質問その10
Q 神楽の抱えている問題と、それに対してできることは何でしょう。
A 神楽の直面する悩みと課題。
まず、明け方になると観客が5~6人しかいないという・・・現象がある。関係者を含めると客席には20人くらいしかいないという場面が、現代における神楽の悩みを象徴している。観手も少ない、後継者がいないというのが、神楽の伝承地が抱える大変深刻な悩み、問題になっています。ただ、神楽とは、もともとは秘術、秘技と呼ぶべき、「村」とか「神社」とか特定の「家」とかに伝わる神事・儀礼だったわけです。典型的な例として、お客さんがほとんどいなくなっても、「おれたちは神様に奉納するために舞っている。客に見せるためにやってるんじゃないんだから、ちゃんとやる」と、淡々と舞い続ける、という宮崎の明け方の神楽風景をけっこう見ます。それはすごいことだけれども、そういった閉鎖空間の中で伝承されてきたことが村の過疎化とともに神楽も衰退へ向かっているという一面があると思います。
それともうひとつ、神楽を伝える、あるいは仮面が家に伝わる、その仮面を着けて舞うのはその家の長男ないしはその家を継ぐ者に限られているという例がまだ残っています。この舞はこの家の長男しか舞えないという演目が残ってるケースもまだある。そういうふうに神楽は特定の人達が担ってきた歴史があります。ここも秘術的と言うか、そういう側面があるのであまり大きく外には広がらなかった。ただし、ここにきてそんなこと言ってる場合じゃない、このままだと神楽も村もともに滅ぶのではないか、と危惧される時代が来ています。ここをどうするか。大きな流れとしては、村出身の人であればよろしいとか、練習に通ってきてくれる人は神楽の舞人・伝承者として参加できる願祝子(がんほうり)制度とか、少しずつ門戸を広げ始めている。それから女性も子どもの時から神楽を一緒に習いに来たり参加したりして、その子が成人してその座に残るといったケースが出てきているので、少しずつ神楽の歴史も変わっていくかもしれませんね。
次に、私たちにできること。
僕は神楽を見に行く客のことを「観客」や「参拝者」ではなく、「観者(かんじゃ)」という言葉で表しています。「観る」ということがどれほど大切なことであるか。客は「観る」ことによって、いろいろな情報を受け取り、インスピレーションを得たり、歴史的な奥行きを読み解いたり、芸術的感動を覚えたり、演者と観者が一体となった神楽空間に身を置いたりすることができる。
神楽を上演している方、「観られる」という立場・演じる方からすると、観られることによって緊張感とか、高揚感とか誇りとかが刺激される。
3年ほど前にある神楽を観に行ったときのことです。その会場には30人くらいしかお客さんは来ていなかった。最初から客は少なかったんだけれども、9時半くらいになって直会(なおらい=神事の後の会食)が終わって村のお婆ちゃんたちが折り詰めの弁当を持って帰ってしまったら、会場には6人くらいしか残らなかった。そうしたら、一同、顔を見合わせて、「もうやめようぜ」と。すぐに岩戸開きをやって、10時半ごろには終わってしまった。観者がいないということはこれほどショックなことなのです。神様に捧げるものだから客が一人もいなくても、と言ってはいるものも、観てくれる人がいるほうが張り合いが出るし、気合いが入る。今年(2013)、東京のLIXILギャラリーでの企画展「山と森の精霊―高千穂・椎葉・米良の神楽展」では、西米良村の村所神楽の若い伝承者の方々が6人で参加してくれましたが、会場には130人が入り満席となった。皆さん神楽に対して興味があり、熱心な人ばかりだったから、上演中2時間、身じろぎもせずに観ている。若い舞手の人たちは、通常、夜中の2時以降に出番がある人が多いので、「こんなにたくさんの人達から見られたり、こんな真剣な目で見つめられた経験はない」と言って、すごく気合いが入った。舞手と客席との緊迫感はすごいものがあって。僕も脇から観ていて感動したくらいです。そういうことは観る側と上演する側には起こります。だから「神楽を観に行く」という行為だけでも神楽に参加することになるし、神楽を元気づける要素にもなる。
付け加えると、最近は、「ご神前」として一人お酒二本または3000円程度を神前に供えるという習慣が定着しつつあります。入村料あるいは今晩一晩お世話になりますという挨拶の意味と、美術館や博物館の入館料、音楽会の会費などと同様の解釈でしょうか。御神屋の正面に一升徳利がズラリと並んでいる風景は祭りを彩る効果もあり、ご神前の金一封は貴重な収入源であり、祭りを維持する経費の支えになるのです。
ぜひ皆さん一緒に神楽を「観に」行きましょう。
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