歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』を読んで その1 私のブック・レポート≫

2020-01-29 19:07:15 | 私のブック・レポート
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』を読んで その1 私のブック・レポート≫




【はじめに】


今回のブログでは、元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』(小学館、2012年)を紹介してみたい。
まず、目次と執筆項目を記しておき、内容要約をしてみたい。



元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年
目次
はじめに
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
第二章 イエス・キリストの笑い
第三章 フェルメールの笑う女たち
第四章 笑いの裏側
第五章 絵を見て笑う
あとがき
主要参考文献

さらに第一章は次のような節に分かれる。
第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
 「笑顔」の付加価値
 ゴシックの笑顔
 肖像画の成立
 婚活のための肖像画
 道化師と子どもの笑顔
 ≪モナ・リザ≫は笑っているのか?








※≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』はこちらから≫
元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎 』


元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎』 (小学館101ビジュアル新書)




執筆項目は次のようになる。
(章立てに沿って紹介するが、ただし節の名称は変更したことをお断りしておきたい)


第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?
・肖像画の歴史と笑顔
・ゴシックの肖像彫刻の笑顔
・肖像画の成立
・肖像画の顔の向きによる形式
・四分の三観面像の優勢――ヤン・ファン・エイク
・婚活のための肖像画
・ヤン・ファン・エイクとハンス・ホルバインの肖像画の違い
・道化師と子どもの笑顔
・≪モナ・リザ≫は笑っているのか?という問い
・レオナルド作品の微笑
・ルネサンスにおける女性美の考え方
・《モナ・リザ》という絵画について

第二章 イエス・キリストの笑い
・笑うマリアと笑わぬキリスト
・禁じられた笑い
・イエスの反撥
・ペストという分岐点とイエス像の二つのタイプ
・恩恵へと誘う笑い
・育児のための絵
・ラファエロが描いた幼子イエスの笑顔

第三章 フェルメールの笑う女たち
・フェルメールが愛される理由
・笑顔に潜む謎
・「幸福な家族」という神話
・フェルメールの絵に見える召使いの笑顔
・マースの絵に見られる笑顔
・ルネサンスの絵画と17世紀オランダの絵画の違い
・フェルメールの≪手紙を書く女≫の笑顔
・フェルメールの≪2人の紳士と女≫の笑顔
・フェルメールの風俗画の特徴
・フェルメールの絵の謎







第一章 モナ・リザは、なぜ微笑むのか?


肖像画の歴史と笑顔


西洋絵画における笑顔といえば、「モナ・リザ」の微笑(ほほえみ)が思い出される。一般に「謎の微笑」と呼ばれている。元木氏は、もともと微笑というのはほとんどつねに謎めいているといい、「モナ・リザ」の微笑には、はたして謎などというものがあるだろうか、というところを出発点として、第一章の筆を進めている。
「モナ・リザ」は肖像画であるから、肖像画の歴史をたどることで、笑顔がいつどのようにして登場したかを解き明かしている。

キリスト教社会のヨーロッパ絵画で、現世の生きた人物の肖像が描かれ始めるのは、教会に置かれた宗教画の寄進者像であったようだ。キリスト教会では、宗教画を寄進した人の像を画面に描き込んだ。
よくある例のひとつは、三連祭壇画である。中央画に、イエスの物語場面や聖母子像が描かれ、その左右両脇の翼画に、祈りを捧げる姿で寄進者像が描かれる。この場合、神への祈りの最中に、まさか笑いを浮かべるわけにはいかないので、寄進者像に笑顔はない。

さて、宗教画から独立した単独の肖像画が誕生するのは、14世紀中ごろである。しかし、初期の独立肖像画に、すぐに笑顔が登場するわけではない。というのは、肖像画には用途があり、初期の用途は笑顔を必要としなかったからである。肖像画に笑顔を加えることによる付加価値が生まれてはじめて、笑顔が登場することになると元木氏はみている。

ゴシックの肖像彫刻の笑顔


中世以降のヨーロッパ美術における肖像表現の歴史は、絵画よりも彫刻の方が古くまで遡ることができ、肖像画より100年近くも早い13世紀半ばには出現する。
草創期の肖像彫刻のひとつ、ドイツ中部ナウムブルク大聖堂の西内陣にある寄進者肖像に早くも笑顔が登場する(1250年頃、砂岩、175~185㎝、ナウムブルク大聖堂[ドイツ])。

その≪辺境伯ヘルマンと伯妃レクリンディスの像≫のうち、妃レクリンディスは、艶(あで)やかな笑いを浮かべている。彼女は胸元に手をやって、あっけらかんと笑い、おおらかな性格が偲ばれる。
また、西内陣のもっとも有名な寄進者肖像彫刻は、≪辺境伯エッケハルト2世と伯妃ウータの像≫であるとされる。ゴシック肖像彫刻(ゴシックとは、12世紀半ば~15世紀の美術様式)の白眉といえるほど美しいウータ像であるが、こちらは笑顔ではなく、内気で恥ずかしそうな表情である。

ただ、これらの寄進者たちは、像が制作された13世紀半ばの人物ではない。つまり、生きているモデルを前にして写すという意味での肖像ではない。1249年、ナウムブルク司教の嘆願書によれば、これらの像は、この大聖堂の最初の寄進者たちで、2世紀ほど以前の11世紀の寄進者たちであるという。すなわち、これらの像は過去の偉大な寄進者たちを顕彰した像であり、彼らに負けずに寄進してほしいと嘆願するための像であるそうだ。レクリンディス像のおおらかな笑顔は、過去の人物を鮮やかに思い浮かべるための仕掛けだったと元木氏は説明している。

肖像画の成立


絵画が肖像画から誕生したという由来については、古代ローマの博物学者プリニウスが伝えている。恋人が遠方へと赴任することになった時、壁に投影された恋人の影の輪郭をなぞって描いたという。これが絵画誕生のひとつだった。実際の人物の代用品としての肖像画である。独立肖像画が成立した14世紀中ごろの文学には、遠く離れた人物の肖像画をもって本人の代用とした例があるそうだ。
例えば、イタリア・ルネサンスの詩人ペトラルカは、1335年頃に同時代の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)が描いた恋人ラウラの肖像画についての詩をつくっている。また、1363年から64年頃に、フランスの詩人ギョーム・ド・マショーは、恋人ぺロンヌにあなたの肖像画を送ってもらい、それをベッドの傍らに置いたという。

さて、現存する最古の肖像画は、ほぼ同時期に描かれたものである。
・一つは、ルーヴル美術館蔵のフランス国王を描いた作者不詳≪ジャン・ル・ボン像≫
(1350年頃、55.6×34㎝、ルーヴル美術館[パリ])
・もう一つは、ウィーンにある作者不詳≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫(1365年頃、48.5×31㎝、大聖堂司教区美術館[ウィーン])
ともに、14世紀中ごろ(1350年頃から1365年頃)に制作された。ただ、この2点は形式が異なる。

肖像画の顔の向きによる形式


肖像画は、顔の向きによって、大きく3つに分類できる。
① 真横の「プロフィール像」
② 斜め横を向いた「四分の三観面像」
③ 真正面を向いた「正面像」
先の「ジャン・ル・ボン像≫はプロフィール像、≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫は四分の三観面像ということになる。これ以降50年以上にわたって、プロフィール像が一般的な形式となる。だから、≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫は当時唯一のきわめて異質な作例である。
プロフィール像と四分の三観面像の違いについて、元木氏は次のように説明している。
人の特徴をとらえるとき、一般には真横より斜め横顔の方が明示しやすい。つまり、両眼、両頬の方がその人の特徴が現れやすい。
また、絵を見る人に視線を向けるのが横顔では難しいので、画中の人物と絵を見る人との心理的な交流は、横顔ではかなり困難であるという(逆に言えば、人物がそっくりかどうかをそれほど問題にしない場合や、見る人との交流を想定しない絵では、横顔でもよいということになる)。

さて、最初期の二つの絵は、どちらも君主像である。≪ジャン・ル・ボン像≫は、画面上部に彼の名が明記しているので、モデルの正体がはっきりする。そして≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫で額縁に銘が入っている上に、冠をかぶっていることで、正体が明らかである。
二人とも正体が明示されるが、絵を見る人との交流を想定していることに元木氏は注意を促している。≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫は四分の三観面像だが、視線がこちらを向いてないことからすれば、やはり見る人との交流は意図していないという。

この二作品以降、しばらくの期間、肖像画は支配者層がモデルである。支配者像は、絵を見る人との交流を意図するよりも、支配者の力を誇示することが意図される。≪オーストリア大公ルドルフ4世像≫を除いてプロフィール像が半世紀以上も支配的な形式として続くのは、制作意図の観点から、四分の三観面像である必要がなかったからであろうと元木氏は推測している。
(元木、2012年、22頁~26頁)

四分の三観面像の優勢――ヤン・ファン・エイク


四分の三観面像が優勢になるのは、1420年から30年頃のフランドル(現在のベルギー)においてであった。ロベール・カンパン(1370年代後半~1445)やヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441)の肖像画にみられる。
この種の肖像画で画中に制作年が記されている最古の作品は、1432年のヤン・ファン・エイクによる≪ティモテオスの肖像≫(1432年、33.3×18.9㎝、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])である。石の胸壁の向こうに画面左斜め方向を向いて、緑のターバンを巻いている男性が描かれている。モデルは不明である。ただ、その衣装から判断して、貴族ではなく市民階級の人物とみられている。
胸壁には、大きな文字で、「誠実なる思い出」という意味のフランス語の銘文が書かれている。肖像の本質を適切に言い当てている言葉である。肖像画誕生にまつわるプリニウスの伝説をひとことで表せば、「誠実なる思い出」となる。
ヤン・ファン・エイクは、7年後に妻の肖像≪マルガレーテ・ファン・エイク像≫(1439年、32.6×25.8㎝、フルーニンゲ美術館[ベルギーのブリュージュ])を描いた。
額縁に「わが夫ヨハンネス、これを完成せり」と書かれていることから、画家ヤンが妻を描いた肖像であるということがわかる(「ヨハンネス」とは「ヤン」のことである)。
この作品の視線が注目に値するという。奥方は、こちら(絵を見るわれわれの方)を見ている。制作中、モデルである妻が見つめている相手は、画家である夫ヤンであることになる。

その視線が本来は画家である夫を見つめている妻の視線であることを理解し、そのような夫婦間の視線の交流を想像して、この作品を見るということになる。しかし、この絵では、妻の顔に何らかの表情を読み取るのは難しい。ヤンは何ら感情を描写していない理由を考えてみることが大切だと元木氏はいう。

そのことによって、逆に笑いなどの表情が生れてくる要因があきらかにされると考えている。そのためヤン・ファン・エイクが宮廷画家として肖像画制作に関わった記録を検討している。
(元木、2012年、26頁~30頁)

婚活のための肖像画


ヤン・ファン・エイクは、ヨーロッパでは強国のひとつとされたブルゴーニュ公国(現在のオランダ、ベルギー、フランス東部を支配)の宮廷画家だった。
君主フィリップ善良公(在位1419~67年)は、1425年、公妃を病で失ったので、ヨーロッパじゅうから新しい公妃を求めた。縁談交渉外交を繰り広げ、宮廷画家ヤンをその外交団に随行させた。
画家の随行理由は、1428年から29年にかけてのポルトガル派遣使節団の記録から判断する。つまりフィリップ公はポルトガル王女イザベラとの縁談を進めようとしており、ヤンはその肖像画を描くために随行させられた。ヤンは一か月余で2枚の王女の肖像画を描き、フィリップ公に送った。
ヤンの役割は、今日風にいうと、お見合い写真にあたる婚活用の肖像画を描いて、判断材料を提供することであった。

大げさに言えば、ヨーロッパの国際政治を左右しかねないほど、重大な任務であった。そのような肖像画では、似ていることが必要条件になる。フィリップ善良公とイザベラとの結婚はうまくいったが、不幸な例もある。つまり肖像画に基づいて婚約したけれど、実際に会ってみたら全然似ていなくて、君主はがっかりして、妃との関係もうまくいかない場合である。
元木氏もこの例として、1539年、イングランド国王ヘンリー8世(在位1509~47年)と、クレーフェ公(現在のオランダとドイツにまたがるライン川沿岸地域)の娘アンナとの結婚で、公女の肖像画を描いたハンス・ホルバイン(子)(1497/98~1543)の件を挙げている。
ホルバインが描いた≪アンナ・ファン・クレーフェの肖像≫(1539年、テンペラ、羊皮紙(カンヴァスに貼付)、65×48㎝、ルーヴル美術館[パリ])を見て結婚を決めたヘンリー8世の事例である。
(川島ルミ子氏もこのハンス・ホルバインを例に挙げていた。川島、2015年、94頁~95頁。アン・オブ・クレーヴズの項参照のこと)。

このような事例を見ると、肖像画が本人に似ているかどうか(肖似性)は、画家の運命をも左右するほど重要な要素だった。そのため、そこに表情が介入する余地はなかったと元木氏は考えている。例えば、笑顔は美化と受け取られかねないからであるという。
(元木、2012年、30頁~31頁)

ヤン・ファン・エイクとハンス・ホルバインの肖像画の違い


ヤン・ファン・エイクが描いた肖像画は、すべて斜め横顔の四分の三観面像であるそうだ。1420年代から30年代は、四分の三観面像の肖像画が優勢になりはじめた時期だった。そうすると、プロフィール像から四分の三観面像への変化には、肖似性への要求が関係していると元木氏はみている。

一方、ホルバインのアンナ像は正面向きだった。正面観像は、神の像がしばしばそうであるように、その像に威厳を与える意図のもとで選択されたそうだ。
加えて、肖似性という点では、四分の三観面像に比べると、顔貌の立体感、ことに鼻の形状などが不鮮明となり、不利である(とすると、ヘンリー8世が似ていないと怒ったのは、正面観像だったことにも関係するとみる。つまり、ホルバインは威厳ある存在として王侯を描く際に使用すべき顔の向きを、縁談用の肖像画に採用して描いてしまったというのである。この点に、プロフェショナルな宮廷画家としての大きなミスがあったのではないかともいう。

道化師と子どもの笑顔


肖像画に表情が誕生するのは、ヤン・ファン・エイクよりあとの時期で、しかもフランドルではない地域である。
道化師の肖像画として、15世紀フランスの画家ジャン・フーケ(1420頃~80頃)(あるいはその周辺の画家)≪ゴネッラ≫(1440年代、油彩、36×24㎝、美術史美術館[ウィーン])という絵を挙げている。ゴネッラは、イタリア北部のフェラーラ宮廷に仕えた道化師だそうだ。彼は腕を組み、口には薄ら笑いを浮かべている。

この場合の笑いは、そのときの感情というよりも、道化師という生業を指示する目印かもしれないと元木氏は解釈している。この笑いは、絵を見る人を明るくする笑いではなく、絵を見る人を挑発しているようなアイロニーに満ちた笑いとする。

ところで、イタリア・ルネサンスの≪モナ・リザ≫をみる前に、セッティニャーノ(1430頃~64)の≪笑う少年の胸像≫(1463年頃、大理石、高さ33㎝、美術史美術館[ウィーン])という肖像彫刻を取り上げて紹介している。
この時代、これほど大きな口を開けて笑っている顔は、他にはほとんど例がないそうだ。それは、無邪気さを余すところなく描写している。笑顔は今日では幸せの表徴と見なされるが、この少年の笑顔もそれに近い笑いである。

これらのルネサンス肖像2点の笑顔を比べると、共通の性格に気づく。道化師も子どもも、自ら肖像画を注文するような人たちではなかった点である。この時代、通常、肖像画の依頼主は、君主・妃・貴族・裕福な市民層であった。だから、これらの肖像を注文したのはモデルとは別の依頼主であり、笑顔を描かせたのは依頼主であろう。つまり、依頼主が肖像画にある種の表情を期待するようになったとみることができる。その「期待される表情」が笑顔だったとき、笑顔の肖像画が誕生すると元木氏はみる。

≪モナ・リザ≫は笑っているのか?という問い


それでは、あの≪モナ・リザ≫は、誰が、どのような内容の笑顔を期待したものなのだろうかという問いを元木氏は発する。
まず、≪モナ・リザ≫が笑っているかどうかを検討する。
微笑はえてして笑っているかどうか、はっきりしない。この≪モナ・リザ≫という絵こそ、そのような不可解さをもっている。
≪モナ・リザ≫が笑っていると早い時期に記述したのは、ヴァザーリの『芸術家列伝』(第1版1550年、第2版1568年)の「レオナルド・ダ・ヴィンチ伝」においてである(レオナルドが亡くなって、半世紀もたたずに出版された)。

その列伝によると、レオナルドは、モナ・リザ(リザ夫人の意)の微笑を得るために、音楽を聴かせたり、道化師を呼んで、楽しい雰囲気を作らせたりしたという。なぜなら、肖像画は「憂鬱な気分を絵に与えてしまう」ことが多いので、それを避けるためで、その結果、「人間的というより、神的なもの」が見えるようになり、この絵は生き生きしたものになったという(道化師の演技で笑わせて「神的」なものが生まれるとは、いささか奇妙であると元木氏は記している)。

≪モナ・リザ≫は笑っていると当時の人が見て取ったことがわかる。また、当時の肖像画が、一般に「憂鬱な気分」をもっていると見なされていたことも注目に値するとしている。16世紀初頭に至っても、まだ多くの肖像画は真面目な顔をして、無表情に描かれていたようだ。
(元木、2012年、38頁~40頁)

レオナルド作品の微笑


ところで、どうして≪モナ・リザ≫は微笑んでいるのだろうか。
レオナルドの作品では、≪モナ・リザ≫だけが微笑んでいるわけではないと元木氏はいう。例えば、
・≪聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ≫(1500年頃、黒チョーク、紙(カンヴァスに移行)、141.5×104.6㎝、ナショナルギャラリー[ロンドン])
この聖母と聖アンナも、魅力的な微笑を浮かべている
・≪岩窟の聖母≫(1483~86年頃、油彩、199×122㎝、ルーヴル美術館[パリ])
この画面右側の天使の微笑

・≪ブノワの聖母≫(1478~80年頃、油彩、カンヴァス(板より移行)、49.5×31㎝、エルミタージュ美術館[サンクト・ペテルブルク])
この聖母が微笑するのも魅力的である。

このように、微笑はレオナルドの手で描かれる人物像のチャームポイントのひとつである。
しかも、≪モナ・リザ≫以外は、聖母、聖人、天使と、すべて神聖な存在である。
ヴァザーリが微笑に「神的」なものを読み取れるといったのは、そのような背景があってのことであろうと元木氏はみている。
また、≪聖アンナ、聖母子と洗礼者ヨハネ≫の画面中央上、聖アンナの微笑は、神秘的な表情を、人間離れした魔的な魅力を発散している。ヴァザーリが≪モナ・リザ≫の微笑にも「神的」と表現したのは、そのような微笑を念頭に置いたからであろうという。
また、妻リザの肖像画を依頼した夫ジョコンドも、レオナルド作品の神秘的な微笑に魅せられていたと推測している。
(元木、2012年、40頁~42頁)

ルネサンスにおける女性美の考え方


ここで元木氏は、ルネサンスにおける女性美についての考え方という、別の側面から考えている。
ルネサンス期のイタリアでは、多彩な論評が現われ、美人論のその例の一つである(美人について論ずるなどというのは、よほど暇でないとそんなこと考えないであろうから、爛熟した文化の証拠ともいえる)。

その美人論の中で、女性の微笑について、16世紀イタリアの文人フィレンツォーラは、『女性の美しさについて』(1548年)で触れている。
女性の口元は微笑を浮かべると、「天国のごときもの」へと変貌すると述べているが、ルネサンス期の人々は、微笑に神秘的な雰囲気を感じられる。
さらに、女性の微笑というものは、「心の平静さと安らぎ」を伝える甘美な使者だと述べ、微笑は安らかな心を示すだけでなく、何かしら甘美なものをもたらしてくれるという。加えて、微笑は「晴朗な魂の輝き」であるとも、礼賛している。

そのように、当時の上流社会で女性の微笑が礼賛されていた。リザの夫はこうしたことを知っていたであろう。微笑を浮かべる女性が美人の典型とされていたから、《モナ・リザ》に微笑が描きこまれたのかもしれないとも元木氏は考えている。

《モナ・リザ》という絵画について



さて、近年、《モナ・リザ》のモデルが、モナ・リザ(リザ夫人)であることがほぼ確定した。フィレンツェの裕福な市民フランチェスコ・デル・ジョコンドが、14歳下の妻リザを描かせたというヴァザーリの記録が真実であると確認されたと元木氏は明記している。

ジョコンドは30歳で、2度目の結婚だった。一方、リザはジョコンドに比べると貧しい家の生まれだったが、16歳の時に、いわば「玉の輿」に乗った。つまり、リザは「高貴」な家の女性ではなかった。

先述したように、ルネサンスの肖像画で笑顔を浮かべているのは、肖像画のモデルが依頼者自身ではない場合が多いのではないかとみたが、この《モナ・リザ》という作品にも当てはまると元木氏はする。この肖像画の依頼者は、リザの夫ジョコンドであるが、≪モナ・リザ≫の微笑がもっている諸要素は、夫の妻に対する願望の反映と理解することができると元木氏は考えている。つまり、モナ・リザは、おそらくその若さと美貌のゆえに、ジョコンドと結婚できたであろうが、とすれば、「神的」な美しさをもつ高貴な女性というのは、夫ジョコンドの願望、期待だったとみる。

実像がけっして「高貴」ではなく、年齢的にかなり若い妻であったからこそ、本来の姿より、ずっとハイクラスな女性として描かせようと微笑の得意な大画家レオナルドに肖像画を描かせたかったと推断している。
元木氏は、ルネサンスに至って、微笑が「高貴」な女性の付加価値になったからこそ、肖像画にも加えられるようになったと主張している。
(元木、2012年、42頁~46頁)

第二章 イエス・キリストの笑い


笑うマリアと笑わぬキリスト


描かれた微笑という点から、≪モナ・リザ≫の次に、ラファエロ(1483~1520)の聖母の微笑を元木氏は考察している。
ラファエロの≪テンピの聖母子≫(1508年、油彩、75×51㎝、アルテ・ピナコテーク[ミュンヘン])は、微笑む聖母マリア像の典型である。

半身像の若い聖母が、愛情あふれる表情で、幼子イエスを抱き、頬ずりをしている。一方、イエスはいかにも幼子らしいふくよかな肉体に比して、顔は意外に冷静な表情をしている(見ようによっては、マリアの過剰な愛情をうるさいと感じているようですらあると元木氏は記している)。
(元木、2012年、48頁~49頁)

禁じられた笑い


西洋絵画では、多くの場合、笑顔ひとつ描くにも理由と意味があり、そう単純ではないと断りつつ、元木氏は次のように問いかける。
「さて、あなたは笑顔のイエス像を見たことがあるだろうか」と。
幼子イエスではなく、大人のイエスが口を開けて笑っている姿を、元木氏は見たことがないと答えている。

その理由は、どうも聖書に基づくらしい。新約聖書の「ルカによる福音書」に次のようにある。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。(中略)
「今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。」
(第6章20~25節)

この句は、今は幸福な人も将来不幸になることもあるという、運命の変わりやすさを語った句であるといわれる。言葉が一人歩きをして、この句を根拠にして、笑いと不幸を結びつけて、笑いの否定へと論理を飛躍させてしまう。
特に、中世の修道院では、笑いが厳しく禁止された。例えば、バシレイオスは、東ローマ帝国のビザンティン教会(ギリシャ正教)における修道院制を確立したが、その著『修道士大規定』において、笑いを禁止している。それによれば、福音書ではイエスは笑ったことがないとされ、それゆえ笑いをこらえられない人は不幸なのだという。先の「ルカによる福音書」の箇所から、イエスは笑ったことがない、とまで言われるようになる。

それは、ローマ・カトリック教会側で、修道院制を創始したベネディクトゥスも同様だった。修道士たちに「大笑いや高笑いを愛さぬこと」と命じた。そのときの根拠は、旧約聖書の「シラ書(集会の書)」であった。そこには「愚か者は、大声で笑い、賢い人は、笑っても、もの静かにほほ笑む」(第21章20節)と述べ、さらに笑う者は愚か者だとし、極論へと導いた。
こうして、聖書に基づいて、笑わないイエス像が定着していったと元木氏は解説している。
(元木、2012年、50頁~52頁)

イエスの反撥


笑わないイエスの典型的な画像として、きつい表情をした少年イエスの絵がある。14世紀イタリアの画家シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)の≪聖家族≫(1342年、テンペラ、49.5×35㎝、ウォーカー・アート・ギャラリー[イギリスのリヴァプール])がそれである。

14世紀のイタリア絵画の中心はイタリア中部トスカーナ地方の都市フィレンツェとシエナであったが、マルティーニはシエナ派の画家だった。「聖家族」という主題は、聖母子に地上の父であるヨセフが加わり、いかにも幸せそうな家族として描かれるのが常であるが、この絵は幸せな雰囲気はない。

母は子に優しい素振りをしながら口うるさく説教し、息子はそれにつよく反撥し、きつい目で腕組みをしている。父ヨセフはなんとか仲を取り持とうとしている場面である。この絵の典拠は、「ルカによる福音書」(第2章42~49節)であり、「学者たちと議論する少年イエス」と呼ばれる場面であるそうだ。それは、聖書に少年期のイエスが登場する唯一の物語である。
聖書におけるこの場面のテーマは、イエスの超越的な能力であるので、多くの絵では、神殿の中で学者たちと議論して論破している少年イエスの姿で表されるようだ。

しかし、マルティーニの絵では、このような場面ではない。元木氏によれば、イエスが神の子だときっぱり宣言した場面が描かれているという。この絵の冷徹な表情は、神の子にふさわしい表情であるとみている。そして少年イエスのこの厳しい顔だちは、将来、十字架の上で犠牲になり、人類を救済する運命にあることの自覚を物語る表情であるとする。
そして、このことは、先に見たラファエロの≪テンピの聖母子≫における幼子イエスが冷淡な表情をしている理由でもあると解説している。そう考えてみると、笑わないイエスは、神の子として当然のことともいう。
(元木、2012年、52頁~56頁)

ペストという分岐点とイエス像の二つのタイプ


キリスト教美術は、シモーネ・マルティーニの絵が描かれた14世紀中ごろ以降大きく変わるが、それはペスト(黒死病)の流行[1348~49年]と関係があるといわれる。
その中で、イエス・キリストの表現も大きく分けて、二つの方向に変わる。
① イエス像は今まで以上に苦悩に満ちた表情を帯びるようになる。人類の救済のために十字架にかけられて亡くなる過程を描いた「受難のキリスト像」が、そのもっとも主要なテーマであろう。
② その正反対で、キリストの受難は承知しながらも、喜びへの共感を演出するタイプ。その典型として「聖母マリアの七つの喜び」というテーマがある。

まず、前者の「受難のキリスト像」は、逮捕され、鞭打たれ、荊冠を頭にかぶせられ、重い十字架を担いで、裸足で丘を登らされ、石を投げられ、手足に釘を打たれるといった具合に苦痛の場面である。

14世紀半ば以降、ペストをはじめ、疫病がヨーロッパを襲い、10年に1度は多いときで都市人口の3分の1の死者を出した。さらに英仏百年戦争(1337~1453年)などの戦争があり、人生は苦痛・苦悩に満ちていた。
このような日常の中で、キリストの受難物語が、心の底から共感を呼び、一体化する対象となったようだ。自らの苦悩の人生がキリストの人生に重なることに気づいたとき、この苦悩の道を耐えて歩むことによって、キリストと同様に救済されると信じるようになったようだ。
こうした信仰は、14世紀のフランドル(現在のベルギー)に始まり、16世紀初めにかけてヨーロッパじゅうに広まった「キリストのまねび(キリストの模倣)」という教えであるという。キリストの受難の地である聖地エルサレムへの巡礼も、そのような信仰に基づいていた。
そして、苦痛に満ちたキリスト像は、人を救いへと導く像として崇拝された。したがって、ここには笑いはなく、むしろその対極に位置するイメージであると元木氏は解説している。

ドイツ・ルネサンスの大画家マティアス・グリューネヴァルト(1470/80頃~1528)の≪イーゼンハイムの祭壇画≫「磔刑」(1512~16年、油彩、269×307㎝、ウンターリンデル美術館[フランスのコルマール])は、その典型的な例で、人を救いへと導く装置だった。

もうひとつの方向である、喜びへの共感を演出するタイプには、その典型として「聖母マリアの七つの喜び」というテーマがある。マリアはイエスの将来の運命を知りながら、それでもイエスの生のいくつもの場面で喜びを感じたというもので、それは日常的な人生の喜びと共通する。
疫病が流行し、死と隣り合わせになった人生だからこそ、日常のささやかな歓喜を味わい尽くしたいという欲求がむしろ強まったと元木氏は解釈している。
そこでは、生は笑顔に包まれ、幼子イエスもマリアも、そして父ヨセフも笑いに包まれている。笑顔は日常のささやかな喜びを示している。幼きイエスの絵を見るとき、イエスの運命が受難であると知っているからこそ、その笑顔はひときわ、いとおしいとする。

このような背景のもとに、中世末期に笑顔の幼子イエスが登場したと元木氏はとらえている。笑顔のイエスと、苦悩のキリストは、苦痛に満ちた人生と救済への強い希求を共通の背景にして、表裏をなすものだったとみている。

そのことを示す作品として、「ベルトラムの画家」(14世紀末ドイツの逸名の画家)による≪ブクステフーデ祭壇画≫「天使の訪問」(1410年頃、テンペラ、108.5×93㎝、ハンブルク美術館)を挙げている。
聖母が室内で編み物をし、外で幼子イエスが寝転がって本を読んでいる。そこに2人の天使が現れるが、天使は十字架、3本の釘、槍と荊冠を持っている。いずれも受難の道具である。この絵は、幼い時期の喜びに満ちた暮らしを細かく描写しながら、一方で将来の苦痛、犠牲を暗示している。

また、「ライン川上流地方の画家」による≪楽園の庭≫(1410年頃、テンペラ、26.3×33.4㎝、シュテーデル美術館[フランクフルト])では、楽園のイエスが描かれている。緑の庭で、聖母は本を読み、その傍らで幼子イエスはハープのような楽器を弾いて、楽しそうに遊んでいる。

楽園の喜びを描いたこの絵は、疫病などで幼い子を失った親が悲しみに身を震わせながら、楽園にいるイエスにわが子を重ね合わせ、その子の天国での幸せを祈願し、想像するための媒介となったと元木氏は推測している。笑顔のイエスは、このような役割をもっていたと考えている。

そして、この時期には、教会内での儀式用の宗教画ではなく、世俗の邸宅を飾る宗教画も誕生したそうだ。中世とはいえ、日常生活では、修道院におけるような厳しい笑いの禁止などは、ありえなかった。つまり、市民の生活まで戒律が支配したではなかったので、宗教画に笑顔のイエスが入り込む余地が生まれた。
(元木、2012年、56頁~63頁)

恩恵へと誘う笑い


世俗の邸宅に宗教画が置かれるようになると、宗教画のなかに日常が入り込んでくる。
例えば、15世紀フランドル絵画では、聖母子も、受胎告知などのイエスの生涯を描いた絵も、市民家庭の設定で描かれるようになる。
代表的な作品として、初期フランドル絵画草創期の画家ロベール・カンパン(1370年代後半~1445)の工房作≪火よけの前の聖母子≫(1440年頃、油彩、テンペラ、63.4×48.5㎝、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])を取り上げている。

聖母子が高い玉座ではなく、低い長椅子に腰を下ろしているとき、「謙遜の聖母子」と呼ぶそうだ。これは、聖母が偉そうな存在から、親しみやすい存在へと変化したことを示す。この絵では、聖母に抱かれている幼子イエスは、左手を挙げてこちらを向き、明るく微笑んでいる。聖母は幼子イエスに母乳を与えようとしており、「授乳の聖母」タイプの絵である。

ところで、聖母の授乳には、12世紀頃に興味深い解釈が加えられたようだ。
それは、12世紀前半、中世盛期に、シトー会修道院のベルナルドゥスによる幻視に基づいている。彼は祈りを捧げているとき、唇が乾いてしまったが、そこに聖母が現れ、聖母が授乳してくれたという幻視を体験した。

神秘主義者ベルナルドゥスの幻視は、美術にも示唆を与え、その場面を絵画化した作品すら出現した。
16世紀前半のフランドルの画家ヨース・ファン・クレーフェ(1485頃~1540/41)の≪聖母子とクレルヴォーの聖ベルナルドゥス≫(1510年頃、油彩、29×29㎝、ルーヴル美術館[パリ])がそれである。

これらの絵が示すように、聖母の乳は信仰の篤い人の祈りの唇を潤すことができると考えられたようだ。それは、幼子のためだけではなく、この絵を見る人々をも潤すことができ、聖母の恩恵に与ることができるとされた。
そして幼子イエスの微笑は、聖母の乳の甘美さを味わったがゆえの微笑である。見る人を乳へと誘導する微笑ではないかと元木氏は解釈している。
(元木、2012年、63頁~67頁)

育児のための絵


宗教画に生き生きとした表情が導入されて笑顔が描かれるようになる動機や背景には、上記のように、信仰の問題があった。その他に、より現実的な理由もあった。つまり、宗教画が世俗の家の中に置かれるようになったため、家庭教育という新しい用途が加わることになる。
たとえば、ドミニコ会の修道士だったイタリア人のドミニチの著書『家族管理の書』(1403年)では。家庭内に宗教画を飾ることの効用が述べられている。幼子イエスを抱いた聖母子図、イエスが乳を飲んでいるところ、眠っているところを描いた絵などを家の中に置くと、それらを見ることによって、幼い子どもはつられて喜び、顔をほころばせ、良い子に育つと説く。

ドミニチの教えに相応しい絵として、フランドル(現在のベルギー)の画家ヘラルト・ダフィト(1460頃~1523)による≪ミルクスープを飲む聖母≫(1510~15年頃、油彩、41×32㎝、パラッツォ・ビアンコ[イタリアのジェノヴァ])を挙げている。
当時、フランドル絵画はイタリア諸都市に多数輸出され、イタリア人家庭でも購入された。
この絵で、聖母は、左手で幼子イエスの体を支えながら、右手でミルクスープをすくおうとしており、柔和な表情である。幼子イエスは、右手にスプーンを裏表逆に持ち、自分で飲もうとしている。イエスは、微笑を浮かべているとも、好奇心にかられているともとれる微妙な表情だが、生気あふれる表情になっている。
机上の食物や窓のそばの本なども描かれており、この絵は、市民家庭の母子の姿を写実的に描写したような聖母子像となっている。

このような愛情あふれる聖母子図を家庭内で見て、子どもはすくすくと良い子に育つと、ドミニチは教育論で述べているが、この用途からすれば、幼子イエスの表情は、絵を見る子どもに優しい笑顔を誘導するようなものであったと解説している。
(元木、2012年、68頁~70頁)

ラファエロが描いた幼子イエスの笑顔


ドミニチの記述から100年余り経って、ラファエロは幼子イエスの笑顔をその絵に残している。
① その1枚は、≪聖家族と聖エリザベツと幼児ヨハネ(カニジャーニの聖家族)≫(1507年、油彩、131×107㎝、アルテ・ピナコテーク[ミュンヘン])
② もう1枚は、≪ニッコリーニ=カウパーの聖母子≫(1508年、油彩、80.7×57.5㎝、ナショナルギャラリー[ワシントン])

前者の絵では、画面手前で幼子イエスが生き生きとした目を輝かせて、洗礼者ヨハネに微笑んでいる。画面右側の聖母は、優しさに満ちた視線で、幼子たちを見守っている。この絵は、「まさにラファエロの真骨頂の笑み」が描かれていると元木氏は評している。
また、このテーマこそドミニチの言葉を反映していると解説している。

ドミニチは、子どもが洗礼者ヨハネを自分のモデルにするように、幼児ヨハネが登場する絵を子どもに見せることを勧めている。その理由は、洗礼者ヨハネは、小さいうちから荒野に行き、自然に親しんで暮らしたのだからと記している。つまり。子どもは自然のなかで成長するのがよい。さらに、幼子イエスと洗礼者ヨハネが仲よく描かれた絵を見るのは、とてもよいことであるという。

ラファエロのこの絵は、まさしく二人が一緒にいる絵である。幼子イエスと仲良くしているヨハネを見ることで、家庭の幼子にキリストへの信仰を涵養し、子ども同士の友情を育むことになると考えたようだ。

ところで、この作品は、フィレンツェの裕福なカニジャーニ家により注文された。ルネサンス期の市民により、理想的な家族として聖家族が描かれていた。イエスやマリアの微笑は、幸せを表明し、市民家族の幸せを祈願するものとされた。

後者のラファエロの絵では、幼子イエスが母の膝上に載せられたクッションに座し、歯を見せて笑っている。これほどはっきりとした笑顔のイエスはラファエロですら珍しいそうだ。
また、この絵では、幼子イエスがこちらを見つめている(ラファエロの場合、半身像聖母子であることが多い)。明るく笑っている幼子イエスの視線に誘導されて、絵を見る子どもも笑うだろうとドミニチは述べているようだ。

さて、ルネサンスに入るころ、ドミニチが語ったように、宗教美術による家庭教育を考えるようになった。そして、ルネサンスの典型的な知的芸術家アルベルティも、ヒューマニスト(人文主義者)として、『家族論』(1432~34年、1441年)を著わし、家庭の暮らしこそがいちばんの幸せと語り、子どもの笑顔が喜ばれるようになった。アルベルティ自身が描いた絵は残っていないが、ラファエロの絵の笑顔には、そのようなヒューマニズムに裏打ちされた生への讃歌を読み取ることができると元木氏は解説している。イエスは笑わないと主張したキリスト教は、ルネサンスという時代を経て、このような人生を肯定する明るい笑顔を受け入れることができたという。
(元木、2012年、71頁~76頁)

第三章 フェルメールの笑う女たち


フェルメールが愛される理由


近年、フェルメール熱は恐ろしいくらいで、大ブームに至っている。
日本におけるフェルメール熱は、美術展の観客の中心が男性から女性に移ったことと関連していると元木氏は理解している。日本の女性たちの趣味に、フェルメールという画家の絵がぴったりと合っているからとみる。
フェルメールの画題は、家庭の日常であることが多いし、ほとんどの絵に女性が、しかも今日の女性の目からも魅力的な女性たちが描き込まれている。

このフェルメール人気の上昇は、フェルメールの最初の「発見」の時期、つまり19世紀中ごろのある種の傾向と奇妙に一致するという。フェルメールはもともとオランダの一都市デルフトで活躍した画家にすぎない。それがヨーロッパ的に評価されるようになったのは、1830年頃からである。そして、1866年、フランス人批評家テオフィール・トレの論文で決定的となる。

この時期は、産業革命の結果、パリなど大都市に新しい有産階級が誕生し、ダイナミックに新しい文化を生み出していた時期だった。そうした有産階級は美術の新しい受容層となった。また、この時期は、リアリズム(写実主義)の画家クールベ(1819~77)や近代絵画の父マネ(1832~83)など、現実そのものを写実的に描く絵画(リアルな具象画)が台頭した時期でもあった。

新しい観客層とリアリズムの台頭というのは、今日の日本の美術状況と似ていると元木氏はいう。
日本の戦後からバブル崩壊までの主要な潮流だった抽象芸術志向は、今や衰えている。抽象絵画には、教養主義的な背景があったとする。そして、西洋美術が具象から抽象へと進んでいるという知識をもち、その知識ゆえに、抽象絵画を愛好していた。

一方、今日の日本の一般市民は、以前の教養主義や西洋への憧れよりも、「日常の価(日常の面白さ、日常の謎)を重視する。フェルメールの絵には日常があり、しかもその日常には謎がある。
その意味では、フェルメールというのは、日本では一部の知識階層ではなく、一般市民が自らの嗜好で選びとった画家であると元木氏は理解している。
(元木、2012年、78頁~81頁)

笑顔に潜む謎


フェルメールの≪恋文≫(1669~70年頃、油彩、44×38.5㎝、国立美術館[アムステルダム])という絵は、日常に見え隠れしている謎を描いた代表作であるそうだ。
印象的なのは、画面左の女性の笑顔である。召使いである彼女は、楽器を手にした女主人に手紙を渡して、にっこりと微笑んでいる。ここでは、力関係が逆転しており、笑顔が召使いを女主人よりも優位に押し上げていると元木氏は解釈している。しかも、なぜ笑っているかは謎である。

ところで、フェルメールの絵を全体的に見渡すと、実は笑顔が多いそうだ。
例えば、
・≪取り持ち女≫(1656年、国立絵画館[ドイツのドレスデン])
・≪士官と笑う女≫(1658~59年頃、フリックコレクション[ニューヨーク])
・≪2人の紳士と女≫(1659~60年頃、ヘルツォーク・アントン・ウルリヒ美術館[ドイツのブラウンシュヴァイク])
・≪リュートを弾く女≫(1662~63年頃、メトロポリタン美術館[ニューヨーク])
・≪真珠の首飾りの少女≫(1662~64年頃、絵画館[ベルリン])
・≪天秤を持つ女≫(1663~64年頃、ナショナル・ギャラリー[ワシントン])
・≪手紙を書く女≫(1665年頃、ナショナル・ギャラリー[ワシントン])
・≪手紙を書く女と召使い≫(1670~72年頃、アイルランド・ナショナル・ギャラリー[ダブリン])
・≪ギターを弾く女≫(1672~75年頃、ケンウッドハウス[ロンドン])
など、合計10点に笑顔が登場する。

フェルメールの現存する全作品数は30点余りであるから、ざっと3分の1に笑顔が登場することになる。そして、これらの笑顔はほとんどが女性の笑顔で、男性の笑顔はわずか2点だけである(≪取り持ち女≫と≪2人の紳士と女≫のみ)

フェルメールの絵は独特の魅力をもっているといわれるが、オーソドックスな美術史からすれば、それほどユニークなわけではないと元木氏は指摘して、次のように解説している。17世紀オランダでは主要なジャンル(絵の種類)の風俗画に属する。風俗画とは、多彩な日常生活を教訓的な意味を込めながら、あたかも現実であるかのように描いた絵というジャンルである。

17世紀オランダは、同時代のヨーロッパでも、最も裕福な社会であった。だから、その社会の日常を描いた風俗画に笑顔が登場するのは、ある意味で当然のことかもしれない。風俗画こそ、「笑顔の王国」であった。ただし、その笑顔は多彩であると付言している。

さて、第三章では、風俗画がいかに多彩な笑顔が登場したかをたどっている。その中で、フェルメールの笑顔がどのような独自性を有しているかについて考察している。
(元木、2012年、82頁~85頁)

「幸福な家族」という神話


風俗画の笑顔といえば、子どもの笑顔が主役となることが多い。風俗画が本格的に登場した17世紀オランダでも同じである。
フェルメールとほぼ同じ世代で、同じくデルフトでも活動した風俗画家ピーテル・デ・ホーホ(1629~84)を元木氏は取り上げている。

その絵画≪幼児に授乳する女性と子どもと犬≫(1658~60年頃、油彩、67.9×55.6㎝、サンフランシスコ美術館[アメリカ])では、暖炉の前で、母親が幼子に授乳し、その傍らで女の子が犬に餌を与えている場面が描かれている。あどけない笑顔を浮かべており、子どものいる家庭の幸せを十分に描き出している。
 また、ホーホの影響を受けて描かれた、ヤーコプ・オホテルフェルト(1634~82)の≪玄関先の辻音楽士たち≫(1665年、油彩、68.6×57.2㎝、セント・ルイス美術館[アメリカ])を取り上げている。
玄関先で、音楽士が、ハーディガーディと呼ばれる楽器とヴァイオリンを弾きながら、家の中の人たちに追従(ついしょう)の笑顔を浮かべている。家の中では、子どもが召使いの手を取って、天真爛漫な表情で笑いかけている。17世紀オランダ市民家庭においては、子どもの相手をするのは、召使いの役目だった。この時期のオランダでは家の使用人は女性であり、たいていは女主人に雇われていた。この絵でも、子どもの手を引いているのは、母親ではなく召使いである。母親はゆったりと椅子に座って、その光景を見つめている。

家の内外の子どもは、着ている衣装や笑顔も対照的である点に元木氏は注目している。楽士の子どもは、暗い褐色系の色調の衣装を身につけて、卑屈な笑いを浮かべている。それに対して、家の中の幼児は、青い鮮やかな服を身につけ、無邪気な笑いである。否が応でも目立たせる。

この絵に描かれているのは、当時の現実そのままというより、むしろ「豊かなオランダ社会」という、意図的に描かれた神話のようなものであると、元木氏は解釈している。
絵画は、必ずしもありのままの現実を描くわけではない。市民家庭の部屋に飾られることを前提として描かれたとすれば、望まれるのは現実よりもいっそう豊かで幸福そうな生活であったであろう。その幸せを演出する、最も効果的な道具立てのひとつが、幼子の笑いであり、鮮やかに際立たせるのが楽士の笑いだったと元木氏はみている。
(元木、2012年、86頁~91頁)

フェルメールの絵に見える召使いの笑顔


17世紀オランダの市民家庭では、使用人は召使いの女性ただ一人であることが多い。召使いは、女主人と一緒に家事を仕切り、子どもを世話する重要な存在だった。だから有能な召使いは、女主人が最も頼りにする同性となったそうだ。そのような状況を頭に入れて、フェルメールの絵を見てみると、よいという。

フェルメールの≪恋文≫では、黄色い衣装を身に着けている女主人がもの問いたげに召使いを見上げ、召使いは微笑を浮かべながら主人を見下ろしている。女主人がシターンという弦楽器を抱え、演奏しているところへ、突然、召使いが手紙を持って入ってきた場面である。手紙にはまだ封がしてある。二人の間には、誰からの手紙か想像がついているような秘密めいた雰囲気が漂っている。

フェルメールの≪手紙を書く女と召使い≫(1670~72年頃、油彩、71.1×60.5㎝、アイルランド・ナショナル・ギャラリー[ダブリン])も、同じように、召使いが微笑を浮かべている絵であった。
この絵は、さきの≪恋文≫の謎めいた雰囲気を解明するための鍵かもしれないと元木氏はみている。この絵は、あたかも≪恋文≫に連続した場面であるかのように、女主人は返事を書きはじめている。机の前の床には、手紙らしき紙の束と封蝋(ふうろう、手紙を封印するための蜜蝋)が落ちている。この落ちた手紙はすでに読まれ、女主人は返事を書いているらしい。この手紙は乱雑に扱われており、内容はあまり芳しいものではなかったであろう。
一方、召使いは窓の外を見ており、薄笑いを浮かべた素っ気ない表情である。召使いはその芳しくない手紙の内容を察知し、返信の中身すら想像がついていると、元木氏は解釈している。

この2枚のフェルメールに描かれた召使いの笑顔は対照的である。≪恋文≫では、吉報をもってきたと思っている召使いは、明るく、女主人と幸せを共有しているような笑顔である。それに対して、≪手紙を書く女と召使い≫では、女主人が硬い表情をして返事を書いているのに、どこか冷めた気分を漂わせた笑顔を召使いは浮かべている。

これが連続する物語だとすれば、≪恋文≫は吉報を期待している明るい二人で、その期待に反して凶報だったときの反応が≪手紙を書く女と召使い≫ということになるかもしれないと元木氏はとらえている。後者の召使いは女主人の反応から、手紙の中身を推測し、冷たい笑顔を浮かべており、ふてぶてしささえ感じさせる。顔を伏せている女主人よりも、召使いは窓からの陽光に照らされて、より目立っている。

これはオランダ社会における召使いの存在の大きさを反映している。それ以上に、召使いが画面で、いわば狂言回し(陰に回って、物事の進行をつかさどる人物)を演じていると元木氏は解説している。
(元木、2012年、91頁~94頁)

マースの絵に見られる笑顔


フェルメールの作品以外にも、そうした召使いの存在感を端的に示すような絵がある。フェルメールとほぼ同時代で、オランダ南西部のドルドレヒトで活動したニコラース・マース(1634~93)という画家である。彼は、17世紀オランダ絵画の巨匠レンブラントのもとで修業した。マースはフェルメール作品とはいささか味付けの異なる召使いの笑顔を描いている。

例えば、≪怠惰な召使い≫(1655年、油彩、70×53.3㎝、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])がそれである。若い召使いは台所で居眠りをしており、その怠惰な様を年長の召使いが苦笑(薄笑い)を浮かべて、こちらを向き、指し示している。この絵では、珍しく一家に二人の召使いがいるが、ここでは、召使いはとうとう絵の主役になっている。

マースのもう一つの作品≪立ち聞き≫(1656年、油彩、92.5×122㎝、ドルドレヒト美術館[オランダ])の女性は、階段の最下段でこちらを見てシーッと指を唇の前にもってきて、笑みを浮かべている。
この女性は、左手にフルートグラスを持ち、豪華なビロード風の上着を身につけていることから判断して、元木氏は女主人であろうと推測している。
一方、酒を補給する役目を担う召使いは、男の誘惑を受けている最中である。だから女性は愛の言葉を立ち聞きして、われわれ絵を見る人たちに「静かに!」と沈黙を促している場面である。
この絵では、女主人と召使いの立場が逆転している。この逆転は、いかにこの時代の女主人と召使いの関係が対等に近いかを暗示しているものと元木氏は推察している。

マースのこの2枚の絵で笑われているのは、居眠りをしてさぼっている召使いと、客人相手に恋愛ごっこを繰り広げている召使いである。それを相棒の召使いや女主人が絵を見る人に語りかける形で、笑いかけ、示している。
ただ、その表情は厳しいものではなく、むしろ仲間のいたずらを見つけてしまったときのような、愛嬌のある表情である。あるいは、見てはいけない場面をのぞいてしまったという共犯関係に、見る人を引きずり込んでいるかのようであると元木氏は解説している。
(元木、2012年、95頁~99頁)

ルネサンスの絵画と17世紀オランダの絵画の違い


ニコラース・マースの絵にも、≪モナ・リザ≫のような肖像画にも、こちらを見る視線が登場しているが、それは同じなのか。違うとしたら、どう違うのかという問いを、元木氏は投げかけている。

まず、物語的な要素があるかないかが、両者の違いであることに気づく。マースが描く笑顔は、画中の人物の心理的動向を多様に考えさせる物語にあふれている(過剰な物語性ともいえる)。

次に≪モナ・リザ≫の笑顔は、第一義的には注文主である夫ジョコンドに向けられている。つまり肖像画の場合、笑顔を向ける対象が元来ある程度想定されている。
ところが、マースが描く視線は、絵を見る不特定多数の人に向けられている。マースの絵は、その絵を見る人一般の反応を想定して描かれている。

ここで元木氏は、ルネサンスの絵画と、17世紀オランダの絵画の違いに目を向けている。
ルネサンスまでの絵画は、依頼されて描く注文画が中心だった。肖像画のほとんどすべてが注文画で、そこでは絵を見る人があらかじめ想定されることが多い。宗教画から、聖堂の聖職者、信者であり、宮廷のための絵なら宮廷人や貴族である。それらの画中の笑顔では、笑顔を向けるべき人がある程度特定されていた。

一方、17世紀オランダでは注文画が減り、既製品としての絵画が増加し、美術品がオープンな市場の原理に支配されるようになった。もっとも多いのは、市民家庭内の壁面に掛けられる絵で、その絵を見る人は市民一般であったそうだ。
そうすると、笑顔を向けるべき人も多様で、特定の人ではありえない。このような
絵の笑顔は誰にでも向けられる(現代の日本人ですら、巻き込まれてしまうほどである)。
(元木、2012年、99頁~100頁)

フェルメールの≪手紙を書く女≫の笑顔


フェルメールの絵画にも、そのような笑顔をもつ作品が何点かある。
先に挙げた≪手紙を書く女≫(1665年頃)では、フェルメール作品になじみの黄色に、アーミン(白貂[しろてん])毛皮の縁取りのついた上着を着た若い女性が、手紙を書きながらふっとこちらを見ている。背後の壁に掛けられた絵には楽器が描かれている。当時、楽器や音楽は愛や官能の象徴として用いられることが多かったようだ。このことから、女性が書いている手紙は愛の手紙、すなわち恋文だと元木氏は推測している。

そうすると、こちらを見ているその視線と笑顔は、恥ずかしい瞬間をのぞき見られた羞恥(しゅうち)の意味合いが込められていると解釈している。愛の手紙を書いている自分を見られたがゆえに、見返している視線だと理解している。
(元木、2012年、101頁~102頁)

フェルメールの≪2人の紳士と女≫の笑顔


フェルメールの≪2人の紳士と女≫(1659~60年頃)の笑顔と視線は、マースの作品のそれに、もっとも似ているという。
手前の椅子に座っている若い女性の眼差しこそ、マース作品の登場人物とよく似た印象を与え、見る人に共犯関係を強いるような視線である。
男性に言い寄られたとき、女性はワイングラスを手にして、こちらを見て笑っている。この場面は、マースの絵で居眠りを見つけた召使いや、召使いへの愛の告白シーンを見つけた女主人のように、いたずらを見かけてしまったときののぞきの共犯へと誘い込む笑いであると元木氏は解説している。
フェルメールの絵では、いたずらをされているのは、女性本人であり、この本人はいたずらを嫌がってはいない。つまりここでは、笑う女は、絵を見る人に笑いかけていると同時に、絵を見る人からのぞかれる人でもあるという。
この笑顔を浮かべながら、こちらに向けた女性の視線は、見る人をのぞきの共犯関係へ導くと同時に、のぞきの対象が女性自身であることによって、絵を見る人をのぞきの単純犯へと転換する装置でもあると解説している。その意味で、この笑顔は二重の意味をもち、それゆえに物語をいっそう豊かにするという。
そして、元木氏は、肩肘をつくポーズ、牡蠣、ステンドグラスの図柄の象徴的意味合いを解説している。
(元木、2012年、102頁~105頁)

フェルメールの風俗画の特徴


ピーテル・デ・ホーホの風俗画には、しばしば子どもが登場し、その笑顔が幸せな家庭の道具立てになっていた。
しかし、フェルメールが描く風俗画には、子どもはほとんど登場しない。
ただし、」例外が、次の2点の絵画である。
・≪デルフトの小路≫(1658~60年頃、アムステルダム国立美術館)
この絵画では、2人の子どもが、道端でむこう向きに腰を下ろして遊んでいる
・≪デルフト眺望≫(1660~61年頃、マウリッツハイス美術館[オランダのハーグ])
手前左に描かれている女性に、幼子が抱かれている。それですら、ほんの小さく描かれ、一見、子どもかどうかさえも判然としない。

このように、フェルメールの風俗画では、親子の愛とか夫婦の愛のような家庭的な幸せは、無縁かもしれないと元木氏は理解している。その代わり、危なっかしい男女の愛か、愛を期待して待っている若い女性ひとりの絵が多い。
画中に描かれた手紙や楽器が愛と深い関連をもっているということからすれば、愛と無関係な日常を描いた絵は、フェルメールの場合、次の3枚の絵である。
・≪牛乳を注ぐ女≫(1658~59年頃、国立美術館[アムステルダム])
・≪窓辺で水差しを持つ女≫(1663~65年頃、メトロポリタン美術館[ニューヨーク])
・≪レースを編む女≫(1669~70年頃、ルーヴル美術館[パリ])
これらの絵の中の女性たちはいずれも笑ってはいない。真剣に仕事に集中している。
逆に言うと、フェルメールの絵に登場する笑顔の女性は、ほとんどが愛に関連しているといってよいと元木氏は指摘している。

一方、フェルメールの風俗画に出てくる男性の絵はどうか? 
次の2枚を除けば、ほとんど遊び人である。
・≪天文学者≫(1668年、ルーヴル美術館[パリ])
・≪地理学者≫(1669年、シュテーデル美術館[フランクフルト])

フェルメールが風俗画家に大きく転換した画期的な作品とされる≪取り持ち女≫(1656年、国立絵画館[ドイツのドレスデン])では、画面左端の男の笑いがきわめて印象的である。
≪取り持ち女≫は、ドレスデンの美術館では、≪窓辺で手紙を読む女≫の隣に展示されているそうだ。
前者のサイズは、143×130㎝、後者は83×64.5㎝なので、≪取り持ち女≫は迫力を感じ、頬を赤く染めた女性の可憐さ、そして画面左の2人の謎の表情など、まことに魅力的な作品であると元木氏は評している。

この≪取り持ち女≫という絵のテーマは、16世紀初めからしばしば描かれていた「不釣り合いなカップル」というテーマによく似ているという。若い女性の色香に惑わされる年長の男性を描いた絵である。例えば、ルーカス・ファン・レイデン(1494~1533)の木版画≪愛の三角関係≫(1518~20年頃、木版画、67×48.5㎝、国立図書館[パリ])を例として挙げている。若い女性を取り持った老婆などが描かれ、誘惑された愚かな男を笑い飛ばす絵である。

フェルメールの絵では、男女の位置関係が逆だが、男が右手で金貨を女に渡そうとしている。その背後では取り持ちの老婆が、ちょっと微笑み、「しめしめ」と嬉しそうな表情を浮かべている。画面左端の男性は、薄笑いを浮かべてこちらを見ている。目の前の情景にシニカルな視線を投げかけ、陰湿な思惑を含んだ笑いをしていると元木氏は解説している。

このように、フェルメール作品に描かれた笑顔は、ピーテル・デ・ホーホ作品に描かれた子どもの笑顔とは性格を異にする。家庭の幸せをうたいあげるような単純な笑顔ではなく、もっと錯綜した心理的な動きを示す笑顔であると元木氏は主張している。
それは、絵を見る人との関係を複雑に生み出す笑いである。そして、それらの笑顔に込められたストーリーや意味は曖昧であり、絵を見る人に解釈が委ねられている側面があるともいう。
(元木、2012年、105頁~110頁)

フェルメールの絵の謎


フェルメールの絵の謎は、このような曖昧性、絵を見る人にその解釈が託されていることから生じており、正解がいくつもある謎であると元木氏は捉えている。
絵を見る人に物語の進行を委ねるような絵なので、注文画では描くことが難しい。なぜなら注文画の場合、依頼主からその絵の意味を指定されていることが多いから。
このように考えると、フェルメールのような曖昧さを残した絵は、自由でオープンな絵画市場だからこそ生まれてきたと元木氏は理解している。絵を見る人も多様であれば、その絵の解釈も、絵に見える笑顔も多様である。
フェルメールの絵が現代のわれわれにこれほど訴えかけてくるのは、単なる日常の平和な幸せを描いているからではなく、日常の価値の多様な側面を描いているから、複雑な社会で生を営む現代人の共感も呼ぶのかもしれないと元木氏は推察している。
(元木、2012年、110頁)

元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ: 名画に潜む「笑い」の謎』 (小学館101ビジュアル新書)




川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像』を読んで その2 私のブックリポート

2020-01-16 19:05:32 | 私のブック・レポート
前回に引き続き、川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像描かれなかったドラマ』(講談社+α文庫、2015年)の内容と紹介して、私の感想とコメントを記してみたい。



川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)



今回は、7枚目の『ガブリエル・デストレとその妹』から紹介してみたい。今回の執筆項目次のようになる。


『ガブリエル・デストレとその妹』フォンテーヌブロー派
『マリー・ド・メディシスの生涯』ピーテル・パウル・ルーベンス
『ヘンドリッキェの肖像画』レンブラント・ファン・レイン
『イザベラ・デステ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
【読後の感想とコメント】







『ガブリエル・デストレとその妹』フォンテーヌブロー派


ルーヴルの『ガブリエル・デストレとその妹』という絵


ブルボン王朝創始者アンリ4世の愛妾だったガブリエル・デストレについて、川島氏は、次のように形容している。
「女として生まれたからには、そのひとつでも授かりたいものと願うことのすべてを備えていたのが、ガブリエル・デストレ」であるという。彼女は「自然が生んだ傑作」と呼ばれていた。

ルーヴルのフォンテーヌブロー派の『ガブリエル・デストレとその妹』という絵は、右にガブリエル、左に妹のヴィヤール公爵夫人が描かれている。妹が姉の胸に触れているが、それは姉が子どもを宿していることを意味している。また、二人の後ろには、生まれる子どもの産衣を縫っている侍女の姿が見える。

絵の制作は、1594年とされている。この年の前年1593年7月25日、ガブリエルの進言、願いに従って、プロテスタントからカトリックに改宗している。そして、翌年1594年6月7日に、ガブリエルは国王の最初の息子、後のヴァンドーム公爵セザールを生み、幸せの絶頂にいた(それからわずか5年後に、ガブリエルは28歳の若い生涯を閉じてしまうのだが)。

アンリ4世とマルゴ


ガブリエル・デストレがアンリ4世に出会ったのは、19歳のときだったが、国王には既に王妃がいた。
その王妃は、通称マルゴと呼ばれた。アンリ2世と、カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれた末娘、マルグリット・ド・ヴァロアである。
マルゴは、母に似ず、非の打ち所のない美人であった。イタリアのメディチ家出身の母と異なり、フランス語も完璧だし、知識も豊富だった。しかし、マルゴは、病的なほど男好きで、これが大きな欠点であった。

母カトリーヌがそんな娘の結婚相手として選んだのは、アンリ・ド・ブルボンという男であった。ピレネー山脈のふもとにある小さなナバラ王国の国王で、しかもプロテスタントの指導者だった。
当時、フランスはカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争が激化していた。それを解消するために、カトリックのマルゴをプロテスタントのアンリに嫁がせ、国に平和をもたらしたいというのが、母カトリーヌの思惑だった。カトリーヌは、夫アンリ2世が騎馬試合で負傷して世を去った後、摂政を行っていたので、決定権をもっていた。カトリーヌには、3人の息子がいたが、どの息子も後継者を残さず、直系子孫は絶えた。そこでカトリーヌは、マルゴの夫アンリ・ド・ブルボンに国を任せようとした。

1589年、思いがけずにフランス国王の座に就いたアンリ・ド・ブルボンは、アンリ4世の名のもとに統治する(フランス最後の王朝となるブルボン王朝を築く)。

ガブリエルの経歴とアンリ4世との恋


ガブリエル・デストレは、侯爵家という家柄に生まれ、無比の美貌に恵まれていた。ただ、その家は無類の多情な家系であり、ガブリエルも15歳のころから、その徴候が現れたようだ(母フランソワーズも破格の情熱家で、若い侯爵に夢中になり、夫も娘ガブリエルも捨てて駆け落ちしてしまい、叔母スルディ夫人がガブリエルを育てた)。

その妖艶なガブリエルは、ピカルディ地方のクーヴル城に暮らしていたが、両手にあまるほどの愛人がいた。その一人アンリ4世の家臣ベルガド公爵に、ガブリエルは特に好意を抱いていた。ベルガドは、そのことが自慢で、ある日国王にもその話をしたところ、アンリ4世がぜひともガブリエルに会いたいと言い出した。
国王の希望であるから、ベルガドは1590年11月、アンリ4世を、ガブリエルが住むクーヴル城へお連れした。すると国王は彼女に一目ぼれしたが、肝心のガブリエルは、ベルガドにしか目になかった。このことは、自分の誘惑を拒否する女性などいなかった国王にとって衝撃であったが、アンリ4世のガブリエルへの想いは、その後ますます激しくなる。
ガブリエルの方も、徐々に心を開くようになった。その陰には、ガブリエルの父、叔父、叔母の執拗な説得があったようだ。

そして出会いから半年後の1591年5月、ガブリエルはついにアンリ4世の愛妾になる。ただ、ガブリエルは、ベルガドへの愛を断ち切ることはできず、国王が戦場に出陣すると、ベルガドと密会した。
すると、国王は、ガブリエルを結婚させることを思いつき、ダメルヴァルという小さな領土を所有するふたりの子持ち男を選び、彼女をダメルヴァル夫人としてしまう。それ以降も、国王の愛妾であることに変わりはなかった。

ガブリエルの進言


ところで、ガブリエルは、外見的魅力を備えているだけではなく、知性と優れた判断力をもつ女性でもあった。そして自分が正しいと思うことは、君主であっても、躊躇することなく、進言する女性だった。
長年続いていたカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争に、アンリ4世が終止符を打つことができたのは、その陰に、ガブリエルの進言があったからであるといわれる。
プロテスタントのアンリ4世は国王になったとはいえ、首都パリはカトリックの手中にあり、彼らはアンリ4世をフランス国王認めない強硬な態度をとった。アンリ4世はそれに武力で対抗していた。
ところが、ガブリエルは、アンリ4世に、プロテスタントからカトリックに改宗し、平和的解決をすることが賢明であるとすすめたのである。それ以前にも側近が何度も進言していたが、国王は聞く耳を持たなかったが、ガブリエルの願いとあって、国王は改宗を決心した。1593年7月25日のことだった。

ガブリエルの出産と急死


その翌年1594年6月、ガブリエルはアンリ4世の息子を出産する。王妃マルゴとの間に子どもがいなかったので、国王は大層喜んだそうだ。
国王の子どもを生み、ますます自信を持ったガブリエルは、夫と離婚し、2番目、3番目の子どもを生む。宮廷で幅をきかせるようになった。ガブリエルは、国王とマルゴを離婚させ、自分が正式に王妃の座につくことを望んだ。

ガブリエルとの結婚はアンリ4世も望んでいた。後はマルゴの承認が必要なだけであるが、その当時、マルゴは宮廷から追い出され、オヴェルニュ地方の城塞に住んでいた。夫から再婚相手がガブリエルだと知らされると、国王に3人の子どもを授けたとはいえ、名のない小貴族出身であり、男性遍歴が噂されていた愛妾を、王妃に昇格させることには大反対であった。
それでも、アンリ4世は、交渉を重ねて、ついにマルゴに離婚に同意させた。

アンリ4世は、一刻も早く正式の妃にすることを望んだが、思いもよらない突然の出来事が起こる。それは1599年4月のことである。
4人目の子どもを身ごもっていたガブリエルは、イタリア人の財政家の館で食事をしていると、突然に苦しみ出し、その翌日苦しみから解放されることなく、息を引き取ってしまう(死因は急性脳溢血の可能性が強いとされているが、今でも毒殺説は消えていない)。

国王は、その死をひどく悼み、パリの中心にあるサン・ジェルマン・ローセワ教会で葬儀を行い、遺体は彼女の妹(アンジェリック・デストレ)が指導者となっていた、モービュイソン修道院に手厚く埋葬させた。
ただ、ガブリエルが世を去った後、彼女の妹ヴィヤール公爵夫人がアンリ4世の愛人になった。ルーヴルの絵で、左側の方の女性である。国王が、マリー・ド・メディシスと再婚した後も、ヴィヤール公爵夫人は愛妾の座を保っていたが、しばらくして宮廷から離れていった。

多くの愛人を持ったアンリ4世だったが、心底から愛したのは、ガブリエルだけだったといわれる。それほど、ガブリエル・デストレは、比類なき女性であったようだ。
(川島、2015年、103頁~121頁)。



『マリー・ド・メディシスの生涯』ピーテル・パウル・ルーベンス


ルーヴル美術館の大作『マリー・ド・メディシスの生涯』という絵


バロックの巨匠ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、マリーの生涯の歩みを24枚の連作で描いた大作である。
マリー・ド・メディシス(1573-1642)は、イタリアの大富豪メディチ家出身で、フランス国王アンリ4世の妃に選ばれ、多額の持参金とともに、マルセイユからフランス入りした女性である。
ルーベンスの大作は、マリーの誕生から始まり、結婚や統治など、彼女の人生の主だった場面を描いている。作品の依頼主はマリー自身だった。自らの偉大さを後世に残すために、神格化したり美化したりして、マリーは美しく、威厳があるように描かれている。

マリーとアンリ4世との結婚


アンリ4世がマリー・ド・メディシスを妃として迎えたのは、1600年である。それは、最初の妃マルグリット・ド・ヴァロア(通称マルゴ)と離婚した翌年のことだった。

当時のフランスは、カトリックとプロテスタントの宗教戦争で、国庫は枯渇していたので、それを救うために、フィレンツェの大富豪メディチ家に目をつける。
27歳のマリーは、当時にしては、婚期を逸しており、特筆するほど美人ではなかった。ただ、豊満な体が魅力的だった。
しかし、フランス語は片言程度で、破格の財産家に生まれ育ったためか、わがままで、浪費家であった。

一方、多情なアンリ4世には複数の愛人がいて、マリーは不満であった。その上、マリーは語学力が充分でないため、周囲とも打ち解けられず、孤独であった。それでもふたりの間には6人の子どもが生まれた。1601年に生まれた第一子は王子で、後のルイ13世である(フォンテーヌブロー城で誕生したときの様子も、ルーヴルの連作に描かれている)。
また、後のルイ13世はマリーと仲たがいし、実の母を追放処分にすることになる。

アンリ4世の暗殺とマリーの摂政


第一子誕生から約9年後、1610年、マリーの夫アンリ4世が暗殺されてしまう。犯人は強硬派のカトリック信者ラヴァイヤックだった。
かつてアンリ4世は、フランスを二分していた宗教戦争に終止符を打つために、1598年、ナントの勅令を発布し、プロテスタントにも信仰の自由を与えた。それに不満を抱いたのが、この犯人だった。

父の不慮の死で、8歳の王太子がルイ13世として即位し、母マリーが摂政となった。しかし、マリーには政治力もなければ、国事への興味もなく、側近に頼るばかりだった(カトリーヌ・ド・メディシスが、夫アンリ2世亡き後、摂政を立派に務めたのと対照的である)。

マリーが信頼を寄せていたのは、彼女と同郷のフィレンツェ生まれのコンチーニだった。そのコンチーニの一番の功績は、もともと聖職者だったリシュリューの才覚に目をつけたことである。リシュリューは、ルイ13世の時代の宰相として、華々しい足跡を歴史に残した。

さらに、コンチーニは、ルイ13世の妃として、スペイン王フェリペ3世の王女アンヌ・ドートリッシュを選ぶことを、マリーに進言した。当時のスペインは、ハプスブルク家の支配下にあり、フランスとハプスブルクとの間の戦いに終止符を打つのが目的であった。そして、この結婚により、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの間に、ルイ14世が誕生することになる(いうまでもなく、ルイ14世は、絶対王政を確立し、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建築し、フランス最大の国王と謳われる)。

マリーの庇護を受けていたコンチーニは、元帥の称号を得て、まるで一国の君主かと思うほどの権力を振るい始めるようになる。ルイ13世も、そのような傲慢なコンチーニに敵意を抱くようになる。15歳の国王と反コンチーニ派の貴族は結束し、1617年、国王の命令によるコンチーニ暗殺が実行された。

ルイ13世とその母マリーとルーヴルの連作


彼の妻レオノーラは、バスティーユ監獄に閉じ込められた後、魔女の汚名をきせられ、斬首刑に処せられた。国王の母であるマリーは息子の命令で捕えられ、ロワール河畔のブロワ城に軟禁される。マリーは息子に対して反乱を起こそうとしたことがあったが、未然におさえられてしまう。その後、1621年、国王に信頼されていたリシュリューが仲介して、国王とその母マリーが和解することになる。

ルーヴルの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、その翌年にマリーがルーベンスに依頼した作品である。マリーの住まいだったパリのリュクサンブール宮殿の壁を飾っていた。夫亡き後のマリーは、それまで暮らしていた重苦しい建築様式のルーヴル宮を嫌うようになり、自分に相応しい宮殿がほしいと思うようになる。セーヌ河左岸のリュクサンブール公の広大な土地を、公爵から買い上げ、生まれ故郷フィレンツェの宮殿を模倣して、陽光あふれる宮殿を完成させた(現在、旧リュクサンブール宮殿には上院が置かれ、その庭園はパリ市民の憩いの場である)。

ところで、1630年、母后マリーは再び反乱を起こす。今度はリシュリューのことが原因であった。宰相であり、枢機卿でもあったリシュリューは権力を握りすぎるとして、自尊心の強いマリーは、国王を説得して、リシュリューを失脚させようとした。しかし、歴史に名を残すほどのやり手であるリシュリューは、クーデターを鎮圧し、マリーは再び囚われの身となり、パリの地にあるコンピニーニュ城に監禁されてしまう。

1631年、マリーは脱出して、ベルギーに逃亡し、各国を転々として、最終的にドイツのケルンに落ち着いた。ケルンには、友人の画家ルーベンスが暮らしていた。あのルーヴルの連作の作者である。そして1642年7月3日にマリーは、このケルンで生涯を閉じた。
「大富豪メディチ家に生まれ、フランス王妃となったマリー・ド・メディシスであったが、その最期はルーヴルの絢爛豪華な連作からほど遠い惨めなものだった」と川島氏は締めくくっている。
(川島、2015年、123頁~137頁)



『ヘンドリッキェの肖像画』レンブラント・ファン・レイン


ルーヴルにある『ヘンドリッキェの肖像画』


17世紀のオランダの代表的な画家レンブラントには、かけがえのない女性がふたりいた。
 一人は、最初の妻サスキア
 もう一人は、愛人で後に二番目の妻になったヘンドリッキェ(1625-1663、38歳で死去)
 (もっともヘンドリッキェとは正式に結婚しなかったという説もあるが、二人の間には子どもも生まれ、妻と同じ存在だった)

ルーヴルにあるヘンドリッキェの肖像画からは、慎ましやかで、地味で、目立たない感じの女性とみられるかもしれない。実際は、いざというときに勇気と実行力を発揮する女性だったようだ。
川島氏は、次のような例示をひいている。亡き妻サスキアの遺言により、レンブラントは再婚した場合には、財産を相続できないことになっていたために、ヘンドリッキェとレンブラントは内縁関係を保っていた。
そうした関係を不謹慎だと、教会会議が批難し、ヘンドリッキェに出頭を求めたことがあった。けれどもヘンドリッキェはそれを無視し、応じようとしなかった。このように、ヘンドリッキェは自分が正しいと判断したことは曲げない強さも持っていたとみる。
サスキアとの間に生まれた義理の息子を立派に育て、自らも娘を授けられた。ヘンドリッキェはモデルとなったり、画商となって創作活動に貢献し、レンブラントに欠かせない女性であった。レンブラントの才能に心酔し、惜しみなく支援し続けた気丈な女性であった。

レンブラントの生い立ちとサスキアとの結婚


レンブラント(1606-1669)は、1606年、オランダのライデンに生まれた。製粉業を営む家庭に生まれ、経済的に恵まれていた。そして生まれ故郷ライデンにいた時代から、画家としてある程度知られていた。
しかし、1631年、レンブラントが25歳のとき、より以上の成功を求めて、華やかで活気に満ちたアムステルダムへと向かう。

画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルクの家に住み、レンブラントはそのアトリエで仕事をしていたが、画商の姪の美しいサスキアと恋におち結婚する。
サスキアは裕福な名士の娘だったので、そのお陰でレンブラントは、芸術を愛する上流階級の人々に接する機会が増え、サスキアの莫大な持参金で、自分のアトリエを持つこともできた。彼が描くブルジョア好みの肖像画や宗教画も高く評価され、注文も相次ぎ、幸せの頂点にいた。またレンブラントは愛するサスキアをモデルとして作品も手がけた。

名声と富を得たレンブラントは、美術品をコレクションするようになり、1639年には、アムステルダムの中心に、瀟洒な邸宅を購入し、豪勢な生活を好んだ。
ただ、家庭的には不幸が相次ぎ、サスキアとの間に生まれた3人の子どもが半年も経たないうちに死んでしまう。生き延びたのは息子ひとりだった。
さらに、1642年、29歳のサスキアが胸の病で帰らぬ人となる。1歳の息子とふたりきりになり、レンブラントは乳母ヘールチェを雇う。

レンブラントとヘンドリッキェ


そのレンブラント家に、家政婦ヘンドリッキェが新たに加わる。
軍曹の家に生まれたヘンドリッキェが生家を離れ、自力で生活をはじめたのは、1647年1月のことだった。
ヘンドリッキェがレンブラントの家で働くようになったいきさつは不明らしい。当初は家政婦として働いていたが、そのうちモデルもつとめるようになる。その作品からすると、ふくよかな身体と温厚な性格の女性であったように見える。

レンブラントは20歳年下のヘンドリッキェを愛人にするが、そうなるとヘールチェは、レンブラントからもらった指輪を証拠に、婚約不履行で訴えた(その結果、ヘールチェに年金を支払うはめになる。ところが後にレンブラントは、ヘールチェが宝飾品を盗んだと反撃、告訴すると、彼女は結局、病院に送られ、5年後に病院から出てきたが、翌年病気で世を去る)。

その後、1652年、レンブラントとヘンドリッキェとの間に、子どもが生まれるが、生後数日で亡くなってしまう。この年の不幸はそれだけでなく、オランダがイギリスとの戦争(英蘭戦争)に突入する。この戦争により、絵の注文が激減してしまう。オランダは海洋貿易で潤っていた国であったので、その経済は下降をたどる一方だった。

それにもかかわらず、レンブラントは浪費をやめられず、借金がかさんだ。英蘭戦争は2年続いたが、それが一段落した1654年にヘンドリッキェは娘を生んだ。借金の返済のため、コレクションしていた美術品を競売で売り、館まで手放す。
当時アムステルダムにあった画家ギルドは、スキャンダルにまみれたレンブラントを画家として認めない方針とした。そのときヘンドリッキェは立ち上がり、サスキアの息子ティトゥス(20歳)と共同で、画商になる決心をする。この2人はレンブラントのために絵の注文をとり、それを高値で売ることに努めた。
レンブラントの苦難の時を献身的に支え続けた気丈なヘンドリッキェであったが、その後、アムステルダムを襲ったペストに感染し、1663年、38歳の生涯を閉じる。アムステルダムの運河のほとりにあり、オランダ最大のプロテスタント教会である西教会に、ヘンドリッキェは埋葬される。レンブラントがその教会に葬られたのは、それから6年後の1669年であった。
(川島、2015年、139頁~149頁)。



『イザベラ・デステ』レオナルド・ダ・ヴィンチ


『イザベラ・デステ』と『モナ・リザ』の比較


ルーヴルの『モナ・リザ』のモデルとして、イザベラ・デステ説について言及し、共通点と相違点を指摘している。
共通点としては、
・どちらも右手を左手の上に置いているポーズ
・右手の人差し指が中指から離れている
・どちらの服装も襟元が大きく開いていて、ふくよかな胸を想像できる
・額は広く、理知的な顔立ち
・髪は肩をおおうほど、豊かで長く、真ん中から分けてさらりと流している

一方、大きな違いは、
・『モナ・リザ』が正面を向いているのに対して、『イザベラ・デステ』は横向きになっている
・『モナ・リザ』が完成した絵で、『イザベラ・デステ』はデッサンで終わっている

イザベラ・デステ(1474-1539)の生い立ちと結婚


次に、川島氏は、イザベラ・デステの生い立ちについて述べている。イザベラは1474年5月18日に生まれる。父はイタリアのフェラーラ公国の君主であり、母はアラゴン王の王女である。両親はメディチ家以後、もっとも芸術家を庇護する君主夫妻と敬われていた。そして、フェラーラのルネサンス初期の建物の多くは、現在ユネスコの世界遺産に登録されているが、それらはイザベラの父の時代のものである。イザベラも、幼い頃から芸術に格別の関心を抱いていた。
1490年、15歳で、フェラーラ公国の隣国マントヴァ国の当主、26歳のフランチェスコ2世ゴンザーガ侯爵と結婚した。夫は勇敢で武術に秀で、しかも芸術にも大きな興味があった。それは父フェデリコ1世の影響だった(父フェデリコ1世は、ルネサンス期の画家アンドレア・マンテーニャと親しく、その作品を多数購入していた)。

また、マントヴァは、人工的に造られた3つの美しい湖に囲まれた風光明媚な土地で、『ロミオとジュリエット』の舞台になったほどの麗しい国だった。
(悲劇『ロミオとジュリエット』で、ロミオはティボルトを誤って殺害し、町から追放されるが、直ちにマントヴァへ向けて発ち、愛するジュリエットの死の知らせを聞いて、ヴェローナへ帰還する)。

マントヴァ国とミラノ公国の姉と妹


結婚後、イザベラは重厚な趣のドゥカーレ宮殿に暮らした。この宮殿の「夫婦の間」は、天井にも壁にも、巨匠マンテーニャのフレスコ画が描かれている。
ゴンザーガ家の繁栄と栄光を願って描かれたために、マンテーニャはゴンザーガ家の家族が和やかに団欒している光景を描いた。
マンテーニャのフレスコ画は、これを鑑賞するためだけでも、マントヴァを訪れる価値がある、と語られていた。イザベラは、芸術家の庇護を積極的に行っていたゴンザーガ家の一員となり、マントヴァを華麗な芸術の花が咲く国にしようという思いを強くしたようだ。

ところで、当時、もっとも華やいでいたのは、マントヴァからさほど遠くないミラノ公国だった。その支配者ルドヴィコ・スフォルツァ、通称イル・モーロに嫁いだのは、イザベラの妹ベアトリーチェだった(イザベラが結婚した翌年1491年ことだった)。

イル・モーロは結婚して4年後、甥を抑えて、正式にミラノ公国になる。文芸を重んじていた彼の宮廷では、作家や哲学者、芸術家を中心とした華やかな社交がくり広げられていた。その公妃となった妹ベアトリーチェは、金に糸目をつけない宝飾品で身を包み、光り輝いていた。姉イザベラは、そうした妹に嫉妬を抱いていたようだ。

ミラノ公国とレオナルド・ダ・ヴィンチ


イザベラが悔しがったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノに招かれ、公爵夫妻のために、あらゆる分野で才能を発揮していたことであると川島氏はみている。
時代は少し遡るが、ダ・ヴィンチがイル・モーロの招きに応じて、フィレンツェからミラノに移り住んだのは、1482年だった。その理由には諸説がある。宮廷画家として、または宮廷の音楽師として招かれたとか、武器の発明家として必要とされたとか、イル・モーロが亡き父のブロンズの騎馬像を依頼するためだったとか、いわれている。万能のダ・ヴィンチであったから、そのすべてをかわれて、ミラノに招かれたかもしれない。

栄華を誇っていたミラノ公国の権力者に認められたことは、ダ・ヴィンチにとって幸運なことであり、その活躍は素晴らしかった。画家として最大の業績としては、ルーヴルの『岩窟の聖母』と、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画『最後の晩餐』といった秀作を残したことである。これらの作品は、「時空を超える無比の才能の輝きを宿している」と川島氏は評している。

煌びやかなミラノが一挙に崩れるときが来た。1498年、ローマやヴェネツィアを味方にして、フランス国王ルイ12世がミラノ侵略を開始した。無残にも敗北したミラノ公爵イル・モーロは捕虜になり、フランスに連行され、ロワール河畔の城の牢に幽閉され、そこで1508年に死去してしまう(彼の妃ベアトリーチェは、1495年に既に21歳の若い生涯を閉じていた)。
そうなると、イル・モーロの庇護下にあった芸術家たちは、ミラノを後にし、その多くはヴェネツィアへと向かった。ダ・ヴィンチもそのひとりだった。

マントヴァとレオナルド・ダ・ヴィンチ


レオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴェネツィアへ向かう途中で、マントヴァに立ち寄った。そのことを知ったイザベラは、手放しで喜んだにちがいない。イザベラは、彼の才能に、ますます魅了されていた。とくに1489年、イル・モーロの若く麗しい愛妾、チェチリア・ガッレラーニの肖像画(1489年~1490年頃)を見たときから、イザベラは自分の肖像画を描いてもらいたいと熱望していた。
現在ポーランドのツァルトリスキ美術館にある『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれるチェチリアの肖像画である。それは、「あふれるほどの気品と知性がほとばしる女性として描かれている」と川島氏は評している。

この優美な絵をイザベラがどこで見たかは明らかになっていないが、1498年との記録があり、マントヴァだったと想像されている。というのは、その年にフランスがミラノに攻め入り、身の危険を感じたチェチリアが、イザベラに保護を求めてマントヴァに来たから。おそらく、イル・モーロが、最愛の人に亡き妃の姉の国を勧めたのだろうとみられる。その時、チェチリアは、ダ・ヴィンチが描いた肖像画を持参し、イザベラが目にしたと考えられている。

イザベラが、妹のライバルともいえるチェチリアを温かく迎えたのは、ラテン語を理解し、詩を綴るなど、知性のある女性であることを知っていたとみられる。イザベラは、マントヴァを文芸を重んじる国にしたかったので、チェチリアのような女性が必要だったのであろう。

ダ・ヴィンチがひとりの女性の肖像画を手がけるのは珍しいことであった。しかも、チェチリアをモデルにした絵は素晴らしかった。イザベラは感激して譲ってほしいと思ったが、結局それはかなわなかった。

しかし、それを描いたダ・ヴィンチが、自分の国マントヴァにいる。このチャンスに、イザベラは、あの、チェチリアの肖像画のような静謐な絵を描いてもらいたかった。イザベラから依頼を受けたダ・ヴィンチは、何故かデッサンを描いた。その1枚がルーヴルの『イザベラ・デステ』である。シンプルな服に身を包み、彼女の横顔を描いた素画である。

デッサンではなく、ぜひとも肖像画を描いてほしいと、その後イザベラは何度もダ・ヴィンチに依頼した。ダ・ヴィンチがマントヴァを離れ、ヴェネツィアやフィレンツェにいる間にも、マントヴァ大使を通じて催促した。しかし、ダ・ヴィンチは実現しなかった。多忙を理由にいつか描きますといいながら、描かなかった。
(ただし、川島氏は、「もしも、『モナ・リザ』がイザベラでないのであるならば」と付記することを忘れていない)。

イザベラ・デステにとっての苦境


1509年は、イザベラにとって苦難の年だった。夫フランチェスコ2世が、ヴェネツィアとの戦いで捕虜となり、幽閉された。夫は囚われの身となり、跡取りの息子はまだ少年であった。
イザベラが政治に目覚め、軍を組織し、国民の団結を呼びかけ、諸外国の君主に援助要請の手紙を矢継ぎ早に書いた。その功績が実を結び、夫は釈放された。約1年間の屈辱的幽閉から解放された夫ではあったが、妻の政治手腕によって妻イザベラの方は人気が高くなり、夫婦仲は悪化したようだ。

イザベラの活躍で、マントヴァは芸術家を支援する注目の国となった。そしてイザベラは、かねてから憧憬を抱いていたローマへと旅立ち、その地に滞在する。1514年、40歳のことである(ローマでは、ミケランジェロやラファエロが活躍し、ルネサンスの華麗な花が咲き誇っていた)。
その後、マントヴァに戻り、侯爵夫人としての役割をこなしていたが、1519年3月、夫のフランチェスコ2世が52歳で逝去してしまう。15歳の長男が侯爵の称号を継ぎ、イザベラは摂政を務める。

1527年に神聖ローマ皇帝カール5世がローマに進入したときには、イザベラはローマに滞在し、コロンナ家の居城にいた。この「ローマ略奪」と呼ばれる侵略で、カール5世の皇帝軍は、ローマを破壊し、文化人はローマから逃げ出した。1450年から続いていた最盛期のルネサンスは終焉を迎えた。
コロンナ家は皇帝軍側にいたため、イザベラがいたコロンナ城は破壊を免れたが、輝かしい文化を誇っていたローマは廃墟と化した。

1530年、イザベラの息子は成長し立派に国を治めるようになり、侯爵から公爵に昇格した。その後、イザベラは、ステュディオーロ(書斎)で過ごすことが多くなったようだ。その部屋には、マンテーニャの絵が数枚あったし、ティツィアーノとロマーノの描いたイザベラの肖像画も飾られていたといわれる。彼女は教養を重んじる格別な女性であった。
1539年2月13日、稀に見る才知と魅力を備えている女性として敬われていたイザベラ・デステは、64歳の生涯を閉じた。

このイザベラ・デステの項を、川島氏は、次のような含みのある文章で結んでいる。
「これほどのイザベラ・デステである。そうなると、ダ・ヴィンチが単なるデッサンだけで終えたとは、とても思えなくなる。彼はイザベラに何かを感じたはずである。
 素画はルーヴルの一枚だけでなく数枚描いたと記録されている。それをもとにして彼が、何年もかけて描き続けているうちに、ついに理想的な女性像となった。それが『モナ・リザ』だということも考えられないことはない」(169頁)。
(川島、2015年、151頁~169頁)




『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ


ルーヴル美術館の『モナ・リザ』


ルーヴル美術館の『モナ・リザ』は、「女王的存在」「傑作中の傑作」である。
『モナ・リザ』には、誰が描かれた絵画なのかというモデルの問題がある。
イタリア美術史専門家のカルラ・グロリは、ミラノ公爵の娘ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァと確言している。ビアンカは15歳で世を去っているけれど、レオナルドはビアンカに年をとらせて描いたという驚くべき説を川島氏は紹介している。
その他、レオナルドの自画像説、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ説、ミラノ公妃イザベラ・ダラゴン説を挙げている。
ルーヴル美術館の絵の本来のタイトルは、『ラ・ジョコンド』つまりジョコンド夫人で、『モナ・リザ』は通称である。ちなみにモナ・リザは私のリザという意味のイタリア語である。

リザ・デル・ジョコンドの生い立ちと結婚


リザがフィレンツェのゲラルディーニ家に長女として生まれたのは、1479年6月15日である。1495年3月、彼女が15歳のときに、同じフィレンツェ生まれの14歳年上のフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚した。リザは2番目の妻だった。
ジョコンド家は、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会に家族の墓所があり、かなり立派な家系だった。
1501年、レオナルドはその教会の修道院に世話になっていた。そのときにジョコンドがレオナルドと知り合い、後に妻の肖像画を依頼したのではないかとみられている。
ジョコンドは絹織物を取り扱う裕福な商人で、リザとの仲はむつまじく、二人の間には5人の子供がいた。ジョコンド夫妻のふたりの娘は修道女になっている。
1499年、ジョコンドは行政官に選ばれ、メディチ家と親しくなっている。ジョコンド家はメディチ家ほど大規模ではなかったが、芸術を愛した。

レオナルド・ダ・ヴィンチとリザと肖像画


レオナルドがジョコンドに頼まれて、その妻リザの肖像画を描き始めたのは、1503年で、彼女が24歳だった。妻の肖像画を依頼したのは、2つの理由が推測されている。すなわち
、その前年に二番目の息子アンドレアが生まれたこと、そして新たな家を購入したことである。
レオナルドが『モナ・リザ』を1503年から描いていたことは、レオナルドの友人であるフィレンツェの公証人、アゴスチーノ・ヴェスプッチが残した当時の記録から明らかになっている(ドイツのハイデルベルク図書館にあるメモによると、レオナルドは3枚の絵を描いていて、そのうちの1枚はリザ・デル・ジョコンドの肖像画であるという。この図書館は、2008年にこの事実を発表した)。

『モナ・リザ』のモデル問題


けれども、レオナルドは依頼主ジョコンドに、彼の妻の肖像画を渡すことはなかった。その理由についても諸説ある。ジョコンドが気に入らなかったというのも一つである。
代金を支払ったという記録もなく、肖像画はレオナルドの手元に最後まで残っていた。
ここで、川島氏は、再び、モナ・リザのモデル問題について取り上げている。
レオナルドが筆を進めるうちに、目の前にいるリザに、母の面影を重ねていったという説を紹介している。
公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチと、農民カテリーナの間に私生児として生まれ、幼いときに父親によって母から引き離されたレオナルドは、母への思慕に大きかったとみて、母を求め続けていたレオナルドが、リザになつかしい母の姿を重ねたというのである。
あるいは、『モナ・リザ』は、レオナルドの母を超え、全人類の生みの母、聖母マリアなのかもしれないという。当初はリザを目の前に置いて、その肖像画を描き始めたが、時が経つに従って、自分にとって理想と思える女性に変わっていったことも考えられるとする。
いずれにしても、1516年にフランス国王フランソワ1世の招きに応じて、フランスに暮らすようになったときにも、この絵を伴っている。

リザの最期


さて、レオナルドがフィレンツェを去った後も、平和に暮らしていたリザだったが、1538年、大流行したペストで夫に先立たれた。未亡人となったリザは、最初長男の家族と暮らしていたが、しばらくして病にかかり、娘のいるサンタ・オルソラ修道院に入ったが、そこで1542年7月15日、63歳で生涯を閉じた。そして同じ修道院に埋葬された。

『モナ・リザ』に関する著者の見解


ジョコンドの名は17世紀に消滅したらしいが、リザの子孫は今も健在で15代目の女性がおり、雑誌のインタヴューに答えたという。こうなると、『モナ・リザ』となった女性が、あまり現実的になり、絵の見方まで変わってしまいそうで、残念な気がしないでもないと川島氏は感想を述べている。

そして、川島氏は次のような文章で締めくくっている。
「『モナ・リザ』は、当初はリザ・デル・ジョコンドの肖像画として描かれていたが、その後数年間にわたって筆が加えられ、モデルとなった女性から離れ、実際には地上に存在しなかったダ・ヴィンチの理想の女性となった。ダ・ヴィンチはその人を常に近くに置き、見つめ、語りかけ、聞えない声を聞き、自分慰め、心に平和を広げていたのだと信じていたい。」と。
川島氏も、『モナ・リザ』について、当初はリザ・デル・ジョコンドの肖像画として描かれていたが、筆が加えるうちに、モデルとなった女性から離れ、ダ・ヴィンチの理想の女性となったという説を支持している。
(川島、2015年、171頁~181頁)



【読後の感想とコメント】


以上、川島ルミ子氏の著作内容を紹介してきた。女性の肖像画の像主について、その人生のドラマを、物語性と叙述性を備えて、簡潔に記されており、絵画鑑賞に参考となる著作であることが納得していただけたのではないかと思う。

ジャンヌ・ダルクの肖像画


とりわけ、冒頭に取り上げてあるジャンヌ・ダルクの絵は、アングルの想像の産物であったことには、注意する必要があろう。そもそも、ジャンヌ・ダルクが歴史上注目されだした理由は、フランス近代のナショナリズムの勃興と深く関連するという説がある。つまり、フランス国民の意識を高揚するために、ナポレオンが“救国の少女”として、ジャンヌ・ダルクを取り上げたというのである。
そう考えると、ナポレオンの宮廷画家ダヴィッドの弟子アングルが、ジャンヌ・ダルク像を絵画に残したことも、より納得できる。

ジョゼフィーヌの肖像画


また、ジョゼフィーヌの肖像画において、女性の肖像画というカテゴリーにこだわったために、プリュードンの絵を選択せざるをえなくなったものと推測される。

しかし、ルーヴル美術館で、ジョゼフィーヌの登場する絵といえば、何といっても、ダヴィッドの大作「ナポレオン一世の聖別式とジョゼフィーヌ皇后の戴冠」(1806/1807、621×979㎝)であろう。
横10メートル近い大作で、ジョゼフィーヌはナポレオンから冠をかぶせてもらいかけている場面である。ダヴィッドは、当時リュクサンブール宮にあったルーベンスの連作の1枚である「マリー・ド・メディシスの戴冠」(今はルーヴル美術館にある。川島ルミ子氏も取り上げていた)の構図を参考にしたとみられている(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991年、213頁。およびミッシェル・ラクロット他編(田辺徹訳)『ルーヴル美術館 ヨーロッパ絵画』みすず書房、1994年、104頁~105頁)。
この絵およびダヴィッドについては、鈴木杜幾子氏の上記の著作に詳しい。画家ダヴィッドについては、第3番目の『マダム・レカミエ』の作者として、取り上げているが、物足りない。

ポンパドゥール夫人について


飯塚信雄氏は、プロイセンのフリードリッヒ大王と、ポンパドゥール侯爵夫人の肖像画について、次のようなエピソードを記している。
「大王はポンパドゥール侯爵夫人に丁寧な書簡をおくり、ラトゥールの描いた侯爵夫人像の複製をぜひちょうだいしたいと猫なで声でお願いする一方、できるだけ侯爵夫人にゴマをすれ、とフランス駐在大使に訓令した」
(飯塚信雄『ロココの女王 ポンパドゥール侯爵夫人』文化出版局、1980年、198頁)

このエピソードは、ポンパドゥール侯爵夫人が、フランスという国を代表して、いかに外交に力をもっていたかがわかると同時に、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールによるポンパドゥール侯爵夫人の肖像画が知られていたかを物語るものといえよう。

パステル画のラ・トゥールの方の肖像画は、ポンパドゥール侯爵夫人のブドワール(私室)で蔵書にかこまれて描かれている。
夫人の机の上の本には、有名な本が並べられているそうだ。モンテスキューの『法の精神』や、ディドロらがまとめた啓蒙思想の集大成である『百科全書』がある。この『百科全書』は、イエズス会に発刊を妨害されたが、その時夫人は出版長官のマルゼルブとともに出版を助けた。夫人は新興ブルジョワジーの出であるので、開明思想に共鳴したのであろう。マルゼルブは、ルソーやディドロの友人であった。彼は『百科全書』の原稿差押え命令が出された時、その執行を故意に遅らせ、原稿を官邸に隠させたりしている。そして実際にも編集に携わった(『百科全書』は4100部を予約出版したが、この時代としては、画期的な売れ行きであった)。

ところで「ポンパドゥール侯爵夫人」を描いた有名な画家として、もう1人フランソワ・ブーシェがいる。ロココの全盛期を代表する画家である。幸福感に満ちた可能的な絵を得意とした。1日に10時間も精力的に仕事をして、生涯1万点もの絵を描いた。
このブーシェの映画いた夫人の肖像画は、ラ・トゥールのものより、かわいらしく描かれている。夫人はのちにブーシェから絵を習っている。
ブーシェは、40歳を過ぎてから、ポンパドゥール夫人に気に入られ、首席宮廷画家に就任し、のちの絵画アカデミーの会長にもなった。またゴブラン製作所の所長も務めた。そしてセーヴル陶器工場の下絵デザインや、オペラ座の舞台装置も手掛け、多才ぶりを発揮した。

アンリ4世、王妃マルゴ、ガブリエル・デストレ


アンリ4世の最初の妻、王妃マルゴについては、アレクサンドル・デュマの歴史小説があり、映画にもなったので、広く知られている。
アレクサンドル・デュマ(1802-1870)は、フランスのロマン派を代表する作家である。『三銃士(Les Trois Mousquetaires)』(1844)、『モンテ=クリスト伯(Le Comte de Monte-Christo)』(1844-45)などの歴史小説の傑作によって世界中に親しまれている。『王妃マルゴ』もそうである。デュマ・ペール(父)と呼ばれる。
一方、『椿姫(La Dame aux camélia)』(1848)は、デュマ・フィス(子)(1824-1895)と呼ばれる息子の方の作品である。
例えば、本や映画は次のものがある。本では、アレクサンドル・デュマ(榊原晃三訳)『王妃マルゴ(La Reine Margot)上下巻』河出文庫、1994年[1995年版]。
訳者榊原晃三氏も「訳者あとがき」(377頁~384頁)で述べているように、小説『王妃マルゴ』において、マルゴとラモル(そしてココナスとアンリエット)の悲痛な愛を縦糸として、その周囲にカトリーヌ母后、シャルル9世、アンリ・ド・ナヴァール、ギーズ公、アランソン公などの実在の人物と、実際に起こった出来事とをほぼそのまま配して、ヴァロワ王朝の実体とこの時代の特徴を描いている。
ルネサンス期、宗教戦争に明け暮れたフランス、ヴァロワ王家の内幕の特徴をとらえていると訳者は評している(デュマ[榊原訳]、下巻、1994年[1995年版]、380頁~381頁)。

物語は、1572年8月18日、パリのルーヴル宮での盛大な婚儀から始まる。シャルル9世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ)と、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボン(ブルボン王朝の始祖で、のちのアンリ4世)との婚儀である。周知のように、1572年8月24日のサン・バルテルミの事件のきっかけとなり、物語が展開する。

映画『王妃マルゴ(La Reine Margot)』(1994年、フランス映画)は、イザベル・アジャーニが王妃マルゴを熱演し、1994年カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した。
【アレクサンドル・デュマ『王妃マルゴ(La Reine Margot)』河出文庫はこちらから】


アレクサンドル・デュマ『王妃マルゴ〈上〉』 (河出文庫)


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『モナ・リザ』のモデル問題


『モナ・リザ』のモデル問題には、諸説がある。最近では、元木幸一氏は、
「近年、≪モナ・リザ≫のモデルがモナ・リザ(リザ夫人)であることがほぼ確定した」(45頁)と明言し、「≪モナ・リザ≫の笑顔は、第一義的には注文主である夫ジョコンドに向けられている」(99頁)と解釈している(元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年、45頁、99頁)。

一方、そのモデルをイザベラ・デステだと主張する代表的な美術史家に田中英道氏がいる。
イザベラ・デステの肖像と「モナ・リザ」図の類似性について、述べている。すなわち、『モナ・リザ』のモデルが、ゲラルディーニ家の娘リザではなく、イザベラ・デステであることを、「第8章 果たしてモナ・リザか」の第2節の「イザベラ・デステの像」において、論述している。

 「イザベラの肖像の素描と「モナ・リザ」図における顔ばかりでなく手の組み方まで似ている類似性、そしてイザベラの手紙とそれに対する返事は、レオナルドがイザベラの肖像画を制作していたことを証拠だてているといってよいだろう。恐らく1506年までまだ未完成で、引渡す状態ではなかったであろう。その後催促がとだえてから、イザベラの肖像から離れた女性の理想像を追求していたのかもしれない。しかし、「貴婦人の肖像」においてモデルがあのように深化した肖像になったのは、何よりもマントヴァ侯夫人イザベラに対する敬愛の念があったからではなかったか、と想像されるのである。」
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、262頁)

このように、「貴婦人の肖像」を、リザではなく、イザベラ・デステとする。そして、イザベラの催促がとだえてから、「イザベラの肖像から離れた女性の理想像を追求」したと推測している。そのように深化した肖像になった理由は、イザベラに対する敬愛の念に求めている。
最終的には、「より理想化して描き進むにつれ、それが肖像画を離れて一個の聖母画のごとき理想画に進行していく」と、田中英道氏は理解している。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、266頁)

川島ルミ子氏の見解は、久保尋二氏のそれに同一の見解である。以前にも紹介したが、久保氏は次のように記している。
「現在、パリのルーヴル美術館が所蔵するレオナルドのいわゆる『モナ・リザ』( “Monna Lisa”, detto“La Gioconda”)は、芸術的見地からすれば、ある特定の婦人の肖像画、などという生やさしい絵ではない。レオナルドの天才は、この絵を制作しているうちに、いつしか特定の婦人像という枠を超えて、たしかに女性そのものの本体の表現にまで至らしめた。そのことは、この絵が、特定の婦人の特殊的な一回的なあるいは偶然的な顕れでない、あらゆる性向を包蔵する女性それ自体を形象化した普遍的人格像、にまで高められているということである。それが、この巨匠にしてはじめて可能な至芸であったことは、この絵の無数の模作と較べてみればよくわかる。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究――その美術家像』美術出版社、1972年、237頁。「第3章 レオナルド芸術の諸問題」の「『モナ・リザ』のモデル問題と制作年代」より)。

川島ルミ子氏の見解は、久保尋二氏のそれと同一の見解である。それは、『モナ・リザ』をレオナルドの自画像とするといった見解とせず、奇をてらうことなく、正当で穏当な見解であろう。
なお、『モナ・リザ』のモデル問題については、後日、詳述してみたい。


フェルメールの 「レースを編む女」について


また、ルーヴル美術館にある女性肖像画で、像主が一般市民で、いわゆる“有名人”でないために、候補から漏れた絵もある。絵そのものの美しさからいえば、ルーヴルのベスト10に入る女性肖像画だと個人的には考える、フェルメール「レースを編む女」(1665年頃)がある(ラクロット、1994年、216頁)。
こうした今回取り上げられていないルーヴル美術館の女性肖像画をも、今後解説してもらいたい。

西洋美術史の美女たち


今回は、川島ルミ子氏が取り上げた女性の肖像画を紹介したが、著者が違えば、その肖像画も異同が生じる。例えば、木村泰司氏は、『美女たちの西洋美術史――肖像画は語る』(光文社新書、2010年)において、川島氏と重なる肖像画を取り扱っている。
例えば、
第2章 イザベラ・デステ――ルネサンスの熱狂を生きた美女
第8章 ガブリエル・デストレ――王と国家に尽くした寵姫の鑑
第9章 マリー・ド・メディシス――尊大な自我の運命
第12章 ポンパドゥール夫人――ロココの「女王」の華やかな戦い
また、川島氏が間接的に言及されたマリー・アントワネットも扱っている。
 第13章 マリー・アントワネット――国民に憎悪された王妃
 
機会があれば、木村泰司氏の著作も紹介してみたいが、章立てのみ、ここでは記しておく。




【参考文献】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991年
ミッシェル・ラクロット他編(田辺徹訳)『ルーヴル美術館 ヨーロッパ絵画』みすず書房、1994年
飯塚信雄『ロココの女王 ポンパドゥール侯爵夫人』文化出版局、1980年
アレクサンドル・デュマ(榊原晃三訳)『王妃マルゴ(La Reine Margot)上下巻』河出文庫、1994年[1995年版]
田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ――芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史――肖像画は語る』光文社新書、2010年




川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)



川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像』を読んで  その1 私のブックリポート

2020-01-13 18:59:25 | 私のブック・レポート
≪川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』その1 私のブックリポート≫


【はじめに】
新しい年が明けました。本年もよろしくお願いいたします。
このブログで新たに「私のブック・レポート」というカテゴリーを設けましたので、今年の目標は、このカテゴリーでできるだけ多くの本を紹介してゆきたいと思います。できれば、100冊を達成するように努力してゆきたい。読者に有益な情報を提供したいと考えています。

さて、年の始めにあたり、ルーヴル美術館の作品を取り上げた次の3冊を紹介したい。
① 川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』講談社+α文庫 2015年
② 元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年
③ 井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年



今回は、年頭にふさわしく、華やかに、ルーヴル美術館の女性の肖像画を扱った本、川島ルミ子氏の『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』(講談社+α文庫 2015年)を紹介してみたい。



その目次は、次のようになっている。
はじめに
『ジャンヌ・ダルク』ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル
『皇后ジョゼフィーヌの肖像画』ピエール=ポール・プリュードン
『マダム・レカミエ』ジャック=ルイ・ダヴィッド
『マダム・ヴィジェ=ルブランとその娘』エリザベット=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
『ポンパドゥール夫人』モーリス・カンタン・ド・トゥール
『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』ハンス・ホルバイン
『ガブリエル・デストレとその妹』フォンテーヌブロー派
『マリー・ド・メディシスの生涯』ピーテル・パウル・ルーベンス
『ヘンドリッキェの肖像画』レンブラント・ファン・レイン
『イザベラ・デステ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
フランス王家系図
画家紹介






川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)




今回は、字数制限のため、6枚目の『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』までとする。今回の執筆項目次のようになる。


著者と本書の紹介
『ジャンヌ・ダルク』ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル
『皇后ジョゼフィーヌの肖像画』ピエール=ポール・プリュードン
『マダム・レカミエ』ジャック=ルイ・ダヴィッド
『マダム・ヴィジェ=ルブランとその娘』エリザベット=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
『ポンパドゥール夫人』モーリス・カンタン・ド・トゥール
『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』ハンス・ホルバイン







著者と本書の紹介


川島ルミ子氏は、東京生まれで、ソルボンヌ大学、エコール・ド・ルーヴルで学び、歴史、美術、文化を中心に執筆している。フランス・ナポレオン史学会会員、フランス芸術記者組合員、ファム・フォロム(フランスで活躍する女性の会)会員であるという。

さて、ルーヴル美術館には、13世紀から19世紀半ばまでの様々な分野の絵画が展示されている。19世紀後半にフランスで印象派が発祥し、日常的な生活や無名の人を描くようになるまでは、肖像画に描かれるのは、それなりの存在理由があったようだ。
ルーヴル美術館では数多くの肖像画が見られるが、画家の名を知っていても、肖像画の像主に関しては詳しいことがわからない場合が多い。
絵の中の人は一体誰だろうかとか、著名な画家が描いたからには格別な人生を歩んだにちがいないと、鑑賞者はきっと思うであろう。いわば、肖像画はその人の背景を知ることによって、興味が深まる絵である。
ルーヴル美術館には、男性を描いたものも多数あるが、川島ルミ子氏は本書では女性のみに焦点を当てて、目次からもわかるように、11枚の女性肖像画について解説している。ここで取り上げられた11人の女性モデルの人生には、多くのドラマが潜んでおり、興味深い“女性列伝”となっている。

ルーヴル美術館を訪れる際に参考になるばかりか、西洋美術史を知る上でも有用な本だと思ったので、その内容を紹介しておきたい。


『ジャンヌ・ダルク』ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル


ルーヴル美術館の『ジャンヌ・ダルク』


フランス史の中で、世界でもっとも名が知られている女性は、ジャンヌ・ダルクとマリー・アントワネットだといわれる。
ハプスブルク家に生まれ育ち、」後にフランスの王妃になったマリー・アントワネットを描いた肖像画は多い。
しかし、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)が生きていた当時の肖像画は1枚もない。15世紀初め、当時肖像画を描いてもらうのは、王家の人々や貴族、あるいは聖職者に限られていた(この点、元木幸一氏の本に詳しいので、後日紹介したい)。

西洋の肖像画の歴史には、このような事情があるので、ルーヴル美術館の『ジャンヌ・ダルク』は、画家アングル(1780-1867)が想像力を働かせて描いたものである。アングルは、ドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承し、ナポレオンの没落後、1816年にダヴィッドが亡命した後、注目され、新古典主義的絵画の牙城を守った。
「この絵が実際にジャンヌに似ているかどうかは、もちろん知りようもない」と川島氏は断っている。
アングルによるジャンヌ像をみると、立派な甲冑に身を固め、知的でしかも目鼻立ちがはっきりした整った顔をしている。そして体格もよく精神的な強さも感じられる。窮地に陥っている人を救うのにふさわしい容貌?だと、川島氏は評している。

ジャンヌ・ダルクの生い立ちと神の「声」


ジャンヌが生まれたのは、フランスの北東にあるドムレミという村であった。ドムレミは現在でも人口が200人に満たないほど小さい村である。ジャンヌが生まれ育った家は2階建てで、比較的裕福な家だった。そこで、両親と5人の子どもが暮らした。

家の周囲には、こぢんまりとした庭があったが、その庭でジャンヌは「声」を聞いたという。1425年、ジャンヌが13歳のときのことである。その「声」の主は、大天使ミカエルであり、後にカトリーヌ天使とマルグリット天使が加わったようだ。
その「声」の内容とは、「オルレアンを解放し、フランスを救え」というものであった。つまり、フランスの王位継承権を主張するイギリス軍が侵入しているが、苦戦していたフランス王太子のために戦い、イギリス軍を追い出し、ランスのカテドラルで王太子に戴冠式を行い、正式にフランス国王の座につけるようにという内容であった。
天使の「声」を何度も聞くうちに、ジャンヌはそれを使命と思うようになり、3年後の1428年、16歳の彼女は、「声」が告げる通りに行動した。

「声」に従い、ドムレミ近くにあるヴォクラール村の指導官ボードリクールに会い、ロワール河畔のシノン城までの道中の護衛を依頼した。彼はこの要望を最初は拒否し、追い返したが、3回目に聞き入れた。1429年2月のことだった。

王太子とのシノン城での謁見とオルレアン解放


ドムレミからシノンまで11日間の旅をして、王太子シャルルに会った。王太子はジャンヌが語った「声」のお告げの信憑性を確かめるために、ポワティエにある高等法院で神学者たちに尋問させた。
3週間もの長い間、質問攻めにあったが、ジャンヌは難問に明快に答えた。王太子はジャンヌを信頼し、旗と甲冑を授け、兵をまかした。ジャンヌは1429年4月、イギリス軍に包囲されていたオルレアンへと向かった。
男装してジャンヌは、兵士とともに、決死の覚悟で戦い、5月8日にオルレアンを解放した。

ランスでの戴冠式


そして、1429年7月17日、ランスのカテドラルで、王太子をシャルル7世として、正式にフランス国王の座につける戴冠式を行った。
アングルの『ジャンヌ・ダルク』は、その戴冠式における彼女の晴れ姿である。

ランスでの戴冠式は、神から王権を認められ、地上における神の代理人になることを意味した。
歴史を遡れば、初代フランク王クロヴィスが洗礼を受けたのは、ランスのカテドラルであった。そのとき王は、聖霊が特別に届けたといわれる聖油を、ランスの聖レミ司祭から額につけてもらった。聖油を天から地上に運んだのは、鳩に変身した聖霊だった。それ以来、正式にフランス国王になるためには、ランスのカテドラルで戴冠式を行うようになった。

その後のジャンヌの悲劇


「声」のお告げは実現され、ジャンヌの役目は終わったかにみえた。国王となったシャルル7世が、敵との講和を希望したのに対し、愛国心の固まりとなったジャンヌは戦いのほうを好んだ。
国王にとって、戦闘的なジャンヌは、もはや救世主ではなかった。彼女がコンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕らえられ、イギリスに売り渡されても、国王は何もしなかった。

ジャンヌは国王に見捨てられ、宗教裁判にかけられた。魔女の汚名を着せられ、ルアンで火刑に処せられた。わずか19歳だった。遺灰はセーヌ川に投げられた。

1920年、ジャンヌ・ダルクはローマ教皇から聖女とされ、それ以降、彼女にゆかりの地や教会に像が置かれるようになった。そして5月第2日曜日を「聖女ジャンヌ・ダルクの祝日」、別名「愛国心の祝日」と制定された。これほどの栄誉に輝く人物は、国王にも、王妃にも、聖女にもいない。
(川島、2015年、11頁~24頁、184頁)

『皇后ジョゼフィーヌの肖像画』ピエール=ポール・プリュードン


ジョゼフィーヌとナポレオン


終焉を迎えたセント・ヘレナ島で、ナポレオンは、
「余が心から愛していたのはジョゼフィーヌだけだった」
と部下にしみじみ語ったという。

ナポレオンは小さいころから英雄にあこがれ、古代マケドニアのアレキサンダー大王を模倣して、ヨーロッパに大帝国を築く夢を抱いた。そのような超人的野心家のナポレオンの心を奪う要素をジョゼフィーヌは持っていたと川島氏はみている。

ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネ(1763-1814)は、典型的なフランス女性であり、おしゃれで、浪費家で、嘘が上手で、気分屋で、男を操るすべを知っていて、人生を心から愛していた。

ジョゼフィーヌの生い立ち


それでは、このジョゼフィーヌの生い立ちからみてみよう。
1763年、ジョゼフィーヌは、カリブ海のフランス領マルチニック島に生まれる。父は大農園経営者で、恵まれた幸せな少女時代を送っていた。
10歳のとき、修道会経営の寄宿舎に入り、学業だけでなく、礼儀作法やダンスも学び、教養を身につけ、14歳で実家に戻った。あとは、将来性のある青年との結婚を待つばかりだった。

ジョゼフィーヌの結婚


叔母から結婚話が持ち込まれ、ボーアネルという、パリに住む19歳の青年子爵を紹介される。ジョゼフィーヌは父に付き添われ、船でフランスへと向かった。1779年、16歳のときのことである。
マルチニック島では、その個性的な美貌で評判のジョゼフィーヌだったが、パリでは、南国育ちの彼女は垢抜けない冴えない女性だったようだ。
夫は妻にパリの社交界にふさわしい教養を身につけさせようとした。開放的な家庭に育ったジョゼフィーヌは物事を気楽に考え、移り気で気まぐれな性格だったので、それは無理なことだった。それでも、おしゃれだけには興味を抱いていた。化粧やヘアスタイルの研究をしたり、全身をうつして歩き方を練習したりしたようだ。

将来を期待された才知ある夫と、教養のとぼしい軽率な妻の接点はなく、夫婦仲は徐々に悪化した。息子ウジェーヌと娘オルタンスが生まれても、2人の仲は冷えたままで、5年で結婚生活は終わりを迎える。
その後、フランス革命で、王党派の議員だった子爵ボーアルネは捕らえられ、処刑されてしまう。妻だったジョゼフィーヌも投獄されたが、強運にも危ういところで、革命が終わり、釈放された。

ジョゼフィーヌとテレーズ・カバリュス


もしもジョゼフィーヌが、テレーズ・カバリュスと知り合わなかったら、彼女の生涯もフランスの歴史も、まったく異なっていたであろうといわれる。
ふたりは、カルム監獄で親しくなった。そこでテレーズを救出するために、彼女の愛人タリアンが同志バラスと組んで、クーデターを起こし、革命を終わらせた。

テレーズは危機一髪のところで命拾いしたが、その命の恩人タリアンと結婚した。しかし長続きせず、タリアンと共に革命家を倒した英雄バラスの愛人となる。バラスは国内総司令官という地位にあった。テレーズの親友ジョゼフィーヌもバラスの愛人になる。

テレーズとジョゼフィーヌには共通点があった。ふたりには、相手の心を奪い取るような妖艶な美しさの持ち主であった。さらに奔放な性格で、湯水のごとくの浪費癖も共通点だった。社交界はこの上なく華やいでいた。

ジョゼフィーヌとナポレオン


そうして、ジョゼフィーヌは、テレーズにナポレオン・ボナパルトを紹介された。ジョゼフィーヌは、みすぼらしい身なりで、顔色が冴えないその青年に興味を持てなかった。一方、ナポレオンは、ジョゼフィーヌに成熟した女性の魅力に圧倒され、すぐさま求婚した。
バラスが、そのことを知ると、浪費家のジョゼフィーヌと離れられると喜び、“結婚祝い”として、ナポレオンをイタリア方面軍総司令官に任命した。それが、ナポレオンの輝かしい昇進の始まりだった。

ナポレオンは、そのイタリア遠征で、戦略、指導力を発揮して、華々しく勝利した。つい数週間前まで無名だったナポレオンは、一躍、熱狂的にフランス国民に迎えられた。その後の戦いでも勝利を重ね、英雄の名をほしいままにし、ついにフランス皇帝の座を獲得した。

ジョゼフィーヌは当初は夫を軽視し、浮気の限りをつくしていたが、夫に忠実な妻に変身した。皇后にふさわしい女性に変わった。皇后としての教養を習得するために、読書に時間をさき、絵画を鑑賞し、コンサートを催した。フランス女性のエレガンスを示すために、歩き方も大きな鏡に向かって工夫した。頬紅を濃くつける化粧法を考え出し、真冬でも冷水で肌を引き締めていたそうだ。服装も、ギリシャ彫刻を思わせる、ゆったりとした流れを生むドレープと、身長を高く見せる効果があるハイウエストのドレスを考案した。それは帝政スタイルと呼ばれ、大流行を生んだ。
ジョゼフィーヌは魅力的な皇后になった。粗野な部分が一向に抜けないナポレオンを、ジョゼフィーヌは優雅に補っていた。彼女はナポレオンにとって必要な女性だったのだが、、、

しかし、世継ぎが生まれないという問題があった。2人の連れ子がいたが、ナポレオンとの間に子どもは生まれなかった。このことが原因で、ナポレオンから離婚を言い渡された。1809年11月30日のことだった。

離婚後のジョゼフィーヌ


離婚したとはいえ、ジョゼフィーヌはナポレオンの配慮で、皇后の称号と年金を手にして、パリ近郊の館マルメゾンに暮らした。その館は、ナポレオンのエジプト遠征中に、夫に内緒で高額で購入したものだった。
離婚後、マルメゾンに暮らすようになったジョゼフィーヌは、最初のうちは嘆き悲しんだが、もともと楽天家である。それに、状況への適応力が高かった。マルメゾンが社交の場となり、雅やかな日々がくりひろげられた。
ナポレオンの宿敵、ロシア皇帝、アレクサンドル1世もそのひとりであり、彼がジョゼフィーヌの元を訪れた1814年が、運命の年になった。5月14日にアレクサンドル1世を迎えたジョゼフィーヌは肺炎をわずらい、そして5月29日朝、マルメゾンにて50年の生涯を閉じてしまう。起伏に富んだ生涯であった。

ナポレオンはその約1カ月前にエルバ島に流刑にされていた。アレクサンドル1世sの治世に、モスクワ遠征に大敗し、その後の反ナポレオン諸国との戦いでも敗退し、皇帝を退位させられ、エルバ島に追いやられた。
ナポレオンはそのエルバ島で、ジョゼフィーヌの死を部下から知らされた。彼はひとりで部屋に閉じこもり、長い間泣き続けていたという。

川島氏は、女性ならではの視点から、次のように想像している。
「ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚しなければ、彼に対する諸外国の敵意も、あれほど厳しくなかったかもしれない。ジョゼフィーヌには、窮地に陥った夫を助けるために、彼女ならではの特別な武器があったと思うからである。
 ナポレオンもそれに気づき、終焉の地で悔やんがかもしれない」と。
(川島、2015年、25頁~41頁)

『マダム・レカミエ』ジャック=ルイ・ダヴィッド


レカミエ夫人の生い立ちと“年の差婚”


ジュリー・アデライド・ベルナール=レカミエ(1777-1848)は、まるで天上人のような汚れなき美貌の持ち主だったので、歴史に名を残したと川島氏は捉えている。レカミエ夫人は、作家でもなく、また画家、歌手、女優でもなかったが、その美しさゆえに、その名は当時から現在にいたるまで語り続けられている。

彼女は、裕福な銀行家ジャック=ローズ・レカミエと結婚したので、レカミエ夫人と称された。彼女は、公証人ジャン・ベルナールの娘で、通称ジュリエットと呼ばれ、1777年に、リヨンの裕福な家に生まれた。
ふたりが結婚した1793年4月24日は、フランス革命の真っ只中であった。夫は42歳で、妻は15歳の“年の差婚”であった。

ふたりが結婚した1793年といえば、国王ルイ16世が、その約3カ月前の1月21日にすでに処刑されていた。革命家の行動は過激になり、次々と貴族や金持ちを捕えては、投獄し、処刑していた。莫大な財産を持つレカミエは、いつ自分の身に危険がふりかかるかと、恐怖におののく日々であった。独身のレカミエは、小さいときからその成長を見続けてきたジュリエットを妻とし、彼女を財産相続人にしようと考え、結婚を決めた。

結婚したとはいえ、夫のレカミエは、妻のジュリエットに指一本ふれることはなく、まるで自分の娘のごとくに扱ったそうだ。レカミエ夫妻のこの奇妙な夫婦生活は、たちまち社交界に知れ渡った。当時、“年の差婚”は、貴族や金持ちの間では、さほど驚くべきことではなかったが、結婚して何年もの間寝室を別にしていることは稀で、人々の好奇心を呼んだようだ。

社交界の中のレカミエ夫人


恐怖と隣り合わせの日々を送っていた革命が終わり、総裁政府の時代を迎えた1795年になると、社交界が復活した。着飾った紳士淑女の中に、レカミエに付き添われたジュリエットもいた。レカミエ夫人の美貌は際立っていた。

川島氏はレカミエ夫人の美しさを、次のように形容している。
「ラファエロが描く女性のような優美さと気品を備えるジュリエットは、ひときわ目立っていた。ルーヴルの絵からもわかるように、彼女の美しさには現世を超えた崇高ささえあった」(47頁)

美しいジュリエットには、崇拝者が次々と現われた。そのひとりが、ナポレオン・ボナパルトの弟リュシアンだった。弟は、1799年、ジュリエットをひと目見て恋におちる。1799年といえば、エジプト遠征から戻った兄ナポレオン・ボナパルトが、クーデターに成功し、第一執政になった年で、兄が驚異的な出世をしたため、弟も社交界で名を知られていた。その弟のジュリエット宛の情熱的なラブレターがフランス国立図書館に残っている。
ジュリエットは手紙を受け取るたびに、夫に見せていた。「彼を絶望させてはいけない。けれども何かを与えてはいけない」というのが、夫のアドヴァイスだった。

夫の指導のもとに、社交術に磨きがかかった。清楚なモスリンやタフタ、シルクのドレスに身を包み、天使のような微笑を浮かべ、男たちに親身になって対応する。
レカミエ夫妻は、スイスの大銀行家ネケールのパリの邸宅を、優美な館に変えて、サロンを開き、評判を呼んだ。そこに参加できることがひとつのステイタスにさえなったが、そのサロンは次第に、文芸人、政治家、元王党派が集まり、ナポレオン反対派の集会の場の色合いが濃くなっていった。

レカミエ夫人とスタール夫人


そこで、1803年、ナポレオンは、レカミエにサロンを閉鎖するよう命じた。ナポレオンが皇帝になる前年のことである。
同じ年、1803年に、ジュリエットの親友の才女スタール夫人が、ナポレオンから国外追放の処分を受けた。スタール夫人の父がネケールで、その父の邸宅をレカミエ夫妻が買ったことから、ふたりは親しくなった。スタール夫人は、ナポレオンを憎悪し、辛辣な文章を書いていたことが、追放の理由だった。

スタール夫人は「知の女王」、そしてジュリエットは「美の女王」と呼ばれ、ふたりは社交界の華麗な二輪の花であったが、1803年に、その花をナポレオンが摘み取った形となった。しかし、ふたりの女性は、その後も、固い友情で結ばれていた。

レカミエ夫人の肖像画


1811年に、ジュリエットは皇帝ナポレオンからパリを追放され、生まれ故郷のリヨンにj帰ったり、イタリアを転々としていた。そしてスイスのコペにいるスタール夫人を訪問した際に、プロイセン王子アウグストに出会い、ふたりは恋におちる。
アウグストに結婚を申し込まれ、ジュリエットは夫に離婚を要求したが、夫が大反対したため、アウグストの申し出を断わってしまう。
プロイセン王子は失意に打ちのめされてしまい、ジュリエットは自分のお気に入りの肖像画をプレゼントした。
それは、フランソワ・ジェラールが描いた『ジュリエット・レカミエ』(1805年、カルナヴァレ博物館蔵)である。
ルーヴル美術館のダヴィッド作『マダム・レカミエ』の2年後の1802年に描かれ始め、1805年に完成した絵だった。

実は、ダヴィッドはジェラールの恩師である。ダヴィッドは、革命のときには議員となり、ルイ16世処刑に1票を投じ、その後はナポレオンお抱えの画家になり、新古典主義の巨匠とうたわれた。
自尊心も強かったダヴィッドは、ジュリエットが弟子のジェラールにも肖像画を頼んだことを知って、気分を害し、当時、彼が手がけていた『マダム・レカミエ』を放置したといわれている(そのために、この作品は未完成で終わり、ダヴィッドのサインはない)。
(また別の説では、ダヴィッドの仕事があまりに遅く、しびれをきらしたジュリエットが、弟子のジェラールにも肖像画を依頼したともいう)。

ともあれ、ダヴィッドは、23歳の美しい盛りのジュリエットの顔を完成させているので、ナポレオン時代の、美しくエレガントなジュリエットの肖像画を私たちは堪能できるのである。

レカミエ夫人とシャトーブリアンの恋


さて、1814年にナポレオンが地中海のエルバ島に流刑されると、スタール夫人はフランスに戻り、サロンを再開する。一方、ジュリエットは夫の破産で財産を失い、パリ市内のオー・ボア修道院で暮らした。
そのサロンに、政治家でロマン派の作家シャトーブリアンが頻繁に訪れる。ふたりの最初の出会いは、1801年にスタール夫人のサロンであった。その年に、シャトーブリアンは「アタラ」を発表し、名を成していたが、ボサボサ頭でさえない格好であったこともあり、白いシルクのドレスをまとったジュリエットに声をかけることもできなかったようだ。

そして、ふたりが再会したのは、1817年5月28日、スタール夫人宅のディナーの席であった。シャトーブリアンは48歳、ジュリエットは39歳になっていた。
食事中に言葉も視線さえも交わさなかったそうだが、その後、シャンティイの森の中にある友人の館で愛を交わした。ジュリエットは、シャトーブリアンに献身的な愛を捧げていた。一方、シャトーブリアンは作家としても政治家としても成功していたこともあり、アヴァンチュールを楽しんでいたが、最終的にはジュリエットの元に戻っていた。
ジュリエットの夫が世を去った後、シャトーブリアンは結婚を申し込んだが、ジュリエットは優雅に断わったようだ。
後にジュリエットは白内障で目が見えなくなったが、それでも、リューマチで苦しむシャトーブリアンを介抱し、見えない目で彼を看取ったという。1848年7月4日のことである。

レカミエ夫人の最期


残されたジュリエットは、流行したコレラに感染し、翌年1849年5月11日に生涯を閉じた。シャトーブリアンが世を去って、約10ヵ月後のことだった。

ジュリエットはこの世から姿を消したが、その美しい容姿は人々の魂を揺るがし続けていると川島ルミ子氏は述べている。
そして、次の文で締めくくっている。
「彼女ほど時空を超えて典雅な美貌を持つ女性は世界でも稀である。ルーヴルの肖像画からはそれが匂い立ってくる」と。
つまり、マダム・レカミエは「時空を超えて典雅な美貌を持つ女性」であると捉えている。
(川島、2,015年、43頁~57頁)。

『マダム・ヴィジェ=ルブランとその娘』エリザベット=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン


ヴィジェ=ルブランの生い立ち


マリー・アントワネットの有名な肖像画に、一輪のバラを手にする王妃を描いた絵がある(1789年作)。その作者が、エリザベット・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)で、王妃と同年の1755年の生まれである。美貌の女流画家である。

エリザベットは、画家の父から絵の手ほどきを受けて、幼い頃から絵の才能を発揮した天才児であった。父親は娘が7歳のときに、その非凡さに気づき、成長を楽しみにしていた。しかし、エリザベットが12歳のときにその父を亡くし、その後は父の友人の画家ドワエンやブリアール、そしてヴェルネの指導を受けた。
ブリアールは、王立絵画アカデミーの会員で、ルーヴルにアトリエを持っていた。彼のアトリエに頻繁に通い、指導を受けるとともに、ルーヴルに展示してある巨匠(例えばレンブラント)の模写も熱心にしたようだ。

15歳のときに、エリザベットは肖像画の依頼を受け、1774年、19歳のときには、はじめて個展を開いている。将来名を残す才能があると注目を集め、画商ジャン=バティスト=ピエール・ルブランも彼女の絵と人柄に惹かれた。
ピエール・ルブランは、ルイ14世時代にヴェルサイユ宮殿の天井画を手がけたシャルル・ルブランの遠縁にあたる人物である。

ヴィジェ=ルブランの結婚


ルブランとエリザベットは、1775年8月7日に結婚した(出会って1年も経たずに急いで結婚したのは、母の再婚相手と折り合いが悪かったからであるようだ)。
夫は、画商として幅をきかせていたこともあって、エリザベットは画家ヴィジェ=ルブランとして、すぐに名が知られる1780年には娘ジャンヌ・ジュリー・ルイーズも生まれた。

この娘と一緒に描いた自画像が、ルーヴル美術館で展示されている。その絵を見ると、ヴィジェ=ルブランは、気品と優しさのある顔立ちで、心がなごむほど美しい。彼女が描く肖像画もまた、優美で品格がある。だから、貴族たちの好みに合い、多くの注文があり、宮廷でも話題に上り、ついにマリー・アントワネットの耳に届いた。

マリー・アントワネットの肖像画とダヴィッドのアドヴァイス


そして、彼女が王妃の最初の肖像画を手がけたのは、1779年である。二人とも24歳だった。
この女流画家をたいそう気に入っていた王妃は、寝室の裏手にある私室「夫婦の間」で肖像画を描いてもらった。それは、日本の蒔絵を飾っていた部屋で、ごく限られた人しか入ることができなかった。

ヴィジェ=ルブランの手によるマリー・アントワネットの肖像画は約20枚あるが、もっとも馴染み深いのは、ヴェルサイユ宮殿に飾られている、「マリー・アントワネットと子どもたち」であろう。真紅のドレスをまとう王妃が椅子に腰掛け、3人の子どもたちと一緒にいる。

この絵を依頼されたとき、ヴィジェ=ルブランは、画家ダヴィッドにアドヴァイスを求めた(ダヴィッドは、後にナポレオンのお抱えの画家になる新古典主義の巨匠)。
彼のアドヴァイスは、イタリア・ルネサンスの代表的画家ラファエロの『聖家族』を参考にするように、ということであったそうだ。
その名作を思い浮かべながら、王妃のこの肖像画を見ると、登場人物は異なるが、ダヴィッドのアドヴァイスが克明に表現されていることがわかると川島氏は評している。

フランス革命とヴィジェ=ルブラン


フランス革命前、王室や貴族の肖像画を依頼し、ヴィジェ=ルブランは破格の収入を得ていた。しかし、1789年7月14日、バスティーユ監獄が襲撃され、革命が始まる。
7月14日当日、彼女は、ルーヴシエンヌに住んでいたデュ・バリー夫人(前国王ルイ15世の愛妾)の館で、夫人の肖像画を描いている最中だった。
革命家は、国王一家をヴェルサイユ宮殿で捕らえ、パリに連行した(10月6日)。それを知ると、彼女はマリー・アントワネットの特別な庇護を受けていたからには、革命家の手が伸びるにちがいないと、危険を察知する。
フランスにいたら危険だと判断して、彼女は娘とわずかなお金をもって、フランスを後にする(その頃までに夫とは不仲になっていたので、母と娘と二人で)。肖像画の穏やかで上品な顔立ちからは想像しがたいが、この時の機敏な行動から、彼女は強い意志と決断力を持つ女性であるとわかる。

行き先は、イタリア、オーストリア、イギリス、ロシアと転々としたが、滞在中でも、各国の貴族などから肖像画の注文が殺到したようだ。人びとをひきつけたのは、「マリー・アントワネットの元お抱え画家」というお墨付きだった。

革命後と晩年


革命が終わり、ナポレオンの時代になり、国に秩序と平和が戻ると彼女は祖国に帰る。
だが、マリー・アントワネットとの思い出は、チュイルリー宮殿、ヴェルサイユ宮殿など、いたるところに残っており、彼女にとっては苛酷なことだったであろう。
それに加えて、最愛の娘が母の大反対を押し切って、強引に結婚し、それが元で親子は仲たがいしてしまった。

ひとりぼっちになった彼女は、再び旅の人となり、諸国を転々とする。そして、フランスに戻ったのは、ルイ18世の時代だった。パリに戻った彼女は、パリのサン・ラザール通りの住まいか、ヴェルサイユ宮殿近くのルーヴシエンヌの別荘で暮らした。
革命前に、ルーヴシエンヌのデュ・バリー夫人の館をたびたび訪れ、その肖像画を3枚も彼女は描いたが、その地が気に入り、別荘と購入した。デュ・バリー夫人も、マリー・アントワネットと同じく、革命の犠牲となり、コンコルド広場で処刑されてしまうのだが。

こうした思い出も遠いものになってしまった1842年3月30日、ヴィジェ=ルブランは、パリのサン・ラザールの自宅で、ひとりさみしく生涯を閉じた(それ以前に、別れた夫も、ひとり娘も、世を去っていた)。
ヴィジェ=ルブランの人生は、「絵ひとすじに生きた長く波乱に富んだ人生だった」と川島氏は結んでいる。
(川島、2015年、59頁~73頁)。

『ポンパドゥール夫人』モーリス・カンタン・ド・トゥール


ルーヴルのポンパドゥール夫人の肖像画


ルーヴル美術館のモーリス・カンタン・ド・トゥール作(Maurice Quentin de La Tour, 1704-1788)「ポンパドゥール夫人」の肖像画は、「美貌と稀にみる才知でヨーロッパ中に名を轟かせていた時代に描かれただけあって、輝きがほとばしっている。そのとき夫人は三十四歳だった」と著者は評している(77頁)。

ポンパドゥール夫人の生い立ちと結婚


ポンパドゥール夫人(1721-1764)は、本名をジャンヌ=アントワネット・ポワソンといった。1721年12月、パリの食糧調達の役人の家に生まれ、ブルジョア階級の娘として、貴族の子女以上の教育を受けて育った。父親は、財産はあるものの、何の爵位もなく、単なるブルジョアにすぎなかったので、娘にはりっぱな教育を受けさせた。礼儀作法、語学、絵画、音楽、ダンスなど、末来の国王の愛妾として、ふさわしい教養を身につけさせた。
娘が9歳のときに、占い師が娘はいつの日にか王様の愛人になると告げたことに両親は大喜びし、それを実現させようと努力した。ジャンヌ=アントワネットの母は、誰も目を見張るような美人でもあり、娘の美しさは母親ゆずりだった。

ジャンヌ=アントワネットは、20歳のとき、4歳年上のデティオルという徴税請負人の資産家と結婚した。デティオル夫人はふたりの子どもに恵まれたが、小さい頃のあの予言を実現するという野心に燃え続けていた。
そのために、国王に近づくチャンスを探っていた。母親の知り合いにルイ15世の侍従がおり、取り入った。侍従の取り計らいで、1745年2月、ヴェルサイユ宮殿で開催されたルイ15世の皇太子の結婚祝賀祭の仮装舞踏会に、デティオル夫人は出席することができた。

ポンパドゥール夫人とルイ15世


デティオル夫人は、羊飼いの娘に扮したが、さして国王の関心をひくこともなかった。それでくじけることなく、彼女は3日後のパリ市庁舎での舞踏会に出席し、ルイ15世の目の前で、優雅にハンカチを落として、注意を引いた。それを拾った国王は、彼女と視線と言葉を交わした。これがきっかけとなり、国王の愛妾になったようである。

さらなる地位を目指し、彼女は公式愛妾(王妃と貴族たちから公の席に出席する権利を認められた愛妾のこと)になることを希望したが、それを実現するには大きな障害があった。
公式愛妾になるのは、貴族の称号を持つ女性に限るという規則があり、デティオル夫人はブルジョアでしかなかった。そこでルイ15世の発案で、5年前に死んだフランソワーズ・ド・ポンパドゥール侯爵夫人の称号と領地を買い上げ、デティオル夫人に与えたそうだ。

ポンパドゥール夫人の功績


こうして、ポンパドゥール侯爵夫人がヴェルサイユ宮殿に暮らすようになったのは、1745年9月だった。彼女が23歳のときのことである。
その時から42歳で世を去るまで、彼女は、ルイ15世のために才知を発揮し、フランスの発展に貢献する。
ポンパドゥール夫人の功績としては、陸軍士官学校(後にナポレオンが学ぶ)、コンコルド広場の発案が挙げられる。そして、セーヴル磁器の誕生にも関わり、セーヴルに王立磁器製作所を設けたのは、ルーヴルの肖像画が描かれた翌年で、1756年のことだった。深いブルーが大きな特徴で、それはセーヴルブルーと呼ばれるようになった。
またポンパドゥール夫人は、芸術をこよなく愛し、フラゴナール、ラ・トゥール、ブーシェといったロココ派の画家を庇護した。そのほか、哲学者ヴォルテールや啓蒙思想家ディドロなどにも目をかけた。

ルイ15世はポンパドゥール夫人の影響を受け、芸術や書物に興味を示し、国事にも関心を抱くようになった。彼の治世に文芸が発達し、国が安泰だったのはポンパドゥール夫人の役割が大きかった。
2歳のときに相次いで両親を失ったルイ15世にしてみれば、ポンパドゥール夫人は愛妾とか相談役以上に、「幼子のように甘えられる女性」「母親のような寛大な愛で包んでくれる人」だったと川島氏は推測している。
ルイ15世にとってのかけがえのないポンパドゥール夫人は、1764年4月、ヴェルサイユにて42歳の生涯を閉じた。20年もの長い間、自分の身近にいた人を失った国王の嘆きは、想像以上に大きかった(川島、2015年、75頁~89頁)。

【コメント】
フランソワーズ・ベイル(エクシム・インターナショナル訳)『ルーヴル見学ガイド』(artlys、2001年、42頁)にも、ブーシェとポンパドゥール夫人について触れている。
「神話から採られたこの艶っぽい情景は当時大きな成功をおさめ、ブーシェはルイ15世とポンパドゥール夫人のお気に入りの画家となった」と述べている。
(原文:Ces scènes de mythologie galante remportent un
immense succès à l’époque : Boucher sera le peintre favori
de Louis XV et de Mme de Pompadour.)
(François Bayle, LOUVRE : guide de viste, artlys, 2001, p.42.)
【語句】
remportent<remporter持ち帰る(take back)、獲得する(win)の直説法現在
sera <êtreである(be)の直説法単純未来

『アンヌ・ド・クレーヴの肖像画』ハンス・ホルバイン


ヘンリー8世とアン・オブ・クレーヴズ


イギリスの国王ヘンリー8世は、歴代の王の中で、もっとも残忍で非道な君主として知られている。
生涯に6人もの妃をとりかえた。そのために離婚を禁止しているカトリックを改宗、イギリス国教会を設立した。イギリスに500以上あったカトリック修道院は廃止され破壊され、財産も没収された。そして、次の王妃を迎えるために、前妃を無慈悲にも、2度も処刑させた。
このヘンリー8世に誰もが恐れおののいた。その国王の4番目の妃になったのが、アン・オブ・クレーヴズ(1515-1557)である。

アンは、現在のドイツにあたるユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の領主の次女として生まれた。お世辞にも美しいといえる女性ではなかった。
12歳になったとき。後にロレーヌ公国の支配者となる2歳年下のフランソワ1世と婚約するが、両家のいざこざで破棄された。
そして、アンは、イギリス国王ヘンリー8世に嫁ぐことになった。この結婚に一役かったのは、かのクロムウェルだった。クロムウェルは国王の信頼を得て、側近となり、イギリス国教会の設立を勧めた人物である。

アン・オブ・クレーヴズ の肖像画と結婚


1537年に、ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアが若くして世を去る。この時、クロムウェルはヘンリー8世のお気に入りの画家ハンス・ホルバイン(1497/98-1543)に、年頃の/良家の娘の肖像画を依頼した。ホルバインは、南ドイツに生まれ、デューラーと並んでドイツ・ルネサンスの代表的な画家で、後にイギリスに渡り、ヘンリー8世の宮廷画家となる。
その肖像画は、国王ヘンリー8世に新しい王妃を選んでもらうための、いわばお見合いの写真の代わりである。その中に、アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves、ドイツ語名、アンナ・フォン・クレーフェ Anna von Kleve)もいた。それが、ルーヴルにある彼女の肖像画である。

肖像画を見たヘンリー8世は、一目でアンが気に入った。そればかりではなく、駐英フランス大使シャルル・ド・マリヤックが「穏やかで優美さを備えた女性」と言ったものだから、彼女との結婚を決めた。
(ここに言葉を巧みに操るフランス人の本領が発揮された感がある。フランス人の外交上手なことが窺える。アンが美人とは言いがたいが、それほど醜いわけでもない。それを美的に形容することによって、イギリス国王の心を動かした)

1537年の春、クロムウェルによって両国間の交渉が進められ、10月4日には無事結婚の約束が調印された。
翌年、アンはヘンリー8世と結婚式をあげるために故郷を後にした。北フランスのカレー(当時はイギリス領)に到着し、船でドーヴァー海峡を渡り、ロチェスターに着いた。一刻も早く彼女を見たかったヘンリー8世は、予告もなしにその町で初めてアンと会った。
しかし、国王はひどく落胆してしまう。というのは、実物のアンは、肖像画とは比べものにならないほど、魅力のない女性だったから。年よりふけて見えて、服装もヘアスタイルも垢抜けなかった。

一方、ヘンリー8世は、お洒落で、派手好みだった。文学に精通し、音楽や絵画にも造詣が深く、スポーツもこなした。国王の落胆は怒りに変わり、気短な彼は婚約破棄しようと思った。それでも冷静さを取り戻し、国王の義務として結婚式を1540年1月6日に行った。

やはり結婚後もうまくいかなかった。もちろん容姿も好みでなかったが、話す言葉も国王は気に入らなかった。アンは母国語のドイツ語しか理解できなかった。国王はラテン語やスペイン語、フランス語などもこなしたが、悪いことにドイツ語は一番苦手な言葉だった。
そして国王は舞踏会や音楽会を頻繁に催し、華やかなことが好きだったが、アンはどれも興味を示さなかった。アンと一緒にいることは、退屈極まりなかった。

アンとヘンリー8世の離婚


結婚からわずか6カ月後の7月9日、ついにアンは離婚されてしまう。彼女はイギリス王妃の座にたった半年しかいなかった。離婚の理由は、アンとロレーヌ公国のフランソワ1世の婚約が、正式に解消されていなかったためとされた。

もっとも離婚後、アンは「国王の妹」という奇妙な地位を授けられ、領地、城そして年金をもらい受けた。ヘンリー8世は、アンを結婚相手にすすめたクロムウェルを処刑してしまったから、アンに対しては寛大な配慮をしたことになる。恐らくアンの性格が幸いしたのであろうとみられている。アンは物静かで、温厚で、従順で、憎めない女性だったようだ。まじめなアンに、ヘンリー8世は徐々に信頼を置くようになった。

一方、アンと離婚した同じ年に、ヘンリー8世はキャサリン・ハワードと再婚したが、1年半後に、姦通罪の汚名を着せられ、ロンドン塔で処刑されてしまう。アンに示した寛大さと比べて、あまりにも残酷な処置だった。その後、ヘンリー8世は、キャサリン・パーと結婚して落ち着き、妃交代劇は終わった。

アンの最期


アンは、ロンドンのベイナーズ城で静かに暮らし、元夫と友人のような関係を保った。離婚後も、生まれ故郷に帰ることなくイギリスに留まった。独身を通し、子どもを持つこともなく、1557年7月16日、生涯を終える。ヘンリー8世は1547年に逝去し、彼の5人の妃もすべて世を去っていたので、アンが最後まで生き残ったこととなる。
あまりにも短い間の王妃だったため、アンに関する記録は少ない。しかし、アンは由緒あるウェストミンスター寺院に葬られている。このことから、アンへの評価は決して悪くなかったことがわかる。ヘンリー8世の妃で、そこに埋葬されたのはアンだけだった。
(川島、2015年、91頁~102頁)

川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)