歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西洋美術史と食事~宮下規久朗氏の著作より≫

2024-05-31 19:00:44 | 西洋美術史
≪西洋美術史と食事~宮下規久朗氏の著作より≫
(2024年5月31日投稿)

【はじめに】


 今回のブログでは、次の書物を参照しながら、西洋美術史における食事観・食物観について考えてみたい。
〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年
この著作の中で、著者は「キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった」(49頁)という。
 この意味するところは何かを中心に紹介してみたい。
(著者の章立てをそのまま紹介するというよりは、執筆項目をみてもわかるように、絵画作品を中心に述べてみたい)

【宮下規久朗(みやしたきくろう)氏のプロフィール】
・1963年愛知県生まれ。
・神戸大学文学部助教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了。
・兵庫県立近代美術館、東京都現代美術館学芸員を経て、現職。
・専攻はイタリアを中心とする西洋美術史、日本近代美術史。

<主な著作>
・『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)~第27回サントリー学芸賞受賞
・『バロック美術の成立』(山川出版社)
・『イタリア・バロック―美術と建築(世界歴史の旅)』(山川出版社)



【宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)はこちらから】
宮下規久朗『食べる西洋美術史』(光文社新書)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・プロローグとエピローグ
・≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年
・キリスト教思想の特異性

<聖人の食事~パンと水だけ>
〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃

<乱痴気騒ぎの情景>
〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃
<食の愉悦>
〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃

・農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ
〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年

・台所と市場の罠~第3章より
「二重空間」の絵画
〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年

・静物画と食物~第4章より
西洋美術特有の概念









〇宮下規久朗『食べる西洋美術史―「最後の晩餐」から読む』光文社新書、2007年

【目次】
プロローグ
第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術
 1-1 レオナルド・ダ・ヴィンチの≪最後の晩餐≫
1-2 レオナルド以降の≪最後の晩餐≫
1-3 ≪エマオの晩餐≫
1-4 日本の「最後の晩餐」

第2章 よい食事と悪い食事
 2-1 キリスト教と西洋美術
2-2 聖人の食事
2-3 慈善の食事
2-4 宴会と西洋美術
2-5 乱痴気騒ぎ
2-6 食の愉悦
2-7 永遠の名作
2-8 農民の食事

第3章 台所と市場の罠
 3-1 厨房と二重空間
3-2 市場の情景
3-3 謝肉祭と四旬節の戦い
3-4 カンピの市場画連作

第4章 静物画――食材への誘惑
 4-1 静物画――意味を担う芸術
4-2 オランダの食卓画
4-3 スペインのボデゴン
4-4 印象派と静物画
4-5 二十世紀の静物画と食物

第5章 近代美術と飲食
 5-1 屋外へ出る食事
5-2 家庭とレストラン
5-3 貧しき食事
5-4 女性と食事

エピローグ
あとがき
主要参考文献







プロローグとエピローグ


<プロローグより>
・「最後の晩餐」の絵は、ほかのあらゆる優れた宗教美術と同じく、信者にとってのみ意味をもつのではない。
 優れた美術作品は、普遍的な人間の真実を表象しており、異なる文化圏にある者の心にも訴える力をもっている。
・ただし、こうした真実や力はいつでも誰の心にも響くものではない。
 出会うべきときに出会ったときに特に大きく作用する。
 画中のキリストのうちに別れた慈父の面影を見るのは、見る者にそれだけ切実にそれを求める心情があったからだが、優れた美術作品は個人的な心情を許容する大きさと深さを備えている。
 そして、それらはときに悲しみに沈んだ者を救いあげ、浄化する力をも発揮する。
 そんなとき、美術はもはや趣味的な鑑賞の対象などではなく、宗教そのものに化しているといってよい。

・さらに、美術作品だけでなく、食事がコミュニケーションの重要な手段でもあるということを示している。
 食事というものが、家族の一体感を確認する行為であるからこそ、父の記憶が夕食と結びついてしまったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、5頁)

<エピローグより>
・西洋美術における様々な食事の表現を見てきた。
 多くの場合、そこにはキリスト像の色彩が濃厚であることがわかる。

・キリスト教はそもそも特殊な宗教であった。
 母体であったユダヤ教では、神は決して目に見えない存在であり、「いまだかつて神を見たものはいない」とヨハネ伝の冒頭にも書かれているのに、イエス・キリストという普通の人間の肉体をもった神が出現した点が異常である。 
 キリストは神でありながら生身の肉体をもち、それゆえに、人間の罪の身代わりとなって血を流して犠牲となることができた。

・このことは、ギリシア以来、西洋に根強かった霊肉二元論ではなく、霊も肉も尊いという特異な考えにつながった。
 キリストの肉体が受難の末に復活したという教義を象徴するのが、聖体拝領であった。
 パンというもっとも基本的な食べ物に象徴的な意味を付与し、食べるという、本能に基づく動物的な行為を神聖な儀式に高めた。
 
・多くの宗教では、神の姿は目に見えず、表現できないことになっていた。
 しかし、キリストは人間の姿をまとって、つまり受肉して人間世界に出現したため、これを記録し、表現することが理屈上は可能となった。
 しかも、ギリシアやローマなど造形文化の伝統の根強い地中海世界に普及したため、早くからキリストや聖書の逸話を視覚的に表現することがさかんになった。

・一方、キリスト教の母体であるユダヤ教では、偶像を作ることも拝むことも認めず、旧約聖書でも繰り返し、それを禁じている。
 これに対し、キリスト教は、神の像は偶像ではなく、聖像(イコン)であって、その像を拝むのではなく、像の背後にある神を拝むのであって、画像は神を見る手段、窓であるという理論を徐々に作り上げていった。

・8世紀のイコノクラスムや16世紀の宗教改革において、この考えは反駁されながらも、美術は偶像ではなく、神を見る窓であるというイコンの考え方によって、西洋は2000年にわたって豊かな宗教美術を育んできた。
・美術作品という、一見異教的で偶像に通じる物質をイコンとして容認してきたこと、これは、パンという一般的な食べ物を聖体として肯定してきた思想と通じあう。
 どちらも、低くて現実的で具体的な物体を象徴化して、神聖化する思考のプロセスである。
 つまり、キリストが受肉したことにより、現世の肉体と食物を肯定し、造形表現を肯定する道が拓かれた。食物や造形芸術という、ややもすると肉の滅びや偶像につながる物質を、聖餐という儀礼と聖像という表象に昇華しえた、そこにキリスト教文明の特質があった。
 キリスト教文明圏以外では、食物にこれほど特別な意味がないため、美術表現と結びつかなかった。
 そもそも食物とは、粗野な自然を加工して人の口に合わせたものであり、自然の征服という側面をもっている。
 食べ物を描いた絵画は、自然が切り取られて人に提供されているような快楽を観者に与えた。
 また、絵画というものは、目の前にある事物や事象を写して留めるという欲求から生じたものであり、自然を切り取って入手することであった。
 食物と絵画にはともに、生や現世を肯定しつつ、自然を克服して人の手に入れられるようにしたものという共通点があり、それゆえに食物を描いた絵画が多いとも考えられる。

・また、食事は、こうした意味のほかに、人と人とのつながりを強調する意味ももっていた。
 食事には社会性があり、文化があるので、そこが動物と人間を分ける大きな分岐点となっている。
 西洋美術はそれを的確にとらえてきたといえるし、西洋美術における食事表現を通覧すると、いかに食事が人間の文化にとって重要であるかがわかる。
・食事こそはコミュニケーションの最大の手段であり、宗教と芸術につながる文化であった。
 人と人、社会と個人、文明と自然、神と人、罪と救い、生と死、それらすべてを結合させる営みが食事であった。
 また、真の芸術は、単なる感覚の喜びなどではない。
 人間の生の証であり、宗教にも通ずるものである。
 その意味において、食事と美術、さらに宗教は一直線につながっていく。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、247頁~250頁)

・ところで、1968年に命を絶ったマラソン選手、円谷幸吉(つぶらやこうきち)の有名な遺書がある。
 それは彼が死の間際に食べ物のお礼を几帳面に列挙していることによって、人の心を打つという。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆございました。(下略)」
※日本の伝統的な贈答品は鮭のような食べ物が多かったのだが、この遺書にはそれらの味よりも、それを食べさせてくれた身内の人々への純粋な感謝の念だけが淡々と記され、悲痛も絶望感もない澄み切った心境をうかがわせる。
 几帳面に列挙された食べ物と、「美味しゆございました」という言葉の繰り返しからは、食べ物への素朴な感謝の気持ちもにじみ出ている。

・川端康成は、「繰り返される≪おいしゅうございまいした≫といふ、ありきたりの言葉がじつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」とする。
 そして「千万言も尽くせぬ哀切」であると評した。
 人生の最期に思い出してしたためるべきは、ご馳走の味ではなく、人の情である。
 また食べ物は人とのつながりと切り離せないということを、これほど感じさせてくれる文章はない。

・本書では、美術と食とのかかわりを追っている。
 美術も食も、死というものに照らしてみたときにこそ、その真の力も妖しく放ちはじめるという。
 「最後の晩餐」は、その意味で、美術においても食事においても、究極のテーマであるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、251頁~253頁)

・第1章 ≪最後の晩餐≫と西洋美術(16頁~)

≪最後の晩餐≫と西洋美術~第1章より


〇レオナルド・ダ・ヴィンチ≪最後の晩餐≫ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂、1495年-97年(口絵1)
・レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から97年にかけて、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の壁画に描いた≪最後の晩餐≫(口絵1)は、レオナルドが遺した唯一の大作として有名である。
 ルネサンスのもっとも重要な記念碑となっている。
※『ダ・ヴィンチ・コード』というベストセラー小説や映画でも、重要な役割を担っていた。

・キリストは捕縛される前日、エルサレムで12人の弟子たちと食事をした。
 この日は過越祭(すぎこしさい)の日に当たっており、過越の食事(パサハ)をとることになった。
 過越祭とは、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、ユダヤ人の家を過ぎ越したことに基づき、ユダヤ人の根源をなすエジプト脱出を記念する春の祭りである。
 この日は子羊を犠牲にし、ふくらし粉の入っていない種なしパンとともに食して祝うことになっていた。

・キリストはこの食事の席でふいに、「はっきり言っておくが、あなたがたのうち一人が、私を裏切ろうとしている」という衝撃的な発言をする。
 レオナルドの絵は、この発言を聞いた使徒たちが驚き慌てる様子をとらえたものである。
※ここには、画家の鋭い人間観察の成果が見られ、驚愕と動揺、疑念と怒りといった使徒たちの様々な感情が、身振りと表情によって見事に表されている。

・12人の弟子たちは、3人ずつのグループに分かれ、それぞれ裏切り者は誰だと話し合ったり、キリストに問いただしたりしている。
 裏切り者のユダだけがこの動揺に加わらず、傲然としてテーブルに右ひじをついている。

※キリストを中心として左右に6人ずつの弟子が配された左右対称の人物配置、そして、天井の線を辿るとキリストの頭の位置に消失点が来るようになっている一点透視法による構成は、きわめて明快であり、堂々とした古典主義様式の模範的作例となっている。

・テーブルの上に両手を広げたキリストの身振りは、「裏切りの告知」であるだけではない。
 キリストの伸ばした左手の先には丸いパンが見え、右手の先にはワインの入ったグラスがある。
 キリストはこの晩餐の席で、賛美の祈りを唱えてパンを割き、弟子たちに与えて、
「取りなさい。これは私の体である」
 と宣言し、ワインの杯をとって感謝の祈りを唱えて、弟子たちに渡し、
「皆この杯から飲みなさい。これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」
と述べた。

※これは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して記述している内容である。
以後、キリスト教会は、こうしたキリストの言葉に従って、聖体たるパン(聖餅、ホスティア)を食し、聖血たるワインを飲む儀式、つまりミサを執り行うようになった。
 祈ってパンを割き、配餐して杯を回す所作は、もともとユダヤ人の家長が過越祭や安息日のときに家庭で行う食習慣であった。
 ミサは、聖餐式、聖体拝領などと訳され、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教会など、あらゆる宗派に共通するキリスト教のもっとも重要な典礼である。

 聖餐式は、キリストの犠牲と復活を覚え、キリストを自分の体のうちに取り込み、罪の許しと体の復活にあずかるという、キリスト者としての救済を確認する行為である。
 教会に設置されている祭壇というものは、この聖餐のための食卓にほかならない。そのため、余計なものは置かず、テーブルクロスのような白い布をかけられていることが多い。

・初期のキリスト教徒は、共同体としての結束を確認するために、しばしば集まって食事(愛餐、アガペー)をしており、これと聖餐式とははっきり区別されていなかったが、2世紀半ば頃から愛餐と分離し、感謝の祈りを中心とする「エウカリスティア(聖餐)」という典礼になった。これが教会内のミサとなった。

・「最後の晩餐」という主題の最大の意義は、この「聖餐式の制定」、あるいは「ミサの起源」にあった。
 キリストの生涯の中で、「カナの婚礼」や「パンと魚の奇蹟」のような飲食にまつわるエピソードが強調されるのは、それらが聖餐を象徴すると解釈されたためである。
 「パンを割く」というのは、聖書に頻出する表現で、ひとつのパンをちぎって多くの人に分け、いっしょに食べることをいう。こうして、食卓をともにすることは、信者どうしの結びつきを確認する兄弟の交わりを意味した。

※パンとワインは、西洋ではもっとも基本的な食事である。
 日本のご飯と味噌汁に当たるといってよい。
 パンはすぐ乾燥するため、ワインとともに食するのが一般的であった。
 ワインも酒というよりは食事の基本要素であった。

・レオナルドの作品では、キリストが両手で自分の肉と血を指し示しているのだが、画家はこの主題を、熱い人間のドラマとして表現する一方、それにふさわしい教義上の意味をも表現している。

・「最後の晩餐」の絵は、修道院の食堂の壁画に描かれることが多かった。
 レオナルドの壁画も、聖堂に隣接する修道院の食堂に描かれたものである。
 キリストの生涯の一エピソードとして物語場面が表現されたものというより、ミサの起源としての意味を強調し、毎日食べるパンに与えられた神聖な意味を思い起こさせるためであった。
 修道士たちは食事のたびに、「最後の晩餐」の絵を見ながら、うやうやしくパンをかみ締めていたのである。
 
・西洋において、食事に神聖な意味を付与されたのは、何よりも「最後の晩餐」、そしてそこから発生したミサのためであるといってよい。
 パンとワインという、もっとも基本的な飲食物が、神の体と血であるというこの思想が、西洋の食事観を決定したといってもよい。

・とくに、パンは何よりも重要であった。
 「人はパンのみにて生くるものにあらず」とキリストは言ったが、パンは生きる糧、日常的な食料の代名詞であっただけでなく、「命のパン」であるキリスト自身を象徴していた。
※ただし、古代や中世初期のヨーロッパでは、パンとワインは地中海世界のローマ文化圏特有の食べ物である。北方のゲルマン世界では、肉とエール(ホップを入れないどろりとしたビール)こそが主食であった。古代ギリシアでもローマでも、パンには文明の象徴としての役割が与えられており、それを知らないゲルマン人を野蛮であると見なしていた。
 キリスト教がパンを聖体として称揚した背景には、古代地中海世界のこうした思想的伝統があったことは疑いない。

・また、キリスト教徒は、復活祭前の6週間の断食期間にあたる四旬節には、肉食を断つことになっているが、やがて肉の代わりに魚を食すことが認められるようになった。
 肉は飽食、魚は禁欲を表すものとして対比されるようになる。
 魚は一種の精進料理としての地位を与えられたのである。
 このことも、最後の晩餐のメニューに魚がふさわしいと目される背景にあったようだ。

・キリストの一番弟子のペテロやその兄のアンデレなど、キリストの十二使徒のうち7人までが、キリストに召される前はガリラヤ湖で網を打つ漁師であった。
 豊富な魚の獲れるガリラヤ湖畔で活動したキリストとその弟子たちが、魚を常食していた「魚食の民」であったことはまちがいない。
(今でもかの地では、「ペテロの魚」と名づけられたガリラヤ湖で獲れる大ぶりの魚を食べているという。ただし、味は大味でそれほどおいしくないらしい)

・キリストは、パン五つと魚二匹を、説教を聞いていた5000人もの衆人の食物として十分な量に増やすという有名な「パンと魚の奇蹟」を行った。
 このときも最後の晩餐と同じように、キリストは、賛美の祈りを唱えてから、パンを割いて弟子たちに渡している。

・また、復活後、弟子たちの前に現れたキリストは、焼いた魚を渡されるとそれを弟子たちの前で食べ(ルカ24:42-43)、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちの前に現れて朝食をすすめ、パンと魚をとって彼らに与えたという(ヨハネ21:13)。
 キリストと弟子たちにとって、パンと魚はいわば常食であったようだが、復活してからも食べたことから、キリストは魚食を好んだと考えられている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、16頁~25頁)

・第2章 よい食事と悪い食事(46頁~)

キリスト教思想の特異性


・林檎や果物も、原罪という意味を持つようになった。
 たとえば、15世紀のヤン・ファン・アイクの有名な≪アルノルフィニ夫妻像≫で、
窓際にさりげなく置かれた果物も原罪を表し、モデルの夫婦の罪を示している。
 そして奥の鏡の縁にはキリストの受難伝が刻まれており、夫婦がキリストの犠牲にあずかって救済されることも示される。
 ヴィーナスが持っているリンゴも、異教の愛欲の女神の持物であるということとあいまって、原罪と結びつくことが多かった。

・キリスト教の教義では、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたことから、すべての人間が背負うことになった原罪から人間を救うために、キリストが地上に遣わされ、犠牲になったことになっている。
 それ以来人間はこの犠牲を銘記して、救済されるために、キリストの象徴である聖体のパンを食べるという儀式を行うことになった。
 つまり、キリスト教というものは、罪と救済のいずれもが食という行為に関連している特異な宗教なのである。
 西洋美術において、食事がもっとも重要な主題になったのはそのためであった。
 食事というものが、単にもっとも身近で毎日繰り返される根源的な営みであったからというだけではない。わが国では明治になるまで、食事を描いた単独の作品は皆無であった。
 美術のあり方のちがいのためでもあるが、美術の歴史において、もっとも頻繁に食事を表現してきたのは、西洋であることはまちがいない。
 その背景は、キリスト教の思想があると考えられている。
 キリスト教に裏打ちされた食事の美術は、単なる教義の図解にとどまらず、その時代や地域、注文者・作者・観者の意図や個性や欲望に応じて、豊かに変奏しつつ、多彩な成果を生んでいった。
 では、模範的なよい食事と否定的な悪い食事とが具体的にどう表現され、そこにどんな意味があったのか、具体的に見ている。

<聖人の食事~パンと水だけ>


〇ダニエーレ・クレスピ≪聖カルロの食事≫ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃(口絵3)

・西洋美術史上、もっとも模範的な食事の絵は、ダニエーレ・クレスピが描いた≪聖カルロの食事≫(口絵3、ミラノ、サンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂、1628年頃)
という作品であるようだ。
 17世紀初頭にミラノで活躍したこの画家は、イタリアでもそれほど知られていないが、この絵だけは非常に有名である。

・ひとりの聖職者がハンカチで目頭を押さえて本を読みながら、パンを食べている。
 テーブルクロスもない食卓の上には、水のはいったフラスコとグラスがあるだけである。
 画面右の台には、布が掛けれており、その上には大きな十字架が立て掛けられ、司教の帽子が置かれている。画面奥では、この食事の情景を見て、その食事の様子に驚いている二人の男の姿が見える。

※カルロ・ボロメオは、名門貴族の家に生まれ、1564年から84年までミラノの大司教を努めた。
 カトリック改革(反宗教改革)の旗手として知られ、ミラノをヨーロッパ有数の宗教都市に変貌させた人物である。
 彼は、司教区内をつぶさに巡視する一方、1576年のペストの際は多くの貴族のように避難したりせずに、先頭に立って自ら病人の救済に当たり、民衆を大いに勇気づけた。
 宮殿で贅沢三昧に育てられたにもかかわらず、常に粗衣粗食に甘んじ、衣も家具も売り払い、壁掛けすら取り外させ、所領をも売却して貧者や孤児、病人たちに施したという。
 彼は、後世になってますます崇敬を集め、早くも1610年には列聖され、4世紀の聖アンブロシウスとともに、今でもミラノ人の精神的支柱となっている。

・この聖人は、ミラノをはじめとしてイタリアのバロック美術の主人公として、数々の作品に登場する。
 聖人の神々しさや英雄性はまったく見られず、孤独な聖職者の厳粛で禁欲的な姿が印象づけられる。
 パンと水だけの質素な食事をとりながら、本を読み、そこに書かれたキリストの受難を思って涙を流す。

※いかにも消化に悪そうな食事ではあるが、この姿勢こそ、キリスト者の食事のあるべき姿にほかならなかった。罪を悔い改めるために肉もワインもとらず、貧民と同じ食事をとるのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、49頁~52頁)


<乱痴気騒ぎの情景>


ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫


〇ヨルダーンス≪豆の王の祝宴≫ウィーン美術史美術館、1640-45年頃(口絵4)

・カトリックのまま残ったフランドルでは、大工房を構えた巨匠ルーベンスが圧倒的な影響力をもって活躍していたが、その影響下から優れた画家が育っていた。
 その一人、ヤーコプ・ヨルダーンスは、ルーベンス作品に見られる高揚した生命力をさらに発展させ、農民が登場する風俗画を得意とした。
 歴史画や寓意画においても、ニンフやサテュロスが乱舞する祝祭的な情景を粗野なまでに力強く表現した。
 もっとも得意とし、人気を博したのは、農民や庶民の乱痴気騒ぎの情景である。
(横が3メートルもある歴史画のような大画面に、このような世俗の主題を描いたことが注目される)

・ヨルダーンスは、フランドルに住みながらカルヴァン派の信者であり、ハーグ近郊のハイス・テン・ボスで制作したこともあったので、オランダでは比較的よく知られていたようだ。
 老人が歌い、若者がバグパイプを吹く一家団欒の宴席である≪老いが歌えば若きが笛吹く≫、それに≪豆の王の祝宴≫という二つの主題が、とくに繰り返し制作された。

・「豆の王様」とは、十二日節の行事だが、生誕間もない幼児キリストに東方から三人の王(三博士)が贈り物を持ってやってきたことにちなむ祝宴である。
 豆を一粒だけ入れて焼いたケーキを切り分け、豆入りに当たった者が王の役になり、彼が王妃、侍従、侍医などの役を割り振って、擬似宮廷を作り、「王様の乾杯」という一同の唱和とともに酒を一気に飲み干すものである。

・宴会につきものの、既成の秩序の転倒という性格を色濃くもっている。
 ヨルダーンスは、王の役に当たり、王冠を被って杯をあおる太った老人を中心に、老いも若きも大きく杯を掲げて乾杯する情景を何度も描いた(口絵4)。

・ヨルダーンスは、オランダの風俗画よりも、人物の比重が大きく、力強い歴史画(宗教・寓意・歴史などの物語的主題を持つ絵画)のような大画面としている。
 ここでも、単なる農民の乱痴気騒ぎではなく、公現祭(キリストが人類の前に顕現したことを祝う祭日)を祝うという信仰が、表向きの主題となっていることが重要である。

☆16世紀から17世紀にかけて、どんちゃん騒ぎの絵がこれほど頻繁に描かれたのは、なぜだろうか。
・中世から近世にかけては、食糧供給が非常に不安定であった。
 貴族といえども凶作の年は、質素な食に甘んじなければならなかった。
 こうした社会では逆に、富裕層や貴族はしばしば大宴会を催す傾向があったという。
 あらゆる階級が、粗食とごちそうを交互に食べるのが決まりだった。食料不足のために、こうした起伏が習慣として定着していた。

・とくに農村では、毎日の食べ物と祝祭時の食べ物との落差が大きく、収穫祭、結婚式、守護聖人の祝日、復活祭、クリスマスなどに、桁外れのお祭り騒ぎをする一方、通常はせいぜいパンか野菜の煮汁だけで生きていた。
 19世紀までヨーロッパの農民の大半は、肉をほとんど口にせず、パンのほかは鍋で煮た野菜とスープばかりであった。しかも、食料は長く貯蔵できないし、いつ兵隊や略奪者が来て奪い去るとも知れなかった。
 大量に貯蔵するよりはお祭りのときに全部食べてしまうという意識になったのである。
 教会は四旬節や聖人記念日などの精進日を定め、この期間にはパンと水しか食べてはいけないことにしたが、それが厳しければ厳しいほど、祭りのときのどんちゃん騒ぎは過熱するのだった。

・農民たちの乱痴気騒ぎは、都市の富裕な貴族や商人にとっても、理想的な情景であり、彼らは自宅にこうした絵を飾ることで、飢えや欠乏への不安をかき消して気分を高揚させようとしたのであろう、と著者は解釈している。

 ヨルダーンスの農民風俗画には、しばしば異教の神が登場するが、丸々と太った農民たちは、豊穣の神ケレスや酒神バッカスやシレノスと同じく、見ているだけでおめでたい感じ、つまり吉祥的な効果を与えたとみている。
(布袋や大黒などわが国の七福神が太っているのも、同じ役割を果たすものであったらしい)

・食糧供給がなんとか安定する18世紀半ばにいたるまで、肥満は恥どころか、社会的威信を表すものであった。また、料理の豪華さは、多くの場合、質より量で判断されていた。

・フランドルやオランダの宴会図は、放蕩息子や七つの大罪という教訓的な主題の伝統の上に成立したものである。17世紀になると、明るい農民の生活を描くことが、それ自体ひとつの主題として確立した。
 そこにはもはや、反面教師的・否定的な意味は薄れ、宗教的祭事を祝う健全な庶民の信仰心が好意的に眺められるようになっている。

・また、画家たちは、陽気な宴会に自らの姿を描きこむという誘惑にかられたようだ。
 ステーンもヨルダーンスも、しばしば乱痴気騒ぎの情景に、楽器を奏でる自画像を挿入した。レンブラントも、新妻サスキアとともにいる自画像を描いたとき、自らは放蕩息子として登場させた。

※今まで見てきた宴会図のほとんどは、フランドルやオランダで制作されたもので、イタリアやスペインのものは少ない。
 これは、キリスト教以前のケルト・ゲルマン社会が、ラブレーの『ガルガンチュア』や『パンタグリュエル』に描かれたような大食漢や暴飲暴食を好ましいものとしていたことと関連があるらしい。
 古代地中海世界では、基本的に節食をよしとしていたが、それがキリスト教の禁欲観に継承され、その伝統のゆえにイタリアなどでは、どんちゃん騒ぎの絵が少なかったのであろう、と著者はみている。
 つまり、フランドルでは、キリスト教的な倫理観を表に出しながらも、その下層には古来のゲルマン的価値観が息づいていたという。

※賑やかな宴会や乱痴気騒ぎは、キリスト教的観点からすればよいことではないが、人生の幸福を感じる行為であり、美術の主題として、画家も鑑賞者も喜んで制作し、受容したことがうかがえる。
 美術というものは、道徳や教義の絵解きとしてだけでは説明できない、人間の複雑な心性を表象するものであるという。
 さかんに表現された宴会図には、表向きの宗教的な教義と芸術制作の動機との乖離を見ることができるとする。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、76頁~82頁)

<食の愉悦>


カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫


〇ヴィンチェンツォ・カンピ≪リコッタチーズを食べる人々≫リヨン美術館、1580年頃(口絵5)

・17世紀の風俗画に表れた宴会図は、食べるという行為よりも、仲間や家族で飲みかつ歌うという祝祭的な性格をもつものが多かった。食べることだけを主題とした作品はそれほど多くはない。
 16世紀後半のイタリアでは、フランドル美術の影響を受けて、世俗的な風俗画や静物画が勃興しつつあった。
 そんな傾向を代表する画家ヴィンチェンツォ・カンピは、農民が食事をする光景を描いている。

・中でも、≪リコッタチーズを食べる人々≫は、四人の男女が大きなチーズを食べている情景を表現している。食事を正面から捉えた稀有な作品である。
 リコッタチーズを交互にすくっては食べる男女。
 右端の女性はスプーンを持ったまま、こちらに笑顔を向けている。
 その隣の男はチーズの塊にスプーンを突っ込んでいる。
 その右の男はスプーンに載せた大きなチーズを上から口に入れようと大きく口を開けている。
画面左端の男は口いっぱいにチーズを含んで口を半開きにしているために、口の中のチーズが見えている。

※リコッタチーズは、豆腐のようなものだと考えればよいようだ。
 豆腐自体はもともと中国の唐代にチーズを模倣して作られるようになったものだという。

※スプーンを持つ右の女性から順に、スプーンをチーズに突っ込む、それを口に持って行く、口に含むという一連の動作が連続しているようである。
また、男たちが右から若者、中年、老年と、人生の三段階を示すようであり、女性も加えて、あらゆる人間が代表されている、と著者は見ている。
 いずれの顔も食べることの幸福感に満ち溢れ、にぎやかで明るい雰囲気が漂っている。
 この作品は、画家カンピの没後、遺産として未亡人が持っていたことはわかっているが、誰の注文でどんな意図をもって制作されたのかは、不明であるようだ。

※画家の当初のねらいはともかく、著者は、この絵こそ、食の愉悦を表現した傑作であり、「西洋美術史におけるもっとも愛すべき作品」であるとみなしている。

※聖人や修道士のようなしんみりとした質素な食事は、誰からも敬われるべき模範的な食事にはちがいないが、美術表現においては、豊富な食物に取り囲まれて明るく談笑しつつ食べる情景のほうが受け入られてきたようだ。
 それは、欲望や快楽に屈して堕落した人間の愚かで否定さるべき表現というよりは、この世の隅々に神の栄光を見て、日常的な営みを重んずる現世肯定的なイメージであるともいえる。
 カンピの生きた16世紀後半のロンバルディア地方は、カルロ・ボロメオの主導する厳しいカトリック改革の本拠地であり、≪聖カルロの食事≫のような戒律と禁欲に縛られた敬虔さが尊重された。

・そのため、カンピの風俗画は、貪欲や大食の罪のような教訓性を表したものと考えられるのだが、こうした表向きの主題を口実にしながら、庶民や農民の食事のようなたくましくも明るい生命力を提示した、と著者は考えている。
 それらは、貴族や商人のような富裕な顧客に受け入られ、教会に収蔵されたこともあるが、「悪しき食事」や「大食の悪徳」という表向きの教訓性がそれを可能にしたという。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、82頁~86頁)

農民の食事 ラ・トゥール、ゴッホ(93頁~)

農民の食事 ラ・トゥール、ル・ナン、ゴッホ



〇ラ・トゥール≪豆を食べる夫婦≫ベルリン絵画館、1620-22年頃
・20世紀に歴史の闇から発見されて、いまやフランス最大の画家と目されるジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、カラヴァッジョの様式を瞑想的にした静穏な宗教画で名高いが、初期には無骨なまでに自然主義的な農民や旅芸人の姿を描いていた。
・1975年にはじめて世に出た≪豆を食べる夫婦≫は、1620年頃と思われる初期のラ・トゥール特有の表現主義的なタッチよる力強い傑作である。
 老いた農民の夫婦が立ったまま、短い木のスプーンで、手に持った陶器の碗に入ったエンドウマメをすくっては食べている。
・カラッチの≪豆を食べる男≫では、スプーンから汁が滴り落ちていたが、この豆料理はほとんど汁気がないようであり、硬そうである。
 カラッチ作品に遅れること約40年だが、同様に、農民が喜怒哀楽も会話もなく、淡々と主食である豆を食べているというイメージである。
 男は碗を持つ手で同時に杖を支えているので、室内ではないだろう。
 巡礼者など無宿の流れ者かもしれないという。

※ラ・トゥールがなぜこのような夫婦を描いたのかは不明である。
 しかし、無言のうちに厳粛な雰囲気と威厳を漂わせる彼らの姿には、貧しき者こそキリストの身内であって幸いであり、天の国を継ぐべき人たちであるという思想が表現されているとみる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、93頁~94頁)

〇ル・ナン≪農民の食事≫パリ、ルーヴル美術館、1642年
・ラ・トゥールのやや後に同じフランスで、こうした農民の食事を描いたのが、ルイ・ル・ナンである。
 ル・ナン兄弟も19世紀になって再発見された画家であり、三人の兄弟の手を見分けるのは困難だが、ルイ・ル・ナンは農民の風俗を得意とし、風俗画でありながら宗教画にも似た古典主義的な画面を描いた。

・≪農民の食事≫では、三人の男が深刻な表情をして座り、画面左の男はワインを飲んでいる。
 中央の男はワイングラスを掲げ、右手にはパンを切るナイフを持っている。
 右の男は何も持たずに手を合わせて祈っている。
 女性と子供、少年がその背後にいて、画面の雰囲気を和らげており、とくに中央奥にいる子供はつぶらな瞳をこちらに向けている。

※ここではあきらかに、ワインとパンによる聖餐が暗示されている。
 フランドルやオランダに見られたどんちゃん騒ぎの農民とはまったく別の世界の住人のようである。
 彼らは堂々と屹立し、神の身内になる義人として威厳を保っている。

※農民でありながら、修道士や聖人にも似た厳粛な食事をとっている、こうした情景は、貧しき者こそが神の宴席に招かれるというキリスト教特有の思想の表れである。
 敬虔なキリスト者は、貴賤にかかわらず、いつも神の恵みに感謝し、神のことを思いつつ、食事をするのである。

〇ゴッホ≪馬鈴薯を食べる人々≫アムステルダム、ファン・ゴッホ美術館、1885年(口絵7)
・こうした農民の食事風景の傑作は、19世紀末のゴッホ初期の代表作≪馬鈴薯を食べる人々≫である。
 ランプの灯る薄暗い部屋で五人の家族が夕食にジャガイモの皿を囲んでいる。
 一家団欒の会話もなく、厳しい表情で黙々と塩茹でしただけのジャガイモの大皿に直接フォークを伸ばし、画面右の女性は黙ってコーヒーを注いでおり、その左にいる男はだまって茶碗を差し出している。
 左の夫婦のうち、嫁は何か話すかのように左端の夫に顔を向けるか、男はこれを黙殺している。

※ゴッホは、主に記憶に基づいて、この絵を制作したのだが、大変な労力と時間をかけた。
 「ジャガイモを食べる人々が、皿に手を伸ばすその手で大地を掘ったのだということを強調しようとした」と画家自身記しているように、ジャガイモは彼らが自ら耕して、その手で収穫した大地の恵みであり、彼らはこの恵みを神に感謝しつつ食べているのである。

※南米原産で16世紀に、スペインがヨーロッパにもたらしたジャガイモは、食物としてなかなか一般化しなかった。
 しかし、飢饉のたびに穀物の代替物として徐々にその真価が認められ、18世紀にはヨーロッパ中に普及し、農民や労働者の一般的な食物となっていた。
 ジャガイモをパンにする試みもあったが、困難であったため、この絵のように、そのまま茹でて食べるのが、一般的であった。
 ジャガイモは、パンを食べられない最下層民の主食であり、パン以下の食物とみなされていた。
 画面に漂う厳粛な雰囲気は、修道士の食卓のイメージと大差がない。

※ゴッホは、敬虔なクリスチャンであり、神学を修めて牧師を志していたほどであったがが、農民の生活を表現する大作として、農作業の情景ではなく、労働後の食事の場面を選んだことは意義深い。
 ステーンやヨルダーンスの歌い騒ぐ農民の伝統的なイメージに反し、酒ではなく、コーヒーを飲む静かで理性的な農民の姿を提示した。
 17世紀にトルコからヨーロッパに伝えられたコーヒーは、理性を鈍麻させる酒に対して、理性を覚醒させる飲料として歓迎され、普及した。

※入念に構想され、長期間にわたって制作された、この記念碑的作品には、土に生きる農民たちの労働の成果と、彼らの素朴だが純粋な信仰が見事に表現されている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、96頁~97頁)

第3章 台所と市場の罠(100頁~)

台所と市場の罠


【「二重空間」の絵画】
・西洋美術史を振り返ると、食事の情景よりも、台所における調理の場面や、食材を売る市場の情景のほうが、頻繁に表現されているようだ。
 いずれも食事そのものではないものの、その準備として重要な主題ではあるが、なぜそれらがさかんに描かれたのだろうか、と著者は問いかける。

・≪リコッタチーズを食べる人々≫を描いたカンピにもっとも大きな影響を与えたのは、フランドルのアールツェンとブーケラールという画家であったという。
 彼らは、16世紀後半に、静物画や風俗画と宗教画が同居している奇妙な作品群を描き、17世紀風俗画の祖となった画家である。
 それらは、画面手前に食材や商品が並べられ、同時代の人物がそれらの前で立ち働く風俗画となっているが、画面奥には、聖書の場面が小さく見えるというような作品である。
 こうした「二重空間」の絵画は、16世紀後半から17世紀初めにかけて、フランドル、北イタリア、そしてスペインで流行した。

※一般には、それぞれの世俗ジャンルが独立する前の未分化の過渡的な現象を示すものと説明されるが、その意味については、現在も定説を見ていないようだ。
 それらは、聖なる場面に現実性を導入するための試みと見ることができる。
 あるいは画中空間と現実空間を接続させるバロック的な手法の先駆となるものであった。
 そして、静物画や風俗画がジャンルとして独立する以前の16世紀半ばにおいて、食物や厨房を前面に大きく写実的に描いたという点で、注目に値するようだ。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、100頁~101頁)

〇ピーテル・アールツェン≪マルタとマリアの家のキリスト≫ウィーン美術史美術館、1552年(口絵8)
・たとえば、ピーテル・アールツェンの≪マルタとマリアの家のキリスト≫は、手前に食物や道具が所狭しと並べられた厨房の情景であり、奥に見える部屋にキリストとマルタ、マリアが小さく見える。

※「マルタとマリアの家のキリスト」という主題は、厨房と結びついている。
 マルタとマリアの姉妹の家に、キリストが迎えられたとき、姉のマルタは主をいろいろともてなすためにせわしく働いていたが、妹のマリアはキリストの足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタはこうした妹の態度に腹を立て、ついにキリストに、妹をたしなめて自分を手伝うように注意してほしいと訴えた。
 すると主はこう答えた。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
(ルカ10:38-42)

※家事を手伝わない妹が得をし、働き者の姉がキリストにたしなめられるという一見不条理な話なのだが、古来さまざまな神学的解釈がなされてきた。
 マルタは活動的生、マリアは瞑想的(観想的)生という、人間の生活のふたつの側面を象徴するという解釈が普及した。信仰生活にとっては後者のほうが重要であるが、両者は相補うべきだとされた。
 女性にとっての家事労働を軽視するのではなく、いずれも重要であるというわけだが、「二重空間」の絵は、なぜか手前に厨房の場面が大きく描かれ、奥にわずかにキリストやマリアが見えるのであった。

・アールツェンのこの絵では、奥の暖炉の前で、マルタが箒(ほうき)のようなものを手にして立ち、キリストは足もとに座り込んで、手を合わせるマリアの頭に手を置いている。
 暖炉の上には、オランダ語で「マリアは良い方を選んだ」という文字が見える。
しかし、こうした情景とは関係なく、手前には大きな肉の塊やパン、バターやワインの容器などのほか、革の財布、書類や銀器の入った金庫、陶器や花瓶が大きく見える。

※おおむねいえることは、これらの手前の物質はマリアの選んだ精神的価値と対比され、現世のはかない価値を象徴しているということである。
 つまり、手前に展開された物質的価値や欲望の世界を乗り越えて、キリストの近くの精神的世界に行くべきという教訓である。

※あるいは、こうした絵には、プロテスタント的な思想が反映されているという見方もある。
 つまり、聖書の情景を実際に見るように修行させるロヨラなどのカトリックとは正反対に、ヴィジョンを否定し、真実は見えないもののうちにあるという考え方である。
 アールツェンやブーケラールの画面で目を奪う前景は、堕落した世界そのものであり、それを通してしか、超越的なものは把握できないとする。

※これらの作品が制作された1560年代は、宗教改革によるイコノクラスム(偶像破壊)の嵐が吹き荒れており、自らの宗教画を破壊されたこともあるアールツェンは、プロテスタントの検閲官の目を潜り抜けるために、あえてキリスト教的な教訓を含ませたと考える研究者もいる。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、101頁~104頁)


静物画と食物~第4章より


・市場や厨房の絵において、描かれた食物が徐々に中心となり、聖書的な教訓や市場・厨房という舞台設定もなくしてしまったのが、静物画である。
 静物画の主題で圧倒的に多いのが食物であった。
 静物画というジャンルは、発生のときから食物や食材を描くことによって流行し、愛されてきた。
 したがって、美術における食べ物の絵を探ることは、必然的に静物画の歴史を振り返ることになる。
 
・静物画という日本語は、英語のstill life(動かざる生命)の翻訳である。
 そもそもこの用語は、オランダで1650年頃に成立したstillevenという語に由来する。
 このことからもわかるように、オランダこそは静物画の故郷であった。

※ただし、静物画は西洋では長い伝統をもつ。
 ゼウクシスやパラシオスといった古代ギリシアの画家たちが、果物やカーテンなど静物を巧みに描いて、人や動物の目を欺いたという逸話が多く伝えられている。
 本物そっくりの絵を「トロンプ・ルイユ(目だまし絵)」とよぶが、本物と見まがうばかりの静物画がいつの時代にも喜ばれた。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、138頁~139頁)


西洋美術特有の概念


・古代に発した静物画の伝統は、中世に一旦途絶えるものの、中世後期からルネサンスに復活した。
 15世紀にフランドルで再び生まれた静物表現は、キリスト教的な意味に染められたものになっていた。

・表には礼拝する注文主の肖像が描かれており、裏には花瓶に入った百合の花が描かれたメムリンクの有名な作品や、聖母子図の裏に洗面器と水差し、タオルなどが描かれた逸名の画家による作品があるが、これらはすべて聖母の純潔を象徴するものであった。

・葡萄(ワイン)やパンはキリストの象徴である。
 リンゴは原罪、ザクロは復活を示すというように、特定の事物がキリスト教的な象徴と結びついている。
 日常的な事物に象徴的な意味を込めるのは、フランドル絵画の伝統といってもよいが、静物画に、物の単なる迫真的な再現にとどまらず、ある意味を伝える記号であるという新たな機能が加わった。

・西洋美術には、物がある人物の属性を示すというアトリビュート(持物)という概念がる。
 聖母は百合、ペテロは鍵、パウロは剣、ジュピターは雷、ヴィーナスは薔薇やリンゴというように、神や聖人がそれぞれ特定の物と組み合わされることで見分けられるという図像上の決まりである。
 また、古代以来、擬人像という伝統もあって、「真実」や「信仰」、「五感」「四季」「四大要素」といった美徳や抽象的な概念を人物と物の組み合わせによって表現する慣習があった。
 17世紀には、そこから擬人像が消え、アトリビュートだけが描かれて寓意的な静物画となることが多くなる。

・目に見える具体的な物や人に抽象的な概念を重ねるという習慣では、東洋ではほとんど見られない西洋特有の思考法といってよい。
 中国や日本には、漢字という表意文字があり、意味と形態の美の双方を伝えることができるため、書を芸術とする伝統が形成され、擬人像やアトリビュートを必要としなかった。
 そのため、「仁義」とか「一日一善」とかいう書を掲げればすむ。
 しかし、同じ意味を伝えるのに西洋ではいちいち正義やら慈愛の擬人像を作らねばならなかった。
 こうして静物画は、単なる物の表現であるだけでなく、宗教画や物語画と同じく、意味を担う芸術となったのである。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、141頁~143頁)

五感の寓意


・そんな寓意的主題のひとつとして、「五感の寓意」がある。
 一般に、着飾った女性や裸婦が五感の擬人像となって、五感を表す行為をしている連作である。味覚の寓意としては果物を食べたり、乳を与えたり、ワインを飲んだりする姿で表されることが多い。風俗画の中に五感の寓意を示すことはフランドルでさかんに見られた。

・静物画では、ルーヴル美術館にあるフランスのリュバン・ボージャンの絵(図49)が有名である。
 そこでは、視覚は鏡、聴覚はリュートと楽譜、嗅覚は花瓶の花、味覚は切ったパンとグラスに入ったワイン、そして触覚は小銭入れ、トランプの札、チェス盤によって表されている。
※図49 ボージャン≪静物≫パリ、ルーヴル美術館、1630年

・五感の寓意という主題が流行したのは、絵画が視覚という単一の感覚にしか対応しないため、ほかの諸感覚をも想起させ、ひとつの世界や小宇宙を表現しようとしたためであろう。
 とくに静物画は絵画の中でもっとも地味でありながら、物をリアルに描くことによって、味覚や嗅覚、触覚を直接刺激し、視覚の限界を乗り越えようとしたジャンルであったといえる。
 静物画の題材のうちでも、食物のほかに、嗅覚に訴える花や聴覚を想起させる楽器がとくに好まれたのも、そのためである。
 静物画に限らず、西洋絵画に食べ物や飲食にまつわる主題が多いのは、キリスト教的な意味のためであると同時に、絵画のうちに味覚という快楽を加えて、絵を見る喜びを増幅させるためであったと見ることができる、と著者は考えている。
(宮下規久朗『食べる西洋美術史』光文社新書、2007年、143頁~146頁)


≪世界史と植物~稲垣栄洋氏の著作より≫

2024-05-26 18:00:53 | 私のブック・レポート
≪世界史と植物~稲垣栄洋氏の著作より≫
(2024年5月26日投稿)

【はじめに】


 日本の5月といえば、やはり田植えの時期である。
 田植えが始まると、本格的に稲作に取りくまねばという気持ちになる。それと同時に、今年の天候はどうなるのかなど、いろいろなことが気になり始める。
 そして、稲作に関連した著作でも読んでみたくもなる。

 さて、今回のブログでは、イネと世界史について書かれた、次の著作を紹介してみたい。
〇稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]
 目次をみてもわかるように、イネについてのみ書かれているわけではない。
 取り上げられている植物としては、コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、ワタ、チャ、コーヒー、サトウキビ、ダイズ、タマネギ、チューリップ、トウモロコシ、サクラといった15種類の植物である。
 そのうち、私の関心のあるイネについて、世界史との関係で紹介してみたい。
 これら15種類のうち、イネとの関連で取り上げられたダイズ、サクラについても触れておきたい。
 また、著者の稲垣栄洋先生は、静岡大学農学部教授で、農学博士、植物学者であるようだ。日ごろ、理系の本を読む機会はほとんどないが、植物に関して、わかりやすく面白くかかれているので読みやすい本である。

 植物に関しては、多田多恵子先生がNHKの番組「道草さんぽ」で様々な植物を紹介されていた。その中で、植物はガラスの成分であるケイ素を取り込んで“自己防衛”しているという話をされていたことに、大変興味をもったことがある。
 稲垣栄洋先生も、本書の中で、この点に言及している。
 つまり、「イネ科植物の登場」(第1章)において、「イネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている」(23頁)というのである。
 その他、イネ科植物の特徴として、地面の際から葉がたくさん出たような株を作る「分蘖」についての話も、イネを育てていると実感できるので、改めて植物の不思議さに感動した。
 興味のある方は、一読されることをお薦めする。

【稲垣栄洋(いながきひでひろ)氏のプロフィール】
・1968年静岡県生まれ。
・静岡大学農学部教授。農学博士、植物学者。
・農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、現職。
・主な著書に、
 『散歩が楽しくなる雑草手帳』(東京書籍)
 『弱者の戦略』(新潮選書)
 『植物はなぜ動かないのか』
 『はずれ者が進化をつくる』(以上、ちくまプリマー新書)
 『生き物の死にざま』(草思社)
 『生き物が大人になるまで』(大和書房)
 『38億年の生命史に学ぶ生存戦略』(PHPエディターズ・グループ)
 『面白くて眠れなくなる植物学』(PHP文庫)など多数。



【稲垣栄洋『世界史を変えた植物』(PHP文庫)はこちらから】
稲垣栄洋『世界史を変えた植物』(PHP文庫)はこちらから




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・中国四千年の文明を支えた植物~第11章より
・「畑の肉」と呼ばれる理由~第11章より
・コメとダイズは名コンビ~第11章より
・イネ科植物の登場(以下、第1章より)
・イネ科植物のさらなる工夫
・動物の生き残り戦略
・そして人類が生まれた
・稲作以前の食べ物(以下、第2章より)
・イネを選んだ日本人
・コメは栄養価に優れている
・稲作に適した日本列島
・田んぼの歴史
・日本人が愛する花(第15章より)









〇稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]


【目次】
はじめに
第1章 コムギ―一粒の種から文明が生まれた
 木と草はどちらが進化形?
 双子葉植物と単子葉植物の違い
 イネ科植物の登場
 イネ科植物のさらなる工夫
 動物の生き残り戦略
 そして人類が生まれた
 農業は重労働
 それは牧畜から始まった
 穀物が炭水化物を持つ理由
 そして富が生まれた
 後戻りできない道

第2章 イネ―稲作文化が「日本」を作った
 稲作以前の食べ物
 呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!?
 イネを受け入れなかった東日本
 農業の拡大
 イネを選んだ日本人
 コメは栄養価に優れている
 稲作に適した日本列島
 田んぼを作る
 田んぼの歴史
 どうしてコメが大切なのか
 江戸時代の新田開発
 コメが貨幣になった理由
 なぜ日本は人口密度が高いのか

第3章 コショウ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
 金と同じ価値を持つ植物
 コショウを求めて
 世界を二分した二つの国
 大国の凋落
 オランダの貿易支配
 熱帯に香辛料が多い理由
 日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
 コロンブスの苦悩
 アメリカ大陸に到達
 アジアに広まったトウガラシ
 植物の魅惑の成分
 トウガラシの魔力
 コショウに置き換わったトウガラシ
 不思議な赤い実
 日本にやってきたトウガラシ 
 キムチとトウガラシ
 アジアからヨーロッパへ

第5章 ジャガイモ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
 マリー・アントワネットが愛した花
 見たこともない作物
 「悪魔の植物」
 ジャガイモを広めろ
 ドイツを支えたジャガイモ
 ジャーマンポテトの登場
 ルイ十六世の策略
 バラと散った王妃
 肉食の始まり
 大航海時代の必需品
 日本にジャガイモがやってきた
 各地に残る在来のジャガイモ
 アイルランドの悲劇
 故郷を捨てた人々とアメリカ
 カレーライスの誕生
 日本海軍の悩み
 
第6章 トマト―世界の食を変えた赤すぎる果実
 ジャガイモとトマトの運命
 有毒植物として扱われたトマト
 赤すぎたトマト
 ナポリタンの誕生
 里帰りしたトマト
 世界で生産されるトマト
 トマトは野菜か、果実か

第7章 ワタ―「ヒツジが生えた植物」と産業革命
 人類最初の衣服
 草原地帯と動物の毛皮
 「ヒツジが生えた植物」
 産業革命をもたらしたワタ
 奴隷制度の始まり
 奴隷解放宣言の真実
 そして湖が消えた
 ワタがもたらした日本の自動車産業
 地場産業を育てたワタ

第8章 チャ―アヘン戦争とカフェインの魔力
 不老不死の薬
 独特の進化を遂げた抹茶
 ご婦人たちのセレモニー
 産業革命を支えたチャ
 独立戦争はチャが引き金となった
 そして、アヘン戦争が起こった
 日本にも変化がもたらされる
 インドの紅茶の誕生
 カフェインの魔力

第9章 コーヒー―近代資本主義を作り上げた植物
 カフェを支配した植物
 人間を魅了するカフェイン
 イスラム教徒が広めたコーヒー
 コーヒーハウスの誕生
 人々を魅了する悪魔の飲み物
 産業革命の原動力
 そして、フランス革命が起こった
 アメリカの栄光はコーヒーにあり
 奴隷たちのコーヒー畑
 日本にコーヒーがやってきた

第10章 サトウキビ―人類を惑わした甘美なる味
 人間は甘いものが好き
 砂糖を生産する植物
 奴隷を必要とした農業
 砂糖のない幸せ
 サトウキビに侵略された島
 アメリカ大陸と暗黒の歴史
 それは一杯の紅茶から始まった
 そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第11章 ダイズ―戦国時代の軍事食から新大陸へ
 ダイズは「醤油の豆」
 中国四千年の文明を支えた植物
 雑草から作られた作物
 「畑の肉」と呼ばれる理由
 コメとダイズは名コンビ
 戦争が作り上げた食品
 家康が愛した赤味噌
 武田信玄が育てた信州味噌
 伊達政宗と仙台味噌
 ペリーが持ち帰ったダイズ
 「裏庭の作物」

第12章 タマネギ―巨大ピラミッド建設を支えた薬効
 古代エジプトのタマネギ
 エジプトに運ばれる
 球根の正体
 日本にやってきたタマネギ

第13章 チューリップ―世界初のバブル経済と球根
 勘違いで名付けられた
 春を彩る花
 バブルの始まり
 そして、それは壊れた
 
第14章 トウモロコシ―世界を席巻する驚異の農作物
 「宇宙からやってきた植物」
 マヤの伝説の作物
 ヨーロッパでは広まらず
 「もろこし」と「とうきび」
 信長が愛した花
 最も多く作られている農作物
 広がり続ける用途
 トウモロコシが作る世界
 
第15章 サクラ―ヤマザクラと日本人の精神
 日本人が愛する花
 ウメが愛された時代
 武士の美学
 豊臣秀吉の花見
 サクラが作った江戸の町
 八代将軍、吉宗のサクラ
 ソメイヨシノの誕生
 散り際の美しいソメイヨシノ
 桜吹雪の真実
 
 おわりに
 文庫版あとがき
 参考文献







中国四千年の文明を支えた植物~第11章より


・世界の古代文明の発祥は、主要な作物と関係している。
・メソポタミア文明やエジプト文明には、オオムギやコムギなどの麦類がある。
 また、インダス文明には麦類とイネがある。
 長江文明にはイネがあり、そして黄河文明にはダイズがある。
・アメリカ大陸に目を向けると、アステカ文明やマヤ文明のあった中米はトウモロコシの起源地があり、インカ文明のあった南米アンデスはジャガイモの起源地である。

※しかし、今日ではこれらの文明は多くが滅び、現在でも同じ位置に残るのは中国文明のみである。

・中国では、北部の黄河流域にはダイズやアワを中心とした畑作が発達し、南部の長江流域にはイネを中心水田作が発達した。
・農耕を行い、農作物を収穫すると、作物が吸収した土の中の養分は外へ持ち出されることになる。
 そのため、作物を栽培し続けると土地はやせていってしまう。
 また、特定の作物を連続して栽培すると、ミネラルのバランスが崩れて、植物が出す有害物質によって、植物が育ちにくい土壌環境になる。
 こうして早くから農耕が始まった地域では土地が砂漠化して、文明もまた滅びゆく運命にある。

・しかし、中国の農耕を支えたイネやダイズは、自然破壊の少ない作物である。
・イネは水田で栽培すれば、山の上流から流れてきた水によって、栄養分が補給される。
 また、余分なミネラルや有害な物質は、水によって洗い流される。
 そのため、連作障害を起こすことなく、同じ田んぼで毎年、稲作を行うことができるのである。

・また、ダイズはマメ科の植物であるが、マメ科の植物はバクテリアとの共生によって、空気中の窒素を取り込むことができる特殊な能力を有している。
 そのため、窒素分のないやせた土地でも栽培することができ、他の作物を栽培した後の畑で栽培すれば、地力を回復させ、やせた土地を豊かにすることも可能なのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、211頁~212頁)

「畑の肉」と呼ばれる理由~第11章より


・日本人の主食であるご飯には、味噌汁がよく合う。
 ご飯と味噌汁の組み合わせは、和食の基本である。
 これには理由がある。
 味噌の原料はダイズである。じつはコメとダイズとは、栄養学的に相性が良いのである。
・日本人の主食であるコメは、炭水化物を豊富に含み、栄養バランスに優れた食品である。
 一方、ダイズは「畑の肉」と言われるほどタンパク質や脂質を豊富に含んでいる。
 そのため、コメとダイズを組み合わせると三大栄養素である炭水化物とタンパク質と脂質がバランス良く揃うのである。

・ダイズが畑の肉と言われるほど、タンパク質を多く含むのに理由がある。
 ダイズなどのマメ科の植物は、窒素固定という特殊な能力によって、空気中の窒素を取り込むことができる。
 そのため、窒素分の少ない土地でも育つことができる。
・しかし、種子から芽を出すときには、まだ窒素固定をすることができない。
 そのため、窒素を固定するまでの間、種子の中にあらかじめ窒素分であるタンパク質を蓄えているのである。

・一方、イネの種子であるコメは、炭水化物を豊富に含んでいる。
 種子の栄養分であるタンパク質や脂質は、炭水化物に比べると莫大なエネルギーを生みだすという特徴がある。
 ところが、タンパク質は植物の体を作る基本的な物質だから、種子だけではなく、親の植物にとっても重要である。
 また、脂質はエネルギー量が大きい分、脂質を作りだすときにはそれだけ大きなエネルギーを必要とする。
 つまり、タンパク質や脂質を種子に持たせるためには、親の植物に余裕がないとダメである。

・イネ科の植物は草原地帯で発達したと考えられている。
 厳しい草原の環境に生えるイネ科の植物にそんな余裕はない。
 そのため、光合成をすればすぐに得ることができる炭水化物をそのまま種子に蓄え、炭水化物をそのままエネルギー源として芽生え、成長するというシンプルなライフスタイルを作り上げた。
 そして、この炭水化物が、人類の食糧として利用されている。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、214頁~216頁)

コメとダイズは名コンビ~第11章より


・炭水化物を多く含むイネと、タンパク質を多く含むダイズとの組み合わせは、栄養バランスが良い。
 それだけではない。
 さまざまな栄養素を持ち、完全栄養食と言われるコメであるが、唯一、アミノ酸のリジンが少ない。
 このリジンを豊富に含んでいるのがダイズなのである。
・一方、ダイズにはアミノ酸のメチオニンが少ないが、コメにはメチオニンが豊富に含まれている。
 そのため、コメとダイズを組み合わせることによって、すべての栄養分が揃うことになる。
 そういえば、昔から食べられてきたものには、コメとダイズの組み合わせが多い。
・味噌はダイズから作られる。
 和食の基本であるご飯と味噌汁は、コメとダイズの組み合わせである。
 納豆もダイズから作られる。ご飯と納豆も相性はバッチリ。
・また、ダイズから作られるものには、きなこや醤油、豆腐などがある。
 きなこと言えば、きなこ餅だろうし、醤油は、コメから作られる煎餅によく合う。
 また、コメから作られる日本酒には、冷奴や湯豆腐がよく合う。
 さらには酢飯と油揚げの稲荷寿司も、コメとダイズが材料となる。
 日本人が昔から親しんできた料理には、コメとダイズの組み合わせが多い。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、216頁~217頁)

第1章 コムギ―一粒の種から文明が生まれた


イネ科植物の登場


・この単子葉植物の中で、もっとも進化したグループの一つと言われているのが、イネ科植物である。

・イネ科植物は、乾燥した草原で発達を遂げた植物である。
 木々が生い茂る深い森であれば、大量の植物が食べ尽くされるということはない。
 しかし、植物が少ない草原では、動物たちは生き残りをかけて、限られた植物を奪い合って食べ荒らす。
 荒地に生きる動物も大変だが、そんな脅威にさらされている中で身を守ろうとするのは、本当に大変なことだ。

・草原の動物たちは、どのようにして身を守れば良いのだろうか。
 毒で守るというのも一つの方法である。
 しかし、毒を作るためには、毒成分の材料とするための栄養分を必要とする。
 やせた草原で毒成分を生産するのは簡単なことではない。
 また、せっかく毒で身を守っても、動物はそれへの対抗手段を発達させることだろう。

・そこで、イネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている。
 ケイ素は土の中にはたくさんあるが、他の植物は栄養分としては利用しない物質だから、
非常に合理的なのだ。

・さらに、イネ科植物は葉の繊維質が多く消化しにくくなっている。
 こうして、動物に葉を食べられにくくしているのである。

・イネ科の植物がケイ素を体内に蓄えるようになったのは、600万年ほど前のことであると考えられている。
 これは、動物にとっては劇的な大事件であった。
 このイネ科の進化によって、エサを食べることのできなくなった草食動物の多くが絶滅したと考えられているほどである。

・それだけではない。イネ科植物は、他の植物とは大きく異なる特徴がある。
 普通の植物は、茎の先端に成長点があり、新しい細胞を積み上げながら、上へ上へと伸びていく。
 ところが、これでは茎の先端を食べられると、大切な成長点も食べられてしまうことになる。

・そこで、イネ科の植物は成長点を低くしている。
 イネ科植物の成長点があるのは、地面スレスレである。
 イネ科植物は、茎を伸ばさずに株もとに成長点を保ちながら、そこから葉を上へ上へと押し上げるのである。
 これならば、いくら食べられても、葉っぱの先端を食べられるだけで、成長点が傷つくことはないのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、22頁~24頁)

イネ科植物のさらなる工夫


・ただし、この成長方法には重大な問題がある。
 上へ上へと積み上げていく方法であれば、細胞分裂をしながら自由に枝を増やして葉を茂らせることができる。
 しかし、作り上げた葉を下から上へと押し上げていく方法では、後から葉の数を増やすことができないのである。

・そこで、イネ科植物は成長点の数を次々に増やしていく方法を選択した。
 これが分蘖(ぶんげつ)である。
 イネ科植物は、ほとんど背は高くならないが、少しずつ茎を伸ばしながら、地面の際(きわ)に枝を増やしていく。
 そして、その枝がまた新しい枝を伸ばすというように、地面の際にある成長点を次々に増殖させながら、押し上げる葉の数を増やしていくのである。
 そのため、イネ科植物は地面の際から葉がたくさん出たような株を作るのである。

・イネ科植物の工夫はそれだけにとどまらない。
 コメやムギ、トウモロコシなどイネ科の植物は、人間にとって重要な食糧である。しかし、人間が食用にしているのは、植物の種子の部分である。
・イネ科植物は葉が固いので、とても食べられない。
 しかし、人類は火を使うことができる。固いだけなら、調理をしたり、加工したりして、何とか食べられそうなものだ。
・じつは、イネ科植物の葉は固くて食べにくいだけでなく、苦労して食べても、ほとんど栄養がない。
 そのため、葉を食べることは無駄なのである。
 イネ科植物は、食べられないようにするために、葉の栄養分を少なくしている。

・しかし、植物は光合成をして栄養分を作りだしているはずである。
 イネ科植物は、作りだした栄養分をどこに蓄えているのだろうか。
 イネ科植物は、地面の際にある茎に栄養分を避難させて蓄積する。
 そして、葉はタンパク質を最小限にして、栄養価を少なくし、エサとして魅力のないものにしている。

・このように、イネ科植物の葉は固く、消化しにくい上に、栄養分も少ないという、動物のエサとして適さないように進化したのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、24頁~25頁)

動物の生き残り戦略


・しかし、このイネ科植物を食べなければ、草原に暮らす動物は生きていくことができない。
 そのため、草食動物は、イネ科植物をエサにするための進化を遂げている。
 たとえば、ウシの仲間は胃を四つ持つ。この四つうち、人間の胃と同じような消化吸収の働きをしているのは四つ目の胃だけである。
 ウシだけでなく、ヤギやヒツジ、シカ、キリンなども反芻(はんすう)によって植物を消化する反芻動物である。
 ウマは、胃を一つしか持たないが、発達した盲腸の中で、微生物が植物の繊維分を分解するようになっている。こうして、自ら栄養分を作りだしているのである。また、ウサギもウマと同じように、盲腸を発達させている。

・このようにして、草食動物はさまざまな工夫をしながら、固くて栄養価の少ないイネ科植物の葉を消化吸収し、栄養分を得ているのである。

・それにしても、栄養分のほとんどないイネ科植物だけを食べているにしては、ウマやウシは体が大きい。どうして、ウシやウマはあんなに大きいのだろうか。

 草食動物の中でも、ウシやウマなどは主にイネ科植物をエサにしている。
 イネ科植物を消化するためには、四つの胃や長く発達した盲腸のような特別な内臓を持たなくてはならない。
 さらに、栄養分の少ないイネ科植物の葉から栄養分を得るには、大量のイネ科植物を食べなければならない。
 この発達した内臓を持つためには、容積の大きな体が必要になるのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、26頁~28頁)

そして人類が生まれた


・人類もまた草原で生まれたと言われている。
 しかし、人類は、葉が固く、栄養価の低いイネ科植物を草食動物のように食べることはできなかった。
 人類は火を使うことはできるが、それでもイネ科植物の葉は固くて、煮ても焼いても食べることができない。

・それならば、種子を食べればよいではないかと思うかもしれない。
 現在、私たち人類の食糧である麦類、イネ、トウモロコシなどの穀物は、すべてイネ科植物の種子である。

・しかし、イネ科植物の種子を食糧にすることは簡単ではない。
 なぜなら、野生の植物は種子が熟すと、バラバラと種子をばらまいてしまう。
 なにしろ植物の種子は小さいから、そんな小さな種子を一粒ずつ拾い集めるのは簡単なことではない。

・コムギの祖先種と呼ばれるのが、「ヒトツブコムギ」という植物である。
 ところがあるとき、私たちの祖先の誰かが、人類の歴史でもっとも偉大な発見をした。
 それが、種子が落ちない突然変異を起こした株の発見である。
 種子が熟しても地面に落ちないと、自然界で植物は子孫を残すことができないことになる。そのため、「種子が落ちない」という性質は、植物にとって致命的な欠陥である。

・しかし、人類にとっては違う。
 種子がそのまま残っていれば、収穫して食糧にすることができる。
 種子が落ちる性質を、「脱粒性(だつりゅうせい)」と言う。
 自分の力で種子を散布する野生植物にとって、脱粒性はとても大切な性質である。
 しかし、ごくわずかな確率で、種子の落ちない「非脱粒性」という性質を持つ突然変異が起こることがある。
 人類は、このごくわずかな珍しい株を発見した。

 落ちない種子は食糧にできるだけではない。
 種子が落ちない性質を持つ株から種子を取って育てれば、もしかすると、種子の落ちない性質のムギを増やしていくことができるかもしれない。
 そうすれば、食糧を安定的に確保することができる。
 これこそが、農業の始まりなのであるという。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、28頁~30頁)

第2章 イネ―稲作文化が「日本」を作った


・戦国時代の日本は、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。
 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
〇第2章では、このイネをテーマとしている。以下、私の関心により紹介してみたい。

稲作以前の食べ物


・狩猟採集の時代、日本人がデンプン源としていた食べ物は「Uri」と呼ばれていたとされる。
 クリ(Kuri)、クルミ(Kurumi)などの発音は、このUriに由来すると言われている。
 また、ユリの球根もデンプン源となった。このユリ(Yuri)の発音も、「Uri」に由来している。

・日本に稲作が伝来する以前に、日本人が重要な食糧としていたものがサトイモである。
 サトイモは、タロと呼ばれて、中国大陸から東南アジア、ミクロネシア、ポリネシア、オセアニアの太平洋地域一帯で、現代でも広く主食として用いられている。
 日本にもかなり古い時代に、このタロイモが伝わり、タロイモ文化圏の一角を成していたと考えられている。

・現在でも、かつてサトイモが主食となっていた痕跡は残されている。
 たとえば、お正月には、もちゴメで作った餅を食べるが、おせち料理やお雑煮にサトイモが欠かせないという地方も少なくない。
 あるいは、中秋の名月には、コメの粉で作った月見団子を供えるが、芋名月といってサトイモを供える風習も残っている。

・また、納豆、餅、とろろ、なめこなど、外国人が苦手とするネバネバした食感を日本人が好むのは、サトイモに関する遠い記憶があるからだとさえ言われている。

・ところが、やがて日本にサトイモに代わる優れたデンプン源がやってくる。
 それが「うるち(Uruchi)」である。
 食用のお米を表す「うるち米」という言葉も、「Uri」に由来すると言われている言葉なのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、39頁~41頁)

イネを選んだ日本人


・イネは、他の穀類に比べても収量が多い。
 収量が多ければ、それだけコメが蓄えられ、富が蓄積される。
・そして、稲作はコメだけでなく、青銅器や鉄器といった最先端の技術をもたらした。
 こうした最先端の技術が人々を魅了し、稲作は受け入れられていったのかもしれない。
・また、稲作に用いる土木技術や鉄器は、戦(いくさ)になれば軍事力となる。
 ときには武力で、稲作を行う集団が、稲作を行わない集団を圧倒することもあったろう。
・さらに、メソポタミア文明でもそうであったように、気候の変化は、人々が農業を選択する引き金となった。
・約4000年前の縄文時代の後期になると、次第に地球の気温が下がり始めたことから、東日本の豊かな自然は大きく変化するようになった。
 これが農業の始まりに影響を与えていることも指摘されている。
 東日本は豊かな食料に支えられて、人口密度が高くなったから、食料の不足は切実な問題となったことだろう。
 こうして、時間を掛けながら、日本人は稲作を受け入れていった。
・農業は文明を発達させ、社会を発展させる。
 日本もまた安定した食糧の確保と引き換えに、農業という労働を行うようになり、それはやがて富の不平等を生み、力の差を生み、国が形作られるという日本の歴史が始まるのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、46頁~47頁)

コメは栄養価に優れている


・イネは元をたどれば、東南アジアを原産とする外来の植物である。
 しかし、今ではコメは日本人の主食であり、神事や季節行事とも深く結びついている。
 日本の文化や日本人のアイデンティティの礎(いしずえ)は、稲作にあると言われるほど、日本では重要な作物となっている。
 どうしてイネは日本人にとって、これほどまでに重要な存在となったのだろうか。
・コメは東南アジアなどでも盛んに作られているが、数ある作物のうちの一つでしかない。
 食べ物の豊富な熱帯地域では、イネの重要性はそれほど高くないのである。

・日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。
 イネはムギなどの他の作物に比べて、極めて生産性の高い作物である。
 イネは一粒の種もみから700~1000粒のコメがとれる。
 これは他の作物と比べて、驚異的な生産力である。

・15世紀のヨーロッパでは、コムギの種子を蒔いた量に対して、収穫できた量はわずか3~5倍だった。
 これに対して、17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して、20~30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だったのである。
 現在でもイネは110~140倍もの収量があるのに対して、コムギは20倍前後の収量しかない。

・さらに、コメは栄養価に優れている。
 炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。
 さらにはミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。
 そのため、とにかくコメさえ食べていれば良かった。

・唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。
 ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのが、ダイズである。
 そのため、コメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。
 ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。
 かくして、コメは、日本人の主食として位置づけられた。

・一方、パンやパスタの原料となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできない。
 コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要がある。
 そのため、コムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられている。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、47頁~49頁)

稲作に適した日本列島


・さらに日本列島は、イネの栽培を行うのに恵まれた条件が揃っている。
 イネを栽培するには、大量の水を必要とするが、幸いなことに、日本は雨が多い。
 
・日本の降水量は年平均で、約1700ミリである。
 これは世界の平均降水量の2倍以上である。
 日本にも水不足がないわけではないが、世界には乾燥地帯や佐幕地帯が多いことを考えれば、水資源に恵まれた国なのである。

・日本は、モンスーンアジアという気候帯に位置している。
 モンスーンというのは、季節風のことである。
 アジアの南のインドから東南アジア、中国南部から日本にかけては、モンスーンの影響を受けて、雨が多く降る。
 この地域をモンスーンアジアと呼んでいる。

・5月頃に、アジア大陸が温められて低気圧が発生すると、インド洋の上空の高気圧から大陸に向かって、風が吹き付ける。
 これがモンスーンである。
 モンスーンは、大陸のヒマラヤ山脈にぶつかると、東に進路を変えていく。
 この湿ったモンスーンが雨を降らせる。
・そのため、アジア各地はこの時期に雨期となる。
 そして、日本列島では梅雨になるのである。
こうして作られた高温多湿な夏の気候は、イネの栽培に適している。

・それだけではない。冬になれば、大陸から北西の風が吹き付ける。
 大陸から吹いてきた風は、日本列島の山脈にぶつかって雲となり、日本海側に大量の雪を降らせる。
 大雪は、植物の生育に適しているとは言えないが、春になれば雪解け水が川となり、潤沢な水で大地を潤す。
 こうして、日本は世界でも稀な水の豊かな国土を有しているのである。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、49頁~51頁)

田んぼの歴史


・日本の歴史を見ると、もともと田んぼは谷筋や山のふもとに拓かれることが多かった。
 それらの地形では、山からの伏流水が流れ出てくる。
 やがてその水を引いて、山のふもとの扇状地や盆地に田んぼが拓かれていく。
 それでも田んぼは、限られた恵まれた地形でしか作ることができなかったのだ。

・田んぼの面積が増加してくるのは、戦国時代のことである。
 もともと戦国武将の多くは、広々とした平野ではなく、山に挟まれた谷間や、山に囲まれた盆地に拠点を置き、城を築いた。
 これは防衛上の意味もあるが、じつは山に近いところこそが、豊かなコメの稔りをもたらす戦国時代の穀倉地帯だったのである。

・多くの地域では、イネを作ることができず、麦類やソバを作り、ヒエやアワなどの雑穀を作るしかなかった。
 そして、限られた穀倉地帯を巡って、戦国武将たちは戦いを繰り広げたのである。
・石高を競う戦国武将は、戦いによって隣国を奪って領地を広げれば、石高を上げることはできる。しかし、戦国時代も終盤になり、国境が定まってくると、領地は増やすこともままならない。ただ、石高は領地の面積ではなく、コメの生産量である。
 領地は増えなくても、田んぼが増え、コメの生産量が増えれば、自らの力を強めることができる。そこで、戦国武将たちは、各地で新たな水田を開発していく。

・戦国時代には、各地に山城が造られた。
 堀を造り、土塁を築き、石垣を組んで、城を造る。
 こうした土木技術の発達によって、これまで田んぼを作ることができなかった山間部にも、水田を拓くことが可能になった。こうして作られたのが、「棚田」である。
(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、47頁~49頁)

第15章 サクラ―ヤマザクラと日本人の精神


・ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
 日本人は、けっして散るサクラに魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
〇第15章のうち、サクラと稲作との関連を説いたところを紹介しておく。

日本人が愛する花


・古くからサクラは日本人に愛されてきた。
 もともとサクラは稲作にとって神聖な花だった。
 サクラの花は決まって稲作の始まる時期に咲く。
 そのため、サクラは農業を始める季節を知らせる目印となる重要な植物であった。
 そして、美しく咲くサクラの花に、人々は稲作の神の姿を見たのである。

・サクラの「さ」は、田の神を意味する言葉である。
 サクラの他にも、稲作に関する言葉には、「さ」のつくものが多い。
 田植えをする旧暦の五月は、「さつき」と言う。
 そして、植える苗が、「さなえ」である。
 さらに、「さなえ」を植える人が、「さおとめ」である。
 田植えが終わると、「さなぶり」というお祭りを行う。
 さなぶりという言葉は、田んぼの神様が上っていく「さのぼり」に由来している。

・そして、サクラの「くら」は、依代(よりしろ)という意味である。
 つまり、サクラは、田の神が下りてくる木という意味である。
 つまり、稲作が始まる春になると、田の神様が下りてきて、美しいサクラの花を咲かせると考えられていたのである。

・昔から日本には、神様と共に食事をする「共食」の慣わしがある。
 正月の祝い箸が両端とも細くなって物がつかめるようになっているのは、神様と一緒に食事をするためである。
 日本人は季節ごとに神々と酒を飲み、ご馳走を食べてきた。
 そして、春になると、人々は依代であるサクラの木の下で豊作を祈り、飲んだり歌ったりした。
 さらに、人々は満開のサクラに稲の豊作を祈り、花の散り方で豊凶を占ったという。

(稲垣栄洋『世界史を変えた植物』PHP文庫、2021年[2022年版]、257頁~259頁)


(2023年わが家の稲作日誌よりの写真)



≪【囲碁】本因坊道策について≫

2024-05-05 18:00:02 | 囲碁の話
≪【囲碁】本因坊道策について≫
(2024年5月5日投稿)

【はじめに】


 島根出身の囲碁界の偉人として、道策(1645-1702)と岩本薫氏(1902-1999)が挙げられる。
 俗っぽい表現を使えば、島根が生んだ囲碁界の二大スーパースターである。
 卑近な例えでいえば、芸能の分野で、島根が生んだ古今の二大スーパースター、出雲阿国と竹内まりやさんのような存在である。
 出雲阿国は元亀3年(1572)で没年は不明で、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村(小村)三右衛門の娘であり、出雲大社の神前巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判になったとされている。
 竹内まりやさん(1955-)は、島根県簸川郡大社町杵築南(現・出雲市大社町杵築南)の生まれ。生家・実家は、出雲大社・二の鳥居近くに在る明治10年(1877)創業の老舗旅館「竹野屋旅館」であることは地元ではよく知られている。
 縁結びの神を祀る出雲大社の近くに生れただけあって、「縁(えにし)の糸」(作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎)は、NHK2008年度下半期の連続テレビ小説「だんだん」の主題歌として書き下ろされた。
 ドラマは人と人との出会いと縁がテーマの一つとなっているが、本楽曲も人と人とを結ぶ見えない縁の糸がテーマとなっている。
 本人は、縁結びの神様のお膝元の「八雲立つ出雲」で生まれ育ったため、常々「ご縁」というものをテーマにした歌を書きたいと思っていたという。
 ♪“「袖振り合うも多生の縁」と古からの伝えどおり この世で出逢う人とはすべて見えぬ糸でつながっている”
 ♪“時空を超えて何度とはなく巡り逢うたび懐かしい そんな誰かを見つけに行こう八雲立つあの場所へと どんな小さな縁の糸も何かいいこと連れてくる”
 奈良時代の日本最古の歴史書『古事記』にも、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(古事記・上巻・歌謡)とある。
 
 さて、道策は石見国の馬路(現・大田市仁摩町馬路)で生まれ、7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ上り算悦門に入る。
 岩本薫氏は島根県益田市(旧・美濃郡高津村)の出身。
 益田は、浜田、大田とともに石見(いわみ)の三田といわれ、石見地方西部の中心である。益田市は日本海に面し、高津川下流域を占め、石見地方西部の商業の中心地であった。古くから進取の気性に富んでいたのかもしれない。
石見国の在庁官人筆頭の地位を占めた益田氏は、中世を通じて石見最大の勢力を誇った(益田氏の足跡と山陰中世史解明の手がかりとなる『益田文書』が残る)。また、益田は雪舟の終焉の地とされ、医光寺、万福寺にはそれぞれ雪舟庭園(国指定史跡・名勝)が残る。

 ところで、イスラームは「商人の宗教」であると言われる。教祖ムハンマドが隊商貿易に従事する商人であったことも原因の一つであるが、イスラーム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進したようだ。世界各地へとイスラームが拡大したことには、ムスリム商人が大きく関わっていた。
 先日、NHKの「3か月でマスターする世界史」の「第4回 イスラム拡大の秘密」(2024年4月24日)においても、守川知子先生も、イスラム教は「商人の宗教」である点を強調されていた。

 中世の益田は、人と物の交流の最前線であり、人々はその豊富な地域資源と中国と朝鮮半島に近い立地条件を活かして日本海に漕ぎ出し、積極的に国内外との交易に取り組んでいた。中世の高津川・益田川河口域は港町として賑わった。砂州の南側から発見された中須東原遺跡は、港町の遺跡の代表例である。出土した陶磁器は、国内はもとより、西は朝鮮半島や中国、南は東南アジアとの交易を物語っている。
 益田氏は江戸時代(近世)初めに残念ながら益田を去らざるを得なくなり、益田は江戸時代に城下町にならなかった。しかし、これにより中世の町並みがそのまま残った。益田の歴史は、中世日本の傑作とも言われる。

ところで、その商業の町・益田出身の岩本薫氏が、囲碁の海外普及に後半生を捧げられたことは、益田の進取的な精神性と関連させてみると私には興味深かった。
岩本薫氏は、橋本宇太郎本因坊と原爆投下時に対局していた。「原爆下の対局」として知られる。原爆という戦争体験と世界平和への希求の思いが重なって、使命感をともない、囲碁文化の海外普及に向かわれたことであろう。
(「原爆下の対局」については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)
 また、夏目漱石と並ぶ明治の二大文豪の一人森鷗外(1862-1922)は、その益田市に近い津和野の出身である。石見国津和野藩の御典医の長男として、津和野に生まれた。東大医学部卒業後、陸軍医となり、1884年ドイツに留学した。やはり森鷗外も海外に目が向いていた。

 さて、玉将(王将)から歩兵まで漢字で書かれた将棋の駒と異なり、碁石には階級性はなく、あるのは黒と白の色の違いだけであり、囲碁は原則、どこに置いてもよい。囲碁のルールも簡単である。しかし、ノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成(1899-1972)がいみじくも「深奥幽玄」と揮毫したように、囲碁は奥深く計り知れない趣がある。川端は大の囲碁好きで、本因坊秀哉(1874-1940)の引退碁を扱った小説『名人』という名作がある。
(川端康成の小説『名人』については、平本弥星氏も言及しているので、紹介してみたい)

 日本の囲碁界は、開放的で国際性に富んでいる。例えば、戦前、瀬越憲作らの尽力により中国(福建省出身)から呉清源が来日して活躍したし、戦後も、呉清源門下の林海峰(中国の上海出身)、マイケル・レドモンド(アメリカ)、趙治勲・柳時熏(韓国)、張栩・林漢傑(台湾)など、国籍を問わず、棋力が高ければ活躍できる。(敬称略)

前置きが長くなったが、今回のブログでは、次の参考文献を参照して、本因坊道策について、考えてみたい。
〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
〇酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]
〇中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年



【平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)はこちらから】
平本弥星『囲碁の知・入門編』(集英社新書)

 




〇平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年
【目次】
 創作文字詰碁「知」
はじめに 碁はひろやかな知
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ

第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
 
第三章 囲碁略史―碁の歴史は人の歴史
1 中国・古代―琴棋書画は君子の教養
2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)―文化は人ともに来る
3 中世(鎌倉時代・室町時代)―民衆に碁が広まる
4 近世(安土桃山時代・江戸時代)―260年の平和、囲碁文化の発展

終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/
 碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/
 自ら学び、自ら考える力の育成/
 生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/
 囲碁で知る

おわりに
 参考文献
 重要な囲碁用語の索引
 連絡先




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇≪本因坊道策について~平本弥星『囲碁の知・入門編』より≫
・碁聖道策
・安井算哲(渋川春海 )の天元打ち
・道策、琉球の名手と対戦
・最初の免状
・道策の遺言
〇玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より
〇原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編』より
〇川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より
〇秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より






碁聖道策


・現代の棋士に古今最強を問うなら、道策、秀策、呉清源にかなりの票を入れるだろうか。
 道策は碁聖と三百年呼ばれ続ける巨人である。

・4世本因坊道策は正保(しょうほう)2年(1645)に石見(島根県)で生まれた。
 将軍家光が鎖国を完成した4年後、満州族の清帝国が明を倒して中国支配を始めた翌年である。
・道策は7歳で母に碁を教わり、14歳のころ道悦に入門したのであろうと、『道策全集』(日本棋院、1991年)に中山典之(六段)が記している。
 御城碁の初出仕は23歳で、道策はどちらかというと大器晩成の棋士であった。
・道策が「生涯の得意」と言ったという安井春知(七段)との二子局は1目負の碁である。
 この碁でも打たれている三間バサミ(白5)は道策の創始といわれ、今日よく打たれている「中国流」や「ミニ中国流」布石の発想は道策が最初である。
・また「手割り」と呼ばれる評価方法の確立など道策によって碁が大きく進歩し、日本の碁は高いレベルに達した。

≪棋譜≫道策「一生の傑作」
 天和3年(1683)11月19日 御城碁
      白 本因坊道策
 1目勝ち 二子 安井春知

※黒4…星の大ゲイマ受け 黒8…小目の二間バサミ

・道策いわく「当代の逸物」春知との二子局では、70手目の黒1に対して、白2から隅の黒を捨て、先手を取って右上に向かったのが素晴らしい。
 道策の碁は柔軟で大局観に優れ、部分戦では随所に妙手があり、ヨセが強く、ミスはほとんどない。

≪棋譜≫捨てて先手をとる
・白2から8までと左下隅を捨石にして下辺を強化し、白10からまた絶妙の打ち回し
(『道策全集』第3巻、日本棋院、1991年)




・本因坊道悦は延宝5年(1677)に隠居願を出して道策に家督を譲り、道策を名人碁所に推薦した。
 このときだけは他家から異論なく、翌年4月17日(家康の命日)の日付で名人碁所の証文が下されたという。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、228頁~229頁)

安井算哲(渋川春海 )の天元打ち


・初めての和暦(貞享暦[じょうきょうれき])を作った渋川春海(はるみ)の名は多くの人が知っているだろう。
 渋川春海は碁打ちの安井算哲(1639-1715)である。
 算哲は父の古算哲に学び、高い技量(上手)の碁打ちであったが、若いころから数学や天文、陰陽道を学んで暦法を研究し、中国の古い暦から新暦への改暦を主張した。
・道策に勝てなかった算哲は、秘策によって必ず勝つと豪語して、御城碁で道策に対する。
 秘策は天文研究を応用した起手天元。
 しかし、天元の是非以前に実力の差は歴然で、敗れた算哲は二度と天元に打たなかった。
・やがて算哲は綱吉の命で碁方から天文方に転じ、完成した貞享暦が実施(1685)される。
 安井家は算知が継ぎ、2世となった。

≪棋譜≫起手天元の局
・寛文10年(1670)10月17日 御城碁
 9目勝ち 白 本因坊 道策(跡目)
  先 安井算哲(2世、渋川春海)
※道策は御城碁14勝2敗。敗れた2局は二子局でいずれも1目負。


(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、230頁)

道策、琉球の名手と対戦


・スーパースター道策の時代に本因坊一門は隆盛を極め、門弟3千人と語られている。
 将軍綱吉の側用人(そばようにん)牧野成貞(なりさだ)や儒者の祇園南海(ぎおんなんかい)も門人で、その棋譜や逸話が残っている。
 道策門下から碁で士官する者もあった。
・中継貿易で繁栄した琉球王国は、島津家久の琉球出兵(1609)で薩摩藩に従属させられ、将軍と琉球王の代替わりの都度、慶賀使・謝恩使の江戸上りを強いられた。
 琉球は碁が盛んで、碁法はもともと自由布石であった。
・天和2年(1682)将軍綱吉の襲職慶賀使に、琉球の名手親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)が随行している。
 薩摩藩主島津光久が幕府の許可を得て、道策と浜比賀の国際対局が実現した。
 浜比賀は四子置いて、道策の妙技に敗れる。

≪棋譜≫国際対局の最古の棋譜
・天和2年(1682)4月17日 松平大隅守(薩州侯)邸
  14目勝ち 白 本因坊 道策
  四子     親雲上 浜比賀
 
・江戸時代から昭和初期まで、星に対するカカリには、「大ゲイマ受け」が絶対の定石だった。
 天和2年(1682)に来朝した琉球王国の名手親雲上浜比賀は薩摩藩の斡旋で、4世本因坊道策と対局の機会を得た。
 四子置いて道策に対した浜比賀は、図1の黒2、黒4と大ゲイマに受けている。
 当時の琉球も大ゲイマ受けが定石だった。(116頁)
【図1】


【図2】




・さらに1局の対戦を求め、第2局は3目勝ちだった。
 免状を強く望んだ浜比賀に、名人碁所道策は上手に二子以内の手合と漢文で記した免状を与えた。
 上手(七段)に二子は三段ということである。
 三段は名人に三子の手合。
・初手合の碁(上記の棋譜)は日本の名人の権威を賭けて勝ちにいった道策であるが、2局目は島津光久の顔を立て、免状は上手に二子としたのである。
 光久と浜比賀は大いに喜んだに違いなく、薩摩藩から道策に謝礼として白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壺、浜比賀から白銀10枚が贈られたと記録にある。
・藩主島津氏の祖先は渡来系氏族で、薩摩は戦国時代から碁が盛んであった。
 こののち、薩摩藩は道策の門弟を碁の指南役に迎え、琉球の碁打ちも指導を受けたと伝えられている。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、116頁~117頁、231頁~232頁)

最初の免状


・このときの免状が囲碁史上で最初とされ、道策が「段位制」を創ったといわれてきた。
 「ところが、昭和55年に故林裕氏が、長野県塩尻市の旧家から初代本因坊算砂と初代安井算哲の免状の写しを発見した」と水口藤雄が記している。
(水口藤雄『囲碁文化誌』2001年)
 林裕が「書簡のような免状」と言ったという算砂の免状には、「上手に対し先と二ツの手相に直し置き候」とある。
 上手に先二(四段)が許された釜屋太夫は、白木助右衛門の「国中囲碁三段以上姓名録」に四段とあり、一致する。
 算哲にも免状を貰っている。
(『囲碁年間1997年』日本棋院「免状の歴史と変遷」)

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、232頁、250頁)

道策の遺言


・道策には六天王と謳われた弟子がいた。
 13歳で棋力六段に達したといわれる小川道的は天才中の天才と呼ばれ、16歳で道策の跡目となるが、惜しくも22歳で夭折(1690)。
・星合八碩(ほしあいはっせき)は27歳(1692)で、道的の没後に道策が再跡目とした佐山策元は25歳(1699)で、元禄10年(1697)に道策の研究碁の相手を7局も務めた熊谷本碩(くまがいほんせき、生没年不詳)は23歳で、いずれも他界する。
・吉和道玄(よしわどうげん、生没年不詳)は筑後有馬家に士官し、晩成型で道策より1歳年少の桑原道節(1646-1719)だけが残った。
 道策は実弟を2世因碩(道砂)として井上家を継がせ、道節を道砂因碩の跡目(1690)として3世因碩を継がせる。
・元禄15年(1702)3月、道策が病没。
 同月に新井白石(1657-1725)が『藩翰譜(はんかんぷ)』を綱吉に献上し、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは同年12月である。
 死を前に道策は道節因碩を呼び、
  予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大に憂慮する所(中略)心に叶いたる者、神谷道知一人あるのみ。道知今年13歳にして二つの碁なりと雖も(中略)世に稀なる奇才なれば(中略)汝道知の後見となり(中略)名人碁所たらしむべし。
と、『坐隱談叢(ざいんだんそう)』(安藤如意、1909年)にある。
 また道策は、碁所を決して望んではならないと因碩に誓紙を認(したた)めさせたとある。
 『坐隱談叢』はそのまま信ずるには足りない書であるが。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、233頁)

玄妙、道策の世界~酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』より


第三章 玄妙、道策の世界
第1局 中原雄飛の快局
寛文十年(1670)三月十七日
 本因坊道策
 二子 菊川友碩

名局中の名局という(171頁)



〇玄妙の極致
 白101の利かし一本で中央がほぼ止まり、白103と手どまりの大ヨセに回って遂に追い抜いた。
 序盤の石捌きが芸術品なら、中央経営をめぐっての中盤戦もすばらしく、白103に至る最後の仕上げに至っては玄妙の極みというしかない。
 
※本局は二子局であるが、すべての着手が感動的であり、
道策の作品としては名局中の名局に入ると思うとする。
 (酒井猛『古典名局選集 玄妙道策』日本棋院、1991年[2001年版]、162頁~171頁)

原爆下の対局~平本弥星『囲碁の知・入門編より


・第11期棋聖戦第3局は広島で打たれ、立会人が岩本薫九段、解説は橋本宇太郎九段だった。
 このときの碁盤と碁石は、歴史に残る「原爆下の対局」で両九段が使用した盤石である。

・第3期本因坊戦は昭和20年(1945)に行なわれた。
 物資が窮乏して前年に新聞から囲碁欄が消え、「碁など打っている時局か」といわれるなかで、広島に疎開していた瀬越憲作(せごえけんさく)八段が本因坊戦の実現に奔走した。
 やがて戦争は終わる。
 囲碁復興のためには本因坊戦の灯を絶やしてはならないと、瀬越は考えたのであった。
・20年5月の空襲で溜池(ためいけ)の日本棋院が焼失。
 焼野原の東京を離れ、広島市で7月23日に七番勝負第1局が開始された。
 第6局までコミなしで3日制。
 日本棋院広島支部長の藤井順一宅で打たれ、屋根に米軍機の機銃掃射を浴びながら、防空壕に入らず打ち終えたという。
 挑戦者岩本薫七段の白番5目勝だった。

・第2局は警察から「危険だから市内で打ってはいけない」と厳命があり、広島郊外の五日市(いつかいち)で8月4日に開始された。
 8月6日午前8時15分、原子爆弾投下。
 3日目の再開直後で、局面は106手くらいだった。

≪棋譜≫(1-106)
〇昭和20年(1945)8月4、5、6日
 広島県五日市
 第3期本因坊戦七番勝負第2局
 中押し勝ち 白 本因坊 橋本昭宇
      先番 七段  岩本薫

※記録係は三輪芳郎五段(1921-94 九段)

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、37頁)

・岩本は『囲碁を世界に』でつぎのように語っている。
  いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。障子とか襖は倒れ、固いドアがねじ切れた。広島から五日市までは二里半、約十キロメートルである。ピカッと来てからドカンまで、実際は三十秒足らずのはずだが、五、六分ぐらいに長く思えた。ひどい爆風で、私は碁盤の上に俯(うつぶ)してしまった。
(岩本薫『囲碁を世界に』講談社、1979年)

・橋本本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。
 ガラスの破片や碁石が散乱した部屋を掃除して対局は続行され、橋本本因坊の白番5目勝ちとなった。
・棋譜をながめて、深い問いを禁じ得ない。
 生きるとはどういうことか。碁とは何なのか。
 
 いっぺん死んだのだ、あとどうすればよいか?
 どうせ死んだものなら、これからひとつ碁界のために尽くそうではないか、そんな気持を抱くようになった。

 岩本九段は後半生を囲碁の国際普及に捧げ、日本棋院海外センターを欧米4都市に設立。
 シアトルの日本棋院米国西部囲碁センターの外壁には原爆対局の棋譜が飾られ、館内の岩本九段のレリーフが、来訪者を惹きつけているという。


※岩本薫(1902-99)
・島根県。広瀬平次郎八段門下。第3、4期本因坊。戦後復興期に一時日本棋院理事長。
 海外普及に貢献。
42年(1967)九段。
 著書『囲碁を世界に』講談社、1979年

※橋本宇太郎(1907-94)
・大阪。瀬越九段に入門。第2、5、6期本因坊。
25年(1950)日本棋院から分離し関西棋院を創立。29年九段。十段2期。王座3期。

※瀬越憲作(1889-77)
・広島県能美島。戦後に日本棋院理事長。
 囲碁文化の普及に貢献し、『御城碁譜』(1952年)、『明治碁譜』(1959年)を編纂。
 30年(1965)引退、名誉九段。

※空襲
・1945年3月10日の東京大空襲では死者10万人。
※原子爆弾投下
・1945年8月6日広島、9日長崎に米軍が原子爆弾投下。
 原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。

(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、36頁~38頁、250頁)



川端康成『名人』~平本弥星『囲碁の知・入門編より


・川端康成の小説『名人』の冒頭は次のようにある。
  第二十一本因坊秀哉名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。

・川端は『雪国』をはじめ日本人の繊細な心を巧みに表現した数々の名作を残した。
 本因坊秀哉名人の引退碁を題材にした『名人』もその一つである。
 昭和43年(1968)に川端がノーベル文学賞を受賞する以前から、ヨーロッパで『名人』の翻訳が出版されていた。
・昭和13年(1938)6月26日に始まった名人引退碁は、持時間各40時間、15回にわたって打ち継がれ、12月4日終局。
 名人の病気入院で3カ月の中断があったとはいえ、半年もかかった空前絶後の長い勝負だった。
・昭和12年秀哉名人が引退を表明。
 引退碁の選士を六段以上の棋士によるリーグ戦で決定することになり、木谷実七段が優勝した。
・毎日新聞(東京日日新聞・大阪毎日新聞)が掲載した川端の観戦記は66回を数え、川端が戦後にそれを小説化したのが『名人』である。
 木谷七段を大竹七段としているほかは実名となっている。
・芝公園の紅葉館で初日は2手だけ、翌日に12手まで進んだところで箱根の奈良屋旅館に移り、7月11日から打ち継がれた。

≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・昭和13年(1938)6月26日~12月4日
 白 名人 本因坊秀哉
 黒 七段 木谷実


・24手目、白1のアテが名人の新手。
・黒2とアタリの石を逃げたとき、白3のオシ。
・ここで次の手が封じ手となった。
・5日後に打ち継がれ、開封された木谷七段の一手は黒4のキリ(アタリ)だった。

※秀哉(1874-1940)
・本名田村保寿(ほうじゅ)。世襲制最後の21世本因坊。
 村瀬秀甫(しゅうほ)の方円社で学んだ後、放浪。
 朝鮮の亡命政治家金玉均(きんぎょくきん)の紹介で19世本因坊秀栄に入門。
 1914年名人。

※川端康成(1899-1972)
・北条泰時の末裔という。碁を好んだ。

※木谷実(1909-1975)
・鈴木為次郎に入門。大正13年(1924)入段。
 昭和8年(1933)呉清源とともに「新布石」を打ち始める。
 最高位2期(1957、58)ほか。本因坊に3度挑戦し敗れる。
弟子を多数育成。木谷一門の総段位は500段位を超える。

※アテ
・アテる=アタリを打つ。アテ=アタリを打つこと。
※新手
・布石や定石において、実際に打たれた新しい有力な手。
※アタリ
・あと一手で囲んで取れる(抜ける)状態のこと。
※オシ
・相手の後から押す手。
※キリ
・相手の連絡を切る手。
(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、26頁~27頁)

アタリとシチョウ


・『名人』は観戦記ではない。
 川端の眼に映る、秀哉名人を中心とする人物や情景を描写した小説である。
 碁の解説はなく、盤上の一手一手も出来事の一つひとつである。
  死の半月前、名人は日本棋院の囲碁始め式に臨んで、連碁に参加した。
・「祝賀の名刺を置いて行く代り」のような連碁の最後を秀哉が打つことになり、その最後の一手に名人は40分考えたとある。
 秀哉名人は将棋や麻雀でも長考したという。
・碁の手順を前後して様々な描写を織りまぜる『名人』は、この局面にふれていない。
   28手目、白はアタリの一子を白5と逃げ、黒は6にオサエ。そして白7。黒一子がアタリです。しかし黒は逃げず黒8とノビて、白9で一子を取りました。黒10から白13と進み、ここまで「ほとんど必然とみられる」と木谷の解説(『囲碁百年』)にある。

・引退碁は木谷七段の5目勝ちで終局した。

≪棋譜≫秀哉名人引退碁
・持時間各40時間 消費時間(終局時)
名人 本因坊秀哉 19時間57分
  七段 木谷実  34時間19分


(平本弥星『囲碁の知・入門編』集英社新書、2001年、28頁~29頁)

秀哉の生い立ち、川端康成『名人』~中山典之『昭和囲碁風雲録 上』より


〇秀哉の生い立ちについて
・明治7年(1874年)6月24日生まれで、昭和15年(1940年)の1月18日に亡くなっているから、数えどしの67歳。
 満65年半の栄光に満ちた生涯だったようだ。
 しかしながら、その少年時代は辛苦そのものの日常だった。
 社会のどん底から這い上がって第一人者となり、それを維持したまま生を終えるまでの道のりは、文字通り一生を貫いた闘争史であった。

・二十一世本因坊秀哉。本名は田村保寿、徳川幕府の旗本だった父、田村保永の長男として生まれた。この親父殿は大局を見損じて、佐幕派の陣に走り、彰義隊に参加したりしたので、官員になったものの将来性は全くなく、失意の日常を好きな碁でまぎらわしていた。保寿は父の碁を眺めているうちに自然と碁を覚える。ときに数えの8歳だったという。
・10歳、近所の碁会所の席亭が勧めるままに方円社を訪ね、村瀬秀甫八段に十三子置いて一局教わり、直ちに入塾を許される。
・11歳で母を亡くし、17歳で父を失う。
 孤高の名人と言われる秀哉は、一人で社会に放り出されて、少年時代から孤独だった。
 頼りになるのは自分だけなのである。

・17歳のとき、方円社から二段格を許されたが、もちろんそれで一家を構えられるわけがなく、方円社の最底辺に在って心はあせるばかりだった。実業界に進出しようとしたが、失敗した。方円社にも顔を出さなかったこともあり、追放処分にされてしまう。ときに田村保寿二段、数えの18歳。
・房州の東福院というお寺さんの和尚に拾われ、自分には碁しかないのだということがわかる。保寿は麻布六本木に教室を開く。そこに、たまたま朝鮮から日本に亡命していた金玉均が入ってきた。金と本因坊秀栄七段は親友であり、時の第一人者秀栄に紹介されたのが開運の端緒になったそうだ。秀栄は保寿に四段を免許し、秀栄の門下生になった。
・ここからの保寿の奮闘ぶり、精進のさまがものすごかったとされる。
 師匠の秀栄には定先で何とかしがみついている程度だったが、競争相手の石井千治をついに先二まで打込み、雁金準一を撃退し、秀栄の歿後に本因坊秀哉を名乗って第一人者となる。

・晩年には鈴木為次郎、瀬越憲作の猛追に苦しみ、最晩年には超新星、木谷実、呉清源の出現を見たが、ともかくも明治晩年から昭和初年に渉る巨匠秀哉だった。 
 亡くなる寸前まで、第一線で活躍した現役の名人本因坊秀哉だった。

・中山典之氏によれば、秀哉名人は古名手たちと比べてみると、世俗的な見方からすれば最も幸福な生涯を得た人といえるようだ。
(幸福と言う語が当たらぬとすれば、幸運と言うべきだろうかとも)
 名人位に在ること満27年。
 功成り名遂げて世の尊敬を集め、本因坊位を後世にゆだね、惜しまれながら去った。
・歴代名手に思いをめぐらせば、名手本因坊秀和は優に大名人の力がありながら貧窮のうちに世を去った。
その秀和師匠が秀策にもまさると評した村瀬秀甫は、本因坊八段になって僅か3か月で死んだ。
名人中の名人と言われた、秀哉の師匠、本因坊秀栄も、名人在位期間は僅々8か月に過ぎない。

・秀哉名人の墓所は、東京の山手線巣鴨駅から北の方へ徒歩10分ほどの、本妙寺にある。
 そこには本因坊道策名人以降の歴代本因坊や跡目の墓石も並んでいる。
 そして、秀哉歿後60余年を経た今でも、命日の1月18日には、日本棋院が主催し、時の本因坊を祭主として、「秀哉忌」が行われているという。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、192頁~195頁)




〇「第十章 秀哉名人の引退と本因坊戦の創設」の「秀哉名人、引退の花道」(173頁~177頁)において、川端康成『名人』について中山典之氏は言及している。

・昭和13年(1938年)6月26日。
 本因坊秀哉名人対木谷実七段の「引退碁」が始まった。
 秀哉ときに64歳、木谷29歳。

・対局場は箱根、伊東と移り、途中で秀哉名人の病気が悪化して3か月の中断があったりしたが、12月4日に漸く終局した。
 結果は木谷七段5目勝ち。
 不敗の名人は最終局を飾れなかったが、64歳にして若い木谷七段をあわやという所まで追いつめた名局であるとされる。

・なお、この碁の観戦記者は文士の川端康成だった。
 また解説は呉清源六段だった。
 毎日新聞も、また粋なはからいをしたものだと思う。
 名局を読者に紹介する観戦記者がヘボ文士であってはならぬし、解説者が凡手であってもならない。
 毎日はこの意味で最善の手を打ったと申せよう。
 川端康成の観戦記は第62譜に及ぶ大がかりのものだったが、氏はこの長期間、盤側を離れることなく、対局両者と対局場の空気を伝えている。

・その62回に及ぶ観戦記を読んでみて、川端先生はやはり最高の観戦記者であると思う、と中山氏は記す。
 当時の棋力はプロに六子ぐらいの碁だから、手のことはチンプンカンプンだったろうと思うが、一刻も目を離すことなく、ピンと張りつめた対局場の雰囲気を伝えてくれたという。

・なお、川端氏は、この観戦記を材料にして、小説『名人』を書いた。
 観戦記では書きにくかったことも付け加えて、木谷七段を「大竹七段」と仮名で登場させているが、その他の棋士や関係者は全員実名で書かれている。

〇その観戦記の第1譜と、第63譜の一部を引用している。
「居並ぶ人々は息を呑む。もう名人は、いつも盤に向ふ時の癖、静かに右肩を落してゐる。その膝の薄さよ。扇子が大きく見える。木谷七段は眼をつぶつて、首を前後左右に振つてゐる。
 名人は立ち上つた。扇子を握つて、それがおのづから、古武士の小刀を携へて行く姿だ。盤の前に坐つた。左の手先を袴に入れ、右手を軽く握つて、昂然と真向きだ。磨かれた名盤を挟んで七段も席についた。名人に一礼して碁笥の位置を正した。無言のまま再び礼をすると、七段は瞑目した。そのしばしの黙想を破るかのやうに、
 「はじめよう。」と、名人が促した。小声だが、なにをしてゐるかといはぬばかりの、力強い挑戦だ。ほつと七段は眼をあいたが、再び瞑目した。驚くべき慎重の態度と思ふ間もなく、戛然(かつぜん)たる一石だ。時に十一時四十分。
 新布石か、旧布石か。星か、小目か。ただの第一著手ではない。満天下の愛棋家の無限の注目を集めた第一著手は、見よ、「17四」、旧布石の典型の小目だつたのだ。」

「名人が、無言のまま駄目を一つつめた瞬間、
 「五目でございますか。」と傍から小野田六段がいつた。敦厚(とんこう)な小野田六段の性格が聞える、敬虔な声であつた。はつきり分つてゐるものを、今更ここで作つてみる、その労を省かうとした、――名人への思ひやりなのである。
 「ええ、五目。」と、名人はつぶやいて、少し脹(は)れぼつたい瞼を上げると、もう作つてみようとはしなかつた。」

なお、最後の秀哉の言葉。もう一人、現場にいた三谷水平さん(ペンネーム芦屋伸伍)は、「左様。五目。」と、力強く応答したと言つている。
つぶやいたか、力強く応じたかは聞く人の感じで違うが、秀哉名人の大役を果した安堵の声が聞こえて来る。
(中山典之『昭和囲碁風雲録 上』岩波書店、2003年、173頁~177頁)

【補足】
・川端康成の『名人』については、次のような論文がネットで閲覧可能である。 
 後日、紹介してみたい。
〇福田淳子
「「本因坊名人引退碁観戦記」から小説『名人』へ―川端康成と戦時下における新聞のメディア戦略―」 
 『学苑・人間社会学部紀要』No.904、2016年、52頁~67頁