南国宮崎の森も秋の色を深めてきた。
大木を伐るカワトモ君の姿も森になじんできた。
片付けを兼ねて焚火をしながら、修復中の空家の周りの整備に取りかかる。
切って捨てておくだけの竹材は邪魔者であり、ただのゴミだが、工程にひと手間を加え、揃え方や置き方を工夫するだけで、現代アートに通じる空間が出現する。
アジアでは、竹を使った作家が活躍を始めている。かの地は、竹の家があり、竹で作られた生活用具がまだ生きて使われている。私はタイとラオス・ミャンマーの国境地帯―黄金の三角地帯ーを訪れた時、激烈な暑熱にやられて熱射病になりかけたことがある。その時、竹林に囲まれた村の竹の家で休憩させて貰い、少しの時間、昼寝をしたところ、その涼しさ、快適さによって回復した。床も壁も屋根も、見事な竹の細工で組み上げられた家屋が竹林の中に点在し、村を形成しているのであった。
アジアの現代美術作家たちの仕事は、このような風土と歴史と技術の上に立ったものだから、エネルギッシュで、壮大である。今後、世界のアートシーンを牽引してゆく機動力になることは間違いない。
昨日今日の仕事は、現時点では、「芸術」と呼べるほどの完成度とはいえないが、その入り口付近に立っていることだけはたしかだ。「設置」することに「展示」が加わり、何らかの「制作」が合流するとき、そこは刺激的なアートの現場となるのである。
小学4年から不登校を続け、現在中学1年相当のカワトモ(川上智嗣)君にとって、ここは彼の「学校」そのものである。教科書も授業も、退屈な先生の講義もないが、学ぶべきことは多い。そして、その過程で、水膨れ、と酷評された彼の身体はずいぶん引き締まってきた。大木を伐る仕事、竹藪を伐り払い、道を拓く仕事、薪を割る技術。山や森と親しみ、豊かな自然の中で暮らすために必要な仕事の量も、技術も、最も彼に不足していた継続力も、一人前に近いレベルまで向上してきた。いまでは、
――疲れた-
と言って座り込むこともなくなり、次の手順を考えながら作業を進めるようになってきた。この日は、昼飯を食べたらすぐに野草のスケッチを始め、それが済んだらしばらく休憩してよろしい、と言っておいたら、一人で森へ出かけて一仕事してきた。
男の実力とはこういうところから育ち、身に付いてゆく。