歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その3≫

2020-10-25 19:01:44 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その3≫
(2020年10月25日投稿)




【はじめに】


今回のブログでは、『モナ・リザ』の微笑について考えてみたい。
西岡文彦氏の著作のコメントであるので、まず、氏の2著作において、どのように解釈されているのかを紹介する。
〇西岡文彦氏『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年

その他、下村寅太郎氏、若桑みどり氏、田中英道氏、ケネス・クラーク氏およびダイアン・ヘイルズ氏、そしてセシル・スカイエレーズ氏の解釈について検討してみる。
次の著作を参考にした。
〇下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年
〇若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房、1993年
〇若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]
〇田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]
〇ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(法政大学出版局、1974年
〇Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年
〇セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・『モナ・リザ』の微笑について
・『モナ・リザ』の微笑についての西岡文彦氏の解釈
・『モナ・リザ』の微笑とポライウォーロの肖像画
・はかなき微笑――ハイライトの欠如
・「モナ・リザ」の微笑についての下村寅太郎氏の解釈
・「モナ・リザ」の笑いに関する若桑みどり氏の解釈
・「モナ・リザ」の微笑についての田中英道氏の解釈
・ケネス・クラーク氏やダイアン・ヘイルズ氏の見解
・「モナリザ」の微笑みに関するスカイエレーズ氏の解釈






『モナ・リザ』の微笑について


西岡文彦氏は、近著『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の中でも、『モナ・リザ』を次のように理解している。
『モナ・リザ』は、ヨーロッパの全美術史の縮図である。
意外な小さな画面に、悠久の時間が濃縮されている。
黒い衣のドラペリには、古代ギリシア・ローマから近世ルネッサンスにわたるヨーロッパ美術千数百年にわたる美学が結晶している。
この神秘の微笑を描くスフマートに到達するために、ヨーロッパ絵画は、テンペラから油彩への長きにわたる研鑽の道をたどる必要があった。また、この幽玄の風景を描くために、中世祭壇画の背景は黄金を捨てて、「南」の理想に「北」の写実を導入して、画中に風景を懐胎しなくてはならなかった。
5世紀半に及ぶ油彩絵画の歴史上、『モナ・リザ』は最初の1世紀も経ぬうちに描かれた作品である。それにもかかわらず、『モナ・リザ』の画面には、すでに精妙なるスフマートから、奔放なインパストに至る油彩の筆致の両極がある。つまり、前景の人物においては、次代のレンブラントの内面告白を予見し、背景の風景については、近代の印象派を予見するタッチを見せている。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、16頁~22頁、161頁~166頁、199頁~200頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

さて、西岡文彦氏は、近著『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の中で、第12章において「微笑の謎――『モナ・リザ』は、なぜ微笑み続けているのか!?」と題して、モナ・リザの微笑について論じている。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、199頁~200頁)

西岡氏は、『モナ・リザ』の微笑について、次のように説明している。
「ほとんど輪郭線に頼らず描かれた四分の三正面像は、静かな姿勢を「静止」させずに「維持」しながら、幽玄の風景を背景に神秘の微笑を浮かべている。
 高山の頂きから見下ろしたかのような広大な景観を背景に微笑する女性像の、その「はかりがたき」たたずまいは、見る者を魅了し幻惑してやまない。
 この「はかりがたさ」は、ダ・ヴィンチの作品に一貫して見られる特徴であった」(200頁)

「画面には、特定の個人の、特定の感情は、一切描かれていない。
 誰とも知れぬ女性の、名状しがたい表情のみが描かれている。
 喜びと悲しみ、若さと老い、官能と禁欲……と、相反するはずのものが、不可思議な微笑のなかに、渾然と渦を巻いている。
 『モナ・リザ』をめぐる無数の論評が、必ずや身にまとうことになる神秘性は、この「はかりがたさ」を前にした当惑の反映に他ならない」(201頁~202頁)

西岡氏は、このように、「神秘の微笑」「不可思議な微笑」と表現している。そして、ダ・ヴィンチ作品に一貫して見られる「はかりがたさ」という特徴の一つが、『モナ・リザ』の微笑であった。

この『モナ・リザ』の微笑は、他の模写作品と比較してみると、その神秘性がより鮮明になるようだ。
絵画史上、『モナ・リザ』ほど、多くの画家に模写され模倣された作品はない。
その構図とポーズは、人物画における最も完成された様式として、同時代から現代に至るまで、模倣と引用を繰り返されている。
しかし、模写された『モナ・リザ』では、神秘的な微笑がなにやら小ずるい含み笑いにしか見えない。
たとえば、17世紀の『モナ・リザ』模写(ウォルターズ・アート・ギャラリー)は、表情に微妙さの表現が乏しいために、原画の神秘的な微笑が小ずるい含み笑いに変容している。

ところで、ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』に描いた顔が、左右で別の表現を浮かべていることは、美術書などでよく指摘されている。確かに、顔を半分ずつ隠して眺めてみると、右半分の表情は楽しげに見え、左半分の表情は憂いを含んで、見えなくもない。

しかし、西岡氏は、『モナ・リザ』の神秘的な表情の仕掛けはそれほど単純なものではないと主張している。
この微妙な表情は左右ではなく、斜めに交差するかたちで描かれた対立する表情によって、かもしだされているとする。
① 右の目と左の口元=柔和な表情
もの問いたげな目の表情と、口角の上がった唇が柔和な笑みを見せている
② 左の目と右の口元=不機嫌な表情
かすかにひそめた眉根が、目の表情を険しいものにしており、下がった口角と共に不機嫌な表情を演出している。

上記の両者の相矛盾する二つの表情が、微笑の中で交差していると西岡氏はみている。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、34頁~35頁、199頁~202頁)

『モナ・リザ』の微笑についての西岡文彦氏の解釈


西岡文彦氏は、『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)において、『モナ・リザ』の微笑について、次のように述べていた。
「『モナ・リザ』の神秘的な表情は、「スフマート」という手法によって描かれている。
これは、透明に近い絵の具を、柔らかい筆で、数十回、数百回にわたって塗り重ね、筆の跡を残さず、無限の階調を描き出す、究極のグレーズ手法である。」
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、70頁)

「『モナ・リザ』が、聖母とは別の意味で、やはり生母の面影を宿している可能性はある。理由は、推定されるモナ・リザの年齢と境遇である。(中略)その哀愁を帯びた微笑に、レオナルドは、生母カテリーナの面影を託したのかも知れないのである。」
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、107頁)

同様の内容を、「第十六章 レオナルドの水鏡」では、次のように述べていた。
「『モナ・リザ』は、その背景に、早くもこの近代の筆致を予見している。画面は、謎の微笑に、筆の跡をいっさい残さぬスフマートの神技を見せつつ、遠方の山岳には、近代絵画を予告するかのような奔放なるインパストの筆致を見せている。」
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、214頁~215頁)

「神技スフマートをもって、それ以前、いかなる画家も描き得なかった「はかりがたき」微笑を描出した『モナ・リザ』は、外見のみならず精神までを描く人間像の、最初期にして最高の作品である」
(西岡文彦『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、230頁)

西岡氏の『二時間のモナ・リザ』における理解は、次のようにまとめられる。
〇謎の微笑、神秘的な表情、「はかりがたき」微笑~スフマートの神技、手法
〇背景、遠方の山岳~奔放なるインパストの筆致、近代絵画の筆致

『モナ・リザ』の微笑は、「はかりがたき」微笑と西岡氏は捉えて、『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)でも、次のように記している。

「『モナ・リザ』は、「個」のために「普遍」を捨てることを諫(いさ)めたダ・ヴィンチが、「個」のなかに「普遍」を描き出してみせた作品である。
 しかも、単なる「女性らしさ」や「婦人というもの」のイメージの普遍性をはるかに超えて、人間という存在そのものの普遍的なイメージを、「はかりがたき」微笑のうちに描いてみせた作品である。
 この作品が最晩年までダ・ヴィンチの手もとに置かれ加筆され続けることになったのも、それが、特定個人の肖像画から出発しながらも、最終的には画家自身の人間観の表明ともいうべき作品へと発展してしまったからだろう。
 したがって、おそらく画面は、作者であるダ・ヴィンチに不可避的に似てしまう点を除けば、特定個人の誰の顔にも似ていないはずである。
 モデルは「不明」なのではなく、「人間というもの」を描き始めた時点で「不在」となってしまったのである。
 「偏在」といった方が、より正確であるかも知れない」
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、186頁~187頁)

『モナ・リザ』は、肖像画を人物画へと変容させた作品とされている。特定個人の似顔絵に過ぎなかった肖像画を、人間という普遍的な存在を描く人物画という新しい絵画へと発展させたのが、『モナ・リザ』であると、西岡氏は理解している。

ダ・ヴィンチは、『絵画論』で、人物の似顔をそのまま描くことは、「個」のために「普遍」を捨てることだと書いている。
このレオナルドの深遠な主張は、人物画が「はかりがたさ」というものが表出するためには、単なる似顔絵を超えた描写の普遍性が備わっていなくてはならないと解釈されている。『モナ・リザ』はダ・ヴィンチが「個」のなかに「普遍」を描き出してみせた作品であると西岡氏はみなしている。そして、『モナ・リザ』は、人間という存在そのものの普遍的なイメージを、「はかりがたき」微笑のうちに描いてみせた作品であるとする。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、186頁~187頁。なお、『二時間のモナ・リザ』河出書房新社、1994年、201頁~202頁にも同様な記述がある)

『モナ・リザ』の微笑とポライウォーロの肖像画


『モナ・リザ』の微笑とポライウォーロの肖像画について、西岡氏は次のように述べている。
「わずか数年後の作品であるにもかかわらず、このポライウォーロの肖像画には、『ウルビーノ公夫妻の肖像』には見られない、人としての生命感がみなぎっている。
 あまりに表情が自然であるため、かえってポーズの不自然さが際立ち、横顔を見せ続けるのがじれったくなったのか、モデルは笑いをこらえているようにさえ見える。
 このポライウォーロの生彩の前では、先に眺めた『ウルビーノ公夫妻の肖像』は、なにやら冷たい公式肖像画としか映らなくなってしまう。
 ルネッサンスは、宗教的ないしは政治的な礼拝像としての肖像が、市民の肖像画としての生彩を備え始めた時代であった。
 いうまでもなく、この画中の人物の生彩において、絵画史上比類なき境地に達した作品が『モナ・リザ』である。 
 そういう意味では、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の微笑を予見するものといえるであろう」
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、184頁)

〇ポライウォーロ『婦人の肖像』1475年頃 テンペラ ウフィッツィ美術館
〇ピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』1474年 テンペラ ウフィッツィ美術館

ウフィッツィ美術館にある、ポライウォーロ『婦人の肖像』とピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公夫妻の肖像』を比較している。
横顔に浮かんだ微笑の生彩に注目して、ポライウォーロの肖像画には、人間としての生命感がみなぎっている。それに対して、『ウルビーノ公夫妻の肖像』は、冷たい公式肖像画として映る。
『モナ・リザ』は、画中の人物の生彩において、絵画史上比類なき境地に達した作品であるが、ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の微笑を予見するものとして、西岡氏は捉えている。
ちなみに、『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年、166頁)では、「ポライウォーロの魅惑の微笑は、『モナ・リザ』の神秘の微笑を予見しているのである」と断言していた。

はかなき微笑――ハイライトの欠如


『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)には全く書いていないが、『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)では、「12 微笑の謎」では明記されていることがある。それは、『モナ・リザ』の瞳には、ハイライトが描かれていない点である。

西岡氏は、「はかなき微笑」という見出しで、次のように述べている。
「近年、『モナ・リザ』の瞳に謎の文字が隠されているとの説が唱えられたことは先に紹介したが、この瞳には、そうした奇説をはるかにしのぐ秘密が隠されている。
 人物の瞳に命を吹き込む仕上げの白点が打たれていないのである。
 瞳に描き込むハイライトは、人物画のまさに画竜点睛となる仕上げの作業であり、画家にとって最もむずかしい作業であると同時に、制作過程の最後に残された最も創造的な醍醐味に満ちた作業でもある。
 油彩という技術の特性が最も活かされる工程でもある。 
 ダ・ヴィンチが当時の新技術であった油彩という絵画技法を好んだのも、このハイライトの魔術的な効果のためとさえいえる。
 そのことは、彼が師ヴェロッキオの助手をつとめた『キリストの洗礼』の天使にも明らかである。現存するダ・ヴィンチの最初の油彩作品である、この天使の瞳には、その輝きも鮮烈にハイライトが描き込まれている。
 この効果に魅入られたからこそ、ダ・ヴィンチは、油彩という新技法の探求に没頭したに違いないのである。
 彼の描いた肖像画は、いずれもハイライトより画竜点睛を成しており、ルドヴィコの愛人の不機嫌な瞳でさえがその輝きを放っている。
 『モナ・リザ』は、その瞳のハイライトを欠いているのである。
 このことは、ひとつのことをしか物語っていない。
 画家は意識して、仕上げの作業を控えていたのである。
 理由はわからない。老いにより筆力の衰えを自覚し手控えていたかも知れず、痛風による手のしびれが、一点の白点の描き込みを不可能にしていたのかも知れない。
 あるいは、心境そのものが変化して、鮮烈なハイライトの効果をよしとしない枯淡の境地にさしかかっていたのかも知れない。
 同時期に描かれた『聖ヨハネ』の瞳も、その輝きを抑制して描かれていることは、その推測を裏付けるものではある。
 いずれにしても、無類の完成度を誇る『モナ・リザ』の画面も、ダ・ヴィンチ自身にとっては明確に未完成作品と見なされていたことは間違いないであろう」
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、213頁~214頁)

人物画において、瞳に描き込むハイライトは、画竜点睛となる仕上げの作業である。油彩という絵画技法の特性が最も活かされる工程でもある。
現存するダ・ヴィンチの最初の油彩作品で、師ヴェロッキオの助手をつとめた『キリストの洗礼』(1475年頃、テンペラ・油彩、ウフィッツィ美術館)の天使の瞳にも、ハイライトが描き込まれている。
この作品において、弟子ダ・ヴィンチが描く天使に筆の跡がほとんど見えない。それは、師ヴェロッキオがテンペラを使用しているのに対して、ダ・ヴィンチは新手法の油彩を用いているためである。瞳の輝きを白点を描き表現する、油彩ならではのハイライトという手法が見られる。
また、ルドヴィコの愛人の肖像画である『貴婦人の肖像』(1490年頃、油彩、ルーヴル美術館)にも、白い輝点を瞳に描き込み、人物にも生彩を与えている。

ところが、『モナ・リザ』は、その瞳のハイライトを欠いている。
このことは、何を物語り、理由は何なのか。
この点、西岡氏は、推測をめぐらしている。
ハイライトの欠如は、画家ダ・ヴィンチが意識して、仕上げの作業を控えていたことを物語っているとする。
理由については、わからないとしながらも、次の諸点を指摘している。
・老いによる筆力の衰え、痛風による手のしびれ
・心境そのものの変化、枯淡の境地~鮮烈なハイライトの効果を疑問視
 →同時期の『聖ヨハネ』(1515年頃、油彩、ルーヴル美術館)の瞳も、その輝きを抑制して描かれている。
・ダ・ヴィンチ自身にとって『モナ・リザ』は未完成作品と見なされていたと推測
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、105頁、109頁、141頁、213頁~214頁)

「モナ・リザ」の微笑についての下村寅太郎氏の解釈


次に、下村寅太郎氏の『モナ・リザ論考』(岩波書店、1974年)において、「モナ・リザ」の微笑について、どのように解釈しているのかをみておこう。
下村氏は、「モナ・リザの微笑はまさしくレオナルドの象徴である」(序、ii頁)とその著作の序文で明記し、その本文「Ⅳ「モナ・リザ」の分析」の「2 微笑」(206頁~223頁)において、その微笑に注目している。以下、その内容を紹介しておこう。

「モナ・リザ」は、ほとんど、その微笑の故に有名である。
既に、ヴァザーリは「神の手になる微笑」と評した。微笑が「モナ・リザ」の核心であるかのごとくみなされ、「モナ・リザ」の魅力の秘密を微笑において認めることが常識になっていた。

この微笑に「神秘」を見出したのは、19世紀のロマン主義者である。これは一応、彼らの「発見」といってよい。また、ジョルジュ・サンドは、「モナ・リザ」の微笑に柔らかさと共に、メドゥーサのような気味悪さを見た。歴史家ジュール・ミッシュレは、「自己の意志に反して」「蛇に対する小鳥のやうに」、「モナ・リザ」に惹かれると告白した。いずれも作品と見る者との間に見る関係を超えた交感が成立し、あるいは更に告白が強要されるかのようである。

精神分析者フロイトは、レオナルド自身の意識しない「下意識」をすら見出すとし、幼児期の生母を想起したものという。
美術史的な解釈としては、1896年に、フランス人ロベール・ド・シゼランヌが、「モナ・リザ」は口の左の部分でしか微笑していないことを指摘している。
また、この微笑は単にルネッサンス時代の婦人の間で最も優雅な「しな」とされたものにすぎず、現にこの時代の女性作法を説いたアニョロ・フィレンヅォラの書(Della perfetta bellezza d’una donna, 1541)に説かれていたという。
「口もとを右隅で閉じ、わざとらしくなく、無意識に微笑するかのやうに口を左側でひらき(これは感情を動かすのではない)、これに伴つて適度にひかへ目に優雅に無邪気なしぐさで少し眼を動かすこと」
これによると、「モナ・リザ」の微笑は当時の上流夫人の風習で、それ以上の意味はなく、単に当時の慣習の事実を描いたにすぎないことになる。
しかし、「モナ・リザ」において重要なことは、単なる微笑の有無ではなく、それを通して表現されているものが重要であると下村氏は説いている。
単なる微笑ならば、凡手でも可能であるが、「モナ・リザ」のような微笑はレオナルドをまってのみ可能である。
(この微笑を模倣した多くの作品では徒に微笑していることを想起するだけで十分である。フィレンヅォラの典拠は「モナ・リザ」の微笑から何ものをも減殺するものではないと下村氏は断っている)

ところで、微笑は一般に、身体に対する精神を表現し、強調することを動機とし、表情の機能をもつ。身体において特に精神を表現するものはもっぱら顔である。顔において表情を規定するものは、主として口辺と眼の隅にある。それ故、一般に身体に対する精神や生命の存在の表現はもっぱら眼と口に求められた。アルカイック・スマイルは既にこの手法を理解しているものとされる。
また、「微笑」と「笑い」とには区別があるとされる。笑いは社会的であるが、微笑は孤独である。笑いは人間と人間との間にのみ成立する。微笑は相対する人に対してでなく、自己に対してである。外に向かってでなく、内に向かって微笑する。
微笑は孤独者の微笑である。それ故、微笑には声はない。相対者のない意味では超越的である。仏教においても、拈華微笑する者は仏陀と同心の聖者である。天使の微笑も、衆生に対する微笑でなく、天使の属性としての微笑であろうと下村氏は解説している。

さて、「モナ・リザ」の微笑は、ランスの天使のそれとは別のものである。無垢でも透明でもない。しかし、ロマンティックの文人、詩人のいうような嘲笑、冷笑、ましてや媚笑でもない。
それは孤独な微笑であって、見る者に対して微笑しているのではない。そのことが見る者に捉えどころのない謎を感じさせると下村氏はみている。
「モナ・リザ」の微笑は決して天使の微笑でなく、人間の微笑である。「モナ・リザ」の微笑において、女でなく母性の微笑を感じると下村氏は記している。単に官能的感性的な微笑でなく、本来的には天使の微笑の人間化、感性化である。このことが、「モナ・リザ」の微笑の独自性であると下村氏は考えている。「モナ・リザ」の微笑は、「聖アンナ」の微笑と同一の微笑ではないが、それにつながることを注意する必要がある。
(レオナルドが感性と敬虔との渾然たる融合を求めたのに対して、ミケランジェロは両者の乖離に苦悶し苦闘した。だから、ミケランジェロの作品には、微笑を見出し得ない。微笑は繊細の心の、調和の精神の表白である。巨人的なミケランジェロに求めることはできない。システィナ礼拝堂の「最後の審判」のキリストは怒れるアポロである)
(下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店、1974年、206頁~213頁)

【下村寅太郎『モナ・リザ論考』岩波書店はこちらから】

モナ・リザ論考 (1974年)

「モナ・リザ」の笑いに関する若桑みどり氏の解釈


若桑みどり氏の『イメージを読む――美術史入門』(筑摩書房、1993年)の「第二日 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」について」の中で、「「モナ・リザ」の謎」と題して、この笑いについて解説している。まずは、その箇所を引用してみよう。

「この女の人が笑っているのは「聖アンナ」の笑いであって、あなた方は何も知らない、私が知っているのはほんとうの真実だ。この世は確実に水か火によって滅びる。それは自らの運命によって滅びる。四元素の必然の運命によって地球は動き、そして絶え間なく老いていき、やがて終末をむかえる。これはすべての人間の運命であると同時に地球の運命でもある。つまりすべてを知るものの笑いであるというふうに、私はフマガッリやクラークとユイグの説を総合して思います。
 それにたいして、非常に感性のするどい多くの人びとは、「モナ・リザ」の笑いを見て、何か笑っているけどいったいこの笑いはなんだろうと感じました。なつかしく思い出されますが、1950年代に私が東京芸術大学ではじめて「モナ・リザ」の講義を聞いたとき、私の恩師である先生は、この謎を女性の心の謎であるといいました。たいそうロマンティックで、私はせいぜい20歳でしたが、この謎を研究してみようと思ったのです。人は「モナ・リザ」のいちばん正確なメッセージを読みとっていたということになります。メッセージの内容はともかく、彼女が謎を隠していることだけは、感じたのですから。目は笑っていない、唇だけが笑っています。」
(若桑みどり『イメージを読む――美術史入門』筑摩書房、1993年、127頁~128頁)

「モナ・リザ」のほんとうの謎とは、いったいなんなのか。
ひとつの結論として、若桑氏は、レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」に隠した謎とは、ひとくちにいえば、「神のいない宇宙観」であると解釈している。
もしもこのときレオナルドが自分の思っていること(神のいない宇宙観)を言語でいっていたなら、首がとんでいたことだろう。人びとは、そこになにかが秘められていることを正しく読みとったが、これは謎だといい伝えてきたと説明している。
もっとも、それは主として「女は謎だ」というような超ロマンティックなことでもある。
つまり、神様、聖霊、純潔を信じていた、信じなければ異端で首がとんでいた時代に、レオナルドは冷静に生命と生命をつなぐのは生殖であり、そしてまた胎盤であると考えていた。
レオナルドは、生命の根源を母なるものとみた。
「聖アンナと聖母子」(1510年頃、ルーヴル美術館)に象徴的に表示されているように、母から子へ、子から孫へという生命の授受を表現している。
聖アンナという母の母という存在を、すべてを知る大地母神的なものと解釈する学者がいる(『レオナルドの愛』を書いたフマガッリ)。大地母神という存在は太古から神話として一般的であるが、ある学者は、聖アンナを自然であり大地であると解釈している。聖アンナのほほえみを、「すべてを知るものの笑い」と主張している。

その聖アンナの顔は、その前の1503年頃描かれたと思われる「モナ・リザ」の顔とよく似たほほえみをうかべていると、若桑みどり氏も指摘している。大地と女性のつながり、生命が女性から女性へと伝えられていく、こういう一種の生命と女性と大地といったレオナルド特有の観念を表現している。
(若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房、1993年、58頁~59頁、100頁~106頁)

【若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房の新版はこちらから】

イメージを読む (ちくま学芸文庫)

若桑みどり氏によれば、「モナ・リザ」の背景は、マクロコスモスの運命、つまり地球のたどっていく運命であり、女性は人類、つまりミクロコスモスであると解釈される。
そしてこのミクロコスモスの運命を示す大地の女であるリザは、自分自身が特定の個人でないということを示すために、いかなるアクセサリーも、自分自身の身分をあかすものも何も持たないとする。

そして「モナ・リザ」の笑いは、「聖アンナ」の笑いであると若桑氏はみている。つまり、すべてを知るものの笑いであるという。
(ちなみに、若桑氏の恩師は、「モナ・リザ」の謎は女性の心の謎であると講義した。その恩師とは、『イメージを読む』の献辞に「東京芸術大学の教授である故摩寿意善郎先生に献ぐ。美術史に入門したころの思い出のために」(2頁)とあり、摩寿意善郎先生を指す)
また、若桑氏は、「モナ・リザ」の目は笑っておらず、唇だけが笑っていると記している。

さて、「モナ・リザ」の笑いを聖アンナの「すべてを知る者の笑い」であると解する見解について、若桑氏は『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年[1989年版])という著作において、より詳しく論じている。
これは、ジュゼッピーナ・フマガルリの名著「レオナルドのエロス」の中で唱えられた(注25)
(注25) G.Fumagalli, Eros di Leonardo, Milano, 1952.
若桑氏によれば、レオナルドの「聖アンナと聖母子」の聖母子の背景は、現実的な大地で、木の立つ褐色の地が広がる、そこに立つ松(もしくは松科の木)は、不死と永遠の生命のシンボルである。それに対して、聖アンナの背景は、原初的な大地の姿でモノクロームに近い非現実的で鉱物的な世界である。つまりアンナの背景に浮かび上がる木ひとつない岩山の風景は、あらゆる虚飾を脱ぎ去った大地の真の姿である。そうとなれば、緑の葉や色をもつ花々は、人々の生命のごとく、はかなく偶然的なる転変のたわむれにすぎない。アンナは、この「大地」の真実の姿を知っているというのである。
そして、仔羊(すなわち殉教)からわが子を引きはなそうとしているマリアを静かなほほえみで見守っている。
この場合、アンナのほほえみは、、地球の生と死を見わたした省察者レオナルドの笑いであると、若桑氏は解釈している。(レオナルドは、晩年、地球の始まりと終わりについて省察していた)。つまりアンナのほほえみは、母の母すなわち大地母神(グラン・マードレ)の笑いであるというのである。
(若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社、1984年[1989年版]、59頁~60頁、363頁注25参照のこと)

【若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社の新版はこちらから】

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「モナ・リザ」の微笑についての田中英道氏の解釈


田中英道氏は、「モナ・リザ」の微笑について、どのように考えているのだろうか。
この点、田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]「第八章 果たしてモナ・リザか」の「3 マリアの微笑」において述べている(266頁~272頁)。

「聖アンナ」図のふたりの女性の微笑と同じ性格のものが、「モナ・リザ」の方にもあると田中氏はみている。
レオナルドの他の肖像画はただ生真面目で威厳のある顔ばかりなのに、この「モナ・リザ」だけは、現世的な苦しみなどを超越した微笑みを浮かべている。
このような微笑みは、「ジネヴラ・ベンチ」にもミラノで描いた数点の肖像画にもあらわれていない。
というよりも、15世紀(クアトロチェント)の肖像画のほとんどすべてにあらわれていない。ギルランダイオやポライウォーロのプロフィルやロッセリーノの胸像にわずかにそれを感じられるものもあるが、これほどはっきりした微笑はない。
(微笑というものは、この世のものではなく、聖母子や天使たちのみに与えたものであったからであろうとも付言している)

16世紀(チンクエチェント)になると、貴婦人の身ごなしのうちに、この微笑の必要性が感じられたようだ。
1541年に発行された『貴婦人の完全なる美しさについて』という書物は、女性の微笑の必要性を説き、その仕方まで教示している。
≪口もとを右隅で閉じ、わざとらしくなく無意識に微笑するかのように口を左側でひらき、これに伴って適度にひかえ目に無邪気なしぐさで少し眼を動かす≫

ただ、顔だけの微笑や、ヴァザーリのいうように、音楽や道化師によりもたらされる笑いといったものは一時的なものに過ぎない。
「モナ・リザ」微笑は、もっと女性の理想的状態に関わっている微笑で、マリアとアンナの微笑が結合されたような微笑ではないかと田中氏は述べている。

この微笑があらわれたのは、レオナルドにおいては「三王礼拝」図以後である。「受胎告知」図や「カーネーションの聖母子」には「ジネヴラ・ベンチ」同様まだ微笑はあらわれていなかった。しかし「三王礼拝」図の後の「岩窟の聖母」から、そこに至福感を伴う笑みが微(かす)かにあらわれる。それは二重人物というレオナルド独得の人間観が表現されるようになるからであると田中氏は推測している。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、266頁~269頁)

【田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫はこちらから】
レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯 (講談社学術文庫)


ケネス・クラーク氏やダイアン・ヘイルズ氏の見解


ケネス・クラーク氏やダイアン・ヘイルズ氏は、『モナ・リザ』の微笑についてどのような見解を述べているのだろうか。
まず、クラーク氏は、ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(法政大学出版局、1974年)において、次のように述べている。
『モナ・リザ』は、各世代が解釈改めをしなくてはならない芸術品の一つである。ヴァレリ氏の主張に従い、彼女の微笑を顔のひだとして片づけることは、敗北を認めることである。それはまたレオナルドを誤解することでもある。蓋し『モナ・リザ』の微笑は、永続的な材料において捉えられ、そして固定された複雑な内的生命の最高の見本であって、レオナルドがその主題に関するすべての彼のノートにおいて、芸術の主要な目的の一つとして主張しているものであるからである」
(ケネス・クラーク(加茂儀一訳)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(法政大学出版局、1974年、175頁)
ポール・ヴァレリのように、『モナ・リザ』の微笑を顔のひだとして片づけることは、敗北であり誤解であるとする。『モナ・リザ』の微笑は、「複雑な内的生命の最高の見本」であるとクラーク氏は捉えている。

一方、ダイアン・ヘイルズ氏は、その著作「10 肖像画の制作が進行中」において、次のように述べている。
「レオナルドの微妙な陰影表現によって、目や口の端の輪郭はおぼろに溶け込んでいる。唇の端はやや上がっているが、両端は非対称で、これが微笑効果を生んでいる。
 この「生身の女性」は、私の眼前でこちらを見つめる。カメラが発明される数世紀も前に、レオナルドは肖像画を通じて写真と同じ正確さで生命を捉えている」
(ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、251頁)

原文には、次のようにある。
Leonardo’s sfumature (subtle shadings) blurring into an uncertain look at
the corners of her eyes and mouth. Her lips rising but stopping on the
very cusp of an asymmetrical smile.
The face of una donna vera stirs before my eyes. Centuries before the
invention of the camera, Leonardo captured the immediacy of a photo-
graph in a portrait of life itself.
(Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, p.176.)

【単語】
blur    (vt., vi.)汚す(れる)、ぼやけ(させ)る
cusp    (n.)とがった先、尖端
capture   (vt.)捕獲する、(人の心を)つかむ
immediacy  (n.)直接性

ヘイルズ氏も、「モナ・リザ」の唇の両端は非対称(an asymmetrical smile)であることを指摘し、これが微笑効果を生んでいると評している。ただし、西岡文彦氏が鑑賞するように、目と口元が矛盾する二つの表情が微笑の中で斜めに交差している点には、言及していない。
(西岡、2016年、34頁~35頁参照のこと)

【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード


「モナリザ」の微笑みに関するスカイエレーズ氏の解釈


セシル・スカイエレーズは、著者略歴によれば、1985年からルーヴル美術館のキューレーター(学芸員)として勤務し、2002年からチーフ・キューレーターをつとめ、ルーヴル美術館における「モナリザ」の保存管理の責任者となっていた人物である。
著作としては、
〇Cécile Scailliérez, Léonald de Vinci ; La Joconde,
Édition de la Réunion des musées nationaux musée du Louvre, Paris, 2003.がある。
その翻訳本が、
〇セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナリザの真実』(日本テレビ放送網株式会社、2005年)である。

なお、西岡文彦氏は、その著作『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)の中でも、このスカイエレーズ氏の著作を『モナ・リザ』の公式書籍に近い本として推奨している。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、116頁参照のこと)

そのセシル・スカイエレーズ氏は「モナ・リザ」の微笑みについて、みてみよう。
スカイエレーズ氏は、『モナリザの真実』(日本テレビ放送網株式会社、2005年)の「15世紀の肖像画の完成と超越」(Accomplissement et dépassement du portrait du XVe siècle)という章の「リザ・デル・ジョコンドの特性 微笑み」(L’attribut de Lisa del Giocondo : le sourire)において、「モナリザ」の微笑みについて述べている。
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、73頁~83頁。なお、花岡氏は「モナリザ」と表記している)

15世紀を通じて、ヨーロッパ各地の肖像画家たちは描こうとする人物の特徴を示すため、たとえば花や宝石など、その人を意味するものを持たせたりした。
レオナルドもまた、この種の精神的な遊びに興味をもち、名前にちなんだ絵柄合わせをした。
たとえば、「ジネヴラ・ベンチの肖像」で、上半身をビャクシンの茂みの陰から浮かび上がらせ、絵の裏側にもまた、両側をヤシと月桂樹の枝ではさんだビャクシンを描いている。それがベルナルド・ベンボの紋章の一部分と同じことから、ベンボがこの肖像画の依頼主であり、モデルはその愛人とされている。
また「白貂を抱く貴婦人」では、腕には白貂が抱かれている。これはギリシャ語でガレ、つまりガレラーニというチェチリア・ガレラーニという姓のはじまりと同じである上、1490年頃にガレラーニの愛人だったルドヴィコ・イル・モーロのニックネームであった。

このように、作品解説をしたあとで、スカイエレーズ氏は「モナリザ」の微笑みについて、次のように解説している。
「このような肖像画表現へのアプローチは「モナリザ」で頂点を極める。レオナルドはこのなかに物質的な装身具などではなく、手で持つことのできないもの、つまり微笑みを描くことで人物の特徴を表している。イタリア語のジョコンドはラテン語にするとジョクンドゥスとなり、そこには幸せとか快いという意味がある。そして微笑みはフランチェスコ・デル・ジョコンドの名前に含まれる、心の落ち着きや幸福を連想させる。「モナリザ」は1584年のロマッツォの著書で最初にジョコンダと書かれるのだが、これほど早い時期からそうよばれるようになったのも偶然ではない。ジョコンダという名前は、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻という公の身分と、幸せという精神的な状態を表している。つまり「モナリザ」は名前を借りた言葉遊びのなかでも、もっとも洗練された方法をとった肖像画といえる。描かれた人物の内面を描きだすために、儚く消えていく微笑みの瞬間をとらえたのだ。もちろんその人物名については疑問がすっかり解消されたわけではないが、考えれば考えるほど、この絵のなかの重要な要素である微笑みは、やはりジョコンドの妻リザをひそかに示していると結論づけたくなる。洞察力に優れたヴァザーリが、ジョコンドの妻リザという名と、神のものと表現した微笑みとの符合を、もっと掘り下げて言及しなかったことは意外でもある。しかし実はもっと遠回しな方法でやっていたのだ。それは憂鬱になるのを避けるために頼んだ道化師と音楽家の、ある有名なくだりで、そこに秘められた意味がそのままあてはまる。そもそもレオナルドはこの肖像と微笑みを描くのに長い時間を費やしている。音楽家や道化師に毎回つきあってもらえるような短い期間の仕事ではない。つまりヴァザーリの示したストーリーは、どこからが真実でどこからが創作かを見極めるのは難しいし、そんなことにはほとんど意味もない。肖像画に描かれた女性の顔に幸せの象徴が表れていることが重要なのだ。」
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、76頁~80頁)

この叙述の内容をまとめておこう。
〇肖像画表現へのアプローチは「モナリザ」で頂点を極める。
〇レオナルドは装身具などではなく、微笑みを描くことで人物の特徴を表している。
〇イタリア語のジョコンドは、幸せとか快いという意味がある(ラテン語のジョクンドゥス)
微笑みは、フランチェスコ・デル・ジョコンドの名前に含まれる「幸福」を連想させる。
〇「モナリザ」は、1584年のロマッツォの著書で最初にジョコンダと書かれる。
ジョコンダという名前は、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻という公の身分と、幸せという精神的な状態を表しているとする。つまり、「モナリザ」という絵は、名前を借りた言葉遊びのなかでも、もっとも洗練された方法をとった肖像画であるとスカイエレーズ氏は理解している。肖像画に描かれた女性の顔に幸せの象徴が表れていることが重要である。
次のような連想が働くとする。
微笑みという要素→ジョコンド(ジョクンドゥス)→幸せ→フランチェスコ・デル・ジョコンド→その妻リザ

「ジネヴラ・ベンチの肖像」ではビャクシン、「白貂を抱く貴婦人」では白貂が人物像の身元を知る手がかりになっていたが、「モナリザ」では微笑みこそが、それを知る重要な要素だったというわけである。

さらに、スカイエレーズ氏の解説をみてゆこう。
「モナ・リザ」の微笑みは、自然に心からわきあがったものではなく、理想的な微笑み、微笑みの概念を絵にしたものであるという。
フーケやアントロネッロの描いた微笑みは親しみやすく、思わず笑いかえししそうになり、自発性や瞬間性があるのに対して、「モナ・リザ」の微笑みには、そうしたものがなく、微笑みが永遠に続くように見える組み立てになっているとみている。
リザ・デル・ジョコンドの肖像画は、フィレンツェの一婦人の本当の顔を超えて「モナ・リザ」となり、レオナルドの描いたほかのすべての微笑みの属する神の域へと到達しているという。
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、80頁~81頁)

この点について、説明しておこう。
15世紀の肖像画の大部分は、よそよそしく控えめで、なにを表現するかより、本人に似ていることに心が砕かれた。
また、その当時に描かれた等身大の肖像画を数えるより、微笑んでいる肖像画を探す方が、ずっと難しいといわれる。さらにそのふたつをあわせ持っているものとなると、至難の技である。
そういう意味で、「モナリザ」の微笑は当時珍しいものである。
そのレオナルドの先駆者について、スカイエレーズ氏は解説している。
まず、ジャン・フーケ(1420年頃~1477年/1481年)の次の作品を挙げている。
〇フーケ「道化師ゴネッラの肖像」1440年頃 板(樫) 36×24㎝ ウィーン 美術史博物館
このフーケの描いた絵は、道化師ならではの純粋な微笑みを満面に浮かべている
また、アントネッロ・ダ・メッシーナ(1430年頃~1479年)の次の2枚の作品を挙げている。
〇メッシーナ「男の肖像」板 30×25㎝ チェファルー マンドラリスカ美術館
〇メッシーナ「男の肖像」板 27×20㎝ ニューヨーク メトロポリタン美術館アルトマン・コレクション
メッシーナは、1475年以前から、微笑みの微妙な区別に関心があったようで、陽気だったり、物思わしげだったり、また軽く嘲笑的でさえある微笑みの肖像画を何枚も繰り返し描いている。
そして、ファン・エイクには、次の作品がある。
〇ファン・エイク「ジョヴァンニ・アルノルフィーニ」ベルリン 国立ギャラリー
〇ファン・エイク「ヤン・デ・リュウ」1436年 ウィーン 美術史博物館
抑えた描写だが、これらの人物像の目元と口元にかろうじて微笑みらしき様子がうかがえる。強烈にモダンなこの表現が、上記の作品群の出発点となった。

フーケやアントネッロの描いた微笑みは親しみやすく、思わず笑いかえしそうになり、そこが「モナリザ」とは違う。
「モナリザ」には、そういう自発性や瞬間性がなく、微笑みが永遠に続くように見える組み立てになっていると、スカイエレーズ氏はみている。
そうした理想的な時間を超えた考え方は、15世紀から16世紀にかけてのフィレンツェにぴったりだったようだ。つまり、美しさというのは、たとえ顔であれ体であれ、目に見えない心の美しさを表しているのだという新プラトン主義のメッカであった土地柄である。

この点、花岡敬造氏は、次のような訳注をつけている。
「15世紀、フィレンツェでは、メディチ家が設立したプラトン・アカデミーを中心に新プラトン主義が発展した。当時はビザンチン帝国から多数のプラトンの写本がイタリアに流れ込んで、プラトン哲学の再評価が見られた。メディチ家のコジモとその孫のロレンツォ・イル・マニフィコはこれらの写本を収集し、イタリア語に翻訳させた。これはプラトンの哲学とキリスト教思想の統合を目指したもので、メディチ家の庇護を受けたフィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラがその代表。この思想はボッティチェリやミケランジェロにも、大きな影響を及ぼした。」
このように、15世紀のフィレンツェでは、メディチ家の庇護を受けて、フィチーノやミランドラらが中心となって、新プラトン主義を発展させ、その思想はボッティチェリやミケランジェロに影響を与えた。

こうした土地柄であったから、後に「モナリザ」の微笑みについて、次のように考える人も出てきたという。
アーニョロ・フィレンツオーラの理論的小冊子『チェルソ 女性の美しさについて』(1541年に書かれ1548年に刊行)に書かれた定義に、「モナリザ」の微笑みは沿っているとする。
この本によると、微笑みというのは、心の輝きを表すために生まれ、体のすべてを美しく見せるものだという。そして気持ちよく、しかもそっと微笑むための方法が示されている。すなわち、次のようにある。
「ときおり、甘美で生き生きとした調子で、口の左端を秘密めかして開いて微笑しなさい。わざとらしくなく無意識といった調子で。これがほどほどに控えめに優雅に、罪のない媚びと目の動きをともなって実行されると、これはきざではありません。」
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、122頁注129)

この微笑みが心を表すという説は、ダンテやペトラルカなど、文学の世界では脈々と受け継がれてきた考え方にもつながるそうだ。彼らにとっての微笑みは、恩寵の表れや天国の門であり、心の美しさを表す大切な要素だった。
そして、ヴァザーリが神のものと書き記した「モナリザ」の微笑みもまた、そういう考え方から生まれたものだったとされる。
(たしかにきっかけは名前にちなんだ表現だったかもしれないが、レオナルドの描いた「モナリザ」の繊細な微笑みは、それを大きく超えていったとスカイエレーズ氏は付言している)

ところで、ダンテは『神曲』に登場するベアトリーチェの目と微笑みで表したかったものを『饗宴』の中で解説している。つまり目と口は「心の窓」だから、魂はそこにヴェール越しに表れるというのである。
その考えに賛同したマーティン・ケンプは、「モナリザ」は微笑みという面で、ダンテのベアトリーチェやペトラルカのラウラと同じ、つまり人の姿を借りた完璧さだといいきっているようだ。
[M. Kemp, Leonardo da Vinci. The marvellous Works of Nature and Man, Londres-Melbourne-Tronto, 1981, pp.267-268.]
(スカイエレーズ(花岡敬造訳)、2005年、123頁注132)

このケンプの見解に、スカイエレーズ氏はコメントしている。
こうした知的背景は、ボッティチェリの「春」(1478年頃 フィレンツェ ウフィッツィ美術館)に描かれたローマ神話の女神フローラの微笑みにも表れている。肖像画についてはボッティチェリよりもレオナルドの方が先に手がけていたようだが、この女神の微笑みは新プラトン主義の意味あいからすると、「モナリザ」を超えているという。
また、優しさと悲しさや、知性と感情の機微、脆さと儚さ、そしてとりわけ神々しい微笑みは、同じ頃の「聖アンナと聖母子」(ロンドン ナショナルギャラリーのカルトン/ルーヴル美術館の絵画 板[ポプラ] 167×112㎝)や、その後の「洗礼者聖ヨハネ」(板[クルミ] 69×57㎝ ルーヴル美術館)や「レダ」(紛失 複製で現存)を描いたレオナルドの興味の対象だったとする。

そして、リザ・デル・ジョコンドの肖像画は、フィレンツェの一婦人の本当の顔を超えて「モナリザ」となり、レオナルドの描いたほかのすべての微笑みの属する神の域へと到達する。
だが、その微笑みには曖昧なところが残っていて、それを見る人を混乱させるようだ。
「モナリザ」を見て最初に思うこと、そして最後まで印象が続くのは、ここに描かれたのが神ではなく、あくまで肖像であるからだとスカイエレーズ氏は理解している。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、80頁~83頁)

スカイエレーズ氏は、「モナ・リザ」の微笑について、次のように述べている。
「この「モナリザ」の微笑みにはさらに、いわくいいがたい雰囲気、わずかな皮肉のようなものが感じられる。それは口元からよりむしろ視線からくるもので、「モナリザ」の理想的な抽象性を和らげ、地上世界につないでいる。これこそは「モナリザ」を実見していないヴァザーリに、この絵について報告した者が見逃さなかった点である。「モナリザ」の表情を説明するのに、微笑みを表すsorrisoではなく、冷笑に近いghignoという言葉を使っているのだ。そこには少しのいたずら心、からかいという意味が含まれ、フランス語にあてはめようとすると「揶揄するような、からかいの微笑み」となる。20世紀になると、「モナリザ」の微笑みをしつこく愚弄する傾向があらわれたが、「モナリザ」自身がこれを挑発したとはいえまいか。」
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、83頁)

この「モナリザ」の微笑みには、いわくいいがたい雰囲気、わずかな皮肉のようなものが感じられるという。
それは口元からよりむしろ視線からくるもので、「モナリザ」の理想的な抽象性を和らげ、地上世界につないでいるとみる。これこそは「モナリザ」を実見していないヴァザーリに、この絵について報告した者が見逃さなかった点である。
「モナリザ」の表情を説明するのに、微笑みを表すsorrisoではなく、冷笑に近いghignoという言葉を使っている点に、スカイエレーズ氏は注意を促している。
ヴァザーリの「画人列伝」のフランス語訳においては、ghignoという言葉がもつ悪意と軽い嘲りのニュアンスが従来伝えられてこなかったそうだ。そこには、少しのいたずら心、からかいという意味が含まれ、フランス語にあてはめると、「揶揄するような、からかいの微笑み」となるという。
(セシル・スカイエレーズ(花岡敬造訳)『ルーヴル美術館公式コレクション モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社、2005年、80頁~83頁、123頁注135)

【スカイエレーズ『モナリザの真実』日本テレビ放送網株式会社はこちらから】

モナリザの真実―ルーヴル美術館公式コレクション



≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その2≫

2020-10-10 18:26:17 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その2≫
(2020年10月10日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


今回は、西岡文彦氏の『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)以外の著作である次の2冊の本を参照しながら、西岡文彦氏の『モナ・リザ』理解を紹介していこうと思う。
〇西岡文彦『モナ・リザの罠』(講談社現代新書、2006年)
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)
『モナ・リザの罠』に拠りつつ、美術批評家のウォルター・ペイターにまつわる誤解の原因などを解説する。そして、『謎解きモナ・リザ』を基に、『モナ・リザ』という絵画の基本的特徴と、新発見資料の意外な筆者について、説明しておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・美術批評が仕掛ける罠 ウォルター・ペイター
・≪補足≫上田敏と夏目漱石
・吸血鬼呼ばわりされたモナ・リザ
・怪物メドゥーサを描くダ・ヴィンチ
・夏目漱石とモナ・リザの「不惑」
・西岡文彦『謎解きモナ・リザ』という著作
・『モナ・リザ』の特徴について
・モデルたちの肖像
・新発見資料の意外な筆者






美術批評が仕掛ける罠 ウォルター・ペイター


『モナ・リザ』に関する本を開くと必ずといっていいほど、お目にかかる名前がウォルター・ペイターである。オックスフォード大学の先生で、『モナ・リザ』についての世界で最も有名な文章を、19世紀に書いた。
その文章は、英語美文のきわみとして日本にまで知られた。明治翻訳詩の金字塔『海潮音』を編んだ上田敏(うえだびん)を心酔させた。
そして、東大英文科で教えていた夏目漱石もペイターを授業のテキストに使っていたそうだ。

このペイターの『モナ・リザ』論のなかでも、有名なくだりが、次の一節である。
「彼女は、自分を取り囲む岩よりも年老いている。吸血鬼のように何度も死んで墓の秘密を知った。真珠採りの海女となって深海に潜り、(中略)東洋の商人と珍奇な織物の交易もした。レダとしてトロイのヘレンの母であり、聖アンナとしてマリアの母であった。」
(富士川義之訳『ルネサンス/美術と詩の研究』白水社、62頁)

【かつて、ブログでこのテーマで記事を書いたことがあるので、参照していただきたい】
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫

西岡氏は、この一節について、ほとんど意味不明なまでに「文学的」であると評している。そのために、絵を客観的に解説するという批評本来の機能を失っていると批判している。むしろ『モナ・リザ』を題材にした「詩」と思ったほうがわかりやすいと付言している。
ただ、困ったことにはペイター以降の批評家の多くは、この「名文」を意識せずに、『モナ・リザ』の批評を書くことができなくなってしまった。

例えば、現代英国の美術史家であるケネス・クラークなども、この絵について書こうとすると、「ペイターの不滅の言葉が耳から離れず」、自分がなにを書いたところで浅薄で無価値なものにしかならないように思える、とペイター・コンプレックスを告白しているそうだ。

こうしたペイター崇拝もあって、『モナ・リザ』評といえば、なにやら「文学的」なことを書くのが通例のようになる。つまり、エッセイなのか詩なのか、わからないような「批評」が続々と登場することになる。読者も、この絵を見るには、「文学的」な思いにふけらなくてはいけないような錯覚を背負わされてしまう。いわば、ペイター的な批評の被害者となっている。

しかし、西岡氏は、主張する。ダ・ヴィンチ自身が『モナ・リザ』を絵画によって視覚的に表現している以上、それを見た感想が言葉にならないのは当然のことである。むしろ、そうした言葉にならない思いをかみしめることの方が、作者の意図にかなっているとさえいえる。「批評」が「罠」になることもあると西岡氏は注意を促している。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、5頁~7頁)

≪補注≫
なお、神秘的な作風でノーベル賞を受賞した詩人W.B.イエィツが編んだ『オックスフォード近代詩選』(1936年)は、その巻頭にペイターを載せている。
(こちらは、通常の文章としてではなく、文字どおりの詩として、次のように分かち書きをしてある)

彼女は自分の座を取り囲む岩よりも年老いている。
吸血鬼のように、何度も死んで、墓の秘密を知った。
真珠採りの海女となって深海に潜り、その没落の日の雰囲気をいつも漂わせている。
東洋の商人と珍奇な織物の交易もした。
レダとして、トロイのヘレンの母であり、
また、聖アンナとして、マリアの母であった。
そしてこれらすべては、彼女にとって琴と笛の音にすぎなかった。
これらすべてはただ生きるのだ。
(A.R.ターナー『レオナルド神話を創る』白揚社より)
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、64頁~65頁)

ドナルド・サスーン氏も、その著作の第6章の冒頭に、このイエィツの詩を次のように引用している。
In 1936, in his idiosyncratic introduction to his Oxford Book of
Modern Verse 1892-1935, W.B. Yeats reprinted part of Walter
Pater’s famous prose passage on the Mona Lisa as free verse
to underline its ‘revolutionary importance’ :
She is older than the rocks among which she sits;
Like the vampire,
She has been dead many times,
And learned the secrets of the grave;
And has been a diver in the deep seas,
And keeps their fallen day about her,
And trafficked for strange webs with Eastern
merchants:
And, as Leda,
Was the mother of Helen of Troy,
And, as Saint Anne,
The mother of Mary;
And all this has been to her but as the sound of lyres
and flutes,
And lives…
(Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishers, 2002, p.136.)

【Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishersはこちらから】

Mona Lisa: The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)


≪補足≫上田敏と夏目漱石


ペイターに心酔する上田敏は、雑誌『明星』にペイター論を掲載した。雑誌『明星』といえば、与謝野晶子の『みだれ髪』を世に送り、明治30年代の詩歌壇を恋と夢幻の浪漫精神で風靡したことで知られる。この雑誌に掲載された上田のペイター論は、全国の文学青年の胸をときめかせ、念願の東大入学がかなうや、上田教室へ向かった学生も多かったようだ。
上田敏といえば、訳詩集『海潮音』によって日本近代詩そのものの道を開いた人物である。東大大学院時代に『怪談』で有名な小泉八雲の指導を受け、「万人中の一人」と絶賛された語学の天才である。

また、当時の東大で一番人気の講座は夏目漱石の英文学講義で、他学科の学生までが押し掛けるほど盛況であった。やはりペイターを教材にしたが、漱石は「ペイターは判らん」あるいは「気六かし屋(きむずかしや)」や「八釜屋(やかましや)」といった言葉で評しており、上田よりはかなり冷めた目で見ている。
漱石は、真の英文学理解を目指したロンドン留学での猛勉強がたたって神経衰弱を病んだ後、小泉八雲の後任として東大で英文学の教鞭をとった。学生時代より秀才の誉れ高く、英語で著述して英国人と競うことの空しさを痛感し、英文学者から作家に転進することになる。
上田にしろ、漱石にしろ、明治日本を代表する二つの巨大な知性がいずれもペイターの英文を読んでいた。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、5頁~7頁、60頁~63頁)

吸血鬼呼ばわりされたモナ・リザ


なぜペイターは『モナ・リザ』を見て、よりにもよって「吸血鬼」を思い浮かべたのか。
この疑問について、西岡氏は解説している。
この点で、はっきりしていることがひとつあるという。ペイターが、ウフィッツィのメドゥーサをダ・ヴィンチ作品と信じて疑わなかったことである。つまり、誤解の発端は、ウフィッツィ美術館にある、次の絵にあるとする。
〇フランドル派『メドゥーサ』17世紀 油絵 ウフィッツィ美術館
この神話の怪物メドゥーサの生首の絵は、ダ・ヴィンチの伝記の記述に当てはまったせいで、ダ・ヴィンチの絵と誤解されてしまった。19世紀までの人々は、ダ・ヴィンチをグロテスク絵画の巨匠とみなしていた。
この絵は、19世紀半ばまでは抜群の人気を誇っており、多くの作家や知識人の『モナ・リザ』を見る目に「罠」をかけることになったと西岡氏は理解している。
ペイターの批評も、この絵と『モナ・リザ』を、同じテーマを描いた作品と誤解してしまったらしい。
つまり、ペイターの『モナ・リザ』観は、それがこのグロテスクな絵の作者によって描かれているという前提に立っている。加えて、この微笑する婦人像がルーヴルの洗礼者聖ヨハネの生首の原作者の絵だという、当時の常識の上に立っているという。

この聖ヨハネは当時のキーパーソンともいうべき存在であった。王に頼んで彼の首を斬らせた舞姫サロメこそは、この時代が生んだ最大なヒロインだった。
(そうした激しい気性のヒロインは、男の人生を狂わせ、生命までを危険におとしいれるから、「ファム・ファタル」つまり「宿命の女」と呼ばれた)

怪物メドゥーサを描くダ・ヴィンチ


〇フランドル派『メドゥーサ』17世紀 油絵 ウフィッツィ美術館
ウフィッツィ美術館にある不気味なメデゥーサの絵は、ヴァザーリの言葉の「罠」にかかり、18世紀にダ・ヴィンチ筆と認定されたようだ。19世紀の多くの知識人の『モナ・リザ』をみる目に「罠」をかけることになった。この絵と『モナ・リザ』を、同じテーマを描いた作品と誤解してしまった。
この事情を西岡氏は、「怪物メドゥーサを描くダ・ヴィンチ」と題して解説している。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、68頁~72頁)

メドゥーサは、その姿があまりにおそろしいため、見た者が石になってしまうという怪物である。これを退治に出かけた英雄のペルセウスは、楯を鏡にしてメドゥーサを映し、おかげで石にならずにメドゥーサの首をはねることができたといわれる。
ダ・ヴィンチは、この神話そのままに、楯に映ったメドゥーサの顔を描くことを思いついたようだ。
決め手となった文献は、ほかでもないヴァザーリであった。ヴァザーリが紹介したダ・ヴィンチのエピソードに、ダ・ヴィンチが不気味なメドゥーサを描いたことが述べられていたため、ウフィッツィ美術館のこの絵がダ・ヴィンチの作とみなされてしまった。
それは、古い楯になにか絵を描くよう、父に依頼されたダ・ヴィンチが、ギリシア神話の怪物メドゥーサを描くことを思いついたという話である。

ダ・ヴィンチは部屋に閉じこもり、トカゲ、こおろぎ、蛇、蝶、バッタ、コウモリといった動物をいろいろに組み合わせて、怪奇な動物をつくり出すが、作業に夢中で、死んだ動物が放つ悪臭も感じない様子であった、とヴァザーリは書いている。
それで、依頼した父も楯のことを忘れた頃に仕事は完成し、ダ・ヴィンチは父を呼び出して、部屋の採光を工夫して、中に入った瞬間、楯に実際にメドゥーサが映っているかのような錯覚を演出する。案の定、父セル・ピエロは仰天し、眼前にあるものが楯に描かれた姿に過ぎないことが信じられなかった、という。
(この話の真偽は別として、このエピソードは画家の本質をついたものとはいえると西岡氏は主張している。というのは、画家はその作品によって、神話の怪物さながらに見る者を凍り付かせてみたいという潜在的な欲望を持っているからとする)

さて、このヴァザーリの挿話に照らして、18世紀末にイタリア画家の伝記を編纂していたランツィという人物が、17世紀フランドル(現ベルギー)の無名画家のグロテスクなメドゥーサを、ダ・ヴィンチ作と「認定」してしまったそうだ。
ダ・ヴィンチの作とされるや、この恐ろしい絵の人気は急上昇し、19世紀半ばまでには、ダ・ヴィンチ作品の中でもトップクラスの知名度を誇るまでになっていた。
(なお、19世紀半ばには、ある貴族がルーヴル美術館にダ・ヴィンチ作の忠実なコピーであるとされる洗礼者聖ヨハネの首を寄贈して大評判になっているから、この頃になると、ダ・ヴィンチといえば、生首を思い出す人が少なくない状態になっていたようだ)

ペイターの『モナ・リザ』論も、こうした前提に立っており、はっきりとそのことを書いている。
「これらすべての群れをなす幻想が一つに結合してウフィツィの≪メドゥーサ≫となる。(中略)この主題は従来さまざまに扱われてきたが、レオナルドひとりがその核心に切り込んでいる。彼だけが、死のあらゆる状況を通じてその力を行使する死体の頭として、メドゥーサを理解している。」
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス――美術と詩の研究』白水社、2004年、108頁~109頁)

【ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス』白水社はこちらから】

ルネサンス―美術と詩の研究 (白水uブックス)

ペイターは、大変な持ち上げようである。
問題は、ここまで素直にメドゥーサをダ・ヴィンチ作品と信じてしまった以上は、もう1枚の傑作『モナ・リザ』にこの絵と共通したイメージを見出さないことの方がむずかしくなってしまうことにあると、西岡氏は指摘している。
そのため、モデルのモナ・リザは、吸血鬼呼ばわりまでされることになる。書いたペイターとすれば、このグロテスクなメドゥーサの画家の描いた、なにやら謎めいた薄笑いをする女性に、なんのいわくもないはずはない、というそれなりの「根拠」はあったわけである。

19世紀の人々のダ・ヴィンチに対するイメージは、多かれ少なかれ、こうしたグロテスクなイメージをともなうものであり、ダ・ヴィンチといえば、ホラー絵画の巨匠のような画家と思われていた。
ペイターのエクプラシス(作品記述)的な名文への人々の崇拝がこれに輪をかけることになり、『モナ・リザ』評といえば、「文学的」なのが通例になった。その上に、モナ・リザ自身のイメージもまた、神秘的で少なからずグロテスクなイメージをともなうことになり、一筋縄ではいかない女性としてのキャラクターが定着してしまうことになったと西岡氏は説明している。

また、サロメは、「恐ろしくも美しい」女性像として、当時の人々を魅了していた。19世紀末は、「魔性の女」の時代ともいえ、聖ヨハネの首をヘロデ王に頼んで斬らせた舞姫サロメが、この時代が生んだ最大のヒロインだった。
退廃的な作風で知られるオスカー・ワイルドはペイターを賞賛した。その戯曲『サロメ』や世紀末の画家達の妖しい美しさに彩られた画面に、サロメは登場した。サロメは、詩人シェリーによるメドゥーサ賛辞そのままに、恐ろしくも美しかった。
(そのブームは少し遅れて日本に上陸し、近代演劇最初の大スターといわれる松井須磨子も大正時代とも思えぬ過激な薄物コスチュームでサロメを演じた)

念の入ったことに当時は、洗礼者聖ヨハネの首を持ったサロメの絵でダ・ヴィンチ筆とみなされていたものまであったそうだ。だから、生首といえば、ダ・ヴィンチが思い浮かべられ、舞姫サロメであれ妖女メドゥーサであれ、「恐ろしくも美しい」女性像を描かせて、ダ・ヴィンチの右に出る画家はいないという世評が確立されていた。
こうした時代であったから、ペイターがモナ・リザを吸血鬼呼ばわりしているのも、当然といえば当然のことであると西岡氏は説明している。
つまり、「恐ろしくも美しい」ヒロインに恋した時代の仕掛けた「罠」を通してしか、この『モナ・リザ』という絵を眺められなくなってしまっていたという。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、7頁~9頁、68頁~74頁)

夏目漱石とモナ・リザの「不惑」


夏目漱石は、ペイターの本国の英国文学専攻の学者であった。漱石作品には、早くから『モナ・リザ』やダ・ヴィンチが登場する。例えば、次のような作品があるので、紹介しておこう。
〇『吾輩は猫である』
金縁眼鏡の美学者が、水彩を描く「主人」に「レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のシミを写せと教えたことがあるそうだ」と言う場面がある。

〇『三四郎』
上京する汽車の中で広田先生が三四郎に「レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が廻るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある」と話していた。

〇『草枕』
画工が「物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言葉に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある」と言ったりする。

漱石の蔵書目録に、メレジコフスキーの『神々の復活』の英語簡約版である『先駆者』が含まれているから、これをせっせと読んで取り入れたとも推測されている。

〇『行人』
主人公の下宿に突然兄嫁が泊まり覚悟で上がり込んで来る場面がある。その時「ジョコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦(すく)まざるを得なかった」という表現を使っている。
漱石作品によく見られる大胆な女性と優柔不断な男性が向き合う場面である。ファム・ファタルにおそれをなす小市民的な感受性を描くのに『モナ・リザ』の微笑が活用されている。

〇『永日小品』中の「モナ・リザ」
これは、モナ・リザの微笑にスポットをあてた短編である。
主人公は小道具屋で『モナ・リザ』と知らず、買ってきた複製を妻が気味悪がり、やがて壁から落ちて自然に割れたのを機に売り払ってしまうという幻想的な小品である。
メレジコフスキーを思わせる言葉が登場するのが、その複製画の額が割れる場面である。主人公は絵の裏にはさんだ紙に妙なことが書いてあるのに気づく。
「モナ・リザの唇には女性(にょしょう)の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダ・ヴィンチだけである。この謎を解き得たものはひとりもない」と、意味深長な文章で書いてある。モナ・リザもダ・ヴィンチも知らない主人公は気になってしかたがない。
翌日職場である役所の皆に聞くと、モナ・リザもダ・ヴィンチも誰も知らなかったので、結局この絵は細君のすすめに従って、5銭でくず屋に売ったという話である。

当時、一般の人々の『モナ・リザ』の認知度がどの程度であったかは、なかなかわかりにくいところではある。ルーヴル美術館からの『モナ・リザ』盗難がこの作品の2年後のことである。その折りの記事は、「ジョコンド」で報道しているし、絵についても先に紹介したような説明の仕方をしているから、この役所の皆の反応は、当時とすれば平均的なものであったのかもしれないと西岡氏はみている。
ちなみに、漱石はロンドン時代にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで開催された「昔日の巨匠展」(明治35年/1902)で『モナ・リザ』の複製を見ており、カタログに「不惑」の一語を書き込んでいるそうだ。
(この「不惑」についても、研究者の間で解釈が違い、神秘の微笑にも惑わされぬ心境のメモと見る人もいれば、「四十女の意味」と解釈する人もいて、謎が残るという)
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、85頁~87頁)

【西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書はこちらから】

モナ・リザの罠 (講談社現代新書)


【補足】
※夏目漱石の『永日小品』については、以前のブログで触れたことがあった。次の記事を参照にして頂きたい。
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫

西岡文彦『謎解きモナ・リザ』という著作


西岡文彦氏の『モナ・リザ』理解を深めるために、その著作『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)を紹介してみたい。
まず、その目次を記しておく。



【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』の目次】
はじめに 謎だらけの名画『モナ・リザ』
1 『モナ・リザ』 その画面の謎 /名画の見どころ 構図の魔術、秘密の署名
2 無感動の謎 /名画の証としての無感動 美的感動の不可逆反応
3 モデルの正体 /解明された美術史最大のミステリー
4 盗まれた世紀の名画 /フィレンツェで描かれた名画がパリにある理由
5 未完成の『モナ・リザ』 /画家の眼で見るために
6 美少年サライの謎 /少年愛のフィレンツェ 聖母マリアの面影
7 無学の天才 /万能の画家が不遇に終った理由
8 タッチを読み解く /宮廷美学としてのさりげなさ 天才の証としての筆づかい
9 風景画の誕生 /フィレンツェ・ルネッサンス散策のために
10 人物画の登場 /メダルから肖像画へ 顔の向きが意味するもの
11 ルネッサンスの薄暮(たそがれ) /バロックの闇 印象派の光
12 微笑の謎 /『モナ・リザ』は、なぜ微笑み続けているのか!?
おわりに ウフィッツィのカフェにて
文庫版あとがき






【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

『モナ・リザ』の特徴について


『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)において、西岡文彦氏は、謎の名画『モナ・リザ』にヨーロッパの全絵画史を読むことができるという。つまり、謎の名画『モナ・リザ』の画面には、古代ギリシアから印象派までのヨーロッパ美術の足どりが凝縮されているという西岡氏は主張している。

画面は当時の最新技術の油彩技法の集大成である。『モナ・リザ』は、77×53㎝であり、B2サイズ程度しかない。実際に見る『モナ・リザ』は驚くほど小さく感じられる。

『モナ・リザ』の特徴として、西岡氏は次の点を列挙している。
・絵のモデルは、絵画史上最大のミステリーである。
・神秘の微笑には、不機嫌と上機嫌の表情が斜めに交差している。つまり、温和な笑みと不機嫌な冷笑がみられる。
① 右目と左口元は柔和な微笑で、右目が笑っており、眉もおだやかな表情で、左口元は笑みを含んだ口の口角が上がっている
② 左目と右口元は不機嫌な冷笑で、左の眉根を寄せて、左目は笑っておらず、右の口角が上がっておらず、笑みを含んでいないとみる
・画面唯一の装飾である胸元のレースは隠れた署名といわれる。
・肩に羽織ったショールはギリシア彫刻以来のヨーロッパ美術の結晶である。
・ショールの内側に細見な肩の線が描かれている。
・衣の袖は描写が未完成である。
・人差し指がは陰影が未完成で板状に見える。
・背景のバルコニーの手すり部分は未完成である。
・背景の右と左では視点の高さにギャップがある。
・航空写真のように高所から見下ろした背景は現実にはあり得ない。
・遠景の山々には、印象派を予見する大胆なタッチがみられる。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、口絵Ⅰ「謎の名画に全絵画史を読む」、口絵Ⅱ、6頁~10頁)


モデルたちの肖像


『モナ・リザ』のモデル論争は、画面に人物の素性を物語る要素が描き込まれていないため、その結論を見出せずにいた。
これは当時の肖像画としいては異例の処置である。ダ・ヴィンチの他の肖像画と比較しても異例である。
20代前半で描いた『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』(1478年、ナショナル・ギャラリー)では、背景の木の名前「ジネヴラ(杜松[ねず])がモデルの名前の語呂合わせになっている。
30代終盤の作、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの愛人の肖像『白テンを抱く婦人像』(1490年、チャルトルスキ美術館)には、スフォルツァ家の紋章である白テンが描かれている。

こうしたヒントが、『モナ・リザ』の画面には一切見当たらない。
第一の材料である顔を視覚的な論拠に、マントヴァ侯妃イザベラ・デステ説を主張する向きもある。提唱者は、日本の美術史学者の田中英道氏である。

マントヴァは、北をヴェネツィア共和国、西をミラノ公国に接する小国だった。しかし、侯妃イザベラ・デステの外交手腕で、フランスと不可侵条約を締結し、平和と繁栄を獲得した。マントヴァ宮廷は、最新の芸術とファッションの発信拠点となった。才媛イザベラは、政治と芸術の両面で、ルネッサンスを代表する女性である。
そのイザベラは、隣国ミラノ盟主ルドヴィコがダ・ヴィンチに描かせた愛人の肖像『白テンを抱く婦人像』に感嘆した。再々にわたってダ・ヴィンチに肖像画の制作を依頼している。

肖像に描かれたルドヴィコの愛人チェチリア・ガッレラーニも、作品の出来には満足していたらしい。イザベラへの手紙で、ダ・ヴィンチの筆になる絵姿に比べ、自分の容色がはるかに衰えてしまっていることを嘆いている。
(謙遜とも取れる文面は、所蔵するダ・ヴィンチ作品の自慢と読めなくもないと西岡氏は解釈している)

芸術とファッショの女王たらんとしたイザベラが、ダ・ヴィンチ筆の肖像の獲得に躍起となったようだ。
ダ・ヴィンチがマントヴァに立ち寄った際に、イザベラに所望されて描いた素描も残っている。
〇ダ・ヴィンチ『イザベラ・デステの肖像』1500年 素描 ルーヴル美術館
この素描の顔と『モナ・リザ』の目鼻立ちが一致することが、モデルをイザベラとする説の論拠となっている。
事実、横顔のイザベラの素描と斜め向きの『モナ・リザ』を並べると、顔の位置、手の位置、目鼻立ちのすべてが完全に一致する。顔も、そういわれれば、似ていなくもない。
しかし、こうした一致は、他のダ・ヴィンチ作品にも見られるもので、人物の顔や身体の理想の比率を探求した結果ともいえると西岡氏は捉えている。つまり、ダ・ヴィンチにとっては、すべての絵画作品はその理想の反映であり、描く絵の顔の比率や体のプロポーションが一致しているのも当然だとみている。したがって、こうした一致を根拠にして描かれた人物が同一人物だとする議論は、多分に説得力に欠けると批判している。

また、『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの女性化した自画像だと解釈する説がある。
〇ダ・ヴィンチ『自画像』1515年頃 素描 ブダペスト国立美術館
やはり目鼻立ちが一致するため、『モナ・リザ』を自画像と見る研究者もいる。しかし、同様の理由で説得力を欠いていると西岡氏はみなす。

『モナ・リザ』=自画像説は以前から唱えられていた。加えて、1986年に米国のベル研究所のリリアン・シュワルツが、コンピュータを用いて解析し、話題となった。
画像処理コンピュータで反転した『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの自画像と重ね、目鼻立ちから髪の生え際までが完全に一致することを「証明」して、国際的な反響を呼んだ。
(コンピュータに限らず新種の技術が開発された際に決まって登場する。『モナ・リザ』を素材にしたデモンストレーションの一例に過ぎないと西岡氏はシュワルツ説を一蹴している。ダ・ヴィンチの描いた人物の顔が、一定の比率に従っていることが確認されただけのことであるという。内実のある作業とはいえないとする)

ダ・ヴィンチは人体像の理想の比率を探究していた。だから、その画業からすれば、当然の結果が出たに過ぎないと西岡氏は受けとめている。ダ・ヴィンチ自身、画家の描く人物像は画家の分身だと書いている。画家の描写は自己の身体の反映であり、本人の長所も短所もすべて現れると明言している。
このレオナルドの言い分からすれば、すべてのダ・ヴィンチの人物像は潜在的に自画像である。そして完成度の高い分だけ、『モナ・リザ』の「自画像度」も高いということになると西岡氏は解釈している。
シュワルツの処理はこの自画像度の高さを立証し、ダ・ヴィンチが絵画論に書いていることが、実作に反映されていることを示してはいる。しかし、モデルの特定に関しては、なんら意義を持つものではないと強調している。

このように、数々の仮説も、ヴァザーリの「美術家列伝」の記述をくつがえすには至っていない。この絵はとりあえず『モナ・リザ』すなわち「リザ婦人」ないしは「ジョコンダ」つまりは「ジョコンド夫人」と呼ばれ続けてきた。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、51頁~57頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)


新発見資料の意外な筆者


『モナ・リザ』が「リザ婦人」「ジョコンド夫人」であるとの説の決定的な証拠となったのが、2005年(2008年でないことに注意)、ハイデルベルクで発見された古文書の注記である。その内容は、ヴァザーリの記述を完全に裏付けるものであった。

注記は、1477年にイタリアで出版された初期印刷本の欄外に手書きが書き込まれていた。こうした書き込みは、印刷技術の登場以前の慣習の名残りで、書物を手書きで複製していた時代に、写本担当者が本文欄外に注記を入れたことに由来する。ヨーロッパの古い書物が、頁の余白を大きくとっているのはそのためである。

発見された注記は、ルネッサンス当時のラテン語の模範文集として刊行されていた古代ローマの文人キケロの書簡集にある。1503年当時、この書簡集を所蔵していたのは、フィレンツェの高級官僚アゴスティーノ・ヴェスプッチだったことが確認されている。
(アメリカ大陸を発見したアメリゴ・ヴェスプッチの従兄弟である)

注記は、このヴェスプッチによるものと見られ、キケロが親族に送った書簡を掲載した頁の余白に書き込まれている。
この書簡でキケロは、医者がキケロの頭脳ばかりを心配して、体の他の部分を治療しないと嘆いており、ヴェスプッチは、この部分の欄外に注記を書き込めているという。
さらに、古代ギリシアの画家アペレスもヴィーナス像の頭部と胸だけを仕上げ、他の部分は未完成のまま放置していたと注記している。それに続けて、当代のアペレスであるダ・ヴィンチもリザ・デル・ジョコンドの頭部は描いたものの、例によって未完に終るであろうし、政庁舎広間の壁画も同様の結果に終るに違いないとの懸念を記しているという。

注記は、ダ・ヴィンチがリザ婦人像に着手したと明記している。その上に、すでにダ・ヴィンチが作品を完成させない巨匠として知られていたことを伝えている。
当時、ダ・ヴィンチはフィレンツェにあり、フィレンツェ共和国の依頼で政庁舎の五百人広間で壁画『アンギアリの戦い』の制作に取りかかっていた。
(『アンギアリの戦い』模写[1603年、ルーヴル美術館]は、バロックの画家リューベンスによる素描模写である。)
この壁画は、フィレンツェ共和国がミラノ公国に勝利した歴史的戦闘の場面を描くものである。同じ広間の別の壁には、ミケランジェロが、フィレンツェがピサ共和国に勝利した『カッシーナの戦い』を描くよう依頼されていた。

二巨匠が競作することになったこの壁画の契約書に、当局を代表して署名したのが、ルネッサンスの政治思想家ニッコロ・マキャヴェリであった。
目的のためには手段を選ばぬ権謀術数主義を意味するマキャベリズムという言葉の語源となった専政マニュアル『君主論』の著者として知られる。マキャヴェリは、当時、フィレンツェ共和国政府の要職にあり、ダ・ヴィンチの親しい友人でもあった。
この少し前に知り合っていた二人は、互いの知性に魅かれて意気投合した。政庁舎壁画の依頼の背景には、マキャヴェリの政治力があったともいわれる。

50歳を過ぎたばかりのダ・ヴィンチと30歳を目前にしたミケランジェロという二人の大芸術家の激突を見守っていたのは、このルネッサンスを代表する理性の人マキャベリだった。30代半ばにさしかかろうとしていた頃のことである。

まさに巨大な才能のるつぼと化していたのが、当時のフィレンツェである。リザ婦人こと『モナ・リザ』が描かれたのは、そのフィレンツェでのことだった。
ダ・ヴィンチはミケランジェロとの壁画対決に備え、ラテン語で書かれた『アンギアリの戦い』の戦史をイタリア語に翻訳する作業をマキャヴェリの秘書官に依頼している。壁画に戦闘場面を再現するためには、このラテン語の戦史をつぶさに研究する必要があったようだ。ダ・ヴィンチはラテン語を苦手としていたからである。
ミケランジェロに遅れをとらぬためにも、彼は必須であった。この戦史の翻訳を依頼したマキャヴェリの秘書官が、先の注記を書き込んだヴェスプッチであった。
(注記に、リザ婦人の肖像画と同様に、政庁舎広間の壁画も未完成に終るのではとの懸念が記されているのはそのためであるらしい。壁画の完成は、マキャヴェリの秘書官であったヴェスプッチにとっても、他人事ではなかった。ダ・ヴィンチのために、ラテン語の戦史を訳したのもそのためであったようだ)

ヴァザーリ「美術家列伝」の記述は、ヴェスプッチの懸念の通り、リザ婦人の肖像が未完に終ったことを語っている。
いまだに異説を唱える向きはあるものの、このヴェスプッチによる注記の発見は、『モナ・リザ』のモデル論争に決着をつけるには充分のものであったと西岡氏はみなしている。
この絵がリザ・デル・ジョコンドの肖像であることは、ほぼ疑う余地がないと判断している。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、57頁~61頁)



※後述するように、ダイアン・ヘイルズ氏も、ヴェスプッチによる欄外の注記について言及している。
〇Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.163-167.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、234頁~238頁。「10 肖像画の制作が進行中」を参照のこと

なお、ヘイルズ氏は、この注記を書いた人物について、アゴスティーノ・ヴェスプッチ以外の見解も付記している。
【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード