未だ大きな社会問題となっている「青木島遊園地存廃問題」ですが、一連の経過を辿る中で事(こと)が佳境を迎えるうちに、先週末に遊園地を利用する児童らが 遊園地への感謝の思いを文字にして掲げて写真を撮ろうとしたところ、長野市社会福祉協議会(市社協)の職員(指導主事)が〝待った〟をかけてしまったことが報じられ、大きな批判と疑問の声が寄せられることになりました。
今回の件の本質的な問題は、本来 福祉(この場合は「児童福祉」)を向上させることが職責であるハズの市社協の それも〝福祉の伝導師〟であるべき指導主事が、児童の純粋な思いに砂をかけるような行為に走ったことは それが市社協の体質であるのか?と問いたくなるほどの愚行でありました。
そのうえで 私は、かかる市社協に着目したうえで 一連の流れの中での いわば「功罪」ともいえる〝内部事情〟を実感することになりました。
それは「関係者の中(内部)自体に問題意識があるか無いか」という構造的な問題であります。
で 私は、かかる構造的な問題の中で 今回の青木島遊園地存廃問題→青木島児童センター問題の渦中に、一筋の光明を見た思いがしたものです。
今回 問題となった「青木島児童センター」は 市社協の傘下にあり、その市社協は 長野市から業務を委託されており、いわば 長野市⇔市社協⇔児童センター との、いわば〝縦割り組織〟となっています。
その縦割り組織の中で 市が「青木島遊園地は廃止します」と一度(ひとたび)決めれば、その意を汲(く)んだ市社協・児童センターは 直ちに遊園地廃止を受け入れ それ(廃止)を前提とした対応を協議し、市の方針に合わせて路線変更を行なうものです。
これが、ありがちな「上意下達(じょういかたつ)」の動きです。
残念ながら そこには、上(うえ)の方針に対する疑問や反論は皆無…イヤ 百歩譲って「おかしいよね」と思ったとしても、それは決してカオに出すことは無く 内心とは別に上(うえ)のいうがままに仕事にかかるのです。
これは 悪しき組織運営と申せ、青木島遊園地存廃問題においても その典型ともいえる上意下達が進められているのです。
しかし そんな中、今回の「青木島遊園地存廃問題」における児童センターの支援員さんらは、そんな 理不尽ともいえる上意下達方針に、イイ意味で異論を唱えておられるのです。
遊園地廃止のキッカケともなった「子どもの発する「音」がうるさい」との一部世帯の苦情には真摯に対応し、以降は苦情が起きないように収めると共に、市の一方的とも言える廃止方針に正面から向き合い、遊園地の存続を願って住民とも連携して活動を重ねておられます。
ありがちな縦割り組織の中では起こし得ない、勇気ある〝反旗の掲揚〟であります。
そんな心ある行動に支援員さんらを駆り立てたのは、他でもない「子どもたちのために何を為すべきか」との純粋な思い…いわば「職責」に裏うちされた 責任ある行動と言えるでしょう。
繰り返せば 保身の上に立ち、組織の中で安住を決め込むとすれば、上(うえ)が廃止と言えば「ハイ 分かりました」と盲従し、子どもにはテキトーなことを言ってはぐらかしながら廃止の手伝いをするもの…で それがイチバン楽な方法なのです。
しかし ここ青木島児童センターの支援員さんらは、その道(廃止容認)を選ばなかった。
欠かせない子どもの居場所を 大人の都合で奪っていいハズがない。
私たちは、あくまで児童福祉を守る立場で 市の方針に異論を唱え、あくまで遊園地の存続のために最後まで頑張ってゆこう。
もしかしたら、かかる〝内部の者〟たる支援員さんの存在が無ければ、長野市の児童福祉の根幹を揺るがすことにもなりかねない悪しき事案となった「青木島遊園地存廃問題」は、闇から闇へと葬り去られたかもしれません。
しかし、その内部の人の問題提起により 一連の事実が表面化し、多くの人が問題意識を共有することができました。
で このことは、遊園地存廃問題に止(とど)まらず 長野市の悪しき組織体質をも質(ただ)すキッカケにもなったところです。
その通底にあるのは、他でもない「子どもたちのために」との〝本来の感性〟であり、それこそが、現場に立つ関係者に求められるものです。そして私は これら支援員さんの感性に共感し、活動を支援させていただいているのです。
今もなお 児童センターの支援員さんは、あくまで児童福祉向上のために真摯に取り組んでおられます。
長野市・市社協の方針が明らかに児童福祉向上に副(そ)っていないと言える中、子どもたちの最後の砦(とりで)として最善を尽くす。
その心根に共感し、私も でき得る限りの支援を尽くしてまいりたいと思うところです。