歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪世界史と植物~稲垣栄洋氏の著作より≫

2024-05-26 18:00:53 | 私のブック・レポート
≪世界史と植物~稲垣栄洋氏の著作より≫
(2024年5月26日投稿)

【はじめに】


 日本の5月といえば、やはり田植えの時期である。
 田植えが始まると、本格的に稲作に取りくまねばという気持ちになる。それと同時に、今年の天候はどうなるのかなど、いろいろなことが気になり始める。
 そして、稲作に関連した著作でも読んでみたくもなる。

 さて、今回のブログでは、イネと世界史について書かれた、次の著作を紹介してみたい。
〇稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]
 目次をみてもわかるように、イネについてのみ書かれているわけではない。
 取り上げられている植物としては、コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、ワタ、チャ、コーヒー、サトウキビ、ダイズ、タマネギ、チューリップ、トウモロコシ、サクラといった15種類の植物である。
 そのうち、私の関心のあるイネについて、世界史との関係で紹介してみたい。
 これら15種類のうち、イネとの関連で取り上げられたダイズ、サクラについても触れておきたい。
 また、著者の稲垣栄洋先生は、静岡大学農学部教授で、農学博士、植物学者であるようだ。日ごろ、理系の本を読む機会はほとんどないが、植物に関して、わかりやすく面白くかかれているので読みやすい本である。

 植物に関しては、多田多恵子先生がNHKの番組「道草さんぽ」で様々な植物を紹介されていた。その中で、植物はガラスの成分であるケイ素を取り込んで“自己防衛”しているという話をされていたことに、大変興味をもったことがある。
 稲垣栄洋先生も、本書の中で、この点に言及している。
 つまり、「イネ科植物の登場」(第1章)において、「イネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている」(23頁)というのである。
 その他、イネ科植物の特徴として、地面の際から葉がたくさん出たような株を作る「分蘖」についての話も、イネを育てていると実感できるので、改めて植物の不思議さに感動した。
 興味のある方は、一読されることをお薦めする。

【稲垣栄洋(いながきひでひろ)氏のプロフィール】
・1968年静岡県生まれ。
・静岡大学農学部教授。農学博士、植物学者。
・農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、現職。
・主な著書に、
 『散歩が楽しくなる雑草手帳』(東京書籍)
 『弱者の戦略』(新潮選書)
 『植物はなぜ動かないのか』
 『はずれ者が進化をつくる』(以上、ちくまプリマー新書)
 『生き物の死にざま』(草思社)
 『生き物が大人になるまで』(大和書房)
 『38億年の生命史に学ぶ生存戦略』(PHPエディターズ・グループ)
 『面白くて眠れなくなる植物学』(PHP文庫)など多数。



【稲垣栄洋『世界史を変えた植物』(PHP文庫)はこちらから】
稲垣栄洋『世界史を変えた植物』(PHP文庫)はこちらから




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・中国四千年の文明を支えた植物~第11章より
・「畑の肉」と呼ばれる理由~第11章より
・コメとダイズは名コンビ~第11章より
・イネ科植物の登場(以下、第1章より)
・イネ科植物のさらなる工夫
・動物の生き残り戦略
・そして人類が生まれた
・稲作以前の食べ物(以下、第2章より)
・イネを選んだ日本人
・コメは栄養価に優れている
・稲作に適した日本列島
・田んぼの歴史
・日本人が愛する花(第15章より)









〇稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]


【目次】
はじめに
第1章 コムギ―一粒の種から文明が生まれた
 木と草はどちらが進化形?
 双子葉植物と単子葉植物の違い
 イネ科植物の登場
 イネ科植物のさらなる工夫
 動物の生き残り戦略
 そして人類が生まれた
 農業は重労働
 それは牧畜から始まった
 穀物が炭水化物を持つ理由
 そして富が生まれた
 後戻りできない道

第2章 イネ―稲作文化が「日本」を作った
 稲作以前の食べ物
 呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!?
 イネを受け入れなかった東日本
 農業の拡大
 イネを選んだ日本人
 コメは栄養価に優れている
 稲作に適した日本列島
 田んぼを作る
 田んぼの歴史
 どうしてコメが大切なのか
 江戸時代の新田開発
 コメが貨幣になった理由
 なぜ日本は人口密度が高いのか

第3章 コショウ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
 金と同じ価値を持つ植物
 コショウを求めて
 世界を二分した二つの国
 大国の凋落
 オランダの貿易支配
 熱帯に香辛料が多い理由
 日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
 コロンブスの苦悩
 アメリカ大陸に到達
 アジアに広まったトウガラシ
 植物の魅惑の成分
 トウガラシの魔力
 コショウに置き換わったトウガラシ
 不思議な赤い実
 日本にやってきたトウガラシ 
 キムチとトウガラシ
 アジアからヨーロッパへ

第5章 ジャガイモ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
 マリー・アントワネットが愛した花
 見たこともない作物
 「悪魔の植物」
 ジャガイモを広めろ
 ドイツを支えたジャガイモ
 ジャーマンポテトの登場
 ルイ十六世の策略
 バラと散った王妃
 肉食の始まり
 大航海時代の必需品
 日本にジャガイモがやってきた
 各地に残る在来のジャガイモ
 アイルランドの悲劇
 故郷を捨てた人々とアメリカ
 カレーライスの誕生
 日本海軍の悩み
 
第6章 トマト―世界の食を変えた赤すぎる果実
 ジャガイモとトマトの運命
 有毒植物として扱われたトマト
 赤すぎたトマト
 ナポリタンの誕生
 里帰りしたトマト
 世界で生産されるトマト
 トマトは野菜か、果実か

第7章 ワタ―「ヒツジが生えた植物」と産業革命
 人類最初の衣服
 草原地帯と動物の毛皮
 「ヒツジが生えた植物」
 産業革命をもたらしたワタ
 奴隷制度の始まり
 奴隷解放宣言の真実
 そして湖が消えた
 ワタがもたらした日本の自動車産業
 地場産業を育てたワタ

第8章 チャ―アヘン戦争とカフェインの魔力
 不老不死の薬
 独特の進化を遂げた抹茶
 ご婦人たちのセレモニー
 産業革命を支えたチャ
 独立戦争はチャが引き金となった
 そして、アヘン戦争が起こった
 日本にも変化がもたらされる
 インドの紅茶の誕生
 カフェインの魔力

第9章 コーヒー―近代資本主義を作り上げた植物
 カフェを支配した植物
 人間を魅了するカフェイン
 イスラム教徒が広めたコーヒー
 コーヒーハウスの誕生
 人々を魅了する悪魔の飲み物
 産業革命の原動力
 そして、フランス革命が起こった
 アメリカの栄光はコーヒーにあり
 奴隷たちのコーヒー畑
 日本にコーヒーがやってきた

第10章 サトウキビ―人類を惑わした甘美なる味
 人間は甘いものが好き
 砂糖を生産する植物
 奴隷を必要とした農業
 砂糖のない幸せ
 サトウキビに侵略された島
 アメリカ大陸と暗黒の歴史
 それは一杯の紅茶から始まった
 そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第11章 ダイズ―戦国時代の軍事食から新大陸へ
 ダイズは「醤油の豆」
 中国四千年の文明を支えた植物
 雑草から作られた作物
 「畑の肉」と呼ばれる理由
 コメとダイズは名コンビ
 戦争が作り上げた食品
 家康が愛した赤味噌
 武田信玄が育てた信州味噌
 伊達政宗と仙台味噌
 ペリーが持ち帰ったダイズ
 「裏庭の作物」

第12章 タマネギ―巨大ピラミッド建設を支えた薬効
 古代エジプトのタマネギ
 エジプトに運ばれる
 球根の正体
 日本にやってきたタマネギ

第13章 チューリップ―世界初のバブル経済と球根
 勘違いで名付けられた
 春を彩る花
 バブルの始まり
 そして、それは壊れた
 
第14章 トウモロコシ―世界を席巻する驚異の農作物
 「宇宙からやってきた植物」
 マヤの伝説の作物
 ヨーロッパでは広まらず
 「もろこし」と「とうきび」
 信長が愛した花
 最も多く作られている農作物
 広がり続ける用途
 トウモロコシが作る世界
 
第15章 サクラ―ヤマザクラと日本人の精神
 日本人が愛する花
 ウメが愛された時代
 武士の美学
 豊臣秀吉の花見
 サクラが作った江戸の町
 八代将軍、吉宗のサクラ
 ソメイヨシノの誕生
 散り際の美しいソメイヨシノ
 桜吹雪の真実
 
 おわりに
 文庫版あとがき
 参考文献







中国四千年の文明を支えた植物~第11章より


・世界の古代文明の発祥は、主要な作物と関係している。
・メソポタミア文明やエジプト文明には、オオムギやコムギなどの麦類がある。
 また、インダス文明には麦類とイネがある。
 長江文明にはイネがあり、そして黄河文明にはダイズがある。
・アメリカ大陸に目を向けると、アステカ文明やマヤ文明のあった中米はトウモロコシの起源地があり、インカ文明のあった南米アンデスはジャガイモの起源地である。

※しかし、今日ではこれらの文明は多くが滅び、現在でも同じ位置に残るのは中国文明のみである。

・中国では、北部の黄河流域にはダイズやアワを中心とした畑作が発達し、南部の長江流域にはイネを中心水田作が発達した。
・農耕を行い、農作物を収穫すると、作物が吸収した土の中の養分は外へ持ち出されることになる。
 そのため、作物を栽培し続けると土地はやせていってしまう。
 また、特定の作物を連続して栽培すると、ミネラルのバランスが崩れて、植物が出す有害物質によって、植物が育ちにくい土壌環境になる。
 こうして早くから農耕が始まった地域では土地が砂漠化して、文明もまた滅びゆく運命にある。

・しかし、中国の農耕を支えたイネやダイズは、自然破壊の少ない作物である。
・イネは水田で栽培すれば、山の上流から流れてきた水によって、栄養分が補給される。
 また、余分なミネラルや有害な物質は、水によって洗い流される。
 そのため、連作障害を起こすことなく、同じ田んぼで毎年、稲作を行うことができるのである。

・また、ダイズはマメ科の植物であるが、マメ科の植物はバクテリアとの共生によって、空気中の窒素を取り込むことができる特殊な能力を有している。
 そのため、窒素分のないやせた土地でも栽培することができ、他の作物を栽培した後の畑で栽培すれば、地力を回復させ、やせた土地を豊かにすることも可能なのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、211頁~212頁)

「畑の肉」と呼ばれる理由~第11章より


・日本人の主食であるご飯には、味噌汁がよく合う。
 ご飯と味噌汁の組み合わせは、和食の基本である。
 これには理由がある。
 味噌の原料はダイズである。じつはコメとダイズとは、栄養学的に相性が良いのである。
・日本人の主食であるコメは、炭水化物を豊富に含み、栄養バランスに優れた食品である。
 一方、ダイズは「畑の肉」と言われるほどタンパク質や脂質を豊富に含んでいる。
 そのため、コメとダイズを組み合わせると三大栄養素である炭水化物とタンパク質と脂質がバランス良く揃うのである。

・ダイズが畑の肉と言われるほど、タンパク質を多く含むのに理由がある。
 ダイズなどのマメ科の植物は、窒素固定という特殊な能力によって、空気中の窒素を取り込むことができる。
 そのため、窒素分の少ない土地でも育つことができる。
・しかし、種子から芽を出すときには、まだ窒素固定をすることができない。
 そのため、窒素を固定するまでの間、種子の中にあらかじめ窒素分であるタンパク質を蓄えているのである。

・一方、イネの種子であるコメは、炭水化物を豊富に含んでいる。
 種子の栄養分であるタンパク質や脂質は、炭水化物に比べると莫大なエネルギーを生みだすという特徴がある。
 ところが、タンパク質は植物の体を作る基本的な物質だから、種子だけではなく、親の植物にとっても重要である。
 また、脂質はエネルギー量が大きい分、脂質を作りだすときにはそれだけ大きなエネルギーを必要とする。
 つまり、タンパク質や脂質を種子に持たせるためには、親の植物に余裕がないとダメである。

・イネ科の植物は草原地帯で発達したと考えられている。
 厳しい草原の環境に生えるイネ科の植物にそんな余裕はない。
 そのため、光合成をすればすぐに得ることができる炭水化物をそのまま種子に蓄え、炭水化物をそのままエネルギー源として芽生え、成長するというシンプルなライフスタイルを作り上げた。
 そして、この炭水化物が、人類の食糧として利用されている。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、214頁~216頁)

コメとダイズは名コンビ~第11章より


・炭水化物を多く含むイネと、タンパク質を多く含むダイズとの組み合わせは、栄養バランスが良い。
 それだけではない。
 さまざまな栄養素を持ち、完全栄養食と言われるコメであるが、唯一、アミノ酸のリジンが少ない。
 このリジンを豊富に含んでいるのがダイズなのである。
・一方、ダイズにはアミノ酸のメチオニンが少ないが、コメにはメチオニンが豊富に含まれている。
 そのため、コメとダイズを組み合わせることによって、すべての栄養分が揃うことになる。
 そういえば、昔から食べられてきたものには、コメとダイズの組み合わせが多い。
・味噌はダイズから作られる。
 和食の基本であるご飯と味噌汁は、コメとダイズの組み合わせである。
 納豆もダイズから作られる。ご飯と納豆も相性はバッチリ。
・また、ダイズから作られるものには、きなこや醤油、豆腐などがある。
 きなこと言えば、きなこ餅だろうし、醤油は、コメから作られる煎餅によく合う。
 また、コメから作られる日本酒には、冷奴や湯豆腐がよく合う。
 さらには酢飯と油揚げの稲荷寿司も、コメとダイズが材料となる。
 日本人が昔から親しんできた料理には、コメとダイズの組み合わせが多い。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、216頁~217頁)

第1章 コムギ―一粒の種から文明が生まれた


イネ科植物の登場


・この単子葉植物の中で、もっとも進化したグループの一つと言われているのが、イネ科植物である。

・イネ科植物は、乾燥した草原で発達を遂げた植物である。
 木々が生い茂る深い森であれば、大量の植物が食べ尽くされるということはない。
 しかし、植物が少ない草原では、動物たちは生き残りをかけて、限られた植物を奪い合って食べ荒らす。
 荒地に生きる動物も大変だが、そんな脅威にさらされている中で身を守ろうとするのは、本当に大変なことだ。

・草原の動物たちは、どのようにして身を守れば良いのだろうか。
 毒で守るというのも一つの方法である。
 しかし、毒を作るためには、毒成分の材料とするための栄養分を必要とする。
 やせた草原で毒成分を生産するのは簡単なことではない。
 また、せっかく毒で身を守っても、動物はそれへの対抗手段を発達させることだろう。

・そこで、イネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている。
 ケイ素は土の中にはたくさんあるが、他の植物は栄養分としては利用しない物質だから、
非常に合理的なのだ。

・さらに、イネ科植物は葉の繊維質が多く消化しにくくなっている。
 こうして、動物に葉を食べられにくくしているのである。

・イネ科の植物がケイ素を体内に蓄えるようになったのは、600万年ほど前のことであると考えられている。
 これは、動物にとっては劇的な大事件であった。
 このイネ科の進化によって、エサを食べることのできなくなった草食動物の多くが絶滅したと考えられているほどである。

・それだけではない。イネ科植物は、他の植物とは大きく異なる特徴がある。
 普通の植物は、茎の先端に成長点があり、新しい細胞を積み上げながら、上へ上へと伸びていく。
 ところが、これでは茎の先端を食べられると、大切な成長点も食べられてしまうことになる。

・そこで、イネ科の植物は成長点を低くしている。
 イネ科植物の成長点があるのは、地面スレスレである。
 イネ科植物は、茎を伸ばさずに株もとに成長点を保ちながら、そこから葉を上へ上へと押し上げるのである。
 これならば、いくら食べられても、葉っぱの先端を食べられるだけで、成長点が傷つくことはないのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、22頁~24頁)

イネ科植物のさらなる工夫


・ただし、この成長方法には重大な問題がある。
 上へ上へと積み上げていく方法であれば、細胞分裂をしながら自由に枝を増やして葉を茂らせることができる。
 しかし、作り上げた葉を下から上へと押し上げていく方法では、後から葉の数を増やすことができないのである。

・そこで、イネ科植物は成長点の数を次々に増やしていく方法を選択した。
 これが分蘖(ぶんげつ)である。
 イネ科植物は、ほとんど背は高くならないが、少しずつ茎を伸ばしながら、地面の際(きわ)に枝を増やしていく。
 そして、その枝がまた新しい枝を伸ばすというように、地面の際にある成長点を次々に増殖させながら、押し上げる葉の数を増やしていくのである。
 そのため、イネ科植物は地面の際から葉がたくさん出たような株を作るのである。

・イネ科植物の工夫はそれだけにとどまらない。
 コメやムギ、トウモロコシなどイネ科の植物は、人間にとって重要な食糧である。しかし、人間が食用にしているのは、植物の種子の部分である。
・イネ科植物は葉が固いので、とても食べられない。
 しかし、人類は火を使うことができる。固いだけなら、調理をしたり、加工したりして、何とか食べられそうなものだ。
・じつは、イネ科植物の葉は固くて食べにくいだけでなく、苦労して食べても、ほとんど栄養がない。
 そのため、葉を食べることは無駄なのである。
 イネ科植物は、食べられないようにするために、葉の栄養分を少なくしている。

・しかし、植物は光合成をして栄養分を作りだしているはずである。
 イネ科植物は、作りだした栄養分をどこに蓄えているのだろうか。
 イネ科植物は、地面の際にある茎に栄養分を避難させて蓄積する。
 そして、葉はタンパク質を最小限にして、栄養価を少なくし、エサとして魅力のないものにしている。

・このように、イネ科植物の葉は固く、消化しにくい上に、栄養分も少ないという、動物のエサとして適さないように進化したのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、24頁~25頁)

動物の生き残り戦略


・しかし、このイネ科植物を食べなければ、草原に暮らす動物は生きていくことができない。
 そのため、草食動物は、イネ科植物をエサにするための進化を遂げている。
 たとえば、ウシの仲間は胃を四つ持つ。この四つうち、人間の胃と同じような消化吸収の働きをしているのは四つ目の胃だけである。
 ウシだけでなく、ヤギやヒツジ、シカ、キリンなども反芻(はんすう)によって植物を消化する反芻動物である。
 ウマは、胃を一つしか持たないが、発達した盲腸の中で、微生物が植物の繊維分を分解するようになっている。こうして、自ら栄養分を作りだしているのである。また、ウサギもウマと同じように、盲腸を発達させている。

・このようにして、草食動物はさまざまな工夫をしながら、固くて栄養価の少ないイネ科植物の葉を消化吸収し、栄養分を得ているのである。

・それにしても、栄養分のほとんどないイネ科植物だけを食べているにしては、ウマやウシは体が大きい。どうして、ウシやウマはあんなに大きいのだろうか。

 草食動物の中でも、ウシやウマなどは主にイネ科植物をエサにしている。
 イネ科植物を消化するためには、四つの胃や長く発達した盲腸のような特別な内臓を持たなくてはならない。
 さらに、栄養分の少ないイネ科植物の葉から栄養分を得るには、大量のイネ科植物を食べなければならない。
 この発達した内臓を持つためには、容積の大きな体が必要になるのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、26頁~28頁)

そして人類が生まれた


・人類もまた草原で生まれたと言われている。
 しかし、人類は、葉が固く、栄養価の低いイネ科植物を草食動物のように食べることはできなかった。
 人類は火を使うことはできるが、それでもイネ科植物の葉は固くて、煮ても焼いても食べることができない。

・それならば、種子を食べればよいではないかと思うかもしれない。
 現在、私たち人類の食糧である麦類、イネ、トウモロコシなどの穀物は、すべてイネ科植物の種子である。

・しかし、イネ科植物の種子を食糧にすることは簡単ではない。
 なぜなら、野生の植物は種子が熟すと、バラバラと種子をばらまいてしまう。
 なにしろ植物の種子は小さいから、そんな小さな種子を一粒ずつ拾い集めるのは簡単なことではない。

・コムギの祖先種と呼ばれるのが、「ヒトツブコムギ」という植物である。
 ところがあるとき、私たちの祖先の誰かが、人類の歴史でもっとも偉大な発見をした。
 それが、種子が落ちない突然変異を起こした株の発見である。
 種子が熟しても地面に落ちないと、自然界で植物は子孫を残すことができないことになる。そのため、「種子が落ちない」という性質は、植物にとって致命的な欠陥である。

・しかし、人類にとっては違う。
 種子がそのまま残っていれば、収穫して食糧にすることができる。
 種子が落ちる性質を、「脱粒性(だつりゅうせい)」と言う。
 自分の力で種子を散布する野生植物にとって、脱粒性はとても大切な性質である。
 しかし、ごくわずかな確率で、種子の落ちない「非脱粒性」という性質を持つ突然変異が起こることがある。
 人類は、このごくわずかな珍しい株を発見した。

 落ちない種子は食糧にできるだけではない。
 種子が落ちない性質を持つ株から種子を取って育てれば、もしかすると、種子の落ちない性質のムギを増やしていくことができるかもしれない。
 そうすれば、食糧を安定的に確保することができる。
 これこそが、農業の始まりなのであるという。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、28頁~30頁)

第2章 イネ―稲作文化が「日本」を作った


・戦国時代の日本は、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。
 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
〇第2章では、このイネをテーマとしている。以下、私の関心により紹介してみたい。

稲作以前の食べ物


・狩猟採集の時代、日本人がデンプン源としていた食べ物は「Uri」と呼ばれていたとされる。
 クリ(Kuri)、クルミ(Kurumi)などの発音は、このUriに由来すると言われている。
 また、ユリの球根もデンプン源となった。このユリ(Yuri)の発音も、「Uri」に由来している。

・日本に稲作が伝来する以前に、日本人が重要な食糧としていたものがサトイモである。
 サトイモは、タロと呼ばれて、中国大陸から東南アジア、ミクロネシア、ポリネシア、オセアニアの太平洋地域一帯で、現代でも広く主食として用いられている。
 日本にもかなり古い時代に、このタロイモが伝わり、タロイモ文化圏の一角を成していたと考えられている。

・現在でも、かつてサトイモが主食となっていた痕跡は残されている。
 たとえば、お正月には、もちゴメで作った餅を食べるが、おせち料理やお雑煮にサトイモが欠かせないという地方も少なくない。
 あるいは、中秋の名月には、コメの粉で作った月見団子を供えるが、芋名月といってサトイモを供える風習も残っている。

・また、納豆、餅、とろろ、なめこなど、外国人が苦手とするネバネバした食感を日本人が好むのは、サトイモに関する遠い記憶があるからだとさえ言われている。

・ところが、やがて日本にサトイモに代わる優れたデンプン源がやってくる。
 それが「うるち(Uruchi)」である。
 食用のお米を表す「うるち米」という言葉も、「Uri」に由来すると言われている言葉なのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、39頁~41頁)

イネを選んだ日本人


・イネは、他の穀類に比べても収量が多い。
 収量が多ければ、それだけコメが蓄えられ、富が蓄積される。
・そして、稲作はコメだけでなく、青銅器や鉄器といった最先端の技術をもたらした。
 こうした最先端の技術が人々を魅了し、稲作は受け入れられていったのかもしれない。
・また、稲作に用いる土木技術や鉄器は、戦(いくさ)になれば軍事力となる。
 ときには武力で、稲作を行う集団が、稲作を行わない集団を圧倒することもあったろう。
・さらに、メソポタミア文明でもそうであったように、気候の変化は、人々が農業を選択する引き金となった。
・約4000年前の縄文時代の後期になると、次第に地球の気温が下がり始めたことから、東日本の豊かな自然は大きく変化するようになった。
 これが農業の始まりに影響を与えていることも指摘されている。
 東日本は豊かな食料に支えられて、人口密度が高くなったから、食料の不足は切実な問題となったことだろう。
 こうして、時間を掛けながら、日本人は稲作を受け入れていった。
・農業は文明を発達させ、社会を発展させる。
 日本もまた安定した食糧の確保と引き換えに、農業という労働を行うようになり、それはやがて富の不平等を生み、力の差を生み、国が形作られるという日本の歴史が始まるのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、46頁~47頁)

コメは栄養価に優れている


・イネは元をたどれば、東南アジアを原産とする外来の植物である。
 しかし、今ではコメは日本人の主食であり、神事や季節行事とも深く結びついている。
 日本の文化や日本人のアイデンティティの礎(いしずえ)は、稲作にあると言われるほど、日本では重要な作物となっている。
 どうしてイネは日本人にとって、これほどまでに重要な存在となったのだろうか。
・コメは東南アジアなどでも盛んに作られているが、数ある作物のうちの一つでしかない。
 食べ物の豊富な熱帯地域では、イネの重要性はそれほど高くないのである。

・日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。
 イネはムギなどの他の作物に比べて、極めて生産性の高い作物である。
 イネは一粒の種もみから700~1000粒のコメがとれる。
 これは他の作物と比べて、驚異的な生産力である。

・15世紀のヨーロッパでは、コムギの種子を蒔いた量に対して、収穫できた量はわずか3~5倍だった。
 これに対して、17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して、20~30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だったのである。
 現在でもイネは110~140倍もの収量があるのに対して、コムギは20倍前後の収量しかない。

・さらに、コメは栄養価に優れている。
 炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。
 さらにはミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。
 そのため、とにかくコメさえ食べていれば良かった。

・唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。
 ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのが、ダイズである。
 そのため、コメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。
 ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。
 かくして、コメは、日本人の主食として位置づけられた。

・一方、パンやパスタの原料となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできない。
 コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要がある。
 そのため、コムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられている。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、47頁~49頁)

稲作に適した日本列島


・さらに日本列島は、イネの栽培を行うのに恵まれた条件が揃っている。
 イネを栽培するには、大量の水を必要とするが、幸いなことに、日本は雨が多い。
 
・日本の降水量は年平均で、約1700ミリである。
 これは世界の平均降水量の2倍以上である。
 日本にも水不足がないわけではないが、世界には乾燥地帯や佐幕地帯が多いことを考えれば、水資源に恵まれた国なのである。

・日本は、モンスーンアジアという気候帯に位置している。
 モンスーンというのは、季節風のことである。
 アジアの南のインドから東南アジア、中国南部から日本にかけては、モンスーンの影響を受けて、雨が多く降る。
 この地域をモンスーンアジアと呼んでいる。

・5月頃に、アジア大陸が温められて低気圧が発生すると、インド洋の上空の高気圧から大陸に向かって、風が吹き付ける。
 これがモンスーンである。
 モンスーンは、大陸のヒマラヤ山脈にぶつかると、東に進路を変えていく。
 この湿ったモンスーンが雨を降らせる。
・そのため、アジア各地はこの時期に雨期となる。
 そして、日本列島では梅雨になるのである。
こうして作られた高温多湿な夏の気候は、イネの栽培に適している。

・それだけではない。冬になれば、大陸から北西の風が吹き付ける。
 大陸から吹いてきた風は、日本列島の山脈にぶつかって雲となり、日本海側に大量の雪を降らせる。
 大雪は、植物の生育に適しているとは言えないが、春になれば雪解け水が川となり、潤沢な水で大地を潤す。
 こうして、日本は世界でも稀な水の豊かな国土を有しているのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、49頁~51頁)

田んぼの歴史


・日本の歴史を見ると、もともと田んぼは谷筋や山のふもとに拓かれることが多かった。
 それらの地形では、山からの伏流水が流れ出てくる。
 やがてその水を引いて、山のふもとの扇状地や盆地に田んぼが拓かれていく。
 それでも田んぼは、限られた恵まれた地形でしか作ることができなかったのだ。

・田んぼの面積が増加してくるのは、戦国時代のことである。
 もともと戦国武将の多くは、広々とした平野ではなく、山に挟まれた谷間や、山に囲まれた盆地に拠点を置き、城を築いた。
 これは防衛上の意味もあるが、じつは山に近いところこそが、豊かなコメの稔りをもたらす戦国時代の穀倉地帯だったのである。

・多くの地域では、イネを作ることができず、麦類やソバを作り、ヒエやアワなどの雑穀を作るしかなかった。
 そして、限られた穀倉地帯を巡って、戦国武将たちは戦いを繰り広げたのである。
・石高を競う戦国武将は、戦いによって隣国を奪って領地を広げれば、石高を上げることはできる。しかし、戦国時代も終盤になり、国境が定まってくると、領地は増やすこともままならない。ただ、石高は領地の面積ではなく、コメの生産量である。
 領地は増えなくても、田んぼが増え、コメの生産量が増えれば、自らの力を強めることができる。そこで、戦国武将たちは、各地で新たな水田を開発していく。

・戦国時代には、各地に山城が造られた。
 堀を造り、土塁を築き、石垣を組んで、城を造る。
 こうした土木技術の発達によって、これまで田んぼを作ることができなかった山間部にも、水田を拓くことが可能になった。こうして作られたのが、「棚田」である。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、47頁~49頁)

第15章 サクラ―ヤマザクラと日本人の精神


・ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
 日本人は、けっして散るサクラに魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
〇第15章のうち、サクラと稲作との関連を説いたところを紹介しておく。

日本人が愛する花


・古くからサクラは日本人に愛されてきた。
 もともとサクラは稲作にとって神聖な花だった。
 サクラの花は決まって稲作の始まる時期に咲く。
 そのため、サクラは農業を始める季節を知らせる目印となる重要な植物であった。
 そして、美しく咲くサクラの花に、人々は稲作の神の姿を見たのである。

・サクラの「さ」は、田の神を意味する言葉である。
 サクラの他にも、稲作に関する言葉には、「さ」のつくものが多い。
 田植えをする旧暦の五月は、「さつき」と言う。
 そして、植える苗が、「さなえ」である。
 さらに、「さなえ」を植える人が、「さおとめ」である。
 田植えが終わると、「さなぶり」というお祭りを行う。
 さなぶりという言葉は、田んぼの神様が上っていく「さのぼり」に由来している。

・そして、サクラの「くら」は、依代(よりしろ)という意味である。
 つまり、サクラは、田の神が下りてくる木という意味である。
 つまり、稲作が始まる春になると、田の神様が下りてきて、美しいサクラの花を咲かせると考えられていたのである。

・昔から日本には、神様と共に食事をする「共食」の慣わしがある。
 正月の祝い箸が両端とも細くなって物がつかめるようになっているのは、神様と一緒に食事をするためである。
 日本人は季節ごとに神々と酒を飲み、ご馳走を食べてきた。
 そして、春になると、人々は依代であるサクラの木の下で豊作を祈り、飲んだり歌ったりした。
 さらに、人々は満開のサクラに稲の豊作を祈り、花の散り方で豊凶を占ったという。

(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、257頁~259頁)


(2023年わが家の稲作日誌よりの写真)



≪田中阿里子『源氏物語の舞台』を読んで≫

2024-04-14 18:00:32 | 私のブック・レポート
≪田中阿里子『源氏物語の舞台』を読んで≫
(2024年4月14日投稿)


【はじめに】


今回のブログでは、紫式部と『源氏物語』について考える上で、次の著作を読んでみたので、紹介してみたい。
〇田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年
「『源氏物語』の舞台になった場所をたずねて、京の町のところどころを歩こうというのが、この本の試みである」と「初刊本まえがき」(5頁)に記してあることからもわかるように、『源氏物語』の舞台となっている場所を訪れて、解説を加えている本である。章立てからも推察できるように、光源氏、薫の生涯にそって、述べている。
 『源氏物語』の登場人物の中で、六条御息所、薫について、著者の深い洞察が加えられている点、紫式部の生きた時代の社会的背景などにも考察が及んでいる点など、教えられるところがあった。



【田中阿里子『源氏物語の舞台』(徳間文庫)はこちらから】
田中阿里子『源氏物語の舞台』(徳間文庫)





〇田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年
【目次】
初刊本まえがき
第一章(光源氏の誕生~十七歳)
第二章(光源氏十八歳~二十歳)
第三章(光源氏二十一歳~二十五歳)
第四章(光源氏二十六歳~三十五歳)
第五章(光源氏三十六歳~三十八歳)
第六章(光源氏三十九歳~四十七歳)
第七章(光源氏四十八歳~死)
第八章(薫君十四歳~十九歳)
第九章(薫君二十歳~二十八歳迄、源氏存命ならば七十五歳で終る)
第十章――『紫式部日記』より――
解説 百瀬明治




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


■六条御息所(第三章より)について
■加持祈禱
■貴族間の対立(『源氏物語』のもう一つの側面)~第五章より
■王朝の文化人
■『栄華物語』について
■三千院
■人々の死
■墓所と葬場
■宇治陵  
■物語後半の主題(第八章より)
■薫の思想(第九章より)
■宇治十帖の社会的背景
〇第十章―『紫式部日記』より
■紫式部の略歴について
■日記
■邸宅の跡(廬山寺)






六条御息所について


「第三章(光源氏二十一歳~二十五歳)」の冒頭において、「葵」の巻の「物語の梗概」について、百瀬明治氏の文章(『日本古典文学大系』岩波書店刊行)を引用して、次のような梗概を載せている。(なお、百瀬明治氏は本書の解説[215頁~219頁]の執筆者でもある)

【葵】
・源氏の父桐壺帝が退位し、春宮(とうぐう)が即位して朱雀(すざく)帝となった。
 これにともない、新たに春宮に選ばれたのは、源氏と藤壺の間の不義の子であった。
 源氏は、新春宮の後見役に任じられた。
・しかし、この頃から、源氏の周囲の情勢は、ようやく厳しくなってくる。
 朱雀帝の生母弘徽殿(こきでん)皇太后とその実家右大臣の一派が、政治の実権を掌握し、源氏と左大臣系の勢力は退潮の兆をみせはじめる。

・ところで、当時は、天皇が即位するたびに、伊勢の斎宮、賀茂の斎院も新任されるのが習わしであった。選任される資格は、未婚の王女、内親王であることで、このたびは、源氏の最初の愛人六条御息所の娘が斎宮に、弘徽殿の女三宮(おんなさんのみや)が斎院にそれぞれ選ばれた。

・賀茂の斎院の御禊(みそぎ)が行われた日のことである。
 葵上は妊娠中で気分がすぐれなかったが、源氏が斎院の御ともにまいることでもあり、母の宮のすすめもあったので、急に外出の仕度をととのえた。折りから一条通りは、御禊行列を一目見んとする人々で雑踏をきわめていた。
 遅れてきた葵上一行は、車をとどめる場を見出せず、従者が強引に割りこもうとして、その人と知りながら、六条御息所の網代(あじろ)車を押しのけてしまった。
 ほどなくこの事件を知った源氏は、貴女としての条件は十分備えているのに、どうして情味だけが欠けているのだろうと、葵上の行為を苦々しく思う。
 しかし、この事件は、思いがけぬ結果を後にひき起こすことになる。

※『源氏物語』において、六条御息所は、強烈な嫉妬心と自恃(じじ)の持主として描かれている。
 彼女は大臣家に生れ、故先坊(桐壺帝の弟)の妃でもあった。
 出身と経歴に関しては、葵上に少しも遜色ない。しかも、彼女は源氏の最初の愛人なのである。
 これまでに積りつもった恨みが、屈辱的な車争いの一件によって爆発したのだろう。彼女の魂は物怪(もののけ)となって、葵上に取り憑いた。
・葵上は、危篤状態に陥る。
 左大臣家では、叡山の座主をはじめ高僧を多く招いて、祈禱を行わせた。
 そんなある夜、葵上の姿は急に六条御息所に変じて、涙ながらにつれない仕打ちの続いたことを、源氏になじるのであった。夕顔をとり殺した怨霊も彼女であったことがこの時判明した。
・僧達の祈りがきいたのか、やがて物怪は去り、葵上は美しい男児(のちの夕霧)を無事出産した。けれども結局、葵上自身は生きながらえることができなかった。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、47頁~48頁)

・作者の田中阿里子氏は、六条御息所に深い関心をよせている。
 次の点に注意している。

・源氏の最初の愛人であること
・年上の既婚女性であること
・高貴な身分で教養の高い女人であること
・そのほかに、深い情念を湛(たた)えていること

※葵上にしても紫上にしても、あるいは夕顔、花散里、朧月夜君にしても、それぞれに特徴のある美しさと可憐さを備え、源氏との出逢い方も色々に工夫があって面白い。
 しかし、六条御息所ほどに強い個性を作者からあたえられたものはなく、生霊となってまでも、主人公とその女達の上につきまとう怨念の強さは、作者紫式部が無意識に仮託した、自己の情念そのものである、と田中阿里子氏はみている。

※この時代では、まだ霊の存在が固く信じられ、恨みをのんで死んだ人の魂が、生きている人間に祟って病を起すところから、霊は仏の力によって退散せしめられたり、あるいは神として祀られた。

※神話においる素盞嗚命(すさのおみこと)は天照大神によって追放された荒神だが、牛頭天王(ごずてんのう)といって祇園社をはじめ方々に祀られている。
 今宮(いまみや)神社にもこれを祀った宮があるが、もともと今宮神社は、民衆が悪鬼をはらうためにまつった社で、一条天皇の時にも天下に疫病が流行したために、この地で疫神をまつって、大いに御霊会(ごりょうえ)をいとなまれた。

(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、53頁~54頁)


■加持祈禱について
・密教では、護摩をたいて、怨霊退散の祈り、加持祈禱を行った。
 物怪に対しては、これを「よりましの巫女(みこ)」にのりうつらせて、病者から離し、その後呪文によって調伏した。
 「葵」の巻にも、
  「……いとゞしき御祈りの、数をつくしてせさせ給へれど、例の執念(しゅうね)き御物の怪(け)一つ、さらに動かず、……加持の僧ども、声しづめて法花経をよみたる。いみじう、尊し」
とある。
 また、『紫式部日記』の中でも、中宮彰子(しょうし)の土御門殿(つちみかどでん)における御産の時には、
  「日ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をばさらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなくまゐりつどひ、三世の仏も、いかに聞き給ふらむと思ひやらる。陰陽師とて、世にあるかぎり召し集めて、八百万(やおよろず)の神も耳ふりたてぬはあらじと見えきこゆ」
と描写している。

※六条御息所の怨念が、いかに物語の中に効果的に使われていることか。
 葵上をとり殺した怨霊は、この後も紫上にとりついて彼女を気絶させ、そして源氏が紫上につきそって看護している暇に、正夫人の女三宮が他の男性と姦通して妊娠するという事件を起すが、それもみな自分を愛さなかった源氏への仕返しだと、御息所の霊が嘲笑する。
 この物怪によって、光りかがやく源氏の物語には深い影が添うこととなる。
 そこに、田中阿里子氏は文学性が高まっているとみる。
 そして一方には、当時の貴族達の一夫多妻生活の中で、愛し、憎み、哀しみ苦しんだ女性達の真実の声を、御息所一人にしぼって、作者が代表させたのではないか、と考えている。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、55頁~56頁)

■貴族間の対立(『源氏物語』のもう一つの側面)~第五章より
・玉鬘が発見されて、源氏に養われ、さらに本当の父親と対面してから結婚にいたるまでの章ほど、華やかでダイナミックな趣きをそえるものはない。
 実は『源氏物語』は、光君(ひかるのきみ)の様々な恋愛遍歴の話にみえながら、その底にきびしい政治権力の対立を描き切っているのである。
 その筋書を追って行くと、桐壺院の御代では、左大臣系と右大臣系の対立がある上へ、光君という皇子(みこ)が源氏としてあらわれる。
 王氏の源氏は左大臣系の方と結ぶが、やがて朱雀帝の御代になって右大臣系の方が台頭し、源氏は左遷される。しかし冷泉帝の御代に及んで再び源氏と左大臣系が復活してくるという順序である。
 とは言いながら、左大臣家の長男も、王氏の源氏とは若い時からのよきライバルで、ことごとに競争があった。
 たとえば、梅壺と弘徽殿女御のいどみ合い、あるいは夕霧と雲井雁の結婚問題についてのもつれ等だが、夕顔の遺児玉鬘をめぐっても、源氏は相手に優越しようとし、ついに成功するのである。
 そして最後に彼が六条院として上皇に準ずる位に上ると、圧倒的な王氏の勝利で、右大臣側の太后(おおきさき)も、左大臣側の長者も今さらに源氏の運命が、他に異っていたことを納得する。

・しかし式部がこういう経過を書き上げたについては、心中に複雑なものがあっただろうと、著者は推測している。
 藤原氏というのは同じ一族の間でも栄達の争いが激しかったから、式部は自らも藤原氏の一員でありながら、中心の摂関家に対する不満を抱いていたに違いないし、また摂関家の権力によって圧迫される、王氏の子孫達に対しては同情や、かくあれかしという希望があって、源氏を理想の人物に描いたという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、102頁~104頁)

■王朝の文化人
・紫式部たちの生きた時代は、中国の文化はずい分日本化されてきている時代だが、貴族の生活も公的には中国風、私的には敷島の大和心を尊ぶ風が強くなっている。
 たとえば、村上天皇の御世の天徳4年には、清涼殿に於て女房歌合せが行われ、それは男性の詩合せに対抗して、大流行の先がけをつくった。
 だから『源氏物語』の中にも、「絵合」で女性が二派にわかれて争うというような風俗が描かれたのであろう。

・中国風から日本風への、文化の変り目の一つに書道がある。
 「梅枝」の巻でも、源氏が書について批評しているが、「近頃の源氏は書道といっても、仮名の方を重んじて、世の中に上手とよばれる人があれば、身分をとわずに書かせている」のであった。

・一条帝の時代には才人が多くて、書道の方にも人があったが、中でも藤原行成(ゆきなり)は漢字、かなともにうまく、小野道風、藤原佐理(すけたか)とともに三蹟とうたわれた。
 しかし行成が才人だといっても、この時代には各方面にすぐれた人材がそろっていて、例をあげれば次のようになる。

一、政治 
藤原道長、伊周(これちか)、実資(さねすけ)、斉信(ただのぶ)、
 公任(きんとう)、行成、源俊賢(としかた)、頼定、相方
二、漢詩文
 大江匡衡(まさひら)、以言(よしとき)
三、和歌
 藤原実方(さねかた)、和泉式部、赤染衛門
四、管弦
 源道方、済政(なりまさ)
五、絵画
 巨勢(こせ)弘高
六、儒学
 清原善澄、広澄
七、仏教
 源信、覚運、院源、寛朝、慶円
八、陰陽道
 安倍晴明
九、武士
 下野公時(しもつけきんとき)、尾張兼時、源頼光、源満仲、平維衡(これひら)

このように多士済々である。
 そして、これらの人々の中心に、道長が居たのであるが、その才略にとんだ道長の様子が、六条院における源氏の描写にモデルとして使用されているらしいという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、124頁~126頁)


【私の追記メモ】 大河ドラマ「光る君へ」のキャストを参考までに列記しておく。
・藤原道長(柄本佑)
・紫式部(まひろ)(吉高由里子)
・道長の妻の源倫子(黒木華)
・道長の長女の彰子(見上愛)
・道長の子の頼通(渡邊圭祐)
・紫式部の父(岸谷五朗)
・紫式部の弟の惟規(高杉真宙)
・紫式部の夫(佐々木蔵之介)
・藤原兼家(段田安則)
・藤原道隆(井浦新)
・詮子(吉田羊)
・道隆の長女:定子(高畑充希)
・定子の兄:伊周(三浦翔平)
・清少納言(ファーストサマーウイカ)
・一条天皇(塩野瑛久)
・源高明の娘:源明子(瀧内公美)
・藤原実資(秋山竜次)
・藤原斉信(金田哲)
・藤原公任(町田啓太)
・藤原行成(渡辺大知)
・赤染衛門(凰稀かなめ)
・安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)

■『栄華物語』 について
・さて『源氏物語』「若菜」からは、源氏夫妻の運命の凋落がはじまる。
 まず紫上が、朱雀院の女三宮に、正夫人の地位をおびやかされる立場になって、ついに病気にかかる。源氏の方は、女三宮の姦通によって、コキュの憂目を味わうという、二人の悲運が、表面上は源氏の四十賀と朱雀院の五十賀という華やかな催しの裏側に進行するのである。
 この四十賀の儀式のモデルを、『栄華物語』 の中から著者は拾っている。

・『栄華物語』 の巻第三に、摂政兼家の六十の賀が、東三条の院で行われた記述がある。
 永祚2年10月のことで、一条天皇の行幸もあった。
 また、巻第七には、東三条院詮子の四十の賀をくわしくのべている。
 長保3年のことだが、この年は疫病が流行したり、女院(にょういん)が法華八講会を催されたり、石山詣(もうで)があったりして賀宴が遅れ、10月になった。
 土御門殿で行われ、この時も行幸があった。
 屏風の歌は上手な歌人達が仕ったが、絵の方は八月十五夜に男女の語らう姿であった。
 賀宴の舞人は北家の子息達がつとめたが、ことに道長の息、頼通と頼宗の二人の少年の舞が美しかった。
この時、中宮彰子は西の対屋、女院は寝殿なので、一条天皇もその東廂におられ、道長夫人は東の対屋にいて、公卿は渡殿にいた。


・『栄華物語』の筆者については色んな説があり、何人かの複数の筆者の名前もあがっている。
 しかし少なくとも巻三十までの正編については、赤染衛門が最も有力な候補とされる。
 彼女は道長の妻の倫子(りんし)に仕えていたから、彰子つきの紫式部とは関わりも深く、親交があったらしい。
 式部は赤染衛門のことを、「ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌よみとて、よろづのことにつけてよみちらさねど、聞えたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきに侍れ」と、好感をもって書いている。

・なおこの第六章の明石姫入内の参考として、『栄華物語』の中から、彰子入内の部分をひいている。
「大殿の姫君十二にならせ給へば、年の内に御裳着ありて、やがて内に参らせ給はんと急がせ給ふ。(下略)」
 巻第六の、「かゞやく藤壺」から引用したが、明石姫も同じように未来のお后候補として入内し、そして、源氏四十の賀のあとに皇子を出産する。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、128頁~130頁)

 
■三千院
・大原の里は桜の花にもよし、緑の雨によし、秋の紅葉に、雪景色にと、昔も今も環境のよいところだが、ことに三千院は品格の高い、よい寺である。
 はじめ、伝教大師が比叡山に根本中堂を営んだ時、東塔の南谷に建てた寺が起りといわれるが、後に堀河天皇の皇子が入室されてからは、代々の門跡寺院となった。

・なお、三千院の境内東南部にある往生極楽院は、三間四面、単層、入母屋造り、こけら葺のささやかな建物であるが、内部は藤原時代の阿弥陀堂の様式をとどめ、優雅で美しい。
 安置した阿弥陀三尊も、来迎の弥陀の姿を表わしたもので、これは王朝の人達が憧れた未来の相だったらしい。
 道長も頼通もこれに似た阿弥陀堂をつくっているが、この世で栄華をきわめた人達が、死だけはまぬがれることが出来ず、最後に如来に願ったのである。
 光源氏も女三宮に背かれ、紫上に先だたれてからは、浮沈の多い一生を振り返って、念仏三昧に暮した筈である。
 だがその子の夕霧はあくまでも落葉宮をもとめて、大原の山荘から奪うようにして、一条の宮へと移した。
 結局、親の犯した過失を同じように繰り返していくのが、人間というものなのか。
 そして更に女三宮の過失からは薫君が生れ、表向きは夕霧の弟として、宇治十帖の主人公となるのである。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、144頁~146頁)

■人々の死
・第七章(光源氏四十八歳~死)に於ては、三つの大きな死がある。
 柏木と紫上、源氏である。
 紫上は先の「若菜下」の巻で、六条御息所の物怪につかれ、危く命を落しそうになった。
 蘇生してからも病気がちであった。あくまでも執拗な御息所の怨霊は、「中宮の御事を世話して下さるのはありがたく、あの世からみていますが、生を隔てると、子の愛というのを以前ほど深く感じないのか、あなたへの恨みだけが執着するのです。その恨みの中にも、生前にあなたが私を軽んじられたことよりも、紫上との語らいの中で、私を悪くいわれたことが、口惜しく思われます……」と気味の悪いことを言う。
 また中宮への伝言として、「他の女性と帝寵をきそい合うというようなことはするな」といましめたりする。

・こんな噂が自然とひとに洩れるところとなって、紫上はいよいよ出家を希望し、秋好中宮さえも母の菩提を弔うために、尼になりたいと洩らすのだが、源氏が許さないうちに、紫上ははかなくなるのだった。
 さすがに源氏その人は「神」のような存在であるから、怨霊のつきようもなく、またその死については一言も語っていない。
 しかし源氏周辺の人物の不幸を必ず怨霊のたたりとし、いかに善根を積もうとそのたたりからのがれられぬ筋書を作っている処に、作者のみでなく当時の人々の、ぬきがたい宿命観をのぞきみるのである。
 革命というものがなく、すでに階級の固定してしまった貴族社会では、より出世するためにはその娘を天皇に奉って、皇子の出生を待つばかりだった、そういうシステムが、宿命観をより深くさせたのであろう、と著者はみる。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、145頁~147頁)

■墓所と葬場
・柏木を何処に葬ったかという記述はなく、ただ夕霧が「右将軍が塚に、草初めて青し」と口ずさむのみである。
 しかし右将軍というのは当時、承平6年(936年)7月に死んだ右大将軍藤原保忠(やすただ)のことで、保忠は藤原氏の一族として、木幡(こばた)墓所に葬られた筈だから、柏木の墓も木幡と考えてよいだろう。
 
・紫上の方は、「はるばると広き野の、……」とあり、それは鳥辺野(とりべの)の中の、愛宕(おたぎ)の火葬場であり、墓地のことは書いていない。
・ここで振り返ってみると、桐壺の更衣も愛宕で火葬にしたとあり、夕顔、葵上の葬送も同じである。
・しかし桐壺院は、「須磨」の巻に、「御墓は、道の草しげくなりてわけ入り給ふ程、いとゞ露けきに、月の雲にかくれて、森の木立こぶかく心すごし」と御陵のことを描写していて、おそらくは作者は北山あたりに御陵の位置を想定していたとする。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、147頁~148頁)

■宇治陵  
・藤原氏一門の骨を埋めた宇治陵は、古くは木幡墓所といったが、現在の地名でいうと、宇治市木幡南山畑町、木幡山の南麓にひろがる相当広い地域である。
 次々にその上に家が建って、新しい道が出来、どれが誰の墓所ともはっきりわからない。
 しかし木幡駅からさらに府道にそって南へいくと、宇治陵総拝所があって、そこにはちゃんと十七陵三墓に納めた方々の名が書いてある。
 
 宇多帝中宮温子(おんし)
 醍醐帝中宮穏子(おんし)
 村上帝中宮安子
 冷泉帝女御懐子(かいし)
 冷泉帝女御超子
 円融帝皇后遵子(じゅんし)
 円融帝中宮媓子(こうし)
 円融帝女御詮子(せんし)
 一条帝中宮彰子(しょうし)
 三条帝中宮妍子(けんし)
 三条帝皇后娍子(じょうし)
 後一条帝皇后威子(いし)

・文学史にも有名な方々の名前が並んでいて、圧倒される気分である。
 そのほか左側の立札には、藤原冬嗣、基経、時平、道長、頼通など、摂関家の人達の錚々たる名も並んでいるが、この方はどの塚が誰のものかはっきりわからないらしい。
 さすがに道長といえども、中宮や女御への扱いには劣るというわけであろうか、と著者は記す。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、152頁)

■物語後半の主題(第八章より)
・「匂宮」の巻の冒頭に、いかに作者は次の物語の中心人物たる薫君の個性について、慎重な用意のある文章をかいていることか。
「をさなき心地に、ほの聞き給ひし事の、折々いぶかしう、おぼつかなく、思ひわたれど、問うべき人もなし」と、薫が幼い時から自分の出生について疑問を抱いていることを述べ、
おぼつかな誰に問はましいかにして始めも果ても知らぬわが身ぞ
と独りで愚痴をいうが、答えるべき人もなかったと書いている。
・この、「おぼつかな」の歌は勿論紫式部の作ったものであるが、作者は薫の口をかりて、無意識に物語の後半部の主題を語っている、と著者はみる。
 薫はいうまでもなく、女三宮の不義姦通によって生れた子で、人生観は暗いが、それに托して語っている作者の人生観も暗くなっている。
 とてもあの、光り輝く生命の象徴であった、前半の主人公を描いた作者と、同じ人物とは思えぬ程である。
 しかし式部は、物語を書きはじめてからすでに何年かを経て、女房生活の裏表を体験し、人生の悲惨も味わっているうちに、心境が変化したのであろうという。
 文学観も深く沈潜してきた筈である。
 そう思うと、「始めも果ても知らぬわが身ぞ」という言葉には、作者の痛切な無常感(ママ)がこめられて、いよいよ身につまされる感じがしてくる。

・とは言いながら作者はこの薫に、源氏とは違った意味でのすぐれた個性をあたえている。
 それは美しい香りである。
 原文をひくと、
「香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うちふるまひ給へるあたり、遠く隔たる程の追風も、まことに、百歩のほかも、薫りぬべき心地しける」とある。
 なお、薫について、「これほどの身分の人が風采をかまわずにありのままで人中へ出るわけはなく、すこしでも人よりすぐれた印象を与えたいという用意をするはずであるが、怪しいほど放散する匂いに、忍び歩きをするのも不自由なのをうるさがって、あまり薫物などは用いない。それでもこの人の家にしまわれた香が、異ったよい匂いを放つものになり、庭の花の木もこの人の袖がふれるために、春雨の日の枝のしずくも、身にしむ香を漂わすことになった。秋の野の藤袴は、この人が通ればもとの香が隠れてなつかしい香に変るのだった。……」と語っている。

・ついでに、
「兵部卿の宮は、薫がこんなに不思議な香の持主である点を、羨ましく思って、競争心をおもやしになるのだった。宮のは人工的にすぐれた香を、お召し物へたきしめることを朝夕の仕事に遊ばし、自邸の庭にも春の花は梅を主にして、秋は人の愛する女郎花、萩の花などは顧みられることなく、不老の菊、衰えていく藤袴、見ばえのせぬ吾木香(われもこう)などいう、匂いの立つ植物を、霜枯れのころまでもお愛しになるような風流ぶりであった。……」と、
薫の模倣者までが現われているのである。

・薫がどのような特異体質をもっていたにしても、科学的には一寸納得のいかぬ話で、そのくせ作者の唯美的な文章には、後世の読者を酔わせる何かがあるのである。
 あるいはそれが、王朝人独得の文学的感性的な現実認識の仕方だといえるかも知れない。
・それにしても、光君と薫君という、この二つの名前だけを取り上げてみても、ここには如何にも日本的伝統的な美学がある。
 古来から、暗いもの、臭いものはけがれとして忌み嫌った日本人の好みに、源氏はよく合っている。そこにこそ『源氏物語』が千年の生命を保ってきた秘密の一端があるとみる。
 臭いものを臭いと書いただけでは、言葉の芸術は成り立たないのである。
 紫式部の芸術は、この世に浄土の芳香を漂わす男をさえ創ったという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、163頁~166頁)

■薫の思想(第九章より)
・宇治十帖は、都を離れて素朴な、しかも趣きに富んだ土地に繰りひろげられる、ささやかな人間関係のなりゆきを描いたものである。
 それだけに、前編にくらべて、心理の掘り下げが深く、作者の眼も情感も沈潜していて、文学性はより高いといわれる。

・「橋姫」の巻に、薫のことを八宮がひとづてにきいて、次のように話している。
「人生をかりそめのものと悟り、厭世心の起りはじめるのも、その人自身に不幸のあった時とか、社会から冷たくされた時とか、何かの動機によることですが、年が若くて、しかも思うことが何でもかなう身の上で、何の不満もなさそうな人が、そんなに後世のことを頭において仏教を学ぼうとされるのは、珍しいことですね」

・宇治十帖に漂っている仏教的な宿命観やペシミズムは、この時代のものである。
 式部の時代からもう少し下ると、世の中は末法思想という暗いものにおおわれてしまうが、それへのはじまりがすでにここでは現われて、薫の出生そのものが、ぬきさしならぬ人間の運命の暗さを象徴しているかにみえる。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、177頁~178頁)

■宇治十帖の社会的背景
・末法思想というのは、釈迦が入滅後の世界を、正法、像法、末法の三つに分け、
末法の世に入ると仏の教えは衰えて、人々の心は悪化し、世の中には悪のみがはびこるという、悲観的な考えである。
 その期間については色んな説がある。
 当時は正法千年、像法二千年と信じられていた。
 また釈迦入滅の年というのも、それを何時に考えるかによって、末法期の始まりが違ってくるが、式部が宇治十帖を書いたのが1010年頃とすると、残る時間はもう五十年にも足りなかった。
 だから、人々はまるで、最後の審判の日が近づいたように怖れ、道長でさえもひたすらに後生を祈って、法成寺の造営を急がせたのだった。
・しかし、こうした思想が流布する裏には、必ず社会的な要因がある。
 式部が十歳になった980年頃から1010年までの社会を、著者は調べている。

980年7月 暴風雨あり
同年 11月 内裏焼失
982年2月 伊予国海賊あり、京中群盗
同年 11月 内裏焼失
983年   此年京中で武器所有を禁ず
984年8月 円融天皇譲位
986年6月 花山天皇退位
987年夏  旱害あり
989年7月 彗星出現
同年 8月 暴風雨。高潮あり
992年5・6月 京中洪水あり
993年秋  疱瘡流行
997年9月 高麗の賊来る。南蛮人壱岐、対馬に乱入
998年1月 彗星現わる
同年 8月 暴風雨 此年疱瘡流行
999年6月 内裏焼失
1000年2月 疫病流行
1001年11月 内裏焼失、疫病前年に続く
1004年   此頃地方よりの訴えしきりなり
1005年11月 内裏焼失
1006年10月 南院焼失
1007年5月 流星異変により大赦
1008年2月 花山院崩御
同年 12月 宮中で引きはぎあり
1009年2月 中宮若宮呪咀事件発覚
同年 10月 一条院内裏焼失
1011年6月 一条天皇崩御 冷泉院崩御
1012年6月 道長呪咀 怪事多し
1013年1月 東三条院焼失
1014年2月 内裏焼失


・悪い事件ばかりを拾ってみたそうだ。
 朝廷で言うと、摂関家の横暴によって、天皇は次々と退位を迫られたり、出家したりしている。
 ことに冷泉天皇は神経症だったというが、そんな朝廷に支配されている社会は、表面の華美に反して、実質は病的であり、退廃をはじめていたといえよう。
 宮廷生活の豪華さも、実は地方から取り立てた税によって、消費生活がまかなわれていたのであり、その税を有効に活用して地方民のために産業を興すということは全くなかった。
中央及びそれに連なる地方の国司などが、専ら私腹を肥やしていた。

・次に一条朝は、火事が多い。
 『源氏物語』では、「橋姫」の巻に八宮が、京の邸宅を火事で焼かれて後に、宇治山荘に移ったとしてあり、これ以外は火事の記述はないのであるが、実際には式部は多くの火事を見聞した筈である。
 しかも彼女が宮仕えをはじめた時には、すでに本当の内裏は焼けていて、彼女の経験したのは主に一条院と枇杷殿などの、里内裏での生活なのだ。
 これを考えてもやはり、『源氏物語』の前半部は、彼女の体験から出たというより、理想を求めて描いたという方が当たっているだろう。
 あるいは醍醐・村上朝あたりへの憧れがあったのかも知れぬ。
 しかし、宇治十帖はたとい一行でも火事を書き、あるいは浮舟の養父一家の地方官的な粗雑な人間達、山荘警備の武士や身分の低い者の描写を多く入れているだけでも、作者の眼が広い現実にふれ、成長してきた証拠だと、著者が考えている。

・ともかく内裏の火災は、この時代の社会不安を実によく象徴していた。
 平安京が出来てから、内裏が火災で焼亡したのは、976年の、式部7歳の時がはじめてであったが、それ以後、前の表には7回の火災がある。
 さぞかし一条天皇も嫌な気分になられたであろう。
 宮廷を警護する人間の気持が余程ゆるんでいたか、または放火とすれば、狂気に近い程の恨みを心に持った人間が徘徊していたのであろう。
 
・次に疫病の流行だが、それがいかにひどかったかは、一条天皇の勅命で今宮神社を祀り、人々が疫病退散の踊りをしたことでもわかる。
 疫病流行のたびに賀茂の流れは死骸であふれたというから、まるで戦争中の爆撃をうけた時に似た状態であった。
・身にかかる不幸を払いのける手段としての政治改革や、科学的対策はなかった時代だから、
人々はこれを宿命としておののき、迷信や占いに走った。
 前の記録の中にも彗星出現の記事が幾つかあるが、そうした自然現象は恐怖の的になった。
 天変地異があったり、病気が流行したりすると、それは天皇の進退にまで影響をあたえた。

・末法思想の徹底はもう少し時代が後だが、式部の頃には極楽浄土への信仰が盛んで、985年には恵心僧都源信の著した、『往生要集』が世に出ている。
 『往生要集』とは、一切経の中から極楽往生に関係した文章を選んで体系化したものである。
 これ以後に生れた浄土宗や真宗は、みなこの本を縁に起ったのだが、源信は比叡山の横川に住んだ人だから、この宇治十帖にもおそらくその影響をあたえたのであろう。
(ほかにも横川に住んだ僧はあった。元三大師良源や、賀茂氏出身の慶滋保胤(よししげやすたね)などである) 
「手習」の巻では、横川の僧都のことを、「貴族からの招きがあってもことわって、山ごもりをしている聖」としているが、恵心僧都などもそういうタイプの僧だったようである。

・式部自身は、天台宗の教養を学んだとかいう話だが、個人の力ではどうにもならぬ権力機構への反発から、かえって積極的に仏教を支持し、宇治十帖の基礎に据えたということは出来るだろう。
・しかも主人公の薫は、解脱を願いながらもなお、現世への執着が絶てない青年貴族なのである。女性への愛着と悟りの間にあって、彼はつねに迷い続けた。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、178頁~183頁)

第十章―『紫式部日記』より


■紫式部の略歴について
・紫式部の作品は、『源氏物語』及び『紫式部日記』、『紫式部歌集』とはっきりしているが、その履歴についてははっきりしない。
 色々にいわれているが、学者によってまちまちである。
・しかし、『紫式部日記』のはじめの方に書かれた、寛弘2年(1005年)12月29日の、初出仕の年齢が、夫の没後数年を経ているとみて、(未亡人になったのは30歳位)35、6歳とすれば、その出生は天禄元年(970年)頃となる。著者は今井源衛氏の説により、出仕の年齢を一応、数え年36歳と仮定して、文章を進めている。

・式部の父は藤原為時(ためとき)、母は藤原為信の女(むすめ)で、共に藤(とう)氏。
 先祖は冬嗣流だが、摂関家とは大分離れている。
 それでも冬嗣から三代目の兼輔(かねすけ)の時には、中納言で公卿の列にあった。
 兼輔は堤(つつみ)中納言として知られ、その子清正や孫の為頼は歌人である。
 為頼の弟の為時は詩才があり、文章(もんじょう)博士でもあった。
 また式部の母方の親戚には、『蜻蛉日記』の作者や、『更級日記』の作者が生れているし、一族が文才に富んでいたらしい。
 『源氏物語』の成立は奇蹟とか偶然とかいわれるものでなく、遺伝的にも作者には才能があったのである。

・式部の生涯を辿ると、3歳の時に弟惟規(のぶのり)が生れ、その翌年に母が亡くなった。
 父為時には他に妻もあったらしいが、とにかく式部は父の許(もと)で育っている。
 7歳の時には惟道(のぶみち)が生れた。
 
・為時は円融、花山朝では信任を得ていて、娘が17歳の春には、式部大丞になっている。
 しかし、花山帝退位と共に、摂関家からにらまれて官を失った。
 それ以後は学問文芸に精励したらしい。
 そして10年後の長徳2年に越前守に任じ、式部も父に従った。
 しかし2年後には、式部ひとりが帰京して、藤原宣孝と結婚している。

・宣孝は式部と同じ北家の出で、式部とは「またいとこ」に当る。
 父為輔(ためすけ)は公卿に列したが、宣孝自身及び兄弟はみな受領階級であるし、何人かあった妻の出身もすべて受領層である。
 式部が29歳で結婚した時には、宣孝はすでに5人の男子をもち、年齢も45、6歳になっていた。
 式部としてはこんな宣孝に不満だったろうが、30歳といえば当時ではもう女の数に入らなかっただろうし、辛抱したに違いない。
 式部の嫉妬心をあおるような行為が宣孝にはたびたびあり、不幸な結婚生活だったが、しかし3年後には死別した。

・未亡人生活を続けているうちに『源氏物語』を書きはじめたらしいが、その評判が高くなったのか、道長方から要請されて、中宮彰子の後宮に女官として出仕することになった。
 但し内裏はその前日に焼失したので、天皇と中宮は、道長所有の東三条邸におられたのである。
 宮仕えの場所は時々変ったが、その間にも式部は物語を書き続けて、だいたいのところ寛弘7年夏には宇治十帖がおわっただろうといわれている。
 その後に『紫式部日記』が整理されたらしい。
 日記の文章は寛弘5年7月の中宮御産のことから始まっているが、ばらばらに書かれた日記を一つにまとめ、さらに消息文を加えて編集したのであろう。
 そして8年には父の為時が越後守に転任し、一緒に行った弟惟規が死んで、式部は孤独となった。
 但し、長保元年、30歳の時に生んだ長女の賢子(かたこ、後の大弐三位)はすでに13歳になっていた。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、205頁~207頁)

■日記
さて、『紫式部日記』の最初の文章、
「秋のけはひの立つままに、土御門殿の有様、いはむか
たなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、
おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう
涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる」
これは、寛弘五年に里邸へ退下された中宮に従った式部が、御殿の様子を書いたものである。
式部が何処に生れ育ち、何処に生きたか、それを訪ねてみたいという。

・一条朝は火災が多くて内裏も何回か焼け、式部は一度も本当の内裏に生活していなかったと書いた。
 出仕の場所は最初が東三条殿。
 翌年三月に御所は一条院に移った。
 しかし中宮は御産のたびに実家へ戻られる習慣だから、敦成親王と敦良親王誕生の両度に、式部もおつきしていることになる。
 そのほか、一条院が焼失した際には、天皇は枇杷殿に移られ、再建成って再び一条院に戻られた時には中宮も御一緒であった。
 崩御の後、中宮は東宮に従って枇杷殿にお住まいになったが、里邸が土御門殿なので、上東門院と称した。従って式部も宮仕えを去るまでは、枇杷殿及び土御門殿にあっただろう。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、207頁)
 
■宮廷生活
・日記の中で式部が、初めて宮仕えに出た日のことを回想して、次のように記す。
「しはすの廿九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし。いみじくも夢路にまど
はれしかなと思ひいづれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。夜
いたう更けにけり。御物忌におはしましければ、御前にもまゐらず、心ぼそくてうちふしたる
に、前なる人々の、『うちわたりはなほいとけはひことなりけり。里にては、いまは寝なまし
ものを、さもいざとき履のしげさかな』と、いろめかしくいひゐたるを聞きて、
  としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
とぞひとりごたれし」
(十二月二十九日に出仕した。はじめて東三条殿に上った日も、十二月二十九日だったのである。ずい分夢中でお仕えした当時を思うと、こんなに宮仕えに馴れてしまった自分というもの
が、うとましいものに思われる。夜もひどく更けた。中宮は御物忌なので、御前に伺候せずに
寝たが、一緒にいる女房達が、「宮中はひどく勝手がちがうのね。里にいればもう寝る頃なのに、
男の人のくつの音がやかましいこと」などと、色めいたことを言っている。私はそれをきいて、
「今年もくれてしまったし何だか年をとるばかり。風の音をきいたって、わびしくてやり切れぬ……」と独言をいった)

・このように書いているが、すでに若い女房のように男の履(くつ)の音を待つこともない式部は、里邸の静寂を想い出しながら、早く宮仕えをやめたいものだと考えていたに違いない。
 「すさまじきかな」の言葉は、いよいよ孤独なわが心と共に、宮仕えのすさまじさを痛感して言ったのであろうか。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、208頁~210頁)

■邸宅の跡(廬山寺)
・式部の里邸は、曾祖父の堤中納言兼輔より父為時にまで伝わった、中川の邸宅だと言われている。
・兼輔が堤中納言とよばれるようになったのは、その邸宅が京極中川の東、鴨川の西にあり、庭には川水をひいて、四季の花木を植えたからだそうだ。
 兼輔はすぐれた風流人で、醍醐帝に信任され、その邸宅なども立派だったようだ。
 この邸(やしき)から土御門殿まではほんの少しの距離だし、また式部が最初に上がった東三条殿なども近かった。
 ここには父為時も、また伯父の為頼も住んでいたらしいが、何時の頃に寺となったのか、今では廬山寺の門が西側の寺町通りに向って開き、寺の南側は立命館大学の建物に隣接している。

・廬山寺は、もとは船岡山の南、廬山寺通りにあった。
 円浄宗の本山で、元三大師良源の開創とつたえるから、紫式部にはあながち無縁の人とはいえない。
 良源は醍醐から一条朝のはじめまで生きた人で、宮中の信任が篤く、叡山中興の祖といわれ、式部の宗教観に深い影響をあたえた筈である。
 しかし廬山寺が応仁の乱で焼けた後、天正年間に中川の地へ移ったのだとすると、それまでの邸の伝領はどんな風になっていたのであろうか。
 邸宅にも人間と同じように、色んな運命があるのである。

・紫式部は殆どこの邸宅で『源氏物語』を書いたのだといわれているが、この説と『源氏物語』が最初に「帚木(ははきぎ)」の巻から書かれたという説を結びつけてみると面白い。
 この巻に出てくる空蟬を、源氏は方違(かたたが)えに行って紀伊守(きのかみ)の中川の邸で見初めるのだが、空蟬は作者の身の上に似ている。
 空蟬が夫の死後に紀伊守に言い寄られる話は、式部が夫の宣孝の没後に、継子から失礼な言動に出られたことが、モデルになっているらしい。

・不愉快なこともそれが創造の動機になれば幸せであろう。
 すさまじき宮仕えから退出したつれづれの日に、式部は物語の筆をすすめた。
 邸の庭にひいた中川の水をじっと見つめ、その眼を上げて、鴨川の向うにそびえる比叡山を眺めながら、虚構の物語に、あるいは真実の仏の教えに、心をひそめた式部の姿を想いみると、廬山寺の庭もそれなりに意味をもってくる、という。
 
・『源氏物語』を書いた後で式部がどう生きたか、没年がいつであるか、それも正確にはわからない。
 しかしわからないということが、かえって彼女に箔をつけている、と著者は記す。
 式部はやはり天才か、爛熟した王朝にあらわれた、文学の精霊みたいなものであったのだろうという。
(田中阿里子『源氏物語の舞台』徳間文庫、1988年、210頁~213頁)


≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』≫

2023-12-31 17:00:01 | 私のブック・レポート
≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』≫
(2023年12月31日投稿)

【はじめに】


この度、榧野尚先生から『反り棟屋根 第2号』という御高著をご恵贈いただいた。ここに記して深く感謝申し上げます。
添え書きには、90の坂を越えられたが、なんとか、この『反り棟屋根 第2号』の完成された旨が記されていた。

〇榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年4月28日

先生とお知り合いになったのは、私が1994年から約6年間、短大の非常勤講師を勤めていた時に遡る。だから、かれこれ四半世紀をこえることになる。
 当時1990年代には、榧野尚(かやのたかし)先生は島根大学理学部助教授で、専門は数学で、極大フロー、調和境界、ロイデン境界などを研究しておられた。短大には、コンピューターのプログラミング関係の講義をなさっておられたように記憶している。
 学問分野は異なったが、先生のお人柄の温かさと教養の広さにより、話を合わせていただき、懇意にさせていただいている。
榧野先生には、専門の数学の分野以外にも、次のような出版物もある。
〇榧野尚、阿比留美帆『みなしごの白い子ラクダ』古今社、2005年
(モンゴルの民話にもとづいた絵本。母親を金持ちの商人に捕まえられ、王さまのところにつれていかれ、ひとりぼっちになった白い子どものラクダの悲しみを描いたもの)

 今回のブログでは、榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』(高浜印刷、2023年4月28日)
を紹介してみたい。


 ご高著の問い合わせは、高浜印刷(〒690-0133松江市東長江町902-57 TEL.0852-36-9100)
にしていただければよいのではないかと思う。





榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』の目次は次のようになっている。
〇榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年4月28日

【目次】
はじめに
第1章 松江市の反り棟屋根
     第1節 松江市 美保関町
     第2節 松江市 枕木町、手角町、八束町、本庄町
     第3節 松江市 朝酌町、東持田町、西持田町
     第4節 松江市 下東川津町、西川津町
     第5節 松江市 法吉町
     第6節 松江市 大野町
     第7節 松江市 秋鹿町
     第8節 松江市 古曾志町
     第9節  松江市 島根町、鹿島町
     第10節 松江市 西忌部町、東忌部町

第2章 出雲市の反り棟屋根
     第11節 出雲市 野石谷町
     第12節 出雲市 河下町
     第13節 出雲市 久多見町
     第14節 出雲市 平田町
     第15節 出雲市 口宇賀町
     第16節 出雲市 大社町
     第17節 出雲市 斐川町
     第18節 出雲市 常松町

第3章 雲南市の反り棟屋根
     第19節 雲南市 大東町

第4章 安来市の反り棟屋根
     第20節 安来市 荒島町、広瀬町、伯太町

第5章 出雲地方周辺
     第21節 大田市 三瓶町
     第22節 広島県 三次市
     第23節 鳥取県 米子市 南部町




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・「はじめに」
・特に興味をひいた写真
・榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ(第1号より)
・反り棟屋根について(第1号より)
・読後の感想とコメント(第1号の再録)




「はじめに」


 前回2021年1月25日に出版した『反り棟屋根』は、『反り棟屋根 第1号』とするという。
 『反り棟屋根 第2号』は、出雲地方に限定して編集されたとする。
 また出来る限り、『反り棟屋根 第1号』と内容が重ならないようにしたそうだ。
 榧野尚先生の大好きな反り棟屋根は、第1号15ページの出雲市西林木町(鳶が巣城の近く)の反り棟屋根であるとし、再展示しておられる。(ただし、残念なことに、現在は見ることはできない)

特に興味をひいた写真


第1章 松江市の反り棟屋根 第1節 松江市 美保関町
 松江市 美保関町 寄棟(舟小屋)(1978/7/10)中海に沿ってこうした舟小屋が点々としてあったという。
(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、5頁)

第2章 出雲市の反り棟屋根  第17節 出雲市 斐川町
 出雲市 斐川町直江 寄棟 瓦箱棟(1978/7/11) 見事な築地松
(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、63頁)

第4章 安来市の反り棟屋根 第20節 安来市 伯太町
 安来市 伯太町安田 寄棟箱棟改装中(1996/4/28) 僅かに反りが認められるという(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、72頁)

榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ(第1号より)


数学者として高名な榧野先生が、なぜ反り棟屋根にご興味を抱かれたのか?
「はじめに」によれば、先生が反り棟屋根の記録写真を撮り始めるようになられたのには、あるきっかけがあった。それは、1975年8月、先生のご子息(当時小6)の夏休みの自由研究のテーマとして、東は米子市から西は大田市まで走り回り、約100枚の反り棟屋根の記録写真を撮られたことであるようだ。
それ以後、最近まで、出雲地方は勿論、東北地方から九州、沖縄まで、更に中国雲南から中国各地、台湾、ベトナム、韓国など、反り棟民家を訪ねて走り回られたそうだ。

反り棟民家のみならず、世界中の民家に興味を持たれた。
例えば、
・イランのカスピ海沿岸の稲作地帯の校倉[高床式米倉](1999/12/21、先生が撮影された年月日を示す)
・ネパールの草葺の屋根の農家(1998/12/22)
・ガーナの土壁丸い家(1997/7/21)
・モンゴル草原のゲル(2006/9/11)
 ※モンゴル語のゲルは建物を意味するだけでなく、家族、家庭も意味する。日本語の“家”が家族や家庭を意味するのと同じである。
・インドネシアの船型民家(1980)
その他には、次のものがある。
・イングランドのthatched house(写真未掲載)
・ジャバのロングハウス(写真未掲載)
・アメリカンネイティブのテント住居ティピ(写真未掲載)

このように、1975年から出雲地方の反り棟屋根の写真を撮り始められ、世界を股にかけて、民家の写真を撮り続けられた。先生の探求心の深さと視野の広さとフットワークの良さには、ただただ敬服するばかりである。
(榧野尚『反り棟屋根 第1号』高浜印刷、2021年1月25日発行、4~5頁)

反り棟屋根について(第1号より)


出雲地方には反り棟屋根の伝統があったが、何時頃からこうした反り棟家屋が作られたかは不詳とのことである。
この冊子では、島根県出雲地方を中心に、1975年以来撮り貯めた反り棟屋根の記録を残しておきたいとのことである。
ところで、中国雲南省の昆明、麗江、大理付近には数多くの瓦であるが、反り棟がある。
鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)には、祭祀場面桶形貯貝器(晋寧石塞山遺跡、前漢時代晩期)、人物屋宇銅飾り(同、前漢時代中期)の中にある家屋は反り棟で、鳥越氏はこの家屋は茅葺きであると断定している。当時この地方には、倭族の一王国滇(てん)国があった。BC100年頃のことである。

反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられる。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)
(榧野尚『反り棟屋根 第1号』高浜印刷、2021年1月25日発行、6頁)

読後の感想とコメント(第1号の再録)


私の個人的感想


茅葺き反り棟屋根の民家には、郷愁を感じる。先生の写真集を拝見して真っ先に抱いた私の感想であった。実は昭和47年(1972)に祖父と父が瓦葺屋根の家を新築するまでは、私も茅葺き家屋に住んでいたからである。
さすがに囲炉裏はもうなかったが、幼少の頃、母が土間の竈で薪を燃やして、ご飯を炊いていた記憶はある。だから、「松江市玉湯町 入母屋 C型」(第1号、62頁)の写真を見た時など、まるで昔の我が家が写っているのではないかと錯覚したほどである。


今回、榧野先生の写真集を拝見して、いろいろなことを学ばせていただいた。例えば、次のような点が印象に深く残った。
〇茅葺きの家では、囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていたこと(第1号、5頁、187頁)
〇10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われたこと(第1号、5頁)
〇茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなったことが挙げられること(第1号、5頁)
〇映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくること!(第1号、86頁)
〇映画“用心棒(東宝、1961年)”の甲斐の国(山梨県)に反り棟の民家が出てくること(第1号、106頁)
〇映画“嵐に咲く花(東宝、1940年)”のワンカットに瓦屋根の反り棟水車小屋切妻(岩手県)が出てくること。福島県二本松市の戊辰戦争がその舞台であるそうだ(第1号、106頁)
〇北宋(960年-1127年)の末期に開封という街を描いた『清明上河図』と言う絵には、反り棟瓦屋根民居が点在していること(第1号、157頁)
〇出雲地方の人々は長い間、茅葺き反り棟屋根の民家に住んできたこと。
・不思議なことには、福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで反り棟屋根がないこと(第1号、187頁)
・島根県の東端(安来市清瀬町天の前橋)、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなること(第1号、78頁)
・反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと推測されること(第1号、187頁)
〇何よりも、反り棟屋根は中国雲南地方(滇池)で誕生したと考えられる点には、大変に興味を覚えた。
・その経路は、雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へ、それから日本へ広がったのではないかと想定できること(第1号、6頁、126~133頁、187頁)

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照葉樹林文化論に関連して


榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる点について、私は照葉樹林文化論を想起した(榧野、第1号、2021年、128~129頁)。

例えば、佐々木高明氏は、『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス、1982年[1991年版])において、照葉樹林文化について、次のように述べている。

照葉樹林文化は、日本を含めた東アジアの暖温帯地域の生活文化の共通のルーツをなすという立場に立ち、日本をとりまく西南中国から東南アジア北部、それにアッサムやブータンなどの照葉樹林地域で得られた多くの事例をとりあげて論じられた。
それは、稲作以前にまで視野をひろげて、日本文化のルーツを探究することでもあった。つまり、比較民族学、文化生態学、民俗学をとりこんで、日本文化起源論に新しい視点を提示した。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、16頁)

【佐々木高明『照葉樹林文化の道』NHKブックスはこちらから】

照葉樹林文化の道―ブータン・雲南から日本へ (NHKブックス (422))

≪照葉樹林文化論の特色≫
〇中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)のなかではじめて「照葉樹林文化論」を提唱した。それは、植物生態学や作物学と民族学の成果を総合した新しい学説である。弥生時代=稲作文化の枠にこだわらないユニークな日本文化起源論として位置づけられた。

〇ヒマラヤ山脈の南麓部(高度1500~2500メートル)に日本のそれとよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る、東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。
⇒この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたものである。
いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので、「照葉樹林」とよばれる。

〇この照葉樹林帯の生活文化のなかには、共通の文化要素が存在する。
・ワラビ、クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法
・茶の葉を加工して飲用する慣行
・マユから糸をひいて絹をつくる
・ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて、漆器をつくる方法
・柑橘とシソ類の栽培とその利用
・麹(コウジ)を用いて酒を醸造すること
(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年。上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年)
・サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたこと
・これらの雑穀類やイネのなかからモチ性の品種を開発したこと。そしてモチという粘性に富む特殊な食品を、この地帯にひろく流布させたこと。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年)

※このような物質文化、食事文化のレベルにおける共通性が、文化生態学的な視点から追究されてきた

【中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店はこちらから】

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

【上山春平編『照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))

〇この地帯には、比較民族学の立場から、神話や儀礼の面においても、共通の文化要素が存在していることが知られている。
・『記紀』の神話のなかにある、オオゲツヒメやウケモチガミの死体からアワをはじめとする五穀が生れたとする、いわゆる死体化生神話
・イザナキ、イザナミ両神の神婚神話のなかにその残片がみとめられる洪水神話
・春秋の月の夜に若い男女が山や丘の上にのぼり、歌を唱い交わして求婚する、いわゆる歌垣の慣行
・人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰っていくという山上他界の観念
(大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年)

このように、中国西南部から東南アジア北部をへてヒマラヤ南麓に至る東アジアの照葉樹林地帯にみられる民族文化の特色と、日本の伝統的文化の間には、強い文化の共通性と類似性が見出せる。
日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。

こうして「照葉樹林文化論」は、有力な日本文化起源論の一つとみなされた。
東アジアの照葉樹林帯の文化を特色づける特徴の一つは、雑穀やイモ類を主作物とする焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことである。
水田稲作は、この雑穀類を主作物とする焼畑農耕の伝統のなかから、後の時期になって生み出されたと考えられるようだ。
照葉樹林文化は水田稲作に先行する文化である。それは水田稲作を生み出し、稲作文化をつくり出す際のいわば母体になった文化であるとされる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、13~17頁)

このような照葉樹林文化論を考慮に入れると、今回、反り棟屋根の誕生の地を中国雲南省と想定しておられる、榧野先生の仮説は大変に興味深い。
(「第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生」(第1号、128~133頁)および「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(第1号、126~127頁)を参照のこと)

照葉樹林文化論と東亜半月弧


上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年[1992年版])において、照葉樹林文化のセンターとして、「東亜半月弧」という名称を提唱している。それは、南シナの雲南省あたりを中心として、西はインドのアッサムから東は中国の湖南省におよぶ半月形の地域をいう。

この名称は、西アジアの「豊かな三日月地帯」(Fertile Crescent)を意識して名づけられた。この有名な三日月地帯は、これまで世界農耕文化の一元的なセンターのように考えられがちだった。しかし、それは、ユーラシア西部の暖温帯、つまり地中海周辺を本来の分布圏とする地中海農耕文化のセンターとして相対化されるという。
(たとえば、「西亜半月弧」とでも呼びかえた方がふさわしい)

二つの半月弧の特質について、次のように要約している。
【西亜半月弧】
①沙漠地帯が森林に接するあたりの乾燥地帯のどまんなかに位置する
②地中海農耕文化のセンターをなしている
③この地中海農耕文化はムギを主穀とする
④農・牧混合の農耕方式をとる
⑤コーカソイド系の民族(白色人種)を主なる担い手としている。

【東亜半月弧】
①照葉樹林帯が熱帯林に接するあたりの湿潤地帯のどまんなかに位置する
②照葉樹林農耕文化のセンターをなしている
③この照葉樹林農耕文化は、初めはミレット(雑穀)を、後にイネ(ジャポニカ・ライス)を主穀とする
④牧畜をともなわない農耕方式をとる
⑤モンゴロイド(黄色人種)を主たる担い手としている。

農耕の成立は、人類史のプロセスを未開と文明に両分する大きなエポックを意味している。農耕の特質のうちに、農耕を基盤とする文明の特質がはらまれているにちがいない。そうだとすれば、ユーラシア大陸の西と東に展開された文明の特質を対比するためには、それぞれの文明が基盤としている農耕の特質を対比することが避けられない課題となってくるようだ。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、5~7頁)

照葉樹林文化のさまざまな要素として、日本人としても、ナットウ(納豆)、茶は身近なものである。
『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年)の中でも紹介されている。
照葉樹林文化の農耕が、巨視的にみて、焼畑農耕の形でスタートしたことは、共通の前提とみられている。
ダイズが焼畑の重要な作物である(のちにダイズは水田にアゼマメとして植えられる)。
ナットウ(納豆)の流布経路も、仮説センターから、日本のナットウ以外にも、ジャワのテンペ、ネパールのキネマといった形で伝わったそうだ(「ナットウの大三角形」と称されている)。
塩をたくさん与えて発酵させたナットウは、製法のプロセスの類型でいくと、ミソに接近してくる。ミソがはっきり出てくるのは、華北から日本であるという。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、128~130頁)

また、お茶というのは、照葉樹林文化における固い木の葉を食べる食べ方から出てきているとされる。いわゆる中国産の茶の原産地は雲南あたりを中心とした中国南部と考えられている。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、133~141頁)

【上山春平ほか『続・照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化 続 (中公新書 438)

なお、ミソ状やモロミ状をしたもの、その他の大豆の発酵食品は、今日でも雲南省から貴州省をへて湖南省に至るいわゆる≪東亜半月弧≫の地域には豊富に存在している。例えば、雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)に「豆司」という大豆の発酵食品がある。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、127~131頁)

アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センター


また、雲南といえば、アジアの栽培イネの起源の場所として注目されている。
アジアの栽培イネ(オリザ・サチバ)の起源の場所については、従来はインド中・東部の低湿地とされ、その際、インディカ型のイネがまず栽培され、後にそのなかからジャポニカ型のイネがつくり出されたと一般に考えられてきた。
ところが、戦後、インド亜大陸のなかでも辺境のアッサムやヒマラヤ地方、あるいは東南アジアや中国の僻地の調査が進められると、従来の「定説」とは異なる新しい説が出された。
そのなかで、渡部忠世氏は、アジアの栽培イネがアッサムから雲南に至る高地地域で起源したという学説を提唱した。

古い時代のイネを調べるのに、次のような面白い方法を用いたそうだ。
一般にインドや東南アジアでは、古建築に用いられる煉瓦は、泥にイネワラやモミを混入して焼かれることが多い。したがって、古い煉瓦のなかからイネモミを集め、その建物の年代と照合すると、そのイネモミの年代を知ることができるという。
このような方法によって、インドでは紀元前5、6世紀、東南アジアでは紀元後1、2世紀にまで遡る多量のイネモミを集め、それを計測して系統的な分類をすすめたそうだ。

すると、アジアのなかで、最も多くの種類のイネが集中しているのは、インド東北部のアッサム地方とそこから中国の雲南地方にかけての地域であることが明らかになった。
また、古代のイネの資料から古いイネの伝播経路を推定すると、その「稲の道」はいずれも、このアッサム・雲南の地域へ収斂することを見出した。
こうした事実にふまえて、「アジア栽培稲が、アッサム・雲南というひとつの地域に起源したという仮説」を提唱した。
そして渡辺忠世『稲の道』(日本放送出版協会、1977年)の「東・西“ライスロード考”」というエッセーのなかで、

「アジア大陸の稲伝播の道を追ってみると、すべての道が結局のところ、アッサム・雲南の山岳地帯へ回帰してくる。従来の常識とは異なって、インディカも、ジャポニカも、すべての稲がこの地帯に起源したという結論が導かれてくる」という。

そして「雲南もまた、アッサムと非常によく似たところが多い。複雑な地形といい、多様な種類の稲の分布といい、このふたつの丘陵地帯は古くから同質的な稲作圏を成立させてきた。両地域を結ぶきずなとなるのがブラマプトラ川である。この大河はアッサムを貫流してベンガル湾にそそぐが、その上流の一部は雲南省境に達している。
ブラマプトラ川のみでなく、メコン、イラワジの諸川、さらに紅河(ソンコイ川)や揚子江もまた、すべて雲南の山地に発している。ここに出発して、アジアの栽培稲は南へ、西へ、東へと伝播する。雲南と古くに稲作同質圏を形成していたアッサムは、西への伝播の関門であったのだ。アジアにおける稲の経路は、このようにして、大陸を縦横に走る複雑な流れであった」

【渡辺忠世『稲の道』日本放送出版協会はこちらから】

稲の道 (NHKブックス 304)

このように、渡部氏は、アッサム・雲南センターの特色を描き出している。このアッサム・雲南センターの地域は、照葉樹林文化の中心地域として設定した≪東亜半月弧≫の中核部と一致するのである。つまり、この地域は、照葉樹林文化を構成するさまざまな文化要素が起源し、それが交流した核心部に当る地域である。アジアの栽培イネも、そこに収斂する文化要素の一つであったとみることができる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、215~217頁)

反り棟屋根も、建築分野からみた照葉樹林の文化要素の一つであろうか? 今後の検証がまたれるところである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられた。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(第1号、6頁)

また、アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センターの問題に関して、この稲作との関連でいえば、茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった点を榧野先生が挙げられること(第1号、5頁)は、大変に示唆的であった。

≪参考文献≫
〇上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年[1992年版]
〇上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
〇佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]


≪片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』を読んで≫

2022-06-28 19:55:33 | 私のブック・レポート
≪片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』を読んで≫
(2022年6月28日投稿)

【はじめに】


今回は、次の蕎麦についての本を紹介してみたい。
〇片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年

ソバの生産に少し関わってみようかと考えている。
その際に念頭に置いておかなくてはならないのは、うまい蕎麦とはどのような蕎麦なのかということ、そして、うまい蕎麦はどのようにつくられるのかということである。
今回、紹介する本は、いわば「食べる側」の本である。
著者の片山虎之介氏は、「あとがき」(193頁~196頁)にもあるように、もともと写真家で各地を旅するうちに、蕎麦に興味を持ち、おいしい蕎麦屋を食べ歩き、取材したという。その集大成が本書であるといえる。そのタイトルにもあるように、蕎麦屋に焦点が当てられている。だから、「生産者の側」の本ではない。

しかし、おいしい蕎麦とは何かを探究しているので、おのずと、ソバ畑にも関心が向いている。(事実、『仲佐』という蕎麦屋の主人は、ソバ畑で農作業にも汗をかき、蕎麦粉にこだわっている)。そして、著者は生産者の方々を取材して、ソバ栽培の難しさ、楽しさをも教わったと、「あとがき」で述懐している。
この本を読むと、おいしい蕎麦にもバリエーションがあり、地方の文化が反映されていることがわかる。私の地元である島根県にも郷土蕎麦の一つ「出雲蕎麦」があり、片山氏も言及している。その発展には、松江藩の第七代目藩主、松平不昧公の影響が大きい。
ソバのつくり方を教える本ではないが、生産者も大いに学ぶべきことが述べられている本である。
以下、私の関心に沿って、内容を紹介してみたい。





【片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新書)はこちらから】
片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新書)







片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年

【目次】
まえがき

第一章 「藪蕎麦」を知れば蕎麦がわかる
第二章 蕎麦屋の常識・非常識
第三章 蕎麦のうまさは、どこからくるのか
第四章 手打ち蕎麦と機械打ちの蕎麦
第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代
あとがき
参考文献
掲載店情報




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・意外に多い蕎麦の常識
・色の白い蕎麦と黒っぽい蕎麦
・蕎麦の味を決める要素
・在来種と改良品種のソバ
・手で刈るか、コンバインで刈るか
・ソバの栽培は、痩せた土地がよい?
・岐阜県下呂市の『仲佐』という蕎麦屋
・各地の郷土蕎麦
・どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』






意外に多い蕎麦の常識


「意外に多い蕎麦の常識」(44頁~45頁)では、蕎麦にまつわる“常識”について検討している。

蕎麦には、守らなくてはいけない常識というものがあるといわれる。
たとえば、
「蕎麦はぐちゃぐちゃ噛んじゃいけない。ザッとのどごしで味わるものだ」といった類いのことである。
その他、
「蕎麦つゆを蕎麦湯で割って飲んだとき、甘さ、辛さのバランスが崩れず、鰹節や醤油の味が出しゃばってこないものが、よい蕎麦つゆだ」というのも、蕎麦つゆに関する常識のひとつとされる。

こうした常識は、蕎麦好きの先輩から蕎麦の初心者に、蘊蓄の一部として語られる。
懐石の作法のように厳格な決まりではないようだが、それが蕎麦屋の常識だと言われれば、やはり気になるが、「なぜ、そうなんですか」と尋ねたところで、教えてくれた先輩本人も理由を説明できなかったりするものらしい。

〇「ソバ」「そば」「蕎麦」の三種類の表記について、著者は次のように使い分けている。
・「ソバ」というカタカナの表記
 植物としてのソバを指す場合に使う。
 畑に栽培されているのはソバであり、畑に蒔くのはソバの実である。
・「蕎麦」という漢字の表記
 人間が食べる食品になると「蕎麦」という漢字表記に変わる。
 (「そば」とひらがなで書く場合もある)
⇒このように、基本的には植物の意味で使う場合は「ソバ」。食品の場合は「蕎麦」あるいは「そば」と表記するという。

※難しいのは、畑で育ったソバの実が、どの段階から食品としての「蕎麦」に変わるのかという判断である。
 収穫し、乾燥させるあたりまではソバだとしても、ソバの実の汚れをとる「磨き」をかけたら、これは食べることが目的の作業なのだから、その段階で「蕎麦」になる。
 ただ、磨きをかけた蕎麦であっても、翌年畑に蒔いて発芽しないわけではないので、ソバであるとも言えるらしい。
(もっとも、磨きをかけると発芽率は低下するようだが)

〇「生蕎麦」の読み方について
・この文字には、「なまそば」「きそば」という二通りの読み方がある。
・茹でる前の麺は生蕎麦と書いて「なまそば」と読む。
・つなぎを入れない十割蕎麦の場合も同じく生蕎麦と書くのだが、こちらは「きそば」と読む。
 小麦粉のつなぎを入れずに、純粋に蕎麦だけで打った麺という意味である。
(だから、茹でる前の十割蕎麦なら、生蕎麦(きそば)の生蕎麦(なまそば)ということになる)

・蕎麦屋の暖簾に書いてあるのは「きそば」のほうである。
(暖簾を見て、頭の中で「なまそば」と読んだとしても、口に出すときは「きそば」と発音すること)

蕎麦つゆにどっぷり浸してはいけないか


・東京では、蕎麦をつゆにどっぷり浸してはいけないと言われている。
(落語にもそんな噺が出てくるが、そうした影響も大きいとされる)
☆箸で持ち上げた蕎麦を、蕎麦つゆに全部浸すと、どういうことが起こるのか。
 最大の問題は、蕎麦の香りがわかりにくくなると、著者は考えている。
 蕎麦の表面が蕎麦つゆで覆われてしまい、蕎麦のほのかな香りや味を感じるのが難しくなる。
 だから、下のほうだけちょっとつけて、蕎麦つゆのついていない部分から立ちのぼる香りを楽しみつつ、つゆも味わうのがよい食べ方と言われている。
 ⇒このアドバイスは、蕎麦の香りが失われないようにするための知恵だと、著者は考えている。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、44頁~48頁)

色の白い蕎麦と黒っぽい蕎麦


〇東京の蕎麦は、細くて白い蕎麦である。
・蕎麦の色が白いということは、ソバの実の中心部の粉を主に使って蕎麦を作っているということである。
・米にたとえれば、精米した白米を食べるのに似ている。白い蕎麦は、つまり炊きたての白米のようなもの。甘くて軟らかくて、癖がない。毎日食べても飽きない食べ物。
⇒白いご飯を、おいしいおかずで味わうのと同じと考えると、東京の白い蕎麦と蕎麦のつゆが、どういう関係であるのかがわかってくる。

〇一方で、いわゆる田舎蕎麦などと呼ばれる、色の黒っぽい蕎麦を出す店もある。
・これは、ソバの実の外側の部分まで、しっかり挽き込んだ蕎麦粉を使った蕎麦である。
・蕎麦の香りは主に実の外側の部分にあるので、黒っぽい蕎麦は香りが強い。
・食感も白い蕎麦とは微妙に異なり、蕎麦独特の風味が強くなる。
・この黒っぽい蕎麦を米にたとえると、玄米ご飯に相当するようだ。
 よく噛むと味が濃厚でおいしいが、主張が強いために、何度も続けて食べると飽きるかもしれない。

※白い蕎麦と黒い蕎麦。どちらを好むかは、人それぞれである。
 同じ人でも、ときにはさっぱりした白い蕎麦をごまだれで食べたいときもあるだろうし、冷たくキリッと締まった風味の強い蕎麦を、ササッと手繰りたくなることもあろう。

〇東京では、つゆにどっぷり浸してはいけないと言われることが多いが、信州へ行くと、少し事情が変わってくる。
⇒信州の蕎麦つゆは、東京に比べると、薄いものが多いようだ。
 地元の人たちは、この薄めの蕎麦つゆに、やや太めの蕎麦をどっぷり浸して、ときには箸でしっかり沈めてから食べたりする。

・信州の蕎麦屋で東京風の濃い蕎麦つゆを出すと、地元の人には「しょっぱすぎる」と敬遠されてしまうという。
 濃いつゆだからといって、麺の下のほうだけつゆに浸けて食べるということは、あまりしない。
 信州では、蕎麦は蕎麦つゆにしっかり沈めてから食べるものである。

・この違いについて、次のように著者は考えている。
 昔ながらの信州の蕎麦は、ソバの実の、風味の強い外側の部分まで粉に挽き込んで使ったものが多い。だから、色も黒っぽくなり、香りの強い蕎麦になる。
 香りの強い蕎麦ならば、麺の表面がつゆに覆われたとしても、香りが失われる心配はない。
 噛むことで、蕎麦の持つ香りや味が、麺の内部からあふれ出してくるからである。
⇒これが、信州など、蕎麦そのものがおいしい地方の、蕎麦を楽しむための知恵なのだと、著者は考えている。
 つまり、ところ変われば蕎麦も変わる。蕎麦そのものが違うのだから、つゆも異なり、食べ方もまた別の方法になるのは、当然の成り行きだというのである。
 蕎麦は、蕎麦つゆにどっぷり浸してはいけないのか。その答えは、その土地の食文化によりさまざまであるという。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、48頁~50頁)

蕎麦のアクについて


・蕎麦の強い風味は、実の外側に近い部分とか、甘皮などに多く含まれる。
 また蕎麦のアクといわれるものも、主に甘皮やソバの実の外側部分に含まれている。
・蕎麦のアクとはいったい何か?
 一言でいうと、アクとは、不味(ふみ)成分のことであるという。
(食品に含まれる、苦みや渋み、いやな臭いなどのもととなる物質を、このように呼ぶ)
・具体的にいうと、食品の渋みのもとは、タンニンやアルデヒドなどである。
・タンニンは、お茶などに含まれる重要な成分である。
 濃いお茶を飲むと、口の中がシワい感じになるが、これがタンニンの影響である。
 アクは不味成分といわれるが、お茶のタンニンはうまさのもとでもある。
・また、タンニンには、魚などの生臭さを消す働きもある。
 蕎麦つゆには醤油や鰹節、鯖節などが使われるが、こうした醤油臭さや魚臭さを消すのに、蕎麦のタンニンは役立っている。

・ポリフェノールもアクの成分のひとつに数えられている。
 ダッタン蕎麦が苦いのは、ポリフェノールのルチンがたくさん含まれているからである。
 ルチンも蕎麦が体にいいといわれる重要な成分のひとつである。

※甘みでもうまみでも同じであるが、必要以上に強すぎれば、味を壊すことになる。
 苦み、酸味、渋みも、適量であってバランスがよければ、おいしさのもとになる。
 だから、アクは蕎麦にとって、必ずしも悪いものではない。
 むしろ全粒粉を使った十割蕎麦などは、わずかなアクが蕎麦の魅力になっている。
 しかし、かすかな甘みが持ち味のさらしな蕎麦では、苦みや渋みは雑味となる。だから甘皮部分を徹底的に取り去り、実の中心部のさらしな粉だけで作るそうだ。

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、168頁~170頁)

本当の蕎麦の風味


「本当の蕎麦の風味」(53頁~57頁)では、蕎麦の風味について著者は考えている。

・「やっぱり新蕎麦は最高!」かどうかについて、著者は異論を唱えている。
蕎麦は収穫してすぐよりも、2~3カ月経過した後のほうが、どうやらおいしくなるという。
 甘みも増し、豊かな穀物の香りが生まれ、本当の蕎麦の風味が備わってくるとする。
・「新蕎麦よりも、2~3カ月してからのほうがうまくなる」という評価は、科学的な研究を積み重ねた結果、たどりついた結論というわけではないようだ。
 しかし、蕎麦の味を追求し続ける蕎麦職人の、名人たちの多くが感じていることであるそうだ。
 たとえば、岐阜県下呂市の『仲佐』主人、中林新一さんは、「香りの薄かった新蕎麦が、2~3カ月したある朝、ソバを打ち始めると突然、よい香りを漂わせる」と話している。

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、53頁~57頁)

蕎麦の味を決める要素


蕎麦の味を決める要素を列挙している。

〇そのソバは、どういう土の畑で育てられたのかということ。
〇種を蒔いたのはいつか。
〇品種は何か。
〇種を蒔いた後の天候は、どんな様子だったのか。
〇その年の夏は猛暑だったのか、あるいは冷夏だったのか。
〇畑の周辺の地形は、谷なのか平地なのか。
〇日のあたり具合はどうなのか。
〇昼夜の気温差は大きいのか小さいのか。
〇いつ刈り入れをしたのか。
〇収穫する際、種実の黒化率はどのくらいだったのか。

こうした、たくさんの要素の積み重ねで、味はきまってくる。
同じ産地といっても、そこで収穫され出荷されるソバの味は千差万別。
去年と今年でも、まったく違ったソバができたりする。

蕎麦は、産地や品種、そしてどのように栽培、処理されたかによる。
(栽培、乾燥を管理する生産者の意識のあり方次第で、蕎麦の味は決まる)

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、69頁、75頁)


在来種と改良品種のソバ


・蕎麦のほとんどは、在来種をもとに品種改良して作られた「品種改良」のソバの実が原料になっている。
・町の蕎麦屋さんで食べられているのは、概ね、「品種改良」のソバ
 つまり、大規模栽培、大規模流通で、生産コストを抑えて採算性をあげた、いわば合理的な方式で作られたソバ

・合理的な方式で作られたソバとは、次のようなソバである。
 北海道などの広い畑で大規模に栽培され、コンバインで刈り取られ、そのまま大型の乾燥施設に入れられる。
(地域によってはバーナーで石油を燃やした熱風を当てて乾燥処理される)
 
☆「品種改良」のソバと「在来種」のソバとの相違について
〇「在来種」のソバ
・とても生産性が低いことが特徴のひとつ。
・水はけの悪い畑を嫌い、種を蒔くときに雨が降ったり、畑が湿地だったりすると、発芽率も低下し、育ちも悪くなる。
・病気も出やすく、実のつきも少なくなる。
・風などにも弱く、倒伏しやすいのも大きな弱点。
⇒強い台風などがくると、畑のすべてのソバがなぎ倒されることも珍しくない。
 台風がくると、栽培農家はソバの様子が気になってしまい、強風の中を何度も畑に足を運ぶことになる。
・せっかく実っても、実が脱粒しやすく、刈り入れるとき、特に乱暴に扱っているわけでもないのに、ポロポロと落ちてしまう。
 草姿をみれば、枝の分岐も少ないので、そこに実の数も多くなりようがない。
・「在来種」のソバは極めて生産効率の悪い作物
 たとえば、在来種の「こそば」の場合
 「もり蕎麦」1枚分の蕎麦を作るのに、畑の面積で1畳分ほどのスペースが必要
 これでは、少々広い畑で栽培しても、収穫したソバはあっという間になくなってしまう。

〇「品種改良」のソバ
・枝の分岐を多くするなどして実のつきをよくし、広い畑で栽培して、機械で管理し、大量に流通させる。

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、69頁~71頁)

手で刈るか、コンバインで刈るか


「第二章 蕎麦屋の常識・非常識」の「手で刈るか、コンバインで刈るか」(71頁~75頁)で、手刈りかコンバイン刈りかについて、次のような議論を紹介している。

〇畑で、ほぼ理想的なソバが実ったとしても、その先には、ソバの味を左右するさらに大きな試練が待ち構えている。それが、刈り入れと乾燥の工程。

〇手刈りの場合
【刈り入れ】
・昔は生産者が鎌を持ち、手刈りで行っていた。
・手刈りの長所は、ソバをいたわって収穫できること。
⇒ソバは実が落ちやすい作物。特に在来種は脱粒しやすい。だから、そういうソバの実を、なるべく落とさないように注意しながら刈り入れることができる。
※昔からの言い伝え
 ソバの産地には、「ソバは蠅が三匹たかったら刈れ」という言い伝えがある。
 つまり、たくさんなっているソバの実のうち、三粒ほど黒くなったら、もう刈り取りなさいという意味である。
 まだ多くの実が緑色のうちに刈れば、脱粒が軽減できる。より多くの実を収穫するための、先人の知恵だそうだ。

※しかし、そこまで早い段階での刈り入れは、適正な収穫とは言いがたいと、著者はいう。
 早期に刈り取ることで発生する問題を是正するため、昔の方法では「後熟」という段階を設けた。
 手で刈り取ったあと、枝から実をすぐには離さず、「島立て」や横に渡した木の棒などにかけて干す「はざかけ」の状態にして、数日間置く。
 すると、すでに刈り取ったあとにもかかわらず、枝の栄養はソバの実に送り込まれ続ける。
 かくしておいしいソバの実ができるそうだ。

※その他の昔からの言い伝え
 ソバ産地には「ソバは刈られても三日気がつかない」といった言葉さえある。
 土から切り離されても枝になった実は熟し続けるためだという。

【乾燥作業】
・手刈りの場合、後熟させたあと、叩いて枝から実を落とし、それを広い場所に広げ、陰干しで乾燥させる。
※これが昔から連綿と続いてきた、ソバの収穫の基本となる手順

〇コンバインによる収穫の場合
・近年は大規模に栽培されるようになり、機械で収穫するのが主流。
【刈り入れ】
・昔ながらの方法では、脱粒を防ぐため早めに刈ったのが、コンバインを使う場合は、もっと実が熟してから収穫する。その理由は、なるべく多くの実を収穫したいから。
※「なるべく多くの実を収穫したい」という同じ目的であっても、手刈りでは早めに刈り、コンバインだとできるだけ遅く刈るという正反対の作業になる。

・コンバインによる収穫では、刈ったその時点で枝からソバの実を落としてしまう。
 その後、直ちに乾燥機に入れて、短時間で乾燥させるという手順。
 ※だから、ソバの実は、刈り入れる時点で熟していなくてはならない。
(つまり、後熟という、昔から行われていた時間のかかる工程は省略)

※しかし、この後熟の時間こそ、ソバの実の味と香りを醸成する大切なひとときだったと、片山氏は強調する。
 ソバは熟しすぎないほうが、風味はよくなるようだ。
 あまり黒化率を上げてしまうと、ソバの実の甘皮の部分は緑色を失い、香りが弱くなってしまう。
※したがって、どの程度熟したタイミングで収穫するのかは、蕎麦の味、香りを左右する大きな要素である。

【乾燥の工程】
・この乾燥のときに高熱をかけて乾燥させたら、ソバは確実に質が落ちる。
※困ったことに、そのような劣化した蕎麦でも、見た目では区別がつかない。
 そういう蕎麦から作った蕎麦粉で打つと、長くつながった麺を作るのは難しい。
 かつてはそのような蕎麦粉も出回り、それが、「十割蕎麦は、打つのが難しい。未熟な者が打つと短く切れてしまう」という誤信を生み出す一因になったのではないかと、片山氏は考えている。
 正しく処理された蕎麦粉なら、生粉打ちでも、つながった蕎麦を作るのはそう難しいことではないようだ。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、71頁~75頁)

ソバの栽培は、痩せた土地がよい?


「第三章 蕎麦のうまさは、どこからくるのか」の「ソバの栽培は、痩せた土地がよい?」(90頁~91頁)は、ソバを栽培する者にとって参考になる。

〇ソバという作物は、水はけのよい畑が大好きである。
 居心地のよい畑で気持ちよく育つと、うまい蕎麦ができる。
・「ソバは痩せた土地でも育つ」と、昔から言われている。
 しかし、それを取り違えて、ソバを栽培するには痩せた土地のほうがいいと思っている人がいるが、それは誤解だという。
 痩せた土地のほうがいい作物などというのは、たとえば、際立って辛い大根を育てたいといった特殊な目的がある場合などを除いて、基本的にはないようだ。
 十分な栄養がバランスよく含まれた土に、うまい蕎麦は育つ。

〇また、ソバの実の味は気候にも左右される。
 昼と夜の気温差が大きい場所に、うまい蕎麦ができる。
 日昼、ソバの葉は太陽の光を受け、光合成で糖を作り出す。夜になるとこれを、葉から実の中に送り込む。昼夜の気温差があると、この作業がうまくいくのだそうだ。
(逆の状態だと、あまり芳しくない)

・「うまい蕎麦ができる条件」と逆のことをするのが、ハードルを倒すということである。
 つまり、水はけの悪い畑や痩せた土の畑で栽培する、昼夜の気温差の少ない場所で栽培する、といったことである。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、90頁~91頁)

岐阜県下呂市の『仲佐』という蕎麦屋


・岐阜県下呂市は温泉で有名な町で、そこに『仲佐』という蕎麦屋がある。
 中林新一さんという蕎麦職人は、岐阜から県境を越えた長野県の農家に依頼し、ソバを栽培してもらっている。そして種蒔き、刈り入れの時期には、下呂の店を休業にしてソバ畑に行き、自分で農作業をするそうだ。
(収穫されたソバは、市場で売買される価格の3倍の値段で買い取る。)

・そのソバ畑の様子を著者は紹介している。
 そのソバ畑は、岐阜県から安房(あぼう)峠を越えて長野県に入った、松本市の稲核(いねこき)という地域にある。
 北アルプスの山ひだが深い谷をつくるその一角に、1ヘクタールほどの畑がある。
 そのソバ畑では、「稲核在来(いねこきざいらい)」というソバが栽培されている。
・この「稲核在来」の実は小粒で収量が少なく、脱粒しやすく、倒伏しやすいといった、いわば在来種の特性といわれるものをすべて備えたソバである。もちろん、おいしいという特性も備えている。

・土は水はけが良好で、栄養の管理にも留意している。
 畑は深い谷の底にあり、午前中は日が差すが、午後になると日が陰る。
 これは重要なことであるという。
 というのは、朝から晩までずっと日が当たり続ける畑では、太陽の熱で実が熱せられて、暑さの厳しい年には香りが弱くなる可能性があるから(「作焼け」と呼ばれる現象)。
※適度に日当たりの悪い谷間の畑が、ソバの栽培には理想的なのだという。

・加えて、その畑は、もうひとつ大きな特徴がある。
 ソバを栽培するには昼夜の気温差が大きいほうがよい。
 その畑の裏山は、天然の冷蔵庫になっているそうだ。
 というのは、山の内部を北アルプスの雪融け水が流れていて、山全体が冷たく冷やされているから。山の裾にはいわゆる風穴があり、中に入ると真夏でも肌寒いほどらしい。
(養蚕が盛んな時代は、ここに蚕の卵を保存したという)
⇒畑に隣接する山がそういう状態だから、夏の日中、日差しがあるうちは気温も上がるが、日が沈むと、裏山から冷気が下りてくる。かくして昼夜の気温差は、極めて大きくなる。ソバを栽培するには絶好の環境である。

・この畑で稲核在来を育て、しかも手刈り、天日干し。そのソバを小さな石臼で手で回して、毎日、必要な量だけを手挽きする。こうすると、製粉時に蕎麦粉に発生する熱も抑えられるので、風味豊かな蕎麦に仕上げることができるそうだ。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、91頁~96頁)


各地の郷土蕎麦


「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「魅力あふれる各地の郷土蕎麦」(151頁~154頁)において、全国的に知られている郷土蕎麦のある蕎麦処を紹介している。
それは青森県、岩手県、福島県、長野県、福井県、島根県などにある。
これらの土地にある郷土蕎麦を、簡単に述べておこう。

①青森県の津軽蕎麦
・これは水に浸した大豆を擂(す)りつぶし、蕎麦粉に混ぜて打つ蕎麦である。
・蕎麦の保存性がよくなるといわれ、温かいかけ蕎麦などで食べることが多い。

②岩手県のわんこ蕎麦
・客の脇に給仕役が控え、客が椀の中の蕎麦を食べると間髪を入れず、椀の中に途切れることなく蕎麦を投げ入れる。お代わりを無理強いする蕎麦振る舞いで、旧南部藩領では、これが一番の御馳走とされた。
(客が椀にふたをするまで給仕は続けられる)

③福島県の高遠蕎麦
・福島県の会津地方の郷土蕎麦は、もとは信州・伊那の高遠藩で行われていた蕎麦の食べ方。
⇒大根おろしの汁で、冷たい蕎麦を食べる。
・その食べ方が、高遠藩の領主であった保科正之(ほしなまさゆき)が、会津の領主として赴任した際に、この地方に伝えられたといわれる。
(本家本元の信州・高遠では、いつしかその食べ方が忘れられていった)
・保科正之が藩主として会津の地に赴いたのは、寛永20年(1643)のこと。
 保科は会津領主として農業政策に力を入れ、会津藩の米の収穫量は、かつてないほど増大したという。
・寛永20年(1643)には、江戸時代初期の代表的な料理書『料理物語』が登場している。
 この本には、蕎麦の「汁」として「煮貫(にぬき)」と「垂味噌(たれみそ)」が挙げられ、そこに大根の汁を加えることが薦められている。

④長野県の信州蕎麦
・信州蕎麦といっても、特定の食べ方があるわけではない。
 県内各地にその地域特有の蕎麦の食べ方があり、信州蕎麦は、それらの総称といえる。
・代表的なところでは、戸隠神社周辺で食べられる戸隠蕎麦や、柄のついた小さな籠に蕎麦を入れ、鍋の汁でしゃぶしゃぶのように温めて食べる「とうじ蕎麦」などがある。

⑤福井県の越前おろし蕎麦
・福井県の越前地方では、大根おろしをかけて味わう。

⑥島根県の出雲蕎麦
・色が黒めの蕎麦を、割子(わりご)と呼ばれる器に入れて食べる。
(これも知名度が高い蕎麦)

※「郷土蕎麦」とは、その地域の人々が、「この食べ方はおいしいね」と、暗黙のうちに了解し、多くの人々が日々の生活の中で、その食べ方を実践している蕎麦のことをさすと、著者は定義している。

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、152頁~154頁、159頁~161頁)

どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』


「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」
〇どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』
〇奥深く多彩な出雲蕎麦
〇神話の時代から
〇松平不昧公の功績
(175頁~192頁)

どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』


「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「どじょう蕎麦を味わう『ふなつ』」(175頁~177頁)
〇「どじょう蕎麦」とは
・出雲の人たちが、自分たちの郷土蕎麦を、親しみを込めて呼んだ蕎麦。
・短くて、色が黒くて、ちょっと太めで、曲がっていたりする。
・島根県松江市『ふなつ』の「割子そば」は、昔のスタイルを踏襲した出雲蕎麦で、「どじょう蕎麦」というネーミングに、ふさわしい容姿をしている。
※関東地方の食べ方のように、細くて長い蕎麦を、ザッと手繰って、のどごしを楽しむなどという芸当は不可能。
・昔の人々は、どじょう蕎麦を愛し、その味を伝統として伝えてきた。
 松江藩七代目藩主、松平治郷(はるさと、不昧[ふまい])公(1751~1818)は、蕎麦と茶を愛した風流大名として知られる。
 蕎麦好きの間では不昧公が詠んだ、次の歌が有名である。

≪茶をのみて道具求めて蕎麦を食ひ 庭をつくりて月花を見ん そのほか望みなし 大笑々々≫

不昧公は、正しい蕎麦の食べ方について、次のように言ったと伝えられている。
「汁は少し辛めに作り、蕎麦にはなるべく少なくかけ、十分攪拌(かくはん)したあと、よく噛み締めて食うのがよい。」
※ここでも、やはり、のどごしではなく、よく噛んで食べるのがよいと勧めている。

・出雲で栽培された蕎麦は、土の質の関係で、長くつながりにくい特徴を備えたものになるという。
 だから、地元の人たちは昔から、短く切れたどじょう蕎麦を賞味してきた。
 つながりにくい蕎麦は、あるがままの姿で食べるのが、最もおいしいものなのである。

・ところが交通事情がよくなって、関東方面からたくさんの観光客が訪れるようになると、蕎麦を食べた客が、「細く長くつながっていなくちゃ、蕎麦じゃない」などということを言い出した。
そこで蕎麦店は観光客の要望に合わせて、無理矢理、細く長くつながった蕎麦を作り出した。
その結果、いつの間にか出雲蕎麦は、関東風の細くて長い麺になってしまったらしい。

〇しかし『ふなつ』の蕎麦は、関東風になることを拒否した出雲蕎麦である。
 この店の「割子そば」を注文すると、昔はこのようであったのだろうと思われる、太くて短いどじょう蕎麦が運ばれてくる。
 この味は、一度食べたら忘れられないと、片山氏はいう。
 出雲蕎麦とは、本来、どういうものであったのかを教えてくれる蕎麦である。
※この店の味を知らないのは、一生の不覚と言っても過言ではないと賞賛している。
 特に「かまあげそば」(出雲蕎麦のもうひとつの主役)というメニューをぜひとも賞味してほしいという。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、175頁~177頁)

奥深く多彩な出雲蕎麦


「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「奥深く多彩な出雲蕎麦」(177頁~181頁)

・出雲蕎麦とは何かと問われれば、「小さな割子に入れた色の黒い蕎麦を、何段にも重ねて供する出雲地方の郷土蕎麦」という答えが一般的。
・出雲蕎麦のイメージはこのようなものだが、これだけでくくれるほど出雲蕎麦の全体像は単純ではないと、片山氏はいう。
 出雲地方には場所により、時代により、奥深い蕎麦の世界が広がっている。
 出雲にも、客の脇から給仕が椀の中に蕎麦を投げ入れる、「わんこ蕎麦」に似た風習があったそうだ。
 この食べ方を出雲では、「かけ蕎麦」と呼んだ。
 ※こういう食べ方は、長野県松本市の奈川地区にもあったし、瀬戸内海の小島にもあったようだ。

・出雲蕎麦は、基本的に生蕎麦(きそば)である。
 つまり小麦粉などのつなぎを用いない十割蕎麦である。蕎麦粉そのものがおいしい地方では、自然にこういう食べ方になるようだ。
 
〇出雲蕎麦には、多彩なバリエーションがある。
 地元では「釜揚げ蕎麦」も人気の高い食べ方である。
 「釜揚げ蕎麦」は、蕎麦の甘さ、香り、餅のような食感を、「割子蕎麦」より豊かなに楽しむことができる。
 「釜揚げ蕎麦」とは、釜で茹でた蕎麦を、その茹で汁とともに器に移し、熱いうちに食べる食べ方である。
 丼に入れられた熱い蕎麦なので、一見したところ、関東で食べる温かい「かけ蕎麦」と同じように見える。

【「かけ蕎麦」と「釜揚げ蕎麦」の違い】
・ただ、「かけ蕎麦」の作り方は、釜で茹でた蕎麦を、いったん冷水で締め、それを再び湯にくぐらせてから、丼に用意した温かい「かけ蕎麦」用の汁「甘汁」に入れて食べるというもの。
 一度冷水で締める目的は、麺にしっかり腰を与えるためである。
 それに対して、「釜揚げ蕎麦」は、途中で冷やすことなく、釜から熱いまま、直接、器に移して食べる。
 茹でて軟らかくなった蕎麦のおいしさが、ダイレクトに味わえる。
※「釜揚げ蕎麦」は、「かけ蕎麦」とは、似て非なる食べ物である。

〇そのほか出雲では、「茶蕎麦」や「たまご蕎麦」、「魚蕎麦」などと呼ばれる食べ方があった。
・「茶蕎麦」とは、蕎麦粉に薄茶と、生卵2~3個を割り入れて打った蕎麦。
 葛の餡をかけて食べた。
・「たまご蕎麦」は、蕎麦粉1升に、8個ほどの卵を混ぜ、その水分だけで打った蕎麦。
 昔は贅沢な食べ物であった卵を大量に使う「たまご蕎麦」は、出雲ならではの食べ方と言えるようだ。
・「魚蕎麦」は、珍しい蕎麦。
 魚肉をすり鉢ですり、蕎麦粉と塩、地伝酒(じでんしゅ)と卵少々を加えて作る。
 宍道湖や日本海に面した、この地方ならではの郷土蕎麦。
※地伝酒とは、「出雲地伝酒」ともいい、島根県で生産されている特殊な酒。
 製法は、もち米をベースに米麹を日本酒の倍量使う。だが、仕込み水は日本酒の半分ほどしか入れないため、かなり濃厚な味になる。十分に時間をかけて発酵させたところに、木灰(きばい)を加え、搾って仕上げる。
※地伝酒の特徴は、何より甘みが強いこと。うまみも日本酒の数倍。
 魚の生臭さを消す力もあるため、魚料理などに甘みの強い調味料として使用された。
 この地方の郷土料理である宍道湖七珍料理など、出雲の食文化の土台を支えてきた調味料。
 地伝酒はまた、出雲蕎麦の伝統の汁作りにも欠かせないものだった。
・出雲では元々「もり蕎麦」のような、蕎麦猪口に入れたつゆに蕎麦を浸けて味わう食べ方ではなく、器に盛った蕎麦に汁を直接かけて食べる「ぶっかけ」と呼ばれる食べ方をした。
 この「かける汁」の材料に地伝酒が使われた。
 基本は水と鰹節、それに地伝酒、砂糖、醤油など。
※このように本来の出雲蕎麦には、郷土に根づいた伝統的な食材が使われていた。
 まさしく、ここでしか味わえない、独特の汁だった。
※ちなみに「魚蕎麦」の薬味には、葱と大根おろしだけを使うという。
 いずれも魚の臭みを消すのに役立つ薬味。
 先人たちが工夫した、蕎麦をおいしく食べるための知恵が、出雲蕎麦にはぎっしり詰め込まれている。
(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、177頁~181頁)

神話の時代から


「第五章 蕎麦屋の個性を楽しむ時代」の「神話の時代から」(181頁~186頁)

『ふなつ』で使っているソバは、どのような畑で育つのか。
 それを知れば出雲蕎麦が、なぜこのようにうまいのか、理由の一端が見えてくると、片山氏はいう。

【島根県の奥出雲町とソバ】
・島根県東部の山間地域は、柔らかな曲線の山ひだに隠れるように、小さな盆地があちこちに開けている。季節を見計らって訪れると、白い花を付けたソバ畑が広がっている。
・山深い奥出雲町は、日本神話の舞台となった土地である。
 スサノヲノミコトが高天原(たかまのはら)を追放されて、降り立ったのが、出雲国の鳥髪(とりかみ)の地。(現在の地名だと、奥出雲町鳥上)
 ここでスサノヲノミコトはヤマタノオロチを退治するのだが、その尾から一口の剣が出てくる。これが後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれる、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。

・昔から奥出雲は良質な砂鉄の産地である。
 「たたら」と呼ばれる初期の製鉄が、6世紀ごろには行われていたと考えられている。
 この鉄で剣が造られた。
 たたら製鉄で砂鉄を集める方法は、鉄穴(かんな)流しと呼ばれる。
 山を切り崩し、その土を川に流して砂鉄を選別するという荒っぽいものであった。川に流された土砂は下流に堆積して、農業生産に被害を与えることになる。
 場所によっては川底に堆積した土で、川の高さが農地より上になってしまい、雨の季節にはそれが氾濫して、生活にまで深刻な打撃を与えたという。

・切り崩された山の斜面に火を放って焼き畑が行われ、栽培されたのがソバだった。
※奥出雲地方のソバ栽培は、「たたら」の歴史と、分かちがたく結びついている。
・耕作地が少ない山間部では、ソバは貴重な作物となった。 
 この地域は谷が多い地形のため、「谷風」と呼ばれる冷涼な風が吹き、昼夜の気温差が大きい。
 加えて土壌の水はけもよく、うまいソバが育つ条件は揃っていた。
 
〇特に奥出雲町の八川(やかわ)という地域でとれるソバは、際立って風味がよいと定評があった。
 江戸時代には松江藩が江戸幕府に納める献上蕎麦に、八川産のソバを使っていたという。
※その八川で作られていたソバが、現在の「横田小そば」と呼ばれる在来品種と同じソバである。谷が多い奥出雲には、当時、谷ごとに個性の異なる在来種の系統が栽培されていた。

・ところで、昭和44年から始まった米の生産調整は、平成7年からさらに強化され、奥出雲地方でも、米の作付けができない農地が増えることになった。
 そうした農地を荒らさないで維持するには、米以外の何か手のかからない作物を栽培しなければならない。
 そこで町は、水田転作の奨励作物にソバを選び、平成8年から作付け面積を増やしていった。

・横田の在来は粒が小さいうえに、倒伏が多いので収量が少ない。
 蕎麦の実、千粒の重さで比較する「千粒重(せんりゅうじゅう)」を見ると、「横田小そば」の場合、21グラムしかない。
 これを改良品種と比べてみると、信濃1号の場合、千粒で31グラム。
 ⇒「横田小そば」とは実に1.5倍もの開きがある。

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、181頁~186頁)

松平不昧公の功績


〇蕎麦という名前は同じでも、土地が変われば蕎麦も変わる。
 蕎麦が変われば食べ方も変わる。
 太い蕎麦を、よく噛み締めて食べることが正しい食べ方の土地があれば、それとは反対に、
 細い蕎麦を噛まずに丸呑みするのが「粋」だとされる土地もある。
 蕎麦を食べることは、人の生き方、価値観、美学にまで連動する、日常のなかの小さな儀式とさえ言えると、片山氏は述べている。
 人が真剣に取り組めば、蕎麦はきちんと応えてくれる。出雲蕎麦の伝統が人々に支持されている理由は、実はそこにあるのではないかという。

〇ところで、出雲蕎麦に真剣に取り組んだ先人、それは松平不昧公であるといわれる。
 とにかく蕎麦が大好きだった。このことは前述の歌をみればわかる。
 いったい蕎麦の何がそこまで、不昧公を虜にしたのだろうかという問いかけをして、不昧公について調べている。

・不昧公には、「楽山(らくざん)」という名の別荘があって、折にふれ、松江城から舟を出して楽山を訪れた。山全体を別荘にしたこの地を愛し、邸内を散策したり、茶会を催したりした。
ここに蕎麦職人が出向いて、蕎麦を打って差し上げたという。
 不昧公は明和4年(1767)、17歳の若さで松江藩主になった。
 18歳で茶道を、19歳で禅を志した。
 この時代、江戸では茶の湯の乱れがあったという。
 茶の湯の本質を理解していない人が多く、本来質素であるべきものが華美になり、料理も贅沢になっていると不昧公は嘆いている。
 そうした風潮への反発もあり、不昧公は、その時代の主流であった茶の湯よりも、茶の湯の原点である、利休の草庵の侘茶(わびちゃ)に返ることを理想とした。
 
※不昧の研究書『不昧流茶道と史料』などの著書がある島田成矩(しげのり)さんは、不昧の茶について、次のようにいう。
「不昧公が入門した茶の湯の流派は、『石州流茶道』。片桐石州が流祖です。この流派は、将軍家や大名が多く学んでいた流派で、不昧公は石州流の流れをくむ伊佐派の門人となりました。もとをたどれば不昧公が入門した流派は、利休が初代です。(中略)
 生真面目な石州流に学びながら不昧公は、原点である利休の侘茶を基本とし、不昧流を完成させたのです」

・松平不昧公が生まれた1751年は、『蕎麦全書』が書かれた年である。
 まさに蕎麦が最盛期であった時代である。蕎麦の食文化が花盛りの時代だった。
 江戸の蕎麦好きの人々は、蕎麦の食べ歩きをして、それを日記に書いたりしていたそうだ。
 さらしな蕎麦から、信濃の蕎麦、二八蕎麦から生粉打ちの蕎麦。細切りも、太打ちもあり、藪蕎麦と呼ばれる店もすでに現れていた。
 『本朝食鑑』に記録が残る幻の蕎麦「寒ざらし蕎麦」も、すでに将軍家に献上されていた。
 (当時の江戸には、蕎麦なら、なんでもあったようだ)

・江戸へは、松平不昧公も、参勤交代で何度となく出向いた。
 蕎麦が全盛のこういう状況を、その目で見て、体験していたことになる。
 そのころ、出雲の地元の蕎麦は、おそらく黒い蕎麦だったと推測される。
 出雲産の蕎麦をおいしく食べる方法は、短くてブツブツ切れる、黒いどじょう蕎麦がいちばんなのだから、そのようにして食べていたと考えるのが自然である。
 江戸の様子を見て、白い蕎麦も、黒い蕎麦も、不昧公は知っていた。

・また松平不昧公の時代の、葵の紋が入った蕎麦道具が、出雲に残されている。
 不昧公は徳川家康の孫の子孫であった。
 「越前おろし蕎麦」で知られる、福井、越前の、松平秀康の三男直政の後裔にあたる家系である。
※出雲文化伝承館に残されている蕎麦の器を見ると、面白いことがわかるという。
 これはいわゆる「ぶっかけ」の食べ方をするための器と考えられるそうだ。
 蕎麦猪口に入れた蕎麦のつゆに、蕎麦をつけて食べる食べ方ではなく、器の中に入れた蕎麦に、汁をかけて食べる食べ方である。
 (松平不昧公が書き残した、正しい蕎麦の食べ方も、まさに、ぶっかけの食べ方である)

・江戸の「ぶっかけ」は、元禄(1688~1704)のころからあったようだ。
 当初は下品な食べ方とされていた。
 その後「ぶっかけ」は、寒い季節に蕎麦と汁を温めて食べる「かけそば」に進化していく。
 ぶっかけという食べ方が江戸の町に流行ると、汁に蕎麦をつけて食べる食べ方を「もり」として区別されるようになった。
 安永2年(1773)の『俳流器の水』に載っている「お二かいはぶつかけ二ツもり一つ」がもりの初見であるそうだ。
 
だから、松平不昧公の時代、「もり」の食べ方もあったことになる。
 それなのに不昧公は「ぶっかけ」という気取らない食べ方をしている。
 葵の紋がついたぶっかけの器というのは、どう考えても不思議な気がする。
 松平不昧公はあえて、太くて短い黒い蕎麦をぶっかけで食べるという方法を選んだ。
 やはりそこには不昧公の、何らかの意図があったと、片山氏は考えている。

〇さて、不昧公は、なぜ江戸で流行の白い蕎麦ではなく、地元の野暮ともいえる黒い蕎麦を、自分の蕎麦として選んだのだろうか。
 当時の江戸の茶の湯の世界は華美に走り、本質を見失っていた。
 それを嘆いた不昧公は、利休の侘茶を理想とする自らの思いを、当世流行りの白い蕎麦ではなく、黒い蕎麦に託して表現したと、片山氏は考えている。
 太くて、ブツブツ切れる色の黒い出雲蕎麦は、不昧公にとっては侘びの精神を表現する道具のひとつだった。そう考えると、葵の紋が入ったぶっかけの器の謎も解けてくるという。
(そうであるならば、黒くて太くてブツブツ切れる、どじょう蕎麦こそが、松平不昧公の侘茶の精神が反映された「ほんとうの出雲蕎麦」の姿だということができるとする)

(片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』朝日新書、2012年、186頁~192頁)

掲載店情報


巻末には、この本で言及されていた店情報が付記されている。
都道府県の町名と電話番号まで記載されているが、詳しい情報は本を参照していただきたい。
掲載店のうち、『仲佐』(岐阜県下呂市)と『ふなつ』(島根県松江市)については、この記事でも比較的詳しく紹介してみた。

片山虎之介『蕎麦屋の常識・非常識』
掲載店 住所
1 かんだやぶそば 東京都千代田区
2 並木藪蕎麦 東京都台東区
3 上野藪そば 東京都台東区
4 藪蕎麦宮本 静岡県島田市
5 神田まつや 東京都千代田区
6 仲佐 岐阜県下呂市
7 桐屋(権現亭) 福島県会津若松市
8 大名草庵(おなざあん) 兵庫県丹波市
9 天山 福島県双葉郡
10 蕎麦切り きうち 大阪府大阪市中央区
11 ふなつ 島根県松江市
12 こそば亭 新潟県妙高市
13 美濃作 沖縄県那覇市



≪弘兼憲史『決算書の読み方』を読んで≫

2022-05-15 19:11:52 | 私のブック・レポート
≪弘兼憲史『決算書の読み方』を読んで≫
(2022年5月15日投稿)

【はじめに】


 地区の会合などに出席すると、決算書を目にする機会も増えてくる。
 ましてや、監事などの役職に就くと、決算書を精査する必要に迫られる。
 その際に、どうしても、決算書の読み方について、一定の知識が求められる。
 その場合、少しでもそうした知識があると、その読み方に困らない。
 今回のブログでは、漫画家・弘兼憲史さんの次の著作を一読することにより、「決算書の読み方」について考えてみたい。

〇弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]

【弘兼憲史(ひろかね・けんし)氏のプロフィール】
1947年山口県生まれ。早稲田大学法学部卒。
松下電器産業販売助成部に勤務。退社後、1976年漫画家デビュー。
以後、人間や社会を鋭く描く作品で、多くのファンを魅了し続けている。
奥様は同業の柴門ふみさん。
代表作に『課長 島耕作』





【弘兼憲史『決算書の読み方』(幻冬舎)はこちらから】
弘兼憲史『決算書の読み方』(幻冬舎)






弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]

【目次】
第1章 決算書から何を読む? 会社の真実の姿は決算書から見えてくる
 決算書とは1 決算書とは会社の経営状態がわかる成績表
 決算書とは2 どのような書類を、誰のために作るのか
 決算書とは3 決算書が作られる時点と期間の基本ルールを知る
 貸借対照表 会社の底力は「財産」で決まる
 損益計算書 会社の勢いは「儲け」で決まる
 キャッシュ・フロー計算書 会社が本当にもっているお金が見える

第2章 貸借対照表 会社の底力は「財産」で決まる
 貸借対照表 小分けして読むことが理解への早道
 資産の部 貸借対照表の左側、借方に表されるのが資産
 負債の部・純資産の部 貸借対照表の右側、貸方に表されるのが負債と純資産
 流動資産 「流動」とはもうすぐお金になるという意味
 たな卸資産・その他流動資産 在庫も家賃の前払いも大切な資産と考える
 POINT 1 たな卸資産の扱い
 固定資産 三つをまとめ、償却できるか否かを見る
 POINT 2 減価償却の算定の仕方
 有形固定資産 読んで字のごとく、目に見える形のある資産
 無形固定資産・投資等その他の資産 目に見えない資産とハイリスクな資産
 POINT 3 有価証券の区分は目的による
 繰延資産 価値がないのに資産とされる繰延資産
 貸倒引当金 資産のなかで唯一マイナス項目となる貸倒引当金
 流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債
 固定負債 大きな買い物に使う固定負債
 POINT 4 多額の支払いに備える引当金
 資本金・剰余金 株主のお金、自分で稼いだお金が資本を担う
 資本準備金・利益準備金 会社法に定められた、万が一に備える「準備金」
 POINT 5
 黒字と赤字で表記が違う

第3章 損益計算書 会社の勢いは「儲け」で決まる
 損益計算書の構造 まず「いつもの儲け」と「特別な儲け」に分ける
 損益計算書 損益計算書を攻略する3・5・5の分類
 売上高 本業で稼いだお金を最初に見る
 売上原価 仕入れにかかるお金、モノ作りにかかるお金
 売上総利益 商品、製品の魅力が売上総利益に表れる
 販売費及び一般管理費 売るため、管理するためにかかる費用
 POINT 6 人件費と接待交際費
 営業利益 本業での活動で得た儲けをまとめた営業利益
 営業外収益・営業外費用 会社は本業以外でも儲けたり、損したり
 経常利益 最も重要視されているといっても過言ではない利益
 特別利益・特別損失 アンビリーバブルな出来事は利益か損失か?
 法人税、住民税及び事業税 税金を差し引いてたどりつく当期純利益
 ★株主資本等変動計算書 純資産が前期末から当期末までにどう変わったかがわかる
 ★注記表 注記が充実している会社は信用できる

第4章 キャッシュ・フロー計算書 会社が本当にもっているお金が見える
 キャッシュ・フローとは 近年重要性が増している現金の流れを追った計算書
 キャッシュ・フローの構造 キャッシュ・フロー計算書は大きく見て三層構造
 営業活動によるキャッシュ・フロー 最も注目すべきは本業による現金の流れ
 営業活動によるキャッシュ・フロー 「間接法」と「直接法」、二つの方法から求められる
 投資活動によるキャッシュ・フロー 投資の内容で会社の将来を予測する
 POINT 7 余力があってこそできる設備投資
 財務活動によるキャッシュ・フロー 「負債」と「資本」の流れで資金繰りがわかる
 フリーキャッシュ・フロー 会社の価値を決める、「自由に使えるお金」
 キャッシュ・フローの見方 キャッシュ・フロー計算書は粉飾しにくい構造
 キャッシュ・フロー計算書の見方 プラスとマイナスの数字の意味を読み取ろう

第5章 知識3からの経営分析 決算書を十二分に活用する
 分析のポイント 五つの分析ポイント、三つの視点
 総資本経常利益率・自己資本利益率 二つの経営指標から会社の総合力をはかる
 収益性分析 商売上手は収益性でわかる
 売上高総利益率・売上高営業利益率 本業にかかわる収益性を分析する
 売上高経常利益率 収益性分析の核となる比率、売上高経常利益率
 効率性分析 よく回転している会社がよい会社
 総資本回転率・回転期間 少ない総資本でも、多くの売上高を上げることが大切
 たな卸資産回転率・回転期間 適正在庫を保つことが、効率性のよさにつながる
 固定資産回転率・回転期間 高額な投資をしたからには効率よく動かす
 売上債権回転率・回転期間 取引先への売上債権は、回収後すぐに活動資金になる
 仕入債権回転率・回転期間 返済予定の仕入債務はできるだけ遅く支払う方がよい
 安全性分析 貸借対照表をもとに、会社の安定性をチェック
 流動比率・当座比率 支払能力のよしあしをはかる流動比率と当座比率
 固定比率・固定長期適合率 大きな買い物は自分のお金でしているか
 自己資本比率 資本の充実こそ、安全性の最大の課題
 生産性分析 従業員や設備がどれだけの付加価値を生んでいるか
 労働生産性 従業員一人ひとりが生む価値とは?
 労働分配率 生産性向上のために人件費をさらにくわしく分析する
 損益分岐点分析 誰もが気になる、売上高と費用がつり合う点
 損益分岐点売上高の求め方 会社の具体的な目標は、費用の分解から見えてくる
 経営安全率・損益分岐点比率 損益分岐点から会社の余裕を見る

第6章 連結決算書 グループ会社をひとまとめ
 連結決算書 企業を集団でとらえ、まとめて成績を見る
 子会社、関連会社の定義 子会社は「支配」され、関連会社は「影響」を受ける
 連結貸借対照表 企業集団の財政状態を表す連結貸借対照表
 連結損益計算書・連結株主資本等変動計算書 企業集団の儲けを表す連結損益計算書
 連結キャッシュ・フロー計算書 企業集団の資金状況を表す連結キャッシュ・フロー計算書

 あとがき
 参考文献
 さくいん




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・貸借対照表
・流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債
・社債と株式の違い
・第3章 経常利益について
・第3章 法人税、住民税及び事業税について
・第4章 キャッシュ・フローについて









貸借対照表


・貸借対照表は、決算日に会社がどんな財産(資産)をどれだけもち、その資産を借金(負債)して手に入れたのか、自分のお金(自己資本)で手に入れたのかを示す。
・つまり、決算日における会社の財政状態(資産・負債・純資産の状態)を示す。

・貸借対照表は、左右に分けられる。
 左側に資産が示される。これを会計用語で借方(かりかた)という
 右側に他人から借りたお金である負債、自分で用意したお金である資本が示される。これを貸方(かしかた)という。

※資金の運用(借)と調達(貸)のバランスがとれている(対照している)ので、バランス・シート(貸借対照表)という。

【貸借対照表からわかること】
〇どこから調達した?(株主が出資? 借金?)
〇資金はいくら?
〇何にいくら使ったか?
〇資産はどのくらいある?

【貸借対照表の構造】
・借方(左側)に資産、貸方(右側)に負債、純資産を示す。
 さらに、資産と負債は流動と固定に分けられる。

・貸借対照表を理解するうえでは、分類して考えるとわかりやすい。
まず、全体を資産、負債、純資産の三つに分ける。
さらに、資産を流動資産、固定資産、繰延資産に、負債を流動負債、固定負債に分け、純資産を資本金と剰余金に分ける。
※資産も負債も、「流動」と「固定」に分けてみる。
 どちらも「流動」が先、次に「固定」という並び方になっている。
 流動の方が早く換金できるものであり、換金化のスピードを大事に考えるから。
 (換金力は会社の支払能力ともいえるので、会社の信頼度をまず対外的に示している)
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、16頁、24頁)

流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債


流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債
・負債=支払わなければならない借金
    主に会社の運転資金として使われることが多い
    返済期日によって、流動負債と固定負債とに分けられる
・流動負債の勘定科目には、
  1年以内に返済しなければならない負債や本業の流れのなかで生まれた負債が並ぶ
・並べ方:流動性配列法により、上から順に、支払義務の強いものから並べられる
・支払手形
  支払期日が厳密に決められている
  一番厳しい支払義務をもつということで、流動負債の中で、最初にくる
※ちなみに、手形とは、現金の証書 
  いつ、どこの銀行から、いくら支払うかを明記したもの
 「不渡り」とは、手形の支払期に現金を用意できないこと。
  ⇒不渡りを起こせば、会社の信用は失われる。
   さらに、半年間に2度、不渡りを発生させると、銀行取引が停止され、倒産ということになる。

・支払手形と買掛金はどちらも、正常営業循環基準から流動負債に計上される。
 その違いは、支払義務を証書で決めたか、口約束で決めたかによる。
・短期借入金は、一年基準(ワンイヤールール)から、流動負債に計上される。
 銀行や取引先から融資してもらった借入金のうち、決算日の翌日から1年以内に返済しなければならない。

(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、50頁~51頁)

社債と株式の違い


社債と株式の違いについて、まとめておこう。

【社債と株式の違い】
・固定負債は長期に安定した資金である。
 この資金の調達方法の主なものが社債の発行である。
 社債とは、会社が発行する債券のこと。
 投資家からお金を募り、その代わりに、「社債」を手渡す。
 期日がきたら元本に利息をつけて投資家に返金する。
 (いわば社債は、投資をしてくれた人たちへの借入証書と同じもの。その意味では長期借入金と同じ性格を持つ)

・投資家からお金を集める方法には、資本金を増やす「株式増資」もある。
 投資家からお金を集める点では社債と同じことをする。
 しかし、株式で集めた資金は返さなくてよいが、社債は返さなくてはならない。

 会社が発行する社債と株式。出資者はお金を出すことは同じだが、その意味やその後の状況が違う。

株式 社債
出すお金は 出資したことになる お金を貸したことになる
返金は お金は返ってこない 決めた日に戻ってくる
利益が上がれば 配当金が出る 金利が決まっているから変わらない
利益がなければ 配当金は出ない 決まっている金利を受け取れる

(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、54頁)

第3章 経常利益について


第3章 損益計算書 会社の勢いは「儲け」で決まる
 経常利益~最も重要視されているといっても過言ではない利益
・災害や事故など特殊な事情を抜きにして、会社が、平常時の活動でいくら儲けたかを
示す経常利益
 ※計上利益と混同しないよう、「ケイツネ利益」と呼んだりもする。
 【経常利益の求め方】
 売上高-売上原価 =売上総利益
売上総利益-販売費および一般管理費 =営業利益
営業利益+営業外利益-営業外費用 =経常利益

※経常利益と売上高は、前期との比較が不可欠
 〇売上高比較~前期の損益計算書と、当期の損益計算書を比較する
  ⇒ここから、会社の取引が、どう動いたかを見る
 ・前期に比べ、当期の売上高が増えていれば「増収」、
               減っていれば「減収」。
 〇経常利益比較~前期の損益計算書と、当期の損益計算書を比較する
  ⇒ここから、会社が毎期に利益をどれだけ生み出しているかを比較する
 ・前期の経常利益が増えていれば「増益」、
          減っていれば「減益」。
損益の動き 評価 評価内容
増収増益 優 素晴らしい。この調子。
ビジネスチャンスを逃してはならない
増収減益 可 売り上げが増えたのに何故、減益になったのか、
薄利で売っていないか要確認。
減収増益 可 人件費削減などの企業の判断がうまくいった形。
しかし、あまりの経費削減は、長期的に見て
好ましくない。売り上げを伸ばす努力を。
減収減益 不可 危険だ。何期にもわたって続いているのであれば、構造改革が必要である。
倒産の二文字がちらつく。



・経常とは、「その会社の実力で毎期発生する」という意味。
  本業も財テクも含めて、会社の活動すべての成績をまとめた項目。
 (会社の総合力をはかるうえで、欠かせない科目)
  
☆経常利益に目をこらしてみると、多くのことがわかる。
 ・たとえば、売上高がプラスなのに、経常利益がマイナスという会社がある。
 ⇒これは、本業で稼いでいるが財テクに失敗したか、借入金が多く支払利息が多いと見て取れる。
 ・逆に、売上高はさほどないのに、経常利益はよい数字を残している会社もある。
 ⇒これは、財テクで稼いでいるということが見て取れ、経常利益は会社の実力を表すといえども、将来性に疑問が残る。
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、84頁~85頁)

第3章 法人税、住民税及び事業税について


法人税、住民税及び事業税 税金を差し引いてたどりつく当期純利益
・すべての利益と費用をまとめた税引前当期純利益(経常利益+特別利益-特別損失)から、会社にかかわるさまざまな税金を引くと、当期純利益が求められる
・税金に関係する勘定科目は、法人税、住民税及び事業税と、法人税等調整額の二つがある。
※「法人税、住民税及び事業税」は、名称が長いため、略して「法人税等」と呼ぶことが一般的。

<注意点>
・法人税等に記載されている税額は、法人税法の都合で決められるということ。
・会社法のルールで決まった税引前当期純利益をもとに、税額をはじき出すのではなく、法人税法にのっとって独自に利益を計算し、税金が算出される。
 ⇒この利益を課税所得という。

〇儲けに課せられる法人税等
 ・法人税は所得(法人税法上の利益)の30%を乗じて計算。 
  ほかの税は法人税をもとにそれぞれの税率を乗じて算出する。
  結果、会社の所得の約40%は税金とみる。
 ・法人税、住民税及び事業税の内訳
  法人税(国に納める)、都道府県民税(都道府県に納める)
  市町村民税(市町村に納める)、事業税(都道府県に納める)

〇租税公課と法人税等は違う
 ・販管費の勘定科目に、租税公課というものがある。
  税金を扱うことでは法人税等と同じだが租税公課は利益に関係なく課税されるものである
 ・一方、法人税等は、当期の会社の活動で生み出された利益に課せられる税金である。
  (儲ければ儲けるほど、税金の額は大きくなる)

   
  租税公課          法人税等
  印紙税          法人税
  固定資産税        都道府県民税
  自動車税          市町村民税
  登録免許税        事業税

 〇法人税等の算出方法
 ・法人税等は会社の儲けにかかる税金だが、利益からではなく、課税所得から算出する。
   
   損益計算書 税金の計算
   収益 ≠益金
   費用または損失 ≠損金
   利益 ≠課税所得

※  損益計算書の利益=収益-費用または損失
   税金の計算の課税所得=益金-損金
   法人税等=課税所得×税率

※給料や電気代などの費用は損金になる。
 しかし、貸倒引当金のように費用になるが、まるまる損金とならないものもある。
 ⇒このように、利益と課税所得は一致しない。
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、88頁~89頁)

第4章 キャッシュ・フローについて


第4章 キャッシュ・フロー計算書 会社が本当にもっているお金が見える
 キャッシュ・フローとは 近年重要性が増している現金の流れを追った計算書

・貸借対照表と損益計算書の二つの書類からは、会社が使った「現金」がどこからどこに流れたのか、はっきりとはわからない。
・それに対し、本当の現金の流れを示すのが、キャッシュ・フロー計算書
 ※正式な財務諸表として、平成11年4月から、上場会社に作成が義務付け
 (国際標準に準拠した「会計基準のグローバルスタンダード化」による法的な施行)
〇キャッシュ・フロー計算書は、現金を絶えず追うため、次のようなことがわかる。
 ・どこから現金を調達しているか
 ・どこに運用しているか
 ・本業でどれだけ現金が生み出されているか
 ・投資にどれくらい転用したか
 ・どれくらい借入金をしたのか
 ・どれくらい返済しているか

<まとめ>
※貸借対照表(会社の資産、負債などの財政状態を表す)と損益計算書(その期の利益がどのくらいかを表す)では、いずれも書類上の数字で、現金の収支はどうなっているのか不明。
⇒キャッシュ・フロー計算書は、現金の流れがどうなっていたかを表すため、企業の財務状況の実態がわかる。

【補足:キャッシュとは】
・貸借対照表に「現金及び預金」という科目がある。
 キャッシュ・フロー計算書の「キャッシュ」は、ほぼこれと一致する。
 ※しかし、預金のなかにはすぐに解約できないものもある。
  たとえば、定期預金~これはキャッシュには該当しない
・また、合計欄は現金及び現金同等物となっている。
  ⇒現金同等物とは、換金可能でリスクの少ない短期投資のこと。
 ※定期預金のうちでも満期が3ヵ月以内のものは該当する
(そのほか何を現金同等物とするかは、経営者の判断になる)
・キャッシュの定義は実は曖昧で、経営者の判断にゆだねられている。
 ⇒そこで、何を現金としたか、注記に記載することになっている。
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、98頁~99頁)