さき(15)日の報道で、岸田が「円安メリットを生かす海外展開を考えている 中小企業・さまざまな企業、合わせて1万社を支援していく。」と表明したことが伝えられ、それを聞いた私は 違和感を禁じ得ませんでした。
この発言は、総理が東京都内で企業や商店街を視察後 記者団に語ったもので、歴史的水準にまで進んだ円安の長期化に備え 輸出促進などに取り組む企業を支援・育成していく考えを示したものとされています。
私が感じた違和感は「円安」に対する〝意識〟のようなものです。
私も含め 多くの国民は、円安による物価高などの「マイナス影響」を イヤというほど実感させられています。
このまま円安が進行(継続)すれば、まるでボクシングのボディーブローのように 私たちの日々の暮らしにダメージが及ぶことは必至であり、私たち国民は その厳しい現状にこそ支援の手を差し伸べてもらいたいと思うのが実際のところではないでしょうか。
この 私の抱いた違和感は、やはり私だけの所感ではなかったようです。
翌日の報道で、辛口コメントで知られる京大大学院の藤井教授が、岸田総理発言に対し「(記事を見て)我が目を疑った」とまで述べていました。
氏は自身のツイッターに、岸田首相が「円安メリットを生かす海外展開を考えている企業あわせて1万社を支援していく」と表明したとする記事を貼り付けたうえで「我が目を疑いました…そんなことをする暇があるんなら、日本中にいる大量の『円安で苦しむ会社』を救済することに全力を費やすべきなのではないでしょうか。」と自身の考えをつづっていました。
昨今の円安傾向は、コロナ禍で疲弊した庶民生活に「値上げ」という形で追い打ちをかけているのはご案内のとおりです。
そのときの政治(行政)の役割…各関係者においては、まずはそこのところ(国民の窮状)に心を寄せ 施策の形成に臨むべきが第一義ではないか、と。
他のサイトを見てみても「すでに円安でメリット感を享受している企業にさらに〝追い銭〟をするのは順番が違う」などとの厳しい声が寄せられていました。
ただ ここで斟酌すべきは、総理の発言の場でありましょう。
もしかしたら総理は 物品の輸出に関わる企業へ足を運んだ折に(前掲の)発言をしたのかもしれず、であるとするならば 氏は その場に合った発言をしたことになります。なのに そこ(円安メリット企業の支援)の部分だけを切り取って批判するのはどうかとも思われるところです。
で ここのところを正確に言えば、私が この岸田発言に抱いた違和感は、氏の 一方にしか目を置かない(心を寄せない)ものの見方であります。
政治家…特に一国の総理でもあるならば、この手の経済支援について話しを興(おこ)す際には 例えば円安メリットに沸く企業支援を打ち出すその前に、円安に喘(あえ)ぐ国民の窮状に心を寄せる一言を発したうえで企業支援策を発信する。そんなバランス感覚を発揚するべきであったのに、そんな政治的配慮をすること無く いきなり〝円安メリット〟に言及した、その いわば〝デリカシーの無さ〟に違和感を覚えたのでありました。
この発言の裏には、今の円安状況は おそらく長期化するであろうという国の見通しがあり、で あるとするなら、そのメリットを活かすのが政治の役割であるという〝霞ヶ関官僚の作用〟が働いたと思われるところです。
それはそれで否定するものではありませんが、繰り返せば 官僚のプランの上に立つ政治家であればなおのこと、官僚のこさえた原稿に乗るだけではなく 自分の言葉で円安に苦しむ方々に寄り添う発言を行なうべきであったでしょう。
そんな〝(政治家としての)自分の言葉〟を発しなかった総理を見て、私は残念に思うと共に その裁量の嵩(かさ)のようなものを感じ取ってしまったのでありました。
社会には 常に「光」と「陰(かげ)」が表裏一体となっています。
為政に臨む者は どちらか一方を見ることなく、特に「光」の部分だけを見るのではなく 常に光の裏にある「陰」に目を配ること、むしろ そちら(陰)の部分を優先したうえで光に話しを及ばせてこそ「心ある者」と賞(しょう)されるのではないかと思いをいたしたところでありました。