歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫

2020-11-23 17:29:03 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その6≫
(2020年11月23日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 「モナ・リザ」はなぜルーヴル美術館にあるのか?
 それは、フランス・ルネサンスを開花させたフランソワ1世が入手したからである。
 もう一歩踏み込んで、フランソワ1世はどのようにして「モナ・リザ」を獲得したのかという問いになると、不明が部分が多いことがわかる。
 19世紀後半のウォルター・ペイター氏のように、フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを招聘して以来、その陳列室にあったという前提で論を進める人もいる。また、レオナルドの遺言執行人メルツィから、フランソワ1世が買い上げたと考える人もいる(この見解は、後述のように、西岡文彦氏の旧著『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)においてとられていたが、新著『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)では修正されている)。

 しかし、1990年代初頭に、サライに関する新たな史料が発見され、フランソワ1世が「モナ・リザ」を買い上げた経緯について、研究が進められてきた。
 この問題について、どのように考えたらよいのか。
 今回のブログでは、私の手元にある文献を通して検討しておきたい。
 具体的には、ダイアン・ヘイルズ氏、ツォルナー氏、サスーン氏、スカイエレーズ氏の著作に述べられた箇所を抽出して、この問題を整理してみた。

 取り扱う文献は、次のものである。
〇西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年
〇Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
〇Frank Zöllner, Leonardo Da Vinci 1452-1519, TASCHEN, 2000.
〇フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年
〇Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishers, 2002.
〇セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナリザの真実――ルーヴル美術館公式コレクション』日本テレビ放送網株式会社、2005年
〇Walter Pater, The Renaissance :Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC., 1893[2005].
〇ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年

※なお、英文の洋書の原文を掲げるので、好学の士に、このブログが「モナ・リザ」探究の“水先案内”の役割を果たせれば、幸いである。
※また、洋書の注釈に掲げられた論文・著作については、筆者は未見であることをお断りしておく。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 西岡文彦氏の著作から
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ダイアン・ヘイルズ氏
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ツォルナー氏
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 サスーン氏
・『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 スカイエレーズ氏
・ウォルター・ペイター氏によるフランソワ1世とレオナルドの関係の捉え方






『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 西岡文彦氏の著作から



西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』(河出書房新社、1994年)において、次のように述べていた。

「レオナルド本人にも、『モナ・リザ』にも未見に終わったヴァザーリだが、レオナルドの死を看取った晩年の弟子フランチェスコ・メルツィには会っている。
メルツィは、レオナルドの最も忠実な弟子であり、師の遺言により、膨大な手記のすべてと絵画と素描(デッサン)全点を贈られている。フランソワ一世は、このメルツィから『モナ・リザ』を買い上げている。」
(西岡文彦氏『二時間のモナ・リザ――謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年、85頁)

この引用にあるように、当初、西岡氏は、フランソワ1世がメルツィから『モナ・リザ』を買い上げたと解説していた。

ところが、ブログ≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫(2020年11月1日投稿)の「弟子サライと『モナ・リザ』 の売却」でも補足したように、弟子サライが『モナ・リザ』を売却していたとする。
すなわち、『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の「6 美少年サライの謎」の中の「モナ・リザは売られていた!」(112頁~117頁)という節では、弟子サライが『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの生前に売却していたという。その要点を記しておく。

〇サライのダ・ヴィンチへの弟子入りは、10歳の時であったという。
・当時、38歳のダ・ヴィンチが、本名ジャン・ジャコモ・デ・カプロッティというこの美少年に付けたあだ名がサライであった。当時の騎士道物語『モルガンテ』に登場する小悪魔サライにちなんでの命名という。
以降、サライは、その盗癖、遊蕩癖にもかかわらず、ダ・ヴィンチの晩年に至るまでの20余年にわたって、寛大な保護を受けている。
・ダ・ヴィンチがフランスに向かった際には、行方をくらました。それにもかかわらず、サライは最晩年の巨匠の周辺に再び姿を現している。師の遺言状はサライに葡萄園の権利を与えている。

〇近年の研究によれば、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの生前すでに、このサライの手に渡っていた可能性が大きいとされている。
・従来、この絵は、画家最愛の作として終生手元に置かれ、ダ・ヴィンチの死によってフランス王室に遺贈されたことになっていた。
・ところが、近年、フランス王室文書の中に、サライに対する莫大な金額の支払い記録が発見され、この定説は崩れ去ってしまう。
・支払い名目は絵画代金となっている。その代金は、ダ・ヴィンチがフランス王室の庇護下にあった3年間の俸給の金額に匹敵する巨額であった。
⇒この巨額に匹敵する絵画といえば、『モナ・リザ』以外には考えられない。

〇支払いは、ダ・ヴィンチの死の前年のことである。
⇒従来から謎となっていたダ・ヴィンチの遺言状に、『モナ・リザ』の記述がないことにも説明がつく。
(つまり、遺言状を書いた時点で、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの手を離れていた)
・ダ・ヴィンチが老いを深めるにつれ、フランス王室は、この絵が遺言によって弟子に遺贈されることに対する懸念を抱き始めていたという。
・サライはその王室の懸念を知って、ダ・ヴィンチの自分に対する溺愛につけ込むかたちで、師の生前にこの絵を獲得することに成功し、フランス王室に売り払っていた可能性が大きいという。

(もしサライでなく、ダ・ヴィンチを看取った弟子メルツィにこの絵が遺贈されていたならば、『モナ・リザ』はフランス王室には売却されず、祖国イタリアに持ち帰られたことは、ほぼ確実であろうと西岡氏も考え直している。
メルツィはダ・ヴィンチから遺贈された膨大な手記をすべて祖国に持ち帰り、生涯をその整理と保管に捧げている)

〇サライのフランス滞在が極端に短いことも、以上の推測を裏付けているという。
・サライは『モナ・リザ』の獲得と販売に必要と思われる程度の期間のみ、師匠のいるフランスに渡っていたとする。

〇フランス王室の秘宝『モナ・リザ』は、ダ・ヴィンチが弟子サライに、いわば生前贈与として与えた遺作であり、早々に現金化されてしまったせいで、フランソワ1世の所蔵となったとベルトラン・ジェスタ氏とセシル・スカイエレーズ氏は結論づけている。

〇美術史学者ベルトラン・ジェスタ氏は、フランス王室文書にサライへの支払い記録があることを発見した。ジェスタ氏は、ルーヴル一画にあるエコール・ド・ルーヴル、つまりルーヴル美術学院の教授で、ルネッサンス研究の権威として知られる。

〇この発見の詳細については、セシル・スカイエレーズ氏の『モナリザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社)という著書で読むことができる。
・スカイエレーズ氏は、ルーヴル美術館絵画部門の主任研究員で、20年来の『モナ・リザ』の主席学芸員でもある。
・なお、『モナリザの真実』は、ルーヴル美術館とフランス国立美術館連盟による共同出版で、ルーヴルの各部門の学芸員が担当分野の論文を発表するシリーズの1冊である。いわば、『モナ・リザ』の公式書籍に近い本である。
・『モナリザの真実』は、ルーヴル美術学院の教授ジェスタ氏と『モナ・リザ』の主席学芸員スカイエレーズ氏が、この絵をめぐるドラマを解き明かした著書であり、その権威とは裏腹に、衝撃的な新事実を教えてくれると西岡氏も推奨している。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、112頁~117頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)


『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ダイアン・ヘイルズ氏



さて、それでは、『モナ・リザ』をフランソワ1世が所有するに至った経緯について、ダイアン・ヘイルズ氏、ツォルナー氏、サスーン氏、そしてスカイエレーズ氏の諸氏はどのように考えているのであろうか。改めて検討してみたい。

まず、ダイアン・ヘイルズ氏は次のように叙述している。

「レオナルド・ダヴィンチの遺品には、また別の問題があった。正式に依頼された宮廷芸術家が死亡すると、その人の作品は、普通はパトロンが所有する。ところがフランソワ1世はレオナルドに、彼が選んだ人ならだれでも遺言に従って彼の所持品を譲渡できる例外的な権利を与えていた。レオナルドは、ノートや絵などを助手のメルツィに与え、家屋と庭園は彼がかわいがっていたサライに、カネは異母兄弟たちに、さまざまな召使いたちに贈りものも残した。
 「モナ・リザ」を含む何点かの絵画は、しばらくサライの手元にあったらしいが、5年後の1524年にイタリアで起こった暴動によって、サライは殺されてしまう。1990年代のはじめにミラノの史料館で発見された遺言検認の目録には、レオナルドのオリジナルないしみごとな模写12点の絵がサライの所有と記載されている。筆記者は最初、肖像画の一つを「ラ・ホンダ」と書いていたが、これを消して「ラ・イオコンダ」(ラ・ジョコンダのミラノの綴り)と書き直している。レオナルドのモデルが「ジョコンダ夫人」であるという、もう一つの証拠だ。
 おそらくその肖像画をひと目見たときから欲しがっていたに違いないフランソワ一世は、どのような対価を払ってでも「彼女」を手に入れたいと思っていた。彼は、目もくらむほどの金額を払った。推定では1万2000フラン、今日の1000万ドルに相当する額だ。」
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、303頁~304頁)

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード

原文には次のようにある。
Leonardo da Vinci’s estate presented different problems. When an offi-
cial court artist died, his works usually went to his patron. However, King
Francis had granted Leonardo a special exemption allowing him to be-
queath his possessions to whomever he chose. The artist left his note-
books and drawings to his assistant Melzi, a house and garden to his
cherished Salai, money to his stepbrothers, and gifts to various servants.
Several paintings, including the Mona Lisa, may have ended up with
Salai, who was killed in a violent altercation in Italy in 1524, just five years
after his maestro’s death. A probate inventory, discovered in the Milan
archives in the early 1990s, listed twelve paintings in Salai’s possession,
either Leonardo originals or excellent copies. A scribe initially identified
one of two women’s portraits as “La Honda”, but then crossed this out
and wrote “La Ioconda” (the Milanese spelling of La Gioconda) ―― another
possible confirmation of “the Giconda woman” as Leonardo’s model.
King Francis I, who had probably coveted the portrait from first sight,
wanted “her” at any price. He paid a staggering sum: an estimated 12,000
francs, the equivalent of almost $10 million today.
(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p216.)

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered


【単語】
estate    (n.)財産、遺産
grant    (vt.)許す、授与する
exemption  (n.)免除
bequeath   (vt.)(後世に)伝える、(動産・金を遺言で)遺贈する
cherish   (vt.)かわいがる、育てる →cherished (a.)大事にしている
stepbrother (n.)異父[母]兄弟 ←step- (prep.)「腹違いの、まま…」の意
end up    ついには(~することに)なる、最後には~に入ることになる
altercation  (n.)口論
maestro   (イタリア語)巨匠
probate  (n., a.)遺言検認(の)、(検認ずみ)遺言書の写し (vt.)(遺言書を)検認する
inventory  (n.)財産目録
scribe    (n.)書記、筆写人
initially    (ad.)最初に
cross out   線を横に引いて消す(特に誤りや知られたくない箇所を削る場合)
confirmation  (n.)確定、確認
covet     (vt., vi.)(他人のものを)ひどく欲しがる
staggering   (a.)よろめく[かせる]、びっくりさせる
equivalent  (n., a.)同価値の、相当する物


ヘイルズ氏の要点を箇条書きにしておこう。
〇フランソワ1世は、レオナルドに、遺言に従って所持品を譲渡できる権利を与えていた
〇「モナ・リザ」を含む絵画は、しばらくサライの手元にあったらしい
〇レオナルドの死後5年経った1524年に、サライは殺されてしまう
〇1990年代のはじめにミラノで発見された遺言検認の目録には、レオナルドの12点の絵がサライの所有と記載されている
〇筆記者が肖像画の一つを「ラ・イオコンダ」(ラ・ジョコンダのミラノの綴り)と書き直していることは、レオナルドのモデルが「ジョコンダ夫人」であることの証拠となりうる
〇フランソワ1世は、その肖像画を是非とも欲しがり、推定1万2000フランを支払った

ヘイルズ氏は、BIBLIOGRAPHYに、次の参考文献を載せている。
〇Sassoon, Donald. Becoming Mona Lisa. New York: Mariner Books, 2003.
――――. Leonardo and the Mona Lisa Story. New York: Overlook Press, 2006.
――――. “Mona Lisa : The Best-Known Girl in the Whole Wide World.” History Workshop Journal, no.51 (2001): 1-18.
なお、シェルとシローニの論文は、レオナルドの作品「チェチーリア・ガッレラーニ」に関する論文を載せている。
〇Shell, Janice, and Grazioso Sironi. “Cecilia Gallerani: Leonardo’s Lady with an Ermine.”
Artibus et Historiae 13, no.25 (1992): 47-66.

(Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p299.)

『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 ツォルナー氏



ツォルナー氏は、「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と作品」と題して、レオナルドの年譜を巻末に載せている。
その中に、1520年代から1530年代にかけての事蹟について次のように記している。

1520-1530 レオナルドの愛弟子フランチェスコ・メルツィは、師から相続した手稿を整理し、重要な箇所を抜粋し、いわゆる『絵画論』にした。これは実践、理論両面における画家の手引き書であった。
もう1人の弟子ジャコモ・サライは、レオナルドの絵画の大半を相続した。1525年、サライがミラノで非業の死を遂げた後、≪聖アンナと聖母子≫、≪洗礼者ヨハネ≫、≪レダと白鳥≫、≪モナ・リザ≫、ある1点の肖像画と≪聖ヒエロニムス≫が彼の元にあったことが明るみとなる。
1530年代初頭、フランス王がこれらの絵画の数点を獲得したらしい。それらは、今日でもパリのルーヴル美術館が所蔵している。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、94頁)。

ここでの要点は次のことである。
〇弟子ジャコモ・サライは、レオナルドの絵画の大半を相続した
〇1525年、サライがミラノで非業の死を遂げた
〇≪聖アンナと聖母子≫、≪洗礼者ヨハネ≫、≪レダと白鳥≫、≪モナ・リザ≫、ある1点の肖像画と≪聖ヒエロニムス≫がサライの元にあった
〇1530年代初頭、フランス王がこれらの絵画の数点を獲得したらしい

ちなみに、原文には次のようにある。
1520-1530 Leonardo’s friend and pupil Francesco Melzi puts in order the manuscripts he has
inherited from his master, and from the most important of these, compiles the so-called Trea-
tise on Painting, a collection of practical and theoretical instructions for painters. Another
pupil, Giacomo Salai, inherits the bulk of the paintings. On the violent death of Salai in Milan
in 1525, his estate is found to contain the Virgin and Child with St. Anne, St. John the Baptist,
Leda and the Swan, the Mona Lisa, another portrait and a painting of St. Hieronymus. It was
probably not until the early 1530s that the King of France acquired some of these paintings,
which are still to be seen in the Louvre today.
(Frank Zöllner, Leonardo Da Vinci 1452-1519, TASCHEN, 2000, p.94.)

【単語】
treatise  (n.)論説、論文
estate   (n.)財産、遺産
St. John  (n.)聖ヨハネ
the Baptist  洗礼者ヨハネ(John the Baptist) baptist (n.)洗礼をする人
St. Hieronymus 聖ヒエロニムス(347年頃~420年頃) アンブロシウスと併称される初代ラテン教父。ラテン教会四大博士の一人。
acquire  (vt.)得る、獲得する

【Frank Zöllner, Leonardo Da Vinci 1452-1519, TASCHENはこちらから】

Leonardo da Vinci: 1452-1519: Artist and Scientist (Basic Art 2.0)


【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】


ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 サスーン氏



次にサスーン氏が、『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係について、どのように考えているのかを考えてみよう。

In 1991 two scholars, Janice Shell and Grazioso Sironi, advanced
a new hypothesis based on their discovery of the inventory of
Andrea Salai (whose real name was Gian Giacomo Caprotti),
Leonardo’s assistant, adoptive son, perhaps lover. They claim that
this find confirms the identification of the Mona Lisa with Lisa
Gherardini and the date of its creation. They suggest that the
Mona Lisa did not remain in France after Leonardo’s death, but
returned to Italy and was subsequently brought back to France.
This scholarly essay, like most things concerned with the Mona
Lisa, made press headlines, including one in the Observer of 27
January 1991: ‘Smile on, Gioconda it really was you’. As the two
authors point out, what happened to the Mona Lisa after Leo-
nardo’s death is uncertain. It was assumed that Francesco Melzi
had inherited it. According to Leonardo’s will (of which we only
have a nineteenth-century transcription), Melzi was to be Leo-
nardo’s executor and receive his books and effects. Salai, who
had subsequently married, was killed by French soldiers in Milan
on 19 January 1524, perhaps after a brawl. He left no will, so an
inventory of his personal effects was made on 21 April 1525 when
a dispute arose over the property. The inventory included a sur-
prisingly large number of pictures: a Leda with Swan, a St Jerome,
a St Anne, a Virgin with Child, a ‘Joconda’ and many others.
Were these Leonardo’s works? Leonardo was not mentioned, but
the generous values given to the paintings suggest that perhaps
they were not thought to be mere copies: the Leda was estimated
to be worth 1,010 lire, nearly as much as Salai’s house; the
‘Joconda’ was worth 505 lire, as was the St Anne. It could be a
precious clutch of Leonardos. Perhaps Leonardo had given them
to Salai before his death.
If Shell and Sironi are right, and the ‘Joconda’ mentioned in
the inventory is in fact the Mona Lisa, it could mean that the
portrait was taken back to Italy by Salai and was later bought by
agents sent by François to scour Italy in the 1530s and 1540s for
artwork to buy. Of course, it is equally possible that Salai made
copies of paintings by Leonardo, and that these were taken to be
authentic by those who made the inventory in Milan.
(Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishers, 2002. pp.28 -29.)

【Donald Sassoon, Mona Lisa :The History of the World’s Most Famous Painting,
Harper Collins Publishersはこちらから】

Mona Lisa :The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)

【単語】
hypothesis  (n.)仮説
inventory   (n.)財産目録
adoptive   (a.)養子関係の
confirm   (vt.)確認する、承認する
identification (n.)同一であることの証明、同一視、識別
subsequently  (ad.)後に
uncertain   (a.)不確かな、疑わしい
assume    (vt.)思う、推量する
inherit    (vt., vi.)相続する、受継ぐ
transcription  (n.)転写、写本、写すこと
executor    (n.)指定遺言執行人
effect    (n.)効果 (pl.)動産、所有物
brawl    (n., vi.)口論[けんか](する)
property   (n.)財産、所有物
surprisingly  (ad.)驚くほど
St Jerome  聖ヒエロニモ(347?-420?) ラテン語名Eusebius Hieronymus キリスト教修道士・聖書学者。聖書のラテン語訳を20年かけて完成。
mention   (vt.)言及する、陳述する
generous  (a.)寛大な、豊富な
suggest   (vt.)暗示する、ほのめかす
estimate   (vt., vi.)見積る、概算[評価]する
lire     liraの複数 リラ(イタリアの旧貨幣単位)
clutch    (n.)つかむこと、群
agent    (n.)行為者、代理人、周旋人
scour    (vi., vt.)急いで捜し回る、あさり歩く、疾走する
artwork    (n.)芸術品、[集合的に]絵画
authentic   (a.)確実な、本物の、権威ある

サスーン氏の叙述の大意は次のようなものである。
〇シェルとシローニは、1991年に発見されたサライの財産目録をもとに、「モナ・リザ」とリザ・デル・ジョコンドが同一視できること、その制作年代が確認できるという仮説を提示した。

〇「モナ・リザ」はレオナルドの死後、フランスに残ったのではなく、一度イタリアに戻り、後にフランスに帰したと示唆した。

〇レオナルドの死後、「モナ・リザ」がどうなったかについては、不確かである。フランチェスコ・メルツィがそれを相続したと考えられていた。レオナルドの遺言によれば、メルツィがレオナルドの遺言執行人で、その書物や所有物を受け取ることになっていた。

〇サライは、後に結婚し、けんかがもとで1524年1月19日にミラノでフランス人兵士により殺害された。
遺言はなかったが、1525年4月21日に財産目録が作成された。その中には、次のような絵画が含まれていた。
「レダと白鳥」「聖ヒエロニムス」「聖アンナと聖母子」「ジョコンダ」
 これらはレオナルドの作品だったのか。レオナルドは言及していないが、単なる複写とは考えられない。
 ・「レダ」は1010リラ(サライの家とほぼ同額)
 ・「ジョコンダ」は505リラ(「聖アンナと聖母子」と同額)
 おそらくレオナルドは死の前にサライに与えていた。

〇もしシェルやシローニが正しく、財産目録で言及された「ジョコンダ」が「モナ・リザ」であるならば、その肖像画はサライによってイタリアに持ち帰られ、1530年代そして1540年代にイタリアで捜し出されて、フランソワ王の代理人によって買い上げられたことを意味している。

〇もちろん、サライがレオナルドの絵画を複写したりした。これらがミラノでの財産目録作成者によって本物とみなされたということもありうる。


『モナ・リザ』とフランソワ1世との関係 スカイエレーズ氏


スカイエレーズ氏は、その著作『モナリザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社、2005年)の「ジョコンダとグァランダ(La Gioconda et la Gualanda)」の章の中に、「サライ 1518年にレオナルドとフランソワ1世を仲介 「モナリザ」の売買にまつわる秘密(Salaï, courtier entre Léonard et François 1er en 1518 Le mystérieux achat de La Joconde)」と題して、スカイエレーズ氏は論じている。

まず、次のような問題提起をしている。
「1507年頃に未完のまま終わり、1547年にはじめてフォンテーヌブロー城に姿を現すまでの間、「モナリザ」はどこにあったのだろうか」と。

アントニオ・デ・ベアティスの書いたものに、その運命を知る手がかりはないようだ。
だが、最近になって、サライに関するふたつの文書が見つかった。
発見されたサライに関する文書によって進展したのは、肖像画のモデルの身元探しなどの問題ではなく、フランソワ1世による絵画購入の経緯である。

①ひとつめの文書には、1518年に当時のミラノ公爵つまりフランソワ1世その人が、サライに対し途方もない大金を支払ったことが記されている。
金額はトゥール硬貨の2604リーブル4ソル4ドニエ(神聖ローマ帝国の金貨で6250リーブル)で、「サライから王に渡された、数枚の絵画の代償として」とある。(注73)

(注73)Paris, Archives nationales, J.910, fasc.6.
これは、B.ジェスタの論文«François 1er , Salaï et les tableaux de Léonard »(Revue de l’Art, no 126, 1999-4, p.68-72)において、研究・発見されたとある。
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、117頁)

どの絵画が取り引きされたのかは書かれていないが、稀に見る莫大な金額である。フランソワ1世がレオナルドに渡した3年間の年金とほぼ等しい。
この文書を見つけて公表したベルトラン・ジェスタ氏が言うように、サライとレオナルドの近しい関係を考えると、取り引きされた絵画は巨匠レオナルドのものだと考えるほかないとスカイエレーズ氏もみている。

②どの絵画かについては、おそらく2番目の文書の中にあるとされる。
それは、1525年4月21日にミラノで作成されたサライの遺産目録の絵画リストである。(注74)

(注74)Milan, Archivio di Stato.
 この文書は、ShellとSironiにより、発表され、研究された。
 (J. Shell and Gr. Sironi, « Salaï and Leonardo’s Legacy », The Burlington Magazine, CXXXIII, février 1991, p.95-108.)

“Imaginem Ioconde Figuram”を含むこれらの絵画のうちのいくつかは、サライの姉妹のLorenziola Caprottiの債権者であるGerolamo da Sormanoの代理人のAmbrogio Vimercateが抵当として保管していた。
(E. Villata, Leonardo da Vinci, I documenti e le testimonianze contemporanee. Ente Raccolta Vinciana, 1999, s.p. nos 347-348.
ShellとSironiがそう考えたように、これらの絵画がオリジナル作品であるとすると、フランソワ1世は1531年12月以降にLorenziola Caprottiからこれらの作品を購入しなければならなくなるが、これはまずありえない話だと、スカイエレーズ氏は(注74)において記している。
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、117頁)

サライの遺産目録の絵画リストの冒頭にあげられた4枚は、作者名こそ入っていないものの、「レダ」「聖アンナと聖母子像」「ジョコンド」「洗礼者聖ヨハネ」となっている。
これらのタイトルやそのつながりは、すぐにレオナルドとむすびつく。その上、この4枚の評価額は飛びぬけて高く、その後に続く作品の算定額とは全く違うだけに、その感は一層強まる。

だが、サライはその7年前に、フランソワ1世に絵画を何枚か売っている。
それがレオナルドのものだと考えるのは理にかなっている。それでいてサライのもとには、1525年になって、なおレオナルドの絵が残っていたのだろうか。そしてその中に「モナリザ」もあったのだろうかと、スカイエレーズ氏は疑問をさしはさみ、あまり信憑性のない話だとする。

もしそうだとした場合、フランソワ1世のコレクションに収められた「レダ」「聖アンナと聖母子像」「モナリザ」「洗礼者聖ヨハネ」の4作品は、サライの死後、イタリアで手に入れられたと考えなくてはならない。
だが、1525年にそのような取り引きをするのは難しい。
というのもその年、フランソワ1世はスペインで俘虜となっていたからである。

このように、スカイエレーズ氏は推察して、「やはりレオナルドのオリジナル作品は、1518年にサライからフランソワ1世に渡ったに違いない」とみている。
そしてサライが持っていたのは、その精巧な複製だったという方が、ずっとありそうな話だとする。
遺産目録を読み進めれば、サライはかなりの財産を築いていることも分かり、そうするとそれは以前に売ったオリジナルの代金があったからこそだと考えている。

(この文書だけでは分からないのだが、この「レダ」「聖アンナと聖母子像」「ジョコンド」「洗礼者聖ヨハネ」と続く、模作と思われる作品のリストから逆に、サライがフランソワ1世に売った原画のリストを想像することも、不可能ではないと付言している)

ただ、いずれにしても、このリストのおかげで、1519年に作成されたレオナルドの遺言には、なぜこれらの作品についてなにも書かれていないか分かる。つまり、レオナルドの手元には、もうなかったのである。きっと既にサライに譲っていたのだろう。
そして、サライはそんな師匠の溺愛と、レオナルドの絵画を手に入れたいという王の望みを二重に利用して、いわば先渡しで与えられた遺産をすぐに現金化したようだ。
そもそもサライはフランスに短期間しか滞在していない。
(うがった見方をすれば、自分のするべきこと、つまり仲買人の役目を果たすにはぴったりの長さである)

そう考えると、ダン神父から始まった伝説、フランソワ1世は「モナリザ」を破格の高値で手に入れたという話の説明がつく。しかもこれはレオナルドの存命中のことだった。

最後に、サライ文書を発掘したジェスタ氏の文章を、スカイエレーズ氏は引用している。
「1518年はフランソワ1世にとってもっとも幸せな治世の時代だった。戦いに勝利を得た若き王は、気持ちに何の憂いもなく、ラファエロの絵画を献上されたり、買ったり、あるいはアンドレア・デル・サルトを呼び寄せたりして、芸術への愛を思う存分に示せたのだ」(注75)
(注75)B. Jestaz, «François 1er , Salaï et les tableaux de Léonard »(Revue de l’Art, no 126, 1999-4, p.71.)

(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、35頁~36頁、117頁)

【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】

モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション


スカイエレーズ氏の議論をみると、「モナ・リザ」がフランソワ1世に買い上げられた経緯の問題を考える際のポイントとして、次のように考えると、よいのではないか。
①レオナルドの生前か死後か。
②サライの存命中か死後か
③「モナ・リザ」(ジョコンダ)のオリジナルか模作か
④フランソワ1世のおかれた歴史的状況

スカイエレーズ氏の見解はこうである。
「モナ・リザ」は、サライへの生前贈与という形で、サライの存命中に贈られ、1518年にフランソワ1世に売られていたとする。その時の「モナ・リザ」がオリジナル品で、サライの死後、1525年に作成された遺産目録にある「モナ・リザ(ジョコンド)」の方は模作であろうとスカイエレーズ氏は考えている。
なお、サライの死後、1525年に、フランソワ1世はスペインで俘虜となっていたので、「モナ・リザ」の取り引きをすることは難しかったと付言している。

このように考えると、1519年に作成されたレオナルドの遺言には、「モナ・リザ(ジョコンド)」などの作品について何も書かれていないことも分かるし、サライがフランスに短期間しか滞在していないことも説明がつく。

ウォルター・ペイター氏によるフランソワ1世とレオナルドの関係の捉え方



ウォルター・ペイター氏は、1869年、つまり19世紀後半においては、フランソワ1世がレオナルドをフランスに招聘して以降、『ラ・ジョコンダ』は、すでに王の陳列室に納められたと想定していた。
このことは、次の文章からわかる。

 France was about to become an Italy more Italian than Italy
itself. Francis the First, like Lewis the Twelfth before him, was
attracted by the finesse of Leonardo’s work; La Gioconda was
already in his cabinet, and he offered Leonardo the little
Château de Clou, with its vineyards and meadows, in the pleas-
ant valley of the Masse, just outside the walls of the town of
Amboise, where, especially in the hunting season, the court
then frequently resided. A Monsieur Lyonard, peinteur du Roy
pour Amboyse: ―― so the letter of Francis the First is headed. It
opens a prospect, one of the most interesting in the history of
art, where, in a peculiarly blent atmosphere, Italian art dies
away as a French exotic.
(Walter Pater, The Renaissance :Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC., 1893[2005]., p.85.)

【Walter Pater, The Renaissanceはこちらから】

The Renaissance: Studies in Art and Poetry

【単語】
attract  (vt.)引きつける、魅惑する
finesse  (n.)手腕、巧妙
cabinet  (n.)飾り棚、陳列室
Château  (n.)(フランスの)城、大邸宅、ブドウ園
vineyard  (n.)ブドウ園
meadow  (n.)牧草地
reside   (vi.)住む、存する
head    (vt.)[通例be headed]~に見出し[題名]がついている、(タイトルなどが)~の最初にある
prospect  (n.)眺め、見通し
peculiarly  (ad.)独特に、特に
blent   (v.)blend(混ぜる)の過去分詞
die away   次第に消え去る
exotic   (a.)外国の、異国風の (n.)外来の物

≪訳文≫
フランスは、イタリア自身よりもずっとイタリア風にいまやなりつつあった。フランソワ1世は、先王ルイ12世と同じく、レオナルドの作品の巧緻さ(finesse)に魅せられていた。≪ラ・ジョコンダ≫はすでに彼の陳列室に納められていて、彼はレオナルドに葡萄畑と牧草地付きのクルーの小さな館を提供した。そこはアンボワーズの町の城壁のすぐ外の、マス川の心地よい谷間にあって、とりわけ狩猟の季節には、宮廷がしばしばそこに移された。「アンボワーズの王室画家レオナルド殿へ」――とフランソワ1世の手紙に書き出されている。この手紙は、独特な混淆した雰囲気のなかで、イタリア芸術がフランスの外国趣味として絶えてゆくという、芸術史上で最も興味深いもののひとつである眺望を切りひらいて見せているのである。
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、131頁)


【ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社はこちらから】


ルネサンス―美術と詩の研究 (白水uブックス)

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その5≫

2020-11-15 19:15:35 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その5≫
(2020年11月15日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


 今回のブログでは、佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』(実業之日本社、2011年)を主に参考にして、レオナルド・ダ・ヴィンチやその周りの人物(母カテリーナ、リザ・デル・ジョコンド、ジュリアーノ、マキャヴェリ)、そしてその絵画「モナ・リザ」について解説してみたい。
 あわせて、若桑みどり『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年])をもとに、パルミジァニーノの「薔薇の聖母」と「モナ・リザ」の関係についても付言しておきたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「モナ・リザ」を描き始めた教会
・「モナ・リザ」のモデル問題――解説補足
・母カテリーナについて
・レオナルドの絵と母性
・パルミジァニーノの「薔薇の聖母」と「モナ・リザ」
・リザ・デル・ジョコンドについて
・ダ・ヴィンチとジュリアーノとの出会い、そして「モナ・リザ」
・マキャヴェリとレオナルド
・レオナルドの思想と手記






「モナ・リザ」を描き始めた教会


フィレンツェは、紀元前1世紀の中頃、ローマの将軍ユリウス・カエサルに従ってガリア遠征に赴いた退役兵たちによって「花咲く平原」(フロレンティア)と呼ばれていた土地に建設された街である。
フィレンツェは、ダ・ヴィンチが生涯の3分の2を過ごしたところである。ダ・ヴィンチは、1452年4月15日、トスカーナ州の首都フィレンツェの西約27キロの地点にあるヴィンチ村で生まれた。
フィレンツェは、今日も15世紀そのままにルネサンスの息吹とたたずまいを伝え、ダ・ヴィンチの足跡を見出せる。第一フィレンツェ時代は、ダ・ヴィンチが美術の修業に励んだヴェロッキオ工房にいた時代である。第二フィレンツェ時代には、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「教皇の間」で、「モナ・リザ」を描き始め、ヴェッキオ宮殿で「アンギアリの戦い」を描き、サンタ・マリア・ヌオヴァ病院で人体解剖をした。

さて、そのフィレンツェの中央駅は、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅である。その駅前広場を挟んで正面に建っているのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会と修道院である。その修道院の2階に、数室からなる「教皇の間」がある。イモラの城塞から戻ったダ・ヴィンチが、第二フィレンツェ時代の51歳から54歳まで3年間住んだところである。ここで、「モナ・リザ」や「聖アンナと聖母子」に着手し、「アンギアリの戦い」のデッサンを描いた。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、7頁、86頁~90頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】

[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

「モナ・リザ」のモデル問題――解説補足


第二フィレンツェ時代に着手された「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)という肖像画には3つの呼び名がある。
イタリア語圏では、「ラ・ジョコンダ」、フランス語圏では「ラ・ジョコンド」、英語圏では「モナ・リザ」と呼ぶ(以下、便宜上、「モナ・リザ」と呼ぶ)。

この肖像画のモデルについて、佐藤幸三氏は、次のように解説している。
晩年のダ・ヴィンチの様子と女性の肖像画について、アラゴン家のルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書アントニオ・デ・ベアティスが書き残している。
1517年10月10日、ダラゴーナ枢機卿一行は、フランスのアンボワーズ城に滞在していたフランソワ1世を訪問した帰途、クルーの館(クロ・リュセの館)にダ・ヴィンチを訪ねた。
「ある町で閣下とわれわれ供の者はフィレンツェ人のレオナルド氏に会いにいった。70歳を超えた老人で、当代最高の画家である氏は、3点の絵を閣下の高覧に供した。
1点は、故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼により、モデルによって描いたフィレンツェのある婦人の像。もう1点は、若い洗礼者ヨハネの像。そして3点目は、聖アンナの膝の上にいる聖母子像であり、いずれも完璧な出来栄えだった。しかし彼にはもうこのようにすぐれた作品を期待することができない。右手が麻痺して使えなくなっているからである」

このベアティスの記録によって、当時ダ・ヴィンチの右手が麻痺していたことがわかる。
また、菜食主義者だったダ・ヴィンチは相当老けて見えたらしい。ベアティスはダ・ヴィンチが70歳を超えていると書いているが、このときダ・ヴィンチは65歳であった。

その後、ダ・ヴィンチの没後31年、1550年に、ジョルジョ・ヴァザーリが『ルネサンス画人伝』を書く。その「モナ・リザ」の項には次のようにある。
「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻、モナ・リーザの肖像画を描くことになった。そして4年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。この作品は現在フランスのフランソワ王の所蔵するところとなり、フォンテーヌブローにある。
 芸術がどれほどまで自然を模倣することができるかを知りたいと思う人があればこの肖像によって容易に理解することができるであろう。なぜなら、ここには精微きわまる筆で描きうるすべての細部が写されているからである。眼は生きているものに常に見られる、あの輝きと潤いをもっている。そして周囲には赤味を帯びた鉛色がつけられ、睫毛はまた繊細きわまりない感覚なくしては描きえないものである。
 眉毛は毛が肌から生じて、あるいは濃く、あるいは薄く、毛根によってさまざまに変化している様子が描かれているため、これ以上自然であることは不可能である。(中略)
 彼はまたこんな工夫もした。モナ・リーザがたいへん美しかったので、彼女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ絶えず道化る者をそばにおいて、楽しい雰囲気をつくった。肖像画を描くとき、しばしば憂鬱な気分を絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。レオナルドのこの作品には心地よい微笑があるが、そこからは人間的というより神的なものが見てとれる。そしてこれ以上生き生きとしたものはないほど見事なものである」
(ジョルジョ・ヴァザーリ著『ルネサンス画人伝』田中英道他訳、白水社より)

ヴァザーリは「モナ・リザ」を見たことがなかった。だから、この項を書くに当たって、この絵を見た人々、当時まだ生存していた神父や楽師たちから、いろいろと話を聞いたという。
(ただ、ヴァザーリは睫毛や眉毛について詳しく書いているが、「モナ・リザ」には睫毛や眉毛は描かれていない)

『ルネサンス画人伝』は好評を博し、1568年に第2版が出版されている。ヴァザーリは再版の折、ダ・ヴィンチの養子フランチェスコ・メルツィに話を聞くため、1566年、ミラノ郊外のヴァプリオ・ダッダ村に彼を訪ねている。
(1493年生まれのメルツィはこの年73歳だった。ヴァザーリによれば、「美しく上品な老人」で「(ダ・ヴィンチの)手稿のコレクションを『聖遺物のように』秘蔵している」と語っている[ロバート・ペイン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』鈴木主税訳、草思社より]。
ただ、どの資料を探しても二人の会話の記録は見当たらないようだ。)
ヴァザーリは、「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼により、モデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」は、フランスのフランソワ王の所蔵する「モナ・リザ」であるという結論に達した。
『ルネサンス画人伝』第2版では、ダ・ヴィンチ伝の内容が一部変更されたが、「モナ・リザ」の項は初版のままであるという。

ところで、前述したように、2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、ダ・ヴィンチの名画「モナ・リザ」のモデルはフィレンツェの豪商の妻であるとする証拠を発見したと発表した。
発見されたのは、古書の余白にフィレンツェ市の役人が書き込んだ1503年10月のメモである。その中に「ダ・ヴィンチは三つの絵画を制作中で、うち一つはリザ・デル・ジョコンドの肖像だ」と記されていた。
メモの時期も絵の制作時期と一致している。「モナ・リザ」のモデルをめぐっては、さまざまな説が飛び交っていたが、同図書館は、この発見によって、「すべての疑念を消し去ることができる」としている。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、91頁~96頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)


もう少し学術的には、久保尋二氏が『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』(美術出版社、1972年)において、『モナ・リザ』のモデル問題と制作年代について、次のように述べている。
「これまで述べてきたところからみても、その制作年代は別として、ルーヴルの『モナ・リザ』のモデル問題に結論をだすことは極めてむずかしい。それについての従来のリザ説と代表的異論コスタンツァ説は、それぞれ一長一短をみせながら、その蓋然性はすでにみたように両者ともほぼ伯仲している。それならば、性急な結論をだすよりは、ルーヴルの『モナ・リザ』は、しばらくはまだモナ・リザのままでよろしかろう。一六世紀盛期ルネサンスのほとんど劈頭を飾るあの普遍的人格像は、もともと特定の人名を超越したところに本来の意義を有するからである。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年、249頁)

【久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ研究―その美術家像 (1972年)

母カテリーナについて


長尾重武氏は、『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネッサンス期の理想都市像』(中公新書、1994年)において、「カテリーナ来る」と題して、レオナルドの生母カテリーナについて言及している。

レオナルドの手稿には、「1493年7月16日、カテリーナが来る」(フォースター手稿、88表)という1行がある。
このカテリーナはレオナルドの生みの親カテリーナのことではないかと推定する学者たちが多い。
レオナルドの出生の記録は、1931年にフィレンツェ古文書館から発見された。
レオナルドの祖父セル・アントニオの1452年の覚え書きには、次のように記されている。
「わたしくの孫、つまりわたくしの息子セル・ピエロの息子は4月15日土曜日、夜3時に生まれた」
リオナルドと名づけられたこの赤ん坊こそ、レオナルド・ダ・ヴィンチその人である。だが、そこに母親の名は見当たらないのである。

母親の名がはじめて出てくるのは、1457年の同じ祖父セル・アントニオの資産申告書「イル・カタスト」である。
祖父アントニオ(85歳)、祖母ルチーア(64歳)、父セル・ピエロ(30歳)、義母アルビエラ(21歳)、叔父フランチェスコ(22歳)とともに、「リオナルド、セル・ピエロとカテリーナ(現在アカッタブリーガ・ディ・ピエロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチの妻)との間に生まれた庶子5歳」と記されている。

庶子レオナルドの絵画にあらわれる神秘的な女性たち、とくに『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』は、精神分析学者に、格好な主題を提供した。
フロイトは、著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ 性心理学的研究』において、『モナ・リザ』こそ、レオナルドの母親のイメージであると判定した。そして生みの親と育ての親の両者を聖アンナと聖母子に重ねて解釈した。
また、トビに関する子ども時代の記憶も、精神分析、夢解釈にとっては、見逃すことのできない興味深い内容をもっているとする。
(レオナルドが庶子であったことをどう考えるのか。この点について、アルベティも庶子であったので、それほど強調する必要はないが、まったくこの事実が影を落とさなかったと考えるのは、当時の社会制度を無視することになると長尾氏はコメントしている)

別の手稿には、同じく1493年の11月のこととして、
「この日の半日はある女性のための仕事」(H手稿 106裏)
と、あれこれの記録にまぎれるように記されている。
これもカテリーナのためかもしれない。
また、1494年1月29日、衣料、装身具、そしてサライなどの記述のあとに、
「カテリーナ、10ソルド」(H2手稿 64裏)
という書き込みが2度繰り返されている。

ところで、フィレンツェで過ごしていた頃、レオナルドは生みの親カテリーナと行き来はできにくかったと長尾氏は想像している。
ここ、ミラノでは、フィレンツェのように周囲もうるさくはなく、異邦人のもとに、同じく異邦人の婦人が訪ねてきたとしても、とくに問題はなかったのであろうという。しだいに没落していったカテリーナの家に居づらくなった彼女がミラノのレオナルドを訪ねてくることは、ごく自然のことであったと考えている。
(レオナルドのミラノ行きの、もう一つの、しかし隠された理由が、こうした母と子の親密な生活を想定したものであったからということも、少しうがち過ぎだとしても、全く見当はずれなことではないかもしれないとする。長尾氏はそう記している)

ただ、年老いた母親カテリーナとの生活は長くはつづかなかった。
「カテリーナの埋葬のための支出。蠟3ポンド、27ソルド。棺、8ソルド。柩覆い、12ソルド。十字架の運搬と設置、4ソルド。遺体の運搬に8ソルド。司祭4名聖職者4名に20ソルド。鐘、書物、スポンジ、2ソルド。墓掘人夫に16ソルド。長老に8ソルド。許可証代として役人に1ソルド。計106ソルド。医者に5ソルド。砂糖およびローソク、12ソルド。計123ソルド」
(フォスター手稿Ⅱ 64)

ここに記された埋葬料はぎりぎりの最低の額であり、ほんの内輪で目立たない葬儀を済ませたとされている。
レオナルドの心中は察してあまりある。
おそらくそれは1494年のことであった。
カテリーナがレオナルドを生んだとき、25歳であったから、これが母親カテリーナであれば、この時67歳であった。
このような記述とともに、レオナルドの手記の中にカテリーナの名はもうあらわれることはない。
(長尾重武『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネッサンス期の理想都市像』中公新書、1994年、174頁~177頁。なお、手稿の訳文は、裾分一弘『レオナルド・ダ・ヴィンチ 手稿による自伝』中央公論美術出版によったと注記している)

レオナルドの絵と母性


若桑みどり氏は、『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年[1989年版])においても、レオナルド・ダ・ヴィンチを論じている。
その「あとがき」にも述べているように、第Ⅲ章において、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画における植物の象徴的意味について考察している。レオナルドの着想において、植物がいかに重要な役割をはたしていたかについて述べている。

その中で、ルーヴルの「聖母子とアンナ」について解説している。
アンナの足の間にころがっている一つの石が、血のような肉塊の色をしていることを、アンドレ・シャステルが指摘した。これは胎盤と小さな胎児の断片だという(注30)。
(これを初めて言い出したのは、R.S.Sitterという)

その(注30)には、次の論文・著作を挙げている。
〇A.Chastel, Le Baroque et la Mort,
  in “Atti del Ⅲ, Congresso internazionle degli Studi Umanistici”, 1954.
〇『林達夫著作集』Ⅰ、平凡社、1971年、300頁。

ルーヴルでじかにこの絵を見ると、この説は一理あるが、重要なことは、この一事が「母胎の神秘」(レオナルドの主要関心事)と、大地母神の意味(この絵の基本的な思想)を裏付けしていることだと若桑氏は考えている。
生成・死・再生の動的自然観の基礎をなすものが、フィチーノの新プラトン主義であったそうだ。若桑氏は、レオナルドの手稿のすみずみまで、フィチーノとの関連について、さらに調査することが今後必要となると訴えている。ヘルメス主義は、中世スコラ哲学の固定した世界観を見直す契機を与えたとしている。
レオナルドがその手稿の中で、「おお、第一の動因(プリモ・モトーレ)よ!」と神に呼びかけていることに注目し、ヘルメス主義は流動的な新しい宇宙観へのモティーヴ・フォースであったと若桑氏は述べている。
レオナルドのヘルメス的な流動感は、「(ロウソクの)炎は自らをたえずやしないつつ、たえず死に、たえずよみがえる」と手稿に記していることからも、推察できるという。
フィチーノのヘルメス主義は、レオナルドの宇宙観、自然観に大きな影響を与えたようだ。つまり、レオナルドの理論とフィチーノのヘルメス主義との間には、多くのアナロジーがあるとされる。
(若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]、65頁~66頁、363頁~364頁、379頁)

【若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社の新版はこちらから】

薔薇のイコノロジー(新・新装版)

パルミジァニーノの「薔薇の聖母」と「モナ・リザ」


ドレスデン絵画館(ドイツ)にあるパルミジァニーノ(パルミジャニーノ1503~1540、表記法は若桑氏に従う)の「薔薇の聖母」は、16世紀に描かれた聖母子像の中で、もっとも印象深い絵の一つであるといわれる。
ペトラルカ、ボッカチオに始まるトスカーナ文芸の中で造り上げられた女性美の理想的な表現として、この「薔薇の聖母」と、同じ作者の「首の長い聖母」をとりあげられることがある。
二人の聖母には、次のような共通した特徴がある。
・異様に細長いプロポーション
・くねった姿態(いわゆる蛇状の[セルペンティナータ])
・長い白鳥のような首筋
・繊細に波打つ金髪
・卵型の顔立ち
・伏せた眼
・ごく細い指をもつ優美な手

ペトラルカは、美しい女性の頰や唇を薔薇に譬える詩を作った。その原典は、薔薇の美しさが美の女神ヴィーナスに結びつけられていたギリシア神話にあるとされる。
ただ、この異教的な香りの高い花は、初期キリスト教世界では初めは評判が悪かった。薔薇はもともと天国に咲いていたときには棘がなかったが、人類が原罪を犯したときに棘をもつに至ったと解釈されたようだ。そこから棘のない薔薇だけが原罪を免れた女つまり聖母マリアに献げられる純潔の象徴になった。
このように、異教世界とキリスト教世界の象徴の体系の中で、薔薇は、ヴィーナスと聖母の共通のアトリビュート(付属物)となった。だが、キリスト教世界では、薔薇は棘を抜かれ、さらに白い百合と共存しなければならなかった(百合もまた、その「しべ」を取られていた)。聖母は通常、この二つの花をアトリビュートとしていた。

9世紀にははやくも、「百合と薔薇の論争」という寓意的論争詩が出ており、その詩の中で≪汝、薔薇は赤い栄光を花輪として殉教者に与え、百合は長き上衣を着た多くの処女たちを飾りなさい≫と、二つの花はその持ち場をかためたようだ。つまり、その赤色によって生命と血とを意味する薔薇は、肉欲のヴィーナスのアトリビュートである前身を洗って、殉教者に仕えることになった。そして、ヘブライの世界では、赤いアネモネかチューリップに似た花である百合は、ヨーロッパでは、しべを抜かれて白い純潔の衣をまとうようになった。

ところで、ヴァザーリによると、「薔薇の聖母」は、パルミジァニーノがローマであの名高い「劫掠[サッコ](1527年)」にあってボローニャに逃げて来てから描いたとされる。
「マドンナの姿態はまさに形容しがたいもので、透き通った、ほとんど黄金いろにみえる黄いろの衣をつけて、まことにこの上ない優美をそなえている」と記している。
そして、この絵はもともとあの名高い人文主義者ピエトロ・アレティーノに注文されたものだったが、ちょうどその頃ボローニャに来ていた法王クレメンス7世に献ぜられたのだと記している。

この点、若桑氏は、ヴァザーリのエピソードの多くがそうであるように、この話は事実というよりは一種の解釈であるとコメントしている。そして異端審問的な17世紀になると、この絵はあまりに魅力的すぎるマリアの体などが、宗教画としては正統性を欠くものとされた。この点、この絵はよく生き残ったものだと若桑氏は感想をもらしている。

このマリアの曲がりくねった不自然で官能的な身ぶりについては、様々な説明がなされているそうだ。
クレメンス7世の宮廷には、ペトラルカやボッカチオの末流であるアーニョロ・フィオレンツォラなる人文学者が仕えて、「いとも軽妙なる優美さ」を女性の理想美としてうたい上げる。このフィオレンツォラの賞揚する女性美は、ヴァザーリやパルミジァニーノが属していたマニエリスムの美的趣味と全く一致したものであるという。
現代の美術史家(S.J.フリードバーグ)は、このマドンナの非キリスト教的特徴である著しい官能性を強調して、これがもともとその頃すでに知られていた「メディチ家のヴィーナス」という彫像から想を得たものであろうと推測している。古代の彫像をコピーしたとでもしなければ、説明がつかないという(注16)。
(注16)S.J.Freedberg, Parmigianino, 1950, Cambridge.
フリードバーグの解釈は、1960年代までの多くの学者たちと共通したものであった。

さて、ヴィーナスの彫像からマドンナが生まれたという解釈は、薔薇の花の同様の系譜との対応を示す点で興味深いが、パルミジァニーノの直接の影響源は、ボッティチェリとレオナルドであっただろうと若桑氏は主張している。
このマドンナのタイプは、「モナ・リザ」の系統を引いているとみている。その師匠であったコレッジォとともに、パルミジァニーノもまた、ニュアンスと半陰影と、金いろのやわらかい光をレオナルドから学んだ世代である。

さらに、マドンナの膝からすべり落ちそうなイエスは、今ではコピーでしか知られていないレオナルドの原画をもとにした聖母子によく似ているとする。さらにこの関係を強めているように見えるのは、レオナルド派のルイーニの「薔薇の生け垣の聖母」である。
(これはまるで逆版にしたようによく似ている。ただ、イエスが薔薇の花を植えてある壺の上に身を乗り出していることだけが違っているという)

(若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]、8頁~16頁、360頁)
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薔薇のイコノロジー(新・新装版)

リザ・デル・ジョコンドについて


さて、リザ・デル・ジョコンドとは、どういう女性だったのか。佐藤幸三氏は次のように解説している。

1479年、フィレンツェのメディチ宮殿裏、ジノーリ通りに生まれた。名前をエリザベッタといい、リザはその愛称である。
父の名はアントニオ・マリーア・ノルド・ゲラルディーニ、母親の名は不明である。父アントニオは政治家で豪華王ロレンツォに属し、メディチ家を支えたが、政治活動のため家運が傾いた。
リザが17歳のとき、絹織物で財を成した36歳のフランチェスコ・デ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドのもとに、後添いとして嫁いだ。ジョコンドとの間に5子をもうけたという。
(早い話が、父アントニオは金欠で身動きが取れなくなったため、リザを法外な金額で売り渡したのだといわれている)

美術史家ブルーノ・モタンは、「モナ・リザは次男の誕生を記念して描かれたとみられ、制作年代も1503年頃に絞り込まれる」と指摘している。
リザは1542年7月15日に63歳で死亡している。墓は現在廃院となっているフィレンツェのサン・トルソラ修道院に埋葬された。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、96頁~97頁)
【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
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ダ・ヴィンチとジュリアーノとの出会い、そして「モナ・リザ」


ダ・ヴィンチがこの絵を依頼した人物として名を挙げていた故人マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下とは、豪華王ロレンツォの三男である。
1479年、パッツィ家の陰謀事件の翌年に生まれている。
(つまり、リザもジュリアーノも、1479年生まれで、同い歳!)
パッツィ家の陰謀事件でロレンツォの弟ジュリアーノが暗殺されたため、弟を偲んで三男に同じ名を付けた。人文主義者で詩人のポリツィアーノを家庭教師として成長したため、温和な性格で、教養豊かな宮廷人として育った。父ロレンツォから一番可愛がられたという。

1494年のメディチ家追放のとき、ジュリアーノは15歳で、マントヴァに亡命する。そこも危なくなり、フェッラーラ公国に逃れる。
フェッラーラで一息ついていると、ウルビーノ公国のグイドバルド・モンテフェルトロ公から亡命受け入れの書状がジュリアーノのもとに届いた。グイドバルドの父フェデリーコは、傭兵隊長として長い間フィレンツェ共和国のために尽くした武人であった。
(裏を返せば、フェデリーコは傭兵隊長としてフィレンツェから莫大な報酬を得て豪華なウルビーノの宮殿を建設したといわれている)
そんな関係でジュリアーノをウルビーノ公国に受け入れたのである。
当時、ウルビーノ公国に仕えていた政治家で文筆家のバルダッサーレ・カスティリオーネは著書『宮廷人』を書き、ルネサンス的人間の理想像を描いた。その中で、完成された宮廷人の一人として、ジュリアーノ・デ・メディチの名を挙げている。

1502年6月、ウルビーノ公国はチェーザレ・ボルジアの教皇軍に占領される。
モンテフェルト公は悪性の痛風でベッドに臥せっていたがかろうじて脱出、しかしジュリアーノはじめ宮廷の人々は軟禁の身となってしまう。
7月のある日、23歳になっていたジュリアーノはチェーザレ・ボルジアに呼ばれた。部屋に入ると、そこにいたのはダ・ヴィンチであった。
翌年1503年、フィレンツェに戻ったダ・ヴィンチが、「モナ・リザ」を描き始めている。そうすると、このときジュリアーノから、ジュリアーノの記憶に残る幼なじみのリザを描いてくれと頼まれたのではないかと、佐藤幸三氏は推測している。
ジュリアーノとリザは同い歳で、幼い頃からいつもメディチ宮殿に近いサン・ロレンツォ教会横の小さな広場で遊んでいたという。リザはジュリアーノの初恋の女性だったのではないかと、佐藤氏はみている。

1504年、21歳の若きラファエッロが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「教皇の間」にダ・ヴィンチを訪ねた。そのときラファエッロは「モナ・リザ」をスケッチする(ルーヴル美術館蔵)。
それを見ると、次のことがわかる。
・ダ・ヴィンチは相当なスピードで、「モナ・リザ」を描いていたこと
・しかし、「モナ・リザ」の不思議な背景はまだ描かれていなかった
・ラファエッロがスケッチした「モナ・リザ」には、両端にはっきりと欄干の柱が描かれている

時が流れて、1513年、ヴァプリオ・ダッダ村に疎開していたダ・ヴィンチのもとに、ジュリアーノからヴァチカンへの招待状が届いた。この頃ジュリアーノは、兄教皇レオ10世を助け、教皇軍司令官に任命されていた。その年の秋、ダ・ヴィンチ一行はヴァプリオ・ダッダ村を後にヴァチカン市国に向かった。

ダ・ヴィンチがジュリアーノに呼ばれて、ヴァチカンに来た時、「モナ・リザ」の背景はまだ描かれていなかったか、または「三王礼拝」のように下塗りだけだったかもしれないと佐藤氏はみている。
そのためジュリアーノには「モナ・リザ」を見せたが、未完成であったので渡さなかったと推測している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、97頁~100頁、104頁、144頁)
【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】
[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

また、多くの美術史家は、リザはダ・ヴィンチの心の奥の理想の女性であった、それゆえジュリアーノには渡さなかったのだという。ケネス・クラークもこう語っている。
「彼女は、彼(ダ・ヴィンチ)のヴィジョンにおける生得なものを具現化したに違いない。そうでなくては、彼が法王、王、公妃らからの依頼をこばんだ一方において、フィレンツェの名も知れない一市民の二度目の妻を描くのに、彼の最大の技倆をふるい、そして話によると、三年も費したという事実をどうして説明することができるであろうか」
(ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局、1974年、176頁)

【ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ―芸術家としての彼の発展の物語 (1974年) (叢書・ウニベルシタス)


マキャヴェリとレオナルド


マキャヴェリ(1469~1527)はフィレンツェ政府の官吏で、レオナルドと協力して、アルノ川の水路変更を試みたりしている。

マキャヴェリといえば、『君主論』を著したことで、よく知られている。詳しくは、ダイアン・ヘイルズ氏の著作紹介の際に詳述したいが、ここでは、その『君主論』について、簡単に記しておく。

池田廉氏が解説しているように、『君主論』の第15~23章では君主の資質について、論じている。
ここでは、為政者と民衆との力関係を、とくに人間心理の面から考察して、力量ある君主像について論じている。
従来の理想主義的な君主像をくつがえして、チェーザレ・ボルジアなど、同時代の非情なリアリストの為政者を高く評価している。
(マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、223頁)

チェーザレ・ボルジア(1475~1507)は、1502年にレオナルド・ダ・ヴィンチを軍事顧問として雇用したことでも知られる。
マキャヴェリは、「7章 他人の武力や運によって、手に入れた新君主国について」において、そのチェーザレ・ボルジアについて、次のように記している。

「さて、前述の二つの方法、力量によって君主になるか、それとも運によって君主になるかをめぐって、最近のわたしたちの記憶に生々しい、二つの実例を引用しておきたい。フランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアの両人である。
フランチェスコのほうは、適切な手段と、彼自身のみごとな力量によって一私人からミラノ公になった。したがって、彼は手に入れるには幾多の苦難を乗りこえたが、維持するうえで取りたてて苦労をしなかった。いっぽう、世間でヴァレンティーノ公と呼ばれるチェーザレ・ボルジアは、父親の運に恵まれて国を獲得し、またその運に見放されて国を失った。ただし、ボルジアは、思慮があり手腕のある男としてとるべき策をことごとく使って、みずから力の限りをつくした。すなわち、他人の武力と運に恵まれて、ころがりこんだ領土にあって、自分の根をおろすために、やるべきことをやりつくした。」
(マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、41頁~42頁)

ここに出てくるフランチェスコ・スフォルツァ1世(1401~66)は、ミラノの領主フランチェスコ・マリーア・ヴィスコンティに仕えた傭兵隊長であった。領主の娘ビアンカ・マリーアと結婚し、領主の没後(1447年)、対ヴェネツィア戦争の総指揮官となったが、相手国と内通して、ついにミラノの君主におさまった(1450年)。
マキャヴェリは、同時代のもっとも力量のある君主として、チェーザレ・ボルジアと双璧と見ている。
一方、チェーザレ・ボルジア(1475~1507)は、教皇アレクサンデル6世の庶子である。1492年、ヴァレンシア大司教、翌年、枢機卿に選ばれたが、教皇の後押しで、ロマーニャ地方に教皇領を広げようとした。その際に、教皇と仏王ルイ12世の交渉で、ファランチノア伯爵領の領地を得て、そのためにヴァレンティーノ公と通称された。
1499~1501年にロマーニャ地方の大部分を征服したが1503年にロマーニャ地方の大部分を征服したが、1503年に後ろだての教皇が急死してしまう。そして新教皇ユリウ2世に烈しく敵意され、チェーザレ自身の国造りの夢は潰え去った。
(なお、「父親の運」とは、教皇を父にもった境遇をさす)
(マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]、156頁、168頁)

【マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫はこちらから】

君主論 - 新版 (中公文庫)

ダ・ヴィンチは、このチェーザレ・ボルジアの素描を描いている。
〇ダ・ヴィンチ「チェーザレ・ボルジアの素描」(トリノ、王宮図書館)
マジョーネの反乱のとき、イモラ(ローマの将軍カエサルが通ったエミリア街道沿いに開かれた街)の城塞で、チェーザレ・ボルジアとダ・ヴィンチが1ケ月半ほど共に過ごしたことがあった。そのとき、ダ・ヴィンチは反乱軍に囲まれ思案するチェーザレ・ボルジアの顔のデッサンを描いた。また、航空写真のように描いた有名なイモラ市街図(ウィンザー城王室図書館)を残している。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、158頁~159頁)

レオナルドの思想と手記


レオナルドの思想や手記のことは、美術史の概説書でも言及されている。たとえば、
中山公男・中森義宗『美術史 西洋』(近藤出版社、1978年[1990年版])においては、
「彼が偉大な芸術家として畏敬されながら、その思想や知識の重要性が仲々認められなかったのは、実験の結果や思索の成果を記した手記の公刊が遅れた上、特異な左手書きや、意見が異教的であったことに原因がある。」
(中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社、1978年[1990年版]、145頁)

レオナルドの思想の重要性がなかなか認められなかった原因として
① 手記の公刊が遅れたこと
② 特異な左手書き
③ 意見が異教的であったことを挙げている。

美術史の概説書では、従来の肖像画とモナ・リザとの相違について、次のように述べている。
「従来の肖像は、いわば描かれた公文書で、事実の描写であった。しかし≪モナ・リザ≫にはそうしたモデルの身分・職業・性格を知らせる付属品や装飾品はない。両手をあらわに見せ、目や口辺にただよう表情によって親密さを示す方法はこののち一般にも使われるようになった(例、ラファエロ作≪マッダレーナ・ドニ≫。輪郭を柔らかくぼかす「スフマート」技法をもって、頭や腕の丸味をみせ、肉体的・精神的実在性を与えている。東洋画風の背景は左右不均整で神秘的雰囲気を画面にもたらす。)
(中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社、1978年[1990年版]、145頁~146頁)

つまり、次のようにまとめられる。
〇従来の肖像=描かれた公文書、事実の描写
〇≪モナ・リザ≫
・モデルの身分などを知らせる付属品はない。
・目や口辺にただよう表情によって親密さを示す。
・「スフマート」技法により、肉体的・精神的実在性を与えている。
・東洋画風の背景~左右不均整、神秘的雰囲気をもたらす。

【中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社はこちらから】

美術史 西洋


≪参考文献≫


西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社、1992年[1997年版]
西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』河出書房新社、1994年
西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年
西岡文彦『二時間の印象派』河出書房新社、1996年
西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年
西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年
下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年
久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社、1972年
ピーター・バーク(森田義之・柴野均訳)『イタリア・ルネサンスの文化と社会』岩波書店、1992年
セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『モナ・リザの真実――ルーヴル美術館公式コレクション』日本テレビ放送網株式会社、2005年
若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年
若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]
佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年
ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局、1974年
高階秀爾『歴史のなかの女たち 名画に秘められたその生涯』文春文庫、1984年
長尾重武『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネッサンス期の理想都市像』中公新書、1994年
北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版、2005年
ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳) 『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishers, 2002.
Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
中山公男・中森義宗『美術史 西洋』近藤出版社、1978年[1990年版]
マキャヴェリ(池田廉訳)『君主論』中公文庫、1975年[2002年版]


≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫

2020-11-01 18:56:36 | 私のブック・レポート
≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その4≫
(2020年11月1日投稿)

 ハッシュタグ:#西洋美術史 #ルーヴル美術館 #西岡文彦 #レオナルド・ダ・ヴィンチ #モナ・リザ #鏡面文字の謎 #北川健次 #高津道昭 

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


今回のブログでは、西岡文彦氏の『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)を基にして、『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』について、解説してみる。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチの謎としては、鏡面文字の謎の問題について、北川健次氏の著作を参考に解説してみたい。北川氏は、高津道昭氏の次の著作を批判して、自説を主張している。
〇高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮社、1990年)
〇北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
〇北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年

今回のブログで、鏡面文字の謎の問題を検討することを通して、レオナルドの人物像が浮かび上がってくることを期待している。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』
・弟子サライと『モナ・リザ』 の売却
・レオナルドの鏡面文字の謎
・≪青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』の注意点≫
・レオナルドの手稿の謎めいた記述
・レオナルドの終末的なヴィジョン






『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』


印刷された『モナ・リザ』には、どっしりとした印象がある。しかし、実物で見ると、画面右の肩の線に見えているのが、肩に掛けたレースのショールであることがわかる。
印刷では肩のあたりが黒一色に見えているが、実際のモナ・リザの肩の線は、このショールの輪郭の内側にほっそりと描かれている。その肩に、ゆったりと浮遊するかのようにショールをまとっている。ショールの縁を襟のように丸めて左肩から胸にかけて羽織っているので、古代の衣のような古風な雰囲気もただよっている。ここに、西岡氏は、古代に通じる衣の美学を見い出している。
同じ造形が見られるのが、ルーヴルの『ミロのヴィーナス』(紀元前2世紀、大理石、ルーヴル美術館)の腰布である。こちらは、腰布の縁を丸めて帯にしている。この類似は偶然ではなく、ダ・ヴィンチに限らず、ルネッサンスの画家・彫刻家達が1500年余りも昔の古代ギリシア・ローマ美術を模範としたことから生じている。

こうした衣の描写は「ドラペリ draperie」と呼ばれる。それは、ギリシア彫刻が完成した、ヨーロッパ美術を代表する表現要素のひとつとなっている。
風をはらんだ衣や水に濡れた衣の襞(ひだ)をまとわせて、人体の美しさを強調する手法である。名称のドラペリは、フランス語で襞のあるゆったりとした衣の着こなしを指すdraperに由来している。英語でいうドレープ drapeのことである。
(日本では、衣文[えもん]、衣襞[いへき]などと訳される)

ギリシア彫刻の最高峰『ミロのヴィーナス』の腰布は、このドラペリの美学を代表するものである。丸めた縁と流れるような襞のドラペリの美学が、左膝を前に出したポーズを優美なものへと昇華させている。
縁を丸めるドラペリ演出はそのまま『モナ・リザ』のショールに引き継がれ、画面に古代彫刻に通じる風格を与えている。ダ・ヴィンチは、このドラペリの名手として知られている。習作のために、見た目に美しい衣服の襞をわざわざ作って、デッサンし、美的な効果を徹底して探求している。たとえば、ダ・ヴィンチ『衣文習作』(1470年頃、ルーヴル美術館)がある。

ルネッサンスとは、キリスト教美術の全盛期であった中世を越えて、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼり、その人間讃美の美学を再生させることによって、近世に開花した芸術運動のことであると西岡氏は捉えている。
そして、ギリシア時代の『ミロのヴィーナス』の腰布にも通じるルネッサンス名画『モナ・リザ』のドラペリには、まさにその古代再生(ルネッサンス)の精神が息づいていると主張している。
ルーヴルで『ミロのヴィーナス』と『モナ・リザ』といえば、定番の観光コースであるが、この2点を見るだけで、ヨーロッパ美術の精華であるドラペリの最高峰を鑑賞できる。

加えて、ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』(1830年、油彩、ルーヴル美術館)も見とおせば、ルーヴルのドラペリ散策としては完璧である。ドラクロワの描く女神の下半身のドラペリは、『ミロのヴィーナス』によく似ており、上半身では、『モナ・リザ』と同様に、襟のように丸められた衣の縁が、左の肩から右下に流れるように描かれている。
そのドラペリは『ミロのヴィーナス』の腰布の縁を丸めた形状にそっくりである。
 
したがって、この3点のルーヴルの“看板作品”だけで、紀元前2世紀前半の古代ギリシア彫刻の代表作、16世紀初期のルネッサンス絵画の代表作、19世紀近代絵画の代表作を、ドラペリをポイントに鑑賞することができる。つまり、3点の“看板作品”コースは、ルーヴルの古代・近世・近代美術の精華を概観できる。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、16頁~22頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

【ルーヴル美術館の『モナ・リザ』と『ミロのヴィーナス』と『民衆を導く自由の女神』の写真】(2004年5月筆者撮影)




ルーヴルの古代・近世・近代美術の精華である3点のルーヴルの“看板作品”
紀元前2世紀前半の古代ギリシア、16世紀初期のルネッサンス、19世紀近代の代表作から、ドラペリに焦点を当てて、鑑賞することができる


弟子サライと『モナ・リザ』 の売却


西岡文彦氏の『二時間のモナ・リザ』には全く言及のない内容としては、『謎解きモナ・リザ』の「6 美少年サライの謎」の中の「モナ・リザは売られていた!」(112頁~117頁)という節がある。弟子サライが『モナ・リザ』を売却していたという。その内容を紹介しておこう。

壮年期以降のダ・ヴィンチの身辺に、美少年の姿があったことは知られている。
なかでもサライは美貌で知られていた。生涯独身を通したダ・ヴィンチに、プラトニックな少年愛があったことは疑いようがない。

この美貌のサライの面影を『モナ・リザ』に見出す意見も少なくない。2011年にも、『モナ・リザ』の左の瞳にはレオナルドの頭文字のLが隠され、右の瞳にサライの頭文字のSの字が隠されていることから、この絵のモデルはサライとする奇説が唱えられている。
ルーヴル側は画面を精査しても、そのような文字は見られないと否定している。

この奇説の提唱者は、S・ヴィンチェッティである。イタリア人作家で、RAI(イタリア放送協会)の番組制作にも携わっているという。しかし、翌年には、リザ婦人説に鞍替えしたのか、フィレンツェの修道院に眠るリザの遺骨を発掘し、DNA鑑定をすると発表している。

さて、サライのダ・ヴィンチへの弟子入りは、10歳の時であったという。当時、38歳のダ・ヴィンチが、本名ジャン・ジャコモ・デ・カプロッティというこの美少年に付けたあだ名がサライであった。
(当時の騎士道物語『モルガンテ』に登場する小悪魔サライにちなんで命名したようだ)

ダ・ヴィンチは手記に、サライのことを、「泥棒で、嘘つきで、強情で、大食い」と書き、この小悪魔が財布から盗む小銭まで詳細に記録している。その盗癖、遊蕩癖にもかかわらず、ダ・ヴィンチの晩年に至るまでの20余年にわたって、寛大な保護を受けている。
祖国を捨てたダ・ヴィンチがフランスに向かった際には、行方をくらましたにもかかわらず、サライは最晩年の巨匠の周辺に再び姿を現しており、師の遺言状は彼に葡萄園の権利を与えている。

さらに驚くべきことに、近年の研究によれば、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの生前、すでに、このサライの手に渡っていた可能性が大きいとされている。
従来、この絵は、画家最愛の作として終生手元に置かれ、ダ・ヴィンチの死によってフランス王室に遺贈されたことになっていた。
ところが、近年、フランス王室文書の中にサライに対する莫大な金額の支払い記録が発見され、この定説は崩れ去ってしまう。支払い名目は絵画代金となっている。代金は、なんとダ・ヴィンチがフランス王室の庇護下にあった3年間の俸給の金額に匹敵する巨額であった。
この巨額に匹敵する絵画といえば、『モナ・リザ』以外には考えられない。しかも、支払いはダ・ヴィンチの死の前年のことである。
従来から謎となっていたダ・ヴィンチの遺言状に『モナ・リザ』の記述がないことにも説明がつく。遺言状を書いた時点で、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの手を離れていたようだ。

ダ・ヴィンチが老いを深めるにつれ、フランス王室は、この絵が遺言によって弟子に遺贈されることに対する懸念を抱き始めていたというその王室の懸念を知ったサライが、ダ・ヴィンチの自分に対する溺愛につけ込むかたちで、師の生前にこの絵を獲得することに成功し、フランス王室に売り払っていた可能性が大きいという。
もしサライでなく、ダ・ヴィンチを看取った弟子メルツィにこの絵が遺贈されていたならば、『モナ・リザ』はフランス王室には売却されず、祖国イタリアに持ち帰られたことは、ほぼ確実であろうと西岡氏はみている。
メルツィはダ・ヴィンチから遺贈された膨大な手記をすべて祖国に持ち帰り、生涯をその整理と保管に捧げているから、そのようにみる。サライのフランス滞在が極端に短いことも、この推測を裏付けているという。サライは『モナ・リザ』の獲得と販売に必要と思われる程度の期間のみ、師匠ダ・ヴィンチのいるフランスに渡っていたとする。
フランス王室の秘宝『モナ・リザ』は、ダ・ヴィンチが弟子サライに、いわば生前贈与として与えた遺作であり、早々に現金化されてしまったせいで、フランソワ1世の所蔵となったと推測されている。

ところで、フランス王室文書にサライへの支払い記録があることを発見したのが、美術史学者ベルトラン・ジェスタである。彼は、ルーヴル一画にあるエコール・ド・ルーヴル、つまりルーヴル美術学院の教授で、ルネッサンス研究の権威として知られる。
この発見の詳細については、セシル・スカイエレーズの『モナ・リザの真実』(花岡敬造訳、日本テレビ放送網株式会社)で読むことができる。

前回のブログでも紹介したように、スカイエレーズは、ルーヴル美術館絵画部門の主任研究員で、20年来の『モナ・リザ』の主席学芸員でもある。なお、この著書は、ルーヴル美術館とフランス国立美術館連盟による共同出版で、ルーヴルの各部門の学芸員が担当分野の論文を発表するシリーズの1冊である。いわば、『モナ・リザ』の公式書籍に近い本である。
『モナ・リザ』をめぐるドラマを、ルーヴル美術学院の教授ジェスタと『モナ・リザ』の主席学芸員スカイエレーズが解き明かしたことになる。このドラマは、衝撃的な新事実を教えてくれた。
このドラマは、深い驚愕と共に、人間が芸術についての思慮と視線を深めてくれたと西岡氏はコメントしている。すなわち、事実とすれば、老ダ・ヴィンチのサライへの愛の大きさと共に、人の持つ業というものの深さに、圧倒されないではいられないという。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、112頁~117頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】
謎解きモナ・リザ (河出文庫)

【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】

モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション

レオナルドの鏡面文字の謎


西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ』では、鏡面文字について言及していない。また、『謎解きモナ・リザ』においては、「手記の謎」(47頁~51頁)と題して、レオナルドの手記について述べているが、鏡面文字についての言及はない。
ただ、その手記に『モナ・リザ』に関する記述がないことを強調して、次のように叙述している。
「現状では、この膨大な手記の中に『モナ・リザ』に関する記述は一行もないことが確認されている。森羅万象すべてに好奇心を燃やす記録マニアで、家計の明細からサライという盗癖のある弟子がダ・ヴィンチの財布からくすねた小銭の額までメモしていた彼が、『モナ・リザ』に関する記述は一切残していないのである。
 あるいは、この絵をめぐる数々のミステリーのうちでも最大の謎は、病的なまでの記録魔だったダ・ヴィンチが、なぜか『モナ・リザ』に関しては一切の記録を残していないこと自体にあるのかも知れない」(48頁)
西岡氏によれば、鏡面文字の謎より、手記の『モナ・リザ』に関する一切の記録が残っていないことの方が、大きな謎であるという。
そこでさらに調べてみると、西岡氏は、『図説・詳解 絵画の読み方』(宝島社、1992年[1997年版])において、鏡面文字の謎には、次のような形でしか言及していないことがわかる。
「レオナルドの手記が、鏡に映さないと読めない反転文字で暗号化されていたことはよく知られているが、これは秘密保持の手段であると同時に、彼の左利きという生理に合わせてのことだったのだろう」とある。
(西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社、1992年[1997年版]、94頁)

このように、西岡氏にとって、鏡面文字の謎については、
① 秘密保持の手段としての暗号化
② 左利きという生理に合わせてのこと
ということになる。
【西岡文彦『図説・詳解 絵画の読み方』宝島社はこちらから】

絵画の読み方―感動を約束する、まったく新しい知的アプローチ! (別冊宝島EX)

ちなみに、美術史家の若桑みどり氏は、この鏡面文字の謎について、その美術史の講義「第二日 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」について」の中で、次のように述べている。
「こうした無数の手稿[しゅこう]がぜんぶ左手で書かれているというのはご存じだと思います。左手といっても左手で正式に書くのではなくて、いわゆる鏡文字で書かれているのです。つまり読めない。レオナルド・ダ・ヴィンチは右手でもちゃんとかけたのです。にもかかわらず、これらの手稿がぜんぶ鏡文字(ママ)で書かれているのは、同時代人に読まれないようにするためだったのかもしれません。一種の炙[あぶ]りだし文字みたいなものだったのではないでしょうか。ですから彼の描いたイメージもまた鏡文字かもしれまん」
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、59頁~60頁)

このように、若桑氏は、「手稿がぜんぶ鏡文字で書かれているのは、同時代人に読まれないようにするためだったのかもしれません」とし、「秘密保持の手段としての暗号化」説として理解している。

先述したように、若桑氏は、レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」に隠した謎とは、ひとくちにいえば、「神のいない宇宙観」であると解釈していた。
もしもこのときレオナルドが自分の思っていること(神のいない宇宙観)を言語でいっていたなら、首がとんでいたことだろう。人びとは、そこになにかが秘められていることを正しく読みとったが、これは謎だといい伝えてきたと説明している。
もっとも、それは主として「女は謎だ」というような超ロマンティックなことでもある。
つまり、神様、聖霊、純潔を信じていた、信じなければ異端で首がとんでいた時代に、レオナルドは冷静に生命と生命をつなぐのは生殖であり、そしてまた胎盤であると考えていた。

たとえば、レオナルド作品の多義性については、「聖アンナと聖母子」(ルーヴル美術館)において、聖アンナの両足のあいだに赤い石がひとつあるが、これは胎盤であるという説がある。これについて、若桑氏は次のように述べている。
「レオナルドの作品の中にはつねに曖昧、多義的なものがあるのです。そう思って見ると見えるし、そう思って見ないと見えない。そうとうに巧妙にいろんなものが隠された隠し絵ともいえます。私がルーヴルにいって見たときに、たしかに変で、石がやわらかいのです。だからこれはやっぱり胎盤だと思うわけです。レオナルドは胎盤をいっぱい描いていますからね。解剖図で。描こうと思えばすぐここに描けるわけです。」
大地と女性のつながり、生命が女性から女性へと伝えられていく、こういう一種の生命と女性と大地といったレオナルド特有の観念を表現しているとする。
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、103頁~104頁)

【ルーヴル美術館の「聖アンナと聖母子」の写真】(2004年5月筆者撮影)




【若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房の新版はこちらから】

イメージを読む (ちくま学芸文庫)



ところで、青井伝氏(2005年当時、武蔵野美術大学特別講師で美術アナリスト)は、『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』(廣済堂出版、2005年)の「第三章 逃亡者生活の始まりとその理由[わけ]」の「鏡文字の謎」(73頁~75頁)において、「何故、レオナルドは鏡文字を用いたのか」という問題について、触れている。

その説明として、「左利き説」「解読防止説」などがあり、いまだに定かでないとしながらも、これらの説に次のような疑問を呈している。
「左利き説」の場合、ペンのタッチが左利き特有のものだからという点に着目しているが、文字の特徴だけをもってして、かんたんに左利きと解釈してしまってよいものだろうかとする。
また、「解読防止説」の場合、飛行機をはじめ発明した機械について、レオナルドが設計したことを知られたくなかったからだという理由が挙げられるが、この説もおかしいという。というのは、自分の発明品を庇護者に提示しているのだから、あえて解読防止する必要はなかったと考えている。
(青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版、2005年、73頁~75頁)

【青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』廣済堂出版はこちらから】

ダ・ヴィンチ謎のメッセージ

≪青井伝『ダ・ヴィンチ 謎のメッセージ』の注意点≫


青井伝氏のこの著作は、『モナ・リザ』解説に珍説・奇説が多い。たとえば、レオナルドが鏡文字を書いた真の目的は、“『モナリザ』(ママ)にあったとしたり(75頁)、『モナ・リザ』の微笑は微笑ではなかったと主張し、「モナリザの微笑」とわれわれが称してきたのは、大きな誤りであったという(239頁)。はたまた、「モナリザのゲマトリア(数秘学)」と鏡文字とむすびつけて、そこに「モナリザの予言」があるとしている(231頁~232頁)。

「モナ・リザ」の呼称について、誤解しないように付言しておく。
「モナ・リザ」(ルーヴル美術館)という肖像画には3つの呼び名がある。
イタリア語圏では、「ラ・ジョコンダ」、フランス語圏では「ラ・ジョコンド」、英語圏では「モナ・リザ」と呼ばれる。
「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼によりモデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」が「モナ・リザ」と呼ばれ始めるのは、ダ・ヴィンチの没後31年、1550年にヴァザーリによって書かれた『ルネサンス画人伝』あたりからである。
そのため、後の美術史家の中には、ルーヴル美術館にある「モナ・リザ」はダ・ヴィンチのいう「故マニフィーコ・ジュリアーノ・デ・メディチ閣下の依頼によりモデルによって描かれたフィレンツェのある婦人像」ではない、と唱える者もいる。また、「モナ・リザ」に関してダ・ヴィンチが描いたデッサンが一つも見あたらないことも美術史家を悩ませている。
(佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社、2011年、92頁)

【佐藤幸三『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』実業之日本社はこちらから】

[カラー版]モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか (じっぴコンパクト新書80)

鏡面文字の謎


ところで、「モナ・リザ」の謎と共に、鏡面文字の謎もまた、その動機について推理が繰り返されてきた。現存するレオナルドが記した手稿は5千枚ばかりである。しかし実際は2万枚以上あったといわれる。これらの膨大な数の手稿を、何故、判読しにくい鏡面文字でレオナルドは書いたのか。これも謎である。

先述したように、鏡面文字の謎は、単に左利きが原因であるとか、秘密保持の手段としての暗号化では片づけられない問題を含んでいることに気づく。つまり、この問題は、レオナルドの生い立ちや境遇と密接に関わることが、北川健次氏の著作を読むとわかる。

前置きが長くなったが、この点について、詳述しているのが、北川健次氏の次の著作である。
〇北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
〇北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年
ここでは、後者の著作を参照にしながら、解説しておこう。

「モナ・リザ」のように図像解析学的な面での複雑さはないので、北川健次氏は、次の3点ばかりの推測に絞られるとする。
① 兵器などの様々な研究内容や考察の過程を知られたくないために、意図的に読みにくい鏡面文字で記したという説。
② 反キリスト教的な異端の内容があるために、隠蔽の目的で記したという説。
③ 彼自身が左利きであった事に原因があるとする説。

しかし、西岡文彦氏や若桑みどり氏が指摘する①と②は、推測としては根拠が薄いとみなす。その理由は、鏡に映しながら見ていけば、いとも簡単に内容が読めてしまうからである。
③に関しては、何らかの点で関連があるだろうが、これだけでは説得力不足である。左利きの人は5~8パーセントくらい存在するといわれるが、やはり鏡面文字は異例である。
だから、仮説の数は限られても、決め手を持たない。謎は宙吊りになっていた。

鏡面文字に関する1冊の本が出版された。高津道昭著『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮社、1990年)である。
その切り口は、今までの推測とは角度を異にしていて、なかなかに説得力のあるものである。その内容は次のようなものである。
レオナルドが反転した鏡面文字を書いた理由は、レオナルドが今日のオフセット印刷の原理を既に予見し、自分の本を作るための印刷原稿として、書いたと高津氏はみている。
左右逆向きの版にインクを盛れば、刷った時には反転して正文字が現れると考えている。
(レオナルドは印刷機のための設計図を描き、今日の写真製版の原理をも予見している)
この木で鏡面文字に関する500年間の謎は明らかになり決着がつけられたようにみえる。この本は版を重ね、さらには本国のイタリアにまで伝わって評価されたそうだ。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、15頁~16頁、21頁)

【高津道昭著『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』新潮社はこちらから】

レオナルド・ダ・ヴィンチ 鏡面文字の謎 (新潮選書)

しかし、北川氏は、鏡面文字に関する推測について、次のような疑問や矛盾があると指摘している。
① レオナルドが印刷技術に興味を持った時期と鏡面文字による手稿との関係
通称マドリッド手稿ⅠⅡ(1965年にマドリッドの王立図書館で発見された大量の手稿)から、印刷技術に興味を持った時期が推定されている。つまり、マドリッド手稿が書かれた年代は、1492年~1500年頃だから、レオナルドが40歳~48歳の頃とされる。
その手稿の中には、機械工学に関する素描が頻繁に見られ、印刷技術への集中的な関心と考案がその頃に成された事が窺える。
しかし、鏡面文字による手稿そのものの記述はそれ以前から始まっている。さらに遡れば、レオナルドが21歳の時に小さな紙に描いた最も古い素描の左上に、「1473年8月5日、雪の聖母マリアの日」と早くも鏡面文字で題名が記されている。
その事実は何を意味するのか?と、北川氏は疑問を呈している。

② 正確を期さねばならない人体解剖図において、レオナルドが手稿に描いた心臓の位置は向かって右側、すなわち私たちの側から左胸の正常な位置に描かれている。
それは何故なのか?と、やはり疑問をさしはさむ。
というのは、描かれた図をそのまま印刷した場合、心臓は逆の位置になってしまうはずである。
一方、高津氏は「内臓の位置に関するものの場合は、逆向きに描くのはさすがに気が退(ひ)けたので順向きにしたということだろう」(高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』新潮社、1990年、198頁)と記している。
北川氏は、それではあまりにも根拠に乏しいのではないかと批判している。

③ レオナルドの死後、弟子のメルツィは師の残した手稿の中から『絵画論』の一部分を大変な苦労をして正文字に書き直した後に本として刊行している。
弟子メルツィが常にレオナルドの側にいて最も信頼が厚かった人物であるならば、師から弟子へと、その意図も伝わっていたはずではないだろうかと北川氏は想像している。つまり後に手稿をもって印刷の原版とするならば、何故メルツィは、あえてわざわざ正文字に書き改める必要があったのであろうかとする。

④ その手稿の内容には、あまりにも私的な内面(心情)の吐露や、弟子たちの衣類の購入リストや生活に要した出費代金、メモ程度の類も鏡面文字で書かれている。これらは、およそ出版されるにふさわしくない内容であろう。また、同ページの他の絵や文とは全く脈絡を異にした記述もある。それは何故なのか?と疑問が湧く。

⑤ もし出版を目的とした版下原稿であるならば、全て鏡面文字で記すはずだが、レオナルドの手稿には、拙いながらも正文字で書かれたものもいくつかある。
それは、印刷そして出版における整合性の面からみて、不自然なことではないだろうかと高津説を批判している。

そこで北川氏は、脳科学に関する著作を参照している。すると、美術書では、「謎」とされていた鏡面文字も、脳科学のコーナーでは多分に見られる「常識」であることがわかったようだ。
とくに、興味を引いた本は、マイケル・バーズリー著『左ききの本』(西山浅次郎訳、TBS出版会)だという。
たとえば、史上最も有名な鏡映文字(ママ)は、レオナルドの『ノート』であるが、もう一人実際にこれを書いたのはルイス・キャロルであると記す。
『鏡の中の世界』の中の次の有名な場面も、鏡映文字で書き上げた。
「まあ、これは鏡に映した本だわ!
 これをもう一度鏡に映せば
 字がまた元通りになるわ」――『鏡の中の世界』のアリス
対称(シンメトリー)の世界を偏愛したルイス・キャロルは、特殊な能力を誇示するように、鏡映文字を記したらしい。
ところで、鏡映文字(mirror-writing, フランス語ではécriture en miroir)という言葉は、正常と反対方向に書いてある手書きの文で、個々の字もまた逆になっている。それ故、鏡に映さなければ読むことができない。
このように鏡映文字は定義されている。
バートの見解では、鏡映文字を書く最もよくある年令は、5歳~9歳で、また左ききの子どもの方が多いとする。

北川氏は、他の脳科学の本を参照にして、次の点を指摘している。
すなわち、4、5歳前後を基点として、成長期のある段階において、私達の多くが鏡面文字(左右反転の文字)を書いている。しかし、親からの矯正や、周囲の環境によって修正され、次の成長段階において正文字へと移っていく。つまり、レオナルドにみられる鏡面文字の特異性は異例のことではない。
(私達の視覚の中枢神経と脳の知覚機能との間の情報交換および連結作用の能力が、幼児期には未発達のために実際に左右逆向きの像となって映り、それを見えるままに書いているらしい)

ここで、北川氏は、レオナルドの鏡面文字について疑問を向けている。
すなわち、レオナルドは何故、正文字へと進まず、幼児期の一段階に固執するかのように、鏡映文字を生涯に亘って書き続けたのかという疑問である。
この謎を解く鍵は、レオナルドの「幼年期」に絞られていくとみている。つまり、レオナルドが幼い頃から鏡面文字を書いていたと推察する根拠を、レオナルドと父のセル・ピエロという人物との間に残されている、ささやかな史実の中にあるとする。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日深夜にフィレンツェ近郊、ヴィンチ村から2キロばかり離れたアンキアーノという土地の小さな平屋の中で生まれたとされる。
レオナルドは父セル・ピエロと、カテリーナという女性との間に生まれた庶子(祝福されざる私生児)であった。その幼年期は、悲惨にして哀れなものであったようだ。
代々、公証人の家柄という裕福な家系に生まれた父セル・ピエロは世俗的な野心家であった。レオナルドの誕生から数ケ月後に、フィレンツェの富豪アマドーリ家の娘アルビエーラという若い女性と結婚した。一方、レオナルドの母であったカテリーナは、レンガ職人アントーニオのもとに嫁いでいく。

最初レオナルドは母のもとで育てられていたが、4歳の時に父のもとに、無理やり連れ戻された。その後、母との関係は距離を置いた謎の中に霧化していく。
父が引き取った理由は自己本位なものであった。妻アルビエーラとの間に子供が出来ず、レオナルドを自分の後継者として育てるためであったという。しかし、父はほとんどヴィンチ村の自宅に居つかず、フィレンツェにある公証人としての事務所に一人で居住した。だから、レオナルドの幼年期は遊び相手もおらず、孤独なものであったようだ。

唯一かまってくれたのは、父の弟つまり叔父のフランチェスコという人物であった。それ以外はヴィンチ村の野にあって、唯一人で自然を友として遊ぶ日々であった。そのためであろうか、自然に対する好奇心と観察眼は自ずと育ち、後のレオナルドへと羽化していく。

少年レオナルドは早い時期から利発さを示し、特に算術と絵画においては際立った才能の片鱗を早くも表していた。しかし、父は意外にもレオナルドを後継者としての公証人にはせず、14歳の頃に画家ヴェロッキオの工房へ入門させる。
まるで見限ったかのように、安定したエリートコースである公証人の道から、父はレオナルドを外している。

北川氏は、この事実に注目し、「何故なのか?」と問題を提起している。
代々公証人の家柄であり、フィレンツェ政府の公証人まで務めた野心家の人物ならば、子を自らの後継者とするのが、普通であろう。しかし、そうはせず、画工という、未だ職人としての不安定な立場に甘んじなければいけない職業の方に息子を進ませた。
(このあたり、レオナルドの画才に驚いた父が、息子の才能を開花させるために、友人のヴェロッキオの門を叩いたという話がある。北川氏は、その説を採らず、それは後世という結果論から逆回ししたものとみなす)

息子が算術の計算に長けており、利発な面を幼い頃から発揮していたが、父セル・ピエロに、ある断念があったと想像している。
まず、私生児であった点が考えられる。ただ、ルネサンス期の社会史的な研究を当たってみると、公的な地位に私生児である者の台頭が数多く見受けられるそうだ。
北川氏は、むしろ公証人という職業の具体的な内容の中にあるとみている。公証人は、法律や個人の権利に関する事実を、公に証明するための書類を作成する仕事である。もし、レオナルドがその頃すでに鏡面文字しか書けず、それが既に矯正不可能なまでに身についてしまっていたとしたら、どうであろう。公証人として記さねばならない重要な書類は、無用物と化してしまう。その上、意固地なまでに自分の欲する事のみに専念する性分が、その頃すでに芽生えていたならば、父としても断念せざるをえなかったのではないかと想像している。

レオナルドは文字を覚え始めた当初から、鏡面文字しか書けなかった事を裏付けるものとして、1482年に、ミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロに宛てた、正向きで書かれた有名な自薦状を挙げている。それは、筆跡鑑定によって、他人による代筆である事が立証されている。
何故、自薦状という最も重要な書類を代筆してもらう必要があったのか。
(この問いが、北川氏の推論を間接的に裏付けているという)

北川氏の推論は、次のようなものである。
鏡面文字は何ら謎ではなく、文字を書き始める当初において、誰にでも見られる現象である。しかし、それは親からの矯正や周囲の友人の変化によって次第に正文字へと移っていく。しかしそのデリケートな転機において、親身に接してくれる親や友人が全く不在という状況にあったならば、鏡面文字はそのまま固まっていくのではないかというのである。
(だから、隠蔽目的や印刷原稿とする鏡面文字に対する仮説を否定している)

その特異な例がレオナルド・ダ・ヴィンチではないかとする。
その文字の異形さの奥にレオナルドの不条理の体験があったと推測している。つまり、4歳まで母親の溺愛を一身に受けていた無垢な魂の揺籃の時期に、ある日突然、父親の身勝手な事情によって引き裂かれるように、連れてこられてしまったという体験である。それは魂の絶叫の姿であった。
(レオナルドの後の手稿にある「過剰な感受性が生涯私を苦しめた」という言葉とむすびつけて、想像している)

そして、レオナルドが手稿を綴った時間帯にまで、北川氏は想像をめぐらしている。それは、煩わしい多忙な仕事を終えて就寝につく前の僅かな時間帯がほとんどであったはずとみる。
(そのような貴重な時に、隠蔽をするために、あるいは後に出版をするという目的のために、一字、一字をわざわざ反対に置き換えて書いていくであろうかと再度、疑問を呈している。それは思考の展開の速度を遮るはずであるという)

ところで、北川氏は、かつてロンドンの大英博物館で、レオナルドのオリジナルの鏡面文字を実際に見たそうだ。
その鏡面文字は、崩しを入れた早い速度で書かれたものであり、充分に書き慣れたものであったという。つまり、速筆であった(この速筆であるという事が鏡面文字の謎を解くキーワードであるとする)。その速度感は、レオナルド(人類が生んだ最大の知的怪物)の思考の鋭い走りを如実に映したものであるとみている。
その速さに似た例を、同じ大英博物館で見たという。それはモーツァルトのオリジナル楽譜である。それは全く修正なく記された音符の揺るぎない走りであったようだ。そこには「天才」という稀人の脳髄の中を疾駆するデモニッシュなものの存在さえ感じられ、不気味さすら覚えたと北川氏は述べている。
レオナルドの場合、鏡面文字でしか書けなかった事、そして左利きであった事は、めまぐるしく移るその思考の走りを瞬時に定着していくには、結果論的にみて好都合であったと推察している。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、15頁~42頁)

【北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社はこちらから】

絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)


北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社、2004年
【北川健次『モナ・リザミステリー 名画の謎を追う』新潮社はこちらから】

「モナ・リザ」ミステリー

レオナルドの手稿の謎めいた記述


レオナルドの手稿の中で最も異様で、謎めいているといわれる「原風景」についての記述がある。
それは、レオナルドと鳶にまつわる何やら意味ありげな独白である。次のようにある。
「このように鳶について克明に書き記すことは、私に定められた運命のように思われる。というのは、私の幼年期の最初の思い出によれば、私が揺り籠の中にいた時、一羽の鳶が私の所に飛んで来て、尾で私の口を開かせ、私の唇の内部を何度もその尾で打ったように思われたからである」
(斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』岩波書店)

この記述を実際の確かな記憶と見るか、現実を作り変えてみるフィクショナルなものとするかは意見が分かれる。出自を運命的なものにしようとするレオナルドの過度な自意識の傾きが、ここにあるといわれる。
フロイトは、手稿に登場する鳥の尾を、レオナルドを溺愛する母カテリーナであると分析している。
北川氏は、この記述には不穏の気配が付きまとうとみて、口唇愛の発芽の予感とする。手稿に出てくる鳶とある人物が重なるという。
その人物とは、レオナルドの父セル・ピエロの弟、フランチェスコである。この叔父については、今も残る、役所に提出された資産申告書の中に「21歳になっても何もせずに村にいる」と記されていた。

レオナルドが少年になり、やがて長じてからも二人の間には、深い交流があった。それはフランチェスコが死ぬまで続き、レオナルドに遺産全てを贈ろうとまで言い遺している。
叔父フランチェスコは、私生児として孤独な日々にあった少年レオナルドに、父とは対照的に出世欲もなく、気立てが優しかった。叔父は唯一人、親身になって接してくれた。
叔父はレオナルドを深い谷間に連れて行き、空翔ぶ鳥の翼の秘密について語り、野に咲く花のもとに導いて様々な自然の神秘へといざなった。そして、宿命のように、幼いレオナルドに関わったようだ(今一つの顔を内に秘めた男色家であったという)。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、152頁~155頁)

レオナルドの終末的なヴィジョン


レオナルドの絶筆となった「洗礼者ヨハネ」を不気味な絵の到達点と北川氏はみている。
洗礼者ヨハネ、愛人サライ、そしてダ・ヴィンチ自身の三重相から成る妖しいまでの肖像画であるとする。人類死滅後の闇を予言的に描いたメッセージがここに在るという。
この「洗礼者ヨハネ」には、歪みを呈したような異様な微笑が漂っている。その微笑みは、「モナ・リザ」で表したような美の理念から程遠い。むしろ、レオナルドの夜の相貌ともいえる、淀んだ澱のように暗くて淫蕩な倒錯の開示があるとみている。

そして、ヨハネは、異教的、両性具有的、さらには悪魔的な気配をさえ帯びている。そのうねる頭髪は、人類をついには破滅へと導くであろう大洪水の、「水」の暗喩であると解釈している。人類の破滅の予感を警告ではなく、冷笑をもって予言していたのではないかという。

レオナルドは、「水とは何か?」(Che cosa e acqua?)から始まる「水の断章」を書いている。
最初は湧き水のような静かな叙述から始まって、やがて、終末的な幻想(ヴィジョン)となる。
「ああ、すさまじい雷鳴とそこから発する稲妻に引き裂かれる暗い大気を通して、いかばかり恐ろしいとどろきが響き渡っていたことか。稲妻は破壊を求めて大気中を走り、行く手を阻むものを打ち砕いていた。ああ、闇の大気に響き渡る雨混じりの暴風や天空の雷鳴や狂暴な稲妻の大音響を遮ろうとして、いかに多くの人びとが両手で耳を塞ぐのを君は見たことであろうか。(中略)
人びとを満載した巨大なオークの太枝が、暴風の猛威によって空中を吹き飛ばされていくのが眺められた」
(斎藤泰弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』岩波書店)

こうした終末的な幻想となっている。そして最後に、「洗礼者ヨハネ」の背景に描かれた全くの光なき死の世界(底なしの無明の闇)へと化していくとする。

レオナルドが到達した最終ヴィジョンを具体的に表したものとして晩年に描いた夥しい数の「大洪水の光景」のデッサンがある。それらは、ウィンザー王立図書館に残っている。そこには、人類への警告ではなく、人類の愚かさが生んだ必然的な運命を嘲笑するかのように冷徹な視線が感じられると北川氏は述べている。

レオナルドが何故、晩年に至って、取り憑かれたように大洪水への幻視へと至ったのか。
ここで、北川氏は、脳科学でいわれる、扁桃体の発育不全と愛情の不毛な中で育った事との関係について言及している。
脳科学の分野では、「扁桃体の発育不全は、幼年期に体験した恐怖が、消えることのないフラッシュバック的な映像となって、その人を生涯襲い続ける」といわれている。

レオナルドも、母親カテリーナと別れ、愛情の不毛な中で育った。この事は、レオナルドが描いた「聖アンナと聖母子」の画中に結晶化したようだ。
つまり、アンキアーノで実際に起きたレオナルドの母子別離の悲劇は、画中で、マリアによって仔羊との間を引き裂かれるキリストに変容した姿となったと解釈されている。

そして実は大洪水の幻視もまた、レオナルド4歳のときの実際の体験に基づいている。
それは、次の事実から見てとれる。マキャヴェリ(ルネサンス期の政治思想家で歴史家。『君主論』は有名)は『フィレンツェ史』の中で記している。
「1456年8月に起きた、トスカーナ地方に空前絶後の記録的な被害をもたらした驚くべき竜巻が通過した」と。
間違いなく当時4歳のレオナルドはそれを目撃したはずである。後の大自然が孕む猛威に注視する視線がその時に萌芽したとみられている。

例えば、『レオナルド・ダ・ヴィンチの謎 天才の素顔』の著者斎藤泰弘氏は、レオナルドの「大洪水」の素描と、先に引用した「水の断章」の文章とを併せながら、「ここには、世界滅亡の絵巻物を広げながら、眼前に展開する恐怖の光景に忽然と見とれている老人の姿がある」としている。
そして、「そこには、恐ろしい竜巻に魅入られている4歳の子供の面影が二重写しになって見える」とも記している。

レオナルドのヴィジョンが有する迫真的なまでのリアリティーは、実際の体験を裏付けたものであると北川氏もみている。
そしてレオナルドは、無意識へと連なる自己の深層の部分に対しても、醒めた分析を絶やさず、深い洞察をしていることが窺える。
(北川健次『絵画の迷宮 ダ・ヴィンチ、フェルメール、ピカソ、ダリ、デュシャン』新人物往来社、2012年、155頁~159頁)

【北川健次『絵画の迷宮』新人物往来社はこちらから】

絵画の迷宮 (新人物往来社文庫)