
 ××しなければ、〇〇すべきではない。
 このような場合は、意味がつかみにくいので、肯定形に変えておくと、ピラミッド構造が発見しやすい。つまり△△であれば、××すべきという形に。

・その次に、メインメッセージを支えるキーラインを発見する。
※その場合、注意すべき点は次の2点である。
①キーラインはメインメッセージの直接的な理由づけになる
②本文中に「第一に」「第二に」とあっても、それがキーラインだとは限らない
(書き手が修辞的に使っているだけで、論旨構造とは無関係の場合もあるという)

 キーラインの発見と並行して(同時進行で)、キーラインのさらに根拠としてあげている事実や情報(サポートメッセージ)を探し、キーラインの下につける。
(⇒これでピラミッドは3階層の構造になる)



【演習 課題1 公害白書の論説】
(「公害白書――都市型、生活型の時代」『朝日新聞』社説(2001年9月4日より))

 国の公害等調整委員会がまとめた今年の「公害白書」に
 よると、大気汚染や騒音、悪臭、水質汚濁など都市型、生
 活型の公害紛争が増加している。
  国や地方自治体が当事者になるケースも多くなった。被害
 を未然に防ぐ責任を果たしていない、といった理由による。
  公害問題が深刻だった70年代前半は、事件の当事者の7
 割以上を企業が占め、国と地方自治体は2割程度だった。
 最近5年間では、企業の割合が半分近くに減り、国と地方
 自治体が3割程度までになった。
  身の回りの問題に困った住民の多くは、自治体の公害相
 談窓口と接触する。担当部門がその原因を突き止め、防止
 策を検討する。それに基づいて発生源に対して改善を指導
 する。そうした処理が円滑に進んでいれば、紛争には至る
 まい。
  国や地方自治体が当事者になるのは、苦情処理がうまく
 いっていないケースが少なくないからだろう。
  白書がいきさつを詳しく紹介した瀬戸内海の豊島(てし
 ま)の産業廃棄物事件は、公害等調整委員会の調停で関係
 者が合意するまで7年近くもかかった。国や地方自治体が、
 生活型公害の苦情処理を誤って、紛争当事者になる典型的
 な例である。
  環境に対する国民の意識は年々高まっている。都市型・
 生活型の公害紛争は今後も多発、多様化するだろう。そん
 な中で、苦情を解決した比率と、苦情を申し立てた住民の
 満足度が、ここ数年、ともに横ばいだ、という白書のくだ
 りは気にかかる。
 「個々の事件の内容に応じた、きめ細かな利害の調整を図
 ることが、一層重要になった」。白書のこの指摘を満たす
 ため、自治体で第一線を狙う1万3200人の苦情処理担当
 者の奮闘を期待したい。

【設問】 
①筆者のメインメッセージは何か?
②そのメインメッセージを主張するために、筆者はどのような理由(キーラインメッセージ)をあげているだろうか?
③「直接理由づけている」とはどういうことか?

【公害白書――都市型、生活型の時代」『朝日新聞』社説のピラミッドストラクチャ】
<メインメッセージ>
〇自治体の苦情処理担当者は個々の事件の内容に応じた、きめ細かな利害の調整をするべき

<キーラインメッセージ>
〇紛争が拡大・長期化する理由は住民からの苦情処理が円滑に進んでいないことだ
 ⇑
・紛争の原因の特定と処理は、苦情処理担当者が行う
・裁判になる事例が増えている
(←豊島では紛争解決に7年もの長期間がかかった)

<キーラインメッセージ>
〇苦情を解決した比率と、苦情を申し立てた住民の満足度が、ここ数年、ともに横ばいだ
 ⇑
・環境に対する国民の意識は年々高まっている。都市型・生活型の公害紛争は今後も多発、多様化するだろう

<注意>
☆矢印の向きに注意。ピラミッドストラクチャでは必ず下から上への矢印になり、ロジックツリーとは逆向きになる
☆下位が上位を直接理由づける関係になっていることに注目すること


(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、172頁~184頁)

論理思考を自分のものにしよう


〇目次にもあるように、「エピローグ●論理思考を身につけるために」においては、「論理思考を自分のものにしよう」と題して、著者はまとめを述べている。
 そこでは、論理思考は、本でいくら読んでも決して身に付くものではないと、著者は断っている。
 著者自身も、本で読んで身に付いた部分はほとんどなく、むしろ原稿を書いて、批判を受けながら身に付けたという。自分で手を動かし、頭を絞らないと、身に付かないものらしい。
 具体的にどのようにすれば、論理思考が身に付くのか。
 この点について、著者は次の5点を挙げて、アドバイスしている。

①考える習慣をつける
②説得されない・反論する
③具体的に考える
④主張を否定し、人格を否定しない
⑤論理的であることはクリエイティブであること

もう少し詳しく見ておこう。
①考える習慣をつける
 重要なことは、いつも考えるという習慣をつけることだという。
 考える題材はいくらでもある。本書で扱った課題も、新聞の社説、日常的な会話、会社の企画書の中にありそうな文言など、どこかで目にしたようなものばかりである。
 「これは少しおかしい」「これはおもしろいが、なぜおもしろいのかわからない」という話題を見つけたら、そのままにせずに、考え続けることが大切だという。

②説得されない・反論する
 考え続けることに関係するが、「説得されない」という意地やタフな意志を持つことが重要であるという。
 あっさり納得せずに、なぜそうなのか、なぜ自分が考えたようにならないのか、もしなるとしたら、何が足りないのか、と考え続けること。
 本書で扱ったピラミッドストラクチャを使って、相手や自分のロジックを構造化してみる。そこから弱点を探し、自分の考えを再構築すると、違ったメッセージを伝えることができる。

③具体的に考える
 相手が言っていることがよくわからないと思えば、具体的に考えること。
 誰か具体的な人を思い浮かべる、日常の行動に置き換える、数字を当てはめて考えるとよい。
 具体的にイメージするだけで、一気にロジックが理解できることも多い。

④主張を否定し、人格を否定しない
 反論するときには、相手の主張のすべてを否定しないほうがいい。同時に、反論するときは主張に対して反論し、人格を否定しない。
 反論にしても賛同にしても、議論をすることによって理解が深まったり論点が明確になる、新しい知識が生まれるなど、何らかのプラスが生まれることが望ましい。人を否定してしまうことからは、プラスは生れないという。

⑤論理的であることはクリエイティブであること
 論理的な思考は、固定的な見解を生むことではないし、自分の思想を押しつけることでもない。自分がともに物事を進める相手と、議論したり説得したりする中から、自分が気づかなかった新しい価値を発見し、生み出すことが可能になる。また逆に、相手に反論する中から、相手が気づかなかった重要なポイントを発見させることもできる。
(古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、このことを、出産にたとえて、「産婆法」と呼んだ。優れた哲学者は、適切な会話によって相手が本当に考えていることを引き出すことできる、新しい価値は会話によって生まれる、と考えた)

 論理的であることは、決して冷徹なことでも、いつも同じ結論になることでもない。
 人間の脳という固い殻の中に入った新しい発見を引き出すための、殻割りのツールである、と著者は考えている。
(渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]、226頁~229頁)


≪【本の紹介】小林公夫『法曹への論理学』早稲田経営出版≫

2022-09-18 19:02:45 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【本の紹介】小林公夫『法曹への論理学』早稲田経営出版≫
(2022年9月18日投稿)

【はじめに】


 前回のブログでは、小林公夫氏の『論理思考の鍛え方』(講談社現代新書、2004年)をもとに、人間の能力因子、論理力について述べた。
 今回は、同じ小林公夫氏の次の著作を取り上げ、引き続き、論理力について考えてみたい。
〇小林公夫『法曹への論理学 適性試験で問われる論理力の基礎トレーニング<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]

 この書の「プロローグ」(5頁)においても、小林氏の前著『論理思考の鍛え方』(講談社現代新書、2004年)のことが言及されている。
 『論理思考の鍛え方』では、人間の能力因子について解明を試みたという。
 人間の能力因子で最も最重要なものは、推理能力因子、比較能力因子、更に抽象化能力因子であるとする。
 第一の推理能力は、個別に存在しているものの中に共通項(同一性)を識別して、物事の在りようのルール、法則性を発見していく能力、さらにその逆で、統一的な法則性を他のケースに当てはめ、未知のものを導き出す能力である。
 第二の比較能力は、まず二つのもののどちらが長いか、重いかといった単純な段階を経て、三者関係、四者関係と複雑な関係性の理解が要求されてくるものである。また、何と何を比較するのかを把握する能力も比較能力の一つである。
 第三の抽象化能力は、二つの側面を持っている。一つは、宗教や哲学、芸術といった人間の精神性との関係で語られる場合である。もう一つの側面は、事物を「量」「重さ」「長さ」といった特定の観点から捉え、そこに一元化して考える能力、さらに数や式などの記号と結びつけて考える能力と位置づけられる。
 
 このような人間の基本的な重要能力因子に加え、法曹の仕事には、法的思考力(リーガルマインド)が求められる。「法的解決」ないし「法的処理」という目的に向けて、目の前にある法的問題の中心的命題が何であるか、つまり法律的観点から見て解決されるべき問題の主眼がどこにあるかを認知して、処理にとりかかるかという能力、論理力のことであるようだ。

 それでは、「論理的判断力」「長文読解力」「表現力」が身につくよう、本書の収められた問題をみてみよう。

【小林公夫氏のプロフィール】
・1956年生まれ、東京出身。
・横浜市立大学卒業、2000年に一橋大学大学院法学研究科修士課程に社会人入学、2007年に同博士後期課程を修了。
・一橋大学博士(法学)。博士論文は「医療行為の正当化原理」




【小林公夫『法曹への論理学』(早稲田経営出版)はこちらから】
小林公夫『法曹への論理学』(早稲田経営出版)






〇小林公夫『法曹への論理学 適性試験で問われる論理力の基礎トレーニング<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]

【目次】
第3版の改訂に際して
プロローグ
第1章 論理学の基礎マスター編
 第1部・論理構造に関する基本的仕組みと考え方
    ・命題の問題に関する基本的仕組みと考え方
 第2部・「批判」トレーニング26題

第2章 基礎トレーニング編
 第1問 前提
 第2問 前提
 第3問 前提
 第4問 前提
 第5問 前提
 第6問 支持
 第7問 論理の飛躍
 第8問 論理的反論
 第9問 論理的反論 
 第10問 仮説形成
 第11問 仮説形成
 第12問 発言の相関関係
 第13問 批判
 第14問 批判
 第15問 利益衡量
 第16問 利益衡量
 第17問 利益衡量

第3章 応用力養成編
 第1問 命題
 第2問 命題
 第3問 命題
 第4問 命題
 第5問 命題
 第6問 命題・ド・モルガンの法則
 第7問 必要十分条件
 第8問 必要条件・十分条件
 第9問 必要条件・十分条件 
 第10問 逆≠真
 第11問 逆・裏・対偶
 第12問 命題
 第13問 ド・モルガンの法則
 第14問 循環論法
 第15問 前提
 第16問 支持
 第17問 論理の飛躍
 第18問 批判
 第19問 批判
 第20問 批判
 第21問 批判
 第22問 批判
 第23問 反論
 第24問 反論方法
 第25問 反論
 第26問 反論
 第27問 反論
 第28問 反論
 第29問 反論
 第30問 異論
 第31問 2者の発言の相関関係
 第32問 2者の発言の相関関係
 第33問 2者の発言の相関関係・支持
 第34問 2者の発言の相関関係・支持
 第35問 2者の発言の相関関係・批判
 第36問 主なる論点
 第37問 共通の認識
 第38問 推理
 第39問 推理
 第40問 推理
 第41問 論理構成
 第42問 論理構成
 第43問 推論方法
 第44問 対立する利益の調整①携帯電話使用の是非
 第45問 対立する利益の調整②監視カメラ設置とプライバシー
 第46問 対立する利益の調整③AID児に、出自を知る権利はあるか?

第4章 論理的長文問題トレーニング編
 第1問 権利の行使と権利の喪失
 第2問 体の大きさと進化
 第3問 裁判員制度の是非
 第4問 世界劇場論
 第5問 翻訳のあるべき姿
 第6問 情報化時代と「人格」の不存在
 第7問 「ウチ」と「ソト」
 第8問 労働の意義




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・命題の問題に関する基本的仕組みと考え方
・第3章 応用力養成編の命題問題
・命題とド・モルガンの法則~第3章より
・2者の発言の相関関係・支持~第3章より
・翻訳のあるべき姿~第4章 論理的長文問題トレーニング編より
・【補足】日本人の配慮






命題の問題に関する基本的仕組みと考え方


【命題の問題に関する基本的仕組みと考え方】
≪問題を解く際の基本的手法≫
①論理記号で表してみる。
②関係図を作ってみる(対偶、三段論法、ド・モルガンの法則などに注意)。
③各選択肢を検討する。
④ベン図を描いてみる。

≪基本的な注意事項≫
・命題:真偽(〇×)が判定できる文、またはその内容。
 以下特に断りがないときには、すべての命題を真(〇)とする。
・論理の問題を解く際には、自分の常識や価値観で勝手に真偽を判断してはいけない。

☆命題には様々な種類があるが、もっとも簡単なものからその表現方法などを考えてみよう。
①肯定形の表現方法
 <日本語>  AならばBである
 <論理記号> A→B
 <ベン図> (省略)
[例]
<日本語>  バラは植物である
 <論理記号> バラ→植物
 <ベン図> (省略)

②否定形の表現方法
 <日本語>  AはBではない
 <論理記号> A→B
 <ベン図> (省略)

※【お断り】
 論理記号を表す場合、本来、オーバーライン ̄で記すが、今回のブログでは、入力の都合上、
アンダーバー(B)でしるす。(以下、同様)

③A→Bのその他の表現方法
 AがBに含まれている

④「AならばBである」と「BならばAである」の成立
 A→BかつB→A ⇒双方向なケースの構造
 この場合、AとBはお互いに必要十分条件であるという(同値)

<重要マスター事項>
・A→B
 AはBが成立するための十分条件
 BはAが成立するための必要条件
[例]
 バラは植物である   バラであることは植物であるための十分条件
 (バラ→植物)    植物であることはバラであることの必要条件

⑥三段論法の構造
 <日本語>  AならばBである かつBならばCである AならばCである
 <論理記号> A→B かつB→C  A→B→C
 <ベン図> (省略)

⑦逆、裏、対偶の関係  
  P:A→B ――逆―― Q:B→A
   裏     対偶    裏
  R:A→B ――逆―― S:B→A

※対偶の関係同士にある命題は真偽が一致する。
 否定形が多い命題を考えるとき、対偶の命題を考えることにより肯定形として考えることが可能となる。

⑦’ド・モルガンの法則
 <ド・モルガンの法則ポイント1 P∨Qの意味は?>
 P∨Q=P∧Q
<ド・モルガンの法則ポイント2 P∧Qの意味は?>
 P∧Q=P∨Q

⑧∧「かつ」と∨「または」
 <日本語>  AかつB  AまたはB
 <論理記号> A∧B   A∨B
 <ベン図> (省略)

⑨A∨B→C、A→B∧Cの分解
 「また先にして、後でかつ」と覚えること

⑩A→B∧Cが正しいとき、なぜA→B∨Cも成立するか?
 <ベン図> (省略)

(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、7頁~17頁)

第3章 応用力養成編の命題問題


〇第2章では、論理力の基礎固めをした。第3章では、いよいよ実戦形式で“論理”の応用力を養成するという。
 本章では、次のような演習問題が載っている。
 ①命題の分野で頻出のA→B∨C、A→B∧Cの相互の関係
 ②ド・モルガンの法則の複雑な処理
 ③発言者が2者いる場合の相関関係

「第3章 応用力養成編」から、ベン図を使う「第2問 命題」と「第3問 命題」を紹介しておこう。

【第2問 命題】
次のAとBの相互の論理的関係として正しいものを、下の①~⑤のうちから選べ。
A 図画工作が不得意な人は、手先が器用ではない。
B 手先が器用で美的センスのある人は、図画工作が得意である。

①Aが正しいとき、必ずBも正しい。また、Bが正しいとき、必ずAも正しい。
②Aが正しいとき、必ずBも正しい。しかし、Bが正しいときに必ずAも正しいとは限らない。
③Bが正しいとき、必ずAも正しい。しかし、Aが正しいときに必ずBも正しいとは限らない。
④Aの正しさとBの正しさは、論理的に無関係である。
⑤Aの正しさとBの正しさは、論理的に成立しない。



【解答・解説】
<解説>
A 図画工作が不得意な人は、手先が器用ではない。
B 手先が器用で美的センスのある人は、図画工作が得意である。

A:図→器(対偶をとる) 器→図
B:器∧美→図
  器のはみだしというケースがありうる
※反証例が挙げられる図の作成がポイントとなる


A、Bのベン図から分かるように、
 A→Bは成立するが、
 B→Aは、上図のように器のはみ出しがあるCのようなケースでは必ずしも成立しない。
 よって、Aが正しいとき、必ずBも正しい。
 しかし、Bが正しいときに必ずAも正しいとは限らない。
<正解>②


(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、71頁~76頁)


【第3問 命題】
次のAとBの相互の論理関係として正しいものを、下の①~⑤のうちから選べ。
A 忍耐力があり、集中力もあるような生徒は、勉強熱心である。
B 勉強熱心でない生徒は、忍耐力がない。

①Aが正しいとき、必ずBも正しい。また、Bが正しいとき、必ずAも正しい。
②Aが正しいとき、必ずBも正しい。しかし、Bが正しいときに必ずAも正しいとは限らない。
③Bが正しいとき、必ずAも正しい。しかし、Aが正しいときに必ずBも正しいとは限らない。
④Aの正しさとBの正しさは、論理的に無関係である。
⑤Aの正しさとBの正しさは、論理的に成立しない。



【解答・解説】
<解説>
A 忍耐力があり、集中力もあるような生徒は、勉強熱心である。
B 勉強熱心でない生徒は、忍耐力がない。

A:忍∧集→勉   ※忍のはみだしというケースがありうる
B:勉→忍(対偶をとる)忍→勉

A、Bのベン図から分かるように、
 A→Bは成立しないケースがある。

 例えば、上図のように忍のはみ出しがあるCのようなケースでは、A→Bは不成立。
 逆に、B→Aは成立する。
 よって、Bが正しいとき、必ずAも正しい。
 しかし、Aが正しいときに必ずBも正しいとは限らない。
<正解>③
(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、77頁~78頁)


命題とド・モルガンの法則~第3章より


「第3章 応用力養成編」から、ベン図を使う「第6問 命題・ド・モルガンの法則」と「第13問 ド・モルガンの法則」を紹介しておこう。

〇第6問 命題・ド・モルガンの法則
 次の文章を読み、下の問いに答えよ。

ある大学で入学試験を行った日に雪が降った。その地方ではめったに雪が降ることはなかったので、交通機関に遅れが生じ、多くの遅刻者が出ることとなった。このことについて、次のA~Cの3つの主張が3人から出された。

A 遅刻した人は電車とバスを両方利用していた。
B 電車もバスも利用しなかった人は遅刻しなかった。
C 電車を利用しなかった人は遅刻しなかった。

問 A~Cの主張相互の論理的関係として正しいものを、次の①~⑥のうちから選べ。
① Aが正しいとき、必ずBも正しい。また、Bが正しいとき、必ずCも正しい。
② Aが正しいとき、必ずCも正しい。また、Cが正しいとき、必ずBも正しい。
③ Bが正しいとき、必ずAも正しい。また、Aが正しいとき、必ずCも正しい。
④ Bが正しいとき、必ずCも正しい。また、Cが正しいとき、必ずAも正しい。
⑤ Cが正しいとき、必ずAも正しい。また、Aが正しいとき、必ずBも正しい。
⑥ Cが正しいとき、必ずBも正しい。また、Bが正しいとき、必ずAも正しい。
(平成15年8月実施、法科大学院適性試験(大学入試センター)第5問)


【解答・解説】
<解説>
・基本事項の確認。ただし、Aの否定をAと表記する。
〇対偶
 A→Bが成り立つとき、B→Aも成り立つ
〇∧「かつ」と∨「または」~ド・モルガンの法則
 「A∧B」の否定は「A∨B」
 「A∨B」の否定は「A∧B」



・今、「遅刻した」をT、「電車を利用した」をD、「バスを利用した」をSとする。
 まず、対偶を利用して、主語を「遅刻した人は」に揃えてみる。

A 遅刻した人は電車とバスを両方利用していた。 T→D∧S
B 電車もバスも利用しなかった人は遅刻しなかった。 D∧S→T ⇒T→D∨S
C 電車を利用しなかった人は遅刻しなかった。 D→T ⇒T→D
 D∧S、D∨S、Dをベン図に表現すると、A→B、A→C、C→Bは正しい。
 よって、選択肢としてふさわしいものは、②であることが分かる。

(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、84頁~85頁)

〇第13問 ド・モルガンの法則
 ある人が家の購入に際して次のような条件を考えているとき、条件を満たす家をすべてあげている選択肢を下の①~⑧のうちから1つ選べ。

条件:「間取りに関しては『3LDK以下で、または居間が10畳以下』であり、かつ、立地に関しては『駅から徒歩3分以上かかり、かつスーパーが遠い家』以外の家。

ア 2LDKで居間は7畳、駅から徒歩3分より近くスーパーの近い家。
イ 5LDKで居間は8畳、駅から徒歩1分でスーパーの遠い家。
ウ 2LDKで居間は12畳、駅から徒歩20分でスーパーの近い家。
エ 7LDKで居間は14畳、駅から徒歩5分でスーパーの遠い家。

① ア、イ
② イ、ウ
③ ウ、エ
④ ア、エ
⑤ ア、イ、ウ
⑥ イ、ウ、エ
⑦ ア、イ、エ
⑧  ア、イ、ウ、エ



【解答・解説】
<解説>
・条件である文章が少し長いので、すべて記号化して考えてみる。
 ポイントは、ド・モルガンの法則の有効活用。

 「3LDK以下で、または居間が10畳以下」=A かつ「徒歩3分以上かつスーパーが遠い」=Bではない。
 A∧B=A∨B
 ここでA=(3LDK以下=Pで、または居間が10畳以下=Q)ではない
 P∨Q=P∧Q=3LDKより広く居間が10畳より広い。
 またB=(徒歩3分以上=Rかつスーパーが遠い=S)ではない。
 R∧S=R∨S=徒歩3分より近いか、またはスーパーが近い

 ∴A∨Bより結論として、
●「3LDKより広く、居間が10畳より広いか、または徒歩3分より近いかまたはスーパーが近い」ということになる。

よって、ア、イ、ウ、エすべて正しいことになる。正解は⑧
(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、44頁~45頁)

第34問 2者の発言の相関関係・支持~第3章より


「第3章 応用力養成編」から、英語学習に関する議論である「第34問 2者の発言の相関関係・支持」を紹介しておこう。

A「英語を学ぶには、まず何が大切か。私は会話であると思う。確かに、文法重視の読み・書きも大切ではあるが、コミュニケーションとしての言語という観点からみれば会話の重要度は明らかであろう」
B「確かに会話は大切であるが、文法の基礎があっての会話でなくてはならない。国際人の養成を目的とする英語教育であれば、ただ話せればよいだけではだめであり、基礎力に基づくある程度格調のある英語が話せなくては意味がない。したがって、文法・会話をあわせて教育していくべきであるし、どの時期から学ぶのかということについても議論すべきである」

【No.1】両者の発言の関係を最も適切に記述したものを次の①~⑤のうちから1つ選べ。
① Aの発言に対して、Bは内容を修正しつつ、新たな方針を打ち出している。
② Aの発言に対して、Bは内容を検討しつつ、疑問を呈している。
③ Aの発言に対して、Bは内容を否定しつつ、新たな方針を打ち出している。
④ Aの発言に対して、Bは内容を賛同しつつ、疑問を呈している。
⑤ Aの発言に対して、Bは内容を修正しつつ、疑問を呈している。


【No.2】 Bの発言に対する支持として、最も強いものを次の①~⑤のうちから1つ選べ。
① 英会話中心の教育であれば、英語として偏りができてしまう。
② 英語は世界共通語となりつつあり、総合的な教育が必要である。
③ ある調査によれば、会話中心の教育を受けた生徒は基本的な英単語のスペルを書けなかった。
④ 英語も大切であるが、まず日本語の教育を充実すべきである。
⑤ 社会人となり、日常英語を使わない人は英語を学ぶ必要はない。



【解答・解説】
<解説>
A「英語を学ぶには、まず何が大切か。私は会話であると思う。確かに、文法重視の読み・書きも大切ではあるが、コミュニケーションとしての言語という観点からみれば会話の重要度は明らかであろう」
B「確かに会話は大切であるが、文法の基礎があっての会話でなくてはならない。国際人の養成を目的とする英語教育であれば、ただ話せればよいだけではだめであり、基礎力に基づくある程度格調のある英語が話せなくては意味がない。したがって、文法・会話をあわせて教育していくべきであるし、どの時期から学ぶのかということについても議論すべきである」

Aの発言のポイント
・まず何が大切か。
・私は会話であると思う。
・確かに、文法重視の読み・書きも大切ではある
・会話の重要度は明らか

Bの発言のポイント
・確かに会話は大切であるが、
・文法の基礎があっての会話で
・ただ話せればよいだけではだめ
・文法・会話をあわせて教育していくべき
・どの時期から学ぶのか

【No.1】
Aの発言⇒文法重視の読み書きも大切だが、英語学習で大切なのは、まず会話である。
Bの発言⇒英語学習において会話が大切なのは分かるが、それは、文法の基礎が前提となる。
国際人養成目的の英語教育であれば、格調の高い英語を話すことに意味がある。文法・会話教育の併存や学習開始時期についても議論すべきである。

<選択肢の検討>
① Aの発言に対して、Bは内容を修正しつつ、新たな方針を打ち出している。
② Aの発言に対して、Bは内容を検討しつつ、疑問を呈している(×)。
③ Aの発言に対して、Bは内容を否定しつつ(×)、新たな方針を打ち出している。
④ Aの発言に対して、Bは内容を賛同しつつ、疑問を呈している(×)。
⑤ Aの発言に対して、Bは内容を修正しつつ、疑問を呈している(×)。

⇒BはAの発言内容を全面否定していないし、最終的に疑問を呈しているわけではない。
 BはAの発言内容を修正しつつ、新たな方針を打ち出しているの①が正解。

【No.2】
●Bの発言内容をもう一度論証構造で分析してみよう。
 英語学習において会話は大切⇒しかし、文法の基礎が前提⇒国際人養成目的の英語教育⇒格調高い英語を話すことに意味あり⇒文法・会話教育の併存や学習時期についても議論すべきである

<選択肢の検討>
① 英会話中心の教育であれば、英語として偏りができてしまう。
➡英語として偏りができてしまうだけでなく、格調高い英語の意味に触れるべき。

② 英語は世界共通語となりつつあり、総合的な教育が必要である。
➡前半はよいが、後半は格調高い英語の意味に触れるべき。

③ ある調査によれば、会話中心の教育を受けた生徒は基本的な英単語のスペルを書けなかった。
➡会話中心であると、文法力が欠如することの指摘がなされており、Bの支持となりうる。

④ 英語も大切であるが、まず日本語の教育を充実すべきである。
➡弱い批判になっている。

⑤ 社会人となり、日常英語を使わない人は英語を学ぶ必要はない。
➡論点がずれている。

以上より、正確は③であるとする。

(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、150頁~152頁)



第5問 翻訳のあるべき姿~第4章 論理的長文問題トレーニング編より


「第3版の改訂に際して」(3頁)にも記してあるように、第4章の「論理的長文問題トレーニング編」は、大学入試センター実施の長文と論理の融合問題にも対処できるように配慮した問題である。
 目次を見てもわかるが、次の問題が注目される。

≪第4章 論理的長文問題トレーニング編≫
 第3問 裁判員制度の是非
 第5問 翻訳のあるべき姿
 第6問 情報化時代と「人格」の不存在
 第7問 「ウチ」と「ソト」

上記のうち、「第5問 翻訳のあるべき姿」といった英語に関連した問題を紹介しておこう。

【第5問 翻訳のあるべき姿】

 原文と訳語の一対一対応や英文和訳式の構文など、「原文の表面に忠実な翻訳」
を特徴づける要素は、漢文以来の日本文化の伝統に深く根ざしている。そして、
「汝いかになしなすか」にみられるように、日本の英語教育に深く浸透している。
翻訳者はこれらの影響から逃れることはできない。
 とくに英語教育の影響は大きい。翻訳者のかなりの部分、そして翻訳学習者の大
部分は、「得意な英語を活かせる仕事」として翻訳に興味をもつようになったのだ
という。なぜ、英語が得意だと考えているかというと、たいていは学校で英語の成
績が良かったからだ。なぜ、英語の成績が良かったかというと、よほどすぐれた英
語教育に出会ったのでないかぎり、原語と訳語の一対一対応を素直に受け入れたか
らであり、英文和訳式の構文に疑問をもたなかったからだ。したがって、翻訳者の
かなりの部分、翻訳学習者の大部分にとって、英文和訳調こそが自然なのである。
意識して英文和訳調を拒否して「原文の意味を伝える翻訳」を目指さないかぎり、
英文和訳調の方向に流れていく。
 このような傾向を示すものに片仮名の言葉の多用がある。片仮名の言葉が多用さ
れる理由はさまざまであり、翻訳とは関係のない要因も数多い。だが翻訳にあたっ
ても、さまざまな「理由」をつけて、片仮名の訳語が使われることが多い。確定し
た訳語がないからという「理由」をよく聞く。既成の訳語では意味がずれるからと
いわれることも多い。英語の言葉を片仮名言葉で覚えておく方が国際コミュニケー
ションの場で便利だからという人もいる。こうして原語にカタカナの訳語を一対一
であてはめていく方法が頻繁に使われている。
 もちろん、片仮名の言葉に対しては抵抗感も強い。そして、片仮名言葉にもっと
も強い拒否反応を示すのは、翻訳者(少なくとも翻訳者の一部)だと思える状況も
ある。まともな翻訳者なら、訳語を考え、必要なら訳語を作るのが自分の役割だと
みている。片仮名の言葉に原語とズレがあることにも気づいている。そして片仮名
言葉の多用がむしろ、国際コミュニケーションの場で障害になることを知っている。
たとえば、情報内容を意味する「コンテンツ」という片仮名言葉がある。この言葉
がなぜもてはやされているのかはわからないが、この言葉を国際コミュニケーショ
ンの場で使っても情報発信に役立たないことはたしかだ。英語で情報内容を意味す
るときにcontentが使われることはあるが、contentsと複数形になることはまずな
いからだ(情報内容を意味するときのcontentはいわゆる不可算名詞である。ただ
しこの語は可算名詞として使われ、contentsと複数形になったときの用例でもっ
とも多いのはおそらく、書籍などの「目次」の意味で使われるものだろう)。また、
「グローバルスタンダード」という言葉は、「逆らっても仕方のない時代の流れ」と
いった意味で使われることが多いが、英語のglobal standardsにこのような意味が
あるようには思えない。片仮名の言葉には、それのもとになった英語の言葉との間
に微妙だが無視できない違いがあるのが普通であり、違いが微妙なだけにきわめて
厄介なのだ。
 それでも、片仮名語が翻訳で頻繁に使われるのは、片仮名にしておけば安全だと
いう感覚があるからだ。片仮名にしておけば楽でもある。原文の語のニュアンスを
考える必要もなく、訳語をあれこれ考える必要もなく、すぐに訳文が作れる。言い
換えれば、原文の意味を考えなくても、機械的に翻訳できる。これでは「原文の意
味を伝える翻訳」になるはずがない。
 このような感覚は片仮名の訳語に限ったことではない。学校英語で一対一対応で
教えられる訳語についてもおなじことがいえる。いちばん簡単な例をあげておくな
ら、heは「彼」と訳し、sheは「彼女」と訳す。そう訳しておけば安全だと感じて
いるのだろう。たしかに、英文和訳の試験ならこれが安全な方法だが、翻訳ではき
わめて危険な方法である。原文のheを「彼」と訳すとき、heと「彼」には微妙だ
が決定的な違いがあることを認識しているのだろうか。そういう認識もなく、こう
訳しておけば安全だと考えるのであれば、それは英文和訳であって、翻訳ではない。
 学校で英語の成績が良かったのであれば、英文和訳の回路が頭のなかにできあが
っているはずである。原語と訳語を一対一で対応させ、英文和訳に特有の文体で訳
す回路が作られているはずである。この回路を使えば、原文の意味を考える必要も
なく、機械的に訳文が書ける。英文和訳では、原文の意味を考えるのは時間の無駄
であり、そんなことに時間を使っていては、試験で良い点はとれない。
 たとえば、heは「彼」とは訳さず、片仮名の訳語は必要最小限のもの以外は使
わない。こう決めると、英文和訳の回路は使えなくなる。するととたんに、原文の
意味が気になるようになる。原文の意味を理解しなければ、訳文が書けない。だか
ら、必死になって読み、必死になって考える。英文和訳の回路から翻訳の回路に頭
が切り替わるのだ。
 このようにして英文和訳調を意識して拒否しないかぎり、翻訳のつもりがいつの
間にか英文和訳に堕していく。それでは「文脈が続かなく」なり、「文が日本語と
して体をなさなくなる」との自覚もなく、もちろん、大量の訳注をつける必要を感
じることもなく、訳文の形だけは金子流(※1)に近づいていく。
 翻訳者にとって英文和訳の回路は甘い罠である。だから、「原文の表面に忠実な
翻訳」は時代後れだと切り捨てるわけにはいかない。注意していなければ、裏口か
らそっと忍び込んでくる。
 森鷗外は原著者が日本語で書くとしたらこう書くだろうと思える訳文を書くと語
った。「原文の表面に忠実な翻訳」を成り立たせる条件がほとんどの場合になくな
っているいま、この方法を目指す以外に道はないように思える。だがその際には、
漢文以来の伝統と学校英語でたたき込まれた考え方によって、「原文の表面に忠実
な翻訳」の亜流に、英文和訳調に流される傾向があることをしっかりと認識してお
くべきだろう。
             (山岡洋一『翻訳とは何か―職業としての翻訳』)
(※1)金子流 ヘーゲル著「精神の現象学」(岩波書店・1971年刊行)を翻訳した金子武蔵氏がとった方法。本文は直訳に近く、それを多量の訳者注によって補う。



問1 本文中に「英文和訳式の構文に疑問をもたなかったからだ」とあるが、その理由を説明したものとして最も適当なものを次の中から選べ。
(A) 英文の構造には曖昧さがなく、文章を論理的にするためには英文の構造を変えない方がいいから。
(B) 英文の主語、述語、補語、目的語などを文法的に理解し、それに各々の日本語をあてがえば正確に訳せるから。
(C) 前後の文脈に関係なく一文ごとに独立した文章と考え、それを特定の構文にあてはまるのがてっとりばやい方法だから。
(D) 代名詞を見つけ、その代名詞を主語とした日本文を作成すれば、英語の文意に近づけるから。
(E) 単数・複数などの区別に厳密な英文を、理論的な文章を書くために不可欠だと考えたから。

問2 本文中に「違いが微妙なだけにきわめて厄介なのだ」とあるが、その理由を説明したものとして最も適当なものを次の中から選べ。
(A) 片仮名言葉は原語とほぼ同じ意味ではあるが、新たな日本語を増やすことになって学習者に苦労させることになるから。
(B) 片仮名言葉は原語の意味と完全には一致せず、ときには誤解を生じさせることになるから。
(C) 片仮名言葉は原文を正確に翻訳する1つの方法だが、日本語の構文の中に置くと別の意味が付け加わってしまうから。
(D) 片仮名言葉はすぐに外来語という日本語として定着し、将来にわたって独自の意味変化を遂げるから。
(E)  片仮名言葉は発音だけが先行して、日本語における厳密な意味を考える努力を捨てさせるから。

問3 本文中に「片仮名にしておけば安全だ」とあるが、その理由を説明したものとして最も適当なものを次の中から選べ。
(A) 英語についての知識を持っている人が多いから。
(B) 片仮名言葉でも日本語に訳したことにはかわりがないから。
(C) 片仮名言葉にしておけば、英語に知識のない人は文句をつけてこないから。
(D) 少なくとも誤訳ではない、と言い訳できるから。
(E) 変化の激しい日本語にすると、また別の訳語を見つける必要が出てくるから。

問4 本文中に「翻訳者にとって英文和訳の回路は甘い罠である」とあるが、このことを説明したものとして最も適当なものを次の中から選べ。
(A) いつのまにか英文和訳調に堕していても、それを批判する人はいない。
(B) 英文和訳調なら、単語の意味を考える苦労もなく簡単に訳文が書ける。
(C) 英文和訳調は楽なので、自覚していなければついつい使ってしまう。
(D) 学校英語で学んだ原文と訳語の一対一対応がいちばんいい方法だと信じている。
(E) 変な訳文でも国際コミュニケーションの場で有効だという利点がある。

問5 この文章の内容を説明したものとして、適当でないものを次の中から選べ。
(A) 一語一訳に従うことは、翻訳としては、安全でもなく、正しくもない。
(B) 学校で英語の成績が良かった者が、翻訳者に向いているとは限らない。
(C) 原文の意味を通すためには、かならずしも一語一訳の対応にこだわって訳さなくてもよい。
(D) 原文に逐語的な翻訳は、実際の日本語としてはかならずしも正しくない。
(E) 翻訳においては、意味が通るならば、どのように訳してもかまわない。



【解答・解説】
≪解説≫
<論点整理>
①日本の翻訳者、翻訳学習者の大部分は、原文と訳語の一対一対応や英文和訳式の構文を自然なものとして考えている。
②これには漢文訓読や日本の英語教育の影響がある。
③翻訳のあるべき姿は、「原文の表面に忠実な翻訳」ではなく、「原文の意味を伝える翻訳」である。
④そのためには英文和訳の頭の回路を翻訳の回路に切り替えなくてはならない。
⑤森鴎外の「原著者が日本語で書くとしたらこう書くだろうと思える訳文を書く」という方法を目指す以外に道はない。

問1 正解(C)
  英文和訳式の構文に疑問をもたなかった。
  =(同様)原語と訳語の一対一対応を素直に受け入れた
  ということなので、最も適切なのは、(C)

(A) ⇒「英文の構造には曖昧さがない」という内容は本文中にはなく、「文章を論理的にする」必要性も訴えていないため誤り。
(B) ⇒本文は正確に訳すことの難しさを述べているため、「正確に訳せるから」が誤り。
(C) ⇒正解
(D) ⇒代名詞を主語とした日本文の話題は述べられていないため誤り。
(E) ⇒単数・複数に関しては言及されていないため誤り。

問2 正解(B)
 本文中で片仮名言葉について述べられている部分を見てみる。
 ・原語とズレがある。
 ・国際コミュニケーションの場で障害になる。
 ・情報発信に役立たない。
 これらの特徴から考えると、正解は(B)

問3 正解(D)
(A) 本文中に「片仮名の言葉に原語とズレがある」とあり、片仮名言葉の使用理由に英語の知識の有無は無関係であるとわかるため、誤り。
(B) 「片仮名言葉にしておけば安全だ」という問の答えにはなっていないため、誤り。
(C) 本文中に「片仮名の言葉に原語とズレがある」とあり、むしろ英語に知識のある人の方が片仮名言葉に違和感を覚えると考えられるため、誤り。
(D) 片仮名言葉を使う利点は、「原文の意味を考えなくても、機械的に翻訳できる」点にあることが本文中から読み取れる。それは、一語一対応の言葉を使用する利点と同じである。よって正解。
(E) 本文中に日本語の変化の厳しさは言及されていないため誤り。

問4 正解(C)
 本文の流れを見てみる。
 ・英文和訳調を意識して拒否しないかぎり、翻訳のつもりがいつの間にか英文和訳に堕していく
⇒・翻訳者にとって英文和訳の回路は甘い罠である
※「いつの間にか英文和訳に堕していく」こと、それが「甘い罠」であるのだから、選択肢と照らし合わせると、英文和訳調は楽なので、自覚していなければついつい使ってしまう、が最もその意味を的確に捉えている。したがって正解は(C)

問5 正解(E)
 本文中最終段落に、次のようにある。
 「原文の表面に忠実な翻訳」を成り立たせる条件がほとんどの場合になくなっているいま、この方法を目指す以外に道はないように思える
 また、本文中の別の箇所に、次のような表現がある。
 ・それは英文和訳であって、翻訳ではない
 ・英文和訳の回路から翻訳の回路に頭が切り替わる
 ・翻訳のつもりがいつの間にか英文和訳に堕していく
⇒「翻訳と英文和訳は別ものである」という流れがわかる。
 したがって、筆者の中心的主張は翻訳の難しさにあることが明らかとなる。
 よって、適切ではない選択肢は、(E)
(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、219頁~226頁)

【補足】日本人の配慮


現在の日本人は他人に対して配慮することに高い価値を置くという理想を持っているが、その理想と現実にはギャップがあるという。
 イギリスの文芸評論家 William Hazlitの『Table talk』から、次のような言葉を引用している。
 Man is the only animal that laughs and weeps, for he is the only animal
that is struck with the difference between what things are, and
what they ought to be.
「人間は唯一、笑いと涙を所有する動物である。それは人間が物事のありのままの姿と、そのあるべき姿との違いを受け止める唯一の動物であるからだ」
(小林公夫『法曹への論理学<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]、44頁~45頁)


≪【本の紹介】小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書≫

2022-09-11 19:36:30 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【本の紹介】小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書≫
(2022年9月11日投稿)

【はじめに】


前々回および前回のブログにおいて、大学受験の国語力、論理力について、石原千秋氏の著作をもとに考えてみた。
その際に、次のような著作を参考文献としてあげた。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
〇小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年
〇小林公夫『法曹への論理学 適性試験で問われる論理力の基礎トレーニング<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]
〇渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]
〇高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年

 今回のブログでは、上記の著作の中から、小林公夫氏の次の著作を参照しながら、大学受験に限らず、小学校入試問題から就職試験までを視野にいれて、論理力について考えてみたい。
〇小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年

後に掲げた目次をみてもわかるように、
第1章 幼児期に芽生える能力因子
第2章 論理的思考能力の発達を
第3章 社会人に求められる職業能力
第4章 法曹人に求められる能力因子
第5章 医師に求められる能力因子
それぞれ各章で分析されている。内容を紹介しつつ、各職業に求められる能力因子について考えてみたい。



【小林公夫氏のプロフィール】
・1956年生まれ、東京出身。
・横浜市立大学卒業、2000年に一橋大学大学院法学研究科修士課程に社会人入学、2007年に同博士後期課程を修了。
・一橋大学博士(法学)。博士論文は「医療行為の正当化原理」



【小林公夫『論理思考の鍛え方』(講談社現代新書)はこちらから】
小林公夫『論理思考の鍛え方』(講談社現代新書)






〇小林公夫『論理思考の鍛え方』(講談社現代新書、2004年)

【目次】
能力の系統樹
第1章 有名小学校入試問題から幼児期に芽生える能力因子を考える
<コラム>能力の個性とは
<コラム>巧緻性――ペーパーでは測れない総合能力
第2章 難関中学・東大入試問題から論理的思考能力の発達を考える
<コラム>推理能力は、能力因子の王様?
第3章 企業採用テストと国家公務員Ⅰ種試験問題から社会人に求められる職業能力を考える
第4章 ロースクール適性試験問題から法曹人に求められる能力因子を考える
第5章 医学部入試問題から医師に求められる能力因子を考える
<コラム>神の手を持つ医師
Ergebnis(帰結)
参考文献
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・能力の構成因子とその発達段階
・七つの能力因子
・企業採用テストの一例
・国家公務員Ⅰ種試験
・リーガルマインドに内在する能力因子~第4章より
・法曹人に特有な新たな能力因子~論証能力
・反論としての批判と異論
・実質的な利益衡量とは
・医師に求められる能力~第5章より
・医学部入試英語で問われるもの~推理力
・『Dr.コトー診療所』にみられる利益衡量の問題






能力の構成因子とその発達段階


能力とは何か、人はどのような種類の能力を持っているのか。
現在の心理学では、知能=能力を考える場合、因子構造を解明することでその本質を明らかにすることに重点が置かれているようだ。
小林公夫氏は、現在日本で実施されている様々な試験(小学校入試から最難関といわれる資格試験まで)で問われている能力には、共通の枠組みがあるのではないかという仮説を立てている。それを実証するには、能力というものは因子から構成されているという考え方、とりわけある課題をクリアするにはそれに対応する能力因子が必要だという考え方が、第一に有力な手掛かりになるという。

心理学では、能力の枠組みとして、能力因子の類型化という試みがなされている。
人間の種々の能力がどのように発生し、どのような段階を踏んで発達していくのかに言及する理論、すなわち、能力の時期と発達の側面に関する理論である。
その学説の提唱者は、スイスの実験心理学者ジャン・ピアジェという人である。彼は、子供の思考や認識の発達段階を臨床法という画期的な方法で精細に研究した。
ピアジェは、11歳ぐらいまでの子供の認知発達段階を、次のように四つの時期に分類し、各時期における子供の認知、思考の特徴を解明した。



【ピアジェの学説による認知発達段階】
1.感覚運動的知能期(0~2歳)
2.前操作的思考期(2~7歳)
 ・前概念的思考段階(2~4歳)
 ・直感的思考段階(4~7歳)
3.具体的操作期(7~11歳)⇒ある程度の論理的思考
4.形式的操作期(11歳以降)⇒仮説演繹的思考

・表2の2の後半の「直感的思考段階」にある子供と、3の「具体的操作期」に足を踏み入れた子供では能力に格段の差があること
・また、同様に3の「具体的操作期」と4の「形式的操作期」でも子供の思考方法に大きな変化があるということ


このピアジェの学説をもとに、小林氏は、実際の小学校入試問題をみてみる。たとえば、
 象のかばんはラクダのかばんより軽い。クマのかばんはラクダのかばんより重い。それでは一番軽いかばんはだれのかばんですか。(慶應義塾幼稚舎)

これは三者関係といわれる比較の問題である。
比較の対象になっているのは、「かばんの重さ」なのであるが、ピアジェ論で行くと、具体的操作期にある幼児にとっては、象、ラクダ、クマという動物の印象が強く、象は大きい、重いというイメージから、象のかばんが一番軽いとはどうしても思えないのだという。
それは、あくまで見て知っている具体物、つまり3種の動物のイメージから物事を判断してしまうからである。言い換えれば、純粋に論理的な関係だけを頼りに推論はできないのである。純粋な推論が可能となるのは、「形式的操作期」以降である。

慶應義塾幼稚舎の問題などは、実は現実の具体物ではなく、純粋に論理的関係だけを頼りに推論が可能となる「形式的操作期」(11歳以降)のレベルを問うており、5年ほどの前倒しということになるようだ。
小学校入試では、能力因子は萌芽の状態で、出題も具体的な事物と結びついているような題材が中心であるという。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、12頁~21頁、111頁~112頁)

七つの能力因子


・小林氏は、「国・私立有名小学校入試問題出題傾向」という資料を基調に、中学入試、東大入試、更に企業採用試験や国家公務員Ⅰ種試験、ロースクール適性試験、医学部入試といった試験問題との照合から、重要と想定する能力因子を、次のようなカテゴリーに絞り、類型化している。

★推理能力
★比較能力
★集合能力
★抽象能力
★整理・要約能力
★直感的着眼能力
★因子順列能力

これらの能力因子は、「能力の系統樹」モデルでいえば、根に当たる部分である。
それぞれ個別に、あるいは複合しながら成長し、幹を経て枝や葉を派生させていくと考えている。

【能力因子の定義】
〇七つの能力因子の定義について、小林氏は次のように規定している。
 まず、七つの能力因子の前提、基盤になると考えられる能力があるという。
 それは、「同一性を発見する能力」と、「柔軟な発想能力」である。
 柔軟な発想は、多面的、相対的にものを見る能力ともいえる。
 同一性と相対化の能力が基盤にあって、それぞれの能力因子が分化してくるとみる。
 「能力の系統樹」でいえば根元に当たる能力である。

★推理能力
・個別に存在しているものの中に共通項(同一性)を識別して、物事の在りようのルール、法則性を発見していく能力、さらにその逆で、統一的な法則性を他のケースに当てはめ未知のものを導き出す能力。
・これは論理学でいう帰納、演繹的思考の基本になる能力である。
・なぜ推理能力が重要な因子なのかといえば、子供にとって一見無秩序、バラバラに見える外部世界を秩序立て、論理的に把握、認識する基礎能力だからである。

★比較能力
・比較という言葉には、本来、価値判断をする意味が含まれているが、萌芽的な比較能力を説明するため、AとB、あるいはA、B、Cの関連性を理解する能力という意味で、第一に比較能力といっている。
・比較能力はまず二つのもののどちらが長いか重いかといった単純な段階を経て、三者関係、四者関係と複雑な関係性の理解に進む。
・また、何と何を比較するのかを把握する能力も比較能力の一つとして出てくる。
(これは、問題で真に比較するものとして、何が問われているのか、を理解する力といえる)

★集合能力
・第1章では、形や物質の同一性を認識して分類する能力として定義している。
・集合能力の発展形ではベン図(第3章で検討)などを活用する視覚的・数学的認識が主になる。
(第1章では、言葉で考える国語的思考による集合能力に焦点を絞って分析している)
・あるものを分類するには共通する要素=同一性の認識が前提になるが、視点を変えることによって様々な共通要素が発見できることを知ることが大切である。
(これは物事を相対化してみるという重要な認識の方法である)

★抽象能力
・抽象とは、個々の具体的な事象を包括的に統合する概念である。
・抽象能力は宗教や哲学、芸術といった人間の精神性との関係で語られることが多いが、本書では、試験で問われる能力因子の分析という立場から、事物を「量」「重さ」「長さ」といった特定の側面によって捉え、そこに一元化して考える能力、さらに数や式などの記号と結びつけて考える能力と位置づけている。
(この意味での抽象能力は、ピアジェの学説からも分かるように、比較的遅い段階で発現する能力である)

★整理・要約能力
・物事の枝葉を取り払い、本質に沿った筋道をまとめる能力と定義している。
・そのためには何が大事なのか、どこにポイントがあるのかに注目する力が大切になる。
(小学校受験では、主として言葉を整理して理解する能力を指す)

★直感的着眼能力
・問題のポイントを抽出する能力である。
・直感的とはいっても、その前提には研ぎ澄まされた観察力がなければならない。
・観察に加えて柔軟な発想、つまり物事を相対的、多面的に見る能力の複合作用と考えている。

★因子順列能力
・問題解決のために個々の能力因子をどのような優先順位で働かせていけばよいかを判断する能力である。
・それぞれの能力因子は独立して存在しているわけではない。また、問題解決にはいくつかの因子が複合的に作用し合っている。
 ⇒この複合作用を効率的に行うのが因子順列能力である。

※七つの能力因子は人の論理的思考能力を構成するものである。
 人は社会的動物といわれるように、まったく孤立しては存在できない。必ず他者との関わりが生じる。この他者、集団や組織との関係を円滑に行うのがコミュニケーション能力である。
 論理的思考能力とコミュニケーション能力をバランスよく併せ持つことが社会人として、さらに集団のリーダーとしての資質といえる。
(その意味から、本書では「総合能力」というものを位置づけている)

(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、7頁、22頁~24頁、57頁~61頁)

企業採用テストの一例


企業の最大の財産は人材であるといわれる。優れた能力を持った人材の確保が企業成長の鍵になる。本来的な意味での論理的思考能力に優れている人こそ、企業が求めている人材である。そうした人材を判別するため、多くの企業が実施しているのが採用テストである。

採用テストといえば、SPI(Synthetic Personality Inventory―総合能力適性検査の意)がその代表格であり、主流であるそうだ。
(SPIの全パターンの解法を分析し、速く解くコツを解説した対策本を日本で初めて書いたのは、小林公夫氏だという)
SPIの問題をパターン化し分析した結果、この検査が測定しようとしている能力因子を小林氏は、次のように類型化している。
①数的処理能力~ベクトルと力の均衡、図表の読み取り、確率、順列・組み合わせといった数学的思考能力
②抽象化能力~具体的次元の課題を数式やグラフなど抽象的次元に置き換えて処理する能力
③言語理解能力~対比語や類似語、長文読解の能力
④判断・推理能力
⑤記憶能力

※SPIが測定しようとしている能力因子をこのように類型化してみると、小林氏のいう七つの能力因子との関係が明らかになってくる。
すなわち、「能力の系統樹」のイメージでいえば、数的処理能力という枝は主に比較、集合などの諸能力因子の数学的側面での発展形といえる。抽象化能力は文字通り抽象能力と結びついている。言語理解能力では対比語や類似語については集合(全体と部分)、長文読解では整理・要約能力が基礎となっている。
SPIの典型的な問題とその解法を検討しながら、入社試験で求められている職業能力とは何かを分析している。

〇SPI能力検査・非言語検査(数理能力の検査)
【問題】
800人の生徒にアンケート」を行い、次のような結果を得た。
「アンネの日記」 「罪と罰」
読んだことがある 415 279
読んだことがない 385 521
「アンネの日記」、「罪と罰」の両方を読んだ人が153人いた。両方とも読んでいない人は何人か。
 A231人 B259人 C282人 D305人 E327人 F341人 Gその他

※これはまさに、集合、全体と部分の問題である。
こうした関係を理解するには、ベン図を用いるのが便利である。
「読んだことがある」、「読んだことがない」、「両方読んだことがある」というそれぞれの集合の関係が直感的に理解できるだろう。
ベン図を使うと、800人という全体に対して「アンネの日記」だけを読んだ人が262人、「罪と罰」だけを読んだ人が126人、両方読んだ人が153人、両方とも読んでいない人が259人という部分の関係が一目瞭然に理解できる。答えはBとなる。

※ここで問われているのは、与えられたデータを整理・分析し、そのデータが語っているものの意味を読み解く能力である。
データはあくまで素材であり、その内容をどう汲み取るかで、初めて実際の企業活動に役立てられる。マーケティングや商品開発などでは、特にこうした能力が必要とされる。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、116頁~122頁)

国家公務員Ⅰ種試験


〇国家公務員Ⅰ種試験
・数ある公務員試験の中でも、キャリア官僚となる国家公務員Ⅰ種試験は難易度の高い試験として知られている。
 では具体的にキャリア官僚に求められる能力とはどんなもので、一般の企業が求めている職業能力とはどのような点で違いがあるのだろうか。

・企業の最終的な目的は利潤の追求にある。一方、公務員ことキャリア官僚は国(=国民)の安定と円滑な運営が使命といえる。
 そのためには高度な事務処理能力が必要なことはいうまでもないが、それ以上に大切なことは常に公正な立場で行政にあたることである。
 行政が一部の人々の利益に偏っていてはいけないわけで、その公正さを支えるのが、利益衡量能力(比較能力)である。

・利益衡量とは、比較能力(基本形)の発展形のことであるという。
 いわば、単純とも言える比較能力因子が現実の社会に生かされるとき、利益衡量という発展した能力因子に変貌・脱皮するとでも考えられる。
 次のような例を、小林氏は挙げている。
 ある政策を実施するために一つの法律をつくる場合、その法律が現行の法体系に矛盾しないか、整合性はとれているか、ある分野と他の分野のバランスは悪くないかといった細かい調整が必要となる。これらの作業の基本はすべてを公正に比較し、利益を衡量する能力にあるのである。
 次に、実際の典型的な国Ⅰの試験問題からキャリア官僚に求められる能力を検討している。


<人材を配分する能力>
問題
ある課の課長は、5人の部下A~Eと5つの異なる仕事を持っているが、これらの仕事は、その仕事を行う部下との組合せで必要とする時間が異なってくる。今、5つの仕事をj1~j5としたとき、A~Eが各仕事に必要とする時間数は表のとおりである。
j1 j2 j3 j4 j5
A 5 5 8 6 7
B 4 5 9 7 11
C 4 4 6 4 11
D 4 3 11 8 11
E 2 3 4 6 9

 部下1人に1つの仕事を割り当て、全体で要する時間を最小にするとき、時間の合計はいくらか。
1 20 2 21 3 22 4 23 5 24
(国家Ⅰ種教養試験 1997)


この問題では、仕事の難易度の高い順に優先して、適材を適所に分配する能力が求められている。すなわち、仕事の内容によって、その仕事に要する時間が異なる5人の部下がいるのであるから、誰にどの仕事を担当させれば、最小の時間ですべての仕事を完了させられるかという利益衡量能力が測られている。

問題を解くにあたり、まず、時間のかかる仕事j5、j3に着目しなければならない。
そして、中でもj5の仕事は難度が高いので、この仕事を一番速く処理しうる者に担当させればよいことが推理できる。すなわち、j5をAに割り降らねばならない。
次に難易度の高いj3はE、j4はC、j2はDとEが3時間で同時間だが、Eはすでにj3で割り振られているから、必然的にj2がDに落とし込まれ、残りのj1はただひとり残るBという具合に収まることになる。
すると、全体の仕事に要する時間は、j5+j3+j4+j2+j1=7+4+4+3+4=22時間となる。
(ここで解答の選択肢を見ると、22時間よりも短い、選択肢1の20時間と2の21時間がある。そこで、これらの解答はありえないことを確認する。(確認省略))
22時間が、人的配置を考慮した最短の組み合わせとなり、選択肢3が正解である。

※人材を的確に割り振ることは、仕事を効率よく行うためには必須の能力である。
 この問題は、一定の仕事量を最小のコストで行う、すなわち限られた労働力を最大限に活かす采配ができる能力を試す、典型的な問題といえる。限られた条件内で最大の結果を求める能力は、「利益衡量能力」ということができるとする。利益衡量能力は、いくつかの基本的な能力因子が組み合わせられたものだと、小林氏は考えている。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、143頁~149頁)

元キャリア官僚A氏の履歴


小林氏は、本書を執筆するにあたり、元キャリア官僚A氏に話を伺ったという。
A氏は東京の公立小学校から開成中学・高校、更に東大の文科一類、法学部に進み、ある中央官庁にキャリアとして入省した。現在はその省庁を退職し民間企業に勤めているが、経歴からすれば典型的なエリートコースを歩いてきたそうだ。

A氏による能力の自己分析によれば、「パターンマッチングが得意だった」という。
 父親や母親から、この問題は、このように解くのだと一度その規則を教えられると、その基本パターンを認識して、他の類題をほぼ間違いなく応用して解くことができたという。
 すなわち、出題された問題がどんなパターンのものかを素早く見抜いて、このパターンはこの規則で対応可能である、と当てはめていく能力にたけていたそうだ。
※この点、A氏はある一つの問題を見て、これは過去に学んだパターンA、これはパターンBと即座に判断、分類しうるという形で、同一性と異質性を認識する能力などをベースにした特有な職業能力があったと、小林氏はいう。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、157頁~160頁)

職業能力の根幹


・SPI、CABなどの企業採用試験、さらに国家公務員Ⅰ種試験を総合すると、社会人としての職業能力には、総じて、第1章で挙げた七つの基本的能力因子の中でも、特に直感的着眼能力、比較能力(利益衡量能力)、因子順列能力が重要因子になっているという。
 そこで問われている能力因子のレベルは、条件・分析の複雑さ、また、利益衡量の緻密さ、更に高度な直感的着眼能力が要求される点で、国Ⅰが群を抜いているとする。
 しかし、職業能力として根底で問われているものは、同一の事柄である。

・学校で学ぶ事柄には常に正しい答えが用意されている。その答えに至る筋道を論理的にたどっていければそれで済まされた。
 しかし、実社会を相手にする職業の現場では、絶対的な正しい答えがあるとは限らない。
(ギルフォードの思考法で言えば、拡散的思考が重視されている)

・答えが一つでないなら、逆に目的に達する筋道は幾通りもあることになり、その中から最も効率的な方法を選び取るのが、“職業能力の根幹”として要求される。
 そして、その武器となるのが、推理、比較、抽象能力などをベースにした特有な職業能力といえる。

(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、160頁~161頁)

リーガルマインドに内在する能力因子~第4章より


・現行の資格の中でも最難関といわれる法曹の職に就くには、どのような能力が測られているのだろうか。
 また、ロースクール適性試験(ロースクール入学のための一種の能力検査)をクリアーし、法曹人(弁護士、検察官、裁判官)への道を歩み始める人々の論理能力とはどのようなものなのか。
 これらの点について、試験問題を手がかりに、第4章で小林氏は解説している。

・その前に、法曹人の論理のあり方を示す独特の法的思考力(リーガルマインド)について説明している。
 その具体的内容は、法学者・加藤一郎氏の説を引用している。
1. 複雑な問題をなるべく客観的・論理的に分析し、法律問題になるものとなり得ないものに類型化する。
2. 根拠に基づいてものを考えること。
  法律の条文や判例など、根拠となりうるものに基づき、論理的に結論を出す。逆に言えば、みだりに根拠のないことを信じない。また、みだりに根拠のないことを言わない。
3. 人権を尊重し、何人に対しても平等な取り扱いに心がける。
 男女の差別をなくし、外国人の人権を十分に尊重する。
4. 本人の一方的な主張のみを信ぜず、相手方の主張にも耳を貸す。
  すなわち、双方の言い分を聞き、適正な手続きをする。
5. 最終的な判断を下す場合、まず法的安定性を重んじ、そこに何らかの不都合がある場合は、具体的妥当性を重視し、訴訟で衝突しているX、Yの実質的な利益関係を利益衡量し、良識に合った結論を出す。

※中でも、最終的な判断を下す場合の「実質的な利益衡量」こそ、高度な比較能力が求められる場面であり、法曹の能力因子の核になるものであると、小林氏はみなしている。
(法的思考力というのはたいへん難しいことであるが、法曹人以外の一般の人々が物事を判断する際にも役立つ示唆を含んでいるそうだ)
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、164頁~165頁)

法曹人にとり“比較能力”が重要な位置づけにあることは、最高裁判所の法廷に存在する女神像によっても、直感的にわかるようだ。裁判官を象徴する正義の女神は天秤を携えている。これは、まさに原告と被告のどちらに正義があるのかを比較している姿である。
 この利益衡量の能力は裁判官だけに求められるものではない。依頼者から紛争解決を要請された弁護人は、当事者から事情を聞き、法的な問題を発見していく。さらに調査、分析、推理等を集積して、それぞれの見解を比較衡量する。そして、もっとも有効な対処法を選択していく。

それでは、法曹的な利益衡量とはどのようなものをさすのか。問題を例として挙げている。
例えば、日弁連法務研究財団の「論理的判断を試す問題」では、以下のような出題があったようだ。

【問題】
1~5のうち、つぎの文章における結論を導くために必要不可欠な前提を1つ選びなさい。
 昨年、ある国では、一昨年と比べ刑法犯で摘発された少年は8000人増加したことがわかった。殺人等の凶悪犯罪の増加もみられるが、万引きの増加が特に目立ち、大人も含めた万引き犯罪のうち7割が少年によるものであった。したがって、今年、少年による万引きをほとんどなくすことができると、刑法犯で摘発される少年数を昨年より減少させることができる。

1. 少年による犯罪を防止するために警察が取締りを強化する。
2. 少年に対する万引き犯罪の刑を重くすることで万引き犯罪を防止する。
3. 万引き以外で摘発された少年の昨年からの増加数が、昨年万引きで摘発された少年よりも少ない。
4. 摘発された少年数の増加分である8000人のうち、半分は万引きによって摘発されたものである。
5. 昨年の万引きで摘発された少年数が8000人よりも多い。
(日弁連法務研究財団適性試験、2003)


・本問は、法曹先進国アメリカのLSAT(法曹能力適性試験)をかなり意識した良問であるそうだ。
 ここで問われているメインの能力因子は比較能力である。
 しかし、何と何の比較をするのかということを把握するまでが、煩雑になっている。つまり、比較能力を駆使する以前に、直感的着眼能力、整理・要約能力が、あわせて問われているようだ。
 複雑な問題文を読解し、出題者が中心に問うているものは一体何であるのかにまず正確に着眼でき、題意にそって問題文を分析し、解答に必要な情報を取捨選択し、その情報を組み立てて解答に到達できねばならない。
・本問の場合、出題者が問うているのは、今年の少年犯罪中、万引きによるものをほぼゼロにできた場合、今年の少年犯罪数が昨年の少年犯罪数よりも少なくなるにはどのような“前提”が必要か、というものである。比較するものは、「刑法犯で摘発された少年の去年と今年の人数である、と小林氏は解説している。
 犯罪の人数に関しては、1年ごとの変化(増加、減少など)に着目した分析と、内容(万引きか凶悪犯罪かなど)で分類した分析とが、問題文中でなされている。
解き方としては、2パターンあるようだ。
①問題の内容を式という形で整理して考察する解き方
 昨年刑法犯で摘発された少年の数をS、そのうち万引きをSm、万引き以外の犯罪をSnとし、S=Sm+Sn
 今年刑法犯で摘発された少年の数をK、そのうち万引きをKm、万引き以外の犯罪をKnとし、K=Km+Kn
また、犯罪摘発人数の増減をαで表す。(過程省略)
そして、Kαn<Smを導き出し、「万引き以外で摘発された少年の昨年からの増加数」が「昨年万引きで摘発された少年数」よりも少なければよい、という答え(3)を選択する解き方。

②迅速に正解を得る目的なら、本問が“問うている”ことに着眼する解法
 本問は、「今年の万引き少年数を0とした場合、今年の少年犯罪数が昨年の少年犯罪数よりも少なくなる“前提”」を問うていると考える。
 その観点からすると、まず選択肢1、2の「取締り強化」「刑の軽重」については、問題文では触れられていない。抽象的な刑事政策が題意の前提として確かであるとは言えず、不適であることがわかる。
 また、選択肢4、5は、8000人についてであるが、この数字は「一昨年と昨年を比べた」増加数である。「昨年と今年」の少年犯罪数を問題としている本問の趣旨とは無関係である。したがって、消去法で選択肢3を選ぶことが可能であると、小林氏は解説している。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、165頁~175頁)

法曹人に特有な新たな能力因子~論証能力


・法曹人の職務の目的は、ある物事の法的解決ないしは法的処理にある。ある問題に対して、法的に見て解決されるべき点があるかどうかを吟味し、あるとすればその中心的命題は何かを認知し、その後に処理にとりかかるということであるという。
・例えば、交通事故事案の処理であれば、法曹人としてはまず、両者の車がどう動いたのか、定番とも言える“速度、距離、方向”の平面上の3要素から外形的事実(客観的データ)を再構成し、何らかの理由で衝突に至ったまさにその原因を探らねばならない。
 さらに、現実に2台の車が衝突している以上、当事者双方に何らかの法的過失が存在するとの推測のもと、双方の供述から先の3要素を分析し、どちらにより多くの過失があったかを論証しなければならない。このように、法曹人に求められている「論証能力」は、法的な分析を前提としたものである。
 法的観点から見て解決されるべき問題の所在が判明したとき、法曹人は法的解決、ないし法的処理という目的に向かう。その際、与えられた具体的事実に緻密な分析を加え、論理的な「論証」によって結論を導き出す作業をする。これがまさに法的思考能力と呼ばれるものであるという。

・法曹人に求められる論証能力因子とはどのようなものか。
 論証とは、ある根拠からある結論を導き出す過程(プロセス)のことを指す。最も簡単な原始的な論証構造は、次のようなものである。
 根拠 ➡(導出部分)➡ 結論
※これは、ある根拠から直線的に結論が導き出されるような場合である。
 主張A→主張Bの論証構造にあるべき前提が欠落していたり、帰納(個々の特殊な事実から一般的な法則を導き出すこと)を確実にする個別事例、サンプルが不十分だと、その事柄は一般化して述べるには不適切、発言や主張自体が不完全で弱い印象となってしまう。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、175頁~183頁)

反論としての批判と異論


・論証構造の根拠や、根拠と結論への導出プロセスに不備がある場合、その不適切さに対して否定的な見解または事例が示されることがある。これが反論である。
・反論には批判と異論がある。
 批判とは、論証部(根拠、前提、導出)に対する否定的見解の提示であり、結論部を否定したり、対立する主張をなすものではない。
 一方、異論は結論と対立する主張を打ち立てることをいう。
 つまり、「AならばBが成立する」という主張に対して、
 Aだからといって必ずしもBとはならないという反論が批判(論理的反論)である。
 A→Bは成立しないという主張は異論となる。

※ロースクール適性試験では、この論証能力因子が中心的に問われているという。
 論証構造とそれに対する反論こそが法曹人になるために不可欠な能力との位置づけであるようだ。
 それというのも、日本の裁判制度が被告人(弁護人)と検察官という両当事者が証拠をめぐって争い、それを検討しながら裁判所が判断(判決)を下す当事者主義(訴訟の主導権を原告と被告に与えるという原則)の構造をとっているからである。
 原告と被告がそれぞれの主張、つまり論証構造をぶつけ合い、互いに批判や異論を唱える形態であるのだから、「反論」能力こそ法曹人の最大にして必要不可欠な武器となるからと、小林氏は解説している。

それでは、日本のロースクール入学のための法曹適性試験から、その「反論」能力がどのように問われているのか。
この点について、具体的に次のような問題を出している。

【問題】
1~5のうち、次の主張に対する論理的反論になっていないものを1つ選びなさい。
 花粉症は多くの人が患い、年々その患者は増加する傾向にある。花粉症の原因は諸説あるが、ここではスギ花粉の増加と大気汚染の影響の複合的原因としよう。花粉症患者を減らすための解決策としてスギ花粉を減らすためにはスギを伐採する案がある。しかし、スギを伐採することによって緑が失われる。そもそも大気汚染がなければ花粉症にかかることもない。したがって、大気汚染対策をするべきであって、スギを伐採する必要はない。

1. 大気汚染の対策には時間がかかる。
2. スギを伐採したあとに違う木を植えればよいので、スギの伐採によって緑が失われることはない。
3. 現在の日本の社会で大気汚染を完全になくすことは困難である。
4. 大気汚染対策とスギを伐採することは同時に行える。
5. 花粉症の患者は非常に多く、日本の生産性を下げているので、スギを伐採すべきである。
(日弁連法務研究財団適性試験 2003)



〇問題文を整理すると、次のような論証構造図が設計できるという。
 花粉症の原因⇒複合的原因
 ➡スギ花粉の増加 大気汚染
 花粉症の解決策
 スギを伐採する案――――――――――A          
 スギの伐採は緑が減る――――――――B
 花粉症の原因は複合的原因である―――C
 大気汚染がなければ、スギ花粉のみで花粉症となることはない―――D
 大気汚染対策をするべきだ――――――――――E
 スギの伐採の必要性なし

この図によって、
選択肢1はEに対する反論(批判)
選択肢2はBに対する反論(批判)
選択肢3は1と同様にEに対する反論(批判)
選択肢4はCに対する反論(批判)
選択肢5のみが論理的反論になっていない。
何故ならば、論証構造図の中に日本の生産性の記述は全く見られないからであるという。

・難しいのは、問題文が述べている中心的命題が、「花粉症の原因は複合的なものであるから、何もスギを伐採することはなく、もう一つの原因である大気汚染対策をすればよい」と要約できる点に気づくかどうかである。
 そうすれば、選択肢5の「花粉症の患者は非常に多く、日本の生産性を下げているので、スギを伐採すべきである」との主張は問題文の論証構造と何ら関係なく、重要部分を構成していないことに気づくはずであるという。

※法的思考力の重要な要素である論証能力の本質は、「主張」を理解し、その「主張」の妥当性を問うことにある。この問題で言えば、花粉症、大気汚染、スギ問題、緑化といった諸々の問題の価値判断は、論証能力とは無関係であることに注意すべきであると、小林氏は断っている。
 つまり、選択肢5は、一般論や常識的判断からは“是”とされようが、この問題の主張の論証構造を崩しているわけではない。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、183頁~188頁)

実質的な利益衡量とは


・現実の法律問題では、事態は複雑である。そこで、現実に裁判で争われた法律事案を素材に作られたロースクール適性試験問題を紹介している。

【問題】
以下の問題を指示に従って論述しなさい。
 なお、本問は、法的な知識を問うものではないので、法律の解釈論や判例・学説の羅列は評価されない。問題文に示された論点を用いながら、論理的で説得力のある文書を作成して欲しい。

 A市は港町で、B国からの船舶が来航するため、B国人の船員が多数市内に繰り出し、商店街もB国語による案内板を設置したり、店員にB国語の研修をさせたりして歓迎していた。ところが公衆浴場では、入り方がよくわからないB国人が自己流で入浴し、日本人との間でトラブルが頻発した。そこで、A市公衆浴場組合に属するほとんどの公衆浴場は「外国人お断り」の張り紙を出して外国人らしき外見の客をすべて断るという手段に出た。これによって当のB国人はもちろん、B国以外の外国人、さらに日本国籍をもった外国系住民等が軒並み入浴を拒否されるという事態となり、A市の国際交流ブームが冷え込む結果となった。
 A市の市民モニター懇談会では、モニターが市政全般について意見を提出することができる。モニターとして、この公衆浴場の外国人排除について容認または反対のいずれかの立場を明らかにして、懇談会に出席する意見書を書きなさい。
 この問題をめぐっては、以下の論点が関係してくる。意見書作成にあたってはこれを参考にしつつ、その全部に触れる必要はなく、以下の論点リストにあげられていない論点をとりあげてもよい。自己の選んだ立場を支持する論拠になりうる論点と反対の論拠になりうる論点とにそれぞれ3点以上言及し、反対の論拠には反論を加えるなど、自己の選んだ立場が説得的になるように工夫してまとめなさい。

(論点)
 外国人の入浴習慣の違い
 民族・国籍による区別の是非
 客を選ぶ自由
 日本人客へのサービス
 地域振興
 国際交流
 言葉の壁
 公衆浴場業の再生
 (日弁連法務研究財団適性試験・表現力問題 2003)

<小林氏のコメント>
・この問題は素材として、平成13年に札幌地裁で実際に争われた民事の損害賠償請求事件をヒントにしたものらしい。
・実際の生きた裁判事例を下地にしているためか、本問は、比較する対象を単純に数値化するのが困難であり、対象として扱う素材自体が、これまで見てきた択一式の適性試験のように条件が固定されていない点に特徴がある。つまり、条件が流動的で変化に富んでいる。
 言い換えれば、柔軟な思考を基礎に集合能力、比較能力、更に論証能力などを複合的に駆使して問題解決を図ることが求められているという。(答案例省略)
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、191頁~193頁)

医師に求められる能力~第5章より


・人の生命を預かる医師は、まず患者の愁訴から、病巣が、その患者のどこに潜んでいるかを推理することが第一義的に重要であろう。
 データの持つ情報、特に「変化」を正確に読み取り、その分析を通して推理能力を働かせ最終的判断に達するのは、医師に必須の基本的能力である。
 医師が相手にするのは生身の人間である以上、患者の言葉や表情は何よりのデータといえる。つまり、医師とは優れた“人間洞察家”であるべきである。
 そして、患者の痛み、苦しみを知り、その人を病から解放してあげたいという気持ちが強いほど、問診の際に、患者に対して集中し、患者の病巣を読み取る能力が増幅される。

・しかし、推理能力がすべてではない。患者の生命、健康を保護するために、現時点で、最大の利益となることを医師は常に考え、実行しなければならない。
 すなわち、医師にも特有の利益衡量能力が求められるという。
・自己の置かれた状況、すなわち、医療の現場の限られた人的資源、物的資源を使い、どのように行動すれば、最大限の仕事をなしうるかを考察すること、これこそが医師に求められている能力なのである。これは、与えられた条件内で、最良の処置を施すという能力である。
 医師は突発的な事態に臨機応変に対応し瞬時に判断をくださねばならない場面に、日常的に直面する。
 その際に、与えられた条件の中で最大の効率性を導く判断を利益衡量という能力因子を通じてなさねばならない時が必ずある。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、229頁~230頁、236頁~237頁)

医学部入試英語で問われるもの~推理力


・いくつかの医学部の入試問題を紹介している。
 英語の出題であるが、その内容は、推理能力を問うものである。
 (聖マリアンナ医科大学の問題)

【問題】 次の英文を読んで、表の空欄(1)~(10)を埋めなさい。
 
Five colleagues set off for work each day in their vehicles. Work out
who drives which and how long they each drive to work.
Paul drives for twice as long as the driver of the yellow car and a
quarter of the time that Olivia has to drive in her red car.
Neville has ten times more traveling time than Martin to get to
work.
The green car’s driver travels for half as long as Neville, while
Lynda takes five times longer than Martin, who has the shortest
journey.
The black car has the longest traveling time, and the blue car has a
quarter of that of the red car.
They each drive to work for 5 minutes, 10 minutes, 25 minutes, 40
minutes, and 50 minutes.

Name Color of Car Time
Lynda (1) (6)
Martin (2) (7)
Neville (3) (8)
Olivia (4) (9)
Paul (5) (10)

   (聖マリアンナ医科大学 1997)


・念のために、小林公夫氏は訳文を載せている。
【訳文】
5人の同僚は毎日、車で仕事に出かける。誰がどの車を運転しているか、また、各人の通勤時間がどれほどかかるかを推論しなさい。
ポールの運転時間は黄色い車を運転する者の2倍で、オリヴィアが自分の赤い車を運転する時間の4分の1である。
ネヴィルの通勤時間はマーティンの10倍である。緑色の車の所有者は、通勤時間がネヴィルの半分で、一方、リンダの通勤時間は最も通勤時間が短いマーティンの5倍である。
黒い車の所有者の通勤時間は最も長く、青い車の通勤時間は赤い車の4分の1である。
以上5人の通勤時間はそれぞれ5分、10分、25分、40分、50分である。



こうした推理、推論の問題では、まず問題のポイントを整理することが大切である。
〇通勤時間と車の色について問題文を整理すると、次のようになる。
①ポール=黄色×2
②ポール=オリヴィア(赤)×1/4
③ネヴィル=マーティン×10
④緑=ネヴィル×1/2
⑤リンダ=マーティン×5
⑥マーティン=5分
⑦黒=50分
⑧青=赤×1/4
以上、①から⑧までに整理できる。
・すると、⑥のマーティン=5分を⑤へ代入して、リンダ=5分×5=25分
また、③よりネヴィル==マーティン×10であるからネヴィル=5分×10=50分となる。
ここで、通勤時間に関しては、残るのは10分と40分で、確定していないのが、ポールとオリヴィアだから、②の条件より、ポール=10分、オリヴィア=40分と決まる。

・車の色については、②よりオリヴィア=赤、⑦よりネヴィル=黒、②と⑧よりポール=青、
 ①よりポール(青)=黄色×2=10分で、黄色=5分だから、マーティン=黄、残るリンダ=緑ということになる。

従って、答えは
(1)green (6)25 minutes
(2)yellow (7)5 minutes
(3)black (8)50 minutes
(4)red (9)40 minutes
(5)blue (10)10 minutes

※この問題のポイントは、普通に解くのであれば、上記のように①から⑧までの条件をきちんと丁寧に推論し、積み上げていけば良い、ということになる。また、それで十分に正解にたどりつくことが可能である。
 ただ、与えられた5人の通勤時間に着目し、一段高い推理能力を働かせると、以下のような解き方もあるだろう。
 すなわち、②から4倍の関係になっている二つの数字は、10分と40分しかないから、ポール=10分、オリヴィア=40分、また残る5分、25分、50分で、③のように10倍の関係になるのは、5分と50分しかないため、ネヴィル=50分、マーティン=5分と決まり、残るリンダは25分になると推論していくことも可能。
 あとは、車の色は①④⑦⑧の条件から導出可能ということになる。
 いずれにしても、与えられた複数の条件から、ある事実を推論し、導き出す能力が問われている。

※これは患者の初期症状の段階で病気の本質を見抜く医師としての推理能力を試す良い問題だと、小林氏は評している。
 医学部入試には、推理能力を試す問題が目白押しであるようだ。
 東京女子医大の問題では、動物(タコ)の行動に関する生物の問題の形式で、グラフの意味するものを読み解き推理能力を働かせ、データを解析して推理・判断を下す医師にとって重要な能力を問うている。(東京女子医科大学 1998、問題文省略)

【興味深い報告書】
・医師にとって推理能力はやはり重要な位置を占めている。
 このことを補強する興味深い報告書があるという。「医師国家試験の出題形式の改善に関する研究」というものである。
 これは、日本の医師国家試験にアメリカの医科大学協会が実施している医学部入試の統一試験で使われている Skills Analysis法を導入したらどうか、という研究報告であるようだ。
・Skills Analysis法とは、「記憶力だけではない人間の能力を評価するために開発された手法」である。医師を目指す者に対し、単に知識の量ではなく、批判的思考能力や推理能力など総合的な問題解決能力を測る手法である。
 つまり、裏を返せば、日本の医師にはそうした面が不足しているという。
(推理・判断能力が不十分な医師が誤診など医療過誤を犯す恐れがあるため、アメリカの制度を見習い、医師の適性のない者を前段階でふるいにかけようということではないかと、小林氏は推測している)
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、216頁~220頁、225頁~226頁)

『Dr.コトー診療所』にみられる利益衡量の問題


〇『Dr.コトー診療所』(山田貴敏作・小学館刊)というマンガはテレビドラマにもなったので、知っている人も多い。
・孤島の診療所に赴任した青年医師、Dr.コトーこと五島健助が恵まれない医療環境の中で医師として懸命に働きながら、島民の信頼を得ていくというストーリーである。
・この物語には、第1話から、シビアな利益衡量の問題が提起されている。第1話の粗筋はこうである。
 島の少年タケヒロが虫垂炎にかかる。
 五島の診断では腹膜炎を併発しており、虫垂がいつ破裂してもおかしくない状態で、緊急の手術が必要だ。しかし、少年の父親の漁師は島の診療所では手術を許可しない。本土の設備の整った病院に連れて行く、という。
(実は彼の妻は3年前、五島の前任の医師に心臓病を単なる風邪と誤診され、命を失った。にがい経験を持つ漁師は、島の医師に不信感を抱いていた)

 漁師は息子を漁船に乗せ本土の病院に向かう。五島は看護師と一緒に付き添いとして船に乗り込む。本土までは6時間、港から病院まで救急車で30分。五島の判断では少年の症状は6時間半はもたない。
 五島は隙をみて船のエンジンキーを海に投げ捨て(たふりをして)、強引に父親を説得し、船上で開腹手術に踏み切る。
 幸い手術は成功し、タケヒロは一命を取り留める。摘出した虫垂は肥大していて、一部は破れた状態で、まさに間一髪で少年の命は救われた。

☆ここで、五島の行動はすべてを正当化できるだろうかと、小林公夫氏は問題を提起している。
 ここには医師が直面せざるをえない利益衡量という大きな問題が潜んでいるという。
 小林氏の説明はこうである。
 まず、手術をするには少年が未成年であれば、親権者である父親の承諾が必要である。
 しかし、父親は島の診療所の医師を信頼しておらず、本土の病院での手術を希望している。⇒ここには少年の命と親権者の意思が対立している構図がある。
 つまり、患者(この場合は父親)の自己決定権という「利益」と、救助される生命という「利益」が対立している。

※患者の生命が緊急手術を必要としているのであれば、自己決定権を侵害してもそれをなすべきかという、いってみれば究極の利益衡量がなされねばならない場面である。
 このときの医師の判断能力はたいへん重要な意味を持つ。
・五島は本土の病院に着く6時間半の間に少年が命を落とすリスクの方が大きいと判断して手術を決行するわけだが、もし、父親の意思を尊重して本土にそのまま行かせても医師が責任を問われることはない。しかし、少年の生命はその間に失われるかもしれない。
※医師に求められる利益衡量とは、直接患者の生命に関わるケースが少なくない。
 まして、緊急を要する場合は熟慮している時間はない。推理能力、直感的着眼能力、利益衡量能力などを総動員して、瞬時に判断をくださなければならない。
 その意味では、医師とは苛酷な職業である。それだけ高次元の卓抜した能力が求められる。

<患者の自己決定権と衝突する医術的正当性>
・「患者の自己決定権を無視した医療は、すべて傷害罪にあたる」という立場をとる学者がいるそうだ。患者の意思を尊重する意味では一理ある説である。
 しかし、小林公夫氏は、必ずしもそうは思わないとする。
 科学的に正当な根拠に基づいてくだした判断、すなわちEBM(evidence based medicine)にのっとった医療判断が、患者の自己決定権と対立する場合、患者の生命に関わる場面では生命を救う医療行為が上位にあるのではないかと考えている。
(患者の自己決定権を保護するために、オーストリアのように専断的医療罪という新しい犯罪構成要件を設けて懲役1年以内で軽く処罰をすべきではないかとも考えているという。これが、小林氏の研究課題にもなっている問題らしい)

・話をもう一度Dr.コトーに戻す。
 五島が船上で手術に踏み切るとき、親権者である父親の承諾を得た手段はやや強引である。
 しかし、五島は少年の生命との利益衡量の結果、そうした手段を選択したのであり、幸運にも手術は成功した。生命の喪失を防ぐのは医師として第一義の職業倫理であることを考慮すれば、五島の利益衡量は正当であったというのが、小林氏の立場であるという。
 もちろん、これは緊急の場合である。患者の容態に余裕がある場合(少年の容態が6時間半以上の安定を保てるならば)、設備の整った本土の病院で手術を受けるのが良いはずである。
 医師の判断は患者の状態や置かれている状況などを総合的に利益衡量してくだされなければならない。

・なお、余談として、五島がとった強引な手段(つまり船のキーを海に投げ捨てたふりをして父親の承諾を得たこと)は、一種の欺罔(ぎもう)行為(詐欺的行為で相手を錯覚に陥らせること)に当たるらしい。また相手を騙すことで手術を行い報酬を得たとすれば、詐欺罪に問われる可能性をはらんでいるようだ。
 いずれにしても、五島の行為は、かなり危うい要素も含んでいる点にも注意する必要があるという。
(小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年、237頁~242頁)