歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪東南アジアの歴史と文化(下)~高校世界史より≫

2023-10-22 19:00:41 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪東南アジアの歴史と文化(下)~高校世界史より≫
(2023年10月22日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、東南アジア(近現代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]



【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





東南アジア(近現代)の歴史と文化の記述~『世界史B』(東京書籍)より


第17章 アジア諸地域の変革運動 2南アジア・東南アジアの植民地化と民族運動の黎明


【東南アジア大陸部の変動】
東南アジアの大陸部では、18世紀後半から19世紀にかけて、ビルマ(ミャンマー)、タイ、ベトナムの3国のもとが形成された。ビルマでは、18世紀中ごろ、トゥングー王国がモン人のペグー王国によって滅ぼされたが、内陸におこったビルマ人の勢力が南下してコンバウン朝(Konbaung, アラウンパヤー朝 Alaungpaya, 1752~1885)をおこした。この王朝は、ほぼ現在のミャンマーと等しい地域を領有し、さらにタイにすすんでアユタヤ王国を滅ぼし、また西のインドのアッサム地方に侵攻した。
 19世紀のはじめ、ベンガル湾から東南アジア、中国への道をめざしていたイギリスは、コンバウン朝と3次にわたってイギリス=ビルマ戦争(1824~26, 52~53, 85~86)をおこし、1885年にコンバウン朝を滅ぼした。翌年、ビルマは直轄州としてインド帝国に併合された。
 ベトナムでは、17世紀以降、北部の鄭氏と中部の阮氏が勢力を二分していたが、18世紀後半にタイソン(西山)党の農民反乱がおこって、両氏はともに滅亡した。阮氏の一族である阮福暎(1762~1820, 嘉隆帝 在位1806~20)は、タイやフランス人の宣教師ピニョー(Pigneau, 1741~99)らの援助を得て、1802年、タイソン党をやぶって全ベトナムを統一して阮朝をおこしてフエを都とし、清朝に朝貢し、国号をベトナム(越南)と定めた。
 ナポレオン3世治下のフランスは、中国交易の拠点を求めて、インドシナへの侵略を開始し、1862年、サイゴン(現ホーチミン)を中心とする南部を奪い、直轄植民地とした(第1次サイゴン条約)。さらにフランスはメコン川をさかのぼってカンボジア王国、ついでベトナムを保護国化した(第2次フエ条約 1884)。しかし、宗主国の清はこれを認めず、1884年、清仏戦争(1884~85)がおこった。清にベトナムへの宗主権を放棄させたフランスは、1887年にベトナムとカンボジアをあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1899年にはラオスもこれに加えた。
 シャム(タイ)では1782年、アユタヤ王国の武将であったチャクリ(Chakri, ラーマ1世 RamaI, 在位1782~1809)がバンコクを都とするラタナコーシン朝(Ratanakosin, バンコクBangkok, 1782~)をおこし、ビルマの侵入を退け、現在のタイの領域全域に支配を広げ、華人商人を仲介とする対中国交易で栄えた。
 シャムは19世紀中ごろから英仏に不平等条約を強制されたが、開放的な政策を維持して独立を保った。1880年代、チュラロンコン大王(Chulalongkorn, ラーマ5世 RamaV, 在位1868~1910)のもとで、近代化政策(チャクリ改革)がすすめられた。これにより、近代的な内閣制度や財政システムが導入され、諸侯が廃されて全土に県が置かれた。また、非自由民が解放され、近代的学校制度が整備された。鉄道も敷設され、郵便局制度が導入された。外交においても、列強との交渉によって国境線を画定し、治外法権の撤廃にも成功した。
 19世紀の後半、米穀の国際価格が高騰し、メコン、チャオプラヤ、イラワディの3大デルタの水田開発がすすみ、世界の穀倉になった。その利益の多くは植民地母国に送られたが、独立国シャムでは、近代化の原資になった。

【東南アジア島嶼部の植民地化】
 17世紀末に大交易の時代が終わると、オランダ東インド会社はこれまでの奢侈品交易を独占するやり方から、ヨーロッパ市場で新しく需要の拡大したコーヒーや砂糖など大量消費物の生産地を領土化する政策に転じた。こうして、18世紀中にジャワ島が東インド会社領になった。18世紀末、フランス革命軍がオランダを占領したために、オランダ東インド会社は解散し、19世紀初頭にはジャワ島がイギリス軍に占領された。ウィーン会議でジャワ島の支配を回復したオランダは、1824年、イギリスと英蘭協定を結び、イギリスのマレー半島支配を認めるかわりに、マラッカ海峡の西と南の地域の支配権を獲得した。
 1830年代にジャワ島のイスラーム諸侯の反乱(ジャワ戦争, 1825~30)を鎮圧したオランダは、強制栽培制度をつくり、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物をつくって、大きな利益を得た。以後、オランダは着々と領土を拡大し、20世紀はじめまでに、ほぼ現在のインドネシアにあたる地域を植民地化した。
 イギリスは18世紀末から、ベンガル湾と南シナ海との中継地としてマレー半島のペナン、マラッカを領有していたが、1819年、シンガポールを領有して、自由港と近代的な都市を建設した。植民地インドと南シナ海を結ぶシンガポールは、香港とともにイギリスの東・東南アジア進出の二大拠点として発展した。イギリスは、さらにムスリムのマレー人諸国家をつぎつぎと保護下に置いて錫鉱山の開発をすすめた。マレー半島には、支配の安定とともに鉱山の労働者として大量の華僑が移住し、20世紀に開発されたゴム園のインド人移住労働者(印僑)とともに、複雑な多民族社会を形成した。
 16世紀からスペインに領有されていたフィリピンのルソン島は、当初、アカプルコ貿易の中継地として利用されたが、18世紀後半からオランダにならってサトウキビ、マニラ麻、タバコなどのプランテーションが経営され、王立フィリピン会社がその販売にあたった。1834年にはマニラを自由港にして、国際貿易に開放した。スペインはさらに南方に領域の拡大をすすめ、ミンダナオ、スールー諸島のムスリム勢力の抵抗を受けた。
 
【東南アジアの知識人と民族主義】
 現地人のカトリック化のすすんだフィリピンでは、早くから現地人司祭の任用を求める運動がはじまっていた。19世紀末にホセ=リサール(José Rizal, 1861~96)らが独立のためにフィリピン民族同盟を結成し、スペインの支配に抗議した。しかし、スペインはこれらの言語活動を弾圧したために、1896年、カティプーナン党が武力革命を開始した。革命軍はアメリカ=スペイン戦争に助けられ、1899年にはルソン全島を解放し、アギナルド(Aguinaldo, 1869~1964)を大統領とするマロロス共和国を樹立した。しかし、アメリカ=スペイン戦争の結果、フィリピンの領有権を得たアメリカ合衆国は、マロロス軍をやぶって(フィリピン=アメリカ戦争, 1899~1902)、フィリピンを合衆国政府の任命するフィリピン委員会が統治する直轄植民地にした。
 オランダ植民地下のインドネシアでは、20世紀のはじめに、ジャワの伝統文化の再評価を通じて、民族意識の形成をめざすブディ=ウトモ(Budi Utomo, 最高の英知)運動や、ムスリム商人の団体からはじまり、現地人の相互扶助や啓蒙活動を目的とするサレカット=イスラーム(Sarekat Islam, イスラーム同盟)が生まれた。これらの運動は1910年代末から、しだいに反オランダ独立運動に発展していった。
 フランス植民地下のベトナムでは、伝統的知識人のファン=ボイ=チャウ(Phan Boi Chau, 1867~1940)が、立憲君主政による独立をめざし、1904年に維新会を組織した。維新会が中心となって、日露戦争に勝利した日本に学ぶために、日本への留学をすすめるドンズー(Dong Du, 東遊)運動が展開された。しかしフランスとの協調をはかる日本政府によって留学生は追放され、運動は失敗に終わった。いっぽう、フランスとの提携によるベトナムの近代化を求めるファン=チュー=チン(Phan Chu Trinh, 1872~1926)らは、ドンキン義塾を設立して啓蒙活動を展開したが、これもフランスによって弾圧された。以後、ベトナムの民族運動は、ファン=ボイ=チャウらの武力闘争と、ファン=チュー=チンの系譜をひくフランスとの提携路線に分裂する。

3 清の動揺と変貌する東アジア
【東・東南アジアをめぐる国際情勢の変容】
 19世紀半ば以後、東アジア国際情勢は大きく変容した。(中略)
 1884年、ベトナムをめぐって清仏戦争がおこった。清はフランスを苦しめたが、結果的に阮朝と清との冊封・朝貢関係は停止された。 
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、326頁~329頁、336頁)

第18章 世界戦争の時代 4アジア・アフリカでの国家形成の動き


【東南アジアの民族運動】
 オランダ領東インド会社では、1920年代から、地域や宗教の枠をこえインドネシアとしての統合をめざす独立運動が展開されるようになった。1920年に結成されたインドネシア共産党は、急速にその勢力を拡大し、26~27年にスマトラやジャワで蜂起したが、オランダ軍により壊滅させられた。しかし、1927年にはスカルノ(Sukarno, 1901~70)の指導下にインドネシア国民党が結成され、ムルデカ(独立)運動を提唱した。1930年代に入ると、オランダ側の弾圧が強化されて指導者の大部分が逮捕され、第二次世界大戦中の1942年には日本軍の侵攻を受けた。
 ベトナムでは、1920年代に植民地支配からの独立をめざす諸政党が生まれた。ホー=チ=ミン(Ho Chi Minh, 1890~1969)は、ベトナム青年革命同志会を母体に、1930年にインドシナ共産党を結成した。共産党はベトナム中部で蜂起し、また民族主義政党のベトナム国民党も30年に北部で蜂起したが、いずれもフランス軍によって鎮圧された。1936年にフランスに人民戦線政府が成立すると、ベトナムでも共産党と民族主義政党の統一戦線が結成され、地方議会に進出した。しかし、これも弾圧を受けて壊滅状況となり、1940年には日本軍が進駐してきた。
 ビルマでは、1930年にサヤ=サン(Saya San, 1876~1931)が指導する大規模な農民運動がおこったが、イギリス軍によって大弾圧を受けた。同年、ラングーン大学の学生を中心にタキン(Thakin, 主人)党が結成され、やがてアウン=サン(Aung San, 1915~47)の指導下に反英独立運動を展開した。いっぽう、タイでは、1932年に立憲革命がおこり、憲法を発布して議会を開設された。フィリピンでは、アメリカ合衆国が1934年に自治を認め、10年後の独立を約束した。これにより35年に独立準備政府が発足した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、366頁~367頁)


第19章 戦後世界秩序の形成 2 植民地の独立と世界政治


【東南アジア諸国の独立】
 第二次世界大戦中、日本の占領下にあった東南アジア諸地域は、日本の敗戦後にただちに独立を求めたが、宗主国はこれを認めず、各地で独立運動がおこった。しかし、中国に社会主義国家が生まれたこともあって、東西両陣営からの影響も強くみられた。
 仏領インドシナでは、1945年、抗日組織ベトナム独立同盟の指導者ホー=チ=ミンが、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。宗主国のフランスはこれを認めず、インドシナ戦争(1946~54)となった。フランスは、49年に阮朝最後の皇帝バオ=ダイ(Bao Dai, 在位1925~45)を元首にしてフランス連合の一員としてベトナム国を独立させ、ベトナム民主共和国に対抗させた。54年には、ディエンビエンフーのフランス軍要塞の陥落を機に、ジュネーヴ会議によって休戦協定が成立した。この結果、北緯17度線を境界に、北側をホー=チ=ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が、南側をバオ=ダイを追放したゴ=ディン=ジエム(Ngo Dinh Diem, 在職1955~63)を大統領とするベトナム共和国が支配するようになり、それぞれ中ソ、アメリカ合衆国の支援に受けて対立を深めた。また、54年のジュネーヴ会議では、すでに独立を宣言していたラオスとカンボジアの独立が正式に承認された。ラオスでは左派と右派の政治対立があって内戦となったが、カンボジアではシハヌーク(Sihanouk, 1922~2012)が中立政策をすすめた。
 フィリピンでは、1946年にアメリカ合衆国から独立して共和国が成立したが、共産主義勢力が土地改革を要求して抵抗をつづけた。政府は合衆国への接近を深め、51年に米比相互防衛条約を結んだ。
 英領マレーでは、日本軍占領下での華人社会への弾圧に対する抵抗運動とともに共産主義勢力が拡大していた。1948年にイギリスがマレー人に有利な英領マラヤ連邦を成立させると、華人の影響力の強いマラヤ共産党はこれに反対して武力闘争を開始した。宗主国イギリスは、徹底した弾圧を加え、57年に正式にマラヤ連邦として独立させた。63年、マラヤ連邦、シンガポールにボルネオ北部のサバ、サラワクを加えてマレーシア連邦が成立した。しかし、65年、マレー人優遇をめぐる華人政策のちがいを理由にシンガポールは分離、独立した。
 インドネシアでは、日本の敗戦直後に国民党のスカルノ(Sukarno, 在職1949~67)らが独立を宣言し、それを認めない宗主国オランダとの間に4年にわたる独立戦争をつづけ、1949年にインドネシア共和国の独立を認めさせた。
 ビルマ(現ミャンマー)も、1948年に共和国としてイギリスから独立したが、共産党や少数民族の内乱がつづいて政情は不安定であった。62年のクーデタでネ=ウィン(Ne Win, 1911~2002)の軍事政権が成立し、産業国有化や貿易統制による経済の自立をめざした。しかし、この政策はビルマの国際的な孤立と経済の停滞をもたらした。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、397頁~398頁)

第19章 4 合衆国の覇権の動揺と再編


【「自由世界の防衛」とベトナム戦争】
 米ソ間やヨーロッパでは戦争が回避されたが、アジアやアフリカでは、冷戦を背景とした戦争や紛争が生じた。南北に分断されていたベトナムでは、南側がアメリカ合衆国の支援のもとに反共政策をすすめていたが、これに対して反米・反政府運動が高まり、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成され、北のベトナム民主共和国(北ベトナム)の支援を受けてゲリラ戦を展開した。
 1961年に成立した合衆国のケネディ民主党政権は、キューバ危機でソヴィエト連邦と対決姿勢をとり、ベトナム戦争(1960~75)にも介入した。63年にケネディが暗殺され、後任となったジョンソン大統領(Johnson, 在職1963~69)は、南ベトナムが共産側となれば周辺諸国も共産化すると考え、「自由世界の防衛」をかかげて、本格的な軍事介入を行った。65年以降、北ベトナムに大規模な爆撃を行い(北爆)、50万人の大軍をベトナムに派遣した。これに対して、ソ連と中国は北ベトナムと解放戦線に大規模な軍事・経済援助を行った。ベトナム戦争は長期化して、第二次世界大戦後最大の戦争となり、数百万の人命が失われた。

【ベトナムの統一とその後】
 ベトナムでは北ベトナムが優勢となり、75年には解放戦線とともにサイゴンを陥落させ、南ベトナム全土を制圧した。翌76年にはベトナム社会主義共和国が成立した。ベトナム戦争終結後の1976年、カンボジアでは親中国のポル=ポト(Pol Pot, 在職1976~79)を首相とする民主カンプチア政府が成立した。この政府は農業中心で閉鎖的な社会主義建設という極端な政策を実行し、多くの人々が殺害された。また、反中国のベトナムとの間で国境問題がおこり、78年にベトナムが侵入したカンボジアでは、79年にヘン=サムリン(Heng Samrin)政権が成立した。ポル=ポト派は中国の支援を受けながらゲリラ戦を展開し、中国軍はベトナムに侵攻して79年に中越戦争がおこった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、408頁~409頁)

東南アジア(近現代)の歴史と文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


第12章 アジア諸地域の動揺
2 南アジア・東南アジアの植民地化


【東南アジアの植民地化】
 東南アジアにおいても、ヨーロッパ諸勢力が、初期には商業権益の拡大をめざしたが、しだいに領土の獲得へと移行していった。獲得された領土では、農産物や鉱物資源の開発が積極的にすすめられ、それらの生産物は世界市場に直接結びつけられた。
<ジャワ>
オランダは、アンボイナ事件後、ジャワでの領土獲得に取りかかった。各地の政治勢力は抵抗をこころみたが、しだいに圧倒され、18世紀半ばにはマタラム王国が滅ぼされ、ジャワ島の大半がオランダの支配下にはいった。
 19世紀になると、オランダ政庁による直接支配のもとで、コーヒーやサトウキビ・藍などの商品作物が導入された。政庁は栽培すべき作物の種類と土地、生産量、必要な労働者の数などを指示し、生産物を低い指示価格で徴収した。こうしたオランダ支配に対し、ジャワ戦争(1825~30)と呼ばれる大規模な反乱が発生した。それにより、本国の財政状況が悪化すると、オランダはたて直しのために強制栽培制度を導入し、莫大な利益をあげた。他方、農村では飢饉が頻発し、生活が疲弊していった。
<マレー半島・ビルマ>
マレー半島とビルマ(ミャンマー)にはイギリスが進出した。イギリスは、東南アジアから中国への貿易活動の拡大をねらい、18世紀末から19世紀初めにかけてシンガポールをはじめとするマレー半島の港市を入手し、さらにはジャワも一時占領した。イギリスはオランダと協定を結び、マラッカ海峡を境界とする支配層の分割を取り決めると、ジャワを返還する一方で、マレー半島のペナン・マラッカ・シンガポールを海峡植民地として成立させた(1826年)。
 1870年代にはいると、イギリスは、それまでの港市だけの支配から、領域的な支配に取りかかった。イギリスはおもに出身地域別に組織されて対立抗争をくりかえしていた中国人秘密結社やマレー人スルタンたちのあいだの錫をめぐる利権争いに介入し、軍事と外交の巧妙な政策によって支配地域を広げた。95年にはマレー連合州(Federated Malay States)を結成させ、間接的に統治した半島部の諸州と北ボルネオ地域の諸州をあわせて支配を確立した。20世紀にはいると、ゴムが自動車生産と結びつく有力な商品となることが明らかとなった。広大な未開地が、おもにロンドンで調達される資本によって、ゴムのプランテーションとして開発された。このプランテーションの主力労働者として、南インドから大量の移民が導入された。
 ビルマでは、北部を支配していたタウングー朝が南部のモン人の侵攻で滅亡したが、新たにおこったコンバウン朝(Konbaung, 1752~1885)がモン人を撃退し、全土の支配を確立した。コンバウン朝はアッサムにも進出したが、インドでの支配を固めつつあったイギリスは、3次にわたるビルマ戦争(1824~86年)に勝利し、ビルマをインド帝国に併合した。

<フィリピン>
フィリピンにはスペインが進出していた。スペインは政教一致体制をとり、住民をカトリックに強制改宗させ、また地方の町や村の統治のために、フィリピン人を長(おさ)とする行政組織を新しくつくった。しかし自由


貿易を求める圧力をうけて、スペインは1834年にはそれまでの欧米勢力を排除する政策を転換し、マニラを正式に開港した。それにより、大農園におけるサトウキビ・マニラ麻・タバコなどの商品作物生産が広がり、フィリピンは世界市場に組み込まれることになった。また商人や高利貸しによる土地の集積が始まり、プランテーション開発がすすんで大土地所有制が成立した。

<ベトナム・カンボジア・ラオス>
ベトナムは、16世紀以降、黎朝の名目的な支配のもとで政治勢力が南北に分裂していたが、1771年に圧政に苦しむ農民の不満を背景に西山(タイソン)の乱が生じ、南北両政権が倒され、統一がはかられた。一方、これに対し阮福暎(在位1802~20)が、フランス人宣教師ピニョー(Pigneau, 1741~99)が本国からつれてきた義勇兵やタイ・ラオスなどの援助をうけ、西山政権(1778~1802)を倒して1802年に全土を統一し阮朝(1802~1945)をたてた。阮福暎は清によってベトナム(越南)国王に封ぜられ(04年)、清の制度を導入し、行政制度を整備した。19世紀半ばになると、フランスはカトリック教徒への迫害を理由にベトナムに軍事介入しはじめ、南部地域を奪い(67年)、さらに領土拡大へと動いた。これに対し、劉永福(1837~1917)が組織した黒旗軍は、ベトナム北部に根拠をおいて頑強に抵抗した。しかし、それを口実にフランスは北部に進出し、ユエ条約(83年)により北部と中部を支配下においた。他方、清朝はベトナムへの宗主権を主張して派兵し、清仏戦争がおきた(84~85年)。その結果、清は85年の天津条約でベトナムへのフランスの保護権を承認した。ベトナムの植民地化に成功したフランスは、63年以来保護国としてきたカンボジアとあわせて、87年にフランス領インドシナ連邦を成立させ、99年にはラオスも編入した。

【タイの情勢】
 東南アジアのほとんどの地域がヨーロッパ諸国の植民地となるなか、唯一植民地化の圧力を回避したのはタイであった。タイでは18世紀の終わりに、バンコクに首都をおき、現王朝のラタナコーシン朝(Ratanakosin 1782~、チャクリ朝Chakriとも呼ばれる)が創始された。19世紀前半は、ヨーロッパ諸国に対して閉鎖的な政策がとられていた。しかし、ヨーロッパの諸勢力からの門戸開放の圧力がしだいに強まり、19世紀後半、ラーマ4世(Rama IV, 在位1851~68)の時代に政策の転換がおこなわれた。王室による貿易独占が解除され、自由貿易の原則が確認されると、つぎつぎと先進諸国と外交関係が結ばれた。その結果、米の商品化がすすみ、デルタ地帯の開発がすすんだ。チュラロンコン(Chulalongkon, 在位1868~1910, ラーマ5世:Rama V)は、イギリスとフランスとの勢力均衡策をたくみにとると同時に、外国人専門家をまねいて行政・司法組織などを改革し、また外国への留学を奨励するなどして近代化に成功し、植民地化を回避した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、291頁~294頁)



第14章 二つの世界大戦
3 アジア・アフリカ地域の民族運動


【東南アジアにおける民族運動の展開】
 東南アジアにおいても第一次世界大戦後、民族運動が再び広がった。
 オランダが支配するインドネシアでは、1920年にインドネシア共産党が結成され、独立をとなえた。その運動が弾圧によってほぼ壊滅したのちは、オランダから帰国した留学生が、運動の指導権をにぎった。27年にはスカルノ(Sukarno, 1901~70)を党首とするインドネシア国民党が結成され、翌年にインドネシアという統一された祖国・民族・言語をめざす宣言がなされた。
 フランスが支配するインドシナでは、1925年にホー=チ=ミン(Ho Chi Minh, 1890~1969)がベトナム青年革命同志会を結成し、それを母体に、30年にベトナム共産党(同年10月にインドシナ共産党に改称)が成立した。党は、徹底的な弾圧をうけながらも、村々にソヴィエト政権を樹立するなど農民運動を展開した。またイギリスが支配するビルマ(ミャンマー)では、1920年代から民族運動が始まり、僧侶による啓蒙運動やタキン党(Thakin)と呼ばれる急進的民族主義者の台頭がみられた。
 アメリカ合衆国が統治するフィリピンでは、1907年に議会が開設され、立法や行政についてはフィリピン人への権限委譲がすすめられた。しかし、経済面ではアメリカに大きく依存した商品作物生産がすすんだため、窮乏化した農民たちは反乱をくりかえした。その結果、34年にフィリピン独立法が成立し、翌年独立準備政府が発足した。タイでは、長く王による専制的統治が続いていたが、財政的混乱や王族支配への批判が高まり、32年の立憲革命によって王制から立憲君主制となった。
 こうした状況のもとで、アジア地域は、1941年末から太平洋戦争に突入し、多くが日本軍の侵攻を迎えることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、352頁~353頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


Chapter 17 Reformation in Various Regions in Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia, and the Dawn of National Movements
■Change of Mainland Southeast Asia
■Colonization of Islands of Southeast Asia
■Intellectuals and the Racialism of Southeast Asia

2 Colonization of South Asia and Southeast Asia, and the Dawn of National Movements
■Change of Mainland Southeast Asia
In the mainland Southeast Asia, the origins of three nations, i.e., Burma (Myanmar),
Thailand and Vietnam, were formed from the latter half of the 18th century to the
beginning of the 19th century. In Burma, in the mid-18th century, the Toungoo dynasty was
defeated by the Hanthawaddy kingdom of Mons, but then the Burmese group originated
in the inland advanced to the south and founded the Konbaung (Alaungpaya) dynasty.
This dynasty possessed almost the same territory as that of present-day Myanmar, and
further advanced to Thailand and ruined the Ayutthaya dynasty as well as invaded toward
the west into the Assam district of India.
At the beginning of the 19th century, Britain, which had sought the route to China and
Southeast Asia from the Bay of Bengal, provoked the Anglo-Burmese Wars against the
Konbaung dynasty three times, and in 1885, defeated the Konbaung dynasty. In the
following year, Burma was annexed into the Indian Empire as a province under
direct control.
In Vietnam, after the 17th century the Trinh lords in the northern area and the Nguyen lords in the central area competed against each other. However, in the latter half of the
18th century, both lords were destroyed due to the Tayson Rebellion (peasants’ riots).
Gia Long (嘉隆帝 Nguyen Phuc Anh 阮福暎) of the Nguyen clan defeated Taisson[sic]party
with the support from Thailand and Pigneau, a French missionary; unified Vietnam; and
founded the Nguyen dynasty with Hue as its capital in 1802. He brought tribute to the
Qing dynasty and named the country as Vietnam.
France, under Napoleon III, invaded Indochina seeking a basis for trade with China.
In 1862, it conquered the southern area, where Saigon (present-day Ho Chi Minh City)
was located as a center, and made it into a direct colony (the First Treaty of Saigon).
France went up the Mekong River, and made the Cambodian kingdom, and then Vietnam,
into protectorates (Second Treaty of Hue). The Qing dynasty, a suzerain of them, however,
did not approve this, and in 1884, the Sino-French War broke out. France, by defeating the
Qing dynasty, made them abandon suzerainty. And in 1887, France formed the Indochinese
Federation by combining Vietnam and Cambodia, and then in 1899 added Laos into the
Federation.
In Siam (Thailand), General Chakri (Rama I) of the Ayutthaya dynasty founded the
Ratanakosin dynasty(ラタナコーシン朝, Bangkok[バンコク朝]) with Bangkok as its
capital; drove back Burma’s invasion; expanded its territory to almost the same
as today’s Thailand; and flourished by trade with China through Chinese merchants
as intermediaries.
Siam was forced into uneven treaties by Britain and France from the middle of the
19th century, but maintained independence by adopting an open policy. In the 1880s,
modernization reform (Chakri Reform) was promoted under King Chulalongkon
(チュラロンコン Rama V[ラーマ5世]). A modern cabinet and fiscal system were introduced
and the clan system was abolished, and in exchange prefectures were placed in the whole
territory. Also non-free people were emancipated and the modern educational system was
consolidated. Railways were constructed and a postal system was introduced. Diplomatically, through negotiation with the great powers, the national boundary was
decided and the extra territorial rights were successfully abolished.
In the latter half of the 19th century, the international price of crops rose rapidly and
consequently the development of rice fields in three major delta areas, the Mekong, the
Chao Phraya and the Irrawaddy, was promoted, and they became the granary of the world.
Most of the profits coming from the colonies were sent to the mother countries, but in
Siam, an independent country, profits were utilized as the source of modernization.

■Colonization of Islands of Southeast Asia
When the great trade period ended in the end the 17th century, the Dutch East India
Company (オランダ東インド会社) changed its business style from monopolizing trade of
luxurious goods into occupying the production areas of mass consumption goods such as
coffee and sugar. Consequently, Java became a territory of the Dutch East India Company
in the 18th century. In the end of the 18th century, as the French Revolutionary troops
occupied the Netherlands, the Dutch East India Company was dissolved, and in the
beginning of the 19th century British troops occupied Java. The Netherlands recovered
its control over Java at the Congress of Vienna, and obtained the right of control over
the west and south area of the Malacca Strait, in exchange for recognizing British control over the Malay peninsula, by executing the Anglo-Dutch Treaty of 1824.
In the 1830s, the Netherlands, by suppressing the rebellion by Islamic clans in Java
(the Java War), obtained huge profits by instituting a forced cultivation system to produce
commodity crops such as coffee, sugarcane and indigo plants. Thereafter, the Netherlands
expanded its territory steadily, and by the beginning of the 20th century, colonized almost
the same area of present-day Indonesia.
From the end of the 18th century, Britain had held Penang and Malacca of the Malay
peninsula as intermediary places between the Bay of Bengal and the South China Sea. It
took Singapore in 1819 and constructed a free port and a modern city there. Singapore,
which intermediated between India, the colony of Britain, and the South China Sea,
developed together with Hong Kong as the two major British stepping stones to East and
Southeast Asia. Britain further put Muslim Malay nations successively under
a protectorate status and promoted the development of tin mines. In the Malay peninsula,
as the control was stabilized, a huge number of overseas Chinese(華僑) immigrated and
worked in the mines, and overseas Indians worked on rubber plantations which would be
developed in the 20th century, and thus a complicated multi-racial society was formed.
The Philippines, controlled by Spain from the 16th century, was originally utilized as
an intermediary point for the Acapulco trade. But from the latter half of the 18th century,
plantation of sugarcane, Manila hemp and tobacco were managed there following the
Netherlands, and the Royal Philippines Company took charge of their sales. In 1834, Spain
made Manila a free port and opened it to international trade. Spain further promoted the
expansion of its territory to the south, but received resistance from Muslim powers of the
Mindanao and the Sulu Archipelago.

■Intellectuals and the Racialism of Southeast Asia
In the Philippines where conversion of local people into Catholic was advanced, the
movement toward the appointment of local priest began from an early stage. In the end of
the 19th century, Jose Rizal(ホセ=リサール) among others organized the Filipino
nationalist organization to achieve independence and opposed to Spanish rule. However,
since Spain suppressed such movements, the Katipunan initiated the armed revolution
in 1896. Thanks to the Spanish-American War, the Katipunan revolution troops liberated
Luzon in 1899 and established the Malolos Republic with Aguinaldo(アギナルド) as the
president. As a result of the Spanish-American War, however, the United States, which
obtained the right of possession of the Philippines, defeated Malolos troops (the Philippine-
American War フィリピン=アメリカ戦争) and made the Philippines a direct colony ruled
by the Philippines Committee which was installed by the U.S. Government.
In Indonesia, a Dutch colony at the beginning of the 20th century, the Budi Utomo
(supreme wisdom) movement (ブディ=ウトモ[最高の英知]運動) aiming to form racial
consciousness through reevaluation of the traditional cultures of Java occurred. And there
occurred also the Sarekat Islam(サレカット=イスラーム Islamic Union) movement aiming
to provide local mutual support and to enlighten activities which were initiated by a group
of Muslim merchants occurred. These movements gradually turned into anti-Dutch
independence movement from the end of 1910s.
In Vietnam, a French colony, Phan Boi Chau(ファン=ボイ=チャウ), a traditional
intellectual, initiated the Dong Du movement(ドンズー運動) promoting study in Japan
in order to obtain lessons from Japan which defeated Russia in the Russo-Japanese War.
But the Japanese government deported Vietnamese students in order to cooperate with
France, resulting in the failure of the movement. On the other hand, Phan Chu Trinh
(ファン=チュ=チン) and others, seeking for modernization of Vietnam through coalition
with France, established Don Kynh Nghia Thuc(ドンキン義塾) and extended enlightening
movements. But this was also suppressed by France. Thereafter national movements in
Vietnam were split into armed strife by Phan Boi Chau and a route of coalition with
France succeeding Phan Chu Trinh.

<Wayang Kulit, or shadow puppetry in Indonesia (British Museum)>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、261頁~264頁)

Chapter 18 The Age of the World Wars
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
■Ethnic Movements in Southeast Asia
In Dutch East India, movements toward independence were developed from the 1920s.
The movements aimed for unity of Indonesia(インドネシア), overcoming differences of
areas and religion. The Indonesia Communist Party, which was founded in 1920, expanded
rapidly; rose in revolt in Sumatra and Java in 1926-1927; but was given a crushing blow
by the Dutch army. In 1927, the Indonesian National Party(インドネシア国民党) was
formed, and led by Sukarno(スカルノ), advocated the Merdeka(ムルデカ, Independence 独立) movement. In the 1930s, the Netherlands strengthened the suppression and most of
the leaders were arrested. In 1942, during World War II, the Japanese army invaded
Indonesia.
In Vietnam, various political parties hoping for independence from the colonial ruling
were formed in the 1920s. Ho Chi Minh(ホー=チ=ミン) formed the Indochinese
Communist Party(インドシナ共産党) based on the Revolutionary Youth League of
Vietnam in 1930. The Communist Party revolted in central Vietnam, and the Vietnam
People’s Party, a nationalistic party, rioted in northern Vietnam. However, both were
suppressed by the French army. When the Front Populaire (the Popular Front)
government was established in France in 1936, a united front of the Communist Party
and the ethnic parties was formed, and advanced to local parliaments. But again,
this was cracked down completely. In 1940, the Japanese army occupied Vietnam.
In Burma, Saya San led a large scale peasant movement, but the British army
completely suppressed them. In the same year, the Thakin (Master) Party(タキン[主人]党)
was established mainly by students of Rangoon University, and Aung San led the
anti-Britain independence movement. In Thailand, the constitutional revolution occurred
in 1932; a constitution was proclaimed; and a parliament was established based on the
constitution. In the Philippines, the United States accepted its autonomy in 1934, and
promised its independence 10 years later. Thus the government of the Commonwealth
of the Philippines was formed in 1935.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、292頁)

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19 Nation-State System and the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
■Nation States in Southeast Asia
Just after the Japan’s defeat, Southeast Asian countries occupied by Japan sought
independence. However, since former suzerains did not grant independence to them,
independence movements occurred in each country.
In French Indochina, Ho Chi Minh(ホー=チ=ミン), leader of the Viet Minh(抗日組織
ベトナム独立同盟), an anti-Japan organization, declared independence for the Democratic
Republic of Vietnam(ベトナム民主共和国[北ベトナム]) in 1945. But the suzerain
France did not grant it independence, and this led to the Indochina wars (インドシナ戦争,
1946-54). France installed Bao Dai(バオ=ダイ, throne 1925-45), the last emperor of the
Nguyen dynasty(阮朝), as head of the state, and granted independence to the State of
Vietnam as a member of the French Union in order to confront the Democratic Republic
of Vietnam. In 1954, the Geneva Conference was held and the Geneva Accords were
concluded. They provided for a cease-fire at the event of the fall of French garrison at
Dien Bien Phu. As a result, Vietnam was divided by the 17th parallel (the latitude 17°N
北緯17度線). The northern half of Vietnam was ruled by the Democratic Republic of
Vietnam, and southern half of Vietnam by the Republic of Vietnam(ベトナム共和国),
where Ngo Dinh Diem assumed the role of president, expelling Bao Dai. Each side
received support from China and the Soviet Union, and from the United States,
respectively. In the Geneva Conference in 1954, the independence of Laos and Cambodia,
which had declared independence already, was officially granted. In Laos, the civil war
started due to political confrontation between the left and right wings. In Cambodia
(カンボジア), Sihanouk(シハヌーク) promoted a neutral policy.
The Philippines became independent from the United States to form a republic in 1946.
However, the communist powers continued to resist the government demanding land
reform. The government approached the United States and concluded the Mutual Defense
Treaty between the United States and the Republic of Philippines in 1951.
Britain established the British Malaya in favor of the Malay in 1948. The Malaya
Communist Party, strongly influenced by ethnic Chinese, started a military campaign
against this. Britain suppressed the fight completely and officially established the
Federation of Malaya(マレーシア連邦) as an independent nation in 1957. In 1963,
the Federation of Malaya, Singapore(シンガポール), Sava and Sarawak formed
the Federation of Malaysia. However, in 1965, Singapore was spun off as an independent
nation, led by ethnic Chinese, due to the Federation’s policy in favor of Malay people.
In Indonesia, Sukarno(スカルノ) of the Nationalist Party, and others declared
independence right after Japan’s defeat. The suzerain Netherlands did not grant its
independence, and fought a war for four years. In 1949, the Republic of Indonesia
(インドネシア共和国) was finally granted independence from the Netherlands.
Burma (ビルマ Myanmar [現ミャンマー]) declared independence from Britain as
a republic in 1948, but political conditions were unstable owing a large part to the
internal fights by the Communist Party and ethnic minorities. In 1962, Ne Win led
a coup d’état to establish a military government and aimed at economic independence
through industrial nationalization and trade control. Those policies led to Burma’s
international isolation and economic stagnation.
Thailand(タイ) announced the war against Britain and the United States in favor of
Japan during World War II. However, after the war, the country declared this
announcement was invalid and avoided becoming a defeated nation. Thailand succeeded
in maintaining independence and joined the United Nations in 1946.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、316頁~317頁)

3 Disturbance of the Postwar Regime
■Economic Growth of Asia(一部)

Southeast Asian countries also built foundation for economic development by the
compensation from Japan and the special demands from the Vietnam War. In 1965, in
Indonesia, the military coup d’état led by Suharto(スハルト) erupted; Sukarno was
disgraced (the September 30th Movement[九・三0事件]) and the Communist Party
was ruined. Suharto assumed president in 1968 and started government-led
economic development. In Philippines, Marcos became president in 1965 and promoted
developmental dictatorships. In 1967, Indonesia, Malaysia, Singapore, Philippines and
Thailand formed the Association of Southeast Asian Nations (ASEAN東南アジア諸国連合).
At first, the association was an anti-communism alliance, and later changed to an
organization for economic cooperation.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、324頁)

4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
■Economic Growth in Japan and Asian Countries(一部)
….
In Southeast Asia, the ASEAN countries(ASEAN諸国) developed economies, owing to
the special procurement of the Vietnam War, and interlinking with Japanese capital
investments and expansion of the Japanese markets. In the late 1980s, the Marcos
dictatorship collapsed and the democratic government was born in the Philippines.
Behind its economic developments, there enlarged also the social distortion such as
the expansion of the gap between the rich and the poor, environmental problems
and the collapse of traditional cultures.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、329頁)

Final Chapter Globalization of Economy and New Regional Order
2 Questions about Globalization and New World Order
■Settlement of Conflict in Southeast Asia
In Southeast Asia, the Cambodian civil war(カンボジア内戦) broke out in 1978. But, taking
advantage of the withdrawal of Vietnam at the end of the 1980s, a peace treaty was concluded in 1991
and the war ended. In 1993, the general election was conduced under the control of a United Nations
Transitional Authority in Cambodia(UNTAC 国連カンボジア暫定行政機構), then a coalition
government with Sihanouk(シハヌーク) as the head of state was established. The second general
election was held in 1998, then the country joined ASEAN in 1999. Thus Cambodia recovered peace
and has moved forward toward reconstruction under the Hun Sen administration(フン=セン内閣)
of the Cambodian People’s Party(人民党).
East Timor, a former colony of Portugal, was absorbed into Indonesia in 1976. Its
independence was authorized through a vote in 1999, which was sponsored by the United
Nations. In 2002, the Democratic Republic of East Timor(東ティモール民主共和国) was established,
and it is on its way to building a new nation under the supervision of the United Nations.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、343頁)


≪東南アジアの歴史と文化(中)~高校世界史より≫

2023-10-15 19:00:10 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪東南アジアの歴史と文化(中)~高校世界史より≫
(2023年10月15日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、東南アジア(前近代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]



【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社




東南アジアの記述~『世界史B』(東京書籍)より





【東南アジア内陸国家の再編】
 港市国家の拡大の動きに対応して、内陸の国家群も拡大をつづけ、広大な領域を支配するようになった。
 11世紀はじめにベトナム北部に建てられた大越国の李朝(1009~1225)は、国際交易から切り離され、また国際性のある特産物にもめぐまれなかった。このため、農業を重視する中国文明の受容につとめて国家建設をすすめる一方、紅河(ホン川)デルタの開墾による農業生産の拡大に努めた。13世紀、李朝にかわった陳朝(1225~1400)は、紅河デルタに堤防網を建設し、大きな農業人口を確保した。同世紀末の3次にわたる元軍の侵略に対して、デルタの農民たちははげしく抵抗した。元軍を退けた陳朝は、南シナ海交易に参加するために南下し、中部沿岸の港市国家チャンパーへの侵略をくりかえして、領域を南に広げていった。
 14世紀末、陳朝にかわった胡朝(1400~1407)は、陳朝のころにつくられたベトナム独自の文字チュノム(字喃)の使用を奨励して、漢籍の翻訳をすすめ、また科挙官僚を登用して独自な官僚制国家の整備に努めた。15世紀はじめ、大越は一時明に併合されるが、まもなく黎朝(1428~1527、1532~1789)のもとに独立を回復した。黎朝は、儒教を積極的に導入し、中国にならった官僚制的な中央集権国家を建設した。また、チャンパー王国を併合して、17世紀までに、ほぼ現在のベトナムの領域にまで広がった。
 カンボジアでは9世紀以来、クメール王国(Khmer, アンコール朝 Angkor, 802ごろ~1431ごろ)がカンボジアや東北タイの平原の農業開拓に成功して、アンコールの地に大都市アンコール=トムを建設していた。12世紀に入ると、カンボジアやタイの物産を集荷して、メコン川を通じて南シナ海交易に進出した。クメール王国は13世紀はじめには、アンコールを中心にカンボジアからタイ、ラオス、マレー半島北部にいたる広大な地域を結ぶ交易路を支配下に置いた。
 クメール王国による大陸内部の交易ルートの形成は、チャオプラヤ、サルウィンなど大河川の流域で稲作農業を営んでいたタイ人をめざめさせた。13世紀後半、タイ人は各地でクメールから独立し、新しい交易網をつくりあげていった。13世紀末には中部タイのスコータイ王国(Sukhothai, 1257~1438)が、14世紀中ごろにはチャオプラヤ川中流域におこったアユタヤ王国(Ayuthaya, 1351ごろ~1767)が有力になった。とくにアユタヤ王国は、内陸の物産をタイランド湾沿岸に集め、これを中国や琉球に供給して発展した。また、上座部仏教を導入し、これを保護した。15世紀には北タイや東北タイで敵対する勢力をやぶり、ほぼ現在のタイにあたる地域の統合に成功した。
 ビルマでは、11世紀中ごろにビルマ人がイラワディ川中流域にパガン王国(Pagan, 1044~1287)を建てた。この王国は、雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、灌漑事業をおこしてビルマ平原の農業開拓に成功した。また、大乗仏教や密教と混在していた上座部仏教をとくに積極的に保護し、パガンを中心に多数の寺院を建立した。パガン王国は13世紀末以後、元軍の侵略とタイ系のシャン人の南下によって衰退したが、南部のモン人はベンガル湾沿岸にペグー(Pegu)などの港市国家を建設し、ベンガル湾交易を担った。
 このように、大陸部東南アジアでは、内陸国家を内陸ルートを整備し、沿岸の港市国家を統合する努力がすすめられた。しだいに現在の国家領域を形づくられていった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、193頁~196頁)



第3編 一体化する世界
第12章 大交易時代
1 アジア交易世界の再編と活況
2 海洋帝国の出現
3 大交易時代の世界

第3編 一体化する世界 第12章 大交易時代
 15世紀はじめの鄭和の遠征時期ごろから、東シナ海、南シナ海、インド洋に、琉球、マラッカ、南インド沿岸、紅海沿岸を結節点とするネットワークが確立した。15世紀末以降、ポルトガルがこのネットワークに参加した。同じころ、新たに交易ルートとして大西洋と太平洋が加わり、全地球的な交易網が生まれた。中南米と日本で採掘された銀は、この世界的な交易網に流入し、貿易量を飛躍的に拡大させた。この時代に、異なる地域の需要に応じてつぎつぎと国際商品が生まれ、大量に生産され、地域の分業化がすすんだ。これまで孤立的な経済、文化圏を維持していた諸世界は大きな変貌のときを迎えた。
 南シナ海、インド洋の交易が大きく発展した15世紀から17世紀にかけては、これまでヴァスコ=ダ=ガマなどヨーロッパ人の活動に重点を置いて、「地理上の発見」あるいは「大航海時代」とよばれていた。しかし、この時代の国際交易の発展は、ヨーロッパ人渡来以前に準備されていたアジアの航海者のネットワークを基礎としている。この時代のアジア域内の流通を担ったのは、ダウ船やジャンク船、また朱印船に乗ったアジアの航海者たちであった。この時代を、世界中の交易規模が大拡大した時代として、「大交易時代」とよぶ。
 この時代、ヨーロッパでは大西洋に面した西ヨーロッパの優位が決定した。海をもたないために辺境に追いやられた東ヨーロッパでは、封建制度の再編が行われ、西ヨーロッパに従属する構造ができた。そのいっぽうで、アメリカ大陸の独自な古アメリカ文明は破壊され、現地の人々は暴力的にヨーロッパの経済構造に組みこまれた。なお、西ヨーロッパ諸国のなかで商業覇権を確立したのが、アジア域内交易でも最有力勢力であったオランダであったことは、大交易時代の国際交易におけるアジアの重要性を物語る。
 人々が利益を求めて動きまわり、世界の経済的価値観が標準化し、国家から特権を与えられた東インド会社など巨大な企業体が生まれた。近代への大きなあゆみがはじまる。
 しかし、17世紀後半、アジアを代表する国際商品の一つであった胡椒価格の下落をはじめとするいくつかの要因が重なり、アジアを主要な舞台とした大交易の時代は終わった。国際交易ではインド綿布や中国茶を主要商品とするアジア・ヨーロッパ間交易や大西洋三角貿易が18世紀に発展したが、そのいっぽうで、交易とともにその領域内での生産を重視する国家群が登場してきた。やがて世界は植民地支配と産業革命の時代を迎えることになる。

14世紀 前期倭寇
    明、海禁
15世紀 鄭和の遠征
    大交易時代の開始
    マラッカ王国発展
1492  コロンブス、大西洋航路発見
1488  ヴァスコ=ダ=ガマ、インド航路発見
1511  ポルトガル、マラッカ占領
1522  スペインのマゼラン艦隊、世界周航
16世紀前半 スペイン、中南米を植民地化
      ビルマのトゥングー王国発展
1557  ポルトガル、マカオに居住権、東シナ海進出
16世紀末  タイのアユタヤ王国発展
1600  イギリス東インド会社設立
1602  オランダ東インド会社設立
17世紀 オランダ東インド会社、インドネシア交易を独占
1661  清、遷界令
17世紀末 大交易時代の終息
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、200頁~201頁)

第12章1 アジア交易世界の再編と活況


【マラッカの繁栄】
 15世紀はじめ、明の永楽帝は、南シナ海方面の朝貢貿易を拡大するべく、鄭和の率いる大艦隊を前後7回にわたって派遣した。鄭和はチャンパーとマラッカ海峡に面した港市国家であるマラッカ王国(Malacca, 14世紀末~1511)を根拠地にして、東南アジアや、アフリカ東海岸を含むインド洋沿岸の諸国に明への朝貢を促した。この結果、明へ朝貢使節を派遣した国は50以上にのぼった。
 こうした海の統制政策は、永楽帝の死後、明の対外政策が消極的になったために長つづきしなかった。鄭和の大遠征終了とともにインド洋の諸港と中国を直結するルートはとだえたが、かわって鄭和の遠征拠点であったマラッカ王国が対明貿易で繁栄に向かった。マラッカ王国は明への朝貢貿易をつづける一方で、国王がイスラーム教に改宗して、西方のムスリム世界との関係を深めた。マラッカにはインド洋からムスリム商人が香辛料・綿布・宝石・銀を、また中国商人が南シナ海から陶磁器や絹をもたらし、ジャワの商人がモルッカ諸島(香料諸島)から香辛料をもたらした。マラッカは、「ムスリム商人の海」と「中国商人の海」と東南アジアの流通網を結びつけ、発展する海の交易世界の中心になった。

<鄭和とキリン>
鄭和は雲南のイスラーム教徒の家に生まれ、宦官として明の朝廷に仕えた。
彼は珍奇な南海の物産を中国にもち帰ったが、なかでもアフリカのジラフは大きな話題となり、伝説の霊獣「麒麟(きりん)」の名前をつけられた。ジラフをキリンとよぶのはこれにはじまる。なお、キリンは鄭和がもち帰る少し前、インドのベンガル地方の支配者が贈った献上品としてはじめて中国に渡来した。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、202頁~203頁)

第12章 2 海洋帝国の出現


【スペインのアメリカ大陸進出と世界周航】
(前略)
 また、ポルトガル人マゼラン(Magellan, 1480ごろ~1521 マガリャンイス)は、スペイン王の援助を受けて1519年、西まわりのアジア航路を発見するために大航海に出発した。マゼランは南アメリカ大陸南端(現在のマゼラン海峡)を通過し、太平洋に出てさらに3か月の航海のすえ、1521年にフィリピン諸島に到達し、ここをスペイン領と宣言した。彼は現地人との戦いで戦死したが、部下はインド洋から喜望峰をまわって、1522年にスペインに帰還した。ここに最初の世界周航が達成され、大地が球体であることが確認された。16世紀後半には、スペインはフィリピンのルソン島にマニラ市を建設し、のちにスペイン領メキシコのアカプルコ港と中国の諸港を結ぶアカプルコ貿易の中継地とした。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、206頁)

第12章 3 大交易時代の世界


【東南アジアの活況】
 ポルトガルとスペインがアジアの諸海域に参入し、アジアとヨーロッパ、アメリカ大陸が大きく結ばれるようになった結果、東南アジアでは諸海域間の交易活動がいっそう活性化することになった。
 マラッカは、1511年にポルトガルに占領された。しかし、マラッカ王家は同じマラッカ海峡沿いの島に交易拠点を移して、ムスリム商人を集めたために、ポルトガルのマラッカは孤立した。また、ムスリム商人たちもポルトガルの支配するマラッカ海峡をさけて、スマトラとジャワの間のスンダ海峡をぬけてインド洋からジャワ海に入るルートを開拓した。この結果、インド洋に面するスマトラ島北端のアチェー王国(Aceh, 15世紀末~1904)や、スンダ海峡の出口に位置し胡椒生産のさかんな西ジャワをおさえたバンテン王国(Banten, 16世紀~1813)が栄えた。両者ともイスラーム国家で、アチェーはオスマン帝国と直接交易を行い、東南アジアのイスラーム教の中心ともなった。同じころ、中部ジャワでもイスラーム教のマタラム王国(Mataram, 16世紀半ば~1755)がおこり、ジャワの米生産地とジャワ海の交易路を結んで栄えた。
 16世紀後半、太平洋をこえてフィリピンのマニラに進出していたスペインは、以後、徐々に勢力をのばし、スペイン領フィリピンをつくった。当時、南シナ海の対中交易の拠点となっていたミンダナオ、スールーのイスラーム勢力は、このスペインによる領域拡大と貿易独占、さらにカトリックの布教に反発して、現在もなおつづく長期の紛争がはじまった。
 いっぽう、内陸部は、繁栄する諸港市に米や熱帯産品をさかんに供給するようになり、これとともに政治的な再編がおこった。13世紀末のパガン王国の崩壊以来、分裂していたビルマでは、16世紀前半にトゥングー王国(Toungu, 1531~1752)が全国統一に成功した。この王国は、東南アジア内陸部とベンガル湾を結ぶ交易を行うとともに、16世紀後半にはタイのアユタヤ王国を攻略したが、まもなく分裂した。16世紀末に再独立したアユタヤ王国は、東南アジアの諸港市に米を供給する一方、日本や中国、ポルトガル、そして17世紀には、オランダ、イギリス、フランスとも通商を行い、商業国家として繁栄した。トゥングー王国もアユタヤ王国も、米を港市国家に供給するなど、大河を通じて領域内の産物の海外輸出をすすめた。
 ベトナムの黎朝大越国では、16世紀中ごろから国内が分裂していたが、16世紀末に黎朝の実力者鄭氏がハノイに入って大越国を再建した。しかし、鄭氏に対立する阮氏が中部のフエに移って広南国(クアンナム, 1558~1777)を建設し、両勢力はともにポルトガル船やオランダ船、日本の朱印船とさかんに通商した。
 
<アチェー>
アチェーは東西交易路の要衝にあたるスマトラ島北端に位置する。アチェー王国は、ポルトガルのマラッカ占領後、ムスリム商人を受けいれ、香辛料交易で繁栄し、17世紀前半に最盛期を迎えた。その後、植民地支配をめざすオランダに抵抗したがやぶれた(アチェー戦争、1873~1912)。インドネシア独立後は、大幅な自治を認められた特別州となっている。

【南シナ海・東シナ海の国際交易】
 南シナ海と東シナ海の交易圏は、ポルトガル・スペインの参入と日本産の銀の大量供給により大きく発展した。
 日本では、16世紀半ばから新銀山の開発と灰吹き法の導入により銀生産が急増し、また絹織物などの需要が高まった。中国、日本などの私貿易商人たちが海禁に対抗して武装し、中国の沿岸諸都市を襲った。これを後期倭寇という。16世紀後半、海禁が緩和され、商人による私貿易が部分的にではあるが認められるようになると、倭寇は収束に向かった。ポルトガル・スペインや中国の商人は、中国産の生糸や絹織物をマニラや長崎などで売りさばき、メキシコ銀や日本銀を中国に運んだ。日本の商人もさかんに海外交易にのりだし、1601年、徳川家康(1542~1616)は、海外への渡航船に朱印状を与え、海外交易を促進した(朱印船貿易)。17世紀前半には、ベトナムのホイアン、フィリピンのマニラ、カンボジアのプノンペン、タイのアユタヤなどの港市に日本町が生まれた。タイやカンボジアは鹿皮などを、ベトナムは生糸などの特産品を日本に輸出し、日本からは銀や銅を輸入した。

【オランダ東インド会社】
交易を王室の独占下に置いたスペインとポルトガルに対して、オランダ、イギリス、フランスは、海賊行為を行って対抗し、17世紀はじめごろ、それぞれ東インド会社を設立し、海軍力を背景にアジア進出を本格化した。オランダ東インド会社は、喜望峰以東の植民地経営と交易の独占を政府に特許され、固有の軍隊や要塞、貨幣制度をもつ特権会社だったが、商人たちによって自由に投資され、また管理される機能的な組織であった。
 16世紀末にスペインから独立したオランダでは、オランダ東インド会社がただちに東南アジア海域に進出した。1619年にジャワのバタヴィアに要塞を築いて東南アジア交易の根拠地とすると、1623年のアンボイナ事件を機に、この地域からイギリスの勢力を駆逐し、マラッカ、スリランカをポルトガルから奪った。また、アフリカ南端にケープ植民地を開いたオランダは、喜望峰からインド洋を直航し、スンダ海峡を通過してバタヴィアにいたる新航路を開拓した。

<朱印船>
江戸幕府から渡航許可書(朱印状)を得てベトナム、タイ、フィリピンなどと交易を行った日本の商船である。わかっているだけでも、17世紀はじめの30年間に356隻が渡航している。

<アンボイナ事件>
クローブやナツメグの特産地であるモルッカ諸島のアンボイナで、オランダ東インド会社が競合するイギリス人らを虐殺した事件。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、209頁~211頁)



東南アジアの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より



第Ⅱ部 第4章 イスラーム世界の形成と発展
3 インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
【東南アジアの交易とイスラーム化】
 8世紀頃になると、ムスリム商人は東南アジアから中国沿岸にまで進出しはじめた。しかし、黄巣の乱で広州が破壊されたために、インド洋からの船はマレー半島まで撤退することになった。他方、唐の衰退によって朝貢貿易が不振になったことから、中国人商人も西方との交易にジャンク船で直接参加するようになった。その結果、東南アジアにはさまざまな地域からの商人が進出するようになった。
 10世紀後半になると、チャンパーや三仏斉などが宋に対して朝貢し、また、ムスリム商人が広州や泉州などの居留地をつくり一方で、中国人商人も東南アジア各地に居留地をつくるなど、東南アジアと中国とのあいだで活発な交易がみられた。つづく13世紀後半、南宋を征服した元(モンゴル)は、アジアの海域へ進出した。その進出は軍事をともなうものであり、その結果、ベトナムの陳朝はこれを退けたが、ビルマのパガン朝は滅亡した。他方、ジャワでは朝貢を求めて侵攻してきた元軍の干渉を排し、マジャパヒト王国(Majapahit, 1293~1520頃)が成立した。元朝は海上交易に積極的であり、軍事遠征の終了後も、中国人商人やムスリム商人とともにこの地域での交易活動をすすめた。
 東南アジアには、西方からの動きも加わった。とりわけ重要であったのは、イスラーム化の動きであった。13世紀に諸島部を中心にムスリム商人や神秘主義教団が活動し、13世紀末にはスマトラ島に東南アジアで最初のイスラーム国家が成立した。しかし、イスラーム化が大きくすすむ重要な契機となったのは、15世紀にマラッカの王がイスラームに改宗したことであった。
 マラッカ王国(Malacca, 14世紀末~1511)は、明が15世紀にはいって鄭和を数回にわたってインド洋地域へ遠征させた際(1405~33)の重要な拠点となったことから、国際交易都市として大きく発展した。この王国は、明のうしろ楯を得てタイのアユタヤ朝への従属から脱し、かわって明と朝貢関係を結んだ。その後、明は対外活動を縮小させていく方向に転じ、鄭和の遠征もとだえたために、15世紀半ばにタイの勢力がマラッカ支配の回復をこころみた。しかし、マラッカの王はイスラームを旗印に、西方のイスラーム商業勢力との関係を強化することでそれを阻止した。そのことが、15世紀後半のマラッカ王国の有力化とイスラームの拡大の契機となった。
 マラッカを拠点にして、イスラームはジャワやフィリピンへと広まった。イスラーム政権として、スマトラではアチェ王国(Aceh, 15世紀末~1903)が成立し、ジャワではヒンドゥーのマジャパヒト王国の滅亡後、イスラームのマタラム王国(Mataram, 1580年代末頃~1755)が成立した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、112頁~114頁)

第Ⅲ部 第7章 アジア諸地域の繁栄
1 東アジア世界の動向


【明の朝貢世界】
 明を中心とする朝貢貿易は、東アジアからインド洋にいたる広い範囲で活発におこなわれた。とくに15世紀初めに中山王によって統一された琉球(現在の沖縄)は、明との朝貢貿易で得た物資をもちいて東シナ海と南シナ海とを結ぶ貿易の要となった。14世紀末頃マレー半島南西部に成立したマラッカ王国も、鄭和の遠征をきっかけに急成長し、インド洋と東南アジアを中継する位置を利用して、ジャワのマジャパヒト王国にかわる東南アジア最大の貿易拠点となった。
 朝鮮は、明の重要な朝貢国の一つであり、科挙の整備や朱子学の導入など、明の制度を取り入れた改革をおこなった。15世紀前半の世宗(在位1418~50)のときには、金属活字による出版や訓民正音(ハングル)の制定など、特色ある文化事業がさかんにおこなわれた。日本でも遣唐使停止以来とだえていた中国への朝貢が明初に復活し、室町幕府の3代将軍足利義満(1358
~1408, 在位1368~94)は明から「日本国王」に封ぜられ、明との勘合貿易を始めた。明軍を撃退して独立したベトナムの黎朝(1428~1527, 1532~1789)も明と朝貢関係を結び、明の制度を取り入れ、朱子学を振興して支配を固めた。

【朝貢体制の動揺】
 16世紀になると、大航海時代の世界的な商業の活発化が明を中心とする朝貢体制を動揺させた。東南アジアでは胡椒など香辛料の輸出が大幅にのび、貿易の利益をめぐって、ヨーロッパ勢力や、アチェ王国、ビルマのタウングー(Toungu, トゥングー)朝(1531~1752)など新興の交易国家が争いをくりひろげた。これらの新興国家は、明の権威にたよらずみずから軍事力を強化して、勢力を拡大しようとした。(中略)
 また中国の貿易商人たちは、東南アジア各地に進出して中国人町をつくった。東アジア・東南アジアにおける明の権威は弱まり、貿易の利益を求める勢力がみずから軍事力をそなえて競争する実力抗争の時代となった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、180頁~182頁)

4 ムガル帝国の興隆と東南アジア交易の発展


【東南アジア交易の発展】
 東南アジア地域では、16世紀にはいってヨーロッパの諸勢力があらたに進出しはじめた。マラッカ王国は1511年に優勢な海軍力をもつポルトガルに占領され、王はその後拠点を転々と移動させた。他方、強権的な貿易管理体制をとるポルトガルに対して、ムスリム商人たちは拠点を移動させて対抗し、アチェ王国やマタラム王国などの諸港があらたな交易中心地として発展した。また大陸部では、タイのアユタヤ朝(Ayuthaya, 1351~1767)やビルマのタウングー朝などが、米や鹿皮をはじめとする特産物交易により繁栄を続けた。
 ポルトガルにつづいて東南アジアに進出したのは、スペインであった。スペインは16世紀後半からフィリピンへの侵略を開始し、マニラに根拠地をおいて交易と支配をおこなった。スペイン支配下のアメリカ大陸で大量の金・銀が生産されるなか、マニラはメキシコのアカプルコとガレオン船によって太平洋をこえて結ばれた。マニラは中国をはじめとする南シナ海諸地域とアメリカ大陸とのあいだの重要な中継拠点となり、ここからアカプルコへは中国産の絹や陶磁器、インド産綿布などが、アカプルコからは大量のメキシコ銀がそれぞれ運ばれた。メキシコ銀は、日本銀とともに、ポルトガルが拠点をおくマカオなどを経由して中国に流入することになり、海上交易は盛んになった。
 16世紀末以降、日本は朱印船を盛んにフィリピン・ベトナム・タイなどに来航させたこともあって、東南アジアの交易活動はさらに活発化した。またオランダやイギリスなどの国々も、香辛料などの特産物がヨーロッパにおいて大きな需要があったため、東インド会社を設立して交易活動に参加しはじめた。オランダとイギリスはたがいに競争しながら、ポルトガルやスペインをおさえ、東南アジアからインドに勢力をのばしていった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、199頁~200頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


東南アジアの歴史~高校世界史より


1 Formation of the Three Maritime Worlds
■The South China Sea ; The Sea of Chinese Merchants

The Yuan dynasty(元朝), which destroyed the Southern Song dynasty(南宋) in 1279,
tried to military control over the maritime routes as they had over the land routes, in order
to continue to control the South China Sea trade as during the Song period. The Yuan
dynasty dispatched its legions to Dai Viet(大越国 the Tran dynasty[陳朝]) and Champa
(チャンパー王国) in Vietnam, and Singhasari(シンガサリ王国) in Java. Because
the states in Southeast Asia were forced to pay tribute, they all revolted together against the Yuan.
The army of the Yuan withdrew from Vietnam and Java, and its campaign ended in failure. Those were the same results as the expeditions against Japan.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、150頁)


3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
■Development of Port Polities
Although the Chinese economy lagged temporarily by the violent upheavals in China
in the end of the Tang(唐) dynasty, it recovered quickly under the Song. The South Sea
trade(南海交易) increased after the end of the 10th century. This brought big changes
to Southeast Asia.
In northern Vietnam, the Annan Protectorate(安南都護府) in Hanoi was dissolved
with ruin of the Tang dynasty. The junk ships which left South Chinese ports sailed
directly to Champa ports in central Vietnam. For this reason, northern Vietnam was
isolated from international trade. At this time, northern Vietnam became independent
of Chinese rule and the archetype of current Vietnam was made.
Instead of northern Vietnam, the Champa kingdom(チャンパー[占城]王国), which
was founded by Cham(チャム) of central Vietnam, prospered as a transit port of the South
China Sea route. Champa exported ivory and agarwood, which could be harvested in
its mountains, to China.
In that same period, on the coast of the Malay peninsula and Sumatra Island along the
Strait of Malacca, there emerged innumerable port polities which had connecting routes
among the South China Sea, the Java Sea and the Indian Ocean. After the 11th century,
a federal state called San-fo-ch’i(三仏斉) was founded. It prospered from tributary trade
with the Song dynasty of China.
After the 11th century, the Kediri kingdom(クディリ王国), located in eastern Java,
prospered. The kingdom connected the Moluccas Islands that produced spices to the Strait
of Malacca. Thereafter, the Shinghasari kingdom(シンガサリ王国) prospered due to
the agricultural development of the inland region Java the relay trade of spices. They had
competed with San-fo-ch’i for hegemony, and by the middle of the 13th century their
influence expanded even to Sumatra. Although the Yuan dynasty attacked and conquered
the Singhasari kingdom at the end of the 13th century, the Javanese army repulsed the
Yuan and a new leader founded the Majapahit kingdom(マジャパヒト王国). The Majapahit
rode a wave of trade development, and overwhelmed San-fo-ch’i in the second half of
the 14th century. Then they controlled the trade of almost the whole area of what is now
Indonesia which ranges from eastern Indonesia, all the Javanese islands to the Sumatra’s
east coast.
Thus, in maritime Southeast Asia since around the 11th century, the port polities unified
the producing inland and port cities and formed vast territories beyond the conventional
rule over the coasts and the sea routes. Their states were strengthened by connecting
international commerce. At this time, the indigenous such as Wayang in Indonesia, Indian
and Islamic culture merged to ethnic cultures. Here, we can see the prototypes of
Southeast Asian island countries of today.

■Reorganization of the Inland States in Southeast Asia
Corresponding to the expansion movement of the port polities, inland states also
continued to expand their territories and came to govern vast domains.
As the Ly dynasty(李朝) of Dai Viet(大越国) built in northern Vietnam at the beginning of the 11th century, it was separated from international trade and not blessed with special produce. Therefore, it made efforts to receive the Chinese civilization, which emphasized
farming, and to consolidate its national strength. It also strove to expand the agricultural
output by cultivating the Red River Delta(紅河[ホン川]デルタ). The Tran dynasty(陳朝)
replaced the Ly in the 13th century and built the network of dykes in the Red River Delta,
thereby creating condition for a large farming population. The farmers of the delta fiercely
resisted three invasions from the Yuan army in the end of the century. The Tran dynasty,
which drove back the Yuan army, advanced south in order to participate in the South China
Sea trade, and it repeatedly invaded Champa, a port polity in the central coastal region,
thereby extending its domain to the south.
At the end of the 14th century, the Ho dynasty(胡朝), which replaced the Tran dynasty,
encouraged the use of the unique Chu Nom characters(チュノム[字喃]) of Vietnam. It also
promoted the translation of Chinese books using the Chu Nom and made efforts to develop
a new bureaucratic nation which appointed bureaucrats only who passed an employment
examination. Although Dai Viet was merged temporarily into the Ming in the early 15th
century, it soon regained its independence under the Le dynasty(黎朝). The Le introduced
Confucianism and built a centralized state which adopted the politico-legal system
(律令制度) modeled after the Chinese system. It merged the Champa kingdom and, by the
17th century, spread its domain almost to the whole area of present day Vietnam.
In Cambodia, since the 9th century, the Khmer kingdom(クメール王国, Angkor dynasty
アンコール朝) succeeded in agricultural exploitation of the plains of Cambodia and northeastern Thailand, and built the big Angkor Thom(アンコール=トム) city in Angkor. Since the beginning of the 12th century, the Khmer collected produce from Cambodia and
Thailand. It advanced into the South China Sea trade by carrying goods through the
Mekong River(メコン川). At the beginning of the 13th century, the Khmer kingdom
dominated the trade routes that connected the vast area around Angkor, including
Cambodia, Thailand, Laos, to the northern Malay peninsula.
The development of the inland trade routes under the Khmer kingdom awoke the Thai
people, who were cultivating rice fields in the basins of great rivers such as the Chao
Phraya(チャオプラヤ) and Salween(サルウィン) Rivers. In the second half of the 13th
century, the Thais became independent of the Khmer in various places, and built a new
trade network. At the end of the 13th century the Sukhothai kingdom(スコータイ王国)
of central Thailand was dominant. The Ayutthaya kingdom(アユタヤ王国), founded in
the middle reaches of the Chao Phraya River, expanded its strength in about the
mid-14th century. It collected and brought inland produce to the Thailand bay
area and carried them to China or Ryukyu, thereby prospering. The king introduced and
protected Theravada Buddhism(上座部仏教). The kingdom brought the district powers in
northern or northeastern Thailand under its control and succeeded in the integration
of the area that roughly corresponds to present day Thailand in the 15th century.
In Burma, the Burmese built the Pagan kingdom(パガン王国) in the middle Irrawaddy
River(イラワディ川) basin in the mid-11th century. This kingdom prospered from trade
which connected the Bay of Bengal(ベンガル湾) and Yunnan(雲南). It also started an
irrigation enterprise, and succeeded in agricultural development of the Burma plain.
The kingdom declined after the invasion of the Yuan army and southern incursions of
the Thai Shans(シャン人) after the end of the 13th century. The Mons(モン人),
who lived in the south of Burma, built port polities, such as Pegu(ペグー) on the Bay of
Bengal coast, and thereby controlled the bay trade.
Thus, in mainland Southeast Asia, the landlocked states built the inland routes and
continued to make their efforts to unify the coastal port polities. This is how the territories
of present nation state were gradually formed.

■Malacca and Zheng He
At the beginning of the 15th century, the emperor Yongle(永楽帝) of Ming conquered
Vietnam. Seven times he sent a large maritime fleet, led by Zheng He(鄭和), to the area
of the countries in Southeast Asia to the East African coast, urging them to pay tribute.
Through these activities, 50 or more countries dispatched tributary envoys to the Ming.
Zheng He, based at Champa, and Malacca (which was a port polity facing the Malacca
Straits), forced every state in Southeast Asia and the Indian Ocean to pay tribute to China.
After the Yongle emperor’s death, the policy of sea control which Zheng pursued did
not last long since the Ming’s foreign policy changed negatively. However, the Malacca
kingdom(マラッカ王国) suppressed the expansion of the Majapahit and Ayutthaya
kingdoms, and continued the tributary trade with China. Furthermore, its king was
converted to Islam, and promoted relations with the western Muslim world. Islam,
which obtained the propagation base at Malacca, spread to the northern coast of Java
along with the spice trade routes. The Muslim merchants carried spices, jewelry and
silver from the Indian Ocean to Malacca; the Chinese merchants brought pottery and
silk from the South China Sea; and the Javanese conveyed spices from Moluccas
Islands(モルッカ諸島, Spice Islands 香料諸島). Malacca became one of the centers
in the developing maritime trade world by connecting the “Muslim merchants’ sea
(ムスリム商人の海)”, the “Chinese merchants’ sea(中国商人の海)” and the distribution
network of Southeast Asia.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、153頁~157頁)


Chapter 13 The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce

Chapter 13 The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
■Portuguese Advance to the Indian Ocean
■Spanish Invasion of the Americas and Its Worldwide Voyage
これらの節に断片的に次のようにある。
In the following year (1511), Portugal occupied Malacca, a center of spice trade, by military power,
and advanced to the Moluccas(モルッカ諸島), the main producing area of spices. This was an attempt
to participate in the Asian trade…

In 1519, Magellan(マゼラン), a Portuguese, started off on a great voyage assisted by the Spanish
king to establish a westward route from Europe to Asia. He passed around the southern
tip of mainland South America (the present Strait of Magellan) into the Pacific Ocean and
three month later, he reached the Philippine Islands in 1521. He declared this land as a
territory of Spain. He died in the battle with natives, but his crew returned to Spain in
1522 via the Indian Ocean and the Cape of Good Hope. Thus the first round-the-world
trip was accomplished and it was proved that the earth was round. In the late 16th century,
Spain established Manila city(マニラ市) in the Luzon Island(ルソン島) of the Philippines.
Later, they made it a intermediary port of the Acapulco trade(アカプルコ貿易), which connected
the ports of Acapulco of Spanish Mexico and China.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、180頁~181頁)

2 World in the Age of Commerce
■Prosperity of Southeast Asia
Asia, Europe and America were widely connected as Portugal and Spain advanced to
the Asian seas. Because of this, trade activities crossing seas in and around Southeast Asia
became even more active.
Malacca was occupied by Portugal in 1511. But the Malay sultanate of Malacca
transferred their trade centers to the islands alongside the Strait of Malacca, and gathered
Muslim merchants there, thus Portuguese Malacca was isolated. Also, Muslim merchants
avoided the Strait of Malacca (which was controlled by Portugal), and developed a new
route which ran from the Indian Ocean to the Java Sea(ジャワ海) by way of the west coast
of Sumatra through the Sunda Strait(スンダ海峡) between Sumatra and Java. This led to
the prosperity of the kingdom of Atjeh(アチェー王国), which was located in the north end of
Sumatra Island facing the Indian Ocean. This also led to the primacy of the kingdom of
Banten(バンテン王国), which was located at the exit of the Sunda Strait and controlled
West Java, a great pepper production area. Both kingdoms were ruled by Muslims, and
Atjeh directly traded with the Ottoman Empire and became a center of Islam in Southeast
Asia. At the same time, another Islamic state, the kingdom of Mataram(マタラム王国),
was established in the middle of Java, and enjoyed prosperity by connecting the rice producing areas of Java and the trade route in the Java Sea.
Since the late 16th century, Spain had crossed the Pacific Ocean and advanced to Manila
in the Philippines. After that, they gradually expanded power and established the Spainish
Philippines. The Muslim powers in Mindanao(ミンダナオ) and the Sulu(スールー)
Archipelago, which were hubs for trade with China in the South China Sea at that time,
opposed the territory expansion and trade monopoly by Spain and also opposed the
propagation by Christians. This was the start of the long conflict lasting until today.
On the other hand, the inland areas came to actively supply rice and tropical products to
the prosperous ports, and this resulted in political restricting.
Burma was fragmented after the fall of the kingdom of Pagan(パガン王国) in the 13th
century. In the first half of 16th century, the kingdom of Toungu(トゥングー王国)
successfully unified the whole country. This kingdom conducted the trade between
the inland sea of Southeast Asia and the Bay of Bengal. At the end of the 16th century
it attacked the kingdom of Ayutthaya and eventually split up. The kingdom of Ayutthaya
(アユタヤ王国), which became independent again at the end of the 16th century, enjoyed
prosperity as a commercial state by supplying rice to the port cities in Southeast Asia,
and also by trading with Japan, China and Portugal, then in the 17th century, with the
Netherlands, England and France. Through large rivers, both kingdoms of Toungu and
Ayutthaya promoted the export of rice and other domestic products to the port city-states
and other foreign countries.
Dai Viet of the Le dynasty(黎朝大越国) in Vietnam had been disintegrated since the
middle of the 16th century. The Trinh lords(鄭氏), “powerful figures of the Le dynasty”
entered Hanoi at the end of the 16th century and re-established the Dai Viet(大越国).
But the Nguyen lords were against the Trinh lords and moved to Hue(フエ) in the middle
part of Vietnam and established the kingdom of Quang Nam(広南[クアンナム]王国).
Both lords actively traded with Portuguese, Dutch and the Japanese ships(Shuinsen
[朱印船貿易], shogunate-licensed trading ships).

■International Trade in the South and East China Sea
The trade zones in the South and East China Seas were largely developed by the new
entry of Portugal and Spain and the large influx of silver produced in Japan.
In Japan, the production of silver rapidly increased by the development of new mines and
the introduction of cupellation, and demand for silk textile became greater since the middle
of the 16th century. The Portuguese, Spanish and Chinese merchants sold raw silk and silk
textiles produced in China at Manila or Nagasaki, then brought Mexican and Japanese
silver to China. Japanese merchants also actively joined international trade. In 1601,
Ieyasu Tokugawa promoted international trade by issuing shogunate’s license to ships
for overseas trade (shogunate-licensed trade). In the first half of the 17th century, Japanese
towns were established at port cities like Hoi An(ホイアン) in Vietnam, Manila in the
Philippines, Phnom Penh(プノンペン) in Cambodia, and Ayutthaya(アユタヤ) in Thailand.
Thailand and Cambodia exported deerskin, Vietnam exported raw silk and other local
specialties to Japan. They also imported silver and copper from Japan.

■The Dutch East India Company
The Netherlands, England and France conducted piracy against Spain and Portugal,
which kept the trading activities under the control of the royal family. In the beginning
of the 17th century, they established the East India Companies(東インド会社) respectively
and earnestly advanced to Asia backed by their army power. The Dutch East India
Company was authorized by the government to monopolize the colony management
and trade of the regions east of the Cape of Good Hope. It was the privileged company
having its own army, forts and monetary system. And at the same time, it was a very
functional organization which could be controlled and freely invested in by merchants.
Holland became independent from Spain in the end of the 16th century and its Dutch
East India Company immediately advanced to the Southeast Asian seas. In 1619, it
established a fort in Batavia(バタヴィア) in Java and made it as a base of Southeast Asian
trade. By taking advantage of the Amboyna Massacre(アンボイナ事件) in 1623, it expelled
English power from this region and took Malacca and Sri Lanka from Portugal. In addition,
the Netherlands established Cape Colony(ケープ植民地) in the southern end of Africa and
opened a new direct route from the Cape of Good Hope to Batavia by way of the Indian
Ocean and the Sunda Strait. It further occupied Taiwan, and then kept it as a base of
East China Sea trade. Particularly, it was the only European power to be permitted to
trade with Japan during that country’s policy of national isolation. So it made a large
fortune by exchanging silk textile and raw silk of China with silver and copper from Japan.
Thus, the Dutch East India Company became the most powerful trade power in the latter
half of the Age of Commerce.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、184頁~186頁)

≪東南アジアの歴史と文化(上)~高校世界史より≫

2023-10-15 18:55:54 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪東南アジアの歴史と文化(上)~高校世界史より≫
(2023年10月15日投稿)

 

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、東南アジア(前近代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]



【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・東南アジアの記述~『世界史B』(東京書籍)より
・東南アジアの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






東南アジアの記述~『世界史B』(東京書籍)より



第6章 東南アジア世界
1 海の道の形成と東南アジア
2 東南アジア諸国家の再編成


第6章1 海の道の形成と東南アジア


【東南アジアの基層文化】
 東南アジアには、前1千年紀に照葉樹林型の稲作が伝わった。稲作の発展を基礎にして、ベトナム北部から中国西南部の雲南省を中心に、スキタイ美術や中国の青銅器文明の影響を受けたドンソン文化とよばれる金属器文化が生まれ、前3世紀から後1世紀ごろに最盛期を迎えた。
 ドンソン文化は東南アジアの川や海のルートを通じて、現在のタイからマレー半島をへてスマトラ、ジャワ、東インドネシアの諸島にまで広がり、盆地では稲作に基礎を置いた小規模な国家が各地につくられた。この文化の特徴である銅鼓の文様には、細長い川船とともに、高床式住居や腰巻き式の衣服、臼と杵で米をつく農民の姿などが描かれており、この時期に、今日にいたる東南アジアの文化の原型が形成されたことがわかる。
 いっぽう、南シナ海やタイランド湾沿岸にはサーフィン文化とよばれる漁撈民の文化が広がり、東南アジアの海と陸を結んだ。こうして紀元前後のころには、東南アジアの海と陸が共通の文化で結ばれるようになった。
 
【海の道のはじまり】
紀元前後、インド洋交易によって興隆した南インドの諸王国の船が、香辛料など東南アジアの生産物を求めて東南アジアに来航するようになった。同じころ、漢のもとでも、華北の都市で香木、香辛料、サイの角、真珠、タイマイなど東南アジア物産の需要がふえていった。
前2世紀末、漢の武帝は華南にあった南越を滅ぼし、その旧領土の広東地方に南海郡、ベトナム北部に交趾郡、ベトナム中部に日南郡を設置して、南海交易の拠点とした。このころには、華南やベトナムの港から沿岸づたいにマレー半島東海岸にすすみ、半島を陸路横断してベンガル湾に出て、南インドに到達する中国商人があらわれた。2世紀半ばには、ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者を名のる者が、日南郡に到着している。東と西の二つの世界を結ぶ海の道が開通した。

【港市国家の誕生】
沿岸航路による海上交易が発展すると、東南アジアの沿岸に、インド洋と南シナ海を中継する港市国家が生まれた。2世紀末までには、ベトナム中部沿岸にサーフィン文化をもとにチャム人のチャンパー(林邑)が、ベトナム南部からカンボジア南部にかけては扶南が建国された。扶南の港オケオの遺跡からは、サンスクリット語を記した錫片や、漢代の中国鏡、2世紀のローマ貨幣が出土して、東アジア、南アジア、地中海の文明がこの地で交わっていたことを示している。
5世紀に入り、中国の南朝が繁栄すると、華中の都市で香辛料など南海の物産の需要が増大した。扶南は海や河川を利用して、東はモルッカ諸島、西はスマトラの港市国家群から、また林邑は背後の山地や平原から熱帯物産を集めて中国に輸出した。こうして東南アジアには、東西の国際市場と連動した港市国家の交易網が形成された。
東西世界とのかかわりが強まるとともに、漢字や儒教など中華文明がベトナム北部に伝わった。また、サンスクリット語や文学作品、ヒンドゥー教、仏教などのインド文明が、その他の諸地域の港市国家に伝わった。それらは、やがて基層の稲作民のドンソン文化や漁撈民のサーフィン文化と融合して、独自な東南アジアの文明が形成された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、106頁~107頁)

第6章2 東南アジア諸国家の再編成


【海の道の発展】
 7世紀に、東方では、隋・唐のもとで長安や洛陽など華北に大規模な諸都市が建設され、華中・華南の開発もすすんだ。大運河の開通はこの華中・華南の海のルートと、華北の陸のルートを結びつけた。また西方では、アッバース朝がその都市文明を発展させていった。
 両世界の都市の需要にこたえて海の東西交易は著しく発展した。これまで通過が困難だったマラッカ海峡に中継港が整備され、安全な航行が可能になった。東西両世界が海で直接結ばれた。多くの西アジア人が、広州など華中・華南の港市に移り住んだ。唐は海の東西交易に対応するため、広州に交易を管理する市舶司を置き、ベトナムに安南都護府を建設し、南海交易の基地とした。

【海路を支配する国家】
 マラッカ海峡が主要ルートになると、マレー人の港市国家群がスマトラのパレンバンを中心に連合し、シュリーヴィジャヤ(Shrivijaya)を建てて、マラッカ海峡を管理した。シュリーヴィジャヤはインドから大乗仏教を導入し、東南アジア、東アジアへの仏教布教センターとなった。南シナ海では、ルートの変更に対応できなかった扶南がおとろえ、かわってベトナム中部にあった林邑が南シナ海交易を主宰して、西方世界の文物や東南アジアの物産を東アジアの市場に運んだ。
 いっぽう、マラッカ海峡のマレー人の勢力は、ジャワ島北岸にも進出し、香辛料の産地であるモルッカ諸島とマラッカ海峡を結んだ。8世紀には、ジャワのマレー人勢力がシャイレンドラ朝(Sailendra)を名のり、強大な海軍力で東南アジアの海路を支配した。8~9世紀、シャイレンドラ朝は、ジャワ中部のボロブドゥールに世界最大級の大乗仏教寺院を建設している。

<ボロブドゥール寺院>
ジャワ島中部に8~9世紀につくられた仏教建築の最高傑作。最下層から地下、地上、天上の3世界をあらわしている。

【内陸国家の発展】
 7世紀中ごろに南インドの稲作技術が東南アジアに伝わって、熱帯サバナ平原の稲作が発展した。こうして東南アジア物産の生産地でもある内陸東南アジアに強大な国家が建設された。
 カンボジアでは、平原のクメール人諸都市とメコン川流域のクメール人諸都市が、それぞれ連合国家を建設した。中国人は前者を陸真臘、後者を水真臘とよんだ。二つの真臘は、インドからヒンドゥー教をさかんに導入するとともに、ベトナム北部の唐の出先である安南都護府と通交し、サバナ平原と南シナ海を結んだ。
 同時期、現在のタイにあたるチャオプラヤ川沿いでは、モン人の港市国家群が連合してドヴァーラヴァティ(Dvaravati)を建て、内陸にその勢力を広げた。ビルマでは、イラワディ川沿いの諸都市が連合してピュー(Pyu)を建設し、西南中国とベンガル湾を陸路で結んだ。ドヴァーラヴァティやピューは、インドから上座部仏教をはじめとした仏教を導入した。
 稲作農業がさかんなジャワ中部の盆地では、8世紀中ごろからジャワ人が古マタラム(Mataram)を建設し、ジャワ海と内陸部を結んだ。この王朝は、ヒンドゥー教をとりいれ、中部ジャワのプランバナン寺院群を建設している。
 このように、7~8世紀には東南アジアの各地域ごとに政治勢力が誕生し、海と陸のルートを連結して、東南アジアの物産を東西の国際市場に結びつけるネットワークを構築した。
 
<南インドの稲作技術>
南インドから西方で一般的な稲作。畑作の作法(さくほう)を稲作に適用したもので、水牛のひく犂(すき)で耕起し、籾(もみ)を直播(ちょくは=じかまき)し、雨季の雨水をためて灌漑する。ビルマ、タイ、カンボジアなどの大面積のサバナ平原の稲作に向く。

<プランバナン寺院群>
9世紀中ごろジャワ島中部につくられたヒンドゥー教寺院群。ロロジョングラン(凍れる炎)寺院。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、108頁~109頁)




第11章2 海と陸の結合―東南アジア世界の発展


【港市国家の発展】
 唐末の中国の大変動により、中国経済は一時的に停滞したが、宋のもとで急速に回復し、10世紀末以降、南海交易が活況を呈した。この情勢は、東南アジアに大きな変化をもたらした。
 ベトナム北部では、唐の衰亡にともなって、ハノイの安南都護府が解体した。新たなジャンク船のルートは、華南の諸港からベトナム中部沿岸のチャンパー王国の港に直航するようになった。このためにベトナム北部は国際交易から孤立した。この時期に、ベトナム北部は中国の支配から独立する。現在のベトナムの原型が生まれた。
 ベトナム北部にかわって、ベトナム中部のチャム人の建てたチャンパー(占城)王国が、南シナ海航路の船の中継港として栄えた。チャンパーは、背後の山地でとれる沈香や象牙などを中国に輸出した。
 同時期、マラッカ海峡沿いのマレー半島やスマトラ島の沿岸には、南シナ海、ジャワ海、インド洋を結ぶ無数の港市国家が生まれていたが、11世紀以後、三仏斉という連合国家をつくり、宋に朝貢して対中国貿易で繁栄した。
 マラッカ海峡と香辛料の産地モルッカ諸島を結ぶジャワ島東部では、11世紀以来、クディリ王国(Kediri, 928~1222)、ついでシンガサリ王国(Singhasari, 1222~92)がジャワ島内陸部の農業発展と香辛料交易の中継で繁栄し、三仏斉と覇権を争っていたが、13世紀中ごろにはスマトラ島にまで勢力を拡大した。13世紀末、元はシンガサリ王国を攻撃したが、ジャワ軍は元軍を撃退し、新しい指導者がマジャパヒト王国(Majapahit, 1293~1520ごろ)を建てた。マジャパヒト王国は交易発展の波にのり、14世紀後半には三仏斉を圧倒して、東インドネシア、ジャワ全島からスマトラ島東海岸に及ぶ、ほぼ現在のインドネシア全域の交易を掌握した。
 このように、11世紀ごろから海の東南アジアでは、港市国家は従来の沿岸部と海路の支配にとどまることなく、内陸の産地と沿岸の港市を統合して広大な領域を形成し、これを国際商業のなかに位置づけた。またこの時期からイスラーム教が本格的に広がるようになり、土着的な文化と、インド文明、イスラーム文明を融合させた民族文化がつくりだされた。現代の島嶼部東南アジア諸国の原型が生まれた。

<東南アジア産の香辛料>
胡椒はインド原産であるが、東南アジアで広く栽培された。ナツメグはモルッカ原産のニクズクの実である。クローブはモルッカ原産で花芽を乾燥させて用いる。
 また、沈香は、沈丁花(じんちょうげ)科の高木が、分泌した樹脂とともに地中で固まって香木になったもの。ベトナム、カンボジア、タイなど熱帯・亜熱帯の森林で採取されるが、きわめて貴重で、現在でももっとも高価な香料の一つである。

<三仏斉>
いくつかの港市国家が三仏斉を名のって宋に朝貢した。三仏斉はマレー半島からスマトラ島にかけての一帯をさすジャーヴァカのアラビア語訛りを音写したものである。唐代のシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)と同一視されたこともあったが、現在では直接の継承関係はないと考えられている。

<人形影絵劇ワヤンという民族文化>
インドネシアのジャワ島などで演じられる人形影絵劇ワヤンは、そうした民族文化を代表する例である。劇の題材は『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などのインド古典をもとにしたものが多い。


【東南アジア内陸国家の再編】
 港市国家の拡大の動きに対応して、内陸の国家群も拡大をつづけ、広大な領域を支配するようになった。
 11世紀はじめにベトナム北部に建てられた大越国の李朝(1009~1225)は、国際交易から切り離され、また国際性のある特産物にもめぐまれなかった。このため、農業を重視する中国文明の受容につとめて国家建設をすすめる一方、紅河(ホン川)デルタの開墾による農業生産の拡大に努めた。13世紀、李朝にかわった陳朝(1225~1400)は、紅河デルタに堤防網を建設し、大きな農業人口を確保した。同世紀末の3次にわたる元軍の侵略に対して、デルタの農民たちははげしく抵抗した。元軍を退けた陳朝は、南シナ海交易に参加するために南下し、中部沿岸の港市国家チャンパーへの侵略をくりかえして、領域を南に広げていった。
 14世紀末、陳朝にかわった胡朝(1400~1407)は、陳朝のころにつくられたベトナム独自の文字チュノム(字喃)の使用を奨励して、漢籍の翻訳をすすめ、また科挙官僚を登用して独自な官僚制国家の整備に努めた。15世紀はじめ、大越は一時明に併合されるが、まもなく黎朝(1428~1527、1532~1789)のもとに独立を回復した。黎朝は、儒教を積極的に導入し、中国にならった官僚制的な中央集権国家を建設した。また、チャンパー王国を併合して、17世紀までに、ほぼ現在のベトナムの領域にまで広がった。
 カンボジアでは9世紀以来、クメール王国(Khmer, アンコール朝 Angkor, 802ごろ~1431ごろ)がカンボジアや東北タイの平原の農業開拓に成功して、アンコールの地に大都市アンコール=トムを建設していた。12世紀に入ると、カンボジアやタイの物産を集荷して、メコン川を通じて南シナ海交易に進出した。クメール王国は13世紀はじめには、アンコールを中心にカンボジアからタイ、ラオス、マレー半島北部にいたる広大な地域を結ぶ交易路を支配下に置いた。
 クメール王国による大陸内部の交易ルートの形成は、チャオプラヤ、サルウィンなど大河川の流域で稲作農業を営んでいたタイ人をめざめさせた。13世紀後半、タイ人は各地でクメールから独立し、新しい交易網をつくりあげていった。13世紀末には中部タイのスコータイ王国(Sukhothai, 1257~1438)が、14世紀中ごろにはチャオプラヤ川中流域におこったアユタヤ王国(Ayuthaya, 1351ごろ~1767)が有力になった。とくにアユタヤ王国は、内陸の物産をタイランド湾沿岸に集め、これを中国や琉球に供給して発展した。また、上座部仏教を導入し、これを保護した。15世紀には北タイや東北タイで敵対する勢力をやぶり、ほぼ現在のタイにあたる地域の統合に成功した。
 ビルマでは、11世紀中ごろにビルマ人がイラワディ川中流域にパガン王国(Pagan, 1044~1287)を建てた。この王国は、雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄し、灌漑事業をおこしてビルマ平原の農業開拓に成功した。また、大乗仏教や密教と混在していた上座部仏教をとくに積極的に保護し、パガンを中心に多数の寺院を建立した。パガン王国は13世紀末以後、元軍の侵略とタイ系のシャン人の南下によって衰退したが、南部のモン人はベンガル湾沿岸にペグー(Pegu)などの港市国家を建設し、ベンガル湾交易を担った。
 このように、大陸部東南アジアでは、内陸国家を内陸ルートを整備し、沿岸の港市国家を統合する努力がすすめられた。しだいに現在の国家領域を形づくられていった。

<アンコール=ワット>
世界最大のヒンドゥー教遺跡。クメール王国の12世紀の王スールヤヴァルマン2世が建設した(のちに仏教寺院)。

<パガンの仏教寺院群>
イラワディ川中流域のパガンには、12世紀以来、3000以上の寺院や仏塔が建造された。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、193頁~196頁)




東南アジアの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


第2章 アジア・アメリカの古代文明
2 東南アジアの諸文明



【インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成】
東南アジアでは、前2千年紀末に、ベトナムやタイ東北部を中心に、青銅器が製作されていた。前4世紀になると、中国の影響下に、ベトナム北部を中心に独特の青銅器や鉄製農具をうみだしたドンソン文化が発展した。青銅製の銅鼓は、中国南部から東南アジアの広い地域で発見されており、当時の文化や交易の広がりを物語っている。
 紀元前後から盛んになるインドや中国との交流のなかで、1世紀末に東南アジア最古の国家ともされる扶南(1世紀末~7世紀)がメコン川下流域に建国された。インドから来航したバラモンと土地の女性が結婚して国をつくったという神話をもつこの国の港オケオでは、ローマ貨幣やインドの神像が出土している。また2世紀末、ベトナムの中部に、チャム人がのちにチャンパー(Champa, 2世紀末~17世紀)と呼ばれる国をたてた。
 4世紀末から5世紀になると、インド船の盛んな活動を背景として、広い地域で「インド化」と呼ばれる諸変化が生じ、各地の政権のなかに、インドの影響が強くみられるようになった。
 大陸部では、6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジア(Cambodia)がおこり、扶南を滅ぼした。この王国は、9世紀以降アンコールに都をおき、12世紀にはヒンドゥー教や仏教の強い影響をうけながらも独自の様式と規模をもつアンコール=ワット(Angkor Wat)を造営した。
 イラワディ川下流域では、9世紀までビルマ(ミャンマー)系のピュー(Phū)人の国があった。11世紀にはパガン朝(Pagan, 1044~1299)がおこり、スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。チャオプラヤ川下流では、7世紀から11世紀頃にかけてモン人によるドヴァーラヴァティー王国(Dvaravati)が発展し、上座部仏教が盛んにおこなわれた。なお、のちの13世紀半ばにタイ北部におこったタイ族最古の王朝であるスコータイ朝(Sukhothai, 13~15世紀)の歴代の王も、上座部仏教を信仰した。
 諸島部でも「インド化」がすすみ、いくつかの王国が成立した。7世紀半ばには、スマトラ島のパレンバンを中心にシュリーヴィジャヤ王国(Srivijaya, 7~14世紀)が成立した。この王国は海上交易に積極的にたずさわり、唐にも朝貢使節を派遣した。義浄はインドへの往復の途中滞在し、仏教が盛んな様子を記している。中部ジャワでは、仏教国のシャイレンドラ朝(Sailendra, 8~9世紀頃)やヒンドゥー国のマタラム王国(Mataram, 732~1222)がうまれた。シャイレンドラ朝のもとでは、仏教寺院ボロブドゥール(Borobudur)が建造されたが、その後、ヒンドゥー教の勢力が強くなっていった。
 ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部地域が中国に服属していたが、独立への動きも強く、10世紀末には北宋に独立を認めさせ、11世紀初めには李氏が大越(ダイベト)国をたて、李朝(1009~1225)を成立させた。しかし、李朝とそれにつづく陳朝(1225~1400)の統治は、いずれも広域支配にはならず、チャンパー勢力とも対立を続けた。中部から南部にかけて長期にわたって勢力を保持したチャンパーは、インド洋から南シナ海を結ぶ海上交易活動にたずさわり、インドの影響を強くうけたいくつもの寺院群を築いた。

<オケオ出土のローマの金貨>
ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの肖像と銘がある。

<「インド化」>
ヒンドゥー教や大乗仏教、王権概念・インド神話・サンスクリット語・インド式建築様式などがまとまって受け入れられた。

<アンコール=ワット>
12世紀前半の王の墓として造営されたクメール建築の代表。主神はヒンドゥー教のヴィシュヌ神であり、回廊には『マハーバーラタ』などの物語が浮き彫りされている。

<ボロブドゥール>
この世界的な仏教遺跡は、20世紀初めからの大規模な復元工事により現在の姿になった。回廊には経典の内容をあらわす多数の浮き彫りがほどこされている。縦・横120m、高さ42m。
上(写真)は上部回廊にならぶ仏像。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、62頁~65頁)

第3章 内陸アジア世界・東アジア世界の形成
3 東アジア文化圏の形成


【唐と隣接諸国】
 唐は周辺地域の多様な要素を取り入れて国際性のある文化をつくりあげ、唐を中心とした東アジア文化圏とも呼ばれる強いまとまりを成立させた。(中略)
 日本でも遣隋使・遣唐使をおくって中国文化の輸入につとめ、大化改新(7世紀半ば)を経て律令国家体制をととのえていった。「日本」という国号や「天皇」号が正式に定められたのは、この時期のことであった。唐の長安にならった都市計画のもと、藤原京につづいて奈良に新都の平城京が建設された。均田制を模倣した土地分配制度(班田収授法)が施行され、中国で使われていた方孔円銭と同じ形の銅銭も発行された。遣唐使は、仏典をもち帰ったほか、唐でつくられたり西アジアやインドから唐に伝わったりした美術品や工芸品を多数日本にもち帰った。こうして、国際的な唐の文化の影響をうけた天平文化が、平城京を中心に栄えた。
 唐の勢力は東南アジアにもおよび、カンボジア・チャンパー・シュリーヴィジャヤなど、インド文化の影響をうけた諸国も唐に朝貢した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、90頁~92頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


東南アジアの歴史~高校世界史より
Chapter 4 :The East Asian World
3 World Empire in the East
■Chinese Civilization Spread
The expansion policy of the Han dynasty(漢) was also directed towards the south. It
destroyed Nanyue(南越) ; introduced a province-prefecture system in the Yunnan region; and expanded its territory to the middle of Vietnam and established nine provinces there
such as Jiaozhi (near Hanoi). However, the political and social situation in the Vietnam
area was always unstable. Northern part of Vietnam became under the control of the
Protectorate General to Pacify the South of the Tang dynasty. In Yunnan, Nanzhao
(南詔) of Tibet-Burma became independent. The center of their movement was Dali.
These states accepted a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty
and introduced Chinese characters and other aspects of Chinese Civilization. Champa
(チャンパー Linyi 林邑) in the middle part of Vietnam, Khmer (クメール Zhenla 真臘)
in the west, and Srivijaya (シュリーヴィジャヤ Sumatra) were under the influence
of India, but maintained a vassal relationship and tribute system with the Tang dynasty.
The Sui and Tang Empires were the only superpowers in East Asia at that time. Other
nations around the empires had to always consider the movement of the empires to keep
their own existence and growth. They adopted Chinese civilization such as Confucianism,
Buddhism, law systems, Chinese characters, and city planning and tried to make Chinese
Civilization to fuse into their own cultures. Thus, in East Asia, one civilized area was
created, where the surrounding nations more or less shared a common base of Chinese
civilization(中華文明).
This East Asian Civilization came into contact with Indian Civilization on the Tibetan
plateau and Southeast Asia.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、74頁~75頁)


Chapter 6 : The Southeast Asian World
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries

Chapter 6 : The Southeast Asian World  東南アジア世界
Southeast Asia which is located in vast region of the southeastern Eurasia
belongs to the hot and humid tropical zone and the subtropical zone. Monsoons
blow from the Indian Ocean in summer and from the South China Sea in winter,
bringing plentiful rainfall to this region. The tropical climate provides a lot of heat.
All of these factors generate its natural environment such as thick forests and big
rivers with huge amounts of water. Corresponding to this environment, areas in
the region share a common set of cultural elements such as villages with raised-
floor houses, wrap-around type clothes and fish and rice eating culture. There is
ancestor worship and animism that worship nature such as mountains, rocks and
trees. This common culture of this region is similar to that of Japan.
The natural environment of Southeast Asia is classified to thre categories.
The mountainous areas in the north are laurel forest lands with many forests, and
their climate is very similar to that of western Japan. The mainland Southeast
Asian region has grasslands of tropical savanna which are good for rice farming.
The archipelago area is covered with tropical forests and yields international
commodities such as spices. The northern mountainous areas and the grasslands
are connected by big rivers namely, from west to east, the Chao Phraya River, the
Irrawaddy River, the Mekong River and the Red River. The islands and the mainland
areas are closely connected by numerous sea routes such as the Strait of Malacca.
There is no common language nor religion in Southeast Asia, and no one political
power historically could consolidate all areas there.
Southeast Asia is surrounded by rich seas such as the South China Sea and the
Indian Ocean, which has rich and large markets. Southeast Asia has been a place to
connect East and West markets via the sea routes. Southeast Asia has been also a
region to produce tropical commodities sought by whole world, such as spices and
ivory in the ascent time, and coffee, sugar and rubber in the modern time. Southeast
Asia is a self-sufficient region and also an international trade area.
Southeast Asia had kept close relations with international markets, being strongly
influenced by adjacent India and China, and yet generated its own culture.
In this chapter, we will see the period to the 8th century when the trade networks
had been developed on the basis of fundamental culture and the produce of
Southeast Asia became connected to international markets.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、85頁~86頁)

Chapter 6 :1 Formatio:n of the Sea Road and Southeast Asia
■Fundamental Culture of Southeast Asia
Rice cultivation of the lucidophyllous forest-type came to Southeast Asia in the 1st
millennium BC. Based on the development of rice cropping, metal culture called Dong Son culture
(ドンソン文化) was born around the northern Vietnam and Yunnan in southwestern China.
Dong Son culture was affected by Scythian art and the Chinese Bronze Age civilization.
Dong Son culture spread over current Thailand through the Malaysian peninsula to
Sumatra, Java and the eastern Indonesian islands on a route of the river and sea of Southeast
Asia. In the basins of these areas, many small states based on rice cultivation, were
founded. Figures of raised-floor houses, wrap-around type clothes, and farmers pounding
rice with mortar and mallet, as well as narrow river boats, were drawn on the bronze drum
which characterized this culture and we can see that the original model of Southeast Asian
culture was formed at that time.
On the other hand, the culture of fisherfolk, called the Sa Huynh culture(サーフィン文化),
spread over the coastal areas of the South Chinese Sea and the Gulf of Thailand, connecting the land
and sea of Southeast Asia together. Before and after the Christian era, the land of Southeast
Asia came to be tied together with sea by a common culture.

■Opening of the Sea Road
Around the beginning of the 1st century AD, the ships of kingdoms of South India, which
prospered in Indian Ocean trade(インド洋交易), came to visit Southeast Asia for its products
including spices. At the same time, under the Han dynasty in the east, the demand for Southeast
Asian products such as fragrant woods, spices, rhinoceros horns, pearls, and hawksbill sea
turtles began to increase in the cities of North China.
At the end of the 2nd century BC, Emperor Wu-di of the Han ruined the Nanyue Kingdom
(南越) in South China. He established command posts in the former region of the kingdom such as
the Nanhai Commandery(南海郡) in the Guangdong area, the Jiaozhi Commandery(交趾郡)
in the northern part of Vietnam and the Rinan Commandery(日南郡) in the central part of Vietnam,
and made them into hubs of the southern sea (Nanhai) trade(南海交易). In those days, the Chinese
merchants advanced along the seashore from the ports in South China and Vietnam to the east coast
of the Malaysian peninsula, and crossed the peninsula on land route. They appeared in the Bay of
Bengal, and arrived at South India. In the mid-2nd century AD, a man who called himself
a messenger of the Roman Emperor Marcus Aurelius Antoninus arrived in the Rinan
Commandery. The sea road(海の道) connecting two worlds of the east and the west was opened to
traffic.

■Birth of a Port Polity
When the maritime trade through coastal sea routes was developed, the port polities(港市国家) were
created on the Southeast Asian coast, which intermediated between the Indian Ocean and
the South China Sea. At the end of the 2nd century, the Champa(林邑) kingdom of Chams,
which was based on the Sa Huynh culture, was built in the central coast of Vietnam. Also,
Funan(扶南) was founded in the area of the southern part of Vietnam and Cambodia. Tin pieces
with Sanskrit characters, the Chinese bronze mirrors in the age of the Han dynasty as
well as Roman coins in the 2nd century were excavated from the remains of Oc-Eo(オケオ) which
was a port of Funan. This indicates that the civilizations of East Asia, South Asia and the
Mediterranean Sea interacted in this area.
When the 5th century began, and the Southern dynasties in China prospered, demands
for products from the southern seas, including spices, increased in the cities of Central
China. Funan collected tropical products from the Moluccas in the east and port polities of
Sumatra in the west by sea and river and exported them to China. The Champa kingdom
also collected such tropical products from plains and mountains behind and delivered them
to China. In this way, in Southeast Asia, East-West international markets were formed,
and trade networks between the port polities were also formed in conjunction with the
international markets.
As the relations with East-West worlds were strengthened, Chinese civilization, including
Chinese characters and Confucianism, was passed along to the northern part of Vietnam.
In addition, Indian civilization, such as Sanskrit, literature, Hinduism and Buddhism, was
passed along to the port polities in Southeast Asia. They were mixed with the Dong Son
culture of agricultural people and the Sa Huynh culture of fisherfolk, and eventually formed
the original Southeast Asian civilization(東南アジア文明).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、86頁~88頁)

2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries

■States Ruling Maritime Routes
When the Strait of Malacca became the principal route, port polity groups formed a
coalition centering around Palembang of Sumatra and built Shrivijaya
(シュリーヴィジャヤ), a maritime state, and to manage the strait. Shrivijaya introduced
Buddhism of India and it became a Buddhism propagation center in Southeast and East
Asia. In the South China Sea, the power of Funan, which could not cope with the change
of the route, weakened, and instead, Champa in the central part of Vietnam, presided over
maritime trade of the South China Sea. It carried merchandise of the western world and
Southeast Asia to the East Asian markets.
On the other hand, the Malays around the Strait of Malacca also went into the northern
coast of Java, and connected the Moluccas, which was a production center of spices, and
the Strait of Malacca. In the 8th century, the Malays in Java established the Sailendra
(“Lord of the Mountain”)dynasty(シャイレンドラ朝), and succeeded Shrivijaya, and ruled
over the Southeast Asian maritime routes with mighty maritime power. In the 9th century,
Shrivijaya of the Sailendra dynasty built the largest Mahayana Buddhism(大乗仏教)
temple in the world in Borobudur(ボロブドゥール) in central Java.

■Development of Inland States
In the mid-7th century, the rice cultivation techniques of South India spread to Southeast
Asia and the rice cropping developed on the tropical savanna plain. A powerful nation
was built in inland Southeast Asia, which was also a production center of Southeast Asian
products.
In Cambodia, the Khmer cities in the plain and the Khmer cities on the Mekong basin
built a coalition state respectively. The Chinese called the former Land Zhenla(陸真臘) and
the latter Water Zhenla(水真臘). Two Zhenlas introduced Hinduism from India and traded
with Protectorate General to Pacify the South (Annan Protectorate) that was a regional
government of the Tang dynasty in northern Vietnam. The savanna plain and the South
China Sea were connected by them.
In the same period, the Mons built the Dvaravati kingdom(ドヴァーラヴァティ) by
unifying port polities along the Chao Phraya River that flows through present-day
Thailand, and expanded powers into inland. In Burma, cities along the Irrawaddy River
were combined together and formed the state. They connected southwestern China with
the Bengal Bay by land route. Both the Dvaravati and the Pyu introduced Buddhism,
mainly the Theravada Buddhism(上座部仏教) from India.
In the basin of central Java, where rice growing agriculture was prosperous,
the Javanese built Old Mataram(古マタラム) in the mid-8th century, and connected
the Java Sea with the inland. Old Mataram adopt Hinduism and built the Prambanan
temple complex(プランバナン寺院群) in central Java. In the 7th and 8th centuries,
political powers were born in each area of Southeast Asia, and by connecting routes
of land and sea, they built a network which connected Southeast Asian products
with the international markets of the East and the West.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、88頁~90頁)


3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
■Development of Port Polities
Although the Chinese economy lagged temporarily by the violent upheavals in China
in the end of the Tang(唐) dynasty, it recovered quickly under the Song. The South Sea
trade(南海交易) increased after the end of the 10th century. This brought big changes
to Southeast Asia.
In northern Vietnam, the Annan Protectorate(安南都護府) in Hanoi was dissolved
with ruin of the Tang dynasty. The junk ships which left South Chinese ports sailed
directly to Champa ports in central Vietnam. For this reason, northern Vietnam was
isolated from international trade. At this time, northern Vietnam became independent
of Chinese rule and the archetype of current Vietnam was made.
Instead of northern Vietnam, the Champa kingdom(チャンパー[占城]王国), which
was founded by Cham(チャム) of central Vietnam, prospered as a transit port of the South
China Sea route. Champa exported ivory and agarwood, which could be harvested in
its mountains, to China.
In that same period, on the coast of the Malay peninsula and Sumatra Island along the
Strait of Malacca, there emerged innumerable port polities which had connecting routes
among the South China Sea, the Java Sea and the Indian Ocean. After the 11th century,
a federal state called San-fo-ch’i(三仏斉) was founded. It prospered from tributary trade
with the Song dynasty of China.
After the 11th century, the Kediri kingdom(クディリ王国), located in eastern Java,
prospered. The kingdom connected the Moluccas Islands that produced spices to the Strait
of Malacca. Thereafter, the Shinghasari kingdom(シンガサリ王国) prospered due to
the agricultural development of the inland region Java the relay trade of spices. They had
competed with San-fo-ch’i for hegemony, and by the middle of the 13th century their
influence expanded even to Sumatra. Although the Yuan dynasty attacked and conquered
the Singhasari kingdom at the end of the 13th century, the Javanese army repulsed the
Yuan and a new leader founded the Majapahit kingdom(マジャパヒト王国). The Majapahit
rode a wave of trade development, and overwhelmed San-fo-ch’i in the second half of
the 14th century. Then they controlled the trade of almost the whole area of what is now
Indonesia which ranges from eastern Indonesia, all the Javanese islands to the Sumatra’s
east coast.
Thus, in maritime Southeast Asia since around the 11th century, the port polities unified
the producing inland and port cities and formed vast territories beyond the conventional
rule over the coasts and the sea routes. Their states were strengthened by connecting
international commerce. At this time, the indigenous such as Wayang in Indonesia, Indian
and Islamic culture merged to ethnic cultures. Here, we can see the prototypes of
Southeast Asian island countries of today.

■Reorganization of the Inland States in Southeast Asia
Corresponding to the expansion movement of the port polities, inland states also
continued to expand their territories and came to govern vast domains.
As the Ly dynasty(李朝) of Dai Viet(大越国) built in northern Vietnam at the beginning of the 11th century, it was separated from international trade and not blessed with special produce. Therefore, it made efforts to receive the Chinese civilization, which emphasized
farming, and to consolidate its national strength. It also strove to expand the agricultural
output by cultivating the Red River Delta(紅河[ホン川]デルタ). The Tran dynasty(陳朝)
replaced the Ly in the 13th century and built the network of dykes in the Red River Delta,
thereby creating condition for a large farming population. The farmers of the delta fiercely
resisted three invasions from the Yuan army in the end of the century. The Tran dynasty,
which drove back the Yuan army, advanced south in order to participate in the South China
Sea trade, and it repeatedly invaded Champa, a port polity in the central coastal region,
thereby extending its domain to the south.
At the end of the 14th century, the Ho dynasty(胡朝), which replaced the Tran dynasty,
encouraged the use of the unique Chu Nom characters(チュノム[字喃]) of Vietnam. It also
promoted the translation of Chinese books using the Chu Nom and made efforts to develop
a new bureaucratic nation which appointed bureaucrats only who passed an employment
examination. Although Dai Viet was merged temporarily into the Ming in the early 15th
century, it soon regained its independence under the Le dynasty(黎朝). The Le introduced
Confucianism and built a centralized state which adopted the politico-legal system
(律令制度) modeled after the Chinese system. It merged the Champa kingdom and, by the
17th century, spread its domain almost to the whole area of present day Vietnam.
In Cambodia, since the 9th century, the Khmer kingdom(クメール王国, Angkor dynasty
アンコール朝) succeeded in agricultural exploitation of the plains of Cambodia and northeastern Thailand, and built the big Angkor Thom(アンコール=トム) city in Angkor. Since the beginning of the 12th century, the Khmer collected produce from Cambodia and
Thailand. It advanced into the South China Sea trade by carrying goods through the
Mekong River(メコン川). At the beginning of the 13th century, the Khmer kingdom
dominated the trade routes that connected the vast area around Angkor, including
Cambodia, Thailand, Laos, to the northern Malay peninsula.
The development of the inland trade routes under the Khmer kingdom awoke the Thai
people, who were cultivating rice fields in the basins of great rivers such as the Chao
Phraya(チャオプラヤ) and Salween(サルウィン) Rivers. In the second half of the 13th
century, the Thais became independent of the Khmer in various places, and built a new
trade network. At the end of the 13th century the Sukhothai kingdom(スコータイ王国)
of central Thailand was dominant. The Ayutthaya kingdom(アユタヤ王国), founded in
the middle reaches of the Chao Phraya River, expanded its strength in about the
mid-14th century. It collected and brought inland produce to the Thailand bay
area and carried them to China or Ryukyu, thereby prospering. The king introduced and
protected Theravada Buddhism(上座部仏教). The kingdom brought the district powers in
northern or northeastern Thailand under its control and succeeded in the integration
of the area that roughly corresponds to present day Thailand in the 15th century.
In Burma, the Burmese built the Pagan kingdom(パガン王国) in the middle Irrawaddy
River(イラワディ川) basin in the mid-11th century. This kingdom prospered from trade
which connected the Bay of Bengal(ベンガル湾) and Yunnan(雲南). It also started an
irrigation enterprise, and succeeded in agricultural development of the Burma plain.
The kingdom declined after the invasion of the Yuan army and southern incursions of
the Thai Shans(シャン人) after the end of the 13th century. The Mons(モン人),
who lived in the south of Burma, built port polities, such as Pegu(ペグー) on the Bay of
Bengal coast, and thereby controlled the bay trade.
Thus, in mainland Southeast Asia, the landlocked states built the inland routes and
continued to make their efforts to unify the coastal port polities. This is how the territories
of present nation state were gradually formed.






≪イスラーム文化~高校世界史より≫

2023-10-08 19:00:50 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪イスラーム文化~高校世界史より≫
(2023年10月8日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、イスラーム文化(文明)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・イスラーム文化(文明)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・イスラーム文化(文明)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






イスラーム文化(文明)の記述~『世界史B』(東京書籍)より



第2編 広域世界の形成と交流
第8章 イスラーム世界の形成
1 イスラーム世界の成立
2 イスラーム世界の発展
3 イスラーム文明

第8章 イスラーム世界の形成
1 イスラーム世界の成立
【預言者ムハンマドとアラブの大征服】
 アラビア半島南部のイエメン地方は、季節風がもたらす降雨のめぐみと、乳香・没薬などの特産品、インド洋交易の収益によって経済的に富み栄え、古くからいくつもの国家が興亡し、独自の文化が発達した。いっぽう、半島の北・中部では、牧畜と商業によって生計を立てる遊牧民(ベドウィン)やオアシス農耕民が多くの集団に分かれてたがいに争い、集合離散をくりかえしていた。彼らアラブ人の間にはユダヤ教やキリスト教を信仰する者もいたが、多くは先祖伝来の多神教を信仰し、各地には神々をまつる神殿が建設された。
 メッカに住むクライシュ族のハーシム家に生まれた商人ムハンマド(Muhammad, 570ごろ~632)は、610年ごろから神の啓示を受けた預言者として宗教活動を開始し、多神教の偶像崇拝を批判して、唯一神アッラー(Allah)への信仰を説くイスラーム教(Islam)を広めた。故郷の有力者らに迫害されたムハンマドは、622年に北方のオアシス都市メディナ(ヤスリブ)へ亡命し、この地に新たなムスリム共同体(umma ウンマ)を成立させた。彼らは多神教徒と数度の戦争を行い、630年にはメッカを征服することに成功した。
 632年にムハンマドが没すると、残された人々は預言者の後継者としてカリフ(Caliph)の役職を設立し、クライシュ族から有力な信徒を選出して、ウンマの指導を任せた(正統カリフ時代 632~661)。第2代正統カリフのウマルは、アラブの大征服とよばれる大規模なジハード(聖戦)を行い、東ローマ帝国からシリアやエジプトなどの肥沃な土地を奪うとともに、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアをやぶって、その領土を獲得した。ムスリム軍が征服した地域には軍営都市(misr ミスル)が建設され、カリフから任命されたアミール(総督)が治安の維持と征服地からの徴税を担当し、兵士には年金(ata アター)が支給された。

【ウマイヤ朝の成立】
 661年に第4代正統カリフのアリー(Ali, 在位656~661)が不満分子によって暗殺されると、彼と対立していたシリア総督のムアーウィヤ(Muawiya, 在位661~680)が政権を握り、それまでの慣例をやぶって、自分の一族であるクライシュ族ウマイヤ家の出身者が代々のカリフ位を世襲する体制を確立した(ウマイヤ朝 Umayya, 661~750)。ウマイヤ朝はダマスカスに都を定め、さらなる征服戦争をおしすすめて、西方ではイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、東方ではアフガニスタンや中央アジアを支配下に組みいれた。また、第5代カリフのアブド=アルマリク(Abd al-Malik, 在位685~705)は、ササン朝や東ローマ帝国の旧官僚が担っていた行政の用語をアラビア語に統一し、独自の金貨・銀貨を鋳造するなどの行政改革を行った。
(下略)

<イスラーム>
イスラームとは「自分のすべてを神にゆだねること(絶対帰依)」を意味するアラビア語で、その信徒はムスリムとよばれる。すべてのムスリムは神の前に平等であり、一般の信徒と神を仲介する聖職者は存在しない。

<イスラーム法>
9世紀以降に整えられたイスラーム法(シャリーア)は、啓典『クルアーン(Quran, コーラン)』と、ムハンマドの言行を伝えた伝承(ハディース)が基盤となっている。イスラーム法は、ムスリムの義務として神・天使・啓典・預言者・来世・天命の六つを信じること(六信)と、信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼の五つを行うこと(五行)を定め、その具体的な方法を規定している。たとえば断食は、ラマダーン月(イスラーム暦の第9月)の1か月間、日中は断食しなければならないとされるが、夜は盛大に飲み食いをする一種の祭りであり、また、旅人、妊婦、病人などは断食を免除されるなど柔軟な規定となっている。イスラーム法はまた、婚姻・相続などの社会規範や、国家や政治指導者に関する政治的規定も含み、国家や社会のあり方を規制している。

<一神教の歴史観>
われわれが学んでいる世界史は、近代になって発達した歴史学・文献学・考古学・言語学などの成果にもとづいている。したがって、前近代の人々が認識していた世界史は現代のものとは大きく異なっているはずである。
 西アジアとヨーロッパの両世界では、一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラーム教が支配的であり、いずれも旧約聖書に描かれた物語を世界史の大枠として共有していた。それによれば、世界の歴史は神による天地創造にはじまり、最初の人間であるアダムとエバ(イヴ)の楽園追放、大洪水とノアの箱舟、バベルの塔の建設と破壊、アブラハムの祝福、ヨセフの受難、モーセのエジプト脱出といった有名な物語をつむぎながら、人類は諸民族に分かれて世界中に広がっていったとされている。
 こうした歴史観にもとづく話は、現代においてなお、30億人をこえる一神教世界の人々に共通の教養としての地位を保持しつづけており、彼らの文化と信念の源泉として強い力をもっている。

<シーア派とスンナ派>
イスラーム教の分派であるシーア派は、もともとアリーの子孫をウンマの指導者(イマーム)と認める政治的党派から出発した。彼らは、アリーの子孫にのみ神の命令を解釈する特別な能力がそなわっていると考え、独自の法学・神学体系を発展させたため、一つの宗派を形成するようになった。のちにイマームの血統がとだえると、法学者(ファキーフ)がイマームの意図にもとづいて信徒を指導するという考え方が生まれ、これが現代のイラン=イスラーム共和国にみられる政治・宗教体制につながっている。
 いっぽう、スンナ派とは、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝とつづいた政権の正統性を認める現状肯定派を母体とし、ウンマのなかで語り伝えられてきた預言者のスンナ(慣行)にしたがって神の命令を解釈しようとする立場をさす。彼らは、特定の人物の判断にではなく、ウンマ全体の合意にこそ神の意志があらわれると考え、10世紀ごろまでにいくつかの法学派・神学派をつくりあげた。こうして形成された、共同体の合意と団結を重視する人々の総体がスンナ派である。
 スンナ派とシーア派の間には、長年にわたる闘争の歴史があり、それは現代においても一部の地域でつづいているが、両者とも『クルアーン(コーラン)』の教えにしたがうムスリムとしての立場は共通であり、平和裏に共存している地域も少なくない。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、122頁~123頁、127頁、131頁)



3 イスラーム文明
【イスラーム世界の都市と商業】
 7世紀にアラビア半島のメッカに生まれたイスラーム教には、もともと、商業を卑しめる考えがなかった。古代オリエント文明をひきついで、商業が高度に発達していた西アジアや北アフリカで主要な宗教となったのちも、イスラーム教は公正な取引など商人の倫理を重んじる宗教として発展していった。メッカに巡礼に行くことがムスリムの義務の一つに定められていたため、巡礼を目的としたムスリムの移動を禁じることは、イスラーム世界の支配者にはできなかった。イスラーム世界を縦横に走るメッカへの巡礼路は、同時に、商業のための道であり、また学問を求める旅の道でもあった。支配者は、巡礼路の安全を確保して、人、もの、情報の自由な移動を促進することが期待されていた。このようなイスラーム教に支えられたイスラーム文明は、商業を中心とする、高度に発達した都市文明としての性格を色濃くもっていた。
 西アジア・北アフリカの都市周辺の農村では、灌漑農業が発達して、小麦、大麦などの穀物や、ナツメヤシ、ブドウなどの果樹が栽培されていた。9世紀以降になると米の生産もさかんになり、サトウキビ、バナナ、オレンジなど、南アジアや東南アジア原産の農作物も栽培されるようになった。これらの農作物は、自給自足のためだけではなく、都市民に売る商品として生産され、農場の経営者は、1年契約の農場労働者を雇うなどして、経営にあたった。
 都市は、都市民が生産する手工業製品と農産物の取引を中心とする地域経済の中心であったが、同時に、都市間交易や遠隔地交易の拠点でもあった。遠距離の大規模な商取引のために、共同出資や小切手・手形といった決済手段などの商業システムが、イスラーム法のもとで整備された。交易網はイスラーム世界をこえて、東南アジア、中国、アフリカ、ヨーロッパにもムスリム商人が進出し、イスラーム法が国際取引の法として機能した。
 イスラーム世界の中心となる大都市の人口は数十万人規模で、人口十数万人から数万人規模の都市は各地に数多くあった。都市の中心部にはモスク(mosque, 礼拝所)と常設店舗市があり、隣接して外部から訪れる商人のための隊商宿(キャラヴァンサライ karvansaray)、町の人や旅人が利用する公衆浴場や公衆便所があった。
 住宅や店舗は賃貸物件が多かった。支配者や裕福な商人は、賃貸アパートや賃貸商店街を建設したが、それを私有せずに公共のための信託財産(ワクフ waqf)とした。モスクやマドラサ(学院)、道路などの公共施設は、ワクフからの収入によって維持されていた。
 
【マドラサとウラマー】
 ギリシア語による学問をアラビア語で発達させた分野を、イスラーム世界では「外来の学問」とよんだ。これとは別に、イスラーム法学を中心とする「固有の学問」とよばれた領域があった。法の基礎である『クルアーン』(コーラン)がアラビア語で記されているため、アラビア語の文法学と詩学が、固有の学問の基礎であった。さらに、クルアーン解釈学やムハンマドの言行などの伝承(ハディース)を学ぶ伝承学が発達し、それらを基盤として法学があった。スンナ派では、四つの法学派が成立し、それぞれがたがいを認めながらも、独自な法学体系をつくっていった。また、イスラーム世界の歴史を学ぶ歴史学も発達し、タバリー(Tabari, 839~923)は『預言者たちと諸王の歴史』を編纂し、イブン=ハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332~1406)は『世界史序説』を著して、「文明の民(都市民)と粗野な民(荒野の民)との関係を通じて歴史が展開する」という独自の歴史理論を展開した。ガザーリー(Ghazali, 1058~1111)が神秘主義を理論化したことにより、神秘主義も学問の一つの領域となった。
 法学を中心に、固有の学問を教授する機関としてマドラサ(madrasa)が、11世紀ごろから各地に設けられた。シーア派のマドラサであったカイロのアズハル学院も、アイユーブ朝の時代からは、スンナ派の学院として名声を誇った。マドラサで学問を修めた者はウラマー(ulama, 宗教知識人)とよばれ、裁判官(カーディー)、教師、礼拝の指導者などをつとめ、社会のエリートとして大きな影響力をもった。
 マドラサの講義は、イスラーム世界全体で共通していて、どこで学んでも、同じ教養を身につけることができた。同じ教養をもち、同じ方法論で法判断をするウラマーの存在が、政治的な分裂にもかかわらず、イスラーム世界が一体性を維持してきた最大の要因であった。教養あるウラマーになるためには、なるべく多くの地域で学ぶことが望まれ、また教養あるウラマーは各地を遍歴して教えていた。『三大陸周遊記』で知られるイブン=バットゥータ(Ibn Battuta,
1304~68/69)は、イスラーム的知識人であるウラマーの一人である。
 
【イスラーム世界の芸術】
 文学では、詩が著しく発達した。アラビア語の詩に加えて、9世紀後半からはペルシア語の詩がさかんにつくられ、四行詩の『ルバイヤート』を著したウマル=ハイヤーム(Umar Khayyam, 1048~1131)など、多数の詩人が輩出した。散文学では『千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)』など大衆文芸が好まれた。
 美術面では、偶像崇拝を否定するイスラーム教の影響から、絵画や彫刻などの造形美術は未発達であった。アラベスク(arabesque)とよばれる幾何学的な紋様が、建造物、陶器、書籍などを飾り、絵画ではミニアチュール(miniature, 細密画)が広まった。建築ではイスラーム文明を代表する芸術として発展し、高度な技術を駆使したドームと優雅な尖塔(ミナレット)を特徴とするモスクや墓廟が、多数建てられた。

<『千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)』>
16世紀のマムルーク朝の時代までに現在の形となったアラビア語の長大な説話集。アッバース朝のハールーン=アッラシードなど、実在の人物も登場する。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、132頁~135頁)



【8世紀の世界 文明世界の成立】
 古代の帝国が民族移動などで解体したのち、8世紀にはふたたび広大な領域を支配する帝国が繁栄し、その帝国を中心として一つの文明を共有する広域の文明世界が成立した。東アジアには儒教・仏教の唐が、中央アジアから北アフリカにはイスラーム教のアッバース朝が、東ヨーロッパにはキリスト教のビザンツ帝国が栄え、それぞれ東アジア世界、イスラーム世界、東ヨーロッパ世界が形成された。また、フランク王国は、イスラーム勢力の侵攻を防ぎ、ビザンツ皇帝と対立するローマ教会との結びつきを強めて西ヨーロッパ世界をまとめていった。
 唐は周辺諸国に大きな影響を与え、東アジア諸国は律令、漢字、儒教、仏教などを受容した。首都の長安は、諸外国の使節や留学生のほか、ソグド人、イラン人、アラブ人などの商人が訪れ、仏教、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの寺院も建てられた国際都市となった。広大な領域を支配したアッバース朝のもとではイスラーム法にもとづく統治がめざされ、さまざまな学問の研究がすすめられた。また、ムスリム商人は、ユーラシア大陸、アフリカ大陸の陸上交易や、インド洋、南シナ海の海上交易で活躍した。首都バグダードは学芸の中心地であるとともに、世界各地の物産が市場(バザール)の店頭を飾る国際都市として栄えた。ビザンツ帝国は、皇帝が教会を支配する独自の世界をきずいた。首都コンスタンティノープルは、絹織物など各種の手工業や商業がさかんで、貨幣経済は繁栄をつづけ、国際的な交易都市として栄えた。

<アーヘンの大聖堂>
ベルギーに近接するドイツ北西部の都市。フランク王国のカール大帝がしばしばこの地に滞在し、王宮、大聖堂を建てた。

<聖(ハギア)ソフィア大聖堂>
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに6世紀に建てられた円蓋のある大聖堂。円蓋の直径は32mにも達する。

<ウマイヤ=モスク>
8世紀前半にダマスカスに完成した現存する世界最古のモスク。もとはキリスト教の教会であったが、モスクとして増改築された。

<唐を訪れた外国使節>
唐の都長安には遠方より多くの使節が貢ぎ物をささげてやってきた。左の3人は接待をしている唐の役人で、右の3人が外国使節。黒服の人物はビザンツ帝国のの使者、その右が新羅の使者と考えられている。

<新羅の古墳公園>
新羅は7世紀後半に百済、高句麗を倒して半島全域を統一した。唐の冊封を受け、中国の制度を導入し、仏教文化を開花させた。

<遣唐使船>
7世紀前半にはじまった遣唐使は、唐の文化や政治制度の摂取に努めた。小型の4隻の船で渡航するのが一般的であった。

※なお、「8世紀の世界」の地図には、シャイレンドラ朝のボロブドゥールが記されている!
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、136頁~137頁)


イスラーム文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より



第Ⅱ部 第Ⅱ部概観
第4章 イスラーム世界の形成と発展
1 イスラーム世界の形成
2 イスラーム世界の発展
3 インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
4 イスラーム文明の発展

第Ⅱ部 第Ⅱ部概観
第4章 イスラーム世界の形成と発展
1 イスラーム世界の形成
【イスラーム教の誕生】
 アラビア半島は大部分が砂漠におおわれ、アラブ人は各地に点在するオアシスを中心に古くから遊牧や農業生活を営み、隊商による商業活動をおこなっていた。6世紀後半になると、ササン朝とビザンツ帝国とが戦いをくりかえしたために、東西を結ぶ「オアシスの道」は両国の国境でとだえ、ビザンツ帝国の国力低下とともに、その支配していた紅海貿易も衰えた。そのため「オアシスの道」や「海の道」によって運ばれた各種の商品は、いずれもアラビア半島西部を経由するようになり、メッカの大商人はこの国際的な中継貿易を独占して大きな利益をあげていた。
 この町にうまれたクライシュ(Quraysh)族の商人ムハンマド(Muhammad, 570頃~632)は、610年頃唯一神アッラー(Allah)のことばを授けられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教にかわって、厳格な一神教であるイスラーム教(Islam)をとなえた。しかし富の独占を批判するムハンマドはメッカの大商人による迫害をうけ、622年に少数の信者を率いてメディナに移住し、ここにイスラーム教徒(ムスリム Muslim)の共同体(ウンマ umma)を建設した。この移住をヒジュラ(hijra 聖遷)という。
 630年、ムハンマドは無血のうちにメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバ(Kaba)をイスラーム教の聖殿に定めた。その後アラブの諸部族はつぎつぎとムハンマドの支配下にはいり、その権威のもとにアラビア半島のゆるやかな統一が実現された。
 イスラーム教の聖典『コーラン(Quran)』は、ムハンマドにくだされた神のことばの集成であり、アラビア語で記されている。その教義の中心はアッラーへの絶対的服従(イスラーム)であるが、そのおきては信仰生活だけではなく、政治的・社会的・文化的活動のすべてにおよんでいる。後世の学者たちが、ムスリムの信仰と行為の内容を簡潔にまとめたものが六信五行である。

【イスラーム世界の成立】
ムハンマドの死後、イスラーム教徒は共同体の指導者としてアブー=バクル(Abu Bakr 在位632~634)をカリフ(caliph)に選出した。アラブ人はカリフの指導のもとに大規模な征服活動(ジハード jihad<聖戦>)を開始し、東方ではササン朝を滅ぼし、西方ではシリアとエジプトをビザンツ帝国から奪い、多くのアラブ人が家族をともなって征服地に移住した。しかし、まもなくカリフ権をめぐってイスラーム教徒間に対立がおこり、第4代カリフのアリー(Ali 在位656~66)が暗殺されると、彼と敵対していたシリア総督のムアーウィヤ(Muawiya 在位661~680)は、661年ダマスクスにウマイヤ朝(Umayya 661~750)を開いた。アブー=バクルからアリーまでの4代のカリフを一般に正統カリフ(632~661)という。(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、100頁~103頁)

4 イスラーム文明の発展


【イスラーム文明の特徴】
イスラーム帝国は、古くから多くの先進文明が栄えた地域に建設された。イスラーム文明は、これらの文化遺産と、征服者であるアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語とが融合してうまれた新しい都市文明である。バグダードやカイロなど大都市に発達したこの融合文明は、同時にイスラーム教を核とする普遍的文明であった。そのためこの文明はイスラーム世界のいたるところで受け入れられ、やがて各地の地域的・民族的特色を加えて、イラン=イスラーム文化・トルコ=イスラーム文化・インド=イスラーム文化などが形成された。 
 中世ヨーロッパはイスラーム教には敵対したが、11~13世紀にかけてスペインのトレドを中心に、アラビア語に翻訳された古代ギリシアの文献やアラビア科学・哲学の著作をつぎつぎとラテン語に翻訳し、これを学びとることによって12世紀ルネサンスを開花させた。イスラーム文明は、ギリシア文明をヨーロッパ文明へと橋渡しするうえでも、重要な役割をはたしたのである。
 
【イスラームの社会と文明】
西アジアのイスラーム社会は都市を中心に発展した。各地の都市には軍人・商人・職人・知識人などが住み、信仰と学問・教育の場であるモスクや学院(マドラサ)、および生産と流通の場である市場(スークあるいはバザール)を中心に都市生活が営まれた。またイスラーム帝国の成立によって、これらの都市を結ぶ交通路が整備され、このネットワークをつうじて新しい知識や生産の技術が、短期間のうちに遠隔の地へ伝えられたことが特徴である。
 とくにパピルスや羊皮紙にかわる紙の普及は、イスラーム文明の発展にはかり知れないほどの影響をおよぼした。タラス河畔の戦いを機に唐軍の捕虜から製紙法を学んだイスラーム教徒は、サマルカンド・バグダード・カイロなどに製紙工場を建設し、やがてこの技術はイベリア半島とシチリア島を経て、13世紀頃ヨーロッパに伝えられた。
 また10世紀以後のイスラーム社会では、都市の職人や農民のあいだに、形式的な信仰を排して神との一体感を求める神秘主義(スーフィズム sufism)が盛んになった。12世紀になると、聖者を中心に多くの神秘主義教団が結成され、教団員はムスリム商人の後を追うようにして、アフリカや中国・インド・東南アジアに進出し、各地の習俗を取り入れながらイスラームの信仰を広めていった。
 イスラーム文明の担い手は、都市に住む人々とこれらの神秘主義者たちであった。またカリフやスルタンをはじめとする支配者たちがモスクや学院を建設し、これらの建物に土地や商店の収入をワクフ(waqf)として寄進することによって文化活動を積極的に保護したことも、イスラーム文明の発展をうながす要因の一つであった。
 
【学問と文化活動】
最初に発達したイスラーム教徒の学問は、アラビア語の言語学と、『コーラン』の解釈に基づく神学・法学であった。その補助手段として数多くの伝承(ハディース)が集められ、それが歴史学の発達をうながした。9~10世紀の歴史家タバリー(Tabari, 839~923)は年代記形式の大部な世界史『預言者たちと諸王の歴史』を編纂し、14世紀の歴史学者イブン=ハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332~1406)は『世界史序説』を著して、都市と遊牧民との交流を中心に、王朝興亡の歴史に法則性のあることを論じた。
 イスラーム教徒の学問が飛躍的に発達したのは、9世紀初め以後、バグダードの「知恵の館」(バイト=アルヒクマ)を中心に、ギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。彼らはギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを学び、臨床や観測・実験によってそれらをさらに豊富で正確なものとした。インドからも医学・天文学・数学を学んだが、とくに数学(のちのアラビア数字)と十進法とゼロの概念を取り入れることによって、独創的な成果をあげることができた。フワーリズミー(Khwarizmi, 780頃~850頃)らは代数学と三角法を開発し、これらの成果は錬金術や光学でもちいられた実験方法とともにヨーロッパに伝えられ、近代科学への道を切り開いた。また、『四行詩集』(『ルバイヤート』)の作者ウマル=ハイヤーム(Umar Khayyam, 1048~1131)は数学・天文学にもすぐれ、きわめて正確な太陽暦の作成に関わった。
 イスラーム教徒はギリシア哲学、とくにアリストテレスの哲学を熱心に研究した。イスラーム思想界は、10世紀以後しだいに神秘主義思想の影響を強くうけるようになったが、信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは神学者がギリシア哲学の用語と方法論を学び、合理的で客観的なスンナ派の神学体系を樹立したからである。イスラーム信仰の基礎として神秘主義を容認したガザーリー(Ghazali, 1058~1111)は、このような神学者の代表である。また哲学の分野では、ともに医学者としても有名なイブン=シーナー(Ibn Sina, 980~1037; ラテン名アヴィケンナ Avicenna)とイブン=ルシュド(Ibn Rushd, 1126~98; ラテン名アヴェロエス
Averroes)がいる。
 文学では、詩の分野が大いに発達し、説話文学も数多く書かれたが、アラブ文学を代表する『千夜一夜物語』(『アラビアン=ナイト』)は、インド・イラン・アラビア・ギリシアなどを起源とする説話の集大成であり、16世紀初め頃までにカイロで現在の形にまとめられた。また、メッカ巡礼記を中心とする旅の文学も盛んであり、イブン=バットゥータ(Ibn Battuta, 1304~68/69または77)はモロッコから中国にいたる広大な世界を旅して、帰国後、口述筆記によるアラビア語の『旅行記』(『三大陸周遊記』)を残した。
 ミナレット(光塔)をもつモスク建築は、イスラーム世界に固有な都市景観をうみだしたが、美術・工芸の分野では繊細な細密画(ミニアチュール)や象眼をほどこした金属器、また装飾文様として唐草文やアラビア文字を図案化したアラベスク(arabesque)が発達した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、115頁~119頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



イスラーム文明

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8 :Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
3 Islamic Civilization

1 Establishment of the Islamic World
■The Prophet Muhammad
It was Muhammad(ムハンマド), a native of Mecca in Arabia, who first preached Islam in the
7th century. In the Arabian peninsula, people introduced the technology using groundwater for
irrigation in the 1st millennium BC, and established oasis to live on agriculture in various
parts of Arabia, and because of this, cities developed there as well. At almost the same time,
nomads began to breed camels and engaged in caravan trade in cooperation with the
people of the city. When the monotheistic religions such as Judaism and Christianity had
been transmitted to Arabia since the 4th century, the majority of Arabs(アラブ人), residents of
Arabia, were polytheists who believed in various gods.
Mecca was one of the holy lands of Arabian polytheists, and various gods were enshrined
at the Kaaba(カーバ神殿) in Mecca. Qurayshi people(クライシュ族) in Mecca had become
merchants by organizing caravan trade since the middle of the 6th century and had made a society
centered on commerce.
Muhammad, a Quraysh merchant who believed in the one God(Allah[アッラー] in Arabic),
the same as the one God in Judaism and Christianity (Yahweh in Hebrew), called himself a prophet
after receiving revelation from Allah. He then preached faith in Allah. However, very
few people in Mecca followed his religion, and Muhammad, along with his followers,
were persecuted for their beliefs. Because of this, Muhammad and his followers moved
to Medina (メディナ Yasuribu ヤスリブ) in 622 (hijra[Hegira] ヒジュラ[聖運]). Muhammad
established Islam(イスラーム教) as a new monotheistic religion in Medina, defining unique rituals,
such as praying toward the Kaaba in Mecca. A follower of Islam is called a Muslim(ムスリム).
Muhammad created a Muslim community (umma ウンマ) in Medina, returned to Mecca and
conquered it in 630, placing most of the Arabian peninsula under his political influence in the
following year.

■Conquest by Muslims
After Muhammad died of illness in 632, Muslims made a system that allowed all
members to choose his successor (Caliph カリフ). They then swore allegiance to that person,
thus maintaining unity. The first four Caliphs chosen in this way were called the “Rightly Guided
Caliphs(正統カリフ)”.
Arabs, who became Muslims during this period, embarked on conquest (jihad [holy war]
ジハード[聖戦]) beyond the Arabian peninsula. In those days, Sassanian Persia and the Eastern Roman
Empire battled against each other repeatedly, exhausting themselves in the process. The
Muslim army defeated Sassanian at the Battle of Nahāvand(ニハーヴァンドの戦い) in 642 and
annexed its territory. The Muslim army then attacked Syria and Egypt just after the Eastern Roman
Empire recaptured them from the Sassanians and conquered the lands. Thus a huge empire where
Arabic Muslims ruled over many ethnic groups and believers of various religions was
created.
The Muslim army established military towns (misr ミスル) in the key areas of the land they
conquered. They received tax revenues from the conquered areas in the form of pensions
(ata アター), and continued conquest activities led by a Caliph-appointed Governor-General. The
conquered ethnic groups were guaranteed autonomy, safety, and were allowed to keep their
property as well as retain their own traditional faiths; such as Judaism and Christianity; but
they had to pay poll taxes (jizya ジズヤ) and land taxes(kharaj ハラージュ).

■From the Umayyad to the Abbasid
When Ali(アリー), the 4th Rightly Guided Caliph, was assassinated in 661, Muawiyah
(ムアーウィヤ) of the Umayyad, who was the Governor-General of Syria at the time and was
opposed to Ali, took up the position of the Caliph in Damascus. The Umayyad went on to
monopolize the post of caliph for generations to build the Umayyad dynasty(ウマイヤ朝).
During the Umayyad period, the Muslim army kept conquering from Central Asia in the east to
the Iberian peninsula in the west. This dynasty issued original gold and silver coins to link areas
which had been divided into the Eastern Roman Empire and the Sassanid until then, and made
a large, vast trade zone. Moreover, it established Arabic(アラビア語) as the official language
and built the foundation of the Islamic world…
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、96頁~97頁)

3 Islamic Civilization
■Cities and Commerce in the Islamic World
Islam, born in Mecca in the Arabian peninsula in the 7th century, had no thought of
despising commerce in the beginning. Even after becoming main religion in West Asia
and North Africa, where the commerce had highly developed since Ancient Oriental
civilization, Islam evolved as a religion that respected the ethics, such as fair trade, of the
merchant. Since one of the main duties of Muslims was to go on a pilgrimage to Mecca, the
rulers in the Islamic world could not forbid Muslims to move for purpose of pilgrimage.
The pilgrimage route to Mecca, crisscrossing the Islamic world, was also the route for
commerce, and a road of the trip to seek learning. The rulers were expected to ensure the
safety of pilgrimage routes to promote free movement of people, things and information.
The Islamic civilization supported by Islam had a strong character as a highly developed
urban civilization(都市文明) with a focus on commerce.
In rural villages around cities in the Islamic world of West Asia and North Africa,
irrigated agriculture progressed, and grains such as wheat and barley, and fruits such as
dates and grapes, were being cultivated. Since the 9th century, cultivation of rice also
became active, and agricultural crops of South Asian or Southeast Asian origins such
as sugar cane, bananas and oranges were also being cultivated. These agricultural crops
were produced not only for self-sufficiency but also for sale, and the owners of the farms
employed farm workers under one-year contracts to manage farming.
The city was the center of the regional economy where people traded agricultural
products and handicrafts made by city folk. It was also a base for trade between cities
or with the outlands. The commercial systems, such as joint investments or methods
of payment using checks and bills, were improved for long-distance and large-scale
commercial trade under Islamic law. The trade network was extended outside of the
Islamic world. Muslim merchants(ムスリム商人) would advance to Southeast Asia, China,
Africa, and Europe, and Islamic law functioned as the law of international trade.
Population of large cities, which were the center of the Islamic world, was in hundreds
of thousands; there were many cities with the population of between tens of thousands and
well over a hundred thousand in various places. There were mosques(モスク
places of worship) and permanent market shops at the center of city. Caravanserai
(隊商宿 karvansaray[キャラヴァンサライ]) for merchants coming from outside, and public
baths and toilets for city people and travelers were located next to them.
Most of the houses and stores were rented. Although the rulers and the rich merchants
built apartments and shopping districts for rent, they made them into public trust assets
(waqf ワクフ) without owning them privately. Public facilities, such as mosques, madrasas
(マドラサ institute[学院]), roads, etc. were maintained by the income from waqf.

■Madrasa and Ulama
Some fields of studies, which had originally been in Greek and were developed in
Arabic, were called “foreign studies(外来の学問)” in the Islamic world. Apart from that,
there was a field called “specific studies(固有の学問)” with a focus on Islamic law. Since
the Quran which was the base of law, was written in Arabic, Arabic grammar and poetics
were the base of specific studies. In addition, the study of the Quran and the lore, sayings
and doings of Muhammad (hadith ハーディス) as the base of law, had evolved. For the
Sunni, four law schools were established and they accepted each other but made their own
separate original law systems. In addition, historiography, the learning of the history of
the Islamic world, made progress as well. Tabari(タバリー) compiled History of the
Prophets and the Kings(預言者と諸王の歴史), and Ibn Khaldun(イブン=ハルドゥーン),
representing Introduction to World History(世界史序説), explicated his original theory
of history, namely, “history is expanded through the relationship between the people
of civilization (urban people) and the people of savagery (wild people)”. Mysticism also
became one field of study theorized by Ghazali(ガザーリー).
Madrasas(マドラサ) were built as institutions to teach specific studies, mainly the study
of law, in many places since about the 11th century. The Al-Azhar institute(アズハル学院)
in Cairo, which had been built as a madrasa of the Shia, became proud of its reputation
as an institute of the Sunni since the days of the Ayyubid. People who learned at madrasa
were called ulamas(ウラマー intelligent persons), and served as judges, teachers, leaders
of worship, among other occupations, and were very influential as the elite of society.
As lectures in madrasas were common throughout the Islamic world, people were able
to acquire the same culture regardless of where they learned. The existence of ulamas who
had the same culture and made a legal judgment in the same methodology was the biggest
factor for the Islamic world to maintain the integrity in spite of its political divide. People
should better learn in many places to become cultured ulamas, and cultural ulamas went
to various places to teach. Ibn Battuta(イブン=バットゥータ) known for Rihla;
three continent tour(三大陸周遊記) was typical of the ulama who was an Islamic
intelligent person.

■Art of the Islamic World
Poetry evolved as literature remarkably. In addition to poetry in Arabic, much poetry was
also written in Persian since the second half of the 9th century, and a large number of poets
appeared one after another. For example, Umar Khayyam(ウマル=ハイヤーム), who wrote
Rubaiyat(ルバイヤート) of four-line poetry was one of them. In the field of prose,
mass literature including works such as Stories of the Thousand and One Nights
(Arabian Nights アラビアンナイト 千夜一夜物語) were preferred.
In terms of art, figurative art such as painting and sculptures did not progress because of
the influence of Islam, which prohibited the worship of idols. Geometric patterns
(called Arabesque[アラベスク]) decorated buildings, potteries and books. Miniature
(ミニアチュール) became popular in paintings. Architecture developed as an art
representing the Islamic civilization, and many mosques and Saints Mausoleums which
were characterized by domes and elegant steep towers (minaret ミナレット) were built,
making full use of advanced technology.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、105頁~107頁)

■World in the 8th century
After ancient empires were ruined by migrant movements and others, new
empires appeared again in the 8th century, which governed vast areas. Byzantine
Empire of Christianity, Abbasid dynasty of Islam and Tang dynasty of Confucianism
and Buddhism flourished. And three worlds centering around those empires were
formulated.
Frankish Kingdom 732 Battle of Tours-Poitiers
Byzantine Empire ~Constantinople
Abbasid dynasty 751 Battle of Talas Transmission of papermaking to West
Tang dynasty ~Chang’an
Southeast Asia Borobudur
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、108頁~109頁)

≪インド文化史~高校世界史より≫

2023-10-01 19:00:33 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪インド文化史~高校世界史より≫
(2023年10月1日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、インド文化(文明)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

※インド文化に関連して、福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])には、「日本のなかのヒンドゥー教の神々」と題して、興味深い「コラム」が載せられている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、75頁)

それは、大乗仏教の仏像についてのコラムである。
 大乗仏教はグプタ朝期に、ヒンドゥー教の諸神を仏法の護持神として、その教義のなかにとりこんだ。仏典が漢訳されたときに、諸神は「天」とよばれて、日本に渡来してきた。
 ・川の神で学問・技芸をつかさどるサラスヴァティーが七福神の弁財天になり、もともとはガンジス川のワニを神格化したクンビーラが、航海や漁業の神、金毘羅様になったという。
・大黒天はシヴァの異名マハーカーラの漢訳である。
天神つまり大自在天も、シヴァの異名マヘーシュヴァラのことである。日本の「天神様」は菅原道真のことだが、天神様である道真はいつも牛と一緒だ。これはシヴァの乗り物ナンディ(聖牛)と関係があるのかもしれないという。
・聖天(しょうてん)様はシヴァの子どもで、象の頭をもったガネーシャであり、「寅さん」で有名な柴又の帝釈天は雷神インドラである。
・また、薬師寺所蔵の吉祥天像が有名な吉祥天はヒンドゥー教ではシヴァとならぶ主神ヴィシュヌの妻で、富と豊かさをつかさどるラクシュミーである
・仏教では、吉祥天は毘沙門天(多聞天)の后または妹とされるが、毘沙門天は伝説の神山スメール山(須彌山[しゅみせん])にあって北方世界を守護するヴァイシュラヴァナである。
・速くかけることを「韋駄天走り」というが、韋駄天はシヴァの子で子どもの病気をなおすスカンダである。速足伝説は、鬼が仏舎利を盗んだときに、スカンダがこれを追って取りもどしたという故事にもとづいている。

〇その他に、サンスクリット語(ヒンドゥー文明を代表する言葉)も、大乗仏教の経典の多くがサンスクリット語であったため、仏教用語として日本語のなかに根づいている。
・たとえば「奈落に落ちる」の奈落は地獄を意味するナラカ、墓の後ろに置かれる塔婆は仏塔を意味するストゥーパ、「刹那的」の刹那は瞬間を意味するクシャナが語源である。
・誰もが日本語だと思っている瓦は、実は祭式の皿を意味するカパーラが語源である。
 
〇ヒンドゥー教はインド特有の宗教のようにみえるが、実はその神々と言葉は、日本人の風俗のなかに深くとけこんでいるというのである。

 今回のブログでは、インドの歴史と文化を辿ってみよう。




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・インド文化の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・インド文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






インド文化の記述~『世界史B』(東京書籍)より



第3章 南アジア世界
1 南アジアにおける文明の成立と国家形成
【インダス都市文明】
 前2500年ごろ、インダス川流域を中心にハラッパー、モヘンジョ=ダロ、ドーラー=ヴィーラーなどの多くの都市が生まれた。この都市文明はインダス文明とよばれる。この文明の特徴は、計画的な都市建設にある。整然と区画された道路に沿って、焼成煉瓦づくりの建築が建ちならび、下水道も整備されていた。浴場、会議場、穀物倉庫など公共建築物もつくられ、市街地に隣接して城塞があった。しかし、宮殿や陵墓は発見されず、強大な支配者のいない社会と思われる。遺跡からは赤地黒色彩文でろくろを用いた土器や、滑石に文字(インダス文字)を刻んだ印章が多く出土する。同類の印章はメソポタミアで多く発見されており、両地間の交流がさかんだったことがわかる。インダス文明を担った民族は不明だが、雄牛や菩提樹が崇拝され、すでに南アジア文明の源流がつくられていた。インダス文明は前1800年ごろ、河川流路の変更や気象の変化のために衰退したと考えられている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、66頁)

【アーリヤ人の来住】
 前1500年ごろ、インダス川中流域のパンジャーブ地方に、西北からカイバル峠をこえてインド=ヨーロッパ語系のアーリヤ人(Aryans)が移住してきた。彼らは二輪の戦車を駆使して、先住民と戦いながら各地に進出していった。アーリヤ人は、火や雷などを自然神として崇拝した。この時期に、これらの神々への讃歌を集めた『リグ=ヴェーダ(Rig Veda)』が編纂された。
 前1000年ごろ、アーリヤ人はガンジス川中流域に進出し、森林を焼き払い、稲作を開始した。牧畜社会から定着農耕社会へ移行するとともに、軍事指導者が世襲的な王族・武人階層(クシャトリヤ)を形成した。先住民の信仰や儀礼はアーリヤ人の宗教のなかにとりいれられ、司祭者(バラモン)がつかさどる祭儀は複雑化し、つぎつぎとヴェーダが編纂された。ヴェーダを中心とした宗教をバラモン教という。バラモンは高い権威をもち、人々をバラモン(brahmana)、クシャトリヤ(kshatriya)、一般庶民(ヴァイシャ vaishya)、隷属民(シュードラ shudra)の四つの種姓(ヴァルナ Varna)と枠外の賤民(不可触民)に分ける身分制によって社会を秩序づけようとした。ヴァルナはのちのカースト(caste ジャーティ jati)制度の基礎となった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、66頁~67頁)

【新しい思想の出現】
 前7世紀ごろ、ガンジス川流域では稲作農業や手工業が発展し、商業活動が活発になり、城壁のある都市をもつ国家が数多くつくられた。こうした社会的・経済的な発展を背景に、前6世紀ごろ、哲学的な「ウパニシャッド(Upanishad)」(奥義書)文献が編纂された。そこでは宇宙の根本原理(ブラフマン brahman)と自己(アートマン atman)を合一すれば、業(カルマ karma)によって決定された輪廻からときはなれたれ解脱することができると説かれた。
 業、輪廻、解脱の考えは、前5世紀ごろ、ガウタマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha ブッダ Buddha, 前563ごろ~前483ごろ)によって深められた。現在のインドとネパールの国境周辺で王国を形成していたシャーキャ(釈迦)族の王子として生まれたブッダは、苦の原因から離脱する正しい認識の方法(四諦)と、正しい実践の方法(八正道)を説いて仏教の祖となった。また、マガダ国のクシャトリヤ出身のヴァルダマーナ(Vardhamana マハーヴィーラ Mahavira, 前549ごろ~前477ごろ)は、禁欲的な苦行と徹底的な不殺生により解脱を得るとするジャイナ教を創始した。ヴェーダの権威を批判する仏教やジャイナ教は、保守的なバラモンの支配に不満をもつ商人や王侯に支持され、インド全域に広がった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、67頁)

【最初の統一王朝――マウリヤ朝】
 十六大国といわれた北インドの国家群のなかではコーサラ国(Kosala)とマガダ国(Magadha)がとくに有力であったが、マガダ国が前5世紀ごろにコーサラ国を滅ぼし、前4世紀にはマガダ国がナンダ朝(Nanda)のもとで北インド最大の勢力に成長した。この時期、アケメネス朝ペルシアはインダス川西岸に進出していた。その後、ペルシアを倒したアレクサンドロス大王が前326年までにインダス川流域を制圧し、北西インドは一時彼の大帝国に組みいれられた。いっぽう、マガダ国では前317年ごろ、武将チャンドラグプタ(Chandraguputa, 在位前317ごろ~前269ごろ)がパータリプトラ(現パトナ)を都とするマウリヤ朝(Maurya, 前317ごろ~前180ごろ)を建てた。マウリヤ朝は、西はアフガニスタン南部、東はガンジス川下流域、南はデカン高原にいたるインド最初の大帝国を形成し、第3代アショーカ王(Ashoka, 在位
前268ごろ~前232ごろ)のとき、帝国の領域は最大となった。アショーカ王は仏教の強い影響を受け、その広大な帝国を統治する理念として、不殺生、従順、慈悲などの倫理(法、ダルマ)をかかげ、ダルマの大切さを説く詔勅を各地の言語で崖や石柱に刻んだ。この詔勅刻文は広大な領域の各地で発見されている。しかし、アショーカ王の死後、バラモンなど非仏教勢力の反発もあって、マウリヤ朝は衰退した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、67頁~68頁)

【クシャーナ朝と大乗仏教】
 マウリヤ朝は前2世紀の初頭に滅び、北インドの中央部は4世紀のグプタ朝の成立まで政治的な分裂がつづいた。しかし、この間にも仏教は商人などの都市民の支持を得て、インド各地で栄えた。このころ、仏教は、僧が守るべき戒律の教えや解釈をめぐっていくつかの部派に分かれた(部派仏教)。さらに、衆生の救済を重視し、悟りや知恵を求める修行者を広く菩薩として信仰する大乗仏教がおこった。2世紀ごろ、ナーガールジュナ(Nagarjuna, 竜樹, 2~3世紀)がその教理を体系化した。
 西北インドに接するバクトリアでは、アレクサンドロスの退却後もギリシア系の人々がとどまり、都市国家を形成していた。前2世紀にはいると西北インドに勢力を広げ、仏教をはじめとするインドの文明の影響を受ける一方、ヘレニズム文明をインドに伝えた。前1世紀にはイラン系のサカ人が、後1世紀には、大月氏の支配下にあったクシャーナ族が西北インドを征服した。クシャーナ族が建てたクシャーナ朝(Kushana, 1~3世紀)は、2世紀中ごろにはカニシカ王(Kanishka, 在位130ごろ~170ごろ)が北インドから中央アジアに及ぶ地域を支配し、都のプルシャプラ(現ペシャワール)から東西交易をおさえた。中国の絹、中央アジアの玉がクシャーナ朝領内にもたらされ、ローマに向けて船積みされ、かわりにローマからは金貨がもたらされた。こうしてインド、中央アジア、ペルシア、ギリシアの諸文明がこの地で混じりあった。
 カニシカ王は大乗仏教を手厚く保護し、このころからヘレニズム文明の影響もあって仏像がつくられるようになった。ともにクシャーナ朝の支配下にあった西北インドとガンジス川流域で異なる仏像様式が発展し、ガンダーラ美術とよばれる前者の仏教美術は、大乗仏教とともに東西交易路にのって中央アジアから東アジアに広がった。3世紀、クシャーナ朝はササン朝ペルシアの圧迫により衰亡した。

<ガンダーラ様式の仏像>
髪形や口ひげ、高い鼻といった風貌や衣服のひだなどに、ギリシア彫刻の強い影響がみられる(ガンダーラ出土)。
<マトゥラー様式の仏像>
ガンジス川流域で発展した仏像様式は、同地域におけるクシャーナ朝の支配拠点であったマトゥラーの名をとってマトゥラー様式という。洗練されたガンダーラ様式と異なり、粗削りではあるが力強い作風が特徴的である。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、68頁~69頁)

2インド世界の形成
【グプタ朝と古典文化の開花】
 4世紀前半に、ガンジス川中流域、かつてのマガダ国の故地から台頭したチャンドラグプタ1世(Chandraguputa I 在位320ごろ~335ごろ)がパータリプトラを都としてグプタ朝(Gupta 320ごろ~550ごろ)を建てた。同世紀後半には、チャンドラグプタ2世(Chandraguputa II 在位376ごろ~415ごろ)が北インドの大部分を統一した。
 グプタ朝の時代には、従来のバラモン教に民間信仰や神々をとりいれたヒンドゥー教の基礎が確立した。ヒンドゥー教では、世界保持者で万能の主宰者であるヴィシュヌ(Vishnu)と、破壊と創造の神シヴァ(Shiva)が主神とされた。また、古くから伝承されていた戦争叙事詩『マハーバーラタ』とラーマ王子の物語『ラーマーヤナ』の二大叙事詩がまとめられた。グプタ朝期以前に成立した『マヌ法典』は、ヴァルナごとに人々の生活規範を定め、王の義務や民法、刑法をまとめたもので、大きな影響力をもつようになっていった。
 バラモン教からヒンドゥー教への展開がすすんだころ、バラモンをおもな担い手とする天文学、数学、医学などの諸学問も発展した。とくにインド数学の数字、十進法、ゼロの概念などは、のちにイスラーム世界を通じてヨーロッパに伝えられ、近代数学の基礎となった。サンスクリット語はヴェーダの言語であり、当初は聖なる言葉としてバラモン教の文献でもっぱら用いられていた。しかし、グプタ朝期までには、さまざまな学問の文献や王の事績を記録する碑文などにも広く使われるようになった。文学でも、北インドに詩人カーリダーサ(Kalidasa 
5世紀ごろ)が登場し、仙人の娘シャクンタラーと王の波瀾万丈の恋を描いた戯曲『シャクンタラー』をはじめとする作品をサンスクリット語で著した。こうして、ヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸を中心とするヒンドゥー文明の基礎が確立された。 
 グプタ朝期には仏教も栄え、ナーランダー僧院が仏教教学の中心となった。アジャンター石窟寺院の主要部もこの時代につくられた。この時期の仏像は、優美さとやさしさをもち、グプタ様式とよばれた。また、石窟寺院の壁面は、グプタ様式の彫像を彷彿とさせる仏や神などの姿を描いた絵画でいろどられた。
 グプタ朝は、服属した地方勢力の連合的な性格が強く、その支配は分権的であった。5世紀後半以降、西北インドのフーナ(Huna)が侵入したこともあって地方勢力は自立を強め、6世紀半ばにグプタ朝は瓦解した。フーナは一時的に北インドの広い地域を支配したが、グプタ朝から自立した地方勢力にやぶれ、西北インドに撤退した。

<グプタ様式の仏像>
目を半ば閉じた優美で気品のある顔や、薄い衣を着た体の表現に純インド的な特色がみられる(マトゥラー出土)。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、71頁~72頁)

【ヒンドゥー教と仏教の新展開】
 グプタ朝が衰退したころから、ヒンドゥー教ではシヴァ神やヴィシュヌ神を祀る石造の寺院が本格的に建てられるようになり、寺院で行なわれる諸儀礼が発達した。また、特別な修行や呪文によって超自然的な力や現世利益が獲得できるとする教えも広がった。この教えをタントリズムという。さらに6世紀ごろから、神々への絶対的な帰依を説くバクティの思想が影響をもつようになった。南インドで体系化されたバクティはやがてインド各地に広まり、神への信愛を感情的にうたう数多くの詩文学を生みだした。神への献身的な愛のみが救いをもたらすとするバクティの宗教指導者のなかには、寺院儀礼やカースト制を批判するものもいた。
 同じころ、仏教でもタントリズム的な密教が成立し、東インドを中心に広がった。また、グプタ朝衰退後も諸王朝の保護を受けてナーランダーをはじめとする僧院では教義の研究がすすめられた。しかし密教の発展とともにヒンドゥー教とのちがいが曖昧になったこともあり、仏教はやがてヒンドゥー教に吸収され、インドにおいては衰退した。バクティをかかげた宗教運動が仏教やジャイナ教を攻撃したこともあり、ヒンドゥー教がインド全域の幅広い階層の間に定着することになった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、72頁~73頁)

【地方の発展】
 7世紀前半にハルシャ=ヴァルダナ(Harsha Vardhana, 在位606~647)がカナウジを都として、一時、北インドの大部分を統一したが、その死とともに帝国も解体した。以後、インド各地に諸王国が分立する状況が長くつづいた。この時代、南インドには活発なインド洋交易にも支えられて有力な諸王国が出現した。東海岸ではパッラヴァ朝(Pallava 3世紀~9世紀末)が7世紀から栄え、デカン高原を本拠として8世紀に成立したラーシュトラクータ朝(Rashutrakuta, 754~973)は、西海岸を支配するとともに北インドにも勢力をのばした。11世紀には半島南端のチョーラ朝(Chola, 前3世紀ごろ~13世紀)が有力になり、スリランカやスマトラにも軍を派遣し、インド半島から東のインド洋の覇権を握った。チョーラ朝は海上交易のさらなる発展をめざして中国の宋に使節を派遣し、以後、15世紀まで南インドの諸王国と中国との間で使節の交換が行われた。
 インド各地の諸王国では、グプタ朝の文化が継承されるとともに地域色の強い文化の発展もみられた。サンスクリット語とならんで、さまざまな地域語によっても文学作品が書かれるようになり、ヒンドゥー教の寺院は地域的に特徴のある様式でつくられた。また、農業開発が各地ですすみ、農村を直接支配する領主層が生まれ、農村での分業が発達した。ヴァルナの概念がヒンドゥー教とならんで社会に広く浸透していくとともに、商業や、各種の手工業、サービス業などの職業が世襲化されて各職業集団が固定化し、カースト(caste ジャーティ)制度の基盤が成立した。こうして、ヒンドゥー教とカースト制度を共通の特徴としつつ、政治的にも文化的にも独自性が強い諸地域からなるインド社会の原型が形成された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、73頁~74頁)

【インド文明の広がり】
 東西交易の要衝に位置するインドで成立した宗教や諸学芸は、陸と海の道を通じてアジアの諸地域にもたらされた。大乗仏教と密教は、それぞれ成立間もなくしてインドから東方のアジア諸地域に伝わった。各地の支配者は自らと国家の繁栄を願って大規模な仏教寺院をつくらせた。紀元前後から数世紀の間、仏教を信仰する商人や僧が海と陸の道を通じてユーラシアの東半をさかんに往来し、地域間の交流を促進した。チャンドラグプタ2世期の5世紀初頭にインド、スリランカを歴訪した東晋の僧法顕、7世紀前半にナーランダー僧院で学び、さらにハルシャ=ヴァルダナの宮廷を訪れた唐の僧の玄奘、同じ7世紀の後半に海路でインドに渡り同僧院で学んだ義浄はとくに有名である。この間、インドからも数多くの僧が仏教布教のために東方に向けて旅立ち、中国やチベットでは仏典の翻訳などで活躍した。中国では漢訳された大乗仏教の経典を通して、仏教はさらに朝鮮半島や日本へと広がっていった。こうしたなかで、ガンダーラ様式やグプタ様式も東方に伝わり、中国や朝鮮半島、日本の仏教美術に影響を与えた。グプタ朝期に確立したヒンドゥー教とサンスクリット語による諸学芸もインドをこえて広がり、とくに東南アジアではその伝統文化を構成する一部となった。
 このように、ユーラシアの東半では、仏教やサンスクリット語などのインド生まれの文明を共有することで地域間の交流が促進された。しかし、インドでヒンドゥー教の優位と仏教の衰退が明らかになったころ、イスラーム教とムスリム商人の台頭もあって、そうした状況は大きく転換することとなった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、74頁~75頁)


第13章 ユーラシア諸帝国の繁栄
3 インドの大国―ムガル帝国
【インド=イスラーム文化】
 ムガル帝国時代に、イスラーム教はインド全域に広まり、アクバルをはじめとする歴代皇帝が異教徒に対する融和政策をとったこともあって、ヒンドゥー文化と融合したインド=イスラーム文化が発達した。言語の面では、ペルシア語が公用語とされたが、北インドの地域語(のちのヒンディー語(Hindi))にペルシア語の語彙をとりいれたウルドゥー語(Urdu)も成立した。美術では、イランから入ってきたミニアチュールが、インドの伝統的様式と融合し、主として肖像や花鳥を描くムガル絵画に発展した。建築では、第5代シャー=ジャハーン(Shah Jahan 在位1628~58)が建てたタージ=マハル(Taj Mahal)に代表されるイスラーム建築が発展した。いっぽう、ムガル帝国の平和のもとでヒンドゥー教徒の全インド的な交流が活発化し、多くの巡礼者が訪れる聖地は、寺院などの壮麗な建築物でいろどられるようになった。

<タージ=マハル>
シャー=ジャハーン帝が愛妃ムムターズ=マハルの死をいたんでアグラ郊外に建てた墓廟。
イラン建築を受けついだ、インドの代表的なイスラーム建築である。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、223頁)


インド文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より



第2章 アジア・アメリカの古代文明
1 インドの古典文明
【インド文明の形成】
 インドでもっとも古い文明は、前2600年頃におこった青銅器時代の都市文明であるインダス文明(Indus)である。インダス川流域のモエンジョ=ダローやハラッパーを代表する遺跡は、すぐれた都市計画に基づいてつくられていた。沐浴場や穀物倉をそなえた煉瓦づくりの都市遺跡であり、きわめて広い範囲に分布している。遺跡からは、印章や、ろくろでつくられた彩文土器が発見されている。また、そこでは、現在でも解読されていないインダス文字が使われていた。のちのヒンドゥー教の主神であるシヴァ神の原型や牛の像などもみつかっていることから、インド文明の源流をなすものと考えられている。
 インダス文明は前1800年頃までに衰退したが、その原因は解明されていない。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、53頁~54頁)

【アーリヤ人の進入とガンジス川流域への移動】
 前1500年頃、中央アジアからカイバル峠をこえ、インド=ヨーロッパ語系の牧畜民であるアーリヤ人(Aryans)が、インド西北部のパンジャーブ地方に進入しはじめた。アーリヤ人の社会は、まだ人々のあいだに富や地位の差がうまれていない部族的な社会であった。雷や火などの自然神が崇拝され、さまざまな祭式がとりおこなわれた。それらの宗教的な知識をおさめたインド最古の文献群をヴェーダと呼び、そのうち、賛歌集である「リグ=ヴェーダ(Rigveda)」からは、この時期の多神教的な世界観を知ることができる。
 前1000年をすぎると、アーリヤ人は、より肥沃なガンジス川上流域へ移動を開始した。青銅器にかわり、森林の開墾に適した鉄製の道具が使われるようになり、牛によって引かれる鉄の刃先をつけた木製の犂もうみだされた。また、それまでの大麦や小麦から、稲の栽培が中心におこなわれるようになっていった。

 アーリヤ人と先住民がまじわって社会が成立する過程で、ヴァルナ制と呼ばれる身分的上下観念がうまれた。ヴァルナ制とは、人は、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)、シュードラ(隷属民)という四つの身分にわかれるとする観念である。バラモンたちは、複雑な祭祀を正確にとりおこなわれなければ神々から恩恵をうけることができないとして、自身を最高の身分とした。彼らがつかさどる宗教をバラモン教という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、54頁~55頁)

【都市国家の成長と新しい宗教の展開】
 ヴェーダ時代が終わり、部族社会がくずれると、政治・経済の中心はガンジス川上流域から中・下流域へと移動し、前6世紀頃には城壁でかこまれた都市国家がいくつもうまれた。それらのなかからコーサラ国(Kosala)、つづいてマガダ国(Magadha)が有力となった。
 このような都市国家で勢力をのばしてきた武士階層のクシャトリヤや、商業に従事するヴァイシャの支持を背景にして新しい宗教がうまれ、影響力をもつようになっていった。第一は、仏教である。開祖ガウタマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha 前563頃~前483頃[諸説あり]、尊称はブッダ)は、動物を犠牲に捧げる供儀や難解なヴェーダ祭式、バラモンを最高位とみなすヴァルナ制などを否定した。ガウタマは、心の内面から人々の悩みをとくことを重視し、生前の行為によって死後に別の生をうける過程がくりかえされるとする輪廻転生という迷いの道から、人はいかに脱却するかという解脱の道を説いた。第二は、ヴァルダマーナ(Vardhamana, 前549頃~前477頃)を始祖とするジャイナ教である。ジャイナ教は、仏教と同じく、バラモン教の祭式やヴェーダ聖典の権威を否定した。とくに苦行と不殺生を強調した点に特徴がある。
 こうしたバラモンの権威を否定する新しい動きとならんで、第三に、バラモン教にも改革運動が生じた。それまでの祭式至上主義から転換し、内面の思索を重視したウパニシャッド哲学がそれである。また、この頃から民間信仰を吸収し、ヴェーダの神々にかわってシヴァ神(Siva)やヴィシュヌ神(Vishnu)が主神となるヒンドゥー教がめばえはじめた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、55頁~56頁)

【統一国家の成立】
 前4世紀にあると、マケドニアのアレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼし、さらに西北インドにまで進出した。王はインダス川流域を転戦し、その影響で各地にギリシア系の政権が誕生した。この混乱から前4世紀の終わりに登場したインド最初の統一王朝がマウリヤ朝(Maurya, 前317頃~前180頃)であった。創始者のチャンドラグプタ王(Chandragupta,在位前317~前296頃)は、ガンジス川流域を支配していたマガダ国のナンダ朝(Nanda)を倒して首都をパータリプトラにおいた。つづいてインダス川流域のギリシア勢力を一掃し、さらに西南インドとデカン地方を征服した。
 マウリヤ朝の最盛期を築いたのはアショーカ王(Ashoka, 在位前268頃~前232頃)であった。王は、征服活動の際に多くの犠牲者を出したことを悔い、しだいに仏教に帰依するようになった。そして、武力に訴える征服活動を放棄し、ダルマ(法、まもるべき社会倫理)による統治と平穏な社会をめざして各地に勅令を刻ませた。また、仏典の結集(編纂)や各地への布教をおこなった。しかし官僚組織と軍隊の維持が財政困難をまねいたことや、王家に対するバラモン階層の反発もあり、マウリヤ朝はアショーカ王の死後、衰退した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、56頁~57頁)

【クシャーナ朝と大乗仏教】
 マウリヤ朝の衰退に乗じて、前2世紀にギリシア人勢力がバクトリア地方から西北インドに進出した。つづいてイラン系遊牧民が西北インドに進出し、紀元後1世紀になると今度はバクトリア地方からクシャーン人(Kushans)がインダス川流域にはいってクシャーナ朝(Kusana,1~3世紀)をたてた。2世紀半ばのカニシカ王(Kanishka, 在位130頃~170頃)の時代が最盛期であり、中央アジアからガンジス川中流域にいたる地域を支配した。
 クシャーナ朝は交通路の要衝にあり、国際的な経済活動が活発におこなわれた。ローマとの交易が盛んであり、大量の金がインドにもたらされた。ローマの貨幣を参考にして金貨が大量に発行されたが、貨幣にはイランやギリシア・インドなどの文字や神々が描かれ、活発な東西交流がみられたことを示している。
 紀元前後には、仏教のなかから新しい運動がうまれた。それまでの仏教は、出家者がきびしい修行をおこなって自身の救済を求めるものであった。それに対して、新しい運動では、自身の悟りよりも人々の救済がより重要と考え、出家しないまま修行をおこなう意義を説いた菩薩信仰が広まった。この運動を、あらゆる人々の大きな乗りものという意味をこめてみずから大乗と呼び、旧来の仏教は自身のみの悟りを目的とした利己的なものであると批判し、小乗と呼んだ。また、それまでブッダはおそれ多いものとされ、具体的な像がつくられることはなかったが、ヘレニズム文化の影響をうけ、仏像がうみだされた。クシャーナ朝の保護をうけた大乗仏教は、ガンダーラ(Gandhara)を中心とする仏教美術とともに各地に伝えられ、中央アジアから中国・日本にまで影響を与えた。また、すべてのものは存在せず、ただその名称だけがあると説いた竜樹(ナーガールジュナ Nagarjuna, 生没年不詳)の空(くう)の思想は、その後の仏教思想に大きな影響を与えた。
 クシャーナ朝は3世紀になると、西はイランのササン朝に奪われ、東は地方勢力の台頭をうけて滅亡した。クシャーナ朝とならんで有力であったのは、西北インドから南インドにかけての広い領域で勢力をもったサータヴァーハナ朝(Satavahana, 前1~後3世紀)であった。仏教やジャイナ教の活動が盛んであったこの王朝のもとで、北インドから南インドへ多くのバラモンがまねかれた。その結果、北インドと南インドの文化の交流がすすむことになった。また、ローマとの交易もみられた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、57頁~59頁)

【インド古典文化の黄金期】
 4世紀にはいるとグプタ朝(Gupta, 320頃~550頃)がおこり、チャンドラグプタ2世(Chandraguputa II, 在位376頃~414頃)のときに最盛期を迎え、北インド全域を統治する大王国となった。
 グプタ朝は、分権的な統治体制が特徴であり、支配地域は、中央部の王国の直轄領、従来の支配者がグプタ朝の臣下として統治する地域、および領主が貢納する周辺の属領から構成された。この時代には仏教やジャイナ教が盛んとなり、中国(東晋)から法顕が訪れた。その一方で、一時影響力を失いかけていたバラモンが再び重んじられるようになり、バラモンのことばであるサンスクリット語(Sanskrit)が公用語化され、また、彼らの生活を支えるために村落からの収入が与えられた。
 民間の信仰や慣習を吸収して徐々に形成されていたヒンドゥー教が社会に定着するようになったのも、グプタ朝の時代である。ヒンドゥー教は、シヴァ神やヴィシュヌ神など多くの神々を信仰する多神教である。特定の教義や聖典に基づく宗教ではなく、日々の生活や思考の全体に関わる宗教として、現在にいたるまでインド世界の独自性をつくりあげる一つの土台となっている。
 この時代には、『マヌ法典』や、サンスクリットの二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』などが長い期間をかけてほぼ現在伝えらえるような形に完成した。また宮廷詩人カーリダーサ(Kalidasa, 5世紀)により、戯曲『シャクンタラー』がつくられた。天文学や文法学・数学なども発達し、十進法による数字の表記法やゼロの概念もうみだされ、のちにイスラーム世界に伝えられて自然科学を発展させる基礎となった。美術では、ガンダーラの影響から抜け出て、純インド的な表情をもつグプタ様式が成立し、インド古典文化の黄金期が出現した。都市での経済活動も活発であり、王の像が描かれた金貨や宝貝などさまざまな貨幣が発行された。
 グプタ朝は、中央アジアの遊牧民エフタルの進出により西方との交易が打撃をうけたことや、地方勢力が台頭したことにより衰退し、6世紀半ばに滅亡した。その後、ハルシャ王(Harsha, 在位606~647)がヴァルダナ朝(Vardhana, 606~647)をおこして北インドの大半を支配したが、その死後、急速に衰退した。
 当時の支配者の多くはヒンドゥー教の熱心な信者であったが、信仰に関して排他的ではなく、仏教やジャイナ教にも保護を与えた。たとえば、唐からインドに旅した玄奘(602~664)は、ハルシャ王の厚い保護をうけながらナーランダー僧院で仏教を学び、帰国して『大唐西域記』を著した。また、7世紀後半には義浄(635~713)がインドを訪れ、『南海寄帰内法伝』を著した。しかし、仏教はグプタ朝衰退後の商業活動の不振によって商人からの支援を失い、また、仏教やジャイナ教を攻撃するバクティ運動が6世紀半ばから盛んになったことなどにより、衰退に向かった。
 8世紀からイスラーム勢力が進出してくる10世紀頃までのインドは、地方政権の時代となり、北インドではラージプートと総称されるヒンドゥー諸勢力の抗争が続いた。ベンガル地方の王朝は、ナーランダーを仏教の中心地として復興させ、インドの他地域で衰退していた仏教に最後の繁栄期をもたらした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、59頁~61頁)



第Ⅲ部 第7章 アジア諸地域の繁栄
4 ムガル帝国の興隆と東南アジア交易の発展


【ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化の開花】
 16世紀にはいると、中央アジア出身のティムールの子孫バーブル(Babur, 在位1526~30)が、カーブルを本拠にして北インドに進出しはじめた。バーブルは、1526年のパーニーパット(Panipat)の戦いでデリー=スルタン朝最後のロディー朝の軍に勝利をおさめ、ムガル帝国(Mughal,1526~1858 )の基礎を築いた。
 
 15~16世紀のインド社会では、イスラーム教とヒンドゥー教との融合をはかる信仰が盛んとなった。(中略)
 文化面でも融合への積極的な動きがみられた。ムガル宮廷にはイラン出身者やインド各地から画家がまねかれ、細密画が多数うみだされた。各地の王の宮廷では、地方語による作品がうみだされると同時に、それらの作品のペルシア語への翻訳がすすんだ。公用語のペルシア語がインドの地方語とまざったウルドゥー語も誕生した。また、建築においても、インド様式とイスラーム様式が融合したタージ=マハルなどの壮大な建築が現在に残された。

<タージ=マハル>
ムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーン(在位1628~58)によって妃ムムターズ=マハルのために造営された墓廟。均整のとれた全体の姿はもちろん、大理石をもちいた浮き彫りや透かし彫り、貴石をはめこんだ壁などで装飾され、インド=イスラーム建築の代表とされる。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、197頁~199頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


Chapter 3 The South Asian World 1 Expansion of the North Indian World
■Indus Urban Civilization
Around 2500 BC, many cities such as Harappa(ハラッパ), Mohenjodaro(モヘンジョ=ダロ) and Dholavira(ドーラ=ヴィーラ) sprang up in and around the Indus River basin.
This urban civilization was called the Indus civilization(インダス文明). Characteristics of
this civilization were in a planned urban construction. Along the roads,
which were defined in an orderly manner, houses of fired bricks were constructed and well
maintained sewers were equipped. And public facilities such as baths, conference rooms,
and grain warehouses were also built. Additionally, forts were built adjacent to the city
centers. However, it appears that neither palaces nor tombs will ever be found. It might be
concluded that it was a society without a mighty ruler. Wheel-made pottery with patterns
painted in black on red clay, and steatite seals with inscriptions have been excavated from
the ruins. Although the Indus script(インダス文字) has not yet been deciphered, many similar seals have been found in Mesopotamia. It is believed that there had been active
interaction between the two regions. Little is known about the ethnic groups that played
an important role in the Indus civilization, but we know they worshiped bulls and Bodhi trees. Lingas and statues resembling Siva have been excavated. So, it can be assumed that
the origin of South Asian civilization had been made already. It is thought that around 1800 BC the Indus civilization declined due to the changes of climate and the path of the river.

■Aryan Living
Around 1500 BC, in the Punjab region located in the middle of the Indus basin, the Indo-
European Aryan people(アーリア人) moved through the northwest crossing the Khyber Pass. By making full use of two-wheeled chariots, they went on to conquer the indigenous people. The Aryans worshipped fire, lightning and other forces as gods of nature. During this time, the Rigveda, a collection of hymns to these gods, was compiled.
Around 1000 BC, the Aryans advanced into northeastern India along the Ganges River.
They burned the forest of the river basin and started planting rice. Along with the transition to an agricultural society from pastoral society, military leadership formed a hereditary royal-warrior class (Kshatriya). Indigenous beliefs and rituals were incorporated into the Aryan religion, which developed more complex rituals. Veda scriptures were compiled one after another and increased authority was given to priests
(Brahmins バラモン), who were familiar with the rituals. They divided people into four classes of people(Varnas), namely Brahmin (priests), Kshatriya(warriors クシャトリア), Vaishya (commoners ヴァイシャ) and Shudra (servants シュードラ). There were also
the untouchables ― the lowest people who were outside the other castes. People were
forced to strictly observe this caste system(カースト制). Varna was the basis of the caste
(Jati) system in later ages.

■Emergence of New Ideas
Around the 7th century BC, rice farming and handicrafts developed; commercial activity
in the Ganges River basin became active; and many walled city-states were established.
Around the 6th century BC, within the background of this constant development of society
and the economy, The Upanishads(ウパニシャッド), an esoteric book of philosophical
literature, was compiled. It was preached that when fundamental principles (Brahman)
of the universe and the self (Atman) were combined, people could be free from samsara
(metempsychosis 輪廻) which is determined by the actions (karma 業[カルマ]) and nirvana
(解脱) could be attained.
Around the 5th century BC, the idea of karma, samsara and nirvana were deepened by
Gautama Siddhartha (ガウタマ=シッダールタ, Buddha ブッダ). Born as a prince of the
Shakya tribe, he founded Buddhism(仏教). He taught the correct way to escape the cause
of suffering (Four Noble Truths 四諦) and the correct method of practice
(Eightfold Noble Path 八正道). In addition, Vardhamana (ヴァルダマーナ Mahavira
マハーヴィーラ) born at Kshatriya of Magadha, founded the religion of Jainism
(ジャイナ教). It preached the liberation by ascetic practices and complete non-violence.
Buddhism and Jainism criticized the authority of the Vedas. These two religions spread throughout India, supported by the merchants and princes who were dissatisfied with the dominance of the conservative Brahmin.

■The First Unified Dynasty ―the Maurya Dynasty
Groups of city-states in North India, which had been said to be sixteen great powers
(mahajanapadas), were integrated into two big powers, i.e. the Kosala area and the
Magadha(マガダ) area. The Magadha area annexed the Kosala area in the 5th century BC
and became the greatest force in North India. During this period the Achaemenid Perisian
empire, which advanced to the west bank of the Indus River, had been in contact with the
Magadha country. In 326 BC, the army of Alexander the Great defeated the Persians.
He had advanced to the Indus River basin but turned back due to opposition of his
subordinates. This event gave a great stimulus to the political situation in India.
Then Chandragupta(チャンドラグプタ), a Magadha’s warlord, established
the Maurya dynasty(マウリア朝) around 317 BC with Pataliputra (present Patna)
as its capital. The Maurya dynasty formed the first great empire of India, having its
territory from southern Afghanistan in the west through the reaches of the Ganges
River in the east and to the Deccan plateau in the south. The heart of the empire
in the territory was directly controlled area governed by a vast number of bureaucrats, and royal families were sent to tributary countries of the frontier to govern. At the time of
King Asoka(アショーカ王), the third king, the Empire had the largest territory;
almost all of India except the southernmost part of the peninsula. Strongly influenced by
Buddhism, Asoka followed the philosophy to govern a vast empire with the ethics (law or
Dharma) of non-violence, obedience and mercy. He carved the imperial proclamation of
Dharma into stone pillars and rocks in the local languages. These imperial edicts have
been found all over the vast territory. However, after the death of Asoka, the vast empire
was divided due to the forces opposing Buddhism, including the Brahmin, and the collapse
of the national budget.

■The Kushan Dynasty and Mahayana Buddhism
In the central part of North India, after decline of the Maurya dynasty in the 2nd century
BC, political schism lasted until the establishment of the Gupta dynasty in the 4th century
BC. However, with the support of the people of the cities such as merchants, Buddhism
also flourished in many parts of India during this period. Around this time, the Buddhism
was divided into several sects (Buddhist schools). The Theravada Buddhism(上座部仏教)
spread to Sri Lanka and became the source of Buddhism in Southeast Asia
(Southern Buddhism).
Mahayana Buddhism(大乗仏教), which emphasized the relief of all sentient beings
and the worship of bodhisattvas, began from around the 1st century AD. Around the 2nd
century, Nagarjuna(ナーガールジュナ) formulated its doctrine and Mahayana Buddhism
spread to Central Asia and East Asia through the trade routes (Northern Buddhism).
After the Maurya dynasty went into decline, people from Iran and Greece frequently
invaded northwestern India. In the 1st century BC, the Saka tribes (of Iranian origin) and
Parthians invaded. In the 1st century AD, the Kushana (also of Iranian origin), which was
under the control of the Yuezhi, conquered northwestern India and built the Kushana
dynasty(クシャーナ朝). Around the 2nd century, King Kanishka(カニシカ王) of the Kushana
dynasty dominated the area ranging from the North India to Central Asia. He established
its capital in Purushapura (present Peshawar) and controlled the East-West trade. Chinese
silk and jade from Central Asia were brought to Purushapura to be shipped to Rome.
In exchange, gold coin was brought from Rome to Purushapura. The civilizations of India,
Central Asia, Persia and Greece thus mixed in this area.
King Kanishka supported Mahayana Buddhism, and the anthropomorphic
representations of Buddha were made under the influence of Hellenistic civilization around
this time. The Gandhara style(ガンダーラ様式) of Buddhist art spread from Central Asia
to East Asia through the East-West trade routes, together with Mahayana Buddhism.
In the 3rd century, the Kushana dynasty was ruined by the invasion of the Sasanian Persia.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、55頁~58頁)

Chapter 3 The South Asian World
2 Establishment of the Hindu World
■Development of the South Indian World
As the inland trade between the east and the west became active, marine trade between
the east and the west also became popular from around the 1st century. This is because a
navigation method to make direct, nonstop voyages from the Arabian peninsula to the coast of the Indian peninsula using the monsoon of the Indian Ocean was developed.
Merchants from Syria, Egypt and Abyssinia (Ethiopia) launched their operation in the
Indian Ocean. Through the sea routes, large quantities of spices such as pepper were
exported from India to the Mediterranean world, and Roman gold coins, glass and metalwork were brought from the Mediterranean world to India. A large number of such
gold coins contributed to the development of South India.
In accordance with the development of the Indian Ocean trade, many dynasties were
established in South India. The Satavahana (Andohra) dynasty(サータヴァーハナ朝),
which was established around the 1st century BC in the Deccan plateau, integrated
the east and west coasts of South India at the end of the 2nd century and flourished
by the Indian Ocean trade. Since this dynasty aggressively absorbed the culture of
North India, Buddhism and the Vedic religion (Brahmanism) spread in South India.
Also, at the southern tip of the peninsula, the Chola and Pandyan dynasties lasted
long on the basis of the maritime trade, and the culture based on the Tamil, a Dravidian
language, flourished.
On the other hand, around the 5th century BC, the Sinhalese (of Aryan origin) of North
India came to Sri Lanka and built Sinhalese kingdom(シンハラ王国) around the
4th century BC. Buddhism was introduced to Sri Lanka around the 3rd century BC,
and after that it became a center of preaching Southern Buddhism.
Since around the 2nd century BC, the Tamil in South India came there intermittently.
They are the origin of present Sri Lankan Tamil.

■Establishment of Hinduism and the Gupta Dynasty
In the first half of the 4th century AD, Chandragupta I(チャンドラグプタ1世), who
emerged from the middle reaches of the Ganges River, a homeland of the former Magadha,
built the Gupta dynasty(グプタ朝) with Pataliputra as its capital. In the second half of
that century, a large part of North India was unified under the control of Chandraguputa II
(チャンドラグプタ2世).
In the period of Gupta, various sects which incorporated folk religions to traditional
Vedic, were born and, the basis of Hindu(ヒンドゥー教), a religion peculiar to India,
was established. In the Hindu religion, Vishnu(ヴィシュヌ), which was the preserver of
the universe and almighty God, and Shiva(シヴァ), the God of destruction and creation,
became chief gods replacing Vedic god. In addition, the Mahabharata, a war epic
that had been handed down through the ages, and the Ramayana, a story of Prince Rama,
were compiled. They became popular literature though recitation and plays. Introduced
to Southeast Asia through the sea routes, they had a major impact on the traditional arts
of Southeast Asia. In addition, the Laws of Manu(マヌ法典) were compiled where norms
for the people depending on each Varuna were integrated with obligations of the king, civil
law and the penal code. Since then, the Laws of Manu became the principles and order in
Hindu society.
Brahmins developed astronomy, mathematics and medicine. Particularly of note,
Indian mathematics, such as numerals(数字), the decimal system(十進法) and the concept
of zero(ゼロの概念), was later passed on to Europe through the Islamic world.
These became the basis of modern mathematics. In the court of Gupta, Sanskrit literature
(サンスクリット語) became popular and a poet, Kalidasa wrote a play called Shakuntara.
Thus the foundation of Hindu civilization, which was popularized and survives today,
was established.
Buddhism flourished during the Gupta period and the Naranda monastery
(ナーランダ僧院) became the center of Buddhist learning. The main part of the cave
temples in Ajanta(アジャンター石窟寺院) was also built during this period. Buddha
statues of this period were called Gupta style with grace and kindness. The Gupta style
was exported to the east and became the basis of Buddhist art in China and the Korean
peninsula, as well as Japan.
The Gupta dynasty had strong nature of union from the local forces subjected to the
dynasty and the control was decentralized. In the 5th century, East-West overland trade
declined due to the confusion of the Roman Empire, and local autonomy became enhanced.
When the Ephthalites invaded northwestern India in the middle of the 6th century,
the Gupta dynasty collapsed and North India entered a long period of turmoil..

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、58頁~60頁)

Chapter 12 Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
3 The Mughal Empire; Big Power in India
■Indo-Islamic Culture
In the Mughal Empire’s period, Islam spread over the whole of India, and being
influenced by Hindu culture, Indo-Islamic culture developed. Persian was an official
language, but people in North India spoke Hindi(ヒンディー語), and Urdu(ウルドゥー語)
was formed by incorporating Persian words into Hindi. In the arts, miniatures
(ミニアチュール), which were introduced into the culture from Iran, were transformed
into Mughal pictures with the main subjects of portraits, flowers and birds, and being
influenced by such Mughal one, Hindu drew Rajput pictures(ラージプート絵画).
In architecture, Islamic architecture represented by the Taj Mahal(タージ=マハル),
which the fifth emperor Shah Jahan(シャー=ジャハーン) constructed, developed,
while new style Hindu temples were also built in South India.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、165頁)