歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪弘兼憲史『決算書の読み方』を読んで≫

2022-05-15 19:11:52 | 私のブック・レポート
≪弘兼憲史『決算書の読み方』を読んで≫
(2022年5月15日投稿)

【はじめに】


 地区の会合などに出席すると、決算書を目にする機会も増えてくる。
 ましてや、監事などの役職に就くと、決算書を精査する必要に迫られる。
 その際に、どうしても、決算書の読み方について、一定の知識が求められる。
 その場合、少しでもそうした知識があると、その読み方に困らない。
 今回のブログでは、漫画家・弘兼憲史さんの次の著作を一読することにより、「決算書の読み方」について考えてみたい。

〇弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]

【弘兼憲史(ひろかね・けんし)氏のプロフィール】
1947年山口県生まれ。早稲田大学法学部卒。
松下電器産業販売助成部に勤務。退社後、1976年漫画家デビュー。
以後、人間や社会を鋭く描く作品で、多くのファンを魅了し続けている。
奥様は同業の柴門ふみさん。
代表作に『課長 島耕作』





【弘兼憲史『決算書の読み方』(幻冬舎)はこちらから】
弘兼憲史『決算書の読み方』(幻冬舎)






弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]

【目次】
第1章 決算書から何を読む? 会社の真実の姿は決算書から見えてくる
 決算書とは1 決算書とは会社の経営状態がわかる成績表
 決算書とは2 どのような書類を、誰のために作るのか
 決算書とは3 決算書が作られる時点と期間の基本ルールを知る
 貸借対照表 会社の底力は「財産」で決まる
 損益計算書 会社の勢いは「儲け」で決まる
 キャッシュ・フロー計算書 会社が本当にもっているお金が見える

第2章 貸借対照表 会社の底力は「財産」で決まる
 貸借対照表 小分けして読むことが理解への早道
 資産の部 貸借対照表の左側、借方に表されるのが資産
 負債の部・純資産の部 貸借対照表の右側、貸方に表されるのが負債と純資産
 流動資産 「流動」とはもうすぐお金になるという意味
 たな卸資産・その他流動資産 在庫も家賃の前払いも大切な資産と考える
 POINT 1 たな卸資産の扱い
 固定資産 三つをまとめ、償却できるか否かを見る
 POINT 2 減価償却の算定の仕方
 有形固定資産 読んで字のごとく、目に見える形のある資産
 無形固定資産・投資等その他の資産 目に見えない資産とハイリスクな資産
 POINT 3 有価証券の区分は目的による
 繰延資産 価値がないのに資産とされる繰延資産
 貸倒引当金 資産のなかで唯一マイナス項目となる貸倒引当金
 流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債
 固定負債 大きな買い物に使う固定負債
 POINT 4 多額の支払いに備える引当金
 資本金・剰余金 株主のお金、自分で稼いだお金が資本を担う
 資本準備金・利益準備金 会社法に定められた、万が一に備える「準備金」
 POINT 5
 黒字と赤字で表記が違う

第3章 損益計算書 会社の勢いは「儲け」で決まる
 損益計算書の構造 まず「いつもの儲け」と「特別な儲け」に分ける
 損益計算書 損益計算書を攻略する3・5・5の分類
 売上高 本業で稼いだお金を最初に見る
 売上原価 仕入れにかかるお金、モノ作りにかかるお金
 売上総利益 商品、製品の魅力が売上総利益に表れる
 販売費及び一般管理費 売るため、管理するためにかかる費用
 POINT 6 人件費と接待交際費
 営業利益 本業での活動で得た儲けをまとめた営業利益
 営業外収益・営業外費用 会社は本業以外でも儲けたり、損したり
 経常利益 最も重要視されているといっても過言ではない利益
 特別利益・特別損失 アンビリーバブルな出来事は利益か損失か?
 法人税、住民税及び事業税 税金を差し引いてたどりつく当期純利益
 ★株主資本等変動計算書 純資産が前期末から当期末までにどう変わったかがわかる
 ★注記表 注記が充実している会社は信用できる

第4章 キャッシュ・フロー計算書 会社が本当にもっているお金が見える
 キャッシュ・フローとは 近年重要性が増している現金の流れを追った計算書
 キャッシュ・フローの構造 キャッシュ・フロー計算書は大きく見て三層構造
 営業活動によるキャッシュ・フロー 最も注目すべきは本業による現金の流れ
 営業活動によるキャッシュ・フロー 「間接法」と「直接法」、二つの方法から求められる
 投資活動によるキャッシュ・フロー 投資の内容で会社の将来を予測する
 POINT 7 余力があってこそできる設備投資
 財務活動によるキャッシュ・フロー 「負債」と「資本」の流れで資金繰りがわかる
 フリーキャッシュ・フロー 会社の価値を決める、「自由に使えるお金」
 キャッシュ・フローの見方 キャッシュ・フロー計算書は粉飾しにくい構造
 キャッシュ・フロー計算書の見方 プラスとマイナスの数字の意味を読み取ろう

第5章 知識3からの経営分析 決算書を十二分に活用する
 分析のポイント 五つの分析ポイント、三つの視点
 総資本経常利益率・自己資本利益率 二つの経営指標から会社の総合力をはかる
 収益性分析 商売上手は収益性でわかる
 売上高総利益率・売上高営業利益率 本業にかかわる収益性を分析する
 売上高経常利益率 収益性分析の核となる比率、売上高経常利益率
 効率性分析 よく回転している会社がよい会社
 総資本回転率・回転期間 少ない総資本でも、多くの売上高を上げることが大切
 たな卸資産回転率・回転期間 適正在庫を保つことが、効率性のよさにつながる
 固定資産回転率・回転期間 高額な投資をしたからには効率よく動かす
 売上債権回転率・回転期間 取引先への売上債権は、回収後すぐに活動資金になる
 仕入債権回転率・回転期間 返済予定の仕入債務はできるだけ遅く支払う方がよい
 安全性分析 貸借対照表をもとに、会社の安定性をチェック
 流動比率・当座比率 支払能力のよしあしをはかる流動比率と当座比率
 固定比率・固定長期適合率 大きな買い物は自分のお金でしているか
 自己資本比率 資本の充実こそ、安全性の最大の課題
 生産性分析 従業員や設備がどれだけの付加価値を生んでいるか
 労働生産性 従業員一人ひとりが生む価値とは?
 労働分配率 生産性向上のために人件費をさらにくわしく分析する
 損益分岐点分析 誰もが気になる、売上高と費用がつり合う点
 損益分岐点売上高の求め方 会社の具体的な目標は、費用の分解から見えてくる
 経営安全率・損益分岐点比率 損益分岐点から会社の余裕を見る

第6章 連結決算書 グループ会社をひとまとめ
 連結決算書 企業を集団でとらえ、まとめて成績を見る
 子会社、関連会社の定義 子会社は「支配」され、関連会社は「影響」を受ける
 連結貸借対照表 企業集団の財政状態を表す連結貸借対照表
 連結損益計算書・連結株主資本等変動計算書 企業集団の儲けを表す連結損益計算書
 連結キャッシュ・フロー計算書 企業集団の資金状況を表す連結キャッシュ・フロー計算書

 あとがき
 参考文献
 さくいん




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・貸借対照表
・流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債
・社債と株式の違い
・第3章 経常利益について
・第3章 法人税、住民税及び事業税について
・第4章 キャッシュ・フローについて









貸借対照表


・貸借対照表は、決算日に会社がどんな財産(資産)をどれだけもち、その資産を借金(負債)して手に入れたのか、自分のお金(自己資本)で手に入れたのかを示す。
・つまり、決算日における会社の財政状態(資産・負債・純資産の状態)を示す。

・貸借対照表は、左右に分けられる。
 左側に資産が示される。これを会計用語で借方(かりかた)という
 右側に他人から借りたお金である負債、自分で用意したお金である資本が示される。これを貸方(かしかた)という。

※資金の運用(借)と調達(貸)のバランスがとれている(対照している)ので、バランス・シート(貸借対照表)という。

【貸借対照表からわかること】
〇どこから調達した?(株主が出資? 借金?)
〇資金はいくら?
〇何にいくら使ったか?
〇資産はどのくらいある?

【貸借対照表の構造】
・借方(左側)に資産、貸方(右側)に負債、純資産を示す。
 さらに、資産と負債は流動と固定に分けられる。

・貸借対照表を理解するうえでは、分類して考えるとわかりやすい。
まず、全体を資産、負債、純資産の三つに分ける。
さらに、資産を流動資産、固定資産、繰延資産に、負債を流動負債、固定負債に分け、純資産を資本金と剰余金に分ける。
※資産も負債も、「流動」と「固定」に分けてみる。
 どちらも「流動」が先、次に「固定」という並び方になっている。
 流動の方が早く換金できるものであり、換金化のスピードを大事に考えるから。
 (換金力は会社の支払能力ともいえるので、会社の信頼度をまず対外的に示している)
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、16頁、24頁)

流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債


流動負債 会社の運転資金がわかる流動負債
・負債=支払わなければならない借金
    主に会社の運転資金として使われることが多い
    返済期日によって、流動負債と固定負債とに分けられる
・流動負債の勘定科目には、
  1年以内に返済しなければならない負債や本業の流れのなかで生まれた負債が並ぶ
・並べ方:流動性配列法により、上から順に、支払義務の強いものから並べられる
・支払手形
  支払期日が厳密に決められている
  一番厳しい支払義務をもつということで、流動負債の中で、最初にくる
※ちなみに、手形とは、現金の証書 
  いつ、どこの銀行から、いくら支払うかを明記したもの
 「不渡り」とは、手形の支払期に現金を用意できないこと。
  ⇒不渡りを起こせば、会社の信用は失われる。
   さらに、半年間に2度、不渡りを発生させると、銀行取引が停止され、倒産ということになる。

・支払手形と買掛金はどちらも、正常営業循環基準から流動負債に計上される。
 その違いは、支払義務を証書で決めたか、口約束で決めたかによる。
・短期借入金は、一年基準(ワンイヤールール)から、流動負債に計上される。
 銀行や取引先から融資してもらった借入金のうち、決算日の翌日から1年以内に返済しなければならない。

(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、50頁~51頁)

社債と株式の違い


社債と株式の違いについて、まとめておこう。

【社債と株式の違い】
・固定負債は長期に安定した資金である。
 この資金の調達方法の主なものが社債の発行である。
 社債とは、会社が発行する債券のこと。
 投資家からお金を募り、その代わりに、「社債」を手渡す。
 期日がきたら元本に利息をつけて投資家に返金する。
 (いわば社債は、投資をしてくれた人たちへの借入証書と同じもの。その意味では長期借入金と同じ性格を持つ)

・投資家からお金を集める方法には、資本金を増やす「株式増資」もある。
 投資家からお金を集める点では社債と同じことをする。
 しかし、株式で集めた資金は返さなくてよいが、社債は返さなくてはならない。

 会社が発行する社債と株式。出資者はお金を出すことは同じだが、その意味やその後の状況が違う。

株式 社債
出すお金は 出資したことになる お金を貸したことになる
返金は お金は返ってこない 決めた日に戻ってくる
利益が上がれば 配当金が出る 金利が決まっているから変わらない
利益がなければ 配当金は出ない 決まっている金利を受け取れる

(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、54頁)

第3章 経常利益について


第3章 損益計算書 会社の勢いは「儲け」で決まる
 経常利益~最も重要視されているといっても過言ではない利益
・災害や事故など特殊な事情を抜きにして、会社が、平常時の活動でいくら儲けたかを
示す経常利益
 ※計上利益と混同しないよう、「ケイツネ利益」と呼んだりもする。
 【経常利益の求め方】
 売上高-売上原価 =売上総利益
売上総利益-販売費および一般管理費 =営業利益
営業利益+営業外利益-営業外費用 =経常利益

※経常利益と売上高は、前期との比較が不可欠
 〇売上高比較~前期の損益計算書と、当期の損益計算書を比較する
  ⇒ここから、会社の取引が、どう動いたかを見る
 ・前期に比べ、当期の売上高が増えていれば「増収」、
               減っていれば「減収」。
 〇経常利益比較~前期の損益計算書と、当期の損益計算書を比較する
  ⇒ここから、会社が毎期に利益をどれだけ生み出しているかを比較する
 ・前期の経常利益が増えていれば「増益」、
          減っていれば「減益」。
損益の動き 評価 評価内容
増収増益 優 素晴らしい。この調子。
ビジネスチャンスを逃してはならない
増収減益 可 売り上げが増えたのに何故、減益になったのか、
薄利で売っていないか要確認。
減収増益 可 人件費削減などの企業の判断がうまくいった形。
しかし、あまりの経費削減は、長期的に見て
好ましくない。売り上げを伸ばす努力を。
減収減益 不可 危険だ。何期にもわたって続いているのであれば、構造改革が必要である。
倒産の二文字がちらつく。



・経常とは、「その会社の実力で毎期発生する」という意味。
  本業も財テクも含めて、会社の活動すべての成績をまとめた項目。
 (会社の総合力をはかるうえで、欠かせない科目)
  
☆経常利益に目をこらしてみると、多くのことがわかる。
 ・たとえば、売上高がプラスなのに、経常利益がマイナスという会社がある。
 ⇒これは、本業で稼いでいるが財テクに失敗したか、借入金が多く支払利息が多いと見て取れる。
 ・逆に、売上高はさほどないのに、経常利益はよい数字を残している会社もある。
 ⇒これは、財テクで稼いでいるということが見て取れ、経常利益は会社の実力を表すといえども、将来性に疑問が残る。
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、84頁~85頁)

第3章 法人税、住民税及び事業税について


法人税、住民税及び事業税 税金を差し引いてたどりつく当期純利益
・すべての利益と費用をまとめた税引前当期純利益(経常利益+特別利益-特別損失)から、会社にかかわるさまざまな税金を引くと、当期純利益が求められる
・税金に関係する勘定科目は、法人税、住民税及び事業税と、法人税等調整額の二つがある。
※「法人税、住民税及び事業税」は、名称が長いため、略して「法人税等」と呼ぶことが一般的。

<注意点>
・法人税等に記載されている税額は、法人税法の都合で決められるということ。
・会社法のルールで決まった税引前当期純利益をもとに、税額をはじき出すのではなく、法人税法にのっとって独自に利益を計算し、税金が算出される。
 ⇒この利益を課税所得という。

〇儲けに課せられる法人税等
 ・法人税は所得(法人税法上の利益)の30%を乗じて計算。 
  ほかの税は法人税をもとにそれぞれの税率を乗じて算出する。
  結果、会社の所得の約40%は税金とみる。
 ・法人税、住民税及び事業税の内訳
  法人税(国に納める)、都道府県民税(都道府県に納める)
  市町村民税(市町村に納める)、事業税(都道府県に納める)

〇租税公課と法人税等は違う
 ・販管費の勘定科目に、租税公課というものがある。
  税金を扱うことでは法人税等と同じだが租税公課は利益に関係なく課税されるものである
 ・一方、法人税等は、当期の会社の活動で生み出された利益に課せられる税金である。
  (儲ければ儲けるほど、税金の額は大きくなる)

   
  租税公課          法人税等
  印紙税          法人税
  固定資産税        都道府県民税
  自動車税          市町村民税
  登録免許税        事業税

 〇法人税等の算出方法
 ・法人税等は会社の儲けにかかる税金だが、利益からではなく、課税所得から算出する。
   
   損益計算書 税金の計算
   収益 ≠益金
   費用または損失 ≠損金
   利益 ≠課税所得

※  損益計算書の利益=収益-費用または損失
   税金の計算の課税所得=益金-損金
   法人税等=課税所得×税率

※給料や電気代などの費用は損金になる。
 しかし、貸倒引当金のように費用になるが、まるまる損金とならないものもある。
 ⇒このように、利益と課税所得は一致しない。
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、88頁~89頁)

第4章 キャッシュ・フローについて


第4章 キャッシュ・フロー計算書 会社が本当にもっているお金が見える
 キャッシュ・フローとは 近年重要性が増している現金の流れを追った計算書

・貸借対照表と損益計算書の二つの書類からは、会社が使った「現金」がどこからどこに流れたのか、はっきりとはわからない。
・それに対し、本当の現金の流れを示すのが、キャッシュ・フロー計算書
 ※正式な財務諸表として、平成11年4月から、上場会社に作成が義務付け
 (国際標準に準拠した「会計基準のグローバルスタンダード化」による法的な施行)
〇キャッシュ・フロー計算書は、現金を絶えず追うため、次のようなことがわかる。
 ・どこから現金を調達しているか
 ・どこに運用しているか
 ・本業でどれだけ現金が生み出されているか
 ・投資にどれくらい転用したか
 ・どれくらい借入金をしたのか
 ・どれくらい返済しているか

<まとめ>
※貸借対照表(会社の資産、負債などの財政状態を表す)と損益計算書(その期の利益がどのくらいかを表す)では、いずれも書類上の数字で、現金の収支はどうなっているのか不明。
⇒キャッシュ・フロー計算書は、現金の流れがどうなっていたかを表すため、企業の財務状況の実態がわかる。

【補足:キャッシュとは】
・貸借対照表に「現金及び預金」という科目がある。
 キャッシュ・フロー計算書の「キャッシュ」は、ほぼこれと一致する。
 ※しかし、預金のなかにはすぐに解約できないものもある。
  たとえば、定期預金~これはキャッシュには該当しない
・また、合計欄は現金及び現金同等物となっている。
  ⇒現金同等物とは、換金可能でリスクの少ない短期投資のこと。
 ※定期預金のうちでも満期が3ヵ月以内のものは該当する
(そのほか何を現金同等物とするかは、経営者の判断になる)
・キャッシュの定義は実は曖昧で、経営者の判断にゆだねられている。
 ⇒そこで、何を現金としたか、注記に記載することになっている。
(弘兼憲史『決算書の読み方』幻冬舎、2009年[2004年初版]、98頁~99頁)


≪童門冬二『小説 上杉鷹山』を読んで≫

2022-05-13 19:00:02 | 私のブック・レポート
≪童門冬二『小説 上杉鷹山』を読んで≫
(2022年5月13日投稿)
 

【はじめに】


今回のブログでは、前回に引き続き、童門冬二氏の小説を紹介する。
〇童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

・九州の小藩からわずか十七歳で、名門・上杉家の養子に入り、出羽・米沢の藩主となった治憲[はるのり](後の鷹山[ようざん])は、破滅の危機にあった藩政を建て直すべく、直ちに改革を乗り出す。
・高邁な理想に燃え、すぐれた実践能力と人を思いやる心で、家臣や領民の信頼を集めていた経世家・上杉鷹山の感動の生涯を描いた長篇小説である。

「余談」にも述べてあるように、内村鑑三が、英文で、鷹山を紹介したことから、ジョン・F・ケネディも鷹山に関心を持ったことは、よく知られている。



【童門冬二『小説 上杉鷹山』(集英社文庫)はこちらから】
童門冬二『小説 上杉鷹山』(集英社文庫)




童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

【目次】
・池の魚たち
・冷メシ派登用
・人形妻
・断行
・板谷峠
・灰の国で
・小町の湯
・鯉を飼おう
・神の土地
・さらに災厄が
・江戸
・重役の反乱
・処分
・新しい火を
・募金
・そんぴん
・なかま割れ
・普門院
・きあぴたれ餅
・原方のクソつかみ
・赤い襦袢
・暗い雲
・地割れ
・竹俣処断
・伝国の辞
・改革の再建
・鷹の人

解説 長谷部史親
鑑賞 平岩外四
上杉鷹山年譜 細谷正充




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・童門冬二『小説 上杉鷹山』~長谷部史親氏の「解説」より
・童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の主要登場人物
・童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の魚の叙述
・治憲の藩政改革の骨子について
・藩政改革の具体策
・改革派(冷メシ組、“奸物”)VS重臣たち(“米沢の老金魚たち”)
・「重役の反乱」
・「処分」
・北沢五郎兵衛の説いた「孟子」の教え~「新しい火を」より
・「竹俣処断」~泣いて馬謖を斬るの故事
・「伝国の辞」
・改革政策の復活
・「鷹の人」
・余談~上杉鷹山とジョン・F・ケネディ大統領




童門冬二『小説 上杉鷹山』~長谷部史親氏の「解説」より


・本書『小説 上杉鷹山』は、表題に「小説」という文字が見えるように、上杉鷹山の生涯に立脚した歴史小説である。
 むろん史実に即してはいるものの、作者の文学的手法が存分に駆使されているがゆえに、鷹山の理想や内心の苦衷、あるいは言動の数々が、より立体的かつ鮮やかに再現されている。

・鷹山のみならず周囲の人物に付与された躍動感も、やはり小説ならではの魅力である。
 たとえば、側近の佐藤文四郎が、みすずとの間に育んでゆく恋のように、興趣を盛り上げる。
 こうしたドラマ性に小説は支えられている。
 それが読者に感動を与え、この小説を味わい深くしている。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、666頁)

作家としての童門冬二氏


・作者は長く公務に携わるかたわら小説を書き始め、1979年以降は文筆に専念している。
 サラリーマンや役人たちの気質をはじめ、現代日本の諸局面に通じており、現代を舞台とした企業小説やノンフィクションも手がけている。
 そして、そうしたテーマを歴史の中へ投射することによって、新たな認識を模索した作品が多い。

〇本書『小説 上杉鷹山』執筆の動機は、内村鑑三が5人の人物を列伝風に紹介した『代表的日本人』において、上杉鷹山が選ばれているのを目にしたことによるという。
 ⇒本書『小説 上杉鷹山』は、たぶん内村鑑三の英文著作を通じて、アメリカの故ケネディ大統領さえ瞠目させたといわれる鷹山の偉大さを、あますところなく伝えた力作であると、長谷部史親氏は称賛している。

※著者の童門氏は、作品『小説 上杉鷹山』の単行本の“あとがき”で、自分が、上杉鷹山(治憲)にのめり込んだのは、「ウエスギ・ヨーザンは、私の最も尊敬する日本人」と語った故ケネディ大統領の一言を知ったこと、および、心身障害者の妻を限りなくいたわり、その愛情を藩政全般に敷衍していたことを、知ったためだと記している。

本書によって、江戸時代中期の米沢で偉業を達成した鷹山の姿にふれ、ときに感動の涙を流しつつ、現代社会の様相と重ね合わせてみるのも一興であるかもしれない。

さらには、歴史伝記小説を読む楽しさを知り、童門氏の他の作品に手を伸ばしてみるのもよい。
・温故知新という言葉があるように、過去を探ることは現在を知る上で役に立ち、ひいては未来の展望にもつながっていく。
 すぐれた人物の存在性や業績を、小説の形式を通して読む行為も、また温故知新の一環にほかならない。
(そこには作者の認識が付加されている。そして楽しみ感動しながら、人物像の深奥に迫れる。それが最大の効用であろう。

★童門冬二氏の作品には次のようなものがある。
〇歴史上の人物に着目した作品
・『小説二宮金次郎』
・『足利尊氏―南北太平記』
・『小説太田道灌―江戸開発の知将も謀略を見抜けず』
・『小説川路聖謨』
・『小説伊藤博文』
・『近江商人魂』
・『北の王国』
・『平将門』
・『春日局』

〇幕末維新の時代の特性に材をえた作品
・『明日は維新だ』
・『維新の女たち』
・『竜馬暗殺集団』

〇新撰組を描いた作品
・『異説新撰組』
・『新撰組が行く』
・『新撰組の女たち』

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、660頁~668頁)


童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の主要登場人物


・『小説 上杉鷹山』は、米沢藩を舞台に、その藩政改革と財政再建を主題にした物語である。
主役は、日向の小藩、高鍋3万石から名門上杉15万石の養子に迎えられ、やがて藩主の後を継ぎ、改革に取り組む上杉治憲(鷹山)である。
脇には治憲が抜擢した改革派の面々を配し、守旧派の藩重役を中心とする反対派と対決させ、この物語は展開する。
治憲が17歳で藩主を継いだとき、米沢藩は、財政危機から、藩籍返上の瀬戸際にあり、藩内は退嬰的な空気に支配されていた。
この青年藩主は、率先垂範して勤倹節約、一方、殖産興業を奨め、貧窮のドン底にあった藩を再建した名君であった。


◆童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の主要登場人物
上杉治憲(鷹山) うえすぎはるのり(ようざん) 第九代米沢藩主。藩政改革に生涯を賭ける。
幸姫 よしひめ 治憲の妻。八代藩主重定の息女。
佐藤文四郎 さとうぶんしろう 治憲の近習。治憲を敬愛し忠義を尽くす。
竹俣当綱 たけのまたまさつな 農政の専門家。改革派の中心人物で、奉行。
藁科松伯 わらしなしょうはく 医者。細井平洲の弟子。改革の途中、三十三歳で死去
木村高広 きむらたかひろ 民政の大家。御側役として改革派を支え詩文にも優れた。
莅戸善政 のぞきよしまさ 改革派中心人物で町奉行。
須田満主 すだみつたけ 江戸家老。藩政改革に反対し七家騒動で、切腹苗字断絶。
芋川延親 いもかわのぶちか 侍頭。七家騒動に際し、切腹苗字断絶。
色部照長 いろべてるなが 江戸家老。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
千坂高敦 ちさかたかあつ 侍頭。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
長尾景明 ながおかげあき 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
清野祐秀 きよのひろひで 筆頭奉行。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
平林正在 ひらばやしまさあり 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
須田平九郎 すだへいくろう 須田満主の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
芋川磯右衛門 いもかわいそえもん 芋川延親の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
神保甲作 じんぼこうさく 須田・芋川の友人。重役、神保綱忠の息子。
北沢五郎兵衛 きたざわごろべえ 国侍。改革派として小野川の荒地開墾に尽力する。
山口新介 やまぐちしんすけ 国元の改革派。佐藤文四郎の親友。
上杉重定 うえすぎしげさだ 第八代米沢藩主。
上杉治広 うえすぎはるひろ 第十代米沢藩主。重定の実子で、治憲の世子となる。
細井平洲 ほそいへいしゅう 儒者。治憲の師で実学を唱える。
紀伊 きい 江戸、桜田藩邸の奥女中。
みすず 元、奥女中。奥女中解雇の一件で治憲を恨んでいる。
千代 ちよ 小野川の温泉宿の女将。治憲の改革に協力を申しでる。



小姓の佐藤文四郎


〇上杉治憲は、小姓の佐藤文四郎を呼ぶ。
・江戸藩邸で、孤立している者の名を書き出すように命じる。
(つまり、周囲と折り合いの悪い人間の名である)
・そして、その人間がなぜ、なかまはずれになっているのか、その理由も教えてほしいという。
※ふつうに考えれば、その名簿は、藩内の要注意人物一覧表だが、治憲は、藩内の多数派、つまり金魚の群ではなく狭い池の中を所狭しと泳ぐ少数派の魚を探してみようと思った。
※米沢本国にいる重職の顔色をうかがう者では駄目だった。
(つまり古いものを守ることだけに汲汲としている者では駄目だった)
⇒そこで治憲は、江戸藩邸の中で他と折り悪い者に目をつけた。
(癖のある人間で、本国の重職たちからきらわれている者のリストがほしいという)
 (22頁~23頁)
・佐藤は豪快な青年だった。
 ふつう、大名の小姓といえば、色が白く、女のような美少年が多いが、佐藤はそうではない。
 色は真っ黒で、からだつきも武術で鍛えぬいているから骨太のうえに筋肉がどこを突いてもかたく盛り上がっている。(23頁)

・須田平九郎(須田満主の息子)たちからも、佐藤は憎まれていた。
 こんどの人事で、おれたち若い人間を怒らせた最大のものが佐藤文四郎の近習登用だった。
 そもそも小姓だの近習だのというのは、いつもお屋形のそばについている職で、客の前にもしばしば出る。当然、容姿が美しく、立居ふるまいに品があり、また、学問も深くなければならない。
 ところが佐藤は、ずんぐりむっくりで、色はまっ黒け、肩は張って剣術ばかりやっているから、腕は筋肉のかたまりだ。とうていひとさまの前に出せるしろものではない。
 あんな男を小姓にしていたのは、日本三百諸侯のうちでもうちのお屋形だけだぞ」と不平をもらしている。(171頁)

・江戸藩邸では、治憲のうしろで、細井平洲先生の講義をきかせてもらい、勉学させてもらった。平洲も、佐藤の朴訥(ぼくとつ)で、正直な気質を愛した。(359頁~360頁)

竹俣当綱


〇一覧表には、四人の名が書いてあった。
 竹俣当綱、藁科松伯、木村高広、莅戸善政
(佐藤が挙げた四人は、治憲が注目していたのと、ほとんど一致していた)
 そして治憲は佐藤が書いた「なかまはずれになった理由」を読んだ。(29頁)
 以下、この4人について紹介しておこう。

〇竹俣当綱
・正義感の強い人物
⇒先代重定さまのころ、森平右衛門という者がいた。
 森平右衛門は、もとは、わずか3石取りのいたって身分のひくいものであったが、重定さまに重用され、たちまち350石取りとなり、さらに藩政の権力を一手ににぎった。
 その政策はすべて悪いとはいえなかったが、人事を勝手におこない、自分の縁者や一族で要職をひとりじめにした。さらに、公金を遊興に使うようなった。
・そこで、竹俣は森を刺殺した。
 しかし、重定さまは激怒され、竹俣に切腹を命じた。
・それを藁科松伯が救った。
 (藁科は医者。学問も深く、細井平洲先生の友人)
 細井先生に事情を話し、細井先生は、奥方さま(重定夫人)の実兄である尾張中納言に働きかけて、竹俣の生命は助かった。
※竹俣は藩中では気まずく、米沢本国から出され、江戸の藩邸で冷メシを食うことになった。

※竹俣は気骨の士であると同時に、大変な農政の専門家である。(29頁~30頁)
・竹俣は、よく村をまわった。
 農政家のかれは、土の間を歩くのが大好きだった。農民以上に土のことを知っていた。
 田や畠の中で、よく、本気で農民と議論した。
(ただし、後半部分ではそのような竹俣ではなくなった)
・竹俣は、名臣として治憲の改革を助け、縦横に才略を活用して、きびきびと改革を進めた。
⇒農政指導だけでなく藩が抱えていた莫大な借財を、何人もの商人に頼みこんで、返済を延ばしてもらったり、植樹のための資金を提供してもらったり、漆、桑、楮(こうぞ)などの大規模な植樹計画を立てて、実行した。
・細井平洲招請にも労を惜しまなかった
・耕田、殖産、蓄米など、いちじるしい業績はすべて竹俣のものであった。人々は竹俣を称讃した。

※竹俣は治憲の信頼を一身に受けて、江戸藩邸のときから改革案の作成に加わった。
 本国にあって執政に命ぜられ、改革の推進を殆ど一身に背負った。
 竹俣はおどろくべき才人であった。
 農業指導、地場産業の振興、財政運営、藩士の教育など、とにかく藩政のあらゆる面に才能を持っていた。
⇒治憲の考えていることを実行に移し、成果もあげた。

・しかし、竹俣も人に賞められつづけているうちに、次第に自分の功に酔った。そして堕落した。
(⇒どんなに優れた人間にも、好事魔多しというたとえがある。まして権力は魔ものである。権力に永く馴れていると、知らないうちに人間は堕落する。)
(563頁~564頁)

藁科松伯


・藩医であるが、むしろ学者。
⇒竹俣、莅戸、木村はすべてその弟子。
 この学問のなかまを“菁莪社中”(せいがしゃちゅう)と呼んでいる。
・藁科は直言の癖があって、佐藤以上に誰にでもズケズケものをいう。
⇒それできらわれている。
・ちょっと、からだが弱いので、佐藤も心配している。(31頁)

木村高広


・硬骨の士で、竹俣と同じ志に生きる人。民政の大家。
・本国の重職方の評判はよくない。煙たいから。(31頁)

莅戸善政


・改革派中心人物で、町奉行。
・莅戸は硬骨漢であった。
 貧乏な家に生まれ、先代の藩主重定の小姓に召し出されたとき、他の若者たちのように、新しい着物を買ってもらえなかった。父の着ていた古いよれよれの着物と袴をはいて出仕した。
・そして、先代の小姓になってからも、相変わらずいままでとおなじ服装をしているので、同僚の若者たちが、みんなで金を出しあい、それを持っていったところ、「そんな金があるなら、おれより貧乏な足軽たちにやってくれ」といった。
 そして、藩主の重定の許しをえて、それ以後もその古いよれよれの着物で通した。
・莅戸にとって、竹俣は改革の労苦をともにしてきた同志であった。
・後に、竹俣が失脚したとき、莅戸も政治生命を絶ってしまう。
 その莅戸が辞任したときに、歌を詠む。
「いまさらに みるも危うし丸木橋 渡りしあとの水の白波」
(よくも丸木橋から落ちなかったものよと、のちに莅戸は思い返してみてもゾッとすると述懐している)
(596頁~598頁、644頁)

※佐藤が書き出してきた人たちは、「藩内はみだし派」で、藁科松伯を核にしている正義派であった。
 かれらの特徴は、次のような点である。
・藩に巣食う社会悪に怒りをもっている。
・そういうことに気がつくと、相手かまわず直言する。
・その態度が周囲に、特に重役たちにきらわれて、閑職に追いやられてしまった。
・しかし、それぞれに、学問・民政・農政の知識と技術をもっている。(31頁)

治憲の師細井平洲先生


・細井平洲(へいしゅう)は、治憲にとっても、少年時代の学問の師である。(109頁)
・細井平洲は、尾張国(おわりのくに)の生まれで、名は徳民(のりたみ)といった。
 少年のころから京都に行って勉学したが、その期間は極度に生活をきりつめ、文字どおりの一汁一菜で通し、父から送られた学費は、ほとんど本に使った。
・故郷に帰るときは、ぼろぼろの着物で、からだも垢まみれ、まるで乞食のようだったが、馬を一頭引いていた。馬の背には、いままでに読んだ本が、馬が降参するほど沢山くくりつけられていた。
・二十四歳のときに江戸を出て、学塾をひらいた。 
 門人はすぐふえ、高山彦九郎などという変わり種もいた。
・平洲の学風は一応朱子学ではあったが、幅広い応用性を大事にした。
・「学問と今日(現実)とが別の道にならないようにすべきだ」というのが口癖であった。
(つまり、日常の実生活に役に立たないような学問は教えない、というのである)
・平洲は、治憲が十四歳のときに、その師として招かれた。
 「政治の基は道義であります」ということを徹底して教えた。
⇒「政治をおこなう者は、まず徳を養わなければならない」という治憲の態度は、平洲の教えがしみついているからである。
・十七歳になって家督を相続した治憲は、相続早々に平洲から、「まず領内の孝子や節婦の表彰をなされよ。領民のはげみになります」という助言を受けた。
(358頁~360頁)

・平洲を治憲の師としてすすめたのは、藁科(わらしな)松伯である。
(竹俣、莅戸、木村たちといった改革派は、すべて松伯の門人であった)
・平洲は、松伯への追懐の情をこめて、次のような歌を詠んでいる。
「浮雲の あとをしるべに訪いくれば 忘れず山のかいもなかりき」
「苫(とま)の道と いうより袖の露をだに せめては人の形見とも見む」
・松伯は三十三歳で若死にし、その松伯の辞世は、次のような歌であった。
「おしかりき 命のきょうぞおおからぬ さだめなりける数と思えば」
(452頁~453頁)

童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の魚の叙述


この小説は、「池の魚たち」と題して、魚の叙述から始まる。

〇「池の魚たち」より
 上杉治憲は、江戸桜田にある藩邸の中で、じっと庭の池の中をみつめていた。
 池の中には沢山の魚がいた。金魚もいれば鯉もいる。藩士のこどもが外の川や沼で釣ってきて投げこんだハヤやヤマベもいる。フナもいる。生まれや育ちで、魚の生きかたもずいぶんちがう。ちがいは、泳ぎかたにあらわれた。泳ぎかたが、池の中におけるそれぞれの魚の意気ごみであり、この世に対する態度であった。池の全体像をとらえ、悠々と自信に満ちて泳ぐ鯉、泳ぐよりも底に坐って怠けていることの多い金魚、ツー、ツーと狭い池の中を、むかし育った川と勘ちがいして泳ぎぬくヤマベやハヤ、何を考えているのかわからないような泳ぎかたをつづけるフナなど、みていてまったく飽きなかった。
 飽きない理由は、治憲が、池の中の魚を藩邸の家臣に見立てているからである。それは治憲だけのひみつであった。そういう考えで魚を眺めていると実に面白い。
「色部照長や竹俣当綱などは、さしずめハヤだろうな。医者の藁科松伯や小姓の佐藤文四郎はヤマベだ。木村高広はひねくれているから、ゴリかな。しかし金魚も多い。特に国もとの米沢にいるのは金魚ばかりだ。泳がずにみんな池の底に坐っている。そういえば上杉家には鯉がいないようだ。藩全体をみわたして藩政を改革する鯉がいない。いや、私がそうならなければならないのだが、いまの私にはとてもそんな力はない。それに藩士の大部分は火中の栗を拾うのをいやがってみんな逃げ腰だ。私を助けようとする者はほとんどいない。一体、米沢藩をどうしようというのだろう。みんなは藩を潰してもかまわないと考えているのだろうか」
治憲は魚の泳ぎぶりをみながら、さっきからしきりにおなじ考えを頭の中でくりかえしてた。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、9頁~10頁)

池の中には沢山の魚がいた。
〇金魚~泳ぐよりも底に坐って怠けていることの多い
〇鯉 ~悠々と自信に満ちて泳ぐ
〇ハヤ ~ツー、ツーと狭い池の中を、むかし育った川と勘ちがいして泳ぎぬく
〇ヤマベ~ツー、ツーと狭い池の中を、むかし育った川と勘ちがいして泳ぎぬく
〇フナ ~何を考えているのかわからないような泳ぎかたをつづける

〇色部照長や竹俣当綱など~ハヤ
〇医者の藁科松伯や小姓の佐藤文四郎~ヤマベ
〇木村高広~ひねくれているから、ゴリ
※特に国もとの米沢にいるのは金魚ばかりだ。泳がずにみんな池の底に坐っている。そういえば上杉家には鯉がいないようだ。藩全体をみわたして藩政を改革する鯉がいない

〇「冷メシ派登用」より
 治憲は、佐藤との会話で、魚の比喩を使った。
「魚の泳ぎかたが面白い。生き生きと泳ぐ魚、怠けて底に坐(すわ)りこむ魚。飽きないぞ、とりどりで」
 治憲のこの言葉に、佐藤は、「さしずめ私は何でしょう、金魚ですか」ときいた。
 すると、佐藤はハヤかヤマベで、清流の魚だ(沼や池の魚ではない)と、治憲は答えた。
 そして、治憲は、いっしょに米沢へ行って、池で寝ている金魚を突っつく棒をもって、起こしてほしいといった。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、29頁)

〇「人形妻」より
 治憲が、竹俣たち改革派に頼んだのは、早くいえば方法であった。
 その方法は、何のためにおこなうのか。また、どうやって実施するのか。
 いや、池の金魚のようになっている藩士群は、どうやってやる気を起こさせるのか。
 治憲が何よりも苦しんだのは、藩士たちに、このやる気を起こさせることであった。

・上杉領は15万石である。しかし多すぎる家臣の俸禄の合計は13万3千石になる。
(いまでいえば人件費が歳入の88パーセントを占める予算を持つ自治体や企業があるだろうか。)
⇒その負担はすべて農庶民にのしかかる。あきれかえった農庶民は、法を犯してもよその国へ逃げだしてしまう。
・それなのに、藩士のほうは、自分たちだけの古い池で居心地のいい生活を送っていた。
 特に重臣たちは、年を経た金魚のように泳ぎかたを変えなかった。
(泳ぎかたを変えることは、生きかたを変えることだ。そんなことがいまさらできるか)というのが、米沢の池に棲む古い金魚たちの思想であった。
・その古い池を、棒を持ってかきまわしに行こう、と決意したものの、治憲は決して短兵急にいきなりその池をかきまわしてはならない、と自分にいいきかせた。
 それは、予想以上に自分をとりまく条件が悪いからである。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、56頁~57頁)

〇「普門院」より
関根街道から南へちょっと入ると、田畑の中に小さな普門院があった。
石段をたどり、草で葺いた門をくぐった。
治憲は、庭に出て、池の中の魚を見ていた。
「魚というのは面白いものだな」
 入ってきた佐藤、須田、芋川の三人の、誰へともなく治憲はいった。
「この池には、鯉、フナ、金魚、ハヤ、ヤマベ、いろいろな魚がいる。よく見ると泳ぎかたにもいろいろ特徴があるようだ。金魚や鯉はもともと池に飼われているので、泳ぎはゆるやかだ。フナは、ちょっとどっちかとまどっている。ヤマベやハヤは、川の魚だから泳ぎかたも忙しい。それぞれ生まれ、育ったところがちがうのだから、いろいろな泳ぎかたがあっていい。しかし、池の中に長く入れられていると、川魚が次第に緩慢な泳ぎかたになる。たとえば、このヤマベも、すでに長くこの池に入れられているとみえて、金魚のようにゆるやかな泳ぎかたをしている。これはいいことか悪いことか、むずかしいな」
むずかしいな、と、治憲は自分からは結論をひかえているような話しぶりをしたが、治憲が何を話しているのかは、三人にはすぐわかった。三人とも、
(お屋形は、米沢城内の藩士のことを話している)
と直感した。
 それは、藩庁を池に見立て、藩士を魚に見立てていた。その魚も古い魚と新しい魚に見立てている。新しい魚が、古い魚の影響によって、緩慢な泳ぎかたになるのを批判し、また、新しい魚をそうさせる古い魚をも批判している。どちらにしても、
(おれたちのことをいってやがる)
と、須田と芋川は思った。だから、
(相変わらず、嫌味なお屋形だ。若いくせに、説教ばかりしやがる)
と、たちまち不快になった。そして、
(会う早々こんな話をするようでは、どうせろくな用ではあるまい)
と腹が立ってきた。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、466頁~468頁)

治憲は、鯉、フナ、金魚、ハヤ、ヤマベの泳ぎかたに注目している。
〇金魚や鯉~もともと池に飼われているので、泳ぎはゆるやか
〇フナ  ~ちょっとどっちかとまどっている
〇ヤマベやハヤ~川の魚だから泳ぎかたも忙しい。

※佐藤、須田、芋川の三人は、治憲が、藩庁を池に見立て、藩士を魚に見立てていることを直感した。

【補足:米沢鯉】


米沢市のホームページに、「米沢鯉」について、次のようなことが記してある。

米沢鯉の歴史は古く、今から約200年前の1802年に遡るという。
当時、「むくみ」や「乳不足」で悩む人達が蛋白質を補うため、わざわざほかの藩から鯉を求め医療に利用したことを知った、第9代上杉藩主・上杉治憲公(鷹山)は、養鯉の先進地である現在の福島県相馬市に伝授をこうため用人を走らせ、持ち帰った稚鯉を米沢城のお濠で育てたことが始まりとされている。
 
最上川上流の雪国ならではの清く豊富な水で3年間飼育された米沢鯉は、肉が良く締まり、泥臭さのまったくない良質の鯉で人気がある。

現在でも米沢地方でのお盆やお正月、結婚式等のお祝い事には、鯉料理は欠くことのできない料理の一つ。鯉のあらい、鯉こくなど数多くの料理法があるが、代表的なものは「うま煮」である。酒、しょう油、砂糖でトロトロとじっくり煮つめた風味は格別のものがある。

ところで、童門冬二氏の小説にも、観賞用の錦鯉(にしきごい)の話が出てくる。
山口新介は、学校に通っていたが、あまり学問が好きではないから、講義の間は、池のほとりで水中の魚を見ていた。

続きには次のように叙述されている。
ここにも他国に売り出す鑑賞用の錦鯉が飼われていた。上杉治憲が、
「米沢領内の池、沼、あるいは水田も利用して鯉を飼え」
とすすめたあの鯉である。いまではいたるところで育っていた。そして面白いことに、この鯉がどんどん売れた。
 売れる先は、江戸である。
 賄賂好きの老中首座田沼意次(おきつぐ)が、色彩鯉が好きなのだ。そこで、大名や大商人が、田沼に贈るために、米沢の鯉を買いあさった。
 田沼の池は、たちまち鯉であふれた。池の中の鯉がいるのではなく、鯉の中に池がある、という状況になった。そうなると、大名、大商人は、自分たちの庭の池で鯉を飼い始めた。
田沼の真似をして、幸運や出世にあやかろう、というのである。
 そして、誰がいいだしたのか、
「鯉は米沢のがいちばんいい」
という評判が立った。米沢の鯉はとぶように売れた。が、買手が問題である。また、鯉の落ち着き先が問題である。
 治憲は、このへんを気にした。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、478頁~479頁)

このように、賄賂好きの老中首座・田沼意次(おきつぐ)が色彩鯉好きの話が出てくる。

長谷部史親(文芸評論家)氏は、「解説――すぐれた歴史小説の感動」において、田沼意次について、言及している。

江戸幕府は財政難に陥って、享保元年(1716年)に八代将軍の座についた吉宗が享保の改革を行い、中興の祖として幕政を整備する。だが倹約によって引き締められた綱紀が、時が経つにつれ緩む。享保の改革から約半世紀後の明和6年(1769年)、幕政の実力者として頭角をあらわした田沼意次が老中格となる。

田沼意次は、当時としては国際感覚にすぐれた傑物だったが、そのかたわら賄賂政治の元凶と見なされるのが一般的である。彼は天明6年(1786年)に失脚するまで、幕府内で権勢をほしいままにした。この20年あまりに及ぶ田沼時代は、若き日の鷹山が第9代米沢藩主として力を注ぎ始める時期と重なっていると、長谷部史親氏は解説している。

そして幕政では田沼意次の失脚と同時に、松平定信が寛政の改革に取りかかったものの、さほど有効な結果を生み出さなかった。このあと水野忠邦による天保の改革も、ほとんど失敗に帰したのは周知の通りである。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、662頁~663頁)

これらの改革についての童門冬二氏の解釈は、後述する。

治憲の藩政改革の骨子について


治憲の藩政改革の骨子について、童門氏は次のように整理している。
〇藩政窮迫の実態を正確につかむこと。
〇その実態を全藩士にしらせること。
〇実態克服のための目標をしっかりかかげること。
〇しかし、目標実現のためには、藩主としての治憲の能力と現在の藩の力には限界があり、藩士全員の協力が必要なこと。

いまの経営行動パターンに合わせれば、次のようになるという。
〇企業目標の設定
〇それに必要な情報の公開と分析
〇解決策の考究とそれを妨げる障害の認識
〇障害克服のためのモラールアップ、全社員参加

改革の骨子を決めておいて、その具体化のために、当面ふたつのことが大事だった。
〇そのひとつは、米沢へ行く前に、まず、江戸の藩邸で改革を実行すること
⇒つまり、隗(かい、いいだした人)より実行せよということ
〇もうひとつは、人が要る、ということ。
(これは一応、佐藤文四郎の進言で、菁莪社(せいがしゃ)の協力を得た)
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、58頁)

「断行」(59頁~104頁)の章では、冷メシ組がまとめた改革案の大要が示されている。
一、伊勢神宮の参拝は、いちいち米沢本国や江戸から使者を派遣しない。ちかくにいる京都留守居役の仕事とする。
一、年間の祝いの行事は全部延期する。
一、藩がおこなってきた宗教上の行事はすべて延期か中止する。
一、衣類は木綿のものにする。
一、食事は一汁一菜とする。ただし、歳暮だけは一汁二菜を認める。
一、贈答の習慣は一切禁止する。
一、建物などの修理は、公務でよく使う場所以外認めない。
一、幸姫(よしひめ)殿もふだんは木綿の衣類を着ること。
一、奥の女中は九人に減らすこと。

改革案の骨子は、上杉家がいままで守ってきた形式主義を粉々に砕くことであった。
治憲は、この案に誓詞をそえて、さっそく米沢の白子神社に納めようと告げた。
 
※明和4年(1767年)9月13日づけで、上杉治憲が奉納したこのときの誓詞は、それから125年後の明治24年8月に、はじめてその存在が知られた。
 それまで白子神社の箱の中に深く納められていた。
 治憲の誓詞には、
「国家が衰微して、国民が衰えてしまったので、このたび大節倹をおこないたい。このことは色部照長(江戸家老)も同意してくれた……」と書いてある。
ちなみに、色部はやがてこの誓詞にそむくような行動に出る。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、59頁~61頁)

藩政改革の具体策


一、伊勢代参は、距離的に近いところにいる京都留守居役におこなわせること。
一、神仏社寺に対する行事は、すべて当分中止すること。
一、年間の祝事もすべて延期すること。
一、行列はもっと減員すること。
一、邸内では木綿の衣類にすること。
一、食事は一汁一菜にすること。ただし歳暮だけは一汁二菜にすることを認める。
一、贈答は一切禁止すること。
一、住居、台所、馬小屋など、あるいはふだん使わないところの補修は、ほんのかんたんなものにすること。
一、幸姫も木綿を着ること。
一、奥女中は九人に減らすこと。

冷メシ組のつくった案を治憲は一項目ずつ読みあげた。
策の底を流れているのは、“虚礼廃止”である。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、65頁)

この藩政改革案に対する重臣たちの結論は次のようなものだった。
【重臣たちの結論(千坂高敦)】
〇まず、このような大事なご改革案を、米沢本国のわれわれにはひとことも相談なく、江戸で勝手に作成したこと。
〇つぎに、江戸でのご改革の趣旨は、お屋形が自らお告げになったのに、米沢本国においては重職の私が告げたのでは、いかにも本国の家臣を軽く考えているようにとられること。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、143頁)

それに対して、治憲は、自らの限界を認めつつ、城の大広間で説明した。
【藩主としての治憲の限界】
(1) 私は大藩の生まれではなく、九州の小藩の生まれである
(2) 若年である
(3) 経験が非常に不足している
(4) 米沢藩を継いだものの、米沢本国には初めて入って来て、米沢の実態を全然知らない
(5) 今日、広間に集まってもらったおまえたちとは初対面であり、江戸藩邸でいっしょにくらした者のほかは、ほとんど誰をも知らない
(6) 同時におまえたちの方も私をまったく知らない

この広間でみんなに頼むことは、指示・命令ではなく、協力の要請である。

そして治憲は「三助」を提案する。
「三助とは、
一、自ら助ける。すなわち自助。
二、互いに近隣社会が助け合う。互助。
三、藩政府が手を伸ばす。扶助。
の三位一体のことである」とする。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、151頁、153頁)

改革派(冷メシ組、“奸物”)VS重臣たち(“米沢の老金魚たち”)


改革派(冷メシ組、“奸物”)VS重臣たち(“米沢の老金魚たち”)について、ここで整理しておこう。(主要登場人物を参照のこと)

<改革派(冷メシ組、“奸物”)>
佐藤文四郎 さとうぶんしろう 治憲の近習。治憲を敬愛し忠義を尽くす。
竹俣当綱 たけのまたまさつな 農政の専門家。改革派の中心人物で、奉行。
藁科松伯 わらしなしょうはく 医者。細井平洲の弟子。改革の途中、三十三歳で死去
木村高広 きむらたかひろ 民政の大家。御側役として改革派を支え詩文にも優れた。
莅戸善政 のぞきよしまさ 改革派中心人物で町奉行。

<その他の改革派>
北沢五郎兵衛 きたざわごろべえ 国侍。改革派として小野川の荒地開墾に尽力する。
山口新介 やまぐちしんすけ 国元の改革派。佐藤文四郎の親友。

<重臣たち(“米沢の老金魚たち”)>
須田満主 すだみつたけ 江戸家老。藩政改革に反対し七家騒動で、切腹苗字断絶。
芋川延親 いもかわのぶちか 侍頭。七家騒動に際し、切腹苗字断絶。
色部照長 いろべてるなが 江戸家老。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
千坂高敦 ちさかたかあつ 侍頭。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
長尾景明 ながおかげあき 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
清野祐秀 きよのひろひで 筆頭奉行。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
平林正在 ひらばやしまさあり 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。

<重臣たちの息子>
須田平九郎 すだへいくろう 須田満主の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
芋川磯右衛門 いもかわいそえもん 芋川延親の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
神保甲作 じんぼこうさく 須田・芋川の友人。重役、神保綱忠の息子。

「重役の反乱」


「重役の反乱」(284頁~318頁)では、上記の重臣たちの反乱について、述べている。

【治憲への論難】
〇そもそも、ご政治の本体は家臣への賞罰にあります。しかるに、最近のお屋形さまの賞罰はすべて筋ちがいです。
〇先年、ご籍田(せきでん)の礼までとらせられて、領内の諸所に新しい田畑をひらかれましたが、一体、どれほどの実りがあったでしょうか。
〇ご自身、一汁一菜の食事や、木綿の衣類でお通しになっておられますが、そんなことは小事中の小事で、ご政治とは何のかかわりもありません。
〇小野川の開拓地で開拓の士に酒の酌をなさったことや、先日、福田橋で橋の修理に当たっていた士庶に、礼をなされ、しかも下馬してお渡りになったことなど、下世話でいう“こどもだまし”の類であります。

※武士が土を耕し、橋の修理の工夫になるということは、米沢藩だけでなく、当時の266もある日本中の藩にとっても前代未聞のことだという。

【重役たちの要求】
一、御生活を越後風に改めおとなしくして下さい
一、もの堅く厳正なる者をお用いになって下さい
一、今なさっていることを一切中止して、誠実な藩政に戻して下さい
一、口先ばかりの理屈をお捨てになって、重厚な政策をおとり下さい
一、賞罰の誤っていることを、深く反省して下さい
一、目下、米沢の国風は、しまりがなくて、いたずらにひそひそとしております。活気もなく、騒々しくて仕方がありません。人心も、向上心がなく、ふわふわ浮気が多くなっております。忠信がなくなってすべて追従(ついしょう)に終っております。これらはすべて竹俣はじめ侫人奸人たちの余毒です
一、竹俣、莅戸をはじめ侫奸の者をお退け下さい。われわれほど、国政に精通して、国を中興できる者はおりません。しかし、われわれは口べたで、文学も心得ないために、今退けられておりますけれども、現在藩政を取り仕切っているような侫奸のきもちはまったくございません。われわれをお用いになれば御政道も正しくたちなおると思います
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、309頁~312頁)

第八代米沢藩主、つまり養父の上杉重定は、養子の治憲に味方した。
「ここまで、あなたが苦労されていようとは思わなかったのです。まったくもって不届至極、あれが高禄を食(は)む重役かと思うと、なさけなくなります。」
他家から入り、底をついた米沢藩の財政再建を、一身の肩に負っているこの若い養子に、重定はていねいなことばを使う。それは、障害児として育った娘の幸(よし)にも、治憲が人の及ばない愛情を注ぎつづけてくれていることへの感謝のきもちも、含まれていた。
そして、重定は、重役どもの処断を治憲にゆだねた。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、317頁~318頁)

「処分」


「処分」(319頁~346頁)では、治憲が重臣たちを処分したことを記す。

安永2年(1773)7月1日に、治憲は判決を下した。
「おまえたちがさし出した建言書について、全藩士にたしかめた。しかし、おまえたちがいうような事実はまったくない。民もまた藩の方針によく帰服している由である。即ち、おまえたちは重職の身を忘れ、それぞれの非念によって徒党を組み、上をあざむき、下をもあざむいた。よって急度(きっと)仕置を申しつける」

仕置は、
切腹 須田満主、芋川延親
隠居・閉門・半知召上げ 千坂高敦、色部照長
隠居・閉門・知行のうち三百石召上げ 長尾景明、清野祐秀、平林正在

※きびしい判決であった。
 切腹がふたりも出たことには、さすがに全藩士も動揺した。
 そして、治憲が一旦筋を通すとなると、果断に厳刑を下す一面があることを、身にしみて知った。
 たかをくくっていた七人にとって、茫然とするきびしい断罪であった。

 治憲からすれば、七人の書いたことが不当であっても、その背後に多くの支持者がいて、書かれたことが多くの藩士の意見であるなら、治憲は潔く藩主の座を去り、高鍋に帰ろうと思っていたのである。藩士世論の支持のない改革は、進みっこない。本当にそれが藩士世論であるならば、言い訳をせずにだまって去ろうと心に決めていたのである。しかしちがった。治憲は怒った。上に立つ者が、下の者のきもちが代弁していると称して、まったくの嘘をついて、自分たちに都合のよいようないい方をしたことが、治憲を怒らせたのである。


※きびしい処分を実施してからちょうど2年目の、安永4年(1775)7月3日に、治憲は須田・芋川の家は、それぞれ遺児の平九郎と磯右衛門に継がせる。そして両家の系図や重宝の刀を返し、新知二百石を与える。
また、閉門中の色部・千坂・長尾・清野・平林らも罪を許し、それぞれ嗣子に家を継がせる。しかし、そこへ行くまでの二年間は、七家は治憲を恨んだ

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、341頁~343頁)

ここで、もう一度、主要登場人物の中で、重臣たちおよびその息子を列挙しておく。

須田満主 すだみつたけ 江戸家老。藩政改革に反対し七家騒動で、切腹苗字断絶。
芋川延親 いもかわのぶちか 侍頭。七家騒動に際し、切腹苗字断絶。
色部照長 いろべてるなが 江戸家老。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
千坂高敦 ちさかたかあつ 侍頭。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
長尾景明 ながおかげあき 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
清野祐秀 きよのひろひで 筆頭奉行。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
平林正在 ひらばやしまさあり 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
須田平九郎 すだへいくろう 須田満主の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
芋川磯右衛門 いもかわいそえもん 芋川延親の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。

北沢五郎兵衛の説いた「孟子」の教え~「新しい火を」より


主要登場人物の中に、改革派として小野川の荒地開墾に尽力した人物として、北沢五郎兵衛という国侍が挙げられている。この人物について述べておこう。

小野川の温泉宿の女将である千代(ちよ)は、小野川の学校に通っている。
小野川開墾地の采配をとっている北沢五郎兵衛が先生である。
(北沢は、板谷宿の失策で切腹しなければいけなかった身を、治憲に救われた人物であった)
その北沢が塾をはじめたのである。
ただ鍬をふるっていても駄目で、何のために鍬をふるうのか、やはり学問をしなければいけない、という。
開墾地に住む藩の侍の子に限らず、誰が来てもよいとし、千代も通うことにしたようだ。

〇北沢が使う教材は、「孟子」だけであった。
孟子は、人間は誰でもその性は善である、他人に対するやさしさを持っている、しかし、何らかの理由で、そのやさしさが表に出ないことがあると説いている。
そのやさしさを素直に出しあうために、もういちど、孟子を勉強しあおうと、北沢は考えた。

北沢は、孟子が書いた“井戸に落ちるこども”の話をよくした。
人が井戸のそばを通りかかったとき、いましもこどもが井戸の中に落ちようとしている。そのとき、それを見た人はどうするか。衝動的にこどもを助けに走るだろう。
そういう人間の自然な心を、孟子は“忍びざるの心”といった。見ているには忍びないという意味である。

〇人間が他人の役に立つためには、まず、この忍びざるの心を持つことが必要だ。井戸に落ちかかるこどもがいたら、衝動的に走り出すやさしさを持つことから始めなければならない。
この開墾地で、そのやさしさをまなぼうと、北沢は説いた。
つまり、孟子の“忍びざるの心”を例に、他人のやさしさを教えた。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、377頁~379頁、395頁)

「竹俣処断」~泣いて馬謖を斬るの故事


汚れ役をになった竹俣を治憲は処断した。
治憲は、清い政治を貫いた。
米沢を再びにごった沼にしてはならぬ。米沢藩の改革は領民のために清い方法で行う。
領民の眼にいささかの汚れを見せてはならない。

そして治憲は、「私は馬謖(ばしょく)を斬(き)る。泣いて斬る」といった。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、595頁)

【補足:「泣いて馬謖を斬る」】


・これは、「泣いて馬謖を斬る」という故事である。
規律を守るために、私情を離れ涙をのんで愛する者を処分するという意味である。
・語源としては、『蜀志』諸葛亮伝などに見るように、次のような故事である。
 三国時代、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)は、腹心の部下であった馬謖(190―228)が命に背いて大敗を喫したことから、軍律違反のかどでやむなく斬罪に処した。
(『明鏡国語辞典』より)

・英訳すると、次のようになるようだ。(『プログレッシブ和英中辞典』より)
 mete out justice to an offender, regarding discipline more important than personal feelings
【単語】
 mete (他動)<賞・罰など>を[…に]割り当てる、<罰・報酬>を与える 
    (名)計測、計量
 offender (名)(法律上の)犯罪者、違反者



竹俣の罰は、
「竹俣の一切の役を免ずる。本人は終身禁固にせよ」
というものだった。

本来なら、重大な過失なので切腹だったろう。
しかし、藩政改革の功績を勘案して、治憲は寛大な処分にした。
莅戸善政が、治憲の命を江戸から米沢へ急行して伝えた。
(莅戸は、竹俣にこの判決をいい渡すと、盟友にかかる罰を申し渡して、おめおめと役はつとめられぬ、といって、辞職した。つまり竹俣の失脚は、そのまま硬骨漢の莅戸の政治生命も絶った。)

罰せられた日、竹俣は54歳であった。
竹俣は芋川邸に幽閉されること3年で、後に自分の家に帰ることを許されたが、謹慎は解かれなかった。
10年の禁固刑に処せられて、寛政5年(1793年)に死んだ。65歳であった。

禁固中、竹俣は歌を詠んだ。
  積もる園 いつかは我が身に白雪の
   今日の寒さを訪(と)う人もなし

竹俣は幽閉中もいろいろな改革論を書き、「長夜寝語」「樹養編」「文武論」「政談夜光集」などの政務要書数十巻を書いた。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、595頁~599頁)

<著者・童門冬二氏のコメント>
・「トップの信頼を一身に集めて、自分ではそのつもりでなくても、権力が集中していると見られれば、まわりの人間が放っておかず、寄って集(たか)って堕落させてしまう典型的な例であった」(600頁)
・根まわしとか、仁義を切るというような古いしきたりに、竹俣はひきずられた。竹俣にもそういう古さが残っていたと、童門氏はみている。つまり、目前の現実に即応して、改革理念の偉大さを忘れた人物、それが竹俣だった。

そして、トップ側面の補佐役の責務として、現代に即して、次の点を童門氏は列挙している。
・社会状況の変化で、所属企業に何がもとめられているのかを知り、
・そのニーズに応えるには、いまの企業目的や組織や社員の意識が、それでいいのかどうかを反省し、
・それをどう改革して、上を補佐し、下を指導するか、これらを自分で的確に把握することが大切であるという。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、600頁~601頁)

「伝国の辞」


天明5年(1785年)2月3日、上杉治憲は幕府に隠居を願い出た。
治憲は、自身が上杉家の養子に入ったときから、漠然と考えていた。
(上杉の家は、なるべく早く上杉の血筋の人間に渡さなければならない、と。)

九州の日向高鍋(ひゅうがたかなべ)の、3万石の小大名の家から、米沢15万石の大名に入ったのだから、ふつうなら、あくまでも自分の血筋の者に相続させようとするだろう。
こう思うのが、人情だ。
しかし、治憲はそうは考えなかった。
そして、治憲が、上杉家の血筋の人間に上杉家を渡したい、という思いが具体的にうながされたのは、治憲が養子に入った後に、養父重定に実子が生まれたことであった。
治憲は、この子が13歳になったとき、自分の世子とした。

振り返ってみると、治憲が家督を継いだとき、17歳だった。
米沢へ本国入りしたのは、19歳のときである。
米沢藩士や藩民からみれば、足りないものだらけの藩主であった。
〇若い
〇九州のちっぽけな大名の家から養子にきた
〇米沢のことは何も知らない
〇米沢の家臣は誰も治憲を知らないし、治憲もまた家臣の誰も知らない

しかし、この若い養子藩主は、民は国の宝だと思って、上杉家の再建を実行した。
藩士ひとりひとりが改革の火種になり、他人の胸にその火を移してほしいと願いつつ、改革を進めていった。
治憲が進めた地場産業で、領民たちはうるおっていった。そして領民たちは、若い養子藩主が愛情と思いやりのある人間であることを知った。

しかし、竹俣当綱(たけのまたまさつな)の事件が持ち上がったとき、治憲は大きな不安におちいった。
それは、改革派が、新しい権力を持った派閥と見られているということであった。
(治憲は古い派閥をこわし、藩を風通しのいい職場にするために改革を始めたが、それをこわす勢力を、藩士や藩民の中には新しい派閥だと思う者もいた)

治憲は竹俣を罷免した。
治憲が、隠居しようときもちを強めたのは、改革派が治憲を頼りにしすぎる、と感じたからであろうと、童門氏は推測している。
そのことが、もっとも端的に現われたのが、世子治広(はるひろ)に対する教育係の木村高広の態度であった。
治広が13歳のときに、正式に世子にすることを幕府にとどけ出た治憲は、教育係に硬骨漢の木村高広をつけた。が、結果として、この人選は失敗だった。
木村の頭の中には治憲の映像しかなく、世子教育の基準(ものさし)は、すべて治憲の言行であった。

江戸藩邸で世子の教育を、よろしく頼むと、治憲に命じれられたとき、木村が決意したのは、「治広さまを、治憲公のように仕立てあげよう」ということであった。
木村から見れば、13歳の治広は、まるで駄目な少年だった。木村は、何かと治憲をひきあいに出して、“ぐうたら二代目”を責めた。治広は自信をなくし、木村の言葉に食傷し、屈辱感を味わった。

木村の教育が19歳になるまでつづいたから、治広は、完全にかたくなになってしまった。治広は、木村に対して強硬になり、反抗的態度を露骨にした。
木村は、治広の教育に失敗したことを知る。
木村は辞職し、家にこもった。硬骨漢で剛直な木村は、治広にきらわれたことで、お屋形さまに申し訳ないと思い、自刃したそうだ。木村は52歳であった。

治憲には、衝撃であった。「火が消えた」と思ったことであろう。
治憲の周囲には、もう殆ど人がいなくなった。
●藁科松伯がまず最初に死んだ。
●竹俣当綱が堕落して職を去った。
●その責任を感じて莅戸善政も辞職した。
●そしていままた木村高広が自刃した。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、606頁~616頁)

改革政策の復活


鷹山は、莅戸善政を登用して、彼に神保甲作、あるいは黒井忠寄らを配して、表面は治広体制を強化しながら、内実は鷹山が政治指導をした。

かつての改革政策を復活し、養蚕を奨励し、その他の国産品を振興し、医学館も建て、堰をつくり、村々に伍什組合をコミュニティとして組織させ、つぎつぎと富民を実現していった。藩政は再び安定した。

このころ、幕府は田沼意次の賄賂政治が終り、そのあと始末のために、八代将軍徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中となり、改革をおこなっていた。しかし、余りにも商業を無視し、また、ただ幕府の財政再建だけを目的にする定信の改革は、あきらかに失敗の道をたどっていた。定信はやがて失脚した。国民は、
「白河の清い政治よりも、元の濁った田沼が恋しい」
と落首した。

こういう中で、上杉鷹山の改革は着々と成功していた。これは二百六十余もある日本の藩の中でも珍しいことだった。

<童門冬二氏のコメント>
童門冬二氏は、上杉鷹山を次のように見ていた。
・どんな絶望的状況にあっても複眼の思考方法を持ち、歴史の流れをよく見つめるならば、閉塞状況の中でも、その壁を突破する道はあるのだということを、鷹山は示したという。
・鷹山は、決して人情一辺倒のトップではなかったとみる。
 かれは、はるかに柔軟な思考と、果断な行動力を持っていた。そしてそれをおこなうのに、徳というシュガーコートをまぶした。
(しかしその徳は、かれの生来のものであり、メッキではなかった。まやかしものではなかった)
・率先垂範、先憂後楽のかれの日常行動は、多くの人々の心をうった。かれが、贋物(にせもの)でなく、本物の誠実な人間であったからである。
・世の中が湿っぽく、経済が思うように発展しないと、人々は、どうしても他人を責めたり、状況のせいにしたりすることが多い。しかし、鷹山はそれを突破した。鷹山の藩政改革が成功したのは、すべて、「愛」であったという。他人へのいたわり・思いやりであった。藩政改革を、藩民のものと設定し、それを推進する藩士に、限りない愛情を注いだとみる。
鷹山が甦らせたのは、米沢の死んだ山と河と土だけではなかった。かれは、何よりも人間の心に愛という心を甦らせた。

・そして、徳川幕府による三大改革についても、コメントしている。
人間の心に愛という心を甦らせることなくしては、どんなにりっぱな藩政改革も決して成功はしない。鷹山の治績は、そのことを如実に物語っている。
そして、それは徳川幕府による三大改革が、特に白河楽翁といわれた名君の松平定信の寛政の改革と、水野忠邦による天保の改革が、余りにも明確に失敗した例によってもはかり知れるであろうとする。
名宰相といわれたこのふたりは、幕臣に対しても、民に対しても愛情を欠いていたといい、それが改革を失敗させた主因であると童門氏はみる。鷹山は、その轍を踏まなかったという。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、650頁~652頁)

「鷹の人」


童門氏の小説は、「鷹の人」章で終わっている。どのように描いているのか?
上杉治憲、佐藤文四郎、山口新介の三人は、板谷峠の宿駅に行く。それは、灰の中から火種を見つけた思い出の場所であった。季節は春で、里では一斉に花が咲いていた。死の国、灰の国だった米沢は緑と紅の色に染まっていた。

一羽の鳥がとんでいた。天を悠々と舞っていた。天がまるで自分ひとりのもののようにだ。
「鷹だ、珍しい」
佐藤がいった。うなずいた山口が、
「まるでお屋形さまだ……」
とつぶやいた。そして、天に舞う鷹を仰ぎ見たまま、こんなことをいった。
「お屋形さま、藩政に何かあったときは、あの鷹のようにさっと降りてきてください」
鷹山は何もいわなかった。何もいわずに微笑んでいた。しかしその眼の底には、米沢への深い深い愛情が湛えられていた。
鷹山は、はるか下方の米沢に目を移した。そしていった。
「美しい国だ」
……

文政5年(1822年)2月12日、鷹山は病を得て床に就いた。そのころは、治広から斉定に家督が継がれていたが、ふたりはもちろん、家臣団のすべては深く憂慮した。しかし、3月12日の早暁、丑の刻に、鷹山はついに冥界に旅立った。72歳であった。廟号を、
「元徳院殿聖翁文心大居士」
という。
鷹山が振興した米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、そして笹野の一刀彫りにいたるまで、現在もすべて健在である。鷹山の墓は旧米沢城内にある。
                           (完)
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、653頁~659頁)

余談~上杉鷹山とジョン・F・ケネディ大統領


アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が日本人記者団と会見した際に、
「あなたがもっとも尊敬する日本人は誰ですか」
と質問された。
そのとき、ケネディは即座に、
「それはウエスギヨウザンです」
と答えたという。
ところが残念なことに、日本人記者団のほうが上杉鷹山という人物を知らず、
「ウエスギヨウザンて誰だ」
と互いにききあったというエピソードがある。

ケネディは、日本の政治家として、鷹山の姿に、理想とする政治家の姿を見たのかもしれない。
(日本の政治家として、何よりも国民の幸福を考え、民主的に政治をおこない、「政治家は潔癖でなければならない」といって、その日常生活を、文字どおり一汁一菜、木綿の着物で、鷹山は通した)

ただ、ケネディが鷹山に関心を持ったのは、おそらく英訳された治憲の「伝国の辞」を読んだためらしい。
(内村鑑三が、英文で、鷹山を紹介したからである)

【付記】
天明五年二月六日 治憲の隠居 治広の相続を許可
「人君の心得」 三条を示した
世間は「伝国の辞」と呼んだ。

童門氏によれば、鷹山の考えは藩機関説だという。
藩は人民の合意を、実行するための機関だとする。
およそ200年ほども前に、こういう民主主義的な考え方を表明したことは、徳川幕藩体制下では稀有(けう)のことであった。また、鷹山の思想がどれほど思い切ったものであったかを示している。
まだ、近代民主主義が発達しているわけでもなく、鷹山がまたそんなことを知るわけもない。
あくまでも鷹山の独創であったと、童門氏はみている。
そして、日本人よりもむしろアメリカ人のケネディのほうが、敏感に、しかも実感をもって鷹山の考えを汲み取ったとする。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、619頁~621頁)



≪童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』を読んで≫

2022-05-12 19:05:22 | 私のブック・レポート
≪童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』を読んで≫
(2022年5月12日投稿)

【はじめに】


 今年のゴールデンウィークは、コロナ禍ということもあって、自宅で小説を読んで静かに過ごした。
 今回と次回のブログでは、童門冬二氏の次の2つの小説を紹介してみたい。
〇童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]
〇童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

 渋沢栄一(1840-1931)といえば、昨年2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、「資本主義の父」として知られる、日本を代表する経済人である。そして、2024年度(令和6年度)発行予定の新1万円札の顔となる人物である。
 小説家童門冬二氏は、どのように渋沢栄一を描いているのか?
 この点に焦点をあわせて、この小説を紹介してみたい。
 



【童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)はこちらから】
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)



童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]

【目次】
・攘夷派からの大旋回
  平岡円四郎との出会い
  攘夷派から一転して開国派へ
  一橋慶喜への大胆な進言
・人間渋沢の誕生
  藍の買いつけで見せた非凡さ
  日本の地下水脈を発見
・動乱の京都で
  故郷、血洗島への凱旋(がいせん)
  民衆を苦しめる武士への怒り
  親兵募集で実力を発揮
・西郷との暗闘
  大実業家の片鱗(へんりん)
  日本の進むべき道はいずれか
  慶喜の真の黒幕
・幕府倒壊
  胸を打った近藤勇の言葉
  万国博覧会使節としてパリへ
  金融制度の重要さを実感
  冷静な対応
・維新後の雌伏(しふく)
  慶喜のいる静岡へ
  “実業の道”への決意
  商法会所の頭取として新政府に貢献
  「士魂商才」の精神
・貫き通した「論語とソロバンの一致」
  大隈重信のたくみな誘い
  大蔵省で大改革を敢行
  実業家の資質とはなにか
  渋沢栄一、その精神の原点
  今よみがえる渋沢の心
あとがき
解説 末國善己




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・文芸評論家の末國善己氏の解説
・登場人物
・童門氏の渋沢栄一像~小説の「地下水脈」というキーワード
・栄一の考えた「共力合本法」
・渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」
・貫き通した「論語とソロバンの一致」
・渋沢栄一の「万屋主義」




文芸評論家の末國善己氏の解説


童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)は、渋沢栄一についてどのように描いているのか。
文芸評論家の末國善己氏は解説(258頁~265頁)において、次のように捉えている。
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』は、栄一の前半生に着目することで、二つの謎を解き明かし、現代人は渋沢から何を学ぶべきなのかを描いている。
その二つの謎とは、
①なぜ栄一は誰からも一目置かれる官僚ではなく、実業家の道を歩み民間活力の育成に尽力したのか?
②なぜ栄一だけが、資本主義のシステムを日本に輸入し、根付かせることができたのか?
 そして帝国主義の時代にあって、なぜ栄一は、金を稼ぐためなら手段を選ぶ必要はないという強欲を批判し、商業活動には高い倫理観が必要という思想(いわゆる「論語とソロバン」)を構築することができたのか?
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、259頁~260頁)

ところで、2024年を目処に発行される新1万円札に、“日本の資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一の肖像を使うことが発表された(2019年4月)。
末國善己氏は、その渋沢栄一について次のように捉えている。
〇渋沢は、最後の将軍・徳川慶喜に仕えた幕臣
〇1867年のパリ万博に将軍名代として出席した慶喜の異母弟・昭武(あきたけ)の随員としてフランスに渡る
⇒そこで最先端の産業と経済システムを目の当たりにする
〇大政奉還により帰国し、静岡で謹慎している慶喜を支え、フランスで学んだ経済理論を活かして、1869年1月に、日本初の合本(株式)組織「商法会所」を設立した
〇同年、1869年10月には、大隈重信の説得で、大蔵省(現在の財務省と金融庁)に入る
⇒全国測量、度量衡の改正、会計に複式簿記を用いる簿記法の整備、新通貨を円とする貨幣法と江戸時代に各藩が発行していた藩札と円を引き換える藩札引換、国立銀行条例の実施などに尽力
(生まれたばかりの近代国家・日本の財政制度の構築)
〇しかし、予算編成をめぐって、大隈重信、大久保利通らと対立し、1873年に井上馨らと下野
 それ以降は、次のような現在も続く大企業の設立や経営に携わり、その数500以上とされる
 ・大蔵省時代に設立を主導していた第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任
 ・東京瓦斯(ガス)(現在の東京ガス)
 ・東京海上火災保険(現在の東京海上日動火災保険)
 ・王子製紙(現在の王子製紙、日本製紙)
 ・田園都市(現在の東京急行電鉄)
 ・秩父セメント(現在の太平洋セメント)
 ・帝国ホテル
 ・麒麟(キリン)麦酒(現在のキリンホールディングス)
 ・サッポロビール(現在のサッポロホールディングス)
 ・東洋紡績(現在の東洋紡)
 ・大日本製糖など
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、258頁~259頁)

童門冬二氏の「あとがき」


童門冬二氏は「あとがき」において、次のようなことを述べている。
〇幕末の思想家横井小楠
〇渋沢栄一
二人とも「道」の問題を唱えたと理解している。


童門氏が、改めて渋沢栄一を書いたのは、「経済界における道の復活」の小さなきっかけが得られればと思ってのことであるという。
(企業経営家だけでなく、日本人全体が努力すべきだとする)

二宮金次郎の報徳の考えを、童門氏なりにメモしている。
「分度・勤労・推譲・至誠」の考えは、経済界の一つの指針になるだけでなく、それは日本の国そのものの歩み方にも何がしかを示唆してくれるという。
(同時にまた、日本人一人ひとりの生き方の問題にもなってくれる)

童門氏は、この本で、渋沢栄一の前半生に主力を注いでいる。
その理由について、次のように記している。
明治の大実業家渋沢栄一を理解する、よすがになるのは、少年時代から青年時代、そして壮年時代に得た渋沢の、いわば「実業家としての心の核」が何であるかを追求することであると、童門氏は考えたからである。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、256頁~257頁)

登場人物


渋沢栄一


・栄一は、武蔵国(むさしのくに、埼玉県)の豪農の息子
・もともと栄一には、家を継いで、農業や商業に精を出す気はまったくない。
 憂国の志士気取りで、国家の役に立ちたいという気持ちで一杯だった。
(ただ、100両の金をもらうと、気が大きくなり、栄一は豪遊して、金は底をついてしまう)
・江戸の牢に放り込まれた尾高長七郎のこともあり、京都に着いても、不安な思いで、花街で遊んで忘れようとつとめていたある日、一通の手紙が届く。差出人は平岡円四郎である。
 翌日、栄一と喜作は、一橋の陣屋に、平岡を訪ねた。そこで、平岡は一橋家に仕えてみないかと二人の説得工作を行なった。
 円四郎は老練な人間だから、慶喜様と二人をそれとなくお目にかかる方法を取った。
 慶喜様は、毎朝早く、下賀茂(しもがも)から松ヶ崎(まつがさき)辺りまで、ご乗馬をなさるから、それを途中で待ち構えていて、慶喜様の馬を追いかけるという。
 当時かなり太っていた二人は、これを実行に移し、何とかお目通りがかなう。
(「平岡円四郎との出会い」より、16頁~21頁)

・「日本資本主義の父」
・武蔵国血洗島村の農家に生まれた栄一は、幕末には過激な尊王攘夷青年となっていた。
・平岡円四郎との出会いが彼の運命を変える。
 一橋慶喜の家臣となり、その本質を捉えたぶれない判断力と交渉力でめきめきと頭角を現していく。
・パリで学び帰国した後は士魂商才を掲げ、「論語とソロバン」の精神で、五百を超える事業に関わる。
・現代に通じる経済の礎となった男の生涯

【栄一の性格について】
・栄一は、武蔵国の豪農の生まれだから、金に困ったことはない。
 そういう意味で、栄一は本当の貧乏の味を知らない。
 (金がなくなっても、何とかなるさというようなお坊ちゃん的気質がまったくなかったとはいえない)
 が、半面からいえば、それが栄一の強みでもあった。
 したがって、栄一はどんな窮況に陥っても卑しい行為はしなかった。
 借りた金も、一橋家に仕えるとすぐ勤倹節約して返した。
 そういうけじめをつけていた。
 (「動乱の京都で」より、77頁)

・栄一は徳川幕府が倒れたといっても、別に悲しんだり、怒ったりはしない。もともと武士が嫌いだからである。
 武士が思うままに政治の実権を握り、農工商の三民を虐げてきたのは300年にも及んでいる。そのために、栄一もしばしば嫌な思いをした。
 (栄一の場合は、まだ家が豪農だったから多少の防壁にはなったが、貧しい農民たちの虐げられ方に対しても、義憤を感じ、だからこそ、尊王攘夷論を唱え、討幕運動に邁進した。)
・しかし、方向が狂って、たまたま一橋家に仕えるようになった。 
 まわりは全部武士である。そうなると、やはり環境のせいで栄一の武士の精神がまったく影響しなかったとはいえない。むしろ、栄一の方が他の幕臣と比べて、「武士道」あるいは「士魂」を持っていた。

※栄一は「武士道」あるいは「士魂」というような精神を植えつけたのは、いうまでもなく父と、一族の尾高惇忠だと、童門氏はみる。とくに尾高惇忠の影響は強い。
(武士道といい士魂といっても、栄一の受け止め方はあくまでも「人間の道」すなわち「道徳」ということである。「人として、歩まなければならない道と、踏み外してはならない道」の存在である。栄一は、死ぬまでこれを守る。)
(「維新後の雌伏」より、174頁~176頁)

栄一の父、美雅


・栄一の父は、美雅(よしまさ)といった。(晩香という号を持つ雅人だった)
・美雅は、もともと渋沢本家の出ではなく、分家の出身だった。
・養子に来て本家を継いだという遠慮もあってか、かなり几帳面に仕事をした。
(金銭の扱いについても、決してないがしろにしなかった)
・栄一が京都に行こうとした時には、父親から100両の金をもらっていた。
 (世間体があるから、表面は、栄一を勘当したことにした)
(「平岡円四郎との出会い」より、15頁~16頁)

平岡円四郎


・出会いは、人間の運命を変える。
 平岡円四郎に会ったことによって、渋沢栄一は二つの変革をしたと、童門氏は捉えている。
①思想的な変革~それまでの過激な尊王攘夷青年から、進取開国の思想家へ
②自己の能力の認識
 ~「この才能を駆使して生きていこう」とは思わなかった“理財”に関する能力を掘り起こした。
(栄一は、武蔵国(むさしのくに、埼玉県)の豪農の息子だったから、子供の頃は、祖父について藍の買い出しにも出かけて、かなりの商才を示した。もちろん経営について、まったく認識がなかったわけではないのだが)

・栄一が会った時の平岡は、一橋慶喜(その頃、慶喜は京都にいて、禁裏守衛総督[きんりしゅえいそうとく]をつとめていた)の用人だった。
 平岡はもともとは一橋家の人間ではない。れっきとした幕臣。

・円四郎は、岡本忠次郎の四男。
  岡本忠次郎は、近江守に任官し、勘定奉行もつとめた。
 しかし、銭勘定よりも、むしろ外交文書の作成で能力を示した。
(とくに、対朝鮮関係の文書の作成や、あるいは朝鮮から来た使者との対応には、名外交官ぶりを示した)
  忠次郎は、川路聖謨(かわじとしあきら)と仲が良かった。
  嘉永3年(1850)8月27日に、83歳の高齢で死去。

・平岡円四郎は、はじめは学問所の幹部だった。
 (ある時、「武術を修業したい」といって、学問所から退いた)
 かねてから、この円四郎に目をつけていたのが、川路聖謨だった。
 知人の藤田東湖から、「藩公のご子息慶喜様が、一橋家の養子になられたが、誰かいい補助者がいないか」といわれ、川路は平岡円四郎を推薦した。こうして一橋慶喜の家臣になった。
※一橋慶喜は、のちに徳川最後の将軍になるが、背後にブレーンが3人いた。
 ①平岡円四郎 ②黒川嘉兵衛(くろかわかへい) ③原市之進
・この3人のブレーンのうち2人が暗殺される。
 平岡が殺されると黒川がその後を追い、黒川が失脚すると原市之進がその後を継いだ。
・3人のブレーンが知恵をつけていた間の一橋慶喜は、日本のトップ層としてそれなりに政治を主導した。しかし、ブレーンたちが倒れてしまうと、生彩を失う。
 そしてついに幕府をつぶしてしまう。

・当時過激な尊王攘夷青年であった栄一が、なぜ、平岡と遭遇したのだろうか。
 栄一が円四郎に出会ったのは、23歳の頃。文久3年(1863)11月のころである。
 この頃、栄一は、自分なりに、幕府から追われていると思い込んでいた。
 従兄弟(いとこ)の渋沢喜作という同行者もいた。
 栄一や喜作は、従兄弟の尾高惇忠という地元の学者に、子供の頃から学問を習い、影響を受け、尊王攘夷論になっていった。
(「平岡円四郎との出会い」より、9頁~21頁)


西郷吉之助


・西郷は、死んだ薩摩藩主島津斉彬の愛弟子(まなでし)だった。
 西郷が若く、島津斉彬が生存していた頃、いま(第二次長州征討後)、西郷が口にしている案が実現される寸前にあった。いわゆる「公武合体」という考えである。
(公というのは天皇と公家と京都朝廷のことである。武というのは、大名によって象徴される武士と、武家政権である幕府を指す。)
 公武合体というのは、朝廷と幕府が一体となって、国事にあたろうということである。
(「西郷との暗闘」より、107頁)

原市之進


・第二次長州征討軍の総指揮をとった徳川家茂は病弱だった。
 戦争最中の慶応2年(1866)7月20日に、急死した。
 そうなると、相続人は誰にするかが大問題になった。
 老中からも慶喜に正式な要請が来た。
・慶喜は迷い、ブレーンの原市之進や黒川嘉兵衛、それに栄一たちを呼んで意見を聞いた。
 その頃の一橋家では、原市之進がメキメキ頭角を現し、いつの間にか黒川嘉兵衛を追い抜いた。
・原市之進は、慶喜の父徳川斉昭のブレーンだった藤田東湖の親戚に当たる。学者である。
 水戸家での人望も厚かった。
 頭も鋭いし、度胸もある。
(それが、処世術一方の黒川を追い抜いた。栄一も、原には一目置いた。原の方も、栄一の才能を認めて尊重していた)
(「西郷との暗闘」より、109頁~110頁)
・慶喜のブレーンだった原市之進も、栄一がパリに出発して間もなく暗殺された。
 (「幕府倒壊」より、168頁)

童門氏の渋沢栄一像~小説の「地下水脈」というキーワード


童門氏の小説には、「地下水脈」というキーワードが頻繁に出てくる。これが渋沢栄一像を形作っている。

〇「人間渋沢の誕生」の「日本の地下水脈を発見」(50頁~54頁)に、最初に「地下水脈」という言葉が出てくる。
・世の中の動きを見つめるのによく使われる言葉が、「潮流」あるいは「世論」である。
 しかし、栄一は、この潮流や世論に、そのまま従うことはなかった。
(逆にいえば、潮流や世論をそのまま鵜吞みにしなかった)
〇栄一には幕末の潮流や世論の底に流れている、もう一つの別な流れが見えていた、と童門氏は捉えている。
 つまり、潮流や世論の底に、ヒタヒタと静かな音を立てて流れている、地下水脈のようなものを発見したという。
・栄一が、それまでの過激な尊王攘夷論から、平岡円四郎の仲介によって、開国国際化論に傾いていくのは、栄一にすれば、別に転向でも裏切りでもなかった。

※地下水脈の方向は、単純な尊王攘夷論とは違っていた。
 また、ただいたずらに欧米に追随する開国論とも違っていた。
 日本人が、日本人のよさを保ちつつ、国際社会に乗り出していくような道筋を、その地下水脈ははっきりと示していた。
⇒その地下水脈に気づかせたのは、一橋家の用人平岡円四郎だった。
 円四郎が栄一という人間の中に見抜いた「理財に対するすぐれた能力」がそれである、と童門氏は理解している。

※ただ、その大恩人である円四郎は、元治元年(1864)6月16日の夜、暗殺されてしまう。
 暗殺者は水戸藩士。
 円四郎が、度量が大きく、開国論も受け入れるほどの器量人だったために、尊王攘夷論で固まった水戸藩士たちは、「円四郎が一橋慶喜様を誤らせている」と短絡した。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、53頁~54頁)

〇「動乱の京都で」の「故郷、血洗島への凱旋」(55頁~69頁)にも、出てくる。
・京都禁裏守護総督一橋慶喜の家臣として、栄一は、関東地方から王城を守護する有志を募り、50人の人々を集め、喜作と共に再び京都に向かった。
 関東にいた時、栄一は、水戸天狗党の蜂起の話を聞いた。
 藤田東湖の息子小四郎(こしろう)や、水戸家の武田耕雲斎(たけだこううんさい)、そして田丸稲之右衛門(たまるいなのえもん)たちが首謀者となって、60余の人間が筑波山山頂で、反乱の旗を掲げた。(天狗党は数カ月で、およそ700人に膨れ上がった)
 水戸家では、幕府に討伐応援の軍勢を求め、幕府もこの反乱を重視して、すぐ関東近辺の諸藩に出兵を命じた。

・栄一は、こういう反乱が成功するとは思っていなかった。
 怜悧(れいり)な栄一は、ただ反乱を起こすだけでは駄目で、政権を手にした時に、どういう政治を行なうかという見取図がなければ、人々はついてこない。この天狗党の反乱は、宙に浮いた砂上の楼閣にすぎない。
⇒この栄一の予測は当たる。

※栄一がこういう考えを持ったのは、やはり一般に時の流れとか、世論とかいわれるものの底で、別な流れ方をしている地下水脈を、しっかりと感じとっていたからである、と童門氏は捉えている。
 その地下水脈こそが、本当に日本の世の中を変えていく力である。

※そういうクールな地下水脈の流れを知る栄一にとっても、間もなく耳にした平岡円四郎の暗殺はこたえた。
 栄一にとっては平岡円四郎の存在は、単なる上役ではなく、師でもあった。
 平岡亡き後の一橋家の用人筆頭は、黒川嘉兵衛だったが、優秀な人物ではあるが、平岡ほどの器量はなく、一まわり小さい人物である。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、65頁~69頁)

〇「動乱の京都で」の「民衆を苦しめる武士への怒り」(70頁~81頁)にも、出てくる。
・栄一は、一橋家の御用談所下役として、京都の花街に出没し、他大名家の京都留守居役たちと親交を深め、情報を得た。
 この天狗党事件の時に、「薩摩藩は油断がならない」ことを知った。
 西郷吉之助が、腹心の中村半次郎(のちの桐野利秋)を、天狗党に派遣していたことを知る。
⇒栄一は西郷という人間の底知れぬ恐ろしさに身震いし、薩摩藩は、やがて幕府を倒す側にまわるのではないかと予感したようだ。

※世の中で普通の人間たちが持つ潮流とは別な流れが、この世に存在しているということを、栄一はよく知っていた。
 うわべの潮流とは別な流れである地下水脈が、実は本当に世の中を動かしているのである。
 政治や社会の運動法則は、実をいえば、こっちの地下水脈にある。
(それはあくまでも底の方でひっそりと流れ続けている。が、絶対に妥協はしない。自分なりの原則を持って流れ続ける。)
⇒それを栄一は凝視していた。

※西郷吉之助といえば、その頃、京都御所に発砲した長州を征討する軍の参謀を命ぜられていた。
 だから、誰が考えても薩摩藩も西郷吉之助も、幕府に対して協力的な姿勢を率先して示しているように見える。
・が、栄一はそれを信じなかった。
 栄一は、そういう表面上の潮流とは別に、地下水脈を凝視した。
 「薩摩藩は、決してそんな存在ではない。西郷吉之助も、世上でいわれているような人物ではない。もっとも恐ろしい存在だ。」と考えていた、と童門氏は想像している。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、74頁~76頁)

〇童門氏は、「武士の論理」「歴史の法則」について、次のようなことを述べている。
・栄一からすれば、水戸天狗党の乱も、あるいは「武士の論理」に基づいた行動だと思えたのかもしれない。
 「どこに民衆がいるのだ? 農民がいるのだ?」という思いがあっただろう。
 「自分たち武士の意地を貫くために、藩内が真っ二つに割れた。尊王攘夷と口にはしても、結局は武士同士の争いではないか」
⇒栄一が凝視していた、現世の潮流や、世論とはかかわりなく、底の方を静かに流れている地下水脈というのは、そういうことではなかっただろうか、と童門氏はいう。
 つまり、「武士の論理」とは別な運動法則に目を向けていた。
それは運動法則というよりも、栄一にとってはむしろ「歴史の法則」だったに違いない、という。
・栄一が見つめる「歴史の法則」とは、「主権」をどんどん下に下ろしていくというものだ、と童門氏はみる。
 つまり、帝から武士へ、武士から民衆へ下ろしていくのである。
 やがては一般の庶民や農民が、主権者となって日本の政治を行なう時代が来るに違いない。また、そうならなければならない、そうさせるのが、歴史の法則だ、と栄一は思っていた。
 このように、童門氏は栄一像を理解している。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、78頁~79頁)

〇「西郷との暗闘」の「日本の進むべき道はいずれか」(104頁~114頁)にも、出てくる。
・元治元年(1864)に京都御所に突入した長州藩は、孝明天皇の命令によって討伐軍を差し向けられた。第一次長州征討である。
(しかしこの時長州征討軍の参謀だった西郷吉之助の判断によって、長州藩には比較的軽い刑罰が与えられた。)

・その後、再び長州征討軍が起こされた。
 第14代将軍徳川家茂(いえもち)が直接指揮をとるために大坂城に下り、戦争になった。
 しかし、四つの国境から攻め込んだ幕府軍は、四つの国境ですべて負けた。長州全土を挙げた藩軍の活躍はめざましかった。
 長州藩は、「武士は役に立たない。本当に戦争に強いのは、農民や庶民だ」ということを実証した。

・この話を聞いて、栄一の胸の中は複雑だった、と童門氏は述べている。
 栄一は、はじめから農民の立場に立っている。武士が嫌いだ。
 士農工商の身分制も、頭の中では否定してきた。
 それを、こともあろうに幕府に盾ついた長州人が実行して見せたのである。

・栄一は、自分がじっと凝視してきた、一般の世の中の潮流や世論とは別な地下水脈の流れが、正しかったことを改めて知った。
 世間でいわれる、“世の中を変える運動法則”よりも、ヒタヒタと静かに流れてきた“地下水脈の運動法則”の方が、はるかに強かったのである。
 栄一はしみじみと思った。
(この地下水脈の運動法則が、やがて日本を変えるだろう)
※一次、二次にわたる長州征討のことで一橋家の代表として、栄一はしばしば薩摩藩の西郷吉之助に会った。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、104頁~106頁)

〇「西郷との暗闘」の「慶喜の真の黒幕」(115頁~124頁)にも、出てくる。
・栄一には信念があった。
 それは、すでに薩摩藩のような外様大名家においてでさえ、西郷吉之助のような考えを持つ人物が出てきている。
 他にもいるだろう。そうなると、すでに一個人の意見ではなく、そういう世論がつくられつつあると見ていい。
⇒それが、栄一がずっと見つめてきた、例の“地下水脈の法則”だ。
 うわべの潮流や世論を越えて、次第に地下水脈の法則が上層部に上がってきたのだ。これは無視できない。
 そして、その地下水脈の法則に従うことが、一橋家を誤らせない活路なのだと考えた。

※しかし、「日本に共和制を導入して、有力な大名連合をつくり、その議長に一橋慶喜が就任すべきだ」という意見は、慶喜と原市之進に大きな関心を持たせた。
 現状は閉塞状況だ。
 打開するには、二つの道しか考えられない。
⇒それは、あくまでも幕府の権威を強めて、たとえば長州藩を徹底的にたたくことだ。
 もう一つは、朝廷の支配下に入ってしまうことだ。天皇に忠節な徳川家になり代わることである。
 が、そのどちらも割り切れないものがある。
〇栄一が示した意見は、第三の道だ。西郷の考えている“共和制”を利用することだ。

栄一は、慶喜に、有力な大名連合の議長をつとめる存在になってほしいと考えていたようだ。
(いま慶喜の取り得る道は、この第三の道以外にないと考えた。
 雄藩会議のイニシアティブを取るのは、あくまでも徳川一門の一橋家だということを実行しようとした)
栄一のこの時の意見は、慶喜の心を動かしたようだ。
 その意味では、「慶喜の真の黒幕」は栄一だといっていい、と童門氏は想定している。

※ところが、黒川嘉兵衛、あるいは原市之進たちは、一橋慶喜の黒幕だといわれたにもかかわらず、栄一はそういわれたことはあまりない。なぜだろうか?
⇒これは、栄一の人柄によった、と童門氏はいう。
 円満で、あまり敵をつくらない栄一は、それだけで相手に警戒心を持たせなかった。つまり、頭はいいけれど、好人物だというようなイメージを持たれていたと想像している。
(頭の鋭さを、鋭い姿勢で示さなかった。そのため、敵もできないし、逆にいえば、多少安心したつきあいができた。
 だから、情報もどんどん入ってくる。それを、栄一は胸の奥底にしまった。そして、発酵させる時を急いで利用するようなことはしない。)

※世の中の表面の潮流や世論によって、栄一は軽挙妄動しなかった。地下水脈の法則を、じっと凝視し続けた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、116頁、122頁~124頁)

〇栄一のせりふの中の「地下水脈」という言葉
・童門氏は、この“地下水脈”について、栄一のせりふとして会話の中に盛り込んでいる。
それは、昭武のパリ留学からの帰国の旅路の時である。

・昭武のパリ留学中、昭武の長兄である水戸藩士慶篤侯が急死し、相続人に昭武を指名したので、昭武は帰国することにした。
・栄一は帰りの旅路で、寄港する度に日本の噂を聞いた。
 幕府海軍の指揮者だった榎本武揚(えのもとたけあき)が、オランダ留学から戻って幕府艦隊の指揮を取っていたが、江戸湾から脱走して箱館にこもっている。
榎本は箱館で独立共和国のようなものをつくったという。

※栄一は、(そんなことは夢で、おそらく実現されない)と感じた。
 共和、共和といってはいるが、底が浅い計画で、しっかり地についた展望の青写真があるとは思えなかったからだ。所詮、徳川脱走兵のつくった砂上の楼閣にすぎない。

・上海のホテルでは、ドイツ人の武器商人スネルと、通訳の長野という男に、栄一は会った。その際に、長野から頼み事を持ちかけられる。
 榎本さんが北海道に旧幕府の政府をつくったが、栄一がお供している徳川昭武様に、北海道に集結した旧幕軍の総指揮をとっていただきたいという。
(昭武様は最後の将軍徳川慶喜様の弟様でもあられますので、もし昭武様が北海道に行ってくださったら、旧幕軍の勢いが一挙に上がり、薩長主体による新政府を打ち倒して、もう一度徳川の天下にすることができるという)

⇒栄一は、即座に断り、その理由として次のように答えた。
「時の流れには逆らえません。私は、かねてから表面上の世の中の流れがつくり出す世論とは別に、世の中の地下をヒタヒタと流れている水脈があることに気づいていました。これからは、その水脈が表面に出ます」
「地下水脈というのは何ですか?」と長野は聞いた。
栄一は、また答えた。
「政治に対する主権が、どんどん庶民の手に移っているということです。もう武士の時代ではありません。失礼ながら長野さんのお考えは、昔の武士の夢を追っておられる。私はもうごめんです。私は、武蔵国の農民の出ですから、武士万能の世の中には、ほとほと愛想をつかしているのです……」

・それから栄一が日本に帰り着いたのは、明治元年(1868)11月3日のことであった。
 栄一は、横浜港で、旧知の杉浦愛蔵が迎えに来てくれているのを見た。徳川昭武については、水戸家から迎えが来ていた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、161頁~165頁)

栄一の考えた「共力合本法」


「維新後の雌伏」の「商法会所の頭取として新政府に貢献」(192頁~202頁)には、次のようなことが述べられている。

・新政府は、諸藩に対して、「石高拝借」という制度をつくった。
政府が太政官札(だじょうかんさつ)と呼ばれた金札を発行して、政府の財政の助けとし、同時に諸藩の財政をも助けようという策だった。
発行した紙幣を、大名の石高に応じて政府が貸しつけ、やがて返還させるという方法である。
静岡藩にも70万両の紙幣が割り当てられた。
この使い道について、藩庁首脳部は、渋沢の意見を聞いた。
栄一は、外国で学んできた国の財政、あるいは地方の財政について、一つの考え方をまとめ、「共力合本法」という方法を提案した。

・「共力合本法」とは、次のようなことである。
一、政府から貸しつけられた金札を、基金にする。
一、しかし、これだけではなく、静岡地方には今川家の支配以来、後北条氏(ごほうじょうし)の支配を経て、徳川家康がここに隠居した頃を含めて、商人が保護され商業が発達した。今川時代には、駿府の商人たちが、年貢の徴収の代行まで行なっていたという。そういう伝統があるので、静岡は一面商人の町でもあった。支配者は代わっても、この商人は蓄積した資本を持っている。そこで、この静岡の商人が持っている地方資本を、藩の基金に加える。つまり合本だ。
一、この基金を基にして、地域の産業振興をはかり、付加価値を加えるような製品開発をする。それを他国に売り出し利益を上げる。
一、この利益の中から、政府への借金を返す。
一、基金の運営には、藩庁の役人だけでなく、静岡の地域商人も加える。
一、そのために、この基金を運営する組織をつくる。この組織をたとえば「商会」と呼ぶ。

〇この考え方の底には、大事なことが一つあるという。
 「たとえ商業といえども、一人の力はたかが知れている。
  また、独断に走ると、必ずしも相手の幸福を促すようなことにはならず、逆に相手を苦しめる場合がある。これは道に悖る。これを避けるためには、商人が共同体を組織して、手を取りあって運営していくことが必要なのだ」

 つまり、栄一が信念としている「道徳と経済の一致」すなわち「論語とソロバンの一致」を実現するためには、一人ではなく、商人が共同組織をつくって運営することが必要だという。

 栄一は、のちに数百の会社を興したり、商法会所(現在の商工会議所)をつくったりする。
 そのため、「渋沢栄一は、組織づくりの名人」といわれた。
 栄一は天才的なオルガナイザー(組織者)であった。そういうリーダーシップを持っていた。
(ただ、栄一は強引なリーダーではなく、あくまでも、理で相手を説得し、納得させた上で参加させるという方法をとった)
※栄一にすれば、自分の案は、外国で学んだ経済理論をそのまま移行して、日本の経済の近代化をはかることであった。そして、これにいくらか日本的特性を加味しようとした。

・栄一は、静岡の紺屋町(こうやまち)というところに事務所を設け、「商法会所」という看板を掲げた。
 12人の静岡商人に「用達(ようたし)」という辞令を出し、商会員とした。
 商会の仕事は、いまでいえば銀行と商社を一緒にしたようなものだった。総取締は頭取の栄一である。
 仕事の内容は、商品抵当の貸付金、定期当座預金、地方農業の奨励のため他国から農民を招いて、農耕資金を与える、あるいは、茶の生産を拡大する、また外国で評判のいい生糸生産を奨励する、などである。
 元資金は、政府から借りた太政官札と、地域商人たちが供出した資金である。

(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、196頁~199頁)

留守政府の財政を預かる栄一は、次の三点を力説しつづけた。
一、政府予算における、「入るをはかって出ずるを制する」という原則の徹底。
一、国立銀行の創設。
一、貨幣制度における兌換(だかん)制度の採用。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、229頁)

【補足】「入るを計って出ずるを為す」という原則~鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』より


鹿島茂氏は、『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版]において、「入るを計って出ずるを為す」という予算原則について言及している。
「第三十四回 大蔵省を去る」の【「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題】と題して、次のようなことを述べている。

・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介した。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。

・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。

・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
 その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
 (三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)

〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
 このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
 というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)

⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
 そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
 当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
 明治4年9月下旬のことだった。

(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)

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鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)


渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」


「維新後の雌伏」の「慶喜のいる静岡へ」(170頁~183頁)において、渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」について書かれている。

栄一の実業の理念は、「道徳と経済の一致」。これはまた人生信条でもあった。
「道徳と経済の一致」という理念の表し方は、「論語とソロバンは一致させなければならない」といういい方によって、他者に伝えられた。

栄一は、小さい時から学んだ論語の教えに、深く共感していた。
しかし、中国から伝わった儒学は、経済を軽んじていた。それが職業となった場合、商人を卑しんだ。つまり、「自ら生産しないで、農民や工人(職人)が作り出した品物を、ただ右から左に動かすだけで、利益を得るというのはけしからん」という考え方が、日本でもずっと続いてきた。
とくに、身分制の頂点に立つ武士は、「武士は食わねど高楊枝」といって、金や商人を卑しんだ。そのくせ、商人から金を借りては、踏み倒すような武士もたくさんいた。
商人からすれば、「口先ばかり偉そうなことをいっていて、やっていることは何だ。人の道にも悖(もと)るではないか」という気持ちがある。しかし、だからといって商人の方が金の力だけを借りて、他者に対してふんぞりかえっていれば、それも間違いだ。

そこで、栄一は、いままでは絶対に一致することのなかった、論語(すなわち、商人を卑しむ中国の教え)とソロバン(すなわち経済、転じて商人)の一致をはかった。

渋沢栄一のこの「道徳と経済の一致」あるいは「論語とソロバンの一致」ということを考えていたのは、渋沢栄一だけではなかった。
たとえば、同時代のすぐれた思想家横井小楠(よこいしょうなん)も同じことを唱えていた。
⇒横井は、熊本出身の学者だったが、熊本ではあまり受け入れられず、むしろ越前藩に行って、経済改革に力を貸した。横井の考え方は、「日本は有道の国になれ」ということだった。
・地球上には、有道の国と無道の国がある。いまは無道の国が多すぎるという。
 とくにイギリスがそうだ。イギリスは産業革命によって多くの製品をつくり出すが、生産過剰になって、マーケットを諸国に求めた。その中でも清国を狙ったが、自分の思いどおりにならないと、阿片戦争を起こして、中国の領土に侵入した。あの行為一つ見ても、イギリスは無道の国であるとする。
・一方、日本には、イギリスはじめ列強に対抗していけるだけの武力がない。したがって、急いでそういう力を蓄える必要がある。しかし、だからといって、国際紛争のすべてを武力に頼るのは間違いである。むしろ、日本は道徳を真っ向から掲げ、悪どい列強を反省させ、世界をもっと人の道によって営まれるような社会にすべきだと主張した。

(栄一が、小楠などの説をどこまで承知していたかどうかはわからないが、唱えていることは同じである)

小楠の、「日本は有道の国になって、国際社会に進出すべきだ」といういい方の中には、小楠流の国際貿易論が含まれていた。(道徳を軸にして、国際交易を行なえというのが小楠の主張だった)
〇そして、小楠を顧問とした越前藩は、これを実行した。長崎に越前商会をつくって、外国貿易に乗り出した。その越前藩の中心になったのが、三岡八郎(みつおかはちろう、のちの由利公正[ゆりきみまさ])である。
〇また、坂本龍馬は、小楠の教えを受けて、国際商社をつくった。長崎の海援隊がそれである。
〇海援隊はのちに土佐藩に活用される。その上に乗ったのが、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)である。
〇そして、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が、海援隊の資産と思想を引き継いだ。岩崎は、のちに三菱商会をつくる。それが今日の三菱の基になる。

ところで、横井小楠のいっていた、「日本が有道の国になれ」ということについて、そのよりどころとなった論は、一つは、鈴木正三(すずきしょうさん)という戦国時代から江戸初期に生きた武士出身の禅僧の言葉に遡れると、童門氏はみている。
すなわち、「商いには、有漏(うろ)と無漏(むろ)のものがある。無漏というのは、ホトケの心にそって他人を幸福にする商いだ。有漏というのはホトケの心に反いて、逆に他人を苦しめる商いのことだ。商人は全て無漏を志さなければならない。無漏の商いをすれば、その商いはそのままホトケの心の代行だといえる」と説いた。
日本の近世を開いてきた商人群は、身分的に転落した。これを見た戦国生き残りの鈴木正三は、「商人よ、もっと自信を持て」ということを主体に、このようなことを主張していた。

〇もっと時代が下って、商人に自信を与えたのが、商人の石田梅岩(いしだばいがん)の唱えた「心学」である。
武士に忠義があるように、商人は主人であるお客さんに対して、忠節を尽くさなければならない。商人がお客さんに尽くす忠節というのは、よい品物を、安い価格で提供することであると説いた。

要するに、鈴木正三も、石田梅岩も、商売の初心を説いた。
「商人の行ないは、ホトケの心の代行でなければならない」と鈴木正三はいった。
「商人は、主人である客に、忠節を尽くさなければならない」と石田梅岩はいったのである。

そして、栄一は、「道徳と経済の一致」、つまり「道徳を、中国の儒学で鍛えた武士の精神に求め、商人の知識や技術を外国に学ぶ」ということを考えた。
栄一は、武士精神である「士魂」と、商人の保つべき姿勢との融合をはかった。

江戸時代の商人にとって、必要なのは、読み書きとソロバンだけだという気風が蔓延していた。そしてそれ以上の勉学に進まなかった。
そこに栄一の不満があった。商人も、向上しなければ駄目だ。その向上の一環として、栄一は、「商会」という共同組織を考えた。つまり、商人が一カ所に集まり、共同の目的に進むことによって、お互いに切磋琢磨し、自己学習をし、前へ前へと進んで行く縁(よすが)をここにつくろうとした。
栄一の実現しようとした「和魂洋才」は、次第に「士魂商才」に変わっていったと童門氏は捉えている。「士魂」すなわち武士精神を武器に、官尊(旧薩摩藩や長州藩などの下級武士)に立ち向かおうとした。
栄一が標榜している「論語とソロバンの一致」がその根幹になっている。論語の精神は、江戸時代もずっと武士の間で保たれていた。中国の儒学精神は、まさに武士階級が精神的なよりどころにしていたものである。

栄一は、パリで、高級軍人と銀行家とのやりとりが印象に残っていた。パリの高級軍人は、威張らずに銀行家の意見に謙虚に耳を傾けていた。そして、接する態度も礼儀正しく、銀行家を尊敬していた。
栄一は日本に戻って、「それを日本で実現するのは、やはり士魂商才以外ない」と思ったようだ。
論語とソロバンを一致させる実業家への志が胸の中で湧き立った。

ところで、栄一の「道徳と経済の一致」、砕いていえば「論語とソロバンの一致」という考え方の底流は、よく、イギリスの先覚的経済学者アダム・スミスになぞらえられる。しかし、栄一は別に系統立てて経済学を学んだわけではないようだ。
(持ち前の勘で、栄一は世界のすぐれた経済学者の論を感覚的に身につけていた)
栄一は、「新しい日本において、道徳に一致された経済の発展を実現する」ということを、ひそかに心に期していた。
そして、その基幹として、「銀行」を日本につくろうと考えていた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、176頁~182頁、203頁~207頁)

貫き通した「論語とソロバンの一致」


栄一が、実業家になってまず整備しようとしたこと
〇日本の「農工商界」の現状の底上げ(=産業振興)
 産業を振興することが、すなわち日本を富ませることだと思った。
〇同時に、金融面についていえば、銀行を創立すること(=金融機関の整備)
 それまでの金融界は、両替商、蔵元、掛け屋、札差(ふださし)などが支配していた。
 これを、もっと近代的なものに改める必要があった。
※この産業振興と金融機関の整備の底流にある理念が、栄一の言葉を借りれば、「論語とソロバンの一致」であった。
・論語というのは孔子の言葉を、弟子たちが綴ったものである。
 日本でもよく読まれていた。
・しかし、中国から伝わった儒学を、常に肌身離さず学習し抜いたのは、やはり武士である。そのため、この儒学に依拠して、自分の身を慎む姿勢を、「儒教の精神」あるいは「孔子の精神」といった。
・論語やソロバンを一致させるということは、「孔子の精神で、商業を営め」ということであると、童門氏は解釈している。
⇒ということは、
 「多くの人々の利益を志す商売を行わなければならない。自分だけ勝手に、ガリガリ亡者の儲け主義になってはならない」ということである。
(これは、「したがって、商業も多くの人たちと手を取りあって、公益のために努力しなければならない」ということになる。)

※この点、岩崎弥太郎の“一人一業主義”とは距離をおく結果になったと、童門氏は推測している。

(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、237頁~238頁)

渋沢栄一の「万屋主義」


栄一が関与した会社の数は、約500余りだという。「万屋(よろずや)主義」と栄一は称した。
なぜ栄一が万屋主義と自嘲してまで、いろいろなことに手を出したか。
政府から身を引いて、実業界に打って出た時の日本の状況について、栄一は次のようないい方をしている。

「たとえば、日本の農工商の実態についていえば、商はわずかに味噌の小売に従い、農といえば大根をつくって沢庵漬けの材料を供しているだけだ。また、工といったところで、老いた女性が糸車を使って、機織りをしているにすぎない。また、商店といっても、日本の住民自体の購買力が低下してしまっているから、一製品の販売で、身を立てることはできない。だから、呉服屋が荒物商を兼ねている。酒屋が飲食店を兼ねている。これは、店を維持していく上で、そうせざるを得ないからだ。
 そうなると、やはりわが国の商工界は、まず万屋から出発せざるを得ない。これは、世界的規模についていえば、日本の商工業がとりあえず万屋主義をとらざるを得ないということになる。世の中には、いやそれは間違いで、一人一業主義をとるべきだと頑張る人もいる。確かに、それも理(ことわり)だ。が、こういうことはよほど才幹がなければできない。誰にもできるということではない。誰にでもできるのは、やはり当面万屋主義をとることである」

“万屋主義”といってみても、栄一の主張したことは、単なる兼業主義をいっているわけではない。
栄一は生涯を通じて、その主張するところは変わらなかったようだ。
 一、合本主義
 一、組織主義
 一、商法会所主義

これに対して、「一人一業主義」を唱えたのが、三菱の岩崎弥太郎である。
その意味では、生涯を通じて渋沢と岩崎とはあわなかった。
世間では、一度だけ料亭で顔を合わせたが、その物別れに終わった会見を「三国志の曹操と劉備玄徳が会ったようなものだ」といった。
(童門氏は、むしろ項羽と劉邦の会見だといった方がよいとする)
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、233頁~235頁)