歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪古代出雲への問いかけ~武光誠氏の著作より≫

2024-06-16 18:00:01 | 歴史
≪古代出雲への問いかけ~武光誠氏の著作より≫
(2024年6月16日投稿)

【はじめに】


 古代出雲といわれ、皆さんは何を連想するのだろうか? 
 スサノオによるヤマタノオロチ退治の神話や神楽、大国主がイナバの白うさぎを救った神話、縁結びの神様として名高く、出雲を象徴する出雲大社、「神々のふるさと」といった小泉八雲、大量の銅剣が発掘された荒神谷遺跡など、人によってさまざまであろう。
 これらと古代出雲の歴史とどのようにつながるのだろうか?
 ところで、前回のブログでも説いたように、歴史学では文献史料を重視し、史料批判が大切である。だから、日本古代史を考える際に、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』といった史料の解釈と、古代出雲像との関係が問われることになるのは、いうまでもない。

 そこで、今回のブログでは、次の著作を参考にして、古代出雲について考えてみたい。
〇武光誠『古代出雲王国の謎 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』PHP文庫、2004年[2007年版]
そして、次回でも、同じテーマで考えてみる。
〇関裕二『「出雲抹殺」の謎―ヤマト建国の真相を解き明かす』PHP文庫、2007年[2011年版]

武光誠氏は、下記のプロフィールにもあるように、大学の文学部国史学科を卒業して、“正統な歴史学”を学んだ学者である。
だから、古代出雲について真摯な問いかけをして、『古事記』、『日本書紀』、『出雲風土記』といった史料を解釈して、古代出雲と大和朝廷との関係などについて、解説している。
その一端を紹介してみたい。
たとえば、『出雲風土記』の神話と高天原神話とは、どのように違うのか?
武光氏は、各地の独立神の死と再生を物語る記事が、『出雲風土記』に多くみえるという。
 人間が必ず死ぬ運命にある以上、人間の生活を反映してつくった神々の世界に死があるのは当然である。それにもかかわらず、朝廷は死の概念をなくした高天原神話という特殊な世界をつくったとみる。(135頁)
こうした興味深い問題を丁寧に解説している。


【武光誠氏のプロフィール】
・1950年、山口県防府市生まれ。
・東京大学文学部国史学科卒業、同大学院国史学博士課程修了。
・執筆当時、明治学院大学教授。
・歴史哲学の手法を基本として文化人類学、科学史等の幅広い視点から日本史、日本思想史を研究。

<主な著書>
・『律令太政官制の研究』(吉川弘文館)
・『名字と日本人―先祖からのメッセージ』(文春新書)
・『日本人なら知っておきたい神道』(河出書房新社)
・『藩から読む幕末維新』(PHP新書)
・『「鬼と魔」で読む日本古代史』(PHP文庫)



【武光誠『古代出雲王国の謎』(PHP文庫)はこちらから】
武光誠『古代出雲王国の謎』(PHP文庫)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・日本古代史上最大の謎“出雲” とは何か
・荒神谷遺跡の銅剣が意味するものとは
・日本人の信仰のふるさと
・三百九十九社の三つの時期
・出雲の十四社の独立神
・八束水臣津野命の国引きの物語
・邪馬台国より三十年早かった出雲の統一
・平和な開拓神・大国主命
・大和朝廷支配による大国主命神話の変質
・『古事記』の大国主命神話の大筋
・大国主命は王家の祖先にふさわしくなかった?
・縄文以来の精霊崇拝上にある大国主命神話
・大国主命神話と民話の共通点
・大国主命は武器の神だった?
・出雲は死にかかわる地?(第四章)
・死のない世界・高天原
・出雲土着の神だった素戔嗚尊
・奇稲田姫は本来自ら蛇神を退治していた
・首長のための特別な墓(第六章)
・交易国家邪馬台国の弱点
・倭迹々日百襲姫の神婚が意味するもの
・出雲が全国政権とならなかった理由(第七章)
・意宇郡の古墳が意味するもの
・出雲の誇りを伝える前方後方墳
・朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏










〇武光誠『古代出雲王国の謎 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』PHP文庫、2004年[2007年版]
【目次】
はじめに
第一章 幻の神政国家“出雲”
日本古代史上最大の謎“出雲” とは何か
荒神谷遺跡の銅剣が意味するものとは
日本人の信仰のふるさと
三百九十九社の三つの時期
出雲の十四社の独立神
八束水臣津野命の国引きの物語
国引きの原形は首長連合か
信仰圏からわかる首長間の交流
素戔嗚尊より有力だった三柱の大神
邪馬台国より三十年早かった出雲の統一
平和な開拓神・大国主命
大和朝廷支配による大国主命神話の変質

第二章 日本海航路が生んだ出雲王国の繁栄
「あやしき光、海を照らす」
縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰
銅鐸祭司は縄文的だった?
神政国家だった出雲政権
大国主命は出雲氏の祖神ではない!
出雲大社の本殿はなぜ西向きなのか
出雲の渡来系の神々
越を指導下においていた出雲
四隅突出型墳丘墓がしめす出雲の盛衰

第三章 大国主命神話の真の意味とは
「旧辞」の中の大国主命
八十神に憎まれ根国へ
素戔嗚尊が与えた試練
少彦名命との出会い
大国主命は王家の祖先にふさわしくなかった?
縄文以来の精霊崇拝上にある大国主命神話
大国主命神話と民話の共通点
各地の神と大国主命の融合が意味するもの
なぜ『日本書紀』は大国主命神話を軽視したのか
出雲大社はなぜ九十六メートルもの高さだったのか
大物主神は大国主命より格が上?
大国主命は武器の神だった?

第四章 死に、また再生する出雲の神々
出雲は死にかかわる地?
死のない世界・高天原
南方に分布する食物神の死の話
出雲土着の神だった素戔嗚尊
伊奘諾尊の黄泉国訪問
黄泉国訪問の原形は神火相続式か
出雲の神の死と再生の意味
奇稲田姫は本来自ら蛇神を退治していた
美しい常世国から穢れた根国・黄泉国へ
なぜ朝廷は死の穢れを強調したのか

第五章 出雲王国の真実を物語る荒神谷
出雲の謎を解く大発見“荒神谷遺跡”
なぜ仏経山のそばに荒神谷遺跡があるのか
出雲国内の四つの神奈備山
銅剣と神社の数の符合が意味するもの
出雲を統一した出雲氏と神門氏の連合
荒神谷の銅鐸と銅矛は神門氏のものか?
太陽信仰から生まれた「ヒコ」の称号
大国主命は悪者と戦う神
出雲では神同士は平等だった
出雲を繁栄させた青銅器生産
朝廷の祭祀で必ず使われた出雲の玉

第六章 大国主命から大物主神へ
首長のための特別な墓
首長とその妻と巫女の墓
神の祭祀と首長の墓は区別されていた
古墳のふるさとは出雲か?
交易国家邪馬台国の弱点
吉備の影響を受けた纏向遺跡
大国主命から三輪山の大物主神へ
神々に身分をつくった首長霊信仰
倭迹々日百襲姫の神婚が意味するもの
首長霊となった大物主神
古墳のあるところが大和朝廷の勢力圏

第七章 出雲はなぜ朝廷に従ったのか
出雲が全国政権とならなかった理由
意宇郡の古墳が意味するもの
卑弥呼の鏡を出した神原神社古墳
出雲の誇りを伝える前方後方墳
朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏
首長霊信仰のうけ入れを意味する出雲の古墳
神門氏、出雲氏の配下となる
健部に改姓した神門氏
古墳の分布にみる出雲の勢力地図
出雲国造の誕生
天穂日命と天皇家の系図
岡田山一号墳の鉄刀
祭祀権をうけついだ出雲国造




日本古代史上最大の謎“出雲” とは何か


第一章 幻の神政国家“出雲”
・出雲は「神々のふるさと」とよばれる。
 これは、邪馬台国の時代より約30年早い2世紀なかばの出雲に、神政国家とよぶにふさわしい一国規模のまとまりができたことによる。

・そのときの出雲の集団は、今日の神信仰の原形になった大国主命(おおくにぬしのみこと)信仰を生み出した。
 そしてそれは、大和朝廷が生まれる3世紀なかばより前に、日本の各地に広まった、と著者は考える。

☆そのことを明らかにしていくために、古代出雲に関する多くの謎を解いていかなければならない。
 その手はじめに、出雲の神々の関係を整理してみよう。

・出雲では、ほとんど無名の神々が多く祀られている。
 そして、一方で大国主命、熊野大神(くまのおおかみ)、佐太(さた)大神、野城(のぎ)大神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)などの有名な神が、互いに競いあっているように見える。

・古代の出雲政権は、日本古代史の研究者にとって最大の難問であるといってよい。
 『古事記』『日本書紀』をはじめとする古代の文献には、大和朝廷が出雲の地を重んじたありさまが記されている。
 素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したのは、出雲だとされる。
 また、出雲の大国主命が国譲りをしたために、皇室(王家)が日本を治めるようになったという。
 さらに、出雲の伊賦夜坂(いふやざか)は死者の住む黄泉国(よみのくに)への入口だともある。

※こうした記述は、かつて出雲に有力な集団がいたことをうかがわせる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、18頁~20頁)

荒神谷遺跡の銅剣が意味するものとは


・出雲に関する学者の評価はまちまちだが、出雲を押さえた首長はかなり有力であったと考えている。
 さらに、出雲大社を本拠とする大国主命信仰が、大和朝廷の成立に深いかかわりをもつとする。
 ただし、出雲の首長の勢力がどの程度であったか、古代における大国主命信仰がいかなるものであったかは、意見の分かれるところである。
 現在の私たちは、大国主命を縁結びの神と考えている。
 あるいは、インドの大黒天(だいこくてん)と習合した信仰にもとづき、福の神だと考えたりもする。
 ところが、日本の神話や伝承に出てくる大国主命信仰には、多くの要素が含まれている。
・出雲氏が有力だったから、朝廷は彼らが祀る大国主命を重んじたのだろうか。
 それとも、大国主命信仰が各地に広まっていたので、出雲氏の地位が高められたのだろうか。この点についても、学者の意見は二つに分かれている。

・著者は、大国主命信仰をより重視すべきだと考えている。
 島根県斐川(ひかわ)町荒神谷遺跡で発見された多くの銅剣は、そのことを証拠づけるものであろうとする。
 それによって、大和朝廷発生の約百年前にあたる2世紀なかばに、出雲に有力な宗教勢力があったことがうかがえるからである。
 そのころ、荒神谷遺跡から出土した358本もの銅剣からわかるように、それらを管理する有力な祭司が出雲地方を押さえていた。
 彼らの子孫が出雲氏に連なり、彼らの祀った神が大国主命とよばれるようになったのだろうという。
 このような仮定を、本書では述べている。
 出雲の特性をつかむ作業は、古代出雲の信仰を明らかにする方向から進める必要があるようだ。
 そのために、まず文献にあらわれた出雲の神々のありかたをつかんでおく必要がある。
 そしてそれにより、出雲の信仰に時代を追って発展した三つの層があることが明らかになってくる。
(これまで、この点を明言した学者はいない。そして、その事実が出雲の信仰と歴史を明らかにする第一の手がかりになっていく)
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、22頁~23頁)

日本人の信仰のふるさと


・かつて作家の小泉八雲は、
「出雲はわけても神々の国である」
と記した。
 出雲のあちこちに古い伝統をもつ神社があり、そこに住む人々が神々を信じ、清らかな生活を送っていたからである。

・彼は、ギリシャに生まれアメリカで働いたが、金銭万能のアメリカの資本主義が人間性をおしつぶすものだと感じた。資本主義は新教カルヴィン派が生み出した、キリスト教に拠る価値観である。
 
・1890年日本に渡り、松江中学の英語教師になった八雲は、そこで日本の神々に出会った。
 やがて、彼は本名のラフカディオ・ハーンを捨て、日本に帰化して小泉八雲と名のるようになった。
・八雲は出雲を、日本の「民族の揺籃(ゆりかご)の地」だとも述べる。
(八雲がもし文明開化のさなかの東京に来ていたなら、おそらく母国の信仰を捨てることはなかったろう)
 明治時代まで、出雲には日本人の信仰の基層が残っていた。

・天平5年(733)に完成した『出雲風土記』は、その冒頭の総記に「あわせて神の社(やしろ)は、三百九十九所なり」と記している。さらに、その内訳は、つぎのようにある。
 「百八十四所は神祇官(じんぎかん)にあり」「二百十五所は神祇官にあらず」
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、23頁~25頁)

三百九十九社の三つの時期(25頁~)

三百九十九社の三つの時期


・出雲国の式内社の数は、大和国の286座、伊勢国の253座についで、多い。
 しかし、大和朝廷の本拠である大和や伊勢神宮のある伊勢では、大部分の神社が官社とされていた。
※そのことからみて、官社以外のものを含めた神社の数では、出雲国が日本一であった。

・さらに、出雲では、『出雲風土記』にみえない山川海野の神々が祀られていた。
 『出雲風土記』に、天武2年(673)に語猪麿(かたりのいまろ)の娘がサメに殺された話がある。このとき、猪麿は、
「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地祇(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国にしずまります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」
に娘の仇を討ってくれるように祈った、とある。

※出雲の三百九十九社の神社のほかに、海に関する出来事について、人々をまもる多くの海の神ワタツミがいるとされたのである。
・三百九十九という神社の数は重要である。
 それは、荒神谷で発見された銅剣の数358と同じ意味をもつもので、ある時期の出雲の首長の総数をしめすものである。
・三百九十九の神社は多彩である。
 出雲神話に出てくる神、そうでない土着的神々、大和朝廷がつくった高天原(たかまがはら)神話に登場する神などがいる。さらに、渡来系の韓神(からかみ)もみられる。

〇そして、そのような神々のありかたを整理すると、次の三つの段階を経て展開していることがわかる。
①各地の首長が思い思いの神を祀った時期
②出雲の神々が大国主命のもとに統轄された時期
③大国主命が大和朝廷の祭儀の中に組み込まれた時期

①第1の時期が、弥生時代中期なかばに相当する紀元1世紀なかばから2世紀はじめになる。
②第2の時期が、弥生時代後期から古墳時代前期のなかばにあたる2世紀なかばから、4世紀なかばにくると思われる。
③第3の時期である4世紀なかば以降、出雲の首長である出雲氏は、大和朝廷の支配下に入った。

※第2の時期の出雲は、宗教の面で日本一の先進地帯であったといえる。
 そして、その時代の出雲で、大国主命を中心とする日本人の神信仰の基本型が形づくられた。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、25頁~27頁)

出雲の十四社の独立神


・奈良時代はじめにあたる和銅6年(713)に、国ごとに地誌をまとめよとの命令が出された。
 これによって、諸国の「風土記」がつくられた。
 ところがいま伝わるのは、出雲、播磨(はりま)、常陸(ひたち)、豊後(ぶんご)、肥前の5カ国の「風土記」だけである。

・そして、『出雲風土記』は、播磨国以下の4カ国の風土記と大きく異なっている。
 他の「風土記」は国司の手に成るもので、大王や王族の巡幸説話を多く載せている。
 ところが、『出雲風土記』は、出雲国造である出雲広嶋(ひろしま)の手によってつくられた。そして、そこには大王や王族の巡幸説話はなく、出雲独自の神々の巡行や事跡が多く語られている。
・素戔嗚尊、大国主命などの出雲の有力な神は、朝廷がつくった高天原の神々の系譜に組み込まれた。そして、出雲土着の神のかなりのものが、素戔嗚尊の子孫とされた。
・それでも、『出雲風土記』には、大和朝廷がつくった高天原の神話に出てこない独立神(どくりつしん)が多く出てくる。
 そこに出てくる50柱の神のうち、14柱の神が独立神である。
(そういった神々はみな、単独で出雲の各地に天降って、そこの土地の守り神になったとされる。こういった神々は、それが鎮座する土地を治める豪族の祖神として祀られ続けられた。そのような独立神の祭祀の起源は、小国を治める首長が生まれた弥生時代中期なかばに求められる)

・新たに農民たちの指導者になった首長は、銅鏡、銅剣などの宝器で農耕神を祀り、その神は自分の祖神だと唱えた。
 紀元1世紀なかばごろから、出雲は、各地の首長が独自に神を祀る段階になった。
※出雲以外の地では、そういった神のなかに、のちに高天原神話に連なる神の名前に改名させられたものもいた。
 しかし、出雲では、奈良時代はじめまで、14柱の独立神が祀られ続けた。
※このような独立神の性格を詳しく物語る文献はみられない。
 しかし、これから紹介する「国引き」の説話の主人公である八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)は、そのような独立神に近い性格をもつ神だ、と著者は考えている。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、27頁~31頁)

八束水臣津野命の国引きの物語


・『出雲風土記』にみえる独立神の一例として、島根郡の千酌(ちくみ)の駅家(うまや)の条にみえる都久豆美命(つくつみのみこと)の記事がある。
「千酌の駅家は、郡衙(ぐんが)の東北十七里百八十歩のところにある。ここには、伊佐奈枳命(いざなきのみこと、伊奘諾尊)の御子の都久豆美命がおられる。そこで、ここの地名は都久豆美(つくつみ)とすべきだが、今の人はここを千酌とよんでいる」

※千酌の駅家は、隠岐島に行く船が出る港のまわりにひらけた集落である。
 そこの人は、自分たちの土地の守り神として、都久豆美命を祀っていた。
 朝廷の支配が強まる奈良時代に、千酌の人は都久豆美命を伊弉諾尊の子にしたが、地方の小集落の守り神にすぎない都久豆美命は、中央の神話に取り込まれなかった。

〇「国引き」の物語について
・『出雲風土記』に創造神として活躍する八束水臣津野命は、都久豆美命より多少格が高いが、都久豆美命と大して違わない立場に位置づけられた神だといえる。
 朝廷の神話には登場せず、『古事記』の神々の系譜に、素戔嗚尊の四世孫で、大国主命の祖父だとある。
・彼にまつわる「国引き」の話の大筋は、つぎのようなものである。
「八束水臣津野命が、こう言われた。出雲はできてまもない国で十分な土地をもたない。
 そこで、あちこちから余った土地をもってきてぬいあわせて出雲国を広くしよう。
 命(みこと)はまず新羅の国(朝鮮半島の日本海側にあった小国)の岬を鋤(すき)で切りはなし、太い綱をつけて引いてきた。そこが、去豆(こづ)から杵築(きづき)にいたる岬である。
 そのときの土地に打ちこんだ綱をかけるための杭が三瓶山(さんべさん)になり、国を引いた綱が薗(その)の長浜になった。
 つぎに、海の北にある土地(隠岐島)にあった岬を引いてきて、多久(たく)の海岸から狭田(さだ)にいたる地にした。
 さらに、海の北にある土地(隠岐島)の野浪(のなみ、波が打ちよせる原野)というところをもってきて、手染(たしみ)から闇見(くらみ)の国にいたる地にした。
 そのあと、越(こし)の都々(つつ、珠洲岬か)の岬を切り分けて引いてきて、美保埼(みほのさき)にした。そのときの杭が大山(だいせん)で、綱が夜見島(よみのしま)である。
 このあと、八束水臣津野命は『いまは国を引きおえた』と言い、大声で『おえ』と宣言した」

※巨人の姿をした八束水臣津野命が、広大な土地を引きよせる豪快な話である。
 古代の日本のあちこちで、このような巨人の神が祀られていた。
 日本列島を生む伊奘諾尊、伊奘冉尊(いざなみのみこと)や大蛇を退治する素戔嗚尊の物語には、そのような巨人神信仰の名残りがみられる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、31頁~35頁)

邪馬台国より三十年早かった出雲の統一


・弥生時代中期のはじまりとともに、西日本の先進地で小国が発生した。
 そして、小国の数はしだいに増え、弥生時代中期から後期にかけて、いくつかの小国を統轄する有力な集団が発展していく。

〇北九州のその動きは、中国の歴史書からつかむことができる。
・1世紀なかばには、有力な小国、奴国(なこく)が中国に朝貢して金印をもらった。
 そして、2世紀はじめには玄界灘沿岸と壱岐・対馬を含む伊都国(いとこく)連合の盟主の帥升(すいしょう)という者が、後漢の王朝から倭国王にされた。

・さらに、2世紀末に邪馬台国の女王卑弥呼が、30の小国から成る邪馬台国連合の長になった。
 邪馬台国連合は、のちの筑前、筑後と肥前の一部を含む範囲を押さえるものであった。

・出雲でも、そのような統合の動きが着実に進んでいった。
 2世紀はじめには、小国連合の首長たちがともに祀る佐太などの三柱の大神が生まれた。
 ついで、2世紀なかばに出雲の小国は、出雲氏のもとにまとめられた。
 そして、そのときから出雲の人々は、大国主命という新たにつくられた神をもっとも格の高い神として拝むようになった。
 それまで首長たちが祀っていた彼らの祖神は、大国主命の子孫や大国主命の家来筋にあたる神々とされた。

・このような出雲の統一は、邪馬台国連合の成立より約30年早く行なわれた。
(何が出雲の首長の統合をうながしたかという問いに対する解答は、後述)

・しかも、邪馬台国連合では、そこの首長たちがともに祀る最高神は生まれなかった。
 伊都国、奴国などの首長は、思い思いの神の祭祀を行なっていた。
 卑弥呼は、神託によって重大な事項を決定したと伝えられる。
 しかし、彼女の決断が求められたのは、邪馬台国連合全体にかかわる問題に限られた。
 中国の魏王朝への遣使や狗奴国(くなこく)との戦いは、彼女の指導によってなされた。
・あるいは邪馬台国という小国の内部の問題は、卑弥呼に下った神託によって解決されたかもしれない。
 しかし、卑弥呼がその配下の小国のことについて神託を求める場面はなかったという。
・出雲各地の首長が祀る神の間に上下関係をつくった点において、出雲氏の支配は卑弥呼のそれより進んだものであったと評価できる。
 出雲氏は2世紀はじめには、熊野大神を祀っていた。
・有力な首長が祀る神の下に、その配下の首長の祖神を位置づける慣行は、佐太・熊野・野城の大神ができた時点で発生した、と著者は考えている。
 そして、出雲氏は意宇郡の一部分を押さえる勢力から出雲全体の支配者に成長したときに、熊野大神の上にくる大国主命をつくり上げた。

【年表】
紀元前1世紀末 北九州で小国発生
1世紀なかば  出雲で小国が発生し、そこの首長が独立神を祀る
1世紀末    八束水臣津野命・素戔嗚尊などの有力な神がいくつかできる
2世紀はじめ  佐太・熊野・野城の大神誕生
2世紀なかば  大国主命がつくられる

(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、45頁~47頁)

平和な開拓神・大国主命


・大国主命に関する神話の原形は、2世紀なかばにつくられたと考えられる。
 当時の人々は、祖先の霊のはたらきを集めたものが神であると考えていた。
 これを祖霊信仰という。

・そのため、弥生時代の人々が信仰していた神々は、人間的であった。
 そのような神々の性格は、『古事記』『日本書紀』の中の日本神話にもうけつがれている。
 古代人は、身近な「神社」で祀られている神を、自分たちの指導者であり父であり母であると感じた。
(ここではわかりやすくするために、「神社」の語をつかったが、神殿をもった神社が全国に普及するのは、飛鳥時代以後のことである)

・それまでの人々は、神々の世界からやってきた神がとどまる山や森を聖地とみて、そこを拝んでいた。
 出雲の仏経山(ぶっきょうざん)はそのような地であり、荒神谷遺跡の銅剣は、そこを祀る集団によって埋められた。

・『古事記』『日本書紀』の神話は、大国主命の、天孫(てんそん)に国譲りする神としての面を強調するものになっている。
 それは、出雲氏が大和朝廷の支配下に入った4世紀なかば以後に書き加えられた要素を多く含む。
 それとくらべると、『出雲風土記』の大国主命にまつわる記事からは、中央の手が加わっていない大国主命神話の原形のありさまが伝わってくる。

※大国主命が八十神(やそがみ)や越(こし)の八口(やつくち)を討つわずかな征討神話はある。
 しかしそれを除くと、大国主命は猪を追ったり、多くの女神を訪れ求婚したり、沢山の鋤(すき)を取って国作りを行なった平和な開拓神の姿をしている。

・たとえば、『出雲風土記』神門(かんど)郡朝山郷の条には、つぎのようにある。
「ここには、神魂命(かみむすびのみこと、神皇産霊尊[かみむすびのみこと])の娘、真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらのひめのみこと)がおられたが、そこに天下を造られた大穴持命(おおあなもちのみこと、大国主命の別名)が朝ごとに通ってこられた。そのため、朝山(あさやま)の地名ができた」

 また、『出雲風土記』飯石郡多禰(たね)郷の条には、こうある。
「天下を造られた大穴持命と須久奈比古命(すくなひこのみこと、少彦名命)が、天下をめぐり歩かれてここに稲種を落とされた。そのため、この地を種(たね)とよぶようになった」
 のちに「種」の表記を「多禰」に改めた。

※『出雲風土記』をみると、大国主命が意宇(おう)、島根、楯縫(たてぬい)、仁多(にた)、飯石(いいし)の諸郡の広い範囲にわたって登場していることがわかる。
 「風土記」にそれほど多く登場する神は、他にない。
 このことから、大国主命信仰が出雲全体に広まっていたありさまがわかる。

(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、47頁~49頁)

大和朝廷支配による大国主命神話の変質


・『古事記』や『日本書紀』は、大国主命の国譲りにもっとも重点をおいた書き方をとっている。
 しかも国譲りの物語は、神々がめまぐるしくあちこちを移動する大がかりな物語になっている。
 高天原から下った武甕槌神(たけみかづちのかみ)らは、出雲の稲佐(いなさ)浜に降りたった。そして、そこで大国主命と交渉し、ついで美保埼(みほのさき)に移って、大国主命の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)に国譲りに同意させて、身を隠させる(死者の世界に行かせること)。

・さらに、再び稲佐浜にもどった武甕槌神は、そこで事代主命の弟にあたる武御名方神(たけみなかたのかみ)と力くらべをする。
 それに敗れた武御名方神が逃げると、武甕槌神は彼を諏訪まで追っていって、屈服させた。


(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、50頁~53頁)

第三章 大国主命神話の真の意味とは

『古事記』の大国主命神話の大筋


〇大国主命は因幡の白莵に出会ったことをきっかけに、国作りをする偉い神に成長する。
・大国主命は、はじめは多くの兄たちに従者のように扱われていた。
 八十神(やそがみ)とよばれる大人数の兄の神々は、因幡の国の八上比売(やがみひめ)と結婚しようとそろって因幡国に出かけた。そのとき大国主命は、兄たちの荷物をもってお供をしていた。
 すると、彼らの前に鰐に皮をむかれた白莵があらわれた。八十神は、裸にされた莵を見ていたずら心をおこして、
「海水を浴びたあと体をかわかすように」
と言った。白莵がその通りにしたところ、ますます痛みが激しくなった。そこに、大国主命が通りかかり、適切な治療法を教えてやった。
 莵はよろこんでこう言った。
「あの大勢の神は思いをとげられないでしょう。あなたが八上比売の夫にふさわしい人です」
 莵の言った通りに、八上比売は八十神ではなく大国主命を選んだ。そのとき、八十神は大いに怒り大国主命を殺そうと計った。彼らは、大国主命を山に連れていって、
 「赤い猪を捕えろ」
と命じた。そして、猪に似た石を赤く焼いて落とし、大国主命にそれを抱かせた。

・そのため、大国主命は焼け死んでしまった。そのことを知って大国主命の母の刺国若比売(さしくにわかひめ)は、息子を救おうとした。
 彼女は神皇産霊尊(かみむすびのみこと)に救いを求めた。そのため、尊は(訶+虫)貝比売(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむがいひめ)の二人の娘を地上に送り、大国主命を助けた。(訶+虫)貝比売は佐太大神の母にあたる。
 八十神は再び大国主命を殺そうと計った。
 大きな木を切り伏せてくさびを打って放ち、大国主命を木の間にはさんで殺したのだ。このときも、母の神が木を裂いて大国主命を助けた。母の神は、
「お前がここにいると八十神に殺されるだろう」
と言い、彼を紀伊の五十猛命(いたけるのみこと)のもとに行かせた。しかし、八十神はそこまでも追ってきた。そのため、大国主命は根国(ねのくに)の素戔嗚尊のもとに行くことにした。
 五十猛命は、素戔嗚尊に従って新羅に下ったのちに紀伊を平定したとされる神である。


※高皇産霊尊が高天原の神々を、神皇産霊尊が出雲の神々をかげから助ける神になった。
 そのため、高皇産霊尊の指導のもとに国譲りがなされる。
 神皇産霊尊は二人の娘を送って大国主命の火傷をなおし、少彦名命に大国主命の国作りを助けさせたとされる。
 しかし、もとは(訶+虫)貝比売も蛤貝比売も島根郡の首長が祀った土着の神であった。
 『出雲風土記』から(訶+虫)貝比売が加賀郷で、蛤貝比売が法吉(ほき)郷で祀られていたことがわかる。
少彦名命も、もとは大国主命と対になる神として考え出されたものだといえる。
のちに出雲の各地で祀られていた人々の魂(たましい)をつかさどるとされる独立神が、
神皇産霊尊と結びついていく。
 『出雲風土記』では、そのような神々は「神魂命(かみむすびのみこと)」と表記される。
 しかし、出雲土着の神が造化三神の一つになったわけではない。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、88頁~96頁)

大国主命は王家の祖先にふさわしくなかった?


・『古事記』や『日本書紀』の神話の中で、大国主命は他の神々とちがう位置づけを与えられている。
 『古事記』と『日本書紀』の神話は、皇室(王家)の支配を正当化するためにつくられたものである。
 ところが、大国主命神話の原形となる物語のどこにも、皇室(王家)の支配を正当化する要素も、出雲氏の出雲統治の理由を語る部分もみられない。
 大和朝廷の成立とともに首長霊信仰が生まれる。そして、すべての物事は首長霊信仰によって説明づけられる。
 大王の祖先がすぐれた神になり王家をまもっている。ゆえに、大王が国を治めるべきだというのだ。その発想から、王家の祖先神は極端に美化されていく。
 朝廷は大国主命を、王家の祖先神の系譜の中に取り込むことができなかった。

・しかし、王家が歴史書づくりをはじめる6世紀より前に、すでに大国主命神話が広まっていた。
 そして、そこに出てくる大国主命の姿は王家の祖先にふさわしくないものであった。
 なぜなら大国主命は、人間的な等身大の神であったからだ。
 農民の生活を反映してつくられた神である。大国主命神話には縄文的な精霊崇拝の要素が強くみられたという。

・首長と一般の農民の地位にそれほど差がみられない段階に、祖霊信仰が広まった。
 首長は自ら土地を耕し、春や秋の決まった日にだけ先祖の神々の祀りを指導した。
 そのような段階の神話は、農民たちが祖先から聞いた体験談をふくらませてつくられる。

・大国主命は、他人に仕えて荷物運びをさせられたこともある。
 ある時は狩猟で、ある時は木材の伐採で事故にあって、命を落としかけた。
 有力者のいじめにあって、蛇の出る部屋やムカデ、蜂が襲ってくる部屋に泊められたこともある。野火にあって、ほら穴をみつけて、命びろいをしたこともある。
 大国主命が遭遇したさまざまな苦難は、古代の庶民が経験したことでもあった。
 大国主命は多くの試練にあったが、勇気と知恵と優しい心によって、それを乗り切った。
 自分たちの祖先も、大国主命のように生きていくうえで、多くの苦労に耐えてきた。
 そのおかげで、いまの自分たちがいる。そう考えた人々が、祖霊を祀ったのである。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、97頁~99頁)

縄文以来の精霊崇拝上にある大国主命神話


・王家がつくった高天原(たかまがはら)の神々は、生まれながらに強い力をもつものだとされた。
 これは、王家の人間がその出自によって、人々を支配する資格をもつとする主張に対応するものである。
 大国主命は、試練を乗り切って偉くなったが、高天原の神々には成長する要素がない。
 これが、首長霊信仰がつくられたのちに考えられた神々の特徴である。

・大国主命神話には、首長霊信仰の影響がみられない。
 このことから、それは大和朝廷が首長霊信仰を生み出した3世紀末より前の形のままで、うけつがれてきたものだと評価される。
さらに、大国主命神話に、出雲特有の縄文的要素が含まれている点も重要である。
 祖霊信仰は、人間と自然物との間に境をもうけることからはじまる。
そして、亡くなった人間の霊は常世国(とこよのくに)に行き、祖霊になって人々を見守ると唱える。そのような段階になると、動物の霊を精霊として尊ぶ発想はうすれていく。
 
・ところが、大国主命神話には、縄文時代以来の精霊崇拝にもとづく要素が多くみられる。
 大国主命は傷ついた莵にやさしく声をかけた。
 その莵が莵神(うさぎがみ)であったために、大国主命はつぎつぎに幸運をつかんでいったとされる。
・火攻めにあった大国主命を救ったのは、ネズミであった。
 彼は、ネズミの言葉を理解できたおかげで、難を逃れた。
・不気味な客間に出る蛇やムカデや蜂も、大国主命が須勢理比売(すせりひめ)に教わった呪術によって、おとなしくなった。
※日本神話に登場する神々の中で、このように生き物と親しく接する者はいない。

・縄文的な精霊崇拝を否定する立場にあった朝廷は、神話の中で動物が重要な役目を担う場面を極力さけた。
 そして、王家の先祖たちは、動物の力を借りる場面で、それを神のつかいと知ったうえで行動したとされる。

・山幸彦(彦火々出見尊[ひこほほでみのみこと])を海神のもとから地上に送った鰐は、海神のつかいであった。
 神武天皇は、天からきた八咫烏(やたがらす)や金鵄(きんし)を祖神がつかわしたものだと知って、道案内や自軍の援兵として用いたとされる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、99頁~100頁)

大国主命神話と民話の共通点


〇大国主命神話が、各地に伝えられているよく知られた民話と共通の要素を多くもっている点に注目したい。
・動物が活躍する民話は多い。
 舌切り雀、ねずみの浄土、花咲か爺さんなどの多くの民話が、動物にやさしくした者が幸運を得て、動物をいじめた者が不幸になる形をとる。
 それらは、因幡の白莵の話と、全く同じつくりをもつ。
➡こういった現象は、朝廷が精霊崇拝を否定したのちにも、民間では長期にわたって、動物を祀る習慣が残っていたことを物語る。
 いまでも因幡の白莵を祀る神社が残っていることをみると、現代の私たちにも、精霊崇拝的な発想がうけつがれているのかもしれない。

※大国主命は、庶民により近い信仰にもとづいてつくられた神であったために、多くの人にうけ入れられた。

〇大国主命神話と民話との共通点は多いが、その中のとくに重要な二点だけを指摘する。
 大国主命神話が「まれびとの来臨(らいりん)」と「英雄求婚譚」の要素をもっている点である。
①「まれびとの来臨」
・これは、神が見なれない人や動物の姿をかりて人々を訪れるという信仰にもとづく物語である。
 神は、病人や身体障害者や飢えや貧乏に苦しむ者の姿をとってあらわれる。
 そのような神を親切にもてなせば、幸運を得るというのである。
※大国主命神話に出てくる白莵と少彦名命(すくなひこなのみこと)がまれびとである。
 桃太郎に従った犬、猿、雉は、そのようなまれびとがもっともわかりやすい形で出たものである。

②「英雄求婚譚」
・これは、若者が美しい娘を見初めて妻にもらいたいと言ったために、できそうにもない難題を与えられるものである。
・娘の父がもちかけた課題をやりとげることによって、若者は大きく成長し、英雄になって人々を指導するようになる。
※根国での大国主命と素戔嗚尊とのやりとりがこれにあたる。
 一寸法師の話では、小さな一寸法師が鬼退治という難題を克服して、打出の小槌で立派な若者になる形をとっている。

・よく知られた民話の中で、この二つの要素のないものを探すのが難しいほどである。
 大国主命神話が各地に展開して、さまざまな民話ができたわけではない。
 全国の古代人が求めたものが、大国主命のような神であった。
 そのため、大国主命信仰が急速に全国化していく。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、101頁~102頁)

大国主命は武器の神だった?


・大国主命が「八千戈神(やちほこのかみ)」ともよばれていることに注目している。
 彼は、国譲りのときには国を平定した広矛(ひろほこ)をささげている。
 また、『日本書紀』は、伊奘諾尊(いざなきのみこと)が出雲を「細戈(くわしほこ)の千足国(ちたるくせ)」、つまり良い戈が多くある国と呼んだ、と記している。

※こういったことは、大国主命信仰が、元来は剣、矛などの武器を祭器とするものであったことをうかがわせる。
 荒神谷遺跡で大量の銅剣が出土したことは、それを裏づけるものである。
※大和朝廷の祭祀は、もともと銅鏡をもっとも重んじるものであった。
 それは、伊勢神宮が銅鏡を御神体とすることや、天照大神が瓊々杵尊(ににぎのみこと)に三種の神器を与えるときに、八咫鏡(やたのかがみ)を「われの分身と思うように」と言ったと伝えられる点からもわかる。

・また、朝廷は、出雲を平定したとき、そこの剣を用いた祀りをうけ入れ、出雲の祭祀をとりこんだ。そして、人間の魂を象徴するとされる勾玉(まがたま)を鏡と剣に加えて、三種の神器とした。

※これまで解説したのは、出雲神話の一面である。
 もう一面として、出雲特有の生と死の問題がある。
 次章では、出雲が死の世界の入口とされた理由を考えている。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、114頁~115頁)


第四章 死に、また再生する出雲の神々

出雲は死にかかわる地?


〇大国主命神話で、命(みこと)は何度も死と再生をくり返したとされる。
 そのことから、一つの謎が浮かび上がってくる。
 素戔嗚尊、大国主命、少彦名命、事代主命(ことしろのぬしのみこと)などの出雲系の神々の物語には死がつきまとう。
 ところが、皇祖神天照大神を中心とする高天原の神々の世界には、死がほとんどない。
 この違いはなぜ生じたのだろうか。

〇それは、出雲の神々が王家(皇室)の祖先でないのに、なぜ神話で大きく取りあげられるかという謎ともかかわる。
 その理由の一つは、朝廷が皇祖神と、死にかかわる穢れた神である出雲の神々を対比することにより、自家の清らかさを強調したことに求められる。

・古代人は、もともと死者の住む世界を身辺においていた。
 出雲には、「黄泉(よみ)の坂黄泉の穴」といわれる海食洞(かいしょくどう)がある。
 そこは、あの世に通じると伝えられている。
・また、伊奘諾尊(いざなきのみこと)がそこを通って、黄泉国からこの世にもどってきたとされる黄泉比良坂(よもつひらざか)は、出雲国に実際にある伊賦夜坂(いふやざか)だとされた。

※祖霊信仰の段階では、人々は、死者である祖霊はつねに身辺にいると考えていた。
 彼らは、死者が住む美しい世界(常世国)で暮らしている。
 しかし、子孫が困っているときには、いつでも飛んできて助けてくれる。
 そして、集落の近くに祖霊が集まる神聖な土地があるとされた。森や林、山、洞窟や巨石のそばが、そのような聖地だと考えられた。
 古代人は、そのような場所で先祖を拝んだ。そして、のちにそこには、神殿をもつ神社がつくられる。

・『古事記』『日本書紀』の神話の死にかかわる事柄は、すべて出雲にからめて、語られている。
 伊奘諾尊は、出雲を経て黄泉国を訪れた。
 素戔嗚尊、大国主命、事代主命といった出雲の有力な神々は、最後はあの世に去って、身を隠したとされる。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、118頁~119頁)

死のない世界・高天原


・高天原神話で、死が語られることはほとんどない。
 二点の例外は、すべて素戔嗚尊の乱暴の物語の中に出てくるものである。
 そこには、素戔嗚尊は出雲の神だから死にかかわってもおかしくないとする発想がみられる。

・神々は、高天原で永遠に生きるとされる。
 ゆえに、天照大神が自分の六代目の孫にあたる神武東征に高天原から力をかすといった話が成立する。

※これは、祖霊信仰の他界観と異なる発想によって作られたものである。
 祖霊信仰は、祖先はいったん死んでも常世国に行って、そこから人々に手をかすとする。
 ところが、大王や朝廷の有力豪族の先祖である高天原の神々は死を知らない。
 首長霊信仰は、祖霊信仰から発展した。ゆえに最初は、亡くなった首長はまちがいなく死んだと考えられたはずである。そして、死者である首長霊が子孫を守ると考えられた。

・ところが、6世紀はじめに、大王の権威が高まると、朝廷は大王も普通の人間と同じく死を迎えるという事実になるべくふれたくないと考えはじめた。そういった動きの中で、高天原神話ができたという。
 そのため、高天原の神ははるか昔にあらわれ、遠い未来まで活躍し続けると考えられた。

※天岩戸(あまのいわと)のもとになった日蝕神話は、もとは太陽神の死と再生を物語るものだった。
 それは、南方から航海民の手で伝えられた神話である。
 ある物語は、善良な太陽神である兄と、悪い心をもった暗黒神の弟がおり、弟が兄を殺したため、日蝕がおきたとする。そのとき、人々の祈りにより太陽が復活したが、人間が善良な心をなくすと再び闇が訪れるという。
 このような話があちこちに分布する。

・しかし、日本では、日蝕と天照大神の死を結びつけなかった。
 大神は、素戔嗚尊の乱暴に怒って、一時的に天岩戸に隠れた。
 そして、神々が岩戸の前で祀りを行なったために、再び姿を現わしたとしたのである。
 このような話の舞台になった高天原は、死のない世界であった。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、120頁~121頁)

出雲土着の神だった素戔嗚尊


・大物主神に代わって天照大神を祀るようになった朝廷は、それまで各地で崇拝された大国主命などの国神を、高天原の神の下に位置づけねばならなくなった。
 そのため、高天原を追われた穢れた神である素戔嗚尊の物語がつくられた。
 そして尊が国神たちの祖先とされた。

・南方から伝わった日蝕神話に、日蝕を起こした太陽神の弟の悪神が登場する。その悪神像をふくらませて、高天原の素戔嗚尊の話ができたようだ。
 しかし、南方の物語をまねて、素戔嗚尊が太陽神を殺す話をつくるわけにはいかない。
 そこで、尊が太陽神に仕える女官の神を殺したとされた。けれども、それだけではまだ罪が軽い。そこで、素戔嗚尊は畔をくずし溝を埋め祭祀を妨害する罪も犯したとされた。
(これは、農耕社会ではもっとも重大な罪だとされて、「天津罪(あまつつみ)」と名づけられた)
 重罪を犯した神を高天原におくわけにはいかない。素戔嗚尊は地上に追放された。
(斐伊川を流れる箸を見て、尊は上流に人がいると知り、奇稲田姫(くしいなだひめ)のもとを訪ねる)

※高天原の神々は一度も罪を犯さない清らかな神とされた。
 天照大神の弟であっても、罪を犯せば追われる世界が、高天原であった。

〇素戔嗚尊は、もとは出雲土着の神であった。
 彼の伝承は出雲各地に分布する。
 『出雲風土記』の中の素戔嗚尊は、おおらかな農耕神であった。
・たとえば、大原郡佐世(させ)郷の条には、つぎのようにある。
「須佐能袁命(すさのおのみこと、素戔嗚尊)が佐世の木の葉をかざして踊ったとき、佐世の葉がここに落ちた。そこでここを佐世と名づけた」

・素戔嗚尊の名は、飯石郡須佐(すさ)郷の地名にもとづくものである。
 「すさの男」をあらわすものである。
ところが、その言葉のひびきが、乱暴をすることをあらわす「すさぶる」を連想させた。
➡そこで、朝廷は素戔嗚尊を高天原で乱暴をした出雲系の神とする物語をつくった。
 そうなると、大国主命は素戔嗚尊の子孫として位置づけられることになるという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、123頁~126頁)

奇稲田姫は本来自ら蛇神を退治していた


・松江市の八重垣神社は、『出雲風土記』に佐久佐(さくさ)社として出てくる奇稲田姫を祀る神社である。
 そこの佐久佐女(さくさめ)の森は、奇稲田姫が八岐大蛇から逃れた地だとされている。
 その森の中に、奇稲田姫が毎朝、自分の姿を写したと伝えられる鏡が池がある。
 その水面に硬貨をのせた白紙を浮かべて、早く沈めば早く良縁に出合えると伝えられる。

・その池から、長さ8センチメートル、高さ8センチメートルの土馬が出土した。
 古代の文献に雨占いのために、馬を生贄にする習俗がしきりに出てくる。
 そこで、奇稲田姫は、もとは水神であったと考えられる。

・古代人は、蛇を水神のつかいとみていた。
 雷を自由に操る三輪山の神は蛇の姿をしていた。
 『常陸国風土記』には、谷の奥の水源にいた蛇の姿をした夜刀神(やとのかみ)の話が出てくる。

※高天原神話と結びつく前の奇稲田姫の物語は、彼女が佐久佐女の森で呪術を行ない、蛇の姿をした悪い水神を倒す形をとっていたのではないか、と著者はみている。
 つまり、彼女は自力で蛇神との命をかけた戦いという、死の試練と再生の過程を克服したとされていたという。

・『出雲風土記』に、出雲郡宇賀(うが)郷に「黄泉の坂黄泉の穴」といわれる海岸の洞窟があったことがみえる。
 その条に、「夢でこの磯の窟(いわや)のほとりにいたると必ず死ぬ」と説明されている。
 そこの調査が行なわれたとき、多くの人骨が出土した。
 その穴は、古代人の墓地だった。
 宇賀郷の人々は、死者を海岸の洞窟の中に葬れば、死者の魂は海のかなたの美しい世界に行けると考えていたようだ。

・宇賀郷の地名のいわれを記す「風土記」の説明は、つぎのようなものである。
「天下造らしし大神命(大国主命)が、神魂命の子の綾門日女命(あやとひめのみこと)を妻にしようと考えてここを訪れてきた。そのとき、女神は承諾しないで逃げて姿を隠した。そこで、大国主命はあちこちを伺い見て(探し見まわって)ようやく日女(ひめ)をみつけて妻にした。そのため、『伺い見る』ことにちなんだ宇賀の地名ができた」

※綾門日女命は、「黄泉の坂黄泉の穴」の洞窟の中に身を隠したのであろう。
 これにより、宇賀郷で祀られていた女神はいったんは死んだとされる。
 そして、大国主命に見出されることによって、彼女は再生して子をもうけた。
 
※この他にも、各地の独立神の死と再生を物語る記事が、『出雲風土記』に多くみえる。
 人間が必ず死ぬ運命にある以上、人間の生活を反映してつくった神々の世界に死があるのは当然である。
 それにもかかわらず、朝廷は死の概念をなくした高天原神話という特殊な世界をつくったという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、133頁~135頁)

第六章 大国主命から大物主神へ

首長のための特別な墓(第六章)


・大国主命信仰にもとづく出雲統一が、他の地域に影響を及ぼし、日本統一を早めたことはまちがいない。
 そうだとすれば、以下の疑問が浮かび上がってくるという。
①出雲の首長の支配が、どの程度まで進んだものであったのか。
②大国主命信仰が大和に伝わったことが、どのような形で大和朝廷の首長の支配の強化につながったのか、という謎である。
※出雲氏と神門氏のもとにまとめられた古代出雲王国は、日本で最初に生まれた一国規模の王国であったと評価できる。

〇出雲王国が新たにつくり出したものとしては、つぎの三点が挙げられる。
①共通の神を祀ることによって、小国の首長の連合を生み出したことである。
②彼らがこぞって信仰する大国主命のはたらきについて、まとまった神話をつくったことである。
③祭司をつとめる首長である出雲氏と神門氏のために、特別の墓をつくりはじめたことである。
➡そのようにしてできたものが、出雲特有の整った形をもった四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)である。

【四隅突出型墳丘墓について】
・それは3世紀を中心に、出雲氏の本拠地である意宇(おう)郡と、神門氏の拠る出雲郡とにまとまって出現する。
・出雲の墳丘墓は、亡くなった首長を神として祀るためのものではない。
➡そのため墳丘墓は低く、その規模も小さい。
 副葬品も大して多くない。
 出雲の人々は、貴重な祭器は首長の墓にではなく、荒神谷遺跡のような聖地にささげるべきだと考えていたという。

※そうであっても、出雲の墳丘墓は、それ以前に各地でばらばらに出現した小型の墳丘墓や周溝墓(しゅうこうぼ、周囲を溝で囲った墓)とは明らかに異なっている。
 1世紀なかばに吉野ヶ里遺跡でつくられた墳丘墓は、早い時期の墳丘墓の一つである。
(そこからは、極めて多くの人骨が出土した。墳丘をもった墓であっても、それは多くの一般人を葬る共同墓地であった)
・須玖(すく)・岡本遺跡や三雲遺跡の王墓は、多くの宝器を副葬していた。
 とくに後者は、巨石を目印においたものであった。
 しかし、それは一般人の墓地の中に営まれていた。
※その意味で、出雲の首長墓は、一般人に対する首長の優位性を明確にしたものである。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、174頁~175頁)

交易国家邪馬台国の弱点


・邪馬台国は、出雲のような神政国家をつくれなかったという。
 邪馬台国支配下の三十国が、思い思いの神を祀っていた。
 『魏志倭人伝』は、卑弥呼が鬼道(きどう、祖先神を祀ること)によって人々を治めていると伝える。
 しかしその支配が及ぶのは、彼女の支配下の小国である邪馬台国の中だけであった。
・邪馬台国連合を構成する小国の首長たちが彼女に求めたのは、中国との交易に関する小国間の利害の調整役だった。
 そのため、彼女は魏の政情をつかんだうえで、自国がもっとも重んじられるような外交策をとった。そして、「親魏倭王(しんぎわおう)」という格の高い称号をもらった。
・その時代に、「親魏」を冠した王号をもっていたのは、邪馬台国とインドの強国クシャナ朝の王だけだった。
 これによって、卑弥呼の評価が高まり、彼女のために巨大な墓がつくられた。

※吉野ヶ里遺跡にみられるような、北九州の小型の墳丘墓が発展したものが、卑弥呼の墓であったのだろうか。それとも、邪馬台国が交易の場で、吉備か出雲の墳丘墓づくりを学んだのだろうか。
 この問題も、発掘によって解かなければならないという。
 吉野ヶ里遺跡の時代である1世紀なかばと、卑弥呼の生きた3世紀なかばとの中間にあたる時期の墳丘墓がいくつか出てくれば、吉野ヶ里と卑弥呼の墓とは、つながる。
 しかし、そうでなければ、北九州の墳丘墓は、吉野ヶ里遺跡(弥奴国[みなこく])の後退とともに、いったん姿を消したことになるという。

・邪馬台国は、交易国家の段階にとどまった。
 つまり、大陸との貿易に関して、邪馬台国が指導力をもっている間は、小国の首長たちは邪馬台国の王をたてる。しかし、それがなくなれば、小国が邪馬台国に従う理由は失われてしまう。

・250年前後に卑弥呼が亡くなった。
 そのあと、邪馬台国の国内に混乱があったが、女王台与(たいよ)が、それをおさめた。
 彼女は、ただちに魏に使者を送った。
 これによって、台与は、邪馬台国連合の盟主の地位を得たのである。

 265年、魏が滅び、司馬炎が新たに晋(西晋)の王朝をたてた。司馬炎は、卑弥呼の使者を厚遇した魏の高官司馬懿(しばい)の孫にあたる。
 266年、倭の女王が晋に使者を送ったと中国の文献は伝える。この女王は、台与であろう。彼女は、新王朝が立ったことを祝う贈り物をした。

※これによって、魏と西晋が邪馬台国を後押ししていたありさまがわかる。
 しかし、邪馬台国の記事は、それを最後にみられなくなる。
 317年に、西晋が滅ぶ。
 中国の朝鮮半島支配の拠点であった楽浪郡と帯方郡は、それより4年前の313年に高句麗に滅ぼされている。二郡の滅亡によって、西晋の後楯を失った邪馬台国は、急速に後退していった。

※大和朝廷に交易国家の要素は少ない。
 朝廷は、4世紀はじめに北九州を支配下におさめ、4世紀なかばに朝鮮半島に進出した。
 しかし、そのころの朝廷は中国との国交を求めなかった。
 中国の保障がなくても、自力で国内の首長を支配できる実力を朝廷はもっていたという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、181頁~185頁)

倭迹々日百襲姫の神婚が意味するもの


・三輪山が祀られたいわれについて、『古事記』と『日本書紀』は別々の物語を伝えている。
 『日本書紀』のものがより詳しい。
 『古事記』は、疫病がおこったときに、大物主神が崇神天皇につぎのような夢のお告げをしたという。

「わが子の大田々根子(おおたたねこ)に私を祀らせれば疫病がしずまる」
※これは、大三輪氏の伝承によるものである。
 大田々根子は、大物主神が活玉依媛(いくたまよりひめ)という美女のもとに通ってもうけた子だという。

・それに対して、『日本書紀』は、王家が大物主神を祀る物語を伝えている。
 崇神天皇が神浅茅原(かむあさじばら、纏向遺跡の近くの浅茅原だとされる)で神々を祀った。すると、大物主神が大王の大叔母にあたる倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)に神託を下し、自分を祀れば国がよく治まると告げた。

・そこで、朝廷の祭官に大物主神を祀らせたが効果がない。
 大王がさらに神意を問うたところ、大田々根子に祀らせよとのお告げがあった。
 そのため、大田々根子を大物主神の祭司にした。

・このあと、倭迹々日百襲姫が大物主神の妻になった。
 神は、夜ごとにやってきて暗いうちに帰っていく。
 そこで、姫は「あなたの正体を見せて下さい」と頼んでみた。
 神はその求めにこたえて、朝になってもとどまったが、姫は神の姿が蛇だと知って驚いた。

・すると大物主神は、「私は大恥をかいた」と怒り、山に去っていった。
 姫は悲しみのあまり、自殺してしまった。
 人々は、彼女をあわれんで、壮大な箸墓古墳をつくったという。

・大三輪氏は、自分たちは大田々根子の子孫だという。
 そこで、『日本書紀』が、昔は王女が大物主神を祀っていたが、のちに大三輪氏が大物主神の祭司になったと主張しているありさまがわかる。

※ところが、『古事記』は、大三輪氏がはじめから大物主神を祀っていたと述べている。

※また、大神神社の疫病しずめの要素が強調されるのは、太陽神の機能が三輪山から分離された6世紀なかば以降のことである。
 それゆえ、疫病をおさめるために、三輪山の祀りがはじまったとする『古事記』の伝えは、より新しいものだということになる、と著者は考えている。

 その意味で、三輪山伝承の倭迹々日百襲姫の神婚の部分が、大物主神信仰の原形を知る有力な手がかりになると評価できるとする。
 三輪山の大物主神は蛇の姿をしていたという。
 このことから、それが出雲特有の八岐大蛇伝承とつながりをもつものだった、と推測している。
 『日本書紀』などの物語は、素戔嗚尊が水をつかさどる自然神である八岐大蛇を斬る形をとる。
 しかし、その話の原形は大蛇の生贄になりかけた奇稲田姫(くしいなだひめ)が呪術で大蛇を倒すものであった、と考えている。

※奇稲田姫の位置に倭迹々日百襲姫を、八岐大蛇の役に大物主神をおいてみよう。
 そうすると、倭迹々日百襲姫が神の妻になることによって、さまざまな災害を起こしてきた水の神を手なずける話が、八岐大蛇伝説の古い形に近いことに気づく。
 剣の信仰のさかんな出雲では、悪者を力で討つ話が好まれた。
 しかし、大和の人は敵対者を手なずける形が自然だと感じた。
 そこで、大国主命信仰とともに伝わってきた水の神を従える話が、大物主神と王女の神婚譚にかえられた、という。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、191頁~194頁)


第七章 出雲はなぜ朝廷に従ったのか
出雲が全国政権とならなかった理由
意宇郡の古墳が意味するもの
出雲の誇りを伝える前方後方墳

朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏(210頁~)
大和朝廷の出雲平定~『日本書紀』の大筋

出雲が全国政権とならなかった理由(第七章)


・出雲は4世紀なかばに、大和朝廷の支配下に組み入れられた。
 なぜいちはやく神政国家をつくった出雲政権は、簡単に朝廷に従ったのであろうか。
 この問題は難問である。
 出雲氏が朝廷の全国支配に対して、武力で大がかりな抵抗をしたことをしめす文献史料も考古資料もない。
 ゆえに、これからつぎの視点でその謎を解くという。
〇出雲氏の出雲の首長に対する指導力が弱かったために、出雲氏は進んで朝廷と結び、自家の勢力を高めたのではあるまいか。

①なぜ2世紀以来の出雲氏の支配は、不完全なものにならざるを得なかったのだろうかという問題
②大和朝廷と結ぶことによって、出雲氏はどのような利益を得たかという問題

・確かに2世紀なかばに、出雲氏、神門氏の連合が成立し、大国主命信仰が生まれた。
 そのときに出雲一国の統合が完成したおかげで、出雲政権は当時の日本で最強の勢力になった。
 しかし、出雲政権がそれ以上に勢力圏を広げることはなかった。
 彼らは、出雲一国のまとまりの中で、4世紀なかばの大和朝廷の出雲進出を迎える。
・この約200年間は、日本統一に向けての戦乱時代であった。
 2世紀末には、吉備氏が岡山平野を中心とする勢力を形づくる。
 同じころ、北九州で、卑弥呼の指導のもとに、邪馬台国連合ができる。
・さらに、3世紀なかばに大和朝廷が誕生する。
 弥生時代後期に、日本統一につながりうる動きで、北九州、出雲、吉備、大和の4カ所で起こっていた。

・しかし、四者による統一戦争は起こらなかった。
 大和朝廷が全国制覇の動きをみせると、西日本の諸勢力はあっけない形で朝廷に屈服した。
 出雲政権が一国規模のものにとどまった理由は、いくつかある。
①出雲東部の出雲氏と出雲西部の神門氏とが並立する形で長く続き、出雲に強力な指導者が出なかったことである。
・有力な四隅突出型墳丘墓の数をみてみよう。
 出雲氏が残したものは、下山墳丘墓、安養寺一号墓などの11基、神門氏が残したものは西谷三号墓など6基になる。
 出雲氏がより有力なように思えるが、出雲東部の墳丘墓の規模が、出雲西部のそれよりまさるわけではない。
そこで、両者の勢力は拮抗していると評価できる。

②出雲の300余りの首長の自立性が強かったことが挙げられる。
・それは、大国主命信仰ができたのちにも、彼らが古くから祀っていた独立神が否定されず、『延喜式』の時代にまでうけつがれたことからわかる。
・2世紀末に出現した四隅突出型墳丘墓は、4世紀はじめまでの百数十年間、ほとんどかわらないままで続いた。
 もし、出雲東部もしくは西部の勢力がもう一方の勢力を押さえ、出雲の首長たちに対する支配を強化していれば、意宇郡もしくは出雲郡の墳丘墓が、時代とともに急速に有力化したはずである。
・大国主命信仰は、出雲国内の首長の信仰を制約するものではなかった。
 そのことは、大国主命信仰をうけ入れた他国の首長が、出雲氏の支配下に組み入れられなかったことを意味する。

※富山市に四隅突出型墳丘墓、杉谷四号墓がある。
 それは、3世紀末のもので、全長は41メートルに達する。
 出雲のものと、ほぼかわらない規模の墳丘墓である。 
 そこの首長は、日本海航路によって、大国主命信仰をうけ入れ、墳丘墓をつくった。
 しかし、彼らが出雲氏や神門氏の墳丘墓に見劣りしない墓をつくったことは、彼らが出雲氏の支配をうけ入れたのではないことをしめす。

※大国主命信仰は、大和朝廷の全国支配に結びついた首長霊信仰と異なる性質をもっていたのである。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、200頁~202頁)

出雲の誇りを伝える前方後方墳


・4世紀なかばから、出雲の前方後方墳が目立つようになる。
 考古学界には長期にわたって、有力な古墳は前方後円形につくられているという固定観念があった。

・ところが、大正14年(1925)になってはじめて、松江市山代二子塚(やましろふたごづか)古墳が前方後方墳ではないかとする意見が出された。
 前方後円墳は、死者を葬る円形の丘に四辺形の祭壇をつけたものである。
古墳の主体部がすべてきっちりした円形をとっているわけではないが、四辺形の古墳の主体部もあるとする意見は、多くの学者を驚かせた。古墳の測量が進められるに従って、前方後方墳の数は増えていった。
現在、200基余りの古墳が前方後方墳だとされている。
山代二子塚古墳は、全長約100メートルの6世紀なかばの古墳で、前方後方墳の中では新しいものである。
三刀屋町松本一号墳が、現在のところ出雲の最古の前方後方墳だと考えられている。
全長約50メートル、紀元350年前後に築かれたものである。
さらに、棺の中央底部に朱が散布されている点から、それが神門氏の墳丘墓の伝統をうけついでいることがわかる。

・出雲には、33基の前方後方墳がある。
 その数は全国一である。
 また、吉備の発生期の古墳の中にも、前方後方墳が多い。
 さらに、物部氏の本拠地に天理市西山古墳という全長180メートルの前方後方墳がある。
 それは350年前後につくられたものである。

※このような初期の前方後方墳の分布から、つぎのようなことが推測できるという。
 王家は自分たちが吉備からの移住者であり、大物主神信仰が吉備から伝わったことをよく知っていた。そこで、吉備を支配下におさめたとき、吉備氏を重んじて、彼らに独特の形をとる前方後方墳づくりを許した。

・一方、物部氏は、石上(いそのかみ)神宮で布都御魂(ふつのみたま)という剣神を祀っていた。
 剣神の信仰は出雲から広がったものである。
 そこで、物部氏は常に朝廷で、自家が古い信仰をもつ家であると主張していた。
 吉備で前方後方墳がつくられるようになってまもなく、彼らは王家に自分たちも前方後方墳がつくることを認めさせたのだろう、とする。
 出雲が朝廷の支配下に入ると、大国主命信仰のふるさとに住む彼らも、前方後方墳をつくるようになった。さらに、大国主命信仰の強い加賀、能登、関東などにも、前方後方墳が広まった。
 つまり、前方後方墳は、出雲の人々の、自分たちのもつ宗教的伝統に対する誇りを伝えるものであるという。
(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、206頁~209頁)

朝廷の軍勢で神門氏を抑えた出雲氏


〇大和朝廷の出雲平定~『日本書紀』の大筋
・大和朝廷の出雲平定は、出雲の神宝の献上をめぐる伝承として、『日本書紀』に伝えられている。その大筋は、つぎのようである。

「崇神(すじん)天皇が、出雲氏の祖神、天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)が天から持ってきた出雲の神宝を見たいといって、武諸隅(たけもろすみ)という者を出雲に送った。このとき、出雲氏の当主の振根(ふるね)は筑紫におもむいていた。そのため、彼の弟の飯入根(いいいりね)が神宝を献上した。筑紫からもどった振根は大いに怒り、斐伊川下流の止屋(やむや)の淵(塩冶郷)に弟をよび出して殺した。このとき彼は木刀をもって行き、刀をさしてきた飯入根に二人で水浴をしようと誘った。そして、先に上がり飯入根の刀を取って打ちかかった。飯入根は振根の木刀で立ち向かおうとして斬られてしまった。そのため、大王は吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を送って振根を殺した」

※武諸隅は物部一族であり、武渟河別は阿倍氏の先祖だとされる。
 この話は4世紀なかばに、神門氏の中に朝廷に反抗して討たれた者が出た史実をもとにつくられたものであろう。
・飯入根の子、鸕濡渟(うかづくぬ)は、国造をつとめた出雲氏の祖先だとされる。
 後に出雲氏は、彼を「氏祖命(うじおやのみこと)」という別名でよんだ。
・出雲氏が朝廷の軍勢を引き入れて、神門氏の一部を攻撃したのであろう。
 そのとき、吉備氏が朝廷の側に立って活躍したため、吉備津彦が振根を討ったとする伝えができた。
 また、6世紀以降、阿倍氏が日本海沿岸に勢力を張ったので、武渟河別が吉備津彦とともに活躍したとされた。
※『日本書紀』は、垂仁朝に物部十千根(とおちね)が、出雲の神宝を検校するために出雲におもむいたと伝える。
 これによって、出雲氏と同じ剣神の信仰をもつ物部氏が、朝廷と出雲氏との仲介役をつとめていたことがうかがえる。
※『出雲風土記』の出雲郡健部(たけるべ)郷の条に、つぎのようにある。
 日本武尊の名前を後世に伝えるために健部をおいたとき、神門古禰(ふるね)を健部とした。
 そのため、ここに健部氏が住むことになり、健部の地名ができた。
 古禰と振根とは、同じ「ふるね」の名をもつ同一の人物である。
 神門氏の本拠地である出雲郡に住む人々は、自分たちの先祖の古禰(振根)は朝廷に反抗しなかったと主張したのである。

(武光誠『古代出雲王国の謎』PHP文庫、2004年[2007年版]、210頁~211頁)


≪歴史学とは?~小田中直樹氏の著作より≫

2024-06-09 18:00:02 | 歴史
≪歴史学とは?~小田中直樹氏の著作より≫
(2024年6月9日投稿)
 

【はじめに】


 歴史学とは何ですか?と真正面から問われると、ふつう、答えに窮する。
 私自身、大学では史学科の専攻であったが、いざ、このような問いかけを第三者からされると、やはり、困ってしまう。
 そこで、今回のブログでは、次の著作を参照にして、歴史学とは?という問いについて、考えてみたい。
〇小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年

 著者は、下記のプロフィールにあるように、大学の経済学部を卒業し、専攻は社会経済史である。そして、フランス近代社会についての専著がある。
 歴史学については、次の二つの問題をめぐって、議論が進められている。
①史実はわかるか
②昔のことを知って社会の役に立つか
 このことに関連して、構造主義(言語学者のソシュール)、社会学、政治学などの諸科学の議論も取り上げているのが、本書の特徴である。
 歴史学に限らず、科学を学ぶことの意味や意義について、「コモン・センス」(個人の日常生活に役立つ実践的な知識)や「懐疑する精神」と「驚嘆する感性」を身につけ、つねに批判的な姿勢をとりつづける人びとを生み出すことに、著者は求めている。(192頁~194頁)
 どのような議論をへて、このような結論に達したのか、紹介してみたい。

【小田中直樹(おだなか・なおき)氏のプロフィール】
・1963年生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科。博士(経済学)
・東京大学社会科学研究所助手を経て、現在、東北大学大学院経済学研究科助教授。
 専攻は社会経済史。
<おもな著作>
・『フランス近代社会 1814~1852』(木鐸社)
・『歴史学のアポリア』(山川出版社)
・『ライブ・経済学の歴史』(勁草書房)
【補足】
・社会経済史を専攻した学者であるから、「第3章 歴史家は何をしているか」の「Ⅱ日本の歴史学の戦後史「比較経済史学派」の問題設定」での大塚久雄の解説には、説得力がある。(153頁~156頁)
・「あとがき」で、この本を妻にささげるとある。Merci de tout cœur! というフランス語でしめくくるあたりに、フランス近代社会が専門であることがあらわれている。(201頁)



【小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)はこちらから】
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)






さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇はじめに
〇序章 悩める歴史学
<歴史学の意義とは何か>

〇第1章 史実を明らかにできるか
<歴史学は根拠を問いつづける>
<さらに難問は続く>
<史料批判は必須>
<実証主義への宣戦布告>
<「構造主義」のインパクトとは何か>

〇第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ 従軍慰安婦論争と歴史学
Ⅱ 歴史学の社会的な有用性
<「日本人」は一つの空間を共有してきたか>
<アイデンティティを再確認する>

〇第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
<教科書と歴史家の仕事>
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
<「比較経済史学派」の問題設定>
<「近代人の形成」という問題>
<社会史学の出現>
Ⅲ 歴史家の営み
<歴史家の仕事場>
<歴史像には「深さ」のちがいがある~美術史学の営み>

〇終章 歴史学の枠組みを考える
<「物語と記憶」という枠組み>
<「通常科学」とは何か>
<「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」>
<「通常科学とコモン・センス」という枠組み>

〇「あとがき」より









〇小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年
【目次】
序章 悩める歴史学
「パパ、歴史は何の役に立つの」
シーン①ある高校の教室で
シーン②ある大学の教室で
シーン③ある大学の学長室で
歴史学の意義とは何か

第1章 史実を明らかにできるか
Ⅰ歴史書と歴史小説
 歴史書と歴史小説のちがいとは
 史実かフィクションか
 テーマや文体か
 叙述か分析か
 ケーススタディ・五賢帝時代
 歴史学は根拠を問いつづける
Ⅱ「大きな物語」は消滅したか
 解釈と認識
 歴史が終わると歴史学は困る
 かつての「大きな物語」――マルクス主義歴史学
 ぼくらは相対化の時代を生きている、らしい
 最近の「大きな物語」①民族の歴史ふたたび
 最近の「大きな物語」②大衆社会の出現
 「より正しい」解釈を求めつづけるということ
Ⅲ「正しい」認識は可能なのか
 さらに難問は続く
史料批判は必須
実証主義への宣戦布告
「構造主義」のインパクトとは何か
 歴史家は困ってしまった
 ほかの科学は大丈夫か
 認識論の歴史をちょっとふりかえる
 「コミュニケーショナルに正しい認識」という途
 歴史学の存在可能性

第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ従軍慰安婦論争と歴史学
 従軍慰安婦論争を読みなおす
 従軍慰安婦の存在証明の試み
 戦争責任の問題はぼくらを動揺させた
 古くて新しい「新自由主義史観」
 国民の歴史は物語であり、フィクションだ
 従軍慰安婦論争の複雑さ
 歴史学は役に立つか
Ⅱ歴史学の社会的な有用性
 歴史学は社会の役に立たなければならないのか
 「日本人」というアイデンティティ
 「日本人」は一つの空間を共有してきたか
アイデンティティを再確認する
アイデンティティを相対化する
新しいアイデンティティを選びとる
「役に立つ」ことの陥穽
歴史家の仕事

第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
教科書と歴史家の仕事
十九世紀前半の欧米―「革命」をめぐる論争
十九世紀後半の欧米―「帝国主義」と「国民統合」
二十世紀前半の欧米―二つの世界大戦をどう見るか
二十世紀後半の欧米―「東西対立」と経済開発
教科書の行間を読む
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
「比較経済史学派」の問題設定
「近代人の形成」という問題
社会史学の出現
Ⅲ歴史家の営み
歴史家の仕事場
テーマを設定する
史料を料理する
知識を文章化する
歴史像には「深さ」のちがいがある
 歴史家のメッセージ

終章 歴史学の枠組みを考える
「物語と記憶」という枠組み
 「通常科学」とは何か
「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」
「通常科学とコモン・センス」という枠組み
 その先へ
あとがき
引用文献リスト




序章 悩める歴史学


<歴史学の意義とは何か>
☆この本では、三つの問題を考える。
①歴史学は、歴史上の事実である「史実」にアクセスできるか、という問題。
・史実のわからないのであれば、そんな学問領域についての知識を苦労して身につけたとしても、何の意味もないのではないか。
 具体的には、歴史学の成果と歴史小説とのあいだにちがいはあるか、あるとすればそれは何か、といったことを考える。

②歴史を知ることは役に立つか、役に立つとすれば、どんなとき、どんなかたちで役に立つか、という問題。
・歴史上の事件を知っておくと、さまざまな場面で役に立つものである。
 それでは、歴史学という科学にもとづいて知っておくことには、何かメリットはあるのだろうか。
 具体的には、いわゆる「従軍慰安婦論争」を顧みながら、歴史学の成果を頭に入れておくと、過去をめぐる論争について、どんな態度をとれるようになるか、という点を考える。

③そもそも歴史学とは何か、という問題。
・歴史学が年号や人物の名前を覚えることとイコールだったら、あまりおもしろくなさそうだし、日常生活に役立ちそうもない。

※この本では、古今の歴史家たちが世に問うてきた仕事を検討しながら、この三つの問題に取り組むという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、21頁~22頁)


第1章 史実を明らかにできるか

第1章 史実を明らかにできるか


<歴史学は根拠を問いつづける>
・歴史小説では、最終的な判断を著者の実感にもとづかせることが認められている。
 だから、歴史小説では、著者である小説家は、想像の翼を広げられる。
 これが歴史小説のメリットである。
その一方では、いくら史料や先行研究を利用し、叙述のみならず分析を加えているとしても、記述の信憑性(しんぴょうせい)に疑いが残ってしまう。
 これが歴史小説の小説たる所以である。あるいは限界ともいえる。
 そして『物語』も、この点から見ると、やはり一つの歴史小説である。

・これに対して、歴史書は、あくまで史料や先行研究のなかで、それを根拠に考察を進める。
 根拠がない場合は、「わからない」と述べるか、あるいは「これはあくまでも仮説である」と断らなければならない。これは歴史書の限界でもあり、いちばん基本的な特徴でもある。

 いうまでもなく、歴史書を書く歴史家だって、すべてがわかっているわけではない。
 ただし、根拠があることと、根拠がないことは、きちんと区別しなければならない。
 そのうえで、根拠がないように見えることについて、ほかの史料や先行研究を読みなおし、新しい史料を探し、新しい解釈を考えることによって、本当に根拠がないと断定できるか否かを問いつづけなければならない。
 自分が見つけられなくても、あとに続く歴史家が根拠を見つけるかもしれない、ということを考えて、行動しなければならない。

※その意味では、歴史学はつねに現在進行形の営みであり、歴史家は「<なぜ>と尋ね続けるところの動物」(カー[Carr,E.H.]『歴史とは何か』清水幾太郎訳、岩波書店・岩波新書、1962年、原著1961年、126ページ)である。
 これが歴史を学ぶという営みの中核、土台をなしている。

※ちなみに、成田龍一は、著名な歴史小説家である司馬遼太郎の作品を検討しつつ、「史実と仮構(フィクション)との関係」という視点から、歴史書と歴史小説の異同を考えることは時代遅れであり、「ここから先を考えることが必要」だと主張している。
・その根拠としてあげているのは、「書きとめられたことが<事実>で、そこに載せられていないことは<事実>としないというのでは、あまりに単純です」ということ、「文脈と立場によって出来事の意味は異なります」ということ、そして、「誰にとっての<事実>かということを考えないわけにはいかないことは多い」ということである。
(成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』朝日新聞社・朝日選書、2003年、16~17、49ページ)

➡ただし、成田があげる根拠だけにもとづいて「史実と仮構との関係」を軽視することには、かなり無理がある。とくに、歴史学が現在進行形の営みであり、また、そんな営みでしかない、という点を見落としているのは問題である、と著者は批判している。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、37頁~39頁)

「正しい」認識は可能なのか(61頁~)
<さらに難問は続く>
・歴史学という営みを構成するもう一つの作業である認識について見てみよう。
 認識とは、過去に本当にあった史実を明らかにするという作業と、その作業の産物のことである。
 では、正しい認識に至ることは可能だろうか。
 史料があれば可能だ、ない場合は、なんらかの根拠にもとづく推測を利用するしかない、推測もできない場合は、「正しい認識は、とりあえずいまのところは、できない」とするしかない、という答えが返ってきそうである。
 でも、解釈の場合と同じように、認識をめぐる問題も複雑で、一筋縄ではゆかない。

<史料批判は必須>
・史料を利用して正しい認識を得るためには、それなりの手続きが必要である。
 この手続きを「史料批判」と呼ぶ。
 どんなかたちで史料批判を進めればよいかについての所説を「史料論」と呼ぶ。

※なお、どんな史料を利用しているか、どんな史料論にもとづいて史料批判を進めているか、そこからどんなプロセスを経て正しい認識に至ろうとしているか、といった歴史家の営みの総体については、第3章で考えるという。

☆ここでは、「史料批判をすれば正しい認識に至れるか」という問題だけを検討する。
〇史料論にもとづく史料批判の一端を覗かせてくれる例として、中世ヨーロッパ史家である森本芳樹がおこなった「プリュム修道院所領明細帳」の分析を見てみよう。

・中世ヨーロッパには、領主が農民を働かせる経営体である「荘園」が広まっていたが、領主が荘園を管理するためにつくられ、土地や農民や農民の義務を記載した台帳を、「所領明細帳」と呼ぶ。
 今日のドイツ、ベルギー、ルクセンブルクの国境地帯にあり、各地に荘園をもっていたプリュム修道院で9世紀につくられたのが、「プリュム修道院所領明細帳」である。
(原本は散逸してしまったが、13世紀に筆写され、筆写者が注釈を付した写本が残っている)

※ともすれば、「個々の文書の真贋鑑定」をすれば正しい認識にたどりつくのではないかと考えがちである。
 でも「プリュム修道院所領明細帳」を素材として森本が提示する史料論は、そんな単純なものではない。
 なにしろ9世紀のヨーロッパにかかわる史料は数少ないため、当時の実態を知りたいと思ったら、史料を隅から隅まで、まさに微に入り細を穿って、利用しなければならない。

・森本によれば、原本と注釈からなり、また、修正が加えられたように見える箇所がある「プリュム修道院所領明細帳」の写本は、「年代幅をもった複層的構成の記録」である。
 こんな史料を利用する際には、まず、慎重な史料批判が必要である。

・たとえば、そこに書かれている農民の義務は当時の実態か、それとも領主である修道院の希望の産物か。
 写本と原本のあいだにちがいはないか。
 あるとすれば加筆や削除や修正がなされているということになるが、それはだれの手になるものか。
 また、その動機は何か。
 筆写者の注釈のなかには9世紀の実態に関する説明が含まれているが、それはどこまで信用できるか。
➡こういった問題を、一つひとつ片づけてゆかなければならない。
 そして、森本は、慎重かつ的確な手さばきで、これらの課題をクリアしてゆく。
(そのプロセスは、まるで推理小説の謎解きのようであるという)

・それによって、エッテルドルフ村の農民レインゲルスがプリュム修道院に負う義務は、
 ワインと穀物の運搬、垣根づくり、豚番、ねぎの栽培、パンとビールの製造、夜警、織物や縫製、干草やぶどうや穀物の収穫、ワインや塩の販売協力、そして、キイチゴ採取などだった、という史実が明らかになる。
(森本芳樹『中世農民の世界』岩波書店、2003年、122ページ)

➡プリュム修道院所領における農民の義務という、史実をめぐる認識の精度が上がってゆく。

・このように、ちゃんとした史料論にもとづく史料批判の手続きを続けてゆけば、100パーセント、というのは大げさかもしれないが、少なくとも相当な程度には正しい認識に至ることができるのではないか、という気もしてくる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、61頁~64頁)

<実証主義への宣戦布告>
・ちゃんとした史料論にもとづいて史料批判を進めれば正しい認識に至ることができる、という考える立場を「実証主義」と呼ぶ。
 ちゃんとした史料論を利用するとか、史料批判は必要だと考えるとか、正しい認識に至るよう努めるとか、どの点をとっても実証主義は歴史学の基本中の基本だという感じがする。

・ところが、ここのところ、実証主義歴史学に対する風当たりは強くなる一方である。
 もちろん、実証主義歴史学が批判されるのは、最近に始まったことではない。
 フランスを見ると、すでに第二次世界大戦前、ブロックとリュシアン・フェーヴルという二人の優れた歴史家が生み出した、通称「アナール学派」が、実証主義歴史学を批判し、「新しい歴史学」をつくりあげる必要性を唱えている。
 あるいはまた、第二次世界大戦後の日本の歴史学界に大きな影響を与えたマルクス主義歴史学派も、一貫して実証主義歴史学を批判してきた。

・これらの学派が主張したのは、歴史家は「現在を生きる人間として、繰り返し過去に問いかけ、繰り返し過去を読み直す」のである。
(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、初版1986年、38ページ)
・とすれば、特定の主観的な問題関心にもとづく視角から過去に接近せざるをえない、ということだった。 このことを、フェーヴルは、
「歴史家は……明確な意図、解明すべき問題、検証すべき作業仮説をいつも念頭において出発します。このような理由から、歴史はまさしく選択なのであります」と、簡潔に表現している。
(フェーヴル[Febvre,L.]『歴史のための闘い』長谷川輝夫訳、平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、原著1953年、部分訳、18ページ)

※この一文が含まれているエッセー集『歴史のための闘い』は、まさに、歴史は選択だということをわかろうとしない実証主義歴史学に対する宣戦布告の書であったという。

・もしもフェーヴルたちの所説が正しければ、どんなに客観的かつ虚心坦懐に過去に向き合おうとしても、すべての史実を認識することはできない。
 自分の問題関心や視角というフィルターを通して史実を選択してしまうし、また、選択された史実だけを認識せざるをえない、ということになる。
 ただし、アナール学派やマルクス主義歴史学派が主張したのは、特定の問題関心や視角から歴史に接近する以上、すべての史実を一望のもとに捉えることはできない、ということであった。正しい認識は不可能だ、と主張していたわけではない。
 つまり、議論の焦点は「どの正しい認識を、どのように組み合わせればよいか」という、認識よりはむしろ解釈にかかわる問題にあったという。
 正しい認識に至るという実証主義歴史学の営みの中核に対して、疑問が呈されたわけではない。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、65頁~67頁)

<「構造主義」のインパクトとは何か>
・ところが、1970年代に入ると、そもそも正しい認識なんてできるのか、という根本的な疑問が、実証主義歴史学のみならず、歴史学の全体に対して寄せられるようになる。
 もしも正しい認識ができないとすると、正しい解釈も不可能であるから、歴史学の営みからは「正しさ」がなくなってしまう。
 たしかに歴史学は科学だったはずであるが、正しいか否かを判断できないものを科学と呼ぶのは、なかなか困難である。こうして、歴史学は「科学としての危機」に陥る。

・科学としての歴史学に危機をもたらしたのは、「構造主義」と呼ばれる思想である。
 現代思想学者の内田樹(たつる)によれば、構造主義とは、「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」という考え方である。
(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文藝春秋・文春新書、2002年、25ページ)
 ある思想家は、「存在は意識を規定する」と喝破した。
 ちなみに、日本では、構造主義は1970年代に広まりはじめる。とくに1980年代には、「ニュー・アカデミズム」と呼ばれ、爆発的に流行る。

・ところが、アナール学派やマルクス主義歴史学派の考え方とくらべると、構造主義の考え方はそれほど新しいのか、独自なのか、という疑問が湧いてくる。
 たしかに「ぼくらは特定の問題関心や視角から歴史を見るしかない」と主張している点で、両者は共通している。これだけでは、歴史学に与えた構造主義のインパクトの大きさは、どうも理解できない、と著者はいう。

・構造主義は、さまざまな学問領域が交差するところに生まれた思想であり、そのため、論者によって力点に多少のちがいがある。
 そのなかで、歴史学にインパクトを与えた存在といえば、言語学を背景とする論者、とくに言語学者にして「構造主義の父」とも呼ばれているフェルディナン・ド・ソシュールである。
 彼の所説は、アナール学派やマルクス主義歴史学派の所説を、さらには構造主義の一般的な考え方すら、大きく超えるものであった。

・ソシュールは、さまざまな言語をくらべながら、分析することを生業とする比較言語学者である。
 研究を進めているうちに、単語が指し示す対象の範囲が、言語によって微妙にずれることをどう説明すればよいか、という問題にぶつかる。
 つまり、フランス語で「ムートン(mouton)」は生きている羊と羊肉の双方を指すのに対して、これとよく似た英語の単語「マトン(mutton)」は羊肉のことしか意味しない。生きている羊を意味するのは、英語では別の単語「シープ(sheep)」である。

・ここから、ソシュールは、存在する「もの」、その「もの」に与えられる「意味」、そしてその「意味」を指し示す「言葉」、この三者のつながりは恣意的なものにすぎない、という独創的な見解にたどりつく。
※ぼくらは何をするにも言葉を使っているから、これはつまり「真実はわからない」ということである。こんな発想を「言語論的転回」と呼ぶ。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、67頁~70頁)

第2章 歴史学は社会の役に立つか


Ⅰ 従軍慰安婦論争と歴史学
・従軍慰安婦をめぐる問題は、日本人にとって、とてもセンシティブな問題であり、さまざまな議論を呼び起こした。ここでは、次の三人の議論を紹介しておく。

 歴史家の吉見義明
 政治思想史家の坂本多加雄
 社会学者の上野千鶴子

・吉見と坂本の所説を比べておくと、吉見は日本国民加害者論の立場に立ち、坂本は「指導層も含めた日本国民免責」論の立場に接近している。そして、吉見は史料批判を用いれば史実はわかるという立場をとるのに対して、坂本は、歴史は物語なので史実はわからないという立場をとる。(二人は二重に相対立しているという)
➡そして、吉見をはじめとする日本国民加害者論派と、坂本たち「新自由主義史観」派とのあいだで、激しい論争が始まる。
 ただし、当初は、両者の対立が二重の性格をもつことは明らかになってなかった。
 この点が明らかになるには、社会学者の上野千鶴子が論争に介入するのを待たなければならなかった。
 そして、上野の介入以後、論争は三つ巴の性格を呈し、そのなかで「歴史学は社会の役に立つか、役に立つとすればどう役に立つか」という問題が立ちあらわれることになる。

・上野は、フェミニズムの代表的な論客としても知られている。だから、彼女が論争に参加したとき、吉見たち日本国民加害者論派は、それを歓迎したようだ。
 上野は、基本的には吉見たちの側に立つが、しかし不満を表明する。
 歴史学の対象は一つしかない「事実」ではなく、各々にとっての「現実(リアリティ)」なはずであるという。多元的な歴史が存在していることを認めれば、日本国民加害者論派と「新自由主義史観」派は、「事実」が大切だと考え、証拠の存否をめぐって論争する点で、構造主義以前の古臭い土俵を共有している、という。
 これに対して、吉見は上野の所説に反発している。吉見によれば、従軍慰安婦論争のなかで問題になっているのは、国家の関与は論証できるか、強制徴集は論証できるか、という点である。大切なのは、史料や証言といった証拠によって、これらを確認(実証)することであるとする。「史実はわかるか」という問題をめぐる両者の見解が対立している。

※この三者の関係を整理すると、日本国民を加害者と考えるか否かについては、吉見と上野が坂本と対立し、構造主義の所説を受け容れるか否かという点では、上野と坂本が吉見と対立する、という構図になるという。
 論争は複雑にねじれ、三つ巴化していく。
 構造主義を受け容れた上野や坂本のほうが、「歴史学は社会の役に立つか」という問いに対して明確に「イエス」といっている。
 坂本にとっては、歴史学には「国民の物語」を紡ぎ出すという大切な仕事があり、また、この仕事をするかぎりで社会の役に立つ。上野は、他者の声に謙虚に耳を傾けなければならないと主張するが、それは、他者のアイデンティティを尊重する姿勢を身につけることに役立つからである。
 どちらの立場にとっても、歴史を学ぶことは、とくに集団あるいは個人のアイデンティティにかかわる、とてもアクチュアルな営みである。そして、歴史を学ぶときに大きな助けとなるものといったら、歴史学であるということになる。

※でも、たしかに構造主義は「史実はわからない」と主張し、歴史学の営みに即していえば、「正しい認識にはたどりつけない」と断言していたはずである。実際、坂本も上野も、一貫して、歴史は「物語」や「フィクション」や「現実」であって、「事実」ではないと主張している。
 とすると、複数の歴史像が存在することになるが、では、このように複数存在する歴史像のなかから一つを選びとる際には、いったいどんな基準を用いればよいのだろうか、さらにまた、正しい歴史像を選びとったことを証明するには、どうすればよいのだろうか、と著者は問うている。
 歴史学の立場からすると、これは簡単な問題だという
 歴史像を選びとる際の基準は正当性である。歴史像の正当性は、「どのように<事実>に迫りえているか、どの程度の説得力があるか、総じて歴史像が文書・記録・証言・物証などによってどれだけ論理的・説得的に構成されているか」という基準によって測定される。
 問題は、「どの解釈や認識がより正しいか」であるという。
 
※著者としては、歴史像の正当性を計る際に使える基準といったら、そこで提示される解釈や認識の正しさをおいてほかにはないと主張している。そして、歴史にかかわる解釈や認識の正しさについての知識を提供できる学問領域といったら、歴史学をおいてほかにはない。歴史学が提供する基準が絶対的に正しいという保証はないが、でも基準自体をよりよいものにしてゆくことはできるはずだという。
 歴史学は、歴史像の正当性を計る際に使える基準を供給し、それによって、歴史上のさまざまな問題をめぐる議論をよりよいものにしてゆくことができるし、また、そうでなければならない。
 ぼくらがコミュニケーションをよりよいものにしようとするとき、歴史学の営みは、きっと社会の役に立つツールになるはずである。というよりも、歴史家がどう思うかにかかわりなく、歴史学は社会の役に立つツールを提供してしまうにちがいない、と著者は主張している。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、89頁、97頁~105頁)

Ⅱ 歴史学の社会的な有用性


<「日本人」は一つの空間を共有してきたか>
・「日本人」というアイデンティティをめぐる歴史像について考えるとき、まず示唆的なのは、『日本社会の歴史』と題された、新書ながら全3巻からなる大著である。
 著者の網野善彦によれば、「日本社会の歴史」とは「日本列島における人間社会の歴史」であり、「日本国」の歴史でも「日本人」の歴史でもない。

・この表題を選んだことの背景には、次の認識があるという。
「これまでの<日本史>は……いわば<はじめに日本人ありき>とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自身の自己認識を、非常に不鮮明なものにしてきた」
(網野善彦『日本社会の歴史 上巻』岩波書店・岩波新書、1997年、「はじめに」)

 こうして網野は「日本列島」という空間を対象に設定し、そこで展開される歴史を描き出す。

・特定の空間を対象に設定することのメリットは何かというと、それは、そこに「複数の」文化や「複数の」国家を見てとれるということである。
 網野はこのメリットを存分に活かし、複数の歴史が並存し、絡み合い、対立し合うという、いわば複数型の歴史像を提示する。
 とくに、東日本と西日本は、前者がシベリアの文化的な影響を受けたのに対して、後者は朝鮮半島の文化的な影響を受けたという点で、歴史的なちがいがある。

➡このちがいをもとに、縄文文化と弥生文化の関係や、壬申の乱(7世紀)や平将門の乱(10世紀)や承久の乱(13世紀)の性格など、さまざまな史実について、新しい見方を提示してゆく。
 そして、それは、常識的な日本史の知識しかもっていない者には、思いも寄らないものである。

・それだけではない。ふだん「検地・刀狩」とか「士農工商」とかをよく耳にしているせいか、かつての日本は閉鎖的で静態的な農村社会であり、基本的な産業は農業であり、人びとの多くは農民だった、と考えがちである。
 でも、日本社会のかなりの部分は、はるか以前から、海やアジア大陸に開かれた動態的な商工業社会であったという。
 
※これはそれまでの日本社会の歴史像を根底から覆すものであり、大きな反響を呼ぶことになる。
 網野の所説が大きな反響を呼んだのは、彼が提示した歴史像が「日本人」というぼくらの集団的なアイデンティティを再検討することを迫ったからである。
 そして、自分が何者なのか、どんな歴史をもっているのか、といったことを認識するうえで、この作業が必要不可欠だからである。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、112頁~114頁)

<アイデンティティを再確認する>
・網野の仕事などをきっかけとして、常識にある「日本人」像は大きく変容しはじめている。常識が常識として広く受容される背景には、なんらかの根拠がはるはずである。
 たとえば、しばしば「日本人は勤勉だ」といわれるが、こんな「日本人」像が受け容れられた背景には、第二次世界大戦後の高度経済成長期の「日本人」の働き方がある。
 それは、まさに「働きバチ」と呼ばれるにふさわしいものであった。

・では、なぜ「日本人」はこんなに働くのだろうか。
 「勤勉」というのは一つの道徳であるが、日常的に見かける道徳としては、このほかに「倹約」とか「謙譲」とか「孝行」といったものがある。
 安丸良夫によれば、これらは、生活習慣としては昔から存在していたが、規範としての道徳になったのは、江戸時代のことだった。
 
この道徳には、次のような特徴がある。
「けっして手段ではなく、それ自体が至高の目的・価値なのであるが、ただその結果としてかならず富や幸福がえられる。実践者をかりたてている動機は、最高善としての道徳そのものにほかならないのに、そのことがかならず結果的に自分の功利的利益をもたらす」
(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社・平凡社ライブラリー、1999年、初版1974年、15ページ)
※成功した人は優れた道徳の持ち主だということになるから、成功した人を批判することは難しくなる。また、成功していないことは道徳を身につけていないことを意味するから、「成功しないのは、社会のせいではなく、自分のせいだ」という発想になる。
 こうして、人びとは、「成功しようとすれば」、知らず知らずのうちに「道徳のワナにかかって支配秩序を安定化させる」ことになる。
 この道徳は、ものを考えたり行動したりする際に使ってしまうが、ただし存在を意識することが難しい、無色透明のレンズのようなものである。そして、そのせいで、ぼくらは「働きバチ」になってしまったわけである、と著者はコメントしている。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、114頁~116頁)

<アイデンティティを相対化する>
・今日の「日本人」は、四角い形の家に慣れている。四角い理由は何か、それ以外の形がありうるか、なんて問題は、ふつう考えない。でも、グレート・ジンバブウェの歴史を知ると、四角以外の形の家もあることがわかる。さらに、日本の家が四角い形をしているのは当たり前のことではなく、そこにはなんらかの理由があるはずだ、ということもわかる。

・たとえアフリカ大陸という遠い世界の歴史像であっても、ぼくらの日常生活に影響をおよぼさないということはない。それを知ってしまうと、「日本人」のあり方を当たり前のものとはみなしにくくなるからである。
 これは、「日本人」というアイデンティティを相対化する途が開けることを意味している。 
 ぼくらの集団的なアイデンティティという観点から見る場合であっても、外国にかかわる歴史像は役に立つ。
さらにいえば、日本と、ジンバブウェをはじめとする諸外国とは、歴史的にまったく没交渉だったわけではない。
 たとえば、音楽の歴史を見てみるだけでも、日本と外国はさまざまに多様な交流をくりひろげてきたことがわかる。

・日本のポピュラー・ミュージックについての知識は、ブラックとか、ヒップホップとか、スクラッチとか、ラップとか、近年の傾向にはついていけないと著者は感想をもらしている。
 でも、文化学者の佐藤良明によれば、日本のポピュラー・ミュージックの歴史的な変化には、ちゃんと理由も背景もあるという。
「ブラック・ミュージック……を吸収した新しい英米のポップスが世界に浸透していくという大きな流れの中で、20世紀後半の日本の大衆のうたの展開を、私たちの心の移行過程として語る」
(佐藤良明『J-POP進化論』平凡社・平凡社新書、1999年、26ページ)
という、壮大な営みが可能になる。

・明治維新を経て成立した明治政府は、「日本人」の心性を近代化するための方策として、大々的に欧米の音楽を導入した。その手段として利用されたのが、文部省唱歌や軍歌である。ただし、民謡に代表される日本の伝統音楽は「日本人」の心性に深く根づいており、また、欧米の音楽もたえず変化してきたため、その後の展開は複雑なものになる。
 佐藤良明は、「ヨナ抜き音階」と「単純五音階」の対立を軸に、二つの音楽の接触のなかから、今日の「J-POP」が誕生する過程をあざやかに描き出す。
 日本のポピュラー・ミュージックは、単に「民謡色の払拭と欧米音楽化」と表現するだけではすまないような複雑な関係を、欧米の音楽と取り組んできた。

※ちなみに、いちばん驚いたのは、民謡とブラック・ミュージックが同じ音階を利用している、という佐藤の指摘であったという。
 これは、「日本人」というアイデンティティの強力な支柱だと思われている伝統文化ですら、じつは外国の文化と要素を共有したり、相互に交流し合ったりしている、ということを意味している。

※こんなことを知ると、「日本人」というアイデンティティを軽々しく口にすることはできなくなる。
 「日本人」とは何か、もう一度考え、相対化しなければならない、という気になる。
 外国と日本の関係にかかわる歴史像は、ぼくらの集団的なアイデンティティを相対化する際に、重要な役割を果たしているという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、118頁~123頁)

第3章 歴史家は何をしているか


第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
<教科書と歴史家の仕事>
☆ここまで、次の二つの問題を考えてきた。
①史実はわかるのか。
②歴史を学ぶことは社会の役に立つのか。

・そして著者がたどりついた結論は、第一の問題については、史料批判などによって「コミュニケーショナルに正しい認識」に至り、さらにそこから「より正しい解釈」に至ることはできる。つまり、(絶対的な真実ではないが)その時点でもっとも確からしいことはわかる、というものであった。
・第二の問題については、歴史家が真実性という基準をくぐり抜けた知識を供給するという仕事に取り組むとき、それは確実に社会の役に立っている、というものであった。

☆ここでは歴史家の仕事、つまり、歴史家が具体的に何をしているかを垣間見ることにする。
 どんな動機でテーマと対象を選択するのか、どんな手続きを用いるのか、あるいはまた、どんな史料を用いるのか、といったことである。

・歴史家の仕事と聞いて思いつくのは、中学校や高校の歴史関係の授業、とくにそこで使われた教科書であろう。ここでは、高校世界史の教科書を例に、学校で習うことと歴史家が明らかにしてきたこととを比較し、両者のちがいと共通点を明らかにする。

・高校世界史の教科書といえば、膨大な史実と年号がつめこまれ、それらを暗記するためにラインマーカーで引いた線がいっぱいの本を思うだろう。つまり、「教科書=年号つきの史実が時代順かつ地域別に並べられた年表を文章化したもの」としか見えない。
(無味乾燥な史実が羅列されているだけだとか、ストーリーがないとか、単一の歴史の見方を押しつけているとか、その批判は枚挙に暇がない)

・でも、ちょっと考えると、様々な疑問が生まれる。
 教科書にある執筆者紹介を見ればわかるように、教科書を書いているのは、大学に籍を置く、一線級の歴史家たちである。だから、現在の歴史学にとって重要な問題を知らなかったとは考えられない。

・歴史家の営みは、史実を認識できるか否かを考え、どんな解釈がまともかを選択し、描き出した歴史像が社会の役に立つか否かに、想いをめぐらせることにあるから、そこから生み出されたものが単純なものになるはずがない。
 つまり、歴史家に必要な資質は、「疑い、ためらい、行ったり来たりすること」であるが、それは歴史教科書の書き方とは相容れない。
 ただし、では、歴史家の営みをそのまま文章化すれば問題はなくなるか、といえば、とんでもない。
 イギリスの産業革命を例にとって、歴史家の営みを文章化してみると、次のようになるという。

 「産業革命とは何か。そもそもそんな史実が存在したか否かについては疑問が残るが、
 それは措くとして、その定義については諸説がある。その原因についても、結果につい
 ても、諸説がある。産業革命の歴史像としてはさまざまなものがあるが、ここでは……
 というものにしたい。では、そんな歴史像を提示することに社会的な意義があるか否か
 といえば、私は意義はあると考えている。その理由は……」

※これでは、何をいっているのか、何をいいたいのか、よくわからない。
 読者も歴史家ならば、これでもよいかもしれないが、そうでない読者は困ってしまう。
 断定的で滑らかで、場合によっては、単純で退屈な歴史教科書の書き方のルールは、いいたいことをはっきり伝えるためにはやむをえない選択なのかもしれないという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、132頁~134頁、151頁~152頁)



Ⅱ日本の歴史学の戦後史


<「比較経済史学派」の問題設定>
☆ここで、第二次世界大戦後の日本における歴史学の歴史をふりかえってみよう。

・だいたい、1960年代までのあいだ、日本の歴史学界で大きな力をもっていたのは、「比較経済史学派」という立場をとる歴史家たちであった。
 この学派が興味深いのは、当時、歴史学界のみならず、広く社会に対して大きな影響力を行使したからである。
 指導的な歴史家たちがオピニオン・リーダーとして世間に認知され、その言動が人びとの注目を集めていた。

・「比較経済史学派」の創設者は、ヨーロッパ、とくにイギリスの経済史の専門家だった大塚久雄である。
 ヨーロッパ経済の歴史を特徴づけているのは、「資本主義の発達」である。
 「資本主義」とは、資金をもつ資本家が賃金を払って労働者を雇い、機械を導入して工場で商品を生産する、という「近代に独自な」生産システムである。
 
※通説では、この資本主義の成立をもたらしたのは、「貨幣経済の発達」だった。
 でも、大塚は、貨幣経済はいつの時代にも、どこの地域にも存在していたはずだと考えて、通説に疑問をもち、ヨーロッパ独自の史実に資本主義の成立の動因を求めるべきことを提唱した。
 そう考えて歴史を見直すと、経営規模は小さいが自由な生産者である「中産的生産者層」が両極分解して資本家と労働者になった、という史実が目に入る。これこそが資本主義の発達の動因だ、というわけである。
(大塚久雄『欧州経済史』岩波書店・岩波現代文庫、2001年、初版1956年、214~215ページ)

※でも、もう一度見直してみると、いろいろと疑問が湧いてくるという。
 たとえば、どうしてヨーロッパ経済の歴史を特徴づけているのは資本主義の発達といえるのか。貨幣経済がいつの時代にも、どこの地域にも存在していたからといって、どうして資本主義の発達の動因をほかに求めなければならないのか。
 大塚の描く歴史像は、たしかにすっきりしているが、よく見ると、すっきりしすぎているという。

・じつは、ヨーロッパ、とくにイギリスの経済史を研究する大塚の念頭には、つねに日本の現状に対する問題関心があったようだ。
 日本は、開国以来、イギリスやアメリカやドイツの生産能力に驚かされた。
 また、第二次世界大戦に敗北したため、一刻も早く経済を復興させなければならなかった。
 そして、先進諸国に追いつくためには、これら諸国の歴史的な経験を知り、それを応用することが必要だし、有効である。
 こう考えて、大塚は、先進諸国を代表するイギリスの経済史の特徴を解明しようとした。
 イギリス経済史を研究する目的は、それを日本の経済復興のモデルとして利用することにあった。
 大塚にあっては、なによりもまず「いま、ここ」というアクチュアルな問題関心が先行した、と著者はいう。
(大塚が提示する歴史像がすっきりしており、見ようによってはすっきりしすぎているのはそのためである。こんな大塚の姿勢や枠組みは「比較経済史学派」の歴史家たちに継受されてゆく)
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、153頁~156頁)

<「近代人の形成」という問題>
・大塚の所説の特徴は、歴史像のアクチュアリティを重視したことだけにとどまらない。
 もう一つ大切なのは、工場や機械といった生産システムのあり方だけに着目したわけではない、という点である。
 実際、生産システムだけを輸入しても、そこで働く人びとの思考や感覚や行動のあり方が変わらなければ、それらは宝の持ち腐れになってしまう。
 大塚は、「自律的に、つまり自分で決めて行動するような人間」が誕生しなければ、経済復興も無理だし、さらには日本社会そのものの再建も難しい、と考えた。
(こんな人間を「近代人」と呼ぶことにする。近代人が生まれるためには、何をどうすればよいのか。この問題を提起した大塚自身も、それを解くことはできなかったそうだ)

・では、この事態に直面して、その後の歴史家たちは、どう対処したのだろうか。
 1950年代まで、歴史家たちは、産業革命の前提条件である「中産的生産者層の両極分解」を重点的に研究してきた。でも、1960年代になると、日本も、戦後復興の時代から経済成長の時代に入った。この事態に対応して、産業革命そのものを研究しなければ、歴史学は時代に取り残されてしまうかもしれない、というわけである。産業革命の研究はアクチュアリティをもつものであった。
 でも、このあと、歴史学はアクチュアルでなければならないという前提そのものに疑問を投げかける研究が登場する。それらは「社会史学」から大きな影響を受けていた。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、156頁~158頁)

<社会史学の出現>
・社会史学とは、単なる「社会の歴史」を分析する営みではない。
 それは、世界各地で1960年代に出現し、日本では1980年代に広まった一つのアプローチを指している。
・社会史学に分類される研究には、さまざまなものがある。
 たとえば、支配階層ではなくて、民衆に着目する研究。大きな出来事ではなくて、日常生活を重視する研究。大系だった思想ではなくて、日常ののなかの心性(メンタリティ)を分析する研究。公的な組織ではなくて、日常の社会的結合(ソーシャビリティ)に狙いを定めた研究。あるいは、国家ではなくて、地域を分析の単位とする研究などである。

※これらに共通する特徴といえば、それまでの歴史学が、支配階層と大きな出来事と体系だった思想と公的な組織と国家を重視してきたことを念頭に置き、「歴史の読みなおしを志向」している点にあるようだ。
 その際に社会史学が採用する基本的な視点は、
「一つには、すべての事業を常に全体的な連関のうちに捉えること、第二には、過去を常に現在との対話のうちに捉えること」の二つである。
(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、初版1986年、37ページ)
 そして、日本における社会史学の代表的な成果として、次の著作を紹介している。
〇川北稔ほか『路地裏の大英帝国』平凡社・平凡社ライブラリー、2001年、初版1982年)

・この時代以降、歴史学界における社会史学の影響は拡大し、多くの歴史家を、さらには多くの読者を惹きつけることになった。
 社会史学にもとづく歴史書は、しばしば日常生活にかかわる身近な話題を取り上げており、たとえアクチュアルではないとしても、具体的でおもしろい。そして、社会史学の興隆という傾向は、21世紀に入っても続くことになる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、158頁~162頁)

Ⅲ 歴史家の営み


<歴史家の仕事場>
☆では、今日の歴史家は何をしているのだろうか。
 あれやこれやの史実を時間を追って叙述するような文章を読んでも、歴史家の営みを垣間見ることは困難である。ちなみに、こんな文章を「通史」と呼ぶが、その典型が歴史教科書である。
・それでは、どんな文章を読めばよいか。
 いちばん適切なのは専門の歴史家向けに書かれた「学術書」である。
 そこでは、「疑い、ためらい、行ったり来たりする」という、歴史家に必要な資質に沿ったルールに則って、文章が紡がれているはずである。
(でも、学術書は敷居と値段が高すぎる。学術書を買い、読み、理解するのはなかなかたいへんである)

・次に頭に浮かぶのは、優れた歴史家が自分の研究生活をふりかえった回想録である。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、163頁~164頁)

第3章 歴史家は何をしているか


<歴史像には「深さ」のちがいがある~美術史学の営み>
・常識を疑わせるようなテーマをもち、ちゃんと料理した史料にもとづき、読み手をわくわくさせるような文章で表現されている歴史像であっても、その「深さ」は千差万別である。
 そして、歴史像の深さは、史料に対する歴史家の問いかけ方によって決まる。

・史料に対する問いかけ方を考えるうえで、示唆的なものとして、美術史学の営みがある。
 若桑みどりによれば、美術史家が絵画や彫刻といった美術品を史料として取り扱う方法は、大きく三つに区別できるとする。
①「様式論」
・これは、美術品をつくった人がどんな学派に属するかを決定する、いわば分類学である。
 「子どもの遊戯」という有名な絵を例にとると、その作者ピーテル・ブリューゲルは、精密でカラフルな画風で、庶民生活を描いた「ネーデルラント学派」に属する、といった具合である。
 ただし、これだけでは、絵に込められた意味はわからない。

②「図像学」
・これは、絵のなかに表現されたものの「意味」を検討する方法である。
 たとえば、同じブリューゲルに「バベルの塔」という絵がある。
 これは明らかに『聖書』に出てくる逸話をモチーフにしているから、この絵の意味を『聖書』に探る、といった具合である。
 ただし、これだけでは、ブリューゲルがこの絵に込めた意図はわからない。

③「図像解釈学」
・どんな絵でも、それを描いた人は必ず生きた時代の状況に影響される。
 だから、画家が生きた時代の特徴を知れば、彼(女)の「意図」に接近できるはずである。
 たとえば、ブリューゲルが生きた16世紀のネーデルラントの歴史を知ると、彼が「バベルの塔」で表現しようとしたものは何かが見えてくる。
(若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房・ちくまプリマーブックス、1993年)
(若桑みどり『絵画を読む』日本放送出版協会・NHKブックス、1993年)

※ここからわかるのは、絵に限らず史料は問いかける対象であり、問いかけ方が下手だと何も教えてくれないが、上手だといろいろなことを教えてくれる、ということである。
 ここで区別した三つの方法を見ると、様式論よりも図像学のほうが、そして図像学よりも図像解釈学のほうが、問いかけ方としては広いことは明らかだろう。
 それは、史料に問いかけるにあたって、なるべく幅の広い知見と関連づけようとしているからである。
 そして、問いかけ方のちがいを反映して、同じテーマ、同じ史料批判、同じような文章であっても、生まれる歴史像の深さがちがってくる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、175頁~177頁)

終章 歴史学の枠組みを考える


<「物語と記憶」という枠組み>

・史実はわかるか、昔のことを知って社会の役に立つか、という二つの問題は、互いに無関係ではない。実際、歴史学をめぐる議論のなかでは、両者は密接にかかわるものとして論じられている。
 吉見義明たち歴史家を批判した上野千鶴子と坂本多加雄は、政治的な立場こそ正反対ながら、史実はわからない、でも昔のことを知ることは役に立つ、という二つの判断を共有していた。

・史実がわからないのであれば、それは「物語」と大差ない。
 これは、「歴史は物語である」という立場である。
 また、自分の身近にあり、真偽を問わずとも役に立ちそうな過去は、「記憶」と呼ぶことができる。歴史について、こんな側面を重視するとき、「歴史は記憶である」という立場に立つ。つまり、上野や坂本は「物語と記憶」という枠組みで歴史学を捉えているという。
 「物語と記憶」という枠組みは、なにもこの二人だけのものではないし、歴史家でない人びとに限定されたものでもない。

・20世紀末から今日にかけて、「冷戦」という枠組みが壊れ、新しい枠組みとして「歴史の終わり」とか「文明の衝突」とか「文明の対話」とかが登場しては消えてゆくさまを、目の当たりにしてきた。
 「史実なんてわかるのか」という疑問や、「自分のアイデンティティを支える記憶は大切だ」という印象は、身近なものに感じられる。
 「物語と記憶」という枠組みが受け容れられてきたのも、そういった時代背景があるのだろう。

・さらにまた、この枠組みが重視されるようになってきたのは、日本だけのことではない。
 構造主義が外国から日本に輸入されたことからも予想できるように、諸外国でも歴史を考えるうえで、物語や記憶を重視する立場は、広く受容されるようになっている。
 たとえば、構造主義の本場ともいえるフランスでは、すでに1980年代「記憶の場」というコンセプトのもとに、膨大な数の歴史家を集めた壮大なプロジェクトが実施されている。
(ノラ[Nora,P.]編『記憶の場』全3巻、谷川稔監訳、岩波書店、2002~03年、原著1984~92年、部分訳)

※こういったことを認めたうえでも、著者は、「物語と記憶」という枠組みにどこか違和感をもつという。
 それは、「物語と記憶」という枠組みが「真実性という基準」を無視しているからである。
 というよりも、「真実性という基準」を絶対視するから、というべきかもしれないともいう。
 実際には、「100パーセントの真実」なんて、ほとんど存在しないから、この立場に立つと、議論はいつまでたってもすれちがい、決着しない。
 だから、もう少し、議論を生産的なものにするための枠組みを構築しなければならない、と著者はいう。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、182頁~185頁)

<「通常科学」とは何か>
・トマス・クーンという科学史家がいる。
 彼は「パラダイム」という言葉を世間に広めた。
 彼は、歴史学に限らず、ほかの科学についても、100パーセント正しい認識にたどりつくことはできないと主張した。大きな反響と議論を巻き起こした。
 クーンは、自然科学の歴史には、ときどき断絶的な変化が見られるという。
 断絶的というのは、「時代遅れの理論は、捨てられたからといって、原則として非科学的ではない」ということである。
 この現象を「いろいろな学派が現れるのは、方法に誤りがあるのではなくて……世界を観る観方の違い、科学のやり方の違いがあるからである」と解釈する。
(クーン[Kuhn,T.]『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房、1971年、原著1962年、3,5ページ)
 そして、この「世界を観る観方」を「パラダイム」と、ある「パラダイム」にもとづく安定的な科学を「通常科学」と、ある「通常科学」から別の「通常科学」への断絶的な変化を「科学革命」と、それぞれ呼ぶ。
 科学の歴史は、ある「世界を観る観方」にもとづき、安定していた科学が、何かのきっかけで動揺し、別の科学に取って代わられる、というものになる。
 例として、地動説を提唱したコペルニクスによる天文学の革新について言及している。
 天動説と地動説は互いに異なった「世界を観る観方」であり、コペルニクスはそれまでとちがう「世界を観る観方」を提示して、天文学を断絶的に変化させた、という。

※クーンの所説から読みとれる大切なことは、100パーセント正しい科学とか、100パーセントまちがっている科学というものはないということである、と著者はいう。
 みんなで検討し合って「より正しい」科学を選びとってゆくことは、不可能ではない。
 天動説と地動説の例でいえば、どっちを利用したほうがいろいろな現象を説明しやすいかという問題について、みんなで考えて、そのうえで「より正しい」ものを選ぼう、ということである。もちろん、「より正しい」ものが100パーセント正しいという保証はない。その意味では、この選択はつねに暫定的なものである、と著者は主張している。
そして、歴史を見る枠組みにも、クーンが示唆する考え方を適用すべきだ、と著者は考える。

・史実はわかるかといわれれば、100パーセントわかるとはいえない。でも、100パーセントの史実なんてわからないからといって、過去のことすべては物語にすぎないと考えるのも、早計すぎる。そんなにあわてず、現在の段階で最善を尽くし、史実をより正しく認識し、解釈し、よりよい歴史書を構築することを考えるべきだという。
 将来どう評価されるかはわからない知識を提供するという点で、歴史学もまた一つの「通常科学」である。歴史学が用いるべき「真実性という基準」は、相対的で暫定的なものである。だから、認識や解釈や歴史像が正しいか否かは、時間が経過するなかで評価されなければならないとする。
 歴史学が提供する知識が相対的で暫定的なものだということは、科学としての歴史学にとっては、マイナスではなくプラスの意味をもっている。ある時点で得られる知識が相対的で暫定的なものであるからこそ、さらに過去の探求を進めようという意欲が湧いてくるし、歴史学はそれによって変化し、進化してゆくからである。
 だからこそ、史実を知ろうとするという歴史学の基本的な営みは、ダイナミックなものでありうるという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、185頁~188頁)

<「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」>
・コミュニケーションを改善するためのツールになるとか、アクチュアルなモデルや教訓になる歴史像を提示するというかたちで、歴史学は個人の日常生活に役立つ実践的な知識を提供する力をもっている。日常生活に役立つという観点から見ると、歴史学は十分に「使える」はずである。
 歴史学が供給できるような「個人の日常生活に役立つ実践的な知識」を「コモン・センス」と呼ぶことにする。「コモン・センス」とは、日常生活を送るために必要な「常識」とか「教養」といったものをあらわす言葉である。
 充実した生活を送るために必要な知識は、いつでも、どこでも、必要である。「教養」はつねに不可欠な存在である。問題は、ぼくらの時代にはどんな知識が「教養」に含まれるか、にある。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、188頁~191頁)

<「通常科学とコモン・センス」という枠組み>
・ここで提示した二つの概念、つまり、「通常科学」と「コモン・センス」を組み合わせれば、歴史を考える際に使える枠組みが一つにできあがる、と著者は考えている。
 この枠組みにもとづけば史実がわかるかという問題に対しては、「歴史学も通常科学でありうる以上、みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」という。
 「社会の役に立つか」という問題に対しては、「歴史学は、さまざまなかたちで、ぼくらのコモン・センスを提供できる」という。
 「物語と記憶」という枠組みが生産的でないとすれば、この「通常科学とコモン・センス」という枠組みを利用すべきだ、著者は主張している。
 利用できるかぎりの証拠をかき集め、みんなで突き合わせ、そして蓋然性が現在のところは高いのであれば、ほかの「通常科学」と同じように、そのことを認め、そのうえで、どんな「コモン・センス」が得られるかを考えてみることのほうが、はるかに意味がある、と著者は考えている。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、191頁~192頁)


「あとがき」より


☆著者は次の三つのことを念頭に置いて、筆を進めてきたという。
①歴史を学ぶことを「歴史学」と呼ぶとすれば、歴史学について、なるべく体系的に基本的な知識を整理すること。つまり、歴史学の入門書として機能すること。

・歴史学について、「適切な入門書」の条件を充たすものとしては、たとえばエドワード・カー『歴史とは何か』(岩波新書)や渓内謙『現代史を学ぶ』(岩波新書)がある。
 前者はちょっとレベルが高いし、後者はしばらく前から品切れ状態。
 というわけで、それなら自分で書いてみようと思ったという。
 
②歴史にかかわる優れた啓蒙書を紹介するブック・ガイドとして機能すること。
・だれでも興味深く読めて、値段も高くなくて、でもレベルは低くない本を「啓蒙書」と呼ぶとすれば、歴史家の手になる優れた啓蒙書は、とくに新書や各種「ライブラリー版」として、結構刊行されている。
 しかし、それらはあまり知られていなし、書店でたまに見つけても、大量の本にとりかこまれて窒息気味。
 たとえば、良知力『青きドナウの乱痴気』(平凡社ライブラリー)は、おそらく塩野七生や司馬遼太郎といった一流の歴史小説家の手になる歴史小説と同等か、あるいはそれ以上の「物語」を紡いでいるが、この書名がよく知られていると思えないという。
 網野善彦『日本社会の歴史』(岩波新書)は、刊行当時、相当話題になった本であるが、それでも広く読まれているかといえば、そんな気はしない。

※これはとても残念な事態である。
 どうして優れた啓蒙書だけが取り残されなければならないのだろうかという。

③歴史を考える枠組みを再検討してみること。
・小田中直樹氏の前著『歴史学のアポリア』(山川出版社、2002年)で、日本の歴史学について、過去を顧みながら、今日の位置を考えてみたようだ。
 この本は、最近流行りの「物語と記憶」という枠組みを念頭に置きながら、それ以外の枠組みはありうるかという問題を考えたものだった。
 でも、たどりついた結論は、「ないわけではない」という中途半端なもので、「では、どんな枠組みがあり、また<使える>のか」という問題には答えを出せなかった。
 前著で立てた二つの問題(史実はわかるか、過去を知ることは社会の役に立つか)を再度取り上げ、議論を進めてみようと考え、本書を書いたという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、196頁~199頁)

≪西洋美術史と食事~宮下規久朗氏の著作より≫

2024-05-31 19:00:44 | 西洋美術史
≪西洋美術史と食事~宮下規久朗氏の著作より≫
(2024年5月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の書物を参照しながら、西洋美術史における食事観・食物観について考えてみたい。
〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年
この著作の中で、著者は「キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった」(49頁)という。
 この意味するところは何かを中心に紹介してみたい。
(著者の章立てをそのまま紹介するというよりは、執筆項目をみてもわかるように、絵画作品を中心に述べてみたい)

【宮下規久朗(みやしたきくろう)氏のプロフィール】
・1963年愛知県生まれ。
・神戸大学文学部助教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了。
・兵庫県立近代美術館、東京都現代美術館学芸員を経て、現職。
・専攻はイタリアを中心とする西洋美術史、日本近代美術史。

<主な著作>
・『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)~第27回サントリー学芸賞受賞
・『バロック美術の成立』(山川出版社)
・『イタリア・バロック―美術と建築(世界歴史の旅)』(山川出版社)



【宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)はこちらから】
宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・プロローグとエピローグ
・≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年
・キリスト教思想の特異性

<聖人の食事~パンと水だけ>
〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃

<乱痴気騒ぎの情景>
〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃
<食の愉悦>
〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃

・農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ
〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年

・台所と市場の罠~第3章より
「二重空間」の絵画
〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年

・静物画と食物~第4章より
西洋美術特有の概念









〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年

【目次】
プロローグ
第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術
 1-1 レオナルド・ダ・ヴィンチの≪最後の晩餐≫
1-2 レオナルド以降の≪最後の晩餐≫
1-3 ≪エマオの晩餐≫
1-4 日本の「最後の晩餐」

第2章 よい食事と悪い食事
 2-1 キリスト教と西洋美術
2-2 聖人の食事
2-3 慈善の食事
2-4 宴会と西洋美術
2-5 乱痴気騒ぎ
2-6 食の愉悦
2-7 永遠の名作
2-8 農民の食事

第3章 台所と市場の罠
 3-1 厨房と二重空間
3-2 市場の情景
3-3 謝肉祭と四旬節の戦い
3-4 カンピの市場画連作

第4章 静物画――食材への誘惑
 4-1 静物画――意味を担う芸術
4-2 オランダの食卓画
4-3 スペインのボデゴン
4-4 印象派と静物画
4-5 二十世紀の静物画と食物

第5章 近代美術と飲食
 5-1 屋外へ出る食事
5-2 家庭とレストラン
5-3 貧しき食事
5-4 女性と食事

エピローグ
あとがき
主要参考文献







プロローグとエピローグ


<プロローグより>
・「最後の晩餐」の絵は、ほかのあらゆる優れた宗教美術と同じく、信者にとってのみ意味をもつのではない。
 優れた美術作品は、普遍的な人間の真実を表象しており、異なる文化圏にある者の心にも訴える力をもっている。
・ただし、こうした真実や力はいつでも誰の心にも響くものではない。
 出会うべきときに出会ったときに特に大きく作用する。
 画中のキリストのうちに別れた慈父の面影を見るのは、見る者にそれだけ切実にそれを求める心情があったからだが、優れた美術作品は個人的な心情を許容する大きさと深さを備えている。
 そして、それらはときに悲しみに沈んだ者を救いあげ、浄化する力をも発揮する。
 そんなとき、美術はもはや趣味的な鑑賞の対象などではなく、宗教そのものに化しているといってよい。

・さらに、美術作品だけでなく、食事がコミュニケーションの重要な手段でもあるということを示している。
 食事というものが、家族の一体感を確認する行為であるからこそ、父の記憶が夕食と結びついてしまったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、5頁)

<エピローグより>
・西洋美術における様々な食事の表現を見てきた。
 多くの場合、そこにはキリスト像の色彩が濃厚であることがわかる。

・キリスト教はそもそも特殊な宗教であった。
 母体であったユダヤ教では、神は決して目に見えない存在であり、「いまだかつて神を見たものはいない」とヨハネ伝の冒頭にも書かれているのに、イエス・キリストという普通の人間の肉体をもった神が出現した点が異常である。 
 キリストは神でありながら生身の肉体をもち、それゆえに、人間の罪の身代わりとなって血を流して犠牲となることができた。

・このことは、ギリシア以来、西洋に根強かった霊肉二元論ではなく、霊も肉も尊いという特異な考えにつながった。
 キリストの肉体が受難の末に復活したという教義を象徴するのが、聖体拝領であった。
 パンというもっとも基本的な食べ物に象徴的な意味を付与し、食べるという、本能に基づく動物的な行為を神聖な儀式に高めた。
 
・多くの宗教では、神の姿は目に見えず、表現できないことになっていた。
 しかし、キリストは人間の姿をまとって、つまり受肉して人間世界に出現したため、これを記録し、表現することが理屈上は可能となった。
 しかも、ギリシアやローマなど造形文化の伝統の根強い地中海世界に普及したため、早くからキリストや聖書の逸話を視覚的に表現することがさかんになった。

・一方、キリスト教の母体であるユダヤ教では、偶像を作ることも拝むことも認めず、旧約聖書でも繰り返し、それを禁じている。
 これに対し、キリスト教は、神の像は偶像ではなく、聖像(イコン)であって、その像を拝むのではなく、像の背後にある神を拝むのであって、画像は神を見る手段、窓であるという理論を徐々に作り上げていった。

・8世紀のイコノクラスムや16世紀の宗教改革において、この考えは反駁されながらも、美術は偶像ではなく、神を見る窓であるというイコンの考え方によって、西洋は2000年にわたって豊かな宗教美術を育んできた。
・美術作品という、一見異教的で偶像に通じる物質をイコンとして容認してきたこと、これは、パンという一般的な食べ物を聖体として肯定してきた思想と通じあう。
 どちらも、低くて現実的で具体的な物体を象徴化して、神聖化する思考のプロセスである。
 つまり、キリストが受肉したことにより、現世の肉体と食物を肯定し、造形表現を肯定する道が拓かれた。食物や造形芸術という、ややもすると肉の滅びや偶像につながる物質を、聖餐という儀礼と聖像という表象に昇華しえた、そこにキリスト教文明の特質があった。
 キリスト教文明圏以外では、食物にこれほど特別な意味がないため、美術表現と結びつかなかった。
 そもそも食物とは、粗野な自然を加工して人の口に合わせたものであり、自然の征服という側面をもっている。
 食べ物を描いた絵画は、自然が切り取られて人に提供されているような快楽を観者に与えた。
 また、絵画というものは、目の前にある事物や事象を写して留めるという欲求から生じたものであり、自然を切り取って入手することであった。
 食物と絵画にはともに、生や現世を肯定しつつ、自然を克服して人の手に入れられるようにしたものという共通点があり、それゆえに食物を描いた絵画が多いとも考えられる。

・また、食事は、こうした意味のほかに、人と人とのつながりを強調する意味ももっていた。
 食事には社会性があり、文化があるので、そこが動物と人間を分ける大きな分岐点となっている。
 西洋美術はそれを的確にとらえてきたといえるし、西洋美術における食事表現を通覧すると、いかに食事が人間の文化にとって重要であるかがわかる。
・食事こそはコミュニケーションの最大の手段であり、宗教と芸術につながる文化であった。
 人と人、社会と個人、文明と自然、神と人、罪と救い、生と死、それらすべてを結合させる営みが食事であった。
 また、真の芸術は、単なる感覚の喜びなどではない。
 人間の生の証であり、宗教にも通ずるものである。
 その意味において、食事と美術、さらに宗教は一直線につながっていく。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、247頁~250頁)

・ところで、1968年に命を絶ったマラソン選手、円谷幸吉(つぶらやこうきち)の有名な遺書がある。
 それは彼が死の間際に食べ物のお礼を几帳面に列挙していることによって、人の心を打つという。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆございました。(下略)」
※日本の伝統的な贈答品は鮭のような食べ物が多かったのだが、この遺書にはそれらの味よりも、それを食べさせてくれた身内の人々への純粋な感謝の念だけが淡々と記され、悲痛も絶望感もない澄み切った心境をうかがわせる。
 几帳面に列挙された食べ物と、「美味しゆございました」という言葉の繰り返しからは、食べ物への素朴な感謝の気持ちもにじみ出ている。

・川端康成は、「繰り返される≪おいしゅうございまいした≫といふ、ありきたりの言葉がじつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」とする。
 そして「千万言も尽くせぬ哀切」であると評した。
 人生の最期に思い出してしたためるべきは、ご馳走の味ではなく、人の情である。
 また食べ物は人とのつながりと切り離せないということを、これほど感じさせてくれる文章はない。

・本書では、美術と食とのかかわりを追っている。
 美術も食も、死というものに照らしてみたときにこそ、その真の力も妖しく放ちはじめるという。
 「最後の晩餐」は、その意味で、美術においても食事においても、究極のテーマであるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、251頁~253頁)

・第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術(16頁~)

≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より


〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年(口絵1)
・レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から97年にかけて、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の壁画に描いた≪最後の晩餐≫(口絵1)は、レオナルドが遺した唯一の大作として有名である。
 ルネサンスのもっとも重要な記念碑となっている。
※『ダ・ヴィンチ・コード』というベストセラー小説や映画でも、重要な役割を担っていた。

・キリストは捕縛される前日、エルサレムで12人の弟子たちと食事をした。
 この日は過越祭(すぎこしさい)の日に当たっており、過越の食事(パサハ)をとることになった。
 過越祭とは、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、ユダヤ人の家を過ぎ越したことに基づき、ユダヤ人の根源をなすエジプト脱出を記念する春の祭りである。
 この日は子羊を犠牲にし、ふくらし粉の入っていない種なしパンとともに食して祝うことになっていた。

・キリストはこの食事の席でふいに、「はっきり言っておくが、あなたがたのうち一人が、私を裏切ろうとしている」という衝撃的な発言をする。
 レオナルドの絵は、この発言を聞いた使徒たちが驚き慌てる様子をとらえたものである。
※ここには、画家の鋭い人間観察の成果が見られ、驚愕と動揺、疑念と怒りといった使徒たちの様々な感情が、身振りと表情によって見事に表されている。

・12人の弟子たちは、3人ずつのグループに分かれ、それぞれ裏切り者は誰だと話し合ったり、キリストに問いただしたりしている。
 裏切り者のユダだけがこの動揺に加わらず、傲然としてテーブルに右ひじをついている。

※キリストを中心として左右に6人ずつの弟子が配された左右対称の人物配置、そして、天井の線を辿るとキリストの頭の位置に消失点が来るようになっている一点透視法による構成は、きわめて明快であり、堂々とした古典主義様式の模範的作例となっている。

・テーブルの上に両手を広げたキリストの身振りは、「裏切りの告知」であるだけではない。
 キリストの伸ばした左手の先には丸いパンが見え、右手の先にはワインの入ったグラスがある。
 キリストはこの晩餐の席で、賛美の祈りを唱えてパンを割き、弟子たちに与えて、
「取りなさい。これは私の体である」
 と宣言し、ワインの杯をとって感謝の祈りを唱えて、弟子たちに渡し、
「皆この杯から飲みなさい。これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」
と述べた。

※これは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して記述している内容である。
以後、キリスト教会は、こうしたキリストの言葉に従って、聖体たるパン(聖餅、ホスティア)を食し、聖血たるワインを飲む儀式、つまりミサを執り行うようになった。
 祈ってパンを割き、配餐して杯を回す所作は、もともとユダヤ人の家長が過越祭や安息日のときに家庭で行う食習慣であった。
 ミサは、聖餐式、聖体拝領などと訳され、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教会など、あらゆる宗派に共通するキリスト教のもっとも重要な典礼である。

 聖餐式は、キリストの犠牲と復活を覚え、キリストを自分の体のうちに取り込み、罪の許しと体の復活にあずかるという、キリスト者としての救済を確認する行為である。
 教会に設置されている祭壇というものは、この聖餐のための食卓にほかならない。そのため、余計なものは置かず、テーブルクロスのような白い布をかけられていることが多い。

・初期のキリスト教徒は、共同体としての結束を確認するために、しばしば集まって食事(愛餐、アガペー)をしており、これと聖餐式とははっきり区別されていなかったが、2世紀半ば頃から愛餐と分離し、感謝の祈りを中心とする「エウカリスティア(聖餐)」という典礼になった。これが教会内のミサとなった。

・「最後の晩餐」という主題の最大の意義は、この「聖餐式の制定」、あるいは「ミサの起源」にあった。
 キリストの生涯の中で、「カナの婚礼」や「パンと魚の奇蹟」のような飲食にまつわるエピソードが強調されるのは、それらが聖餐を象徴すると解釈されたためである。
 「パンを割く」というのは、聖書に頻出する表現で、ひとつのパンをちぎって多くの人に分け、いっしょに食べることをいう。こうして、食卓をともにすることは、信者どうしの結びつきを確認する兄弟の交わりを意味した。

※パンとワインは、西洋ではもっとも基本的な食事である。
 日本のご飯と味噌汁に当たるといってよい。
 パンはすぐ乾燥するため、ワインとともに食するのが一般的であった。
 ワインも酒というよりは食事の基本要素であった。

・レオナルドの作品では、キリストが両手で自分の肉と血を指し示しているのだが、画家はこの主題を、熱い人間のドラマとして表現する一方、それにふさわしい教義上の意味をも表現している。

・「最後の晩餐」の絵は、修道院の食堂の壁画に描かれることが多かった。
 レオナルドの壁画も、聖堂に隣接する修道院の食堂に描かれたものである。
 キリストの生涯の一エピソードとして物語場面が表現されたものというより、ミサの起源としての意味を強調し、毎日食べるパンに与えられた神聖な意味を思い起こさせるためであった。
 修道士たちは食事のたびに、「最後の晩餐」の絵を見ながら、うやうやしくパンをかみ締めていたのである。
 
・西洋において、食事に神聖な意味を付与されたのは、何よりも「最後の晩餐」、そしてそこから発生したミサのためであるといってよい。
 パンとワインという、もっとも基本的な飲食物が、神の体と血であるというこの思想が、西洋の食事観を決定したといってもよい。

・とくに、パンは何よりも重要であった。
 「人はパンのみにて生くるものにあらず」とキリストは言ったが、パンは生きる糧、日常的な食料の代名詞であっただけでなく、「命のパン」であるキリスト自身を象徴していた。
※ただし、古代や中世初期のヨーロッパでは、パンとワインは地中海世界のローマ文化圏特有の食べ物である。北方のゲルマン世界では、肉とエール(ホップを入れないどろりとしたビール)こそが主食であった。古代ギリシアでもローマでも、パンには文明の象徴としての役割が与えられており、それを知らないゲルマン人を野蛮であると見なしていた。
 キリスト教がパンを聖体として称揚した背景には、古代地中海世界のこうした思想的伝統があったことは疑いない。

・また、キリスト教徒は、復活祭前の6週間の断食期間にあたる四旬節には、肉食を断つことになっているが、やがて肉の代わりに魚を食すことが認められるようになった。
 肉は飽食、魚は禁欲を表すものとして対比されるようになる。
 魚は一種の精進料理としての地位を与えられたのである。
 このことも、最後の晩餐のメニューに魚がふさわしいと目される背景にあったようだ。

・キリストの一番弟子のペテロやその兄のアンデレなど、キリストの十二使徒のうち7人までが、キリストに召される前はガリラヤ湖で網を打つ漁師であった。
 豊富な魚の獲れるガリラヤ湖畔で活動したキリストとその弟子たちが、魚を常食していた「魚食の民」であったことはまちがいない。
(今でもかの地では、「ペテロの魚」と名づけられたガリラヤ湖で獲れる大ぶりの魚を食べているという。ただし、味は大味でそれほどおいしくないらしい)

・キリストは、パン五つと魚二匹を、説教を聞いていた5000人もの衆人の食物として十分な量に増やすという有名な「パンと魚の奇蹟」を行った。
 このときも最後の晩餐と同じように、キリストは、賛美の祈りを唱えてから、パンを割いて弟子たちに渡している。

・また、復活後、弟子たちの前に現れたキリストは、焼いた魚を渡されるとそれを弟子たちの前で食べ(ルカ24:42-43)、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちの前に現れて朝食をすすめ、パンと魚をとって彼らに与えたという(ヨハネ21:13)。
 キリストと弟子たちにとって、パンと魚はいわば常食であったようだが、復活してからも食べたことから、キリストは魚食を好んだと考えられている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、16頁~25頁)

・第2章 よい食事と悪い食事(46頁~)

キリスト教思想の特異性


・林檎や果物も、原罪という意味を持つようになった。
 たとえば、15世紀のヤン・ファン・アイクの有名な≪アルノルフィニ夫妻像≫で、
窓際にさりげなく置かれた果物も原罪を表し、モデルの夫婦の罪を示している。
 そして奥の鏡の縁にはキリストの受難伝が刻まれており、夫婦がキリストの犠牲にあずかって救済されることも示される。
 ヴィーナスが持っているリンゴも、異教の愛欲の女神の持物であるということとあいまって、原罪と結びつくことが多かった。

・キリスト教の教義では、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことから、すべての人間が背負うことになった原罪から人間を救うために、キリストが地上に遣わされ、犠牲になったことになっている。
 それ以来人間はこの犠牲を銘記して、救済されるために、キリストの象徴である聖体のパンを食べるという儀式を行うことになった。
 つまり、キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。
 西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった。
 食事というものが、単にもっとも身近で毎日繰り返される根源的な営みであったからというだけではない。わが国では明治になるまで、食事を描いた単独の作品は皆無であった。
 美術のあり方のちがいのためでもあるが、美術の歴史において、もっとも頻繁に食事を表現してきたのは、西洋であることはまちがいない。
 その背景は、キリスト教の思想があると考えられている。
 キリスト教に裏打ちされた食事の美術は、単なる教義の図解にとどまらず、その時代や地域、注文者・作者・観者の意図や個性や欲望に応じて、豊かに変奏しつつ、多彩な成果を生んでいった。
 では、模範的なよい食事と否定的な悪い食事とが具体的にどう表現され、そこにどんな意味があったのか、具体的に見ている。

<聖人の食事~パンと水だけ>


〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃(口絵3)

・西洋美術史上、もっとも模範的な食事の絵は、ダニエーレ・クレスピが描いた≪聖カルロの食事≫(口絵3、ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃)
という作品であるようだ。
 17世紀初頭にミラノで活躍したこの画家は、イタリアでもそれほど知られていないが、この絵だけは非常に有名である。

・ひとりの聖職者がハンカチで目頭を押さえて本を読みながら、パンを食べている。
 テーブルクロスもない食卓の上には、水のはいったフラスコとグラスがあるだけである。
 画面右の台には、布が掛けれており、その上には大きな十字架が立て掛けられ、司教の帽子が置かれている。画面奥では、この食事の情景を見て、その食事の様子に驚いている二人の男の姿が見える。

※カルロ・ボロメオは、名門貴族の家に生まれ、1564年から84年までミラノの大司教を努めた。
 カトリック改革(反宗教改革)の旗手として知られ、ミラノをヨーロッパ有数の宗教都市に変貌させた人物である。
 彼は、司教区内をつぶさに巡視する一方、1576年のペストの際は多くの貴族のように避難したりせずに、先頭に立って自ら病人の救済に当たり、民衆を大いに勇気づけた。
 宮殿で贅沢三昧に育てられたにもかかわらず、常に粗衣粗食に甘んじ、衣も家具も売り払い、壁掛けすら取り外させ、所領をも売却して貧者や孤児、病人たちに施したという。
 彼は、後世になってますます崇敬を集め、早くも1610年には列聖され、4世紀の聖アンブロシウスとともに、今でもミラノ人の精神的支柱となっている。

・この聖人は、ミラノをはじめとしてイタリアのバロック美術の主人公として、数々の作品に登場する。
 聖人の神々しさや英雄性はまったく見られず、孤独な聖職者の厳粛で禁欲的な姿が印象づけられる。
 パンと水だけの質素な食事をとりながら、本を読み、そこに書かれたキリストの受難を思って涙を流す。

※いかにも消化に悪そうな食事ではあるが、この姿勢こそ、キリスト者の食事のあるべき姿にほかならなかった。罪を悔い改めるために肉もワインもとらず、貧民と同じ食事をとるのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、49頁~52頁)


<乱痴気騒ぎの情景>


ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫


〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃(口絵4)

・カトリックのまま残ったフランドルでは、大工房を構えた巨匠ルーベンスが圧倒的な影響力をもって活躍していたが、その影響下から優れた画家が育っていた。
 その一人、ヤーコプ・ヨルダーンスは、ルーベンス作品に見られる高揚した生命力をさらに発展させ、農民が登場する風俗画を得意とした。
 歴史画や寓意画においても、ニンフやサテュロスが乱舞する祝祭的な情景を粗野なまでに力強く表現した。
 もっとも得意とし、人気を博したのは、農民や庶民の乱痴気騒ぎの情景である。
(横が3メートルもある歴史画のような大画面に、このような世俗の主題を描いたことが注目される)

・ヨルダーンスは、フランドルに住みながらカルヴァン派の信者であり、ハーグ近郊のハイス・テン・ボスで制作したこともあったので、オランダでは比較的よく知られていたようだ。
 老人が歌い、若者がバグパイプを吹く一家団欒の宴席である≪老いが歌えば若きが笛吹く≫、それに≪豆の王の祝宴≫という二つの主題が、とくに繰り返し制作された。

・「豆の王様」とは、十二日節の行事だが、生誕間もない幼児キリストに東方から三人の王(三博士)が贈り物を持ってやってきたことにちなむ祝宴である。
 豆を一粒だけ入れて焼いたケーキを切り分け、豆入りに当たった者が王の役になり、彼が王妃、侍従、侍医などの役を割り振って、擬似宮廷を作り、「王様の乾杯」という一同の唱和とともに酒を一気に飲み干すものである。

・宴会につきものの、既成の秩序の転倒という性格を色濃くもっている。
 ヨルダーンスは、王の役に当たり、王冠を被って杯をあおる太った老人を中心に、老いも若きも大きく杯を掲げて乾杯する情景を何度も描いた(口絵4)。

・ヨルダーンスは、オランダの風俗画よりも、人物の比重が大きく、力強い歴史画(宗教・寓意・歴史などの物語的主題を持つ絵画)のような大画面としている。
 ここでも、単なる農民の乱痴気騒ぎではなく、公現祭(キリストが人類の前に顕現したことを祝う祭日)を祝うという信仰が、表向きの主題となっていることが重要である。

☆16世紀から17世紀にかけて、どんちゃん騒ぎの絵がこれほど頻繁に描かれたのは、なぜだろうか。
・中世から近世にかけては、食糧供給が非常に不安定であった。
 貴族といえども凶作の年は、質素な食に甘んじなければならなかった。
 こうした社会では逆に、富裕層や貴族はしばしば大宴会を催す傾向があったという。
 あらゆる階級が、粗食とごちそうを交互に食べるのが決まりだった。食料不足のために、こうした起伏が習慣として定着していた。

・とくに農村では、毎日の食べ物と祝祭時の食べ物との落差が大きく、収穫祭、結婚式、守護聖人の祝日、復活祭、クリスマスなどに、桁外れのお祭り騒ぎをする一方、通常はせいぜいパンか野菜の煮汁だけで生きていた。
 19世紀までヨーロッパの農民の大半は、肉をほとんど口にせず、パンのほかは鍋で煮た野菜とスープばかりであった。しかも、食料は長く貯蔵できないし、いつ兵隊や略奪者が来て奪い去るとも知れなかった。
 大量に貯蔵するよりはお祭りのときに全部食べてしまうという意識になったのである。
 教会は四旬節や聖人記念日などの精進日を定め、この期間にはパンと水しか食べてはいけないことにしたが、それが厳しければ厳しいほど、祭りのときのどんちゃん騒ぎは過熱するのだった。

・農民たちの乱痴気騒ぎは、都市の富裕な貴族や商人にとっても、理想的な情景であり、彼らは自宅にこうした絵を飾ることで、飢えや欠乏への不安をかき消して気分を高揚させようとしたのであろう、と著者は解釈している。

 ヨルダーンスの農民風俗画には、しばしば異教の神が登場するが、丸々と太った農民たちは、豊穣の神ケレスや酒神バッカスやシレノスと同じく、見ているだけでおめでたい感じ、つまり吉祥的な効果を与えたとみている。
(布袋や大黒などわが国の七福神が太っているのも、同じ役割を果たすものであったらしい)

・食糧供給がなんとか安定する18世紀半ばにいたるまで、肥満は恥どころか、社会的威信を表すものであった。また、料理の豪華さは、多くの場合、質より量で判断されていた。

・フランドルやオランダの宴会図は、放蕩息子や七つの大罪という教訓的な主題の伝統の上に成立したものである。17世紀になると、明るい農民の生活を描くことが、それ自体ひとつの主題として確立した。
 そこにはもはや、反面教師的・否定的な意味は薄れ、宗教的祭事を祝う健全な庶民の信仰心が好意的に眺められるようになっている。

・また、画家たちは、陽気な宴会に自らの姿を描きこむという誘惑にかられたようだ。
 ステーンもヨルダーンスも、しばしば乱痴気騒ぎの情景に、楽器を奏でる自画像を挿入した。レンブラントも、新妻サスキアとともにいる自画像を描いたとき、自らは放蕩息子として登場させた。

※今まで見てきた宴会図のほとんどは、フランドルやオランダで制作されたもので、イタリアやスペインのものは少ない。
 これは、キリスト教以前のケルト・ゲルマン社会が、ラブレーの『ガルガンチュア』や『パンタグリュエル』に描かれたような大食漢や暴飲暴食を好ましいものとしていたことと関連があるらしい。
 古代地中海世界では、基本的に節食をよしとしていたが、それがキリスト教の禁欲観に継承され、その伝統のゆえにイタリアなどでは、どんちゃん騒ぎの絵が少なかったのであろう、と著者はみている。
 つまり、フランドルでは、キリスト教的な倫理観を表に出しながらも、その下層には古来のゲルマン的価値観が息づいていたという。

※賑やかな宴会や乱痴気騒ぎは、キリスト教的観点からすればよいことではないが、人生の幸福を感じる行為であり、美術の主題として、画家も鑑賞者も喜んで制作し、受容したことがうかがえる。
 美術というものは、道徳や教義の絵解きとしてだけでは説明できない、人間の複雑な心性を表象するものであるという。
 さかんに表現された宴会図には、表向きの宗教的な教義と芸術制作の動機との乖離を見ることができるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、76頁~82頁)

<食の愉悦>


カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫


〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃(口絵5)

・17世紀の風俗画に表れた宴会図は、食べるという行為よりも、仲間や家族で飲みかつ歌うという祝祭的な性格をもつものが多かった。食べることだけを主題とした作品はそれほど多くはない。
 16世紀後半のイタリアでは、フランドル美術の影響を受けて、世俗的な風俗画や静物画が勃興しつつあった。
 そんな傾向を代表する画家ヴィンチェンツォ・カンピは、農民が食事をする光景を描いている。

・中でも、≪リコッタチーズを食べる人々≫は、四人の男女が大きなチーズを食べている情景を表現している。食事を正面から捉えた稀有な作品である。
 リコッタチーズを交互にすくっては食べる男女。
 右端の女性はスプーンを持ったまま、こちらに笑顔を向けている。
 その隣の男はチーズの塊にスプーンを突っ込んでいる。
 その右の男はスプーンに載せた大きなチーズを上から口に入れようと大きく口を開けている。
画面左端の男は口いっぱいにチーズを含んで口を半開きにしているために、口の中のチーズが見えている。

※リコッタチーズは、豆腐のようなものだと考えればよいようだ。
 豆腐自体はもともと中国の唐代にチーズを模倣して作られるようになったものだという。

※スプーンを持つ右の女性から順に、スプーンをチーズに突っ込む、それを口に持って行く、口に含むという一連の動作が連続しているようである。
また、男たちが右から若者、中年、老年と、人生の三段階を示すようであり、女性も加えて、あらゆる人間が代表されている、と著者は見ている。
 いずれの顔も食べることの幸福感に満ち溢れ、にぎやかで明るい雰囲気が漂っている。
 この作品は、画家カンピの没後、遺産として未亡人が持っていたことはわかっているが、誰の注文でどんな意図をもって制作されたのかは、不明であるようだ。

※画家の当初のねらいはともかく、著者は、この絵こそ、食の愉悦を表現した傑作であり、「西洋美術史におけるもっとも愛すべき作品」であるとみなしている。

※聖人や修道士のようなしんみりとした質素な食事は、誰からも敬われるべき模範的な食事にはちがいないが、美術表現においては、豊富な食物に取り囲まれて明るく談笑しつつ食べる情景のほうが受け入られてきたようだ。
 それは、欲望や快楽に屈して堕落した人間の愚かで否定さるべき表現というよりは、この世の隅々に神の栄光を見て、日常的な営みを重んずる現世肯定的なイメージであるともいえる。
 カンピの生きた16世紀後半のロンバルディア地方は、カルロ・ボロメオの主導する厳しいカトリック改革の本拠地であり、≪聖カルロの食事≫のような戒律と禁欲に縛られた敬虔さが尊重された。

・そのため、カンピの風俗画は、貪欲や大食の罪のような教訓性を表したものと考えられるのだが、こうした表向きの主題を口実にしながら、庶民や農民の食事のようなたくましくも明るい生命力を提示した、と著者は考えている。
 それらは、貴族や商人のような富裕な顧客に受け入られ、教会に収蔵されたこともあるが、「悪しき食事」や「大食の悪徳」という表向きの教訓性がそれを可能にしたという。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、82頁~86頁)

農民の食事 ラ・トゥール、ゴッホ(93頁~)

農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ



〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
・20世紀に歴史の闇から発見されて、いまやフランス最大の画家と目されるジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、カラヴァッジョの様式を瞑想的にした静穏な宗教画で名高いが、初期には無骨なまでに自然主義的な農民や旅芸人の姿を描いていた。
・1975年にはじめて世に出た≪豆を食べる夫婦≫は、1620年頃と思われる初期のラ・トゥール特有の表現主義的なタッチよる力強い傑作である。
 老いた農民の夫婦が立ったまま、短い木のスプーンで、手に持った陶器の碗に入ったエンドウマメをすくっては食べている。
・カラッチの≪豆を食べる男≫では、スプーンから汁が滴り落ちていたが、この豆料理はほとんど汁気がないようであり、硬そうである。
 カラッチ作品に遅れること約40年だが、同様に、農民が喜怒哀楽も会話もなく、淡々と主食である豆を食べているというイメージである。
 男は碗を持つ手で同時に杖を支えているので、室内ではないだろう。
 巡礼者など無宿の流れ者かもしれないという。

※ラ・トゥールがなぜこのような夫婦を描いたのかは不明である。
 しかし、無言のうちに厳粛な雰囲気と威厳を漂わせる彼らの姿には、貧しき者こそキリストの身内であって幸いであり、天の国を継ぐべき人たちであるという思想が表現されているとみる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、93頁~94頁)

〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
・ラ・トゥールのやや後に同じフランスで、こうした農民の食事を描いたのが、ルイ・ル・ナンである。
 ル・ナン兄弟も19世紀になって再発見された画家であり、三人の兄弟の手を見分けるのは困難だが、ルイ・ル・ナンは農民の風俗を得意とし、風俗画でありながら宗教画にも似た古典主義的な画面を描いた。

・≪農民の食事≫では、三人の男が深刻な表情をして座り、画面左の男はワインを飲んでいる。
 中央の男はワイングラスを掲げ、右手にはパンを切るナイフを持っている。
 右の男は何も持たずに手を合わせて祈っている。
 女性と子供、少年がその背後にいて、画面の雰囲気を和らげており、とくに中央奥にいる子供はつぶらな瞳をこちらに向けている。

※ここではあきらかに、ワインとパンによる聖餐が暗示されている。
 フランドルやオランダに見られたどんちゃん騒ぎの農民とはまったく別の世界の住人のようである。
 彼らは堂々と屹立し、神の身内になる義人として威厳を保っている。

※農民でありながら、修道士や聖人にも似た厳粛な食事をとっている、こうした情景は、貧しき者こそが神の宴席に招かれるというキリスト教特有の思想の表れである。
 敬虔なキリスト者は、貴賤にかかわらず、いつも神の恵みに感謝し、神のことを思いつつ、食事をするのである。

〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年(口絵7)
・こうした農民の食事風景の傑作は、19世紀末のゴッホ初期の代表作≪馬鈴薯を食べる人々≫である。
 ランプの灯る薄暗い部屋で五人の家族が夕食にジャガイモの皿を囲んでいる。
 一家団欒の会話もなく、厳しい表情で黙々と塩茹でしただけのジャガイモの大皿に直接フォークを伸ばし、画面右の女性は黙ってコーヒーを注いでおり、その左にいる男はだまって茶碗を差し出している。
 左の夫婦のうち、嫁は何か話すかのように左端の夫に顔を向けるか、男はこれを黙殺している。

※ゴッホは、主に記憶に基づいて、この絵を制作したのだが、大変な労力と時間をかけた。
 「ジャガイモを食べる人々が、皿に手を伸ばすその手で大地を掘ったのだということを強調しようとした」と画家自身記しているように、ジャガイモは彼らが自ら耕して、その手で収穫した大地の恵みであり、彼らはこの恵みを神に感謝しつつ食べているのである。

※南米原産で16世紀に、スペインがヨーロッパにもたらしたジャガイモは、食物としてなかなか一般化しなかった。
 しかし、飢饉のたびに穀物の代替物として徐々にその真価が認められ、18世紀にはヨーロッパ中に普及し、農民や労働者の一般的な食物となっていた。
 ジャガイモをパンにする試みもあったが、困難であったため、この絵のように、そのまま茹でて食べるのが、一般的であった。
 ジャガイモは、パンを食べられない最下層民の主食であり、パン以下の食物とみなされていた。
 画面に漂う厳粛な雰囲気は、修道士の食卓のイメージと大差がない。

※ゴッホは、敬虔なクリスチャンであり、神学を修めて牧師を志していたほどであったがが、農民の生活を表現する大作として、農作業の情景ではなく、労働後の食事の場面を選んだことは意義深い。
 ステーンやヨルダーンスの歌い騒ぐ農民の伝統的なイメージに反し、酒ではなく、コーヒーを飲む静かで理性的な農民の姿を提示した。
 17世紀にトルコからヨーロッパに伝えられたコーヒーは、理性を鈍麻させる酒に対して、理性を覚醒させる飲料として歓迎され、普及した。

※入念に構想され、長期間にわたって制作された、この記念碑的作品には、土に生きる農民たちの労働の成果と、彼らの素朴だが純粋な信仰が見事に表現されている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、96頁~97頁)

第3章 台所と市場の罠(100頁~)

台所と市場の罠


【「二重空間」の絵画】
・西洋美術史を振り返ると、食事の情景よりも、台所における調理の場面や、食材を売る市場の情景のほうが、頻繁に表現されているようだ。
 いずれも食事そのものではないものの、その準備として重要な主題ではあるが、なぜそれらがさかんに描かれたのだろうか、と著者は問いかける。

・≪リコッタチーズを食べる人々≫を描いたカンピにもっとも大きな影響を与えたのは、フランドルのアールツェンとブーケラールという画家であったという。
 彼らは、16世紀後半に、静物画や風俗画と宗教画が同居している奇妙な作品群を描き、17世紀風俗画の祖となった画家である。
 それらは、画面手前に食材や商品が並べられ、同時代の人物がそれらの前で立ち働く風俗画となっているが、画面奥には、聖書の場面が小さく見えるというような作品である。
 こうした「二重空間」の絵画は、16世紀後半から17世紀初めにかけて、フランドル、北イタリア、そしてスペインで流行した。

※一般には、それぞれの世俗ジャンルが独立する前の未分化の過渡的な現象を示すものと説明されるが、その意味については、現在も定説を見ていないようだ。
 それらは、聖なる場面に現実性を導入するための試みと見ることができる。
 あるいは画中空間と現実空間を接続させるバロック的な手法の先駆となるものであった。
 そして、静物画や風俗画がジャンルとして独立する以前の16世紀半ばにおいて、食物や厨房を前面に大きく写実的に描いたという点で、注目に値するようだ。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、100頁~101頁)

〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年(口絵8)
・たとえば、ピーテル・アールツェンの≪マルタとマリアの家のキリスト≫は、手前に食物や道具が所狭しと並べられた厨房の情景であり、奥に見える部屋にキリストとマルタ、マリアが小さく見える。

※「マルタとマリアの家のキリスト」という主題は、厨房と結びついている。
 マルタとマリアの姉妹の家に、キリストが迎えられたとき、姉のマルタは主をいろいろともてなすためにせわしく働いていたが、妹のマリアはキリストの足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタはこうした妹の態度に腹を立て、ついにキリストに、妹をたしなめて自分を手伝うように注意してほしいと訴えた。
 すると主はこう答えた。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(ルカ10:38-42)

※家事を手伝わない妹が得をし、働き者の姉がキリストにたしなめられるという一見不条理な話なのだが、古来さまざまな神学的解釈がなされてきた。
 マルタは活動的生、マリアは瞑想的(観想的)生という、人間の生活のふたつの側面を象徴するという解釈が普及した。信仰生活にとっては後者のほうが重要であるが、両者は相補うべきだとされた。
 女性にとっての家事労働を軽視するのではなく、いずれも重要であるというわけだが、「二重空間」の絵は、なぜか手前に厨房の場面が大きく描かれ、奥にわずかにキリストやマリアが見えるのであった。

・アールツェンのこの絵では、奥の暖炉の前で、マルタが箒(ほうき)のようなものを手にして立ち、キリストは足もとに座り込んで、手を合わせるマリアの頭に手を置いている。
 暖炉の上には、オランダ語で「マリアは良い方を選んだ」という文字が見える。
しかし、こうした情景とは関係なく、手前には大きな肉の塊やパン、バターやワインの容器などのほか、革の財布、書類や銀器の入った金庫、陶器や花瓶が大きく見える。

※おおむねいえることは、これらの手前の物質はマリアの選んだ精神的価値と対比され、現世のはかない価値を象徴しているということである。
 つまり、手前に展開された物質的価値や欲望の世界を乗り越えて、キリストの近くの精神的世界に行くべきという教訓である。

※あるいは、こうした絵には、プロテスタント的な思想が反映されているという見方もある。
 つまり、聖書の情景を実際に見るように修行させるロヨラなどのカトリックとは正反対に、ヴィジョンを否定し、真実は見えないもののうちにあるという考え方である。
 アールツェンやブーケラールの画面で目を奪う前景は、堕落した世界そのものであり、それを通してしか、超越的なものは把握できないとする。

※これらの作品が制作された1560年代は、宗教改革によるイコノクラスム(偶像破壊)の嵐が吹き荒れており、自らの宗教画を破壊されたこともあるアールツェンは、プロテスタントの検閲官の目を潜り抜けるために、あえてキリスト教的な教訓を含ませたと考える研究者もいる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、101頁~104頁)


静物画と食物~第4章より


・市場や厨房の絵において、描かれた食物が徐々に中心となり、聖書的な教訓や市場・厨房という舞台設定もなくしてしまったのが、静物画である。
 静物画の主題で圧倒的に多いのが食物であった。
 静物画というジャンルは、発生のときから食物や食材を描くことによって流行し、愛されてきた。
 したがって、美術における食べ物の絵を探ることは、必然的に静物画の歴史を振り返ることになる。
 
・静物画という日本語は、英語のstill life(動かざる生命)の翻訳である。
 そもそもこの用語は、オランダで1650年頃に成立したstillevenという語に由来する。
 このことからもわかるように、オランダこそは静物画の故郷であった。

※ただし、静物画は西洋では長い伝統をもつ。
 ゼウクシスやパラシオスといった古代ギリシアの画家たちが、果物やカーテンなど静物を巧みに描いて、人や動物の目を欺いたという逸話が多く伝えられている。
 本物そっくりの絵を「トロンプ・ルイユ(目だまし絵)」とよぶが、本物と見まがうばかりの静物画がいつの時代にも喜ばれた。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、138頁~139頁)


西洋美術特有の概念


・古代に発した静物画の伝統は、中世に一旦途絶えるものの、中世後期からルネサンスに復活した。
 15世紀にフランドルで再び生まれた静物表現は、キリスト教的な意味に染められたものになっていた。

・表には礼拝する注文主の肖像が描かれており、裏には花瓶に入った百合の花が描かれたメムリンクの有名な作品や、聖母子図の裏に洗面器と水差し、タオルなどが描かれた逸名の画家による作品があるが、これらはすべて聖母の純潔を象徴するものであった。

・葡萄(ワイン)やパンはキリストの象徴である。
 リンゴは原罪、ザクロは復活を示すというように、特定の事物がキリスト教的な象徴と結びついている。
 日常的な事物に象徴的な意味を込めるのは、フランドル絵画の伝統といってもよいが、静物画に、物の単なる迫真的な再現にとどまらず、ある意味を伝える記号であるという新たな機能が加わった。

・西洋美術には、物がある人物の属性を示すというアトリビュート(持物)という概念がる。
 聖母は百合、ペテロは鍵、パウロは剣、ジュピターは雷、ヴィーナスは薔薇やリンゴというように、神や聖人がそれぞれ特定の物と組み合わされることで見分けられるという図像上の決まりである。
 また、古代以来、擬人像という伝統もあって、「真実」や「信仰」、「五感」「四季」「四大要素」といった美徳や抽象的な概念を人物と物の組み合わせによって表現する慣習があった。
 17世紀には、そこから擬人像が消え、アトリビュートだけが描かれて寓意的な静物画となることが多くなる。

・目に見える具体的な物や人に抽象的な概念を重ねるという習慣では、東洋ではほとんど見られない西洋特有の思考法といってよい。
 中国や日本には、漢字という表意文字があり、意味と形態の美の双方を伝えることができるため、書を芸術とする伝統が形成され、擬人像やアトリビュートを必要としなかった。
 そのため、「仁義」とか「一日一善」とかいう書を掲げればすむ。
 しかし、同じ意味を伝えるのに西洋ではいちいち正義やら慈愛の擬人像を作らねばならなかった。
 こうして静物画は、単なる物の表現であるだけでなく、宗教画や物語画と同じく、意味を担う芸術となったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、141頁~143頁)

五感の寓意


・そんな寓意的主題のひとつとして、「五感の寓意」がある。
 一般に、着飾った女性や裸婦が五感の擬人像となって、五感を表す行為をしている連作である。味覚の寓意としては果物を食べたり、乳を与えたり、ワインを飲んだりする姿で表されることが多い。風俗画の中に五感の寓意を示すことはフランドルでさかんに見られた。

・静物画では、ルーヴル美術館にあるフランスのリュバン・ボージャンの絵(図49)が有名である。
 そこでは、視覚は鏡、聴覚はリュートと楽譜、嗅覚は花瓶の花、味覚は切ったパンとグラスに入ったワイン、そして触覚は小銭入れ、トランプの札、チェス盤によって表されている。
※図49 ボージャン≪静物≫パリ、ルーヴル美術館、1630年

・五感の寓意という主題が流行したのは、絵画が視覚という単一の感覚にしか対応しないため、ほかの諸感覚をも想起させ、ひとつの世界や小宇宙を表現しようとしたためであろう。
 とくに静物画は絵画の中でもっとも地味でありながら、物をリアルに描くことによって、味覚や嗅覚、触覚を直接刺激し、視覚の限界を乗り越えようとしたジャンルであったといえる。
 静物画の題材のうちでも、食物のほかに、嗅覚に訴える花や聴覚を想起させる楽器がとくに好まれたのも、そのためである。
 静物画に限らず、西洋絵画に食べ物や飲食にまつわる主題が多いのは、キリスト教的な意味のためであると同時に、絵画のうちに味覚という快楽を加えて、絵を見る喜びを増幅させるためであったと見ることができる、と著者は考えている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、143頁~146頁)


≪世界史と植物~稲垣栄洋氏の著作より≫

2024-05-26 18:00:53 | 私のブック・レポート
≪世界史と植物~稲垣栄洋氏の著作より≫
(2024年5月26日投稿)

【はじめに】


 日本の5月といえば、やはり田植えの時期である。
 田植えが始まると、本格的に稲作に取りくまねばという気持ちになる。それと同時に、今年の天候はどうなるのかなど、いろいろなことが気になり始める。
 そして、稲作に関連した著作でも読んでみたくもなる。

 さて、今回のブログでは、イネと世界史について書かれた、次の著作を紹介してみたい。
〇稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]
 目次をみてもわかるように、イネについてのみ書かれているわけではない。
 取り上げられている植物としては、コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、ワタ、チャ、コーヒー、サトウキビ、ダイズ、タマネギ、チューリップ、トウモロコシ、サクラといった15種類の植物である。
 そのうち、私の関心のあるイネについて、世界史との関係で紹介してみたい。
 これら15種類のうち、イネとの関連で取り上げられたダイズ、サクラについても触れておきたい。
 また、著者の稲垣栄洋先生は、静岡大学農学部教授で、農学博士、植物学者であるようだ。日ごろ、理系の本を読む機会はほとんどないが、植物に関して、わかりやすく面白くかかれているので読みやすい本である。

 植物に関しては、多田多恵子先生がNHKの番組「道草さんぽ」で様々な植物を紹介されていた。その中で、植物はガラスの成分であるケイ素を取り込んで“自己防衛”しているという話をされていたことに、大変興味をもったことがある。
 稲垣栄洋先生も、本書の中で、この点に言及している。
 つまり、「イネ科植物の登場」(第1章)において、「イネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている」(23頁)というのである。
 その他、イネ科植物の特徴として、地面の際から葉がたくさん出たような株を作る「分蘖」についての話も、イネを育てていると実感できるので、改めて植物の不思議さに感動した。
 興味のある方は、一読されることをお薦めする。

【稲垣栄洋(いながきひでひろ)氏のプロフィール】
・1968年静岡県生まれ。
・静岡大学農学部教授。農学博士、植物学者。
・農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、現職。
・主な著書に、
 『散歩が楽しくなる雑草手帳』(東京書籍)
 『弱者の戦略』(新潮選書)
 『植物はなぜ動かないのか』
 『はずれ者が進化をつくる』(以上、ちくまプリマー新書)
 『生き物の死にざま』(草思社)
 『生き物が大人になるまで』(大和書房)
 『38億年の生命史に学ぶ生存戦略』(PHPエディターズ・グループ)
 『面白くて眠れなくなる植物学』(PHP文庫)など多数。



【稲垣栄洋『世界史を変えた植物』(PHP文庫)はこちらから】
稲垣栄洋『世界史を変えた植物』(PHP文庫)はこちらから




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・中国四千年の文明を支えた植物~第11章より
・「畑の肉」と呼ばれる理由~第11章より
・コメとダイズは名コンビ~第11章より
・イネ科植物の登場(以下、第1章より)
・イネ科植物のさらなる工夫
・動物の生き残り戦略
・そして人類が生まれた
・稲作以前の食べ物(以下、第2章より)
・イネを選んだ日本人
・コメは栄養価に優れている
・稲作に適した日本列島
・田んぼの歴史
・日本人が愛する花(第15章より)









〇稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]


【目次】
はじめに
第1章 コムギ―一粒の種から文明が生まれた
 木と草はどちらが進化形?
 双子葉植物と単子葉植物の違い
 イネ科植物の登場
 イネ科植物のさらなる工夫
 動物の生き残り戦略
 そして人類が生まれた
 農業は重労働
 それは牧畜から始まった
 穀物が炭水化物を持つ理由
 そして富が生まれた
 後戻りできない道

第2章 イネ―稲作文化が「日本」を作った
 稲作以前の食べ物
 呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!?
 イネを受け入れなかった東日本
 農業の拡大
 イネを選んだ日本人
 コメは栄養価に優れている
 稲作に適した日本列島
 田んぼを作る
 田んぼの歴史
 どうしてコメが大切なのか
 江戸時代の新田開発
 コメが貨幣になった理由
 なぜ日本は人口密度が高いのか

第3章 コショウ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
 金と同じ価値を持つ植物
 コショウを求めて
 世界を二分した二つの国
 大国の凋落
 オランダの貿易支配
 熱帯に香辛料が多い理由
 日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
 コロンブスの苦悩
 アメリカ大陸に到達
 アジアに広まったトウガラシ
 植物の魅惑の成分
 トウガラシの魔力
 コショウに置き換わったトウガラシ
 不思議な赤い実
 日本にやってきたトウガラシ 
 キムチとトウガラシ
 アジアからヨーロッパへ

第5章 ジャガイモ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
 マリー・アントワネットが愛した花
 見たこともない作物
 「悪魔の植物」
 ジャガイモを広めろ
 ドイツを支えたジャガイモ
 ジャーマンポテトの登場
 ルイ十六世の策略
 バラと散った王妃
 肉食の始まり
 大航海時代の必需品
 日本にジャガイモがやってきた
 各地に残る在来のジャガイモ
 アイルランドの悲劇
 故郷を捨てた人々とアメリカ
 カレーライスの誕生
 日本海軍の悩み
 
第6章 トマト―世界の食を変えた赤すぎる果実
 ジャガイモとトマトの運命
 有毒植物として扱われたトマト
 赤すぎたトマト
 ナポリタンの誕生
 里帰りしたトマト
 世界で生産されるトマト
 トマトは野菜か、果実か

第7章 ワタ―「ヒツジが生えた植物」と産業革命
 人類最初の衣服
 草原地帯と動物の毛皮
 「ヒツジが生えた植物」
 産業革命をもたらしたワタ
 奴隷制度の始まり
 奴隷解放宣言の真実
 そして湖が消えた
 ワタがもたらした日本の自動車産業
 地場産業を育てたワタ

第8章 チャ―アヘン戦争とカフェインの魔力
 不老不死の薬
 独特の進化を遂げた抹茶
 ご婦人たちのセレモニー
 産業革命を支えたチャ
 独立戦争はチャが引き金となった
 そして、アヘン戦争が起こった
 日本にも変化がもたらされる
 インドの紅茶の誕生
 カフェインの魔力

第9章 コーヒー―近代資本主義を作り上げた植物
 カフェを支配した植物
 人間を魅了するカフェイン
 イスラム教徒が広めたコーヒー
 コーヒーハウスの誕生
 人々を魅了する悪魔の飲み物
 産業革命の原動力
 そして、フランス革命が起こった
 アメリカの栄光はコーヒーにあり
 奴隷たちのコーヒー畑
 日本にコーヒーがやってきた

第10章 サトウキビ―人類を惑わした甘美なる味
 人間は甘いものが好き
 砂糖を生産する植物
 奴隷を必要とした農業
 砂糖のない幸せ
 サトウキビに侵略された島
 アメリカ大陸と暗黒の歴史
 それは一杯の紅茶から始まった
 そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第11章 ダイズ―戦国時代の軍事食から新大陸へ
 ダイズは「醤油の豆」
 中国四千年の文明を支えた植物
 雑草から作られた作物
 「畑の肉」と呼ばれる理由
 コメとダイズは名コンビ
 戦争が作り上げた食品
 家康が愛した赤味噌
 武田信玄が育てた信州味噌
 伊達政宗と仙台味噌
 ペリーが持ち帰ったダイズ
 「裏庭の作物」

第12章 タマネギ―巨大ピラミッド建設を支えた薬効
 古代エジプトのタマネギ
 エジプトに運ばれる
 球根の正体
 日本にやってきたタマネギ

第13章 チューリップ―世界初のバブル経済と球根
 勘違いで名付けられた
 春を彩る花
 バブルの始まり
 そして、それは壊れた
 
第14章 トウモロコシ―世界を席巻する驚異の農作物
 「宇宙からやってきた植物」
 マヤの伝説の作物
 ヨーロッパでは広まらず
 「もろこし」と「とうきび」
 信長が愛した花
 最も多く作られている農作物
 広がり続ける用途
 トウモロコシが作る世界
 
第15章 サクラ―ヤマザクラと日本人の精神
 日本人が愛する花
 ウメが愛された時代
 武士の美学
 豊臣秀吉の花見
 サクラが作った江戸の町
 八代将軍、吉宗のサクラ
 ソメイヨシノの誕生
 散り際の美しいソメイヨシノ
 桜吹雪の真実
 
 おわりに
 文庫版あとがき
 参考文献







中国四千年の文明を支えた植物~第11章より


・世界の古代文明の発祥は、主要な作物と関係している。
・メソポタミア文明やエジプト文明には、オオムギやコムギなどの麦類がある。
 また、インダス文明には麦類とイネがある。
 長江文明にはイネがあり、そして黄河文明にはダイズがある。
・アメリカ大陸に目を向けると、アステカ文明やマヤ文明のあった中米はトウモロコシの起源地があり、インカ文明のあった南米アンデスはジャガイモの起源地である。

※しかし、今日ではこれらの文明は多くが滅び、現在でも同じ位置に残るのは中国文明のみである。

・中国では、北部の黄河流域にはダイズやアワを中心とした畑作が発達し、南部の長江流域にはイネを中心水田作が発達した。
・農耕を行い、農作物を収穫すると、作物が吸収した土の中の養分は外へ持ち出されることになる。
 そのため、作物を栽培し続けると土地はやせていってしまう。
 また、特定の作物を連続して栽培すると、ミネラルのバランスが崩れて、植物が出す有害物質によって、植物が育ちにくい土壌環境になる。
 こうして早くから農耕が始まった地域では土地が砂漠化して、文明もまた滅びゆく運命にある。

・しかし、中国の農耕を支えたイネやダイズは、自然破壊の少ない作物である。
・イネは水田で栽培すれば、山の上流から流れてきた水によって、栄養分が補給される。
 また、余分なミネラルや有害な物質は、水によって洗い流される。
 そのため、連作障害を起こすことなく、同じ田んぼで毎年、稲作を行うことができるのである。

・また、ダイズはマメ科の植物であるが、マメ科の植物はバクテリアとの共生によって、空気中の窒素を取り込むことができる特殊な能力を有している。
 そのため、窒素分のないやせた土地でも栽培することができ、他の作物を栽培した後の畑で栽培すれば、地力を回復させ、やせた土地を豊かにすることも可能なのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、211頁~212頁)

「畑の肉」と呼ばれる理由~第11章より


・日本人の主食であるご飯には、味噌汁がよく合う。
 ご飯と味噌汁の組み合わせは、和食の基本である。
 これには理由がある。
 味噌の原料はダイズである。じつはコメとダイズとは、栄養学的に相性が良いのである。
・日本人の主食であるコメは、炭水化物を豊富に含み、栄養バランスに優れた食品である。
 一方、ダイズは「畑の肉」と言われるほどタンパク質や脂質を豊富に含んでいる。
 そのため、コメとダイズを組み合わせると三大栄養素である炭水化物とタンパク質と脂質がバランス良く揃うのである。

・ダイズが畑の肉と言われるほど、タンパク質を多く含むのに理由がある。
 ダイズなどのマメ科の植物は、窒素固定という特殊な能力によって、空気中の窒素を取り込むことができる。
 そのため、窒素分の少ない土地でも育つことができる。
・しかし、種子から芽を出すときには、まだ窒素固定をすることができない。
 そのため、窒素を固定するまでの間、種子の中にあらかじめ窒素分であるタンパク質を蓄えているのである。

・一方、イネの種子であるコメは、炭水化物を豊富に含んでいる。
 種子の栄養分であるタンパク質や脂質は、炭水化物に比べると莫大なエネルギーを生みだすという特徴がある。
 ところが、タンパク質は植物の体を作る基本的な物質だから、種子だけではなく、親の植物にとっても重要である。
 また、脂質はエネルギー量が大きい分、脂質を作りだすときにはそれだけ大きなエネルギーを必要とする。
 つまり、タンパク質や脂質を種子に持たせるためには、親の植物に余裕がないとダメである。

・イネ科の植物は草原地帯で発達したと考えられている。
 厳しい草原の環境に生えるイネ科の植物にそんな余裕はない。
 そのため、光合成をすればすぐに得ることができる炭水化物をそのまま種子に蓄え、炭水化物をそのままエネルギー源として芽生え、成長するというシンプルなライフスタイルを作り上げた。
 そして、この炭水化物が、人類の食糧として利用されている。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、214頁~216頁)

コメとダイズは名コンビ~第11章より


・炭水化物を多く含むイネと、タンパク質を多く含むダイズとの組み合わせは、栄養バランスが良い。
 それだけではない。
 さまざまな栄養素を持ち、完全栄養食と言われるコメであるが、唯一、アミノ酸のリジンが少ない。
 このリジンを豊富に含んでいるのがダイズなのである。
・一方、ダイズにはアミノ酸のメチオニンが少ないが、コメにはメチオニンが豊富に含まれている。
 そのため、コメとダイズを組み合わせることによって、すべての栄養分が揃うことになる。
 そういえば、昔から食べられてきたものには、コメとダイズの組み合わせが多い。
・味噌はダイズから作られる。
 和食の基本であるご飯と味噌汁は、コメとダイズの組み合わせである。
 納豆もダイズから作られる。ご飯と納豆も相性はバッチリ。
・また、ダイズから作られるものには、きなこや醤油、豆腐などがある。
 きなこと言えば、きなこ餅だろうし、醤油は、コメから作られる煎餅によく合う。
 また、コメから作られる日本酒には、冷奴や湯豆腐がよく合う。
 さらには酢飯と油揚げの稲荷寿司も、コメとダイズが材料となる。
 日本人が昔から親しんできた料理には、コメとダイズの組み合わせが多い。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、216頁~217頁)

第1章 コムギ―一粒の種から文明が生まれた


イネ科植物の登場


・この単子葉植物の中で、もっとも進化したグループの一つと言われているのが、イネ科植物である。

・イネ科植物は、乾燥した草原で発達を遂げた植物である。
 木々が生い茂る深い森であれば、大量の植物が食べ尽くされるということはない。
 しかし、植物が少ない草原では、動物たちは生き残りをかけて、限られた植物を奪い合って食べ荒らす。
 荒地に生きる動物も大変だが、そんな脅威にさらされている中で身を守ろうとするのは、本当に大変なことだ。

・草原の動物たちは、どのようにして身を守れば良いのだろうか。
 毒で守るというのも一つの方法である。
 しかし、毒を作るためには、毒成分の材料とするための栄養分を必要とする。
 やせた草原で毒成分を生産するのは簡単なことではない。
 また、せっかく毒で身を守っても、動物はそれへの対抗手段を発達させることだろう。

・そこで、イネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている。
 ケイ素は土の中にはたくさんあるが、他の植物は栄養分としては利用しない物質だから、
非常に合理的なのだ。

・さらに、イネ科植物は葉の繊維質が多く消化しにくくなっている。
 こうして、動物に葉を食べられにくくしているのである。

・イネ科の植物がケイ素を体内に蓄えるようになったのは、600万年ほど前のことであると考えられている。
 これは、動物にとっては劇的な大事件であった。
 このイネ科の進化によって、エサを食べることのできなくなった草食動物の多くが絶滅したと考えられているほどである。

・それだけではない。イネ科植物は、他の植物とは大きく異なる特徴がある。
 普通の植物は、茎の先端に成長点があり、新しい細胞を積み上げながら、上へ上へと伸びていく。
 ところが、これでは茎の先端を食べられると、大切な成長点も食べられてしまうことになる。

・そこで、イネ科の植物は成長点を低くしている。
 イネ科植物の成長点があるのは、地面スレスレである。
 イネ科植物は、茎を伸ばさずに株もとに成長点を保ちながら、そこから葉を上へ上へと押し上げるのである。
 これならば、いくら食べられても、葉っぱの先端を食べられるだけで、成長点が傷つくことはないのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、22頁~24頁)

イネ科植物のさらなる工夫


・ただし、この成長方法には重大な問題がある。
 上へ上へと積み上げていく方法であれば、細胞分裂をしながら自由に枝を増やして葉を茂らせることができる。
 しかし、作り上げた葉を下から上へと押し上げていく方法では、後から葉の数を増やすことができないのである。

・そこで、イネ科植物は成長点の数を次々に増やしていく方法を選択した。
 これが分蘖(ぶんげつ)である。
 イネ科植物は、ほとんど背は高くならないが、少しずつ茎を伸ばしながら、地面の際(きわ)に枝を増やしていく。
 そして、その枝がまた新しい枝を伸ばすというように、地面の際にある成長点を次々に増殖させながら、押し上げる葉の数を増やしていくのである。
 そのため、イネ科植物は地面の際から葉がたくさん出たような株を作るのである。

・イネ科植物の工夫はそれだけにとどまらない。
 コメやムギ、トウモロコシなどイネ科の植物は、人間にとって重要な食糧である。しかし、人間が食用にしているのは、植物の種子の部分である。
・イネ科植物は葉が固いので、とても食べられない。
 しかし、人類は火を使うことができる。固いだけなら、調理をしたり、加工したりして、何とか食べられそうなものだ。
・じつは、イネ科植物の葉は固くて食べにくいだけでなく、苦労して食べても、ほとんど栄養がない。
 そのため、葉を食べることは無駄なのである。
 イネ科植物は、食べられないようにするために、葉の栄養分を少なくしている。

・しかし、植物は光合成をして栄養分を作りだしているはずである。
 イネ科植物は、作りだした栄養分をどこに蓄えているのだろうか。
 イネ科植物は、地面の際にある茎に栄養分を避難させて蓄積する。
 そして、葉はタンパク質を最小限にして、栄養価を少なくし、エサとして魅力のないものにしている。

・このように、イネ科植物の葉は固く、消化しにくい上に、栄養分も少ないという、動物のエサとして適さないように進化したのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、24頁~25頁)

動物の生き残り戦略


・しかし、このイネ科植物を食べなければ、草原に暮らす動物は生きていくことができない。
 そのため、草食動物は、イネ科植物をエサにするための進化を遂げている。
 たとえば、ウシの仲間は胃を四つ持つ。この四つうち、人間の胃と同じような消化吸収の働きをしているのは四つ目の胃だけである。
 ウシだけでなく、ヤギやヒツジ、シカ、キリンなども反芻(はんすう)によって植物を消化する反芻動物である。
 ウマは、胃を一つしか持たないが、発達した盲腸の中で、微生物が植物の繊維分を分解するようになっている。こうして、自ら栄養分を作りだしているのである。また、ウサギもウマと同じように、盲腸を発達させている。

・このようにして、草食動物はさまざまな工夫をしながら、固くて栄養価の少ないイネ科植物の葉を消化吸収し、栄養分を得ているのである。

・それにしても、栄養分のほとんどないイネ科植物だけを食べているにしては、ウマやウシは体が大きい。どうして、ウシやウマはあんなに大きいのだろうか。

 草食動物の中でも、ウシやウマなどは主にイネ科植物をエサにしている。
 イネ科植物を消化するためには、四つの胃や長く発達した盲腸のような特別な内臓を持たなくてはならない。
 さらに、栄養分の少ないイネ科植物の葉から栄養分を得るには、大量のイネ科植物を食べなければならない。
 この発達した内臓を持つためには、容積の大きな体が必要になるのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、26頁~28頁)

そして人類が生まれた


・人類もまた草原で生まれたと言われている。
 しかし、人類は、葉が固く、栄養価の低いイネ科植物を草食動物のように食べることはできなかった。
 人類は火を使うことはできるが、それでもイネ科植物の葉は固くて、煮ても焼いても食べることができない。

・それならば、種子を食べればよいではないかと思うかもしれない。
 現在、私たち人類の食糧である麦類、イネ、トウモロコシなどの穀物は、すべてイネ科植物の種子である。

・しかし、イネ科植物の種子を食糧にすることは簡単ではない。
 なぜなら、野生の植物は種子が熟すと、バラバラと種子をばらまいてしまう。
 なにしろ植物の種子は小さいから、そんな小さな種子を一粒ずつ拾い集めるのは簡単なことではない。

・コムギの祖先種と呼ばれるのが、「ヒトツブコムギ」という植物である。
 ところがあるとき、私たちの祖先の誰かが、人類の歴史でもっとも偉大な発見をした。
 それが、種子が落ちない突然変異を起こした株の発見である。
 種子が熟しても地面に落ちないと、自然界で植物は子孫を残すことができないことになる。そのため、「種子が落ちない」という性質は、植物にとって致命的な欠陥である。

・しかし、人類にとっては違う。
 種子がそのまま残っていれば、収穫して食糧にすることができる。
 種子が落ちる性質を、「脱粒性(だつりゅうせい)」と言う。
 自分の力で種子を散布する野生植物にとって、脱粒性はとても大切な性質である。
 しかし、ごくわずかな確率で、種子の落ちない「非脱粒性」という性質を持つ突然変異が起こることがある。
 人類は、このごくわずかな珍しい株を発見した。

 落ちない種子は食糧にできるだけではない。
 種子が落ちない性質を持つ株から種子を取って育てれば、もしかすると、種子の落ちない性質のムギを増やしていくことができるかもしれない。
 そうすれば、食糧を安定的に確保することができる。
 これこそが、農業の始まりなのであるという。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、28頁~30頁)

第2章 イネ―稲作文化が「日本」を作った


・戦国時代の日本は、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。
 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
〇第2章では、このイネをテーマとしている。以下、私の関心により紹介してみたい。

稲作以前の食べ物


・狩猟採集の時代、日本人がデンプン源としていた食べ物は「Uri」と呼ばれていたとされる。
 クリ(Kuri)、クルミ(Kurumi)などの発音は、このUriに由来すると言われている。
 また、ユリの球根もデンプン源となった。このユリ(Yuri)の発音も、「Uri」に由来している。

・日本に稲作が伝来する以前に、日本人が重要な食糧としていたものがサトイモである。
 サトイモは、タロと呼ばれて、中国大陸から東南アジア、ミクロネシア、ポリネシア、オセアニアの太平洋地域一帯で、現代でも広く主食として用いられている。
 日本にもかなり古い時代に、このタロイモが伝わり、タロイモ文化圏の一角を成していたと考えられている。

・現在でも、かつてサトイモが主食となっていた痕跡は残されている。
 たとえば、お正月には、もちゴメで作った餅を食べるが、おせち料理やお雑煮にサトイモが欠かせないという地方も少なくない。
 あるいは、中秋の名月には、コメの粉で作った月見団子を供えるが、芋名月といってサトイモを供える風習も残っている。

・また、納豆、餅、とろろ、なめこなど、外国人が苦手とするネバネバした食感を日本人が好むのは、サトイモに関する遠い記憶があるからだとさえ言われている。

・ところが、やがて日本にサトイモに代わる優れたデンプン源がやってくる。
 それが「うるち(Uruchi)」である。
 食用のお米を表す「うるち米」という言葉も、「Uri」に由来すると言われている言葉なのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、39頁~41頁)

イネを選んだ日本人


・イネは、他の穀類に比べても収量が多い。
 収量が多ければ、それだけコメが蓄えられ、富が蓄積される。
・そして、稲作はコメだけでなく、青銅器や鉄器といった最先端の技術をもたらした。
 こうした最先端の技術が人々を魅了し、稲作は受け入れられていったのかもしれない。
・また、稲作に用いる土木技術や鉄器は、戦(いくさ)になれば軍事力となる。
 ときには武力で、稲作を行う集団が、稲作を行わない集団を圧倒することもあったろう。
・さらに、メソポタミア文明でもそうであったように、気候の変化は、人々が農業を選択する引き金となった。
・約4000年前の縄文時代の後期になると、次第に地球の気温が下がり始めたことから、東日本の豊かな自然は大きく変化するようになった。
 これが農業の始まりに影響を与えていることも指摘されている。
 東日本は豊かな食料に支えられて、人口密度が高くなったから、食料の不足は切実な問題となったことだろう。
 こうして、時間を掛けながら、日本人は稲作を受け入れていった。
・農業は文明を発達させ、社会を発展させる。
 日本もまた安定した食糧の確保と引き換えに、農業という労働を行うようになり、それはやがて富の不平等を生み、力の差を生み、国が形作られるという日本の歴史が始まるのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、46頁~47頁)

コメは栄養価に優れている


・イネは元をたどれば、東南アジアを原産とする外来の植物である。
 しかし、今ではコメは日本人の主食であり、神事や季節行事とも深く結びついている。
 日本の文化や日本人のアイデンティティの礎(いしずえ)は、稲作にあると言われるほど、日本では重要な作物となっている。
 どうしてイネは日本人にとって、これほどまでに重要な存在となったのだろうか。
・コメは東南アジアなどでも盛んに作られているが、数ある作物のうちの一つでしかない。
 食べ物の豊富な熱帯地域では、イネの重要性はそれほど高くないのである。

・日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。
 イネはムギなどの他の作物に比べて、極めて生産性の高い作物である。
 イネは一粒の種もみから700~1000粒のコメがとれる。
 これは他の作物と比べて、驚異的な生産力である。

・15世紀のヨーロッパでは、コムギの種子を蒔いた量に対して、収穫できた量はわずか3~5倍だった。
 これに対して、17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して、20~30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だったのである。
 現在でもイネは110~140倍もの収量があるのに対して、コムギは20倍前後の収量しかない。

・さらに、コメは栄養価に優れている。
 炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。
 さらにはミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。
 そのため、とにかくコメさえ食べていれば良かった。

・唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。
 ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのが、ダイズである。
 そのため、コメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。
 ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。
 かくして、コメは、日本人の主食として位置づけられた。

・一方、パンやパスタの原料となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできない。
 コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要がある。
 そのため、コムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられている。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、47頁~49頁)

稲作に適した日本列島


・さらに日本列島は、イネの栽培を行うのに恵まれた条件が揃っている。
 イネを栽培するには、大量の水を必要とするが、幸いなことに、日本は雨が多い。
 
・日本の降水量は年平均で、約1700ミリである。
 これは世界の平均降水量の2倍以上である。
 日本にも水不足がないわけではないが、世界には乾燥地帯や佐幕地帯が多いことを考えれば、水資源に恵まれた国なのである。

・日本は、モンスーンアジアという気候帯に位置している。
 モンスーンというのは、季節風のことである。
 アジアの南のインドから東南アジア、中国南部から日本にかけては、モンスーンの影響を受けて、雨が多く降る。
 この地域をモンスーンアジアと呼んでいる。

・5月頃に、アジア大陸が温められて低気圧が発生すると、インド洋の上空の高気圧から大陸に向かって、風が吹き付ける。
 これがモンスーンである。
 モンスーンは、大陸のヒマラヤ山脈にぶつかると、東に進路を変えていく。
 この湿ったモンスーンが雨を降らせる。
・そのため、アジア各地はこの時期に雨期となる。
 そして、日本列島では梅雨になるのである。
こうして作られた高温多湿な夏の気候は、イネの栽培に適している。

・それだけではない。冬になれば、大陸から北西の風が吹き付ける。
 大陸から吹いてきた風は、日本列島の山脈にぶつかって雲となり、日本海側に大量の雪を降らせる。
 大雪は、植物の生育に適しているとは言えないが、春になれば雪解け水が川となり、潤沢な水で大地を潤す。
 こうして、日本は世界でも稀な水の豊かな国土を有しているのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、49頁~51頁)

田んぼの歴史


・日本の歴史を見ると、もともと田んぼは谷筋や山のふもとに拓かれることが多かった。
 それらの地形では、山からの伏流水が流れ出てくる。
 やがてその水を引いて、山のふもとの扇状地や盆地に田んぼが拓かれていく。
 それでも田んぼは、限られた恵まれた地形でしか作ることができなかったのだ。

・田んぼの面積が増加してくるのは、戦国時代のことである。
 もともと戦国武将の多くは、広々とした平野ではなく、山に挟まれた谷間や、山に囲まれた盆地に拠点を置き、城を築いた。
 これは防衛上の意味もあるが、じつは山に近いところこそが、豊かなコメの稔りをもたらす戦国時代の穀倉地帯だったのである。

・多くの地域では、イネを作ることができず、麦類やソバを作り、ヒエやアワなどの雑穀を作るしかなかった。
 そして、限られた穀倉地帯を巡って、戦国武将たちは戦いを繰り広げたのである。
・石高を競う戦国武将は、戦いによって隣国を奪って領地を広げれば、石高を上げることはできる。しかし、戦国時代も終盤になり、国境が定まってくると、領地は増やすこともままならない。ただ、石高は領地の面積ではなく、コメの生産量である。
 領地は増えなくても、田んぼが増え、コメの生産量が増えれば、自らの力を強めることができる。そこで、戦国武将たちは、各地で新たな水田を開発していく。

・戦国時代には、各地に山城が造られた。
 堀を造り、土塁を築き、石垣を組んで、城を造る。
 こうした土木技術の発達によって、これまで田んぼを作ることができなかった山間部にも、水田を拓くことが可能になった。こうして作られたのが、「棚田」である。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、47頁~49頁)

第15章 サクラ―ヤマザクラと日本人の精神


・ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
 日本人は、けっして散るサクラに魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
〇第15章のうち、サクラと稲作との関連を説いたところを紹介しておく。

日本人が愛する花


・古くからサクラは日本人に愛されてきた。
 もともとサクラは稲作にとって神聖な花だった。
 サクラの花は決まって稲作の始まる時期に咲く。
 そのため、サクラは農業を始める季節を知らせる目印となる重要な植物であった。
 そして、美しく咲くサクラの花に、人々は稲作の神の姿を見たのである。

・サクラの「さ」は、田の神を意味する言葉である。
 サクラの他にも、稲作に関する言葉には、「さ」のつくものが多い。
 田植えをする旧暦の五月は、「さつき」と言う。
 そして、植える苗が、「さなえ」である。
 さらに、「さなえ」を植える人が、「さおとめ」である。
 田植えが終わると、「さなぶり」というお祭りを行う。
 さなぶりという言葉は、田んぼの神様が上っていく「さのぼり」に由来している。

・そして、サクラの「くら」は、依代(よりしろ)という意味である。
 つまり、サクラは、田の神が下りてくる木という意味である。
 つまり、稲作が始まる春になると、田の神様が下りてきて、美しいサクラの花を咲かせると考えられていたのである。

・昔から日本には、神様と共に食事をする「共食」の慣わしがある。
 正月の祝い箸が両端とも細くなって物がつかめるようになっているのは、神様と一緒に食事をするためである。
 日本人は季節ごとに神々と酒を飲み、ご馳走を食べてきた。
 そして、春になると、人々は依代であるサクラの木の下で豊作を祈り、飲んだり歌ったりした。
 さらに、人々は満開のサクラに稲の豊作を祈り、花の散り方で豊凶を占ったという。

(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、257頁~259頁)


(2023年わが家の稲作日誌よりの写真)



≪【囲碁】本因坊道策について≫

2024-05-05 18:00:02 | 囲碁の話
≪【囲碁】本因坊道策について≫
(2024年5月5日投稿)

【はじめに】


 島根出身の囲碁界の偉人として、道策(1645-1702)と岩本薫氏(1902-1999)が挙げられる。
 俗っぽい表現を使えば、島根が生んだ囲碁界の二大スーパースターである。
 卑近な例えでいえば、芸能の分野で、島根が生んだ古今の二大スーパースター、出雲阿国と竹内まりやさんのような存在である。
 出雲阿国は元亀3年(1572)で没年は不明で、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判になったとされている。
 竹内まりやさん(1955-)は、島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南)の生まれ。生家・実家は、出雲大社・二の鳥居近くに在る明治10年(1877)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」であることは地元ではよく知られている。
 縁結びの神を祀る出雲大社の近くに生れただけあって、「縁(えにし)の糸」(作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎)は、NHK2008年度下半期の連続テレビ小説「だんだん」の主題歌として書き下ろされた。
 ドラマは人と人との出会いと縁がテーマの一つとなっているが、本楽曲も人と人とを結ぶ見えない縁の糸がテーマとなっている。
 本人は、縁結びの神様のお膝元の「八雲立つ出雲」で生まれ育ったため、常々「ご縁」というものをテーマにした歌を書きたいと思っていたという。
 ♪“「袖振り合うも多生の縁」と古からの伝えどおり この世で出逢う人とはすべて見えぬ糸でつながっている”
 ♪“時空を超えて何度とはなく巡り逢うたび懐かしい そんな誰かを見つけに行こう八雲立つあの場所へと どんな小さな縁の糸も何かいいこと連れてくる”
 奈良時代の日本最古の歴史書『古事記』にも、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(古事記・上巻・歌謡)とある。
 
 さて、道策は石見国の馬路(現・大田市仁摩町馬路)で生まれ、7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ上り算悦門に入る。
 岩本薫氏は島根県益田市(旧・美濃郡高津村)の出身。
 益田は、浜田、大田とともに石見(いわみ)の三田といわれ、石見地方西部の中心である。益田市は日本海に面し、高津川下流域を占め、石見地方西部の商業の中心地であった。古くから進取の気性に富んでいたのかもしれない。
石見国の在庁官人筆頭の地位を占めた益田氏は、中世を通じて石見最大の勢力を誇った(益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田文書』が残る)。また、益田は雪舟の終焉の地とされ、医光寺、万福寺にはそれぞれ雪舟庭園(国指定史跡・名勝)が残る。

 ところで、イスラームは「商人の宗教」であると言われる。教祖ムハンマドが隊商貿易に従事する商人であったことも原因の一つであるが、イスラーム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進したようだ。世界各地へとイスラームが拡大したことには、ムスリム商人が大きく関わっていた。
 先日、NHKの「3か月でマスターする世界史」の「第4回 イスラム拡大の秘密」(2024年4月24日)においても、守川知子先生も、イスラム教は「商人の宗教」である点を強調されていた。

 中世の益田は、人と物の交流の最前線であり、人々はその豊富な地域資源と中国と朝鮮半島に近い立地条件を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいた。中世の高津川・益田川河口域は港町として賑わった。砂州の南側から発見された中須東原遺跡は、港町の遺跡の代表例である。出土した陶磁器は、国内はもとより、西は朝鮮半島や中国、南は東南アジアとの交易を物語っている。
 益田氏は江戸時代(近世)初めに残念ながら益田を去らざるを得なくなり、益田は江戸時代に城下町にならなかった。しかし、これにより中世の町並みがそのまま残った。益田の歴史は、中世日本の傑作とも言われる。

ところで、その商業の町・益田出身の岩本薫氏が、囲碁の海外普及に後半生を捧げられたことは、益田の進取的な精神性と関連させてみると私には興味深かった。
岩本薫氏は、橋本宇太郎本因坊と原爆投下時に対局していた。「原爆下の対局」として知られる。原爆という戦争体験と世界平和への希求の思いが重なって、使命感をともない、囲碁文化の海外普及に向かわれたことであろう。
(「原爆下の対局」については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
 また、夏目漱石と並ぶ明治の二大文豪の一人森鷗外(1862-1922)は、その益田市に近い津和野の出身である。石見国津和野藩の御典医の長男として、津和野に生まれた。東大医学部卒業後、陸軍医となり、1884年ドイツに留学した。やはり森鷗外も海外に目が向いていた。

 さて、玉将(王将)から歩兵まで漢字で書かれた将棋の駒と異なり、碁石には階級性はなく、あるのは黒と白の色の違いだけであり、囲碁は原則、どこに置いてもよい。囲碁のルールも簡単である。しかし、ノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成(1899-1972)がいみじくも「深奥幽玄」と揮毫したように、囲碁は奥深く計り知れない趣がある。川端は大の囲碁好きで、本因坊秀哉(1874-1940)の引退碁を扱った小説『名人』という名作がある。
(川端康成の小説『名人』については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)

 日本の囲碁界は、開放的で国際性に富んでいる。例えば、戦前、瀬越憲作らの尽力により中国(福建省出身)から呉清源が来日して活躍したし、戦後も、呉清源門下の林海峰(中国の上海出身)、マイケル・レドモンド(アメリカ)、趙治勲・柳時熏(韓国)、張栩・林漢傑(台湾)など、国籍を問わず、棋力が高ければ活躍できる。(敬称略)

前置きが長くなったが、今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊道策について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]
〇中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇≪本因坊道策について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・碁聖道策
・安井算哲(渋川春海 )の天元打ち
・道策、琉球の名手と対戦
・最初の免状
・道策の遺言
〇玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より
〇原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編』より
〇川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より
〇秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より






碁聖道策


・現代の棋士に古今最強を問うなら、道策、秀策、呉清源にかなりの票を入れるだろうか。
 道策は碁聖と三百年呼ばれ続ける巨人である。

・4世本因坊道策は正保(しょうほう)2年(1645)に石見(島根県)で生まれた。
 将軍家光が鎖国を完成した4年後、満州族の清帝国が明を倒して中国支配を始めた翌年である。
・道策は7歳で母に碁を教わり、14歳のころ道悦に入門したのであろうと、『道策全集』(日本棋院、1991年)に中山典之(六段)が記している。
 御城碁の初出仕は23歳で、道策はどちらかというと大器晩成の棋士であった。
・道策が「生涯の得意」と言ったという安井春知(七段)との二子局は1目負の碁である。
 この碁でも打たれている三間バサミ(白5)は道策の創始といわれ、今日よく打たれている「中国流」や「ミニ中国流」布石の発想は道策が最初である。
・また「手割り」と呼ばれる評価方法の確立など道策によって碁が大きく進歩し、日本の碁は高いレベルに達した。

≪棋譜≫道策「一生の傑作」
 天和3年(1683)11月19日 御城碁
      白 本因坊道策
 1目勝ち 二子 安井春知

※黒4…星の大ゲイマ受け 黒8…小目の二間バサミ

・道策いわく「当代の逸物」春知との二子局では、70手目の黒1に対して、白2から隅の黒を捨て、先手を取って右上に向かったのが素晴らしい。
 道策の碁は柔軟で大局観に優れ、部分戦では随所に妙手があり、ヨセが強く、ミスはほとんどない。

≪棋譜≫捨てて先手をとる
・白2から8までと左下隅を捨石にして下辺を強化し、白10からまた絶妙の打ち回し
(『道策全集』第3巻、日本棋院、1991年)




・本因坊道悦は延宝5年(1677)に隠居願を出して道策に家督を譲り、道策を名人碁所に推薦した。
 このときだけは他家から異論なく、翌年4月17日(家康の命日)の日付で名人碁所の証文が下されたという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、228頁~229頁)

安井算哲(渋川春海 )の天元打ち


・初めての和暦(貞享暦[じょうきょうれき])を作った渋川春海(はるみ)の名は多くの人が知っているだろう。
 渋川春海は碁打ちの安井算哲(1639-1715)である。
 算哲は父の古算哲に学び、高い技量(上手)の碁打ちであったが、若いころから数学や天文、陰陽道を学んで暦法を研究し、中国の古い暦から新暦への改暦を主張した。
・道策に勝てなかった算哲は、秘策によって必ず勝つと豪語して、御城碁で道策に対する。
 秘策は天文研究を応用した起手天元。
 しかし、天元の是非以前に実力の差は歴然で、敗れた算哲は二度と天元に打たなかった。
・やがて算哲は綱吉の命で碁方から天文方に転じ、完成した貞享暦が実施(1685)される。
 安井家は算知が継ぎ、2世となった。

≪棋譜≫起手天元の局
・寛文10年(1670)10月17日 御城碁
 9目勝ち 白 本因坊 道策(跡目)
  先 安井算哲(2世、渋川春海)
※道策は御城碁14勝2敗。敗れた2局は二子局でいずれも1目負。


(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、230頁)

道策、琉球の名手と対戦


・スーパースター道策の時代に本因坊一門は隆盛を極め、門弟3千人と語られている。
 将軍綱吉の側用人(そばようにん)牧野成貞(なりさだ)や儒者の祇園南海(ぎおんなんかい)も門人で、その棋譜や逸話が残っている。
 道策門下から碁で士官する者もあった。
・中継貿易で繁栄した琉球王国は、島津家久の琉球出兵(1609)で薩摩藩に従属させられ、将軍と琉球王の代替わりの都度、慶賀使・謝恩使の江戸上りを強いられた。
 琉球は碁が盛んで、碁法はもともと自由布石であった。
・天和2年(1682)将軍綱吉の襲職慶賀使に、琉球の名手親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)が随行している。
 薩摩藩主島津光久が幕府の許可を得て、道策と浜比賀の国際対局が実現した。
 浜比賀は四子置いて、道策の妙技に敗れる。

≪棋譜≫国際対局の最古の棋譜
・天和2年(1682)4月17日 松平大隅守(薩州侯)邸
  14目勝ち 白 本因坊 道策
  四子     親雲上 浜比賀
 
・江戸時代から昭和初期まで、星に対するカカリには、「大ゲイマ受け」が絶対の定石だった。
 天和2年(1682)に来朝した琉球王国の名手親雲上浜比賀は薩摩藩の斡旋で、4世本因坊道策と対局の機会を得た。
 四子置いて道策に対した浜比賀は、図1の黒2、黒4と大ゲイマに受けている。
 当時の琉球も大ゲイマ受けが定石だった。(116頁)
【図1】


【図2】




・さらに1局の対戦を求め、第2局は3目勝ちだった。
 免状を強く望んだ浜比賀に、名人碁所道策は上手に二子以内の手合と漢文で記した免状を与えた。
 上手(七段)に二子は三段ということである。
 三段は名人に三子の手合。
・初手合の碁(上記の棋譜)は日本の名人の権威を賭けて勝ちにいった道策であるが、2局目は島津光久の顔を立て、免状は上手に二子としたのである。
 光久と浜比賀は大いに喜んだに違いなく、薩摩藩から道策に謝礼として白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壺、浜比賀から白銀10枚が贈られたと記録にある。
・藩主島津氏の祖先は渡来系氏族で、薩摩は戦国時代から碁が盛んであった。
 こののち、薩摩藩は道策の門弟を碁の指南役に迎え、琉球の碁打ちも指導を受けたと伝えられている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、116頁~117頁、231頁~232頁)

最初の免状


・このときの免状が囲碁史上で最初とされ、道策が「段位制」を創ったといわれてきた。
 「ところが、昭和55年に故林裕氏が、長野県塩尻市の旧家から初代本因坊算砂と初代安井算哲の免状の写しを発見した」と水口藤雄が記している。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)
 林裕が「書簡のような免状」と言ったという算砂の免状には、「上手に対し先と二ツの手相に直し置き候」とある。
 上手に先二(四段)が許された釜屋太夫は、白木助右衛門の「国中囲碁三段以上姓名録」に四段とあり、一致する。
 算哲にも免状を貰っている。
(『囲碁年間1997年』日本棋院「免状の歴史と変遷」)

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、232頁、250頁)

道策の遺言


・道策には六天王と謳われた弟子がいた。
 13歳で棋力六段に達したといわれる小川道的は天才中の天才と呼ばれ、16歳で道策の跡目となるが、惜しくも22歳で夭折(1690)。
・星合八碩(ほしあいはっせき)は27歳(1692)で、道的の没後に道策が再跡目とした佐山策元は25歳(1699)で、元禄10年(1697)に道策の研究碁の相手を7局も務めた熊谷本碩(くまがいほんせき、生没年不詳)は23歳で、いずれも他界する。
・吉和道玄(よしわどうげん、生没年不詳)は筑後有馬家に士官し、晩成型で道策より1歳年少の桑原道節(1646-1719)だけが残った。
 道策は実弟を2世因碩(道砂)として井上家を継がせ、道節を道砂因碩の跡目(1690)として3世因碩を継がせる。
・元禄15年(1702)3月、道策が病没。
 同月に新井白石(1657-1725)が『藩翰譜(はんかんぷ)』を綱吉に献上し、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは同年12月である。
 死を前に道策は道節因碩を呼び、
  予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大に憂慮する所(中略)心に叶いたる者、神谷道知一人あるのみ。道知今年13歳にして二つの碁なりと雖も(中略)世に稀なる奇才なれば(中略)汝道知の後見となり(中略)名人碁所たらしむべし。
と、『坐隱談叢(ざいんだんそう)』(安藤如意、1909年)にある。
 また道策は、碁所を決して望んではならないと因碩に誓紙を認(したた)めさせたとある。
 『坐隱談叢』はそのまま信ずるには足りない書であるが。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、233頁)

玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より


第三章 玄妙、道策の世界
第1局 中原雄飛の快局
寛文十年(1670)三月十七日
 本因坊道策
 二子 菊川友碩

名局中の名局という(171頁)



〇玄妙の極致
 白101の利かし一本で中央がほぼ止まり、白103と手どまりの大ヨセに回って遂に追い抜いた。
 序盤の石捌きが芸術品なら、中央経営をめぐっての中盤戦もすばらしく、白103に至る最後の仕上げに至っては玄妙の極みというしかない。
 
※本局は二子局であるが、すべての着手が感動的であり、
道策の作品としては名局中の名局に入ると思うとする。
 (酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]、162頁~171頁)

原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編より


・第11期棋聖戦第3局は広島で打たれ、立会人が岩本薫九段、解説は橋本宇太郎九段だった。
 このときの碁盤と碁石は、歴史に残る「原爆下の対局」で両九段が使用した盤石である。

・第3期本因坊戦は昭和20年(1945)に行なわれた。
 物資が窮乏して前年に新聞から囲碁欄が消え、「碁など打っている時局か」といわれるなかで、広島に疎開していた瀬越憲作(せごえけんさく)八段が本因坊戦の実現に奔走した。
 やがて戦争は終わる。
 囲碁復興のためには本因坊戦の灯を絶やしてはならないと、瀬越は考えたのであった。
・20年5月の空襲で溜池(ためいけ)の日本棋院が焼失。
 焼野原の東京を離れ、広島市で7月23日に七番勝負第1局が開始された。
 第6局までコミなしで3日制。
 日本棋院広島支部長の藤井順一宅で打たれ、屋根に米軍機の機銃掃射を浴びながら、防空壕に入らず打ち終えたという。
 挑戦者岩本薫七段の白番5目勝だった。

・第2局は警察から「危険だから市内で打ってはいけない」と厳命があり、広島郊外の五日市(いつかいち)で8月4日に開始された。
 8月6日午前8時15分、原子爆弾投下。
 3日目の再開直後で、局面は106手くらいだった。

≪棋譜≫(1-106)
〇昭和20年(1945)8月4、5、6日
 広島県五日市
 第3期本因坊戦七番勝負第2局
 中押し勝ち 白 本因坊 橋本昭宇
      先番 七段  岩本薫

※記録係は三輪芳郎五段(1921-94 九段)

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、37頁)

・岩本は『囲碁を世界に』でつぎのように語っている。
  いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。障子とか襖は倒れ、固いドアがねじ切れた。広島から五日市までは二里半、約十キロメートルである。ピカッと来てからドカンまで、実際は三十秒足らずのはずだが、五、六分ぐらいに長く思えた。ひどい爆風で、私は碁盤の上に俯(うつぶ)してしまった。
(岩本薫『囲碁を世界に』講談社、1979年)

・橋本本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。
 ガラスの破片や碁石が散乱した部屋を掃除して対局は続行され、橋本本因坊の白番5目勝ちとなった。
・棋譜をながめて、深い問いを禁じ得ない。
 生きるとはどういうことか。碁とは何なのか。
 
 いっぺん死んだのだ、あとどうすればよいか?
 どうせ死んだものなら、これからひとつ碁界のために尽くそうではないか、そんな気持を抱くようになった。

 岩本九段は後半生を囲碁の国際普及に捧げ、日本棋院海外センターを欧米4都市に設立。
 シアトルの日本棋院米国西部囲碁センターの外壁には原爆対局の棋譜が飾られ、館内の岩本九段のレリーフが、来訪者を惹きつけているという。


※岩本薫(1902-99)
・島根県。広瀬平次郎八段門下。第3、4期本因坊。戦後復興期に一時日本棋院理事長。
 海外普及に貢献。
42年(1967)九段。
 著書『囲碁を世界に』講談社、1979年

※橋本宇太郎(1907-94)
・大阪。瀬越九段に入門。第2、5、6期本因坊。
25年(1950)日本棋院から分離し関西棋院を創立。29年九段。十段2期。王座3期。

※瀬越憲作(1889-77)
・広島県能美島。戦後に日本棋院理事長。
 囲碁文化の普及に貢献し、『御城碁譜』(1952年)、『明治碁譜』(1959年)を編纂。
 30年(1965)引退、名誉九段。

※空襲
・1945年3月10日の東京大空襲では死者10万人。
※原子爆弾投下
・1945年8月6日広島、9日長崎に米軍が原子爆弾投下。
 原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、36頁~38頁、250頁)



川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より


・川端康成の小説『名人』の冒頭は次のようにある。
  第二十一本因坊秀哉名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。

・川端は『雪国』をはじめ日本人の繊細な心を巧みに表現した数々の名作を残した。
 本因坊秀哉名人の引退碁を題材にした『名人』もその一つである。
 昭和43年(1968)に川端がノーベル文学賞を受賞する以前から、ヨーロッパで『名人』の翻訳が出版されていた。
・昭和13年(1938)6月26日に始まった名人引退碁は、持時間各40時間、15回にわたって打ち継がれ、12月4日終局。
 名人の病気入院で3カ月の中断があったとはいえ、半年もかかった空前絶後の長い勝負だった。
・昭和12年秀哉名人が引退を表明。
 引退碁の選士を六段以上の棋士によるリーグ戦で決定することになり、木谷実七段が優勝した。
・毎日新聞(東京日日新聞・大阪毎日新聞)が掲載した川端の観戦記は66回を数え、川端が戦後にそれを小説化したのが『名人』である。
 木谷七段を大竹七段としているほかは実名となっている。
・芝公園の紅葉館で初日は2手だけ、翌日に12手まで進んだところで箱根の奈良屋旅館に移り、7月11日から打ち継がれた。

≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・昭和13年(1938)6月26日~12月4日
 白 名人 本因坊秀哉
 黒 七段 木谷実


・24手目、白1のアテが名人の新手。
・黒2とアタリの石を逃げたとき、白3のオシ。
・ここで次の手が封じ手となった。
・5日後に打ち継がれ、開封された木谷七段の一手は黒4のキリ(アタリ)だった。

※秀哉(1874-1940)
・本名田村保寿(ほうじゅ)。世襲制最後の21世本因坊。
 村瀬秀甫(しゅうほ)の方円社で学んだ後、放浪。
 朝鮮の亡命政治家金玉均(きんぎょくきん)の紹介で19世本因坊秀栄に入門。
 1914年名人。

※川端康成(1899-1972)
・北条泰時の末裔という。碁を好んだ。

※木谷実(1909-1975)
・鈴木為次郎に入門。大正13年(1924)入段。
 昭和8年(1933)呉清源とともに「新布石」を打ち始める。
 最高位2期(1957、58)ほか。本因坊に3度挑戦し敗れる。
弟子を多数育成。木谷一門の総段位は500段位を超える。

※アテ
・アテる=アタリを打つ。アテ=アタリを打つこと。
※新手
・布石や定石において、実際に打たれた新しい有力な手。
※アタリ
・あと一手で囲んで取れる(抜ける)状態のこと。
※オシ
・相手の後から押す手。
※キリ
・相手の連絡を切る手。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、26頁~27頁)

アタリとシチョウ


・『名人』は観戦記ではない。
 川端の眼に映る、秀哉名人を中心とする人物や情景を描写した小説である。
 碁の解説はなく、盤上の一手一手も出来事の一つひとつである。
  死の半月前、名人は日本棋院の囲碁始め式に臨んで、連碁に参加した。
・「祝賀の名刺を置いて行く代り」のような連碁の最後を秀哉が打つことになり、その最後の一手に名人は40分考えたとある。
 秀哉名人は将棋や麻雀でも長考したという。
・碁の手順を前後して様々な描写を織りまぜる『名人』は、この局面にふれていない。
   28手目、白はアタリの一子を白5と逃げ、黒は6にオサエ。そして白7。黒一子がアタリです。しかし黒は逃げず黒8とノビて、白9で一子を取りました。黒10から白13と進み、ここまで「ほとんど必然とみられる」と木谷の解説(『囲碁百年』)にある。

・引退碁は木谷七段の5目勝ちで終局した。

≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・持時間各40時間 消費時間(終局時)
名人 本因坊秀哉 19時間57分
  七段 木谷実  34時間19分


(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、28頁~29頁)

秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より


〇秀哉の生い立ちについて
・明治7年(1874年)6月24日生まれで、昭和15年(1940年)の1月18日に亡くなっているから、数えどしの67歳。
 満65年半の栄光に満ちた生涯だったようだ。
 しかしながら、その少年時代は辛苦そのものの日常だった。
 社会のどん底から這い上がって第一人者となり、それを維持したまま生を終えるまでの道のりは、文字通り一生を貫いた闘争史であった。

・二十一世本因坊秀哉。本名は田村保寿、徳川幕府の旗本だった父、田村保永の長男として生まれた。この親父殿は大局を見損じて、佐幕派の陣に走り、彰義隊に参加したりしたので、官員になったものの将来性は全くなく、失意の日常を好きな碁でまぎらわしていた。保寿は父の碁を眺めているうちに自然と碁を覚える。ときに数えの8歳だったという。
・10歳、近所の碁会所の席亭が勧めるままに方円社を訪ね、村瀬秀甫八段に十三子置いて一局教わり、直ちに入塾を許される。
・11歳で母を亡くし、17歳で父を失う。
 孤高の名人と言われる秀哉は、一人で社会に放り出されて、少年時代から孤独だった。
 頼りになるのは自分だけなのである。

・17歳のとき、方円社から二段格を許されたが、もちろんそれで一家を構えられるわけがなく、方円社の最底辺に在って心はあせるばかりだった。実業界に進出しようとしたが、失敗した。方円社にも顔を出さなかったこともあり、追放処分にされてしまう。ときに田村保寿二段、数えの18歳。
・房州の東福院というお寺さんの和尚に拾われ、自分には碁しかないのだということがわかる。保寿は麻布六本木に教室を開く。そこに、たまたま朝鮮から日本に亡命していた金玉均が入ってきた。金と本因坊秀栄七段は親友であり、時の第一人者秀栄に紹介されたのが開運の端緒になったそうだ。秀栄は保寿に四段を免許し、秀栄の門下生になった。
・ここからの保寿の奮闘ぶり、精進のさまがものすごかったとされる。
 師匠の秀栄には定先で何とかしがみついている程度だったが、競争相手の石井千治をついに先二まで打込み、雁金準一を撃退し、秀栄の歿後に本因坊秀哉を名乗って第一人者となる。

・晩年には鈴木為次郎、瀬越憲作の猛追に苦しみ、最晩年には超新星、木谷実、呉清源の出現を見たが、ともかくも明治晩年から昭和初年に渉る巨匠秀哉だった。 
 亡くなる寸前まで、第一線で活躍した現役の名人本因坊秀哉だった。

・中山典之氏によれば、秀哉名人は古名手たちと比べてみると、世俗的な見方からすれば最も幸福な生涯を得た人といえるようだ。
(幸福と言う語が当たらぬとすれば、幸運と言うべきだろうかとも)
 名人位に在ること満27年。
 功成り名遂げて世の尊敬を集め、本因坊位を後世にゆだね、惜しまれながら去った。
・歴代名手に思いをめぐらせば、名手本因坊秀和は優に大名人の力がありながら貧窮のうちに世を去った。
その秀和師匠が秀策にもまさると評した村瀬秀甫は、本因坊八段になって僅か3か月で死んだ。
名人中の名人と言われた、秀哉の師匠、本因坊秀栄も、名人在位期間は僅々8か月に過ぎない。

・秀哉名人の墓所は、東京の山手線巣鴨駅から北の方へ徒歩10分ほどの、本妙寺にある。
 そこには本因坊道策名人以降の歴代本因坊や跡目の墓石も並んでいる。
 そして、秀哉歿後60余年を経た今でも、命日の1月18日には、日本棋院が主催し、時の本因坊を祭主として、「秀哉忌」が行われているという。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、192頁~195頁)




〇「第十章 秀哉名人の引退と本因坊戦の創設」の「秀哉名人、引退の花道」(173頁~177頁)において、川端康成『名人』について中山典之氏は言及している。

・昭和13年(1938年)6月26日。
 本因坊秀哉名人対木谷実七段の「引退碁」が始まった。
 秀哉ときに64歳、木谷29歳。

・対局場は箱根、伊東と移り、途中で秀哉名人の病気が悪化して3か月の中断があったりしたが、12月4日に漸く終局した。
 結果は木谷七段5目勝ち。
 不敗の名人は最終局を飾れなかったが、64歳にして若い木谷七段をあわやという所まで追いつめた名局であるとされる。

・なお、この碁の観戦記者は文士の川端康成だった。
 また解説は呉清源六段だった。
 毎日新聞も、また粋なはからいをしたものだと思う。
 名局を読者に紹介する観戦記者がヘボ文士であってはならぬし、解説者が凡手であってもならない。
 毎日はこの意味で最善の手を打ったと申せよう。
 川端康成の観戦記は第62譜に及ぶ大がかりのものだったが、氏はこの長期間、盤側を離れることなく、対局両者と対局場の空気を伝えている。

・その62回に及ぶ観戦記を読んでみて、川端先生はやはり最高の観戦記者であると思う、と中山氏は記す。
 当時の棋力はプロに六子ぐらいの碁だから、手のことはチンプンカンプンだったろうと思うが、一刻も目を離すことなく、ピンと張りつめた対局場の雰囲気を伝えてくれたという。

・なお、川端氏は、この観戦記を材料にして、小説『名人』を書いた。
 観戦記では書きにくかったことも付け加えて、木谷七段を「大竹七段」と仮名で登場させているが、その他の棋士や関係者は全員実名で書かれている。

〇その観戦記の第1譜と、第63譜の一部を引用している。
「居並ぶ人々は息を呑む。もう名人は、いつも盤に向ふ時の癖、静かに右肩を落してゐる。その膝の薄さよ。扇子が大きく見える。木谷七段は眼をつぶつて、首を前後左右に振つてゐる。
 名人は立ち上つた。扇子を握つて、それがおのづから、古武士の小刀を携へて行く姿だ。盤の前に坐つた。左の手先を袴に入れ、右手を軽く握つて、昂然と真向きだ。磨かれた名盤を挟んで七段も席についた。名人に一礼して碁笥の位置を正した。無言のまま再び礼をすると、七段は瞑目した。そのしばしの黙想を破るかのやうに、
 「はじめよう。」と、名人が促した。小声だが、なにをしてゐるかといはぬばかりの、力強い挑戦だ。ほつと七段は眼をあいたが、再び瞑目した。驚くべき慎重の態度と思ふ間もなく、戛然(かつぜん)たる一石だ。時に十一時四十分。
 新布石か、旧布石か。星か、小目か。ただの第一著手ではない。満天下の愛棋家の無限の注目を集めた第一著手は、見よ、「17四」、旧布石の典型の小目だつたのだ。」

「名人が、無言のまま駄目を一つつめた瞬間、
 「五目でございますか。」と傍から小野田六段がいつた。敦厚(とんこう)な小野田六段の性格が聞える、敬虔な声であつた。はつきり分つてゐるものを、今更ここで作つてみる、その労を省かうとした、――名人への思ひやりなのである。
 「ええ、五目。」と、名人はつぶやいて、少し脹(は)れぼつたい瞼を上げると、もう作つてみようとはしなかつた。」

なお、最後の秀哉の言葉。もう一人、現場にいた三谷水平さん(ペンネーム芦屋伸伍)は、「左様。五目。」と、力強く応答したと言つている。
つぶやいたか、力強く応じたかは聞く人の感じで違うが、秀哉名人の大役を果した安堵の声が聞こえて来る。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、173頁~177頁)

【補足】
・川端康成の『名人』については、次のような論文がネットで閲覧可能である。 
 後日、紹介してみたい。
〇福田淳子
「「本因坊名人引退碁観戦記」から小説『名人』へ―川端康成と戦時下における新聞のメディア戦略―」 
 『学苑・人間社会学部紀要』No.904、2016年、52頁~67頁