歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪嵐山光三郎『追悼の達人』を読んで 私のブック・レポート≫

2019-12-31 10:18:29 | 私のブック・レポート
≪嵐山光三郎『追悼の達人』を読んで 私のブック・レポート≫




【はじめに】


年末になると、その年の出来事を振りかえざるをえない。新聞では、「墓碑銘2019」と題して、平成が幕を下ろし令和へと踏み出した2019年に、旅立った人々を特集していた。



国内の俳優では、
・かれんで上品な女優八千草薫さん(88歳、10月24日)
・“高島ファミリー”の顔だった高島忠夫氏(88歳、6月26日)
・映画「羅生門」や「雨月物語」に出演した京マチ子さん(95歳、5月12日)
学術分野では、
・日本国籍を取った米コロンビア大名誉教授ドナルド・キーン氏(96歳、2月24日)
・戦後日本を代表し、「梅原日本学」を打ち立てた哲学者の梅原猛氏(93歳、1月12日)
ジャーナリストとしては、
・海外紀行番組の案内役だった兼高かおるさん(90歳、1月5日)
スポーツでは、
・歴代最多の400勝を達成したプロ野球選手の金田正一氏(86歳、10月6日)
以上の人々が、80代~90代で亡くなられた人々として、印象に残っている。

目を海外に転じてみると、
政治家として、
・欧州統合の深化に貢献し、また大相撲を愛した親日家のフランス元大統領ジャック・シラク氏(86歳、9月26日)
芸術・芸能の分野では、
・ヒチコック映画「知りすぎていた男」で歌った「ケ・セラ・セラ」を大ヒットさせた米歌手ドリス・デイさん(97歳、5月13日)
・映画「イージー・ライダー」で若者のシンボルとなった米俳優ピーター・フォンダ氏(79歳、8月16日)
・イタリア映画の名匠フランコ・ゼフィレッリ氏(96歳、6月15日)は、女優オリビア・ハッセーを見いだし、代表作「ロミオとジュリエット」の主役に起用した
・映画「シェルブールの雨傘」の音楽を手掛けたフランスの作曲家ミシェル・ルグラン氏(86歳、1月26日)
・「ボサノバの父」と呼ばれ、「イパネマの娘」が大ヒットしたブラジルの歌手ジョアン・ジルベルト氏(88歳、7月6日)
そして学術・文化の分野では、
・近代世界を単一システムと捉える「世界システム論」の提唱者として知られる米イマニュエル・ウォーラーステイン氏(88歳、8月31日)
・パリのルーヴル美術館入り口の「ピラミッド」を設計した米建築家イオ・ミン・ペイ氏(102歳、5月16日)
以上の人々は、私の記憶に留め、別れを惜しみたい人々として、印象に残った。




さて、私にとっての一番大切な出来事は、2019年5月に亡くなった父の死であった。86歳であった。
上記の人々のうち、金田正一氏、シラク氏、ミシェル・ルグラン氏が、父と同じ86歳で亡くなり、八千草薫さんや高島忠夫氏も2歳しか違わない88歳であったことを思うと、同じ時代を生き抜き、亡くなった人々の人生行路に思いをはせ、感慨深いものがある。

ところで、身内の死に際して、哀悼の意を表すことは、悲しみの渦中にあり、難しいものである。ましてや、喪主ともなれば、限られた時間内に、葬儀のための挨拶文をまとめ、会場に赴かなければなければならない。
そんな時、嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮社、2002年)に出会った。文庫本でも、642頁もある大著である。




※≪嵐山光三郎『追悼の達人』(新潮社、2002年)はこちらから≫


嵐山光三郎『追悼の達人』 (新潮文庫)



執筆項目は次のようになる。


【著者嵐山光三郎氏について】
【岸田劉生と麗子像】
【坪内逍遥と妻セン】
【竹久夢二と3人のモデル】
【高村光太郎と智恵子】
【鈴木三重吉とお酒】
【堀辰雄とフランス語】
【有名作家への追悼文】
【おわりに】






残されたものは故人をどのように追悼したらいいのかということが、常々頭の中にあった。そこで、「追悼」というテーマで、文献を収集していたら、嵐山光三郎氏の『追悼の達人』(新潮文庫、2002年)という本に出会い、読むことにした。巻末で、林望氏は、この嵐山氏の『追悼の達人』を「屈指の名著」と推賞しているが、私も一読して、名著だと思い、その内容を少々まとめてみた。
明治、大正、昭和の主に作家・文学者の追悼文について、書かれているが、中には画家や彫刻家についての追悼文も嵐山光三郎氏が盛り込んでいる。興味のありそうな人物を紹介しておきたい。



【著者嵐山光三郎氏について】


嵐山光三郎氏(本名、祐乗坊英昭)氏は、1942(昭和17)年、静岡県に生まれ、国学院大学文学部国文科を卒業し、1965年、平凡社に入社し、雑誌『太陽』の編集長を経て、作家活動に入る。趣味は料理で、1988年、『素人庖丁記』により、講談社エッセイ賞を受賞し、その後、『芭蕉の誘惑』により、JTB紀行文学大賞を受賞した。旅と温泉を愛し、1年のうち8ヵ月は、国内外を旅しているほど、旅好きな作家である。

著者嵐山光三郎氏も、「文庫本のあとがき」(612頁~613頁)によれば、この本の初版単行本(1999年12月)が刊行された3ヵ月後に、御尊父を亡くされたそうだ(御尊父は祐乗坊宣明氏[1913-2000]で、朝日新聞社社員から、多摩美術大学の教授に転じたグラフィックデザイナーだった)。
その際、父の死の前ではなにひとつ言うことができず、「追悼の極は、なにも言葉を発し得ないことを実感した」という。
2000年の10月から、この書により夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の項をNHK教育テレビ「人間講座」で放送された。
嵐山氏は、追悼について、次のような含蓄のある文章を記している。
「追悼はおそろしいもので、死者を追悼することによって、追悼する側の生き方が問われる。それ以上に、文を書くことがさらにおそろしい」(613頁)。
嵐山氏は作家であるから、追悼よりも文を書くことがさらにおそろしいとするが、それはさておき、私のような者には、「死者を追悼することによって、追悼する側の生き方が問われる」という言葉は、私の心に響いた。私の場合、亡父を追悼することは、今後の自分の生き方が問われることを意味したので、この言葉には共感した。

先述したように、この書は600頁を超える大著で、正岡子規に始まり、明治(7人)、大正(6人)、昭和(36人)と小林秀雄にいたるまで、合計49人、およそ50人近くの近代文学者への追悼文が収められている。
ここで、全員を紹介することはできないので、私の関心をひいた人物について、自分なりにまとめて、紹介したいと思う。



【岸田劉生と麗子像】


岸田劉生は、黒田清輝に師事し、『麗子五歳之像』をはじめ、娘の麗子をモデルにした麗子像シリーズが有名である。
劉生の死は突然死で、夭逝であった。38歳で中国大連へ旅行し、帰国そうそう山口県徳山市での宴席がつづき、痛飲をくりかえし、酒席で屏風絵を描き終えた後、突然、胸の苦痛を訴え、死亡した。昭和4年12月20日のことであった。

その劉生に対して、梅原龍三郎は次のような弔詞を述べた。
「ミケランジェロが生れた時代に置けばミケランジェロだけの仕事を成しとげるものである事を、又徽宗皇帝の環境に置けば徽宗以上の名作を残し得るものである」と絶賛した。
高村光太郎は「劉生の死ほど自分の心を痛打したものはない」として、劉生の気風をピカソに似ていると言った。そして劉生にだけは自分の彫刻を今後も見てもらいたかったし、意見が聞きたかったようだ。その一方で、津田青楓(せいふう)は、「模倣の天才岸田」と題して、「岸田の仕事の跡を見るとたいてい昔の偉い奴の仕事の模倣だ。洋画のジュラー(デュラー)、支那画の石濤(せきとう)、線画では春挙、浮世絵では春信あたりをねらっていた」として「天才と云うものは凡て模倣のうまいものである」と分析している。

ところで、麗子像の顔は平べったく、ぽってりと湯気がたちそうな顔である。グロテスクで鼻ぺちゃの不美人である。その麗子像が広くもてはやされるのはなぜか。この点について、嵐山光三郎氏は次のように考えている。麗子像はまるで古代仏像にも似た聖なる美しさをにじませているからであるというのである。黒髪をたらし、細い目で微笑する少女麗子は、この世のものとは思えない神秘をたたえているとみる。一度目にしたら忘れられないが、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の微笑に匹敵する東洋の美があるという。モナ・リザが姿を変えたダ・ヴィンチの自画像であったように、麗子は姿を変えた劉生ではなかったかと嵐山光三郎氏は推論している。
(この点については、異論が予想されるところである。私もダ・ヴィンチや「モナ・リザ」についての文献を収集しているので、この「モナ・リザ」=ダ・ヴィンチの自画像説については、後日ブログの形でまとめてみたいと考えている)。



【坪内逍遥と妻セン】


坪内逍遥の75年間にわたる生涯は近代文学の歩みそのものであったといわれる。日本近代文学は明治18年に刊行された『小説神髄』に始まった。シェークスピアを紹介し、演劇を改革し、若手を指導し、早稲田大学文学科育成に尽力した。

逍遥の妻は浅草で遊女をしていた鵜飼センである。自分は士族出の秀才でありながら、遊女を妻として恥じることがなかったという。妻センは晩年目を悪くしたため、逍遥は手をひいて連れ歩いた。そのため「仲の悪い夫婦は、逍遥夫妻に会うと、あまりの仲の良さに影響されて夫婦仲が直った」というほどであったようだ。

逍遥は遊女を妻とした男であったので、次のようなエピソードもある。明治44年、逍遥は文芸功労者として表彰され、2200円の賞金をもらった。その一部を山田美妙の遺族扶助として贈ったという。山田美妙は、逍遥の怒りにふれて文壇から消し去られた人物であった。逍遥は山田の何を怒ったのか? 山田は浅草の芸妓おとめを妾として囲っていたことを「万朝報」に暴露され、それを「小説のため」と言い訳して、逍遥の逆鱗にふれたのである。逍遥は「早稲田文学」誌上に「小説家は実験を名として不義を行うの権利ありや」との一文を掲載した。遊女を妻とした逍遥だからこそ山田の行為は許されなかった。ただ、逍遥は山田を消したことを忘れられず、山田の遺族に金を贈ったそうだ。
さて、数多くの逍遥への追悼の中で、異彩を放っているのが、妻センの追悼記「逍遥と偕(とも)に五十年」であると嵐山氏は注目している。それは「婦人公論」の昭和10年5月号に掲載された。7ページにわたる聞き書きで、逍遥像が具体的に語られている。
「私が坪内の許(もと)へ参りましたのは明治19年の7月で、坪内が28歳、私が21歳の時でございます」ではじまる名文であるらしい。「坪内は妻を大変大事にする、と皆さんがよくおっしゃいましたが、別に私を大事にしてくれたとは思われません。ただ、連れそってから50年もの間、大して小言をいただいたことがないというくらいのものにすぎません」と述べている。センの回想は無駄がなく正確で、余計な思い入れがなく沈着そのものであったと嵐山氏は評している。



【竹久夢二と3人のモデル】


夢二式と呼ばれる独特の美人画と抒情詩文で一世を風靡した夢二の美人画には愁いと孤絶が漂い、清純でありつつも頽廃の色が濃い。
夢二の最初の妻は、絵はがき店を開いていた岸たまきで、夢みるような濡れた瞳の妖艶な 女性である。二番目の女性は、夢二より12歳年下の画学生、笠井彦乃で、細面の柳のような麗人で、25歳で亡くなってしまうが、長髪でなで肩の、夢二絶頂期のモデルであった。三番目は藤島武二(たけじ)のモデルをしていたお葉(佐々木カネヨ)で、死んだ彦乃に似ており、彦乃のはかなさに魔的な魅惑をつぎこんだような娘であった。これらの三人は、夢二好みの美人であり、夢二美人画の三つの代表的モデルとして欠かせぬ女性である。
夢二という筆名は、尊敬する藤島武二にあやかって、武二(ムニ)を夢二(ムニ)とおきかえたものだが、その藤島武二は、竹久について「非常に艶福の盛んな人」という噂を耳にしていた。
夢二への追悼は、女性関係がはなやかであったので、その追悼も女ぬきで語ることはできなかった。



【高村光太郎と智恵子】


高村光太郎は木彫界の権威高村光雲の子として、明治16年3月13日に生まれた。ニューヨーク、ロンドン、パリに留学し、彫刻はロダンの弟子であり、イギリスではバーナード・リーチと親交を結び、パリではマチスに学んだ。

31歳で長沼智恵子と同棲し、二人だけの愛の世界を築き上げ、自分たちを世間から遮断した。晩年は花巻郊外山村の小屋にこもって、単身、農耕自炊の生活を通した。詩人で彫刻家である高村光太郎は、恋人長沼智恵子との出会い、結婚生活、その狂気、死後の追慕という一人の女性をテーマにした詩集『智恵子抄』を出版した。光太郎の『智恵子抄』は日本の青春詩集として多くの人に愛誦されてきた。光太郎が『智恵子抄』を出版したのは58歳であり、智恵子はその3年前に52歳で没している。『智恵子抄』は60歳になろうとする初老の男の恋歌であり、その激しく純粋な精神を、友人の佐藤春夫はまぶしい思いで「東京の野蛮人」と追悼した。吉行淳之介は「『智恵子抄』は以前たいそう愛読しました。優しく美しく、しかも男性的な詩だと記憶しています」と追悼した。

また梅原龍三郎は、葬儀で次のような弔辞を読んだ。
「君は僕の画業の最初の知己であった。君は作品を稀にしか人に見せなかった。それは君は無限に高き夢と現し得る処がなお遠かったからであろう。然したとえ一点の作品がなくても君は君の人格と生活の態度に因って高邁なる芸術家であった。
 巴里の冬の霧の深いある朝君がノートルダムのセン塔に昇ったら空中が歩けそうであやうく飛ぶ処であったというていた。又その頃かかっていたお父さんの胸像を夜中無意識にやったらしく翌朝手が泥になっていたと話していた。君の生活は夢と現(うつつ)の間の様に思った。」と。

光太郎は、純粋精神の人であったといわれる。このまっすぐな一本気の気性が、智恵子へのひたむきな愛につながっていく。光太郎は親も閉めだし、兄弟も友人も閉めだして、智恵子と二人だけの愛と芸術の世界へ没入した。智恵子が死んでからは孤高の一人暮らしをつらぬき、死ぬ2年前に、智恵子のおもかげを託した裸婦像を十和田湖畔に建てた。波乱に富んだ生涯はそのまま一編の物語のように完結した。

この十和田湖畔の記念像の建立の経緯は、次のようなものである。すなわち、それは十和田湖の国立公園指定15周年を記念して、青森県知事津島文治(太宰治の実兄)によって計画された。津島知事より相談をうけた谷口吉郎(よしろう)が佐藤春夫に相談し、佐藤春夫の意見で高村光太郎に依頼することになった。佐藤春夫の熱意に動かされた光太郎は、「智恵子を作る」とひとりごとのように述懐したという。さらに「個人的な作意を十和田のモニュマンに含ませるのは、青森県に申しわけない気もする」とも言った。
これに対して谷口は「智恵子さんは高村さんのものであっても、もはや万人の心に響く永遠の像になっている。彫刻家が制作する永遠像が湖に捧げられることは、むしろ詩と彫刻の結合だ」と説得した。こうして、光太郎は「途中で倒れることがあっても、この作品のためにはあらん限りの力をつくしたい」と決意するに至った。

裸像が完成したのは、昭和28年10月で、光太郎は70歳であった。除幕式には光太郎のほか、佐藤春夫、谷口吉郎、土方定一が出席した。光太郎は「智恵子の裸形をこの世に残して わたくしはやがて天然の素中に帰ろう」と詩に書いた。



【鈴木三重吉とお酒】


鈴木三重吉は、夏目漱石の推薦で「千鳥」を発表し、児童文学に進出し、「赤い鳥」を創刊し、芥川龍之介に児童文学の筆をとらせた。
鈴木三重吉は、漱石の弟子のなかで、ひときわ酒ぐせが悪かったそうだ。三重吉は、昭和11年に53歳で死んだが、追悼のなかで、三重吉の酒をほめた人は一人もいない。そして漱石夫人の夏目鏡子は「鈴木さんは御酒が好きで、飲めばくだをまき、人につっかかってこなければ承知のできないのには、だれも困らされたことです」と回想している。酔うとからみ酒になった。三重吉の臨終をみとった主治医は「夏目の奥様に慈母の如くあまえるのも鈴木君が随一でなかったであろうか」と証言している。8歳で母を亡くした三重吉が鏡子夫人に甘えたいという心情もわかると嵐山光三郎氏は述べている。
また鏡子夫人によると、若いころの三重吉は大の子供嫌いで、漱石の誕生日に漱石の子や親戚の子供が集まってうろうろしているのをみて、「子供はうるさいな、たんすのひきだしにでも入れておくといい」とののしったという。

それほど子供嫌いだった三重吉だが、結婚して自分の娘が生まれると、うって変ったように子ぼんのうになり、童話雑誌「赤い鳥」を創刊した。そのことを漱石の長女筆子はいつまでも覚えていて面白がっていた。
その「赤い鳥」を創刊したのは大正7年(36歳)で、それ以後、児童文学や童謡を世に広めた。「赤い鳥」は196冊刊行されており、三重吉追悼号をもって幕を閉じた。
三重吉が児童文学へ移行したのは、ひとつは生活のためであった。成田中学の教師をやめていくつかの小説を書いたけれども、それだけでは食っていけなかった。大正6年、『世界童話集』を出して、どうにか生活できるようになった。そして、持ちまえの商才から「童話は金になる」と気がついた三重吉は、「赤い鳥」創刊にふみきった。創刊号は新鋭の芥川が童話を書いたということが評判になり、よく売れた。その後は、北原白秋の童謡が人気を呼んだ。
「赤い鳥」からは、西条八十の「かなりや」や北原白秋の「揺籠のうた」「あわて床屋」「雨」といった今なお親しまれている童謡が数多く誕生した。芥川龍之介『蜘蛛の糸』、新美南吉『ごんぎつね』、有島武郎『一房の葡萄』といった名作はいずれも「赤い鳥」に発表されたものである。
三重吉の編集者としての腕は天下一品であった。三重吉自身も多くの童話を書いた。そのため、三重吉といえば児童文学者のイメージが強く、世間の人は「赤い鳥」の編集発行人がじつは手のつけられない酔っ払いであったことは信じ難かったろう。



【堀辰雄とフランス語】


嵐山光三郎氏は「堀辰雄 逞しき病人」と題して、堀辰雄(明治37年~昭和28年)について述べている(嵐山光三郎『追悼の達人』新潮文庫、2002年、481頁~491頁)。
堀辰雄は東京に生まれ、室生犀星、芥川龍之介に師事し、芥川の死にあたり、その全集の編纂にたずさわった。結核を病み、富士見高原、信濃追分で療養生活を送る。

堀辰雄の小説のテーマは「死から生への回帰」であって、つねに死と隣りあっていたといわれる。堀辰雄が肺結核にかかったのは19歳で、21歳から毎年のように喀血(かっけつ)するようになる。昭和5年(辰雄26歳)、『聖家族』脱稿後に大量に喀血した。このころの肺病は不治の病であり、世間はもうだめかと思った。辰雄の意識は生と死のぎりぎりの縁を歩いており、死者の側から生を見つめていたともいえる。そのような作家だから、その作品を通して、生きることの尊さと厳しさを学びとれるのかもしれない。

堀辰雄は昭和28年、48歳で亡くなる。東京芝の増上寺で、川端康成を葬儀委員長として告別式が執行されたが、川端は「あいさつ」で堀辰雄訳のリルケの詩を朗読した。弔詞は、堀辰雄が終生師事した室生犀星が読み上げた。「堀君、君こそは生きて、生きぬいた人ではなかろうか(中略)君は一種の根気と勇気をもって生きつづけて来た」という。
ところで、堀辰雄の小説は、コクトーやラディゲ、メリメ、スタンダールなど近代フランス文学を下敷きにして作りあげたものである(但し、晩年は王朝物にこって「更科日記」「竹取物語」「蜻蛉日記」を読んでノートをとった。借物の匂いのする作品が多いとされ、人間探究派の作家、例えば大岡昇平から反感を買った)。

ともあれ、堀辰雄はフランス文学からの応用がうまく、例えば『聖家族』の巻頭の「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」は、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』からのイメージであるといわれる。『聖家族』のモデルは芥川龍之介と人妻片山広子こと松村みね子であり、軽井沢へ行った堀辰雄は芥川の晩年の恋を目撃した。『風立ちぬ』は、婚約者矢野綾子の死という現実の悲しみを扱いながら、内容はリルケやヴァレリーからの応用であったようだ。
軽井沢という土地にも、この世にはない理想の架空世界が仮託されており、現実とはほど遠い。堀辰雄の小説は嘘のうわ塗りの世界でありながら、私小説と思わせてしまう仕掛けがあるといわれる。
命の終わりが近い人は、「自分はいま生きている」という事実に敏感になる。堀辰雄の目には、病人の特権的な感性があり、現実は極端に虚構化されていった。虚構の私小説を書こうという強靭な意志が、48歳まで堀辰雄を生かしたのであった(嵐山、2002年、481頁~491頁)。

さて、その堀辰雄の代表作に『風立ちぬ』がある。その冒頭にはポール・ヴァレリーのフランス語の詩句が引用されている。
 Le vent se lève, il faut tenter de vivre. PAUL VALÉRY
「風立ちぬ、いざ生きめやも」と堀辰雄は訳している。
この有名な詩句は、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節である。
小説では、次のように書かれてある。
「風立ちぬ、いざ生きめやも
 ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠(もた)れてゐるお前の肩に手をかけながら、口の裡(うち)で繰り返してゐた。」(吉田健一解説『日本文学全集35 梶井基次郎 堀辰雄 中島敦集』筑摩書房、1975年、190頁)。



【有名作家への追悼文】


夏目漱石への和辻哲郎の追悼では、「私は頭が乱れている」としながらも、「夏目先生の人及び芸術」と題して、「先生は眼の作家というより心の作家であった。私は先生が小説家であるよりもむしろ哲人に近いことを感じる」と絶唱し、漱石の公平無私の人柄をたたえた。
森鷗外とかつて論争をした坪内逍遥は、「森君のなくなられたのは、永く償うことの出来ないわが文壇の損失である」と書いた。逍遥は鷗外より3歳上である。逍遥は「君はなんでも出来た人だった」とたたえ、鷗外は、新聞に作品に対する批判がのるとすぐ翌朝の新聞に反駁を書く速筆の人で、それが相手をおどろかした、と述懐している。

小穴隆一は、芥川龍之介が死後、妻文子と結婚させたいとまで願った親友である。そして芥川龍之介のデスマスクを描いた画家でもあるが、死の床に横たわる芥川の肖像は鬼気せまるものがある。その小穴はいくつかの短い追悼文を書いているが、取り乱していて、それゆえに哀切であるそうだ。

太宰治への追悼文としては、河盛好蔵と埴谷雄高の追悼文が印象深い。河盛好蔵は「文学者が死ぬことは何といっても敗北だ。文学とはいかに生きるかの努力ではなかったか。太宰君、君は死ぬべきではなかった」(「太宰君を悼む」)と追悼した。また、埴谷雄高は、「彼はすぐれた芸術家であったが、人間的には失格した。すなわち、現代に生きる人間である以上、永遠なるものあるいは合理主義思想の力をかりるのでなければ、独力で自己の価値を創造する決意をもつほかには道がないのに、彼はこれをしなかったからである。(中略)そして、こうした彼の人間失格はただ彼個人のそれではなくて、多くの現代の人間のそれをはげしい險しいそしてポーズをもった形で示したものである」(「衡量器との闘い」)と断じた。



【おわりに】


最後にもう一人を付記しておきたい。それは巌谷小波である。
巌谷小波(いわやさざなみ、明治3年~昭和8年)は明治文学者の第一者であるが、一見、現代人には余りなじみのない文学者である。しかし実は、日本の民話、伝説に材をとった「桃太郎」「猿蟹合戦」「花咲爺」「舌切雀」「一寸法師」「かちかち山」「浦島太郎」「金太郎」といった『日本昔噺』で、その名を高めた文学者である。いわば、日本近代児童文学の創始者と評される人物が、巌谷小波であった。
小波が昭和8(1933)年に直腸ガンで亡くなる。腸閉塞をおこし、腸に穴をあけられて人工補助肛門がつけられたという(282頁~283頁)。
この一文を読んだ時、小波の闘病生活を想像し、胸が痛む思いがした。

 以上、ごく簡単に嵐山光三郎氏の著作の内容について紹介してみた。著者は、「追悼文は死者の徳をしのぶことこそが常道」(29頁)という。追悼文の本質はこの言葉の中にあり、至言であろう。
 ある人物の追悼文を読むということは、「死を契機にして書かれた掌編の人間論」を読むということにほかならないのかもしれない。


【付記】
今年も、私のブログを読んでいただき、有難うございました。来年が、良き年になることをお祈りしています。来年のブログは、明るく楽しい記事を目指して、執筆することを心がけたいと思います。

《仏花の選び方と育て方》

2019-12-29 18:29:04 | ガーデニング
《仏花の選び方と育て方》




執筆項目は次のようになる。


仏花の選び方と育て方


目次
・【はじめに】
・【仏花について】
・【仏花の選び方】
・【仏花の育て方】
・【実際の栽培】
  ・8月咲き中大輪菊ミックス  
  ・シキミ             
  ・スピードリオン         
  ・ききょう三色ミックス     
  ・西洋ミソハギ    
・【花と木の文化史 中尾佐助氏の著作より】
・【むすび】







【はじめに】


 先祖供養に欠かせないのが、仏花である。
今年5月に父親を亡くし、葬儀・法要の際には、親戚をはじめ周囲の人々に支えられ、豪華な切り花を頂いた。だが四十九日法要が終わってみると、何も残らず、虚しさだけが募るばかりだった。加えて、仏様および仏壇を自分一人で守らねばならず、一時期あんなに華やかに飾られていた仏花に事欠く有り様であった。花屋で切り花を買うにしても、それなりの値段で一週間ぐらいしか花持ちせず、今後、何十年も買い足すのは費用的に限界がある。
 そこで、もう一度、園芸に取り組んで、仏花を育ててみたいと思った。一年草の花より、多年草ないし宿根草の方がよく、草花よりも樹木の方が負担や手間が省けると考えた。インターネットを閲覧し、仏花のおすすめを参考にしながら、現在、自分で育ててみたい仏花の候補を列挙した。とりあえず、予算的に1万円位を予定して、注文することにした。

次のようなリストになった。
① 8月咲き中大輪菊ミックス(8 ポット)  
② シキミ(3 株)             
③ スピードリオン(6 株)         
④ ききょう三色ミックス(10 株)     
⑤ 西洋ミソハギ(2 株)          
               



【仏花を選ぶに際して留意した点】
・花持ちがよい
・一年草より多年草(宿根草)ないし樹木




【仏花を長持ちさせる方法と、日持ちする花の種類】


仏花を長持ちさせる方法としては、毎日の水替えをこまめにすること。また10円玉の銅イオンにより、長持ちするそうだ。
仏壇にお供えする花の代表は、やはり菊が第一に挙げられる。茎が太い菊が枯れにくい。
ユリも切り花としは、日持ちする花である。ただ、雄しべの花粉は服につくと落ちにくいし、花びらを汚してしまうので、摘み取ることが大切である。
スターキスやセンニチソウも、ドライフラワーになるものなので、仏花として長持ちするという。
それでは、仏花の栽培におすすめは何か。
春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸に分けて、考えてみる必要があるようだ。
お盆の頃、仏花に向く夏に咲く花は、アスター、菊、ニャクニチソウ、ミソハギ、スターチス、キキョウ、ユリなどが挙げられる。
また、秋のお彼岸には、菊、ガーベラ、キキョウ、シュウメイギクがある。




<しきみ(樒、梻)>
しきみ(樒、梻)は、シキミ科で独特の芳香があり、秋には実を結ぶが、有害成分があり、食用できない。しきみは、昔からお墓や仏壇の花立てに供えられてきた香木の一種で、その独特の匂いはお墓を荒らす野獣が嫌い近づけないため、厄除けとしての意味合いもあったようだ。
しきみは、墓地や仏壇に供えると、他の生花より長持ちするため、重宝されている。
しきみの語源としては、四季を通して美しいから「しきみ」「しきび」、また実の形から「敷き実」、有毒なので「悪しき実」とする諸説があるそうだ。一説にしきみは鑑真がもたらしたともいわれている。空海が青蓮華の代用として密教の修法に使ったとも伝えられる。

<さかき、しぶき>
ところで、しきみに似たものに、さかき(榊)や、しぶきがある。
さかきはツバキ科で日陰でもよく育つ。神の宿る木、神が降臨する木として知られている。家庭の神棚にも供えられ、毎月の月初めと中日の15日に入れ替えるのがよいとされる。
一方、しぶきは、東日本、北日本を中心に榊の代わりとして使用されるが、お墓に供える木としても使用される。昔から日本各地で、神仏共に使用されるようだ。




【花木の育て方と実際の栽培】



 商品が到着し、ポットから植木鉢に移植するために

<ホームセンターで用意したもの>
・プランター
・植木鉢
・鉢底石
・園芸土(赤玉土[小]、赤玉土[大]、腐葉土)





「多年草(宿根草)の栽培方法」という手引が同封されていたので、紹介しておく。

・8月咲き中大輪菊ミックス(8ポット)  
・シキミ(3株)             
・スピードリオン(6株)         
・ききょう三色ミックス(10株)     
・西洋ミソハギ(2株)          



【切り花菊(キク科)】


8月咲き中大輪菊ミックス
 切り花菊は5月~8月に咲く夏菊と、9月~11月に咲く秋菊、12月以降に咲く寒菊に大別される
 一般的な菊(秋菊)は日長が短くなるにつれて花芽が作られる。寒菊はその性質が強いため、秋遅くから冬に開花する。一方、夏菊は、日の長さに影響されず、苗が一定以上の大きさであり、かつ気温が10~15度以上であれば開花する性質を持っている。夏菊のうち二度咲き菊は特に早くから咲く菊をいい、切り戻しにより秋にまた開花を楽しむことが可能である。

<8月咲の切り花菊の年間作業>
3月~さし芽 4月~定植 5月-6月~摘心 7月~摘蕾

秋にお届けする苗や、さし芽、摘心の時期までまだ期間のある場合には、そのまま1本ずつ4号~5号鉢に仮り植えすること(複数本を8号鉢などに植えてもよい)。小苗は寒さに弱いので、寒冷地は鉢植えにしてフレーム、軒下などで管理する。平暖地でも露地植えする時は防寒すること。

秋のお届け苗は、挿し芽した苗をお届けしている。新芽が発生するので、その芽を育てること。まず、下から出た芽を伸ばす。次に茎の途中から出ている新芽を伸ばす。そして茎の途中から出ている新芽を伸ばす。

【到着した菊の苗と移植した菊】





【シキミ(シキミ科)】


<自生地>日本、中国、北米
<鑑賞期>3~5月
<樹高> 低木~中木
<日照> 半日陰~日陰
<冬季の状態>常葉
<耐寒性>中~強
<耐暑性>強
<用土> 水もちのよい土壌(配合例 赤玉土7:腐葉土3)
<水やり> やや多湿
<病気> 特になし
<害虫> シキミグンバイムシ、カイガラムシ

<栽培管理暦>
       植え付け 2月~4月中旬、9月中旬~12月中旬
       開化期  3月~5月 
       結実期  9月~10月
       施肥   12月~2月
  ※特徴・栽培のポイント
       半日陰の少し湿り気のある腐植質に富んだ肥沃な土壌を好み、鉢植えでも栽培可能である。強い直射日光に当たると葉が焼けて黒く変色するので、注意したい。露地植えは関東地方以南ならば可能である。生育は緩やかで、移植はやや嫌う。12月~翌年2月に堆肥と緩効性肥料を寒肥として施す。病害虫の発生も少なく、剪定はひこばえの整理と枯れ枝の除去程度とし、放任え育てても自然な樹形になる。


【到着した苗木と移植したシキミ】




【スピードリオン(ゴマノハグサ科)】


<自生地>北アメリカ
<開花期>7~9月
<草丈> 60~90cm
<株間> 25~30cm
<日照> 日なた、または半日陰
<冬季の状態>落葉
<耐寒性>強
<耐暑性>中
<用土> 乾きが遅い用土(配合例 赤玉土6:腐葉土4)
<土壌> 適潤
<栽培管理暦>
       植え付け 3月中旬~4月、10月中旬~11月
       開化期  7月~9月
       施肥   4月~7月
  ※注意点 日なたを好むが、夏は半日陰となる場所で、湿り気の十分ある土壌を好む
       地下茎により繁殖するので、大株にしたくない場合は間引くとよい
       耐寒性は強く、防寒の必要はない

【到着したスピードリオンの苗と移植したスピードリオン】




【ききょう(キキョウ科)】


<自生地>日本
<開花期>7~9月
<草丈> 30~80cm
<株間> 20~30cm
<日照> 日なた~半日陰
<冬季の状態>落葉
<耐寒性>強
<耐暑性>強
<用土> 選ばない(配合例 赤玉土6:腐葉土3:砂1)
<土壌> 適潤
<栽培管理暦>
       植え付け 3月、10月中旬~11月
       開化期  7月~9月
       施肥   6月~9月(2週間に1回液肥)
※ 注意点 日当たりと水はけのよい場所を好む。花茎が伸びすぎて姿が悪くなるようであれば、晩春に下の葉を1~2枚残して上部を切り取ると、花茎が増えて短く咲き草姿がよくなる。夏季は乾燥しないように注意する。鉢植えでは6号鉢で3本植えが目安。切り花にする時は、切ったらすぐに水につけて切り口から出る白い液を洗い流す。アポイギキョウの株を植える時は球根を立てて芽が隠れる程度に植える。株間は10~20cmとする。
※ 絞り咲き種は開花する年により花模様が変化する。

【到着したききょうの宿根と移植したききょう】




【西洋ミソハギ(ミソハギ科)】


<自生地>日本、ユーラシア大陸
<開花期>7~9月
<草丈> 60~100cm
<株間> 30~50cm
<日照> 日なた~半日陰
<冬季の状態>落葉
<耐寒性>強
<耐暑性>強
<用土> 乾きが遅い用土(配合例 赤玉土6:腐葉土4)
<土壌> 多湿
<栽培管理暦>
       植え付け 2月中旬~4月、10月~11月
       開化期  7月~9月
       施肥   4月~9月
   ※注意点 水もちのよい多湿地を好む水辺の植物。
だから、鉢植えでは土が湿った状態にする。

【到着したミソハギの苗と移植したミソハギ】






【花と木の文化史 中尾佐助氏の著作より】


中尾佐助氏の『花と木の文化史』(岩波新書、1986年[1991年版])を参考にしつつ、花と木の文化史について付記しておきたい。
植物学者の中尾佐助氏(1916-1993)は、「照葉樹林文化論」を提唱したことで知られる学者である。ネパール・ヒマラヤの照葉樹林帯における植生や生態系を調査する中で、その地域の人々の文化要素に日本との共通点が多いことを発見し、後に佐々木高明氏らと共に、「照葉樹林文化論」を提唱した。
『花と木の文化史』(岩波新書、1986年[1991年版])は、1987年に毎日新聞社出版文化賞を受賞した名著である。

≪中尾佐助氏の本≫


中尾佐助『花と木の文化史』 (岩波新書)はこちらから

キクについて


中尾氏は、「平安朝の花――キク」と題して、次のように述べている。
「キクは万葉集の頃にはすでに日本に渡来していたが、万葉集にはキクの歌は一首もない。その後、キクの地位は向上し、平安朝の頃には宮中で「菊合せ」の公事(くじ)が行なわれた。これは唐風にならったもので、九月九日の重陽の日に、清涼殿の前に一対の菊花壇をつくり、文武百官がその花を賞し、歌を詠み、終わって菊酒を飲むものである。このようにキクは上流階級で重要度があがり、鎌倉時代になると後鳥羽上皇がキクを好んで、その紋様を衣服などにつけ、皇室の菊紋章の起源となった。」
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、111頁)

『万葉集』に登場する花の特徴


上記引用の冒頭でも指摘しているように、キクは『万葉集』の頃には渡来していたが、キクの歌は一首もないという。
令和の改元で今年は話題を呼んだ『万葉集』であるが、奈良朝の末期頃には編集されていた。その『万葉集』には約166種の植物が登場するそうだ。この数は、『聖書』やインドの『ベーダ』、中国の『詩経』より多く、『万葉集』は世界の古典の中でいちばん多くの植物名が登場するという。
また、『万葉集』と『聖書』に登場する植物を頻度順に並べて比較すると、そこには性格のちがいが浮かび上がってくるらしい。つまり、『聖書』では、ブドウ、コムギ、イチジクがトップ3で、上位10位までのうち、9つまでは実用植物である。一方、『万葉集』では、ハギ、ウメ、マツがトップ3で、上位10位までは全部実用植物ではない。
新元号「令和」の典拠は、『万葉集』に記された「梅花の宴」の序文であったが、ウメは2番目に多いようだ(ハギは138回、ウメは118回、マツは81回とある)。

『万葉集』の植物は当時の植物への美的評価がその中心となって登場している。つまり、『万葉集』でうたわれた植物は頻度10位までは、ことごとく実用性よりも花や姿の美学的評価のゆえに選ばれたものである。奈良朝の頃の日本の上流社会には、植物を美学的に評価する文化が成立していたとみる。

話は横道に逸れたが、平安朝の頃になると、キクの地位は向上し、宮中で唐風にならって、9月9日の重陽の日に、「菊合せ」の公事が行なわれるようになった。この「菊の節句」は、清涼殿の前に菊花壇をつくり、その花を賞し、歌を詠み、菊酒を飲む朝廷の儀式であった。そして鎌倉時代では、後鳥羽上皇がキクを好んで、自らの印として愛用し、皇室の菊紋章の起源となったと解説している。

続いて室町時代になると、日本の花卉園芸は大転換期をむかえ、日本独自の創造的分野をひらき、「室町ルネッサンス」と中尾氏は称している。
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、108頁~112頁)


シキミについて


中尾氏はシキミについて、次のように述べている。
「特定の植物が宗教、信仰、儀礼などに結合する例は、世界各地にかなり普遍的にみられる。クリスマス・ツリーとモミの木、ヤドリギ、セイヨウヒイラギは西ヨーロッパで強く結びついている。日本ではサカキは神道に結びつき、シキミは仏教に結びついている。日本では常緑の照葉樹(マツのときもある)の枝が儀礼に用いられ、古代のサカキは多種の木が使われたが、その中のシキミは平安朝の頃から、どうしたわけか仏事専用になってしまった。」
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、119頁)

植物が宗教と結びつくことは普遍的にみられるが、日本ではサカキは神道に結びつき、シキミは仏教に結びついている。そのシキミは平安朝の頃から、仏事専用になったようだ。

ちなみに、インドの代表的花はアソッカである。次のように記している。
「たしかな花として、ベーダ、ラーマーヤナ時代から知られるものとしては、第一にアソッカ(仏教の無憂樹、マメ科、小高木)であろう。釈迦はこの木の花の下で生まれたことになっている。また仏教史、インド史に登場するアショカ大王の名はこの花の名をとっている。花は黄赤色で集合花となり美しく、仏教とともに東南アジアに伝播している。日本の花の代表がサクラとすれば、インドの花の代表は歴史的重要性からみても、アソッカといっていい。」
(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書、1986年[1991年版]、55頁)




【むすび】


植物と人について、次のような名言がある。
「一年の計は穀を樹(う)うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」
(大島晃編『中国名言名句辞典』三省堂、1998年、25頁)
意味は、「一年の計画であれば、穀物を植えて育てるのがよく、十年の計画であれば、木を植えて育てるのがよく、一生の計画であれば人物を育てる以上のことはない」ということである。
また「一樹に一たび獲する者は穀なり。一樹に十たび獲する者は木なり。一樹に百たび獲する者は人なり」ともいわれる。
穀物や樹木では一生の収穫は望めないが、今回植えた仏花を大切に育ててゆきたい。先祖供養のためにも。








《2019年度 わが家の稲作日誌》

2019-12-22 18:54:20 | 稲作
《2019年度 わが家の稲作日誌》




執筆項目は次のようになる。


・【はじめに】
・【きぬむすめという品種】
・【父のひととなり】
・【刈払機(草刈機)に対する父のこだわり】
・【平成29年産米 稲作行事日程(父のメモより)】
・【2019年の稲作行程・日程】
・【中干しの意義】
・【反省と課題】
・【むすび】







【はじめに】


平成から令和に移った2019年という年は、私自身にとっても、我が家の歴史にとっても、大きな転機の年であった。とりわけ、元号が変わった5月は、すべてのものが転換した。というのは、私がこの5月に還暦を迎えた日のちょうど1週間後に、父親が86歳の生涯を閉じてしまったからである。
これにより相続の問題が発生し、農地経営も父から子へ引き継がれることとなった。父が2018年1月に入院するまで、私は農業に全く関心がなく、父に任せきりであった。去年から稲作にかかわることを余儀なくされ、少しずつ農業に従事し始めることになった。
そこで今回の記事は、2019年度の稲作の行程を振り返り、それを記し、退職後農業を始めてみようと考えている人や、新たに米作りに興味をもった若者に、何らかの示唆を与え、お役に立ててもらえれば、幸いである。




【きぬむすめという品種】


きぬむすめは、日本のイネの品種名である。キヌヒカリの後代品種となることを願って、「キヌヒカリの娘」という意味で命名されたようだ。
2006年3月7日、九州沖縄農業研究センターが育成した新品種である。交配系譜としては、きぬむすめ(水稲農林410号)は、愛知92号(後の「祭り晴」)とキヌヒカリを交配させたものである。
コシヒカリ(水稲農林100号)並みの良食味と、作りやすい優れた栽培適性をもっているのが特徴である。コシヒカリより1週間程度晩生である。

我が家では以前コシヒカリを作っていたが、近年はきぬむすめに変えた。コシヒカリは、米の粘りが強く、食味に優れる品種で、確かにおいしいお米である。ただ、栽培上は倒伏しやすい、いもち病などに弱いなどの欠点も併せ持つ。

ところで、2019年9月19日、天皇陛下は、皇居・生物学研究所脇の水田にて、代替わり後初の稲刈りをされた。皇居での稲作は、昭和天皇が始め、上皇さまから陛下へと受け継がれた恒例行事である。陛下も2020年2月には還暦を迎えられる。
皇居での稲刈りのイネの品種は、うるち米のニホンマサリと、もち米のマンゲツモチである。ニホンマサリは、聞きなれない品種だが、コチカゼと日本晴をかけあわせた品種で、昭和48年(1973)に農林省農事試験場(現・農研機構作物研究所)で誕生したという。
一方、マンゲツモチは、一般に流通している品種で、昭和38年(1963年)に誕生した。茨城のオリジナル品種で、天皇陛下が、皇居内の水田で御手植えされたことで有名な高級品種のもち米である。米粒が丸く、粘りが強く、冷めても美味しいお米である。




【父のひととなり】


父の経歴を簡単に振り返ると、昭和26年に、農林水産省の食糧事務所に入り、42年間の長きにわたり、国家公務員として、働いた。国家公務員として、世のため、人のために、勤めを果たし、退職後も、自治会長、市の農業委員として、身を粉にして、挺身し尽力してきたのが、父の実直な人生であったように思う。

さて、父が仕事をする上での特技は何であったかと、私なりに考えてみた。すなわち、父を父たらしめていたものは何かについて、思いをめぐらしてみた。それは、字を書くことが好きで、しかも達筆であったことではないかと思う。

「書は人なり」とか「書は人となりを表す」とはよく言われる。書く字体には、その人の人柄が現われる。父の字は、几帳面で端正な字であった。長い役人生活のためか、楷書や行書で書くことが多かった。普段、急いでメモをとるときなどは、実に流麗な草書をスラスラと書いていた。その字は中国の唐代の孫過庭の「書譜」さながらの草書体であった。
楷書、行書、草書を必要に応じて自由に書き分け、父が仕事をしてきたのが、父の手帳をみるとよくわかる。手帳の字に、父の人生の縮図のようなものが反映されている。その人を思い出し、偲ぶよすがとして、手帳ほど、父を物語るものはないように思う。父の形見としての手帳を見て、父を偲ぶ。

1年5カ月にわたる闘病生活は、本人にとっては、辛く苦しいものであった。それまで入院生活などしたことがなかった父だけで、なおさらである。病魔に苦しめられた父の姿は、はたで見るのも辛いほどであった。とりわけ、いたわしかったのは、数々の仕事をこなしてきた大切な右手が、不自由になったことであった。抗がん剤を半年以上も服用していると、その副作用から末梢神経障害があらわれて、手足のしびれが生じてきた。父が自分の手をじっと見つめながら、「もう、この手は使い物にならなくなってしまった」と自嘲気味につぶやいた時、その顔には無念さが浮んでいた。
亡くなる3日前まで、ベッドから起き上がって、手帳を開いて、メモをとっているような父であった。本当に字を書くことが好きな人であった。その手帳の字はもう昔のような端正な字ではなかった。まだ父が病気をする前の、健康であった時の手帳には、退職してから、農業の日程などを記している。手帳をみて、父を偲んでいる。

※【父の使っていた手帳】


※≪父の使っていた手帳≫
※≪2018年 在りし日の父の姿≫
※≪父の叙勲の賞状≫



【刈払機(草刈機)に対する父のこだわり】


刈払機(草刈機)は背負い式で、U字ハンドルがよいと父は信じていた。
刈払機には、肩掛け式か背負い式か、またハンドルはU字ハンドルかループハンドルを選ぶかという問題がある。背負い式は、エンジン部分を背負って作業ができるので、体への負担が少なく、長時間の作業が可能になる。また、U字ハンドルは平地の草刈りには適しているが、田んぼの畦などの草刈りには、ループハンドルの方がよいと父は言っていた。4月20日に、古い刈払機のギア部分が故障して、新しい刈払機を購入する際にも、父のアドバイスに従って、やはり背負い式でループハンドルのものに決めた。
ある造園業者のコメントがインターネットに載っていた。それによれば、肩掛け式のメリットは、刈り方が一方方向に限られているため、刈り残しが少ない事と、刃先が足元より離れるため、足を切る事が少ないそうだ。デメリットはエンジンを刃先の間にシャフトがあるために、どうしても小回りが利かない事、それと左肩で刈払機をバンドにて支えているから、どうしても左肩が痛くなってしまう事を挙げている。
一方、背負い式は、フレキシブルにより刈り場が自由に決められ、小回りが利く事がメリットである。しかし刃先が自由だから、場合によって足を切る危険があるともいう。
肩掛け式は、主に平地や緩やかな斜面で、背負い式は主に山林で植林の間の草刈りに適しているという。

わが家の田んぼは、畦の斜面があるので、やはりループハンドルの刈払機が適していると実感している。

※≪わが家の田んぼの畦 草刈り前と後≫






≪背負い式で、U字ハンドルの刈払機(草刈機)≫
 






共立 背負式 エンジン刈払機 RME3000LT [28.1cc]





【平成29年産米 稲作行事日程(父のメモより)】



平成29年産米 稲作行事日程(参考)
年月日 行事(作業)
H29.4.19 畦草終了(畦の前側と上部のみでよい)
H29.5.10 畦水留処理(ナイロン袋に土を詰め水留めする)
H29.5.12 水田注水開始
H29.5.19 中耕終了(水洩れなくなる)
H29.5.22 代掻き終了 (ヒエ防除薬)
H29.5.25 田植終了(昼食共にする~寿司)
H29.6.22 水抜開始(上、下の田) 中干し
H29.7.15 水掛開始(上、下の田)
H29.8.1 水抜開始(上、下の田) 中干し
H29.8.4 NKC-12(穂肥追肥) JA津田にて購入
H29.8.19 水掛開始
H29.8.27 水抜開始
H29.9.1 水落開始(稲刈に備える)
H29.10.9 機械進入路等草刈り
H29.10.10 稲刈り~前日に四隅を刈ること




【2019年の稲作行程・日程】


・2019年3月5日(火) 晴 15℃
  春耕作の依頼に伺う
・2019年4月20日(土) 晴 17℃
  おじさんと草刈り 古い刈払機故障
・2019年4月27日(土) 晴 14℃
  おじさんと草刈り再び 新しい刈払機にて
・2019年4月28日(日) 晴 15℃
  畦塗り終了
 畦の草の根元を削ぎ落しておく
・2019年5月 7日(火) 晴 18℃
  水溜め開始 
  土嚢に土を入れ、水路に石と土嚢を置いて、水を溜め始める 
  ※下の田の水溜めに特に注意すること。溜めすぎに気を付けること
  ※田んぼの隣りで畑を作っている人によれば道にヌートリアが穴をあけていたとのこと。
  5月15日(水)に、この話をきいて、その後、私も草刈りをしようと出かけると、道端から脱兎の如く駆け出す小動物を見た。一目散に逃げた後、一瞬立ち止まり、こちらを向き、視線を交わしてしまった! 意外と愛嬌のある顔だ。そして、何事もなかったかのように、再び川の方へ消えてしまった。あれがヌートリアだった。
 
(注)ヌートリア(nutria)とはネズミ目ヌートリア科の小型哺乳類、別名は沼狸(しょうり、ぬまたぬき)。体つきはビーバーに、尾はネズミに似ている。体長は50センチぐらいで、水辺に生息し、岸に穴を掘って生活する。泳ぎが上手で、おもに水生植物を食べる。南アメリカ原産であるが、毛皮獣として各地で飼育される。日本では第二次世界大戦前に軍用毛皮獣として輸入されたものが野生化し、ときに農作物に被害を及ぼす。
(1939年にフランスから150頭が輸入され、当時は軍隊の「勝利」にかけて沼狸(しょうり)と呼ばれ、1944年頃には全国で4万頭が飼育されていたという。いやはや、「サモトラケのニケ」なら「勝利の女神」となりうるが、“水辺のニケ”の沼狸(しょうり、ヌートリア)は、農家にとって迷惑な存在でもある。)



・2019年5月24日(金) 晴 27℃
  依頼者により、田植え終了
・2019年 6月 5日(水) 晴 29℃
  草刈り(9:00~10:00)
・2019年 6月 9日(日) 晴 22℃
四隅の田植え補植(14:00~15:40)
※上の田の水路入り口は、沼のように足がはまってしまい、苦戦
・2019年6月25日(火) 晴 30℃
  水抜き開始  
・2019年7月20日(土) 曇 30℃
  水掛け開始
・2019年 8月 3日(土) 晴 35℃
  水抜き開始(10:00)
  草刈り(15:00~16:00)
・2019年 8月10日(土) 晴 34℃
  まだ穂は出ていない。上の田はヒエが例年通り生えて伸びてくる
・2019年 8月20日(火) 小雨25℃
  水掛け開始
※あとの8月いっぱいは水を溜めておくように、アドバイスを受ける
・2019年 8月31日(土) 晴 29℃
  草刈り、水抜き開始(15:00~17:00)
・2019年 9月13日(金) 晴 28℃
  草刈り(14:30~16:00)
・2019年 9月29日(日) 晴 28℃
  草刈り~畦とコンバインの進入路(8:30~11:00) 
  12:30 依頼者より明日稲刈りを午後から予定しているとの電話あり(台風接近のため早めるとのこと)
・2019年 9月30日(月) 小雨のち曇 27℃
  田の四隅を鎌で稲刈り(8:50~10:00)
  コンバインで稲刈りをしてもらう(13:00~14:40)




【2019年の稲作行程の写真】


≪草刈り前の写真(4月20日)≫≪草刈り後の写真(4月27日)≫
≪畦塗り終了後の写真(5月7日)≫≪田植え終了後の写真(5月26日)≫
≪四隅の補植の前後の写真(6月9日)≫≪出穂前の写真(8月10日)≫
≪出穂後の写真(8月31日)≫≪実った稲穂の写真(9月13日)≫
≪畦の草刈り後の写真(9月29日)≫≪四隅の稲刈りの写真(9月30日)≫≪コンバインの稲刈りの写真(9月30日)≫









【中干しの意義】


夏の暑い盛りに田んぼの水を抜いて、ヒビが入るまで乾かすのが中干しである。中干しには、次のような目的・効果があるとされる。
・土中に酸素を補給して根腐れを防ぎ、根の活力を高める。根が強く張る。
・土中の有毒ガス(硫化水素、メタンガスなど)を抜くことが出来る。
・水を落すことによって肥料分であるチッソの吸収を抑え、過剰分けつを抑制する。
・土を干して固くし、刈り取りなどの作業性を高める。

1株20本程度の茎数が確保されたら、中干しを実施する。これにより、それ以上の分けつを抑えるようだ。夏の土用の時期に干す場合が多いので、土用干しという場合もある。
ただし、中干しも、やりすぎは禁物。土に大きなヒビが入ると根が切れたり、土の保水性が悪くなる。この後の登熟期の水不足の原因となる。

ところで、収穫を増やすには、出穂から登熟までの期間に晴天が続き、光合成量が大きくなることが大切である。
出穂後に晴れて暑い日が続くと、おいしいお米が出来るといわれる。人間にとっては、厳しい暑さも、稲にとっては恵みである。



【反省と課題】





【水管理について】



植木鉢の草花を育ててみて、花の咲く時期は非常に水をほしがることでもわかるように、イネも幼穂形成期からは水を切らさないことが大切である。
特別、田干しを強くしなくても、イネが大きく育つと土中の水を非常に多く吸い上げる。根に活力があれば田の土は自然と乾いてくる。
穂肥と水管理で刈取るまで活力のある根を守り育てることが、確実に増収に結びつく道になる。
(高島忠行『イネの作業便利帳――よくある失敗120』農山漁村文化協会、1988年[1994年版]、92頁)

田植えは天気のよい日を選ぶのが基本である。予定の日が寒かったり、雨が降り風が吹いたりしていれば、田植えはしない方がよい。というのは、悪い条件の日に植えると欠株が多くなるし、活着が悪くなるからである。
雨が降っていてまず問題なのは、苗箱が水を含んで重くなることで、田植え機にのせられているうちに、その重さでマットがつまり、一回のかき取り量で多くなってしまうそうだ。それで1株当たりの植え付け本数がぐんとふえてしまうという。
理想的な植え方は、不完全葉が八分くらいかくれるように、だいたい 1.5センチの深さで、1株が3~4本植えになるように調節するのがよいそうだ(高島忠行『イネの作業便利帳――よくある失敗120』農山漁村文化協会、1988年[1994年版]、66頁~69頁)。



<胴割れ米の発生しやすい条件>


過乾燥米は、胴割れ米になりやすく、精米のとき砕米になり歩留りが悪くなる。コメに粘りがなく、味が悪いので最も嫌われる。
過乾燥や胴割れ米をださない工夫が必要である。それでは、どのような場合に胴割れ米が出やすいのだろうか。
・温度が高く、湿度が低い乾いた風を多く送るほど早く乾燥するが、一方では胴割れ米も多く発生しやすい。
・一般に早生の品種は胴割れしやすいものが多い。
・刈り遅れたモミ、立毛中に胴割れの多いモミ、モミ割れの多いモミ、刈取りのときに傷を多く受けたモミは、玄米の胴割れが多い。
・倒伏したイネや、乾燥機のタンクにモミが少ない場合は、胴割れ米が発生しやすい。
・また、乾燥と調整の際に、次のような点に注意することも大切であるそうだ。すなわち、
早生種の刈取り期である8月下旬から9月上旬は、暑い日が多いが、空気中の湿度も高いので、モミの乾きが遅い。そして、9月下旬から10月に入ると、気温は低いが湿度も低いので乾燥時間が短く早く仕上がる。
(高島忠行『イネの作業便利帳――よくある失敗120』農山漁村文化協会、1988年[1994年版]、124頁~126頁)

その他に、調べてみると、次のような発生要因も考えられるようだ。
・出穂後10日間の気温が高いほど、発生が多くなる。デンプン蓄積の異常により、割れやすくなると考えられている。
・早期落水、刈り遅れによる籾含水率の過度の低下により発生しやすい。
・登熟期に葉色が淡いほど、発生が多くなる。出穂期以降の葉色と玄米タンパク含有率には密接な関係がある。玄米タンパク含有率が低い米が、登熟初期の高温条件による胴割れ発生がより多くなる傾向にある。
・浅い作土条件でも、籾含水率の過度の低下により発生する。ほ場の作土深は登熟後期の籾含水率の低下速度に密接に関連している。つまり、浅い場合には含水率の低下が早く胴割れが生じやすくなる。
・高水分籾の高温乾燥により発生する。

以上のように、胴割れ米は出穂以後の高温で発生が助長される。完熟した米粒は硬く、米粒内部に圧力の不均衡が生じ、急激な膨張・収縮に耐えきれず、亀裂が発生し、胴割れ米となるというのである。



【先祖伝来の美田】


私は令和元年5月に、先祖伝来の田んぼを引き継ぐことになった。高谷氏は、「先祖伝来の美田」と題して、示唆的なことを記している。
日本人は主に盆地に集住して水稲を作り、水利社会を生み出した。と同時に、先祖伝来の美田を生んだ。
その水田は、畑と違って生き物のようなもので、常に面倒を見ていないと駄目になる。例えば、井堰や水路の管理を怠ると、たちまち田には水が入らなくなり、水田としての価値が激減する。
また、田は毎年作っていなければならない。たとえ、2、3年でも耕作を中断すると、たちまちひどい漏水田になることもあるそうだ。水田には連年耕作の結果、鋤床ができていて、これが漏水を防いでいるようだが、2、3年も放置しておくと雑草の根がそれを壊してしまうからであるという。
水田とは、間断なく手をかけていて始めて理想の状態を保ちうると高谷氏は主張している。
間断なき手入れは、日本の水田の場合は、何世代にもわたって行われてきた。だから、先祖伝来の美田は、ご先祖の汗の滲み込んだ土地であり、自分もまた手に汗して次の世代に伝えねばならない家伝の財産であるともいう。
盆地に集住する日本の稲作農民というのは、単に地縁的に組織された村の一員というだけではなく、過去から未来に永続してゆく伝統と財産の管理者、いいかえれば歴史に責任を負うべき家系の一員でもあるという(高谷好一『コメをどう捉えるのか』日本放送出版協会、1990年。208頁~209頁)。

このように、祖先伝来の美田について説かれている以上、私も容易に米作りを放棄するわけにはゆかず、体力の続く限り、田の維持に努めるように決意した次第である。



【コメをどう捉えるのか】


高谷好一氏は、人類史、稲の文化史について、次のような展望を記している。人類史は今後、個人史、より正確にいえば風土史の方向に向かうと推測している。その時、照葉樹林帯の盆地は一つの風土を作るという。そして、その風土を生かすも殺すも、それはひとえにコメの捉え方ひとつにかかっているとみる。高谷氏はコメを捉える時、それを稲の文化史として捉える。

「私は本日現在の日本の稲作社会のそのままでよいと思っている。2、30アールを持つ兼業農家が、普段は工場に働きに出、時には車でスーパー・マーケットに買物に行く、それでよいのだと考えている。たとえ2、30アールであっても、先祖への感謝の気持ちでそれを耕し続けるかぎり、それで充分なのである。またたとえ2、30アールであったとしても、そうして耕し続ける限り、自分の家系は安泰なのだと、彼らが確信している、そのこと自体が大事なのである。
 日本のような盆地社会がその風土に密着して、生きてゆくための最低ギリギリのところで何が必要なのかと問われたら、私は水田景観そのものと、先祖伝来の美田への執着だと答えたい。この二つを残している限り、盆地利用の名匠として生きうる可能性はまだ絶たれていない。」(高谷好一『コメをどう捉えるのか』日本放送出版協会、1990年。224頁)

この高谷氏の持論は、私のように農業に関わろうとする者に、勇気と希望を与えてくれる言葉である。2、30アールの耕作地しかない兼業農家でもよいと肯定し、次のことが大切であるとする。
1 先祖への感謝の気持ちで耕作し続けること
2 先祖伝来の美田への執着
そして、経済合理性のみを追求され、コメの自由化が起こった場合、下手すると、この最後の二つを消失してしまうのではないかと高谷氏は危惧している。高い賃金や便利な生活などに沿ったシステムが成立した時、今までのような踏んばりが利くかどうか疑問視している。岐路に立っている日本は、二つの分れ道があるという。
  1 資本主義の最後のチャンピオンになり、日本の過去のすべてを放棄して、その代わり贅沢に向かう
2 新しい「風土の時代」を率先して伐り開いて行くのか 
2は世界史的な大仕事だが、それほど難しい仕事である。私たちの先祖が培ってきた文化を再認識し、それを延長するだけでよいとする(高谷好一『コメをどう捉えるのか』日本放送出版協会、1990年、224頁~225頁)。


日本の稲作は典型的な灌漑移植稲作である。照葉樹林帯の谷間に人々は共同で井堰をつくり、先祖伝来の美田に若苗を植えてゆく。それは安定した高収量をもたらす。また稲作にともなう共同作業は、地域社会は技術的にも社会的にも一つの完成した極相点をなす。
こうした極相に達した稲作経営が、日本では江戸時代から今日にいたるまで、ずっと続けられてきた。
何といっても、日本稲作の最大の特徴は、水利慣行を軸に地縁的にきわめて強固な組織を持った灌漑稲作である(高谷好一『コメをどう捉えるのか』日本放送出版協会、1990年、146頁)。
日本の水田灌漑は江戸期に拡充した井堰灌漑で支えられているといわれる。日本に井堰灌漑が多いのは、日本には井堰灌漑にちょうど適した中小の河川が多いからである。
このことは外国の様子と比較するとよくわかるそうだ。たとえば、インドには、山が少ないから川も少ない。しかもインドの川の多くは、乾燥が厳しいから、枯れ川である。雨季の豪雨時には一気にどっと洪水が流れるが、こういう水は井堰に向かない(高谷好一『コメをどう捉えるのか』日本放送出版協会、1990年、200頁)



【むすび】



もともと、慶応3年(1867)に生まれたひいおじいさんが、この町に住みついて、四代目の私が稲作を引き継ぐことになった。今回、司法書士さんに依頼して、宅地・田畑・山林の不動産の名義変更を終えてみて、尚更、田畑経営もしっかりしなくてはとの義務感が湧いてきた。

ところで、私の住む町には、田和山遺跡という有名な遺跡がある。それは、弥生時代前期末から中期(紀元前3世紀~紀元前1世紀初め)にかけての遺跡である。弥生時代は、稲作が日本で本格的に始まった時代である。弥生文化は、田んぼでの米作りが基礎になっている農耕文化である。田和山遺跡は約300年間続いた遺跡だが、その終わりは加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡に大量の青銅器が埋められたのと同じくらいの時期であるとされる。
実は、稲作している私の田は、その遺跡から約1キロ余り南へ下ったところにある。その田を撮った写真には、私の田んぼの向こうに見える小高い山のすぐ北に田和山遺跡がある。

東アジアの風土と稲作の歴史は深く関わりあっている。
稲作の起源地は、中国雲南省あたりか、揚子江の中流から下流の地域が想定されている。稲という植物がアジアの日本の気候によくあっていたのである。つまり稲というのは、気温が高く雨が多い、水が豊かなアジアの中の日本の気候・風土によく適合し、多い収穫が得られた。現在では、お米1粒が1万粒になるともいわれる。

日本の歴史と稲作は切り離せない関係がある。はるか悠久の日本の歴史の中に位置づけられうる田圃を後世まで大事にしてゆきたい。

農業は昔からお天気次第といわれる。風や雲、空の様子から天気がどうなるかを諺として言い伝えて、農作業に利用されてきた。農業にまつわる諺は、長年の経験から得た知恵袋である。
観天望気(かんてんぼうき)とは、自然現象や生物の行動の様子から天気の変化を予測することである。
「夕焼けに鎌を研げ」というのがある。日本の上空には、偏西風という風が西から東に吹いているので、天気もふつう西から東へ移動する。西の空が明るい夕焼けは、明日の晴れを保証するようなもの。つまり、「夕焼けの次の日は晴れ」というわけである。だから、鎌を研いで、草刈りや稲刈りの準備せよ、準備が肝心という意味だそうだ。
また、「ナスの豊作はイネの豊作」とも言われるようだ。ナスはインド原産。暑いと生育が良く、逆に寒いと生育が悪くなる。また、ナスの花が咲く頃に雨が多くなると、花が落ちてしまい、実がつかない。イネもまた熱帯・亜熱帯の方がよく育つ。ナスがよく育って豊作になる時は、イネも豊作になることが多いそうだ。

その他に調べてみると次のようなものもある。
例えば
「夏の夕焼、田の落水也」
「田の草取り七へんすれば、肥いらず」
「稲作は、一水に二肥」
「米作り、飯になるまで水加減」などと言われる。
とりわけ、「米作り、飯になるまで水加減」とはよく言ったもので、父の年間稲作日程表の一番難しいのは水の管理であった。

近年、農業従事者の高齢化と、若者の著しい農業離れによって、様々な問題が生じてきている。伝承も廃れてきているともいわれる。





高谷好一『コメをどう捉えるのか』 (NHKブックス)はこちらから
≪参考文献≫
高島忠行『イネの作業便利帳――よくある失敗120』農山漁村文化協会、1988年[1994年版]
高谷好一『コメをどう捉えるのか』日本放送出版協会、1990年



≪「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その3 マッフル氏の著作より

2019-12-22 18:33:02 | フランス語
ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その3 マッフル氏の著作より



【はじめに】


今回は、ジャン=ジャック・マッフル氏(Jean-Jacques Maffre)のクセジュ・シリーズに収められた L’art grec, Presses Universitaires de France, 2001.を紹介してみたい。
 マッフル氏の著作は、日本では『ペリクレスの世紀』(原題 : Le siècle de Périclès、幸田礼雅訳、白水社、2014年)という邦訳書があり、紀元前5世紀の古代ギリシャの政治家について論じている。しかしL’art grecの邦訳はまだないようである。

<ヘレニズム期の彫刻の特質>


La sculpture hellénistique
De même que l’architecture, la sculpture hellénis-
tique est souvent en germe dans celle du IVe siècle,
mais son développement exubérant va prendre des
voies multiples, parfois contradictoires, dans une
diversité qui défie la synthèse. Les Anciens, Pline
notamment, estimaient que la sculpture ---- tout
comme la peinture ---- avait atteint son apogée au
IVe siècle, et que l’art hellénistique, surtout dans sa
première phase, n’était qu’une nécessaire décadence
après la perfection classique. Les Modernes ont
souvent partagé ce point de vue. Pourtant, même
s’il est vrai que la vogue des copies de statues clas-
siques commence alors à se répandre, entraînant un
indéniable académisme dans bien des œuvres de la
grande statuaire et surtout de la sculpture d’appar-
tement, même si certains princes se mettent à collec-
tionner les originaux du passé, par exemple à Alexan-
drie et à Pergame, même s’il n’y a plus de grands
maîtres aux noms prestigieux, l’époque hellénistique
ne manque pas de créateurs originaux qui, comme
à l’époque archaïque, se rattachent souvent à des
écoles, sans qu’il faille toutefois chercher des oppo-
sitions trop fortes entre les courants que celles-ci
peuvent représenter, car plus que jamais s’exercent
des influences réciproques, les artistes voyageant sans
cesse pour répondre à la demande des souverains,
des cités et, de plus en plus, des riches particuliers.
(Jean-Jacques Maffre, Que sais-je? L’art grec, Presses Universitaires de France, 2001, p.115.)



≪試訳≫
建築と同様に、ヘレニズム期の彫刻はしばしば(紀元前)4世紀に芽生えが見られるが、その豊富な発展は、合成を寄せつけない多様性の中で、様々な道、時には対立した道をとろうとしている。
古代人、とりわけプリニウスは、絵画と全く同様に、彫刻も、(紀元前)4世紀に絶頂に達していたと評価した。そしてとりわけ初期の局面におけるヘレニズム期の芸術は、古典期の完成後の避けられない退廃にすぎなかったとみていた。現代人はしばしばこの視点を共有した。しかし古典期の彫像を複製する人気が当時広がり始め、偉大な彫像製作者の多くの作品、とりわけ広間の彫刻で否定できない伝統主義をもたらしたことがたとえ本当だとしても、例えばアレクサンドリアやペルガモンのある王子たちが過去のオリジナル作品を収集し始めたとしても、そしてたとえ名高い偉大な巨匠がもはやいないにしても、表現しうる傾向の間に非常に強い反対をそれでも求める必要もなく、アルカイック期と同様に流派にしばしばむすびつける独創的な創作者がヘレニズム期に欠いていたわけではない。というのは、かつてないほど、相互に影響し合っているから。芸術家たちは、君主や都市、そして次第に特定の金持ちの需要に応えるために絶えず旅をする。



【コメント】
マッフルは、ハヴロック同様に、ヘレニズム期を評価しているとみてよい。
 プリニウスはヘレニズム期の芸術に対する評価について退廃期と見ていたことをマッフルは言及している。この見方は現代のケネス・クラークも受け継いでいたことが、ハヴロックの叙述から確認できたことと思う。



【語句】
De même que qn/qc ~と同様に(just as, as well as)
la sculpture hellénistique est souvent <êtreである(be)の直説法現在
germe  (m)芽、根源(germ)
 <例文>Le germe de cette idée est au XIVe siècle.= Cette idée est en germe au XIVe siècle.
 この思想の芽生えは14世紀に見られる。
exubérant (adj.)豊富な(exuberant)
va prendre <allerの直説法現在+不定法 (近い未来)~しようとしている(be going to)
 prendre (道を)行く、とる、(方向に)進む(take)
multiple (adj.)さまざまな、多数の(multiple)
parfois  (adv.)ときどき、ときには(sometimes)
contradictoire (adj.)互いに矛盾する、対立した(contradictory)
une diversité (f)多様性(diversity)、相違(difference)
qui défie  <défier挑戦する、寄せつけない(defy)の直説法現在
la synthèse  (f)統合、合成(synthesis)
Les Anciens (複)(ギリシャ、ローマの)古代人、古代作家(Anciens)
Pline    プリニウス(23-79年)、古代ローマの政治家、学者。当代最大の「博物誌」
      (全37巻)を残す
notamment (adv.)とりわけ(particularly)
estimaient  <estimer評価する(estimate)の直説法半過去
tout comme  まったく~と同じに(just like)
avait atteint  <助動詞avoirの半過去+過去分詞(atteindre) 直説法大過去
 atteindre 到達する、達する(reach, attain)
son apogée  (m)絶頂、頂点(apex, climax)
phase  (f)段階、局面、期、位相、フェーズ(phase)
n’était qu’une <êtreである(be)の直説法半過去
nécessaire décadence  nécessaire(adj.)必要な、避けられない(necessary)
 décadence  (f)衰退、退廃(decadence)
la perfection (f)完成(perfection)
classique  (adj.)古典の、古代ギリシャの(classic, classical)
Les Modernes (複)現代人(moderns)
ont souvent partagé <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(partager)直説法複合過去
 partager 分ける、共有する(share, partake)
 <例文>Je ne partage pas votre point de vue.
私はあなたの意見に不賛成です(I don’t agree with you.)
point de vue 視点、見地(point of view, standpoint)
Pourtant (adv.)それでも、しかし(yet, though)
même si... たとえ~であっても(even if)
la vogue   (f)流行、人気(vogue, popularity)
commence alors à <commencer à+不定法 ~し始める(begin to do)の直説法現在
se répandre (代名動詞)広まる(spread)
entraînant <entraîner連れて行く(take)、もたらす(bring about, entail)の現在分詞
indéniable (adj.)否定できない(undeniable)
académisme (m)(官学風の)伝統主義(academicism)
bien de qc 多くの <例文>dans bien des régions 多くの地域で
statuaire  (m, f)彫像製作者(sculptor, sculptress)
appartement (m)広間(suite [of rooms])
prince   (m)王子、君主(prince)
se mettent à <代名動詞se mettre à+不定法 ~し始める(start doing)の直説法現在
collectionner 収集する(collect)
Alexandrie  アレクサンドリア(エジプト北部の港市)(Alexandria)
Pergame   ペルガモン(小アジアのミュシア地方(現・トルコ)の古代都市
maître   (m, f)主人、巨匠(master)
prestigieux  (adj.)威光のある、名高い(prestigious)
ne manque pas <manquer欠けている、不足している(be lacking)の直説法現在の否定形
créateur (m, f)創始者、創作者(creator)
original (男性複数~aux)(adj.)独創的な(original)
archaïque (adj.)[美術]アルカイックな、古典時代以前の(archaic)
se rattachent ... à <代名動詞se rattacher à (àに)結びつく(relate to)の直説法現在
souvent (adv.)しばしば(often)
école   (f)学校、流派(school)
sans qu’il faille <sans que+接続法 ~することなしに、~でないとしても(without doing)
 faille<falloir~しなければならない(must)の接続法現在
toutefois  (adv.)それでも、にもかかわらず(yet, however)
chercher   探す、探し求める(seek, look for)
opposition  (f)反対、対立(opposition)
courant  (m)流れ(stream)、動向、傾向(trend)
celles-ci peuvent représenter<pouvoirできる(can)の直説法現在
plus que jamais かつてないほど、これまでになく
 <例文>L’édition est en crise aujourd’hui plus que jamais.
出版業界は今、未曾有の危機に瀕している。
s’exercent des influences <代名動詞s’exercer発揮される、はたらく(be exerted)
の直説法現在
réciproque (adj.)お互いの、相互的な(reciprocal)
voyageant  <voyager旅をする(travel)の現在分詞
sans cesse  絶えず(without cease)
de plus en plus ますます、しだいに(more and more)
riche (m, f)金持ち(rich person)
 



<「うずくまるアフロディテ」と「サモトラケのニケ」>


Mais la plupart des statues de marbre ou de bronze
restent de dimensions moyennes, entre une taille un
peu supérieure à la normale et la mi-grandeur natu-
relle. L’évolution du goût dans le sens d’une plus
grande sensibilité entraîne l’apparition de thèmes
nouveaux et le succès de ceux amorcés au IVe siècle,
tels les nus féminins, parmi lesquels les trois Grâces
ainsi que l’Aphrodite accroupie, dont le type est créé,
vers 250, par Doidalsès de Bithynie, et, vers 100, l’élé-
gante Aphrodite debout du Louvre dite Vénus de
Milo, dont le tronc nu, aux courbes harmonieuses et
aux rondeurs discrètement palpitantes, est mis en
valeur par le contraste de la draperie qui voile les
jambes de replis aux sinuosité hérissées d’arêtes vives.
A côté des figures féminines nues ou demi-nues,
souvent impliquées, à partir du IIe siècle, dans des
groupes doucereusement érotiques, il faut placer
des personnages au charme ambigu comme Eros
adolescent ou Hermaphrodite. Les Amours enfants,
annonciateurs des putti romains, multiplient aussi
peu à peu leur présence voltigeante, à l’instar des
Victoires, dont la grâce souriante se pare de longues
tuniques aux plis tourbillonnants, comme dans le cas
de la fougueuse Victoire de Samothrace, due sans
doute à un artiste rhodien du début du IIe siècle.
(Jean-Jacques Maffre, Que sais-je? L’art grec, Presses Universitaires de France, 2001, pp.116-117.)



≪試訳≫
しかし、大理石像または青銅像の大部分は、標準より少し高い身長と、実物大の半分との間の、中位の大きさのままである。最も偉大な感受性の感覚の中で趣向が進化し、新しいテーマの出現と、女性のヌードのような(紀元前)4世紀に始まったそれらの継承がもたらされる。
女性の裸体像、中でも三美神のようなものは、「うずくまるアフロディテ」(紀元前250年頃、小アジア北西ビテュニア出身のドイダルサスの創始)や、ルーヴルの、上品な、立ち上がったアフロディテ、いわゆる「ミロのヴィーナス」(紀元前100年頃、調和的曲線と控えめに興奮させる、まろやかさのある裸体の胴は、稜角で曲がって、ひだをつけた足をおおっている、衣服のひだの表現(ドラペリー)の対照によって価値が置かれる)がある。
さも優しそうにエロティックな群像の中に、(紀元前)2世紀からしばしば含まれる女性の全裸像または半裸像のそばに、若々しいエロス(愛の神)またはヘルマフロディトスのような曖昧な魅力を配置しなければならなくなる。古代ローマのプットたちの前兆となるものである子供のキューピッドは、(紀元前)2世紀の初めのロドス島の芸術家に疑いなく負っている、激情的な「サモトラケのニケ」像の場合のような勝利の女神(そのほほえんでいる優雅さは渦巻くひだのある長い寛衣で身を飾っているのだが)にならって、飛び回る存在を少しずつふやしている。



【語句】
restent <rester~のままである(remain)の直説法現在
une taille (f)身長(height)
mi- (接頭辞)半分の、まん中の(half)
grandeur naturelle 実物大、等身大(life-size)
entraîne <entraînerもたらす(bring about)の直説法現在
amorcés <amorcer開始する、口火を切る(begin)の過去分詞
accroupie (←s’accroupirの過去分詞)(adj.)しゃがんだ、うずくまった(squatting)
le type est créé<助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(créer) 受動態の直説法現在
le tronc  (m)(身体の)胴(trunk)
rondeur  (f)丸み、まろやかさ(roundness)
discrètement (adv.)控えめに、そっと(discreetly)
palpitant (adj.)胸がどきどきする、興奮させる(thrilling)
est mis  <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(mettre) 受動態の直説法現在
la draperie (f)衣服のひだの表現、ドラペリー(drapery)
voile  <voilerベールをかける、ベールで包み隠す(veil)の直説法現在
jambe  (f)脚、足(leg)
repli  (m)折り返し、ひだ、しわ(crease, fold)(cf.)les replis des drapsシーツのしわ
sinuosité (f)曲がりくねり(winding)
arête  (f)魚の骨(fishbone)、稜(edge)、山稜(ridge)
  (cf.)vive-arête(建築)稜角 tailler à vive arête鋭い角に切り出す
A côté de ~の横に、そばに(beside)、~と比べて(compared to[with])、
さらに、その上に、同時に(besides)
impliquées (←impliquerの過去分詞)(adj.)巻き込まれた、含意された、関係する
  (cf.)idée impliquée dans un mot ある語に含まれている考え
à partir de (起点)~から
doucereusement (adv.)(稀)さも優しそうに
érotique  (adj.)エロチックな、性愛のみだらな(erotic)
charme (m)魅力、美しさ(charm)
ambigu (adj.)あいまいな(ambiguous)、怪しげな(dubious)
Eros  (m)(ギリシャ神話)エロス(愛の神)(Eros, Cupidon)
adolescent (adj.)青春期の、若々しい(adolescent)
Hermaphrodite (ギリシャ神話)ヘルマフロディトス(ヘルメスとアフロディテの子。
男女両性を具えた神。彼に恋したニンフの願いで両者は一体となり両性具有になったという)
Les Amours Amourキューピッド、愛の神(=Cupidon, Cupid, Love)
annonciateur 予告者、前兆となるもの
putti     putti はputtoの複数形(イタリア語)、絵画、彫刻にしばしば多数描き込まれる裸体の小児像
romain   (adj.)ローマの、古代ローマの(Roman)
multiplient  <multiplierふやす、増加させる(multiply)の直説法現在
peu à peu  少しずつ、だんだん(little by little)
présence   (f)いること、存在(presence)
voltigeant(e) (←voltigerの現在分詞)(adj.)飛び回る、空気のように軽い
à l’instar de  (前置詞句)~にならって、~式に(in imitation of, in the manner of)
Victoire    (f)勝利(victory)、(翼を生やした)勝利の女神(像)、ウィクトリア
(ギリシャの神話のNikêに相当)(Victoria, Victory)
 →la Victoire de Samothraceサモトラケのニケ(古代ギリシャの大理石製のニケ像。
前190年頃の作。1863年、エーゲ海のサモトラケ島で発見された。ルーヴル美術館蔵)
la grâce souriante   la grâce (f)グラース、優雅さ(grace) 
souriant(e) (adj.)にこやかな、ほほえんでいる
 (cf.) les Grâces カリス(美、喜び、優雅の3女神(the Graces)
se pare de <代名動詞se parer de ~で身を飾る(dress oneself up)の直説法現在
tunique   (f)寛衣、チュニック(tunic)
pli    (m)ひだ(fold)
tourbillonnant (←tourbillonnerの現在分詞)(adj.)渦を巻く、旋回する(whirling)
la fougueuse Victoire de Samothrace
 la Victoire de Samothrace サモトラケのニケ
 fougueux(se) (adj.)激情的な、血気盛んな、猛烈な(fiery, impetuous)
due à <devoir(àに)負うている(owe to)の過去分詞
un artiste rhodien rhodien(←Rhodes)(adj.)ロドス島の




「サモトラケのニケ」について>


中村氏は、ヘレニズム彫刻として代表的な3点の一つ「サモトラケのニケ」(紀元前190年頃、サモトラケ島出土、大理石、ルーヴル美術館)を解説していた。
「サモトラケのニケ」は、「パイオニオスのニケ」と同様、戦勝記念碑として設置された。該当する戦争は紀元前190年頃のシリア軍とロドス島(エーゲ海南東部の島。トルコの南西岸沖にある。クニドスの沖の島)との海戦であるようだ。勝利したロドス島の人々が記念碑を奉納したと考えられている。
この女神ニケ像はいま、船の舳先に舞い降りたところである。そしてこの舳先が台座となっている。この像は、ルーヴル美術館の階段の踊り場に設置されている。
大きな翼を広げ、衣装が潮風を受けて、たくましい身体にまとわりついている。ドレーパリーが躍動的である。「パイオニオスのニケ」は、透明に近いドレーパリーであったが、それより衣は少し厚く、その下の肉体はより力強い。着地の時に起こる逆風も足元に表現され、ドレーパリーの動きがダイナミックである。
このようなヘレニズム盛期の様式は、ハヴロックも言及していたように、「ヘレニズム・バロック」と呼ばれている。中村氏は、その特徴として、強靭な肉体と躍動的なドレーパリー、そして翼の勢いの表現を挙げている(中村、2017年[2018年版]、194頁~196頁)。
 「ニケ」は、「勝利」の擬人像であるから、パルテノン神殿の本尊であるアテナ・パルテノス像も、手にニケ像を載せている。ニケ(Nike)を英語では「ナイキ」と発音し、スポーツ用品のブランド名にもなっている(中村、2017年[2018年版]、182頁)。


「サモトラケのニケ」にまつわるエピソード>


ところで、映画にも、この「サモトラケのニケ」は大いに影響を与えている。例えば、オードリー・ヘプバーン主演の『パリの恋人』は映画の舞台にもなった。また、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが主演した『タイタニック』にも、重要なインスピレーションを与えたといわれる。

オードリー・ヘプバーンといえば、『ローマの休日』が有名だが、この『パリの恋人』では、フレッド・アステアと共演して、バレエやダンスの特技をいかんなく発揮した。
物語は、小さな本屋で働くジョー(オードリー)が、ひょんな事からファッション雑誌のモデルを依頼され、雑誌の編集長とカメラマン(フレッド・アステア)と共にパリへ飛び立ち、パリを舞台に展開される。
その中のシーンで、ルーヴル美術館の「サモトラケのニケ」の前の階段を、ジバンシーの赤いドレスを着て、オードリー・ヘプバーンが、両手を広げてポーズをとる場面がある。思わぬところで、この「サモトラケのニケ」が登場するのである。

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また、映画『タイタニック』は1912年に実際に起きた英国客船タイタニック号沈没事故を基に、貧しい青年と上流階級の娘の悲恋を描いている。主題歌セリーヌ・ディオンの「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」(My Heart Will Go On=私の心は生き続ける)も悲しいラヴバラードとしてヒットした。
ストーリーとしては、故郷であるアメリカlに帰れることになった画家志望のジャック(ディカプリオ)は、政略結婚のためにアメリカに向かうイギリスの上流階級の娘ローズ(ケイト・ウィンスレット)と運命的な出会いを果たし、二人は身分や境遇をも越えて互いに惹かれ合う。家が破産寸前のため、母んひ言われるがままに、政略結婚を強要され、彼女にとってのタイタニックは、奴隷船同然だった。決められた人生に絶望する最中、船尾から飛び降り自殺を試みようとしたところを、ジャックと出会い、次第に惹かれあう。
そのシーンの中で、船首にローズが両手を広げる有名な場面が、「サモトラケのニケ」のポーズであるといわれている。
 ニケは先述したように、「勝利」の擬人像である。ローズはジャックと出会い、自由恋愛に目覚め、あのポーズは、“心の自由の勝利”といえないこともない。「サモトラケのニケ」が示唆するように、あのシーンは、ヒロイン・ローズの“真実の愛”の“勝利のポーズ”なのかもしれない。


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≪「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その2 ラヴェッソン氏の著作より

2019-12-22 17:42:20 | フランス語
≪「ミロのヴィーナス」をフランス語で読む その2 ラヴェッソン氏の著作より≫


【はじめに】


フェリックス・ラヴェッソン(Félix Ravaisson、1813-1900)氏は、フランスの哲学者、考古学者である。フランスのスピリチュアリスム哲学の主要思想家の一人と目される。
 1836年に、アリストテレス形而上学に関する研究で哲学の学位を取得する哲学者であった。そして1838年、20代半ばで、『習慣論』(De l’habitude、1838年)によって博士号を得た。この学位論文は現代では、哲学の古典の地位にあるといい、ベルクソンやハイデガーに賞賛された。
その後、レンス大学で哲学教授に就任し、1870年からは、ルーヴル美術館の古代美術部門の学芸員を務めた。
ラヴェッソンは哲学者としての才能を発揮しただけでなく、考古学者としての業績もあり、古代彫刻についての論文を発表し、1871年には『ミロのヴィーナス』というモノグラフを出版した。
Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, Hachette, Paris, 1871.
今回のブログで紹介するのは、この著作である。
 

La Vénus de Milo





プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」


En admettant que Praxitèle eût reproduit, dans cett Vé-
nus qui rendit Cnide si célèbre, Phryné telle que l’avaient
admirée les Grecs, sortant de la mer où elle s’était plongée
à Éleusis, le jour de la fête de Neptune, il n’en est pas
moins vrai que cette statue qui fut son chef-d’œuvre et
peut-être, avec la Vénus naissante d’Apelle, le chef-
d’œuvre de l’art grec arrivé à ce dernier point de perfec-
tion où il atteignit ce qui passe tout, c’est-à-dire la grâce,
il n’en est pas moins vrai, dis-je, que cette statue repré-
sentait, selon toute apparence, la nouvelle épouse telle
que la poésie hellénique en ébaucha l’image, parée, non
moins que de sa beauté, de ces charmes supérieurs
dont les Grecs voulaient donner quelque idée en asso-
ciant à Vénus, comme l’avaient fait jadis les Phéniciens
et les Syriens, l’oiseau « sans fiel » au plumage sans
tache ; ces charmes d’un ordre moral et tout imma-
tériel qui consistent dans la douceur, la simplicité et la
pureté.
(Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, Hachette, Paris, 1871, pp.39-40.)



【語句】
En admettant que <admettre認める(admit)、仮定する(suppose)のジェロンディフ
→en admettant que+接続法 仮に~だとすれば(supposing[assuming] that...)
Praxitèle プラクシテレス(前4世紀中頃)、古代ギリシャの彫刻家
eût reproduit <助動詞avoirの接続法半過去+過去分詞(reproduire) 接続法大過去
 reproduire 再現する、複製する(reproduce)
qui rendit  <rendre返す(render)、~にする(make)の直説法単純過去
Phryné    フリュネ(前4世紀)、アテナイの遊女。当代一の美女とうたわれた。
telle que  ~のような(like, such...as)
l’avaient admirée <助動詞avoirの半過去+過去分詞(admirer)直説法大過去
sortant  <sortir外へ出る(go out)の現在分詞
où elle s’était plongée<助動詞êtreの半過去+過去分詞(代名動詞 se plonger)
代名動詞の直説法大過去
 se plonger 身をつける、ひたる(plunge oneself)
Éleusis エレウシス。ギリシャ、アテネの西方の都市(古代にはデメテル信仰の中心地)
Neptune [ローマ神話]ネプトゥヌス、ネプチューン。海の神でギリシャ神話のポセイドン
   と同一視される
il n’en est pas moins vrai que  それでもやはり~だ。とはいえ~に変わりはない。
qui fut   <êtreである(be)の直説法単純過去
chef-d’œuvre  (m)傑作、代表作(masterpiece)
la Vénus naissante  「海から上がるヴィーナス」
 naissant(e) (adj.)生まれたばかりの(newborn)
Apelle  アペレス(前4世紀)、古代ギリシャの画家。アレクサンドロス大王の宮廷画家
arrivé à  <arriver 到達する(arrive)の過去分詞
ce dernier point  (cf.)au dernier point この上なく、きわめて
où il atteignit <atteindre到達する(reach, attain)の直説法単純過去
ce qui passe tout <passer 過ぎる(pass)の直説法現在
c’est-à-dire  (接続詞句)すなわち(that is to say)
la grâce   (f)優雅さ(grace)
il n’en est pas moins vrai que +ind. それでもやはり~だ。とはいえ~に変わりはない
<例文>
 Il n’en est pas moins vrai que sa victoire provoque la panique.
とはいえ彼の勝利がパニックを引き起こすことに変わりはない。
 Certains critiques pensent que c’est une œuvre complètement ratée, mais il n’en est pas moins vrai qu’elle a obtenu un immense succès auprès du grand public.
  批評家の中には、この作品は完全な失敗作だとする者もいるが、読者大衆に大受けしたことに変わりはない。
dis-je <dire 言う(say)の直説法現在
cette statue représentait <représenter表す、描写する(represent)の直説法半過去
selon toute apparence どう見ても、十中八九(by all appearance[s])
 apparence  (f)外観、見かけ(appearance)
la poésie    (f)詩(poetry)
hellénique   (adj.)古代ギリシャの、ギリシャの(Hellenistic)
en ébaucha<ébaucherざっと輪郭を作る、下がきする(outline, sketch out)
の直説法単純過去
parée  <parer (deで)飾る(adorn)の過去分詞
non moins que ~と同様に、に劣らず
les Grecs voulaient donner <vouloir望む(want)の直説法半過去
en associant à <en+現在分詞(associer) ジェロンディフ
 associer  結合させる(associate, join)
comme l’avaient fait <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(faire)直説法大過去
jadis  (adv.)かつて(once)
Phénicien フェニキア人(Phoenician)
Syrien  シリア人(Syrian)
« sans fiel » fiel (m)胆汁、苦々しさ、憎しみ(gall)
plumage  (m)羽毛(plumage)
tache (f)しみ、汚れ、斑点(spot, stain)
immatériel (adj.)非物質的な(immaterial)、無形の(bodiless)
consistent <consister 構成する(consist)の直説法現在
la douceur  (f)穏やかさ、優しさ(gentleness, mildness)
la simplicité (f)単純、質素(simplicity)
la pureté  (f)純粋さ、清らかさ(purity)



≪試訳≫
仮にプラクシテレスが、クニドスを有名にしたこのヴィーナスにおいて、ギリシャ人が賞賛したようなフリュネが、ネプチューンの祭日にエレウシスで水浴した海から出るのを再現したとすれば、この彫像は彼の傑作であり、たぶんアペレスの「海から上がるヴィーナス」とともに、きわめて完成度の高い地点、いわゆる優美さにまで到達したギリシャ芸術の傑作であったことに変わりはない。そして、この彫像は十中八九、古代ギリシャの詩が美と同様に、優れた魅力で飾られたイメージを描いたような新しい配偶者を表したことに変わりはないと私は言おう。その魅力については、かつてフェニキア人とシリア人がそうしたように、汚れのない羽毛をもった「憎しみのない」鳥をヴィーナスに結びつけて、ギリシャ人がいくつかの観念を与えたいとおもった魅力である。つまり、優しさ、質素、純粋さから成る道徳的でしかも全く非物質的秩序の魅力である。



【コメント】
コス島のアペレスは、古代ギリシャの有名な画家である。大プリニウスの『博物誌』には、アペレスを並ぶ相手のない画家と評価している。
現存する絵は1枚もないが、本文にもあるように、「海から上がるヴィーナス(アフロディテ)」があったとされ、大プリニウスによると、モデルはアレクサンドロス大王の愛妾カンパスペだったという。一方、アテナイオスによると、有名な高級娼婦フリュネが、エレウシスとポセイドンの祭の期間中、全裸で海で泳いでいたことに想を得たともいわれる。
ポンペイの壁画には、アウグストゥスがローマに持ち出したアペレスの「海から上がるヴィーナス」を基に描かれたものと信じられている壁画がある。




ヴィーナスとマルス


Passons maintenant en revue les monuments où se
retrouve cette composition.
Un groupe du Musée de Florence représente Vénus
dans l’attitude et le costume de la statue de Milo, la main
gauche sur l’épaule gauche de Mars, la main droite portée
à sa poitrine comme pour lui ôter son baudrier.
Deux groupes du Musée du Capitole, à Rome, et du
Musée du Louvre sont composés de même et offrent cer-
tainement le même sujet. Seulement Vénus y est vêtue,
outre le peplum, d’une tunique, et les têtes sont celles
d’Adrien et de sa femme Sabine, comme on peut s’en
assurer en les comparant avec les statues, les bustes et
les médailles de cet empereur et de cette impératrice.
Même sujet encore sur une pierre gravée du Musée
de Florence et sur une médaille de l’impératrice Faustine,
femme de Marc-Aurèle, avec quelques légères différences
dans les attitudes et les attributs.
De ces monuments rapprochés on peut inférer qu’ils
présentent des variantes d’un même type, sans doute
célèbre, dont on retrouve dans la Vénus de Milo un élé-
ment d’une époque plus ancienne que le groupe même de
Florence.
(Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, Hachette, Paris, 1871, pp.40-41.)



【語句】
Passons <passer通る(pass)の命令法
 passer qch en revue (何)を検討(点検、吟味)する(look over sth, review sth)
 <例文>
 passer des documents en revue 資料を検討する
 Passons alors en revue les exemples qu’il cite. 次に彼の引いた例を検討してみよう
maintenant  (adv.)今、ところで(now)
monument (m)記念建造物、記念すべき作品(monument)
où se retrouve <代名動詞se retrouver再び発見される、再び見つかる(rediscover, find again)
 <例文>
 expression qui se retrouve dans plusieurs langues いくつもの言語に見られる表現
représente Vénus<représenter 表現する(represent)の直説法現在
l’attitude (f)姿勢、身構え(attitude)
le costume (m)衣装(costume)
l’épaule   (f)肩(shoulder)
portée à  <porter持って行く(take, carry)の過去分詞
 <例文>porter la main à son front ひたいに手をあてる(put one’s hand on one’s forehead)
sa poitrine (f)胸(chest, breast)、乳房(bust)
ôter    取り除く、脱ぐ(take off, remove)
son baudrier (m)つり帯(shoulder strap, harness)
Capitole  (m)カピトリウム丘、カンピドリオ丘
sont composés <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(composer)受動態の直説法現在
de même   同様に(likewise, in the same way)
offrent   <offrir提供する(offer)、示す(present)の直説法現在
Seulement (adv.)だけ、ただし(only, but)
Vénus y est vêtue <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(vêtir)受動態の直説法現在
outre   (前置詞)~に加えて、~以外に(besides)
le peplum (m)[古代ギリシャ]ペプロス(peplos)
une tunique  (f)(古代ギリシャ・ローマ人の)寛衣、トゥニカ(tunic)
les têtes sont <êtreである(be)の直説法現在
Adrien   ⇒Hadrienハドリアヌス帝(76-138、在位117-138)。
sa femme Sabine 妻サビナ
comme on peut s’en assurer <pouvoirできる(can)の直説法現在
 s’assurer (代名動詞)確かめる(ascertain)
en les comparant avec <en +現在分詞(comparer)のジェロンディフ
 comparer (avecと)比較する(compare with)
buste  (m)胸像(bust)
médaille   (f)メダル(medal)
une pierre gravée  graver の過去分詞 graver刻む、彫る(engrave)、浮き彫りにする(emboss)
 <例文>médaille gravée à l’éffigie d’un grand homme 偉人の肖像を刻んだメダル
léger(ère) (adj.)軽い(light)、わずかな(slight)
attribut  (m)属性、持物、象徴(attribute, symbol)
rapprochés <rapprocher近づける(bring together)、比較する(compare)の過去分詞
on peut inférer <pouvoirできる(can)の直説法現在
inférer 推理(推論)する(infer)
qu’ils présentent <présenter示す、表す、呈する(present)の直説法現在
variante  (f)異種、変形、応用例(variant)
sans doute 多分、恐らく(no doubt, probably)
dont on retrouve <retrouver再び見いだす(find again)、見つける(retrieve)の直説法現在



≪試訳≫
ところで、この構成が見られる記念すべき作品を検討してみよう。
フィレンツェの美術館の一群は、ヴィーナスについて、マルスの左肩に左手を、彼のつり帯を脱がせるために胸にあてた右手といった形で、ミロ像の姿勢と衣装を表現している。
ローマにあるカピトリーノ美術館とルーヴル美術館の二群は、同様に構成させ、確かに同じ主題を示している。ただし、ヴィーナスはペプロスに加えて、寛衣を着ており、頭部は、この皇帝と皇后の彫像、胸像、メダルとを比較して確かめられるように、ハドリアヌス帝と妻サビナのそれである。
まだ同じ主題は、フィレンツェの美術館の石浮き彫りやマルクス・アウレリウス(121-180)の妻である皇后ファウスチナ(125頃-176)のメダルにも見られる。もっとも姿勢と持物において幾つかわずかな相違があるのだが。
これらの記念すべき作品を比較してみると、それらは恐らく有名だった同じタイプの変形であることを示していると推論できる。そしてそこには、フィレンツェと同じ一群よりも古い時代の要素を「ミロのヴィーナス」の中に見い出される。




ヴィーナスとマルス その2 


Ce qui est indubitable, c’est que, dans les deux groupes
représentant Adrien et Sabine sous les traits de Mars et
de Vénus, le Mars est presque le même pour l’attitude,
le corps porté sur la jambe gauche, le pied droit avancé
et posant tout entier sur le sol, le bras gauche un peu
retiré en arrière, le bras droit pendant le long du corps,
et que cette attitude est exactement celle de la statue qu’on
nomme l’Achille Borghèse. Il y a cette différence seule-
ment que, dans le Mars des groupes du Capitole et du
Louvre, la tête n’est pas inclinée comme dans celui du
Louvre. Les auteurs de ces groupes ont cru peut-être
qu’il ne convenait pas de reproduire dans l’image d’un
empereur cet air de tête avec lequel ne se serait pas com-
plètement accordée la majesté dont il ne devait jamais se
départir. De même, tandis que dans l’attitude et l’air de
tête de la Vénus de Milo il y a une nuance de fierté,
l’impératrice des deux groupes du Capitole et du Louvre
exprime surtout par sa contenance la sollicitude avec la
soumission.
(Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, Hachette, Paris, 1871, p.55.)



【語句】
Ce qui est <êtreである(be)の直説法現在
indubitable (adj.)疑う余地のない、明白な(unquestionable, undoubted)
c’est que <既出
représentant <représenter 表す、描写する(represent)の現在分詞
trait   (m)筆致、特徴(trait, stroke)、顔だち(features)
 sous les traits de qn ~の姿に、~として
 <例文>
Botticelli a personnifié le printemps sous les traits d’une jeune fille.
 ボッティチェリは春を少女の姿に託して描いた。
décrire Napoléon sous les traits d’un héros
  ナポレオンを英雄として描く
le Mars est <既出
presque  (adv.)ほとんど(almost)
pour  (前置詞)~については、~に関しては(for, as for)
attitude  (f)姿勢(attitude)
le corps porté sur <porter(surに)(重みが)かかる、~に支えられている(be supported on)
  の過去分詞
le pied droit avancé<avancer前に出す(advance)の過去分詞
posant <poser置く(put)、置かれている(rest)の現在分詞
retiré  <retirer(手などを)引っ込める(withdraw, take out)の過去分詞
pendant le long du corps  corps (m)身体(body)
 (cf.) le long de ~に沿って(along, alongside)
cette attitude est <既出
qu’on nomme l’Achille Borghèse<nommer名をつける、呼ぶ(name, call)の直説法現在
 l’Achille [ギリシャ神話]アキレウス:ホメロスの「イリアス」の英雄の一人。トロイヤ戦争で、ヘクトルを倒すが、のちパリスの射た矢が踵(かかと)に当たって死ぬ。
    →tendon d’ Achille アキレス腱、急所
Il y a   ~がある(there is[are]) aはavoirの直説法現在
cette différence  (f)相違(difference)
seulement  (adv.)~だけ(only)
la tête n’est pas inclinée <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(incliner) 
受動態の直説法現在の否定形
incliner 傾ける(incline)
(cf.) incliner la tête頭を下げる、うなずく(incline one’s head)
auteur (m)作者(author)
ont cru < 助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(croire) 直説法複合過去
peut-être (adv.)たぶん、おそらく(perhaps)
qu’il ne convenait pas de <convenirに適している、ふさわしい(suit)の直説法半過去の否定形
 (cf.) Il convient de +不定法 ~するのが望ましい、~すべきである(It is advisable to do)
reproduire  再現する、複製する(reproduce)
air    (m)雰囲気(atmosphere)、外観、表情(air, look)
avec lequel ne se serait pas complétement accordée la majesté
 ne se serait pas ... accordée<助動詞êtreの条件法現在+過去分詞(代名動詞s’ accorder)
  条件法過去の否定形
 s’ accorder (事物が)一致する、調和する(agree)
 complètement (adv.)完全に、まったく(completely)
 la majesté  (f)威厳、尊厳(majesty)
dont il ne devait jamais se départir<devoir~すべきだ、するに違いない(must)の直説法
半過去の否定形
se départir (代名動詞)(deを)捨てる(depart)
De même 同様に(likewise)
tandis que  (接続詞句)~する間に(while)、一方では~であるのに(whereas)
l’air   (m)外観、表情(air, look)
il y a   既出
une nuance (f)微妙な差(slight difference)、(表現などの)微妙なずれ、ニュアンス
(shade, gradation)
fierté    (f)誇り、プライド、高慢さ、尊大さ(pride)
l’impératrice (f)皇后(empress)
exprime  <exprimer表現する、表す(express)の直説法現在
sa contenance  (f)落ち着き、態度、様子(countenance, attitude)
 (cf.) par contenance (古)平静を装って、うわべを取り繕って
   →rire par contenance 照れ隠しに笑う
la sollicitude   (f)心遣い、配慮(solicitude)
la soumission   (f)服従、従属(subjection)、屈服(submission)



≪試訳≫
明白なことは、次の2点である。1つは、マルスとヴィーナスの姿にハドリアヌス帝とサビナを表現している2群の中で、マルスは姿勢、左脚の上に支えられた胴体、前に出されて地面の上にもっぱら置いている右足、少し後ろに引っ込められた左腕、身体に沿って垂れ下がっている右腕に関しては、ほとんど同じであること。もう1つは、この姿勢はボルゲーゼのアキレウスと呼ばれる彫像の姿勢であることだ。唯一の違いといえば、カピトリーノとルーヴルの群のマルスとでは、頭部はルーヴルのそれのように下がっていない。決して捨てるべきでなかった威厳と完全に調和しているわけではない頭部の表情を、皇帝像の中に再現することはふさわしくなかったと、これらの一群の作者たちはたぶん信じていた。同様に、「ミロのヴィーナス」の頭部の姿勢と表情において、誇りのニュアンスがあるのに、カピトリーノとルーヴルの2群の皇后は、とりわけ平静を装って服従を伴った心遣いを表現している。




ヴィーナスについて


Avec les caractères qui lui sont propres, la Vénus de
Milo en a un qui la distingue de toutes les images de cette
divinité qu’ont produites les modernes, mais qui lui
est commun avec la plupart des images de Vénus que
nous a laissées l’antiquité, particulièrement avec celles
où Visconti a cru pouvoir, par des raisons très-graves,
signaler des reproductions de la Vénus de Cnide, qui re-
présentent la déesse nue au sortir du bain, et qui en
même temps n’offrent que des formes et une expression
d’une pureté qu’on peut trouver sévère. Le caractère
commun de toutes ces figures et de la Vénus de Milo
est celui qu’on ne peut mieux désigner que par le mot de
dignité. Cicéron distingue, certainement d’après les Grecs,
deux espèces de beauté, la féminine consistant dans ce
qu’il appelle vénusté ou beauté propre à Vénus, c’est-
à-dire évidemment celle où domine la grâce, et la virile
consistant surtout dans la dignité. Il n’en est pas moins
vrai que, comme les Grecs ne reconnaissaient guère de
dignité sans quelque mélange de grâce, ainsi que nous le
montre l’idée qu’ils se faisaient de Jupiter, ils ne compre-
naient pas davantage que la grâce parfaite et la parfaite
élégance fussent entièrement sans dignité. Et de là le
caractère qu’ils imprimèrent, en général, à la déesse de
l’amour ; on pourrait ajouter : et à l’Amour lui-même ;
témoin le fragment de si haut style, malgré les retouches
qui l’ont altéré, qu’on appelle communément l’Amour
grec. C’est ce qui se concilie sans doute malaisément avec
les opinions qui ont le plus de cours touchant l’idée que
les anciens s’étaient faite de Vénus et de l’Amour, mais
qui se comprend sans peine quand on sait que Vénus,
mère de l’Amour, fut pour eux, ainsi que je l’ai exposé,
et surtout pour les plus éminents d’entre eux, philo-
sophes, poëtes ou artistes vraiment dignes de ce nom,
le génie qui présidait à une union considérée comme
sacrée, et à laquelle était attribué le caractère respecté
du mystère. Aussi bien, avant que Vénus fût assez
connue dans l’Attique, l’institution du magiage était-elle
rapportée à Cérès, à celle qui établit les rites saints d’Éleu-
sis, dont il était peut-être l’objet le plus élevé. Pourquoi
l’art n’aurait-il pas attribué un air de dignité à la déesse
à laquelle Euripide croit pouvoir donner une épithète qui
est d’ordinaire celle de la reine des Dieux, et qu’on ne
peut guère traduire que par le terme d’ « auguste » ?

Cela étant, si l’on voulait rechercher quel pouvait être
l’objet sur lequel la Vénus de Milo posait le pied gauche,
peut-être n’en trouverait-on pas de mieux approprié au
caractère que son auteur avait dû vouloir lui imprimer sur
tout autre, en l’associant à Mars, que celui que Phidias
avait choisi. Phidias avait représenté Vénus un pied posé
sur une tortue, et par là il avait voulu, assure-t-on, la
tortue étant un animal qui ne saurait se séparer de sa
demeure, indiquer la fonction propre de la femme, de
l’épouse, qui est de garder fidèlement la maison.
(Félix Ravaisson, La Vénus de Milo, Hachette, Paris, 1871, pp.49-50.)



≪試訳≫
固有な性格と一緒に、「ミロのヴィーナス」は現代人が生産したこの神性のすべての像の中で、彼女と区別する、しかし私達が古代に残したヴィーナスの大部分の像とも共通している、とりわけヴィスコンティが大変重大な理由によって、水浴から出る全裸の女神を表している「クニドスのアフロディテ」の複製に注意を促すことができると信じていたそれ、同時に、厳しいと感じうる純粋さの形態と表情を提供するだけであるそれ

これらのすべての像と「ミロのヴィーナス」の共通の性格は、威厳という言葉によってしか、よりよく表せないところである。確かにギリシャ人にならって、キケロは美を女性的なものと男性的なものの2種類に区別している。前者は、ヴィーナスに固有な優美または美しさと呼ばれるものの中にあり、いわゆる優雅が明らかに支配するそれである。そして後者は、とりわけ威厳の中にある。いくらかの優雅が混じることなく威厳をギリシャ人が決して認識していなかったように、ギリシャ人はジュピター(ゼウス)から作られたという観念を示すように、完璧な優雅さと完璧な上品さは威厳が全くないということなど、ギリシャ人はそれ以上理解していなかったことに変わりはない。そして、そのやり方によって、ギリシャ人が一般に愛の女神に刻んだ性格を付け加えうる。そしてクピド(エロス)自身に。変更した修正にもかかわらず、ギリシャの愛と普通に呼ばれている大変高いスタイルの断片の証拠。
古代人たちは、ヴィーナスとクピド(ギリシャ神話のアフロディテとエロス)を作ったという感動的な観念を持つ意見を多分かろうじて一致しているのはそれである。しかし私が前述したように、ヴィーナス(クピドの母)は、古代人たちのためにあることを知る時、その考えをわけもなく理解される。そしてその古代人たちは、とりわけ彼らの中でも、本当にその名に値する最も傑出した人々、つまり哲学者、詩人、芸術家を指す。彼らは、神秘的な性格をもち、神聖としてみなされた結びつきを主宰していた天才たちであった。
その上、ヴィーナスがアッティカで知られる以前に、結婚制度がケレス(=デメテル)に関係づけられた。そのケレスは、エレウシスの神聖な儀式(たぶん最も崇高な儀式であったのだが)を確立した女神であった。
なぜ芸術は、その女神に威厳の雰囲気を帰さなかったのだろうか。エウリピデスは、神々の女王の通常の形容語をその女神に与えうると信じている。そしてだれも「おごそかな」という語でしか訳しえないのだが。
事情がそうであるから、もし「ミロのヴィーナス」が左足をどんな物の上に置いたのかを探ろうとしたいならば、フェイディアスが選んだそれより、マルスに結びつけて、作家が全く別のものに刻みたかったにちがいない、より適切な性格を見つけられないだろうに。フェイディアスは亀の上に足を置いたヴィーナスを表現した。そのやり方によって、フェイディアスは次のようなことを示したかったのだと断言できる。つまり、亀は住まいから別れることのできない動物だったので、家を忠実に守るという女性、妻の固有な役割をフェイディアスは示したかったであろう。



【語句】
qui lui sont <êtreである(be)の直説法現在
propre  (adj.)固有の、特有の(proper, peculiar)
la Vénus de Milo  「ミロのヴィーナス」
en a un  <avoir持つ(have)の直説法現在
qui la distingue <distinguer(deと)区別する(distinguish from)の直説法現在
cette divinité qu’ont produites <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(produire)
直説法複合過去
qui lui est commun  既出
nous a laissées <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(laisser)直説法複合過去
où Visconti a cru pouvoir<助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(croire)直説法複合過去
grave  (adj.)重々しい(grave)、重要な、重大な(important, serious)
signaler   指摘する、注意を促す(point out, indicate)、知らせる(serious)
la Vénus de Cnide 「クニドスのアフロディテ」
qui représentent la déesse <représenter表す(represent)の直説法現在
sortir du bain  sortir de (deから)外へ出る(go out, leave)
qui en même temps n’offrent que <offrir提供する、与える(offer)の直説法現在
une expression (f)表現、表情(expression)
une pureté (f)純粋さ、清らかさ(purity)
qu’on peut <pouvoirできる(can)の直説法現在
trouver   見つける、感じる(find)
sévère  (adj.)厳しい、厳格な(strict, severe)、じみな、飾りけのない(severe)
la Vénus de Milo est celui  既出
qu’on ne peut mieux <pouvoirできる(can)の直説法現在
désigner  指し示す、指摘する(designate, point out)、表す、意味する(refer to)
dignité   (f)威厳(dignity)
Cicéron  キケロ(紀元前106~43年)
distingue<distinguer(deと)区別する(distinguish from)の直説法現在
d’après ~によれば、~にならって(after, according to)
consistant dans <consister(dansに)ある、存する(consist in, lie in)の直説法現在
qu’il appelle <appeller呼ぶ(call)の直説法現在
domine  <dominer 支配する(dominate)、際立つ、目立つ(predominate)の直説法現在
viril(e) (adj.)男の、男性的な(male, virile)
consistant surtout dans la dignité<consisterなる、存する(consist)の現在分詞
Il n’en est pas moins vrai que それでもやはり~だ、とはいえ~に変わりはない
les Grecs ne reconnaissaient guère de<reconnaîtreそれと分かる、認める(recognize)
の直説法半過去の否定形
ainsi que ~のように(as)、~と同様に(as well as)
<例文>ainsi que nous avons dit hierきのう私たちが言ったように(just as we said yesterday)
nous le montre l’idée <montrer示す(show)の直説法現在
qu’ils se faisaient<代名動詞se faire 作られる、できあがる(be made)、起こる(happen)の直説法半過去
Jupiter (ローマ神話)ジュピター(ギリシャ神話のゼウス)
ils ne comprenaient pas <comprendre 理解する(understand)の直説法半過去の否定形
davantage (adv.) より多く(more, further)、より長く、より以上(longer)
<例文>Je n’en sais pas davantage.私はそれ以上詳しくは知りません(I don’t know any more.
fussent entièrement sans dignité <êtreである(be)の接続法半過去
qu’ils imprimèrent<imprrimer印刷する(print)、跡をつける、印をつける、刻む(imprint)の
<例文>l’air de majesté que le temps a imprimé à sa personne
時とともにその人の身についた貫禄
on pourrait ajouter<pouvoirできる(can)の条件法現在+不定法
l’Amour (m)愛(love)、Amourキューピッド、愛の神(=Cupidon)(ローマ神話の恋の神クピドの英語名、ギリシャ神話のエロス)(Cupid, Love)
qui l’ont altéré<助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(altérer)直説法複合過去
qu’on appelle 既出
C’est ce <êtreである(be)の直説法現在
qui se concilie <代名動詞se concilier(avecと)一致する、両立する(agree with)
touchant (adj.)感動的な(touching)
l’idée    (f)観念、考え、意見、見解(idea)
les anciens s’étaient faite de <代名動詞se faireの直説法大過去
qui se comprend <代名動詞se comprendre理解し合う(understand each other)、理解される(be understood)
sans peine  楽に、わけなく(without any difficulty, easily)
quand on sait que Vénus<savoir知っている(know)の直説法現在
fut pour eux     <êtreである(be)の直説法単純過去
ainsi que je l’ai exposé <助動詞avoirの直説法現在+過去分詞(exposer)直説法複合過去
dignes de  (adj.)(deに)値する、足りる(worthy of, deserving)
 (cf.) digne de foi 信頼するに足る(trustworthy)
le génie  (m)天才(genius)
qui présidait à<présider 主宰する(preside over)の直説法半過去
présider à ~を監督する、~の指図をする(direct, be in charge of )
une union considérée comme sacrée<considérer(commeと)みなす(consider)の過去分詞
à laquelle était attribué <助動詞êtreの直説法半過去+過去分詞(attribuer)受動態の半過去
 attribuer  (àに)帰する、~の作とする(attribute to)
respecté <respecter尊敬する(respect)、尊重する(comply with)
mystère (m)神秘、なぞ(mystery)
Aussi bien その上、とにかく、いずれにせよ(moreover, besides)
avant que Vénus fût assez connue <助動詞êtreの接続法半過去+過去分詞(connaître)
   受動態の接続法半過去
l’Attique アッティカ(ギリシャ南東)
l’institution du magiage était-elle rapportée à <助動詞êtreの半過去+過去分詞(rapporter)
   受動態の直説法半過去の倒置形
 rapporter 報告する、語る(report)、持ち帰る(bring back)、もたらす(bring)、
      (àに)関係づける、帰する(relate to)
Cérès  (ローマ神話)ケレス(豊饒の女神、ギリシャ神話デメテル)
celle →celuiの女性形(指示代名詞)~のそれ、~ところの人
qui établit les rites saints <établir確立する(establish)の直説法単純過去
Éleusis エレウシス(アテネ西方の地、デメテル信仰の中心地)
dont il était peut-être l’objet <êtreである(be)の直説法半過去
l’art n’aurait-il pas attribué un air de dignité <助動詞avoirの条件法現在+過去分詞(attribuer)
条件法過去の否定形
Euripide エウリピデス(紀元前480~406年)
croit pouvoir donner <croire信じる(believe)の直説法現在
une épithète    (f)形容語(epithet)
qui est d’ordinaire  既出
qu’on ne peut guère  <pouvoirできる(can)の直説法現在の否定形
traduire 翻訳する(translate)、言い表す、表現する(render, express)
auguste  (adj.)おごそかな、堂々たる(august, majestic)
Cela étant そういう次第なので、それなら、したがって
si l’on voulait rechercher <vouloir望む(want)の直説法半過去
 rechercher 探す、求める(search after[for])
quel pouvait être<pouvoirできる(can)の直説法半過去
la Vénus de Milo posait<poser置く(put)の直説法半過去
peut-être n’en trouverait-on pas <trouver見つける、発見する(find)の条件法現在の否定形
de mieux approprié (←approprierの過去分詞)(adj.)(àに)適当な、適切な(appropriate)
caractère (m)性格、特色(character)
son auteur  (m)作家、作者(author)
avait dû vouloir lui imprimer <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(devoir)+不定法
  直説法大過去
en l’associant à Mars<associer (àに)関与させる、結合させる(associate)のジェロンディフ
que Phidias avait choisi <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(choisir) 直説法大過去
Phidias フェイディアス(紀元前490~431年)
avait représenté <助動詞avoir直説法半過去+過去分詞(représenter)直説法大過去
un pied  (m)足(足首から下の部分)
posé <poser 置く(put)の過去分詞
une tortue  (f)亀(tortoise)
par là  それを通って、そちら、その言葉(手段、やり方)によって
il avait voulu<助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(vouloir)直説法大過去
assure-t-on <assurer断言する(assure)の直説法現在の倒置形
la tortue étant <êtreである(be)の現在分詞
un animal qui ne saurait<savoir知っている(know)、+不定形で ~できる
(be able to do)の条件法現在の否定形
se séparer (代名動詞)(deと)別れる(separate from)
sa demeure  (f)屋敷(dwelling)、住居、すまい(abode)
indiquer   指す(point out, indicate)、示す、表す(show)、素描する(outline, sketch)
 <例文>L’auteur ne fait qu’indiquer le caractère de ce personnage.
作者はその登場人物を粗描するにとどめている
la fonction (f)機能、役割(function)
propre    既出
époux(se)  (m, f)配偶者、夫(妻)(spouse, husband[wife])
qui est de   既出
garder  保存する(keep)、守る(watch over, guard)
fidèlement  (adv.)忠実に、確実に(faithfully)



<解説補足>
アテナイオス(エジプトのナウクラティスに生まれ、紀元後200年前後に執筆活動をした)
「(フリュネは)エレウシス人の祭礼やポセイドンの祭礼において、すべてのギリシャ人たちの目前で衣服を脱ぎ、髪を解いて、海に入った。この時の彼女をモデルにして描かれたのだが、アペレスのアフロディテ・アナデュオメネ(海から上がるアフロディテ)である。また、彼女と恋に落ちた彫刻家プラクシテレスは、やはり彼女をモデルにクニドスのアフロディテを作った。
(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、21頁)

エレウシス[アテナイ西方の町。デメテル神殿での秘儀に知られる]の祭礼においても、沐浴は大変重要であった。まず、デメテルの聖域に入る前に、女性たちは、禊ぎの儀式として水盤で手を洗った。その後、入門の儀式として、豊穣を願って、皆で海に入った。アテナイオスによると、プラクシテレスがクニディアのモデルとしたフリュネも、その祭礼やポセイドンの聖域での似たような祭礼に参加したとのことである。男神の彫像も女神の彫像も、まるで生きているかのように、儀式として水に浸され、香油を塗られ、飾られることがあった。
 しかし、男神よりも女神の方が、全身を水をつけられることが多かったようである。
(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、35頁)