歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【補足 その2】フランスの歴史~フランスの絵画を中心に≫

2023-08-31 19:20:00 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その2】フランスの歴史~フランスの絵画を中心に≫
(2023年8月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、フランスの歴史の中でも、とりわけフランスの絵画に中心にして、その文化史について、補足しておきたい。

 参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 今回のブログで、フランスの歴史の中でも、とりわけフランスの絵画に中心にして、その文化史について、補足しておきたいと考えた理由は、教科書に次のような記述があったからである。

 たとえば、ナポレオンとダヴィッドという画家との関係は、それぞれの教科書で次のように言及されている。
●福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)において、第15章の【革命政治の推移とナポレオン帝政】の項目で、次のように言及されている。
<ナポレオンのイメージ戦略>
現代の政治ではイメージ戦略が大きな役割を演じているが、すでにナポレオンは、イメージの重要性を理解していた。革命の推移をつぶさに見ていた彼は、政治が国民の支持なしには困難であり、支持を得るためにはイメージアップが必要なことがわかっていた。ダヴィッド(David, 1748~1825)らの画家にくりかえし描かせた肖像画や戦闘画、あるいは前線から本国に送らせた戦闘状況の速報は、彼が勇敢に身をなげうって国民の先頭に立ち、革命の成果を守るリーダーだというイメージを、鮮明にうったえるように表現されていた。

「アルプス越えをするナポレオン」
ダヴィッドが描いた精悍な騎馬像の足元には、ボナパルトとならんで、カール大帝やハンニバルの英雄名が描きこまれている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、280頁)

●本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)において、Chapter 15の【■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire】の項目で、<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >と挿絵を載せて、次のように言及されている。

  Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、pp.223-224.)

●木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)において、第10章の【皇帝ナポレオン】の項目で、次のように言及されている。

1802年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。
 
 そして、ダヴィド作の「ナポレオンの戴冠式」の挿絵(部分図)が掲載されている。
<「ナポレオンの戴冠式」ダヴィド作>
ナポレオンが図中央にたち、皇后ジョゼフィーヌにみずから冠を授けようとしている。ローマ教皇ピウス7世はナポレオンのうしろにすわっており、儀式の中心をなすのがナポレオンであることを示している。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、253頁)


 フランスの絵画に中心にして、解説する際に、次の著作を参考とした。
〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
 その中から、フランスの歴史に関係のある、次の3点を紹介しておきたい。
 ●フランソワ1世の肖像画
 ●ヴァトー
 ●ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』

※これらは、以前、私のブログで取り上げたものであることをお断りしておきたい。
それは、≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その1 私のブック・レポート≫
(2020年4月1日投稿)である。

ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』の写真【筆者撮影 2004年】





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・世界史高校教科書の記述の復習~とくにフランス近代文化史に関連して

≪中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)より≫
●フランソワ1世の肖像画
●ヴァトー
●ダヴィッドの『ナポレオン戴冠式』






世界史高校教科書の記述の復習~とくにフランス近代文化史に関連して


今回のブログで、参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]


福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍)の記述



第15章 欧米における工業化と国民国家の形成
4 フランス革命とウィーン体制
5 自由主義の台頭と新しい革命の波

4フランス革命とウィーン体制
【フランス革命の背景】
革命前の旧体制(アンシャン=レジーム, Ancien Régime)では、身分制のもとで第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は国土の大半と重要官職を占有しながら、免税特権をもっていた。人口の9割以上にあたる第三身分(平民)のなかでは、事業に成功した豊かなブルジョワ階層が経済活動の自由を求める一方、大部分を占めた農民は領主への地代や税負担に苦しみ、都市民衆もきびしい生活を送っていた。
 18世紀後半には、イギリスとの対抗上も、社会や経済の改革、とくに戦費負担からくる国庫赤字の解消と財政改革が必要であった。改革派には、身分や立場のちがいを問わず啓蒙思想の影響が広まっていた。ルイ16世(Loui XVI, 在位1774~92)は、重農主義者テュルゴ(Turgot, 1727~81)や銀行家ネッケル(Necker, 1732~1804)など改革派を登用して財政改革を試みたが、課税を拒否する貴族など特権集団の抵抗で、逆に政治的な危機が生じた。しかも、凶作などを原因とする経済的・社会的な危機が重なった。

【立憲王政から共和政へ】
危機回避のために国王が招集した三部会は、1789年5月、ヴェルサイユで開会されたが、議決方式をめぐる対立から議事に入れなかった。平民代表は『第三身分とは何か』の著者シェイエス(Sieyès, 1748~1836)の提案で、第三身分の部会を国民議会と称し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。国王は譲歩してこれを認め、聖職者や貴族からも同調者が合流して憲法制定国民議会が成立したが、反動派に動かされた国王は、軍隊でおさえこもうとした。武力制圧の危険を感じたパリの市民は、1789年7月14日、バスティーユ要塞を襲って武器弾薬の奪取に成功した。この報が伝わると、各地で農民が蜂起し、領主の館を襲撃した。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択をあいついで決めた。ここに旧体制は崩壊し、基本的人権・国民主権・所有の不可侵など、革命の理念が表明された。
 地方自治体の改革や教会財産の没収、ギルドの廃止など、当初はラ=ファイエット(La Fayette, 1757~1834)やミラボー(Mirabeau, 1749~91)など自由主義貴族の主導下に、1791年憲法が示すように立憲王政がめざされた。しかし憲法制定の直前、国王一家がオーストリアへ亡命をくわだてパリに連れもどされるヴァレンヌ逃亡事件がおこり、国王の信用は失墜した。
 1791年に発足した制限選挙制による立法議会では、立憲王政のフイヤン派(Feuillants)をおさえて、ブルジョワ階層を基盤にした共和主義のジロンド派(Girondins)が優勢となった。ジロンド派は、1792年春、内外の反革命勢力を一掃するためにオーストリアに宣戦布告し、革命戦争を開始した。革命軍が不利になると、全国からパリに集結した義勇兵と、サン=キュロットとよばれる民衆は、反革命派打倒をうたってテュイルリー宮殿を襲撃し(八月十日事件)、これを受けて議会は王権を停止した。男性普通選挙制によって新たに成立した国民公会では共和派が多数を占め、王政廃止と共和政が宣言された(第一共和政、1792~1804)。

【革命政治の推移とナポレオン帝政】
1793年1月にルイ16世が処刑され、春には内外の戦局が危機を迎えるなか、国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins、山岳派)が権力を握った。ジャコバン派は、封建的特権の無償廃止を決め、最高価格令によって物価統制をはかった。しかし、民主的な1793年憲法は平和到来まで施行が延期され、革命の防衛を目的に権力を集中した公安委員会は、ロベスピエール(Robespierre, 1758~94)の指導下にダントン(Danton, 1759~94)ら反対派を捕らえ、反革命を理由に処刑した(恐怖政治)。
 強硬な恐怖政治はジャコバン派を孤立させ、1794年7月、今度はロベスピエールらが、穏健共和派などの政敵によって倒された(テルミドールの反動)。革命の終結を求める穏健派は1795年憲法を制定し、制限選挙制にもとづく二院制議会と、5人の総裁を置く総裁政治が成立した。しかし、革命派や王党派の動きもあって政局は安定せず、革命の成果の定着と社会の安定を求める人々は、より強力な指導者の登場を求めた。この機会をとらえたのが、革命軍の将校として頭角をあらわしたナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte)であった。
 イタリア遠征により対仏大同盟に打撃を与え、ついでエジプト遠征で名をあげていたナポレオンは、1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)、クーデタで統領政府を樹立すると、自ら第一統領となって事実上の独裁権を握った。1802年に終身統領となったナポレオンは、04年5月には国民投票によって皇帝に即位した(第一帝政)。
 ナポレオンは、ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート(Concordat)、1801)を結んでカトリック教会と和解し、貴族制(1808)を復活させる一方、フランス銀行の設立(1800)など行財政や教育制度の整備を推進し、さらに近代市民社会の原理をまとめた民法典(ナポレオン法典、1804.3)を制定し、革命の継承を唱えた。
 革命理念によるヨーロッパ統一をかかげるナポレオンにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスは、1802年に結ばれた英仏和平のアミアン条約を翌年に破棄し、対立を強めた。トラファルガー沖の海戦(1805)でイギリスにやぶれたナポレオンは、大陸制圧に転じ、1806年には西南ドイツ諸国を保護下に置いてライン同盟(Rheinbund)を結成させ、神聖ローマ帝国を名実ともに解体した。同年にベルリンで出した大陸封鎖令は、大陸諸国とイギリスとの通商を全面的に禁止し、イギリスに対抗して、大陸をフランスの市場として確保しようとするものであった。

<ナポレオンのイメージ戦略>
現代の政治ではイメージ戦略が大きな役割を演じているが、すでにナポレオンは、イメージの重要性を理解していた。革命の推移をつぶさに見ていた彼は、政治が国民の支持なしには困難であり、支持を得るためにはイメージアップが必要なことがわかっていた。ダヴィッド(David, 1748~1825)らの画家にくりかえし描かせた肖像画や戦闘画、あるいは前線から本国に送らせた戦闘状況の速報は、彼が勇敢に身をなげうって国民の先頭に立ち、革命の成果を守るリーダーだというイメージを、鮮明にうったえるように表現されていた。

「アルプス越えをするナポレオン」
ダヴィッドが描いた精悍な騎馬像の足元には、ボナパルトとならんで、カール大帝やハンニバルの英雄名が描きこまれている。

【国民意識の形成】
フランス革命では、自由・平等の理念とともに国民国家の原則がうちだされた。革命以前には、人々は職能・地域・身分などの集団の一員として暮らし、国家はこれらの集団を通じて社会を統治していた。革命は、これらの自律的な集団や身分を廃止して、個々人を国民として国家に結びつけることを追求した。革命下には、グレゴリウス暦にかわる共和暦(革命暦)や、歴史的な州制度にかわる県制度、数学的な合理性にもとづくメートル法など、時間や空間を区切る全国統一の制度が新たに導入され、地域言語は否認されて国語教育が強調された。これらを通じて新たな国民意識の形成が追求された。
 フランスによる大陸制圧は、フランス以外の各地にもこのような考え方を広める一方、侵略者フランスに対するナショナリズム(nationalism)をめばえさせることになった。スペインの反乱は、フランス軍をゲリラ戦の泥沼にひきこんだ。国家滅亡の危機に瀕したプロイセンではシュタイン(Stein, 1757~1831)やハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)が、行政改革や、農民解放など一連のプロイセン改革を実施し、フィヒテ(Fichte, 1762~1814)は連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を通して国民意識の覚醒をうったえた。
 大陸封鎖令で穀物輸出を妨害されたロシアが離反すると、ナポレオンは1812年に遠征してモスクワを占領したが、ロシア軍の焦土作戦と反撃にあって敗退した。これを機に諸国民が一斉に解放戦争に立ちあがり、1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍をやぶり、翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位してエルバ島に幽閉され、ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が即位して、フランスにはブルボン朝が復活した。1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは一時再起したが(百日天下)、ワーテルローの戦いで大敗し、今度は大西洋の孤島セントヘレナに流され、孤独のうちに没した。


【ナショナリズム・自由主義・ロマン主義】
フランス革命とナポレオン戦争の時代に各地でめばえたナショナリズムは、広く国民の一体性と自主的な政治参加を求める点で、ウィーン体制とは対立し、自由主義とつながる側面をもっていた。19世紀には、多民族国家のオーストリアやオスマン帝国内で少数派の位置にあった人々は、自治権や独立を求める運動をおこした。また小国家群に分裂していたドイツやイタリアでは、政治的統一を求める動きが活発になっていった。
 ナショナリズムの台頭は、民族の歴史的個性や伝統、人間の熱情や意志を称揚するロマン主義(Romanticism)の思潮とも呼応しあった。ロマン主義は、19世紀ヨーロッパの政治、文学、芸術など、広い分野で基調をなす考え方となり、いっぽうでは過去を美化する尚古趣味や、国土の自然や民族(国民)文化の称揚などにあらわれ、他方では、自己犠牲や英雄崇拝、社会変革への夢とも結びついて、ナショナリズムと呼応しあったのである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、277頁~282頁)

本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)の記述


ナポレオンとダヴィッドとの関連で、<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >に関した英文を引用しておく。

■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire
Louis XVI was executed in January 1793. In spring the Jacobins, radical republicans,
took power in the National Convention during when the tide of the internal and external
wars turning against the French army. The Jacobins (ジャコバン派) determined gratuitous abolition of
feudal privileges, and attempted price control by a maximum price order. Enforcement of
the democratic constitution of 1793 was postponed until the coming of more peaceful times.
The Committee of Public Safety (公安委員会), which concentrated power for the purpose of defense of
revolution, captured opponents including Danton (ダントン) under the mentorship of Robespierre
(ロベスピエール), and executed them because of counterrevolution (the Reign of Terror, 恐怖政治).
The extreme reign of terror made the Jacobins isolated. In July 1794 Robespierre and his
radical followers were defeated by the political enemy like the moderate Republicans in
turn (the Thermidorian Reaction, テルミドールの反動). Moderates, who sought the end of revolution,
established the 1795 constitution, and a bicameral legislature based on the limited election system
and the Directory with five Directors were established. The political situation was not
stable because of movement of revolutionaries and royalists. People, who sought to fix
revolutionary achievements and social stability, demanded a stronger leader. The person
who took this opportunity was Napoleon Bonaparte (ナポレオン=ボナパルト), who made his mark
as a general of the revolutionary army.
Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、pp.223-224.)

木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』(山川出版社)の記述


第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
3 フランス革命とナポレオン


【フランス革命の構造】
アメリカ独立革命につづいて、有力な絶対王政の国であったフランスで、旧制度(アンシャン=レジーム)をくつがえす革命がおこった。

※アンシャン=レジームということばは、革命前のフランスの政治・社会体制の総称として使われる。

革命以前の国民は、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区分されたが、人口の9割以上は第三身分であった。少数の第一身分と第二身分は広大な土地とすべての重要官職をにぎり、免税などの特権を得ていた。各身分のなかにも貧富の差があり、とくに、第三身分では、その大部分を占める農民が領主への地代や税の負担のために苦しい生活をおくる一方、商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた。そこに啓蒙思想が広まり、1789年初めには、シェイエス(Sieyès, 1748~1836)が『第三身分とは何か』という小冊子で、第三身分の権利を主張した。

フランス革命(1789~99)は、こうした状況下に王権に対する貴族の反乱をきっかけに始まったが、有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立する結果となった。農民・都市民衆は旧制度の廃棄に重要な役割をはたしたが、同時に、有産市民層が推進した資本主義経済にも反対した。フランス革命はこのように、貴族・ブルジョワ(有産市民)・農民・都市民衆という四つの社会層による革命がからみあって進行したために、複雑な経過をたどることになった。


【革命の終了】
ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた新憲法により、5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。しかし、社会不安は続き、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民は社会の安定を望んでいた。こうした状況のもと、混乱をおさめる力をもった軍事指導者としてナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769~1821)が頭角をあらわした。ナポレオンは96年、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破って、軍隊と国民のあいだに名声を高め、さらに98年には、敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。

1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第2回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。帰国したナポレオンは同年11月に総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。1789年以来10年間におよんだフランス革命はここに終了した。

自由と平等を掲げたフランス革命は、それまで身分・職業・地域などによってわけられていた人々を、国家と直接結びついた市民(国民)にかえようとした。革命中に実行されたさまざまな制度変革と革命防衛戦争をつうじて、フランス国民としてのまとまりはより強まった。こうして誕生した、国民意識をもった平等な市民が国家を構成するという「国民国家」の理念は、フランス以外の国々にも広まるとともに、フランス革命の成果を受け継いだナポレオンによる支配に対する抵抗の根拠ともなった。

【皇帝ナポレオン】
ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と1801年に和解し、翌年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約、1802)、国の安全を確保した。内政では、フランス銀行を設立して財政の安定をはかり、商工業を振興し、公教育制度を整備した。さらに04年3月、私有財産の不可侵や法の前の平等、契約の自由など、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)を公布した。02年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。

<「ナポレオンの戴冠式」ダヴィド作>
ナポレオンが図中央にたち、皇后ジョゼフィーヌにみずから冠を授けようとしている。ローマ教皇ピウス7世はナポレオンのうしろにすわっており、儀式の中心をなすのがナポレオンであることを示している。

1805年、イギリス・ロシア・オーストリアなどは第3回対仏大同盟を結成し、同年10月にはネルソン(Nelson, 1758~1805)の率いるイギリス海軍が、フランス海軍をトラファルガーの海戦で破った。しかしナポレオンは、ヨーロッパ大陸ではオーストリア・ロシアの連合軍をアウステルリッツの戦い(1805.12, 三帝会戦)で破り、06年、みずからの保護下に西南ドイツ諸国をあわせライン同盟を結成した。またプロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約(1807年)を結ばせ、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてるなど、ヨーロッパ大陸をほぼその支配下においた。

この間、ナポレオンはベルリンで大陸封鎖令を発して(1806年)、諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランスの産業のために大陸市場を独占しようとした。彼は兄弟をスペイン王やオランド王などの地位につけ、自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して家門の地位を高めるなど(10年)、その勢力は絶頂に達した。封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革がうながされたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。まず、スペインで反乱がおこり、またプロイセンでは、思想家のフィヒテ(Fichte, 1762
~1814)が愛国心を鼓舞する一方、シュタイン(Stein, 1757~1831)・ハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)らが農民解放などの改革をおこなった。

ナポレオンは、ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出すると、1812年に大軍を率いてロシアに遠征したが、失敗に終わった。翌年、これをきっかけに、諸国は解放戦争にたちあがり、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンを破り、さらに翌14年にはパリを占領した。彼は退位してエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が王位についてブルボン朝が復活した。翌15年3月、ナポレオンはパリに戻って皇帝に復位したが、6月にワーテルローの戦いで大敗し、南大西洋のセントヘレナ島に流された。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、248頁~255頁)

第11章 欧米における近代国民国家の発展
4 19世紀欧米の文化


【貴族文化から市民文化の時代へ】
 フランス革命とその社会がもたらした政治的・社会的激変は、文化の領域においても大きな転換をもたらした。皇帝や国王などの宮廷や、貴族などの社交の場で展開されたアンシャン=レジームの貴族(宮廷)文化にかわって、19世紀には市民層を担い手とするあらたな市民文化が主流となった。
 市民文化は、貴族文化の成果を引き継ぎそれらを市民層や広く国民に伝える役割をはたした。さらに、美術・文学・音楽などの分野で、それぞれの言語文化や歴史を重視する国民文化の基礎をつくった。(下略)

【文学・芸術における市民文化の潮流】
 フランス革命・ナポレオンによる大陸支配は、革命を支えた啓蒙主義や、革命思想の普遍主義・合理主義への反発をまねき、各民族や地域の固有の文化や歴史、個人の感情や想像力を重視する傾向を広くうみだした。それらはロマン主義と総称される。ロマン主義は19世紀初頭までのゲーテ(Goethe, 1749~1832)など古典主義の成果を学び、やがて文学・芸術における大きな流れとなり、国民文学や国民音楽に結実する国民文化を形成した。
 19世紀後半になると、市民社会の成熟、近代科学・技術の急速な発達が文学・芸術活動にも影響を与えるようになり、ロマン主義に対抗して人間や社会の現実をありのままに描く写実主義(リアリズム)がとなえられた。さらに写実主義の延長上に、19世紀末には人間や社会を科学的に観察し、人間の偏見や社会の矛盾を描写する自然主義がフランスなどにあらわれ、各国に広がった。外光による色の変化を重視したフランス絵画の印象派もこうした流れのなかからうまれた。


19世紀のフランス文化一覧表  
【美術】  
ダヴィッド 「ナポレオンの戴冠式」
ドラクロワ 「キオス島の虐殺」
クールベ 「石割り」
ミレー 「落ち穂拾い」
ドーミエ 版画「古代史」シリーズ
モネ 「印象・日の出」
ルノワール 「ムーラン=ド=ラ=ギャレット」
セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山」
ゴーガン 「タヒチの女たち」
ロダン 「考える人」(彫刻)
   
【音楽】  
ドビュッシー 「海」「月の光」
   
【文学】  
ヴィクトル=ユゴー 『レ=ミゼラブル』
スタンダール 『赤と黒』
バルザック 「人間喜劇」
ボードレール 『悪の華』
ゾラ 『居酒屋』
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、279頁)

(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、278頁~279頁)

【近代大都市文化の誕生】
 19世紀後半になると、列強諸国の首都は近代化の成果や国家の威信を示すために、近代技術や土木工学を結集して上下水道を普及させ、都市計画によって道路や都市交通網を整備し、大都市文化の誕生の環境をととのえた。フランス第二帝政期のオスマン(Haussmann, 1809~91)によるパリ改造や、ウィーンの都市計画はその代表的事例であり、古い街区や城壁を取りこわし、近代的建築や街路を整備して、他都市のモデルとなった。またロンドンでは最初の地下鉄が開通し、近代的都市交通の先頭を切った。1851年の第1回ロンドン万国博覧会につづいて、パリ・ウィーンでも万博が開かれ、近代産業の発展だけでなく、首都の近代的変容を人々に示した。こうした便利で快適な都市の生活環境の進展は、農村から都市への人々の移動を加速させ、首都だけでなく、中小都市の人口増をもたらした。
 大都市では近代的改造に加えて、博物館・美術館・コンサートホールなどの文化施設・娯楽施設の拡充もすすみ、市民文化の成果を示す場となった。20世紀にはいると発行部数を飛躍的に増大させた大衆向けの新聞によって、さまざまな情報が伝えられ、映画などの新しい大衆娯楽や、デパートなど大規模商業施設も普及しはじめた。
 19世紀末には、成熟した市民文化のなかから、新しい現代大衆文化の萌芽が姿をあらわした。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、282頁)

≪中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫)より≫



〇中野京子『はじめてのルーヴル』集英社文庫、2016年[2017年版]
 その中から、フランスの歴史に関係のある、次の3点を紹介しておきたい。
 ●フランソワ1世の肖像画
 ●ヴァトー
 ●ダヴィッドの『ナポレオン戴冠式』

【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

 
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第① 章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
第② 章 ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
第③ 章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』
第④ 章 運命に翻弄されて     レンブラント『バテシバ』
第⑤ 章 アルカディアにいるのは誰? プッサン『アルカディアの牧人たち』
第⑥ 章 捏造の生涯   ルーベンス『マリー・ド・メディシスの生涯<肖像画の贈呈>』
第⑦ 章 この世は揺れる船のごと  ボス『愚者の船』
第⑧ 章 ルーヴルの少女たち    グルーズ『壊れた甕』
第⑨ 章 ルーヴルの少年たち    ムリーリョ『蚤をとる少年』
第⑩ 章 まるでその場にいたかのよう ティツィアーノ『キリストの埋葬』
第⑪ 章 ホラー絵画        作者不詳『パリ高等法院のキリスト磔刑』
第⑫ 章 有名人といっしょ     アンゲラン・カルトン『アヴィニョンのピエタ』
第⑬ 章 不謹慎きわまりない!   カラヴァッジョ『聖母の死』
第⑭ 章 その後の運命       ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』
第⑮ 章 不滅のラファエロ     ラファエロ『美しき女庭師』
第⑯ 章 天使とキューピッド    アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
第⑰ 章 モナ・リザ        レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
あとがき
解説 保坂健二朗

この案内本は、【目次】からもわかるように、17章に分かれているが、今回、関連しているのは、第1章~第3章の次の各章である。(順番は歴史上の年代順に紹介する)
●なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
●ロココの哀愁       ヴァトー『シテール島の巡礼』
 ●フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』




第③章 フランスをつくった三人の王 クルーエ『フランソワ一世肖像』


クルーエ『フランソワ一世肖像』
1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階展示室7

フランスをつくった三人の王


「フランスをつくった三人の王」と題して、フランスのイメージ(広い国土、壮麗な宮殿、英雄崇拝、ファッションや芸術といった文化的優位)をつくりあげた、歴代の国王のうち、3人の肖像画を取り上げている。

・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

・ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世


・ヴァロア朝5代目シャルル7世(1403~1461)~イギリスの侵略から国を守る
 ジャン・フーケ『シャルル7世の肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階

シャルル7世は、英仏百年戦争に勝利して中世の幕を引いた。若いころは、無気力で弱々しく、外見もぱっとしなかった。
フーケによる肖像画も40代半ばだが、何を考えているか定かでない眼つきなど、どこかしら鵺(ぬえ)的な表情である。
このシャルル7世の一生は、女難と女福の両方を極端に浴びたものだったとして、中野氏は捉えている。
最たる女難は、自分の母親イザボー・ド・バヴィエールである。彼女は夫のシャルル6世が狂気に囚われたのをいいことにして実権を握ろうと、息子を廃嫡してしまう。百年戦争の真只中で、ロワール川以北のフランスはすでにイギリスに支配され、オルレアンが落とされれば南部まで一気に奪われる絶対絶命の状況である。
シャルルは戦う気力もなかったが、そこへ農家の娘ジャンヌ・ダルクが「神の声」を聞いて、奇蹟のように登場する。17歳のジャンヌは、フランス兵を鼓舞して、オルレアンを解放した。その上、ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠式を挙行した。
(アングル『シャルル7世の戴冠式とジャンヌ・ダルク』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室77)
しかし、19歳のジャンヌが魔女裁判で火刑に処せられることが決まっても、彼は何も手を打たなかった。さぞや大きな神罰が下っただろうと思えば、これまたさにあらず、次なる女福アニエス・ソレルが舞い降りる。彼女はフランス史上、初の公式寵姫となる。と同時に、政治に関与し、軍費の増強を進言したりして、シャルル7世を「勝利王」へと導いた
(カレーだけを残して、他の全ての領地を取り戻した)。
同じフーケによるアニエスの肖像が残されている。アニエスを聖母マリアに見立ててある『ムーランの聖母』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がある。

フランソワ1世


・ヴァロア朝9代目フランソワ1世(1494~1547)~フランス・ルネサンスの花を咲かせた
 クルーエ『フランソワ一世肖像』1530年頃/96cm×74cm/シュリー翼3階

フランソワ1世は、シャルル7世から4代下り、フランスが富を蓄えはじめた時代の王である。この華やかな王様がいなければ、ルーヴル美術館に『モナ・リザ』はなかった。
(モナ・リザのいないルーヴルなんて想像すると、フランソワ1世の貢献度がわかるという)

フランソワは遊び人として有名だが、勇猛果敢な騎士でもあった。即位してすぐイタリア遠征する。神聖ローマ皇帝カール5世の版図拡大を阻止するため、イタリアを舞台とした対ハプスブルク戦を挑み、30歳で屈辱的な虜囚生活も送ったことがある。
国内的には、着々と中央集権化を進め、絶対王政を強化してゆく。いまだ文明後進国でろくな芸術家もいなかったフランスに、文化振興のため、イタリア人美術家を高額の報酬を提示して招致した。中でもレオナルド・ダ・ヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金によって安穏な余生を保証した(3年足らずだったが)。
レオナルドはフランソワ1世の腕の中で永眠した、との伝説さえ残ったほどである。
(その見返りが、『モナ・リザ』、『洗礼者ヨハネ』、『聖アンナと聖母子』だとしたら、イタリアは歯噛みしたくなるとも、中野氏は付言している)

また、フランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿を大改修して、内部装飾をイタリア人画家にまかせた。それがフォンテーヌブロー派である。
中でも、もっともよく知られている作品は、『ガブリエル・デストレとその妹』(ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室10)である。

劇作・オペラとフランソワ1世


「恋と狩猟と戦争と生」を愛したフランソワ1世は、絢爛たるフランス宮廷文化の礎を築いた。美しい女性たちで、王の城は陽気さと華麗さに満ちあふれていたようだ。
だから、ヴィクトル・ユゴーは、フランソワ1世をモデルにして、劇作『王は愉しむ』を後世、書いた。さらにそれジュゼッペ・ヴェルディが『リゴレット』としてオペラ化した。『椿姫』と並ぶ、ヴェルディ中期の傑作である。

ストーリーは次のようなものである。
若くてハンサムなマントヴァ公(=フランソワ1世)が、美女と見れば見境なく誘惑し、相手の心の傷など何とも思わない。捨てられた乙女の父リゴレットが復讐しようとするが、娘は自分の命を捨ててまで公を愛し抜く。
そうとも知らず、公は、「風のなかの羽根のように/いつも変わる/女ごころ」とお気楽に歌っている。

ユゴーは王の女遊びを道徳的に許しがたかったらしい。ただ、このような自由なフランス宮廷スタイルは、いかにも、フランス人らしく、フランソワ1世の今に至る人気の高さも理解できよう。

クルーエの『フランソワ一世肖像』


クルーエ(1485/90頃~1541頃)が描いた『フランソワ一世肖像』を見てみよう。
これは30代の王の姿である。「狐の鼻」と言われた大きな鼻が特徴である。細面(ほそおもて)のノーブルな顔立ちだが、抜きん出た魅力は感じられないが、繊細な美しい手が官能的であると中野氏は評している。

内面性に乏しい肖像画だが、最新流行の豪奢な衣装はみごとに表現されており、フランソワ1世のファッションセンスの良さが証明されていると中野氏は注目している。
ヘンリー8世やカール5世に比べて着こなしも格段に粋だという。
中野氏は、このフランソワ1世の衣装について、詳細に解説している。
例えば、次のように記している。
「金糸で刺繍したサテンの上衣には、胸元にも袖にもたくさんのスラッシュ(切れ込み)が入っており、その楕円形の切り口からは中の白いリネンの下着をふんわり出して装飾にしている。このスラッシュは、もともとは傭兵たちが戦場で腕を動かしやすいようにと布に切れ目を入れたことから始まったと言われる(現在のような伸縮性のよい布は無かった)。それがこうして素晴らしく装飾へ転じたのだから面白い。
イタリアに憧れたフランソワ1世が、いつしかヨーロッパのファッションリーダーになったのがわかる。」(52頁)

中野氏自身、ファッションに対して、特に関心が強いためか、この本の中で、絵画に描かれたファッションに関する叙述は、詳細で冴えを感じさせる。
例えば、縦縞模様の衣服について、西洋文化における縞模様はふつう隷属や不名誉の印として、身分の低い従者などが身につけるとされたが、断続的に縦縞だけが、高貴な模様とみなされた。また手袋は、国王が授ける狩猟権や貨幣鋳造権の象徴とされており、片方の手袋をにぎった王の肖像画は多いと指摘している。

ルイ14世



ブルボン朝3代目ルイ14世(1638~1715)~太陽王として君臨した
 リゴー『ルイ14世肖像』ルーヴル美術館、リシュリュー翼3階
フランソワ1世から百年ほど経ち、7人の王が入れかわり、王朝もヴァロア家からブルボン家に代わり、ルイ14世にいたり、絶対王政は確立する。
若き日に太陽神アポロンに扮して踊ったところから、「太陽王」の異名をたてまつられた。「朕は国家なり」、国とは自分を指すのだと豪語したと伝えられる。ルイ14世の代でようやくフランス人はスペインを凌駕し、ヨーロッパ最強国になった。

リゴー(1659~1743)が描くルイ太陽王は、この時63歳である。ルイ14世の時代は男性ファッションが女性のそれを上回った時代で、鬘(かつら)とハイヒールの時代だったそうだ。儀式用マント(青ビロード地に百合の花を散らした表現、裏地は白テンの毛皮)をはおっているため、中の衣服に付けている宝石などまで見えないが、ただ豪華を誇示し、趣味が悪いと中野氏は評している。フランソワ1世の粋はもはやどこにもないという。

ヴェルサイユ宮殿の途方もない豪奢は、ルイ14世にして初めて可能だったようだ。ヴェルサイユはヨーロッパ宮殿の模範となり、各国の王侯貴族たちはルイ太陽王に憧れた。
それでもフランスはなおまだイタリアに憧れ続けた。ルイ14世が創設した国家芸術振興のための奨学金付き褒賞は「ローマ賞」と呼ばれ、受賞者はイタリアに留学できた。この賞は20世紀後半まで存続した(アメリカ人はフランスに憧れ、フランス人はイタリアに憧れ、イタリア人はギリシャに憧れた)。
(中野、2016年[2017年版]、41頁~56頁)

第②章 ロココの哀愁 ヴァトー『シテール島の巡礼』


ヴァトー『シテール島の巡礼』
1717年/129cm×194cm/シュリー翼3階展示室36

ヴァトーと印象派のモネ


印象派のモネは、ルーヴルで一作選ぶなら、ヴァトーの『シテール島の巡礼』だと言った。
画面を吹きわたる風、草花の香り、けぶるような靄、えも言われぬ色調は、まさにモネが追求しようとする世界のお手本である。繊細で震えるような筆致、早描きと薄塗りも、印象派を先取りしているといわれる。

ただし、150年という時の開きがあるので、ヴァトーと印象派の主題は違う。
印象派なら描くはずのない小さなアモル(=キューピッド)が描かれている。また、この絵にみられる典雅な宴や光満ちた美しい風景も、決して現実をそのまま写し取ったものではない。そして登場人物の動きは演劇的である。まさに夢の一場である。
そして心には哀愁の残香(のこりが)が沈潜し、曰く言いがたいその物悲しさ、華やぎに添う哀感こそが、ヴァトーの魅力の核であると、中野氏は理解している。

『シテール島の巡礼』について


この絵の舞台は、伝説の島シテール(キュテラ)である。それは、海の泡から生まれた美と愛欲の女神ヴィーナスが流れついて住まう、恋の島である。
(画面右端に、野薔薇を巻きついたヴィーナス半身像が立っている)

聖地詣でをした8組のカップルが、島で熱いひとときを過ごし、帰ってゆくところである。
当時、ヨーロッパの巡礼者は、肩にかけた短いゆったりしたケープだったそうだ(ペリーヌと呼ばれ、フランス語のペルラン[巡礼者]からきた)。それから長く太い杖を持っている。これは旅路で獣から身を守るにも役立った。画面右手前、草地に置かれたものは、必携の巡礼者手帳(巡礼の証明書)であるようだ。

画面右の3組は、恋の様相の3つの形が呈示されているといわれる。物語は右から左へ進行しており、恋の始まり、成就、幸せな結婚(犬は忠実のシンボル)をあらわす。恋は、言い寄る男とためらう女の駆け引きから始まり、愛の営みを終えて男は先に立ち上がり、余韻にひたる女はどこか名残り惜しげに後ろをふりかえっている。

船着場では、早くも2組のカップルが到着している。舟の漕ぎ手は神話から抜け出たような若者であり、上空ではアモルたちが飛びかい、ヴィーナスに願いを聞き届けてもらった恋人たちを祝福している。

ところで、ヴァトーが本作を描くにあってインスピレーションを受けたのは、1700年にパリで初演されたダンクール作『三人の従姉妹』だそうだ。
劇中、巡礼の身なりをした貴族・市民・農民といった各階層の男女が、シテール島への舟に乗り込むシーンが出てくるようだ。
(本画面中央あたりの各カップルが、服装から見て明らかに貴族でない理由はこの劇に由来すると中野氏はみている)

さて、『シテール島の巡礼』は絶讃され、32歳のヴァトーはアカデミー正式会員に選ばれた。同時に、フェート・ギャラント(fêtes galentes)というジャンルが画壇に確立される(ふつう「雅宴画」と訳される)。

自然の中での着飾った男女の恋の駆け引きがテーマにもかかわらず、ヴァトーは単なる風俗画から、芸術の高みへと引き上げた。これにより、フランス絵画はようやくイタリアやフランドルやスペインと肩を並べうる独自性を主張したと中野氏は解釈している。

なお本作完成、翌年、ヴァトーは画商からヴァージョン制作を依頼され、主役の3組は変わらないが、他は大幅に変更が加えられ、オリジナルに比べ、はるかに賑やかになった。このヴァージョンは、あのフランスかぶれのプロイセン大王フリードリヒ2世の手に渡り、ベルリンのシャルロッテンブルク城に展示されることになる。マリア・テレジアから「悪魔」「モンスター」と罵られ、歴史上強面のイメージのあるフリードリヒ2世だが、フランス語で会話し、ロココの美をこよなく愛し、ヴァトーを深く理解した。大王はヴァトー最後の傑作『ジェルサンの看板』までも購入している。

ロココ様式について


ヴァトーは、それまでの壮麗なバロック様式を一掃し、ロココの最初にして最大の画家である。ただし、生前のヴァトーが「ロココ」という言葉を知っていたわけではない。
ロココとは、貝殻や小石を多用したインテリア装飾ロカイユが語源である。繊細で優美な貴族趣味だったため、フランス革命後にダヴィッドら新古典派が台頭すると、ロココは享楽的女性的感覚的退廃的と全否定され、蔑称として使われた。ただし現在は、18世紀フランス文化の主流を指す美術用語となっている。

ロココ最盛期は、ルイ15世と寵姫(ちょうき)ポンパドゥール夫人の時代である。つまりヴァトーの死後である。ヴァトーの活動期は短くわずか20年足らずにすぎない。太陽王ルイ14世最晩年から、「摂政時代」(幼いルイ15世の代わりに、ルイ14世の甥オルレアン公が摂政政治を行なった時代)に相当する。
早くから胸を病んでいたヴァトーは、ロココを切り拓きながら、ロココの爛漫を見ずに、36歳の若さで亡くなる。肺結核が悪化し、長くは生きられないとの悲観が、この世の全てを非現実的に見せたということはありうるが、ヴァトーの鋭い感受性が夢の終わりを予見したのかもしれないと中野氏は推察している。

ヴァトーという画家


ヴァトーは謎めいている。「人に隠れて生きようとした」とヴァトーの死を看取った画商ジェルサンは言っている。ヴァトーは生涯を独身で通した。女性との艶聞はひとつもなく、
辛辣かつ鬱気味で慢性不眠症であったらしい。加えて金銭に無関心で、自画像も残さず、自らを語ることもなかった。

作品における高度な洗練と、いかにもフランス的な感覚から、ヴァトーは生粋のフランス人と思われがちだが、正確にはフランドル人である。生地のヴァランシエンヌは、彼が生まれる、つい6年前にフランス領になったばかりだった。
フランドルといえば、偉大なる画家を多数輩出した。例えば、ファン・エイク、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど。ヴァトーはこのことを意識していたようで、特にルーベンスを多く模写して学んだ。『シテール島の巡礼』における群像の配置の妙は、大先達の影響が見られる。

ヴァトーはフランドル人で、貧しい屋根葺き職人の息子であった。17歳でパリへ出て、人生を自分ひとりで切り拓かねばならなかったので、室内装飾家や舞台画家に弟子入りし、芝居の世界と深く関わった。

その後、『シテール島の巡礼』で晴れてアカデミー正会員に登録されるが、残された寿命はわずか4年しかなかった。貴族や富豪の雅な遊宴を手がけながら、ヴァトー本人が宮廷に出入りすることはなかった。ロココを引き継いだ派手なブーシェが、ポンパドゥール夫人のお気に入りとして、宮廷人になったのとは正反対である。ヴァトーは人気が出れば出るほど、画商ジェルサンがいみじくも語ったように、「人に隠れて生きようとした」。

ヴァトーは下層労働者階級出身のフランドル人であり、教育はなく、死病に冒されていた。また雅宴画の第一人者とはいっても、社会の上層部と直接交流はなかった。絵のモデルは役者なので、身分の世界はあくまで演劇上の雅にすぎなかった。

ヴァトーの『ピエロ』


ルーヴル美術館には、このようなことを物語るヴァトーの絵がある。それが『ピエロ』(旧称『ジル』)である。
画面の奥行きは浅く、戸外というより舞台が連想される。木々も空も書割であり、真正面に若いピエロがただ突っ立っている。切ない眼をしており、見る側の物悲しさは募る。服の白さはヴァトーの無垢のあらわれに思え、丸い帽子は聖なる光輪にさえ感じられる。身じろぎもしない姿勢は、ヴァトーの放心と悲哀に重なると中野氏はみている。人生は思うにまかせない。その嘆きが「悲しき道化」の姿に集約されるという。

この絵は、注文主もテーマも不明だそうだ(タイトルは後世の通称である)。
当時のパリは、コメディア・デラルテ(イタリア即興演劇)が人気を博しており、ピエロを演じた役者から、引退してカフェを開く際の看板画として依頼されたのではないかとの推測もあるようだ。ヴァトーの作品としては並外れて大きく、ピエロが等身大に描かれているのがその理由とされる。

しかし、中野氏は、この説に賛同しない。一度見たら忘れがたい、その悲しみの表情が看板画のイメージに一致しない。だから、実在の人物の肖像ではなく、ピエロに託したヴァトー自身の精神的自画像とする推測に同意している。ヴァトーにとって現世は生きにくく、このピエロのように身に合わない服を強制されるのに等しかったであろうからとする。

なお、ヴァトーの肖像画としては、死の数ヶ月前、イタリアの女性画家ロザルバ・カリエラが描いたものがある。
その『ヴァトー肖像画』(イタリアのトレヴィーゾ市立美術館蔵)を見ると、ヴァトーはまさに作品のイメージどおりの風貌だったと中野氏は述べている。
(中野、2016年[2017年版]、27頁~40頁)





第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』


ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』
1805~1807年/621cm×979cm/ドゥノン翼2階展示室75

中野京子氏の筆の冴え


最初から、この美術案内書では、饒舌で、リズム感あふれる“中野節”がさく裂し、読者が圧倒される。例えば、ナポレオンの人生について、次のようにまとめ上げてしまい、舌を巻く。

「実際、ドラマティックな人生であった。ありとあらゆる要素が彼の一生には詰まっていた。辺境の地で貧乏貴族の子に生まれ、容貌はぱっとせず背も低く、差別され、学業成績はふるわず、しかし天才的な軍事の才に恵まれ、連戦連勝、壮大な野望を抱き、皇帝となり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込み、恋人愛人数えきれず、権威付けのためハプスブルクのお姫さまを強引に妃にし、息子を得、やがて戦(いくさ)に負けはじめ、引きずり下ろされ、島流しとなり、まさかの復活を果たしてパリへ凱旋、人々を恐慌に陥れ、再度引きずり下ろされて、ついにセント=ヘレナ島で無念の死。」(13頁)

中野京子氏といえば、2007年に発表された『怖い絵』を端緒としたシリーズでよく知られた作家である。
私も、テレビ出演した中野氏を何度か拝見したことがあるが、作品解説を、立て板に水のように、雄弁に話しておられたのが印象的であった。それを文章化すると、こうなるのだろう。
そのベースには、ドイツ文学者としての素養と技量があるからであろう。あのツヴァイクの名著『マリー・アントワネット』を新たに翻訳されただけのことはある。
人の一生を簡潔に文章にまとめあげる技量は、文学者として、歴史上の人物と対峙し、表現化する努力の賜物であろう。その技量に感服する。

ところで、保坂健二朗氏(東京国立近代美術館主任研究員)の「解説」(243頁~249頁)によれば、「魅力的な作品解説」において大事なことは、ディスクリプション(作品叙述)であるという。
絵になにがどのように描かれているかについて見える範囲のことを中心に書くことである。どこを見せたいかを判断し、どのような順序で見れば=書けば効果的かを考えた上で、ちょっと主体的に叙述していくことが、「魅力的な作品解説」には求められているとする。保坂氏によれば、中野京子氏は、この「ディスクリプションがすこぶる上手い」と評している(245頁)。

画家ダヴィッドの諸作品


ナポレオンは「稀代の英雄」としてのイメージがある。幸いにして同時代には、傑出した才能を持つ画家ダヴィッドがいた。
ダヴィッド自身がナポレオンの英雄性に心酔していたため、肖像画を描くにあたって力を入れていた。
例えば、
・「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」1801年、マルメゾン宮国立美術館
 アルプス越えにおける馬上の勇姿
・「書斎のナポレオン」1812年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
 執務室で手を上着の胸元に入れてリラックスする様子
・「鷲の軍旗の授与」1810年、ルーヴル美術館
 鷲の軍旗授与におけるローマ皇帝を髣髴とさせる姿
 
※「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」が叙事詩的英雄としてのナポレオンを、一方、「書斎のナポレオン」が立法者としてのナポレオンを表す、一対の寓意画であるという捉え方がある。この2点の肖像画は外征と内政に携わる、武人と統治者としてのナポレオンの2つの顔を描き出しているとされる(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、185頁、229頁、233頁~234頁)。

このように、さまざまなシチュエーションでオーラを放つナポレオンを造型し、人々の眼を眩ませた。そうした絵画群のうちの最高峰として、『ナポレオンの戴冠式』を中野氏は位置づけている。

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』

『ナポレオンの戴冠式』について


ルーヴル美術館で誰もが絶対に見落とせない、三作品は、『モナ・リザ』、『ミロのヴィーナス』、そして『ナポレオンの戴冠式』といわれる。

何しろ大きい。縦6.2メートル、横9.8メートル、床に置いたら60平方メートルほどになる(日本の2DKアパート並み)。制作に3年かかったのも道理であろう。
完成作を見たナポレオンが、「画面の中に入ってゆけそうだ」と満足をあらわした。事実、最前列右の数人は身長2メートルほどの大きさで描かれているので、本物の人間が画面に入っても収まる。
ナポレオンはまたこうも言っている。「大きいものは美しい。多くの欠点を忘れさせてくれる」と。
(ただ、このサイズはルーヴルで2番目の大きさである。1番大きな絵は、6.8×9.9メートルのヴェロネーゼ『カナの婚礼』である。ナポレオンがヴェネチアを征服した際、修道院の壁からはがしてフランスへ持ち出した)

さて、このダヴィッドの作品は、まことにプロパガンダ絵画のお手本である。ヒーローとヒロインであるナポレオンとジョゼフィーヌは、魅力たっぷり描かれ、人々の視線を一身に浴びている。150人とも言われるおおぜいの登場人物も、ひとりひとりかなり克明に描き分けられている。荘厳で記念碑的なこの大作は、冷ややかで破綻がない。

1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂において、35歳の若きナポレオンは絢爛豪華な戴冠式を挙行する。
歴代フランス王は、9世紀のルイ1世から25代にわたり、パリの北東に位置する町ランスにあるノートルダム大聖堂で戴冠式を行なってきた。ナポレオンはブルボン家の後継者とみなされるのを嫌い、「王」ではなく「フランス人民の皇帝」を名乗った。したがって、ランスでの戴冠式など論外である。

14年前のローマ皇帝カール大帝(シャルルマーニュ)に倣い、古式にのっとった宗教儀式を行なうことにした。つまりランス司教ではなく、ローマ教皇による戴冠式である。
(ちなみにフランス語のNotre-Dameは英語のOur Ladyにあたる。「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを意味する。したがって、ノートルダム(聖母マリア教会)という名のカトリック教会はフランス語圏各地にある)。

ところで、カール大帝でさえ、自分のほうからヴァチカンに赴いたのに、ナポレオンは教皇をパリへ呼びかけた。呼びつけて戴冠式に列席サンドさせ、三度の塗油の儀だけさせると、教皇が祭壇上の帝冠に手を伸ばすより早くそれを奪い取り、自分で自分に戴冠してしまう。次いで、妃ジョゼフィーヌに、自らの手で冠を与えた(かぶせる動作のみ)。
「ヨーロッパの覇者」としてナポレオンがローマ教皇より上位にあることを内外に見せつけたことになる。教皇ピウス7世の恥辱は尋常ではなかったであろうし、式に参加した各国代表なども一様に驚いた(仇敵イギリスには、おちびのナポレオンが両手で自分の頭に冠をのせようとする諷刺画が出回った)。

『ナポレオンの戴冠式』の構図


さて、ダヴィッドは新古典派の大御所にして宮廷首席画家であるから、ユーモアなど無い。彼は英雄礼讃のための盛大なる美化を厭わなかったし、皇帝の威光を損なうものは排除した。ただ、やはりナポレオン自らによる戴冠が問題になってくる。ダヴィッドも一度はその構図で下絵を描いてみた。しかし、そうした異例を後世に残すのを、疑問と感じ、ローマ・カトリックへのあからさまな反逆を絵画化するのを危険と思ったようだ。
こうしてナポレオンが誰によって戴冠したかは曖昧なまま、皇帝による皇妃戴冠の構図が決定された。

『ナポレオンの戴冠式』の登場人物


絵の中の登場人物について解説している。
・ナポレオンは月桂冠を被り、端正な横顔を見せ、まさに古代ローマ皇帝の表情をしている。身長も数十センチは嵩上げされている。鷲の模様をちらした真紅のマント、裏が白テンの毛皮なのは、ブルボン家の大礼服用マントに似せたようだ。

・その前に跪く年上の愛妻ジョゼフィーヌは、この時41歳だった。8年前に、未亡人としてナポレオンと出会い、エキゾティックな美貌で彼を虜にして、今やフランス皇妃である。

・ナポレオンのすぐ後に、62歳のピウス7世が浮かぬ顔をして、右手の指で祝福のポーズをしている。しかし、教皇はこれ以前からナポレオンと対立しており、この所作ダヴィッドの創作である。

・もうひとつの創作は、本当はここに居なかったナポレオンの母を、描いていることである。正面2階の貴賓席で微笑んでいるが、母は息子が皇帝になるのに大反対で、戴冠式には出席しなかった(捏造写真の先取りと中野氏は記す)。

・ダヴィッド本人は、ナポレオンの母の席のすぐ上階、斜め左に描かれている。ひとりスケッチ帳を構え、式次第をスケッチ中である。

・右手前に居並ぶ男たちは、いずれもナポレオンの側近たちだが、中でも右端で真っ赤なマントを着て目立つのが、タレーランである。鼻先がツンと上向いた特徴的な横顔である。
(タレーランのこの鼻は、隠し子と言われるドラクロワに受け継がれたそうだ)

・タレーランはナポレオンの信頼あつく、外務大臣と侍従長を兼ねたほどなのに、本作完成後まもなくナポレオンを見限って失脚に追い込んだ。ナポレオン追放後も、フランス政治の中枢に居続け、40年にわたり国の舵取りを行なった。『ナポレオンの戴冠式』における真の勝者は、このタレーランかもしれないと中野氏はみている。うっすらした笑みがいかにも意味ありげである。
(中野、2016年[2017年版]、13頁~26頁)


≪【補足 その1】フランスの歴史~木村尚三郎『パリ』より≫

2023-08-30 19:00:10 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪【補足 その1】フランスの歴史~木村尚三郎『パリ』より≫
(2023年8月30日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史におけるフランスの歴史について、補足しておきたい。
次の著作により、補足説明しておく。
〇浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]
〇木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]
〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年

 パリの中心、シテ島に建つノートル・ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の尖塔が焼失するニュース映像が、2019年4月15日に報道されているのを見て、“フランスの魂”が崩れ落ちるかのように感じた。
 パリのノートル・ダム大聖堂がいかにフランス人の精神的支柱であったことか。
 ノートル・ダムとは、フランス語で「我らが貴婦人」つまり聖母マリアを指す。
 かのヴィクトル・ユゴーは、『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831年)で、架空の人物カジモドという鐘つき男を主人公に、15世紀のノートル・ダム大聖堂を舞台にして、愛情と嫉妬が渦巻く衝撃的な小説を書いた。そして、これを原作に、『ノートルダムの鐘』としてアレンジされ、映画やミュージカルで有名な作品となった。
 また、来年2024年には、パリ・オリンピックが開催され、再びパリが注目されている。
 いま一度、パリの歴史をフランスの歴史の中で振り返ってみることは有意義かと思う。
 その際に、〇木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)は格好の著作であろう。受験とは直接的には関係ないかもしれないが、興味のある人は読んでみてはどうだろうか。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フランス革命以降の歴史の捉え方~浜林正夫『世界史再入門』より
・ジャンヌ・ダルク~木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』より
・フランス史の一つの見方~木村尚三郎氏のエッセイ「パリは三度光る」より
・フランス革命の補足~木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]

<木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』>からのエッセイ
〇ルテティア
〇ノートル・ダーム大聖堂
〇フランス・ルネサンス
〇フランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世
〇コンコルド広場
〇ルソーとパリ
〇ルソーと子ども受難時代
〇マリー・アントワネットとパン
〇コンシエルジュリーとマリー・アントワネットとロラン夫人
〇フランス革命の標語「フラテルニテ」
〇「自由の木」
〇レカミエ夫人とダヴィッドとジェラール
〇セーヌ県知事オスマン
〇ラ・デファンスに関連して
〇「門」の思想

※執筆項目のタイトルは、もとの著作の見出しとは異なる。内容にそったタイトルを筆者がつけたものである。







フランス革命以降の歴史の捉え方~浜林正夫『世界史再入門』より


浜林正夫『世界史再入門』(講談社学術文庫、2008年[2012年版])から、フランス史について、補足しておく。

第5章近代世界の成立 【フランス革命】


【フランス革命】
フランスはカトリックの国であるにもかかわらず、オーストリアのハプスブルク家に対抗するため、三十年戦争のときにはプロテスタントの側を支援し、アルザス地方に領土をひろげ、またスペインのハプスブルク家のカルロス2世が1700年に死去したあと、ルイ14世の孫をスペインの王位につけて勢力を拡大した。(中略)

ついにルイ16世は貴族の免税特権に手をつけようとしたが、貴族たちはこれに抵抗し、1615年以来ひらかれていなかった三部会の召集を要求した。1789年5月、174年ぶりに三部会がひらかれたが、第三身分(平民)の代表は身分制にもとづく三部会を国民議会に変え、憲法を制定するよう要求し、7月に憲法制定議会が成立した。しかし国王は武力によってこの議会を解散させようとくわだてていたので、7月14日、パリの民衆はバスチーユの牢獄をおそって武器を奪い、農民もまた各地で蜂起したので、議会は8月4日封建的特権の廃止を決議し、8月26日「人間および市民の権利の宣言」を採択した。
国王はこれらの決議や宣言をみとめようとしなかったので、パリの民衆はふたたび蜂起し、10月5日から6日にかけて女性が中心となってヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王をパリへつれもどし、1791年フランス最初の憲法を制定した。この憲法は立憲君主制をさだめたものであったが、選挙権は一定額以上の国税を納めるものに限られていた。これにたいして国王は王妃マリー・アントワネットの実家であるオーストリアの援助をもとめようとして国外逃亡をはかったがとらえられ、こういう国王の裏切りに怒った革命派のなかでは穏健派のフイヤン派に代わって急進派のジロンド派が主導権を握るようになり、92年、オーストリア・プロイセン連合軍との戦争がはじまった。
一方、国内では王権は停止され、1792年9月、憲法制定会議のあとをついだ立法議会も解散されて、普通選挙による国民公会が成立し、君主制を廃止して共和制の樹立を宣言し、翌年1月、国王は処刑された。このころ、イギリス軍も革命干渉戦争に加わり、国内では食料危機などのため民衆蜂起がつづいて、ジロンド派は権力を維持することができず、これに代わって民衆蜂起に助けられてジャコバン派が権力を握った。ジャコバン派は1793年憲法を制定し、封建的特権の無償廃止、物価統制、買い占め禁止などの政策を強行し、これに反対する人びとをつぎつぎと処刑する独裁的な恐怖政治をおこなったため、ますます支持を失い、94年7月、その中心人物ロベスピエールらはとらえられて処刑された。
ここでフランス革命の進展はとまり、反動化がはじまる。革命をさらにすすめ、私有財産制を廃止しようとするバブーフの陰謀はおさえられ、もともと革命派の軍人であったナポレオンがクーデタによって1799年統領の位につき、つづいて1804年皇帝となって共和制は終わりを告げた。ナポレオンはオランダ、スペイン、イタリア、プロイセン、オーストリアを征服し、ヨーロッパ各国へ革命を「輸出」したが、ロシア遠征に失敗し、1813年、プロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れ、エルバ島へ流され、いったんこれを脱出したものの、1815年、ワーテルローの戦いでウェリントンのひきいるイギリス軍にうちまかされて、セント・ヘレナ島へ流され、そこで世を去った。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、156頁~159頁)

〇第5章「近代世界の成立」12「世界史における近代」


12「世界史における近代」(172頁~175頁)
・一国の歴史でも世界史全体についても、これを古代、中世、近代というように、時代区分をするのがふつうである。
 しかし、この時代区分は西ヨーロッパ諸国についてはわかりやすいが、それ以外の地域にこれをあてはめようとすると、難しい問題がでてくる。
 たとえば、日本の場合、中世というのはいつからいつまでであろうか。
 徳川時代というのは中世だろうか、近代だろうか。
 中国やインドの場合には、どう区分すれがよいのか。

・じつは、古代、中世、近代という三区分がいわれるようになったのは、ルネサンス期以降のヨーロッパ人の発想によるものであった。
 ルネサンス期のヨーロッパ人は当時の社会やその思想を批判するために、キリスト教以前の社会を理想化し、その理念の再生をはかったのである。
 そのために古代と現代とのあいだの時期を中間の時代(ミドル・エージ)とよび、これを暗黒時代とみたのであった。
 したがって、古代、中世、近代という時代区分は西ヨーロッパ人の歴史観にもとづくものであると著者は主張している。
 それ以外の地域にこの三区分を適用しようとすると、どうしても無理が生ずるというのは、当然のことであるという。

・ただ、ルネサンスの時代にこういう歴史観が生まれたのは、偶然ではなく、それなりの根拠があった。
 それは封建社会が危機におちいり、新しい人間と社会のあり方がもとめられていたということであった。彼らの歴史観の土台には、それなりの社会的な変化があった。
 ルネサンスからなお数百年かかって、イギリスとフランスで革命がおこり、ここでようやく新しい社会が成立する。それは、市民社会とよばれる社会であった。

・市民社会の市民というのは、もともと都市の住民という意味であるが、市民社会というのは都市だけをさすのではなく、教会の支配にたいして世俗的な社会という意味である。
 領主・騎士の軍事支配にたいしては文民という意味であって、市民社会の政治的側面は民主主義であった。
 民主主義を思想的に準備したのは、17、8世紀のイギリスやフランスにあらわれた自然法思想であった。
 イギリスではトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』(1651年)で生存権を自然権とし、国家は生存権を保障するための契約によってつくられるという社会契約説をとなえた。
 ジョン・ロックは『統治二論』(1690年)で生命・自由・財産を自然権として人民主権論を主張した。
 フランスでは、モンテスキューが『法の精神』(1748年)で三権分立をとなえ、ルソーが『社会契約論』(1762年)で人民主権論を徹底した。
 またディドロらは全28巻の『百科全書』を編集し、絶対王政をはげしく攻撃した。
〇こういう思想を背景として、基本的人権と国民主権という民主主義の原理を確立したのが、アメリカの独立宣言(1776年)とフランス革命の人権宣言(1789年)であった。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、172頁~175頁)

〇第7章「現代の世界」13「世界史をふりかえって」


13「世界史をふりかえって」(269頁~276頁)
 世界史をふりかえって、何が見えてくるのか。
 この点について、著者は次のように考えている。

 世界史には、さまざまな社会、国の興亡があった。歴史のドラマをつくりだした英雄たちの活躍に目をひかれがちだが、生活を支えてきたのは黙々と働きつづけていた民衆であった。
戦争のときでも革命の最中でも、誰かが労働と生産をつづけていた。
 そうした労働と生産のあり方に関心をむけることが、もっとも基本である。
 労働と生産をつづけるにあたって、人間はひとりで働くのではなく、ほかの人びとと協力して働く。そこに人と人との関係ができあがる。これが社会である。
⇒人びとが生産をつづけるにあたって、どういう社会をつくったのか。
 そして生産の発展にともなって社会はどのように変化してきたのか。
 これが世界史の主要なテーマであると、著者は考えている。

・労働と生産をすすめるにあたって、人びとはまず血縁的なつながりによる共同体を構成する。
 この共同体は血縁からしだいに地縁的な関係にうつる。そして生産力のいっそうの発展によって、共同体的な関係がくずれる。
個人(あるいは小家族)を基礎単位とする連合体的関係へと変化していく。
生産力の発展がこのような社会関係の変化をつくりだす。逆に社会関係のあり方が生産力の発展あるいは停滞を生みだす。
※世界史の基調にあるのは、このような社会のあり方とその変化であって、この基調のうえに多様な文化が成立する。

・共同体の内部からは私有制のいっそうの展開にともなって、たえず豪族層があらわれてくる。
 古代国家は、「公地公民」制により、あるいは官僚制によって、こういう豪族層をおさえ(あるいは、とりこみ)、共同体国家を維持しようとする。
 それに成功したところでは、私有制の発展もおさえられ、生産力の発展も停滞する。

※古代国家や古代帝国が成立しなかったところでは、豪族層は封建領主に成長する。
 そのなかの最有力者が国王となって、封建国家が形成される。
 これらの地域では、一般的にいって奴隷制段階は経由されず、氏族共同体の解体から豪族の領主化にともなって、農奴が生まれる。さらに農奴の自営農民化によって、領主制そのものも危機におちいる。
 この危機は絶対王政の成立によって、いったん克服される。 
 だが、やがて市民革命によって、絶対王政は打倒される。
 資本主義社会が誕生し、私有制が完成されるとともに、生産力の未曾有の発展をもたらす。
 近代以降、西ヨーロッパ諸国が世界を支配することができたのは、このような生産力の発展のためであったと、著者は主張している。

※市民革命は、またフランス革命の人権宣言に典型的にみられるように、生存、自由、平等というような新しい価値理念を表明した。
 これらの理念は、奴隷の蜂起や農民一揆や、あるいは哲学者や神学者などによって、さまざまな形で、地域や時代に表明される。
 だが、それが体系的にまとめられ、かつ社会変革のイデオロギーとして力を発揮したのは、西ヨーロッパ諸国(とくにイギリスとフランス)の市民革命においてであった。

・近代西ヨーロッパが、この理念を十分に実現することができなかったのは、双生児として生まれた民主主義と資本主義との表裏一体の関係が間もなくくずれはじめたためである。
 封建制が倒され、資本主義という新しい社会ができあがると、賃金労働者の搾取のうえになりたっている資本主義的な生産力の発展にとっては、労働者の生存権や自由、平等の主張は、かえって邪魔物になってくるからである。
 こうして生存、自由、平等という価値理念を真に実現していくためには、資本主義社会をのりこえなければならないと考えるところから、社会主義の主張が生まれ、生産力もまた資本主義的な私有制の枠から解放される方が、いっそう発展すると主張された。
 
【著者の人類史に対する考え方】
・人類史の長い道のりは、一面では生産力の発展の過程であるとともに、もう一面では、生存と自由と平等をもとめる努力のつみかさねであったと、まとめている。

 このことを象徴的にしめしているのは、君主制の衰退ということである。
 かつては、アメリカやスイスのように、建国当初から共和制であった国を除いて、世界のほとんどすべての国が世襲制の君主によって支配されていた。
 人間は平等であるというよりは、人間はほんらい不平等であり、支配に適した人と服従に適した人とがいるというのが、むしろ常識であった。
 しかし、まず君主の権限をおさえることからはじまり、やがて君主制そのものを否定する動きがひろがる。現在、君主制の国は、世界中の国の2割弱という圧倒的少数派となった。
 長いスパンでみれば、生存と自由と平等をもとめる人類の歩みは、おしととめることのできない前進をつづけている。これらの理念を普遍的とよびうる根拠もここにある。

・さらに、人類はいま地球規模での環境破壊や資源浪費などという問題に直面している。
 しかし環境破壊の問題を人間と自然とのかかわり一般の問題に解消してしまうのは誤りであるという。
 それでは問題解決の展望はみえてこない。
 問題はむしろ、資本主義のもとでの大資本の利潤追求と、これまでの社会主義の国ぐにの無秩序な生産第一主義にあったのである。環境保護のために生産力の発展そのものをおさえようとするのは、正しくないのみでなく、不可能であると、著者はいう。

 生産力の発展はほんらい人類にとって望ましいものであり、生産手段の私有制のもとでは、たしかにマルクスがいったように、生産力は「人びとにたいしてよそよそしい姿」をとるのだけれども、生産力をおさえるのではなく、生産力の発展をどのようにして人類共通の利益に合致させることができるのか、ということこそが、今日の課題であるとする。

※世界史はこのような歩みをへて、いまこのような問題状況にあるという。
 これをどう打開していくのかが、いま問われている。
(浜林正夫『世界史再入門』講談社学術文庫、2008年[2012年版]、269頁~276頁)

ジャンヌ・ダルク~木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』より


なお、ヨーロッパのフランス史について、木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』(文芸春秋、1998年)により、補足説明しておく。

 フランス史の碩学である木村尚三郎先生のエッセイ集である。ジャンヌ・ダルクとナポレオンとの関連を指摘し、フランス史の一つの見方を提示しているので、紹介しておこう。

〇「サン・トノレを攻撃したジャンヌ・ダルク」(236頁~241頁)
いま高級服飾店が立ち並ぶフォーブール・サン・トノレ通りも、その始点であるロワイヤル通り(観光客の誰もが通る、マドレーヌ寺院とコンコルド広場を結ぶ道である)に、堅固なサン・トノレ第3城門があったからである(1733年取り壊し)。城門の内側がパリ市内のサン・トノレ通り、城外がフォーブール・サン・トノレであった。
 サン・トノレ通りは、パリ中央市場の創設に従って出来た、パリを東西に結ぶ重要な道であり、市場に近いためにさまざまな業種の商人が店を連ねていた。(中略)
 パリ経済の心臓部とあって、サン・トノレ通りは厳重に三つの城門で固められていた。第1門は145番地、オラトワール通りと交差するところ、第2門は161番地のロアン通りとの交差点、そして第3門はロワイヤル通りとぶつかるところであった。
第1門はフィリップ・オーギュストの城壁門として1190年に作られ、1545年から48年に取り壊されている。この第1門は、サン・タントワーヌ門、サン・ドニ門、サン・ジャック門と並んで、パリ四大門の一つであった。
 サン・トノレ第2門は、1380年に国王シャルル5世の城壁門として作られたものである。ときは百年戦争の時代であり、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクもこの第2門を攻撃している。「イギリス軍に占領されているパリを奪い返す」ためであった。1866年の検証によれば、ジャンヌ側の大砲による、直径8センチと17センチの、二つの石の弾丸跡が、城門に残っていたという。
 城門の周りには 5.5メートルの深さがある空濠(からぼり)と、より城壁沿いのもっと深い水濠とがあった。その水濠の深さを槍で計ろうとしたとき、ジャンヌは城壁上から射かけられた矢に腿をやられ、ジャンヌの軍勢は退却している。ジャンヌ刑死(1431年)の後1433年10月8日、ジャンヌが味方した、国王シャルル7世をいただくアルマニャック勢は再度このサン・トノレ第2門を攻撃しているが、同じく失敗に終っている。
 ジャンヌ・ダルクはサン・トノレ第2門攻撃の前夜から当日の朝にかけ、前線基地であったパリ北方の「ラ・シャペル村」で、サン・ドニ・ド・ラ・シャペル教会(現在パリ18区、ラ・シャペル通り16番地)に、夜通し祈りを捧げている。負傷して同地に帰ってからも、彼女は同教会に祈りを捧げていた。
 そのときの模様を、恐らくパリの聖職者が書いた同時代の貴重な史料、『パリ一市民の日記』は、非難の思いをこめてつぎのように記している。
 
 (ジャンヌは)何べんも、完全に武装したまま、教会(サン・ドニ・ド・ラ・シャペル)の祭壇から聖なる秘蹟を受けた。男装をし、髪を丸く刈り、穴のあいた頭巾、胴着、沢山の金具つきの紐で結わえつけられた真紅の股引きといった恰好で、である。この物笑いの服装について、何人もの立派な貴紳や貴婦人が彼女を非難した。そして彼女に対し、このような恰好の女性が秘蹟を受けるのは、主を尊ばぬことになると告げた……。

 ジャンヌに対し、パリ市民は不快感、嫌悪感、敵意といったものを抱いていた。彼女が15世紀初め突如として歴史に登場したとき、パリないし北フランスは、イギリスと同盟関係にあった。したがってジャンヌを悪魔女、乱暴女として恐れおののいた。彼女が北のコンピエーニュで捕まって宗教裁判にかけられたとき、パリ大学神学部も彼女を激しく糾弾し、彼女を刑死にいたらしめている。当時のパリは終始、アンティ・ジャンヌ・ダルクであった。
 にもかかわらず今日、ピラミッド広場をはじめとして、パリ市内合計4カ所にジャンヌ・ダルク像が立っているのは、なぜであろうか。それは400年近くも経って、ナポレオンが現われたからである。
 彼は1804年、フランス史上はじめて、「皇帝」という位につこうとするとき、前年に「モニトゥール」紙に根回しをした。まったくといっていいほど無名だったジャンヌ・ダルクを歴史から拾い出し、栄光の座につけ、自分をジャンヌになぞらえながら、ともに新興ナショナリズムのヒーロー、ヒロインとして、祀(まつ)り上げたのであった。ピラミッド広場のジャンヌ像も、1874年フレミエの作である。
 18世紀一杯までは、彼女に救われたオルレアンとか彼女の生地ドンレミ村など、ほんの一部を除いては、フランス人の誰もが、ジャンヌ・ダルクの名を知らなかった。フランス各地の広場や教会に沢山見られる「愛国の乙女」ジャンヌ像は、原則として、19世紀のものである。
 19世紀近代のナショナリズムが作り出した「神話」のジャンヌ像とは違って、ジャンヌ個人はきわめて信心深く、頭もいいが、文字はAもBも知らなかったのが、実像であった。彼女は
、問題の1429年9月8日、午前8時ごろ「ラ・シャペル村」を出発し、「モンソー村」を通って、サン・トノレ門を攻撃している。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、236頁~240頁)

フランス史の一つの見方~木村尚三郎氏のエッセイ「パリは三度光る」より


木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』では、フランス史の一つの見方を提示している。
すなわち、「4 十九世紀の輝き――近代のパリ」の「パリは三度光る」において、木村尚三郎氏は、フランスの歴史について、次のようにまとめている。

(前略)
ところがパリは、これまでに二度光っている。そして1989年のフランス革命200年祭をきっかけに、三度目の光を放ち出している。一度目は、シテ島のサント・シャペルに代表される12・13世紀の輝き、二度目はこれから述べる、19世紀後半・20世紀初頭の輝きである。エッフェル塔がこの時代を象徴している。あるいはつぎのように、パリはこれまで4代の先祖によって担われ、いま5代目が光りつつある、といったほうが正しいのかも知れない。
 1代目は、古代ケルト人がシテ島に住みついた前4、3世紀から、古代ローマ人、フランク王国が支配した10世紀までの原初時代である。それは今日のパリに生きているというより、痕跡として意識の奥深くに横たわっているといったほうがいい。
 2代目は男として光った、10世紀末から14世紀初にかけての、カペー王朝の時代である。農業上の技術革新にもとづく、豊かな「成功した時代」であり、現代パリの、原風景が形づくられたときであった(前章)。
 3代目は中世末から19世紀前半にいたる、長い「成功しない時代」である(第2章)。
ジャンヌ・ダルクの出現した百年戦争のころ(14、15世紀)から、16世紀のフランス・ルネサンス期、ルイ14世に代表される17・18世紀の絶対王政とサロン文化の時代、そしてフランス革命期は、みなこのなかに入る。技術が成熟してよりよい生き方を求め、人びとが、飲み、食べ、踊り、祭りし、旅し、文化に熱中し、そして大革命という、民衆の血ぬられた祭りまでも敢えてやったときである。コミュニケーション・交通・会合が発達し、さかんとなった、いわば女性的感覚によって、美しく装われた時代であった。
 第4代は、19世紀後半の産業革命とともに始まり、20世紀初頭の「ベル・エポック」(良き時代)に、文字通り最高の輝きを見せる。第2代とともに、「男が光ったとき」であるが、光り方が違う。
 第2代、つまり中世パリの光は、現代人に多少なりともの違和感があり、考え、勉強し、少し身構えながら味わう光である。これに対し第4代の近代パリの光は、理屈抜きで親近感を覚え、誰にも予備知識なしに受け入れうる光である。万人にすぐ分り、日常感覚にとりこみうる光、すなわち現代パリの直接の出発点が、第4代の19世紀パリである。
 エッフェル塔が、それを象徴している。最近はライトアップされ、文字通り夜目にも美しく光り輝くようになった。いまから1世紀前、フランス革命100年を記念して、1889年5月6日パリに開催された、万国博覧会のために建設されたものである。設計者は、当時57歳のアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルであった。(下略)
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、249頁~251頁)

フランス革命の補足~木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]


ナポレオンとジャンヌ・ダルク


「第六章 近代の神話」の「ナポレオンによる国民的英雄化」より
〇ジャンヌ・ダルクに関するおびただしい数の研究書・文献が出現し、同時に愛国の乙女、国民的英雄、フランスの守護神としてのイメージが形づくられ、定着したのは、19世紀になってからのことである。
 これにはじめて火をつけたのは、ほかならぬナポレオンであった。
 彼は、オルレアン市民が1792年に破壊されたジャンヌ・ダルク像を再建しようとしていることを知って、これに賛意をあらわし、同時にジャンヌ・ダルク祭の復活を祝して、1803年『モニトゥール』紙(1789年11月24日創刊)につぎの一文を寄せた。
 フランスの国家的独立を危うくされるとき、偉大なる英雄が救いをもたらすのは、けっして奇蹟ではない。かの著名なジャンヌ・ダルクはこのことを証明した。一致団結するかぎり、フランス国民はかつて敗れたことはなかった。しかし隣国のものどもは、われらが特性である素直さや誠実さにつけこみ、われわれの間につねに不和の種をまきちらす。そこから英雄ジャンヌが生きた時代の禍いや、歴史にのこるすべての災難が生まれたのである。

 すなわち、ナポレオンは、ジャンヌ・ダルクを介してみずからがフランスの英雄であることの正統化をおこない、翌年における皇帝登位のための一布石としたのであった。
 そして、この一文こそは、ジャンヌについてフランス国家の側から公にされた最初の讃辞であった。
 こんにちのジャンヌ・ダルク像は、19世紀フランスに復活したもの、否もっと正確には、当時の国民主義的風潮、英雄崇拝の時流に乗って、新たに創造されたものであった。19世紀は、市民的国民国家が頂点をきわめた時代であった。
 ジャンヌが生きた14、15世紀の時代は、このフランス国民国家が形成への第一歩、したがって、また新たな対内的、対外的な緊張と対立の第一歩を大きく踏み出したときであった。近代国民国家の体現者ナポレオンによって、ドンレミ村の一少女が新たな生命を賦与されたのは、彼女の歴史的宿命だったといえるかもしれない。
(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、355頁~357頁)

フランス革命について


「第二章 ヨーロッパの原像」の「農民の防衛的戦闘性」において、木村尚三郎氏は次のように述べている。

 革命のはじまる前年、フランスはたいへんな凶作であった。そのため翌年の春からは深刻な穀物不足、穀物価格の高騰、そして飢餓がおとずれ、全国の農村は、強盗団が穀物を奪いにくるのではないかとの思いから「大恐怖」とよばれるパニック状態におちいった。こうしてすべての農村がいっせいに武装をはじめ、穀物をとられることの恐怖にかられて領主への年貢支払いを拒否したばかりでなく、領主館まで襲って年貢のもとである証拠文書を焼きすてたのである。凶作が全国の農民にひとしく自衛、土地防衛の行動を起こさせ、結果として領主権を攻撃せしめたことこそ、フランス革命を準備し、そして成功させた最大の原因であったといえよう。
 この点でE・H・カーが引用している、19世紀イギリスの歴史家カーライルの『フランス革命』におけるつぎのことばは、一見古めかしいが見事にことの本質をついている。

「2500万人の人々を重たく締めつけていた飢え、寒さ、当然の苦しみ。これこそが――哲学好きの弁護士や豊かな商店主や田舎貴族などの傷つけられた虚栄心とかチグハグな哲学とかではなく――フランス革命の原動力であった。どこの国のどんな革命でも同じことであろう」
(E・H・カー、清水幾太郎訳『歴史とは何か』岩波新書)。

(木村尚三郎『西欧文明の原像』講談社学術文庫、1988年[1996年版]、186頁)

<木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』>からのエッセイ


ルテティア


「古代ローマいらいの道、サン・ジャック通り」(225頁~229頁)より

 古代ローマ人が紀元前1世紀半ばにやってくるまで、パリにいた先住民族は、前3、4世紀ごろからシテ島に住んだケルト族の一派、パリシイ(Parisii)とラテン語で表記された人たちである。ここから、パリという都市名がのちに生じる。
 フランスの都市名には、このようにケルトの部族名に起源を持つものが少なくない。たとえば、大聖堂のステンドグラスで有名なシャルトル(パリ西南88キロ。パリを訪れたら、ヴェルサイユとともにぜひ同市をも訪ねたい)は、カルヌテス族(Carnutes)、リヨンはルグドネンシス族(Lugdnensis)、リモージュはレモヴィケス族(Lemovices)という名からそれぞれ発している。
 ケルト人自身はパリをルテティアと呼んでいた。前52年ローマ軍がシテ島からケルト人を追い払ったあとも、ローマ人によるガリア(今日のフランス・ドイツ)支配の時代(ガロ・ローマ時代)には、パリは同じくルテティアと呼ばれていた。いま、ルテティアとかリュテースという名の宿屋とか酒場がフランスにあったとすれば、みな申し合わせたように場末の、うらぶれた存在である。その点、サン・ジャック通りの今日と、奇妙に意味合いが符合している。(中略)
 ルテティアとはケルト語で、「水の中の住い」という意味だという。つまりは「中之島」である。確かにシテ島は、セーヌ川に浮かぶ船の形をしている。後ろにサン・ルイ島を従えて、西へ、川上へと、舳先を向けている。先述の「たゆたえども沈まず」というパリの標語と、帆かけ舟のパリの標識は、現実の情景にピタリ一致している。
 ケルト人の住みついたシテ島が、パリの原点、心臓部だとすれば、古代ローマ人の住んだ川南のサント・ジュヌヴィエーヴ山一帯は、カルチエ・ラタンとしてパリの頭脳・知性を形づくる。ローマ人はローマでも、カピトリヌス(カンピドリオ)、パラティヌス(パラティノ)をはじめ「七つの丘」にまず定住した。丘陵地帯が好きだったのである。
 いまその遺跡を、サン・ミシェルとサン・ジェルマン二本の並木大通りが交差するあたりにある、共同浴場跡(紀元200年ころ)に見ることができる。セーヌ川沿いにあるサン・ミシェル駅から並木通りの坂を上っていけば、いやでも左側に目に入る。これに隣接するクリュニー美術館は、中世美術の宝庫であり、ぜひ訪ねたい。クリュニー修道院長館として建てられたものであり、先述のサンス館、マレー地区のジャック・クール館と並んで、15世紀の品良く美しい建物である。
 クリュニー美術館には、第11室にある評判の「貴婦人と一角獣」のタピスリーなどのほかに、第10室と第11室のあいだの「ローマの大部屋」に注目したい。そこにはユピテル神に捧げられた、石柱の一部がある。
それはなんと、ノートル・ダーム大聖堂内陣下から、1711年に発掘されたものである。時代は第2代ローマ皇帝の、ティベリウス帝(在位14~37)のときで、奉献したのはやはりセーヌ川の舟乗りたちであった。そこから私たちは、セーヌ川がすでにローマ(ガロ・ローマ)時代から交通・運輸の動脈であり、舟乗りたちが大きな経済力を持っていたこと、そしてキリスト教文化が文字通りローマ文化の上に成り立っていることを知ることができる。パリの国際性・普遍性も、もともとはここにローマ文化があったからである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、225頁~229頁)

ノートル・ダーム大聖堂


 「3 パリの原風景――中世のパリ」の「仰ぎ見るノートル・ダーム」(187頁~191頁)

 パリのノートル・ダーム大聖堂は、名実ともにパリの中心である。
 パリをはじめて訪れた人は、まずここに駆けつけ、その端正な姿を飽かず眺め、同時に、セーヌ川を往き来する観光船(バトー・ムーシュ)との取り合わせで、何枚かの写真を撮る。これじゃ絵葉書と同じだなと内心思いながら、しかしカメラを向けさせないではおかない魅力が、ノートル・ダーム大聖堂にはある。
 大聖堂は、セーヌに浮かぶ中之島のシテ島に、スックと立ち上る。そしてパリが政治・行政上、あるいは文化的・経済的な中心であるばかりではなく、精神的にもフランスの中心であることを、堂々と示している。フランスもパリも、歴史上激情のほとばしりを何度も経験したが、ノートル・ダーム大聖堂はつねに穏やかで、つねにバランスが取れ、つねに美しい。
 大聖堂前の広場、「パルヴィ・ノートル・ダーム」は、今は長さ135メートル、幅100メートルの広さがあるが、中世では今の6分の1しかなかった。それが1747年には今の4分の1にまで拡げられ、さらに1865年、オスマン・セーヌ県知事の都市計画によって、現在の形に拡大された。
 ノートル・ダーム大聖堂は1163年から1345年まで、約2百年かけて建立されている。ただし、大聖堂すなわちカテドラルは司教座の置かれている、つまり司教のいる聖堂であるが、1622年まで司教座はサンス(パリの東南118キロ)にあり、パリではない。大聖堂に限らず一般にヨーロッパの教会堂は、大半が中世の最盛期、12、13世紀に建てられたか建てられはじめたかしたものである。しかしもともと教会堂の前に、広場らしい広場は作られなかったのがふつうである。広場がなければ、その全景をカメラに収めることができない。しかしそれは、現代人の歪んだ発想である。
 教会堂の周りには、ノートル・ダーム大聖堂もそうであるが、もともと家が建てこんでいた。教会堂は、遠くから離れて客観的に眺めるものではない。すぐそばから、仰ぎ見るものである。少くともこれを建てた中世人は、そうやって見ていた。広場の必要などなかったのである。
 カテドラル(大聖堂)の真下から真上を仰ぎ見ると、何が見えるか。
 もしそれが晴れた夕方なら、入口上部空間のタンパンで演じられる、夕日に照らし出された石の彫像によるドラマが見えるはずだ。キリスト教は光を求める宗教であり、入口から中央通路(身廊)を真直ぐ奥に行ったところにある祭壇(内陣)は、太陽の出る東を向いている――ノートル・ダーム大聖堂の場合は、少し南に傾いてはいるが――。したがって入口(ファサード)は、当然西向きということになり、夕方にならないと陽光が回ってこない。これは、ヨーロッパのどこの教会堂でも同じである。
 タンパンというフランス語は、楽器のティンパニーとか鼓膜のティンパヌムと同じ語源の建築用語で、教会の入口上部に、ちょうど鼓の上半分のような形をした空間があるところから、名づけられた。ノートル・ダーム大聖堂の場合は、三つあるファサードすなわち入口のうち、右入口のタンパンにある彫刻が、大聖堂のなかでもっとも古く、1170年ころの作である。タンパンには物語やドラマが刻まれており、ノートル・ダーム大聖堂では、左のタンパンが聖母マリア、中央が最後の審判、そして右が聖母マリアとキリストの情景となっている。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、187頁~191頁)

フランス・ルネサンス


 「セカンド・ルネサンス、すなわち第二の稽古の時代」(35頁~37頁)
 パリは中世いらい、フランスの首都という以上にヨーロッパの首都であった。その歴史的事実が、いま新たに強い力を発揮しつつある。なぜなら現代は、過去掘り起し(ルネサンス)の時代だからである。第一のルネサンスはフランスで16世紀前半、そしてイタリアではそれより早く、14・15世紀であった。その意味では、いまセカンド・ルネサンスのときが到来しつつある、といっていい。
 ルネサンスとは再び生まれる、復活、掘り起しの意味である。ファースト・ルネサンス、つまり本来のルネサンスのときは、中世いらいの開墾運動がストップし、穀物の生産量が伸びず、人びとが栄養失調に陥り、病気に対する抵抗力を失って、疫病(ペスト)でバタバタと倒れたときであった。当時は、というより19世紀一杯までは、フランスでも穀食が中心で、肉食ではなかったからである。
 農業技術は成熟し、つぎの農業革命は18世紀初めまで、産業革命にいたっては19世紀半ばまで起らないという先行き不透明の時代にあって、人びとは真剣に生きる知恵を過去に求め、人間の生き方研究に熱中した。ギリシア・ローマの古典が掘り起され、学ばれ、それを肥やしとしてその時代に生かすルネサンス運動がさかんとなった所以である。
 古典を通しての人間の生き方研究こそ、日本で「人文主義」と訳されている、ヒューマニズム、ユマニスムの内容である。フランスの子どもたちが親しむ古代ギリシアの『イソップ物語』は、直接にではなく、17世紀の詩人ラ・フォンテーヌ(1621~95)の『寓話』を通してである。そこには、人間の生き方が書かれているのだ。古(いにし)えを考えて今日に生かすことが、漢字の「稽古」の本当の意味であるが、フランスの16・17世紀は、まさに稽古の時代であった。
 そこで学ぶに値する、クラスでもっとも上等な稽古本、それがクラシック(古典)の本当の意味である。16・17世紀は、フランス人・ヨーロッパ人にとっての古典が生まれた、稽古本の時代であった。因みに、繰り返し学ぶに値する稽古曲が、クラシック曲である。そして先行き不透明のいま、ふたたび稽古の時代が訪れつつある。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、35頁~37頁)

フランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世


「十六世紀、パリは美しくなり出す」(126頁~127頁)
 このフランス・ルネサンスとともに、16・17世紀から19世紀いっぱいにかけて、それまでの中世パリとは異なった、私たちが美しいと感じる近世・近代パリの顔が形づくられていく。イタリアないし古代ローマの建築・都市プラン・造園術が、そこで積極的に取り入れられる。近代のドイツ人が古代ギリシアに憧れたのに対し(だからこそギリシアでは今でもドイツ語が通じる)、近世・近代のフランス人がつねに帰るべき精神のふるさとは、古代ローマないしはイタリア・ルネサンスであった。
 現在のルーヴル宮の造営をはじめたフランス・ルネサンス期の伊達男フランソワ1世は、彼を養育すると同時に長いあいだ彼の相談相手でもあった母親のルイーズ・ド・サヴォアのために、王宮に隣接する西側の土地を買い取った。そこがのちに、国王の息子アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスがイタリア式庭園を作らせた、かの有名なチュイルリー庭園である(1563年。百年後の1664年、宰相コルベールの命によりル・ノートルによって美化)。
 なおチュイルリーとは、瓦焼きの作業とか作業場の意味である。この土地は王室の所有になるまで、煉瓦焼きの行われていたところであった。レストランで食後のコーヒーといっしょに出てくる、瓦状をした茶色のクッキーが、チュイル(瓦)である。
 このチュイルリー庭園は、イタリアの発想を取り入れフランスにはじめて出来た、散策・遊歩用の庭園である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、126頁~127頁)

コンコルド広場


「ルイ十五世広場からコンコルド広(和解)場へ」(162頁~166頁)
 コンコルド広場は最初、「ルイ十五世広場」と呼ばれていた。
 ルイ十五世がメッスでかかった病気の全快を祝して、パリ市長ならびに町のお歴々が、国王の騎馬像を建てるため、当時ほとんど水溜り、湿地だったところを、広場に整備したのである。完成は1772年のことであった。騎馬像が建てられた場所には、現在オベリスクが建っている。
 当時のルイ十五世広場は、今日の白々とした感じのコンコルド広場とは違って、もっと緑と花で一杯の、優雅なところであった。周りには幅20メートルの濠が廻らされ、石の橋が六つ掛けられていた。広場の八つの隅には、四阿(あずまや)がしつらえられ、そこから下の濠に、階段で行けるようになっていた。その濠に、花と緑で一杯の庭園が拡がっていたのである。
 ルイ十五世の騎馬像が除幕されたのは、1773年5月20日のことであったが、数日後すぐに悪口が馬の口のところに掛けられた。
  なんとみごとな彫像だろう! なんとみごとな台座だろう!
  徳は台座にあり、悪徳が馬に乗っている。
 日本にも江戸時代の狂歌には、同じようなセンスと心のゆとりがあった。洋の東西を問わず、前近代には戯れ歌を作る趣味があったようで、1721年デュボワ修道院長が枢機卿(すうきけい、カルディナル、大僧正)となったとき、パリ市民たちは早速その異例の出世をひやかして、街中で歌った。
  さて皆さん、お立ち会い
  世にも不思議な話があるものさ
  キリスト様にちと祈りゃ 
  たちまち奇蹟がまた起こり
  イワシもタイに早変り

※「イワシもタイに」は、意訳。
 原文は「サバ(マクロー)もほうぼう(ルージェ)に」となっている。
 マクローは修道院長の服、赤い魚のルージェは、枢機卿の帽子や服の色のことである。
 イワシもタイでも、同じ意味になる。

 1792年8月11日、革命のさなかにルイ十五世像は倒され、融かされてしまった。代りに数カ月後、台座の上に乗ったのは、「自由」像である。手に槍を持ち、赤い帽子をかぶり、ブロンズ色に塗られた石と石膏の像であった。
 広場そのものの名もその年、「革命広場」と改められた。ジロンド派のロラン夫人が処刑されるとき、「自由よ、自由よ、お前の名において何と多くの罪が犯されることか」と述べたのは、この「自由」像を眺めての言葉であった。
 沢山の血を吸った「革命広場」は1795年、「コンコルド(調和、和解)広場」へと、三たび名前を変えた。もちろん、革命の血なまぐさい思い出を消すためである。そして、今日にいたっている。「自由」像も取り除かれ、やがて1836年10月25日、台座の上には現在のオベリスクが建てられた。紀元前13世紀のラムゼス2世時代のもので、ルクソールの廃墟から運ばれた220トンもある神殿の石柱には、古代エジプトの象形文字が一面に彫られている。エジプト太守メフメット・アリが1825年、国王シャルル10世に贈ったものである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、162頁~165頁)

ルソーとパリ


 「馬車に気をつけろ!」(166頁~171頁)より
 かのジャン・ジャック・ルソーも、馬車にやられている。1776年10月24日のこと、64歳になる一人の老人が、パリのメニルモンタン街で道を横断しようとしていた。とそこへ、一頭の巨大なデンマーク犬に先導されたカロッス(大型四輪馬車)が、「ガール! ガール!(気をつけろ!)」という御者の大声とともに、猛烈な勢いで疾走してきた。老人は犬に突き倒され、その場で仰向けに倒れ、気を失ってしまった。その老人こそ、ルソーであった。大型四輪馬車の主人は後で誰を突き倒したかが分って恐縮し、ルソーのもとに人を遣わし、どのように弁償したらよいかを尋ねた。そのとき、ルソーは一言ポツンと答えたという。
「犬を放してやりなさい」
 ただし、メルシエもルソーの事故を書いており、それによれば、「今後は犬をつないでおいて下さい」と云ったという。(『十八世紀パリ生活誌』(原宏訳))
 正反対の内容であるが、ルソーの事故は確かだとしても、この答えの部分は、両方ともあるいは作り話なのかも知れないという。
 
 18世紀パリの大思想家、ルソーをめぐる作り話はじつに多い。
 「自然に帰れ」という、あまりにもポピュラーな「名言」も、ルソーが云ったり書いたりした証拠はない。彼はテレーズという女中と関係し、正式に結婚しないまま(最後には結婚したが)、5人の子を儲け、つぎつぎと棄児院に捨ててしまった。その名の通り、ジャンジャンと子を捨てたのである。その一方で『エミール』という、じつにすばらしい教育論を書いて、世界の古典となってるのであるから、人間とは矛盾のかたまりだと、つくづく思わざるをえない。
 ある人が、ルソーに出会って云った。
「私は先生の教育論に心酔し、仰言る通りに子どもたちを育てました」
 憮然たる面持で、ルソーは答えて云った。
「それは、まことにお気の毒なことをいたしました」

これも、作り話に違いない。
ルソーは、交通事故から2年後の1778年、パリ郊外のエルムノンヴィルで没している。
7月2日のことであった。同じ年の3月から9月にかけ、モーツァルトがパリに短期滞在している。66歳の不滅の世界的大思想家と、22歳の不滅の世界的天才音楽家が、たとえ地の果てからでも集う町、それが今も変らぬ、世界都市パリの魅力である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、169頁~171頁)


ルソーと子ども受難時代


 「子ども受難時代」(171頁~173頁)
 「グルグル巻きの赤ん坊」(173頁~174頁)

 ルソーは子どもを捨てたことがよほど気になっていたのか、次のような数字を書き残している。
  パリ 1758年
  死者          19202人
  受洗者         19148人
  結婚           4342組
  捨て子(拾われた子)   5082人
 (『政治断章』、ルソー全集、プレイヤード叢書、ガリマール、パリ、1964年)

 18世紀が子ども受難時代であったことは、ルソー自身の一文によっても明らかにされる。
生まれたばかりの赤ん坊は、首を固定して両脚をまっすぐに伸ばし、両腕を胴体に沿ってピタリと伸ばした状態で、包帯でミイラのごとくグルグル巻きにされる。赤ん坊は、可哀そうに身動きひとつすることができない。
 田舎の乳母などのところに預けられた赤ん坊は悲惨で、乳母は授乳の仕事が済むと、包帯グルグル巻きの赤ん坊を、部屋の隅の古釘か何かに引っかけて、どこかへ行ってしまう。赤ん坊は、それこそ赤くなったり青くなったりである。
 『エミール』第一編で、ルソーはこのように、赤ん坊の災難をリアルに述べる。グルグル巻きは、中世いらいの慣習である。たとえばルーヴル美術館にある、前にも触れたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)描く「牧人たちの崇敬」(33ページ参照)は、生まれたばかりのキリストがグルグル巻きにされて、ローソクの光のもと人びとに見つめられ、祝福と礼拝を受けているシーンである。栄養不良の関係から手足が曲ってしまう子どもが少なくなく、それを防ごうとして、添え木で若木をしつけるごとく、手足を伸ばしグルグルと巻いてしまったのではないか、と思う。
 グルグル巻きは生後、7、8カ月までつづけられ、これによって赤ん坊の成育は、どれほど妨げられたことであろうか。森に捨てられる子どもも多く、18世紀はまさに子ども受難時代であった。子どもを猫可愛がりするか子どもを産まないかの現代も、子どもの側に立ってみれば、18世紀に劣らず子ども受難時代である。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、171頁~174頁)

 さて、その33ページには、ラ・トゥールの絵「牧人たちの崇敬」(ルーヴル美術館)の絵が載せられて、次のように述べている。
 フィリップ・アリエスの名著『アンシアン・レジーム下の子どもと家族』(1960年、邦題『<子供>の誕生』杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年)は全世界の知識人層に読まれたが、そこで描かれたフランス近世の幸せは、子どもを中心に両親が結び合い、そしてその両親一人一人の背後に守護聖者がついているという、「家族宗教の姿」であった。それをそのまま絵に描いたのが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)の「牧人たちの崇敬」である。当時もまた、農業技術はとうの昔に成熟し、産業革命は未だしの、先行き不透明な、長い踊り場の時代であった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、33頁~34頁)


マリー・アントワネットとパン


「クロワッサンとは、「三日月パン」のこと」(154頁~156頁)

 マリー・アントワネットには、なぜかパンの話がついて廻る。パリのホテルで朝必ず出るクロワッサン、これは彼女が、実家のウィーンからもってきたというのである。(中略)
 クロワッサンというフランス語は、「三日月」のことであり、「三日月パン」の意味である。三日月はイスラム教諸国のしるしであり、クロワッサンの頭文字Cを大文字で書けば、「イスラム教国」の意味である。
 ときに1683年、ウィーンはイスラム教徒の軍勢に、58日間にわたって包囲された。大宰相カラ・ムスタファ指揮のオスマン・トルコ歩兵軍30万が、まさにトルコ・マーチを演奏しながら、10万のウィーン市民を取り囲んだのであった。
 ウィーン市民は恐怖のどん底に陥れられ、数千人の市民が飢えで死んでいった。生きている者はネコ、ロバ、その他、食べられる物は何でも食べて命をつないだのであった。ウィーンの陥落が迫り、いよいよもう駄目となって、市内のパン屋がなけなしの粉をかき集め、やむなくトルコ軍歓迎の意味をこめて焼いたのが、「三日月パン」であった。ところが最後の段階になって、9月12日にドイツ・ポーランド連合軍が駆けつけてウィーンを救い、解放された市民は、今度は勝利を祝って「三日月」パンをムシャムシャ食べてしまった。
 ときは変って1770年5月16日、オーストリア女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットは、14歳でウィーンからヴェルサイユへと輿入れした。その日宿命の夫、15歳の王太子ルイ(16世)との盛大な結婚式が行われたのである。このとき「キプフェル」も彼女とともにあり、今度はパリのパン屋が王太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった、といわれる。名前をキプフェルからクロワッサンに変えて、である。
 クロワッサンは、よほど「歓迎パン」に縁があるようだ。そしていまもパリのホテルは、暖かくて香ばしくて柔らかな、14歳のマリー・アントワネットを思わせるクロワッサンで、私たちを歓迎してくれる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、154頁~156頁)

コンシエルジュリーとマリー・アントワネットとロラン夫人


「コンシエルジュリーの囚われ人たち」(157頁~160頁)

 マリー・アントワネットは断首台に上るまでの2カ月半、1793年8月2日から10月16日まで、「ギロチン待合室」といわれたコンシエルジュリーに閉じこめられていた。セーヌ川に浮かぶ中之島、シテ島の西半分にある王宮の一部で、14世紀のものである。
 シテ島の右岸(北岸)を、サマリテーヌ百貨店から東へメジスリー河岸を歩けば、そこにコンシエルジュリーが、中世の優美でロマンチックな王宮の姿を、四つの塔とともに眼前一杯に展開してくれる。手前から右端の「ボンベックの塔」、ついでお伽の国の塔のような、丸屋根の「銀の塔」と「セザールの塔」、そして左端の四角い「時計の塔」がそれである。「時計の塔」にはその名の通り、1370年にパリ最初の街頭時計がつけられたが、1793年いらい取り外され、現存しない。
 ふつうコンシエルジュといえば、アパートの入口に住む管理人のことである。郵便物はコンシエルジュが一括して配達人から受け取り、各戸に配る。コンシエルジュの生活費は各戸が負担し、そのほかに、年末とか年始に「おひねり」の付け届けをせねばならない。
 コンシエルジュリーのコンシエルジュは王宮官房長のことであり、彼の統轄する建物という意味である。1392年、ときの国王シャルル6世が狂気の発作を起し、医者の勧めで王宮を離れ、気晴らしのためにマレー地区の「サン・ポール館」に移るとともに、コンシエルジュリーは牢獄となった。フランス革命のときはさらに大改造が行われ、約2千6百人の犠牲者がここで断頭台までの人生最後のときを過すところとなり、美わしくロマンチックな建物に、もっともいまわしく陰惨な、暗いイメージと思い出がつきまとうこととなる。マリー・アントワネットの独房も、塔とは反対側の一面にあり、当時の模様が復元されている。
 ジロンド派の才媛ロラン夫人も、コンシエルジュリーの独房に囚われていた。彼女は美貌と才能に恵まれ、同志議員たちを彼女のサロンに集めて鼓舞するとともに、1792年以降は夫の後ろ楯として、事実上の内務大臣であった。したがって過激派の「山岳派」(モンタニャール)からは、夫以上に敵視され、ついに逮捕されてしまう。断頭台に上った彼女は、つぎの有名な言葉を残したのであった。
  自由の名において、何と多くの罪が犯されることでしょう。
 わずか39歳の、しかし輝かしくも立派な生涯であった。
 マリー・アントワネットが処刑されてから約1カ月後、11月8日のことである。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、157頁~159頁)


フランス革命の標語「フラテルニテ」


「革命のモットーは「兄弟愛」」(147頁~149頁)

 修道院の修道士たちが、出身地、階層その他の違いを超えてみなひとしく「兄弟」であるように、パリのカフェもパリそのものも、やはり巨大な修道院であり、人びとは誰もが平等なパリ市民なのである。
 リベルテ(自由)・エガリテ(平等)と並んで、フランス革命のモットーの一つとなっているフレテルニテは、「兄弟愛」のことで「博愛」ではない。「博愛」に当てはまるのは、フィランソロピーという言葉である。普遍的な人類愛にもとづいて、難民救済とか世界の医療水準や教育レベルの向上、文化や人の交流につとめるのが、英語のフィランソロピーである。
 フランス語のフラテルニテは、「兄弟」を表わすフレールからきている。英語のブラザー、ドイツ語のブルーダーと同じである。中世では商人や手工業者など、職種ごとに同業者が集い、飲んだり食べたりして義兄弟の盃を交わし合い、同業者組合を作った。この組合を表わすコンフレリーという言葉も、「ともに兄弟になり合う」の意味である。
 人間すべてに広く遍くではなく、特定の人と兄弟になり合う「兄弟愛」が、フラテルニテの適訳であるといっていい。(中略)
 1789年のフランス革命における「兄弟愛」とは、この革命を阻止しようとするイギリス、そしてまたそれまで農民に対する支配権を事実上掌握していた国際組織のカトリック教会に対して、フランス国民の結束を呼びかけたものである。というか、当時はまだ地方に生きる意識のほうが一般的で、貴族・都市民・農民三身分の、身分差の意識もまた支配的であった。その地方意識、身分意識に対して、みなひとしく自由・平等な同胞、兄弟同士ではないかと、新たに国民意識を生み出すために用いられた標語が、フラテルニテすなわち「兄弟愛」であった。
 革命によるフランスの近代化、国民国家・近代市民社会の形成は、1789年の大革命によって完成されたのではない。その後も、七月革命(1830年)、二月革命(1848年)と、フランスの国家と社会は右に左に揺れ動き、フランス第三共和制の発足、パリ・コミューン(1871年)までの1世紀が、フランスの近代化のために費やされた。つまりは19世紀も最後の四分の一世紀になって、フランスの輝かしい近代が本格的に開始される。
 それまでの19世紀の大半は、近代に向っての激動期であった。新生児が母体から生まれ出ながら、まだ完全には母体を離れ切ってはいないときであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、147頁~149頁)

「自由の木」


「自由の木」(149頁~151頁)
 
 その激動期に、革命が起るたびパリ市民は「自由の木」を市内に植えた。
 フランス語でシェーヌ、英語でオーク、ドイツ語でアイヘといわれる木である。
 これまでわが国では一般に「カシ」の木と訳してきたが、全くの誤りであり、「ナラ」の木が正しい。カシは常緑樹であるが、ナラは落葉樹で、ヨーロッパを代表する樹木の王様である。
 ナラは家屋にも家具にも船にも一般的に使われ、丈夫で長命な木であり、当時、田舎にはどこにでも生えていた。今は、パリの北80キロのコンピエーニュその他、特定の森林に行かないとナラの木は見られない。ナラの森は落葉によって豊かな腐植土を形成し、これを切り拓けば、いい小麦畑になったからである。いまヨーロッパを西から東に貫く豊かな小麦生産地帯は、もともとナラの森が変身したものであるといっていい。
 パリといえばマロニエが有名だが、これはトチの木である。イギリスでホース・チェスナット(馬グリ)、ドイツでカスタニエンという。クリのような実は、秋の歩道に沢山落ちるが、クリのイガは見られない。日本ではトチの実を水でさらし、灰汁で煮てあくを抜き、トチ餅を作ったが、ヨーロッパでは洗濯物を白くするのに用いた。ちなみに、マロン(クリ)・グラッセのクリの木は、フランス語でシャテニエという。また、マロニエと同じく街路樹のプラタナスは、中国の柳絮(りゅうじょ)の如く春先に綿毛のような白い花を一面に飛ばし、幻想の世界を醸し出す。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、149頁~150頁)

レカミエ夫人とダヴィッドとジェラール


「自由の木」(149頁~151頁)
 
 革命に際し、パリ市民が「自由の木」を植えている絵は、カルナヴァレ博物館(セヴィニエ通り23番地)にある。
 ヴォージュ広場の近くであり、それこそ散歩がてらに立ち寄ったらいい。パリの歴史に関する資料が集められているが、なかんずく革命に関する人物像や情景描写の絵画・彫刻など豊富であり、勉強になる。
 革命と直接関係はないが、当時を生きた「レカミエ夫人像」などは、男ならほれぼれする。
 レカミエ夫人(1777~1849)は、リヨン生まれで銀行家の妻となったが、その美貌と愛人の多さで有名である。
 肖像画は最初、ナポレオンの戴冠式の大作を描いたことで有名な、宮廷画家のダヴィッドに依頼されたが、彼女の気に入らず、下絵に終ってしまった(ルーヴル美術館)。
 1805年改めて注文を受けたのが、この画の作者、フランソワ・ジェラール(1770~1837)である。
 彼女28歳の姿は、可愛らしい小さな頭、豊かな胸と腰、なまめかしい素足の爪先(つまさき)が、柔らかな曲線美でまとめ上げられており、ふるいつきたい魅力である。画家35歳の作品で、この絵と向い合っていると、描く方も描かれるほうも、そして時代そのものも若々しく、力強く、生き生きとして、魅力が一杯であったことを肌で感じ取ることが出来る。激動の時代が、五感を鋭敏に研ぎすましたのであろう。
<【挿絵】フランソワ・ジェラール「レカミエ夫人像」カルナヴァレ博物館>
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、150頁~151頁)

セーヌ県知事オスマン


「パリを一変させたセーヌ県知事オスマン」(277頁~280頁)

 このような「世紀末の輝き」が、やがて20世紀を生み出すことになる産業技術の誕生によるものだとすれば、そのパリの輝きを社会的に準備したのが、セーヌ県知事オスマン(1809~91)であった。彼は第二帝政下にナポレオン3世の支持を受け、1853年から1870年初めまで、17年もセーヌ県知事をつとめるあいだ、パリの徹底的な大改造を行った。
 彼は結果として8億フランの負債を残すこととなったが、オペラ座をはじめとする公共建築物の建築、上下水道と橋、広場と道路の整備を、過去の破壊によってつぎつぎと大胆に実現していった。彼の名は、リヴォリ通りの北を東西に走る全長3530メートルのオスマン並木通りに残されている。もちろん彼が1857年に開いたものであり、ミュニック(ミュンヘン)大通りがその犠牲となって消えた。
 それまで、街の多くを占めていたのは中世パリの顔であった。道は細く曲りくねって不規則に走り、市民がバリケードを築いて反乱を起すには、恰好の場であった。それがときの皇帝ナポレオン3世の憂鬱であり、オスマンは皇帝の意向を受け、中世の翳(かげ)を色濃く落すパリを、明るく「風通しのよい」近代パリに一変させたのであった。
 道を太く直線状の、反乱を未然に防げる見通しのよいものとしたのであり、ここに合理主義的・古典主義的な、幾何学的に均整のとれが、現代パリの原型が姿を現わすこととなった。それはまさに、「都市計画」と呼ぶにふさわしい最初の大規模なものであった。(中略)

 凱旋門そのものはナポレオン1世によって、1806年8月15日に着工された。完成はルイ・フィリップの治下、1836年のことである。もともと凱旋門は、かつて戦いに勝利しローマに帰還する皇帝がくぐるべき門であり、したがって市心を背に、市外に向かって建てられている。自らローマ皇帝の後継者たらんとしたナポレオンが、その着工を思い立ったのも無理はない。
 エトワールの凱旋門に上ってみれば、市外にはラ・デファンスの巨大なグランド・アルシュ(新凱旋門)がそびえ立ち、反対側の市内には、シャンゼリゼ大通りの向うに、コンコルド広場、チュイルリー公園、カルーゼルの凱旋門、そしてルーヴル美術館が、ともに一直線上に並んでいる。それは、日本とはまったく異質の感覚であり、大きなスケールの見事な都市計画のあり方には、感嘆させられる。
 カルーゼルの凱旋門も、1805年のナポレオンの戦勝を祝して、1806年から1808年にかけて造られたものである。しかし凱旋門それ自体は、ナポレオンの専売特許ではない。彼の前にもたとえば国王アンリ2世(在位1547~59)は、かつて東のナシオン広場にあったサン・タントワーヌ城門に、凱旋門を建てた。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、277頁~280頁)

ラ・デファンスに関連して


「「新凱旋門」――次の時代のランドマーク」(42頁~43頁)
「百三十五日間のパリ防衛」(44頁~45頁)

 パリ西北郊のラ・デファンスは、「パリのマンハッタン」といわれる超高層のビジネス・センターが出来つつあるが、ここに1989年建設されたグランド・アルシュ(大きな箱舟)、日本語での「新凱旋門」は、そのなかにパリのノートル・ダーム寺院がすっぽりと入る、巨大な正方形である。それはまさに新しいパリへの、あるいは新時代への入口を象徴している。実際はガラスと白大理石の巨大なビルを上方で結んだものであり、それにより、コミュニケーション感覚も同時にイメージされている。世界の人と人とを結び、旧時代と新時代を結び、行政上の在来パリと新しいパリ市圏を結ぶ入口、門である。
 ここから本来の凱旋門(エトワール、ナポレオンの命により1806年にはじまり、国王ルイ・フィリップにより1836年完成)、そしてコンコルド広場は、ほぼ一直線上に見える。ただし冬は天気が悪く、視界が利かずに、見通せないことが多い。一辺110メートルの正方形をなすグランド・アルシュは、19世紀の古い小パリと21世紀の新しい大パリを結ぶ、次の時代のランドマークとなろうとしているといえよう。
 ここから発する大通りは、セーヌ川を渡るヌイイ橋を通って凱旋門、シャンゼリゼ大通りとつづいている。道幅70メートルのシャンゼリゼも、ノートル・ダーム寺院と同じく、この「門」のなかにすんなりと入ってしまう。
 因みに、この設計者はデンマーク人のオットー・フォン・スプレッケルセンで、完成を待たず1987年3月16日、癌で亡くなっている。しかしながらこれもまた、パリが外国人の知恵とエネルギーを貪欲に呑み込みながら、すべてをパリ文化として消化し新たな成長を遂げていく、巨大な胃袋的存在であることを示す一つの事例である。

 ラ・デファンス(国防、防衛)という名は、1870~71年の普仏戦争におけるパリ防衛を記念して、パリで生まれ、パリで死んだ彫刻家のバリアス(Barrias ルイ=エルネスト, 1841~1905)が、1883年、「パリの防衛」と題する彫像を、今のラ・デファンスに隣接する、クールブヴォワの円形広場(ロン・ポワン)に建てたところからきている。いまその彫像は、ラ・デファンス大通りのど真ん中、アガム泉水のほとりに建てられている。(中略)
 普仏戦争により、パリは1870年9月19日から、プロイセンの二つの軍隊によって135日間も包囲された。パリ市民は35万人が194大隊に分れて銃を取り、パリの防衛に当ったが、火攻め、兵糧攻めに遭って、市民は文字通り塗炭の苦しみの下に置かれざるをえなかった。かてて加えて、マイナス摂氏13度(1870年12月22日)という例外的な寒さに襲われ、飢えと寒さによる死者は、その当時、通常の年末ならパリで週に900人なのに対して、5000人も達した。
 このころの具体的な描写は、『ゴンクール日記』や大佛次郎の『パリ燃ゆ』に詳しい。
 食肉はまったく底をつき、市民はネズミや猫、犬を食べて飢えをしのいだ。そしてついに動物園に手が伸び、象が食用としてつぎつぎと殺された。1頭目は12月29日のカストール、2頭目は12月30日のポリックス――いずれも、象の名前である――、3頭目は明けて1871年1月2日のことであった。そして1月28日パリはついに、統一が成り立ったばかりのドイツに降伏するのである。
 しかしその後も、これを不満とするパリ市民は、時の国防政府に抵抗して革命的自治政権(コミューン)を結成し、3月から5月にかけて戦い、「血の週間」に2万人から3万人の犠牲者を出して崩壊した。これが、史上名高いパリ・コミューンである。このときの死者は、なんと1793年から94年にかけての、フランス革命中の恐怖政治下の死者よりも、数が多かった。
 フランス革命は事実上、いわゆる1789年勃発のフランス革命から1871年のパリ・コミューンまで、約1世紀を必要としたのであった。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、42頁~45頁)

【ラ・デファンスのグランド・アルシュの写真】(筆者撮影 2004年)


「門」の思想


「「門」の思想」(49頁~51頁)

 ラ・デファンスのグランド・アルシュと同じような「門」、入口、玄関、コミュニケーションの発想は、パリ市内の新建築に、随所に見出すことができる。
 たとえば、同じく1989年に完成したバスチーユ広場の新オペラ座、並びに市心のルーヴル宮から同じく東南のベルシー地区に移った新大蔵省は、いずれもコの字を縦にした入口部分を具えている。フランス大蔵省の場合はグランド・アルシュに似て、道を建物の中に取り込んだ形となっている。
 因みに、1998年に淡路島と本州の間に明石大橋が架けられるのを記念して、フランスから贈られる日仏友好モニュメントも、80メートルのガラスの柱の上に、300メートル余の青銅の板を渡し、柱の礎石には1億年前のフランスの花崗岩を使うというものである。ここでも門、入口、玄関、そして橋・コミュニケーションという、現代フランス人の心を捉えるイメージが、鮮明に表現されている。
 その、コミュニケーション(フランス語ではコミュニカシオン)とは何なのだろうか。
頭文字にあるコム comという字は、ラテン語のクム cumからきており、英語で云えばウィズ、つまり「ともに」の意味である。一人で生きるのは寂しく不安だから、あなたと一緒に生きましょうという意味での「ウィズ・ユー」、すなわち「つなぎ」とか「結び合い」こそ、コミュニケーションの本義である。
 コミュニケーションを求める心とは、現代人に共通する個々人の孤独感・不安感である。ひとり生きうる自信があれば、コミュニケーション感覚は不必要である。現代フランスの歴史学界でしきりと使われる言葉に、コンヴィヴィアリテ(convivialité)がある。新語であるからふつう辞書には見当たらないが、コンヴィーヴ(convive, 会食者)から出た言葉である。ともに食事し合う者同士のように、違いは違いとして認め合いながら、親しみ相和して仲良くやっていこうとする心が、コンヴィヴィアリテである。
 嫁・姑のケンカもそうであるが、環境・文化・風土を異にする者同士が出会い、触れ合えば、必ずといっていいほど説明のつかぬ苛立ち、摩擦が発生する。違いを違いとして認め合うということは、理屈ではなく情感に属する問題だけに、現実にはなかなか難しい。その心を互いに開くために不可欠なのは、互いに食べ合ったり飲み合ったりして、楽しい時間と空間を互いに重ね合わせる努力である。さあ友だちになろうと、目を三角にして握手しても効き目はないが、一緒に食事し合えば、心は自ら開けてくる。
(木村尚三郎『パリ 世界の都市の物語』文芸春秋、1998年、49頁~51頁)

≪フランスの歴史(下)~高校世界史より≫

2023-08-27 19:00:03 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪フランスの歴史(下)~高校世界史より≫
(2023年8月27日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、フランスの歴史(フランス革命後から現代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。(ただし、字数制限のため割愛したところがある)
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 なお、次回のブログにおいて、「フランスの歴史」の補足をしておきたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『世界史B』(東京書籍)より


第15章 欧米における工業化と国民国家の形成
4 フランス革命とウィーン体制


【フランス革命の背景】
革命前の旧体制(アンシャン=レジーム, Ancien Régime)では、身分制のもとで第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は国土の大半と重要官職を占有しながら、免税特権をもっていた。人口の9割以上にあたる第三身分(平民)のなかでは、事業に成功した豊かなブルジョワ階層が経済活動の自由を求める一方、大部分を占めた農民は領主への地代や税負担に苦しみ、都市民衆もきびしい生活を送っていた。
 18世紀後半には、イギリスとの対抗上も、社会や経済の改革、とくに戦費負担からくる国庫赤字の解消と財政改革が必要であった。改革派には、身分や立場のちがいを問わず啓蒙思想の影響が広まっていた。ルイ16世(Loui XVI, 在位1774~92)は、重農主義者テュルゴ(Turgot, 1727~81)や銀行家ネッケル(Necker, 1732~1804)など改革派を登用して財政改革を試みたが、課税を拒否する貴族など特権集団の抵抗で、逆に政治的な危機が生じた。しかも、凶作などを原因とする経済的・社会的な危機が重なった。

【立憲王政から共和政へ】
危機回避のために国王が招集した三部会は、1789年5月、ヴェルサイユで開会されたが、議決方式をめぐる対立から議事に入れなかった。平民代表は『第三身分とは何か』の著者シェイエス(Sieyès, 1748~1836)の提案で、第三身分の部会を国民議会と称し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。国王は譲歩してこれを認め、聖職者や貴族からも同調者が合流して憲法制定国民議会が成立したが、反動派に動かされた国王は、軍隊でおさえこもうとした。武力制圧の危険を感じたパリの市民は、1789年7月14日、バスティーユ要塞を襲って武器弾薬の奪取に成功した。この報が伝わると、各地で農民が蜂起し、領主の館を襲撃した。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択をあいついで決めた。ここに旧体制は崩壊し、基本的人権・国民主権・所有の不可侵など、革命の理念が表明された。
 地方自治体の改革や教会財産の没収、ギルドの廃止など、当初はラ=ファイエット(La Fayette, 1757~1834)やミラボー(Mirabeau, 1749~91)など自由主義貴族の主導下に、1791年憲法が示すように立憲王政がめざされた。しかし憲法制定の直前、国王一家がオーストリアへ亡命をくわだてパリに連れもどされるヴァレンヌ逃亡事件がおこり、国王の信用は失墜した。
 1791年に発足した制限選挙制による立法議会では、立憲王政のフイヤン派(Feuillants)をおさえて、ブルジョワ階層を基盤にした共和主義のジロンド派(Girondins)が優勢となった。ジロンド派は、1792年春、内外の反革命勢力を一掃するためにオーストリアに宣戦布告し、革命戦争を開始した。革命軍が不利になると、全国からパリに集結した義勇兵と、サン=キュロットとよばれる民衆は、反革命派打倒をうたってテュイルリー宮殿を襲撃し(八月十日事件)、これを受けて議会は王権を停止した。男性普通選挙制によって新たに成立した国民公会では共和派が多数を占め、王政廃止と共和政が宣言された(第一共和政、1792~1804)。

【革命政治の推移とナポレオン帝政】
1793年1月にルイ16世が処刑され、春には内外の戦局が危機を迎えるなか、国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins、山岳派)が権力を握った。ジャコバン派は、封建的特権の無償廃止を決め、最高価格令によって物価統制をはかった。しかし、民主的な1793年憲法は平和到来まで施行が延期され、革命の防衛を目的に権力を集中した公安委員会は、ロベスピエール(Robespierre, 1758~94)の指導下にダントン(Danton, 1759~94)ら反対派を捕らえ、反革命を理由に処刑した(恐怖政治)。
 強硬な恐怖政治はジャコバン派を孤立させ、1794年7月、今度はロベスピエールらが、穏健共和派などの政敵によって倒された(テルミドールの反動)。革命の終結を求める穏健派は1795年憲法を制定し、制限選挙制にもとづく二院制議会と、5人の総裁を置く総裁政治が成立した。しかし、革命派や王党派の動きもあって政局は安定せず、革命の成果の定着と社会の安定を求める人々は、より強力な指導者の登場を求めた。この機会をとらえたのが、革命軍の将校として頭角をあらわしたナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte)であった。
 イタリア遠征により対仏大同盟に打撃を与え、ついでエジプト遠征で名をあげていたナポレオンは、1799年11月9日(共和暦ブリュメール18日)、クーデタで統領政府を樹立すると、自ら第一統領となって事実上の独裁権を握った。1802年に終身統領となったナポレオンは、04年5月には国民投票によって皇帝に即位した(第一帝政)。
 ナポレオンは、ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート(Concordat)、1801)を結んでカトリック教会と和解し、貴族制(1808)を復活させる一方、フランス銀行の設立(1800)など行財政や教育制度の整備を推進し、さらに近代市民社会の原理をまとめた民法典(ナポレオン法典、1804.3)を制定し、革命の継承を唱えた。
 革命理念によるヨーロッパ統一をかかげるナポレオンにとって、最大の敵はイギリスであった。イギリスは、1802年に結ばれた英仏和平のアミアン条約を翌年に破棄し、対立を強めた。トラファルガー沖の海戦(1805)でイギリスにやぶれたナポレオンは、大陸制圧に転じ、1806年には西南ドイツ諸国を保護下に置いてライン同盟(Rheinbund)を結成させ、神聖ローマ帝国を名実ともに解体した。同年にベルリンで出した大陸封鎖令は、大陸諸国とイギリスとの通商を全面的に禁止し、イギリスに対抗して、大陸をフランスの市場として確保しようとするものであった。

【国民意識の形成】

 フランスによる大陸制圧は、フランス以外の各地にもこのような考え方を広める一方、侵略者フランスに対するナショナリズム(nationalism)をめばえさせることになった。スペインの反乱は、フランス軍をゲリラ戦の泥沼にひきこんだ。国家滅亡の危機に瀕したプロイセンではシュタイン(Stein, 1757~1831)やハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)が、行政改革や、農民解放など一連のプロイセン改革を実施し、フィヒテ(Fichte, 1762~1814)は連続講演「ドイツ国民に告ぐ」を通して国民意識の覚醒をうったえた。
 大陸封鎖令で穀物輸出を妨害されたロシアが離反すると、ナポレオンは1812年に遠征してモスクワを占領したが、ロシア軍の焦土作戦と反撃にあって敗退した。これを機に諸国民が一斉に解放戦争に立ちあがり、1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍をやぶり、翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位してエルバ島に幽閉され、ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が即位して、フランスにはブルボン朝が復活した。1815年、エルバ島を脱出したナポレオンは一時再起したが(百日天下)、ワーテルローの戦いで大敗し、今度は大西洋の孤島セントヘレナに流され、孤独のうちに没した。

【ウィーン体制の成立】
1814年にナポレオンが没落してのち、フランス革命以来の混乱を収拾するため、ヨーロッパ諸国の代表がウィーンに集まった。オーストリアの外相(のち首相)メッテルニヒ(Metternich, 1773~1859)を議長としたウィーン会議は、はじめ大国間の利害対立のため難航したが、翌15年、ナポレオンの再挙兵を機にようやく議定書の調印が実現した。フランス革命以前の政治秩序を正統のものとし、それを回復させようという正統主義が原則として採用され、大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求された。これをウィーン体制という。(下略)

【ナショナリズム・自由主義・ロマン主義】
フランス革命とナポレオン戦争の時代に各地でめばえたナショナリズムは、広く国民の一体性と自主的な政治参加を求める点で、ウィーン体制とは対立し、自由主義とつながる側面をもっていた。19世紀には、多民族国家のオーストリアやオスマン帝国内で少数派の位置にあった人々は、自治権や独立を求める運動をおこした。また小国家群に分裂していたドイツやイタリアでは、政治的統一を求める動きが活発になっていった。
 ナショナリズムの台頭は、民族の歴史的個性や伝統、人間の熱情や意志を称揚するロマン主義(Romanticism)の思潮とも呼応しあった。ロマン主義は、19世紀ヨーロッパの政治、文学、芸術など、広い分野で基調をなす考え方となり、いっぽうでは過去を美化する尚古趣味や、国土の自然や民族(国民)文化の称揚などにあらわれ、他方では、自己犠牲や英雄崇拝、社会変革への夢とも結びついて、ナショナリズムと呼応しあったのである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、277頁~282頁)

第15章5 自由主義の台頭と新しい革命の波


【フランス七月革命とその反響】
復古王政下のフランスで、ルイ18世のつぎに即位したシャルル10世(Charles X, 在位1824~30)は、国外ではギリシア独立を支持する一方、アルジェリアには軍事侵攻して植民地化を開始させ、内政では貴族を保護する反動政治を王党派内閣に実行させた。1830年7月、王が議会を強行解散し、選挙権のいっそうの制限強化や言論統制をうちだすと、パリ市民と民衆は蜂起し、王は亡命した(七月革命)。しかし、銀行家など上層市民は革命の激化を恐れて共和派をおさえ、オルレアン公ルイ=フィリップ(Louis Philippe, 在位1830~48)を王とする立憲王政を成立させた(七月王政)。(下略)
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、284頁~285頁)

【1848年諸革命の衝撃】
1846年からの凶作と47年の経済恐慌を背景に、革命と蜂起の大波がヨーロッパの各地をとらえ、ウィーン体制を完全に崩壊させることになる。
 七月王政下のフランスでは工業化がすすんだが、国政は制限選挙制のもと、一部の上層市民のみが主導していた。これを批判して選挙権拡大を要求する、共和派市民や労働者による政治運動が高揚するなか、1848年2月、この運動を弾圧する政府に対し、パリ民衆が蜂起して市街戦となった。結局、国王ルイ=フィリップが退位して共和派の臨時政府が樹立された(第二共和政、1848~52)。これがフランスの二月革命である。
 革命後の臨時政府には社会主義者のルイ=ブランも参加し、失業者救済のための国立作業場を設置するなど改革に努めたが、男性普通選挙による48年4月の国民議会選挙では、社会主義派はやぶれ、穏健共和派が大勝した。保守化した政府に抗議した労働者の武装蜂起は鎮圧され(六月蜂起)、新憲法のもとで実施された12月の大統領選挙では、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオン(Louis Napoléon, 1808~73)が当選した。彼は1851年にクーデタによって権力を握ると、翌52年に国民投票によって皇帝になり、ナポレオン3世と称した(第二帝政、1852~70)。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、286頁~287頁)

【19世紀半ばまでの文化と思潮】
この時期のヨーロッパ諸国では、それまではおもに特権階層のものであったオペラやバレエ、コンサートなどが、都市の劇場で広く上演されるようになり、中間市民層も楽しむようになった。印刷の機械化や製紙法の進歩は、書物や新聞の普及につながり、博物館や美術館も、一種の社会教育の装置として各地で設置されはじめた。
 19世紀の思潮・学芸ではロマン主義が一つの底流をなしたが、18世紀のルソー(Rousseau, 1712~78)や、ドイツのゲーテ(Goethe, 1749~1832)やシラー(Shiller, 1759~1805)の「疾風怒濤」運動にその萌芽がみられ、19世紀になるとイギリスの詩人バイロン(Byron, 1788~1824)や、バイロンを称賛したロシアの詩人プーシキン(Pushkin, 1799~1837)、フランス七月革命に共感したドイツの詩人ハイネ(Heine, 1797~1856)、共和主義を支持したフランスのユゴー(Hugo, 1802~85)など、ロマン派の国民的作家が登場した。
 音楽ではベートーヴェン(Beethoven, 1770~1827)が先駆となり、シューベルト(Schubert, 1797~1828)やショパン(Chopin, 1810~49)が形成したロマン派音楽からは、スメタナ(Smetana, 1824~84)のような民族性の強い作曲家もあらわれた。絵画ではドラクロワ(Delacrois, 1798~1863)らが、調和を重視した古典主義や歴史主義の様式をやぶる色彩や同時代的テーマを採用した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、288頁)

第18章 世界戦争の時代
6 第二次世界大戦


【フランスの降伏と独ソ戦】
 1940年春、ドイツ軍は西部戦線で行動をおこし、4月にデンマーク、ノルウェー、5月にはオランダ、ベルギーから北フランスに侵攻した。6月になると、イタリアがドイツの優勢をみて英仏に宣戦し、ドイツ軍はパリを占領し、フランスは降伏した。フランスの西北部はドイツ軍に占領され、南部はドイツに協力するペタン元帥(Pétain, 1856~1951)のヴィシー政府(1940
~44)が統治することになった。しかし、ド=ゴール将軍(De Gaulle, 1890~1970)を中心とする抗戦派はロンドンに自由フランス政府をつくり、国民に抵抗運動(レジスタンス Résistance)をよびかけた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、379頁)

フランスの歴史(フランス革命後)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


フランス革命とナポレオン
第10章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
3 フランス革命とナポレオン


【フランス革命の構造】
アメリカ独立革命につづいて、有力な絶対王政の国であったフランスで、旧制度(アンシャン=レジーム)をくつがえす革命がおこった。
革命以前の国民は、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区分されたが、人口の9割以上は第三身分であった。少数の第一身分と第二身分は広大な土地とすべての重要官職をにぎり、免税などの特権を得ていた。各身分のなかにも貧富の差があり、とくに、第三身分では、その大部分を占める農民が領主への地代や税の負担のために苦しい生活をおくる一方、商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた。そこに啓蒙思想が広まり、1789年初めには、シェイエス(Sieyès, 1748~1836)が『第三身分とは何か』という小冊子で、第三身分の権利を主張した。

フランス革命(1789~99)は、こうした状況下に王権に対する貴族の反乱をきっかけに始まったが、有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立する結果となった。農民・都市民衆は旧制度の廃棄に重要な役割をはたしたが、同時に、有産市民層が推進した資本主義経済にも反対した。フランス革命はこのように、貴族・ブルジョワ(有産市民)・農民・都市民衆という四つの社会層による革命がからみあって進行したために、複雑な経過をたどることになった。

【立憲君主政の成立】
イギリスとの戦争をくりかえしたフランスの国家財政はいきづまり、国王ルイ16世(Louis XVI, 在位1774~92)はテュルゴー(Turgot, 1727~81)・ネッケル(Necker, 1732~1804)らの改革派を起用して、特権身分に対する課税などの財政改革をこころみた。しかし、特権身分が抵抗したため、1615年以来開かれていなかった三部会が招集されることになった。

1789年5月、ヴェルサイユで三部会が開かれたが、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立した。6月、第三身分の議員は、自分たちが真に国民を代表する国民議会であると宣言し、憲法制定までは解散しないことを誓った(「球戯場(テニスコート)の誓い」)。特権身分からも同調者があらわれると、国王も譲歩してこうした動きを認めた。国民議会は憲法の起草を始めたが、まもなく国王と保守的な貴族は、武力で議会を弾圧しようとした。この頃パンの値上がりに苦しんでいたパリの民衆は、これに反発して圧政の象徴とされたパリのバスティーユ牢獄を7月14日に攻撃した。この事件後、全国的に農民蜂起がおこり、貴族領主の館が襲撃された。

1791年9月、一院制の立憲君主政を定め、選挙権を有産市民に限定した憲法が発布され、国民議会は解散となった。しかし、このときすでに国王はヴェレンヌ逃亡事件の結果、国民の信頼を失っていた。

【戦争と共和政】
1791年10月に開かれた立法議会では、革命のこれ以上の進行を望まない立憲君主派と、大商人の利害を代表して共和政を主張するジロンド派(Girondins)が対立した。国内外の反革命の動きが活発になると、共和派の勢力が増大し、92年春にはジロンド派が政権をにぎり、革命に敵対的なオーストリアに宣戦した。しかし、軍隊は士官に王党派が多数含まれていて戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し、パリの民衆と全国から集まった義勇軍は、92年8月、国王のいたテュイルリー宮殿をおそい、王権を停止させた(8月10日事件)。9月、あらたに男性普通選挙による国民公会が成立し、王政の廃止、共和政の樹立が宣言された(第一共和政)。その直前には、フランス軍が国境に近い小村ヴァルミーでプロイセン軍にはじめて勝利をおさめた。

国民公会では、急進共和主義のジャコバン派(Jacobins)が力を増し、ルイ16世は1793年1月に処刑された。革命がイギリス国内に波及することを警戒していたイギリス首相ピット(Pitt, 1759~1806)は、フランス軍がベルギー地方に侵入したのに対抗してフランス包囲の大同盟(第1回対仏大同盟)をつくった。このためフランスは全ヨーロッパを敵にまわすこととなり、国内でも西部地方で、王党派と結びついた農民反乱(ヴァンデーの反乱)が広がった。

【革命の終了】
ジャコバン派の没落後、穏健共和派が有力となり、1795年には制限選挙制を復活させた新憲法により、5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。しかし、社会不安は続き、革命ですでに利益を得た有産市民層や農民は社会の安定を望んでいた。こうした状況のもと、混乱をおさめる力をもった軍事指導者としてナポレオン=ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769~1821)が頭角をあらわした。ナポレオンは96年、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破って、軍隊と国民のあいだに名声を高め、さらに98年には、敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。

1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第2回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。帰国したナポレオンは同年11月に総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権をにぎった(ブリュメール18日のクーデタ)。1789年以来10年間におよんだフランス革命はここに終了した。

自由と平等を掲げたフランス革命は、それまで身分・職業・地域などによってわけられていた人々を、国家と直接結びついた市民(国民)にかえようとした。革命中に実行されたさまざまな制度変革と革命防衛戦争をつうじて、フランス国民としてのまとまりはより強まった。こうして誕生した、国民意識をもった平等な市民が国家を構成するという「国民国家」の理念は、フランス以外の国々にも広まるとともに、フランス革命の成果を受け継いだナポレオンによる支配に対する抵抗の根拠ともなった。

【皇帝ナポレオン】
ナポレオンは、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と1801年に和解し、翌年にはイギリスとも講和して(アミアンの和約、1802)、国の安全を確保した。内政では、フランス銀行を設立して財政の安定をはかり、商工業を振興し、公教育制度を整備した。さらに04年3月、私有財産の不可侵や法の前の平等、契約の自由など、革命の成果を定着させる民法典(ナポレオン法典)を公布した。02年に終身統領となったナポレオンは04年5月、国民投票で圧倒的支持をうけて皇帝に即位し、ナポレオン1世(Napoléon I, 在位1804~14,15)と称した(第一帝政)。

1805年、イギリス・ロシア・オーストリアなどは第3回対仏大同盟を結成し、同年10月にはネルソン(Nelson, 1758~1805)の率いるイギリス海軍が、フランス海軍をトラファルガーの海戦で破った。しかしナポレオンは、ヨーロッパ大陸ではオーストリア・ロシアの連合軍をアウステルリッツの戦い(1805.12, 三帝会戦)で破り、06年、みずからの保護下に西南ドイツ諸国をあわせライン同盟を結成した。またプロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約(1807年)を結ばせ、ポーランド地方にワルシャワ大公国をたてるなど、ヨーロッパ大陸をほぼその支配下においた。

この間、ナポレオンはベルリンで大陸封鎖令を発して(1806年)、諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランスの産業のために大陸市場を独占しようとした。彼は兄弟をスペイン王やオランド王などの地位につけ、自身はオーストリアのハプスブルク家の皇女と結婚して家門の地位を高めるなど(10年)、その勢力は絶頂に達した。封建的圧政からの解放を掲げるナポレオンの征服によって、被征服地では改革がうながされたが、他方で外国支配に反対して民族意識が成長した。まず、スペインで反乱がおこり、またプロイセンでは、思想家のフィヒテ(Fichte, 1762~1814)が愛国心を鼓舞する一方、シュタイン(Stein, 1757~1831)・ハルデンベルク(Hardenberg, 1750~1822)らが農民解放などの改革をおこなった。

ナポレオンは、ロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出すると、1812年に大軍を率いてロシアに遠征したが、失敗に終わった。翌年、これをきっかけに、諸国は解放戦争にたちあがり、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンを破り、さらに翌14年にはパリを占領した。彼は退位してエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世(Louis XVIII, 在位1814~24)が王位についてブルボン朝が復活した。翌15年3月、ナポレオンはパリに戻って皇帝に復位したが、6月にワーテルローの戦いで大敗し、南大西洋のセントヘレナ島に流された。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、248頁~255頁)



英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



Chapter 15
Industrialization in the West and the Formation of Nation States
4 French Revolution and the Vienna System



■Back Ground of the French Revolution
The Ancient Regime (アンシャン=レジーム) before the French Revolution was a strongly controlled society consisting of the three estates. The first estate (the clergy, 第一身分) and second estate (nobles, 第二身分) seized most parts of national land, important government posts, and also tax free privilege. In the third estate (commoners, 第三身分) was more than 90 percent of the population. Some of them, who were bourgeois and built successful businesses, asked for liberal economic activity, but
farmers, who were the largest group in the third estate, bore rent charge and tax burden to
the feudal lord. Urban ordinary people also led a hard life.
In the latter part of the 18 th century, social and economic reform, especially budget
reform and elimination of the budget deficit, which came from the financial burden of war,
were required in order to compete against Britain. The influence of the Enlightenment
thought spread to the reformists regardless of estate and position, and Louis XVI (ルイ16世) attempted
budget reform by using reformists such as Turgot (テュルゴ), a physiocrat, and Necker (ネッケル),
a banker. However, a political crisis occurred because of resistance from the privileged groups, such
as the nobles, who rejected the imposition of tax. Also the poor harvest coincidentally
caused economic and social crisis.

■From Constitutional Kingdom to Republicanism
The Estates-General (三部会) called by the king in order to avoid crises were held in Versailles
in May 1789. However, the proceedings were not started because of conflict over the
system of decision. The representative of commoners pledged not to break up the National
Assembly, which had been named as the assembly of the third estate, until formulation
of a constitution (Tennis Court Oath, 球戯場の誓い), at the proposal of Sieyes, the author of What is
Third Estate?(第三身分とは何か) The king took a step back to acknowledge it. Some followers from the clergy and nobles participated in the Assembly. Then National Constituent Assembly was realized.
However the king, driven by opponents, tried to overwhelm it with military. Paris citizens,
who felt the military suppression, attacked the Bastille Fort (バスティーユ要塞), and succeeded in
dispossessing weapons and ammunition on July 14, 1789. When this information spread, farmers rose up
in revolt in various regions and descended on wealthy landlords. In August, the National
Assembly successively adopted abolition of feudal privileges and the Declaration of
Human Rights (人権宣言). The Ancient Regime collapsed, and ideas of reform, such as fundamental
human rights, popular sovereignty, inviolability of ownership, etc. were stated.
At first the revolution aimed at constitutional monarchy as shown in the constitution
in 1791 on the initiative of liberalists from nobles like La Fayette (ラ=ファイエット) and Mirabeau
(ミラボー), in order to reform local authority, confiscate church property, abolish guilds, etc. Just before
formulation of the constitution, the incident occurred. It was called the Escape to Varenne
that the king’s family attempted to escape to Austria, and was brought back to Paris. It
made people lose trust in the king.
In 1791 the Legislative Assembly by limited election was set up. In the legislative
assembly the republican Girondins (ジロンド派) based on bourgeois predominated over
the Feuillants (フイヤン派) advocating a constitutional monarchy. In 1792, the Girondins declared
war against Austria in order to clear domestic and foreign counterrevolutionaries, and started the revolutionary war. When the war went against the revolutionary army, volunteer soldiers, who gathered
in Paris from all over the country, and people called san-culotte attacked the Tuileries
Palace (the insurrection of 10 August 1792) to defeat counterrevolutionary people. In response
to this, the Legislative Assembly interdicted sovereign power. In the National Convention,
which consisted of the representatives elected by the new universal manhood suffrage,
the republic party had a majority, and the abolition of kingship and the establishment of
republican government were declared (the First Republic, 第一共和政).

■Transition of Revolutionary Politics and the Napoleonic Empire
Louis XVI was executed in January 1793. In spring the Jacobins, radical republicans,
took power in the National Convention during when the tide of the internal and external
wars turning against the French army. The Jacobins (ジャコバン派) determined gratuitous abolition of
feudal privileges, and attempted price control by a maximum price order. Enforcement of
the democratic constitution of 1793 was postponed until the coming of more peaceful times.
The Committee of Public Safety (公安委員会), which concentrated power for the purpose of defense of
revolution, captured opponents including Danton (ダントン) under the mentorship of Robespierre
(ロベスピエール), and executed them because of counterrevolution (the Reign of Terror, 恐怖政治).
The extreme reign of terror made the Jacobins isolated. In July 1794 Robespierre and his
radical followers were defeated by the political enemy like the moderate Republicans in
turn (the Thermidorian Reaction, テルミドールの反動). Moderates, who sought the end of revolution,
established the 1795 constitution, and a bicameral legislature based on the limited election system
and the Directory with five Directors were established. The political situation was not
stable because of movement of revolutionaries and royalists. People, who sought to fix
revolutionary achievements and social stability, demanded a stronger leader. The person
who took this opportunity was Napoleon Bonaparte (ナポレオン=ボナパルト), who made his mark
as a general of the revolutionary army.
Napoleon, who damaged the coalition against France with expeditions to Italy and
Egypt, gained more and more prominence. On November 9, 1799 (18 Brumaire, the French
Revolutionary calendar), he established a new government, the Consulate, and seized
autocracy by appointing himself as the first Consulate in 1802, he then took over the
emperor by the referendum in 1804 (the French First Empire, 第一帝政).
<Coronation of Joséphine by Napoleon (by David) >

Napoleon restored the aristocracy; signed Concordat with the Pope; reconciled with
the Catholic Church; established the Bank of France; and promoted administrative and
financial improvement and improvement of education system. Moreover, he established the
civil code (the Napoleonic Code, ナポレオン法典) which compiled the principle of modern society.
Then he advocated the inheritance of revolution.
The main enemy of Napoleon was Britain, since the he wished to unify Europe with the idea
of revolution. The next year Britain broke the peace Treaty of Amiens between Britain
and France, which was signed in 1802, and they adopted a more confrontational stance
with each other. Napoleon, who was defeated by Britain at the Battle of Trafalgar, turned
to conquer the continent. In 1806 he signed the Confederation of the Rhine (ライン同盟) by means of
putting southwestern Germany under the care. He dissolved the Holy Roman Empire. The
continental blockade (大陸封鎖令) was issued in Berlin in the same year, and it thoroughly prohibited
trade between continental countries and Britain. This was to secure the continental market
for France to compete against Britain.

■Formulation of National Consciousness
During the French Revolution, the principals of nation states (国民国家の原則) were announced based on the ideas of freedom and equality. Before the revolution, people led a life as part of group
defined by such as occupational ability, regions and estates of the realm, and the state
governed the society through these groups.
The revolution abolished these autonomous groups and estates of the realms, and
then it sought to connect individuals as the people to the state. Under the Revolution,
the French Revolutionary calendar (革命暦) replaced the Gregorian calendar, and the prefectural
system was introduced instead of the provincial system. Also the system such as the metric
one with mathematical rationality was introduced as a unified scale to measure time and
space. Moreover, national language education was emphasized by means of denying
regional languages. Through these circumstances, a politics for the formation of national
consciousness began to be sought.
Control of the continent by France spread this way of thinking in various regions. On the
other hand, nationalism was developed against France as an invader. The revolt in Spain
drew the French army into guerrilla war. Although Prussia was on the verge of the fall of
state, Stein (シュタイン) and Hardenberg (ハルデンベルク) implemented a series of
Prussian reform of the administration and agriculture. Fichte (フィヒテ) appealed for
awareness for national consciousness through a series of lectures on ‘Reden an die deutsche
Nation’(Addresses to the German Nation, ドイツ国民に告ぐ).
Once Russia seceded because of interruption of crop export according to
Napoleon’s continent blockage, Napoleon took over Moscow in 1812. However he was
defeated by Russian counter-attack and the scorched earth operation. On this occasion,
people in various countries rose up in liberation war against France all at once, and then
they defeated French army in the Battle of Leipzig (the Battle of the Nations, 諸国民戦争)
in 1813. The next year they occupied Paris. Napoleon abdicated and was confined to Elba.
Then, Louis XVIII ascended the throne to revive the Bourbon dynasty of France. In 1815, Napoleon
escaped from Elba to recover his power (the Hundred Days, 百日天下), but Napoleon’s army lost the
Battle of Waterloo. He was exiled to St. Helena, an isolated island in the Atlantic Ocean,
this time, and he died a lonely figure.

■Formation of the Vienna System
After Napoleon was defeated in 1814, representatives of European countries met in
Vienna in order to resolve the upheaval of the French Revolution. The Vienna Congress
(ウィーン会議) in which Metternich(メッテルニヒ), an Austrian foreign minister
(later the prime minister), was the chairperson, proceeded with difficulty because of interest conflict
among superpowers. In the next year, 1815, Napoleon rose up again, and signing the protocol
was finally fulfilled. Legitimism, which regarded the political order previous to French Revolution
as orthodox and some people tried to revive this political order, and it was embraced as a principle.
Peaceful maintenance of global order based on the balance of power between the great powers was
pursued. This was called the Vienna System(ウィーン体制)…

(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、221頁~225頁)

5 Dream of Social Change; Waves of New Revolutions



■Nationalism, Liberalism, and Romanticism
Nationalism(ナショナリズム), which was developed in various regions during the period of
the French Revolution and the Napoleonic Wars, was connected to liberalism in terms of requiring
voluntary political participation. Minorities in the multiethnic states such as Austria and the
Ottoman Empire, as well as the people in Poland and Ireland who were under the rule of
other ethnic groups, claimed the right to speak and independence. People in Germany and
Italy which were divided into small states were active in seeking the political unification.
The rise of nationalism led to the stream of romanticism to praise historical
characteristics, tradition of ethnic groups, human passion and will. Romanticism(ロマン主義) became a
way of thinking that formed the keynote in a wide range of fields such as politics, literature,
arts and so on in Europe. On the other hand, romanticism was expressed as historicism
which glamorized the past and also was expressed as praise of country’s nature and culture.
Moreover romanticism led to self-sacrifice, hero-worship and dreams of social change.

■The Second – Wave of Revolution; the July Revolution and Its Impact
In France under the Restoration (Restauration), Charles X ascended the throne after Louis
XVIII, externally supported the independence of Greece. On the other hand, he colonized
Algeria by launching military intervention. Moreover, he internally let the ultra-royalist
cabinet accomplish reactionary politics to protect the nobility. In July 1830, the king
forcibly dissolved the Chamber and announced more enhanced restriction of election and
regulations of speech. As a result, people in Paris rose in revolt and the king was in exile
(the July Revolution, 七月革命). However, the upper class like bankers restrained the republican party
for fear of escalating revolution. Constitutional monarchy was formed by appointing Louis-
Philippe, Duke of Orleans, as King (the July Monarchy, 七月王政)…

<Liberty Leading the People by Delacroix>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、228頁)

■The Third Wave of Revolution; Various Revolutions in 1848
Many European regions experienced the third wave of revolution because of the poor
harvest from 1846 and economic crisis in 1847; then the Vienna System completely
collapsed.
Although industrialization was promoted under the July Monarchy in France, only a part
of the upper bourgeois had the political initiative under the restrictive election. Political
movements by republican citizens and workers to demand the expansion of voting rights
were escalated. In February, 1848, Paris citizens rose up against the government which had
suppressed these movements. It came to street fighting. In the end, the king abdicated and
the republic’s provisional government was established (the Second Republic, 第二共和政).
This was the February Revolution (二月革命)in France.
The socialist Louis Blanc participated in the provisional government after the revolution.
They attempted to reform society and constructed national workplaces to support
unemployed people. But the Socialist Party lost and the moderate Republican Party won
in the National Assembly election by universal male suffrage in April 1848. Workers’
armed uprising against conservative government was suppressed (the June Days Uprising).
Louis-Napoleon (ルイ=ナポレオン), who was a nephew of Napoleon, was elected president in
December under the new Constitution. He took power in the coup in 1851, and then next year
he became the emperor by referendum; he called himself Napoleon III (the French Second Empire,
第二帝政).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、230頁~231頁)

Part 4 Unifying and Transforming the World
Chapter 16Development of Industrial Capitalism and Imperialism
1 Reorganization of the Order in the Western World


■Unified and Strengthened Germany(普仏戦争)
During the Prussian-French War (プロイセン=フランス戦争, the Franco-Prussian War or the German-French War, 普仏戦争または独仏戦争) in 1870, the German military,
mainly from Prussia, showed overwhelming power against France. After the victory over
France, Germany formed the German-Empire (ドイツ帝国). King William I
(ヴィルヘルム1世) of Prussia claimed the title of Emperor of the German Empire.
France had to cede Alsace-Lorraine (アルザス・ロレーヌ) to Germany. France also
had to pay a lot of reparations to Germany. These factors turned out to be seeds of
dispute between both countries later on.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、238頁)

■Establishment of the French Republic
During the Second Empire (第二帝政期), under the leadership of Napoleon III
(ナポレオン3世), major industrialization took place in France. Railroads were
constructed and cities were renovated. Externally, France took aggressive foreign policy,
and intervened in the Crimean War and the Italian Risorgimento War. These movements
enhanced the national prestige of France. In Asia, France invaded China (the Arrow War,
アロー戦争) and started its aggression against Indochina. However, the French military invasion of Mexico failed. Also, France was defeated in the war against Prussia, which
was supposed to be a chance to recover its prestige. In September 1870, the Second Empire
collapsed. The provisional government, headed by Louis Adolphe Thiers (ティエール),
a bourgeois republican (ブルジョワ共和派), was formed. The people of Paris,
who were against the peace treaty and denied the defeat by Germany, rose in revolt and
declared Commune de Paris (パリ=コミューン) in March 1871. This was the first autonomy by workers and citizens, but was put down soon by government military forces.
The Constitution of the Republic (共和国憲法) was enacted in 1875, and the Third Republic
(第三共和政) was established by the end of the 1870s.
The Third Republic, which considered itself to be the successor of the French
Revolution, made much of education for the people; aggressively expanded overseas;
colonized Tunisia and Indochina in the 1880s; and established the most powerful empire
next to Britain. In France, the industrial revolution was completed during the Second
Empire, but there still existed small farmers and small businesses, and excess capital
was invested abroad, especially in Russia which had a very close relationship after the
establishment of the Russo-French Alliance. During the prolonged recession from the
1880s to the 1890s, there was public discontent with parliamentary government, and labor
movement or socialist movement were enhanced. In 1889, General Boulanger
(ブーランジェ) won the support of anti-parliament forces, and staged an abortive coup
d'etat. In the late 1890s, the Dreyfus Affair (ドレフュス事件) divided public opinion.
There were anti-foreign nationalism and anti-Semitic trends, but in the early 20th century,
radical republicans took political leadership, the concept of the separation of church and
state was adopted and social policies were pushed forward. The economy went into
a recovery phase. Externally, France aggressively promoted colonization of Morocco
and elsewhere.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、239頁~240頁)

Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19  Nation-State System and the Cold War 
1 Hegemony of the United States and the Development of the Cold War


■Establishment of the EEC and Western Europe (フランスの第五共和政)
In France, the Fourth Republic was unstable. De Gaulle (ド=ゴール) took the helm
in 1958 triggered by the revolt of stationary troops in Algeria (アルジェリア). He established the Fifth Republic Constitution (第五共和政憲法), where the president
was given strong powers. De Gaulle developed relatively independent diplomacy,
admitted independence of Algeria in 1962, recognized China in 1964, and withdrew
from NATO in 1966 (returned in 1996).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、311頁~312頁)

≪フランスの歴史(上)~高校世界史より≫

2023-08-19 19:00:06 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪フランスの歴史(上)~高校世界史より≫
(2023年8月19日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、高校世界史において、フランスの歴史(フランス革命前まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
 参考とした世界史の教科書は、次のものである。

〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]

 また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]

 なお、世界史の予備校講師・佐藤幸夫先生は、「世界史の勉強法【全体像を知り苦手克服】」(2022年5月4日付)のYou Tubeにおいて、世界史と日本史の勉強法について、示唆的な話をしておられる。
・世界史も日本史も、6,000語の用語を覚えるのは変わりない。しかし、世界史は難しく、分かりにくいが、日本史は分かりやすい。それは、世界史の教科書は西アジア、欧米、南アジア、中国など世界の各地域が古代から“編年体”で書かれているからであるという。それに対して、日本史は“タテ”に時代順に書かれている。
・世界史の教科書を、各国史別に、または地域別、テーマ別に通読してほしいと主張している。
 たとえば、イギリスやフランスなどを“タテ”に通読し、勉強し直すと、わかりやすくなると力説しておられる。
 
 この勉強法をフランス史で実行するとしたら、今回のブログのような読み方になるのではないかと考えている。フランスに限らず、受験生は、イギリス、アメリカ、中国など地域を広げて、世界史の教科書を通読してほしい。




【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・フランスの歴史の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・フランスの歴史の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より






フランスの歴史の記述~『世界史B』(東京書籍)より


第9章 ヨーロッパ世界の形成
2西ヨーロッパ中世世界の成立


【ゲルマン人の諸王国とフランク王国の勃興】
もともとローマ帝国の北方にいたゲルマン人のなかには、傭兵やコロヌスとしてローマ帝国内に住みつく者もいた。やがて従士制にもとづく戦士集団が族長のもとに力を蓄え、ますます集団規模を拡大していった。
 フン人の西進によって圧迫されたゲルマン人はつぎつぎに移動を開始し、東ゴート人はイタリア半島で建国し、西ゴート人はガリア南部からイベリア半島にいたる王国を建てた。また、ヴァルダン人は北アフリカに、ブルグント人はガリア中部に、ランゴバルド人は北イタリアに、そしてアングル人とサクソン人はブリタニアに、それぞれ移動して定着した。このゲルマン人の大移動の結果、かつての西ローマ帝国の領内にはいくつかのゲルマン人の王国が成立した。これらは、少数のゲルマン人がケルト人やローマ人など先住の人々のなかに支配者として住みついたものであった。
 これらゲルマン人の王国はその多くが短命に終わったが、ガリア北部に進出したフランク人(Franks)は着実に勢力をのばした。有力な豪族であったメロヴィング家(Meroving)のクローヴィス(Clovis, 在位481~511)は、小国に分立していたフランク人を統一し、領土を拡大して王国をきずいた。彼は、ゲルマン諸王のなかではじめて正統派キリスト教のアタナシウス派に改宗し(496)、ローマ=カトリック教会の支持を受けた。このために、フランク王国は、アリウス派などの異端や異教を信じるほかのゲルマン人よりも有利な立場に立ち、西ヨーロッパ世界を形成する中核となった。
 メロヴィング家の王権は、権力闘争がくりかえされるなかでおとろえ、8世紀になると実権は宮宰(宮廷の最高職)の手に握られた。宮宰となったカロリング家のカール=マルテル(Karl Martell, 689~741)は、重装騎兵団を中心として軍事力を強化し、離反した諸部族の統合をすすめた。さらに、イベリア半島から北上してきたウマイヤ朝を732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでやぶり、カトリック圏での声望を高めた。彼の子ピピン3世(Pippin III, 在位751~768)は、751年、ローマ教皇の承認のもとに王位につき、ここにカロリング朝(Caroling, 751~987)がはじまった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、144頁~145頁)

【カール大帝と西ヨーロッパの統合】
ピピン3世の子カールは武勇にすぐれ、領土の統合と征服に努めた。彼は、教皇と対立していたランゴバルド(Langobard)王国を滅ぼし、北方のザクセン人などゲルマン人の豪族たちを制圧する一方、東方から侵入したアヴァール人を撃退し、イベリア半島では後ウマイヤ朝と戦った。このため、西ローマ帝国の滅亡以来失われていた西ヨーロッパの統一が実現した。そして、800年、彼は教皇レオ3世(Leo III, 在位795~816)からローマ皇帝の帝冠を受け、カール大帝(Karl der Grosse, 在位768~814、Charlemagneシャルルマーニュ)として、西ローマ帝国を受けつぐ支配者となった。
 キリスト教の保護者を自任したカール大帝は、各地に司教を配置するなどして教会組織を整え、支配の拠点とした。また、イングランドからアルクイン(Alcuin, 735ごろ~804)らの学者を宮廷に招いて、ラテン語や神学、法律などの学芸を奨励したので、この時期をカロリング=ルネサンスという。この広大な領域の統治のために、在地の豪族などを伯(管区長)に任じ、その監督のために巡察使が派遣された。しかし、伯は軍隊を統率し、裁判集会を主宰したので、皇帝の支配は、実質的には在地の豪族たちに依拠したものであった。

【フランク王国の分裂】
西ヨーロッパ世界の形成は、古代ローマ、ゲルマン、キリスト教の融合にもとづくものであり、その基礎はカール大帝の時代にすえられた。しかし、フランク王国のまとまりは、大帝個人の力量によるところが大きかった。彼の死後、王国の相続をめぐって争いがおこり、結局、ヴェルダン条約(843)とメルセン条約(870)によって王国は3分された。これらの王国は、後のドイツ、フランス、イタリアの3国のもとになった。(中略)
西フランク(フランス)では、カロリング家はノルマン人の攻撃に対処できず、威信を失って断絶した。その後、かつてノルマン人の侵入をくいとめた領主の一族から、パリ伯のユーグ=カペー(Hugues Capet, 在位987~996)が王に選出されたが(カペー朝、987~1328)、分権化の流れをおしとどめることはできず、カペー朝の勢力はパリ周辺に限られていた。

(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、146頁~147頁)

第9章5 中世的世界の動揺


【英仏の王権と身分制議会】
 イングランドは、フランスのアンジュー伯がヘンリ2世(Henry II, 在位1154~89)としてプランタジネット朝(Plantagenet, 1154~1399)を開いて以後、フランス西部にも領土を保持していた。しかしその子ジョン王(John, 在位1199~1216)は、フランス王フィリップ2世(Philippe II, 在位1180~1223)との戦争にやぶれて大陸領土の大半を失ったうえに、国内で重税を課したために、1215年、貴族たちは王にせまってマグナ=カルタ(Magna Carta、大憲章)を認めさせ、王権を一部制限した。つぎのヘンリ3世(Henry III, 在位1216~72)がこれを無視すると、シモンド=ド=モンフォール(Simon de Montfort, 1208ごろ~65)に率いられた貴族たちは王に対抗して、1265年に高位聖職者と大貴族、州と都市の代表が集まって国政を協議した。これが、現在のイギリス議会の起源となる。エドワード1世(Edward I, 在位1272~1307)時代には模範議会とよばれる身分制議会が召集され、14世紀半ばには、貴族院(上院)と庶民院(下院)の二院制となり、法律の制定や新課税には下院の承認が必要とされた。イングランドでは騎士が早くから地主化して地方のジェントリ(郷紳)となり、州の代表として下院の有力な勢力となった。

 カペー朝のフランスでは、はじめ王権はパリ中心の一部地域に限られ弱体であったが、フィリップ2世の時代から発展し、ルイ9世(Louis IX, 在位1226~70)のころにはカタリ派などの異端を弾圧したアルビジョワ十字軍によって、王の支配は南フランスにまで及びはじめた。教皇と対立したフィリップ4世は、1302年に聖職者・貴族・平民の3身分代表からなる三部会を召集し、王権の基盤の強化に成功した。

【百年戦争とバラ戦争】
 フランスのカペー朝が絶えて傍系のヴァロワ朝(Valois, 1328~1589)があとをつぐと、イングランド王エドワード3世(Edward III, 在位1327~77)はフランス王位の継承権を主張してフランスに侵攻し、のちに百年戦争(1339~1453)とよばれる断続的な戦争がはじまった。背景には、自国産羊毛の輸出先フランドルへフランスが進出することをきらうイングランドの思惑や、大陸内のプランタジネット家領地をめぐる英仏両王家の対立があった。
 はじめはイングランドが優勢で、15世紀に入るとフランス国内は、イングランドと結んだブルゴーニュ公派とフランス国王派との内戦のような状態となった。ところが、神のお告げを受けたと信じる農民の娘ジャンヌ=ダルク(Jeanne d’Arc, 1412~31)が出現し、オルレアンの解放を機に、シャルル7世(Charles VII, 在位1422~61)が反攻に転じると、フランスはカレー市を除く全領土を確保して、戦争は終わった。
 フランスでは諸侯・貴族の力が後退し、王権が伸長した。イングランドでは百年戦争後、ランカスター家とヨーク家とが王位を争い、貴族が両派に分裂してバラ戦争(1455~85)とよばれる内戦となったが、ランカスター派のヘンリ7世(Henry VII, 在位1485~1509)が収拾してテューダー朝(Tudor, 1485~1603)を開いた。テューダー朝は星室庁裁判所を設けて反抗をおさえ、王権強化への道を開いた。

<ジャンヌ=ダルク>
・ジャンヌは最後には異端の罪で火刑に処された。「救国の少女」として称賛されるようになるのは、19世紀末にフランス・ナショナリズムが高揚するなかでのことで、1920年には聖女として列せられた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、161頁~162頁)

第14章 近世のヨーロッパ
2オランダの繁栄と英仏の追いあげ


【フランスの内乱】
 フランスでは、16世紀後半、カルヴァン派のユグノーとカトリック教徒が対立し、これに大貴族間の勢力争いがからんで、ユグノー戦争(1562~98)がおこった。この宗教戦争では、サン=バルテルミの虐殺(1572)のような惨事もおき、またスペインなど外国勢力の干渉も加わった。ヴァロワ朝はこの内乱のなかで断絶し、ユグノーの指導者アンリ4世(Henri IV, 在位1589~1610)がブルボン朝(Bourbon, 1589~1792. 1814~1830)を開いた。彼は自らカトリックに改宗する一方、1598年、ナントの勅令を発して個人の信仰の自由を認め、内乱をおさめた。
 17世紀、ルイ13世(Louis XIII, 在位1610~43)の時代になると、宰相リシュリュー(Richelieu, 1585~1642)が大貴族やユグノーをおさえて王権の強化に努め、対外的にはハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に介入した。ついでルイ14世(Louis XIV, 在位1643~1715)の幼時には、宰相マザラン(Mazarin, 1602~61)がその政策を受けついで、中央集権化をすすめた。これに対して、高等法院(Parlement)や貴族、民衆は1648年にフロンドの乱(Fronde, 1648~53)をおこしたが、鎮圧された。

【フランス絶対王政の追求】
 マザランの死後、ルイ14世の親政がはじまった。王は王権神授説を唱え、「朕は国家なり」といったといわれるように、君主権の絶対・万能を主張した。そのため絶対王政(絶対主義, absolutism)ともいわれるが、国王が絶対的な権力をふるえたわけではなかった。ルイ14世はまた官僚制と常備軍を整え、財務長官にコルベール(Colbert, 1619~83)を登用して徹底した重商主義(mercantilism)政策を行い、オランダの商業覇権に挑戦した。「太陽王」とよばれたルイ14世は、力を誇示するために豪華なヴェルサイユ宮殿をつくり、はなやかな宮廷生活を営んだ。各国はこれを模倣し、フランス語は外交用語として用いられ、フランスはヨーロッパの宮廷文化の中心となった。
 ヨーロッパと海外での覇権をめざしていたルイ14世は、さかんに周辺諸国に侵入し、南ネーデルラント継承戦争(1667~68)、オランダ侵略戦争(1672~78)、ファルツ継承戦争(1688~97)をおこした。さらにスペイン継承戦争(1701~13)では、イギリス、オランダ、オーストリアを相手に戦い、1713年にユトレヒト条約を結んだ。その結果、王は自分の孫をスペイン王位につけたものの、海外発展をねらうイギリスにハドソン湾地方などの植民地を奪われた。長年の戦争と宮廷の浪費のため、国民は重税に苦しみ、また、度重なる冷害などにより、各地で農民一揆がおこった。そのうえ、王が信仰の統一をはかるため1685年にナントの勅令を廃止すると、弾圧されたユグノーの商工業者がオランダやイギリスなどの新教国に移住し、フランス経済はこの面からも打撃を受けた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、250頁~252頁)

第14章近世のヨーロッパ
4近世ヨーロッパの社会と文化


【探検と啓蒙思想】
 ヨーロッパ人の海外進出が本格化した近世後半、ヨーロッパには世界各地からの商品や情報が流入した。旅行記や探検記は、ヨーロッパとは別の世界や文化の存在を伝え、17~18世紀の西洋では中国の文物が流行し、もてはやされた。こうしたなかからヨーロッパを異文化の目から見直す動きが出てきて、伝統や信仰が相対化され、進歩の観念が生まれた。
 18世紀には、人間の理性の光に照らして事物を検討し、迷信や偏見を打破すべきことを主張する啓蒙思想があらわれ、教会や絶対王政の批判を行った。モンテスキュー(Montesquieu, 1689~1755)は『法の精神』を著して、王権に対して貴族の利益を守るために三権分立を主張し、ヴォルテール(Voltaire, 1694~1778)は『哲学書簡』でフランスの後進性を批判し、『人間不平等起源論』や『社会契約論』を著したルソー(Rousseau, 1712~78)は、自由平等と人民主権を説いた。ディドロ(Diderot, 1713~84)やダランベール(d’Alembert, 1717~83)らが編集した『百科全書』は、啓蒙思想の普及を助けた。彼らが唱えた、理性を万能とみる合理主義や、個人を社会の基本要素とする個人主義、個人の自由な行動が社会の発展をもたらすとする自由主義は、後世に大きな影響を及ぼした。

【宮廷生活と芸術】
 絶対王政において宮廷は、貴族や外国の使節に力を誇示する場でもあり、王宮の建築には莫大な費用が投じられた。ルイ14世が建造したヴェルサイユ宮殿がその代表で、この豪壮華麗なバロック様式の宮殿には、建築、造園、家具、調度にいたる当時の最高技術が結集された。18世紀半ば、フリードリヒ2世によってポツダムに建てられたサンスーシ宮殿は、より繊細で優美なロココ様式(rococo)によった。また、宮廷を中心として料理も洗練され、各種料理の基本型ができあがり、宮廷の儀典・社交を通じて礼儀作法も体系化された。
 演劇と音楽や舞踊も宮廷の娯楽として発展をとげた。ルイ14世のもとで、コルネイユ(Corneille, 1606~84)とラシーヌ(Racine, 1639~99)の悲劇、モリエール(Molière, 1622~73)の喜劇などフランス古典主義演劇の傑作が生まれ、音楽や舞踏では軽妙な旋律をもち、視覚的な要素の強いバレエが発達した。ドイツでは、理論的に構成された音楽が好まれ、バッハ(Bach, 1685~1750)やヘンデル(Hӓndel, 1685~1759)がバロック音楽を大成し、18世紀後半にはハイドン(Haydn, 1732~1809)、モーツァルト(Mozart, 1756~91)が交響曲をつくり、この古典楽派の流れから、18世紀末にはベートーヴェン(Beethoven, 1770~1827)が登場する。
 美術も、スペインのベラスケス(Velάzquez, 1599~1660)、エル=グレコ(El Greco, 1541~1614)やムリリョ(Murillo, 1617~82)、フランドルのルーベンス(Rubens, 1577~1640)やファン=ダイク(Van Dyck, 1599~1641)の肖像画にみられるように、宮廷の装飾として発展した。オランダのレンブラント(Rembrandt, 1606~69)は、市民とその生活を描き、「夜警」などの写実性と内面性に富む多くの傑作を残した。18世紀には、これらのバロックの巨匠にかわって、フランスのワトー(Watteau, 1684~1721)などによるロココ様式の絵画が流行した。
 いっぽう、市民層の成長が早かったイギリスでは、17世紀のミルトン(Milton, 1608~74)(『失楽園』やバンヤン(Bunyan, 1628~88)(『天路歴程』)らのピューリタン文学をへて、市民の感情や倫理を表現する小説がさかんになった。そして18世紀前半には、イギリスの海外発展を反映して、デフォー(Defoe, 1660~1731)の『ロビンソン=クルーソー』やスウィフト(Swift, 1667~1745)の『ガリヴァー旅行記』などの寓意的な作品が生みだされた。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、260頁~261頁)

フランスの歴史の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より


第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展
1 西ヨーロッパ世界の成立



【フランク王国の発展】
ゲルマン諸国家の大半が短命だったのに対し、その後着実に領土を広げ、最有力国として西ヨーロッパ世界形成に大きな役割をはたしたのは、フランク王国であった。
481年にフランク王に即位したメロヴィング家(Merovingians)のクローヴィス(Clovis, 在位481~511)は、その後全フランクを統一した。これによりフランク王国はガリア中部を支配下におき、東ゴート王国にならぶ強国となった。当時ほかのゲルマン人の多くが異端であるアリウス派キリスト教を信仰していたのに対し、クローヴィスは正統派のアタナシウス派に改宗した。これはフランク王国がローマ人貴族を支配層に取り込んで、西ヨーロッパの中心勢力になる一因となった。6世紀半ば、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼして全ガリアを統一したが、8世紀にはメロヴィング朝(481~751)の権力は衰え、王家の行政と財政の長官である宮宰(マヨル=ドムス major domus)が実権を掌握するようになった。
この頃、アラビア半島から急速に広がって地中海世界に侵入したイスラーム勢力が、フランク王国にもせまりつつあった。ウマイヤ朝時代、アラブ人のイスラーム勢力が北アフリカを西進し、イベリア半島にわたって西ゴート王国を滅ぼし(711年)、さらにピレネー山脈をこえてガリアに侵攻しようとしたのである。メロヴィング朝の宮宰カール=マルテル(Karl Martell 688頃~74)は、732年トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退し、西方キリスト教世界を外部勢力からまもった。その子ピピン(Pippin, 小ピピン 在位751~768)は、751年メロヴィング朝を廃して王位につき、カロリング朝(Carolingians, 751~987)を開いた。
 古代以来続いてきた地中海世界は、ゲルマン人の大移動や西ローマ帝国の滅亡によって、すでにその政治的・文化的統一性を失いつつあったが、イスラーム勢力の侵入によってその流れは決定的なものとなった。

【カール大帝】
ローマ教会とフランク王国との関係は、ピピンの子カール大帝(Karl, 在位768~814:シャルルマーニュ Charlemagne)の時代にもっとも深まった。彼はランゴバルド王国を征服、北東のザクセン人(Sachsen)を服従した。その結果、大陸における大多数のゲルマン諸部族は統合され、ローマ=カトリックに改宗させられた。彼はまた、東ではアルタイ語系のアヴァール人(Avars)を、南ではイスラーム勢力を撃退し、西ヨーロッパの主要部分はフランク王国によって統一された。カールは広大な領土を集権的に支配するため、全国を州にわけ、地方の有力豪族を各州の長官である伯に任命し、巡察使を派遣して伯を監督させた。こうしてフランク王国は、ビザンツ帝国にならぶ強大国となった。
ここにおいてローマ教会は、ビザンツ皇帝に匹敵する政治的保護者をカールに見出した。800年のクリスマスの日に、教皇レオ3世(Leo III, 在位795~816)はカールにローマ皇帝の帝冠を与え、「西ローマ帝国」の復活を宣言した。カールの戴冠は、西ヨーロッパ世界が政治的・文化的・宗教的に独立したという重要な歴史的意義をもつ。ローマ以来の古典古代文化・キリスト教・ゲルマン人が融合した西ヨーロッパ中世世界が、ここに誕生した。(下略)

【分裂するフランク王国】
カールの帝国は一見中央集権的であったが、実態はカールと伯との個人的な結びつきの上に成り立つものにすぎなかった。そのため彼の死後内紛がおこり、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約により、帝国は東・西フランクとイタリアの三つに分裂した。これらはそれぞれのちのドイツ・フランス・イタリアに発展した。(中略)
 西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家の血筋が断絶し、パリ伯ユーグ=カペー(Hugues Capet, 在位987~996)が王位についてカペー朝(987~1328)を開いた。しかし王権はパリ周辺などせまい領域を支配するのみできわめて弱く、王に匹敵する大諸侯が多数分立していた。(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、123頁~127頁)


【イギリスとフランス】
 13~14世紀以後ヨーロッパ各国の王は、課税などを要請するため、貴族・聖職者および都市の代表が出席する身分制議会を開き、話し合いをとおして国内統一をはかった。王権の伸張と中央集権化の歩みは、各国でさまざまな展開をみせた。(中略)
 フランスのカペー朝(Capet)のもとでは、はじめ王権は北フランスの一部を領有するだけのきわめて弱い勢力で、大諸侯の勢いが強かった。しかし12世紀末に即位した国王フィリップ2世(Philippe Ⅱ, 在位1180~1223)は、ジョン王とたたかって国内のイギリス領の大半を奪い、またルイ9世(Louis IX, 在位1226~70)は、南フランス諸侯の保護をうけた異端のアルビジョワ派(Albigeois, カタリ派 Cathari)を征服して王権を南フランスにも広げた。さらにフィリップ4世は、ローマ教皇ボニファティウス8世との争いに際して、1302年に聖職者・貴族・平民の代表者が出席する三部会を開き、その支持を得て教皇をおさえ、王権をさらに強化した。

【百年戦争とバラ戦争】
フランス王国は毛織物産地として重要なフランドル地方を直接支配下におこうとしたが、この地方に羊毛を輸出して利益をあげていたイギリス国王は、フランスがこの地方に勢力をのばすのを阻止しようとした。カペー朝が断絶してヴァロワ朝(Valois, 1328~1589)がたつと、イギリス国王エドワード3世(Edward III, 在位1327~77)は、母がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに両国のあいだに百年戦争(1339~1453)が始まった。
 はじめ長弓兵を駆使したイギリス軍が、クレシーの戦いでフランス騎士軍を破るなど優勢で、エドワード黒太子(Edward, the Black Prince, 1330~76)の活躍によりフランス南西部を奪った。フランス国内はさらに黒死病の流行やジャックリーの乱などで荒廃し、シャルル7世(Charles VII, 在位1422~61)のときには王国は崩壊寸前の危機にあった。このとき、国を救えとの神の託宣を信じた農民の娘ジャンヌ=ダルク(Jeanne d’Arc, 1412~31)があらわれてフランス軍を率い、オルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。これよりフランスは勢いをもりかえし、ついにカレーを除く全国土からイギリス軍を追い出して、戦争はフランスの勝利に終わった。この長期の戦争のためフランスでは諸侯・騎士が没落した。その一方でシャルル7世は大商人と結んで財政をたて直し、常備軍を設置したので、以後、中央集権化が急速に進展した。
 一方、戦後のイギリスではランカスター(Lancaster)・ヨーク(York)両家による王位継承の内乱がおこった。これをバラ戦争(1455~85)という。(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、144頁~147頁)

第8章 近世ヨーロッパ世界の形成
4 ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家体制の形成



【フランスの宗教内乱と絶対王政】
 フランスは百年戦争の結果、ヴァロワ朝のもとで国内のイギリス領をほぼ一掃し、中央集権的国家への道を歩んできた。しかし、旧教国フランスでも、16世紀半ばにはユグノー(Huguenot)と呼ばれるカルヴァン派の新教徒勢力が無視できなくなり、シャルル9世(Charles IX, 在位1560~74)と母親の摂政カトリーヌ=ド=メディシス(Catherine de Médicis, 1519~89)のもとでユグノー戦争(1562~98)という内乱が勃発した。
 この内乱は新旧両宗派の対立が貴族間の党派争いと結びついたもので、サンバルテルミの虐殺などの事件をともないながら、30年以上におよんだ。これには外国勢力の介入もみられたため、フランスでは、思想家ボーダン(Bodin, 1530~96)をはじめ、宗教問題よりも国家の統一を優先しようとする人々が増えていった。ブルボン家のアンリ4世(Henri IV, 在位1589~1610)は王位につくと新教から旧教に改宗し、1598年のナントの王令(勅令)でユグノーにも大幅な信教の自由を与えて、ユグノー戦争を終わらせた。こうして、フランスの国家としてのまとまりが維持された。

 アンリ4世に始まるブルボン朝(Bourbon, 1589~1792, 1814~30)のもとで、フランスは絶対王政の確立期を迎えた。ルイ13世(Louis XIII, 在位1610~43)の宰相リシュリュー(Richelieu, 1585~1642)は、王権に抵抗する貴族やユグノーをおさえて三部会を開かず、国際政治の面では、三十年戦争の際、新教勢力の側にたってハプスブルク家の皇帝権力をくじこうとつとめた。王権強化の政策は宰相マザラン(Mazarin, 1602~61)によって継続され、ルイ14世即位後の1648年には高等法院や貴族が反乱(フロンドの乱, Fronde, 1648~53)をおこしたが、数年間で終息した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、219頁~220頁)

第9章 近世ヨーロッパ世界の展開
1 重商主義と啓蒙専制主義


【ルイ14世の時代】
 フランスでは、1661年の宰相マザランの死後、国王ルイ14世(Louis XIV, 在位1643~1715)が親政を開始し、強大な権力をふるって「太陽王」と呼ばれた。彼はコルベールを財務総監に任じて重商主義政策を展開する一方、大規模な宮殿をヴェルサイユに建造し、その宮廷には貴族や芸術家が集められた。宮廷生活は細部にいたるまで儀式化され、それが国王の権威を高めた。また、王権は治安・交通・衛生などに関わる諸問題に積極的に取り組んだ。しかし、貴族や都市自治体などの特権団体がいぜんとして大きな勢力をもっていたため、王権による中央集権化のすすみ方はゆるやかであった。
 ルイは軍隊を増強し、侵略戦争をたびたびおこしたが、周囲の国は連合してこれに抵抗した。ルイはピレネー条約(1659年)の結果スペイン王女を后(きさき)としていたので、1700年にスペインのハプスブルク家が断絶したとき、彼の孫がフェリペ5世(Felipe V, 在位1700~24, 24~46)として王位を継いだが、ハプスブルク家のオーストリアはこれに反対した。フランスでは、イギリス・オランダなどと連合したオーストリアとたたかい(スペイン継承戦争, 1701~13年)、ユトレヒト条約(13年)によって、スペイン・フランス両国は合同しないという条件で、ブルボン家のスペイン王位継承を各国に認めさせた。
 しかし、一般の国民は多額の戦費と宮廷費をまかなう税金の負担に苦しみ、またナントの王令の廃止(1685年)によって、ユグノーの商工業者が大量に亡命したことで国内産業の発展も阻害された。1715年にルイ14世の曾孫のルイ15世(Louis XV, 在位1715~74)が王位につき、その治世中に外国貿易は急増したが、国王は政治的な指導力に欠けていた。

(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、227頁~228頁)



英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より



Chapter 9 :Establishment of European Society
2 The Middle Ages of the Western Europe
ガリア、メロヴィング朝、カロリング朝

■Germanic Migrations and the Frankish Kingdom
 The Germanic peoples dwelling north of the Roman Empire, repeated small scale
migrations, putting pressure on the Celts. Some of them lived in the Roman Empire as
peasants and mercenaries (傭兵). Fighter groups, who were based on the Gefolgschaft (a set of
reciprocal legal and military obligations 従士制), kept their power under the tribal chiefs. And the scale
of group expanded more and more, demanding better living conditions.
As the result of the Germanic migrations (ゲルマン人の大移動), several Germanic states were established in the territory of the former Roman Empire. These were the kingdoms where small numbers of Germanic peoples settled among former occupants, Celts and Romans.
Although most of the Germanic states did not last long, the Franks (フランク人) advanced to the
northern part of Gaul (ガリア) and steadily expanded their power. Clovis (クローヴィス) of
the Merovingian family, a prominent powerful family, unified separated independent Frankish countries and expanded its territory to establish a kingdom. He was the first king among the Germanic
kings to convert to Christianity, and got support from the Roman Catholic Church (ローマ=カトリック教会). Thus the Frankish kingdom had an advantage over other Germanic peoples who believed in
heresy (異端) or in paganism (異教). It would become the core of the latter western Europe.
The reign of the Merovingians (メロヴィング家) weakened in the course of their power struggles.
In the 8th century, actual power was in the hands of the palace mayor (宮宰[宮廷の最高職]), the highest
position in the Court. Charles Martel (カール=マルテル) of the Carolingians became a court chancellor
and strengthened military forces with heavy cavalry, and then unified the various tribes that were once
separated. In 732, he defeated the Muslim power (the Umayyad dynasty, ウマイヤ朝), which came up
north from the Iberian peninsula, at the Battle of Tours-Poitiers (トゥール・ポワティエ間の戦い).
This gave him respect in Catholic society. His son, Pippin III (ピピン3世), became king in 751, and
was authorized by the Pope. And thus the Carolingian dynasty (カロリング朝) began.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、115頁)

■Political Unification of Western Europe
A son of Pippin III, Charles (カール) tried hard to unify and expand his kingdom’s territory. He
destroyed the Lombard kingdom (ランゴバルド王国) which had conflict with the Pope, and took control of powerful Germanic leaders such as the Saxons (ザクセン人) north of the Frankish kingdom.
He also repelled the Avars, who invaded from the east, and fought with the Islamic power in
the Iberian peninsula. As the result, western Europe was unified once again for the first
time since the fall of the Western Roman Empire (西ローマ帝国). In this way he was crowned as Roman Emperor by Pope Leo III, and, succeeding the Western Roman Empire in 800, which he
ruled as Charles the Great (カール大帝, Charlemagne シャルルマーニュ).
Charles the Great declared himself as a protector of Christianity and re-established the church
organization by assigning priests to various place as bases for controlling territory. He invited scholars
such as Alcuin (アルクイン) from England to promote scholarship and the arts such
as Latin, theology and law. This period is called the Carolingian Renaissance (カロリング=
ルネサンス). In order to control his vast territory, he appointed members of powerful local families
as counts (伯, heads of the districts 管区長) and then dispatched royal officers on inspection rounds
to supervise them. Counts took the reigns of their army and organized court judicial assemblies,
thus the controlling power of the emperor in fact depended on the power of the local families.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、116頁)

■Division of the Frankish Kingdom
Western Europe was established by blending of ancient Rome, the Germans and Christianity,
and its base was formulated at the time of Charles the Great. But the solidarity of the Frankish kingdom
was due to the emperor’s own ability. After he died, conflicts over inheritance occurred in the kingdom.
After all of this was over, the kingdom was divided into three kingdoms by the Treaties of Verdun
and of Meerssen (ヴェルダン条約とメルセン条約). Those were the origins of Germany, France,
and Italy…

The Carolingian dynasty in the western Frankish kingdom (西フランク, France フランス) could not
cope with the Normans’ attack (ノルマン人), and came to an end. After that, Hugues Capet, a count of Paris (パリ伯のユーグ=カペー) and a member of the powerful family who once stopped the Norman
invasion, was chosen to be king (the Capetian dynasty, カペー朝). But he could not defend the move
toward decentralization, and its power was restricted to the region around Paris.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、117頁)

6 The Middle Ages in Crisis

■The Royal Power in England and France and the Estates
In early days of the Capetian dynasty (カペー朝) in France, the power of king was restricted to small district around Paris, and it was not so influential. But it began to be
enlarged in and after the days of Philip II (フィリップ2世). Then it expanded to southern
France during the reign of Louis IX (ルイ9世), supported by the Albigensian Crusade,
which suppressed heretics, such as the Cathars (カタリ派), Philip IV (フィリップ4世),
opposed to the Pope, and convoked the Estates General (三部会) composed of the clergy,
aristocrat and common people in 1302. Thus he succeeded to strengthen the bases of royal
authority.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、127頁~128頁)

■The Hundred Years’ War
After the French Capetian dynasty collapsed, the Valois dynasty (ヴァロワ朝),
a collateral line of the previous dynasty, succeeded it. Then Edward III (エドワード3世),
King of England, invaded France to claim his own regal power. This was the start of
a long war, which was later called “The Hundred Years’ War (百年戦争)”.
As the background, England wanted to stop France from advancing into
Flanders, the export destination for the English wool. There was also conflict between the
two kingdoms over the English king’s territory on the continent.
At first, England was more powerful than France, and the situation in France was
virtually a civil war between the monarchical party and the pro-England party. But the
situation reversed when France won the Battle of Orleans (オルレアンの攻囲), led by
a peasant’s daughter, Joan of Arc (ジャンヌ=ダルク), who believed herself to have been
inspired by the God. In the days of Charles VII (シャルル7世), France controlled all
districts except Calais (カレー市) before the war was over.
In France, the power of princes and aristocrats weakened and the king’s power
strengthened. In England, the House of Lancaster (ランカスター家) and the House of
York (ヨーク家) fought for the throne, and the aristocrats were torn into two parties.
England then entered into a civil war called the “Wars of the Roses (バラ戦争)”. In the end,
Henry VII (ヘンリー7世) of the Lancastrian family settled this situation
and founded the Tudor dynasty (チューダー朝). The king established the Court of Star
Chamber (星室庁裁判所) to control the opposing parties and opened the way to strengthen
the king’s power.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、128頁)

Chapter 14: Modern Europe
2 Prosperity of the Dutch Republic and the Up-and-Coming England and France
■Civil War in France
In France, the Huguenots (French Calvinists) had conflicts with Catholics. These conflicts were associated with the power struggles between dominant aristocrats and resulted in the Huguenot War (ユグノー戦争). There were miserable incidents like the Massacre of Saint Barthelemy (サン=バルテルミの虐殺), and also interferences by foreign
powers like Spain. In the course of this internal battle, the Valois dynasty ended, and
Henry IV (アンリ4世), a leader of Huguenots, established the Bourbon dynasty
(ブルボン朝). He converted to Catholicism and issued the Edict of Nantes (ナントの勅令)
to give people the freedom of religion, and then put internal battles under the control.
In the period of Louis XIII in the 17th century, prince minister Richelieu (リシュリュー)
tried to strengthen the power of the king by controlling dominant aristocrats and the
Huguenots. Externally, he interfered in the Thirty Years’ War against the Hapsburg.
And in the early days of the following Louis XIV (ルイ14世), prime minister Mazarin
(マザラン) took over this policy to further promote the centralization of the government.
The parliament, the aristocrats and commoners raised the Fronde (フロンドの乱, a series
of civil wars) in 1648, but it was suppressed.

■Pursue of French Absolute Monarchy
After Mazarin died, Louis XIV began to rule France. He declared the theory of divine
right of kings (王権神授説). He also insisted the sovereign right and absolute power of
the ruler of the universe. It is often said that he declared “The state, it’s me (朕は国家なり)”.
Thus his state is called absolute monarchy (absolutism, 絶対主義), but it does not mean
the king had absolute power. He took definite mercantile policy by establishing bureaucracy and a full-time army and named Colbert (コルベール) as the treasury secretary, then challenged against the Netherlands’ hegemony of commerce. Louis XIV,
called the “Sun King (太陽王)”, built the gorgeous Versailles Palace (ヴェルサイユ宮殿)
to demonstrate his power and enjoyed a splendid palace life. Other countries followed suit,
and French was used as the diplomatic language. Thus France became a center of
European court culture.
Louis XIV, hoping to attain hegemony overseas, often invaded neighboring countries
and gave rise to the War of Devolution (the Succession War in the southern Netherlands),
the Franco-Dutch War and the Palatine Succession War. In the War of the Spanish
Succession (スペイン継承戦争) he fought with England, the Netherlands and Austria,
and finally concluded the Treaty of Utrecht (ユトレヒト条約) in 1713. As a result, he
installed his grandson as King of Spain, but some colonies like the Hudson Bay area
were seized by England, which aimed for international expansion. Ongoing wars and
extravagance in the court brought suffering to ordinary people through heavy taxes.
Together with repeated cold weather damage, it led to peasant riots in various places.
When the king abolished the Edict of Nantes (ナントの勅令廃止) in order to unify
religion, the Huguenot merchants and craftsmen, who were oppressed, left for Protestant
countries like the Netherlands and England. This brought additional damage to the French
economy.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、199頁~200頁)

啓蒙思想
Chapter 14 : Modern Europe
4 Society and Culture in the Early Modern Europe
■Expedition and Enlightenment
In the latter half of early modern period, when overseas advances by Europeans
moved into high gear, products and information were brought into Europe from all over the
world. Travel records and expedition records informed the existence of other worlds and
cultures which were much different from European ones. In the 17th to 18th century Europe,
Chinese goods became popular and were well admired. In this situation, a movement to
reconsider Europe from the viewpoint of different cultures occurred, then tradition and
religion were relativized, and concept of progress (進歩の観念) was born.
In the 18th century, the Enlightenment (啓蒙思想) appeared. It insisted that things should be observed in the light of human rationality, and that superstition and prejudice should be abolished. It criticized church and absolute sovereignty. Montesquieu
(モンテスキュー) published The Spirit of Law (法の精神) and insisted on independence
of the three branches of government in order to protect the interests of the aristocrats
against royal power. Voltaire (ヴォルテール) wrote The Letter of Philosophy (哲学書簡)
and criticized backwardness of France. Rousseau (ルソー) wrote The Discourse on the
Origin and Foundations of Inequality among Men (人間不平等起源論) and The Theory of
the Social Contract (社会契約論) and preached the idea of freedom, equality and the
people’s sovereignty. Encyclopedia (百科全書), compiled by Diderot (ディドロ), d’Alembert
(ダランベール) and others, helped develop the idea of enlightenment. Rationalism
(合理主義) regarded human reason as almighty; individualism (個人主義) regarded
individual as fundamental element of society; and liberalism (自由主義) regarded
people’s free activity as the factor of social development. Such ideas were advocated
by those people and gave large impact to the world’s future.

■Court Life and Art
In the days of the absolute monarchy, the court was the place to exhibit the king’s
power to aristocrats or foreign delegations. For that reason, a vast amount of money was
spent on the construction of palaces. Versailles Palace (ヴェルサイユ宮殿), constructed by
Louis XIV, was the best example for this activity. State-of-the-art techniques of the day
were combined in architecture, gardening and furniture-making to create this splendid
Baroque style (バロック様式) palace. The Sans Souci Palace (サンスーン宮殿), constructed
in Potsdam by Frederick II in the mid-18th century, adopted a Rococo style (ロココ様式)
which was more sensitive and elegant. Also, the food affected by court life became more
sophisticated and the basic style of various dishes was established. Manners were
organized through ceremony and social intercourse of the court.
As for entertainment in the court, plays, music and dance were developed. Under the
reign of Louis XIV, the masterpieces of French classical theater, such as the tragedies
by Corneille (コルネイユ) and Racine (ラシーヌ), and comedies by Moliere (モリエール),
were produced. And in music and dance, ballet, which had strong visual factors as well as
light and smart rhythm, evolved
In Germany, people loved music which was theoretically composed. Bach (バッハ) and
Hӓndel (ヘンデル) established Baroque music, and at the end of the 18th century, Haydn (ハイドン)
and Mozart (モーツァルト) composed symphonies. In the stream of this classical music school,
Beethoven (ベートーヴェン) appeared at the end of the 18th century.
Painting also developed to decorate the court, as seen in portraits by Velazquez (ベラスケス),
El Greco (エル=グレコ) and Murillo (ムリリョ) of Spain, Rubens (ルーベンス) and Van Dyck
(ファン=ダイク) of Flandre. Rembrandt (レンブラント) of Holland painted citizens and their
life and produced many masterpieces which depicted reality and interiority like “Night Watch (夜警)”.
But in the 18th century, great masters of the Baroque style were replaced by the Rococo style,
like the works by Watteau (ワトー) of France.
In England, where the citizen class was established relatively early, Puritan literature,
such as Paradise Lost (失楽園) by Milton (ミルトン) and The Pilgrim’s Progress (天路歴程)
by Bunyan (バイヤン), was followed by novels which described the feeling and ethics of citizen.
Then in the 18th century, as the reflection of overseas development of England, fables were produced,
like Robinson Crusoe (ロビンソン=クルーソー) by Defoe (デフォー) and Gulliver’s Travels
(ガリバー旅行記) by Swift (スウィフト).
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、206頁~207頁)