歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫

2020-04-18 17:26:33 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫
(2020年4月18日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第16、17章の2章の内容を紹介してみたい。
次の2点の絵画が中心に解説されている。
〇アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第16章 天使とキューピッド アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
・西洋絵画と天使
・天使の種類
・クピドについて
・プットーについて
・ジャン・ド・グールモン『羊飼いの礼拝』について
・カロン作『アモルの葬列』について

第17章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』とポプラの木
・レオナルドの生涯と作品
・『モナ・リザ』について








第⑯章 天使とキューピッド アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール 『アモルの葬列』


アントワーヌ・カロン(1521~1599)
またはアンリ・ルランベール
『アモルの葬列』
1580年頃 164cm×209cm リシュリュー翼3階展示室10

西洋絵画と天使


写実主義の画家クールベは、「天使など見たことがない。だから描かない」と言った。
現実世界から遠い神々や天使、古代史の一場面などの主題にしがみついたままのアカデミーに対する批判であったようだ。逆に、象徴派のモローは「眼に見えないもの、感じるものしか信じない」と言っている。

ヨーロッパの美術館は天使にあふれており、ルーヴルで天使探しをすれば、途中で数えるのに飽きるほどであるといわれる(善天使、堕天使、顔しかない天使、キューピッド風天使など)。

天使とは何かと定義するのは、かなりややこしいようだ。
文字どおり、「天の使い」という日本語訳も混乱に拍車をかけているし、そもそも日本人にとって天使に善役と悪役がいるということ自体、形容矛盾とも感じられる。
そこで、一応の定義として、「神より下、人間より上の霊的存在が天使」としている。悪い天使というのは、かつて天使だったルシファーが神に反逆して悪魔に堕したものだそうだ。

天使の種類


紀元5世紀には、善い天使(御使い)にも階級制度が導入され、3階級9種類の天使がいたらしい。
〇第1階級~熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、座天使
 ※熾天使は神への愛で燃えているため赤い色で、智天使は智にあふれていて、色は青であり、座天使は特に色の指定がない。
 ※モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』に登場する恋に恋した若者、ケルビーノの名は、智天使(ケルビム)からきているという。

〇第2階級~主天使、力天使、能天使
 ※星と四大元素を支配するが、絵画にはほとんど描かれない。

〇第3階級~権(ごん)天使、大天使、天使
 ※大天使には、悪魔と戦うミカエル、処女マリアに受胎告知するガブリエル、若者や旅人の守護者ラファエルが有名である。美術作品への登場回数はきわめて多い。
 ※天使はたいてい群れをなしている。もともとは髭の男性がイメージされていたようだが、ルネサンス期の両性具有的で光輪を持つ姿を経て、バロック期に有翼(ゆうよく)の幼児姿へと変じたため、クピドと見分けがつかなくなったそうだ。

ここに問題点の1つがあると中野氏は指摘している。
すなわち、天使階級の末端にいる天使を、バロックの画家たちが、ギリシア・ローマ神話におけるクピド(キューピッド、アモル、エロス)と同じ姿形に描いたために、宗教画と神話画の区別が難しくなったという。

クピドについて


次にクピドとは何かというのも、ややこしい。クピドはヴィーナスの息子である。
(ただし、父は誰かわからず、戦の神マルス説、ゼウス説、また無性生殖説があるようだ)
クピドは愛を司り、その黄金の矢に射られた者は恋の虜となる。
このいたずらな愛の神は、初めのうち優美な若者として描かれたが、やがて少年となり、ついには幼児となった。
クピドは画面に増殖してゆき、彼らがいるだけで愛のテーマが暗示されるというコンセンサスもできてくる。

プットーについて


西洋人も区別するのがめんどうになったらしく、有翼幼児をひとまとめにして、「プットー(ラテン語の「男の子」が語源)と呼ぶことにしたそうだ。こうしてプットーは、ある時は天使、ある時はヴィーナスの息子、ある時は単なる愛の印となる。判別するには、聖書に関連した人物の周りにいわば天使、ゼウスやヴィーナスなど神話の登場人物の周りにいればクピドとなると中野氏は説明している。

ジャン・ド・グールモン『羊飼いの礼拝』について


グールモンのこの絵画も、ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室9にある。
これは、聖母マリアが厩(うまや)でイエスを産むこと、羊飼いたちが拝みにやって来た、という聖書の一節を絵画化した作品である。
絵画では、厩ではなく、壮麗なローマ建築の廃墟が舞台となっている。そして聖家族や羊飼いより、プットーたちの方が目立っている。彼らの中には、雲霞(うんか)のごとく飛び回っている。
これらのプットーは天使である。天井近くの中央部には、顔だけの天使3人が隊列を組んでホバリングしているのが注目される。これこそ、天使たちの最高峰、ケルビムやセラフィムであるそうだ。

一方、第2章でみたヴァトーの『シテール島の巡礼』にも、画面左手、船の上を飛翔しているプットーがいた。彼らは、天使ではなく、神話の住人クピドである。というのは、このシテール島が愛欲と美の女神ヴィーナスを祀っているからである。

このようにプットーを区別しうると、中野氏は説明している。ちなみにキューピー人形につても付言している。
日本人は、羽をつけた「はだかんぼう赤ちゃん」といえば、キューピー人形をイメージする。アメリカ産キューピー(Kewpie)はスペルこそ故意に変えたものだが、もちろんクピド(キューピッド Cupid)をモチーフにしたものである。

ただ、天使の種類については、画家も間違ったり、画面の効果のため勝手に変更したりするので注意を要する。例えば、フーケの『ムーランの聖母子』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がそうである。

ここには聖母を天へ運ぶ赤いセラフィムと青いケルビムが描かれているが、本来なら顔だけのはずの第一級天使が胴体を持ち、しかも翼にまで色が付いている(ただし、この絵の場合、椅子ごと持ち上げるため、手足が必要だったかもしれないと中野氏は推測している)

カロン作『アモルの葬列』について


タイトルに天使か否かが明記されていれば、話が早い。
カロン(ないしカロン工房)作『アモルの葬列』がそうである。
原題の「アモル」は単数形であるから、アモルたちが担ぐ死者は人間ではなく、仲間のひとりだとわかる。
技術的には、下手うま絵の部類に属するようだが、その着想の奇抜さが面白いと中野氏は評している。
画面全体も葬列のわりに明るく、黒頭巾姿のアモルたちはチャーミングだし、主題は謎めいており、日本人に人気な作品だそうだ。

舞台は古代ローマで、アモルたちは死んだ仲間を、月の女神ディアナの神殿に運ぼうとしている(天空にはその処女神自らが金の橇[そり]に乗っている)。

本作の完成年は特定されておらず、1580年頃とされる。なぜなら、1560年代半ばに死去した有名人がいるからである。それは、アンリ2世の寵姫だった絶世の美女ディアーヌ(ディアナのフランス語読み)である。
またカロンは、宮廷詩人ロンサールと仲が良かった。プレイヤッド派の筆頭ロンサールは、詩集『讃歌集』において宮廷を神話世界になぞらえている。アンリ2世をローマ神話最高神ユピテル(ゼウス)に、王妃カトリーヌ・ド・メディシスをその妻ユノ(ヘラ)に、愛妾ディアヌ・ド・ポワティエを女神ディアナに見立てて讃えた。

これらの事実から、『アモルの葬列』において、柩に横たわる蒼白のキューピッドは、肌の透きとおる白さで知られたディアーヌと解釈されている。おおぜいの詩人を従え、葬列の後ろで指揮するのはロンサールであるとされる。

ところで、当時でさえ、アンリ2世のディアーヌへの執心ぶりは驚嘆の的だった。ふたりの出合いは11歳と31歳の時である。まだ王太子だったアンリの教育係として、20歳も年上の未亡人ディアーヌがあらわれた。美しさと賢さを備えた彼女に少年は恋をし、王になっても、正妃カトリーヌ・ド・メディシスを娶っても、その思いは揺るがなかった。この運命的な恋は何と30年近くも続いた。アモルの矢に貫かれた神秘のなせる愛ともみなされた。しかし、40歳のアンリ2世が、馬上槍試合で事故死し、恋人たちに別れが突然やってくる(有名なノストラダムスの予言がからむともいわれる)。

ディアーヌは田舎に退き、7年後、66歳で病死した。引き続き宮廷詩人の座に留まったロンサールは、ディアーヌがいた頃の華やかな宮廷を懐かしんだことであろう。
アンリの死後、政治の実権は妃カトリーヌに握られ、国は宗教内紛(「ユグノー戦争」へ発展)へ突入していく。
『アモルの葬列』はそんな頃、描かれた。

しかし一つ奇妙な点があると中野氏は付言している。
カロンが直接仕えていたのは、アンリではなく妃カトリーヌだった。彼女の恋仇ともいうべきディアーヌの王への讃美するのは許されるのか? それとも本作は反カトリーヌ派の貴族に依頼されたものか? そもそもこの絵はディアーヌにもアンリにも全く無関係なのか? 
実は本作も、近年アンリ・ルランベール作という説が出されているという。
(作者が確定するまでは、魅惑のディアーヌとこの死んだクピドを結びつけておくことにすると中野氏は断っている)
(中野、2016年[2017年版]、212頁~224頁)

第⑰章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』


ダ・ヴィンチ(1452~1519)
『モナ・リザ』
1503~1506年 77cm×53cm ドゥノン翼2階展示室6

『モナ・リザ』とポプラの木


中野氏は、『モナ・リザ』を解説するにあたり、ポプラの木の話から始めている。
周知のように、物品としての『モナ・リザ』は、カンバスに描かれたものではなく、ポプラ材である。すでに500年以上も経っているので、環境の変化に弱く、脆い。保護ガラスを付けた上、7~8センチの防弾ガラス付きで完全防御されるのも、やむをえない。
このフランスの至宝は、1962年にアメリカへ、1974年に日本と旧ソ連に貸与され、1911年の盗難事件のときにイタリアへ持ち出されたことがある。しかし、もう二度と海外へ貸し出される可能性もない。ルーヴル門外不出の傑作である。

レオナルドの生涯と作品


次にレオナルドの生い立ちを述べている。周知のように、レオナルド・ダ・ヴィンチという名は、「ヴィンチ村のレオナルド」の意で、トスカナ地方のヴィンチ村で生まれたので、そう呼ばれる。

公証人をしていた父と、若い女性の間に生まれた庶子だった。まもなく父は別の女性と結婚し、村を出てしまい、実母も2年足らずで他の男性へ嫁いだので、レオナルドは父方の祖父母のもとで正式な教育は授けられずに育った。
(庶子は公証人のようなエリート職にはつけられず、両親とりわけ母親の欠落は精神面に影響があったであろう)

中野氏は、幼い頃からのレオナルドの特徴として、姿形の美しさ、旺盛な好奇心と移り気を挙げている。好奇心とセットになった移り気は死ぬまで変わらなかった。レオナルドの関心は絵画や彫刻だけでなく、建築学など幅広く、死体の解剖も30体ほど試みた。そして左手ですらすら書かれた鏡文字で、膨大な手稿(5300ページ分が現存)を遺したことは有名である。

老年になるまで興味の的が変わり、なかなか完成させられない欠点があった。このことは、ヴァザーリも『ルネサンス画人伝』において「彼があれほど気まぐれで不安定でなければ、その博識と学問上の知識から多大な利益を引き出せたであろうに」と記している。
未完成に終わらせるこの癖は、レオナルドの完璧主義というもう一面からきているとも、満足へのハードルが高すぎたともいえる。『モナ・リザ』さえも未完なのだから。

さて、巨匠の第一歩は、14歳でヴィンチ村を出て、フィレンツェでもっとも盛名あるヴェロッキオ工房に入った時に始まる。その後、20歳で独立して画家組合に登録された。
この頃の作とされる『受胎告知』は、花の雌蕊と雄蕊を敢えて描き入れることで、聖書の処女受胎のありえなさをひそかに暴いたとされる。24歳のとき、男色容疑で逮捕されるという危機もあったが、幸い無罪放免となる。

レオナルドには、ラファエロのように大規模工房を経営して、多作に励み、後継者を育成しようという能力も興味もなかった。また生涯独身で、少数の弟子や美少年を連れ、パトロンを求めて、イタリア各地を転々とした。
(端的に言えば、変人であると中野氏はみなす)。

30歳でミラノ公イル・モーロに気に入られ、ミラノへ移住する。
ここでは、次の2点を完成させる。
〇『岩窟の聖母』
 (ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5、グランドギャラリー)
〇『最後の晩餐』
 (イタリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵)
ただし、どちらも大きな問題を残した。
『岩窟の聖母』の方は、依頼者である教会との契約を守らず、訴訟沙汰のあげく、もう1枚描かねばならなくなる。
(ただし、ヴァージョンをレオナルド本人が全て描いたかどうか疑問符がつく。こちらはロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵であるが、ルーヴル版より見劣りする)

最初に描いた作品は依頼者が受け取りを拒否したため、巡り巡ってルーヴルに収まった。モナ・リザにも匹敵する魅惑の天使が登場する傑作であり、教会側に見る目がなかったとしか言いようがないと中野氏はみている)

次に『最後の晩餐』については、画像消滅問題である。
本来、壁画にふさわしいのは、フレスコ画法である。漆喰を下塗りし、それが乾かないうちに顔料で描く画法である。しかし、手早さが必要な上、修正がきかないという欠点がある。レオナルドのように完璧主義者がもっとも嫌う技法である。
そこで、レオナルドは、顔料に卵や油などを混ぜるテンペラで仕上げた。案の定、完成直後から顔料が剥落してしまう。

さて、レオナルドは47歳でミラノを去ることになる。フランス軍が進撃し、イル・モーロが失脚したことによる。マントヴァ、ヴェネチアとまわり、再びフィレンツェへ戻る。かのチェーザレ・ボルジアのもと、建築総監督の職を得る。この時、次の作品を手がけている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇壁画『アンギアリの戦い』
政府から依頼され着手したが、またもフレスコではなく、顔料に蝋を混ぜた独自の油彩を使い、早く乾かそうと火を当てたので、顔料が溶け、大失態となり幻の大傑作となってしまう。嫌気がさしてそのまま放り出してしまう。

54歳でまたもミラノに移る。フランス人総督シャルル・ダンボワーズに庇護され、絵画はほとんど描かず、好きな研究をして過ごしたが、7年後に終わりを迎える。ダンボワーズの急逝とミラノの政治情勢の悪化が原因であった。
61歳のレオナルドは、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの招待により、ローマに移るが、ここも安住の地にはならなかった。3年後、ジュリアーノが病死して後ろ盾を失ったことによる。

フランス王の若き王フランソワ1世が救いの手を差しのべる。右手も麻痺し、もはや大作完成は不可能なレオナルドは、ようやく放浪の旅を終える。
フランソワ1世は以前からこのイタリアの巨匠に心酔していたので、豪華な邸宅と高額の年金で遇して敬意を表した。
レオナルドは二度と故郷に戻らぬつもりで、全ての荷を馬車に積んだが、そこには、次の3点の絵画が含まれている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー
(※2作品の制作年代、サイズは不記載)
レオナルドは3年近い悠々自適の余生を送る。

『モナ・リザ』について


ここで中野氏は、『モナ・リザ』の解説をしている。
まず最初に、『モナ・リザ』については、語り尽くされ研究し尽くされた感があると断っている。イメージはあふれかえり、すでに大衆向けイコン(聖画像)の域に達している。詩やポップスやSF小説にまで取り上げられ、デュシャンの髭モナ・リザなどのパロディ画も多い。

こうなると、現代日本人が偏見のない目でモナ・リザに向き合うのは、至難の業だともいう。夏目漱石の小説集『永日小品』で、「気味の悪い顔です事ねえ」「此の女は何をするか分らない人相だ」という明治時代の主婦がもらした感想が新鮮に思えるほどだと中野氏は嘆いている。

『モナ・リザ』の解説は、まずモデル問題について言及している。
モデルに関しては、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステだとか、レオナルド本人だとか、さまざまな説があった。しかし、2008年、ハイデルベルク大学図書館蔵書に16世紀の書き込みが見つかり、長年の論争に決着がついたとみている。
その書き込みには、
「レオナルド・ダ・ヴィンチは今三枚の絵を描いており、その一つがジョコンド夫人のリザである」
とある。
これにより、ヴァザーリの時代から言われていたとおり、モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、この絵の別名が『ジョコンダ』なのも正しかったと中野氏は述べている。

しかしそれなら、なぜ注文主に渡さなかったのかという疑問がわく。
この点については、これが未完だったからかもしれないとする。
例えば、椅子の肘掛けに置いた左手をよく見ると、人差し指と中指が、まだ指としての体(てい)を成していないし、小指も不完全だとわかる。

画面では、いわゆる回廊の円柱に注意を促している。
椅子の背の向こうは手摺りになって、その厚みの部分に半円の黒いもの(画面両側)が見えるが、円柱であろうとみられている。というのは『モナ・リザ』を見て感動したラファエロがいくつか似た作品を描いており、どれにも回廊の円柱が描き込まれているからである。したがって『モナ・リザ』は両端を切り取られた可能性がある。

次に背景について目を向けている。この背景は明らかに現実の景色ではないという。
地平線が右は高く、左は低い。視線も右は鳥瞰的だが、左はそれより下からのもので、両者は繋がらない。右に古代のローマ水道橋が見えているので、左は原初の風景、右は文明時代を示すという説がある。
いずれにせよ、レオナルドが特別に好んだものは、岩石と水であった。『モナ・リザ』のドレスの複雑な模様も水の性質に関連するかもしれないともいわれている。

周知のように、『モナ・リザ』はスフマート手法で描かれている。
スフマートとは「煙」からきた言葉で、明暗の微妙で繊細な諧調によって、輪郭線を靄(もや)のようにぼかす効果のことである。
ダ・ヴィンチはその『絵画論』において、「現実の色彩には固有の色がない。物体には線としての輪郭はない」と記している。この言葉どおり、スフマート技法で描かれたリザ夫人は、まるで生きてそこにいるかのように生々しいと感じられる。

次に、『モナ・リザ』の笑みと顔について触れている。
この絵の吸引力は、彼女の不思議な笑みと顔にある。
ここで中野氏は、顔に関する心理実験を例に引いている。
つまり、個人より複数の女性の顔をコンピューターで合成した顔の方が、美人と認知される確率が高まるそうだ。それも10人20人と数多くなればなるほど魅力的と結論づけられるという。
それはつまり平均的な顔ということになり、実在しない顔ということになる。これは、モナ・リザの普遍的イメージに似ていると中野氏は主張している。

ところで、通常の肖像画では、家紋や宝石などモデルを特定するためのヒントを画面に入れるものなのに、ダ・ヴィンチはいっさいそれをしていない。というのは、たとえモデルはリザ夫人でも、ダ・ヴィンチがその先に求めたのは、それこそコンピューター合成のような、どこにも実在しない究極の美だったと中野氏は私見を述べている。
(中野、2016年[2017年版]、225頁~239頁)

【補注】

※夏目漱石の『永日小品』については、以前のブログで触れたことがあった。次の記事を参照にして頂きたい。

≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫




≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫

2020-04-18 17:26:33 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年4月18日投稿)
 




【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第13、14、15章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇カラヴァッジョ『聖母の死』
〇ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
〇ラファエロ『美しき女庭師』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第13章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
・カラヴァッジョが生きた時代
・カラヴァッジョの『聖母の死』完成まで
・カラヴァッジョの『聖母の死』について

第14章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
・ヴァン・ダイクとベラスケスの共通点
・ヴァン・ダイクの略歴
・最高傑作『狩り場のチャールズ1世』について
・ヴァン・ダイクの『チャールズ1世の子供たち』について

第15章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
・聖母マリアについて
・ルネサンス三大巨匠の聖母子像
・ラファエロの『美しき女庭師』
・ラファエロという画家








第⑬章 不謹慎きわまりない! カラヴァッジョ『聖母の死』


カラヴァッジョ(1571~1610)
『聖母の死』
1601~1605/1606年 369cm×245cm ドゥノン翼2階展示室8グランドギャラリー

カラヴァッジョが生きた時代


ミラノ生まれのカラヴァッジョは、6歳ころペストで父を亡くし、13歳で家を出て、画家(ティツィアーノの弟子だった)の工房に住み込み、徒弟として腕を磨いた。1592年、21歳で一旗揚げるべくローマへ向かった。
(生来、喧嘩早かったこの問題児はミラノを逃げ出したともいわれる)

ところで、当時のイタリアはまだ統一国家ではなかった(秀吉の朝鮮出兵と時代が重なる)。
ヨーロッパの覇者は、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世で、ミラノ公国など、スペインの半支配下にあった。長靴形の地域は、政情不安で、外国軍の駐留、異端審問、暴力が蔓延していた時代である。

中野氏は、幾つかの事件、エピソードを記している。
例えば、カラヴァッジョが生まれる10年ほど前に、かのティツィアーノにまつわる事件がある。
ヴェネツィア在住のティツィアーノは、大パトロンのフェリペ2世からの年金受け取りを息子オラツィオに命じた。息子はミラノで2000ドゥカーテンを受け取った後、知人のもとに泊まると、知人は剣で襲いかかり、強奪した。怒ったティツィアーノはフェリペに手紙で訴えたのに逮捕された犯人は、罰金とミラノからの追放刑で事は済まされたそうだ。

またカラヴァッジョがローマへ出て数年後に、2つの事件が起こる。
1つは、美しいベアトリーチェ・チェンチが父を殺したとして広場で斬首された(伝グイド・レーニの『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』イタリアのバルベリーニ宮殿[国立古典絵画館蔵])。また、ジョルダーノ・ブルーノが宇宙は無限と主張して異端審問にかけられ、火刑に処せられた。
(これらの公開処刑のありさまを、カラヴァッジョは群集にまぎれて見物したかもしれないという)

貴族でさえ食い詰めて山賊稼業に転じる者もいた世の中であった。カラヴァッジョは常時、帯剣しており、頭に血の上りやすいタイプであった。彼の荒々しい生き方や、生涯を貫く暴力沙汰も、生きた時代とも深く関わってくるようだ。
カラヴァッジョの絵がいやに生々しくリアルで、画中の暴力行為も(ルーベンスなどのように美的に洗練されることなく)暴力そのものとして迫ってくるのは、時代の子としての側面を抜きには語れないと中野氏は捉えている。

そのことはまた、生前あれだけ流行児として、もてはやされながら、早くも17世紀半ばには古臭い作風と斥けられ、忘れ去られた理由とも中野氏は考えている。強烈な光と闇のっ表現が後世の画家に大きな影響を与えながら、本人の作品はあまりにリアルで、世俗的である否定された。

カラヴァッジョの再評価は、意外にも、戦後1951年のミラノでの大回顧展がきっかけだったそうだ。それに対して、生前から現代に至る数百年間、評価も人気も揺るがないミケランジェロ、ティツィアーノ、ブリューゲル、ルーベンスの凄さを、改めて認識させられる。

カラヴァッジョの『聖母の死』完成まで


カラヴァッジョはローマに着くと、静物画や風俗画を描いて売り始めるが、しばらくは赤貧洗うがごとしの生活だったらしい。それでも筆遣いの見事さは次第に知られてくる。
25歳ころには、トスカナ大公国大使デル・モンテ枢機卿というパトロンがつく。自分の居城に住まわせ、創作と販売の後押しをしてくれた。

カラヴァッジョの名声を決定づけたのは、1600年、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂に収めた傑作『聖マタイの召命』をはじめとする『マタイ』三部作である。聖書世界が美化されることなく、今ある現実そのもののように描かれた。

そして『聖母の死』は、この評判を受け、翌年1601年、サンタ・マリア・デッラ・スカーラ・トラステヴェレ聖堂の祭壇画として発注された。完成に数年かかった。理由は日にわずかの仕事しかしない上に、その間に2度も逮捕されたりしていたからだという。

カラヴァッジョの『聖母の死』について


カラヴァッジョの『聖母の死』は、約3.7×2.5メートルの縦長画面の大作で、赤が効果的に使われている。
芝居の一場であるかのように、木枠の天井から豊かな襞の緞帳(どんちょう)がまくれあがり、死者の周りを男たちが囲む。

登場人物は見るからに市井(しせい)の貧しい者たちであるので、タイトルがなければ、異教徒には何が起こっているのかわかりにくい。
光は上から斜めに降り注いでおり、鑑賞者はまず手前の若い女性のうなじから背へと目を惹かれ、次いですぐ上の赤い衣の女性の顔へと移ってゆく。ここで初めて、彼女の頭部に細い金色の光輪があるのに気づき、聖母マリアとわかる。中野氏は、このように「ディスクリプション(作品叙述)」を進めている。

聖書には記されていないのに、根強いマリア信仰が生み出したエピソードである。
老いたマリアは死を予感し、使徒らに別れを告げた。その夜イエスが現れ、彼女の魂を天へと運ぶ。肉体はそのまま地上にあったが、3日目に再び魂が肉体と合体し、イエスの「蘇りなさい」という言葉とともに昇天した(聖母被昇天図は名作が多い)。
聖母は不死なので、この3日間のことは正確には「死」ではなく、「お眠り」とされるそうだ。

カラヴァッジョが描いたのは、そのお眠りのさなかの聖母である。そしてかたわらで、うなだれるのは、マグダラのマリアである。そして中・老年になった使徒たちである。
そう知って見直しても、ここに展開されているのはリアルな人間の死の様相である。
聖母のモデルに関して、テヴェレ川で自殺した娼婦の溺死体をスケッチしたと噂された。それもあってか、発注した教会は本作品の受け取りを拒否した。

しかし、別の買い手があらわれる。ちょうどローマに滞在中だったルーベンスが真価を見抜き、マントヴァ公に購入を勧めた。やがてそこからルイ14世の手に渡り、ルーヴルに収まる。

本作完成時を、1605年末とすると(1606年説あり)、カラヴァッジョは34歳である(寿命はあと5年しかない)。
画力は最盛期にあり、乱暴狼藉も最高潮である。1600年~1605年にいたるまで、ローマ警察には、犯罪歴が記録されている(剣で襲い負傷させたり、投石して建物を損壊したりしている)。
そしてついに、1606年の運命の5月には、乱闘事件でひとり刺し殺してしまう。パトロンの手立てによりローマを脱出し、ナポリ、マルタ島などへ逃げる。

画家としての人気は揺るぎなかったので、逃亡先のマルタ島では、大聖堂に大作『洗礼者ヨハネの斬首』を残している。
ほとぼりも醒めたとして、船でローマへ向かう途上で、38年の生涯を終える(死因は熱病とも殺されたとも言われ、不明である)。

カラヴァッジョは、残念ながら正式の自画像を残していない。
そのため『メドゥーサの首』や『ダヴィデとゴリアテ』が自画像ではないかとか、近年では『バッコス』の持つ特大のワイン用フラスコに顔が映しこまれているなどといわれる。
なお、オッタヴィオ・レオーニが描いた肖像画は知られているが、制作されたのが死後10年以上も経ってからのものなので、信用できるとは限らないようだ。
映画ではデレク・ジャーマン監督が、ゲイとしてのカラヴァッジョを描いた。カラヴァッジョの作品中の青年たちの肉体は、女性より艶っぽいと中野氏は付言している。
(中野、2016年[2017年版]、175頁~186頁)

第⑭章 その後の運命 ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』


ヴァン・ダイク(1599~1641)
『狩り場のチャールズ一世』
1635年頃 266cm×207cm リシュリュー翼3階展示室24

ヴァン・ダイクとベラスケスの共通点


ヴァン・ダイクとベラスケスは誕生年が同じ(1599年)で、人生において数々の称号や栄誉、地位と富に恵まれた点も同じであるそうだ。その上、政治的能力には欠けているが、芸術的審美眼に優れた国王をパトロンに持ったのも同じである。
(その王と王家の人々がビジュアル的にさほど魅力がないのに、見映えの良い肖像画に仕上げた点も共通しているという)

傑出したこの二人の画家は、チャールズ1世とフェリペ4世というそれぞれの大パトロンによって、優遇され、宮廷内で仕えて、王侯貴族の肖像を量産した(なにせヴァン・ダイクは40枚もチャールズ1世像を描かせられた)。

17世紀にひとかどの画家となるには、有力なパトロンの庇護のもとに入るのが、もっとも近道だった。豊かな宮廷が増加し、どこも華やかさを求めていた。ヴァン・ダイクがイギリス・スチュアート王家の、ベラスケスがスペイン・ハプスブルク王家の筆頭宮廷画家となり、騎士に叙せられ貴族社会に溶け込めたのは最高の名誉であった。

ヴァン・ダイクの略歴


ヴァン・ダイクはフランドルの裕福な家庭に生まれ、早くから才能を発揮し、巨星ルーベンスの助手として働いた。
その後イタリアで6年にわたり先達の作品を研究しながら制作し、肖像画家としての名声を確立する。
ヴァン・ダイクがイギリスの招聘を受諾したのは、そこが長らく画家不毛の地であったためと推測されている。大陸ではルーベンスが立ちはだかり、乗り越えることができないとみて、新天地で頂点に立ちたいと考えたようだ。
ヴァン・ダイクは肖像画(ドイツのアルテ・ピナコテーク蔵)からもわかるように、人好きする容姿に恵まれ、言動も洗練されていた。
(後には王妃の女官と結婚したほどである)

高貴な人々は安心して彼の前でポーズがとれた(この点、カラヴァッジョやゴッホなら、そうはいくまいという)。そして彼の華麗な絵筆は、対象の細やかな感情を描きだし、実物を優に3倍アップして見せたようだ。

例えば、チャールズ1世妃ヘンリエッタ・マリア(フランス王アンリ4世の娘)像も30枚ほど描いているが(夫は40枚の肖像画)、実際に会ったドイツの貴族女性は、肖像画でイメージしていた王妃とは似ても似つかないと辛辣に書いている。
当時の肖像画を見る場合、心得ておいた方がよいと著者はいう。

最高傑作『狩り場のチャールズ1世』について


ルーヴルには、ヴァン・ダイクの最高傑作『狩り場のチャールズ1世』がある。これはイギリス肖像画の方向を決定づけた名品であると評されている。
それまでの国王肖像画と違い、王権神授を示す玉座もなければ、王笏も王冠もない。そして歴代国王がまとう重々しいガウンもない。また、イコンを髣髴とさせるフロンタル・ビュー(正面像)でもない。

一見、田舎貴族の狩猟風景かと見紛うばかりである。
公式肖像でないことを差し引いても、自然の中でくつろぐ王の姿は当時の人々の目に新鮮だったそうだ。狩猟の途中で一休みした王が、ふと視線をこちらに向けたところを描いている。肖像画に物語的要素を加え、またイギリス人のカントリーライフ好きに合致した自然と溶け合わせることで、画面を生き生きと描かせたと中野氏は解説している。

もちろん最高権力者をほのめかす小道具が無いわけではないそうだ。
例えば、王が与える狩猟権や貨幣鋳造権を象徴する手袋(とりわけ左手袋が高貴を示すとされる)。また右手に持つ杖は王杖(おうじょう)を想像させる。何より画面右下の石の上にラテン語で「Carolus. I. Rex Magnae Britanniae(イギリスを統治する王チャールズ1世)」と記されている。

王の顔も繊細に描写されている。例えば、チャールズ1世のトレードマークである、あごの山羊鬚(やぎひげ)と、先のツンと上向いた口髭(くちひげ)である。この2点セットは当時流行のヒゲの形で、後世、「ヴァン・ダイクひげ」と呼ばれるようになる。

中野氏は、この肖像画について、絶対君主にしてはロマンティックな色あいが濃く、どこか悲劇的で哀愁が漂うようにすら感じられるとみている。この10数年後のピューリタン革命で、暴君と糾弾され処刑される。
チャールズ1世が専制的だったのは間違いなく、政治的宗教的妥協を拒み、それが革命を引き寄せた。よく見れば、その眼差しは冷たく人を見下し、こちらへ突き出した肘も人を拒否しているともみえる。

ともあれ、チャールズ1世は、ヴァン・ダイクによって作られた自らのイメージを気に入ったようだ。妃ヘンリエッタ同様、本作でも巧妙に隠されていることがあると中野氏は指摘している。
例えば、王は子ども時代に患った病気のせいで、身長がかなり低かった。小柄な王を、画家は下から仰ぎ見る構図によって、その事実を忘れさせた。さらにそばの駿馬(しゅんめ)がへりくだるように、頭を垂れることで、王の体格の見当はつきにくくなっている。

ヴァン・ダイクの『チャールズ1世の子供たち』について


宮廷画家の役割には、王や王妃のほかに幼い王子王女を描く仕事も入っていた。ベラスケスがマルガリータ(フェリペ4世の娘)を描いて、少女の永遠の理想像となったが、ヴァン・ダイクも愛らしい子ども像を数多く描いた。

スペイン・ハプスブルク家は後継者問題に悩まされ続けるが、チャールズ1世と妃ヘンリエッタ・マリアは子だくさんであった。イギリスのウィンザー城には、ヴァン・ダイクの『チャールズ1世の子供たち』という肖像画があり、5人の子どもが描かれている。

中野氏は、この5人の子どもを丁寧に解説している。
まず左から長女メアリ、三男ジェイムズ(女児服を着ている)、次男チャールズ(夭折した長男の代わりに世継ぎの王太子となった)、次女エリザベス、三女アン(四男はまだ生まれていない)。
政略結婚ではあったが、チャールズ1世夫妻は仲むつまじく、父王は子煩悩だったといわれ、本作の王子王女に屈託はない(だが、このほぼ10年後、運命は暗転する)。

ところで、もともとイギリスはカトリック国だったが、ヘンリー8世が王妃を離縁して、アン・ブーリンと結婚したいがために、ヴァチカンと縁を切り、国教会を樹立した。その後、娘のメアリー女王がカトリックへ逆戻りしたり、次いでエリザベス1世が再びプロテスタントへ戻した。
そしてチャールズ1世は、カトリック国フランスから妃を迎えた。しかもヘンリエッタ・マリアは、改宗しないことを婚姻の条件にしたので、人民からは憎まれたようだ。王は宗教問題を権力で押さえつけようとし、ついにクロムウェル率いる革命派のもとで処刑されてしまう。ヘンリエッタ・マリアは実家のフランス宮廷に次女と四男を連れて亡命する。

画面中央で大型犬の顔をなでている次男(実質嫡男)が、後のチャールズ2世である。新王として凱旋するのは30歳のときである。「陽気な国王」のあだ名で、元気で贅沢な暮らしをして、在位25年間、謳歌した。ただし王妃との間に子がなく、王位は弟に移る。

その弟が本作左から2人目で、52歳で王位を継ぎ、ジェームズ2世となる。ただし、カトリック信仰を表明したため、3年足らずで名誉革命が起こり、国外追放になる。
また、左端のメアリ(クルクル巻きヘアの少女)は、オラニエ公(オランダ総督)ウィレム2世妃となる。
(彼女の産んだ男児が、兄ジェームズ2世の後継として、ウィリアム3世となるのだが、29歳で病死した彼女はそれを知らないままだった。
なお、ヴァン・ダイクの『オラニエ公ウィレム2世と花嫁メアリースチュアート』(1641年、オランダのアムステルダム国立美術館)がある)

そして画面右端の赤ちゃんアンは、ルイ14世の弟と結婚した(しかし夫婦仲が悪く、一時はルイ14世の愛人だったことでも知られる)。
さて、画家のヴァン・ダイク本人は、ピューリタン革命が起こる前、42歳の若さで死んでいる。結核だったらしい。
(中野、2016年[2017年版]、187頁~197頁)

第⑮章 不滅のラファエロ ラファエロ『美しき女庭師』


ラファエロ(1483~1520)
『美しき女庭師』(『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ』)
1507年 122cm×80cm ドゥノン翼2階展示室8グランドギャラリー

聖母マリアについて


聖書には、聖母マリアについての記述が少ない。受胎告知や厩(うまや)での出産、カナの婚礼(結婚式に母子で出席し、そのときイエスが水をワインに変える奇蹟を起こす)など、わずかである。
男尊女卑の色濃い聖書および初期教会の教えでは、イエスの聖性を強調するため、母マリアは単に神の子を産む女性にすぎない扱いだった。

しかし、マリアを崇めたがる人々は増えていく。母なるものへの素朴な憧れや、かつての地母神(じぼしん)信仰の遠い記憶が、くり返しマリアと結びつこうとしたようだ。
カトリック公会議はマリアを聖なる存在と認め、マリアは礼拝の対象となる(プロテスタントはこの限りにあらず)。

画面上のマリアは、単独であったり、大天使ガブリエルに受胎を告げられる姿であったり、幼子を抱く聖母であったり、イエスを屍(しかばね)を膝におくピエタ像であったりする。
中でももっとも好まれたのは、聖母子像である。若いマリア、愛らしいイエス、時に洗礼者ヨハネ、稀に養父ヨセフなども加わった。

ところで、イタリア・ルネサンス期は、独立的な富裕市民層の台頭とともに、宗教画の世俗化が進んだ時代である。だから、家父長として威厳あるヨセフ、子を慈しむ母マリア、守られる幼子といった聖家族が、家庭の理想像としてもてはやされた。

ルネサンス三大巨匠の聖母子像


ルネサンス三大巨匠ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの聖母子像について、中野氏は比較検討している。
例えば、ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』(ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー)は、背景が異様な洞窟であり、幼子の上で広げた指の形の無気味さとも相俟って、マリアには、モナ・リザと同じ神秘性を中野氏は感じている。母という以前に、人間を越えており、存在自体が謎で、親しみやすさは無いという。

次に、ミケランジェロによる『聖家族』(イタリアのウフィツィ美術館蔵)のマリア像も、別の意味で人間(というか女性)離れしているとみる。
ミケランジェロは筋肉フェチであったので、女性の身体をもマッチョな姿で描いている。まるで男性を変形させたかのように、不自然な逞しさがある。ダ・ヴィンチもミケランジェロも、同性愛者であったから、女性のもつ官能性をほんとうのところはわかっていなかったのであろうと、手厳しく評している。

最後にラファエロは、「聖母子の画家」と異名をとるほどで、30点近い聖母子像を描いている。ラファエロのマリアは優美そのものである。
ラファエロ自身、世に聞こえた美男で、しかも女好きであった。
(若死にの原因は女性遊びが過ぎたためという美術史家もいる)

ラファエロのマリアは、ダ・ヴィンチのように手の届かぬ天上的な存在ではなく、ミケランジェロのように筋肉を着ぐるみのようにまとってもいない。理想化されてはいるが、この世のどこかにいる、血のかよった、触れることの可能な女性である。

ラファエロの『美しき女庭師』


ルーヴル所蔵の『美しき女庭師』(ルーヴルでのタイトル『聖母子と幼き洗礼者ヨハネ』)は、『大公の聖母』や『小椅子の聖母』とともに、ラファエロの傑作聖母子像のひとつとされる。そして「ルーヴルにおける聖母子像の最高作」と讃えられている。

絵のタイトルは、当時の画家が自分で付けることはなかったようだ。後世になり、多くのラファエロ聖母子像を区別する必要ができて初めて、王室の美術品管理者、あるいは学者や学芸員がニックネームを付けた。
『大公の聖母』は大公が所有していたからで、『小椅子の聖母』は文字どおり小さな椅子に座っているからである。

この作品も最初は『農民の聖母』と呼ばれていたようだ。しかし、18世紀に入ってからは『美しき女庭師』で定着した。風景が牧歌的で、草花がたくさんあるので、農地ないし庭にいるマリアということで、『美しき女庭師』という通称になった。
(ほとんど同じ背景の別作品が、ウィーン美術史美術館には、『牧場の聖母』という名がついているので、著者は釈然としないという。近代に入って、画家が自らタイトルを決めることにした気持ちがわかるそうだ)

この絵は安定した三角形構図で、静謐な空間を作り上げ、明るく穏やかな色彩的調和が感じられる。まさに新プラトン的に呼ぶにふさわしい作品として、賞讃されてきた。慈愛そのものの優しい聖母である。

また、宗教画としての決まりもきっちり押さえられている。聖母の衣装の色については、赤は犠牲の血の色ないし深い愛を、そして青は天上の真実を意味している。そして三人の頭上には、目立たないながらも、金の光輪が描かれている。
右下の幼児ヨハネ(後にヨルダン川でイエスに洗礼をほどこす)は、聖書に記されているとおりのラクダの毛衣(もうい)をまとい、葦で作った十字架の杖を持つ。幼子イエスは救世主の受難を予告する旧約聖書に手を伸ばす。

マリアの左足の足指の上のマントの裾に「RAPHAELLO URB.」という金文字が見える。これは「ウルビーノのラファエロ」の意で、画家の署名である。
(ウルビーノはラファエロの出身地である)
またマリアの左肘のところには「MDDⅡ」とあり、1507年という制作年度が記されている。ラファエロが24歳のときの作品である。

当時すでにウルビーノからフィレンツェへ出てきていたが、この花の都には31歳年上のダ・ヴィンチと、8歳年上のミケランジェロが活躍していた。ラファエロはダ・ヴィンチからミラミッド型構図と人物の心理表現を、ミケランジェロからボリュームある人体造型を吸収したといわれる。

模倣の天才ラファエロは、モーツァルトと同じく、ありとあらゆるものを海綿のように吸い取って自己のものとした。ただし、ラファエロにはダ・ヴィンチのような執拗さや、ミケランジェロのような激越さはなく、ほどほどにブレンドして、万人向けの美しさを呈示した。

ラファエロという画家


ラファエロは、宮廷画家だった父親に手ほどきされ、幼少時からその才能は傑出し、10代でもう一人前の仕事を請け負っていた。画才に加え、人好きする容姿と、礼儀正しさがあり、陽気な性格であった。そして教皇ユリウス2世およびレオ10世という大パトロンにも恵まれ、20代後半には50人を超す工房を経営していた。

ラファエロは原因不明の熱病で、37歳という若さで急死した(しかも自身の誕生日に)。
同じく、40間近で死去した画家は少なくないようだ。パルミジャニーノ、カラヴァッジョ、ヴァトー、ゴッホ、ロートレックがいる。
ルネサンス三大巨匠のダ・ヴィンチやミケランジェロが長寿だったのに比べ、ラファエロはまだこれからの画家というイメージを持たれがちだが、それは誤解であると中野氏は釘をさしている。

大工房の親方として世俗的成功を収めていたし、名声はヨーロッパ中に鳴り響いていた。今でこそルネサンス三大巨匠という言葉があるものの、19世紀前半までの西洋絵画史において、古典的規範として渇仰され続けたのは、ラファエロだったからである。ルネサンスの典雅端麗とはラファエロ作品を指した。ルネサンスはラファエロによって完成されたとされ、400年近くもイタリア、フランス、イギリスのアカデミーのお手本であり続け、ラファエロ的円満と中庸が理想とされた。

ところが、近代以降、ラファエロ作品は批判の的となる。謎がないため、ダ・ヴィンチのような深みに欠け、過剰さがないため、ミケランジェロの迫力に及ばないとされた。
19世紀半ばのイギリスで、「ラファエル前派」という美術革新運動が起こり、ラファエロを規範としたアカデミーに対して異議申し立てをし、ラファエロ以前の芸術へ復帰することを目的とした。後の印象派へとつながる、大きなうねりの最初の波であった。そして21世紀を費やし、ついに美術界はラファエロから脱却した。

中野氏はラファエロの『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(ルーヴル美術館 ドゥノン翼2階展示室8 グランドギャラリー)に注目して、ラファエロはもう少し別の道をゆけたかもしれないと残念に思うという私見を付記している。

この肖像画は、ルーベンスも模写した傑作である。これはラファエロの真の力量をありありと見せつける作品である。甘やかな美しい聖母子を描いた同じ画家が描いたとは思えないほどであり、レンブラントを先取りしたような表現であると賞賛している。注文作品を量産するのではなく、こうした作品をもう数点残してほしかったそうだ。
ラファエル前派にせよ印象派にせよ、このような肖像画を描けただろうかと疑問を呈し、彼らが排除すべきだったのはラファエロではなく、ラファエロを錦の御旗にしたアカデミーだったはずだという。
(中野、2016年[2017年版]、198頁~211頁)

≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫

2020-04-12 17:38:07 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その4 私のブック・レポート≫
(2020年4月12日投稿)
 




【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第10、11、12章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇ティツィアーノ『キリストの埋葬』
〇作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
〇アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』




さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第10章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
・ティツィアーノという画家
・ルーヴル美術館のティツィアーノ作品
・ティツィアーノの『キリストの埋葬』について
・『キリストの埋葬』に描かれた人物
・ティツィアーノの『手袋の男』について

第11章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
・キリスト教図像の誕生と展開
・『パリ高等法院のキリスト磔刑』について
・ベルショーズ『聖ドニの祭壇画』について

第12章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
・アヴィニョン新町と、15世紀の絵画の発見
・『アヴィニョンのピエタ』の作者は誰か?
・『アヴィニョンのピエタ』という絵画
・『東方三博士の礼拝』と『宰相ロランの聖母』







第⑩章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』


ティツィアーノ(1490頃~1576)
『キリストの埋葬』
1520年頃 148cm×212cm ドゥノン翼 2階展示室7

ティツィアーノという画家


ティツィアーノも、ルーベンスと同じく、紛れもなく「幸せな画家」だったと中野氏はみている。
健康と良き家族に恵まれ、長命でエネルギッシュで、若くして富と名誉を手にし、仕事を心から楽しみ、生前も死後も人気と名声があった。

ティツィアーノとミケランジェロ(1475~1564)の活動期間はだいたい重なる。
ティツィアーノの生年は不確かだが、ミケランジェロ生誕年のほぼ15年後、つまり1490年頃に生まれたとされる。ミケランジェロ没年は1564年であるが、その約10年後の1576年に亡くなっている。

ティツィアーノは、フィレンツェで開花していたルネサンス芸術を、ヴェネチアで豊潤なる色彩とともに華やかに展開した。ちなみにこの天才の死の翌年、フランドルでルーベンスが生まれた。ルネサンスからバロックへの変遷である。

ところで、ティツィアーノ邸を訪れたヴァザーリは、『ルネサンス画人伝』において、次のよなことを記している。
・「ティツィアーノは神から恩寵と祝福しか受けなかった」
・「ヴェネチアを訪れる王侯貴族や芸術家は、必ず彼の屋敷に立ち寄った」
・「高名な人で彼に肖像画を頼まなかった者はまずいない」

ティツィアーノは、錚々たる顔ぶれから注文を受けている。
・スペイン・ハプスブルク家のカール5世とその息子フェリペ2世
・ローマ教皇パウロ3世
・マントヴァ公夫人で芸術の大パトロンであるイザベラ・デステ

80歳を超えてもティツィアーノは進化し続け、ルネサンスとバロックの二つながらを自分のものとしている。そればかりか、晩年の大まかなタッチは数世紀先の印象派をも先取りしたといわれている。
ティツィアーノ作品も初期、中期、後期と、それぞれ多彩な輝きを存分に放っており、傑作ぞろいである。
・肖像画では、『カール5世騎馬像』
・神話画では、『エウロペの略奪』や『バッカスとアリアドネ』
・宗教画では、『聖母被昇天』(イタリアのサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂蔵)
後世の有名画家たちが模写のためせっせとイタリア詣でをすることになった。

ルーヴル美術館のティツィアーノ作品


どうしても円熟期の有名作ばかりが取り上げられがちだが、比較的若い、確立期の瑞々しさに魅了される者も少なくない。
ルーヴルには、ティツィアーノ30代前半の傑作が2作もある。
① 『キリストの埋葬』
1520年頃 148㎝×212㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階
② 『手袋の男』
1520年直前 100㎝×89㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階

宗教画と肖像画で、どちらも、マントヴァ公のコレクションだったものである。
17世紀に、おそらくゴンザーガ家の衰退により、チャールズ1世に売却された。ところが、清教徒革命が勃発し、チャールズ1世は斬首され、そのコレクションは共和政府によって売り出され、ティツィアーノの『キリストの埋葬』と『手袋の男』はルイ14世が買い上げた。だから、二作品とも、ルーヴルのルイ14世コレクション室に並んでいる。

ティツィアーノの『キリストの埋葬』について


夕暮れの不穏な空の下、十字架から降ろされたイエスを、弟子たちが柩(ひつぎ)におさめようとしている。
あまりにひとりひとりの感情表現とリアクションが自然なため、ドキュメンタリー映画のように見えると中野氏は評している。
(ティツィアーノが実際にこの場に立ち会い、聖母らと悲しみを共有したのではないかと思うほどだという)

異説はあるが、イエスは13日の金曜日、朝9時に十字架にかけられ、午後3時に死去したといわれる。不思議な偶然によって、この日の12時ころ、にわかに空が暗くなり、気温が急速に下がって、人々を震撼させた。皆既日蝕が起こった。数ある磔刑図の多くが、背景を黒く塗りつぶしているのは、そのためである。
日蝕が終わると、イエスが息を引き取ったのはほぼ同時刻である。死の間際にイエスが、「神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだのは有名である。

磔刑死した者はそのまま放置され、埋葬が許されないのが常だったが、アリマタヤのヨセフ(エルサレムの有力者)が総督ピラトに直訴し、イエスの亡骸を引き取る許可を得た。これは勇気ある行為だった(イエスの身近にいたペテロら使徒たちが、逮捕後、身をひそめているのと比べれば、なおさらである)。

アリマタヤのヨセフは真新しい白布を持ち、ゴルゴタの丘へ赴いた。そしてもう一人、ニコデモ(エルサレム最高法院の一員)が没薬(もつやく、防腐剤にもなる)や香料を用意して十字架のそばにいたので、聖母らの見守る中、いっしょにイエスを降架した。つまり、ティツィアーノのこの絵のシーンである。

『キリストの埋葬』に描かれた人物


画面中央下に、蒼白い裸体のイエスが白い布で運ばれている。
その上半身を支える赤い服の男がニコデモであり、両脚のほうを持つ逞しい腕の髭男が、アリマタヤのヨセフである。
画面左端、青いマントの中年女性は、イエスの母マリアである。その聖母マリアをかき抱き、イエスから遠ざけようとするのは、マグダラのマリアである。

だが、この絵の要は、イエスでも女たちでもないと中野氏はみている。
それは、まさに要に位置する中央の若者であるという。
彼は最年少の使徒ヨハネである。大ヤコブの弟であり、ガリラヤで漁師をしていたところを、イエスに召しだされて、愛弟子となる。
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(イタリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵)で、イエスの右横に座っている。
(女性的なしぐさを見せているため、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』において、マグダラのマリアとみなされていた。しかし、使徒ヨハネ像は図像上、天使と同じく中性的な姿で描変えるのが伝統である)

ただし、聖書によれば、イエスの逮捕から埋葬に至る過程に、11人の使徒(ユダは裏切り後自殺)の誰ひとりとして同伴していなかったはずである。だが、ヨハネは後に『ヨハネ福音書』と『黙示録』を記したとされ、イエスの死の道筋を見届けていないはずはない、と解釈された。こうして絵画には聖母やマグダラのマリアとともに、十字架の足元にも、ピエタ(聖母がイエスの亡骸を抱いて嘆く場)にも、さらには聖母被昇天の場にも登場することになったそうだ。

ティツィアーノ描く使徒ヨハネほど、強烈な印象を残すヨハネはいないと中野氏は述べている。このヨハネは、イエスを失った衝撃に完全に打ちのめされている。よるべなさと不安が、ヨハネの若さをいっそう強調し、この絵全体に胸を締めつけるような悲愴感を与えていると中野氏は評している。

ティツィアーノの『手袋の男』について


モデルは特定されていない。
口髭の薄さから10代、せいぜい20歳になったばかりとされる。仕立ての良い衣服や、首にぶら下げたサファイア付き金銀、右手人差し指に嵌めた印章指輪などから、ヴェネチア名門貴族と推定されている。
整った顔には、まだ苦しみも悲しみも悩みも刻印されていない。今の魅力を残したまま、個性的な顔になってほしいと中野氏は付言している。

ところで、本作は、三島由紀夫が選んだ「西洋美術に見る理想的青年像」8点のひとつであるそうだ。
他には、ミケランジェロの『瀕死の奴隷』やレーニの『聖セバスチャンの殉教』などが含まれる。
三島は、この美しい若者について、次のように書いている。
「ティツィアーノのこの肖像画は、どうしてこれほどまでに有名なのだろうか。私は女性像としてのモナ・リザと反対に、青年の肖像画として、青年の理知的な明晰さ、全く謎を持たない深みを、これほど豊かに描いた肖像画はないからだろうと考える」

さて、ティツィアーノは、生涯、依頼された絵しか描かなかった。つまり全て仕事として請け負った。仕上がったものの多くは、まるで近代の苦悶する芸術家のように、内的欲求に突き動かされて、筆をとった作品に見えるとされる。その一方で、苦労なく、楽しみながら描いたようにも見えるところが面白いと中野氏はみている。
ともあれ、ティツィアーノは、まこと「幸せな画家」であったことを強調している。
(中野、2016年[2017年版]、135頁~147頁)

第⑪章 ホラー絵画 作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』


作者不詳
『パリ高等法院のキリスト磔刑』
1449年頃 145cm×270cm(中央部の縦226㎝) リシュリュー翼3階展示室6

キリスト教図像の誕生と展開


ヨーロッパの美術館には、聖書を主題とした絵(磔刑図や受胎告知、聖母子像や聖人)が多く所蔵されている。とはいえ、キリスト教図像の誕生は、思ったより遅くようやく4世紀初頭になってからである。
当時、ローマ帝国がキリスト教を禁止・抑圧し続けたり、神学者が偶像崇拝だとして図像化に反対したりしたことによる。だから、イエス登場後300年間、キリスト教図像は無きに等しかった。

しかし、ローマ帝国がキリスト教を公認してから、教会の建設とともにキリスト教図像は解禁された。とりわけ磔刑図がその中心概念として発達してゆく(十字架上のイエスは威厳に満ち、痛みを感じていないどころか、微笑んでいる作例まであるそうだ)。

6世紀以降は、時に偶像崇拝論争が巻き起こったが、キリスト教芸術は宮廷とも結びついて華々しく展開した。9世紀からは聖母マリアや使徒らに関する約束事も決まりはじめる。例えば、マリアの衣服の色は赤と青で、白百合を描き込むなどである。

絵画表現における大きな転換期は、13世紀である。それまで十字架にかけられながら超然としたイエスの顔に、苦悩や苦痛が浮かびだす。磔刑されるイエスや、殉教する聖人らの肉体は生々しく、写実的に描写された。
中でも、「この世は涙の谷」と言われた中世末期(あるいは初期ルネサンス)フランドルや」ドイツの画家の宗教画は、怖いし血なまぐさい。
ルーヴル美術館リシュリュー翼の、14世紀から16世紀あたりの作品群がそうである。草食系かつ異教徒の日本人なら、その凄まじさと残酷さに、そそくさと立ち去りたくなるような作品群だともいう。

中野氏は「ホラー絵画」と称しているが、2点を紹介している。
① 作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
1449年頃 145cm×270cm(中央部の縦226㎝ リシュリュー翼3階展示室6
② ベルショーズ『聖ドニの祭壇画』
1380年頃~1444年頃 リシュリュー翼3階展示室3

『パリ高等法院のキリスト磔刑』について


本作は、中央に十字架上のイエス、左右に関係者像が描かれる。
これはフランス王の顧問機関である高等法院が、大法廷の壁に掛けるために注文したものである。

奇妙なことに、注文主や制作年度(1450年前後)とわかっているにもかかわらず、画家名の記録がない。ただ、背景のパリの建物が正確に描かれているので、フランス在住の画家だったことは確かとされる。
しかし、フランス人かといえば疑問である。というのは、当時はまだこれほど力量のあるフランス人画家は存在していないからである。緻密で粘着質な描写から推測して、フランドルやネーデルランドなど、北方出身の画家とみられている(アンドレ・ディープル説が有力という)。
そもそも、北方の画家は、ウェイデンやデューラーに顕著であるように、細部も逃さず徹底的に描き尽くそうとする。そして成功した名画の面白さと圧倒的満腹感は、イタリア絵画を凌ぐことも多いとされる。

ここで、このことがよくあらわれているお国柄ジョークを中野氏は引用している。
「象とは何か」という命題を与えられたイギリス人は、さっそく銃を持ってアフリカへ行き、一頭仕留めてきた。フランス人は、象の料理法を考え、レシピを作った。ドイツ人は図書館に何年もこもり、象を一度も見ぬまま、『象の全て』全十巻本を上梓した。

さて、本作に描かれた人物についてみると、イエスの左下で手を合わせ、見上げているのはマグダラのマリアである。青い上衣をまとって涙をふくのは聖母マリアである。慰めているのは、諸説あるが、小ヤコブの母マリアとされている。

十字架右下に立つのは、イエスにもっとも愛されたといわれる使徒ヨハネである。他の使徒たちがエルサレム市内で隠れていたのに、ヨハネだけはイエスの死の道行きに従ったとされ、磔刑図では聖母やマグダラのマリアとともによく描かれる。

聖書中の人物はもうひとりいて、画面左から2人目、犠牲の仔羊を抱いているのが洗礼者ヨハネである(使徒ヨハネと同名なので混同されやすい)。
ヨルダン川でキリスト(救世主)到来を予告し、イエスに洗礼をほどこした「荒野の聖人」である。イエスが磔刑される2、3年前に、有名なサロメのおねだりで首を斬られ、盆に載せられてしまったので、本当はこの場にいられるはずはない。だが、キリスト降臨の前にあらわれた預言者として、やはり磔刑図への登場回数は多いようだ。

その洗礼者ヨハネの隣にいるのが、13世紀の聖ルイである。王冠をかぶり王笏(おうしゃく)を持ち、青地に百合の花(フランス王家の紋章)を散らしたマントをはおっている。パリ高等法院設立の素地を作った。
彼らの背景には、のんびりおしゃべりしたり、後ろ向きでセーヌ川を覗きこむ貴族の姿があり、対岸にはルーヴルが見えている。

また、一番右で剣と水晶球を持つのは、かのシャルルマーニュ(カール大帝)で、中世ヨーロッパを形成したとされる。聖ルイよりも5世紀も前の9世紀の人物である。やはりフランス王のマントをはおっている。

その画面右から2人目には、自分で自分の首を持って立っているドニがいる(中野氏はこの絵のハイライトであるという)。
ドニは、多くの人々をキリスト教に改宗させたとして、ローマ帝国の怒りを買い、パリで一番高い丘、モンマルトルの丘(殉教者の丘)の刑場で斬首された。3世紀のことである。当時のフランスはガリアと呼ばれ、ローマから見れば辺境の地であった。

奇蹟の逸話によれば、聖ドニは、斬首されたあと平然と立ち上がり、ころがった自分の首を持って、10キロ先まで歩いていったという。その倒れた場所に、サン・ドニ聖堂が建てられ、代々フランス王の廟堂になった。
要するに、この絵はイエスとフランス王家の強い絆を示していると解釈されている。

ベルショーズ『聖ドニの祭壇画』について


こちらは、『パリ高等法院のキリスト磔刑』より30数年ほど前の作品である。
金箔をふんだんに使った装飾的絵画なだけに、ホラー度は高いかもしれないと中野氏は述べている。死刑執行人が力を込めて振りあげる鉈(なた)が、ゾッとする。切り落とした断面図もリアルである。

本作は異時同図法である。聖ドニもイエスも2回ずつ登場している。
左端では、捕らわれの身のドニが、ミトラ(司教冠)をかぶって鉄格子から顔を出す。十字架から降りてきたイエスが、なぜかフランス王家のマントをはおり、彼に聖体拝領を行なう。
そして時間は右へと流れる。ふたりの弟子とともに処刑場へ連行され、ドニと弟子の一人は首を斬られている。殉教という道を選んだ3人は、すでにして聖人なので頭上には光輪が見える。
(中野、2016年[2017年版]、148頁~159頁)

第⑫章 有名人といっしょ アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』


アンゲラン・カルトン(1415頃~1466頃)
『アヴィニョンのピエタ』
(『ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』)
1455年頃 163cm×218.5cm リシュリュー翼3階展示室4

アヴィニョン新町と、15世紀の絵画の発見


フランス南部に位置する中世都市アヴィニョンの名は、日本人にもわりとよく知られていた。古謡「アヴィニョンの橋の上で踊ろう、輪になって踊ろう…」によってである。

ローヌ川に架かるその橋は、正式名サン・ベネゼ橋である。昔、橋はアヴィニョンの対岸の町、ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン(アヴィニョン新町)へ通じていた。町には、要塞や修道院やノートルダム参事会教会がある。
1834年、31歳の歴史建造物検査官が調査にやって来た。この人物こそ、のちに『カルメン』(1845年)の作者として文学史に名を残すメリメであった。

若きメリメは、教会の礼拝堂で、胡桃材でできたゴシック様式の装飾衝立の板絵を発見する。それは霊感に満ちた繊細優美なピエタ図であった。ただ、教会側は15世紀半ばから所蔵されていたらしいということだけしか知らず、画家名も来歴も全くわからなかった。
メリメは、中央官庁へ報告した(このころ、すでにルーヴルは公共美術館になって半世紀近かった)。しかし、片田舎の教会に傑作などあるはずがないで終わってしまう。

こうして作品は再び埋もれたが、メリメの死後、1904年、『アヴィニョンのピエタ』
(正式名『ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』)は、パリでのプリミティフ展へ出品される。実物のオーラは凄く、ただちに中世絵画の傑作と認められ、「ルーヴル友の会」が購入し、翌1905年にルーヴルに収められた。今では国宝級の扱いである。

『アヴィニョンのピエタ』の作者は誰か?


『アヴィニョンのピエタ』は誰が描いたかについては、イタリア人説、フランドル人説などいろいろ挙がった。ルーヴル入りして50年ほど経ち、フランス人研究者が、フランス人画家アンゲラン・カルトン説を主張した。ただし、確証があるわけではなく、支持しない者もいて、まだ疑問符付きであるようだ。

『アヴィニョンのピエタ』という絵画


さて、「ピエタ」とは「哀悼」の意であり、十字架から降ろされたイエスの遺体を抱き、聖母マリアが悲しみにくれる場面をいう。
この主題は、聖書のどこにも記述していないのに、礼拝の対象として愛好され、彫刻や絵画にくり返しあらわれる。ミケランジェロの『サン・ピエトロのピエタ』(イタリアのサン・ピエトロ大聖堂)の彫刻は、もっとも有名である。

さて、『アヴィニョンのピエタ』の要は、イエスの蒼ざめた肉体の鋭角的な造型であると中野氏はみている。すなわち、腰を大きく折り、垂れた右腕と両脚が響きあう平行線と、肋骨のリアルな斜線が重なっている。そして胸元から三角形を構成しつつ立ちのぼる聖母の姿によって強調されている。

多くのピエタ図では、イエスは死と眠りの間にいるかのごとく描写され、聖母マリアは決して年をとらず、美しい乙女のままでいるようだ。だが、アヴィニョンのイエスは口をあけ、屍(しかばね)の痛々しさそのものだし、聖母の顔は老い疲れている。中世的な深い信仰心が画面を覆い、荘厳さを漂わせ、そして中世絵画特有の硬直性から抜きん出た人間表現になっていると中野氏は評している。

画面右には、マントで涙をぬぐうマグダラのマリアがいる。
装飾的な金の光輪に「マグダラのマリア」と明記されている。それが無くとも、持っている香油壺と長髪が彼女のアトリビュート(本人を特定する持ち物)なので、それとわかる。
なお、壺に入れた没薬(もつやく)は、神聖な香料であるとともに、遺体に塗布する防腐剤でもあった。

聖母の向かって左側の男性は、福音書記者の使徒ヨハネである(こちらも光輪に書いてある)。慎重にイエスの頭から荊(いばら)の冠を外している。荊で編んだ冠は、イエスが「ユダヤの王」を名乗ったから、敵がかぶせたものだった。

遠景には、エルサレムの建造群が見える。イエスはこの聖都で裁判を受け、鞭打たれ、城門を出てすぐのゴルゴタの丘で磔刑にされた。
また金地バックの上縁部には、『預言者エレミヤの哀歌』1章12節の言葉「これほどの憂苦が世にあろうか」が記されているという。まさに聖母が感じたそのままを表わしている。

ところで、この『アヴィニョンのピエタ』はトリミングして、4人の聖人が織りなす哀悼図として紹介されることがしばしばあった。つまり、イエスと聖母とマグダラのマリアとヨハネの4人である。
しかし、実際には、左端にもう1人人物が存在する。名の知れぬ、この世俗の人(光輪がない)は、寄進者である。スルプリと呼ばれた白いガウンは、当時の参事会員のものなので、本作は彼が画家に発注したものとわかるそうだ。彼がいなかったら、この傑作は生まれなかったという意味で、重要人物である。
この作品は、敬虔なる参事会員の氏が祈りの際に見たビジョンという設定である。どこか遠く、焦点の定まらぬ目をして、ピエタの幻影を見ているという図である。これは礼拝図であり、祭壇の後ろの衝立に描かれていた。

『東方三博士の礼拝』と『宰相ロランの聖母』



ところで、中野氏は、こうした聖書の画面に、当時の現代人が闖入する絵画として、次の2つの作品を紹介している。
〇ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』(イタリアのウフィツィ美術館蔵)
〇ファン・エイク『宰相ロランの聖母』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室4)

『東方三博士の礼拝』では、もはやマリアも幼子イエスも脇役扱いで、メディチ家とその関係者の記念撮影と化しているといわれる。
三博士自体もメディチ家の面々が扮しているし、描き手であるボッティチェリも登場している(右端で鑑賞者へ視線を向けているのがボッティチェリである)。
そして、注文主も右側の群衆の中に描かれている。白髪頭で薄いブルーの服を着て、視線を我々に向けており、そればかりか右手の人差し指で自分の胸を指している。彼はラーマといい、メディチ家の人間ではなく、最下層の生まれから不動産業や両替商を経て成り上がった人物だそうだ。公金横領で有罪判決を受けるなど悪評があり、名誉挽回の手段にこの祭壇画を発注し、教会内の私設礼拝所におさめた。しかし、本作完成翌年には、再び詐欺罪で逮捕されたという。

次にファン・エイク作『宰相ロランの聖母』の方はどうか?
こちらの注文主は、もっと不遜な寄進者であると中野氏は記している。
二コラ・ロランは、貧しい家に生まれたが、刻苦勉励して弁護士となり、やがてブルターニュ公国フィリップ善良公の右腕として宰相職についた政治家である。
しかし、その蓄財方法に関しては、黒い噂はありながら、さきのイタリア人ラーマと違い、富と名誉に包まれた人生を全うしたそうだ。
この絵に描かれた時は60歳前後で、豪華な衣裳に身を包み、その成功ぶりを見せつけるために、故郷オータンの教会にこの祭壇画を寄進した。

中野氏は、この絵で驚くべき点を指摘している。それは、聖なる存在である聖母子とロランを対等に置いた構図である。
(これに比べれば、『アヴィニョンのピエタ』の参事会員の寄進者は、画面の隅にいたのだから遠慮深いとすらいえる)
こういう描き方が許されるのは、聖人だけのはずなのに、ロランは自分を聖人に見たてている。ここにロランの傲慢さがある。

ロランは額に青筋立てて祈っており、なかなかの迫力である。66センチ×62センチという小型の画面に、雄大な世界が凝縮されている。ファン・エイクのような北方の画家は、省略ということを嫌い、画面の隅々まで物で埋めてゆく、細密的面白さがここにも詰まっている。
それは、聖母の波打つ金髪、天使がかぶせようとする王冠、ロランのはおる毛皮など見ればわかり、実物の質感を備えている。

また描かれたものの中には、何かを暗示するものがある。例えば、ロランの近くには2羽の孔雀がいる。孔雀は不死のシンボルなので、もしかするとロランは永遠の命を密かに願ったのかもしれないと中野氏は解釈している。
そして、回廊の向こうにアーチ型の橋が見える。意味は明らかで、この世と神の国の架け橋だそうだ。右側の景色をよく見ると、ゴシック教会の塔がいくつも聳えている。
一方、左側は山と町という俗世間である。つまり橋は聖と俗をつないでいる。そしてそれはまた主役たるロランと聖母子をもつなぐというのである。
(中野、2016年[2017年版]、160頁~174頁)


≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫

2020-04-11 17:13:28 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年4月11日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第7、8、9章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇ボス『愚者の船』
〇グルーズ『壊れた甕』
〇ムリーリョ『蚤をとる少年』



さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第7章この世は揺れる船のごと  ボス『愚者の船』
・ボスという画家
・ボスの作品とプラド美術館
・ルーヴル美術館の『愚者の船』
・『愚者の船』の謎の一端

第8章 ルーヴルの少女たち    グルーズ『壊れた甕』
・作曲家ラヴェルと『王女マルガリータの肖像』
・グルーズ『壊れた甕』について
・シャルダン『食前の祈り』について


第9章 ルーヴルの少年たち    ムリーリョ『蚤をとる少年』
・ムリーリョ『蚤をとる少年』について
・リベラ『エビ足の少年』について
・レイノルズ『マスター・ヘア』について








第⑦章 この世は揺れる船のごと ボス『愚者の船』


ボス(1450頃~1516)
『愚者の船』
1500~1510年頃 58cm×33cm リシュリュー翼3階展示室6

ボスという画家


ネーデルランドの奇想画家ボス(ボッシュ、1450頃~1516)は、「悪魔を創らせることにかけては右に出る者がいない」と言われた。本名はヒエロニムス・ファン・アーケンという。
ボスという通称は、彼が暮らした町ス・ヘルトーヘンボスの、「ボス=森」から取られた(長崎のハウステンボスの「ボス」と同じだそうだ)。
「大公の森」という意味の町名だが、フランス語では「フクロウの森」と同じ綴りであることから、ボスはよく画面にフクロウを登場させた。
(研究者によっては、それをボスの自画像とみなす者もいる)

ボスは、痛烈な社会諷刺、奇想天外な生き物の造型などで、生前から人気が高かった。
にもかかわらず、その生涯も絵の制作年度もほとんどわかっておらず、謎めいた存在である。わずかに知られているのは、画家(当時は職人扱い)の家系だったこと、富裕な女性と結婚して以来、独創性を発揮したこと、子はなく1516年に町の名士とは葬られたことである。

活動期間は、ほぼレオナルド・ダ・ヴィンチと重なっている。
ふたりの画風を比べてみると、北方絵画とイタリア絵画の違いがわかる。ファン・エイク、ボス、デューラー、ブリューゲルといった北方の画家は、長く中世を引きずり、細部にこだわった精緻な描写をし、解釈の多義性が魅力のひとつとなっている。

ボスの作品とプラド美術館


現在では、ボス真筆とみなされる作品は、わずか30点である。そのうち多くの作品がスペインのプラド美術館所蔵である。これは、フェリペ2世(1527~1598)がボスに魅了され、収集したおかげである。
プラドは最高傑作『快楽の園』や『干草の車』をはじめ、ボスの一大宝庫である。

フェリペは、スペインを「陽の沈まぬ国」へと押し上げ、自らカトリックの守護神を任じていたが、当時から異端性を疑われていたボスを、批判を承知でコレクションした。
さらに、彼はボスと並んで、ティツィアーノのファンとしても知られている。毛色の違うこのふたりの画家を、フェリペは愛した。

ルーヴル美術館の『愚者の船』


ボスの主要作品の大部分をプラドに握られ、もはやルーヴルがボスを入手する見込みはんさそうに見えた。20世紀も20年近く過ぎた時、個人から『愚者の船』が寄贈された。
それは縦長であるので、『快楽の園』と同じく、三連画の翼部であった。もう片方の翼部は、『大食の寓意』(アメリカのエール大学付属美術館蔵)とされている。ただ中央パネル部分は戦乱や宗教改革後に散逸したようだ。

ボスの活躍した時期は世紀末である。1500年を迎える前に、この世は終わると信じられ、こうした終末の予感は、とりわけ北方に強かった。南国イタリアはルネサンスの花が開いても、寒風の地に中世の夜は明けるとも思えなかった。戦争、疫病、飢饉がくり返し、教会は魂を救うどころか、免罪符を乱発し金儲けに走る。

北国ドイツのルターがカトリックに異議申し立て(つまりプロテスト)するのは、1517年のことである。ここからキリスト教は、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれてゆくが、その前段として、教会への失望があった。聖職者を揶揄する図版が世紀末に増えていた。

そんな中、1494年に当時の社会悪を諷刺した寓意詩『阿呆船』(ドイツの法学者ブラント)が発表される。
この本は、グーテンベルクの活版印刷によりヨーロッパ中で大ベストセラーになる。そこに描かれたのは、神を忘れ、道徳を捨てた111人の阿呆(酒に溺れる者、偽医者、堕落坊主など)である。教会はしばしば船に喩えられたが、その船は愚かしい人間ばかりを運んで、極楽へゆくという。ここにはカトリック教会批判も含まれていた。

同時代人ボスは、この書を知らなかったとは考えにくく、おそらくボスも自分でも“阿呆船”を描いてみようと思ったであろう。本作の船は小さな舟で、10人ほどしか乗っていないが、主人公は修道僧たちである。

『愚者の船』の謎の一端


『愚者の船』は、ボスの他作品同様、謎だらけである。しかも未だ解明はなされていないそうだ。その一端を解説しておく。
中央で目を引くのが、ロープから大きなパンケーキがぶら下げられ、周りで男4人女1人が口を開けている。これはパン食い競争で、大食の諫(いさ)めと解釈されている。
また、中央の修道士と修道女は制服から戒律の厳しいフランチェスコ会の聖職者らしいが、けっこうな堕落ぶりである。リュートの伴奏で、声をはりあげて歌っているようだ。楽器は伝統的に「恋愛」の象徴である。

また、右端の男に目を向けると、目の前の木の枝には死んだ魚がぶら下がっている。キリスト教の比喩においては、魚はイエス・キリストを示すともいわれる。
さらに、中央の高い木の葉の茂みには、フクロウが隠れている。フクロウは多義的な定説がない。「愚か」なのか、「賢い」のか、「死」を意味するのか、それともボスの自画像なのか、謎であるようだ。

中野氏は、ボスの項を終えるにあたり、次の2点を付記している。
・フーコーの名著『狂気の歴史』には、狂人を移送したり追放するための船があったと書かれているが、史料の裏付けが乏しく、疑わしい。
・ボス自らが本作のタイトルを付けたわけではないこと。売買の時に画商か美術史家が付けたと考えられている。
以前の日本語訳は「阿呆船」であったが、差別用語にあたるとされ、『愚者の船』(ただし響きがよろしくない)というタイトルが一般的になったこと。
(中野、2016年[2017年版]、98頁~109頁)

第⑧章 ルーヴルの少女たち グルーズ『壊れた甕』


グルーズ(1725~1805)
『壊れた甕』
1771年 109cm×87cm シュリー翼 3階展示室51

第⑧章では、「ルーヴルの少女たち」と題して、3人の画家により描かれた3人の少女像を紹介している。
1ベラスケス(1599~1660)(工房作)『王女マルガリータの肖像』
  ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室30
2グルーズ(1725~1805)『壊れた甕』~18世紀後半のフランス人少女
  ルーヴル美術館シュリー翼3階展示室51
3シャルダン(1699~1779)『食前の祈り』~庶民階級のフランス人少女
  ルーヴル美術館シュリー翼3階展示室40

作曲家ラヴェルと『王女マルガリータの肖像』


『ボレロ』で有名な作曲家ラヴェルと、ルーヴル美術館にあるスペイン人の少女像との関係から、中野氏は話を進めている。

19世紀末、パリ音楽院の学生だったラヴェルは、ルーヴル美術館のスペイン絵画、ベラスケス(工房作)の『王女マルガリータの肖像』に興味をもったそうだ。ぽっちゃり愛くるしい3、4歳の王女に24歳の音大生はすっかり魅了されてしまった。

ラヴェルにとってスペインは特別な国であった。生まれたのはスペインとフランスの国境の町であり、母親はバスク人である。幼い頃から母の口ずさむスペイン歌謡に親しみ、後年、著名な作曲家になってからも、『スペインの時計』『スペイン狂詩曲』『ボレロ』『ドゥルシネア姫に思いを寄せたドン・キホーテ』など、スペインにちなんだ作品を発表している。

だから、母方のルーツたるスペイン絵画にも興味があったようだ。まだ、パリ音楽院の学生だった頃は、スペインのプラド美術館へは行ったことはなく、ベラスケスの最高傑作『ラス・メニーナス』やマルガリータの生涯については知らなかったようだ。しかし、ルーヴル美術館で見た、つぶらな瞳の王女マルガリータはラヴェルに霊感を与えた。
というのは、珠玉のピアノ曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』(のちに管弦楽曲に編曲)が生まれたからである。
そのタイトルは Pavane pour une infante défunte [パヴァーヌ プル ウンヌ アンファント デファント]である。
・「スペインの王女(infante)」と「故人(défunte)」が「ファント」で韻を踏み、響きが美しい。だから、このタイトルに決められたという。
・王女のまま亡くなったという意味ではなく、はるか昔(ラヴェルより250年ほど前)にこの世に生きていた王女との含みだったらしい(défunteには「過ぎ去った」という意味もある)。
・「パヴァーヌ」とは、スペイン起源説をもつ宮廷舞踊で、一列に並んだ女性たちを孔雀(スペイン語でpavon、フランス語でpaon)に見立てたことから生まれた言葉であるという。

※後に、マルガリータ像と『亡き王女のためのパヴァーヌ』には関連がないと否定する研究者も出たが、もうその時には両者は強く結びついた。ノスタルジーに満ちた叙情的なメロディーと、どこかしら儚さを醸し出す少女は、それほど調和していた。伝説とはそういうものらしい。

ところで、王女マルガリータは、スペイン・ハプスブルク家フェリペ4世の愛娘である。純金のネックレスを身につけ、この年齢相応のあどけなさと年齢不相応の威厳とを絶妙に兼ね備えている。
もっとも、マルガリータはスペイン凋落期に生まれた。曾祖父フェリペ2世の代で「陽の沈まぬ国」として、世界に君臨したスペインであったが、その後衰退し、フランスに逆転され、世継ぎの王太子も次々亡くなり、ハプスブルク家存亡の危機に直面していた。父王はマルガリータを女王にたてる選択まで考えていた。しかし、ぎりぎりのところで弟が生まれ、彼女は輿入れが決まる。
その後、15歳で親戚筋のオーストリア・ハプスブルク家の王妃となった。しかし、21歳で産褥で赤子とともに亡くなる。
一方、故国で王位についた弟も世継ぎを残せず、若死にしたため、スペイン・ハプスブルク家は断絶する。何代にもわたって血族結婚をくり返したせいである。

一見、ただ可愛らしいだけの少女像の背景には、これだけの歴史の闇が蠢いていると中野氏は述べている。そして『亡き王女のためのパヴァーヌ』に流れる感傷性を思うという。
ラヴェルにも、切ないエピソードが残っているそうだ。ラヴェルはこの曲を発表すると、たちまち人気作曲家となったが、晩年、認知症を患い、偶然この曲を町なかで耳にし、「美しい曲だ。誰が作ったのだろう」とつぶやいたという。

グルーズ『壊れた甕』について


次に中野氏は、18世紀後半の市民階級のフランス人少女が描かれた、グルーズの『壊れた甕』を取り上げている。

絵を見ると、古代風の噴水を前に、少女が佇んでいる。単なる肖像画に見えて、実はそうではない。少女は噴水まで水を汲みに来たのだが、右腕に掛けた甕には大きな穴があいている。彼女にはどこか緊迫した雰囲気が漂っている。
甕や壺は女性(子宮)を象徴するといわれる。そして腹部あたりで、散った薔薇をドレスの裾で抱えている。これらは純潔の喪失を意味する。つまり教訓画と解釈されている。

ところで、本作の成立には、かのデュ・バリー(ルイ15世の寵姫)がからんでいるそうだ。どうやら夫人が直接グルーズに依頼して描かせたらしい。
デュ・バリーの生い立ちといえば、社会の末端に生まれ、美貌を武器に高級娼婦として名を馳せ、ついには頂点までのし上がる。若くて無邪気だった、この女性は、もしかすると若者と真に恋におちたのかもしれないと、中野氏は想像を巡らしている。

シャルダン『食前の祈り』について


3番目に、シャルダン『食前の祈り』に描かれた、庶民階級のフランス少女を取り上げている。
この少女は先のふたりより、ずっと恵まれた境遇である。ここには小さな弟を持つ、おしゃまなお姉ちゃんが登場している。
このように記すと、この絵のどこに男の子がいるのか、と誰もが疑問を抱くはずである。
古い美術書などでは、「母親とふたりの娘」と解説されていたようだ。だが、赤い帽子にスカートの子は、妹ではなく弟である。
というのは、かつて世界中で(日本も例外ではない)、上流階級から下層階級まで、男の子は幼年時代に女の子と同じ恰好をさせられていた。女児より男児の死亡率が高かったため、一種の魔除けの意味合いがあったようだ。
(私の以前のブログである井出洋一郎氏の著作紹介で、このシャルダンの絵について言及した)

シャルダンのこの子が男児ということは、椅子の背に掛けられた小太鼓が男の子の遊び道具なのでわかる。そして何より本作の複製版画に「姉が弟をこっそり笑っている」と記されていると、中野氏も解説している。
少女は弟を睨んでいるけれど、内心では「笑っている」。母親も厳しい表情である。これはフランス語タイトルが示すとおり(『主のお恵みがありますように』)、食前の祈りをすませない限り食べられない、という敬虔な生活態度を教訓的に描いた風俗画である。

ただ、シャルダンらしく、ただの道徳画を超え、見る者に家庭の温かさ、ほほえましさを思い起させる幸せな絵になっている、と中野氏は評している。

本作はロココ時代の作品である。サロンに出展されて、すぐルイ15世に買い上げられた。煌びやかな王の居室に飾られたというから皮肉である。
(制作された1740年は凶作で、庶民は食べられるだけありがたい、という暮らしであった)
(中野、2016年[2017年版]、110頁~123頁)


第⑨章 ルーヴルの少年たち ムリーリョ『蚤をとる少年』


ムリーリョ(1618~1682)
『蚤をとる少年』
1645~1650年頃 134cm×110cm ドゥノン翼 2階展示室26

前章が「ルーヴルの少女たち」であったのに対して、第⑨章では、「ルーヴルの少年たち」題して、やはり3人の画家により描かれた3人の少年像を紹介している。
1ムリーリョ(1618~1682)『蚤をとる少年』
  ルーヴル美術館ドゥノン翼 2階展示室26
2リベラ(1591~1652)『エビ足の少年』
  ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室26
3レイノルズ(1723~1792)『マスター・ヘア』
  ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室32

ムリーリョ『蚤をとる少年』について


ムリーリョはスペインのセビリアに生まれ、生涯をここで送った。
セビリアは、オペラ『セビリアの理髪師』や『カルメン』(カルメンはセビリアの煙草工場で働いていた)などで、日本人にもなじみのある町である。16世紀スペイン絶頂期に、新大陸との貿易港として繁栄を誇ったが、無敵艦隊がイギリスに敗れてからは景気が傾き、17世紀半ばにはペストの追討ちで人口が半減するほど衰退する。

ムリーリョが『蚤をとる少年』(別名『乞食の少年』)を描いたのは、ちょうどその頃である。戦争や疫病で親を亡くした孤児が激増して、社会問題化した。貧しい人々の風俗画がよく描かれた背景には、富者に慈愛の心を喚起する目的もあったようだ。

ムリーリョ描く少年は、廃屋の片隅で、一心不乱に蚤や虱を潰している。この時代の人々は、蚤が鼠に寄生し、病原菌を媒介することをまだ知らなかった。ペストの原因は淀んだ大気と水にあるとされた。
ムリーリョはなぜこのような絵画を描いたのか。すでに宗教画として、セビリアのフランシスコ会修道院の連作を手がけたり、宮廷画家の誘いまで受けていた。そのムリーリョが、慈愛の主題を描いた理由は、彼の生い立ちが関わると中野氏は理解している。

ムリーリョは、医者を父に、おおぜいの兄弟の末子として生まれた。しかし、9歳のとき、両親を相次いで亡くし、兄妹たちは離散し、孤児状態となった(おそらくストリート・チルドレンか)。その後の数年は不明だが、遠戚の画家に引き取られて、13歳から才能を発揮しだす。
このような生い立ちがあるからこそ、必死に生きる子どもたちの姿に、かつての自分を重ねずにいられなかったと推測でき、『蚤をとる少年』のような作品を描いたのであろう。
この絵では、描き手の眼差しの温かさがあるという。やわらかな光が全身を照らし、画家のやさしい愛が見る方に伝わってくる。
また、ムリーリョが描く聖母像は愛らしく親しみやすいことで、人気を博した。例えば、『無原罪の御宿り』(スペインのプラド美術館蔵)がそうである。

それにしても、優しい人に運命は優しくなかったことを中野氏は付言している。後年ムリーリョは、まだ若い妻と5人の子をペストで亡くす。親を亡くし、妻を亡くし、子を亡くし、それでもムリーリョの絵は優しさを失わなかった。

リベラ『エビ足の少年』について


2人目は、リベラの『エビ足の少年』で、セビリアの少年とほぼ同時代の少年で、イタリアのナポリの子である。
描いたリベラはスペイン生まれのスペイン人だが、生涯の大部分をナポリで送り、母国へは帰らなかった(とはいえ、当時のナポリはスペイン領)。

この『エビ足の少年』は、先の『蚤をとる少年』より明確に、見る者へ「慈善」を促しているそうだ。というのは、画中の少年が左手に持つ紙片には、ラテン語で「神への愛のため、わたしに施しを」と書かれているから。これは、当時のナポリにおける公的な物乞い許可証でもあったようだ。

少年は足の奇形があり、右手にも障害の可能性があり、小人症(こびとしょう)でもあったらしい(本作がルーヴルに購入される際、『小人』とタイトルが記録されていた)。
少年は、乱杭歯(らんぐいば)をむき出して笑っている。画家リベラは厳しいリアリズムに徹して描いている。
リベラが描いた多くの聖人画は、たるんだ皮膚、骨ばった手足などに徹底したリアリズムを持ち込み、見る者を怯ませたそうだ。もしベラスケスなら、少年の顔つきにもっと気品を与えたであろうと、中野氏は想像している。

レイノルズ『マスター・ヘア』について


3人目は、イギリス上流階級の男の子である。
ロイヤル・アカデミー初代会長レイノルズによる、もっとも有名な作品が『マスター・ヘア』である。レイノルズは、それまで“画家砂漠”であったイギリスで最初に国際的になった画家である。

美しい金髪をなびかせ、モスリンのドレスを着たこの少年は、前の2人と違い、名前も知られている。名前が知られているので、この子が美少女ではなく、少女服を着せられた男の子だと見る者にも納得される。
(中野、2016年[2017年版]、124頁~134頁)


≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫

2020-04-05 17:54:25 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その2 私のブック・レポート≫
(2020年4月5日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)



【はじめに】


今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第4、5、6章の3章の内容を紹介してみたい。
次の3点の絵画が中心に解説されている。
〇レンブラント『バテシバ』
〇プッサン『アルカディアの牧人たち』
〇ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』



さて、今回の執筆項目は次のようになる。



第4章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
・美術館の名作を見た印象のパターン
・バテシバについて
・レンブラントのバテシバ
・バテシバのモデルとなったヘンドリッキエ
・レンブラントの人生

第5章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
・画家プッサンについて
・『アルカディアの牧人たち』
・『アルカディアの牧人たち』の構図と登場人物

第6章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
・ルーベンスという画家
・『マリー・ド・メディシスの生涯』という連作画
・『マリー・ド・メディシスの生涯』のタイトル








第④章 運命に翻弄されて レンブラント『バテシバ』


レンブラント(1606~1669)
『バテシバ』
1654年 142cm×142cm リシュリュー翼3階展示室31

美術館の名作を見た印象のパターン


名作を実際に美術館で見た印象には、3パターンあるといわれる。
① いわば確認して安心感を得て終わる
印刷された画像との違いをさほど感じず、好きな作品は好きなまま、そうでないものはそうでもないままである。
② 実物への幻滅
めったにないことだが、写真からイメージしていた方がむしろ素晴らしく、本物が紛い物にさえ思えてくる
③ 本物の凄みに驚愕せずにおれない
印刷物ではとうてい知り得ないオーラに圧倒される。絵具の質感、色彩の変幻、個性的な筆触(タッチ)、画家の気迫、技量と思い入れが一体となって迫ってくる。

レンブラントの『バテシバ』は、おそらく第3のパターンに属するものであろうと中野氏はいう。
というのは、この絵を印刷で知った場合、「肥った中年女性の美しくない裸体」という感想を真っ先にもつだろうから。このヒロイン像は、完璧なプロポーションとは程遠く、魅力に乏しいと現代人は第一印象を抱く。
ところが、オリジナルの前に立ち、等身大のバテシバの姿を目の当たりにすると、実在感と精神性の深みに衝撃を受けるとする。美術史家ケネス・クラークが「思考の影を全身に宿した裸体像という『バテシバ』の奇蹟」という言葉が実感されるという。ルーヴルにおける必見の名画だと中野氏は賞賛している。

バテシバについて


まず、バテシバについての解説から始めている。
バテシバとは、『旧約聖書』に登場する美女で、英雄ダヴィデと名君ソロモンをつなぐキーパースンである。

初代イスラエル王サウルは、羊飼いの少年ダヴィデを竪琴の腕を見込んで、仕えさせる。最大の敵ペリシテ軍との戦いで、ダヴィデは勇敢にも投石器で、3メートルを超える巨人ゴリアテを倒してしまう(ミケランジェロの有名な彫刻『ダヴィデ像』は右手に石を持つ麗しい裸体の青年像である)。

この手柄によってダヴィデは将軍となり、サウルの娘を妻にし、ついには第2代イスラエル王となる。全イスラエルを統合してエルサレムを首都として、40年もの間王座に君臨した。

ただ、国が安定しはじめた頃、重大な過ちを犯す。
ある日、ダヴィデはエルサレム宮殿のバルコニーから町を見下ろしていると、木陰で水浴する美女を見初める。身元を調べると、家臣ウリヤの妻バテシバであった。ウリヤが戦地にいるのを幸い、彼女を召し出して己のものとしてしまう。そして妊娠を知るや、ウリヤを激戦地に送り込んで戦死させてしまう。
その後バテシバを妻に迎えるが、その第一子はすぐに死に、他の自分の息子たちは王位をめぐって、殺害、陰謀が続き、ダヴィデの晩年は孤独と後悔に苛まれる。老ダヴィデは、バテシバが2度目に産んだ男児を後継者に定めた。その子こそ、ソロモンである。「ソロモンの栄華」という言葉どおり、イスラエルはこの王のもと全盛期を迎える(ダヴィデの強引な恋とウリヤの戦死、バテシバの選択なくしてはソロモンの誕生はなかったことを思うと、運命の導きを感じる)

レンブラントのバテシバ


妖艶な誘惑者としてバテシバは、その水浴の図が数多く描かれた。
しかし、このレンブラントのバテシバはそれらに比べて違っている。ここにあるのは、媚態でも官能でもなく、深い情感である。画面全体から、万感の思いが伝わってくると中野氏はみている。
「光と闇の画家」と呼ばれたレンブラントらしく、光源はバテシバの上半身だけを照らし、背景は闇に呑まれている。

バテシバは椅子に腰かけ、侍女に足を洗わせている。足を洗い終えたら、着替えて、ダヴィデ王の待つ宮殿へ行くことを決意している。それはバテシバの引き受けた運命であるが、さまざまな思いに心をかき乱されている。
バテシバの右手には手紙がある。ダヴィデからの呼び出し状である。

ここで中野氏の解釈が始まる。
つまり、この絵はその手紙を読んだ「瞬間」というより、過去現在未来を貫く「時間」をあらわしていると捉えている。
裸体は「水浴」という「過去」であり、「手紙」と「宝飾品」は「今」であり、「腹の膨らみ」は「未来」であるそうだ。彼女は手紙を読み、自分の水浴姿を見られたこと、王のベッドへ行かねばならぬことを知る。同時にそれが意味するのは、夫の死である。さらには王子を産むこと、政争に巻き込まれること、王国の未来へまでも続いている。自分や夫、そして子の運命が激変する予感が脳裏に浮かぶ。バテシバの表情は未来を知った者の表情であると中野氏は解釈している(バテシバは未来を知り、受け入れたことをこの絵は表しているとする)。

バテシバのモデルとなったヘンドリッキエ


バテシバのモデルとなったのは、レンブラントの愛人ヘンドリッキエである。バテシバの手が装飾品や衣装に似合わない無骨な大きさなのは、ヘンドリッキエが労働者階級だったからだそうだ。28歳の彼女は、このとき妊娠しており、絵の完成と子どもの誕生は同じ1654年のことである。

ヘンドリッキエは未婚の家政婦の身で、雇い主の子を宿した。この咎により、7ヶ月の身重で教会へ呼び出され、姦淫の罪に対する批難を浴び、一種の破門を受けた。
教会からの召喚状を受け取ったヘンドリッキエは、『バテシバ』に見られるような複雑な表情を、何かの折にふっと浮かべたのかもしれない。レンブラントはその強烈な印象を本作に結実したのかもしれないと中野氏は想像している。ヘンドリッキエは当時のレンブラントのミューズであった。

ところで『バテシバ』は近代になり、意外な方面から注目を浴びるようになった。もしこの裸体がヘンドリッキエの生身の体のリアルな描写なら、彼女は病気だったのではないかと指摘する医者が現れた。つまりバテシバの左の乳房の黒い影を乳癌の徴候とみなす研究者もいる。20代の女性なのに、腋の下には固いしこりがあるように、見えなくはない。

ヘンドリッキエが亡くなったのは、本作完成後の9年後である。進行の遅い乳癌が他の臓器へ転移したのか?
それまでヘンドリッキエの死因は、1663年にアムステルダムを襲ったペストによるものとされてきた。だが記録によれば、ヘンドリッキエはその前年から何ヶ月もかけて徐々に衰弱してゆき、公証人に遺言書を託した後、レンブラントや子どもたちの看取りのうちに亡くなっているようだ。
感染力の強い黒死病なら、このような亡くなり方はできなかったから、乳癌説が説得力をもつとも考えられている。
(この点は、【読後の感想とコメント】でのちに再び言及する)

レンブラントの人生


レンブラントの人生は、その絵と同じで、強い光と濃い闇のコントラストが特徴である。
ライデンの製粉業者を父に持ち、中産階級の子が受ける教育としてラテン語学校へ通い、大学へも行ったが、中退する。
というのも、天才的な画才を認めたからで、アムステルダムで修業し、ライデンに戻って画家として独立した。25歳で再びアムステルダムへ移り、集団肖像画『チュルプ博士の解剖学講義』で一流画家の仲間入りを果たした。
その2年後には、富裕な上層階級の娘サスキアと結婚する。彼女はまさに福の神であった。レンブラントに生きる歓びと莫大な持参金と、有力な顧客群をもたらした。サスキアをモデルに花の女神フローラやダナエなどが描かれた。

絶頂期のレンブラントは大豪邸を構え、多くの美術品などをコレクションし、工房には50人もの弟子がいた。人気画家として肖像画の注文は引きも切らず、神話などの大作の依頼も多かった。
こうした栄光の時期は36歳まで続くが、その後は転落していく。サスキアが幼い息子を遺して、結核で他界した途端、歯車が狂いだす。同年発表した『夜警』(アムステルダム国立美術館蔵)が不評にさらされた上、オランダの景気悪化による資産運用の失敗などが加わる。
そしてサスキアの死後、乳母を雇ったが、結婚不履行で訴えられた。裁判も泥沼化し、レンブラントは作品を1枚も描けなかった。

その裁判が片付いたころ、20歳年下の家政婦ヘンドリッキエが愛人となる。結局、
ヘンドリッキエとも内縁関係に終わるのは、前妻サスキアの遺言のためだった。もしレンブラントが再婚したら、遺産の半分はサスキアの姉のところに行くとする遺言を残していた。
そのため、ヘンドリッキエを正式な妻とできず、彼女は教会から呼び出しをくらった。

絵の注文も激減する。外見をあるがままリアルに、しかも内面や感情を抉りだす肖像画の画風が嫌われだしたことにもよる。レンブラントは50歳でついに破産する。コレクションも豪邸も手放し、52歳で貧民街の小さな家へ引っ越した。

それでも絵だけはずっと描き続け、「魂の画家」として知られるレンブラントの絵画群は、人生の闇の中で花開いたものなのである。
57歳でヘンドリッキエに先立たれ、62歳で今度は息子に先立たれる。翌年、この孤独な画家はみまかった。
死の直前まで力のこもった作品を描き続けた。その生涯で、自画像を百点近く描いているが、それは一種の自伝とみなされている。
(中野、2016年[2017年版]、57頁~69頁)

第⑤章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』


プッサン(1594~1665)
『アルカディアの牧人たち』
1638~1640年頃 85cm×121cm リシュリュー翼3階展示室14

画家プッサンについて


二コラ・プッサンは、長くイタリアの後塵を拝してきたフランス美術界がようやく生み出した、国外へ誇るに足る、最初の、そして17世紀フランス最大の画家であると、中野氏は評している。

人生の大半をローマで過ごし、主要作品のほとんど全てをローマで描きあげた。激烈なバロック絵画から超然と離れ、プッサンは「知的構図の中に道徳的寓意を表現すべきもの」と語った。理性的で厳格な古典様式によって、その後のフランス絵画に決定的影響を与えた。
『アルカディアの牧人たち』はプッサンの代表作で、王立アカデミー(イタリアのアカデミーを真似して作られた国立の学術団体)におけるお手本となる。古典彫刻のような人体表現や安定的構図、知的主題などに、ダヴィッド作品との共通点がある。

ルーヴルにはプッサンが39点もあり、うち31点がルイ14世による購入である。ダヴィッドがナポレオン御用達だったのと同じである。
ただ、実際のところ、生前のプッサンに人気があったとは言えないようである。ルイ太陽王は別として、大多数の王侯貴族や教会や大商人が喉から手が出るほど欲しがったのは、派手で華やかな「王の画家にして画家の王」ルーベンスの作品だった。
(いわばプッサンは国産の純文学ないし難解な芸術映画であり、ルーベンスは世界規模の大衆文学ないしハリウッド映画であると、中野氏は喩えている)

その後の美術史の流れとしては、次のように略述している。
堅苦しいプッサンの後には享楽的ロココがやってきたが、ロココはダヴィッドの凍りついた大画面に踏み潰される。そのダヴィッドは、色彩と激情の氾濫たるロマン主義に吹き飛ばされ、それも飽きられると印象派が登場した。波は寄せては返すというのである。

『アルカディアの牧人たち』


アルカディアとは、ギリシャ南部ペロポネソス半島の中央台地の名で、古来より牧歌的理想郷とされてきた。
田園ユートピア伝説が形成され、ここは牧神パンが住まうといわれ、パン崇拝地である。太陽光線をあわらす角と、大地への密接さを象徴する山羊の脚を持つパンは、パン=全てという名前のとおり、至るところに偏在する自然神である。アルカディアの民が崇めた神パンは、脚こそ山羊でも上半身は美青年だった。
アルカディアという理想郷は、現実逃避の場として人々の夢の対象になったが、17世紀のイタリアが突然、次のようなラテン語成句が生まれる。

「Et in Arcadia ego(エト イン アルカーディア エゴ)」
・「Et」とは英語の「also」(=もまた)にあたる。
・「ego」はエゴイズムから類推できるように、「I」(=わたしは)の意。
・動詞が省略されているが、「アルカディアにもわたしはいる」
 →わたし、即ち死神。「我、アルカディアにもある」
 →憂い無きはずのアルカディアにさえ死は存在する、という意味である。
 (「死」こそが偏在の最たるものであろう)

この理想郷にも存在する死を絵画したのは、イタリア人画家グエルチーノであった。「我、アルカディアにもあり」(ローマ古典国立絵画館蔵)は、アルカディアに住む羊飼いふたりが頭蓋骨を発見し、呆然自失となる図である。石台には、「我、アルカディアにもあり」の文字が彫られている。頭蓋骨はメメント・モリ(=死を想え)の典型的シンボルである。」この作品はわかりやすいといわれる。
ところがグエルチーノからほぼ20年後、同じ主題をプッサンが取り上げると、構成力、表現力、格調の高さにおいて、すべて優っていた。ただし、鑑賞には知識と思考が要求される。

『アルカディアの牧人たち』の構図と登場人物


プッサンの『アルカディアの牧人たち』には、計算されつくした構図と考え抜かれた人物の配置とポーズ、そして色調を抑えた落ち着きがある。
羊飼いたちが、崩れかけた石棺を見つけ、棺の前にしゃがんだ髭の男が銘文「我、アルカディアにもあり」を指でなぞっている。
(古代では音読があたりまえだったから、文字をなぞりながら訥々と読み上げているようだ。ちなみに黙読の習慣は18世紀頃からなので、プッサンの時代でも音読がふつうだったそうだ)

赤い布を巻いた男は、そこへあらわれた右端の女性を横目で見上げ、注意を促し、女性は彼の受けた衝撃をなだめようとしているように思われる。
この女性の正体は謎である。いまだに定説はないようだ。かつて美術史家は、アルカディアにいる人間の女性は女羊飼いだけだとして、そう解釈してきた。しかし、この説は妙である。というのは男の羊飼いの簡素な服に比べて、上等な衣装をまとい、髪飾り紐まで付け、男が皆持っている牧羊杖を持っていない。
そこで、女祭司という説がでてきた。牧神パンを祀る土地なので、祭司がいてもおかしくない。またこの女性は人間ではなく、「受け入れるべき運命」を示す擬人像だと主張する人もいる。
いずれにせよ、この女性は死への諦念を促す存在であることは、その静かな表情や態度から推測しうる。

これは画家による謎かけである。感じるだけが絵の面白さではなく、画家との知的対決もまた絵を読む歓びであると中野氏は主張している。プッサンの『アルカディアの牧人たち』は、まさに「考える絵画」の代表であるというのである。
(中野、2016年[2017年版]、70頁~82頁)

第⑥章 捏造の生涯 ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』


ルーベンス(1577~1640)
『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
1622~1625年頃 394cm×295cm リシュリュー翼3階展示室18

ルーベンスという画家


ルーベンスは「王の画家にして、画家の王」である。
ルーベンスの一生を知ると、神がもしいるなら、それはきっと「依怙贔屓(えこひいき)の神」に違いないと中野氏は考えている。
というのは、17世紀を代表するこの巨匠は、幸運と健康と才能と容姿に恵まれ、富と栄光と愛と幸福に満ちた輝かしい生を全うした。しかも死後400年近くたつというのに、その間ただの一度も人気に翳りの出たためしがない。これが理由である。

まず、ルーベンスの生い立ちから解説している。
法律家だった父に、幼いころギリシャ語、ラテン語、古典文学などを学んだ。しかし10歳で父が死ぬと、母子家庭の経済状態は悪化し、末子のルーベンスはラテン語学校を中退する。やむなく13歳で某伯爵家の小姓(こしょう)となり、そこで貴族社会における行動様式を会得する。

すでに画才を自覚しており、その後、イタリア経験のある師とめぐりあい、絵の他にイタリア語も教えてもらう(彼は知的で努力家で、後に数ケ国語をマスターしている)。
21歳で独立し、23歳で憧れのイタリアへ行き、マントヴァ公の宮廷画家として雇われる。8年後、母の死を機にアントワープに帰るが、この翌年、1609年、アントワープにも休戦により平和がもどり、経済が活況を呈し、大量の注文が殺到した。

1609年はとりわけルーベンスにとって幸福の年だったようだ。
まず、ネーデルランド総督であるイサベル大公妃(スペイン・ハプスブルク家フェリペ2世の娘)の引きにより、宮廷画家に任じられた。
次いで富裕な商人の娘イザベラ・ブラントと結婚し、家庭は円満だった。見るからに相思相愛で、理想のカップルに自分たちの姿を『ルーベンスとイザベラ・ブラント』(ドイツのアルテ・ピナコテーク蔵)において描いている。

また、ルーベンスは企業家としても大工房を運営し(一時、ヴァン・ダイクも在籍)、2000~3000点もの作品を輩出した。構想や下絵はルーベンスが描き、弟子たちがある程度完成させてから、最後の仕上げをまた自分でするという形だった。

1621年、休戦協定が失効したので、イザベル大公妃は再びの戦乱を恐れ、ルーベンスに外交官としての仕事を委任した。1628年からは、スペインやイギリスに派遣され、平和の使者としても成果をあげている。スペイン宮廷に『我が子を喰らうサトゥルス』、イギリス宮廷には『平和と戦争』という傑作を献呈している。

私生活では、先妻が病死したので、53歳で再婚している。相手は中産階級出身の16歳、花のような少女だった(彼女をモデルに多くの絵を描く)。
アントワープの大邸宅(今は美術館ルーベンス・ハウス)で、風景画を描いたり、名画を収集したりして、63年間の人生は最後まで華やぎの絶えることはなかったそうだ。

『マリー・ド・メディシスの生涯』という連作画


このように、ルーベンスの生涯を一通り辿ったあと、いよいよ『マリー・ド・メディシスの生涯』という連作画について解説している。

フランスから大きな注文を受けたのは、ルーベンス40代半ばのことだった。依頼主は、故アンリ4世妃、現国王ルイ13世の母堂マリー・ド・メディシスであった。改築した居城リュクサンブールに、40数枚の連作画を飾りたいとのことである。
それまでルーベンスはまだフランス宮廷に絵を納めたことはなく、工房あげての大仕事であった。動きのない静的な傾向の絵ばかりをよしとするフランスに、バロックの流麗な躍動感と色彩の爛漫を教えてやろうと張り切ったと中野氏は想像している。

「バロック(=歪んだ真珠)」という美術用語について、但し書きを添えている。バロック時代(16世紀後半~18世紀後半)に生きた人は誰ひとり「バロック」という美術用語を知る者はいない。というのは、19世紀半ばの美術史家がルネサンス時代に続く潮流をそう称したからである。ルーベンスやカラヴァッジョやレンブラントなどバロック画家は、自作をおそらくは、新しい古典主義とでも思っていたらしいのだが。

さて、ルーベンスは現地に行って、依頼主マリーの注文内容を話し合った。その注文とは、暗殺された夫たる先王の一生と、自分の一生を、それぞれ連作にして、まず先に自分のほうの22枚を完成させよとのことであった。アンリ4世の生涯は波瀾万丈で、顔にも特徴があり、実に描き甲斐ある人物だったのに、50近いマリーは自分を優先させ、大金を提示してきた。
何のオーラもないどころか個性も魅力もないマリーの人生を描くにあたり、ルーベンスは頭を抱えたようだ。そこで画家は、4年近くの年月をかけ、ドラマティックな粉飾のもとに、マリーをヒロインに仕立てあげた。並外れた力量の凄さである。

『マリー・ド・メディシスの生涯』のタイトル


『マリー・ド・メディシスの生涯』全22枚の大作は完成した。
それぞれの内容を略述すると、次のようになる。
① 「運命」
神話の最高神ゼウスと妻ヘラの前で、運命の三女神がマリーの一生を決めている。
② 「誕生」
神々や天使が寿(ことほ)ぐ
③ 「教育」
知恵の女神ミネルヴァや商業の神メルクリウスなどが、大自然の岩窟内で、マリーに真善美の全人教育を授ける(現実のマリーは両親の死後、叔父にあずけられたが、フランス語も学んだことがなかった)
④ 「肖像画の贈呈」
(1622~1625年頃、394㎝×295㎝、リシュリュー翼3階展示室18)
天使らが婚約者マリーの肖像画を戦場へ運んでゆくと、甲冑姿のアンリ4世はその美貌に魅入られ、戦争中だということすら忘れて陶然としてしまう。そして天使からゼウス(アトリビュートは鷲およびその鉤爪で掴んでいる雷電)、そしてヘラ(アトリビュートは孔雀)が見下ろしている。
この時、マリーはすでに27歳だった。当時は14、5歳で嫁するのがふつうだったから、相当に遅い。一方、アンリは最初の妻マルゴと離縁し、愛人が多くいたこともあって、最初からマリーに無関心だった。
⑤ 「結婚」
アンリの代理人がイタリアへ来て挙式した。当時の王侯の結婚式はこの形が多かった。
⑥ 「マルセイユ上陸」
文化国イタリアから、田舎国フランスへマリーはやって来る。ガレー船18隻、供の者数千人を引き連れ、年間国家予算ほどの持参金を携えてである。画面では、海のニンフやマルセイユの擬人像が祝福している。連作中、屈指の名作であるとされる。
⑦ 「リヨンでの会見」
夫婦の初対面は、アンリをゼウスに、マリーをヘラになぞらえて描かれる。ライオンはリヨンの紋章であり、リヨンの町の擬人像である。
⑧ 「ルイ13世の誕生」
マリーは多産で六子もうけた
⑨ 「摂政政治」
王不在の場合、国政の全権をマリーに与えるとの布告がなされた
⑩ 「戴冠式」
サン・ドニ聖堂にて、統治権委託の戴冠式が挙行された。後にダヴィッドがナポレオンの戴冠式を描くとき、本作を参考にした。
⑪ 「アンリ4世の神格化」
左端には暗殺されたアンリが天上へゆく姿で、右端には喪服のマリーが描かれる。マリーはフランスの擬人像から王権を象徴する宝珠を受け取っている。
⑫ 「神々の評議会」
天上の神々と討議するマリーが描かれる
⑬ 「ユリエールの勝利」
ドイツの小さな町を征服した記念として描かれる
⑭ 「王女の交換」
息子ルイ13世妃として、スペインからアンヌ・ドートリッシュが嫁してくる
⑮ 「摂政政治の至福」
左手に世界全体を示す天球を持ち、右手には公正と正義を象徴する天秤を掲げる
⑯ 「成人したルイ13世」
ルイ13世は成人したとはいえ、頼りないので、マリーは手伝おうとするが、親子の関係は悪化するばかりだった。ルイ13世はマリーの側近を暗殺し、マリー本人もブロワ城へ幽閉する。
ルーベンスはその事件も「誹謗」のタイトルで完成させたが、その絵はマリーに受け入れられず、現在はフランスにないそうだ。
⑰ 「ブロワ城からの脱出」
2年後に幽閉は解けるが、ミネルヴァに助けられたと解釈された
⑱ 「アングレームの条約」
マリーはメルクリウスから平和の象徴、オリーブの小枝をもらう
⑲ 「アンジェの平和」
平和の女神は武器を燃やし、悪徳の擬人像が怒っている
⑳ 「完全なる和解」
親子は神のように天へ飛翔する
㉑「真理の勝利」
  仲良し親子のもとへ、時の老人が真理の女神をひきあげようとしている。

ルーベンスは22枚描いたのだが、1枚はボツになってしまう。現在この21枚と、他にマリー単独肖像、彼女の父と母の肖像、合わせて24枚がルーヴルの特別室に展示してある。
ちなみにアンリ4世の生涯連作は、残念ながらこの世に存在しない。ルーベンスは描き始めていたのに、マリーに不測の事態が起こってしまった。

マリーが“捏造生涯図”を並べて悦にいっていたのはわずか5年である。マリーは再び政治に口を出し、息子からまたも幽閉され、半年後に脱出したが、フランスにはいられず、国外を11年も転々とした後、ドイツで客死(かくし)した。
(中野、2016年[2017年版]、83頁~97頁)