歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪産業革命~高校世界史より≫

2023-07-31 19:00:06 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪産業革命~高校世界史より≫
(2023年7月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、産業革命に関して、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

なお、産業革命について、次の著作により、補足説明しておく。
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
〇斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年[2021年版]




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・産業革命の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・産業革命の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
【補足】
・各国の産業革命について~浜林正夫『世界史再入門』より
・産業革命について~斎藤幸平『人新世の「資本論」』より






産業革命の記述~『世界史B』(東京書籍)より


産業革命について、『世界史B』(東京書籍)では、次のように述べている。

第15章 欧米における工業化と国民国家の形成
2 工業化による経済成長と社会問題の発生
【ヨーロッパの人口増加と農業革命】
 イギリス・オランダ・北フランスなど北西ヨーロッパを先頭に、西ヨーロッパでは、18世紀前半には休耕地を設けない輪作法など新農法が普及して農業生産力が増大し、家畜の品種改良ともあいまって食糧事情は好転した(農業革命)。貿易の拡大は大都市の経済を活性化させ、農村の一部には海外輸出を目的とした問屋制の手工業を発展させた。14世紀から猛威をふるってきたペストも、西ヨーロッパでは18世紀前半には姿を消した。こうした好条件のなかで、ヨーロッパ諸国の人口は持続的な増加局面に入った。人口の増加が穀物の需要を高めると、イギリスでは、大地主が村の共用地や小作地を囲いこんで大農場とし(第2次囲いこみ)、市場向けの大規模な穀物生産が発展した。小農や小作農は自分たちの農地や仕事を失い、大農場で農業労働者となるか、都市へ移住して工業化を支える工場労働者となった。
 
【イギリスではじまった産業革命】
 18世紀後半のイギリスでは、世界に先がけて工場における生産の機械化と動力化が開始された。産業革命(Industrial Revolution)の開始である。農村の余剰人口が工場労働者を準備する一方、マニュファクチュアによる時計工業などの飛躍的発展が、精密な機械をつくる技術を用意した。国内では立憲王政のもとで政治が安定し、自由な経済活動をさまたげる特権やギルド組織も除去され、意欲的な企業家があらわれていた。オランダやフランスとの覇権抗争での勝利や大西洋三角貿易は、産業革命の前提となる資本を十分に蓄積させ、原料や市場を世界規模で確保させた。
 インド綿布と同様の綿織物を自国でも生産したいという動機が、奴隷貿易で繁栄した港町リヴァプールに近いマンチェスターで綿工業を勃興させた。従来の主要産業であった毛織物生産のために開発された飛び梭が、18世紀後半には綿工業に応用され、さらに織布や紡績の機械が改良されていった。機械を動かすエネルギーは、18世紀にはまだ水力が主流であったが、ワット(Watt, 1736~1819)が改良した蒸気機関が自然力や人力をこえた新たな動力源を用意した。
 産業革命による機械化の進展は、機械をつくる機械工業やその素材を提供する製鉄業を発展させた。すでに18世紀前半には、木炭のかわりに石炭を加工したコークスを燃料とする製鉄法が、ダービーによって開発されていた。また、この時期のイギリスでは、十分な石炭と鉄鉱石が産出されていた。石炭は、蒸気機関の燃料ともなった。
 
<製鉄法>
はじめのうち製鉄で大量に用いられた木炭は、原料伐採による森林枯渇をもたらしていた。コークス使用によってこれがくいとめられ、19世紀からは森林復活に転換するが、石炭の活用は煤煙による大気汚染という別の環境破壊の原因となった。

【工業化と都市の発展】
 産業革命によって、農業ではなく工業が経済の主軸となる。しかしイギリスの産業革命は、18世紀中に完了したわけではない。綿工業では、はじめ紡績の機械化が急速にすすんだが、糸の供給が容易になったことで、かえって織布の家内手工業が発展した。織布においても機械制工場が圧倒するのは、1830年代以降であった。
 工業が経済の主軸として発展する一連の長期的過程を、一般的に工業化という。工業化は流通や消費のあり方も大きく変化させ、都市を発展させた。イギリスのリヴァプールやマンチェスター、バーミンガムのような商工業都市がその典型である。また機械制工場は、職人による自律的な手仕事ではなく、機械のリズムに適合した、時計の時間を単位として管理される労働形態を普及させていった。
 
【交通・運輸の革命】
 大量の原料や商品を運搬するために、18世紀から運河の建設や道路整備も推進された。
 1825年にスティーヴンソン(Stephenson, 1781~1848)が蒸気機関車を実用化すると、イギリスでは鉄道建設が急速にすすみ、19世紀半ばまでには鉄道網が完成した。同時期にはまだ幹線のみであった大陸諸国でも、19世紀後半には鉄道網の構築がすすんだ。鉄道建設は大量の鉄需要をもたらし、製鉄業をさらに発展させ、石炭業も成長した。また、1807年にアメリカ合衆国のフルトン(Fulton, 1765~1815)が開発した蒸気船は、19世紀半ばから急速に改良されて海上交通を発展させた。鉄道や汽船の進歩は世界各地の結びつきを迅速にし、人やものの動きを容易にしていった(交通革命)。
 
【産業革命の波及と新しい世界秩序】
 産業革命で先行したイギリスは、19世紀には「世界の工場」として、繊維製品のみでなく工作機械を含めた工業製品や資本輸出を武器に、世界経済の覇権を握った。他の国々は、先行するイギリスに対する経済的な従属や依存をさけるため、これに対抗して工業を発展させる必要にせまられた。とくに資本蓄積や技術革新の欠如、労働力の不足や国内市場の未成熟など、産業革命の前提が十分でなかった後発資本主義国では、政府による資本援助や保護関税などの助成政策によって、鉄道や機械などの重工業部門を中心に産業革命が推進された。
 ナポレオン戦争後に解禁されたイギリスからの機械と技術の輸出は、ベルギーやフランスで工業化を促した。しかしフランスでは、その進行は緩慢で、七月王政(1830~48)をへて製鉄業の発展した第二帝政期(1852~70)にようやく本格化した。ドイツでは、プロイセンが関税同盟による統一市場の形成をすすめた1830年代から、鉄道建設と軍備増強をテコにした重工業中心の産業革命がすすめられた。アメリカ合衆国では、1810年代のアメリカ=イギリス戦争(米英戦争)のころから機械化がはじまり、南北戦争期(1861~65)に北部で本格化した。アメリカ合衆国と統一後のドイツは、19世紀末に工業生産力ではイギリスに追いつき、追いこすまでに成長する。ロシアや日本では19世紀末から、国策による産業革命が推進された。
 19世紀を通じて欧米世界で展開した技術革新と工業化は、経済活動の世界規模での膨張と長期的な経済成長をもたらした。産業革命を達成した国々は、国際政治経済のなかで少しでも有利な位置を占めようと、国内体制の整備のみでなく植民地拡大にも力を入れるようになる。そのなかで世界は、パックス=ブリタニカ(イギリスのもとでの平和)といわれるようにイギリスを中心として、それを追いあげる一群の後発資本主義国と、さらにアジア・アフリカ・ラテンアメリカの周辺的諸国や植民地へと再編され、相互に関連しあう一体化がすすんだ。
 
【社会問題と労働運動の誕生】
 18世紀後半にイギリスのアダム=スミス(Adam Smith, 1723~90)は『諸国民の富』を著し、自由な経済活動と市場経済の発展を理論化した。自由主義の経済思想は、マルサス(Malthus, 1766~1834)やリカード(Ricardo, 1772~1823)らに受けつがれて今日の経済学の原型となり(古典派経済学)、政治的な自由主義とも結びついた。これに対してドイツのリスト(List, 1789~1846)は、後発資本主義国の立場から、国家による産業の保護育成の必要を唱え、のちの歴史学派経済学の先がけとなった。
 都市化が進行した19世紀のヨーロッパ諸国では、中流・上流の社会階層がコンサートやオペラ、演劇やバレエなどの芸術表現をはじめ、都市の娯楽や消費生活を楽しむようになった。そのいっぽう、労働者の場合には、住居をはじめとした生活条件は劣悪で、工場では安い労働力として10時間以上の労働を強いられた。とくに19世紀半ばまでは、工場の安全性が無視されていただけでなく、都市では、貧困や犯罪が問題となり、1830年代からくりかえし生じたコレラ流行に示されたような衛星問題が深刻になった。上下水道の整備は急務であった。また、犯罪を取り締まるための近代的な警察機構が、多くの国で組織されはじめた。
 都市の生活環境や労働のあり方をめぐる、さまざまな社会問題を重視した人々が、現状調査を開始した。さらには労働者を組織して、その生活や待遇の改善を求める運動が多様な形で推進されはじめたのも、19世紀であった。社会改良運動や、労働運動の誕生である。低賃金の長時間労働や劣悪な労働環境の改善、女性や児童の酷使の廃絶などが、緊急を要する重大な労働問題であった。

<総人口に占める都市人口の割合(%)> 
         1851年      1886年      1911年
 イギリス    52.2        69.4       78.1
 ドイツ     36.1        53.0       60.0
 フランス    25.5        35.9       44.2
(都市人口の増加 ベルトラン、グリゼ『フランスの経済成長 1815-1914』1988年)
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、268頁~272頁)

産業革命の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


『詳説世界史』(山川出版社)では、産業革命について、次のように述べている。

第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立1 産業革命
【世界最初の産業革命】
 工業中心の社会をうみだした産業革命は、まずイギリスでおこった。イギリスでは近世にはいって商工業が発達し、豊かな国内市場と有利な投資先を求める資本が用意されていた。また国家が重商主義政策をとり、17世紀後半にオランダ、18世紀にフランスをおさえて広大な海外市場を確保した。他方、市場向け生産をめざす農業が発達し、産業革命期に急増する都市人口を支えた。大地主は中小農民の土地や村の共同地をあわせて大規模な農地をつくり(第2次囲い込み)、すすんだ技術をもった農業資本家にこれを貸し出して経営させた(農業革命)。
土地を失った農民は、農業労働者や都市の工業労働者となった。さらにイギリスは、石炭・鉄などの資源にめぐまれ、また17世紀以来、自然科学と技術の進歩もめざましかった。
 このような条件がととのっていたイギリスでは、新しい生産技術が発明されれば、これを応用して工業生産の拡大に役立てることができ、18世紀後半に世界最初の産業革命を経験することになったのである。

【機械の発明と交通機関の改良】
拡大する市場に向けての大量生産を可能にする技術革新は、まず綿工業の分野で、マンチェスターを中心に始まった。従来イギリスのおもな工業は毛織物業であったが、17世紀末には、インドから輸入された、より軽い綿布の需要が高まった。綿布と、その原料である綿花は、大西洋の三角貿易で重要な商品となり、綿工業がイギリス国内に発達した。
1733年、ジョン=ケイ(John Kay, 1704~64頃)によって飛び杼が発明されると、綿織物の生産量が急速に増えて綿糸が不足した。その結果、ハーグリーヴス(Hargreaves, 1720頃~78)の多軸紡績機(ジェニー紡績機、1764年頃)、アークライト(Arkwright, 1732~92)の水力紡績機(69年)、クロンプトン(Crompton, 1753~1827)のミュール紡績機(79年)などがつぎつぎに発明され、良質の綿糸が大量に生産されるようになった。そこで再び織物機械の改良がうながされ、85年、力織機がカートライト(Cartwright, 1743~1823)によって発明された。また18世紀初めにニューコメン(Newcomen, 1663~1729)が蒸気力によるポンプを発明していたが、1769年にワット(Watt, 1736~1819)が蒸気機関を改良すると、これが水力にかわって紡績機や力織機などの動力として利用され、生産の効率をさらに高めた。
 このような紡績・織布・動力の諸部門における発明は綿工業を繁栄させ、資本家は多数の労働者を雇用する機械制の大工場の経営に乗り出した。それにともなって、機械を製造する機械工業、機械の原料である鉄をつくる鉄工業、蒸気機関や溶鉱炉で使われる石炭を生産する石炭業など、ほかの部門も飛躍的な発達をとげた。
大規模な機械制工業が発達すると、大量の原料・製品・石炭などをできるだけはやく安く輸送するため、交通機関の改良の必要がうまれた。18世紀後半には国内の輸送路として運河網が形成されたが、19世紀にはいると鉄道がこれにかわった。スティーヴンソン(Stephenson, 1781~1848)により1814年に製作された蒸気機関車は、25年に実用化され、30年にはマンチェスター・リヴァプール間の旅客鉄道が開通した。これ以後、鉄道は公共の陸上輸送機関として急速に普及した。また1807年には、アメリカ人フルトン(Fulton, 1765~1815)が蒸気船を試作した。こうして19世紀には交通・運輸の一大変革(交通革命)がおこり、世界各地を結ぶ産業・貿易・文化の交流発展に貢献した。
産業革命の結果、イギリスは良質で安価な工業製品を大量にヨーロッパ内外の市場で売りさばき、「世界の工場」の地位を獲得した。それは最初ヨーロッパ諸国の産業を圧迫したが、ナポレオンの没落後、イギリスが機械技術の輸出を解禁すると、まずベルギーやフランスに産業革命が波及した。

【資本主義体制の確立と社会問題の発生】
産業革命をとおして、イギリスは農業中心の社会から工業中心の社会(産業社会)に移行した。産業革命以前の工業は手工業に基づくもので規模も小さく、農家の家内工業やギルド制手工業が残存していた。ところが産業革命によって大規模な機械制工場が出現し、大量生産で安価な商品が供給されはじめると、従来の家内工業や手工業は急速に没落した。一方、大工場を経営する資本家(産業資本家)は経済の大勢を左右するようになり、社会的地位を高めた。こうして資本主義体制が確立した。
産業革命の結果、それまでの生活様式は激変し、伝統ではなく進歩こそが望ましいものとされるなど、人々の生活感情や価値観も大きく変化した。都市への人口集中の結果、たとえば、マンチェスター・バーミンガムのような大工業都市や、リヴァプールのような大商業都市がうまれた。大規模な工場で働く労働者は、規律正しく働くことを強く求められるようになり、また団結する機会が増えたことで、労働者階級としての意識にめざめて、労働組合を結成した。他方、分業がすすんで、女性や子どもも工場や鉱山で働くことが可能になったが、当時の資本家の多くは利潤の追求を優先して、労働者に不衛生な生活環境のもとでの長時間労働や低賃金を強制した。そのため労働者と資本家の関係は悪化し、深刻な労働問題・社会問題が発生する一方、社会主義思想など、その解決をめざす思想も誕生した。

<イギリス主要都市の人口(単位:万人)> 
都市名         1750年      1801年      1851年
 ロンドン       67.5        96.0       236.2
 バーミンガム     2.4        7.1         23.3
 リヴァプール     2.2        8.2         37.6
マンチェスター    2.0(1757年)    7.5         30.3
グラスゴー      ―         7.7        34.5
 ※産業革命期の商工業都市の急速な成長が明らかである。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、241頁~245頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


産業革命について、英文でみてみよう。

Chapter 15 Industrialization in the West and the Formation of Nation States
2 Industrialization and Social Problems
■Increase in European Population and Agricultural Revolution
In western Europe in the early 18th century, agricultural productivity grew by
encouraging new farming methods like the crop rotation system(輪作法). In addition to breed improvement of farm animals, food conditions changed for the better
(the Agricultural Revolution 農業革命) . Enlargement of trade stimulated the economy in major cities and some farming communities developed a wholescale handicraft industry
(問屋制手工業) to export abroad. The plague that spread from the 14th century disappeared in the midst of the 18th century in western Europe. Under favorable conditions, the population of Europe entered the sustainably increasing phase. Increase in population created increased demand for grain, and it caused large landowners to enclose common lands and crofts to make a large farm (second enclosure 第2次囲い込み),
and then large-scale grain production for market was developed. A large number of farmers
lost their jobs and lands. Some of them became agricultural laborers in larger ranches and
others became industrial laborers to support industrialization by moving to the urban areas.

■The Industrial Revolution in Britain
The world’s first mechanization and motorization of production in factories began in
Britain in the latter part of the 18th century. Surplus population prepared for the labor
force on the one hand, and on the other hand, rapid progress of the industry like the watch
industry by “manufacture(マニュファクチュア)” provided the skill to make accurate machines. In the domestic constitutional monarchy political stability was realized,
and aspiring entrepreneurs appeared by eliminating guild organizations which prevented free economic activity. Victory in the struggle for supremacy fully made accumulated capital which was prerequisite to industrial revolution, and secured the material and market on a global scale.
Motivation to domestically produce cotton textile equivalent in quality to Indian cotton
textiles created the cotton industry in Manchester(マンチェスター) near Liverpool, a port town which had prospered in the slave trade. The technology of flying shuttles(飛び梭) developed for the woolen industry which had been the main traditional industry was applied to the cotton industry in the latter 18th century, and moreover fabric cloth weaving
machines and spinning machines were improved. In the 18th century, hydro-power
was employed on many sites in Europe. However, the steam engine(蒸気機関) ameliorated by Watt(ワット) became a new power source surpassing the elemental power and human power.
Progress of mechanization by the industrial revolution(産業革命) developed the machinery industry which made machines and the steel industry to provide its material.
In the early 18th century, Darby had developed ironmaking process fueled by coke, which was processed from coal instead of charcoal. Fortunately Britain in this period produced sufficient coal and iron ore. Coal was also used as fuel for steam engines.

■Industrialization and Urban Growth
Through the industrial revolution, the manufacturing industry, not agriculture, became
a key factor of the economy. However the industrial revolution was not completed during
18th century. The cotton industry made rapid progress with spinning mechanization, but in
fact the domestic handicraft industry of fabric cloth developed since the supply of thread
became plentiful. It was sometime after the 1830s when the mechanical factory prevailed.
Generally, industrialization is referred to the long term process of the development of
industry to become a major factor of the economy. Industrialization significantly changed
the methods of distribution and consumption, and it made it easier for cities to develop.
Typical examples are industrial cities like Liverpool, Manchester, and Birmingham in
Britain. Moreover, mechanical factories spread labor patterns which were managed on an
hourly basis in order to conform laborers to the rhythm of machines, instead of self-reliant
handiwork by craft workers.

■Revolution of Traffic and Transport
From the 18th century canal construction and road improvement were promoted in order
to convey commercial products and materials for mass production.
After Stephenson put steam locomotives to practical use in 1825, railway construction
rapidly advanced in Britain and railway networks were completed by the middle of the
19th century. During the same period, nations on European continent had only artery
railways, but in the latter half of the 19th century construction of railways system advanced
Railway construction created large demand and developed the iron and coal industries.
Moreover, the steamboat developed by Fulton, an American, in 1807, was rapidly improved
from the middle of the 19th century, and improved marine traffic. The progress of railway
and steamboat connected the whole world, and it made the movement of people and goods
easier (the traffic revolution 交通革命).

■Spread of the Industrial Revolution and New World Order
Britain, which was given an advantage in the industrial revolution, gained world
economic hegemony as the “world factory(世界の工場)” due to export of not only textile products but also industrial products and capital. Other countries were driven by necessity
to develop their industry against Britain in order to avoid economic subordination. Many
less developed capitalist countries were unable to satisfy the condition of the industrial
revolution, especially due to their lack of capital and technological innovation, labor
scarcity and immature domestic markets. Consequently, each of such countries promoted
the industrial revolution with a focus on the heavy industry sector, like railways and
machines, subsidized by the government with capital assistance and protective tariffs.
Lifting a ban on export of machines and techniques from Britain after the Napoleonic
Wars encouraged industrialization in Belgium and France. However, in France its progress
was slow. After the July monarchy, and finally in the second imperial period when the
iron industry developed, the industrial revolution began to hit its stride. In Germany
from the 1830s when Preussen promoted building the common market by the customs
union, the industrial revolution was promoted focusing on the heavy industry with
railway construction and arms buildup as a driving force. In the United States of America,
mechanization began since around 1810s, and developed in earnest in the northern part
of the country during the period of the Civil War. At the end of the 19th century Germany
after the unification and the United States of America caught up with Britain in industrial
productivity, and developed to the point of overtaking Britain.
In Russia and Japan, from the end of the 19th century, the industrial revolution was
promoted by the national policy.
The technological revolution and industrialization advanced in the Western world led to
expansion of worldwide economic activities and long term economic growth through the
19th century. Countries which achieved industrial revolution made a strong effort not only
to improve and strengthen their domestic regime but also to enlarge colonies in order to
have an advantage over the international political economy. The world promoted unification centering around Britain, which was called Pax Britannica (peace under Britain パックス=ブリタニカ) . This led to reorganizing groups of the less developed capitalist countries which tried to catch up with Britain, groups of colonies, and other countries in Asia, Africa and Latin America.

■Social Problems and the Birth of Labor Movement
In the late 18th century, Britain’s Adam Smith(アダム=スミス) wrote The Wealth of Nations(諸国民の富), where he theorized free economic activity and development of market economy. Liberal economic thoughts succeeded by Malthus and Ricardo became prototype of economic today (classical school of economics 古典派経済学), and were also connected with political liberalism. In contrast to this, Germany’s Friedrich List stated the need for protecting and nurturing industry by the state as a less developed capitalist country. He became a pioneer for the historical school of economics(歴史学派経済学) in the future.
In the 19th century, when modernization progressed, middle and high social classes enjoyed urban entertainment such as concerts, opera, theater and ballet. On the other hand, laborers were in very poor life conditions including their dwellings. They were forced to work more than 10 hours a day at low wages in factories. Especially until the middle of the 19th century, not only the safety of factories was ignored, but also urban cities had problems with poverty and crime. Hygiene issues became more serious as shown in repeated cholera epidemics from the 1830s. It was urgently necessary to build the water and sewage systems. Many countries started to organize a modern police structure in order to control crime.
It was in the 19th century that people, who emphasized social problems(社会問題) such as the urban living environment and labor conditions, organized laborers and promoted a variety of movements to improve labor’s life and treatment. It was the birth of the social reform and labor movements. Urgent critical labor issue(労働問題) was to improve cruel working condition with low wages and long hours by working and to eliminate exploitation of women and children.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、212頁~216頁)

各国の産業革命について~浜林正夫『世界史再入門』より


浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫、2008年[2012年版])は、ヨーロッパの各国の産業革命の特徴について、簡潔にまとめている。

第6章 資本主義の時代
1 産業革命
 17世紀に二度の革命をおこない、地主と資本家が中心を占める議会が権力を握ったイギリスでは、これまで生産力発展の障害となっていたギルド制や農村の共同体規制が最終的にとりはらわれ、国内市場や、植民地を中心とする海外市場も大きくひろがったので、新しい技術の開発もすすみ、1760年ごろから生産のめざましい発展がみられ、それに応じて社会の構造も大きく変化した。こういう技術革新による生産力の飛躍的発展とそれにともなう社会の変化のことを産業革命という。
 産業革命における技術革新は「道具から機械へ」という点に中心があった。道具というのは人間が直接に作業機を動かすもので、イギリスでは16世紀の中ごろから労働者を一カ所にあつめ、分業と協業によって生産を拡大する新しい経営方式が生まれていたが、ここではまだ機械は使われず、技術的には道具にたよっていたので、こういう経営は工場制手工業(マニュファクチュア)とよばれる。これにたいして機械というのは動力を使い、この力を作業機につたえてこれを動かすもので、風力や水力も一種の動力であるが、人間がつくりだす動力(産業革命期には蒸気、のちに電気、原子力)を用いるようになったところに産業革命のさいの技術革新の中心があった。
 産業革命のトップをきったのは綿工業であった。イギリスには毛織物産業の長い伝統と技術の蓄積があり、これにアメリカ合衆国南部で生産されるようになった綿花という豊富で安い原料が結びついて、イギリスの原綿消費量は1780年代に5倍近くにふえ、1790年から1840年までにさらに約15倍にふえた。これにつづいて製鉄業と石炭業が発展し、また工作機械の発明によって機械産業がおこり、さらに鉄道と蒸気船によって運輸交通の面でも交通革命といわれるほどの技術革新がおこった。
 産業革命によってイギリスは農業国から工業国へ転換し、イギリスの農業人口は1820年にすでに国民の3割以下となった。人口の都市集中がはじまり、環境破壊も目立つようになった。しかし産業革命の最大の産物は労働者階級の誕生である。農民や手工業者は没落し、土地をとりあげられ、他人に雇われて賃金をもらって働く以外に生活することのできない労働者となり、19世紀のはじめには労働者が国民の過半数を占めるようになった。
 イギリスにつづいてフランスやドイツでも産業革命がはじまった。しかしこれらの国ぐにやそれ以後に工業化にふみだした国の場合には、イギリスとの競争という圧力のなかで、多かれ少なかれ、封建制の遺物をかかえたままの工業化であったので、イギリスのような生産力の順調な発展をとげることはできなかった。フランスでは革命のさいに農民解放がイギリスよりも徹底しておこなわれたために多くの自作農が生まれ、このため農業国からなかなか脱しきれず、ドイツでは1807年にはじまる農民解放がきわめて不徹底なものであったので、ユンカーというプロイセンの地主が大きな勢力をもちつづけ、工業の発展はなかなかすすまなかった。ロシアや日本の産業革命はさらにおくれ、20世紀以降のこととなる。
 こうしてイギリスは世界最大の工業国となり、「世界の工場」とよばれるようになった。19世紀の中ごろ、イギリスは世界の石炭総生産量の3分の2、鉄の半分、自家消費用以外の綿布の半分を生産し、世界のすみずみにまでその製品を売りさばいていた。世界中のおもな国ぐにの鉄道もイギリスの資本と技術でつくられた。世界の経済はイギリスを中心としてまわるようになり、ポンドが世界通貨となった。19世紀の終わりまでに世界の主要資本主義国は金本位制を採用するようになったが、それはイギリスがまず金本位制をとってポンドと金を結びつけ、その他の国ぐにへもこれをおしつけたためであった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、176頁~180頁)

産業革命について~斎藤幸平『人新世の「資本論」』より


斎藤幸平氏は、イギリスの産業革命について、現在の気候危機と関連させて、独自の“斎藤節”で論じている。その一部を紹介しておこう。
資本主義の生み出す希少性とコミュニズムがもたらす潤沢さの関係を説明するのに役立つのが、マルクスであると、斎藤幸平氏は理解している。
『資本論』第一巻の「本源的蓄積」論を紹介している。

▶「本源的蓄積」が人工的希少性を増大させる
 「本源的蓄積」とは、一般に、主に16世紀と18世紀にイングランドで行われた「囲い込み(エンクロージャー)」のことを指す。共同管理がなされていた農地などから農民を強制的に締め出したのだ。
 なぜ、資本は「囲い込み」を行ったのか。利潤のためだ。利益率の高い羊の放牧地に転用したり、あるいは、ノーフォーク農法のような、より資本集約度の高い大土地所有の農業経営に切り替えたりするために、囲い込みは実施されたのである。
 暴力的な囲い込みによって、住まいと生産手段を喪失した農民は都市に仕事を求めて流れ込んだ。そうした人々が、賃労働者になったとされる。囲い込みが資本主義の離陸を準備したのである。(中略)
 本当は、この囲い込みの過程を「潤沢さ」と「希少性」という視点からとらえ返したのが、マルクスの「本源的蓄積」論なのである。マルクスによれば、「本源的蓄積」とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。
 まずは歴史をさかのぼって、この仕組みを詳しく説明していきたい。

▶コモンズの解体が資本主義を離陸させた
 第四章のゲルマン民族やロシアの農耕共同体の議論でも触れたが、前資本主義社会においては、共同体は共有地をみんなで管理しながら、労働し、生活していた。そして、戦争や市場社会の発展によって、共同体が解体されてしまった後にも、入会地や開放耕地といった共同利用の土地は残り続けた。
 土地は根源的な生産手段であり、それは個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだったのだ。だから、入会地のような共有地は、イギリスでは「コモンズ」と呼ばれてきた。そして、人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採取していたのである。森林のどんぐりで、家畜を育てたりもしていたという。
 だが、そのような共有地の存在は、資本主義とは相容れない。みんなが生活に必要なものを自前で調達していたら、市場の商品はさっぱり売れないからである。誰もわざわざ商品を買う必要がないのだ。
 だから、囲い込みによって、このコモンズは徹底的に解体され、排他的な私的所有に転換されなければならなかった。(中略)
 一方、生活手段を失った人々は、多くは都市に流れ、賃労働者として働くよう強いられた。低い賃金のため、子どもを学校に行かせることもままならず、家族全員が必死に働いた。それでも、高価な肉や野菜は手に入らない。食材の品質は低下し、入手できる品の種類も減っていく。時間も金もないので、伝統的な料理レシピは役立たずのものとなり、ジャガイモをただ茹でたり、焼いたりする料理ばかりになっていったというわけだ。生活の質は明らかに落ちたのである。
 ただ、資本の観点からは、様子が異なる。資本主義とは、人々があらゆるものを自由に市場で売買できる社会である。土地を追われた人々は生きるための手段を失い、自分の労働力を売ることで貨幣を獲得し、市場で生活手段を購買しなければならなくなった。そうなれば、商品経済は一気に発展を遂げることになる。こうして資本主義が離陸するための条件が整ったのだ。

▶水力という<コモン>から独占的な化石資本へ
 土地だけではない。資本主義の離陸には、河川というコモンズから人々を引きはがすことも重要であった。河川は飲み水や魚を提供するだけのものではない。その水は、潤沢で、持続可能で、しかも、無償のエネルギー源だったのだ。
 イギリスの産業革命は、石炭という化石燃料と切り離すことができず、そのことが現在の気候危機にもつながっていることを背景に考えてみると、水力の無償性は、非常に興味深い。
 つまり、なぜ無償の水力が排除されたのか、という問いが浮かんでくる。どうやら、ここでも、希少性の問題がからんでいそうだ。潤沢なものを排除し、特定の場所にしか存在せず、それゆえ独占可能で、希少な資源をエネルギー源にすることが、資本主義の勃興に欠かせなかったのだ。
 この点を理解するのに役立つのが、マルクス主義の歴史家アンドレアス・マルムの『化石資本』(2016年)である。マルムは、なぜ人類が水力を捨てたのかを資本主義との関連で説明してくれる。(中略)
 マルムによれば、この移行を説明するためには、「資本」を考慮に入れる必要がある。当時の企業が化石燃料を採用するようになったのは、単なるエネルギー源としてではなく、「化石資本」としてなのだ。
 石炭や石油は河川の水と異なり輸送可能で、なにより、排他的独占が可能なエネルギー源であった。この「自然的」属性が、資本にとっては有利な「社会的」意義をもつようになったというのである。
 水車から蒸気機関へと移行すれば、工場を河川沿いから都市部に移すことができる。河川沿いの地域では労働力が希少であるがゆえに、資本に対して労働者が優位に立っていた。けれども、仕事を渇望する労働者たちが大量にいる都市部に工場を移せば、今度は資本が優位に立つことができ、問題は解決する。
 資本は、希少なエネルギー源を都市において完全に独占し、それを基盤に生産を組織化した。これによって、資本と労働者の力関係は、一気に逆転したのだ。石炭は本源的な「閉鎖的技術」だったのである。
 その結果、水力という持続可能なエネルギーは脇に追いやられた。石炭が主力になって生産力は上昇したが、街の大気は汚染され、労働者たちは死ぬまで働かされるようになった。そして、これ以降、化石燃料の排出する二酸化炭素は増加の一途をたどっていったのだ。
(斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年[2021年版]、236頁~242頁)



≪イタリア・ルネサンス~高校世界史より≫

2023-07-25 19:00:18 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪イタリア・ルネサンス~高校世界史より≫
(2023年7月25日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、イタリア・ルネサンスについて、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

なお、イタリア・ルネサンスについて、次の著作により、補足説明しておく。
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・イタリア・ルネサンスの記述~『世界史B』(東京書籍)より
・イタリア・ルネサンスの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
【補足】
・イタリア・ルネサンスの記述~浜林正夫『世界史再入門』より
・ラファエロ『美しき女庭師』~中野京子『はじめてのルーヴル』より






ヨーロッパの封建社会の記述~『世界史B』(東京書籍)より


【東京書籍より】
第2編 広域世界の形成と交流
第9章 ヨーロッパ世界の形成
6 ルネサンス
 ルネサンスは、まずイタリアでおこった。ここでは、古代ローマの遺跡が模範として各地に残っており、さらに地中海交易によって都市が繁栄し、イスラーム文明やビザンツ文明との接触も、多くの刺激を与えていた。
 毛織物業や金融業で栄え、豊かなトスカナ地方を支配下に置いたフィレンツェでは、メディチ家など富裕な市民が芸術家や学者を保護し、いち早くルネサンスが花開いた。詩人ダンテ(Dante、1265~1321)は、知識用語としてのラテン語ではなく、日常使われていたトスカナ地方のイタリア語で、人間の心の機微をみごとに描いた『神曲』を著し、文学における先駆をなした。つづいてペトラルカ(Petrarca、1304~74)は、ラテン語古典の研究に努め、すぐれた叙情詩をつくり、ボッカチオ(Boccaccio、1313~75)は『デカメロン』で、ペスト流行下の人間の欲望や偽善を風刺した。美術では、人体や自然の観察にもとづく写実的な描写や、遠近法、色彩表現が発展し、ジョット(Giotto、1266ごろ~1337)がこうした動きの先駆となった。メディチ家は15世紀に隆盛をきわめ、ブルネレスキ(Brunelleschi、1377~1446)、ボッティチェリ(Botticelli、1444ごろ~1510)らの芸術家を保護し、アカデミーをつくって思想研究を奨励した。15世紀末からフィレンツェの政治が混乱すると、メディチ家出身のレオ10世(Leo X、在位1513~21)などの教皇が文芸の保護者となり、聖ピエトロ大聖堂の新築をすすめ、ルネサンスの中心はローマに移った。この混乱期に、フィレンツェのマキァヴェリ(Machiavelli、1469~1527)は『君主論』を著し、政治を宗教や道徳とは別個のものとして論じ、のちの政治思想に大きな影響を与えた。
 イタリアのルネサンスは16世紀のはじめに最盛期を迎え、多彩な才能を発揮した「万能人」レオナルド=ダ=ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452~1519)、彫刻や建築の巨匠ミケランジェロ(Michelangelo、1475~1564)、聖母子像で有名なラファエロ(Raffaello、1483~1520)、建築家のブラマンテ(Bramante、1444~1514)らが活躍した。しかし16世紀のイタリアは、外国軍の度重なる侵攻を受けたうえ、宗教改革に対抗したローマ教会が文化の規制を強めたため、ルネサンスの活力は失われていった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、164頁~166頁)

イタリア・ルネサンスの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


・イタリア・ルネサンスの記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
第Ⅲ部の「第8章近世ヨーロッパ世界の形成」の「2 ルネサンス」
【ルネサンスの本質】
中世末期の西ヨーロッパでは都市が発展し、そこから中世の文化を引き継ぎながら、人間性の自由・解放を求め、各人の個性を尊重しようとする文化運動があらわれた。これがルネサンス(「再生」の意味)で、およそ14世紀から16世紀にわたってヨーロッパ各地に広まった。ルネサンスは近現代につながる文化の出発という側面から理解されることが多いが、中世の文化の継承・発展という面もある。
カトリック教会の権威のもとにあった中世盛期の文化とくらべて、ルネサンスでは現世に生きる楽しみや理性・感情の活動がより重視されたが、これを支えたのがヒューマニズム(humanism)、すなわち人文主義(人間主義)の思想である。人文主義の立場をとる知識人(ヒューマニスト)は、おもにビザンツ帝国やイスラーム圏を介して西ヨーロッパに伝えられたギリシア・ローマの古典文化を深く研究することで、人間らしい生き方を追求しようとした。また、フィレンツェのマキァヴェリ(Machiavelli, 1469~1527)は『君主論』を書いて、政治を宗教・道徳から切り離す近代的な政治観を提示した。
ルネサンスは、地中海貿易の盛んなイタリアや、南北ヨーロッパ商業の中継地として毛織物工業が成長したネーデルラントではやくから展開したが、まもなくほかの国々にも広まった。ルネサンス期の学者や芸術家は都市に住む教養人で、その多くは権力者の保護のもとで活動した。イタリアでは、フィレンツェの金融財閥メディチ家やミラノ公、ローマ教皇などがルネサンスの保護者として知られ、イギリス・フランス・スペインでは国王の保護下にルネサンス文化が栄えた。そのため、ルネサンスは貴族的性格をおび、既存の政治・教会・社会体制を正面から批判する力とはならなかった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、205頁~206頁)

【文芸と美術】
ルネサンス文芸は、古代ローマの伝統が強かったイタリアでまず展開した。イタリアには、『神曲』で知られる詩人ダンテ(Dante, 1265~1321)やボッカチオ(Boccaccio, 1313~75)らが出たが、その影響下にイギリスでもチョーサー(Chaucer, 1340頃~1400)が『カンタベリ物語』を著した。16世紀頃になると、ネーデルラントの人文主義者エラスムス(Erasmus, 1469頃~1536)の『愚神礼賛』をはじめ、社会を風刺する作品が多く書かれ、各国の国民文化が形成されていった。イギリスで16世紀末から17世紀初めに活躍したシェークスピア(Shakespeare, 1564~1616)の戯曲をはじめとして、すぐれた文芸作品は、それぞれの国の言語を発達させるのに貢献した。
絵画でもイタリアに新しい動きがおこり、15世紀前半には遠近法の確立により、近代絵画の基調である写実主義の基礎がすえられた。建築の領域では古代ローマ建築の要素を取り入れて、大ドームをもったルネサンス様式がうまれ、16世紀にはローマのサン=ピエトロ大聖堂が新築された。彫刻家では、「ダヴィデ像」の制作者で、サン=ピエトロ大聖堂の建築にも関わったミケランジェロ(Michelangelo, 1475~1564)が知られる。ルネサンスの理想であった「万能人」の典型ともいうべきレオナルド=ダ=ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452~1519)は絵画のほか、解剖学をはじめ自然諸科学と応用技術にも才能を示した。また、多くの聖母子像を描いたラファエロ(Raffaello, 1483~1520)は、この2人とともにルネサンスの三大巨匠に数えられている。ネーデルラントでは、油絵の技法を改良したファン=アイク兄弟(Van Eyck, 兄1366頃~1426、弟1380頃~1441)がフランドル派を開き、ドイツのデューラー(Dürer, 1471~1528)は版画も多数残した。

<「ヴィーナスの誕生」>
15世紀半ば、イタリアのフィレンツェでうまれたボッティチェリの代表作の一つ。メディチ家のために描かれたともいわれる。

<「最後の晩餐」>
レオナルド=ダ=ヴィンチ作。遠近法をたくみに利用した作品として有名である。

<「ダヴィデ像」>
ミケランジェロの彫刻作品の代表作の一つ。1504年完成。
フィレンツェの市庁舎前におかれた。

<「聖母子と幼児ヨハネ」>
ラファエロ作。ラファエロは聖母子像を生涯描き続けた。

<「農民の踊り」>
フランドルの民衆生活を描いたブリューゲル晩年の作品の一つ。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、206頁~208頁)

【科学と技術】
大航海とルネサンスの時代には、科学の新しい考え方がうまれた。16世紀前半、ポーランド人コペルニクス(Copernicus, 1473~1543)は、古代の天文学に刺激されて地動説をとなえ、聖書の天地創造説話に基づいて天動説をとっていた教会の世界観に挑戦した。この時期にはまた、技術面でも重要な改良・実用化がおこなわれ、ヨーロッパの社会に大きな影響を与えることになったが、そうした技術はいずれも、もともとは中国で発明されていたものであった。
羅針盤は中国の宋で知られていたが、14世紀のイタリアで改良され、天文学や海図製作の発達とあいまって、遠洋航海を可能にした。火薬もすでに元で実戦にもちいられていたが、その後ヨーロッパで鉄砲や大砲などの火器が発達して、従来の戦術を一変させ、騎士が没落することになった。さらに、15世紀半ば頃ドイツ人グーテンベルク(Gutenberg, 1400頃~68)が改良した活版印刷術は、製紙法の伝播と結びついて、書物の製作を従来の写本よりもはるかに迅速・安価なものとし、新しい思想の普及に大きく貢献した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、208頁~209頁)



英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
イタリア・ルネサンス The Renaissance in Italy
The Renaissance
Creation of a New Culture
From the 14th century to 16th century, the movement to create a new culture which made much of human thinking and feeling was developed in western Europe. This is the so-called
“Renaissance(ルネサンス)”.
Many people died from the spread of the Black Plague and in wars between the 14th and 15th centuries. Thus, the society stood on the edge of a crisis. But such a critical situation
tends to make people think more deeply about how to live, and develop new ideas that
were free from traditional values in various fields. They covered a fairly broad spectrum,
such as study of philosophy and thought, and architecture, sculpture, painting, literature,
music, and technological developments. Even in theology, people began to reconsider the
relationship between God and human being. Are we human beings predestined to our fate,
or to what extent is our active nature of mind permitted? The basic idea of asking about a
life of human being is called Humanism(ヒューマニズム, 人文主義).
The Renaissance means “rebirth(再生)”. The revitalizaion of learning and art which started at this time in Italy was stimulated by going back to learn the classical arts and sciences of the ancient Greek and Rome. By chance, scholars of the Byzantine Empire who escaped from the oppression of the Ottoman Empire greatly helped to promote these studies of Greek and Roman classics. It was not surprising to think that the classical world was the ideal model, due to its harmony and high level of achievement compared to this contemporary chaotic world of crisis. On the other hand, the ancient world should not be absolutely separated from the Middle Ages. Because the Renaissance was born in cities at the end of the Middle Ages under the contemporary economic and social conditions, it developed in the cradle of political powers and local cultures.

The Renaissance in Italy
The Renaissance began in Italy, where people could find ruins of ancient Rome in various
places as the classical models. Also, many cities had access to the Mediterranean Sea trade,
which gave them frequent contact with the Islamic and Byzantine civilizations, from which
they were influenced.
In Florence(フィレンツェ), which prospered in the woolen textile industry and finance and had Tuscany(トスカナ地方) as its territory, rich families such as the Medicis
(メディチ家) sponsored artists and scholars. Thus the Renaissance bloomed very early in Florence. Dante(ダンテ), a poet, pioneered in the field of literature by writing The Divine Comedy(神曲), which described well the subtleties of the human mind. He did not write in Latin, the language of the intellectuals, but in the Tuscan Italian dialect. Petrarch
(ペトラルカ) followed, studying Latin classics deeply and writing beautiful lyrics. Then Boccaccio(ボッカチオ) wrote the Decameron(デカメロン) to satirize the greed and hypocrisy of people at the time of the plague. In art, realistic description based on observation of the human body and nature, perspective and colorful paintings were developed. Giotto(ジオット) was a pioneer in this field.
The Medici family was extremely wealthy in the end of the 15th century and supported
artists such as Brunelleschi(ブルネレスキ) and Botticelli(ボッティチェリ).
They established an academy to encourage the study of thought. When politics in Florence got into trouble from the end of the 15th century, Popes such as Pope Leo X(レオ10世), out of the Medici family, became patrons of literature. He promoted to build St. Peter’s Basilica, (聖ピエトロ大聖堂)and then the center of the Renaissance moved to Rome.
In these troubled days, Machiavelli(マキアヴェリ) wrote The Prince(君主論) and stressed that politics should be different from religion and morality. This gave a huge impact on future political thought.
The Italian Renaissance reached its peak at the beginning of the 16th century. Leonardo
da Vinci(レオナルド=ダ=ヴィンチ), a universalist with many talents, Michelangelo
(ミケランジェロ), a maestro of sculpture and architecture, Raffaello(ラファエロ),
famous for the “Madonna and Child(聖母子像)”, and an architect Bramante(ブラマンテ),
etc. played great roles. However the Renaissance gradually lost its influence
in the 16th century as Italy was frequently attacked by foreign armies and the Roman Church, which opposed the Religious Reformation, strengthened its control on culture.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、130頁~131頁)

イタリア・ルネサンスの記述~浜林正夫『世界史再入門』より


・浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫、2008年[2012年版])では、イタリア・ルネサンスについて、次のように述べている。
〇第5章「近代世界の成立」3 ルネサンスと宗教改革(139頁~)
3 ルネサンスと宗教改革
 ヨーロッパ諸国のアジア、アフリカ、アメリカへの進出が近代世界の幕あけのひとつであったとするなら、ヨーロッパの内部においてはルネサンスと宗教改革がその幕あけをつげるものであった。ルネサンスはキリスト教世界に外部から衝撃を与え、宗教改革はキリスト教世界を内部からゆさぶったのである。
 ルネサンスはイタリアからはじまった。それはキリスト教によって異教的なものとしてしりぞけられてきた古典古代(ギリシア、ローマ)の文化の見直しと再生をはかろうとするもので、イタリアには古典古代の文化の伝統があり、さらに東方貿易の窓口としてイタリアの諸都市はイスラムなどの異文化と接する機会が多く、また都市には自由な雰囲気があったこともルネサンスの背景となっていた。キリスト教が聖書をとおして人間や社会や自然をみるのにたいし、ルネサンスの基本思想はこれらをありのままにみようとする。ダンテの『神曲』(1300ごろから1320年代にかけて執筆)は全体としてはキリスト教文学の枠でないものであるが、初恋の女性ベアトリーチェへの愛の讃歌がこめられ、またそれがラテン語ではなくイタリア(トスカーナ)語で書かれたことも大きな意味をもっていた。ボッカチオの『デカメロン』(1353年)は人間の欲望をあからさまにえがき、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは人間の美しさを絵画や彫刻にえがきだし、マキアヴェリは『君主論』で宗教や道徳にしばられない政治の原理を主張した。(下略)

<ダ・ヴィンチのアイデア>
ダ・ヴィンチは1482年ごろ、ミラノの有力者に自分を売りこむための手紙を書いているが、そのなかで軍用橋、大砲、機関銃、戦車などのアイデアを絵入りで説明し、またミラノの都市計画をも立案した。そのほか数学や機械学でもすぐれた着想をしめし、人体解剖もおこなっている。しかしこれらのアイデアは実用化されなかった。当時の社会にはまだこの天才の着想をうけいれるだけの条件がなかったのである。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、139頁~140頁、143頁)

ラファエロ『美しき女庭師』~中野京子『はじめてのルーヴル』より


私は、以前、ルーヴル美術館について、次のようなブログ記事を投稿した。
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1~ 私のブック・レポート≫
(2020年4月1日~投稿)

そのうち、ラファエロについては、≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その5~ 私のブック・レポート≫(2020年4月18日投稿)において、解説している。

〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
以前、この書物を紹介することを通して、イタリア・ルネサンスについて考えてみた。
ここでは、ラファエロについてのブログ記事を再録しておきたい。興味を抱いた人は、中野京子氏の著作、ブログ記事を参照していただきたい。

なお、中野京子氏の本の目次は次のようになっている。
【目次】
第① 章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
第② 章 ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
第③ 章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』
第④ 章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
第⑤ 章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
第⑥ 章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
第⑦ 章 この世は揺れる船のごと  ボス『愚者の船』
第⑧ 章 ルーヴルの少女たち    グルーズ『壊れた甕』
第⑨ 章 ルーヴルの少年たち    ムリーリョ『蚤をとる少年』
第⑩ 章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
第⑪ 章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
第⑫ 章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
第⑬ 章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
第⑭ 章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
第⑮ 章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
第⑯ 章 天使とキューピッド    アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
第⑰ 章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
あとがき
解説 保坂健二朗

第⑮章 不滅のラファエロ ラファエロ『美しき女庭師』


ラファエロ(1483~1520)
『美しき女庭師』(『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ』)
1507年 122cm×80cm ドゥノン翼2階展示室8グランドギャラリー

聖母マリアについて


聖書には、聖母マリアについての記述が少ない。受胎告知や厩(うまや)での出産、カナの婚礼(結婚式に母子で出席し、そのときイエスが水をワインに変える奇蹟を起こす)など、わずかである。
男尊女卑の色濃い聖書および初期教会の教えでは、イエスの聖性を強調するため、母マリアは単に神の子を産む女性にすぎない扱いだった。

しかし、マリアを崇めたがる人々は増えていく。母なるものへの素朴な憧れや、かつての地母神(じぼしん)信仰の遠い記憶が、くり返しマリアと結びつこうとしたようだ。
カトリック公会議はマリアを聖なる存在と認め、マリアは礼拝の対象となる(プロテスタントはこの限りにあらず)。

画面上のマリアは、単独であったり、大天使ガブリエルに受胎を告げられる姿であったり、幼子を抱く聖母であったり、イエスを屍(しかばね)を膝におくピエタ像であったりする。
中でももっとも好まれたのは、聖母子像である。若いマリア、愛らしいイエス、時に洗礼者ヨハネ、稀に養父ヨセフなども加わった。

ところで、イタリア・ルネサンス期は、独立的な富裕市民層の台頭とともに、宗教画の世俗化が進んだ時代である。だから、家父長として威厳あるヨセフ、子を慈しむ母マリア、守られる幼子といった聖家族が、家庭の理想像としてもてはやされた。

ルネサンス三大巨匠の聖母子像


ルネサンス三大巨匠ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの聖母子像について、中野氏は比較検討している。
例えば、ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』(ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー)は、背景が異様な洞窟であり、幼子の上で広げた指の形の無気味さとも相俟って、マリアには、モナ・リザと同じ神秘性を中野氏は感じている。母という以前に、人間を越えており、存在自体が謎で、親しみやすさは無いという。

次に、ミケランジェロによる『聖家族』(イタリアのウフィツィ美術館蔵)のマリア像も、別の意味で人間(というか女性)離れしているとみる。
ミケランジェロは筋肉フェチであったので、女性の身体をもマッチョな姿で描いている。まるで男性を変形させたかのように、不自然な逞しさがある。ダ・ヴィンチもミケランジェロも、同性愛者であったから、女性のもつ官能性をほんとうのところはわかっていなかったのであろうと、手厳しく評している。

最後にラファエロは、「聖母子の画家」と異名をとるほどで、30点近い聖母子像を描いている。ラファエロのマリアは優美そのものである。
ラファエロ自身、世に聞こえた美男で、しかも女好きであった。
(若死にの原因は女性遊びが過ぎたためという美術史家もいる)

ラファエロのマリアは、ダ・ヴィンチのように手の届かぬ天上的な存在ではなく、ミケランジェロのように筋肉を着ぐるみのようにまとってもいない。理想化されてはいるが、この世のどこかにいる、血のかよった、触れることの可能な女性である。

ラファエロの『美しき女庭師』


ルーヴル所蔵の『美しき女庭師』(ルーヴルでのタイトル『聖母子と幼き洗礼者ヨハネ』)は、『大公の聖母』や『小椅子の聖母』とともに、ラファエロの傑作聖母子像のひとつとされる。そして「ルーヴルにおける聖母子像の最高作」と讃えられている。

絵のタイトルは、当時の画家が自分で付けることはなかったようだ。後世になり、多くのラファエロ聖母子像を区別する必要ができて初めて、王室の美術品管理者、あるいは学者や学芸員がニックネームを付けた。
『大公の聖母』は大公が所有していたからで、『小椅子の聖母』は文字どおり小さな椅子に座っているからである。

この作品も最初は『農民の聖母』と呼ばれていたようだ。しかし、18世紀に入ってからは『美しき女庭師』で定着した。風景が牧歌的で、草花がたくさんあるので、農地ないし庭にいるマリアということで、『美しき女庭師』という通称になった。
(ほとんど同じ背景の別作品が、ウィーン美術史美術館には、『牧場の聖母』という名がついているので、著者は釈然としないという。近代に入って、画家が自らタイトルを決めることにした気持ちがわかるそうだ)

この絵は安定した三角形構図で、静謐な空間を作り上げ、明るく穏やかな色彩的調和が感じられる。まさに新プラトン的に呼ぶにふさわしい作品として、賞讃されてきた。慈愛そのものの優しい聖母である。

また、宗教画としての決まりもきっちり押さえられている。聖母の衣装の色については、赤は犠牲の血の色ないし深い愛を、そして青は天上の真実を意味している。そして三人の頭上には、目立たないながらも、金の光輪が描かれている。
右下の幼児ヨハネ(後にヨルダン川でイエスに洗礼をほどこす)は、聖書に記されているとおりのラクダの毛衣(もうい)をまとい、葦で作った十字架の杖を持つ。幼子イエスは救世主の受難を予告する旧約聖書に手を伸ばす。

マリアの左足の足指の上のマントの裾に「RAPHAELLO URB.」という金文字が見える。これは「ウルビーノのラファエロ」の意で、画家の署名である。
(ウルビーノはラファエロの出身地である)
またマリアの左肘のところには「MDDⅡ」とあり、1507年という制作年度が記されている。ラファエロが24歳のときの作品である。

当時すでにウルビーノからフィレンツェへ出てきていたが、この花の都には31歳年上のダ・ヴィンチと、8歳年上のミケランジェロが活躍していた。ラファエロはダ・ヴィンチからミラミッド型構図と人物の心理表現を、ミケランジェロからボリュームある人体造型を吸収したといわれる。

模倣の天才ラファエロは、モーツァルトと同じく、ありとあらゆるものを海綿のように吸い取って自己のものとした。ただし、ラファエロにはダ・ヴィンチのような執拗さや、ミケランジェロのような激越さはなく、ほどほどにブレンドして、万人向けの美しさを呈示した。

ラファエロという画家


ラファエロは、宮廷画家だった父親に手ほどきされ、幼少時からその才能は傑出し、10代でもう一人前の仕事を請け負っていた。画才に加え、人好きする容姿と、礼儀正しさがあり、陽気な性格であった。そして教皇ユリウス2世およびレオ10世という大パトロンにも恵まれ、20代後半には50人を超す工房を経営していた。

ラファエロは原因不明の熱病で、37歳という若さで急死した(しかも自身の誕生日に)。
同じく、40間近で死去した画家は少なくないようだ。パルミジャニーノ、カラヴァッジョ、ヴァトー、ゴッホ、ロートレックがいる。
ルネサンス三大巨匠のダ・ヴィンチやミケランジェロが長寿だったのに比べ、ラファエロはまだこれからの画家というイメージを持たれがちだが、それは誤解であると中野氏は釘をさしている。

大工房の親方として世俗的成功を収めていたし、名声はヨーロッパ中に鳴り響いていた。今でこそルネサンス三大巨匠という言葉があるものの、19世紀前半までの西洋絵画史において、古典的規範として渇仰され続けたのは、ラファエロだったからである。ルネサンスの典雅端麗とはラファエロ作品を指した。ルネサンスはラファエロによって完成されたとされ、400年近くもイタリア、フランス、イギリスのアカデミーのお手本であり続け、ラファエロ的円満と中庸が理想とされた。

ところが、近代以降、ラファエロ作品は批判の的となる。謎がないため、ダ・ヴィンチのような深みに欠け、過剰さがないため、ミケランジェロの迫力に及ばないとされた。
19世紀半ばのイギリスで、「ラファエル前派」という美術革新運動が起こり、ラファエロを規範としたアカデミーに対して異議申し立てをし、ラファエロ以前の芸術へ復帰することを目的とした。後の印象派へとつながる、大きなうねりの最初の波であった。そして21世紀を費やし、ついに美術界はラファエロから脱却した。

中野氏はラファエロの『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(ルーヴル美術館 ドゥノン翼2階展示室8 グランドギャラリー)に注目して、ラファエロはもう少し別の道をゆけたかもしれないと残念に思うという私見を付記している。

この肖像画は、ルーベンスも模写した傑作である。これはラファエロの真の力量をありありと見せつける作品である。甘やかな美しい聖母子を描いた同じ画家が描いたとは思えないほどであり、レンブラントを先取りしたような表現であると賞賛している。注文作品を量産するのではなく、こうした作品をもう数点残してほしかったそうだ。
ラファエル前派にせよ印象派にせよ、このような肖像画を描けただろうかと疑問を呈し、彼らが排除すべきだったのはラファエロではなく、ラファエロを錦の御旗にしたアカデミーだったはずだという。
(中野、2016年[2017年版]、198頁~211頁)

【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



≪ヨーロッパの封建社会~高校世界史より≫

2023-07-15 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪ヨーロッパの封建社会~高校世界史より≫
(2023年7月15日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、ヨーロッパの封建社会について(とりわけ領主制の観点から)、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

なお、ヨーロッパの封建社会について、次の著作により、補足説明しておく。
〇木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
とりわけ、木村尚三郎『西欧文明の原像』では、「ベリー公の豪華な時禱書」にもとづいて、ヨーロッパの農民生活について、そして、各地域の封建社会の特徴については、浜林正夫『世界史再入門』の記述は参考となる。




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社






〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【目次】

本村凌二『英語で読む高校世界史』
Contents
Introduction to World History
1 Natural Environments: the Stage for World History
2 Position of Japan in East Asia
3 Disease and Epidemic
Part 1 Various Regional Worlds
Prologue
The Humans before Civilization
1 Appearance of the Human Race
2 Formation of Regional Culture
Chapter 1
The Ancient Near East (Orient) and the Eastern Mediterranean World
1 Formation of the Oriental World
2 Deployment of the Oriental World
3 Greek World
4 Hellenistic World
Chapter 2
The Mediterranean World and the West Asia
1 From the City State to the Global Empire
2 Prosperity of the Roman Empire
3 Society of the Late Antiquity and Breaking up
of the Mediterranean World
4 The Mediterranean World and West Asia
World in the 2nd century
Chapter 3
The South Asian World
1 Expansion of the North Indian World
2 Establishment of the Hindu World
Chapter 4
The East Asian World
1 Civilization Growth in East Asia
2 Birth of Chinese Empire
3 World Empire in the East
Chapter 5
Inland Eurasian World
1 Rises and Falls of Horse-riding Nomadic Nations
2 Assimilation of the Steppes into Turkey and Islam
Chapter 6
1 Formation of the Sea Road and Southeast Asia
2 Reorganizaion of Southeast Asian Countries
Chapter 7
The Ancient American World

Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 8
Formation of the Islamic World
1 Establishment of the Islamic World
2 Development of the Islamic World
3 Islamic Civilization
World in the 8th century
Chapter 9
Establishment of European Society
1 The Eastern European World
2 The Middle Ages of the Western Europe
3 Feudal Society and Cities
4 The Catholic Church and the Crusades
5 Culture of Medieval Europe
6 The Middle Ages in Crisis
7 The Renaissance
Chapter 10
Transformation of East Asia and the Mongol Empire
1 East Asia after the Collapse of the Tang Dynasty
2 New Developments during the Song Era ―Advent of Urban Age
3 The Mongolian Empire Ruling over the Eurasian Continent
4 Establishment of the Yuan Dynasty

Part 3 Unification of the World
Chapter 11
Development of the Maritime World
1 Formation of the Three Maritime Worlds
2 Expansion of the Maritime World
3 Connection of Sea and Land; Development of Southeast Asia World
Chapter 12
Prosperity of Empires in the Eurasian Continent
1 Prosperity of Iran and Central Asia
2 The Ottoman Empire; A Strong Power Surrounding
the East Mediterranean
3 The Mughal Empire; Big Power in India
4 The Ming Dynasty and the East Asian World
5 Qing and the World of East Asia
Chapter 13
The Age of Commerce
1 Emergence of Maritime Empire
2 World in the Age of Commerce
World in the 17th century
Chapter 14
Modern Europe
1 Formation of Sovereign States and Religious Reformation
2 Prosperity of the Dutch Republic
and the Up-and-Coming England and France
3 Europe in the 18th Century and the Enlightened Absolute Monarchy
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
1 Intensified Struggle for Economic Supremacy
2 Industrialization and Social Problems
3 Independence of the United States and Latin American Countries
4 French Revolution and the Vienna System
5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16
Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World
2 Economic Development of Europe
and the United States and Changes in Society and Culture
3 Imperialism and World Order
World in the latter half of 19th century
Chapter 17
Reformation in Various Regions in Asia
1 Reform Movements in West Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia,
and the Dawn of National Movements
3 Instability of the Qing Dynasty and Alteration of East Asia
Chapter 18
The Age of the World Wars
1 World War I
2 The Versailles System and Reorganization of International Order
3 Europe and the United States after the War
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
5 The Great Depression and Intensifying International Conflicts
6 World War II

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19
Nation-State System and the Cold War
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
3 Disturbance of the Postwar Regime
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
Final Chapter
Globalization of Economy and New Regional Order
1 Globalization of Economy and Regional Integration
2 Questions about Globalization and New World Order
3 Life in the 21st Century; Time of Global Issues
The Rises and Falls of Main Nations
Index(English)
Index(Japanese)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ヨーロッパの封建社会の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・ヨーロッパの封建社会の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
【補足】
・「働く人」「戦う人」「祈る人」~木村尚三郎『西欧文明の原像』より
・各地域の封建社会の特徴~浜林正夫『世界史再入門』より






ヨーロッパの封建社会の記述~『世界史B』(東京書籍)より


【東京書籍より】
ヨーロッパの封建社会~高校世界史より

第2編 広域世界の形成と交流
第9章 ヨーロッパ世界の形成
2 西ヨーロッパ中世世界の成立
3 西ヨーロッパ世界の成熟

第9章 ヨーロッパ世界の形成
2 西ヨーロッパ中世世界の成立
【封建社会の安定】
 西ヨーロッパを舞台として古代世界の解体とともに新しい社会秩序が生まれ、人と人とが直接に結びつき、主君と臣下との間に双務契約の関係が結ばれた。主君は臣下に封土を与え保護下に置くかわりに、臣下は主君に忠誠を誓い騎士として軍務を負った。この封建的主従関係は、ノルマン人などの外部勢力の侵入を防ぐ必要に促されて、一代限りのものから、やがて世襲されるようになった。それとともに、授封された者が土地の一部をさらに従者に与えたので、国王、諸侯、騎士などの主従関係は重層化していった。この封建社会は、11世紀から13世紀にかけて最盛期を迎える。貴族(諸侯、騎士)はそれぞれ世襲所領のなかで独自の課税権や裁判権をもち、国王の権力も貴族の所領内には及ばなかった(不輸不入権 immunitas)。
 8世紀ごろから、貴族や教会・修道院を領主とする荘園(manor)が広くみられるようになった。この荘園制が封建社会の経済的基盤であった。
 荘園では、耕地は領主直営地と農民保有地とからなり、ほかに森林や牧草地などの共同地(入会地)があった。農民は、保有地での生産の一部を領主におさめ(貢納)、領主直営地での一定日数の労働を義務づけられた(賦役)。それとともに、教会には十分の一税をおさめた。農民には、保有地処分や移住の自由はなく、領主の支配は、裁判権の行使はもちろん、水車やパン焼きがまの使用料徴収から、結婚税や死亡税にまで及ぶようになる。そのため、中世の農民は農奴とよばれる。やがて、領主直営地を農民保有地にかえ、生産物や貨幣で地代を取る領主が多くなり、中世末の荘園制の解体につながっていく。

<新しい社会秩序>
一般に封建制というが、主君・臣下間の法的な関係(封建的主従関係)、生産様式(荘園制)、中世西ヨーロッパの社会文化の総体(封建社会)の三つに大まかに分けられる。

<主君と臣下の双務関係>
主君と臣下の双務関係は、ゲルマン社会の従士制と、主君が臣下に勤務の代償として土地を与えるローマ帝政末期以来の恩貸地制とが結合したものとみなす説が有力である。

<中世の荘園>
荘園では、貨幣・労働・現物の負担が入り組んでいた。9世紀のサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の所領明細帳からは、荘園農民の負う多種多様な義務がわかる。たとえば、ある家族は毎年、銀貨4枚、ワイン、木材、メンドリ3羽、卵15個を負担し、男性は領主直営地を耕した。別の家族はブドウ畑での集約的労働に従事した。さらに別の女性は布を織り、ニワトリを育てた。男性は耕作に多くの時間を費やしたのに対し、女性はもっぱら領主の館で布を染め、衣服をぬい、料理をした。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、149頁)

3 西ヨーロッパ世界の成熟
【大開墾時代と中世の農民生活】
 11世紀になると、気候が温暖になり、外部勢力の侵入による混乱もおさまって、西ヨーロッパの社会も安定してきた。11世紀後半から13世紀前半にかけて、森や荒れ地の開墾がすすみ、いわゆる大開墾時代を迎える。それとともに農法なども改良され、それまで播種量の3倍程度であった麦の収穫は、6倍前後にまで向上した。生産高に余剰が生まれ、それらが取り引きされると、商業交易の拠点としての都市が興隆する。交通も発達し、社会全体が活気づいた。人口は増大し、ヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる。
 中世社会には、戦う人(貴族)、祈る人(聖職者)、働く人という三つの身分があったが、働く人の大多数は農民であった。12世紀ごろから、農業技術の改善がなされ、鉄製農具、有輪犂や水車が普及し、牛馬に農具をひかせる方法も改良された。さらに、三圃制の農法が多くの地域に普及して、農業生産力は安定した。また、領主による荘園の形成にともない、農民の集落の規模も大きくなった。
 荘園の耕地は垣や堀で仕切られない開放耕地であることが多かった。このために、主要な農作業は共同で行われ、農民は相互扶助と相互規制の両面をもつ村落社会の結合を強めた。農事暦による祭礼や教会行事はもちろん、過酷な領主支配に対抗する一揆や逃散も、村落社会全体で行われた。
 村落社会のまとまりは、村を単位とする教区教会によって象徴される。教区司祭は冠婚葬祭や日曜ミサなどを通じて日ごろから住民たちへの布教に努めた。しかし庶民の信仰は、マリア信仰や聖人・聖遺物崇敬、あるいは泉水での治癒祈願などにみられるように、土俗的色彩の濃い信心のうえにキリスト教の要素がつぎあわさったものであった。

<農民の生活>
『ベリー公の豪華時禱書』に描かれた農民生活の風景。
3月、7月、9月の生活風景で、3月は春耕地の種まきとブドウの剪定、7月は秋耕地の収穫と羊毛の刈り取り、9月は果実の収穫のようすである。

【カトリック教会の発展と教会改革】
 カトリック教会は、ローマ教皇を頂点として大司教、修道院長、司教、司祭などからなる聖職位階制がピラミッド状に形成されていた。司教と修道院長は、信仰生活の中心として精神文化の権威であったが、同時に、土地や財産の寄進を受けて、広い荘園をもつ領主でもあった。このように教会と世俗社会とのかかわりが深まると、暴力や教会改革などの問題に対して、聖俗の有力者が協同して取り組むようになる。
 10世紀末からフランスなどで、貴族間の私闘(自力救済権の行使)や教会財産の侵害をおさえるために、司教や伯を中心に「神の平和」運動がおこされた。また、紛争の際には、法廷で有罪か無罪かを決めず、対立する両者が妥協することで、おたがいの名誉を損なわないような解決がはかられた。
 当時は、聖職者の結婚、世俗領主による聖職者の任命はありふれたことで、聖職売買もめずらしくなかった。これに対し、11世紀になると、フランスのクリュニー修道院を先陣とする改革運動が本格化した。同時期に神聖ローマ帝国でも改革がはじまり、皇帝の支持を得た教皇レオ9世(Loe IX, 在位1049~54)が1049年に即位すると、ローマ教会を中心とした教会改革運動が推進された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、149頁~151頁)

・ヨーロッパの封建社会の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


『詳説世界史』(山川出版社)では、次の章に次のように記述している。
【山川版】
第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展
1 西ヨーロッパ世界の成立
【封建社会の成立】
 民族大移動後の長い混乱期に、西ヨーロッパの商業と都市は衰え、社会は農業経済に大きくたよるようになった。貨幣よりも土地や現物が価値をもつようになり、またたびかさなる外部勢力の侵入から生命財産をまもるため、弱者は身近な強者に保護を求めた。ここからうまれた西ヨーロッパ中世世界に特有のしくみが、封建的主従関係と荘園(manor)であり、この二つのしくみの上に成り立つ社会を封建社会(feudal society)という。
 皇帝・国王・諸侯(大貴族)・騎士(knight 小貴族)や聖職者などの有力者たちは、自分の安全をまもるため、たがいに政治的な結びつきを求めるようになった。
 そこで、主君が家臣に封土(領地)を与えて保護するかわりに、家臣は主君に忠誠を誓って軍事的奉仕の義務を負うという、人と人との結びつきがうまれた。これを封建的主従関係という。この関係は主君と家臣の個別の契約によって結ばれたが、やがて世襲化した。西ヨーロッパの封建的主従関係は、主君と家臣の双方に契約をまもる義務がある(双務的契約)のが特徴で、主君が契約に違反すれば家臣には服従を拒否する権利があった。また一人で複数の主君をもつこともできた。
 封建的主従関係は、ローマの恩貸地制度とゲルマンの従士制に起源があり、地域防衛のしくみとしてとくにフランク王国の分裂以後、本格的に出現した。一般にこのしくみに基づく支配体制は地方分権的で、多くの騎士を家臣として従えた大諸侯は国王にならぶ権力をもって自立し、国王は実質的に大諸侯の一人にすぎなかった。
 封建的主従関係を取り結ぶ有力者たちは、それぞれが大小の領地を所有し、農民を支配する領主であった。領主の個々の所有地を荘園という。荘園は村落を中心に領主直営地・農民保有地および牧草地や森などの共同利用地から成り立つ。農民は農奴と呼ばれる不自由身分で、移動の自由がなく、また結婚税や死亡税を領主におさめる義務を負うなど、結婚・相続の自由も制限された。彼らは領主直営地で労働する義務(賦役)と、自分の保有地から生産物をおさめる義務(貢納)を領主に負った。荘園には手工業者も住み、自給自足的な現物経済が支配的であった。
 農奴はローマ帝政末期のコロヌスや没落したゲルマンの自由農民の子孫で、長い混乱期に身分の自由を失い、領主に保護を求めるようになった人々である。領主は国王の役人が荘園に立ち入ったり課税したりするのを拒む不輸不入権(インムニテート Immunität)をもち、農民を領主裁判権によって裁くなど、荘園と農民を自由に支配することができた。
 このように封建社会は、荘園を経済的基盤とし、その上に封建的主従関係による階層組織をもつ社会であった。封建社会は10~11世紀に成立し、西ヨーロッパ中世世界の基本的な骨組みとなった。

<恩貸地制度>
土地所有者が自分の土地を有力者に献上してその保護下にはいった後、改めて有力者からその土地を恩貸地として貸与してもらう制度。

<従士制>
貴族や自由民の子弟が、ほかの有力者に忠誠を誓ってその従者になる慣習。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、129頁~131頁)

【教会の権威】
 封建社会では、王権が貧弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界全体に普遍的な権威をおよぼした。教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭・修道院長など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教や修道院長などは国王や貴族から寄進された荘園をもつ大領主でもあった。また教会は農民から十分の一税を取り立て、教会法に基づく独自の裁判権さえもっていた。高位の聖職者が諸侯とならぶ支配階級となると、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば本来聖職者ではない人物(俗人)をその地位に任命し、教会に介入するようになった。
 こうして世俗権力の影響をうけた教会では、聖職売買などさまざまな弊害が生じた。これに対して10世紀以降、フランス中東部のクリュニー修道院を中心に改革の運動がおこった。教皇グレゴリウス7世(Gregorius VII, 在位1073~85)はこの改革をおしすすめ、聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、また聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強化しようとした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、131頁)

英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より


本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)には、ヨーロッパの封建社会について、次のように記述している。
Part 2 Interconnecting Regional Worlds
Chapter 9 :Establishment of European Society
2 Feudal Society and Cities
■Stabilization of Feudal Society
The new social order, which appeared in western Europe with the declining of ancient
world, is known as Feudalism(封建制). There people were directly bound as lord and vassal
under reciprocal contracts(双務契約). The lord provided the vassals with fiefs and
protection. In return, the vassals pledged loyalty and became responsible for military
service. This feudal lord-vassal relationship changed from the short-term contract to
the hereditary one in order to protect their territories from the invasion by outside powers.
Some parts of the fiefs provided to vassals were once again given to some of their own
followers, thus the lord and vassal relationship between kings, lords and knights, became
multilayered. This feudal system reached its zenith during the 11th century to the 13th
century. The aristocrats(貴族[諸侯, 騎士]) (lords and knights) had their own right of
taxation and justice in their hereditary lands, and the power of the kings was not
applied to these lands(immunitas, 不輸不入権 ).
From around the 8th century, a system of manor(荘園) prevailed where the aristocrat, church or monastery were landlords. This manorial system(荘園制) was the economic base for feudal society.
In the classical manor, the lord managed both demesne lands and peasants’ holdings.
In addition, there were common lands(commons, 共同地[入会地]) such as forest and
meadow areas. Peasants paid a part of the product from their own lands (a tribute, 貢納)
to the lord and had the responsibility to work in the lord’s land for a certain period
(indentured labour service, 賦役). On top of it, they paid tithes(十分の一税) to the church.
Peasants were not allowed to dispose of their land and move freely. The extent of the
control by the lords ranged from jurisdiction to the collection of the rental of watermill
baking oven as well as to marriage fine and heriot. These people were called serfs(農奴).
Then lands under the direct management of lords were gradually replaced by peasant’s
holdings. More and more landlords received rent through product and money. These lands
were now called land rent-paying manors(地代荘園[純粋荘園]). At the end of
the Middle Ages, this type of manors increased and led to the destruction of the manorial
system which was the base of feudal society.

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、119頁)

■Peasant Life in the Middle Age
There were three classes in the Middle Ages; warriors(戦う人, aristocrats 貴族),
priests(祈る人, clergy 聖職者) and workers. Most of the workers(働く人) were peasants.
Since around the 12th century, there was much innovation in agricultural technology.
The use of iron farming tools, carrucas(有輪犂, heavy wheeled turn plows) and water
mills became widespread, and how to use farming tools with cattle was improved.
Furthermore, a three-field system(三圃制) was adopted in many areas, which greatly
stabilized agricultural production. As the manorial system was established by landlords
farm villages grew accordingly.
Many of the manors had open fields which were not separated by walls or canals. Thus
major farming was done in cooperation, and peasants strengthened their ties each other
with both mutual assistance and mutual control in their society. Not only festivals and
church events based on the farming year calendar(農事暦), but also riots against cruel
landlords and abandonment of lord’s land, were conducted by a village community as a
whole. This village community was organized by the parish church(教区教会).

<Life of Farmers(Très Riches Heures du Duc de Berry)>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、119頁~120頁)




・「働く人」「戦う人」「祈る人」~木村尚三郎『西欧文明の原像』より


【「働く人」「戦う人」「祈る人」】
 11世紀から13世紀にかけ、ヨーロッパ農村社会の本格的成立とともに、古代ローマに存在した自由人と非自由人(奴隷)の明確な対立的概念は完全に消滅した。かわってあらわれたのは「働く人」(農民)、「戦う人」(俗界貴族)、「祈る人」(聖界貴族、聖職者)という、人間すべてをその社会的な役割分担にもとづいて三つに仕分けする、まことに簡明直截な、聖職者の側からの発想であり、「働く人」農民については、もはや「農民(ルステイキ)」「村民(ヴィラニ)」といった表現しか史料にはあらわれない。
 11世紀から13世紀にかけての時代は領主の農民支配権が発達し、いわゆる封建社会の最盛期であったが、この時代の農民を「農奴(セルフ)」とよぶのは、学者の学問的な概念としてのことである。史料的に「農奴(セルフ)」の語があらわれるのは、封建社会の崩壊がはじまり、領主権の弱化と王権の強化がみられる14、15世紀以降のことで、領主権から解放された農民(ヴィラン)に対し、未だその下におかれた農民を指すことばとして使用されたにすぎない。

【農業社会の「原民主主義」――自由の概念について】
(前略)
 農業世界に生きる人びとには、したがって自由人も不自由人もない。あるのはただ農民、あるいは人間そのものである。出身身分がたとえ奴隷であろうと自由人であろうと、それは11、12世紀以来、意味を失い、身分上のちがいはやがて忘れられ、すべてが「働く人」「農民」「村人」として統一的に意識されるにいたった。(中略)
 社会の組織度が強ければ強いほど、人びとの相互依存度が緊密であればあるほど、その社会の体制権力も強力である。その意味では現代の国家権力は史上最高の強大性を実現しているが、11~13世紀の北西部ヨーロッパを中心に封建社会が発達し、領主権がもっとも典型的な発展をとげたのは、そこにまた、もっとも組織的、先進的な農業社会の成立があったからであった。領主や兵士たち、軍馬などを養う経済的余力とまとまりをそなえる村落の成長があってはじめて、「働く人」と「戦う人」の社会的機能の分化が可能になり、村は軍事専門家に防衛され、支配・保護されるに値するものとなる。もし領主の支配下におかれたゆえをもって封建社会の農民を「不自由」とするなら、時とともにいよいよ強大化する国家権力の支配下におかれる近・現代人は、よりいっそう「不自由」としなければならない。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、175頁~179頁)

第二章 ヨーロッパの原像」の「農民生活の12ヵ月」



パリから北に4, 5キロ行ったところにあるサン・ドニ修道院(のち大教会堂[バジリク]、ついで1966年以来、大聖堂[カテドラル])は、カペー王家の菩提寺であり、フランス諸王の墓があることで知られている(ただし、フランス革命のとき民衆に荒らされ、諸王の遺体は棺よりとり出されて捨てられた)。
最初630年ころに、フランク王ダゴベルト1世により建てられたといわれるこの寺院は、修道院長シュジェールが12世紀前半に再建を開始したゴシック式建築物であり(12~13世紀)、飛梁(アルク・ブータン)や穹窿(きゅうりゅう、オジーヴ)のゴシック的技法が、ここではじめて大規模な建築物に適用されたことでも有名である。
ところで、その正面にある三つの入り口のうち、むかって右側の南入り口(ポルタイユ・シュド)には、農民生活の12ヵ月をあらわすカレンダーが石に浮き彫りされている。これをベリー公ジャン(国王ジャン2世の第3子、1340~1416)の時禱書(シャンティイ、コンデ博物館)や、1423年ころのベドフォード公の時禱書(フランスの作、大英博物館)に描かれた農民の姿とひきくらべながら見ていこう。(下略)

※ベリー公の時禱書について
時禱書は俗人用につくられたお祈りの文句集で、修道院のお勤めの時間に従ってお祈りが配列されている。そのもっとも有名なのは、15世紀はじめの「ベリー公の豪華な時禱書」といわれるもので、当時の貴族や農民の日常生活が極彩色でみごとに描き出されている。
(現在、フランス、シャンティイのコンデ博物館所蔵)
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、171頁)

<牧草の刈り取り ベリー公の時禱書 6月>
聖霊降臨祭が過ぎると農民たちは本格的に畑仕事に精を出し、やがて六月がやってくる。
六月のカレンダーは、サン・ドニ修道院のばあいもベリー公やベドフォード公の時禱書のばあいも、ひとしく牧草の刈り取りである。
人びとは長柄の大きな草刈り鎌を使って牧草を刈り、干草にして家畜の飼料にした。羊の毛を刈り、休耕地に犂返しをするのもこの月であった。そして、結婚式も現在と同様にこの月がもっとも多かった。
結婚式は、葬式や赤ん坊の誕生とともに、せいぜい数十人ていどの村人たちにとって一大事件であった。村人すべてが――そして領主も――これに参加し、これを祝ったのである。花婿が「よそ者」のばあいは、村の若者たちから一人の女性を奪った「お詫び」のしるしとして、彼らに葡萄酒を振る舞わねばならなかった。もっともこの点では花嫁のほうも同罪で、時として彼らにパンを配る必要があった。
領主の息子や娘が結婚するときにも、戸外で領民に御馳走が出され、公共の泉に葡萄酒が注がれて、領民すべてがこれに招かれた。同様なことは今日でも見られる。(中略)
しかしながら今日とはちがって封建社会の場合には、結婚式の諸費用も領民が負担させられたから、あまり手放しでは喜べなかった。ことに領主の長女の結婚式は、領主長男の騎士叙任式、戦争で捕虜となった領主の身代金調達、領主の十字軍遠征とともに領民がその莫大な費用を分担せねばならない「四つのばあい」であった。これらは彼らにとって、もっとも重い租税であるとともに、いつやってくるか分からぬことが多かったから、「恣意税(しいぜい)」などともよばれている。(中略)

 秋に入り、九月、十月はリンゴその他の果物や葡萄の収穫期であり、ドイツ語のヘルプスト(秋)が英語のハーヴェスト(収穫)と語源を共通にしていることからも分かるように、ヨーロッパにとって、一年のうちもっとも喜ばしい季節であった。ことにその中心である葡萄の収穫は、九月末から十月初めにかけてなされ、大天使聖ミカエルの祝日(九月二十九日)やフランス大司教聖レミギウスの祝日(十月一日)がその目じるしであった。十月は一方で冬畑を耙(まぐわ)でならし小麦や裸麦(ライムギ)などの種を蒔く時期であった。男も女も前掛けに種をいっぱいに入れ、左手でその端を持ち上げ右手で蒔いていった。種の入った小箱を首からかけるばあいもあった。烏やかささぎなどが待ってましたとばかり、蒔いた種を早速についばむ。この鳥たちを追いはらうため種を蒔き終えた畑には糸が張られ、布はしなどを結びつけて風にヒラヒラさせたり案山子を立てたりした。これまた洋の東西を問わぬ田園風景である。
 十月で秋は終わる。春から秋にかけて、村人たちは農作業のほかに、領主が要求する夫役(ぶえき)に従事した。それらには、城の修復、道路の整備、橋作りその他、さまざまなものがあったが、全体として村の秩序維持や軍事防衛を目的とした公的な性格のものが多く、領主個人の恣意から発したものは案外少なかった。領主とその家族、将兵・軍馬の食糧をまかなうための生産物年貢や、前述した「四つのばあい」の賦課租(ふかそ)も同様である。
 すなわち「四つのばあい」のうち、たとえば領主長子の騎士叙任式は、領主貴族の後継者を地方の諸貴族に知らせる「お披露目」であり、領主貴族が死亡したその瞬間から新領主貴族として立つべき者の存在とその力量を、天下に、すなわち招待した諸貴族に公表する重要な機会であった。農業社会にあっては、土地防衛の最高責任者が土地と人びとを代表して象徴するから、土地と人びとの一定の関係が安定的に存続するためには、その最高責任者は死ぬことが許されず、「肉体の延長」としての世襲の法理が必然化される。したがって騎士叙任式は、まさに土地の人びとにとっては「国事」であった。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、171頁、208頁~222頁)

各地域の封建社会の特徴~浜林正夫『世界史再入門』より


〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
 この著作は、各地域の封建社会の特徴を考える際に、参考となる。
 以下、その記述をみてみよう。

第4章 封建制の時代
2 西ヨーロッパ封建制 イギリス、フランス、ドイツ
 西ヨーロッパ封建制の最大の特徴は領主制にある。ドイツにくらべてフランスやイギリスは
中央集権的であったとはいえ、近代国家のように官僚的行政機構による支配がおこなわれていたわけではない。イギリスでは州郡制がしかれてシェリフ(州知事)や治安判事などの一種の官僚がおかれ、フランスでもバイイ、セネシャルという裁判官がおかれて地方行政の監視にあたっていたけれども、しかし地域支配の実権を握っていたのは領主であった。彼らは国王から封土を与えられ、領主裁判権をもってその地の農民を支配していた。国王もまた領主のなかのひとりにすぎず、その権力は他の領主以上に大きな領地(王領地)をもつことによって支えられていたのであり、軍事的には領主の家臣団にたより、財政的にも王領地からの収入以外はさまざまな名目の領主からの上納金によって支えられていたのであって、国王が直接に国民から租税をとりたてるというのは例外的な場合だけにかぎられていた。このように領主が行政、司法、課税の権利をもつことが領主制の特質であり、これを不輸不入権(インムニテート)という。
 国王と農民とのあいだには上位領主、中間領主、下位領主など何重にも領主が介在していたが、最終的には農民の年貢(封建地代)がこれらの上部構造の全体を支えていた。領主は村落を荘園として支配し、その耕地は共同で耕作されたのち、ほぼ10ヘクタールぐらいが農家一戸あたりの持分とされ、収穫が終わるとふたたび共同耕地へもどるという開放耕地制が一般的であった。(中略)

 11世紀から12世紀ころにかけて三圃制農法が普及し、農業の生産力が向上してくると、領主も直営地を夫役で耕作させるよりも、これを農民に貸出して地代をとる方が有利と考え、夫役から生産物地代への転換をすすめるようになる。
 イギリスではさらに14世紀ごろに地代の金納化がすすんで貨幣地代が一般化するが、フランスでは18世紀のフランス革命まで生産物地代が一般的であり、ドイツ(とくにドイツ東部)では16世紀にふたたび夫役への逆もどりがみられた。これを再版農奴制という。
 西ヨーロッパの封建制社会では、このように、フランスのことわざにあるとおり「領主の土地以外の土地はない」というのが原則であったが、しかしこれには重要な例外があった。それは自治都市である。(中略)

 封建社会は国王から農民にいたるまで主従関係でつらぬかれた「タテ社会」であるが、そのなかで自治都市は商人や手工業者が横に連帯した「ヨコ社会」である。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、96頁~99頁)

 「封建制」というものを領主制として理解するなら、それはヨーロッパ(とくに西ヨーロッパ)にのみみられたものである。
 これに近いものとして日本の幕藩体制をあげることができる程度である、と著者はいう。
 それ以外の地域では、皇帝あるいは国王が中央集権的に支配する「帝国体制」がつづいていた。
 したがって、ヨーロッパとそれ以外の地域では、社会発展のコースはまったく異なっていたとみることができるとする。

・しかし、ヨーロッパとそれ以外の地域にある程度の共通性を見出すことも不可能ではないという。
 「帝国体制」の基本は、皇帝が全国土を所有し、これを一代かぎりで官僚もしくは軍人に貸し与え、それぞれの地域を支配させるとともに、租税のとりたてをおこなわせるということにあった。
 そして、その点では、ヨーロッパの封建制も例外ではない。
 ヨーロッパにおいても理念としては、国土はすべて国王のものであり、それが一代かぎりの封土として領主に与えられたのである。
 したがって、領主が死ぬとこの封土はいったん国王へ返還され、その相続人に再授封されるという形式をとっていた。
 しかし、実際には封土は世襲化され、返還・再授封という形式は、相続税の支払いだけにとどまることとなった。
 こうして、領地の不輸不入権が成立し、国王は領主をとおして租税をとりたてるのではなく、領主の軍事奉仕その他の義務にのみ依存するようになる。

・ヨーロッパ以外の地域でも、このような封土の世襲化と領主の自立化への傾向はつねにみられ、それが皇帝や国王の中央集権的支配と衝突をくりかえしていた。しかし、領主の自立化はついに達成されなかった。
・宋代の中国が、「領主制なき農奴制」とか「国家的農奴制」とかよばれていることが、こういう非ヨーロッパ地域の特徴をよくあらわしている。
※したがって、ヨーロッパの封建制を「完成された封建制」とするなら、それ以外の地域の「帝国体制」は古代帝国から完全には脱しきれていない「未完成の封建制」といってもよいとする。

〇こういう違いはなぜ生じたのであろうか。
 これは難しい問題である。
 この問題を考えるための手がかりとして、つぎの二点をあげている。
①ヨーロッパにはそもそも古代帝国なるものがなかったということである。
 ヨーロッパの古代帝国といえばローマ帝国であるが、その中心はイタリアであり、ヨーロッパ大陸の大部分はその支配下におかれていたとはいえ、ローマ帝国のいわば辺境地域にあり、
ケルトあるいはゲルマンの氏族社会から封建社会へと移行した。
※ここには律令制のような古代国家は成立せず、したがって王権はそれほど強固ではなく、モンゴルやイスラムの支配も、ロシアや東ヨーロッパの一部とスペインを除いては、ヨーロッパにはおよばなかった。

・イギリスは11世紀にノルマン人に征服され、そのためヨーロッパ諸国のなかでは比較的中央集権的性格がつよかったが、しかし全体としていえば、ヨーロッパ諸国は古代いらい分権的な社会体制をもっていた。
 国王と領主との関係が双務的契約関係であるというヨーロッパ封建制の特徴もここから生じている。

②第一点とも関連するけれども、西ヨーロッパでは家父長制的な大経営は比較的早く解体し、自立的な小経営が、おそらくは10世紀ころには成立していたということである。
・もちろん奴隷は存在していたけれども、しかし奴隷制社会とよぶことができるような段階はみられなかった。
 その点でも、西ヨーロッパは氏族社会から奴隷制を経由せずに農奴制へと移行したと、著者は考えている。

・日本で惣とよばれた封建的小農の共同体は、ヨーロッパでは10世紀ないし11世紀に成立していた。
 このように農奴制が早い時期に成立したことの背景には、有畜農業による生産力の上昇があったものと思われる。
 ともあれ、生産力発展の中心舞台は、地中海世界から西ヨーロッパへとうつることとなった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、129頁~132頁)

各地域の封建制の特徴については、次のように述べている。
<中国の場合>
・宋・元時代の中国を封建制社会とみてよいのかどうかについては、学界で長い論争があり、いまだに決着はついていない。おもな対立点は佃戸を西ヨーロッパの農奴と同じようなものとみるのか、それとも佃戸はまだ自立した経営をいとなんでいない家父長制下の奴隷に近いものとみるのか、という点にある。
この点について断定をくだすことは困難であるけれども、しかし、かりに佃戸が農奴であったとしても、中国の場合に西ヨーロッパ的な領主層が存在しなかったことはたしかであって、領主ではなく国家が農奴を直接に支配していたという意味で、これを「国家的農奴制」と名づけている研究者もいる。中国の封建制の特徴はその点にあるといってよいであろう。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、121頁)

<インドの場合>
 インドのグプタ朝とマウリヤ朝について
 土地の私有化はあまりすすんでいなかった。国王は王有地をもち、また新しく土地を開墾したものには一代かぎりの私有がみとめられたが、ローマのラティフンディアのような大規模な農場は生まれず、したがって農耕奴隷は例外的にしか存在しなかった。グプタ朝の時代になると村落のなかでも土地の私有化がすすんだといわれるが、しかしその私有地といわれるものも売買や贈与にあたっては村落共同体の同意を必要とするという制限つきのもので、むしろ占有に近いものであった。形式的には国土はすべて国王が所有するものとされ、それを村落が分有し、さらに農民がこれを占有するという重層的な関係にあったとみることができよう。奴隷は主として家内奴隷であった。国王と村落共同体とのあいだには領主のような中間搾取者はなく、国王が直接に租税を徴収していたが、中央集権的な支配もマウリヤ朝の場合はガンジス川流域にほとんどかぎられていた。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、74頁~75頁)

<イスラムの場合>
 アラブ、イスラム、オスマンとつづくこれらの帝国は、どのような社会のうえになりたっていたのであろうか。
 これらの帝国の基礎となっていたのはアラブのイクター制である。これは軍人にたいして一定の地域内の徴税権を与える制度で、これによって自営の小農民層を軍事的に支配するとともに、帝国の財政を維持しえたのである。征服地には総督(アミール)がおかれたが、被征服民には納税以上の義務は課せられなかった。この制度はオスマン帝国のティマール制へもひきつがれた。これらの制度の基本にある考え方は、土地はすべて国家(具体的にはスルタン)の所有であり、これが封土として与えられる場合も世襲をみとめないというものであって、現実にはイクターはしだいに世襲化され、そのことがイスラム帝国を動揺させる原因となったのであるが、オスマン帝国になるとスルタンはイェニ・チェリという強力な直轄軍をもち、また奴隷身分のものに特別の教育をほどこして官僚や軍人として使うというデヴシルメ制によって、領主層の勃興をおさえ中央集権国家をつくりあげた。これは軍事的封建制といわれるけれども、西ヨーロッパの封建制にくらべるとスルタンにたいし領主層がきわめて弱体であったことが特徴的である。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、109頁~110頁)