「五輪」に関連する、しかし資質の全く異なる2人の方の口から発せられた言葉を見聞し、その「〝発言〟と〝失言〟との違い」について考えさせられました。
まず「発言」について。
さきに現役を引退した 女子スピードスケートの小平奈緒さんが、自身の引退会見で「まっとうな意見」を述べ 改めて注目されることとなりました。
小平さんは会見の中で、札幌市が招致を進める冬季五輪について「(JOCから)シンボルアスリートとして札幌(五輪)招致に協力してほしいという要望もありますが、スポーツの純粋な楽しさをもう一度 私自身も考えてみたいなというところがあります。(だから)今は札幌五輪のことに関しては、いったん置いておいているところです。」と述べ、招致活動への参加要請を(実質)拒否したことを明らかにしたことが報じられました。
さらに彼女は「五輪(というもの)は、スポーツを〝やる人たち〟にとっても それを〝支える人たち〟にとっても〝見る人たち〟にとっても「いいもの」であってほしいのです。それを(利害に)利用されたくないなっていう思いはあります。」
「(特に)「支えてくれる人たち」が 本当に真摯(しんし)にスポーツと向き合ってくれることをただただ願っています。」とも述べておられました。
この深層には、具体的には触れていないものの 東京五輪に関わる不正疑惑が次々と明らかになっていることに疑問を呈し、彼女自身が複雑な心境に置かれていることを示すものであり、そのうえで 彼女の持つ いわば哲学的な視点をもって、柔らかく しかし的確に述懐したものでありました。
ご案内のとおり さきの東京五輪招致・運営を巡る汚職事件では、大会組織委員会の元理事・高橋治之容疑者が 受託収賄容疑で4度も逮捕され、その関連で 物品の納品や企画に関わった関係者(経営者)が 贈賄容疑で次々と逮捕されており、おそらくは小平奈緒さんは そんな〝汚された五輪〟に心を痛め、その現状に対し 毅然とした態度をもって発言したものと推察されるところです。
この「小平発言」に対し、多くの人たち(国民)が反応していました。
「これがまっとうなオリンピック選手の意見じゃないですか?」
「彼女の こういう自分の考えを的確な表現で発言する、聡明なところが大好きです。」
「本当にこの人は、アスリートとしても「人」としても尊敬できる。関係者からおかしな圧力がなければ良いけれど(そういうものには屈しない人だとは思いますが)。」
「小平さんすごい!選手からこういう発信はなかなかできるもんじゃないと思うけど、発言してくれてありがとうって思います。」
多くの人たちが、小平奈緒さんの いわば勇気ある発言に対し共感し「よくぞ言ってくれた!」と、今風でいうと「スカッとした」と賞賛の声を寄せていました。
片や「失言」の場面。
日本の総理まで務めた森喜朗氏が、自身が顧問を務める医科大学の創立50周年記念式典の挨拶の中で 自身が「杖(つえ)」を使用していることに触れ「杖をついていると身体障害者に見えて、みんなが大事にしてくれる。」と発言し、これがSNSで物議を醸していることが報じられています。
氏は続けて「医師の指導でリハビリの効果がかなり出てきており、もう杖はいらない。」とも語ったとのことです。
これは、おそらくご本人は 無自覚のうちにしゃべったと思われるところですが、明確な障がい者差別発言です。
杖をつく高齢者を いわば普通の人⇔障がいがあって歩行困難の人を 普通でない人 に準(なぞら)えており、看過できるものではありません。
今や 障がい者と高齢者は いわば同属であり、何ら分け隔てするべきでない社会情勢(状況)であるのに(SDGsなどで顕著) 森氏はそんな社会常識は頭の中に微塵(みじん)も無い様子…私をしても「またか」と思わざるを得ない失言ぶりでありました。
(また、よりによって 身体を巡る差別発言を、医科大学の式典でしゃべるあたり…KY以外の何ものでもありません。
この〝またも失言〟について、紙面では「過去の失言の一覧表」まで登場する始末。
最も記憶に新しいところでは、氏が東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長だったときに「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。」などと発言し 辞任に追い込まれた件がありますが、その後の会合で氏は「女の人はよくしゃべると言っただけだ。本当の話をするので叱られる。」などと 反省皆無の態度を示し、ナントカの上塗りをしたものでした。
今回の森氏の発言が報じられると、やはりSNS上でさまざまな反応が。
「また森氏か…人が変わるのはなかなか難しい。特にこの人はもう無理、みんなうんざりしてる。」
「森喜朗さんって、思っていることを 何の思慮・配慮も無く口に出す人ですね。」
「この人はいつまで上席に居られるの?全ての組織から除名すべきではないの?」
極めつけは「もう一言も喋るな。」
・・・・・・。
「五輪」という共通の項に関連した二人。しかしながら その口から出る言葉の「質(しつ)」は、両極端というには余りあるほどに違い過ぎるものでありました。
片や、アスリートとして競技を突き詰めたうえで「五輪」というものを 真に「平和とスポーツの祭典」として見つめ直してほしいと一途に願う心を持つ人の発言⇔片や、政治の延長線上に「五輪」を据え その大義の上に立って(隠れて)権力を行使しようとする人種(の代表格)が発する発言…これほどまでに〝五輪に向き合う純度〟の違いに、私自身 何だかため息が出る思いがするところです。
事ほど左様に、社会においては様々な事業や事案があるところですが それらに向き合う中、その成果が大きく分かれてくるのが、その者が 本当に(真の意味での)目的達成のため努力しているかどうかではないかと思います。
それ(目的)が、事業(相手)のためなのか・名誉や立場のためなのか・金(かね)のためなのか…取り組む者の資質によって、結果は大きく違うものになる。
「五輪」を巡る二人の対照的な発言に触れ「向き合う姿勢によって大きく異なる内容」について思いをいたしたところでありました。
(長野市の「セントラルスクウェア」にある 長野五輪記念モニュメント)