歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その14中国14》

2018-07-21 18:30:36 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その14中国14》

24中国14 清Ⅱ
この篇には清宣宗道光元年(1821)から、清王朝の滅亡(1912)の前後に至るまで、およそ92年間の書蹟を収めている。また清王朝の金石学を全般的に取り扱っている。

中国書道史14    神田喜一郎
清王朝の嘉慶・道光時代、すなわち19世紀初めのころになって、中国の書法には、碑学の勃興という大きな変革がもたらされた。
清王朝では、その初期から考証学という実証的な学問が栄えた。この考証学の一翼として、金石文字を取り上げて研究する、いわゆる金石学が発達した。各地方の埋もれた金石資料を探し求め、発見されたのが、南北朝時代、とくに北朝に属する地域に残存した石刻である。それらの石刻の書には、当時のままの生々とした姿が伝えられていて、模刻を重ねて伝わった法帖などによる王羲之派の書に馴れた者には、精彩のあるものとして映じた。
この北魏の書に初めて注目したのが、阮元(1764-1849、図26、27)である。彼は「南北書派論」および「北碑南帖論」という画期的な論文をかいたが、これらの論文は中国書壇に一大革命をまきおこす素因となった。そこでは、次のようなことを論じている。
南北朝時代においては、南朝と北朝とでは書風が全く異なっているという。南朝の書を伝えるものは法帖であり、北朝の書を伝えるものは北碑であるが、北碑の書はその中になお古代の隷法の遺意を存しているのに対して、南帖の書はこれを失ってしまっているから、北碑の書こそ、書法の正統とすべきであるというのである。つまり、今日の楷書や行書や草書は本来隷書の変化したものであるから、隷書の遺意を存していることが必要であるというのがその要旨である。
この阮元の説は、これまでの二王の典型を尊ぶ帖学にとっては、その急所を衝いたもので、書を学ぶ人々には大きな刺激と反省を与えた。
この説に共鳴したのが包世臣(1775-1855、図36-39)である。「芸舟雙楫」という著作において、北碑の書法を尊重すべきことを説きたてた。のみならず、包世臣は阮元のように単に大局から見た理論だけを説いたのではなく、実際の書法の技術面まで委しく説いたので、その影響は大きかったという。そして中国の書法を帖学から碑学へと一大転換させた。
ただ、そうはいうものの、阮元と包世臣は、どちらかといえば、書法の実技よりも実は理論を説くにすぐれていたと神田喜一郎は理解している。現にこの二家の揮毫した書(図26、27、図36-39)を見ると、たいていは穏健な帖学派の書であって、必ずしも北碑の書風を全面的に摂取していないと神田はみている。したがって、いわゆる碑学が隆盛におもむくには、この二家の理論のほかに、実際そういう書をよくした書家の業績が必要であった。その書家の一人が、鄧石如(1743-1805、図2-13)である。包世臣は鄧石如を碑学派の第一人者として推称した。鄧石如は普通には完白の号で知られているが、彼は秦漢の古碑に遡って篆隷の書法を深く追求して新しく篆隷の書法を発明し、また北碑をも学び、いわゆる碑学の開祖となった。その作「四体帖」(図2-13)は遒麗ならぶものがないと神田は評している。
鄧石如につぐ碑学派の大家は、伊秉綬(い・へいじゅ、1754-1815、図16-21)である。
彼は隷書をよくし、その法を行草にも応用して、異色のある書をかいた。鄧石如に比べるとその力量は劣るが、書風の高古なところに一種の特徴を示している。この鄧、伊の二家は乾隆の末から嘉慶にかけて、生新な書法を実技の上にあらわし、とりわけ鄧完白は当時の士流に推称されて、縦横の筆力を揮い、世間の耳目を驚かした。
一方においてはまだ帖学の名家も存し、また篆隷においても銭坫(せん・てん、1741-1806)、図15)といった反対派がいたが、鄧、伊の生新な書風はこれらの伝統派の諸家を圧倒し、道光年間(1821-1850)になると、その書風はついに天下を風靡した。この書風は二王の典型を尊ぶ帖学派とは対照的な立場にたつものであるが、また唐の顔真卿以来の革新派の書風とも異なったもので、中国の書道に全く新しい分野を開拓した。
この新しい傾向の諸家としては、次の人々がすぐれている。
・桂馥(1736-1805、図1)
・陳鴻寿(1768-1822、図28-31)
・姚元之(1776-1852、図35)
・呉熙載(1799-1870、図42-45)
・何紹基(1799-1873、図46-55)
・呉雲(1811-1883、図58)
いずれも書をよくするとともに、金石の研究にも熱心であった。とりわけ何紹基ははじめ顔真卿の書から入ってのち、北碑に進んだ人で、行草においても高い風格を示し、この道の学問においても造詣が深かった。鄧、伊にならんで、こうした人々が輩出し、ここに碑学の全盛時代を現出した。
ところで、碑学は清末に至るまで隆盛であった。咸豊・同治時代には趙之謙(1829-1884、図70-75)が現れた。彼は書画篆刻いずれにもすぐれていたが、書においては北碑の特異な方筆の書法を巧みに駆使して、一種の勁抜な作風を作り出し、鄧石如、何紹基についで碑学派の大家として名を馳せた。この三家は同じく北碑を学んだのであるが、鄧は剛健、何は渾厚、趙は清勁と、それぞれの特質を発揮した。
また趙之謙とほぼ同時代の大家に、張裕釗(ちょう・ゆうしょう、1823-1894、図66-69)がいる。彼は曽国藩(1811-1872、図57)の門人で、書法の専門家ではないが、北碑の書法の上に唐宋の筆法を加味して、気品の高い書をつくった。
清末の光緒時代になると、康有為(1858-1927、図94-97)が出て、包世臣の著述のあとを受けて『広芸舟雙楫』を著し、包の説を一層強調した。
ただしこの時代になると、碑学派がひきつづき隆盛をきわめたが、その間気分の変わったものが生じてきた。
楊沂孫(1813-1881、図59)、呉大澂(1835-1902、図82、83)は三代の古銅器の銘文にさかのぼり、楊峴(1819-1896、図62-65)は同じ隷法といっても、古い漢碑の「開通褒斜道碑」のようなものを好み、また呉昌碩(1844-1927、図91-93)はもっぱら周の石鼓文を習った。このように新生面を開こうとした人が次々に現れた。
楊守敬(1839-1915、図86-89)は明治13年(1880)、日本に来朝し、日本に遺存する隋
唐の書蹟を見て、これを取り入れようとしたが、大成するには至らなかった。楊守敬に少し遅れて出た羅振玉(1866-1940、図102、103)も日本に来朝した学者で、甲骨文字の筆法を応用して新鮮な一面を開いた。
ただ、こうした中にも、翁同龢(おう・どうわ、1830-1904、図76、77)のように、劉墉のあとを追って董其昌に遡り、再び帖学を復興しようとしたものもいる。しかしこれは全く異例のことで、この時代は大勢からみて、碑学がその主流をなしていた。
この時代における金石学の隆盛にともなって、篆刻においても専門的な研究や蒐集が行われた。明末の篆刻の大家は秦漢の古印を範としたけれども、その古意を得ず、浅俗の弊を免れなかった。清王朝になると、この流弊を改めて、新しい作風を打ち立てた。徽州の程邃(穆倩)を祖とする徽派、杭州の丁敬(敬身)を祖とする浙派、そして鄧石如を祖とする鄧派が現れ、この三つの流派が清代における篆刻の主流となった。以上のように、神田は清代の後半期の書道史を概説している。そして次のように結語している。
清初以来ひろく行われていた帖学は、金石学の興隆によって導かれた北碑の発見に伴い、次第にその影をひそめてゆき、乾隆、嘉慶から道光にかけて、碑学の勢力は増大し、結局清王朝の後半期はほとんど碑学によっておおわれた。その間、考証学を重んずるこの時代の風潮は、金石学・考古学に新資料に基づいて、生新な書風がうちたてられた(神田、1頁~13頁)。

北碑派について   中田勇次郎
書というものは、本来、毛筆によって書かれた真蹟を主とすべきものであるが、真蹟というのは、紙や帛に書かれているために、保存が悪く、それほど長く世に伝わるものではない。また、万一伝わったとしても、その数はきわめて稀である。そこで、すぐれた人物の名を後世に伝えるためには、いつまでも朽ちることなき金石に刻して、長く名を残そうとする習慣が古くから行われた。
中国においては、このようなわけで、金石に文字を刻したものが、早くからかなり多く伝えられているが、その文字を刻すると同時に、そこに用いられている文字の姿を美しく表現することも、自然の勢いとして行われてきた。その刻石から発展して、一定のまとまった形式を整えるようになったものがいわゆる碑であって、後漢時代にはこれが最も流行し、その典型的なものがたくさん作られた。これには正式の書体としてたいていは篆隷の体が用いられた。
この他にもう一つ真蹟を伝える方法があった。それは、六朝から隋唐の頃までに行われた、いわゆる双鉤塡墨の搨模によって模写本をつくり鑑賞に備える方法で、この方法は唐代まで行われていたが、その後はようやく廃れて、また別に刻本の法帖によって伝える方法が案出された。すなわち、古人の尺牘などを模勒して木板や石材に鐫刻し、それを拓本にとって帖冊に仕立てて鑑賞することのできるようにする方法である。これは碑よりもずっと遅れて、五代の南唐になってから初めて試みられ、宋代の初めに『淳化閣帖』が模勒上石されてから、広く世に行われるようになった。これには楷書は少なく、主として行草の書体で書かれた古人の尺牘の類が原本として採用された。こういうわけで、碑と帖とはもともと真蹟から出ていることに変わりはないが、性質も形態も異なっているし、それが成立した動機も時代も同一ではない。
ただ、その歴史的な経過の上において、碑は金石に刻されて、地上のしかるべき位置に建てられたものであるが故に、多くは風雨にさらされて剥蝕したり破損したりする恐れはあるが、幸い土中に埋もれていたり、風雨にさらされることがなくて、保存の良好であったものは、その建立された当時の、刻したままの書法がそのまま生々として伝えられることとなり、書かれた時代の書が刻石ながらも、目のあたりに展開されるという特点があった。その上、これは古くは碑石の表面に直接書丹したものを刻したので、比較的原蹟の姿がそのまま伝えられるという長所があった。ただその間において、刻手の上手下手とか、石質の精粗によって、多少の優劣の差は免れないが、保存さえよければ、大体においてその製作当初そのままの書の姿が見られるという点ではよい特色を備えていた。
ただし、後世これを重刻したり、また原石を洗碑(碑の文字をさらえてきれいにし、文字の形を完全にして却って原形を破壊すること)したりしたものもあり、原石原拓の吟味が必要である。
法帖の方は、原則としては一度原本から模勒した上、それを木や石に鐫刻する職人の手をへているので、刻石のように書丹したものとはいくらか感じがにぶくなっている(ただし、「楽毅論」は書丹したと伝えられるから例外である)。
またその創製の時代が宋以後に降るために、それほど古い当初のままのものがなく、さらに後世になって模刻をして覆本をつくることがあまりにも頻繁に行われたために、今日見られるものは原蹟の姿がひどく損傷され、改変されているという難点があった。たとえば、王羲之の「喪乱帖」(4巻図28-31)というのは、王羲之の原蹟をほとんどそのままに近い姿で模写した唐以前の搨模の方法によって伝えられたものであるが、『淳化閣帖』などに刻されている王羲之の法帖は、全く字体がくずれて、「喪乱帖」などに比べると格段のひらきがある。この一例を見ても、よくその間の事情がわかる。
それに法帖には偽蹟によって捏造したたものがかなり多く混合して伝世していることもその難点の一つであった。宋代から元代をへて次の明代になると、この法帖の模刻が益々盛んに行われて、清代の初期にまでその余波が及んだが、法帖そのものには以上のような難点があり、また実際上、時代の下るとともに、そういう古い書蹟の伝存するものも少なくなってきたために、真蹟のもつ本当の姿を求めようとする人たちの間には、法帖だけでは次第に物足りなくなってきた。
清代の学者たちは、その初期の頃から、学問に対する態度はきわめて実証的であった。古典の真実の姿を求めることにおいては、あらゆる努力を払って実際的な証拠となる資料を求めずにはやまなかった。およそ文字に関するものを取り扱うにあたっては、まず文字訓詁の学問をおさめ、いろいろなテキストによる厳密な文字の校勘をへて研究に着手するのが普通で、またそれを史実の上から観察するにあたっても、できる限り正しい資料を、数多く集めるといったように、資料の検討と蒐集においても最善の努力が払われた。法帖はそういう文字資料となるには、きわめて曖昧な難点があり、清代の学者たちからは次第に見放されていった。彼らの研究心は各体の文字の源流に向けられていたために、もっと古い時代の文字、とくに古文や金文や籀文や篆隷に対する文字学的な、また歴史的な興味が注意深く注がれて、行草の尺牘のような文字の学問に直接役立たないものに対する関心はようやく薄らいできた。それとともに清代になってからの法帖の流行にも多少消長があった。清初から康煕時代にかけては、明以来の董其昌の書風が流行して上下を風靡し、ついで乾隆時代には、元の趙子昻の書に対する好尚が一時の流行をきたし、それに続いて唐碑の欧陽詢の書風がよろこばれるという傾向があったが、一方ではまた帖学を奉ずる人たちの書に対しては、次第に興味を失ってきて、従来の書風から脱却して新鮮な境地を求めようとする動きは、乾隆、嘉隆の学者文人たちの間には、しきりに起こりつつあった。
このような動きのもっとも大きな原動力となったのは、金石学である。金石の学問はすでにさかのぼって宋代において欧陽脩の「集古録跋尾」、趙明誠の「金石録」といったような大きな業績があげられ、既にその先鞭はつけられていたが、元・明時代はふるわず、清代になってから、この時代の学問の勃興にともなって、にわかに隆盛におもむいた。この金石学の分野において、経学や史学や文字学の新しい資料が求められて、田畠に埋もれた石や、屋舎の石組にまでも、文字のあとをさぐり、苔を洗って、珍しい金石資料を発見することに努力した。その結果、銭大昕の「潜研堂金石文跋尾」や、孫星衍、邢澍共著の「寰宇訪碑録」や、王昶の「金石萃編」や翁方綱の「両漢金石記」などの大きな著述があいついで著わされた。
阮元(図26、27)は、清代一流の考証学者で、経書の校勘に精しく、金石の探求にも力を注いだ。そして金石資料をもとにして、北碑と南帖とについての見解を発表した。それが「南北書派論」と「北碑南帖論」である。
彼は中国における古今の書の流派を論じて、南朝の系統と北朝の系統とを二つに分けた。漢隷の意を受けた三国魏を基点として、この二つの系統が分立していると考えた。すなわち、魏の鐘繇、衛瓘から出た書は、東晋、宋、斉、梁、陳をへて、唐の貞観の頃に及ぶ、これを南帖とした。一方、同じく鐘繇、衛瓘から出て、晋の索靖をへて、趙、燕、魏、斉、周、隋をへて初唐に及ぶ、これを北碑とした。
この南帖と北碑の二系統の書は、相互の関係なくして発達したもので、南帖は鐘繇、衛瓘から王羲之、王献之、王僧虔をへて智永、虞世南に及び、一方、北碑は鐘繇、衛瓘、索靖から崔悦、盧諶、高遵、沈馥、姚元標、趙文淵、丁道護をへて、欧陽詢、褚遂良に及び、李邕、蘇霊芝もその流れを汲むとした。
書においては、漢隷を根本とすべきであるが、南帖には隷意がなく、これに反して北碑には隷意を伝えているとみなす。よって北碑の方が書道における正統をうけるものであると断定した。しかも北碑には刻石当初のままの文字の姿が伝えられているが、南帖は模刻を重ねて、もとの姿が失われてしまっているから、その資料的価値は乏しいとした。
この阮元の議論は、当時金石文字の新発見に狂奔していた学者を刺激して、法帖の難点をいまさらのごとく認識した人たちは、帖を捨てて碑におもむき、争って新しい資料を入手することに努めた。
乾隆から嘉慶にかけては、このような動きはひとり阮元にとどまらなかった。こうした動きの中で、最も傑出した天才的な書家が鄧石如(図2-13)である。彼は官に仕えず、終生もっぱら書と篆刻に精進し、それによって名がきこえた。
この鄧石如を推称したのは、やや遅れて出た包世臣(図36-39)である。彼は『芸舟雙楫』
を著し、その中に清代の書人およそ101人の書蹟を品第し、鄧石如の隷書および篆書を神品第一と推称した。その後、鄧石如がいわゆる碑学派の第一人者として広く世に認められた。包世臣は『芸舟雙楫』において、阮元の説を更に推し進めて、北碑の長所を鼓吹した。彼はむかしの撥鐙法から得た雙鉤懸腕、虚掌実指の法によって逆入平出、峻落反収の筆法をとき、書においては気力が充満することが肝要であることを主張した。
しかし彼みずからは、本来帖学から入った人であった。顔真卿、欧陽詢から、蘇軾、董其昌をへて、北魏に入り、帖によって得られなかった書法を碑によって悟るところがあったが、晩年にはまた二王の書を学び、孫過庭の「書譜」や王羲之の「十七帖」を研究した。したがって、その出自・書法からいっても、必ずしも北魏だけに限られていたわけではなかった。ただ、その北碑の提唱はよく世の人たちを啓蒙した。たとえば、何紹基(図46-55)が北碑を学んだのも実は包世臣の説に従ったのである。
阮元と包世臣の二説が出てからのちの清朝の後半期は篆隷および北碑を学ぶものが次々に輩出した。こうして碑学の全盛時代が到来した。
その系列を考えてみると、古い篆隷を学んだもの、とくに漢隷を学んだものと、主として北朝の碑を学んだものとに分けられる。古い篆隷を学んだ人たちは比較的早く、乾隆、嘉慶の頃に多い。その書は多くは均斉のとれた典麗な美しさを宗としている。その中では鄧石如は随一である。
阮元が北碑を推重し、包世臣がそれを高揚し、包の門下の呉熙載がこれをうけ、ついで張裕釗(図66-69)、趙之謙(図70-75)があらわれる。これらの人たちがいわゆる北碑派の主流をなした。この中でも張裕釗は南北碑にわたってその粋を集めて大成したとして、康有為からは激賞されている。また趙之謙は北碑の摩崖、造像に主力を注ぎ、まれにみる清新な書風をうち立てた。北碑派という言葉を厳密に解釈するならば、この趙之謙はその最も代表的な書人といってよいと中田勇次郎はみなしている。
さて清末になると、康有為(図94-97)が出て、『広芸舟雙楫』を著し、阮元や包世臣の説に対し改めて根本的に批判を加え、みずから新しい体系を立てて北碑を称揚する。康有為は阮元が北碑と南帖とをはっきりと二つの系統に分かったことを非難し、書は派を分かつことはできるが、南北は派を分かつことはできないとした。彼は北朝の碑に対して南朝の碑をとりあげ、その相互関係のあったことを認め、南北朝の碑にはいずれも漢隷の遺意があることを説いた。北碑に対して南帖でなく、南碑をとったところに彼の達識があると中田はみている。
康有為は南北碑を一体としてその特色を十美として掲げた。すなわち、
一、魄力雄強
二、気象渾穆
三、筆法跳越
四、点画峻厚
五、意態奇逸
六、精神飛動
七、興趣酣足
八、骨法洞達
九、結構天成
十、血肉豊美
このように十美をいい、魏碑と南碑にだけこの十美があるとした。
彼は南北碑いずれをも取ったが、とくに北碑は南碑の特色を兼ねあわせているというので、北碑の方に重点をおいた。そして北碑といっても、北魏の摩崖や造像のようなものに注目していることは、この十美の批評によってもわかる。
魏碑といえば南碑および斉、周、隋はなくともよいとし、北碑も北斉、北周と時代の降るとともに書は衰え、隋においてはまだ六朝の余風があるが、唐碑は浅薄で変化がなく、古
意を失い、また今日までに佳拓が亡びて元の姿を見ることは困難であるとし、古来、唐碑を学んだものには一人として名家はない、学は古を法とするのをもって貴しとすべきであって、唐代のような時代の降ったものは卑しむべきであるとした。
さらに六朝と唐とを比較して、唐以前の書は密、唐以後の書は疎といい、以下同様に、茂に対して凋、舒に対して迫、厚に対して薄、和に対して争、渋に対して滑、曲に対して直、縦に対して歛といい、北碑をよく観察すればこのことがわかると説いている。
このように、康有為は南北碑の中では北魏を最上とし、唐以後は取らなかった。
もう一つ、阮元が唐の欧陽詢を北碑の系統に属せしめたのに対し、欧陽詢を南碑の貝義淵
の「始興王碑」(5巻図42-49)に出るとしたことも、阮元と見解を異にしている点である。
この説に対して、中田は「今日から見れば康有為の説くところの方が一日の長があるように思われる」と評している。
康有為が南北朝の碑をとりあげて品第しているのを見ると、神品として「爨龍顔碑」(5巻図4-13)「石門銘」(6巻図4、5)をかかげている。彼の品第の主旨は古質をとり、華薄の体はすこし後にしたといっているように、純樸で古風なものを第一として華美なものを後にしている。都会の中心をはなれた素樸な碑や摩崖や造像のものが上位に多いのもそのせいである。北碑の特性に対し、その精髄をとり、康有為の言うところの茂密と逸気のあるものに限定して、徹底した見方をしている。
清代における彼の考え方は、四大家として伊秉綬、鄧石如、劉墉、張裕釗の四家をあげている。この中の劉墉は帖学の大家であり、ここにも彼が碑学とともに帖学においても長所をみとめていることがうかがえる。
康有為は晋人は書はもっとも巧みであると称して、決して法帖の美を捨てたわけではないが、ただその最も重点をおいたのは鄧石如や張裕釗を激賞しているのによっても窺えるように北碑派にあった。
また書の技法についても、包世臣の説いた指法を排斥し、指を用いないで一身の力をつくして筆を送る書法を提唱するなど、康有為は北碑派の書の理論を概括的に整理した。
要するに康有為が南帖よりも南碑に注目して、南北両朝の相互の関連性を説いたのは、阮元よりも一歩を進めたものといってよい。ただ、阮、包、康三家に一貫しているものは、北朝の碑、とくに北魏碑を高く評価している点で、この意味からも清代の後半期に大きな動きを示した。この書の流派を北碑派と呼ぶことは必ずしもいわれのないことではないと中田は解説している。
ところで、康有為が『広芸舟雙楫』をかいたのは、光緒15年(1889)のことである。北碑の流行はこの頃からひきつづいて行われて、一般の人々の間にその書風が浸透し、北碑を口にし、魏体を写さないものはなく、これが一般的な風習となった。
光緒25年(1899)には河南省安陽の殷墟発掘が行われ、殷代の甲骨文が発見された。羅振玉(図102、103)のように、これを書の上に応用するものも現れた。書の分野は金石学から考古学にひろめられていった。それについで、西域の敦煌の発掘が行われ、その資料が紹介されると、書の上にも大きな問題を投げかけた。北碑派の人たちは従来の帖学にはあまり見るべきものが現れなかったが、西域から出土した木簡によって、新しく行草を開いた人もいた。沈曽植、李瑞清がそれである。
以上のように概説したあとで、中田は自らの見解を述べている。清代の碑学は帖学と対照的に発達していったものであるが、碑と帖とは正反対の立場にあるものではなく、互いに性質の異なったものであるということである。碑は篆隷でかかれた碑文であり、帖は楷書のものは少なく、たいていは行草でかかれた尺牘を主とするもので、その文体も書体も異なり、その発達の時代も経路も同じではない。帖は晋代を尊ぶが、明清時代においては法帖の佳いものが少なく、その正しい姿はよく理解されていなかったようであると中田はいう。
今日では日本に「喪乱帖」や「十七帖」のような真蹟と最も近いものが世に知られ、これとともにこの他の伝世の搨模本の可否も批判することができ、王氏の書の確かなものとして唐の褚遂良の「貞観書目」に著録されているものなどを参考にすることによって、晋帖のかくあるべき姿もほぼ想像することができるようになったと中田は付言している。
王の楷書にしても、今日伝わっているものには疑問がもたれるが、南朝の梁碑や北魏の6世紀初め、2、30年の頃における南朝の影響を受けたと思われる楷書から類推して、また王書の行草のそなえている高逸な品位から考えても、かなり優秀な楷書は東晋のときにあったものと見てよいという。
もし書の正統ということを言うならば、漢民族の文化の栄えた南朝において、遺品こそ少ないけれども、当然ひきつがれていたと考えるべきであろうと中田は推測している。
碑の場合においても、その最もすぐれた北魏を例にとってみると、これには碑と墓誌と摩崖と造像の4種類があり、その中で真蹟のおもむきをよく伝えているのは碑と墓誌であり、摩崖と造像はその素材と環境の上からくる特殊な書の姿があらわれたものである。北魏の洛陽遷都ののち数十年にわたって漢化政策のとられた時期には、すぐれた楷書の碑と墓誌が多数伝えられている。ごく近年になって出土した墓誌には、きわめて秀逸なものもある。
これらは南朝の楷書の影響なくしては考えられないもので、北魏の書というものも、漢魏の遺風は受けているとしても、多分に南朝の書に感化されていると中田はみている。
そしてこのように考えてみると、北碑と南帖というものは、阮元の論じたように、はっきりと二つの系統に分かれるものではなく、また碑と帖というような対照によって、比較することのできるものでもない。また康有為の説のように、南北朝の碑をとりあげて比較対照しているのはよいとしても、北朝の方に重点をおいたのは、摩崖や造像のような本格的でないものに純樸な美しさを見出して新風潮をつくりだしたところにとるべきものはあるが、書の伝統から考えて必ずしもこれが正統であるとは思われないと中田は私見を述べている。
清代の北碑派の書は鄧石如、何紹基、趙之謙のような傑出した書人を生み出したことは、中国の書の歴史においても最も特筆すべきことである。その一般的に見られる特色は、終始学問上の資料に依存して発展していった点にある。ただもし難点をとりあげるならば、学問に依存しただけに概して書の本質的なものを見きわめることが粗略になり、時には資料に重きをおきすぎ、また資料にたよりすぎるきらいがある。
そしてこの書派の人の作にも、取り扱った資料をもとにして、臨書したり倣書したりしたたぐいのものが多く、摩崖、造像、金文、籒文のような特殊な材料によって芸術性を見出し、新鮮な世界を展開しながらも、実はそれは資料の新鮮さによってはじめて成立したもので、本当の意味での芸術作品としての創作性に欠けていた。その性格は現実性が強く、浪漫性にはとかく欠けるところがあった。これはこの時代の書が学問、とくに考証学の背景によって生長したからであるという。清代の書は、古人の言葉に、晋は韻を尚び、唐は法を尚び、元明は態を尚ぶといっているのに続けて言うならば、清は学を尚ぶといってもよいと中田は付言している(中田、14頁~23頁)

清朝の金石学    貝塚茂樹
金石学は宋代に隆盛したが、元明時代に衰微し、清朝に至って復興し、宋代を凌ぐ空前の盛観を呈した。
清朝考証学の風気を開いた顧炎武は、金石学の権輿でもあった。年少の頃好んで古人の金石文の集輯につとめたが、その意義を深く解しえなかった。宋の欧陽脩の「集古録」を読むにいたって、初めて金石文中の記事を歴史と参照すると、隠された秘密を明らかにし、史書の欠を補い誤りを正すことができるものが多く、金石文が単に詩文の修練の役にたつばかりでないことを悟った。そして金石文の本格的な研究を志し、「金石文字記」6巻を著した。清朝の金石学が宋の欧陽脩、趙明誠にいかに負うところがあるかを示している。
清初に復古された金石学は、乾隆16年(1751)、乾隆帝が梁詩正らに命じて翰林院編修らを督して、内府所蔵の古銅器の図録と釈文の「西清古鑑」40巻を出版させた時に、石刻学から金文学の領域に拡大した。この形式は宋の徽宗御撰の「博古図録」30巻を襲ったものであった。
さて嘉慶、道光年間(1796-1850)における金文学興隆に与かって力のあったのは阮元(図26、27)であった。阮元は所蔵の金文拓本500余種を模刻、考釈を付した。金文が説文にのせられた篆文籀文と相並んだ古代文字で小学の資料であるばかりでなく、経書の欠を補う古代学の重要史料であることが学界に広く認識されるようになった。
阮元の書と相前後して出版され、当代では余り有名でなかったが、後世から学的評価をうけているのは銭坫(図15)の「十六長楽堂古器款識考」4巻である。清朝一代の史学者の銭大昕の従子として稟質に恵まれ、説文学者としても一家を成したが、深い小学の素養を自家所蔵金文の解釈に応用して、成功を収めた。
金文の字形を精密に説文のそれと対照して、正確な比定を行い、宋代から受け継がれてきた金文解読の誤謬を訂正し、この点では阮書の解読より一歩先んじていた。阮元は宋の薛尚功の「歴代鐘鼎彝器款識法帖」を範として専ら銘文の考釈に心を奪われた。一方、銭坫は宋の呂大臨の「考古図」や「博古図録」を模して、器形図と墨本とをあわせ載せ、銅器の礼器としての用途を研究し、銅器の考古学的、器形学的研究に寄与するところがあった。
清朝に公刊された銅器図録の白眉と推されるのは、道光19年(1839)、曹載奎によって刻された「懐米山房吉金図」である。器形と銘文とを精密に模刻し、原器の高さを測って尺寸を明記した。この用意の周到さといい、鉤勒の出来栄えは、中国の伝統的な法帖模刻の能事を尽くしている。
阮元の提唱にこたえて道光年間(1821-1850)以後、三代銅器に対する金石学者と好事家らの蒐集熱が高まってきた。収蔵家は高価を惜しまず名品の購致につとめ、自蔵の銅器図録を出版して、収穫の豊富を誇示した。
図録の体例は博古図録を祖とする器形と銘文を并載するものと、薛尚功の法帖を襲って、銘文と考釈のみを公刊するものの二つに分れる。名書家劉墉の従孫劉喜海の「長安獲古編」2巻、端方の「陶斎吉金録」8巻などは前者の系統にはいる。徐同柏の「従古堂款識学」16巻、劉心源の「奇觚室吉金文述」20巻などが後者の系統に属する。清朝末期に石印の技術が導入されて、金文図録の出版は前よりずっと容易になった。徐同柏、劉心源の著者はこれを応用したものである。民国になると、写真石印がこれに一歩を進め、呉大澂の「愙斎集古録」26冊などが出版された。
このような利便を加えた印刷術によって金文学はさらに普及し、同治、光緒、宣統の清朝末期(1862-1910)において、最盛時代を迎えた。清末の金文学者は南北二学派に大別できる。北派の主流は山東の金石学者によって占められる。山東は周代の文化の真髄をつたえるという斉魯二国の遺蹟を包含した石刻が多く残存し、銅器をはじめ先秦の考古遺物も多く出土し、これを取り扱う古物商の本拠でもあった。とくに金石学の主唱者であった畢沅と阮元が嘉慶年間(1796-1820)にこの地に赴任して、採訪した金石を「山左金石志」24巻として出版して以来、金石蒐集の趣味が鼓吹され、多くの金石学者を輩出した。山東の金石学者は一般に金石実物の鑑識に長じ、陳介祺(図60、61)の銅器にたいする眼識は中国の南北に並ぶものなしとされた。
一方、南方派の金石学者は江蘇、浙江、江西などの江南地方を本地としている。清朝の経学、史学、とくに説文などの文字学、訓詁学は江南がその淵藪であったので、その素養をもととして南方派の金文学者は文字学としての金文研究をすすめた。この代表者は呉大澂(図82、83)と孫詒譲のふたりである。新たに陝西省から出土した金文中の最長の銘文を有する「毛公鼎」(1巻図82、83)の拓本を陳介祺から贈られた呉大澂は、これこそ尚書中の周公の王誥に比すべき経学の貴重な史料にほかならないと狂喜した。難解な金文を解読し、周誥遺文と名づける考釈を公にし、孫詒譲もこの後を追って考釈を出した。
呉大澂は、伝統にこだわらぬ自由な立場から、文字の解釈について従来の通説をくつがえす大胆な新解釈を試みて「字説」1巻を公刊した。さらに呉大澂は金文や古貨幣文や古印文によって説文中に引用されている古文や籀文の欠を補うことができると考え、「説文古籀補」15巻の説文の順序に配列した古文字の字典をつくった。呉大澂の新字典は、確実な金文に基づき、鋭い直観と豊かな想像によった新解釈をまじえているばかりでなく、一方では説文の字と一致しない字は解釈をつけずに巻末に付録するという慎重な態度をとったので、清朝一代の金文解読の成果を盛った画期的な金文字典としてたたえられた。
この字書を編纂するため、金文の字形を説文中の周代の古文、籀文と全面的に比較した呉大澂は、西周の金文の字形との間に余りの差違があることに疑問を感じ始めた。説文中のいわゆる古文とは、漢代に孔氏の旧宅の壁中から出土したという古文経の文字にほかならないが、この古文は戦国時代の列国の分化した書体にすぎず、金文の字体こそ西周時代の標準字体であろうという破天荒の新説を提出した。この古代文字の系譜についての独創的な解釈は民国の王国維によって発展され、戦国末期に古文は東方の諸国で通行した字体であるのに対して、籀文は西方の秦国の通用字体とみなされるに至った。
また清朝末期には呉式芬がそれまでに出土した金文の全模本を集めて「攈古録金文」3巻を出版し、金文の集成が完了した。民国以後、羅振玉(図102、103)の手になる「三代吉金文存」20巻はこれについだ金文資料集成である。
清末の巨匠呉大澂、孫詒譲らによって大成された金文解読法は、清末に河南安陽から発見された殷代の甲骨文字にも応用された。孫詒譲はまず「契文挙例」2巻を著し、ついで羅振玉が「殷虚書契考釈」1巻を撰した。漢字の字形を周代の金文から殷代の甲骨文に溯って、起源を探ることができるようになった。
次に貝塚は歴史史料としての石刻の研究について紹介している。清初顧炎武の「金石文字記」によって出発した石刻の歴史的研究法は、乾隆・嘉慶時代の大史学者銭大昕によって継承され、その「潜研堂金石文跋尾」6巻は、金石文の考証の模範と仰がれた。また石刻資料の採訪事業が地方的に進行してゆくのに並行して、全国的な石刻の現存目録編纂の要望がおこった。清代の金文資料を集大成した呉式芬は三代の金文をはじめ、歴代の石刻を主とする金石文1万1千余点の総目録である「攈古録」20巻を刻した。
石刻の原文を集成したものは銭大昕の盟友王昶の「金石萃編」160巻に始まる。三代に始まり、遼金に及ぶまで、まず原文を録し、次に諸家の考証、跋尾を付しているので、石刻研究史料の総編として最も完備している。ただ嘉慶10年(1805)の出版であるため、その後に世に出た石刻の補充が必要である。
石刻の図録としては褚峻、牛運震の「金石図」2巻がある。褚峻が原石碑について精密な縮図を作成し、石に刻して拓影し、牛運震の説明を付したものである。そして清末の書法家の楊守敬(図86-89)の「寰宇貞石図」は石碑全図を写真石印したもので、日本の藤原楚水の増訂再印本はこの類の縮本としては最も便利で完備したものという。
第2に挙げるべきは墓誌である。清朝の末期以後、多数の墓誌が洛陽をはじめ各地から無数に出土した。清代の金石家は漢魏六朝の墓誌銘の体例を論じた人が多かったが、豊富な実例によって、その当否がさらに検討されだした。
第3類は仏教の造像銘である。仏教の衰頽した清朝ではこれを閑却していたが、河南省龍門をはじめ中国の仏教芸術が海外の学者の関心を集め出したのと呼応して、中国でも清末以後造像銘の研究が始まった。特に龍門の北魏時代の造像記(6巻図38-49)の奇古の書体は清末の金石学者にしてまた書法の理論家であった楊守敬らに深い影響を与え、北朝式のいわゆる六朝風の書の流行を生んだ。楊守敬は外交官として日本に滞在した間に、北魏の名書家の鄭道昭の「雲峰山石刻」(6巻図6-21)の鉤刻体を出版して、日本の明治の書道界にも余波を伝えた。
石刻の字体は「石鼓文」「漢熹平石経」「魏三体石経」など文字学的、あるいは経書の本文異同のための文献学的な研究の対象となった。漢碑の隷書については、翟云升の「隷篇」15巻に至って、石刻に現れた隷書字体の研究は一応完成の域に達した。
隷書の字体が後漢末に定着し、「熹平石経」のような書体が生まれた。隷書すなわち正書は魏晋南北朝をへて次第に変化して唐初に至って楷書として固定する。この間の石刻の正書は変体、異字が百出している。趙之謙(図70-75)の「六朝別字記」の稿本は後になって公刊されたが、羅振鋆の「碑別字」5巻と羅振玉の同補5巻についで、合刻、増訂本が出版され、六朝唐の碑文の読者に欠くべからざる参考書となった。これらの石刻文の書体を書法史の立場で編纂した楊守敬の「楷法溯源」14巻は、墨場にたずさわる者の座右の書となった。
清朝の金石学者は、書道の鑑賞家から手を分って、金文石刻などを経学、文字学、史学の補助史料として考証学的に研究することによって、数々の業績を成就し、金石学の学的地位を確立した。しかし金石学者中には樸学(ぼくがく)の純粋学者であるとともに、また中国伝統の書道の達人も少なくはなかった。清末を代表する金文学の大家呉大澂は日常の書簡まで隷書、篆文、金文などを自在に駆使して走り書きした。その見事な筆蹟は「愙斎尺牘」「愙斎集古録」によって片鱗を窺うことができる。呉大澂の金文、篆文の対聯などは
世人が家宝として珍重したものであった。貝塚茂樹自身、昭和9年(1934)、北京の知人の書斎で寓目した呉大澂の豪快な篆書の聯は、20余年をへても、なお眼底を去らないと思い出を記している。呉大澂の篆文で書いた「四書孝経」などの石印本は書道の教本として世に普及したものであった。
また一方において、清朝の書道の名家たちは、法帖のみでなく、金文、石刻の拓本を蒐集して、書道の新生命をこの源泉から汲み取ろうとした。書家として名が高い何紹基(図46-55)も、石刻の収蔵家であり、金石学者としても一家をなしていた。「東州草堂金石跋」5巻の著述が世に行われている。学としての金石学は書道と立場を分ちながら、また相互に密接な連関を保った。葉昌熾は清末の目録学者であったが、また石刻の蒐集家としても著名であった。「語石」10巻では、半世の金石学の蘊蓄をかたむけて、石刻の愛好者にその常識を述べた。学としての金石学と、教養としての書学の綜合された石刻概論といってもよく、風格を備えた好著であると貝塚は評している。
清朝の金石学は金文と石刻とを主要な対象としたが、多様な材質に刻される文字を対象とする関係から、数多くの専門に分化発展する傾向を現わした。古貨幣の文字は材質より見れば金文の一種に属するが、宋の洪遵の「泉志」15巻以後、銭幣学として分化した。清朝の文字学を背景にして貨幣文を研究した馬昻の「貨布文字考」4巻は、この点において異色を放った学的述作である。
古代の礼器として銅器に並ぶ重要な玉器については、呉大澂が「古玉図攷」を著し、特にその形状を実測し、古代の度量衡を復原する資料とした。璽印類は宋以来文人墨客に愛好されて古印の鈐印を集めた印譜が多く世に行われてきた。清朝になってから、金石学者の呉大澂も「十六金符斎印存」を公けにしたのをはじめ、無数の古印譜が続出した。その中で陳介祺収蔵の古印は「十鐘山房印挙」12冊として民国に入って石印本が刊行された。1万をこえる最大最良の印譜の代表作である。
清朝の金石学者は古印を戦国漢代の文字学の資料として研究し、経学者桂馥(図1)の「繆篆分韻」5巻があらわれた。このほか官印を古代の官制を考証する重要な史料として使用したものに、瞿中溶の「集古官印考」17巻がある。
古代の璽印は後世のように紙上に押すものでなく、竹簡・木簡の札をゆわえた紐の結び目上の粘土の封に押すものであり、この粘土上におした封印のあとを封泥と呼んでいる。清朝の末期、斉魯の遺蹟からはじめて大量の封泥が発掘され、呉式芬が「封泥考略」10巻の石印本を刊して、学界に紹介してから、偽物の多い古印譜より、はるかに信憑性の高い史料として貴重された。
その他に屋根瓦である瓦当(がとう)上の文字も金石学の対象となった。秦漢代の瓦当は程敦の「秦漢瓦当文字」2巻として乾隆年間(1736-1795)に出版され、「両漢金石記」にも採録されている。同じ材質の甎はまた墳墓に用いられた。この墓碑上の文字が金石学の新史料となった(貝塚、24頁~32頁)。

明清の賞鑒家(続)    外山軍治
明から清にかけて民間の蒐蔵家の手に蔵された法書名画の多くは、康煕、乾隆両帝の時代に内府に蒐められ、明の内府から受け継いだものとともに、手厚い保護を加えて蔵された。殊に乾隆時代の蒐蔵は天下に比肩するものなく、乾清宮、養心殿、三希堂などに分貯された書画の数は万をもってかぞえる盛況であった。その後、皇族、廷臣などに下賜されたり、戦乱で刧掠にあったりして、その数を減じて、その残存したものが今日台湾に運ばれ、国民政府によって保存されたわけである。
さて、内府の蒐蔵がまだその豊富さを誇っていた嘉慶、道光の頃の賞鑒家は、もっぱら民間に残された書画を対象として、その蒐集欲を満足させたわけであるが、さすがに国土は広く、民間に残存した名品もまだ少なくはなかった。嘉慶、道光の賞鑒家としてまず脚光を浴びたのは、呉栄光以下、葉夢龍、潘正煒、伍元蕙、潘仕成、孔広鏞、孔広陶兄弟など、広東出身の人である。
これらの人々は、富裕で、その儲蔵の分量も多く、また著録を出したり、珍蔵の法書を摹刻上石して集帖の形で公けにしたりなどしている。これは、この時代広東における一つの流行でもあった。彼らは書画の蒐集にその財力を投ずることを惜しまず、また自己の名を後世に伝えたいという気持ちも旺盛であった。とにかく西洋貿易を独占していた当時の広東の経済力はすばらしいもので、幾多の富家が輩出したが、この経済力を背景として書画賞鑒の機運がさかんになったことは注目に値する。
広東の賞鑒家の筆頭にあげるべきは呉栄光である。広東省南海県の人である。その家はもとから素封家であったというが、それ以上のことは判らない。乾隆38年(1773)に生まれ、道光23年(1843)、南京条約締結の翌年、71歳で没している。嘉慶4年(1799)の進士で累進して、道光11年(1831)から6年間湖南巡撫となり、一時湖広総督代理を兼ねたこともあった。阮元の門弟であり、翁方綱、劉墉にも指導をうけ、文人、学者としても一かどの人物であった。賞鑒家は、必ずしも能書とは限らないが、彼は欧陽詢を宗とし、また蘇軾の書法をもとり入れ、広東賞鑒家中での書人であった。
呉栄光の書画蒐集はその官界生活中になされたと考えられるが、途中で困窮して折角集めた逸品を手離したこともあった。呉栄光所蔵の王穀祥の千字文を入手した成親王が、その跋にいっているところによると、呉栄光は多く古蹟を手に入れたが、家が貧で率ね米に易えて散じ去った。
道光15年(1835)には彼は湖南巡撫として長沙にいたが、この時湖南の郷試に応じて合格した何紹基(当時37歳)が、試験終了後、呉栄光に招かれて、巡撫署に入って呉栄光所蔵の金石字画400余件を観せられ、命ぜられて詩10余首と題跋30余事をつくってそれに題したという。蒐蔵品は筠清館を築いてこれを蔵したが、道光10年(1830)、おそらく湖南布政使在任中に、その所蔵の古拓、真蹟を摹勒上石して「筠清館法帖」6冊をつくった。元来、彼は法帖の研究に精しいことで知られている。
また「辛丑銷夏記」5巻は、呉栄光が43年間にわたる官場生活中に獲得した書画と遇目の機会のあった書画とを載録して、それに解説を施したものである。この書は呉栄光自らが書いたものでなく、長沙在任中に知りあった黄本驥に嘱して書かせたという説があるが、それはともかく、この「辛丑銷夏記」は、すぐれたものをもっており、広東賞鑒家の著録中でもっとも地位が高いという。
ところで、広東の賞鑒家では、葉夢龍が呉栄光と同時代の人であり、潘正煒がこれにつぐ。それにつづいて、孔広鏞、伍元蕙、孔広陶が出た。潘仕成は孔広鏞あるいは伍元蕙とほぼ同じ頃の人と考えられる。
葉夢龍は呉栄光より2年年少で、乾隆40年(1775)に生まれ、道光12年(1832)58歳で没した。呉栄光と同じ南海県の人で、戸部郎中にまでなった。その父の廷勲は書をよくし、「梅花書屋詩集」を著した人であるが、晩年には法書名画をたのしみ、蒐蔵も多かったらしい。葉夢龍も父の風を習い、当時の名流と交際し、文雅の交わりをした。翁方綱や伊秉綬が広東に来たときにも、彼と交わっている。そして葉夢龍は嘉慶19年(1814)、父の時代から蔵した唐宋元明の墨蹟を摹勒上石して「友石斎集帖」4冊をあつめて「風満楼集帖」7冊を編刻した。
潘正煒は、広東省番禺県の人であるが、代々河南の龍渓郷に住んだ。乾隆56年(1791)に生まれ、道光30年(1850)60歳で没した。この人はいわゆる広東十三行の一つである同孚行の経営者であり、広東における巨商の一人である。広東十三行が南京条約締結に至るまで、政府から西洋貿易に従事する特許を与えられ、巨富を獲る機会に恵まれていた。書画を愛好し、名人の墨蹟は見つかり次第に必ず購入し、その収蔵は粤東に甲たりといわれた。潘正煒自身、所蔵の名蹟四百余種の冠たりと誇っているのは、賢首国師の尺牘(8巻図64、65)であるが、また趙孟頫が中峯明本に与えた尺牘(17巻図10-16)をも蔵しており、ともに現在日本に来ている。この両尺牘といわず、広東賞鑒家の蒐蔵でその後日本に渡ったものが少なくない。なお彼は書技にも長じ、蘇米を宗とし小楷に巧みであったといわれる。ここに掲げた趙孟頫が中峯明本に与えた尺牘の跋によっても十分それをうかがうことができる。
潘氏にはもう一人、海山仙館叢書を刊行したことで有名な潘仕成がいる。潘仕成は同じく番禺の人で、潘正煒の一族である。その生卒は明らかにしえないが、道光12年(1832)に順天府の郷試副榜貢生となり、17年特旨をもって両広鹽運使を授けられた。おそらくは潘正煒よりは後出で、孔広鏞あるいは伍元蕙と同じ頃の人と考えてよいという。
この潘仕成についても、行商の一人だとする伝えもあるようだが、実は鹽茶商であったようだ。潘正煒の家はのち不振になったが、潘仕成の方は盛大で、そしてその富は一国王のそれに匹敵するなどといわれた。そして道光27年(1847)、「海山仙館蔵真初刻」16巻を出し、また咸豊3年(1853)、「海山仙館橅古帖」12冊を出している。
次に伍元蕙もまた行商出身である。道光4年(1824)に生まれ、同治4年(1865)42歳で没した。番禺県の人だが、代々河南の安海県に住んだ。彼は十三行の一つ怡和行の伍秉鑑(1765-1843)の子で、挙人の資格を授けられ、刑部郎中にまでなった。
書を好み、蒐蔵も非常に多くすぐれた鑑賞眼をもっていた。彼は道光21年(1841)から「南雪斎蔵真帖」12冊を刻しはじめ、咸豊2年(1852)に完成したが、その中には晋より明に至るまでの真蹟を摹刻上石して載せている。また咸豊2年、魏晋から唐に至るまでの諸家の拓を上石して「澂観閣摹古法帖」4冊をつくっているが、広東出身の賞鑒家の刻帖のうち、筠清館についですぐれていると評せられる。
伍元蕙と前後して孔広鏞、孔広陶の兄弟がいる。兄の方は伍元蕙よりも年長であり、弟の方は年少である。兄の孔広鏞は嘉慶21年(1816)に生まれ、道光24年(1844)、挙人となった。弟の孔広陶は道光12年(1832)に生まれ、監生をもって比部郎中となった。孔氏は孔子の子孫にあたる家柄で、父の孔熾庭で69世になるという。この孔熾庭は書画の蒐集と鑒識において有名な人物で、嶽雪楼を築いて、蒐蔵品を収めた。その二子孔広鏞、孔広陶は父の遺志をつぎ、さらに蒐集を重ねたが、呉氏筠清館などの蒐蔵が少なからず入っている。
同治5年(1866)、隋唐以後清朝に至るまでの真蹟120余種を摹刻して、「嶽雪楼法帖」12冊をつくり、また咸豊11年(1861)、「嶽雪楼書画録」5巻を刊行した。撰者は弟の孔広陶であり、兄の孔広鏞が校閲したという。「嶽雪楼書画録」に収録するところは、孔氏一家の所蔵だけを載録したものであるが、選択は概ね妥当である。
さて、これら広東賞鑒家の全盛期はいつ頃まで続いたのかという問いに対して、外山は次のように考えている。おそらく嘉慶から道光の末までくらいがその極盛期で、咸豊年間はまだよいとしても、同治以後はすでに衰頽期に入ったとみている。その理由としては、道光22年(1842)南京条約によって広東港の貿易独占が終わりを告げ、十三行も廃止され、西洋貿易で殷賑を極めていたこの城市が昔日ほどの盛観を失った点を指摘している。
さらに咸豊6年(1856)、アロー号事件によって英仏両国との紛争にまきこまれ、広東城が再び戦火に見舞われてからは、広東の士人には昔のようなゆとりがなくなってしまった。前述の賞鑒家たちがその後どのような状態であったかは詳らかでないが、先祖の遺品をもちつづけた家は少ないようである。
明末から清の康煕、乾隆頃までに、江南からは項元汴、張丑、汪珂玉、高士奇、呉升、笪重光、姜宸英、朱彝尊など、錚々たる賞鑒家が踵を接して現れた。嘉道の頃になると、そのような盛観はみられないが、「紅豆樹館書画記」8巻を著した陶樑などが出ている。陶樑は長洲(江蘇蘇州)の人で、乾隆37年(1772)に生まれ、86歳まで生存して咸豊7年(1857)
に亡くなった。広東の呉栄光より1歳年長である。嘉慶13年(1808)進士に合格し、礼部侍郎にまで栄進した。「紅豆樹館書画記」はその蒐蔵を載録したもので、相当にすぐれた識見を示している。その他はいずれも陶樑よりは40年以上も後出で、浙江湖州の人で晩年江蘇の蘇州に住んだ呉雲(1811-1883)、同じく蘇州の人顧文彬(1811-1889)、潘祖蔭(1830-1890)、また湖州の人陸心源(1834-1894)などが賞鑒家として知られている。これらの人々の家郷をも含めて江南の地は、太平天国の乱の渦中に巻き込まれたので、書画などの散佚がはげしかったが、これらの諸家はその間にあって、その蒐蔵をふやす機会をつかんだようだ。なお、呉雲、潘祖蔭にしても陸心源にしても、書画の蒐蔵家というよりも、金石、璽印あるいは善本などの蒐蔵の方面で傑出しており、書画の賞鑒家としては、この時代の江南グループはやはり広東グループの華やかさには及ばなかった。
それよりも看過できないのは、山東出身の賞鑒家の存在であるという。そのうち、書画の賞鑒家としては利津の李佐賢を第一に挙げられる。李佐賢は嘉慶12年(1807)に生まれ、光緒2年(1876)、70歳で没した。道光年間史館に入って編修となり、のち福建汀州府の知事となったが、退官して故郷に帰った。金石、書画、硯石、印象などの鑒賞に長じ、同治10年(1871)、東晋から乾隆までの書蹟を収録して「書画鑑影」24巻を著した。
李佐賢より数年の年少に陳介祺がいる。濰県の人で嘉慶18年(1813)に生まれ、光緒10年(1884)に没した。道光25年(1845)の進士で、翰林院編修となったが、間もなく退官した。銅器、璽印の蒐蔵の多いことと鑑識の精博なことで特に高名であったが、書画の蒐蔵にも富んでいた。日本に入った黄庭堅の「伏波神祠詩巻」(15巻図72-77)も一時彼の所蔵するところであった。
この陳介祺の影響を強く受けたのが、福山出身の王懿栄(1845-1900)であり、その蒐蔵は主として金石関係に重点がおかれた。国子祭酒にまでなり、拳匪の乱に団練大臣を命じられ、連合軍の入京を防いで失敗し、井に投じて死ぬという悲劇的な最期を遂げた。これらの山東の賞鑒家に通じていえることは、その土地柄から金石関係の蒐蔵に力を注ぎ、しかもその方面の鑑識に秀でていたことである。
上記各地の賞鑒家よりもはるかに後出で、金石、書画ともに儲蔵の多かったのは、「匋斎吉金記」などの著をもって名を知られる端方である。この人は満洲正白旗人で、峺陽(直隷豊潤)の人である。咸豊11年(1861)に生まれ、光緒8年(1882)挙人となり、累進して護理陝西巡撫などを歴任した。端方の蒐集は規模が大きく、銅器、古拓、真蹟、碑碣、瓦塼などに及んだ。金陵、武昌など、総督、巡撫として在任した場所には、幾多の文人、学者をあつめ、毎日のように酒宴を開き、その席上で蒐蔵品を展玩して楽しんだ。楊守敬も光緒32年(1906)、金陵の両江総督署に招かれ、命じられて所蔵の金石碑版に題跋をかいた。
端方は、宣統3年(1911)、武昌に革命が勃発した時、突如部下の軍人が変を起こし、そのために捕えられ、弟の端錦とともに殺された。先に王懿栄は拳匪の乱の犠牲となったが、端方は辛亥革命のあおりをくって、その豪奢な生涯にふさわしくない死を遂げた。
また外山は、端方が内藤湖南に贈った李思訓碑の臨書(挿59)を掲げている。その年紀は庚戌、すなわち宣統2年(1910、明治43年)となっており、その死の前年であった。
その書に対して、外山は「書法沈著、いかにも一世を風靡した賞鑒家の書らしいおうようさをもっている」と評している。なお、北京の賞鑒家には、端方よりも先輩に宗室の盛昱(1850-1899)がいた。金石書画の室を鬱華閣といい、儲蔵の豊かさを誇った。ほかに満洲旗人で景賢が著名である。金の章宗の末裔にあたるというので、完顔景賢とも称したが、生没年を詳らかにすることができない。時代的に端方につづく賞鑒家といえば、羅振玉らであるが、賞鑒家としての活躍はむしろ民国時代にあるので、ここでは触れないと外山は断っている(外山、33頁~40頁)。

以下「図版解説」により、若干、補足説明しておきたい。
図2-13は、鄧石如の「四体帖」である。鄧石如が篆、隷、楷、草の四体で揮毫した書帖である。嘉慶2年(1797)、55歳のときの書である。
各体の中で篆書と隷書が最も優れていたことは、すでに清代の包世臣や趙之謙や康有為によって激賞されている通りである。
篆書は李斯や李陽冰から出て、きわめて整斉で古来の篆書の長所をよく取り入れて、渾然としていささかも技巧のあとをとどめない美しさがあるといわれる。隷書は漢の史晨碑に最も近く、結体の上からも、書法の上からも、隷書の特質のよい要素をよく備えた典型的な字体をつくり出している。楷書は虞世南に倣っているようである。草書は晋人の書法によらないで、顔真卿以後の篆書の筆意によって書いているのは、篆隷に重点をおいて、その筆法を正しいとしているところから来ていると中田勇次郎はみている(中田「図版解説」145頁)。

阮元の書について
阮元の作品として、図26「望君山(君山を望む)」という五言律詩がある。この詩は、嘉慶22年(1817)、54歳のときの作で、その書幅は嘉慶22年以後の作であるようだ。
ところで、趙彦称(江蘇丹徒の人)の言葉に、「阮元は書に力を入れて習うということはなかったが、たまたま筆をとって書いた字は、くせがなくて清らかで品位があり、上手に書こうとはしていないが、自然に上手な字ができている。これも金石の学問をやっているせいであろう」といっている。
この書幅も上品な学者らしい字で、とくに書法などを意識していないところに、かえってよいところがあると中田勇次郎は評している。
また、図27はその尺牘(京都国立博物館蔵)で、阮元のしたためた書簡の一つである。楷行のものとは違って、率意にかいた平生の草書で、あらたまった書幅とはまた別の趣がある(中田「図版解説」149頁)。

張裕釗の「千字文」
図66、67は張裕釗が千字文を書いたものの一部である。落款はないが、かつて張裕釗について学んだ宮嶋詠士(大八)が、張裕釗から直接貰ったもので、張裕釗の書法を窺うに足る貴重な資料である。
ところで張裕釗は、清末における古文の大家として有名な学者であるが、書法にもすぐれ、とくに北碑を宗とした。この図66、67によっても、その力量を知ることができると神田喜一郎はいう。
張裕釗の人となりは極めて真面目で、学問では宋学を奉じたほどの人物であったから、その書にも自ずからそうした気風が現われていて、少しも衒ったところや、けれんがない(その点、同時代の潘存と相通じたところがある)。
因みに、この図版の「天地元黄」とある「元」の字はもともと「玄」と書くべきところを、清の康熙帝の諱を避けたのであると神田は付言している(神田「図版解説」158頁)。

曽国藩の書論と書について
曽国藩(1811-1872)は、湖南湘郷県の人で、道光18年(1838)の進士である。咸豊2年(1852)、母の喪に服するために帰郷していたとき、太平天国の乱にあい、湖南省防衛の命をうけ、湘軍を組織し、苦闘10年にして太平天国討滅に成功した。戦後、両江総督として長江下流域の復興に専念した。
彼はまた外国文明の優秀さを認めてその輸入に熱心で、その幕下から出た李鴻章とともに、同治中興の時代を現出した立役者となった。幕下に多くの人材を養ったことは有名で、書人としては張裕釗(廉卿)がもっとも知られている。
彼は桐城派の古文と宋学とを研究し、学者文人としても当代第一流の人物であった。また書をよくし、特に書学に深い関心をもっていたことが、その『曽文正公手書日記』や『曽文正公家訓』によって知られる。
欧陽詢、李邕、黄庭堅三家の剛健を宗とし、褚遂良、董其昌の婀娜(しなやかで美しいこと)をまじえることに心掛けているといっている。これによってその作字の用心の一端を知ることができる(外山「書人小伝」174頁)。
それでは、曽国藩にはどのような書が残っているのであろうか。図版57として、「臨江仙詞(りんこうせんし)」(咸豊元年[1851])が載っている。その40歳のときの作である。この書は、曽国藩の書論の言葉を考え合わせて鑑賞するとよいと中田勇次郎は解説している。すなわち、曽国藩は書を論じて、唐の柳公権と元の趙孟頫の二家を合せて一体としたいといい、また書をかくには剛健と婀娜のいずれの一つを欠いてもいけない。自分は唐の欧陽詢と李邕、宋の黄庭堅を剛健の模範とし、それに唐の褚遂良と明の董其昌の婀娜の風致を参用すればよい書体ができるであろうというのである(中田「図版解説」156頁)。

翁同龢の書について
翁同龢(1830-1904)は、体仁閣大学士翁心存の第三子で、江蘇省常熟県の人である。咸豊6年(1856)の進士で、戸部尚書を歴任した。清末における国事多端のときにあたり、同治、光緒両帝の師傅を務め、枢要の地位にあって政治改革に奔走したが、晩年失脚してしまった。
ところで書は幼いときに欧陽詢、褚遂良をならい、また趙子昻や董其昌の意をとったが、中年になって顔真卿の風骨を得、50歳の頃から、蘇軾、米芾に入り、礼器碑(2巻図84、85)などを学び、廻腕をもって書を作った。晩年にはますます平淡な境地にいたり、劉墉以後の第一人者と称せられるに至り、その書は珍重された(中田「書人小伝」177頁)。
「臨王羲之・十七帖」は、翁同龢が王羲之の「十七帖」のなかの「龍保帖」(4巻図47)と「絲布衣帖」と「積雪凝寒帖」(4巻挿10)の前半を揮毫した扇面である。彼は晩年に書をたのしみ、折にふれて扇面に書をかくことも多かったようだ。この図版は翁同龢の書を好んだ狩野君山が愛蔵したものである。おそらく光緒17年(1891)前後に書かれたものと推測されている。
中田勇次郎はこの作を「渾厚のうちに気魄を籠められたこの人一流のもの静かなうつくしい品位がよくあらわれた作」と評している(中田「図版解説」160頁)。

包世臣とその書
包世臣(1775-1855)は、安徽省涇県の人で、嘉慶13年(1808)の挙人で、晩年、知県となったが、1年にして官を棄てて、のち江寧に寓居した。1855年、長髪賊の乱を避ける途中で没した。
彼は背が低く、精悍で、滔々と兵法を論じたり、好んで社会政策を批判したりした。
書は最も好むところで、中年、顔真卿、欧陽詢から入り、蘇軾、董其昌に転じ、のち北魏に力を注ぎ、晩年にはまた二王を習って、ついに自分の書を完成した。
その書法においては、当時の書をよくする人と交わり、つぶさに研究を重ね、ついに逆入平出、峻落反収の技法を案出し、書は気力の充満することが肝要であることを説いた。
彼は北碑が秦篆漢隷の意を承けて、きわめてすぐれた特色を備えていることを称揚した。これが世の人々を刺激し、阮元の書論とともに清朝後半期における北碑派の流行の素地となった(中田「書人小伝」172頁)。
図版37は「臨王羲之・破羌帖(はきょうじょう)」である。これは包世臣が王羲之の「破羌帖」すなわち「王略帖」(4巻図66、67)を仰高という人のために臨して与えたものであるという。
包世臣は道光12年(1832)に唐の孫過庭の「書譜」(8巻図58-63)を校定し、その書法を研究している。ついで道光13年には「書譜」の源流を探る意味から、さらに王羲之の「十七帖」(4巻図46-57)を深く検討し「十七帖疏証」を著す。そして「自跋真草録右軍廿六帖」に王羲之の書を論じて、王は草書を書くときには真書のように、真書を書くときには草書のように書いているが、趙宋以後、その法がすたれて、法帖に刻されたものには、もはやその法は見られなくなった。自分は南唐の「東方朔画賛」および閣帖の原本を手に入れて、10年の間苦心して学習したけれども、本当の解決が得られなかった。
ところが、「瑯邪台碑」(1巻図135、136)などの諸碑によってはじめてこの法を悟った。すなわち草書を書いても偏軟に陥らないで平直さを備えているし、真書を書いても平板に陥らないでよく変化する法がこれらの碑によってうかがわれると述べている。
この説は、彼自ら記しているように、孫過庭の「書譜」に、真書は点画をもって形質とし、使転をもって情性とする。草書は点画をもって情性とし、使転をもって形質とする、とある説から出たものである。点画はつとめて平直ならんことを求めるから、とかく平板になりやすく、平板になれば使転がなくなるわけである。使転はつとめて恣態を求めるから、とかく偏軟になりやすく、偏軟になれば点画がなくなるわけである。
そこで彼はこの形質と情性、点画と使転を互いに作用させて真草の書法を論じ、すべて古人の書法は、形は直でも意は曲であり、これがほんとうの曲であるという。そしてこの平直さというのは真書草書にかかわらず、篆書の筆意から出ているのであるとする。
彼はまた、古人が真行書を論ずるには、おおむね篆書と八分の筆意を失っていないものを上とする。これは要するに阮元の説から来ていると中田はみている。包世臣が王羲之の書をかくには、このような草書の中に真書の平直な筆意があり、その筆意は篆書および隷書から出ている。これが正しい書法であるという見解を包世臣は持っていたようだ。
さて、図37の「王略帖」の臨書は、包世臣がこころみている孫過庭の「書譜」の臨書にも通ずるものがあり、「書譜」の臨書とその理論から考えだされた包世臣の書法論を背景にして書かれていると中田は推察している(中田「図版解説」152頁~153頁)。

銭坫について
銭坫(せん・てん、1741-1806)は、清一代の大史学者・銭大昕の従子(おい)で、江蘇嘉定の人である。勉強家で、経学、史学に通じたが、とくに説文に精しかった。
彼に篆書を習うことを命じたのは、少詹事であった銭大昕であって、銭坫は李陽冰の「城隍碑」を購って、篆書の名人となった。
乾隆39年(1774)、副榜貢生として直隷州州判に職を得て、その後20余年間、陝西諸州の幕僚を歴任した。
積労のため中風となり、その後退官したが、右体の自由がきかなくなったので、左手で篆書をかいたが、その左手でかいた篆書が精絶だといって高く評価せられた。
ことに同じく篆書を書きながら、北碑派の鄧石如に反対して古格を守ったことで、書道史上注意せられる。66歳で蘇州で没した(外山「書人小伝」169頁)。
書としては、図版15「張協・七命中語」を載せている。「銭坫は自分の篆書にひじょうな自信をもっていたが、古格をまもったその書法はきわめて気品が高い」と外山軍治は評している(外山「図版解説」146頁)。

以上が中国1(殷・周・秦)~中国14(清Ⅱ)の要約部分である。

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《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その13中国13》

2018-07-21 18:28:33 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その13中国13》

21中国13 明Ⅱ・清Ⅰ
この篇には明穆宗隆慶元年(1567)から、清仁宗嘉慶25年(1820)に至るまで、254年間の書蹟を収めている。この篇には帖学を主とし、碑学は清Ⅱで取り扱っている。

中国書道史13    神田喜一郎
明王朝の中期から清王朝の中期にいたる間、すなわち16世紀の半ばごろから19世紀の初めごろまでは(およそ270年間)、中国書道史の大勢の上では、いわゆる革新派の勢力の伸びた時代であると神田喜一郎は捉えている。
その時代において、傑出した人物が董其昌(1555-1636、図6-25)である。浙江省松江府華亭県の人である。明末60年間における書壇の第一人者として、すばらしい名声を馳せた。
董其昌が書において宗としたところは、おおよそは晋の王羲之である。ただ、その学び方においては、形似を事とせずに精神を把握することに主眼をおいた。その結果、彼の書風は王羲之というよりも、むしろ宋の米芾に近いものになっていると神田はみている。
同じく、王羲之を学んでも、元の趙孟頫は、どちらかといえば、王羲之の形似をうることに専念したので、董其昌の書と比較すると、対蹠的であると捉えている。董其昌自身も、趙孟頫に対して、いつもあきたらず思っていたらしく、自分でも趙孟頫より以上であると自負していた。また董其昌は禅学の修養を積んだ人で、その書にもおのずから高遠な人格がにじみ出ている。こういうところも、名声を博したゆえんとみている。
董其昌の代表的な名作としては、
行草書巻(図6-9)
董源・瀟湘図巻跋(図10-15)
李益・日詩、李白・月詩(図16-21)
があり、よく王書の韻致を得た神仙のような姿を窺うことができる。
なお、明末の書壇において、董其昌と対峙した大家に邢侗(1551-?)がいる。董其昌が南方の出身であるのに対して、邢侗は山東省臨邑県に生まれた北方人であるというところから、当時、「北邢南董」と呼んでいたという。しかし書風の上からいうと、邢侗は趙孟頫の派に属し、董其昌とは全く傾向を異にしていたと神田は付言している。
その他に、もう一人、董其昌と並び称された大家に米万鍾(生没年不明、図1)がおり、この人も同じく北方人であるところから、「北米南董」といわれた。しかしこの米万鍾の方が董其昌に近い書風を示しているとみられる。こうしてみると、邢侗はいわば旧派であり、董其昌や米万鍾は新派であり、旧派は次第に衰え、新派はそれにひきかえて勃興しつつあったと神田は理解している。
明末から清初にいたる間は、政治的にも社会的にもまた民族的にも、大混乱を来たした時代であった。当時の書壇の大勢は、董其昌を中核としておこされた革新的な書道の傾向におもむきつつあったが、一部の文人たちは珍しい性格を備えた奇怪な書風をつくり出した。その代表的な書人が、張瑞図(図44-49)、王鐸(図32-39)、倪元璐(図40-43)、傅山(図50,51)である。
彼らは形似にとらわれることなく、奔放自在、思うままに筆を走らせて、その書体も好んで連綿草を用いた。その書風は、正統的な書道を奉ずる人たちの目には、奇異なものに映じた。これも、要するに、明清革命という大きな変動の中に生き抜いた精神的、肉体的労苦と逞しさから、そうした書風が生まれたと神田はみている。張瑞図は明末に失脚し、倪元璐は明の滅亡とともに殉死したし、王鐸は明の遺臣でありながら清朝に降った人であり、傅山と冒襄(図58)は清朝になって暗に消極的な抵抗を試みた人であった。その生き方は各々異なっていたが、その過渡期にあたって味わってきた労苦には共通するところがあったと神田は理解している。
概していうと、この時期の文人の書は、特殊な条件のもとに発生したものであり、どことなく異常なところがあり、中国の書の歴史における本流とはいえないところがあると神田の私見を記している。
清王朝の康熙から雍正、乾隆をへて、嘉慶の末年にいたる約150年ほどの間は、明の中頃以来流行した法帖を根拠とする書法、すなわち帖学が盛んに行われた時代である。この帖学という言葉は、道光以後におこった碑学に対して作られたものである。
ただ、帖学といっても、古碑の書を学ばなかったのではなく、漢碑をはじめとして、唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良の書いた碑、それにいわゆる「集王聖教序」の碑などは、もとより盛んに学んだ。
では、なぜこれを帖学といったのか。この点について、神田は次のように説明している。
これらの古碑の書は、その性質から考えて、『淳化閣帖』などに収められている王羲之系統のものと、だいたい同じ趨向のものとして、一つの範疇に属せしめたからである。そして帖学に対して碑学という場合の碑は、主として北魏から隋にいたる南北朝時代の北朝の支配下にあった地方の古碑をさし、これらは王羲之系統の書とは全く様式を異にする。したがって、これらを学ぶものを帖学に対して碑学と称するという。
そこで、帖学という意味は結局、王羲之系統の書ということになるが、この帖学の中には、王羲之の書法に反撥しておこった唐の顔真卿から、宋の蘇軾、黄庭堅、米芾にいたる一連のものも含むものとされる。
これは一見、矛盾しているようにみえるが、顔真卿系統の書というものは、もともと王羲之の書というものを十分意識していて、その上でわざと反撥して書かれたものである。一方、北朝の古碑ははじめから全く王羲之とは無関係に書かれたものである。だから、王羲之系統と顔真卿系統の書は帖学という概念の中に包括されると捉えられる。
ところで、康熙から嘉慶にかけての清王朝の前半期は、中国の書道の歴史において帖学の一時華やかに栄えた時代であった。それにともなって、当時の文人学者の中にも、碑版法帖を学んで書をよくする者が多く現れた。康熙帝のとき「佩文斎書画譜」や乾隆帝のとき「三希堂法帖」が刊行されたことをみても、この時代にいかに帖学が盛行したかがわかる。
明末の書壇において名声を馳せた董其昌は帖学の大家で、康熙帝みずからもその書を好んだ。また康熙帝時代に出た帖学派の人として、沈荃(図61)、王澍(図74、75)を挙げることができる。こうしたいわば帖学派の主流に対して、このような時代の流れを超越した、変り種の作家がいた。金農(図98、99)や鄭燮(図100、101)がそれである。
元王朝から明王朝の中頃にかけて、天下を風靡した保守的な趙孟頫の書風は、明王朝の中頃に至って再び革新的な傾向に転じた。
中国の書道の歴史における螺旋状の発展の原理はここにおいてもその線を描き出した。その革新的な流れの主導者となったのは董其昌であった。その書風は一つの流行型となり、清王朝の中頃にいたるまで持続した。その波動は日本の江戸時代の唐様にまで伝播した。ただ、清初以来、学問の発達とその考証を主とする性格から、文字の資料を金石にまで求めて、新しく発掘された碑が紹介されていくに伴い、碑学へ転向しようとする兆しが現れていた(神田、1頁~11頁)。

董其昌の書論の基礎となったもの 神田喜一郎
明の沈徳符の名著『万暦野獲編』(巻17)に見える董其昌の言葉を神田喜一郎は引用している。
その趣旨といえば、程学および朱子学は、明王朝の建国の初めに国家の官学として権威を保持してきたが、董其昌が生きた時代にはほとんど振るわなくなってしまった。紫柏老人は、朱子の精神も五百年がせいぜいで、今日ではほとんど尽きてしまったと言っていたが、実に物の道理をよく弁えた言葉であるという。
董其昌は平生から紫柏老人の説を習い聞き、それに心服していた。紫柏老人とは高僧達観真可禅師のことである。この『万暦野獲編』の記述は、董其昌の書論や芸術そのものを理解する上で、大きな示唆を与えてくれていると神田はみなす。つまり、董其昌はその当時程朱の学問がほとんど生命を失いつつあった事実を、歴史的必然性の結果として、率直に肯定していたことがわかる。そして、その程朱の学問に真正面から反抗して、新しく勃興した王陽明の学問に対して、その将来を期待していたかもしれない。董其昌は明王朝の官僚として、ほとんど最高の地位にまで昇ったにもかかわらず、こうした思想動向を抱いていた点に神田は注目している。
その上、もう一点に注意を向けている。王陽明の学問は、明の中葉に興ったが、その門流のうち、左翼的な泰州学派から、董其昌と時代を同じくして、李卓吾が出ている。ところが董其昌はこの李卓吾に篤く崇敬していた。
董其昌の文集『画禅室随筆』には、万暦26年(1598)に、董其昌は李卓吾を訪ねたことが記されている。この時、李卓吾は72歳、董其昌は44歳で、かなりの年齢の差があったが、董其昌は李卓吾を崇敬していた。なお、二人が会った4年後の万暦30年(1602)に、李卓吾は「あえて乱道を唱え、世を惑わし、民を誣(あざむ)く」ものとして、官から罪を問われ、獄中で自殺した。
このように述べると、董其昌は一種の過激な思想を抱いた反逆児ででもあったかのように誤解される恐れがあるが、実際はそんな風ではなかったと付言している。つまり思想的には李卓吾に共鳴しても、実際の行動の上には極端なことをなしえなかった。それに当時の士大夫の間には、仏教の研究が盛んに行われており、董其昌も仏教に心を牽かれていた。
董其昌の出た明王朝の万暦時代は「孔子の家法に遵わずして、意(こころ)を禅教に溺る」というのが、一般の風潮であった。これは1602年に、時の礼部給事張問達が李卓吾を弾劾した疏の中の一節である。李卓吾も王陽明の学問をおさめた学者であるが、禅学に心酔して、その身は儒服をつけながら、仏寺に起居するという状態で、その学問は儒仏、いずれとも分けられないものであった。
もっとも、そうした一般の風潮に抗して、旧来の伝統を守り、程朱の学問を奉ずる正統派の学者も少なくなかった。それでこそ、李卓吾も正統派の学者から、激しい非難攻撃を蒙って、ついには悲惨な最期を遂げねばならぬ運命に追い込まれた。しかし特に儒仏を峻別する正統的な程朱の学問に対して、この万暦時代ほど、それに反対する風潮が巻き起こった時代はなかった。そして董其昌もある意味からいえば、そうした時代の産んだ新しい芸術家であったともいいうると神田は捉えている。
董其昌は夙くから禅学に興味をもった。まだ郷里の松江にいた頃、同地に来た達観真可禅師、つまり紫柏老人に会ったといっている。董其昌の芸術を探求するには、仏教、とりわけ禅学に根拠を尋ねる必要があると神田は考えている。最初に引用したように、董其昌が、明王朝の官学である程朱の学問の既に生命を失いつつあることを指摘した紫柏老人の説に賛している事実に注意した。
芸術の場合において、董其昌はこの程朱の学問にあたるものとして、趙子昻の書と画院の画とを考えていたと神田はみている。いずれもアカデミックの典型で、その間に一種のある共通したものが存在する。そして董其昌みずからはそうしたアカデミックの典型の外に立って、清新で自由な独自の芸術を創造しようとしたと神田は捉えている。
ところで董其昌の郷里の先輩にあたる張東海(弼)の詩句に「天真爛漫は是れ吾が師」というのがある。董其昌はこの一句をもって「書法の丹髄なり」といった。つまりこの天真爛漫ということこそ、董其昌が書法の最高の理想としたものであった。これは王陽明の説いた良知、李卓吾の主張した童心にあたるものであると神田は解釈している。
そして島田虔次の著作『中国に於ける近代思惟の挫折』の中から、李卓吾のいう童心に関する説明を引用している。すなわち
「それは決して私的‐人欲的な契機を排除した、単なる思弁の要請としての『原理』といふ抽象性に止まるものではない。それが絶仮純真であるといふのは、人欲の私なくしてただ天理に純であるといふのではなくて、勢、利、財の契機を蔵しつつも、然も未だ『習』によって変容せしめていない状態を指していふのである」といっている。
この童心の意味はそのまま董其昌のいう天真爛漫の解釈に適用してよいと神田はみなす。そして董其昌によると、古来この天真爛漫という理想の境地に到達しているのは、晋の王羲之、王献之のいわゆる二王、それについでは唐の顔真卿、五代の楊凝式であって、宋の蘇東坡、米元章はほぼこれに庶幾(ちか)いということになる。
また、古来書法の名人といわれた唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良、薛稷、それに元の趙子昻などは、いずれも二王を学んだ大家には相違ないが、天真爛漫という理想の境地とは隔たったものであるとした。こういう考えは、画禅室随筆などに見える多くの断片的な記述から帰納することができると神田は述べている。
董其昌が特に自分に対立するものとしたのが、趙子昻であると神田は捉えている。つまり趙子昻は二王の形似を学んだ復古主義者であったが、董其昌からいえば、古来の『習』にとらわれているというのである。これに対して、董其昌は二王の精神をえようとした理想主義者であった。ここに董其昌の書論の特色があるとみている。
そして神田はそれを培ったものは何かという問いに対して、李卓吾を頂点とする泰州学派の学問と、それに密接な親近関係をもっていた明末の三大師などの説いた仏教思想とを挙げている。これらの点は従来注意されてこなかったので、今後もっと深く掘り下げて研究する必要のある根本的な問題であるとしている。
董其昌は画論において、中国の絵画を禅宗の南宗、北宗に譬えて、これを南宗と北宗に分け、唐の王維にはじまるという南宗の画をもって絵画の正統とした。
先述したように、書において、欧陽詢、虞世南、褚遂良、薛稷、さては趙子昻の流れに対立するものとして、顔真卿、楊凝式、それに蘇東坡、米元章の流れを董其昌は考えた。この二つの流れは董其昌では、前者は北宗、後者は南宗となり、書論と画論との間に、相通じた一貫性が認めれるという。
要するに董其昌は、絵画には、アカデミックな典型を墨守する派と、清新自由な、いわゆる天真爛漫を主とする二つの派があって、真の絵画はその後者でなければならないと主張した。これはその精神において書論における主張とも一致するという。そしてその根源を尋ねると、董其昌その人の確乎たるバック・ボーンから発していると神田は理解している(神田、12頁~17頁)。

張瑞図について   中田勇次郎
明末清初の書は、明の中期のものに比べると、きびしい切実なものへ変わってきた。明の中期のものは文人の趣味生活の中から生まれ出たため、一種の遊戯的な美しさに終始した。
しかし、明末清初の書は、政治的社会的変動の影響を受けたため、何か肺腑を貫くような真剣さがあり、見る人の心を感動させずにはおかないものを持っていると中田はみている。このように書が変わってきたのは、明末半世紀ほどの間の書壇の大立物であった董其昌の役割が大きかった。すなわちその革新的な書風とその理論が指導的なものとなっていた。
董其昌につづいて現れた人々は、それぞれの境遇と性格に応じて、明末清初の特異な書風を作り出した。その中で特に異彩を放ったのが、張瑞図と王鐸である。王鐸については、かなり広く知られているので、ここでは伝記などのあまり詳しく知られていない張瑞図を主題として取り上げている。
まず、張瑞図の生卒については、これまで明記したものがなかったが、中田はその文集の記載内容から、1570年に生まれ、70歳まで生存していたとする。そうすると張瑞図は、董其昌よりは16歳ほどの後輩であり、王鐸よりは22歳、倪元璐よりは24歳、傅山よりは27歳、それぞれ年長であったことになる。したがって張瑞図は明末清初の有名な書人たちの中では、董其昌についで比較的早くに生存していた人物であるといえる。
彼の伝記は『明史』巻306閹党伝などに見える。その経歴は万暦35年(1607)の進士で、38歳で、第三席いわゆる探花の及第であった。その後、職歴を重ねて、1626年、57歳のとき礼部侍郎から礼部尚書となった。翌年1627年、宦官魏忠賢が罪に伏して誅されたため、1628年、職を免ぜられ、張瑞図は太保となった。
そして1629年、彼は罪状を議定処分されている。そのときの罪状としては、1626年、魏忠賢が西湖のほとりに生祠を建てたときに、施鳳来が文を撰び、張瑞図が書丹したということが取り上げられている。退官して一平民となってからは直ちに郷里の福建省泉州普江県へ帰った。
ところで後世、張瑞図が悪い人物として批評されるのは、多くはこの宦官魏忠賢に加担したからであるといわれる。
その事蹟が不当なことである点として、次の3点が挙げられる。
(1)魏忠賢が東林党を論難するために作成した三朝要典の編纂の副総裁になっていること
(2)三度上疏して魏忠賢を頌したこと
(3)魏忠賢の生祠の碑文を書丹したこと
これに対して、清の楊守敬が張瑞図の書のすぐれていることを論じ、あわせてその政治上の非難を弁護している。すなわち、第一の三朝要典を編纂するときの副総裁となったのは、三朝要典の原本の中の副総裁の列銜には彼の名が見えないから、このことは事実ではない。彼はむしろ三朝要典を焼き捨てることを上疏している。
第二の、三度上疏して魏忠賢を頌したというのは、彼の文章にそういうものが伝わっているものがなく、また彼の罪状を議定する時にも、荘烈帝の詰問に対して韓熿が罪状はないと答えているのであるから、こういう事実がありえない。
第三の生祠の碑文を書丹したことは、詔旨を奉じて書いたのであって、命令に従ったまでで阿諛したものではないという。
彼がどこまで積極的に魏忠賢を支持していたかということに問題があるが、もし、彼の罪状の主要なものが、魏忠賢の生祠の碑文を書丹したことにあるとすれば、それは彼の平生の書癖のわざわいするところであると見なければならないであろうと中田はいう。
清代になってからは、張瑞図の書は世上ではあまり尊ばれなくなった。また、その書風が特異なものであったため、書の本格的なものをよろこぶ帖学派の大家たちに嫌われた。たとえば「芳堅館題跋」の著者、郭尚先は張瑞図の書を「下劣の阿修羅」とののしった。
ところで、中国において珍重されなかった反面に、日本には比較的早くから、その書が賞美されている。それは、一つには彼が福建の人であるという地理的な関係があったことが指摘されている。福建と日本との交渉は、たとえば福建、福清県出身の隠元禅師の渡来によっても、その関連性があることが認められている。現に、黄檗山にはその当時に将来したと思われる張瑞図の書が伝えられている。また、近衛家熙公の収蔵に張瑞図の幅があるが、これもその黄檗僧と交渉のあったことからみて、同じような経路で日本にもたらされたと想像されている。
そして江戸時代において唐様の書道が流行するにともない、中国の書幅がかなりもたらされ、張瑞図の書も多く含まれていた。大田南畝の『一話一言』(巻2)に、「一橋黄門の藏に二幅對あり、白毫庵瑞圖ありと」といい、また、「松花堂猩々翁の書は張瑞圖を学べりとぞ、雪山ももっぱら瑞圖の筆を擬せしなり」という。
そして『明和書籍目録』には張瑞図の「聞道帖」が載っていて、手本としても通行していた。
そして中田は張瑞図の文集を検討して、その人物の特質を考えている。
張瑞図は本来おだやかな平和な人間であったと中田は観察している。とくに情にあつく、豊かな詩趣を備え、いわば詩人肌の人物であったとみる。その豊かな詩的情操が陶淵明や白楽天を通じてあらわれ、神仙の遊ぶ桃源郷のような境地が現出し、その境地がやがて書となり、画ともなって、彼の芸術が完成されたと中田は理解している。
そして張瑞図の特質として、現世を根底とする平等観を指摘している。彼が君子にも小人にもとらわれない達観した思想をつとに抱いていた。魏忠賢の件で一旦失脚してからは、その達観した思想は豊かな詩情と楽しい自然の生活に彩られ、寂寞と清静の中に安住の地を見出したのであろうという。
次にこのような人間的特質を踏まえた上で、張瑞図の書を観察している。梁巘の「評書帖」によれば、張瑞図ははじめ唐の孫過庭を学び、ついで蘇東坡の草書「酔翁亭記」を習ったという。しかし彼の文集を見ても、全く詩人の詩集であって、その生活面のことを書いても、書のことなどは全く一言も触れていないそうだ。また実際に彼の書を見ても、誰かを師法とした痕跡はほとんど認めがたく、ひたすら独自の姿を呈しているように見えると中田はいう。
そしてその表現はきわめて創造的で、情趣のこまやかさに特色が見出される。この点について、中田は次のように推測している。彼が南方の福建の人であるところから、その土地の気候や風俗習慣と、その土地の人の性格にもとづくところもあるであろうが、また何よりも彼自身の詩人的な性情に因るところが多いものとしている。つまり情動いて作り、情達して止むという彼の詩の作り方と同じように、彼の書にも、細やかに変転する書法と、複雑な幻想のような飛動の姿が自然にあらわれるものとみている。彼は王羲之とか顔真卿とか蘇軾とかいう一定のものに頼らないで、自己の現実性に根をおろして、その天性の性情を美しい詩の世界に融化して、思うままに駆使して、独創的な姿に表現したという。
ここにも彼の一切平等の観念がその背後に働きかけているものと中田は考えている。
そして張瑞図の書を中田は次のように鑑賞している。その行、草には側勢の転折のするどい一種の音楽的な調子をもったものと、おなじ側勢でもきわめて素樸な純真なすがたになっているものとがある。また時には禅僧の墨蹟を見るようなわびしい感じのものもある。こういう抒情的で飛動するものとか、素樸で純真なものとか、宗教的なおちついたものなど、いろいろな書があることは、彼の詩を読んでみても同様に感じられると中田はみている。
最後に、中田は張瑞図の書と、他の書人たちとを比較している。彼は米万鍾(図1)、邢侗(図4)、董其昌(図6-25)の三家と併称されることもあり、早くから書名は出ていたようであるが、董其昌は古い碑帖の臨模に基づいて一家を成したのに比べて、張瑞図は出自からはまったく超脱していた。つまり自我の強い書となり、特にその豊かな詩情が変転自在に表現されるところは、董其昌などの及ばない別の世界を形成していると中田は理解している。
王鐸と比べると、王鐸も古法帖の臨模の基礎づけがはっきりしており、王羲之の草書尺牘の臨書(挿32)、王献之の「鵞群帖」の臨書(図33)、王曇首の「昨服散帖」の臨書(図35)などに見られるように、古法に根底をもっている点では、書道の本流につらなるものであった。傅山(図50、51)も、王鐸と同様で、晋人の草書尺牘の連綿草に道を求めていた。ただ傅山の場合は、そのあらわれかたが奇怪であるのは、けっして古法の基礎を棄ててしまったのではなく、書の学びかたに新しい道を求めて天真に徹したからであるという。
王鐸や傅山から見ると、張瑞図は本格的なものではなく、いわば専門に対する素人の書の行きかたを徹底して、かえってその芸術を完成した。
明末清初において、書のすぐれている点から見るならば、張瑞図と王鐸はもっともよき対照をなしているとみる。このほか、黄道周(図28-31)とか倪元璐(図40-43)は張瑞図と近い傾向をもつが、いずれも張瑞図に及ばないという。
清朝になってからは、自己を中心にして書道の本流から離脱した人も現れるが、張瑞図はそういう意味での先駆的存在であると中田は歴史的に位置づけている(中田、18頁~27頁)。

明清の賞鑒家    外山軍治
中国の法書名画は、歴代の朝廷と賞鑒家と呼ばれる人々の手によって保存されてきた。賞鑒家とは、書画に関するすぐれた鑒識眼をもち、書画を蒐蔵愛玩する人々のことである。書画や古器物の蒐集には、鑒識眼はもちろんのこと、財力、権力を伴わなければならないし、その上にものを蒐めるのに都合のよい何かの機縁に恵まれなければならない。賞鑒家はそのような条件をそなえた幸福な人々でもある。賞鑒家は歴代出ているが、本篇でとり扱う明の万暦から清の乾隆頃までには特に多くの賞鑒家が輩出している。
北宋の黄庭堅の「松風閣詩巻」には、乾隆御璽のほか、南宋の賈似道の悦生、似道、秋壑、長字諸印以下、元、明、清にわたる人々の鑒蔵印がおされており、この詩巻に得も言われぬ古色を与えている。そのうちその数の多いのは、明の項元汴の印であり、その印の数において全く他を圧している。が、項元汴の印の多いのはこの作品だけに限ったことではなく、今日残っている名品といわれるものに、彼の印を見ないものは少ないようだ。その蒐蔵の多さという点でも、おそらく明末の賞鑒家の筆頭にあげるべき人物である。
その項元汴は、今日の浙江省嘉興にあたる秀水(嘉禾)の人である。明の嘉靖4年(1525)に生まれて、万暦18年(1590)に66歳で没した。同じく賞鑒家として知られている王世貞(1526-1590)より1歳年長であり、董其昌(1555-1636)に長ずること30歳である。
項元汴が王世貞、董其昌と異なる点は、王世貞が南京兵部侍郎、董其昌が礼部侍郎という高官に上った人であるのに対し、彼は財力には恵まれていても全くの在野の人であったということである。
董其昌は項元汴のために「墨林項公墓誌銘」(図24、25)を撰しているが、それによると、項家の先祖は、汴(河南省)の人で、宋に扈(したが)って秀の胥山の里に移り甲族となった。父は項銓、彼はその季子である。自ら権勢に遠ざかり、文彭などの名流と文雅の交わりを結んだ。代々富裕で、彼はその家貲をもって法書名画をはじめ古器物の蒐集にあてたという。
項家がどのような事業によって富豪となりえたかは明らかでないが、項元汴の父祖にも士官して高位をえた人はないようであるが、項元汴の蒐集は権力を利して行ったものでないことがわかる。
項元汴の蒐蔵はすばらしいものであったといわれるが、惜しいことに彼は著録を残していない。明末で著録を残していることで注目すべき賞鑒家は張丑と汪珂玉とである。張丑は崑山(江蘇省)の人、また呉郡(江蘇省蘇州)の人ともいう。万暦5年(1577)に生まれ、崇禎16年(1643)に没した。その室を宝米斎というのは、万暦43年(1615)、米芾の「宝章待訪録」の墨蹟を得たことによる。
その祖父は文徴明父子と姻婭の間柄であるという。代々蒐集した書画は夥しいものであったが、その累世蒐蔵した書画を記録して、「清河書画表」をつくり、また目覩した真蹟について、その題跋印記を詳述し、考証を加えて「清河書画舫」(万暦44年[1616])をつくった。しかし張丑の家は中途で家運が傾き、彼の時代には売り尽くしてなくなったらしく、その書画表に載っているもので項元汴の家に入ったものも少なくない。
次に汪珂玉は、徽州(安徽省)の人で、万暦15年(1587)の生まれであるから、張丑より少し年少である。その父の愛荊が項元汴と交好し、凝霞閣を築いて書画を貯え、収蔵の富、一時に甲たり、といわれる。その著「珊瑚網」は崇禎16年(1643)に成ったものといわれ、その叙述は張丑の「清河書画舫」よりも詳密だと評される。
ところで項元汴の子孫たちについては、董其昌の「墨林項氏墓誌銘」に付した清の金蓉鏡の題跋に詳しい。いずれも項元汴の遺志をついだが、特に長子の徳純らが法書名画を蓄えたといわれる。項元汴の蒐蔵品が掠奪にあったことは、清の順治2年(1645)のことで嘉禾にやってきた清兵の千夫長汪六水のために残らず掠めとられてしまったと「韻石斎筆談」は語っている。その後、これらの蒐蔵品がどのような運命を辿ったか、よくわからない。
項元汴がその蒐蔵品に夥しい鑒蔵印をおしたことは、それらの書画の楮尾に購入の際支払った価格を書き記したこととともに非常に不評判である。姜紹書は「韻石斎筆談」に項墨林収蔵の条に、「名蹟を得るごとに印をもってこれに鈐す。纍々として幅に満つ。これまた書画の一厄たり」という。その並はずれて多い鑒蔵印は彼の蒐集欲の非凡なことを示しているもので、そうだからこそ、財力こそあれ、格別に権力をもたない身で、これほどの蒐集を行い得たものであろうと外山は推測している。圧倒的に多い項元汴の蒐蔵印がその作品の価値を裏付けしているようにさえ認められるようになったのは賞鑒家の彼の貫禄を物語るともいう。
さてこれらの明末の賞鑒家につづいて注目しなければならないのは、孫承沢である。明の万暦20年(1592)に生まれ、清の康煕15年(1676)に没した。順天大興(今の北京)の人で、崇禎4年(1631)の進士で、明に仕えて官は刑部都給事中にまでなった。その後清に降り、吏部左侍郎になったが、順治11年(1654)に致仕し、康煕15年(1676)に没するまで20年近く家居した。目睹した晋唐以来の書画を評隲して著わしたのが、「庚子銷夏記」である。庚子の歳すなわち順治17年(1660)、4、5、6月の間に成ったので、「庚子銷夏記」と名づけた。王羲之書褁鮓帖、王献之書地黄帖をはじめとして、唐宋人の真蹟や法帖類が多く載せられている。また王維伏生授経図(挿35、大阪市立美術館)には、北海孫氏珍蔵書画印、北平孫氏といった鑒蔵印があり、孫承沢と同じく明の遺臣で清朝に仕えた馮銓、梁清標らの鑒蔵印もある。
馮銓は、河北順天涿州の人で、明の万暦23年(1595)に生まれ、万暦41年(1613)進士に合格し、天啓5年(1625)に東閣大学士として閣僚となったが、のち清に降り、中和殿大学士となり、康煕11年(1672)に没している。馮銓は「快雪堂帖」を刻したことで知られている。「快雪堂帖」は魏、晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻したものが多いが、それについては第17巻「明代の法帖」(中田勇次郎)において詳述している。
また梁清標は河北正定の人で、明の泰昌元年(1620)に生まれ、清の康煕30年(1691)に没している。孫、馮2人によりは少し後輩である。明の崇禎16年(1643)の進士で、明に仕えて翰林院庶吉士となり、のち清に仕えて保和殿大学士にまで昇進した。金石文字、書画、鼎彝の属を蒐蔵したことで名を知られた。この人も著録を残していない賞鑒家の一人で、この点項元汴と同じである。
孫、馮、梁の三氏は、項、張、汪三家が江南の賞鑒家であるのに対して北方の賞鑒家である。江南三家の蒐蔵品がすぐさまに北方の三氏の蒐蔵に帰したかどうか、よくわからない。著録のある孫承沢の蒐蔵品の中には、「松風閣詩巻」のように項元汴の蒐蔵印がおされているものも入っているが、その他には項元汴の蒐集品は余り入っていないという。
孫承沢、馮銓、梁清標ら明の遺臣の賞鑒家につづいて、康煕から乾隆にかけては多くの人々が現れている。中でも「江邨銷夏録」を著わした高士奇、「式古堂書画彙考」を著わした卞(べん)永誉、「大観録」の著者の呉升らが注目される。その著述の上からみて、すぐれた賞鑒家であろうと外山が考えているのは、呉升である。「大観録」は、康煕51年(1712)に出来上がっているが、「式古堂書画彙考」などに比べて識見が強く出ている。
これらの人々よりは後出で、乾隆期にまたがった人であるが、その出自の点で興味があるのは、「墨縁彙観」を著わした安岐である。その生年については、康煕22年(1683)説があるがはっきりしない。彼が朝鮮出身であるということは、自ら朝鮮人という印を用いている所よりみて明らかである。安岐は北京に出て納蘭太傅(康煕朝の権臣明珠のこと)の家に給事したが、太傅の門に奔走するものが率先して安岐に賄した。彼はこれによって得た財をもって塩商となり、巨富を擁し、そして法書名画の蒐蔵を行ったといわれる。項元汴ほどではないが、今日みられる書画に安岐の印のおされているものを認めることが甚だ多い。「墨縁彙観」は作品の紙墨、印章について詳述考定し、その真贋の鑑別において往々にしてその非凡さを発揮している。またその子孫が生活に困って安岐の蒐蔵を売り払ったが、そのうちの逸品は長洲の沈文愨の手によって内府に進められ、その余りは散らばってしまった。王羲之の「遠宦帖」、懐素の「自叙帖」など、安岐の蒐集品で清室に入った代表的なものである。
清朝において法書名画が内府に集められたのは、康煕時代より乾隆時代にかけてのことといわれる。明の内府に蔵せられた書画もそうであろうが、項元汴の蒐蔵なども明清交替の時期に散落してしまった。それらのものが清朝に入って輩出した賞鑒家の手に集まり、彼らが鑒定を経て次第に清の内府に集められていった。これは書画にも造詣の深い両帝の熱意がそうさせたといえる。
康煕帝が康煕47年(1708)、孫岳頒らに命じて撰せしめた「佩文斎書画譜」には歴代鑒蔵の項を設けており、乾隆帝は乾隆9年(1744)内府に蔵した書画について「秘殿珠林」「石渠宝笈」を勅撰させ、ともに書画鑒賞についても大きな関心を示している。特に乾隆帝は入手した逸品に数多くの鑒蔵印をおし、自ら題識をしるしてその帝王らしい識見を表現している。その印璽は壮大、堂々としていて、民間の賞鑒家項元汴輩の印章の比ではない。中国歴代の朝廷は法書名画の保護に任じてはいるが、殊に清朝にはこのような賞鑒家としての資質をもそなえた帝王が出たために、あのようなすばらしい蒐蔵がなされたと外山は考えている(外山、28頁~32頁)。

21中国13 明Ⅱ・清Ⅰの「書人小伝」に董其昌について、内藤乾吉は興味深いことを記している。
董其昌(1555-1636)は華亭(江蘇省)の人で、1589年に進士となり、翰林院庶吉士となった。董其昌の郷里華亭は、明初の沈度、沈粲をはじめとして、以後張弼、陸深、莫如忠、是龍父子などの書家を出したが、その後に出た董其昌は書の天才、力量において遥かにそれらを凌駕した。古今の書を研究し、名蹟を鑑賞し、優れた識見を有した。項元汴などの当時の蒐蔵家の晋唐墨蹟を見て、真蹟でなければ書の神髄を得られぬことを悟った。目標は魏晋にあったから、晋人の書法に造詣の深い米芾や、天真爛漫の中に晋人の精神を得た顔真卿には深い共感を示した。しかし趙子昻に対しては、王羲之をいくら習ってもその精神を得ていないものとして退けた。
また董其昌は自分の書について、古淡、秀潤、率意の妙においてすぐれ、魏晋とまではいわぬが、唐人には負けないと自信していた。内藤乾吉は瀟洒として垢ぬけのしている点では古今独歩といえるかもしれないと評している。画においても書と同様、識見と手腕を有し、禅理に通じ、詩文書画の論にもそれを応用している。『明史』の文苑伝には、当時善書をもって名あるものに邢侗(けい・とう、1551-?)、米万鍾(べい・ばんしょう、生没年不明)、張瑞図(ちょう・ずいと、1570-1640?)があり、時人は邢張米董とか南董北米などといったが、他の三人は董其昌に及ばざる遠きこと甚だしといっている(内藤乾吉「書人小伝」177頁)。

清の四大書家について
21中国13 明Ⅱ・清Ⅰの「書人小伝」を参照して清の四大書家について紹介しておこう。
清の四大書家とは、
1劉墉(1719-1804)
2梁同書(1723-1815)
3王文治(1730-1802)
4翁方綱(1733-1818)

1劉墉(1719-1804)
東閣大学士劉統勲の長子で、乾隆16年(1751)の進士である。経史百家に通じ、詩文をよくし、題跋にも工みであったが、とりわけ書法にすぐれ、みずからも書をよくするのを自負していた。はじめ、家風を受けて趙孟頫を学んだが、中年以後一家をなしたといわれる。包世臣の見解では、董其昌から入り、蘇軾に移り、70歳以後、北朝の碑版に心を潜めたという。出自はいずれにしても、その書風は一家の特色を示した。
小楷はとくに精絶であり、行草にも長じ、姿は豊かで、気骨をうちに蔵し、静かな情味をたたえた品格の高い独特の書風をなした。晩年にはますますその妙境にいたり、当時においてもその詩草や書札が世に珍重されたと中田勇次郎は解説している(中田、「書人小伝」185頁)。

2梁同書(1723-1815)
父は乾隆朝に文学の臣をもって東閣大学士となった梁詩正(1697-1763)である。梁同書
はその長男に生まれたが、叔父の梁啓心の嗣となった。乾隆17年(1752)、特別の恩恵により殿試に与り進士となった。その後養父の死に遭い、喪が終わって後も病気といって出仕しなかった。梁同書は書を善くし、詩を工みにしたが、鑑賞にも精しく、その名声は天下に聞えた。その書は帖学より入って一家を成したもので、若い時の書は顔真卿、柳公権を法とし、中年には米芾、董其昌を法としたといわれる。同じく帖学派の書人で、その時代をほぼ同じくする劉墉、王文治とならんで、劉、梁、王と称せられ、梁巘(りょう・けん、生没年不明、安徽毫州の人)と南北梁といわれた。書学の造詣も深く、『頻羅庵論書』という著作がある。このように、外山軍治は解説している(外山、「書人小伝」186頁)

3王文治(1730-1802)
乾隆35年(1770)の進士で、三番で合格している。乾隆20年(1755)、琉球国王冊封使として派遣された侍講全魁に随行して琉球に渡った。この時、26歳であったが、琉球人はその書を珍重して家宝としたといわれる。彼が好んで用いている「曾経滄海(曾って滄海を経[わた]る)の四字印は、その若き日の渡海の想い出を託したものである。その書は穏和で風格が高く、董其昌の真髄を得たものといわれるが、いくらか弱いところがあり、女郎の書などという評もあると外山軍治は解説している(外山、「書人小伝」185頁~186頁)。

4翁方綱(1733-1818)
乾隆17年(1752)の進士で、乾隆47年(1782)、四庫全書纂修官となっている。
書法ははじめ顔真卿を学び、ついで欧陽詢、虞世南を学んだ。隷法は史晨と礼器の二碑に学んだ。平生碑帖の摹勒雙鉤につとめ、精密な考証を加えた題跋を記入した。
彼はとくに金石、碑版、法帖に関する広い識見と精密な研究で名があり、すぐれた著述を残している。漢隷には『両漢金石記』、晋帖では『蘇米斎蘭亭考』、唐碑では『蘇斎唐碑選』があり、中でも欧陽詢の「化度寺塔銘」と虞世南の「孔子廟堂碑」にもっとも詳細な研究を行って、『化度寺碑考』、『孔子廟堂碑考』に成果がまとめられていると中田勇次郎は記している(中田、「書人小伝」、186頁~187頁)。
別刷附録 王鐸 遊中條語


《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その12中国12-b》

2018-07-21 18:19:22 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その12中国12-b》

17中国12 元・明Ⅰの続きの要約を掲載する。

詩書画三絶     島田修二郎
書と画とは中国でも日本でも、とくに中国では、いろいろな点で密接な関係がある。まずこの二つの芸術は墨筆の運用によってできる線でもって形を構成するか、またはそれを根幹として成り立つものである。
詩文が画の中に書き込まれるか、画に接続して書かれるので、書と画とを併せてみ、それが互いに他の興趣を深めるということがある。また一人の作家が書にも画にも優れた手腕をもっていることが多いので、ある芸術人格のもつ異なった面がそれぞれ書と画とに表れるのをみるとか、同じ意思の書画二つの相における違った表れをみることができる。
このように外形上でも内面的にも、書と画とは親縁関係にあるので、この二つの芸術を結合させてみようとする考えが、古くから中国にはあった。書画一致の説というのがそれである。ただ、書と画とは親しい関係があるといっても、別個の芸術形式であるから、それが一致するとしても、限定的な一致であるべきことはいうまでもない。
書画一致を説くのに二つの立場がある。
①その一つは書と画とが同じ源泉から出ているという点をとらえて両者の一致を説くのである。中国の書は中国の漢字を写すことにおいて成り立つのだが、その漢字は象形文字であって、文字の古い形は物の形をかたどっている。古代文字の一種である鳥書はその好い例である。したがって書と画とは共通の源からでているわけで、その意味で書画は一致するものというのである。殷墟の発掘品によって殷代の象形文字が確実に知られるようになった。しかしそれらはかなり抽象化されていたり、文様化されたものである。書画一致説の論者がそれより更に具象的な形の文字をより所として持っていたかどうかわからない。けれども象形文字がどれほど物の形を写していたとしても、それを文字として、つまり抽象的に観念を表す記号としてみることと、具体的な物の形とみることは別な事柄である。
見方によっては逆に、中国の書は文字の形の上から、物の形をかたどることが消え失せるところに成立したともみられる。書と文字との関係はここで簡単には述べられない複雑な問題であるが、両者は互いに他を規定し合うという意味合いがある。
象形文字を理由として書画の一致というのは、要するに起源論であって両者が同じ源から発生したというにすぎないことであり、それで一致というのは筋の通らぬ議論と思われるだろうが、中国的な考え方では同源ということで書と画とを密接に関係づけることが一致の説明とされた。
②書画一致の他の説は、書と画との筆法が共通であることを理由にしての主張である。書の線と画の線とは同じく墨筆の運用によって作られるのだが、書の線には画の線のように物の形を描写する働きはない。
昔の書家は例えば松の高々とそびえる勢や水の走り流れる勢から書の運筆を感得することがあったらしいが、しかしそれは線の力や美しさを見出す機縁になっただけのことで、書の線は抽象的に文字の形を構成するものであって、具象的に物の形を作り上げる画の線とは別な芸術的意味をもっている。しかし筆の運用という技法の面だけをみれば共通するものがある。書画一致の例証として論者があげるものをいうならば、後漢の張芝の一筆書と宋の陸探微の一筆画とは同じ筆法であるという。一筆画は画としては特殊なものだから別とすると、梁の張僧繇の画がある。この時代は人物画が全盛の時だが、これまでは人物の肉身や衣服をもっぱら緊細な変化のない線で描写していたところ、張僧繇は衛夫人の「筆陣図」によって、点曳斫払などという書の筆法を画に導入して線の筆勢に変化を作り、力強い新しい画風を創始したといわれている。これは唐の張彦遠の議論がある(そこから書画一致という結論を引き出したのは少し後の人であろうと島田はみているが、今は張彦遠の説としておくという)。ここで説かれた書画一致は書画の技法の上での一致ということにとまるが、これがまた中国では書と画との深く強い関連の証左として広く容認されていた。
唐末から後になると、中国画の発展は次第に水墨画を中心とするようになり、人物画よりも山水、花鳥などの題材を多く描く方向に進んだので、描線の自由な変化が追求され、線の肥痩、軽重、遅速の変化が多様に、かつ激しいものとなっていた。その結果、筆法上の書画の一致面は拡大されることになった。
例えば、人物画の衣文を写す筆法はふるえ飛動して草書のようだといわれる。あるいは墨竹で竹の幹を写すには篆書の筆意を用い、葉を作るには隷書の筆法を用いる。石を画くには飛白の筆法をとる。このように点曳斫払など書の基本的な筆法だけでなく、いろいろと分化した書法がそれぞれその特色に応じて画法の上に応用される。
とくに文人画特有の梅竹蘭などの墨画では、このような書画の筆法の融通が容易に行われるので、書画一致の説が最もよくあてはまることは事実で、書法に功を積んだ文人は気安くこの類の画に筆を染めることができ、実際かなりの画境に達していることが多い。そうしたことから、この意味での書画一致説はますます強くなり、書法の関紐が画に入るとか、書画は同一関捩子とかいうことが盛んにいわれるようになる。
書法でもって画をかくとして有名な画家の中の変り種は、宋末元初の僧日観である。日観は画では墨葡萄を得意とした。花や果物を墨画にかくことの流行した宋代でも、葡萄の墨画は珍しかったらしく、当時これが評判になった。普通の僧侶の墨戯はとかく蔬筍の気があるとか、濃濁だとして嫌われがちなのに、日観の葡萄が教養人の間に愛賞されたのは一つは日観の人柄言行が高逸だとみれられたのにもよるが、書法でもって葡萄を写すと認められたことにもよると島田は考えている。
日観は草書が工みで、唐の懐素の狂草の筆法を得たといわれ、彼の葡萄の破れ袈裟にたとえられる葉、鉄幹鉄鬚にたとえられる蔓や孫蔓、一々みな草書の筆法によってなると認められている。
以上のように島田は書画一致の説について解説している。書と画とを一般的にみて両者の関連を説明したが、それとは別に具体的な事実の面で、一人の芸術家がこの二つの芸術を兼ね具えるという事実で両者は結びつけられている。古くから書画双絶といわれ、書または画の一筋でなく、その両方に優れていることを意味し、また詩書画三絶といわれ、書と画に詩文が加わって詩書画の三方面に頭抜けて秀でていることを意味した。それが中国の教養人の芸術家の理想的なあり方と考えられてきた。一人の作家が二つ以上の芸術に優れた才能を発揮することは、中国以外の国にもないことではない。しかし中国のように、書画または詩書画の美を兼ね具えることが理想とされ、実際それらを兼ねる作家が多かったのは他に類のないことである。
書画双絶あるいは詩書画三絶が高い水準でそれらを兼ねもつのは少ないことは勿論ながら、中国の芸術の歴史に著しい特色として見出されることについては、上記のような意味の書画一致という事実とその自覚があったことが大きい要因として働いていると島田はみている。
また中国の画が詩的情趣の表現をとくに尊重したことも大いに関係がある。その他に、中国に独特の歴史的な条件があるとみている。一体、詩書画三つの芸術の分野は、中国のあらゆる芸術のうちで、最も価値の高いものであり、文人といわれる教養人が心を打ちこむのにふさわしい値打のあるものと一般に受けとられていた。これが詩書画三絶を支える一つの支柱になっている。もっとも詩書画と並べていうものの、この三者がいつも同等の地位にたって並称されたのではなく、詩が第一で、書がこれに次ぎ、画が最後である。
詩文が書画とは違った言語表象の芸術であることはいうまでもないが、そうした形式の違いをいうよりも、中国では詩文はもっと特別の意義を賦与されていて、いわば芸術以上のものになっていた。
中国の文人の教養は儒学が基本になっているのだが、詩文は儒教の理想を宣明し、実現に向かわせる上の重要な方法とみなされており、儒学の中に含まれているようなものであったから、教養人のたしなむ芸術というよりも、是非とも身につけていなけらばならないはずのものであった。
それに比べると、書画は時代の進むにつれてその地位は向上していったけれども、詩文と同等に取り扱われることはなかった。どうかすると、小技末技と言いくだされ、ひとつの芸とみられた。
書と画とは同じく視覚形象の芸術であり、しかも密接な関係があるが、書の方が上位を占める。画と違って、書は外界に存する物の形を写すのではないから、より直接的な心情の表現であって、その意味から心の画だといわれるほどで、芸術性の認識されるのが早かった。それはまた詩文を書き表すための文字を写すことにおいて、成立するのであるから詩文との関係が深く、おのずと教養人の芸術として早く承認され、詩文に次ぐ地位を占めた。
画は時代の古いほど、物の形を写す技術とみられる傾向が強く、工人の仕事とみなされていた。画の地位が高まるのは、一般的に芸術的な雰囲気が濃厚であった六朝時代からであろうと島田はみている。
歴史の上に現れた画家で文人画家といえそうな人は、後漢の蔡邕が最も古いのだが、晋から後になると、王廙や王羲之・献之父子、王蒙ら書の大家名家で画筆をとる人が続出しており、顧愷之、戴熙ら画の名人と聞えた人がまた詩人と書にも秀でているように詩書画三絶または書画双絶を一身にかねる教養人の芸術家が出現している。それと並行して絵画芸術論も提出されるといった有様で画の地位は急速に高められてくる。
しかし一般の観念ではまだ衆工の技とみる傾向が強く、教養人の芸術として十分認識されてはいないようだ。例えば、唐の張彦遠があり得ないことだとして弁解していることだが、次のような話がある。
唐の宰相であり、第一流の画家でもあった閻立本が太宗の俄かの命令で近習のものから、誤って画師といって呼び寄せられ、園遊の席で即席画をかかせられたのを恥じ、なまじいにこのような芸をもっていたためにこのような恥にあう、子孫のものはこの芸術を習ってはならぬと戒めたという。
この話で察せられるように、唐代でも画は衆工の技のように思われる傾向が払いきれない。
唐の王維の「前身応画師」という詩句は有名なもので、人々は王維の画に対するなみなみならぬ熱情をこの句に感じてもてはやすが、尚書右丞にまでなった王維が、自分の前身を画師といいきったことについての驚嘆もあると島田はみている。
中唐以後になると、詩人文士の画家が増してくる勢いがみえる。そしてそれを理由づけるように、画は決して凡俗の人間にできることではない。昔から画の名人はみな身分の高い人、教養の深い人であるという張彦遠の有名な主張が現われてくる。しかし本当に画それ自体が詩書よりも卑しいのでなく、画く人の教養人品次第で高下がきまるのであるとして、画が教養人の芸術となりきるのは宋代に入ってからのことである。
そうなってこそ、書画双絶または詩書画三絶ということも十分な意義をもつことになり、またそれが文人芸術家の理想ともなるのである。
三絶とか双絶というのは初めは必ずしも一人の作家、一つの作品に集まり具わっていることを指していうのではなかったようだ。2人3人の作品を併せ含めて、あるいは1人の作家の別々の作品に表れたものを綜合して言うことでもあった。古くはむしろ別々の人や作品を引きくるめていう方が多かったという。
一人で詩書画の妙を兼ね具えるのを称せられたのは後漢の蔡邕の三美というのが最も古い。これは霊帝の命によって蔡邕が、赤泉侯五代の将相の像を宮中にかき、その賛を作って自ら書いたことを指している。
それに続いては梁の元帝が孔子像とその賛を作ってかいたのが三絶といわれ、唐の鄭虔が自作の詩篇と書画とを献上して、玄宗から三絶と褒美されたのが三絶の古い例としてよく知られているものである。後世に双絶とか三絶とかいえば、大体一人でそれをかねることであり、一つの作品にまとまったものを指す方が普通になっている。それというのも詩書画三絶が文人芸術家の理想的なあり方とみなされるようになったからである。
芸術の世界での画の地位が高まって、詩書と一つの群に入るまでになるのには、画の様式の発展と絵画観の推移が深い関係がある。
宋になると、画は物の形を写すのが主意ではなく、物の形を借りて人間の性情から発する意思を表現するものであると考えられるようになる。したがって画の価値は作者の教養人品の高下によって定まるとされ、ここで文人画の理論的な基礎も与えられることになった。こうなると、詩と画とは表現方法として言葉によるか物の形を借るかの相違は当然あるけれども、同じく作者の人間的な心情に根ざすことだから、詩画同源ということになる。おのずからまた書とも根源を同じくするわけである。そこで画を無声の詩といい、詩を有声の画ともいうようになる。ここで同源といったのは、先の書画一致説での同源のような起源論の同源とは全然違うことはいうまでもない。芸術の創作活動の過程に対する省察からきたより正しい理解である。詩と書と画とは人間性の深さの中で共通の根底をもつことになったので、当然のなりゆきとして画も詩書と同じく教養人の芸術として立派に認められる根拠を得た。そしてまた双絶あるいは三絶も、それを一人の芸術家がかねることができるという根拠を与えられたことになり、それが文人芸術家の理想的なあり方とみなされるに至るわけである。
このような考え方が成立した頃には教養人階級の中でもとくに学識が高く文藻の豊かな、本当に文人という言葉のよくあてはまる画家が輩出しており、その多くが詩文と書の妙をかねていて、上述の考え方を事実の上に具現したといってもよい。蘇軾・蘇過父子をはじめ、文同、米芾・米友仁父子、李公麟、晁説之・晁補之兄弟らはそういう文人芸術家の有名なものである。
詩文と書を画に結びつけたもう一つの要因は画の題跋の発展にあると島田は考えている。題跋には画の筆者が自ら書くものと、他人の書くものとに分かれる。他人の書く題跋はその画についての印象をつづるか、批評を述べるか、または画の製作にからむ興味ある事柄を物語るとか、いろいろの書き方がある。古人の画に対する題跋ではなお主題の説明をすることもあり、画の歴史の推移を論ずることもある。書と画とを繋ぐ紐帯としては画家自身の跋が最も重要であり、また興味あるものであることはいうまでもないが、画家に親しい人が画の製作と時を隔てないで書いた題跋は、一種の共同製作ともいえる場合もあって、これまた興味深いものがある。
題跋が盛んになりだしたのは唐以来のことである。それ以前、六朝時代には画の趣を詠んだ詩があるにはあったが、まだ微々たる状態であった。画の主題である故事の典拠である詩文、あるいは画かれた人物の伝記や賛が画に書き添えられることは少なくなかったけれども、このような本文は題跋とは違った意味をもち、書と画との内面的なつながりも稀薄なものである。唐から次第に盛んになり始めた題跋は宋に入って急速に流行するようになり、北宋の後半期、とりわけ蘇軾、黄庭堅以後の文人画時代から詩文の一体を形作ることになった。
この時代は文人画家が続々と現れた時で、彼らは自作の画に題跋を書くほかに、師弟、知友の間で、詩と画との応酬が繁く、それらは多くは題跋として画に書かれたと思われるから、自ずと詩文と書画の共同作となったであろう。文同の竹に蘇軾が、蘇軾の枯木竹石に黄庭堅が、李公麟の馬に蘇軾、黄庭堅らが題跋を書いたといわれる。李公麟の五馬図に黄庭堅が跋を書いたものが稀有の作例として近年まで有名であった(15巻挿24)。
この時代には詩書画がいずれも人間の心情にその根源をもつことが自覚されていたので、その自覚が文人芸術家を詩書画の連作に向かわせるようになった。詩を自題として画に添えて書けば、書もそこに参加して詩書画の連作となる。
要は書画と内面的に密接につながっていることにある。王庭筠の幽竹枯槎図の自跋は表面、この図を画く気になった動機をさりげなく手短に述べただけだが、自ら何を画に表そうとしたかを暗示している(16巻図92-94)。
自題跋はだから詩書画のつながりの外部形式であるわけで、題跋の流行は詩書画一連の製作態度が盛んであることを表している。
ちょうど北宋の末から文人画家の間に盛んになった墨梅、墨竹のいわゆる墨戯は詩書画一連の芸術がのびていく舞台を提供した。梅竹蘭などは宋代の教養人からは自然界に現れた自分たちの象徴とみられていたので、それに対する宋人の愛好ぶりは非常なものであって、詩にも画にもあきることなく写された。これらの比較的形の単純で変化の少ないものを形を細く写すことにはこだわらない態度でくり返し画くのに、それを生かすのは一つには筆法であり、一つには詩的な情趣であったから、更にそれを詩によむことへ自ずと進む。なお書の筆法を応用しやすいということもあり、詩書画一体の道を進める恰好の舞台となった。
詩書画三つの芸術が一方で教養人の芸術と認められ、一方ではこれらが同じ根源に根ざす内的関連が本となって、三者一連の製作が欲求されるとなると、詩書画三絶を一人でかね具えることが、文人芸術家の理想的なあり方とされるのも当然のことである。この後、文人の画に詩文の自題がないと文人の画である資格を欠くかのように思われるほどに自題を書くのが普通のことになるもとはここに胚胎している。
元代は南宋の沈滞から立ち上って文人画が復興し、画風の上で復古運動を起こした時であった。その先頭に立ったのが書では元代の第一人といわれ詩人でもある趙孟頫である。彼こそ詩書画三絶ぶりを発揮しそうに思われるのだが、彼の作と伝える画には存外に詩書の美をかね具えたものが稀である。しかし復古運動から一転して近世の南宗画の出発点になった新画風を開いた、いわゆる元の四大家には自題の作が多いといわれる。四大家の筆頭とされるのは黄公望である。とくに書名が高いわけではないけれども、その「芝蘭室銘」の正書はそれを見た董其昌を驚嘆させた。黄公望は書で聞えてもいないのに、この書は六朝人に迫るほどだといわせた。
呉鎮は詩にも書にも工みな人で、書では鞏光を学んだといわれ、流暢な草書で書いた自題は反対に磊落な画風と対照的である。倪瓚は詩名が高く最も自題の詩画の作が多い。呉鎮とは違って、倪瓚の書は画と同様、奇矯な性格を反映した特異な風をもっている。
四大家の後、明初の王紱、徐賁をへて沈周が現れてから、文人の南宗画派は他の諸派を圧倒して画壇の中心勢力となるが、この頃から文人の画には自題がなければならないという形勢になった。
明の画の四大家というのは沈周(図58)、文徴明、唐寅、董其昌をいうが、この四人はみな詩文と書に優れており、沈・唐の二家は得意の画には必ず詩を題したといわれ、文・董は画史の上での地位名声よりも書史上のそれの方が勝るほどである。
董其昌は書の力量の方が高大で、幅が広く、自題の書は画とは別種の趣をみせ、沈・文は書でも大体画と同じ風格を表している。
この四家に比べると、清の画壇の六大家といわれる人々は、王時敏が隷書に名を知られ、惲格が独自の瀟洒な書風で新味を出したほかは書はやや劣り、詩でも惲格、呉歴二人のほかは聞えておらず、詩書画兼美の風も少しく落ちかかる。四王(王時敏、王鑑、王翬、王原祁)の自題は、画に対する見解を述べることが多いのが特色で、これは今までに類をみないことである。
題跋の類は、自題でも他跋でも、画面の中か画に接続した所に書かれる。元代は題画詩の最も盛んな時代で、時にはさして大きくもない掛軸に20人近くもの人が画かれた物と物との合間にまで、隙間もなく書きこんだ例さえあるが、書と画との間には、いわば見えない垣があって、両者は入り雑るものではなかった。
続く明代では、謹細な画風の文徴明の自題などは、画と同様な風格で実に端然と書かれている。ところが清の初めになると、題跋の書き方に著しく自由な風気が生まれてきて、画と題跋の書とが互いに掩い合う傾向が現れる。この種の書き方をする画家は、南宗画の伝統に従わないで、自由に奔放に自分を表現しようとする粗放な画風の持主であり、書においても同様である。
この傾向が最もはげしくなったのは清の高鳳翰や鄭燮であろうという。高鳳翰の題跋には自作の画だけでなく、古人の画に対する題跋でも、空白を乱れた文字の排列で埋めた上、画の石や水の中にまでおどりこんだものがある。鄭燮にも同趣のものがあるが、彼はもっと奇智的で、空白を残しながら文字を画に入りこませる。これは激しい自己の表現を求めて、書と画との奔放な作風だけに止まらないで、その両者を混融させようとする試みであって、題跋の書法の上の著しい変革というべきことであると島田は捉えている(島田、28頁~36頁)。

文房趣味      青木正兒
近世中国では「文房清供(せいきょう)」という言葉で文房の趣味生活を表現している。それは文雅の士の清玩に供せられる一切の施設である。あたかも日本の茶人が数奇屋の施設に意匠を凝らして幽玄の趣を楽しむようなものである。ただいわゆる清供の「清」は日本の茶人好みの「渋味」とは異なり、清楚を旨として雅味が加わるもので、この趣致は宋代以来著しく尊ばれた。
六朝および唐代の文人は、現実生活の甘美を享楽しようと欲する傾向が強く、その趣味は華麗にして、典雅を主眼とした。宋代に至って質樸を貴び、清楚を旨とする風が漸く開け、美を否定して天真の保全を欲する道家的高踏趣味が抬頭してきた。
このような趣味生活の記録として、文房清供に関する専門の著述をなす者が輩出した。唐代は趣味がいまだ醇粋ではなかったらしく、それが醇なるのは宋代に始まり、次第に盛行し、元代には一時下火になったが、明代の中葉より末期にかけて再び隆盛を致し、これに関する著書も多く、清代にその余波を及ぼした。
さて、文房趣味の根本は文房具であり、その中心は筆紙硯墨で、これを文房四宝とか四友という。
宋初、蘇易簡(そいかん)は『文房四譜』を著わして、この種の著述の端を開いた。著者は翰林学士であった時、宮中の秘籍を閲して、筆硯紙墨に関する古来の文献を渉猟し、この書を著わしたが、今日においては文房具研究の宝庫である。
四宝の中で最も欣賞されたのは硯である。他の三宝が消耗品であるのに比べて、硯は不動産的性質を持っているから、珍重された。これに次いで、墨は貯蔵がきくし、古い物が愛玩される。紙も古いのがよいが、筆だけは新しくなくてはならないので骨董的趣味に薄く、最も実用的である。そういう事情を反映して硯と墨とに関する専著がまず宋代において現われた。硯は唐詢の「硯録」、唐積の「歙(きゅう)州硯譜」、米芾の「硯史」、李之彦の「硯譜」などがある。墨は晁貫之(ちょうかんし)の「墨経」、李孝美の「墨譜」などがある。紙と筆とに関しては宋代に著書というほどのものを見ない。
およそ翰墨を事とする者の間に硯を愛玩するが、唐の柳公権は青州の石末を第一とし、絳(こう)州の黒硯之に次ぐと評した。しかし宋の蘇東坡は青州石末を「凡物のみ、珍とするに足る無きもの」(「東坡題跋」五)と誹り、葉夢得も「石末はもと瓦硯、極めて不佳」(「避暑録話」下)といっている。
宋人は最も端渓石と歙(きゅう)州石を貴んだ。端渓は今の広東省高要県にあり、唐の中葉、劉禹錫の詩に「端渓石硯は人間に重んぜらる」といい、李賀の詩に「端州の石工巧みなること神の如し」と詠じてあるから、唐代にすでに知られていた。
歙州は今の安徽省歙県で、その地の龍尾山から硯石が出たもので、唐の開元年間に発見され、五代南唐の李後主にいたり、官を置いて硯を製造させたので有名になった。この時歙州に墨の名工李廷珪が佳品を造り、また後主は良質の紙をつくらせ、澄心堂紙と名づけたので、この硯墨紙三者は天下の冠たるものとして貴ばれたという(「歙硯記」)。
宋代にいたって、仁宗の朝、「硯録」の著者唐詢をはじめとして、欧陽脩、蔡襄、蘇軾など愛硯家として有名であった。そして米芾も硯を愛し、自ら「硯史」を著して、古今天下の硯石の良否を鑑別評論している。これらの文人が後世愛硯の風を開いたものといえる。
次に墨に関して、上古は石墨といって天然の黒い土を用いたが、魏晋の頃から松烟すなわち松の煤烟を原料とし、膠で固めて製造するようになった。そこで松の多い地方が墨の産地となり、唐代においては上党、上谷、絳郡が知られていた。上党と絳郡は今の山西省南部の地で太行山、王屋山をひかえており、上谷は今の河北省易州一円の地で、やはり太行山脈の続きが走っているので、これらの山の松を用いた。
ところで、唐末より五代にかけて墨工の名人が現われるようになった。この頃から、士君子の墨に対する趣味が向上した結果、品質が精選されるようになって、名工も輩出するに至ったのであろう。
まず現われたのは、易水(易州)の祖敏で、後その地に奚鼎(けいだい)・奚超父子があり、唐末に超はその子庭珪と易水より南下して歙州に遷居し、南唐の李主は李氏の姓を賜うたので、世に李超・李庭珪と呼び、この父子の製墨は宋人の最も珍重するところとなった。
同時に易水の張谷もこの地に移り、これより歙州は製墨が盛んとなって、後世遂に徽墨の名をほしいままにする。
こうして士人が墨を愛する趣味も仁宗の朝に至って盛んとなった。蘇東坡は次のように言っている。「近世、人好んで茶と墨とを蓄え、閑暇なれば輒(すなわ)ち二物を出して勝負を較(くら)ぶ」(「東坡志林」十一)。
また「蔡君謨(襄)老病して茶を飲む能わず、則ち烹て之を玩ぶ。呂行甫好んで墨を蔵して書を能くせず、則ち時に磨りて之を小く啜(すす)る」(「東坡題跋」五)という。
蔡襄と並んで書名のあった王洙は墨を愛し、机上や枕辺に之を置いて、常に柔らかい物で拭き磨いて光らせ、時には袖で惜気なく磨いたという(「王氏談録」)。これらは極端な例であるが、士林好尚の傾向を窺うにたるであろう。
紙筆に関する事は青木自身省略して、当時いかなる文房具や文房の備品が玩ばれたか、この点について南宋末期の趙希鵠の「洞天清禄集」がその代表的なものを十門に分けて論じているので、その内容を青木は紹介している。①古琴弁、②古硯弁、③古鐘鼎彝器弁、④怪石弁、⑤研屏弁、⑥筆格弁、⑦水滴弁、⑧古翰墨真蹟弁、⑨古今石刻弁、⑩古画弁がそれである。
この中で文房具は古硯、研屏、筆格、水滴のみであるという。研(硯)屏は硯の向こうに立てる物、筆格は筆をかける物、水滴は小さい水注ぎ、いずれも文房具で色々凝れば文房生活の趣味を助けるであろう。古翰墨真蹟は書の真蹟であり、古今石刻は碑帖の拓本であり、それらと古画との鑑賞は文房生活の趣味を深くするものである。
その他、④の怪石については、庭園もしくは室内に怪石を置いて賞玩することはつとに行われて、唐の李徳裕が平泉別墅(しょ)に怪石を集めたのはその著名な例であるが、盛行し始めたのは宋代以来のことらしく、米芾の怪石に対する熱狂ぶりは特に有名であるが、蘇東坡も石を好んだという(「漁陽公石譜」)。
この書は実に宋代における文房趣味の総論ともいうべきであると青木はみなしている。文房趣味の体系は宋代で骨格ができあがったので、元明二代はそれを整備し、特に明の中期以後これを完成したようだ。明代にはこの趣味を通論した著述が幾つも現われており、それらは宋代の同類の書に比べると量は増し、内容は詳備している。主なものは明初曹昭の原著、王佐増補の「新増格古要論」13巻がある。およそ古銅器、古画、古墨蹟、古碑法帖、古琴、古硯など13門に分類して、古今の器具の真贋優劣などを詳論したもので、宋代の「洞天清禄集」の亜流である。その内容も骨董趣味が一層加わって、むしろ古玩趣味ともいうべきものになってきたそうだ。
なおこの系統に属するものに明の末葉万暦年間、張応文の「清秘蔵」2巻がある。その論述の範囲は「格古要論」よりもやや広いが、同様に鑑賞の論が主となっている。
さてこの類と趣を異にし、主として文房の生活を享楽することを論ずる一派があり、これこそ文房趣味の正統といえると青木はいう。その端を開くものは万暦年間、高濂の「遵生八牋(じゅんせいはっせん)」19巻がある。もっともこの書の大部分は道教の養生法が説かれてあるが、八牋中の「起居安楽牋」2巻、「燕間清賞牋」2巻および「飲饌服食牋」の一部分のみが文房清供の論である。
その「起居安楽牋」は文房生活に必用なる器具や設備を論じたもので、「燕間清賞牋」は文具書画骨董の鑑賞論である。これらの論は前人の説を抜粋したものも少なくないであろうが、範囲は広く論述も詳しく、斯道の名著であると青木はみている。この著を利用して、文房清供の通論を編した専著が、屠隆の著と題する「考槃余事」4巻である。屠隆の名に仮託した疑いがあるが、文房趣味のみを択び取って内容は純粋であり、文房清供論の大観を尽くしていて良書であるという。
最後に万暦間における二大墨譜の事を青木は述べている。明末の姜紹書の「韻石斎筆談」にいう「昭代(明)は硯は唐に及ばず、紙は宋に及ばず、筆にしても宣州の兎毫(唐代に有名)には及ばない。ただ墨の道のみは五代の李庭珪や宋の潘谷にも勝っている」。またいう。「明が興ってより新安が独り墨を以て鳴り、他方は之に勝るものは無い」と。
新安とは今の安徽省休寧、歙県あたりを指すので、五代南唐以来この辺が墨の名産地となったのである。
ところで万暦年間歙県に方于魯・程君房、両人の墨工がおり、互いに名誉を争った。はじめ方于魯は詩を作ったりしていたが、程君房に就いて製墨の法を学んで、これを業とするようになった。彼は知名の文人汪道昆と姻戚関係があったので、汪が彼を推称したために急に有名になった。そこで自家製品の図録6巻を「方氏墨譜」と題して出版し、これは甚だ精刻であった。すると程君房も「程氏墨苑」12巻を刊行して妍を競うたが、これは更に精刻であった。両家の譜は優に版画として鑑賞するに足り、今に伝えて好事家に愛玩されている。
それではその墨の優劣はどうかといえば、明末清初の墨を知る者の評がいうことには、方于魯の墨は型や色沢が勝れているばかりであり、程君房のは品質が佳く、いわゆる墨気有りて香気無きものであって、方于魯と反対であるという。
さて、方程二家の後、万暦、崇禎の間に歙県に方瑞生あり、また製墨佳しと称せられ、二家に傚うて「墨海」10巻を編刊した。これは自家製墨の図のみならず、その第4巻に所蔵所見の明代諸家の墨式図を載せているので参考になる。
墨の愛玩の流行に従い、製墨も漸く磨る墨から眺める墨に進展し、遂に図譜の刊行をさえ見るにいたったと青木は説明している(青木、37頁~40頁)。
別刷附録 趙孟頫 尺牘 与中峯明本


《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その12中国12-a》

2018-07-21 18:17:40 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その12中国12-a》

17中国12 元・明Ⅰ
17中国12には、元世祖中統元年(1260)から、明世宗嘉靖45年(1566)に至るまで307年間の書蹟を収めてある。

中国書道史12    神田喜一郎
13世紀の後半、すなわち1271年に、蒙古の大汗フビライは都を今の北京にあたる燕京に定め、国号を立てて元と称した。名高い元の世祖である。
この元王朝はそのはじめ漠北オノン河の上流地方に遊牧していた蒙古族から出た英雄チンギス汗の築いた大蒙古帝国の一環を成すもので、世祖は即位すると、南宋を滅ぼし、中国本土を統一した。当時の元王朝の威勢は、欧亜両大陸に光被し、隆昌を極めたが、世祖の死後は国家権力が次第に衰えていった。特に14世紀の前半からは、王位継承の問題が紛糾して、国政は乱れ、混乱を来たした。各地の群雄の中で、安徽の貧農から身をおこした朱元璋が各地を統一し、明王朝を1368年に建てた。
明王朝は元王朝と違って純粋な漢民族の建てた王朝である。この明王朝の成立によって、漢民族による中国の統一国家が久しぶりに出現した。しかし明王朝の栄えたのも15世紀の半ばまでで、それ以後は北方異民族の侵入、農民暴動により衰えてゆき、1644年、277年間で滅亡した。神田は、元王朝と明王朝の帝王の系譜と在位年代を示して解説している。
さて中国の書道は唐の中葉に顔真卿が出て王羲之の典型を破って以来、大きな旋回をとげた。宋に至って蘇東坡・黄山谷・米元章のような大天才が現われたことは、その新しい傾向に一層拍車をかけた。しかし元王朝が成立するとともに、再び王羲之の典型が復活され、ここにまた中国の書道は大きな旋回をとげることになった。
その急先鋒となったのが趙孟頫(ちょうもうふ)である。一般には字の子昻(すごう)、あるいは号の松雪をもって知られている。
趙孟頫は宋の太祖の子秦王徳芳の後裔で、もとより貴族の出身である。そういう身をもって、宋王朝の滅亡して後、元王朝に仕えて翰林院学士承旨にまで栄達した。その出処進退について後世、いろいろ批難をうけているけれども、元来まれに見る高邁な人物で、その書画における天稟はとくにすぐれたものであったと神田は評価している。
趙孟頫は王羲之の書の正統的な伝統が、唐の中葉以来とかくかき乱されて、古法の荒廃に帰しているのを嘆き、敢然と復古主義を標榜して立った。いったい、王羲之の書は貴族的で、したがって宋王朝の時代においても、宮廷では王羲之の典型が重んじられ、歴代の天子の多くは王羲之の型の書を善くした。わけても、徽宗、高宗、孝宗の3人はその達人であった。宋の貴族である趙孟頫が生まれながらにして、そうした伝統を承けていたことはいうまでもない。彼はただ書法のみならず、画においても復古主義を奉じた。復古主義は、彼の芸術の一貫した基調であったと神田はみている。
趙孟頫は常に古人の筆蹟を研究することによって天性の妙腕を磨き、見事に彼自らの書を完成したのみならず、一代の風気を転換させ、ついに書法の上に復古主義の大事業を成就するに至った。この点、中国書道史上に一時期を画した。
もっとも趙孟頫の書は一生の間に三変したといわれる。
①最初は40歳前後までの時期であって、専ら宋の高宗の書を習った。
②その次は40歳から60歳あたりまでの時期であって、もっとも熱心に王羲之の古法を追求した。ことに至大3年(1310)、独孤長老から「定武蘭亭」を獲たことは彼の書に一つの転機を与えたという。
③最後は晩年であって、この時期にはいささか古法を変じて、唐の李邕や柳公権の筆法を加味した。このようにその一生の間には、いくらか書法の変化が認められはするが、しかしその一生を通じて宗としたのは王羲之の古法であった。
ところで、王羲之の古法を宗とすると、いたずらに外形のみが整って生気もなく変化にも乏しい、いわゆる奴書に陥りやすい。その著しい例は、宋初の院体である。この点、さすがに趙孟頫の書は筆力遒勁、神彩煥発して、一代の巨匠たる貫禄をそなえているが、しかしそれでもなお古人の間に庸熟とか平板とかの譏を免れない。
明末、董其昌が口を開けば趙孟頫と董其昌の書を比較し、暗に自分の書をもって趙孟頫の上に出るもののように自負しているのは、その当否は別として、董其昌が米芾の筆法をとりいれ、もっと深味を加えようとしたことをいっている。
趙孟頫がひとたび復古主義を標榜して、王羲之の典型の復興につとめると、その書風はまたたく間に天下を風靡して、これまでの蘇・黄・米を宗とする書風を一掃してしまった。これは趙孟頫の絶大な力量を主動力となったことを否定しえないけれども、当時の士大夫の間に、こうした復古主義に共鳴しうる素地があったと神田はみている。
元王朝は蒙古族が中原に侵入し、高度な文化をもつ漢民族を征服して建てた、いわゆる征服王朝(Dynasty of Conquest)である。こうした征服王朝は、多くの場合、漢民族を武力的、政治的には征服しても、文化的には被征服者である漢民族に征服されてしまうのが、古来の例となっている。5世紀の初めに拓抜族が建てた北魏や、17世紀の初めに満洲族が建てた清王朝はその適例である。しかるに元王朝は蒙古第一主義で、漢民族の優秀な文化に対しても、冷淡な態度をとったばかりでなく、むしろ蒙古族の固有の習俗を漢民族に強いる傾向があった。そのために漢民族は生気を失った。とりわけ文化の担い手である士大夫においては、一層著しかった。だから逞しい気魄とか創造性というものはなく、あらゆる芸術において、ただ古人を臨模することのみが行われたと神田はみている。
元王朝の代表的な詩人といわれる虞集、楊載、范梈、掲傒斯の作品を読んでも、結局は古人の臨模でしかも繊弱の弊があるという。それに古人を臨模するとなると、それに向くのは形式の整った作品である。元王朝の詩人が競って、唐の李義山から出た西崑体を学んだのも、そうした理由からであると解説している。自由奔放な蘇東坡や、奇峭艱渋な黄山谷の詩は、気魄もあり、創造性にも富む詩人でなければ容易に模倣しがたい。
趙孟頫が王羲之の典型を宗としたのも、大体同じ態度から出ていると神田はいう。ただ趙孟頫の場合は、もともと宋の貴族の出身で、幼少の時代から王羲之のような中世的な典雅な書を習ったので、その点いくらか事情が異なるものがあったともいう。
いずれにしても、趙孟頫の復古主義が当時の士大夫の好尚と合致したことは確かな事実であり、それでこそ趙孟頫の宗とした王羲之の典型が天下を風靡し、中国の書法に大きな転換を来たしたと神田は理解している。
なお、そうした王羲之の典型を宗とした元王朝の書家には、鮮于枢(せんうすう)、康里巙巙(こうりきき)、鄧文原、周伯琦、楊維楨、張雨らがおり、みな有名である。それから元王朝の代表的な詩人として、先に挙げた虞集、楊載、范梈、掲傒斯の4人なども、書法にすぐれていた。しかし、それらの人々の力量は概していうと、趙孟頫に比較してかなり劣る。もっとも鮮于枢などはいくらか勁抜なところがあって、それだけ庸熟を免れ、かえってある点趙孟頫よりも面白味があるともいいうると神田は評している。
明王朝は開国の初めに国粋主義を標榜し、特に儒学を崇び学校を興し、中国古来の倫理を要約した六諭を発布し、庶民の善導教化につとめるなど、中国の伝統の復興に重点をおく政策をとった。この政策は元王朝の士大夫が奉じた復古主義と合致したものであった。元王朝と明王朝との交替は、北方民族の征服王朝から純粋な漢民族の統一国家に移った政治上の大変革であったが、文化の上にはそれ程大きな変革はなかったと神田は理解している。つまり明初の文化は元王朝の継続と考えている。
したがって明初には、元王朝の趙孟頫の優麗典雅な書風が流行し、その王羲之を宗とした。この時代の書家としては、三宋二沈が知られている。すなわち宋璲・宋克・宋広の3人と、沈度・沈粲の兄弟である。それに宋濂・解縉・陳璧を挙げることができる。三宋の中で特に有名なのは宋克で、小楷と章草とを得意とした。しかし宋璲も宋克に劣らぬ大家で、草書では趙孟頫・鮮于枢・康里巙巙の3人につぐものといわれている。そして二沈の名声は当時はすばらしいものであったらしく、明の成祖が常に「我が朝の王羲之」と称していたとの伝説もある。また宋濂は明初の大儒で、また開国の名臣でもあるが、書法を善くし、その方面でも一家をなしていた。宋璲は彼の第二子である。それから宋濂について注意すべきことは文学上に復古主義を強調したことである。これが明王朝の半ばごろまで大きな支配力をもったが、そうした文学上の主張が書法の上にも、間接的に少なからぬ影響を与えたと神田は考えている。文学といい、書法といい、これは中国においては二にして一、一にして二の芸術であるからというのである。それから解縉については、普通には縦横不羈の草書をもって知られているけれども、むしろ謹厳な楷書を得意とした。そして陳璧は宋克の弟子である。
以上が大体明初に出た書法の大家であるという。これらの諸家の書について、何となく活気に乏しく、前期の書と同じく繊弱の弊に陥っていると神田は評している。これはこの時代の文学にも認められる同じ現象であるが、元王朝以来士大夫の間に次第に馴致されてきた無気力がそうさせた結果であると解釈している。
ところで永楽の時代には、文学において台閣体という平正典雅を宗とする詩が起こった。楊士奇・楊栄・楊溥のいわゆる三楊が首唱したものであるが、その意態は少しも当時の書と異なるところがないという。無気力は当時の士大夫を深く蝕んでいたようだが、解縉の草書などはそうした無気力からきた倦怠を無意識に破ろうとした、ときどきの発作的な作品ではないかと神田はみている。
いずれにしても明初の書壇は、はなはだ低調で、それは弘治時代までも続く。そうした中で明代の書家として、最初に気を吐いた巨匠は文徴明と祝允明とである。いずれも明の中ごろ、弘治・正徳・嘉靖の三代にわたって活躍した斯道の大家である。しかもこの2人が相並んで今の江蘇の蘇州の出身であることが注意をひく。
宋・元以来、揚子江下流のデルタ地帯は、中国における主要な米産地として栄えたが、その中心をなしたのは蘇州である。ここは人口密度も高く、明王朝になると、絹織物の産地としても、また棉花や棉布の産地としても、経済的に栄えた。その結果、自ずから文化も栄え、一時の盛観を呈した。文徴明と祝允明とは、そうした隆昌の機運に乗じて蘇州に生まれ出た文人である。その頃同じく蘇州から出た唐寅、徐禎卿とともに、世に呉中の四才子と謳われた。呉中とは蘇州のことである。彼らの芸術を理解するには、その背景として、富裕な蘇州の経済力を無視できないと神田は考えている。
文徴明と祝允明とは、いずれも王羲之の典型を宗としたが、明初の諸家よりも天分に恵まれていた上に、これまでの書家のように趙孟頫を通して王羲之の書法を学ぶのではなく、直接に王羲之の書法に遡ろうとした。これがこの2人の傑出していた点である。それにこの2人は王羲之の典型を宗としたけれども、必ずしも王羲之にばかり一辺倒するのではなく、いろんな異なった書法をとりいれた。文徴明は沈周について学んだというが、その沈周は晩年になって黄山谷の書を学んでいる。こうした新しい気運の動きは、既に文徴明の以前からほの見えていたのであって、弘治の末年に「杜詩顔字金華酒、海味囲碁左伝文」という言葉が流行したという。顔字とは顔真卿の書の意味で、そうしたものが当時一種の新鮮味を帯びたものとして歓迎された。文徴明もおいおい時代の好尚に薫染されて、晩年には黄山谷の書法を多くとりいれ、その書に変化を見た。ともかく文徴明には、自分の書を変化させるだけの気力を具えていたのであって、それでこそ明一代の巨匠となりえたのであろうと神田は推測している。その上、彼は篤実の性に加えて、精力的に毎日文墨に励精して、全く倦むを知らなかったという。文徴明の蝿頭(ようとう)の細楷の遺作を今日多く見ることができるが、いかに長いものでも、いわゆる一つの懈筆(かいひつ)もなく、驚嘆するほかないと神田は賞賛している。
祝允明は李応禎の女婿で、その書は専ら家学にうけたというが、文徴明に比較すると、いくらか力量の劣るのが感じられると神田は評している。また祝允明の書は古勁であるが、文徴明の書は遒麗ともいいうる。ただ祝允明の書にはどうかすると放恣を極めた草書があって、これが彼の代表的作品であるかのように考えられているが、解縉の草書とともに、これは決して本領ではないという。
文徴明の一家には多くの文人が輩出した。長子の文彭、次子の文嘉、三子の文台など、著名な者が少なくない。それらの人々は文徴明とともにみな書画を善くし、文彭はさらに篆刻をも善くした。中国の近世の篆刻は、この文彭によって開かれたといえる。文氏一家をはじめ門下の盛んなことは前後に比なく、相競って文徴明の書を鼓吹したので、その書風は一時天下を風靡した。その余波は日本にまで及んで、北島雪山、細井広沢らを出した。なお文徴明の後継者としては、王寵、陳淳らが傑出していた。陳淳は別に画も有名である。この2人はいずれも蘇州人で、したがって文氏一派や祝允明一派を併せて、これを呉中派という。
江蘇には呉中派に対して、別に華亭と呼ばれる一派があった。華亭は江蘇の松江のことである。ここも棉布の生産地として経済的に栄えた。そうした関係から、蘇州のように、ここもまた一つの文化の中心として栄えることになった。華亭派が呉中派に対抗し得るようになるのは、もう少しあとの万暦になって、董其昌の出現を待たねばならなかった。
呉中派が覇をとなえたのは、ひとり書壇ばかりでなく画壇においてもそうであり、沈周・文徴明・唐寅・仇英の四大家が出て、その名声は天下を圧した。
ところがこの派に対して、明王朝の中葉、浙江の銭塘から出た戴進を開祖とする浙派がおこり、互いに張り合った。江蘇と浙江とは、宋元以来、いわゆる人文の淵叢として中国文化の中心となったが、互いに対抗意識が強く、特に浙江人に甚だしかった。書壇においては、呉中派に対して浙派というほどのものはなかったが、しかしそうした形迹が全くなかったとはいえないと神田はみている。例えば、明の嘉靖・万暦の交(ころ)の人である孫鉱の著した「書画跋跋」により、当時の事情を推察している。この書は名高い文豪王世貞の「書画跋」に孫鉱みずからの跋を加え、王世貞の見解に痛烈な批評を試みたものである。文徴明や祝允明の書には常に刺譏(しき)の言辞をさしはさみ、それに対して王世貞の貶している姜立綱や豊坊の書を称讃している。王世貞は江蘇太倉の人であり、文徴明や祝允明の支持者であった。一方、孫鉱は浙江餘姚の人で、その称許している姜立綱は浙江永嘉の人であり、豊坊は浙江鄞県の人である。
呉中派の栄えた頃、やはり書壇にも浙派という意識があったことは確かであると神田はみている。このことは「宝翰斎法帖」巻3におさめてある明の陳敬宗の書に、万暦年間の名士董嗣成が加えている跋などによっても傍証できるとする。そこには祝允明を東呉、豊坊を浙中の、それぞれの領袖とし、これを対立的に考えている。
書については、後世ほとんど浙派という一派を認めていないが、当時の意識においては、やはり浙派というものが存在したことはありうると神田は推定している。そしてその代表者として豊坊が挙げられるという。
それでは、この浙派が後世ほとんど認められなかったのはなぜであろうか。その理由について、神田は次のように考えている。絵画においては、浙派は呉派と全く趨向を異にした。呉派が宋の李成・董源から元末の四大家に歩趨したのに対し、浙派が宋の劉松年・李唐・夏珪・馬遠を宗としたのは、全く立場を異にしたものであった。
しかし書においては、文徴明、祝允明らも、豊坊も同じく王羲之の典型を奉じたのであって、その書風に本質的な相違がなかった。しかも呉派は多士済々として、文徴明、祝允明ともに、すぐれた後継者があったのに対し、豊坊にはそうした後継者がなかった。まして豊坊の書そのものも、董嗣成らの批評では、いわゆる浙派の粗厲(それい)の気があるとしている。この批評が呉派に好意をもつものであるにしても、ともかく浙派の書がとかく一般の士人の間に喜ばれなかったことは確からしいと神田はいう。
これらの事情を考えると、書において浙派の存在が後世認められないのは必ずしも無理とはいえないとする。しかし当時、呉中派と華亭派、それに浙派と書壇における各派の対立が激しかったことは事実で、やがて華亭派から天才董其昌が出現することによって、そうした派閥が自ら解消すると、神田は理解している。
中国の書道史は、王羲之の典型と、それに反撥する革新型とが、互いに相交替する螺旋状を描いて展開する。元王朝の初めから明王朝の中葉に至る時代は、王羲之の型が張り出した時期である。その王羲之の型というのはこの時期においては、趙孟頫の型といいかえても差支えないほど、趙孟頫の書風が天下を風靡した。その影響は禅家流にまで及んでいて、例えば元王朝の竺田悟心、明王朝の来復の書を見ても、思い半ばに過ぎるものがあり、いかにその影響力が大きかったかが察せられるという。
そしてまた、趙孟頫の書風は中国にのみとどまらず、朝鮮や日本にまで著しい影響を及ぼした。近来趙孟頫の書を一般に軽視する風があるが、その書それ自体の書法的価値はおくとしても、書道史としては趙書を理解しないでは、この時代の書を論ずることはできないと神田は主張している(神田、1頁~10頁)。

趙孟頫の研究    外山軍治
この外山の解説文は、その著『中国の書と人』(創文社、1971年、179頁~207頁)に「趙孟頫―王羲之の伝統に生きた書人」と題して再録されている。その構成は、一、その官歴、二、趙孟頫の書、三、後世への影響、四、忍従の処世、五、趙孟頫年譜となっているが、この全集の方は各節のタイトルはない。
さて、趙孟頫は元代随一というだけでなく、歴代を通じて有数の書画人であったにもかかわらず、年譜というものが作られていない。宋の皇族でありながら、元に仕えてただ順調に栄達したというその経歴がおそらく人の興味をひかないからであろうと、外山は推測している。そこで、外山は篇末に自ら作成した年譜を掲載し、それを補うつもりで解説したのが本篇「趙孟頫の研究」であるという。
趙孟頫はあざなを子昻(すごう)といい、呉興すなわち湖州(浙江)の人である。その家系は宋の太祖の第四子秦王徳芳から出ており、実に太祖第11代の孫にあたる。さらに趙孟頫の家系を貴くし、またその家に隆昌を加えたのは南宋に入ってその家から孝宗皇帝を出したことである。宋では太祖についでその弟の太宗が立ってから、引き続いてその系統から天子が出て南宋の高宗に及んだが、高宗に嗣子がえられず、また太宗の系統が絶えていたので、太祖の系統から孝宗が選ばれて帝位につくこととなった。この孝宗こそは徳芳6世の孫で、趙孟頫4代の祖、伯圭の弟にあたる。
その縁によって伯圭は孝宗から呉興に第を賜った。呉興は太湖の南に位置し、川陸交会の要地である。その風光の温和なことは、趙孟頫の「呉興賦」や「呉興山水清遠図記」(「松雪斎文集」巻1、巻7)に述べられているが、この地のもつ強味は、米産の多いことと養蚕業の隆盛なことであった。伯圭は優遇の意味をもってこの地に広大な領地を与えられた。
伯圭の曽孫にあたるのが趙孟頫の父の与訔(よぎん)である。彼は度宗時代に戸部侍郎兼知臨安府、浙西安撫使となった。趙孟頫はその第7子として生れ、父の蔭をもって官に補せられ、また吏部の試験に合格して真州司戸参軍になった。ところが間もなく宋が元に滅ぼされたので、彼は郷里に帰って閑居した。
趙孟頫の生活に一大変化をもたらしたのは、元の世祖フビライ汗の抜擢をうけたことである。武力をもって中国を統一した世祖は中国の支配には文化人の協力が必要であり、特に元朝に反感を抱いている南宋の遺民を懐柔することが必要であることに考えいたり、至元23年(1286)、江浙行省治書侍御史程鉅夫(きょふ)に命じ、江南の遺賢を捜訪させた。趙孟頫にその候補20余人の第一に推薦されて大都へ赴き、そして彼だけが世祖に謁する機会に恵まれた。趙孟頫がいかにも帝王の後裔らしいりっぱな風采、態度、文章の巧みさ、政治に関する卓識などをもっていることに、世祖は心をひかれ、至元24年(1287)、彼を奉訓大夫、兵部郎中に任じた。ときに趙孟頫、34歳であった。
もっとも趙宋の後裔である趙孟頫を皇帝に近づけることについては、元朝官僚の間にも異論があったようであるが、世祖はそれにもかかわらず、これを抜擢した。宋の皇族であることに利用価値を認めたこともあろうが、やはり趙孟頫の人物が世祖の気に入ったのであろう。
至元26年(1289)、趙孟頫は公務のため杭州(浙江)に至った機会に、夫人管道昇を同伴して大都へ帰任した。管道昇は同郷の人管伸の女であり、才色兼備で、趙孟頫の好伴侶となった。「管公楼孝思道院記」(「松雪斎文集」巻7)によると、「至元26年、われ(孟頫)に帰(とつ)ぐ」とあるから、この時結婚したようで、そうすると趙孟頫は36歳、管道昇は8歳ちがいの28歳で、どうしたものか両人とも非常に晩婚であった。
これから趙孟頫は比較的順調に官歴をつんだ。地方に出たのは至元29年(1292)以降、同知済南路摠管府事として済南に在任した2年ほどと、大徳3年(1299)以降、集賢直学士をもって行江浙等処儒学提挙となり、杭州に在任した数年間だけで、あとは集賢殿や翰林院に官職を与えられた。
世祖、成宗、武宗、仁宗、英宗の五朝に歴任したが、特に仁宗皇帝の寵任をうけ、数年間にどんどん昇進して、延祐3年(1316)7月には、翰林院学士承旨、栄禄大夫、知制誥、兼脩国史となった。
延祐6年(1319)病中の夫人を伴って帰郷の途中でその死にあった趙孟頫は、そのまま故郷に帰り、彼自身病弱のため、再び上京しなかった。そして英宗の至治2年(1322)6月15日、69歳をもって呉興で没している。
趙孟頫がこのように元朝に重く用いられたのは何故であろうかと外山は問題を提起している。諸帝の中でもっとも趙孟頫を寵任した仁宗は、左右の者と、彼が他人にすぐれている点を論じて次のように言った。
「帝王の苗裔たること一なり、状貌昳麗(てつれい)なること二なり、博学にして聞知多きこと三なり、操履絓正なること四なり、文詞高古なること五なり、書画絶倫なること六なり、旁ら仏老の旨に通じ、玄微に造詣(いた)ること七なり」(「松雪斎文集外集」趙公行状)。
要するに、教養人としてこの上なく均衡がとれていて幅が広いということがこの人の魅力であったと外山は解している。均衡がとれていて幅が広いということは、絶倫だと評されているその書画においてもあてはまり、書では真、行、草のほか篆籒をもよくしたし、画では山水、竹石、人馬、花鳥のいずれをもよくした。
趙孟頫の書風について、呉栄光は次のようにいっている。
「松雪(松雪は趙孟頫の室名)の書、凡そ三変す。元貞以前はなお宋の高宗の窠臼(かきゅう)を脱せず。大徳の間には専ら定武禊帖(けいじょう)を師とす。延祐以後は変じて李北海(李邕)、柳誠懸(柳公権)の法に入る。而して、碑版もっとも多くこれを用う」(「辛丑銷夏記」巻3杭州福神観記巻)
元貞以前といえば、趙孟頫が40歳を少しこえたころまでのことであり、大徳年間は40歳代から50歳代に至る約10年間にあたる。また延祐以後とは、60歳以後のことである。この見方は一応当たっていると外山は考え、この呉栄光説を中心に考察している。
趙孟頫がはじめ宋の高宗を学んだということは、彼の出自から考えて、きわめて自然のことである。高宗は書画ともに父の徽宗に劣らないといわれるが、晋唐の法書を数多く蔵し、非常に熱心にこれを臨した。趙孟頫が先祖にあたる、この尊敬すべき書人である高宗の書に心ひかれ、そしてこれを習ったのは、いわばそのお家芸であった。呉栄光は元貞以前と限定しているけれども、はじめに習った高宗の書の影響はずっと後年まで認められるようであると外山はみている。
大徳6年(1302)10月以降に書かれたと推定される「玄妙観重脩三門記」(図1-5)や、晩年にあたる延祐6年(1319)に書かれた「仇鍔(きゅうがく)墓碑銘稿」(図18-21、京都、陽明文庫)は、その結体においても、またその気分においても、高宗の書に似たところを残しているという。
そして見ようによっては、高宗よりも、高宗の薫陶をうけることの深かった孝宗の書に、より多く似たところが認められることは外山は興味深いという。つまり、孝宗の書からうける、非常に潤美であるが、どこかきりっとしたところの足りない感じは、これらにみられる趙孟頫の書にもつきまとっていると外山はみている。これは貴族の出身者に共通した鷹揚さがそうさせるのか、お家芸としての趙孟頫の学書のいき方から来るのかと推測している。
次に趙孟頫が大徳年間にこれを師としたといわれる「定武禊帖」に対する趙孟頫の打ち込み方は並大抵のことではなかったようだ。例えば「禊帖を臨すること無慮数百本」(「容台別集」巻4)に及んだといわれる。趙孟頫は至大3年(1310)、仁宗の命をうけて呉興から大都へ赴いたが、その途中、見送りにきた独孤長老(名は淳明)から、「定武蘭亭序」をおくられた。彼はそれが王羲之の風神を伝えていることを喜んで、身辺を離さず、運河を北上する舟の中で、十三跋を書いたことはよく知られた事実である。
これから広く王羲之の書派を懸命に学んだといわれるが、それは趙孟頫の作品に明らかに現われていると外山はみている。例えば中峯明本に与えた「尺牘」(図10-13、14-16)にみられる行草書や、「漢汲黯(かんきゅうあん)伝」(図22-25)にみられる細楷、「某院記稿」(図17)にみられる楷書などである。
趙孟頫の書は筆法妍媚(けんび)、結体淳古と評されるが、上記の書はこのような絶えざる趙孟頫の錬磨によって成し遂げられたものであると外山はいう。
次に延祐以後、変じて李北海、柳誠懸の法に入ったといっているが、この点について外山は検討している。元代、趙孟頫の書いた碑の数は圧倒的に多く、「寰宇訪碑録」に載録されているものだけでも百に近いという。そしてその大部分は彼の地位がどんどん上がった仁宗の延祐以後に書かれている。碑版の書として、彼が李邕、柳公権の書法をとり入れたことは「仇鍔墓碑銘稿」(図18-21)や今日みられる碑刻によって首肯できるとする。
元碑の書人として趙孟頫が他を圧倒しているように、彼の書は元代を風靡した。元一代にとどまらず、つづく明代においても、祝允明、文徴明らをはじめ、その影響をうけた書人は非常に多く、清に入ってもこれを学んだ人は少なくない。
趙孟頫の書の魅力は、筆法妍媚、結体淳古ということにあった。外山は趙孟頫の歴史的役割として、古人の書に出入して、古人の書を今の人にもとりつきやすいように消化再生した点にあるとみている。近づくことの困難な晋唐の書は趙孟頫という仲介者の手によって何人にも学びやすくなった。趙孟頫の書の強味は、何人をもその美しさにひきつけ、何人にもこれを学ぼうとする意欲をおこさせるところにあったと外山は考えている。
清の乾隆帝も趙孟頫の書を好んだ。それは「石渠宝笈」の著録するところによって明らかであるように、その御府に多く趙孟頫の真蹟を蔵したことや、また乾隆帝自身が趙孟頫の書画を臨してたのしんでいることによっても知りうる。
そして「石渠宝笈」巻2 御臨趙孟頫書陶潜詩帖一冊に、帝は趙孟頫の筆法を評して、「流麗中に整粛をそなう。余、何ぞ能く一辞を賛せんや」といっている。乾隆帝の書なども、どこかのんびりして鷹揚な点、その気分は趙孟頫に通うものがあると外山はみている。
その一方で、趙孟頫の書をけなした人も少なくない。その中でもっとも趙孟頫の書に痛烈な批判を下したのは、明末の董其昌であるという。その「容台集」や「画禅室随筆」には随所にこれをこきおろしている。董其昌によると、「趙孟頫の書の欠点は勢のないところにあり、王羲之を学んだといっても、それは形状の上だけで、その雄秀の気をえていない」という。
また「古人は書をかくのに、必ず正局を作らない、蓋し、奇をもって正となす、これ、趙孟頫が晋唐の室に入らざる所以である」という。
つまり古人の書はただ行儀よくまっすぐにばかり書かない、横へかたむいたような変化をもった字を書きながら、それでいて、きちんとまとまって芸術的な効果をあげているのだが、趙孟頫はそれを解しないのだということであるようだ。
また「書家は険絶をもって奇となす、この竅、ただ魯公(顔真卿)、楊少師(楊凝式)のみこれを得、趙呉興(趙孟頫)は解せざるなり、今人の眼目、呉興に遮障(さえぎ)らる」ともいっている。
董其昌は趙孟頫の書が一字一字端正で、そろっていて美しいが、ただそれだけのことで、晋唐人の精神をつかんでいないとけなしている。そして董其昌は自分の書は趙孟頫より上であるという。
趙孟頫の書に力が足りないということは、董其昌以外にも多くの人がいっている。清の馮班はその「鈍吟書要」で「趙文敏(趙孟頫)は骨力少なし、故に字に雄渾の気なし、喜(この)んで難を避く」といっている。
このような欠点はあるとしても、趙孟頫の書の形状の美しさ、行儀のよさは万人に歓迎される魅力をもっている。董其昌の攻撃しているところが、趙孟頫の魅力になっているようにも考えられると外山はいう。
董其昌はその著において、一番多く趙孟頫を論じ、真向から攻撃しているが、これは趙孟頫の書の上に占める地位の大きかったことを示すものであるというのである。同じく晋唐にせまった董其昌は、趙孟頫を貶さなければ、自分の立場がよくならないことを恐れたのであろうと外山は推測している。
また趙孟頫の元朝に対する態度については、あくまでも受身の立場を守り通したと外山はみている。大都における生活では、その地位のお蔭で、その蒐蔵欲を満足させることもできたが、彼はできるだけ呉興に帰ることを望み、度々許しをえて家郷の風物を楽しんだ。
しかし都へ召されれば、いつでもおとなしく命に従った。政治に関して諮問をうければ憚ることなく、意見を述べた。その時々の情勢に応じて、控え目にしかも忠実にその任務を果たそうと心得ていたようである。しかし機会をつかんで栄進しようとするような気持ちは少しも持たなかったようだ。
異民族の朝廷に仕えてみて、宋の文化、ひいては中国文化の伝統を守らなければならないという、強い自覚と、自分こそその責務を果たすべき人物であるという自負とを、心ひそかにもっていたように見えるという。しかし別にこれを政治的行動の上にあらわすようなことはしないで、これを自分の好む翰墨のみちにおいて、着実に実行しただけであった。それは晋唐人の書を、中国の書の正統だと考え、これをしっかりとうけついで、次代にひきわたすことであり、この点趙孟頫はその時代にもっとも適した書人であった。
また中国書道史の上に彼の占める地位が大きい所以でもあると外山は考えている。
画における彼の功績も、書におけるそれに劣らない。彼は李公麟の線描様式を祖述し、好んで李公麟風の白画を描き、当時の画壇に重きをなし、そして元の四大家への途をひらき、指導的な役割をつとめた。彼の書にあきたらない人も、その画における功績はこれを高く評価している。
趙孟頫は宋の皇族でありながら、元に仕えた節操のない人物だとして後世の悪評をまねくことを免れなかったが、その当時においても、彼に快しとしないものが少なくなかったようだ。例えば、趙孟頫の年長のいとこで、書画人として高名な趙孟堅は、宋滅びてのち元に仕えなかった。ある日、趙孟頫の訪問をうけ、いやいやながら後門より招じ入れ、ろくにうちとけた話もしないで追いかえし、趙孟頫の辞去した後で、その坐具を洗い清めさせたという挿話さえある。
また朝廷においても、彼が宋の皇族だからという理由で、これを陥れようとする動きもないではなかったようだ。この困難な公私の生活に事なきをえたのは、夫人管道昇の内助の功によることが多かったと外山はみている。夫人は聰明人に過ぎ、家事一切をきりまわし、親戚や知人の間をうまくとりなしたといわれる。愛妻家であったと思われる趙孟頫も、夫人の墓誌銘(「松雪斎文集外集」)には、「家事を処して内外整然」としかいっていないが、藤井有鄰館に蔵されている「管夫人願経」に、
「良人の仕途に荊棘の虞なく、寿算に綿長の慶あり、獲るところの福徳ことごとく願うところのごとくならん」とある。このように祈っているのは夫人の心ばせがみえて、興趣が深いと外山はいう。
管夫人は翰墨辞章、学ばずして能くし、その書は夫の趙孟頫とまがうばかりで、また好んで墨竹を描いた。夫人には兄弟がなく、そのために父母の祭祀ができないことを憂い、皇慶5年(1312)、管公楼孝思道院をたて、膄田30畝を供し、道士に亡き父母をまつらせた(「管公楼孝思道院記」)。趙孟頫の写した仏、道の経典に管公楼の朱格のある紙を用いているのは、その因縁によると外山は説明している。
管夫人は常に夫に従い、夫が大都に出ればこれに従って上京し、咸宜坊に住い、夫が呉興に帰ればまたこれに従った。延祐6年(1319)、持病の脚気に苦しむ身を夫に守られて呉興へ帰る途中、臨清(山東)の舟中でなくなった(外山、11頁~18頁)。

明代の法帖     中田勇次郎
書の鑑賞は真蹟を第一とする。模本はこれに次ぐ。真蹟や模本を木または石に刻し、その墨拓を賞玩するにふさわしく装幀したものを法帖とよぶ。
法帖には2種類ある。
・一人一帖を刻したものを単帖という。
・多人数または多種類のものを集刻したものを集帖または彙帖、叢帖という。
中田は、単帖のことはしばらくおき、明代に刻された集帖について解題している。つまり明代の集帖にその著者、成立事情、内容、出版年などについて解説している。
そもそも明代の法帖は宋代における『淳化閣帖』とその翻刻本およびその他の影響を受けて発展したもので、その種類も数も少なくない。それを大別すると、次の2つに分られる。
①『淳化閣帖』の翻刻本およびその系統に属するもの
②民間の収蔵家や好事者によって刻されたもの
そして『淳化閣帖』の翻刻本では、次の4種類がもっとも著名である。
1.泉州本~洪武4年(1371)泉州の知府常性が宋拓本によって郡学において刻したもの
2.玉泓館本~嘉靖45年(1566)、上海の顧従義が宋の賈似道旧蔵本によって刻したもの
3.五石山房本~万暦11年(1583)、上海の潘雲龍が同じく賈似道本によって刻したもの
4.肅府本(7巻図77)~万暦43年(1515)、肅王府において祖本によって刻したもの
なお顧従義は別に「法帖釈文考異」10巻を著わして、難解な閣帖の釈文を考訂したが、その成果は今日なお閣帖の主要な研究資料としてその価値を認められている。
閣帖をそのまま翻刻したのではないが、その系統に属すると考えられるものに、明の王府で刻された「東書堂帖」と「宝賢堂帖」がある。この2種が明代の前半期を代表している。
嘉靖以後になると民間の収蔵家や好事者によって刻されたものが年を追って現われてくる。これを種類によって大別すると、次の5種類になる。
1.数人または多くの人々の書を集めて刻したもの
2.一人の書を集めて刻したもの
3.一家の書を集めて刻したもの
4.一時代の書を集めて刻したもの
5.一地方の書を集めて刻したもの
この中で1.の数人または多くの人々の書を集めて刻したものに最も良いものがあり、最も著名なものがある。そして明代の法帖の代表的なものはすべてこの種類に属している。以下、その中から主要なものを選んで時代順に列挙して解明している。
①「真賞斎帖」
華夏がその所蔵していた書蹟から名品を選んで刻した法帖である。嘉靖元年(1522)の刻帖である。
清の王澍の説(「古今法帖考」)によると、この法帖を鉤摹したのは文徴明父子であるという。華夏と文徴明とは親交があり、この時文徴明の子の文彭はまだ25歳、文嘉は22歳であった点からみると、実際、鉤摹したとすれば文徴明だとみられている。
取扱い方の謹厳さ、摹刻、鐫刻(せんこく)、拓法いずれもすぐれている点において明代第一の法帖といっても過言ではないと中田は高く評価している。なお、華夏(1498年頃生)は、江蘇、無錫の名家で、若い頃には王守仁に師事した。家には金石書画の収蔵が多く、祝允明、文徴明、沈周など当時の知名の文人と交遊した。文徴明の言葉に、彼が弱冠の頃から、40年間、書画の収蔵鑑識を怠らなかったことを称讃しているのをみても、彼が早くから法帖については洗練された趣味をもっていたことが察知される。
②「停雲館帖」
文徴明の家で刻した法帖であり、明代の法帖の中では最も著名なものである。嘉靖16年(1537)正月から同39年(1560)4月に至るまでに前後24年を費やして完成した。文徴明は嘉靖38年(1559)2月20日に没しているから、12巻本の完成したのはもっとも早くみても彼の没後である。摹勒は文徴明とその子の文彭、文嘉、鐫刻は章簡父など、拓は尤敬(ゆうけい)という名工がした。
文徴明の曽孫にあたる文震亨の[長物志]には、「真賞斎帖」とともに法帖の中の名刻で、摹勒はみな精巧であるといっているのは、家刻の法帖であるから褒めた点もあろうが、「鬱岡斎帖」を刻した王肯堂が小楷は真を失し、唐の欧・虞・褚・顔の書はもとの筆意がすっかりなくなっているといい(「鬱岡斎筆塵」、清の孫承沢が真蹟と比べると遠くかけ離れていることを立証しているのは(「間者軒帖考」)、もっともなところもあるといわれる。
しかし古搨善本を鑑別して精摹して刻したところは、やはり明代の法帖の中では出色のものといってよいと中田は評価している。第1巻の小楷の部分は宋の石邦哲の刻したいわゆる越州石氏本によって刻したもので、「墨池堂帖」の小楷とともに佳拓と称せられる。
③「余清斎帖」
呉廷が晋、唐、宋の名品を所蔵の真蹟にもとづいて刻した法帖である。帖首に董其昌のかいた「余清斎」の三大字が題されている。この法帖は、諸題跋の年記から考えて、ほぼ万暦26年(1598)および37年から42年(1609-1614)までの頃に正続2回にわたって刻されたものと中田は推測している。
清の王澍はこの法帖に斧鑿(ふさく)の痕跡のあるのをまぬがれない(「古今法帖考」)といっているが、しかし明代の法帖としては「真賞斎帖」にも劣らぬ精刻であると中田はみなしている。とくに「楽毅論」や晋人の尺牘、虞世南の「積時帖」(7巻図78, 79)などはめずらしい。また帖内には宋元名家の題跋はいうまでもなく、その時代の名家の題跋および呉廷の自跋をも付刻して完全な体裁をととのえ、ひとり名蹟を刻するだけにとどまらず、それをいかに楽しんで鑑賞したかをよくうかがわれるようにしているところは、明代の法帖の特色をよく発揮していると中田はいう。例えば、王羲之の「行穣帖」は董其昌が陳継儒、呉廷とともに鑑賞し、董がみずから筆をとって美しい行書の跋をしたためているし、「思想帖」には趙子昻と文徴明の跋が付刻されている。
呉廷は安徽新安の人で、書画の収蔵家として知られていた。この法帖の摹勒はその知己の楊名時がした。この法帖の原石は乾隆、嘉慶の頃まで存していたが、翻刻本はなく、伝本はきわめて稀である。
④「墨池堂帖」
章藻が晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻した法帖である。万暦30年(1602)から同38年(1610)に至る9年間にわたって刻された。清の翁方綱の説(「復初斎文集」巻28)によると、翻刻本は原石本に比べると王徽之の「新月帖」と欧陽詢の「化度寺碑」など、一、二の磨泐したところは鉤模した原本に照らして審定しているから、単に原石の翻刻にとどまらず整理を加えている。
章藻は江蘇、長洲の人で、「真賞斎帖」や「停雲館帖」を刻した章簡父の子で、父の業をつぎ、鐫刻の技術にすぐれいた。
この法帖の小楷の部分は「停雲館帖」と相並んで佳刻と称せられ、晋帖にも善本によって刻したものがあり、唐代のものでは欧陽詢の「化度寺碑」、李靖の「上西嶽書」、徐浩の「宝林寺詩」がめずらしいという。
⑤「戯鴻堂帖」
董其昌が晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻した法帖である。はじめ木板で紙墨搨工は精妙をつくし、四方の人が争って高価をもってこれを求め、入手も困難であったが、万暦32年(1604)彼が湖広の学政になってから、監督者に適当な人がなく、成果を急いで、粗末なものをつくったので、にわかに価が低くなったという。
内容は董其昌の鑑識をへた法帖だけあってよく備わり、彼の自跋も加えられていて、書学に益するところが少なくないが、摹勒と鐫刻がよくなかったので、清の王澍によって古今第一の悪札などと呼ばれている(「古今法帖考」)。この点は中田は惜しい気がするという。
実際、董其昌がみずから摹勒したのは「汝南公主墓誌」だけであるようだ。
⑥「来禽館帖」
邢侗(けいとう)が刻した法帖である。内容は「澄清堂帖」、「蘭亭序三種」、「索靖出師表」、「唐人雙鉤十七帖」、「黄庭経」など9種を収めている。十七帖は、「余清斎帖本」や「鬱岡斎帖本」とともに佳拓であるとされている。
邢侗は山東、臨邑の人で、万暦2年(1574)の進士で、官は陝西行太僕卿に至った。書においては董其昌、米万鐘、張瑞図とならんで著名であった。東京書道博物館には残本4巻がある。
⑦「鬱岡斎帖」
王肯堂が魏、晋、唐、宋の名蹟を集めて刻した法帖である。清の王澍はこの法帖を批評して、停雲の蒼深さには及ばないが秀潤さはそれ以上である。だから遠く戯鴻の上に出ている(「古今法帖考」)といって称讃している。
王肯堂は江蘇、金壇の人で、万暦17年(1589)の進士で、官は福建参政にまでなった。とくに医学において名を知られ、その方面の著述が多い。
書をよくし、その収蔵も少なくなかった。彼の鑑識は董其昌ほど詳審ではなかったといわれるが、この法帖は摹勒と鐫刻とがよくできているので、明代のものの中では精刻されている。
⑧「玉煙堂帖」
陳瓛が漢、魏、六朝、唐、宋、金、元の書蹟を刻した法帖である。陳瓛は浙江、海寧の人で、書学に深く各体の書をよくし、鑑識に長じていた。この法帖は多くは旧刻を翻摹したものであるが、数の多いことと多方面にわたっている点においては、明代の法帖ではほかに類がまれである。
⑨「秀餐軒帖」
陳旾永(しゅんえい)が刻した法帖である。この帖の「黄庭経」は万暦47年(1619)冬に刻されたことが清の張廷済の「清儀閣題跋」に見えているので、この頃の刻帖であるとみられている。内容は魏晋および唐の欧・虞・褚・薛、宋の蔡・蘇・黄・米から張即之にいたるまで20家33種の名蹟を集めて刻したもので、小楷を主としている。
⑩「渤海蔵真帖」
陳瓛が刻した法帖の一つである。「内景経」の跋により、崇禎3年(1630)以後の刻であろうと推定されている。唐、宋、元の名蹟11家18種を真蹟によって刻したもので、その中では鐘紹京の「小楷霊飛経」がもっとも精刻である。
⑪「快雪堂帖」
馮銓が魏、晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻した法帖である。快雪堂の名称は明の馮開之が王羲之の「快雪時晴帖」を所蔵し、その室に快雪堂と名づけたのを、そのまま馮銓がうけついで、この帖を手に入れるとともにまた室名とし、これを帖の首に刻して帖名としたのである。
「洛神賦十三行」の跋により、崇禎14年(1641)以後の刻帖と推定される。帖内には真蹟から刻したものと旧刻をまた翻刻したものとがあるが、概して精刻であり、「停雲館帖」ほどの蒼深さはないが、それにもまさるよい法帖である。
馮銓は河北、涿州の人で、万暦41年(1613)の進士で、清朝に仕えて康煕11年(1672)に没した。
帖内には宋人のものを多く収め、元では趙子昻の「蘭亭帖十三跋」が著名である。
以上、①から⑪まで、主要なものを掲げたが、この種類の集帖には、王世貞の「小酉館選帖」、文嘉の「帰来堂帖」、蒋一先の「浮雲枝帖」がある。
次に中田は一人の書を集めて刻したもの、一家の書を集めて刻したもの、一時代の書を刻したもの、一地方の書を刻したものを列挙している。
例えば一人の書を集めて刻したものには、陳継儒が宋の蘇軾の書を集めて刻した「晩香堂蘇帖」および宋の米芾の書を集めて刻した「来儀堂帖」があり、陳比玉が宋の蔡襄の書を集めて刻した「古香斎帖」があり、陳瓛が董其昌の書を集めて刻した「小玉煙堂帖」「観復堂帖」がある。
そして民間で刻された法帖は明代の法帖を代表するものであって、その特色について中田は次の点を指摘している。
①宋代の『淳化閣帖』とその翻刻本およびその他の法帖から材料をとるとともに、さらに従来の法帖に見られなかった新しい書蹟をとりあげて刻していること
②宋、元、明時代の新しい書を多く収めていること
③法帖の鑑賞の記録である題跋を併せて付刻し、これが解説の役目をなしていること
④法帖のほかに碑版をも法帖の形式で収めていること
⑤摹勒は当時の第一流の文人の手になり、鐫刻や拓打にも専門の名工が技術を振っていること
このようにしてできた法帖は書を好み書を学ぶ人々の間に広くゆきわたり、その時代の書風に大きな影響を与え、前代の法帖よりも一般的な性格をもって普及していった。
さて、今日では印刷技術が発達し、伝世の真蹟の名品を精巧な複製本によって鑑賞することができるので、刻帖はすでに過去の鑑賞法となっているが、古香の漂う拓本による書の鑑賞にもまた一種の風味があるとともに、これらの法帖に収められているものの中には、今日亡んで見ることのできないものもあり、またこれによってその鑑賞の方法やその時の情況をも併せて知ることができる点において、明代の法帖にもおのずから価値を存していると中田は主張している(中田、19頁~27頁)。


《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その11中国11》

2018-07-21 18:00:50 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その11中国11》

16中国11 宋Ⅱ
この篇には南宋高宗の建炎元年(1127)から、帝昞の祥興2年(1279)に至る153年間の書蹟を収めている。なお、金人の書蹟および宋代禅僧の墨蹟もこの篇に収めてある。

中国書道史11    神田喜一郎
宋王朝は第9代の欽宗の靖康元年(1126)にいたり、金の侵略をうけ、首都の汴京(河南省開封)を放棄し、その翌年(1127)、皇帝の欽宗、上皇の徽宗などが捕虜となって、金の本拠地に拉致された。これを靖康の難とよぶ。
この大事件の結果、宋王朝では幸いにも捕虜とならなかった欽宗の弟の康王、すなわち高宗を帝位につかせ、首都を臨安(浙江省杭州)に遷して、金の圧迫を避けた。9帝が帝位につき、1279年に元に亡ぼされるまで、152年間、南宋が存続した。
さて南宋152年間は、大勢からいうと、国運が衰え、転落の一途をたどった。それでも高宗、孝宗の二代の間は、いくらかは気力を存していた。とくに孝宗の治世においては、人材輩出、文化も興隆し、南宋の最盛期であった。
ただ南宋の文化は北宋の文化に見る気魄と剛健とを失い、爛熟したというよりも、むしろ軽佻繊弱なものに変貌しつつあったと神田はみている。これは南宋が風光明媚な臨安に安住して、いたずらに江南半壁の地に桃源の夢をむさぼっていた自然のなりゆきであろうという。
南宋一代の書道は、初代の天子高宗によって開かれたといって差支えない。もっとも高宗は国家存亡の危機に直面しながら、その再建に努力しなかったので、古来とかく悪評のある天子である。当時金に対して主戦和平の両論の対立した際において、高宗は和平論者の意見に従い、退嬰的な消極政策をとった。
秦檜を用いて岳飛を斥けたことは、中国歴史上有名な事実である。高宗は生れつき気が弱かったに相違ないが、半面さすがに徽宗の血をうけているだけあって、洗練された芸術趣味をもち、戦乱多事の際にも自ら愛好する古書画を蒐集したり、また書画の制作につとめたという。
とくに書道は高宗のもっともたしなんだところである。その筆蹟のすぐれていたことは、南北両宋の歴代の天子の中で第一と称せられている。高宗の書論である「翰墨志」には、彼自ら50年間、いまだかつて一日として筆墨を離したことがないと告白している。このことによっても、いかに高宗が書道に精励したかが窺われる。高宗は最初は黄庭堅の書を学び、ついで中年には米芾におもむき、最後には王羲之、王献之に専心したという。
高宗の筆蹟は今日これを徴すべき資料が割合に多く現存している。例えば、紹興3年(1133)に書かれた「仏頂光明塔碑」(図1-3)、紹興5年(1135)、紹興6年(1136)に書かれた「賜梁汝嘉勅書」(図4, 5)である。これらは高宗のまだ30歳に達しない時代の筆にかかり、いかにも黄庭堅の体格そのままである。
これに反して、紹興24年(1154)の書と推定される「徽宗文集序」(図20-25)は全く二王の筆法によっていて、その間の変化が著しい。この点について、宋の楼鑰(ろうやく)は次にように伝えている。すなわち、高宗が黄庭堅を学んでいたころ、宋から金に寝返りをうって斉国皇帝という傀儡政権を建てていた劉豫も黄庭堅の書を推称し、部下にこれを習わしていたところから、近臣の鄒億年というものが、もしか斉国で高宗の偽筆をつくりでもしてはという配慮から高宗に黄庭堅を学ぶことを止めしめ、高宗もまた米芾に向い、紹興の初めになって、また改めて二王を法とするに至ったのであるという。
劉豫が斉帝に封ぜられたのは高宗の建炎4年(1130)であるから、その頃まで黄庭堅を学んでいたものと神田は考えている。そして米芾の書を習ったのは数年に過ぎず、間もなく二王に転向したものと見えて、紹興の初め、既に王羲之の「楽毅論」を臨書している事実も伝えられており、紹興7年(1137)には王羲之の「蘭亭序」を臨書した事実も伝えられている。そして中年以後にはこれを全く自得したようだ。ともかく高宗が黄庭堅、米芾、二王という学書過程を経たことは確かな事実で、この三つの典型こそはすなわち南宋の書道を決定したところのものであると神田はみている。
二王の典型は何といっても中国書道の正統である。その強固な根底を揺さぶることはできても、これを打倒することは困難である。唐の顔真卿以来、その打倒につとめたものに五代の楊凝式、宋の黄庭堅など有力な書家が出ている。しかし絶対的な勝利はついに勝ち得なかった。二王の伝統は常に脈々としてその生命を持続しつづけたのである。
南宋になっても、第一に高宗が中年以後二王を信奉した。高宗の子孝宗も書法を善くしたが、家庭の法度を失わなかったといわれている。今、京都の東福寺に伝わる「宋拓御書碑」(図39, 40)や、その真蹟「法書賛」(図41-44)を見るならば、孝宗もその二王に私淑したものであることは明らかである。
寧宗、理宗、度宗の南宋の各帝も、また書名があるが、いずれも高宗の筆法を学んだといわれていて、二王の範囲を逸脱するものではなかったようだ。こうした帝王の好尚は一般に大きな感化を与えた。二王の書法の教科書ともいうべき『淳化閣帖』は、南宋になっても各地で多少の改編を加えて飜刻された。紹興11年(1141)に高宗の勅命をもって臨安の国子監で刻された「紹興国子監帖」、咸淳年間(1265-1274)に名高い賈似道が門客廖瑩中をして刻せしめた「世綵堂帖」はとくに著名なものである。
また王羲之の「蘭亭序」については、南宋時代には士大夫の家でこれを石に刻しないものはなかったといわれるくらい流行した。したがって、『淳化閣帖』や「蘭亭序」を専門に研究することが盛んになり、例えば姜夔(きょうき)の「絳帖平」、曹士冕の「法帖譜系」、桑世昌の「蘭亭考」が現れた。これらは北宋時代の黄伯志の「法帖刊誤」や劉次荘の「法帖釈文」の系列につながる書で、必ずしも南宋に至って新しく起った研究ではないが、北宋時代よりも一層盛んになった。
こうした気運の生んだ書家としては、虞允文、呉説(ごえつ)(図33-36)が知られている。虞允文の書は「停雲館帖」に尺牘が一通見えているが、そう名人とも思えないと神田は評している。呉説は唐の孫過庭を学んだともいわれていて、いくらか姿媚に過ぎるが、虞允文よりも遥かに勝っており、南宋時代に二王の典型を習ったものとしては、高宗につぐ大家であろうという。その「遊絲書」(図33, 34)というものは、彼の創意に出た一種の連綿体であるが、もとより正格のものではないようだ。
次には米芾の典型である。高宗がこれを喜んだことは、紹興11年(1141)に米芾の書ばかりを輯めて10巻の法帖を刻していることによっても知られる。その頃高宗は、もう二王の書法に転向していたと思われるにもかかわらず、米書を刻しているのは興味深いと神田はいう。
それに高宗の身辺には、米芾の子の米友仁(図26-32)がいた。米友仁は高宗に仕えて、その古書画の蒐集を助けた人物であるが、父の風格をそっくり伝えた風流な文人で、自ら書画を制作することにも卓越した技倆をもっていた。しかし何といっても父には及ばなかったらしい。
この米友仁よりも一層すぐれて、米芾の典型を伝えたのは呉琚(ごきょ)(図61, 62)である。その米書の真髄をえていることは明の董其昌も絶讃している。大体、南宋の初めには米書が流行し、おそらく寧宗の時代あたりまでは米書は一般に愛好されたようだ。そうして宋末になって、張即之を出すことになった。
最後に黄庭堅の典型であるが、これまた南宋の初めに流行したもので、その中とくに傑出していたのが范成大(図45-56)である。宮内庁書陵部に蔵する宋拓の「贈仏照禅師詩碑」(図45-48)は、その書蹟を窺うにもっとも重要な資料であるが、これを見ると、黄庭堅に米芾を加味している。当時范成大と相並んで書名の高かった張孝祥や、范成大と親しかった姜夔も、ほぼ同じ傾向であったようだ。これらの諸家を黄庭堅の典型を奉じた右派と神田は称している。
それに対して、左派ともいうべき一派は、黄庭堅から進んで唐の懐素や張旭の書法を学んだ人々をさすとする。王升(図37, 38)とか陸游(図59, 60)とかがその代表である。陸游は南宋第一の詩人と称される放翁で、自ら「草書は張顚を学び、行書は楊風を学ぶ」といっていた。張顚は張旭、楊風は五代の楊凝式である。陸游の理想としたところを推察することができよう。
以上、二王、米芾、黄庭堅の三つの典型について、それぞれの信奉者を神田は挙げている。南宋の書家はその範囲をでることができなかったのみならず、とくに卓出した斯道の大家ともいうべきものも出なかった。そうしていよいよ萎靡してしまおうとした時に、生れ出て、わずかに掉尾の勇を振うたのが張即之であったという。
南宋の最後の書壇を飾った張即之は、中国では古来毀誉褒貶まちまちで、これほど評価の定まらない書家も稀らしい。これには多少の理由がある。
張即之は緇流の人ではなかったが、平生から禅僧と深い関係をもち、その一人に無文道璨がいた。その道璨には「無文印」という詩集があり、その中に見える「贈開図書翁生序」と題する文章の中に、「書学は鐘繇、衛夫人に厄せられ、大いに王氏父子に壊(やぶ)れ、弊を褚(遂良)・薛(稷)・欧(陽詢)・虞(世南)に極む」とある。これは実に、王羲之、王献之の父子をもって書法の聖と仰ぐ正統派にとっては爆弾宣言ともいうべき過激きわまる言葉である。この言葉はもちろん道璨の言ったことになっているが、道璨は30年の久しきに亘って書法を張即之に学んだというから、おそらく張即之の平生の教示をそのまま述べたのであろうと神田は推測している。
そうすると、張即之が書道に対して、どういう意見を抱いていたかがよくわかるのであって、正統派から見るならば極端な異端者であったわけである。これは張即之の深い禅的教養からきていると神田は考えている。つまり禅では一切の権威を認めず、直に自己を見性するだけであり、張即之の書もまたこの根本思想から発足しているとみている。
それだけ正統派には邪悪醜陋なものに映ったに相違ないが、その反面これまでの書法には全然見られなかったところの著しい個性の躍動を認めないわけにはゆかないという。ここにいろいろ毀誉褒貶の分れた所以があると神田は考えている。そういう意味において、張即之は中国書道史上特異な書家といわれる。
張即之の書蹟は、当時金王朝でも喜ばれたというが、日本でも鎌倉時代に禅僧によって多くもたらされた。その中には名品が少なくなく、京都の智積院に蔵する「金剛経」(図81-86)はその例である。また中国から舶載され、京都の藤井有鄰館が所蔵する「李伯嘉墓誌銘」(図75-80)がとくにすぐれている。
張即之の書はいったいに峭抜な中にも姿態に一種の風趣を具え、その点が一部の人から喜ばれるのであるが、何となく軽佻の嫌いを免れず、全く南宋文化の特質を象徴している感があると神田は評している。
さて金代の書は、その真蹟の今日に伝わるものがはなはだ少なく、したがって論ずることは難しいようだ。金の遺民として名高い元好問の「遺山先生文集」を見ると、その巻38に「跋国朝名公書」と題した文章があり、金代の書家について、面白い短評を試みている。そこに特に賞められているのは、任詢、趙渢、王庭筠、趙秉文(ちょうへいぶん)の諸家がある。この中でもっとも傑出していたのは、おそらく王庭筠であると神田はみている。王庭筠(図92-94)は米芾を学び、その堂奥に入っていたという。その他、趙渢、趙秉文の二人は蘇軾を師としたらしく、一方任詢はいくらか書風を異にし、流麗遒勁で、二王を奉じたようで、異例であった。
金代の書は、わずかに伝わる真蹟によると、一般には北宋の蘇・黄・米の三家の模倣の範囲を出なかったと神田は考えている。章宗は北宋の徽宗を模倣して「痩金書」(図89-91)をかいたが、金王朝は上下を挙げて北宋を模範に仰いだことがわかる。
神田は南宋と金との書道史を総括して、必ずしも隆盛の運にあったとはいえないという。というのは、北宋の蘇・黄・米・蔡に匹敵しうるような大家は一人も出ていないし、むしろ衰微の時代といった方があたっているからである。
ただこの時代において、注意すべきことは、書道の研究の勃興したことである。宋人は理屈が多く、政治においても学問においても、いわば議論倒れに終わった感がある。例えば、文学においても詩話という一種の文学批評書が盛んに作られたが、書道もこれと趨向を同じくしたといえないこともないという。
古今の書論を蒐輯編纂したものとして、陳思の「書苑菁華」があり、また自己の書論を披瀝したものとしては、高宗の「翰墨志」、姜夔の「続書譜」のような名著もある。宋人は何の方面においても理窟をいうのが好きであったと神田は結んでいる(神田、1頁~8頁)。

南宋の文人、学者とその書 鈴木虎雄
琴棋書画は昔から士大夫の表芸として重んじられている。琴棋は特別の人がたしなみ、書画は大概の人がこれに趣味をもっていてかつ巧みである。書の進歩したのは何といっても晋代(4世紀)で、王羲之、王献之が出たのをはじめとして、庾亮でも謝安でも、逆賊と呼ばれた桓温でも、いずれも能書であり、また彼らは書を珍重した。
降って唐宋以後の時代は書の珍重の仕方は晋代ほどではなくとも、大抵似たものであろう。中国人は何でも古代ほど善くて、時代が降るほど悪いと見るのが通例であるが、各時代にはそれぞれの特色があるもので、一概に後代のものは劣っているというわけではないと鈴木は断っている。
ところで、開国の人主の好尚が、その国に与える影響は少なくない。高宗(図1-25)は宋の南渡以後の初代の君として江南に臨んだ人である。彼は徽宗の子として北宋文化の爛熟した後を承け、しかも材、文武を兼ね、文学にも書にも深い興味を有した人である。陸游が史弥遠から聞いたという話によると、「高宗は嘗て羲之の蘭亭に臨して、之を寿王に賜い、その帖の後に、汝は此に依って五百本を臨すべし、と記してあった」という。また臨安の大学に石経を刻させたことも、高宗の奨学の意の発露である。このような君主の下に、学問文化が衰えぬのは当然のことであると鈴木はいう。
さて、北宋では、蔡襄、蔡京、蔡卞、蘇舜元、舜欽兄弟、みな能書といわれるが、何といっても蘇軾(東坡)、黄庭堅(山谷)、米芾(元章)の3人を推さねばなるまい。
東坡は二王はもとより、顔真卿を学び、また徐浩を学んだといわれる。これについて彼の第三子蘇過は、「父は少年の頃には二王の書を学び、晩には顔平原(真卿)をこのんだ、だから二家の風気がある。世俗は之を知らず、徐浩を学んだといっているのは陋だ」といっている。
明の陳継儒はまた「東坡は王僧虔を学んだものだ、歴代の評者がかれが徐浩を学んだといっているのは、浩が僧虔の衣鉢を伝えているものであることを知らぬからだ」といっている。
王僧虔は梁の武帝時代の人で、その家には王羲之の書を非常に多くもっていたものである。名蹟を学ぶことは必要なことであるが、ただそれだけではだめである。東坡はその弟轍に与えた手紙で、「わしは書は上手ではないが、書がわかる点ではわしにまさる者はあるまい。わたしは書の心もちがわかりさえすれば必ずしも学ばなくともよいと考えている」と述べている。
東坡はおそらく名蹟を見てそれを学んだのであろうが、その形態を模しただけでなく、その書の精神を察してそれを取り入れ、それに東坡の性格が加わって東坡の書となったと鈴木は考えている。
蘇過が、「わが父は自己を書家だとはしていない。しかしその至大至剛の気が胸中より発し、手をもってこれに応じた。だから刻画嫵媚の態は見えずして、端然として冠をつけたような犯すべからざる色があるのだ」といっている。名蹟の形態を模するに止まらず、その精神を理会するということはすべての能書家についていいうることであろうとする。書品の上下、書技の巧拙は本人の性格と、名蹟の精神の理会の深浅とに基づくものと鈴木は考えている。
さて南宋の書でまず思い浮かぶのは、鎮江(南京西北)の甘露寺にあった呉琚(図61, 62)の大字である。董其昌が「呉琚の書は米元章に似て、峻峭は之に過ぐ。今京口(鎮江)北固(甘露寺のある山)の天下第一江山の六大字の額はすなわち琚が書なり」といっているのはこれである。書は日本の大正年間の初めにはなお存在していて丈壁の大字であった。琚は孝宗の皇后の侄にあたり、格別学問があったものではないが、書はすぐれている。
南宋では名臣、政事家、武人などにもすぐれた書家は多いが、ここでは文人、学者を主として鈴木は取り上げている。
詩人方面でいうと、韓駒がいる。この人は北宋から南宋へかけての人で、黄山谷の後を承けて江西派の詩風を流行させるに力のあった人である。彼の書は顔の「座位帖」から出ており、「羣玉堂法帖」に見えているといわれる。
次に南宋の詩人では、尤、楊、范、陸の4人が挙げられる。すなわち尤袤(ゆうぼう)、楊万里、范成大(図45-56)、陸游(図59, 60)である。
朱子は尤袤が筆法を論ずることの正しいことをひどく褒めているから、よほど書眼のすぐれた人であったとみえる。楊万里は米芾の帖を見て感心し、「李密が始めて唐の太宗を見たようだ」といっている。それで彼がいかに米芾に傾倒したかがわかる。
范成大は黄庭堅、米芾を宗とし、遒勁観るべしといわれている。陸游はみずから、草書は張旭を学び、行書は楊凝式を学んだという。陸游の作詩の中には酔うて草書を壁になぐり書きにしたことを述べているので、草書は得意であったようだ。朱子は「務観(陸游)、筆札精妙、意致高遠」と称している。陸游の筆札は今日見ることができる。
南宋の散文家は浙江省に多い。王十朋、楼鑰、葉適、薛季宣、陳傅良、みなそれである。王は帖があるとのことだが、書風はわからない。葉は蔡襄の風ありといわれ、楼は大字を善くし、高宗の時、勅を奉じて太学の扁額を書いた。薛は行草を書かずに正書ばかり書いた。陳は字画遒媚であったという。
次に塡詞(詩余)家には、張孝祥、姜夔などがいる。
張孝祥は張孝伯の兄で、高宗は彼の書を遒勁で顔真卿だとほめた。彼の状元及第のおりの策文、詩、書はひどく高宗に喜ばれ、秦檜はこれを三絶だといい、「君の詩や書は何に本づくや」と問うたら、彼は「杜詩を本とし、顔字を法とする」と答えたという。彼の侄に張即之があって、この人は大字が得意で、好んで杜甫の古柏行を書し、その書はきわめて金朝の人々に愛重されたという。
姜夔は学問あり、詩余を善くしたが、音律に精通し、彼には楽曲に合わすべく作られた歌曲がある。「白石詩説」という詩話があって詩眼の高かったことが窺われ、書では『続書譜』があって書法に詳しい。彼は「議論は精到、用志は刻苦にして、筆法は能品に入る」といわれ、趙孟堅は彼を「書家の申韓(申不害、韓非、ともに法律家)である」といっており、書眼の厳精なことを指した。彼の書は幸いに今日見ることができる。
最後に宋代特別に発達した性理学(道学)の学者について鈴木は瞥見している。北宋の二程子すなわち程顥、程頤兄弟は謹厳な書風をなし、道士陳摶は「字体雄偉、古人の法度あり」といわれ、その書の石刻は今なお華山に遺されている。
南宋の理学者には能書の人は少なくない。理学者では朱熹すなわち朱子(図63-68)はもっとも名高く、彼の書は多くの人が賞讃している。あるいは「かつて朱子の簡牘数枚を見るに、けだし魯公(顔真卿)の座位帖を法とす。行辺の傍注も復た宛然として意致蒼鬱、沈深古雅、骨あり筋あり韻あり、しかるに書をもって名あらざるは学之を掩うをもってなり」といい、あるいは「晦翁(朱子)の書は榜額のほか多く見ず、端州の友石台記は鐘太傅(魏の鐘繇)の法に近く、また分隷の意あり」といわれている。
彼の天光雲影、光風霽月などの諸大字は皆当時存したという。彼の行書では故長尾雨山翁の所蔵であった「論語集註」の残巻、草稿の一部分は鈴木は見たことがあるそうだ。
朱子の薦めた楊簡は、翰墨においてもっとも謹厳をきわめ、四方に酬答する書簡には一字も行体がなかったという、その厳正な性格の現われである。その書風ははなはだ文正公(北宋の范仲淹)に類して、清勁はこれに過ぐといわれる。朱子の学敵には陸九淵があったが、その兄陸九齢は能書で謹厳であったといわれる。それから朱子の学統である魏了翁は篆隷に工であったといわれ、真徳秀は「その書は草々に作ったように見えるが、草々に作ったものでなく、晋人の筆法を用いずして法の外に出ずるものがあるのは、その胸次が高落であるため筆がおのずから他と同じくないのである」といわれる。
その他、忠臣では岳飛、奸臣には秦檜、史弥遠、史家には李心伝がおり、みな、それぞれ書の見るべきものがあったという。岳飛の「出師表」は日本の薩摩藩に伝えられ、西郷南洲(隆盛)はこれを学んだという。岳飛は詩文をも能くし、その奏疏稿の筆蹟は今に伝えられている。秦、史二人は人物において非難を受けているが、その書風には観るべきものがあったという。
このように見てくれば、南宋においては文人、学者をはじめ社会の上流に位するものはほとんどみな書風に意を用いざる者はなく、その中傑出せるものは、他の時代のものに比して遜色なく、否、別に特色あるものを産出していることが知られるであろう。古人が「書は心の画なり」といっているのは道理である辞であると鈴木は述べている(鈴木、9頁~13頁)。

朱子とその書    宮崎市定
朱熹、あざなは元晦または仲晦、号には考亭などいろいろある。文公はそのおくりなであり、学者は尊称して朱子という。
朱子の本籍は徽州婺源県万年郷松巌里にあり、徽州は別名を新安郡というので、朱子は自ら新安の人と名乗る。祖先いらい、土着の農家であったらしいが、朱子の父朱松がはじめて北宋末に太学に上り、卒業して福建地方の官についた。間もなく北宋が亡び、天下が大乱に陥ったので故郷に帰って親を侍養したが、南宋の高宗が臨安に都を定めて、東南を確保したので、朱松は召されて中央の官職につき、47歳で卒した。
時に朱子は14歳の年少であったから、父の友人である劉子羽に依り、建州の崇安県、建陽県を転々として、その指導の下に受験勉強をした。19歳で進士となり、泉州同安県の主簿に任じられて官吏生活の第一歩を踏み出した。このように朱子は福建地方と縁が深いので、彼の学を閩学ともいう。
しかしながら朱子の官界における履歴は決して華やかなものではなかった。彼が実際に官吏として働いたのは、地方官として9年、中央政府で40日と称される。地方官としての朱子は余りに正義感が強すぎ、地方政治の弊害を見ると坐視するに忍びず、非違を弾劾し、民利を興建するに熱心で、その性急なことは王安石以上であったらしい。剛直で、圭角があり、中央の大官と衝突しても、自己の意志を押し通そうとしたので、彼の地方官としての地位は永続きしなかった。
朱子は地方官は単なる行政官であるばかりでなく、同時に教育者でなければならぬと考えた。だから、政務の暇に、学徒を集めては経書を講じた。彼が南康軍の知事となった時、管内の盧山にある白鹿洞書院が荒廃していることを聞き、これを復興した講学の所としたのは有名な話である。地方官として思うように手腕を振うことの出来なかった朱子は、学問、教育を通じての社会の再建に志した。それは官学の教授になることではなく、私学を振興することであった。私学とは建物のことではなく、学徒の講学のことである。幸いに当時、祠禄という制度があって、実際に責任ある官吏の地位につかなくても、国立の道教廟観の管理をするという名目で、休職手当を貰うことができた。朱子は官吏資格を得てから50年間、ほとんど休職手当の貰い通しであった。その手当は豊かなものではなかったので、貧乏をしながら、同じ貧乏な学生を集めて講義をし、著述を行った。
朱子一派の私学が次第に盛大になると、これが道学と称され、あるいはこれを偽学として排斥する者をも生じた。たまたま天子光宗は暗愚で、その皇后に制肘を受け、失徳があったので、宗室の趙汝愚が太皇太后の甥の韓侂冑(かんたくちゅう)と計り、光宗を上皇にまつりあげ、位を子の寧宗に譲らせた。
趙汝愚は宰相となると、朱子を抜擢して侍講に任じ、大いに道学者を登用しようとしたが、間もなく韓侂冑の陥るところとなり、朱子は40日で政府を退き、趙汝愚は流されて配所で卒した。ついで道学を指して偽学となし、偽学の禁が発せられ、趙汝愚以下59人を偽党と名付け、籍を造って、その登用を禁じた。これがいわゆる慶元の党禁である。こうして朱子はいよいよ失意の中に、慶元6年(1200)、世を去った。
その後、理宗の時代になると、道学は朝野を風靡して、儒教の正統と認められるようになり、朱子は太師、徽国公を贈られ、孔子の廟に従祀されるにいたった。
朱子は中国における近世的哲学である宋学の大成者であると同時に、いわゆる東洋道徳の樹立者でもある。おそらく今日でも、日本、中国、朝鮮を通じて、意識下にある道徳思想の地盤を求めたなら、それは朱子学であろうと宮崎はみている。その「朱子家礼」が冠婚葬祭の儀式を定め、中国や朝鮮で襲用されてきたところを見ると、朱子学は一種の宗教ともいえるとする。
名士の書を論ずるのは、書家の書を論ずるよりも難しいと宮崎はいう。大学者であるからといって、それに比例して書がよいとは限らない。朱子のような大物になると、いよいよその取扱いが難しくなる。朱子は単に大学者であるというばかりでなく、孔子の塁を摩するほどの聖者であるから、その書を余り良く見すぎてもいけないが、さりとて低く見過ぎてその徳を傷つけてもいけないと宮崎はいう。
朱子の書は王安石の書に似ていると、古くからいわれているようだ。これはいろいろ理由のあることである。彼の父朱松は王安石の書を好み、その真筆を秘蔵して臨摹したことは事実である。その友人の言葉を借りると、「朱松は道を河洛(程明道・程伊川)に学び、文を元祐(蘇東坡)に学び、書を荊舒(王安石)に学んだのは解し難いことだ」という。
こういう父の書風に感化されて、朱子の書が王安石に似てきたことは十分にあり得ることである。
ところが、王安石の書であるが、今日その真筆と伝えられるものには確かなものが少ないので、本当のことは分らないと宮崎はいっている。
何でも極端に性急な字で、日の短い秋の暮に収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だと形容される。おそらくこれは書簡や文稿についていったものと宮崎は推測している。そしてこれも理由のあることであると考えている。つまり文章をつくる時に妙思が一時に湧くと、急いでそれを書きとめなければ忽ち消えてしまうから、まごまごしておれず、着想が速く、詞藻が豊富なほど、字は忙しくなると想像している。宮崎は王安石の書をきっとそういう字であったであろうと推測している。
しかし朱子の意見によると、本来文字はゆっくり書かねばならぬものだ、というから、ここで少し戸惑いを覚えるという。北宋の名臣韓琦の欧陽脩に与えた書帖に、朱子が跋を作って、次のようにいっている。
「張敬夫がかつて言った言葉に、王安石の書は大忙中に写し来ったものだ、いったい王安石はどうしてこんなに忙しいことがあったのだろう、とある。これは戯言であるが、確かに痛い所をついている。いまこの韓琦の書帖を見、また以前に見たかれの筆蹟と照し合せて考えると、かれの書簡はたとえ親戚の目下の者に与えるものでも、常に端厳謹重、ほぼこの帖と同じく未だかつて一筆も行草の勢を雑えない。思うに韓琦は胸中が安静詳密、雍容和豫であるから頃刻も忙時なく、繊芥も忙意がない。王安石の躁擾急迫なると全く正反対である。書札は細事であるが、そこに人の徳性がそのまま現われるものであって、恐ろしく緊密なつながりがあるものなのだ。実は自分もこれについては大いに反省させられる」(『朱子大全』巻84、跋韓魏公与欧陽文忠公帖)
この跋文は甚だ面白いと宮崎はいう。朱子は王安石を借りて来て、自分の書が矢張り性急で駄目だといって謙遜しながら、韓琦の書の端厳なのを賞めているのである。これによって朱子は文字は人格をあらわすものだから、落ち付いてゆっくり書くべきだと思いながら、実は大ぶん忙しい字を書いていたことが判明する。
確かに朱子の文稿を見ると、実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字があると宮崎はいう。「論語集註残稿」(図65, 66)はそのよい例であるとする。ただし稿本の字の忙しいのは、一方からいえば、筆の動きよりも頭の働きの方が速いことを示すもので、決して学者の恥にはならないと付言している。
朱子は学問上の立場から、しばしば王安石の悪口をいうが、実際は両人の性格には多くの共通点があったようだ。政治上の意見ではほとんど違った所がない。もし朱子が王安石のように廟堂に立つ機会を与えられたなら、きっと王安石と同じようなことをやったに相違ないと宮崎はみている。そして王安石の書に対する批評はほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合があるのは決して偶然ではないとみる。
しかし以上は小字の稿本について言ったもので、大字の清書したものになると、話は異なってくると断っている。朱子の説を綜合すると、次のようになる。
「書は唐代が一番盛んであった。しかし、唐代になると各人がそれぞれ自己の個性を示そうとするようになって、漢魏の楷法が廃れてしまった。それでもまだ古来の典則というものが残っていて、宋代に続き、蔡襄まではその典則を守っていた。その後、米元章(芾)、黄魯直(庭堅)らが出て、欹傾側媚、狂怪怒張の勢を極めるようになった。なるほど確かに良い所もあるが、要するに世態の衰えたことを示すもので、人物もまた昔に及ばない」
これによると朱子は、黄・米の奔放痛快な、斜めにゆがんだ書の長所を十分に認めながらも、結局それは変態の書だと貶している。
それなら、朱子自身はどんな字を書いたかといえば、「宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑」(図63, 64)の刻文が一番確かな書だとしている。これは朱子の父の友人であり、また自己の恩人である劉子羽の石碑で、淳熙6年(1179)に、その子劉珙が建てたもので、碑文は朱子が撰しかつ書し、篆額は張栻の筆である。
朱子のこの書に対して、宮崎は少しく艶態を含んでいるが、それにも増して骨があり、シンが通っていると評している。やはり、この書に朱子の性格が現われているとみる。実際に朱子は「筆力到れば、字みな好し」と記している。
もう一つ、朱子の行体の大字について宮崎は言及している。清末、光緒19年(1893)に、呉大澂が朱子の墨蹟を得て、湖南の嶽麓書院に碑を建てて刻したものがある。「与張栻詩」がそれである。これは朱子がその友人張栻に贈った離別の詩二首で、この詩は「朱子文集」巻5に載せられている。
しかし当時の流行のように斜に傾いていず、ただ少しうますぎるようにも思えるが、呉大澂の鑑識眼に敬意を表して採用することにしたと宮崎は言い添えている(宮崎、14頁~18頁)。

宋代禅僧の墨蹟   神田喜一郎
日本では、特に禅僧の書を「墨蹟」と称して、これを珍重する風習がある。いつごろから起った風習であるかは明らかでないが、おそらく鎌倉時代に入宋した禅僧たちが、その中国留学中に鉗鎚(かんつい)をうけた諸師の書をもたらし帰り、これを珍重したのが、最初ではないかと神田は考えている。
そして禅から茶道が生まれるに及んで、その風習が茶道にうけつがれ、ますます盛んになってきた。その「墨蹟」という言葉を用いるのは特に深い意味があるわけではなく、この言葉はもともと書蹟とか筆蹟とかいう言葉と同義語で、一般に書を意味する。ただこの言葉は、古く『宋書』の范曄の伝に見えているから、すでに六朝時代に存在していたことは確かであるが、多く使用されるようになったのは宋代からのようだ。
『宋史』の真宗本紀に、「太宗の墨蹟を天下の名山に賜う」とあり、同じく職官志に「古画墨蹟」とある。南宋の末に出た禅僧無文道璨の詩文を輯録した「無文印」には「皎如晦の墨蹟に跋す」と題した文章もある。
日本の入宋僧は、当時のそうした普通の用法に従って、その日本にもたらし帰った禅僧の書を何某の墨蹟と称していたのであるが、日本ではそれがもっぱら禅僧の書を指して、墨蹟と呼ぶようになったと神田は考えている。
日本では「仏日庵公物目録」の中に出るのが古い用例であるという。この目録は北条時宗の開いた鎌倉円覚寺の塔頭仏日庵に蔵した書画を著録したもので、元応2年(1320)の編纂である。その頃からすでに日本における「墨蹟」という言葉の特殊な用法が発生していた。
ところで、神田は次のような問題を提起している。そのいわゆる墨蹟なるものは、その書者が禅僧であるという以外に、書として本質的に他人の書と区別せられねばならぬ何ものかをもつものであろうかと。それが第一に究明を要する問題であるとする。
宋代の禅僧の墨蹟として、現在日本に存する最古のものは、名高い道潜の尺牘である。道潜は宋の哲宗から妙聡老師と崇められたほどの高僧で、蘇東坡をはじめ、当時の多くの学者や文人と親交を結び、詩人としても優に専門家の域に達していた。その詩をあつめた「参寥子集」12巻は『四庫全書』や『四部叢刊』に収められている。この道潜の書は、肉筆の尺牘の外、宮内庁書陵部に蔵する「宋拓本景徳寺転輪蔵記」(15巻図111-114)によっても、つぶさに窺うことができるが、道潜は書法においても、その詩と同じく優に専門家の域に達していたようである。
尺牘は筆力遒勁、王羲之の風格をそなえているし、「景徳寺転輪蔵記」はまたそれとは別に、顔真卿から来たと思われる一種の骨力があって、蘇東坡の中年の書に似ている。これは書かれた年代が違っているためであろうが、いずれにしても道潜の書法のすぐれていたことは、この二つの遺品によって証明できる。
ところが、宋代の禅僧の墨蹟として、これまで日本で特に珍重されてきたのは、そういった本格的な書ではなく、もっと中国の古い書道の伝統とは離れたところの、いわば思いきった破格の書であると神田はいう。日本で特に珍重されている禅僧の墨蹟は、名高い仏果圜悟(えんご)禅師(図97, 98)の系統に属する龍象のものに限られている。圜悟は名を克勤(こくごん)といい、北宋の仁宗の嘉祐8年(1063)に生まれ、南宋の高宗の紹興5年(1135)に73歳で示寂した高僧である。
その頃、中国の禅宗は、曹洞、法眼、雲門、潙仰(いぎょう)、臨済と5つの系統に分れ、その臨済がまた楊岐、黄龍と2つの派に分かれていた。これを禅宗では五家七宗と称している。圜悟は臨済宗の楊岐派の系統に属した。日本の臨済宗は、京都の建仁寺を開創した栄西禅師が黄龍派を伝えているのを除くと、すべて楊岐派に属する。
したがって禅僧の墨蹟といっても、日本で珍重しているのは、圜悟の系統、すなわち楊岐派の系統に属する禅僧のものに大体限られている。
さて、圜悟の高足の弟子に、大慧宗杲(図99, 100)と、虚丘紹隆がいる。圜悟が名高い「碧巌録」の著者であることは周知のことであるが、大慧が圜悟の弟子でありながら、その師の一代の名著といわれる「碧巌録」を焼きすてて、その滅失をはかったことも、有名な話である。
ともかく師も弟子も、禅林の巨匠であった。しかしこの大慧の法系には今日墨蹟を遺しているものは少ない。墨蹟を多く遺しているのは、虚丘紹隆の孫弟子にあたる密菴咸傑(みったんかんけつ)(図101, 102)の門下である。この門下には松源、破菴(はあん)、曹源、すなわち密菴下の三傑と称される大徳が出たが、この法系から多くの墨蹟の名僧を生んだ。
ところで、それらの禅僧の墨蹟を見てみると、多くは中国の古い書道の伝統から離れた破格の書である。中国のように、あらゆる文化について古くから根強い伝統のある国では、その伝統に反するものはこれを異端として拒否する傾向が強い。したがって禅僧の墨蹟などというものは、少しも珍重されないという。
そして中国では、何時のほどにか佚亡してしまい、この点は日本と全然違う。ここに神田は日中の国民性の相違を認めている。
日本には中国のような根強い文化の伝統がないので、どんなものでも容易に受けいれる。現に日本には古来の書の伝統を全く無視したいわゆる前衛派の書が流行しているが、中国では前衛派の書というものも起こっていないし、仮に起こってもそう簡単には流行しないであろうと神田は考えている。
禅僧の墨蹟というものは、中国の古い書道の伝統からいうと、いわば今日の前衛派の書のようなものであるとみなしている。それが過去の中国において珍重されなかったのは、中国人の国民性から見て当然のことであるという。
このようにいわゆる墨蹟は、中国の古い書道の伝統から全く離れた破格の書であると神田は考えている。中国の古い書道の伝統を承けた書と区別されるのは、大いに意味のあることである。ただ中国では、これを書道の範疇には入らないものとして、全くその存在を認めないのに対して、日本では書道の一派をなすものとして、その価値を認めるのが異なっている。
ここで神田は第二に究明を要する問題を提起している。すなわち、あらゆる文化について、特に伝統を重んずるところの中国において、どうして禅僧の墨蹟のような破格の書が生まれたのであろうかという問題である。
まず、神田は禅の教えの内容について解説し、そこからこの問いに対する答えを見いだそうとしている。そもそも禅宗では、「直指人心。見性成仏」という。仏陀の境界も、畢竟われわれの5尺の身体の中に伏在している心の外にはないのであって、この心こそは絶対大であり、無限大であるが、これを徹見し体得すること、すなわち覚りが大切である、というのが、禅の教えの根本である。したがって、他の宗派のように所依の経典というものを立てず、いわゆる不立文字、教外別伝を標榜し、冷暖自知を説き、ここに禅宗の特色があるという。
そうした禅宗では、一切の権威とか伝統とかは、もちろん認めず、仏を罵り祖を呵すというようなことさえ起こってくる。こうした一切を否定する精神は、書法においても、これまで絶対的な権威と仰がれてきた王羲之の典型を否定し、古人の成法を拒否するのである。
蘇東坡の言葉に、「わが書は、はなはだしく佳というほどではないが、しかしみずから新意を出して、古人のやった跡を践んでいないのが、自分には何よりも愉快なことである」という意味のことを述べたものがある。これは全く禅の精神から来ていると神田はみている。
もともと蘇東坡は当時の名僧であった東林常総や仏印了元らに参禅したことがある。蘇東坡が禅学に造詣が深かったことは、「渓声は便(すなわ)ち是れ広長舌。山色豈に清浄の身ならざらんや」という名高い一偈によっても、よく窺われる。そうした教養がなくては、このような言葉はとうてい出てこない。
また蘇東坡の親友であった黄山谷は、蘇東坡にもまさって一層深く禅の修行を積んだ文人であったが、これまた「自分の書には、がんらい法がない」といっていた。黄山谷は古人の成法などに全く眼中になかった。
もっとも蘇東坡にしても黄山谷にしても、中国の古い文化の伝統を担った第一流の知識人であった。孔子が「述べて作らず」といった言葉は、当然その信条であったはずである。それが一旦禅学の修行を積むと、こういう態度に変わってくるという。
いわんや、最初から禅の修行を積んだ禅僧においては、書をかくのに、それこそ王羲之も顔真卿も何もあったものではなく、ただ自己の個性を天真爛漫に発揮するだけであると、神田は理解している。
したがって禅僧の墨蹟は各人の個性とか機根とかによって、いわば千差万別であり、そしてそこには共通する何ものもない。共通するのは、古人の成法に拘らないという、ただその一点にのみ存する。ここに禅僧の墨蹟の創造的価値があり、また特殊の面白味がある。そうした特殊な面白味を除いては、古来の伝統的な書道の上からは、禅僧の墨蹟に価値を認めることはおそらく困難であろうと神田は考えている。
そして神田は第3の問題を提起している。それにしても宋代、特に南宋において、多くの禅僧がなぜ喜んで書をかくようになったのであろうかという問題である。前述したように、禅は不立文字を標榜する。本来の禅の立場からいえば、詩文を作ったり、書画を試みたりすることはこれは邪道である。
しかしその禅を修行する禅僧の間に、かえって詩文を作ったり、書画を試みたりするものが多く出てきた。これは禅と芸術とは、いずれも言句をもって説くことのできない妙境があり、その極致に至っては、全く冥合するものがあるところから、宋代になると、禅僧は詩文や書画によって、禅の妙境を示そうとし、文人はまた禅によって芸術の妙境に徹しようとし、ここに禅と芸術との接近が行われた結果にほかならないと神田は考えている。
こうした接近は、すでに唐代あたりから多少現われていて、最初はまず文学的作品から始まったという。「寒山詩」などは、その著しいものの一つで、「証道歌」とか「宝鏡三昧」とかも、その例に属する。宋代になって、雪竇(せっちょう)禅師の頌古・拈古など一連の禅文学の作品が現われた。こういう禅と芸術との接近は、おいおい書画にも及んでいき、例えば絵画においては、名高い牧谿(もっけい)を生んだ。牧谿は名を法常といった禅僧で、南宋の末に蜀に生まれ、西湖の六通寺に長らく住んでいた。また牧谿に先立って出た梁楷なども、南宋の画院の待詔となった俗人ではあったが、禅の精神によって絵画を制作した人であった。宋代には梁楷から牧谿につながる一派の絵画があったが、そうした絵画に対応するもののように、書の方面に現われたのが、すなわち禅僧の墨蹟であると神田は捉えている。したがってその支柱となっているのは、どこまでも禅の精神であるという。
今日梁楷や牧谿の絵画は実にすばらしい声価をよび、ほとんど東洋画の極致とさえも絶讃されている。しかしこれは日本や西洋においてのことであって、中国では古来あまり尊重せず、むしろ悪評さえあるくらいである。
中国の古い文化の伝統は、禅の精神によって支えられている芸術を喜ばないのである。禅僧の墨蹟も全くこれと同じことで、その中国において珍重されない理由も、これを考えるならば、おのずから理解できると神田はみている。
そして日本でも面白いことに、古来禅僧の墨蹟を特に珍重してきたのは、中国の古い文化の伝統を身につけることの薄かった茶人であって、中国渡来のものならば何でも珍重した漢学者や文人の間には、かえって無視されてきたという珍現象を示していると神田は付言している。
近来中国の古い文化に関する日本人の教養が稀薄になるにつれて、禅僧の墨蹟の声価はいよいよ昻る傾向にある。それだけ日本人が何ものにもとらわれずに、自由に活眼を開いて新しい価値を発見し得るようになったともいう(神田、19頁~24頁)。

賈似道について   外山軍治
この外山軍治「賈似道について」は、その著『中国の書と人』(創元社、1971年、139頁~148頁)に再録されている。
南宋の賈似道は北宋の蔡京とともに姦臣とされ、『宋史』には姦臣伝に入れられている。姦臣伝には十数名を列載しているが、この2人は多くの類似点をもっていると外山は考えている。
①第1に、この2人はともに皇帝の寵任をうけ、長期にわたって宰相の地位にあり、権勢をふるった人物である。
②第2に、蔡京は北宋末に、女真族の金軍に国都を攻められ国難を招いた責任者として処罰されたのに対し、賈似道は南宋末に、蒙古族の元軍の強襲を防ぎえなかったために、非難を浴びて罪せられた。つまりいずれも外禍のために身を滅ぼした人物である。その外禍は不可抗力に近いものであったが、とにかく長期間皇帝の寵任をうけて権力をふるっていたこの2人にその責任がおおいかぶさったわけである。
③第3に、2人とも宰相として国家を安泰の地位におくことには失敗した人物でありながら、文化人としては卓越した才能をもっていて、その時代の文化に大きな貢献をした。
蔡京は4度宰相となり、16年近く政権を担当し、徽宗皇帝のよい相手となって北宋末の文化に大きな寄与をした。徽宗時代の文化の特徴は、書画や古美術品に対する批判精神の昻揚ということにあったが、この点で蔡京の果した役割は大きい。
北宋は徽宗とその子の欽宗が金軍の捕虜になったことによって覆滅したが、徽宗時代の文化は欽宗の弟の高宗が江南において復興した南宋の文化の方向を決定した。南宋末の賈似道が文化史上にしめた功績というのも、同じ道においてであった。
賈似道は、あざなを師憲といい、台州(浙江)を本貫とした。のちに淮東制置使となった賈渉(かしょう)の子として、嘉定6年(1213)に生まれた。
父の蔭と、理宗皇帝の後宮に入って貴妃に立てられた姉の縁とによって早くから出世したが、彼を権力の座におしあげたのは、十数年にわたる国境線防備ののち、開慶元年(1259)、忽必烈を将として鄂州(湖北)を攻めた蒙古軍を撃退した殊功である(これについては、蒙古軍を撃退したというのは嘘で、割地と歳幣とを約して和を請うたとする説もある)
とにかく、鄂州の戦勝を認められた賈似道は、理宗の絶大な信頼を博し、都の臨安へ帰って、左丞相として首班に列した。その後、理宗、度宗、恭帝の三朝にわたり、連続16年間、権力の座をはなれることがなかった。
そして度宗の咸淳元年(1265)太師を加え、魏国公に封じられ、咸淳3年には平章軍国重事に任じられ、私第を西湖の北の葛嶺に賜わっている。その集芳園中に半閑亭をたて、一切の政務をここでとり、役人は文書をかかえて彼の私第へきて決裁を仰ぎ、大小の朝政は館客廖瑩中(りょうえいちゅう)が決し、朝廷の宰執はただ文書の末尾に名を署し、印をおすだけだったといわれる。
この間、賈似道は軍閥、官僚、宦官、外戚の勢力を抑え、政策を断行し、宋の財政を立て直そうと努力し、凡庸の材でないことを示したが、一方文化人としてさらにすぐれた才能を発揮した。つまり賈似道は『淳化閣帖』の原拓を手に入れ、館客廖瑩中と婺州(浙江)の碑工王用和とに命じて、摹刻させたこと、また王用和をつかって、「定武蘭亭」を飜刻させたり、さらに廖瑩中の手によって、燈影を利用してこれを縮小し、霊璧(れいへき)石に刻させ、いわゆる「玉板蘭亭」(あるいは玉枕蘭亭)をつくったことは有名である。
その後、この蘭亭の原石をアラビア人出身の提挙市舶使蒲寿庚が入手して、海路福建へ持ち帰ろうとし、途中風にあってこれを海中におとしたという話もある。その在否は定かでないが、賈似道のすぐれた好みを表した所業として外山は面白いという。
彼の館客廖瑩中はよほどのめききであり、賈似道はこの人物を相手に、古銅器、法書、名画、金玉、珍宝の類を集めた。これを私第の集芳園内の多宝閣に蔵した。
元の湯垕(とうこう)の「画論」には賈似道所蔵の書が真偽相半ばする事実をあげ、彼の眼力を疑うようなことをいっているところがあるが、財力の上に権力を兼ねた賈似道の所へはおびただしい量の書画や古美術品が集まった結果、中には偽物も多かったであろうし、また偽物と知って受け取ったこともあるであろうと外山は想像している。「画論」の記事だけで賈似道の鑑識眼を疑うことは当を失するという。
さて、書画や古器物を蒐集したといって、これを一般に公開しようなどと考えたわけではなく、自己の蒐集欲を満足させただけのことであったであろう。とにかく天下の名品を手許に集め、これを大切に保存するということは、意義のあることであるが、賈似道の場合、さらにとくに注目すべきことがあると外山はいう。それは異民族の手におちた名品を、賈似道の力によって中国にとりかえし、その散佚を防ぎえたことである。外山はその功績として挙げている。つまり北宋覆滅の靖康の変に、宋都に攻め入った金軍はおびただしい数の書画や美術工芸品を内府をはじめ重臣の邸宅から押収して帰った。また南宋に入ってからも、宗室から金室への贈り物として、また榷場(かくじょう、官設の貿易場)を通じて宋から金へ流れたものも多かった。とにかく、金の章宗時代の内府には逸品が多く蔵せられていた。賈似道の蒐集は、宋から金へ流れていたこれらの名品に及び、その散佚を防いだ点を外山は高く評価している。
賈似道の鑑蔵印としてよく見うけるのは、いわゆる「長」字印、「秋壑(しゅうがく)図書」「秋壑」、それに「悦生」葫蘆印である。秋壑は賈似道の別号であり、悦生は彼の室名である。書画の著録や法帖をはじめ写真によって見うる真蹟などについて、賈似道の鑑蔵印が多く見られる。その中に、金の章宗の鑑蔵印である「秘府」葫蘆印、「明昌」「明昌宝玩」「御府宝絵」「羣玉中秘」「明昌御覧」などの印とともに押されているものが枚挙にいとまがないほど多い。
このことは賈似道が金の章宗の内府に蔵されていた数多くの逸品をとりかえしたことを意味すると外山は解説している。
また、比較的少ない例であるが、賈似道、金章宗の鑑蔵印のほかに、南宋の「紹興」の印が押されているものがある。これらの印が真物であるとすれば、これらの作品は靖康の変当時に持ち帰られたものではなく、南宋初めには宋の内府に蔵されていたものが、その後宋室から金室へ贈られたものか、または民間の手に落ちてから金に流れたものか、とにかく、南宋になってから金へ渡ったと解釈できるとする。そしてこれを賈似道がとりかえしたということになる。
その例として、「石渠宝笈」巻10、晋王羲之快雪時晴帖、「大観録」巻1、王右軍古千字文、「大観録」巻11、尉遅乙僧天王像、「江邨銷夏録」巻3、唐懐素草書自敍帖、英国博物館蔵の女史箴図巻がそれである。
金の内府の蒐蔵品が民間に落ちたのは、金の滅亡前、金の宣宗が蒙古軍の強襲を避けて、中都(今の北京)から開封へ遷都した1214年の頃が一番多かったようで、この時から賈似道の全盛時代までに約50年、金国滅亡から数えると約30年の余裕がある。幸いに華北に侵入した蒙古軍はまだ書画蒐集などに興味をもたず、賈似道はよい時機に生まれあわせたものといってよいと外山はいう。賈似道がおびただしい蒐収を遂げるには随分悪い手をつかったことであろうが、とにかく彼のようなその道の達人にしてはじめて成功した仕事であったであろう。
「庚子銷夏記」巻1にのせた「米元章大字天馬賦墨蹟」の解説の中に「上に蔡姓珍蔵印あり。すなわち蔡京なり。また賈似道小印および秋壑図書あり。明にあってはまた厳相の家に入り、籍没せられて内に入る。かくのごとき名蹟にしてしきりに権奸の手に辱めらる。まことに歎くべしとなす」
といっている。権奸なればこそこの名蹟を手に入れ、そして保護しえたのであるともいえる外山は解説している。姦臣といわれるにはそれだけのことはあるが、それだからといってその功労まで無視してかかるのは酷だともいう(外山、25頁~27頁)。

金人と書      外山軍治
この外山軍治の「金人と書」については、その著『中国の書と人』(創元社、1971年、149頁~178頁)に再録されている。
金は12世紀初頭に北満の一角からおこった女真族の国である。金は宋を攻めて、その上皇と皇帝とを捕虜にし、淮水以北の経略をほぼ完了した。国力発展のはやかった金は、文化の点でもその発達のめざましい国であった。それはもっぱら中国文化への同化という形をとってあらわれる。
金は遼を経略するにつれて、その国に移植されて栄えていた中国文化をうけつぎ、そして遼の治下から契丹人、奚(けい)人、渤海人その他の諸部族や、今日の北京や大同を中心にした、いわゆる燕雲地方の漢人をその支配下に入れていった(燕雲地方で遼の統治をうけてきた漢人をとくに燕人と呼ぶ)。
これらの遼の遺民たちの中には、読書人として相当に高い教養をもったものが多かった。建国後間もない金では、これら教養のある新しい帰順者を任用して、内政にも、宋との外交にも、その才能を発揮させた。女真人はこれらの新帰順者を通じて、読書人の教養を尊重すべきことを知り、彼らの仲介によって、中国文化受容の素地が築かれていった。
まず金初において活躍したのは渤海人である。彼らは10世紀の初頭に、遼のためにその国を滅ぼされ、遼陽をはじめ遼東地方に移住させられて遼の統治に服してきたが、その中には教養の高い者が多かった。金室では国初、遼陽の渤海人の豪族の女で姿徳のある者を宗室諸王の側室(そばめ)とした。これは渤海人に対する懐柔の目的から出たものであったが、また渤海人のもつ教養を重視したところもあったであろう。金室に入った遼陽渤海人の女は、その教養をもってその周囲を化して、金室は中国文化への同化を始めた。書を学び、書を鑑賞することも、読書人の教養の一環として彼らによって金室に伝えられたと考えられるが、女真人がこの風習をもつまでには時間がかかった。
金室を中心にした女真人が、中国文化に心酔して、自ら読書人として教養を身につけたいという気分をおこすようになったのは、北宋を滅ぼしてからであると外山はみている。
宋と金とは、遼を夾攻することで同盟を結び、ともに燕雲地方を攻撃したが、宋は金に対して背信行為をくりかえしたので、金軍は宋の都開封を攻め落とした(1126年)。
開封は中国文化の中心地である。ことに中国歴代中でも比類をみない文化人、徽宗皇帝の治世をへて、その文化は爛熟期に達していた。女真人将兵は、その文化に驚嘆し、徽宗が生涯をかけて蒐集したおびただしい書画や美術工芸品を押収した。その押収にあたって、女真の将軍に示唆を与えたのは、金軍に随行した燕人の読書人である。
その時、女真人が指定して探し求めたのは、蘇東坡、黄山谷の文章や書蹟と、司馬光の『資治通鑑』であって、王安石の書いたのはどうしたものか捨てて、とらなかったという(『三朝北盟会編』巻73)。
この嗜好がどこから来ているのか、その由来するところを記したものを外山は知らないというが、とにかく、この時の燕人の読書人の嗜好をそのまま反映したものであることは明らかであるという。
既に遼代から、漢人の間に蘇・黄や司馬光を尊敬する気持ちが強かったであろうと外山はみている。開封の宮殿から石鼓を運び出し、燕京(今の北京)まで持ち帰ったのも、おそらく燕人の指導によるものであろう。ただし、眼識をもたない金軍のことだから、金銀玉帛に重きをおいて徽宗の集めた文化財のうち、名品といわれるものを見のがしているのではないかともみる。
というのは、王明清の「揮麈録(きしゅろく)」に、「定武蘭亭」の石刻を金虜が知らなかったので、幸いにそのまま残されたことを伝えているからである。あるいは名品といわれるものは、金軍の入城に先立ってどこかへ持ち出されていたかもしれないとも想像される。しかしとにかく金軍がおびただしい押収品を運び帰ったことは確かである。運び帰った文化財の数々は金室を中心とした女真人に、中国文化を憧憬する気分をおこさせるのに十分であった。また捕虜にして帰った宋の徽宗、欽宗、后妃、皇族の教養は金室の人々の心をひきつけずにはいなかった。
金において、読書人の教養を尊重するという気運は、史上靖康の変と呼ばれる宋室のこの悲劇を契機として急速に盛んになった。それまでは、どちらかといえば、遼の遺民たちの教養を利用するという立場からぬけきらなかった女真人は、これから後は自らが読書人の教養を身につけようという意欲をもつに至ったと外山は考えている。
金室において最初に読書人の教養をもったのは、第3代の熙宗である。彼は初代皇帝太祖の嫡孫にあたり、第2代太宗の儲君にえらばれたが、その頃から燕人韓昉(かんぽう、1082-1149)らの読書人の教導をうけて、すっかり読書人としての教養を身につけた。
『三朝北盟会編』(巻166、所引金虜節要)には、このことについて具体的な記事をのせている。「能く明経博古ならずといえども、やや詩を賦するを解し、翰墨雅歌す。儒服して分茶、焚香し、奕棋(ご)、戦象(しょうぎ)し、いたずらに女真の本態を失うのみ」と。
女真人で書を書いたという記事はこれをもってはじめとするという。分茶は青木正兒が推定したように、宋人の間に流行していた茶礼の意味とされる。この熙宗が即位するにおよんで、金は女真人の国から漢人の国へと移行し始める。そして北満の一隅、今日のハルビンの東南阿城県下にその遺蹟を残している上京会寧府に都しながら、中国文化をとり入れ、中華の国へ近づこうと努力した。
そして燕人韓昉のほかに、宋から金に使節として来たとか、その他の理由で宋から金に入った読書人がその教導の役割を演じたことに外山は注目している。例えば、宇文虚中(?-1146)は、建炎2年(1128)、徽宗、欽宗らの返還を願うという使命をおびて、南宋の高宗から派遣され、強要されて金に仕えて翰林学士承旨になった。また金の翰林待制呉激も、宋から派遣されて金に来た人である。そして翰林直学士の高士談(?-1146)は、宋の忻(きん)州(山西)の戸曹であったが、どういう理由からか金に仕えた。これらの宋の読書人が、金の翰林院に入って、金室を中心とした女真人の文化指導にもあたったようである。
同じように、金に派遣されて、士官を肯んじなかった人の中で有名なのは、建炎3年(1129)に大金通問使として派遣された洪皓(こうこう、1088-1155)である。彼は北満に15年間抑留され、冷山(吉林舒蘭)なる女真の将軍完顔希尹の家郷に移され、ここで希尹の子弟のために講説して辛うじて生活したという。
この洪皓の著『松漠紀聞』に次のような記載がある。
「北満の賓州に住む嗢熱という部族の長、千戸の李靖は教養のある人物であったが、彼の妹の金哥は金主(熙宗)の伯父固倫の側室となった。彼の正妻には子がない。金哥の生んだ子が今年およそ20余りになり、頗る儒士を延接し、また儒書を読む。光禄大夫をもって吏部尚書となった。その父が死ぬと、宇文虚中、高士談、趙伯麟に墓誌を書くことを託した。高、宇の両人は趙が貧乏なので、趙に命じて書かせ、二人が篆を書いたが、その文額濡うところ甚だ厚かった。予(洪皓)は燕においてこの人物と面識があるが、彼はまた奕(ご)、象(しょうぎ)を学び、戯れに茶を点(た)てた」という。
金主(熙宗)の伯父とは女真の国務大臣である太祖の庶長子宗幹のことであるといい、李靖は燕京へ進出した金軍と宋との交渉に活躍した人である。
この記事で、次の点に外山は興味を覚えている。
①金の宗室が、読書人の習慣に従って墓誌をつくることを宋からきた人々に依頼したこと。
②その人の教養が儲君時代の熙宗のそれと符節をあわしたようであること。
③潤筆料を問題とした文人の生活がうかがわれること。
先に宇文虚中、呉激、高士談らの名が出たが、これらは金に仕えたが故に、金人の文化人として真っ先にあげられる人々である。元好問の「中州集」開巻第一に、宇文大学虚中、ついで呉学士激が出ているし、3人おいて高内翰士談が顔を出す。金の書人としても、やはり熙宗時代(1135-1149)に活躍したこれらの人々がその草分けになるので、宇文虚中は金の「太祖睿徳神功碑」を書いたといわれる。『金史』韓昉伝によると、その文章は韓昉の手になったらしい。また呉激は米芾の婿で、字画俊逸、婦翁の筆意をえていたといわれるが、ともにその筆蹟をみることができない。
さて熙宗即位の第7年にあたる皇統2年(1142)、金は宋との交戦をうちきって、淮水を国境とし、宋から歳貢をうけ、宋帝を臣事させることを定めて和を結んだ。宋との平和な国交によって、金は益々中国文化への同化を早めた。書画や工芸美術品が宋室から金室への贈り物として、また国境に設けられた榷場(かくじょう、貿易場)を通じて宋から金へ流れた。
熙宗の次には、熙宗を殺した第4代海陵王が立ち、つづいて第5代世宗が立ったが、宋の文化に追随するという傾向は変わらなかった。熙宗が宋と和睦してから熙宗、海陵王、世宗の治世を含めて50年近くになるが、金の文化は宋の刺戟によって、向上発達の一路を辿り、金人の書家がこの頃から名を出しはじめる。
まず、金に仕えて礼部尚書にまでなった王競(?-1164)がいる。彰徳(河南)の人で、宋の屯留(山西)主導であった。草、隷書をよくし、大字にたくみで、両都の宮殿牓題はみなその手になったという。
次に、任詢(にんじゅん)がいる。正隆2年(1157)進士に合格し、地方官を歴任したが出世せず、郷里で蔵するところの法書名画数百軸を展玩して暮らしたという。真、草にたくみで、この人も大字がよかった、という。正書には、
・「大天宮寺碑」(大定12年12月、河北豊潤)
・「完顔婁室神道碑」(大定17年、吉林雙陽)
・「完顔希尹神道碑」(大定21-6年、吉林舒蘭)
がある。行書には
・「古柏行石刻」(正隆5年[1160] 庚辰9月3日に書かれたものを刻したもの、京都、
藤井有鄰館)
これらの任詢の書に対して「正書、行書ともに顔真卿をまなんだものであろうか、峻峭に過ぎて味が少ない」と外山は評している。
次に、蘇軾の「李太白仙詩巻」に跋を書いている蔡松年、施宜生、高衎(こうかん)、蔡珪(さいけい)がいる。
これらは書人としては一流の人ではなかったようだ。
①蔡松年(1107-1159)はむしろ詞家として有名である。父とともに宋から金に入り、累進して海陵王の正隆3年(1158)右丞相、衛国公となった。相当な勢力家で、蘇軾のこの詩巻を手に入れたものとみえる(図95「蘇軾李太白仙詩巻跋」大阪市立美術館)
②施宜生(?-1160)は、浦城(福建)の人で、宋末潁州(えいしゅう、安徽)の教官となり、金が一時河南を中心に建てた傀儡国家の斉に仕え、のち金に仕えた。正隆5年(1160)の賀正旦使として宋におもむき、宋の館伴使、吏部尚書張燾(ちょうとう)に金が南伐の準備をしていることを洩らしたため帰国後殺された。
③高衎(?-1167)は遼陽の渤海人である。進士に合格し、吏部関係の役人をしてきた人である(挿44、「蘇軾李太白仙詩巻跋」大阪市立美術館)
④蔡珪(?-1174)は松年の子で、天徳3年(1151)の進士で、金石学に深い造詣をもっていた。
これらのいずれもが大なり小なり蘇軾の影響をうけていることを感じるし、金人がいかに蘇軾の書を尊んだかを示すものである。
さて、金の書家として最も優秀な人物が輩出したのは、金代文化の極盛期と考えられる章宗時代である。書人としてまず、皇帝の章宗を挙げなければならない。海陵王、世宗および世宗の皇太子で早くなくなった允恭(顕宗)も相当高い教養をもっていたから、かなり書いたと思われるが筆蹟が伝わらない。世宗の孫、允恭の子にあたる章宗になると幸いにも真蹟と思われるものが残っている。章宗は世宗の皇太子允恭(顕宗)の嫡子である。少年の時、女真固有のものを保存しようとする祖父皇帝の希望にも従って、女真語、女真字の勉強と、漢字、経書の勉強とを併行してしたのであるが、そのうち詩も文もたくみになり、また書画を書くことにも、その鑑賞にもすぐれた才能を発揮するようになった。
書は全く宋の徽宗に傾倒しきったという。章宗の書だといわれる「宋徽宗摸張萱搗練(ちょうけんとうれん)図」(図89-91)の題字や、「女史箴図巻後幅」に見られる書(図89-91)は、一見徽宗の痩金書と見まがうばかりのものである。五国城の配所で客死した徽宗も、彼の捕われていた金の皇帝にこれほど私淑されたのであるから、またもって瞑すべし、というべきであると外山は記している。
章宗もまた、書画の逸品を数多く蒐集して鑑賞し、その翰林には党懐英(とうかいえい、1134-1211)、王庭筠(おうていいん、1151―1202)、趙秉文(ちょうへいぶん、1159-1232)といった文化人を入れ、明昌(1190-1196)の盛時を現出した。
著録の中に往々にして「秘府」葫蘆印、「明昌」「明昌宝玩」「御府宝絵」「羣玉中秘」「明昌御覧」などの、いわゆる明昌七璽の中に入れられている諸印を発見する。
その全部を信じきれないにしても、おびただしい数の逸品が章宗の内府に蔵せられていた。その中には靖康当時の押収品もあったであろうが、章宗以前の皇帝の鑑蔵印は見あたらない。章宗に至ってはじめて鑑蔵印をおすという習慣をもったもので、書画鑑賞の上でも明昌の時代が一時期を画したわけである。また靖康の押収品のほかに、南宋の紹興時代に高宗の内府に蔵せられていたものが、かなり多く章宗の内府に入っていると外山は推定している。宋帝から金帝に贈ったものもあろうし、一旦民間の手におち、さらに金に流れたものもあったであろう。
章宗の時代に翰林に入った党懐英は、篆書にたくみで、李陽冰以来の第一人者といわれ、また正書、八分にも長じていて、同時代の趙渢(ちょうふう)とならんで党趙と号せられた。趙渢は正書をよくし、顔、蘇を兼ねたといわれる。趙秉文は草書によく、蘇軾にならったという。
この時代にもっとも傑出したのは王庭筠である。彼は党懐英らと違って漢人ではなく、熊岳(遼寧)出身の渤海人である。書画ともにすぐれていて、「米元章の後黄華先生一人のみ」と元の鮮于枢も評している。書はおそらく金代随一といってよく、この人の書だけは南宋人に伍していささかの遜色もない。彼は米芾をならったと評されるが、今日見られる「幽竹枯槎図巻題辞」(図92-94)をみれば、その評が誤っていないことがわかる。気韻の高い書風は十分珍重されてよい。王庭筠の一家には文人が多く輩出している。彼の父の王遵古(おうじゅんこ)も正隆5年(1160)の進士で、翰林直学士にまでなっているが、「博州重修廟学記」(大定21年)の碑陰は、王遵古が記して王庭筠が行書し、父子の合作になるものとして喧伝される。
王庭筠の子曼慶、猶子明伯もまた書をよくした。また高衎の孫で、王庭筠の甥にあたる高憲は、「詩筆字画ともに舅氏の風あり」(『中州集』巻5、高博州憲の条)といわれる。さらに、明昌3年(1192)応奉翰林文字となった王庭筠が秘書郎張汝方とともに章宗の命をうけて法書名画を品第し、ついに品に入りしものを分けて五百五十巻としたという。
しかし金の隆昌は長く続かず、章宗崩じて第7代衛紹王が立つと間もなく、蒙古軍の強襲をうけて、ついで立った第8代宣宗はついに燕京をあとに汴京へ遷都した。
国家艱難の時にも書人はまた書人としてのたのしみがあるようである。世宗の孫の密国公璹(とう)は詩もたくみであったが、書は任詢にまなんで出藍の誉れがあった。宣宗が汴京へ遷都したとき、諸王は奔走したが、璹は家蔵の法書名画を一帙も残さず汴京に運んだ。生活が苦しく、客が来ても貧にして酒肴をととのえることができないので、蔬飯をともに食い、香を焚き茶を煮、蔵するところの書画をひろげて、ともにこれを品第したという。璹は書画ともによく、蘇、黄をまなんだ。
最後に、金人の書について、外山は次のようにまとめている。金の章宗が宋徽宗に傾倒し、その痩金書をならって、これと間違えられるほどになった。この事実は金の書のあり方を象徴する。皇帝はひたむきに宋帝をならったが、金の士人は詩文も書画も、ともに北宋の蘇、黄、米をならったようである。
特に蘇東坡崇拝熱は非常なもので、先述した密国公璹は蘇東坡を酷愛して、趙徳麟の生まれかわりかといわれた。また高憲は、今の世に蘇東坡がおられたら、相去ること万里といえども、また往ってこれを拝するであろうといった。
宋が南渡してから、程学は南にさかんに、蘇学は北にさかんなりといわれるが、全くその通りであると外山はみている。靖康の当時、女真人が開封において、司馬光の『資治通鑑』とともに蘇・黄の文、墨蹟を指名して取ったのである。その時は燕人の読書人の指導によったことにも注意したが、その時の嗜好がそのまま金一代を通じてかわらなかった。
金章宗は女真人としてはあまりに洗練された文化人になり過ぎたので、その母は徽宗某公主の女であるというような俗説まで飛び出したが、金人の書もどうやら北宋の落とし子というところに落ち着くらしいと外山は結んでいる(外山、28頁~32頁)。
別刷附録 范成大 詩碑 贈仏照禅師詩