横浜黒船研究会シンポジウム(2009年5月17日)会場から質問への回答
横浜黒船研究会代表世話人 羽田壽夫
去る2009年5月17日に開催した、横浜黒船研究会シンポジウムでは、重要文化財横浜市開港記念会館大講堂を埋め尽くす多数の参加者においで戴き誠に有り難う御座いました。今回のテーマは、“横浜開港の世界史的意義-何故植民地化を免れたか?”という、どちらかと言うと堅いテーマであったにもかかわらず、皆様には、最後まで熱心にご聴講戴き主催者としては誠に感謝に堪えません。当日は時間の関係上会場よりの御質問は1問のみを取り上げさせて戴きましたが、ここに御約束通り、残りの御質問につき、基調講演者:加藤祐三、岩下哲典両先生、パネリスト:大間知倫、今津浩一、有賀英樹会員の回答を掲載させて戴きます。
今回のシンポジウムは、当横浜黒船研究会にとって、5年前の2004年4月17日開催のペリー提督横浜上陸150年記念シンポジウムについで2回目のものでありましたが、皆様のおかげで、前回と同様、大講堂を埋め尽くす多数の参加者においで戴くことが出来ました。 前回は神奈川・横浜の有力企業各社より多額の特別協賛金を戴き開催いたしましたが、今回の所要経費は、有力企業各社の特別協賛金なしに、参加いただいた多く方々の入場料ならびに会員有志よりの協賛寄付金によって開催出来たことに大きな意義があったと考えて居ります。今回の成功に大いに力づけられ、今後も引き続き活動を継続して参りたいと存じて居りますので、引き続きの御支援を御願い申し上げる次第でございます。また、黒船来航の時期を中心とした幕末の歴史にご興味をお持ちの方には、ぜひ、当横浜黒船研究会に入会(入会金なし、参加費用1回500円)いただきますようにお誘い申し上げます。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.1)
質問者
竹内泰昭 様
質問相手
加藤 講師
質問内容
日本側の視点から植民地化されなかったことについて話があった。
当時日本へ来た米、英、仏、露、蘭の外交政策の基本に日本の植民地化の構想はあったのかどうか。
ご回答(加藤記)
19世紀中ごろ、日本開国の前後に限定し、超大国イギリスと、日本に一番乗りしたアメリカの外交政策ではどうか、というように問題を絞ってお答えします。他の諸国の場合は、現実性が乏しく、あえて述べる必要がないと考えます。
まず植民地の定義については、学界でも「定説」はなく、各種の歴史事典でも曖昧な書き方が多く、そもそも「植民地」という見出し語さえないものもある始末です。私は配布資料5ページ上に「(2)近代国際政治-4つの政体」を掲げ、その説明のなかで「立法・司法・行政の国家三権をすべて喪失」と定義しており、その意味で使います。
イギリスはインドを植民地とし(あの広大な領土ですから、一挙に植民地化するのは困難で、戦争を重ね、ベンガル地方から段階的に進めた)、そのベンガルで専売制により生産するアヘン(ケシの実から採る)を中国へ売り込みました。アヘン(主成分はモルヒネ)は同じ物質が最強の鎮痛剤であると同時に習慣性を持つ麻薬という両面を持ちます。イギリスが中国へ密輸したアヘンは鎮痛剤として必要とする量をはるかに超え、麻薬となりますが、自ら抑制することができません(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年をご参照ください)。この密輸を阻止しようと清朝政府が外商所有のアヘンを没収する策をとり、1839年、イギリス軍艦が挑発的な発砲を行い、実質的に戦争が始まります。イギリス派遣軍が到着したのが1840年6月、ここから戦争が本格化したという意味で、年表ではアヘン戦争(1840~42年)とされます。
1842年8月の「南京条約」は中国の敗戦を示す条約です。広大で強力な中国をイギリスは植民地とすることはできず、代わりに「敗戦条約」を科しました。本国との距離、文化の相違、両国の歴史的関係など多くの複雑な要因が関係します。「敗戦条約」の定義については上掲配布資料の「(2)近代国際政治-4つの政体」を参照してください。「敗戦条約」には「懲罰」として、賠償金支払い、領土割譲が伴います。割譲した領土(=香港島)が植民地となります。全国を一括して植民地とするかわりに、割譲した領土の一部だけを植民地としてうまく経営しようとする案です。コスト=ベネフィットによる計算です。このあたりの諸問題は拙著『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店 その増補版として、ちくま学芸文庫 1994年があります)をご参照ください。
この賠償金の完済(3年間にわたる6回分割払い)までイギリス派遣軍は舟山列島(長江河口近く)に駐留します。条約だけでは不十分と考え、実際に「銀塊」を手にするまで軍事力を行使しました。実はイギリス政界で南京条約で割譲した香港島(中国の最南に位置する)より、華中の舟山列島を植民地にすべしとの意見が根強くあったことも関係します。
いよいよ最終回分の徴収が可能な段階となり、撤退を目前にした1845年、通訳ギュツラフが「所見」を書き、香港総督へ提出します。アヘン戦争後の状況を踏まえて、中国周辺の4ヶ国(北から朝鮮、日本、安南=ベトナム、シャム=タイ)がどのような判断をしているか、これら4ヶ国の物流はどうか、通商条約を結び「貿易」を始める可能性があるか否か、等々の分析と提案をします。関心をお持ちの方は、『横浜市立大学論叢』第36巻2・3合併号(昭和60=1985年)に書いた拙稿「ギュツラフ<所見>(1845年)と東アジア」をご覧ください。横浜市中央図書館にはバックナンバーが入っているはずです。
4ヶ国ののうち日本がもっとも物流豊富であり、通商条約を結び国際貿易に参入する可能性がいちばん高い、これが結論の1つです。では通商条約を結ぶにはどうすべきかとみずから問い、使節派遣には科学技術の粋を集めた蒸気軍艦を使い、かつ土産の贈り物を持参すべしと書いてあります。ここで注目したいのは、戦争を予定しておらず、使節派遣による条約締結を想定している点です。つまり「敗戦条約」案ではなく、「交渉条約」案です。
あたかもペリー艦隊の日本派遣(1853~54年)を先取りするような内容ですね。ギュツラフは南京条約のイギリス側通訳をつとめたドイツ人宣教師であり、宣教師仲間が刊行していたThe Chinese Repository(英文の月刊誌、1832~51年)を通じて情報は世界に流布していました。ペリーも同誌をよく読んでいたことは間違いありません、またペリーの通訳の一人ウィリアムズも宣教師で、同誌の編集・執筆にも関わっていました。国籍を問わず、同誌の編集・執筆に結集していた宣教師の輪は強く、同誌は当時の最良の東アジア情報誌でもありました。
では、この<所見>を得たイギリス政府はどのように動いたか。結論を言うと、香港植民地の建設と五港(なかでも上海)を軸とする貿易振興に手いっぱいで、周辺4ヶ国への使節派遣と通商条約締結の余力がありませんでした。ましてや日本を植民地化しようとする意図はまったく持ち合わせていません。その間隙をぬって、基調講演で述べたように、太平洋の彼方のアメリカが登場します。
少し回り道をしましたが、ご質問に対する答えに戻ります。超大国イギリスはインド植民地で精いっぱい、中国全土を植民地化する意図はすでになく、アヘン戦争後の東アジア諸国に対して、もはや戦争を考えず、使節派遣による「交渉条約」の締結を優先していました。アメリカの意図については基調講演のなかで言及した通りです。 (以上)
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.2)
質問者
田中 幸子 様
質問相手
岩下 哲典
質問内容
オランダは出島で、自国がキリスト教国であることを隠していたのでしょうか?
礼拝などは守らなかったのでしょうか?
協会・十字架などは、どうしていたのでしょうか?
ご回答(岩下記)
オランダ人は、キリスト教徒であることを基本的に隠していました。それが知られると、日本から追放されることになるからです。したがって、教会や十字架はありませんでした。ロザリオ程度は、完全にもっていなかったかと言われると自信はありませんが、少なくとも出島の中に教会はありません。出島はもともと日本人(長崎町人)たちが、造成したもので、貸地・貸家です。オランダ人はそこに強制的に住まわされていたので、オランダ人たちは「国立の監獄」と呼んでいました。貸地・貸家ですから賃貸料を支払っていました。
出島には、誰でも入れるわけではなく、相当厳しい立ち入り制限がありましたが、長崎奉行所役人や日本人オランダ通詞は頻繁に出入りし、オランダ人を監視していましたから、オランダ人たちは、貿易ができなくなるようなリスクは避けたと考えるのが至当と思います。つまりロザリオもおおっぴらにできなかったと考えます。
なお、長崎市が出島を復元中ですが、そのいくつかの復元家屋では、キリスト教にかかわるようなものはなかったように記憶します。ぜひ長崎出島にいらっしゃってみてください。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.3)
質 問 者
萩生光紀 様
質問相手
有賀、加藤、今津
質問内容
日本が植民地化を免れた理由<A>が、いくつか指摘されましたが、その後の日中戦争から太平洋戦争に至る失敗に到った理由<B>を、上記の理由と比較して、何故だったのかと思われますか?
<A>の理由
1. 情報収集能力
2. 粘り強い外交交渉
3. 柔軟な変わり身の早さ
4. 外国人の日本人への畏敬の念
これらの理由<A>は何故<B>では機能しなかったのか?
ご回答(有賀記)
1. 確かに私は、パネリスト報告の中で、日本が植民地化を免れた理由として以下の4点を挙げました。
(1)徳川幕府の功績(情報収集能力、粘り強い外交交渉等)
(2)当時の国際情勢と日本自身の幸運さ(天の時、地の利、人の和)
(3)日本人の持つ特性(変わり身の早さ、教育水準の高さ等)
(4)植民地化を防いだ影の抑止力(外国人の日本人への畏敬の念)
このうち、(2)については、たまたま日本はラッキーだったと言うだけで、必ずしも日本自身の努力によるものではありません。従って、「日本自身の如何なる力によって植民地化を防ぐことが出来たのか?」との観点に立てば、ご指摘のように<A>の諸点が挙げられると思います。
2. では、なぜそれが、太平洋戦争当時、つまり、“幕末に次ぐ2回目の日米交渉”の時にはうまく機能しなかったのか? その理由<B>を考えることは、とても意味のある、日本人として決して避けて通ることの出来ない、重要な問題提起だと思います。(このようなご質問をいただいたことに感謝申し上げます。)
3. 正直申し上げて、私はまだ「この<B>の中身はこれだ!」と明確にお答えするだけの勉強をしておりません。今後、最も優先すべき研究課題の一つだとは考えています。その場合、参考にしたいのは加藤祐三先生のご提唱されている「近代国際政治の4つの政体」です。(レジメの5頁ご参照)
4. 加藤先生によれば、この概念図は、19世紀中ごろの東アジアを想定して考えられたもので、時代順には、①列強がまず②植民地を作り、③敗戦条約を結ばせ、最後に④の交渉条約として「日米和親条約」が出来、ここに4つの政治体制が生まれましたが、この体制が日清戦争を転機に変化するというものです。(中央公論新社『世界の歴史25 アジアと欧米社会』加藤祐三 / 川北稔 著)
5. 即ち、日清戦争の勝利により、日本は「懲罰」として清朝中国に③の敗戦条約を課し、多額の賠償金を取りました。また、②植民地として台湾を初めて領有しました。つまり、日清戦争を境に、日本は④交渉条約国から①列強の仲間入りを果たしたことになるわけですが、結局、列強同士の弱肉強食の関係においては、<A>は通用しなかったと言うことかと思います。そして、<A>が通用しないことがわかると、日本は<A>を放棄して、別の論理、即ち列強の論理(=これが、取りも直さず<B>の中身だと思いますが、)を国際関係において適用しようとしますが、日本がいくら にわか学習で学んだ<B>で勝負しようとしても、植民地支配にかけては何百年も先行している列強には歯が立たなかった、ということではないかと思います。
6. ただ、上記の<A>のうち、唯一「日本人の変わり身の早さ」だけは、間違いなく敗戦後も変わらなかった、と言えると思います。
薩摩も長州も攘夷を実行して戦争に負けると、あっという間に開国派に変身し、相手国とも仲良くなりましたが、太平洋戦争の時も全く同様です。
東京を大空襲で焼け野原にされ、広島・長崎に原爆まで落とされ、戦後は占領軍に支配され、それでもアメリカを恨むどころか、逆にアメリカべったりになりました。つくずく 日本は変わった国だと思います。中国のように相手を恨んでも少しも不思議ではないのに、そうならないのは何故なのか?これは、もう日本人のDNA(国民性)によるものとしか思えません。(因みに、アメリカのイラク占領の失敗の原因は、遡れば、日本での占領がうまくいき過ぎたことに対する過信から、イラクでも同じように出来ると安易に思ったことではないかと思えます。)
しかし、そのこと(アメリカべったりになったこと)が、戦後 日本がアメリカの傘の下で、驚異的な経済復興をもたらしたのだとすれば、結果は正解ということになるのでしょうか。(その代わり、日本は大事な<A>を失うという、大きな代償も払いましたが、、、。)
※ 私の「変わり身の早さ」という指摘に対して、加藤先生は、それは「ダーヴィン流に言えば、『強いものが生き残るのではない。環境に適応できるものが生き残る』(適者生存説)ということだろう。」とおっしゃいました。その通りだと思います。
ご回答(今津記)
小生は、日中戦争や太平洋戦争については、一般的な知識しかありませんが、次のように考えています。
1. 情報収集能力は基礎的な力としてきわめて重要であると思います。とりわけ、入手した情報を正しく認識する判断力、世界情勢を見極めて総合的に認識する力が大切であると思います。幕末の政府関係者はその判断力はあったと思います。残念ながら、認識していたにもかかわらず、金食い虫の大奥などの抵抗勢力に押されて適切な対応策を実施できなかったのは事実です。国家防衛の必要を主張した先見者はたくさんいたのに、その対応は遅れました。ただし、開港の後の対応は見事であったといえます。
2. 粘り強い、2枚腰、3枚腰の外交交渉は、国力の弱い日本のような国には必須事項です。日本より数段国力が上にあったアメリカ合衆国がペリー提督を派遣したときの命令書や、ペリー提督自身が考慮した交渉政策を読むと、交渉の方法を選択し、万が一、うまく行かない場合の「布石」をキチンと立てています。彼等の交渉は、そのときだけの行き当たりばったりものではありませんでした。
3. 交渉にあたって、老中首座阿部正弘は、アメリカが挑発してくることをあらかじめ予想しています。武力を持っている国は、挑発して戦争に持ち込めば、合法的に相手国を植民地化することが出来るわけですし、日本が戦争しておれば、敗戦となり、少なくとも懲罰的な領土割譲、賠償金の支払いが必要になったでしょう。それを避けるためには、何が何でも、戦争回避が必要であったのです。太平洋戦争で日本はアメリカの挑発に乗ったといわれています。向こう意気の強い軍人が挑発に乗らないようにすることや、出先の軍団が独断専行の先制攻撃をしないように統制することは中央政府にとって、決して生易しいことではなかったはずです。幕末、徳川政権はぐらついていたのですが、それでも見事に対外政策において、脅しに耐え、挑発に乗らずに戦争を回避することができたのです。脅しと挑発はまさに紙一重です。太平洋戦争の前、セオドア・ルーズベルト大統領は、"Speak softly and carry a big stick"と言ったそうです。つまり、「外交交渉の場では、やさしく発言せよ、しかし、同時に手には太めのステッキを持て」と、外交交渉に「脅し」が不可欠であることを明確に認識していたのです。幕末、幕府はペリー提督の「ステッキ」がどれくらい太いのか、十分に知っていました。そして、その対応をしたのです。
4. 外国人の日本人への畏敬の念についても、ペリー提督は持っていたと思います。その粘り強い「論理による戦い」に遭遇して、その日本人のしつこさに辟易している様子も見て取れます。そして、ペリー提督は日本人は中国人と違って、文化程度が高いとの評価もしているのです。その結果、論理の戦いにおいては、特に交易の拒否については、ペリー提督は敗退するのです。この交易は重要な交渉目的であったはずです。フィルモア大統領の書簡に最重要の項目として取り上げられているだけでなく、最初にペリー提督側が提案した條約案は、まさに、通商条約でした。(大日本古文書幕末外国関係文書之五pp.149-168)大日本古文書では、この条約案を「日米修好通商条約草案」と呼んでいます。これを幕府は拒絶したのです。交渉の仕方によっては、戦争になってもおかしくなかったと小生は思っています。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.4)
質 問 者
斉藤 彬 様
質問相手
有賀
質問内容
当時の徳川幕府は、現在の日本の中央集権社会と対比して地域分権社会であったが、250年もの間、平和が維持されたことは、驚嘆すべき期間であったと思うがどのように考えられますか?
ご回答(有賀記)
江戸時代は、参勤交代で諸大名が定期的に江戸詰めしなければならないことから、中央集権国家のように考えられがちですが、実は各藩ではそれぞれ独自の軍事・政治・経済・文化などの政策を行っていて、完全に地方分権制といえます。「幕藩体制」とは、中央政権の幕府が、地方の諸大名と強調する、いわゆる地方分権体制に他なりません。
全国の総石高は約3000万石、そのうち幕府の直轄領は400万石余り(約1割強)なので、その収入だけで見ると、如何にも幕府の財政基盤は脆弱に見えますが、それを補ったのが軍役制、参勤交代、普請役などの諸役でした。
ご指摘のように、幕府と諸藩の関係が250年もの間、協調関係にあったことは政治、財政、軍事の各方面において、日本が非常に安定していたことを示すものであり、このことも外国側に付け込む隙を与えなかったと言う点で、植民地化を免れた理由として考えられると思います。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.5)
質 問 者
磯野 圭作 様
質問相手
有賀
質問内容
上海と横浜及びその周辺地域に関してです。先ほど、「徳川幕府の努力があった。」とのお話しがありましたが、1850年代から60年代にかけて、横浜、及びその周辺の治安管理は誰が行ったのか? また、上海とその周辺は誰が行ったのか? 教えて下さい。
ご回答(有賀記)
上海租界と横浜居留地の運営上の違いを比較したのが次表です。居留地内の治安は、一応欧米人の指揮官と日本人巡査が一体で管理していたようです。
横浜居留地の取り決め(「神奈川地所規則」)は、一応上海の場合(「第一次土地章程」)をモデルにしていますが、インフラ建設の負担を始め、実際には大きくかけ離れていました。上海の場合は工部局という外国側の自治組織が力を持っていて、上海政府側は殆ど口を挟めなかったのに対し、横浜の場合は、「居留外国人の自治機構の活動は極めて微弱で、連続性に欠けるものであり、… (財政的理由もあって)まもなく活動を停止した。」「明治維新を迎える頃には横浜居留地は日本政府の管理と統制のもとに置かれていた。」とされています。(1995年横浜開港資料館刊『横浜と上海-近代都市形成史比較研究」より』
横 浜 居 留 地
上 海 租 界
主権
日本
名目上は中国(実質は外国側)
地元民の居住
日本人は不可
大部分は中国人
地元民の土地所有
日本人は不可
中国人も可
行政機関
居留地会議行事局
工部局
インフラ建設
日本政府が行う
工部局(列強側の行政機関)が行う
徴税
地租、警察税
住民税、地租、営業許可税、広告税等
外国人の参政権
有
土地所有者や一定額以上の納税者は有
地元民の参政権
無
土地所有者や一定額以上の納税者は有
地元政府の行政参加
居留地会議に知事が参加
無
外国領事の行政参加
領事が居留地会議に参加
領事団を構成し拒否権を持つ
警察署の構成
欧米人の指揮官に日本人巡査
列強の指揮官にインド人や中国人の巡査
外国人への司法権
列強諸国の国民には治外法権
列強諸国の国民には治外法権
地元民への司法権
日本側
本来は中国側
外国軍隊の駐屯
1875年まで英仏軍
以上
列強各国の駐屯軍+外人義勇軍
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(NO.6)
質 問 者
村田 禅 様
質問相手
全員
質問内容
日本人は日本の事を良く知らない。横浜の人は、横浜の歴史をよく知らない。どうしたら、これを克服できると思いますか?
ご回答(有賀記)
1. 日本の将来を担う若者たちが歴史に興味を示さないことは本当に悲しいことです。横浜開港150周年の今年は、彼らに横浜に歴史を知ってもらい、日本、及び世界の歴史に眼を向けてもらう絶好のチャンスだと思います。
横浜と言う街は、たとえ横浜の歴史など何も知らないで歩いても十分楽しめる街ですが、
横浜の歴史を知って歩くと、それまで見えなかった横浜の隠れた魅力を発見することが出来てもっと楽しめる、そんな街だと思います。
2.自分の住んでいる街の歴史には、誰しも多少は興味を持っていると思います。それが、歴史に関心を持つ第一歩だと思います。その興味をもっと深めてあげればよいのです。
私は、黒船研究会の今後のミッションは正にそこにあるのではないかと思っています。
3.幸い、先日シンポジウムにお見えになった横浜市の野田副市長からは、横浜開港150周年を機に、市内の大学生たちに開港の意義を知ってもらう企画を立案中なので、協力願いたいとのお話しがありました。こういう企画には、会として是非積極的に協力し、参画していくことを考えたいと思います。
また先日、シンポジウムの宣伝のため母校の高校を訪ねた際も、副校長より学生たちで作っているサークルの一つに「郷土史研究会」があるので、一度話してやって欲しいとの話もありました。
5. このように、その気になれば、機会はいくらでも作れると思います。会の方向性を明らかにし、外に向かって会の存在意義を示す良い機会にもなるとおもいます。今回のシンポジウムのアンケートにも見られましたが、そういうことの積み重ねによって、少しでも歴史に興味を持ってくれる人が増えていくようにするのが、今後の黒船研究会に対して期待されていることだと思います。
ご回答(大間知記)
多くの人が自分の国のことや、住んでいる場所に関心を持たないのは教育に関わる部分が多い。
日本人が国際人として諸外国の人と交流するに当たって自国のことを知らないのは恥でもある。
神奈川県では日本歴史が高校で必修になったばかりである。大学の先生に言わせれば、太平洋戦争はヒミコの時代と同感覚である学生が多いという。
自分のことを考えてみても関東大震災は遠い昔のことと子供の頃は考えていた。しかし、それは、私が生まれるわずか12年前のことである。それもあり、歴史に対する関心が私の場合は深まった。
子供の頃を思い出すと雑誌で源平の戦や日中戦争のことを読んだ。どちらかと言えば人物本位の史話であった。
歴史は今、事象を羅列して客観的にみることが教えられているが、歴史を理解するには人物本位から入ってその人物がどうしてそのような行動をとったか考えることが大切なのではないか。
ご回答(今津記)
1. おっしゃるとおり、日本人は日本のこと、日本の歴史をよく知らないと思います。その理由は、アメリカの占領政策、近隣諸国の政治的な圧力に屈していたからではないでしょうか?日本の教職員は、ペリー提督来航以降の歴史、とりわけ、第2次世界大戦以後の歴史をくわしく教えていません。小生も習った記憶がありません。これは、日本の教職員の怠慢というより、政治の怠慢なのだろうと考えます。
2. 50年以上経つと、外交資料をはじめとする歴史資料が公開されます。したがって、歴史は見直しをされなければなりません。歴史は、歴史家がつくるものであり、歴史家は政治家にコントロールされることが多いのです。新しい資料が公開され、または、発見されたときには、歴史は書き換えることになります。
3. このような背景から、われわれの世代をはじめ、日本の近代史と現代史についてよく知らない世代は、まず、自ら勉強するべきだと思います。われわれのような研究会活動はその機会を作っていると言えるのではないでしょうか?できるだけ多くの方にご参加いただいて、近代史・現代史を勉強しなおしたいと思います。
4. さらに、書き直された近代史・現代史を小学校や中学校で基礎的な教育をするべきと思います。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(NO.7)
質 問 者
小澤 宗之 様
質問相手
有賀、加藤
質問内容
植民地化を免れたのは、「日本の国の歴史(長さと深さ)」、「天皇家の存在」、「日本人の遺伝子」、「愛国心の強さ」、「教育レベルの高さ」などがあって、なかなか他国が入り込めなかったのではないでしょうか。その点の話が有賀さんからありましたが、これが第一で、これらを大切にすることがこれからも日本国存続にとって必要と考えます。
現在の世界の状況を見ると、国の存続はその国民の遺伝子にあるように思っています。
ご回答(有賀記)
日本が植民地化されず、横浜が第2の上海租界化を免れた理由としては、幕府が頑張って必死の抵抗を試みたことと、当時の国際情勢が日本にとってたまたまラッキーだったこと等に加え、ご指摘の点など いろいろ考えられますが、より本質的なファクターとして忘れてならないことは、この時期に日本を訪れた多くの西欧人が、(当時の)日本と 日本人に対し、少なからず敬意と賞賛の念を持ったことが大きく作用したのではないか、ということです。
幕末から明治にかけて、日本にやってきた多くの西欧人(主に外交官や旅行家)が書き残した本や記録が沢山残っていますが、そのどれもが日本及び日本人に対して大いなる賞賛や尊敬の念を表わしています。初めて日本を訪れた人々が、みな口をそろえて日本が如何にすばらしい国であるかを率直に語り、日本人の勤勉さ、凛とした態度、礼儀正しさ、親切さ、旺盛な探究心などを(こちらが恥ずかしくなるくらい)褒め称えているのです。
私は、このこと、即ち、多くの西欧人が日本に対し畏敬の念を持ったことが、結果としては、日本にとって 最も効果的で、且つ最強の安全保障対策として機能し、植民地化を防ぐための最大の(隠れた)抑止力として働いた(面がある)のではないか!と考えます。
小澤様のご指摘の通り、これらを守り大事にすることが日本の存続と、世界の中で日本のプレゼンスを高める上で、もっとも基本だと思いますが、現在の日本が、同じように世界から敬意を以って見られているか、はなはだ心もとない気がします。
しかし、表面的には変わったとしても、そうした要素は我々の遺伝子の中に脈々と受け継がれているのだとすれば、それが顕在化する可能性もあるわけで、横浜開港150周年は、歴史を学ぶことによってそうした遺伝子の存在を思い起こさせてくれる正に千載一遇のチャンスではないかと思います。 以上
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.8)
質問者
K.K. 様
質問相手
大間知
質問内容
ピョートル大帝の頃から、日本語学校があったと聞きましたが、日本語の先生は漂流民の船乗りであったと思われますが、生徒は何人位で、レベルはどの程度で、実際日露交渉の時に役立ったでしょうか?
ご回答(大間知記)
1702年、漂流民伝兵衛は江戸時代当時の国情からみれば破格の扱いを受けて、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたころ、ピョートル大帝に拝謁している。また、大黒屋光太夫は1791年エカテリーナ女帝に拝謁している。
ピョートル大帝は1705年モスクワに日本語学校を設置、伝兵衛を日本語学校の教師としている。また、大黒屋光太夫も1782年に漂流民となり、7年後、イルクーツクに到着、ここに設置されていた日本語学校の教師となり、エカテリーナ女帝に拝謁の機会を得ている。
1811年ロシアのディアナ号艦長は国後島で日本側に逮捕された。松前の牢屋に幽囚中、村上貞助にロシア語を教えている。間宮林蔵には測量技術を教えている。
2年4ヶ月の拘束後ゴロウニンは「日本幽囚記」を出版、牢屋にいた間、日本人から得た情報を数カ国で出版している。
1852年、クロンシュタットを出航したディアナ号に乗船していたロシア人作家の「日本渡航記」にはすでに過去、蓄積で得た日本に関する知識の一端が披露されている。
これらの100年余に及ぶ積み重ねが日露の国交交渉に大いに役立ったものと思われる。
1806年にはレザノフの部下フォボストフが日本人を数名連行したが、その中の中川五郎治が種痘法を勉強して帰国後実際に生かして種痘を実施した。ロシアでも種痘の実験に自らの身をはじめて提供したのはエカテリーナ女帝である。そういう環境にあって拘束されたものの日本には種痘の技術も伝わったのである。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.9)
質問者
秋山 嵩 様
質問相手
今津
質問内容
① 西洋音楽(音階)は、この横浜開港時がはじめてなのか?
② 日本人が始めて見た楽器は何か?曲目は?
横笛、チャルメラ、大太鼓、小太鼓など、あるそうです。
奉行たちを艦に招いて、夜ドンチャンをした記事があります。
③ 食べ物・飲み物で目新しいものは何だったのか?
日本人はどのような態度で接待を受けたのか?
④ サムライ精神との関係
文化による交流はじめの観点で興味を持っています。
ご回答(今津回答)
① 西洋音楽(音階)を日本人が始めて聞いたのは、横浜開港時が初めてではありません。すでに、織田信長の時代にイエズス会のキリスト教宣教師が日本に来ていました。彼等は西洋音楽を演奏したようです。また、いわゆる「鎖国」が実施されてからも、オランダ人は長崎に駐在していました。彼等も、西洋音楽を楽しんでいたようです。
② 日本人が始めて見た楽器は何か?曲目は?イエズス会の宣教師たちがどのような楽器でどのような音楽を演奏したのか、浅学にして存知あげません。ただし、横浜開港の時にペリー提督の艦隊の軍楽隊の演奏は日本人の興味の的であったのは確かです。夜、海上の軍艦から聞こえてくる西洋音楽を聴いて、「伊勢音頭のような音楽が聞こえた」と興味深く記述している記録があります。また、日本の絵師はサキソフォン、ホルン、フルート、小太鼓などを描いています。(「黒船絵巻と瓦版」開港資料館を参照)ペリー提督が上陸時の音楽には、ヘイル・コロンビア、アルプス一万尺などがあったようです。(拙著「ペリー提督の機密報告書」p.105 参照)日本人を軍艦へ招待して宴会をし音楽を聞かせたのは、多くの記録があります。そのときのミュージカル・ショーをペリー艦隊では「エチオピアン・コンサート」と称していました。そのときの演奏プログラムが残っています。(Harvard Library Bulletin 1858)招待された日本人は、このショーを楽しんだようです。応接掛り(交渉代表)の偉い役人も、(多分始めて聞く)音楽にあわせて、足拍子を取ったとのことです。
③ ペリー提督来航のときの音楽については、笠原潔『黒船来航と音楽』(吉川弘文館)がご参考になると思います。(この参考書については、岩下哲典先生のご助言があったものです。)
④ 西洋料理と西洋の酒は、すべてものめずらしいものでしたが、美味しくいただいたようです。肉料理など豊富に用意されていたようですし、酒も、ワイン、マデイラ酒、ウィスキー、シャンパン、など各種用意されていました。(日米の食事接待について、詳しく研究されている会員が、黒船研究会におられます。)
⑤ サムライ精神との関係は興味のあるテーマですが、小生は研究しておりませんので、的確なご返事ができません。
横浜黒船研究会代表世話人 羽田壽夫
去る2009年5月17日に開催した、横浜黒船研究会シンポジウムでは、重要文化財横浜市開港記念会館大講堂を埋め尽くす多数の参加者においで戴き誠に有り難う御座いました。今回のテーマは、“横浜開港の世界史的意義-何故植民地化を免れたか?”という、どちらかと言うと堅いテーマであったにもかかわらず、皆様には、最後まで熱心にご聴講戴き主催者としては誠に感謝に堪えません。当日は時間の関係上会場よりの御質問は1問のみを取り上げさせて戴きましたが、ここに御約束通り、残りの御質問につき、基調講演者:加藤祐三、岩下哲典両先生、パネリスト:大間知倫、今津浩一、有賀英樹会員の回答を掲載させて戴きます。
今回のシンポジウムは、当横浜黒船研究会にとって、5年前の2004年4月17日開催のペリー提督横浜上陸150年記念シンポジウムについで2回目のものでありましたが、皆様のおかげで、前回と同様、大講堂を埋め尽くす多数の参加者においで戴くことが出来ました。 前回は神奈川・横浜の有力企業各社より多額の特別協賛金を戴き開催いたしましたが、今回の所要経費は、有力企業各社の特別協賛金なしに、参加いただいた多く方々の入場料ならびに会員有志よりの協賛寄付金によって開催出来たことに大きな意義があったと考えて居ります。今回の成功に大いに力づけられ、今後も引き続き活動を継続して参りたいと存じて居りますので、引き続きの御支援を御願い申し上げる次第でございます。また、黒船来航の時期を中心とした幕末の歴史にご興味をお持ちの方には、ぜひ、当横浜黒船研究会に入会(入会金なし、参加費用1回500円)いただきますようにお誘い申し上げます。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.1)
質問者
竹内泰昭 様
質問相手
加藤 講師
質問内容
日本側の視点から植民地化されなかったことについて話があった。
当時日本へ来た米、英、仏、露、蘭の外交政策の基本に日本の植民地化の構想はあったのかどうか。
ご回答(加藤記)
19世紀中ごろ、日本開国の前後に限定し、超大国イギリスと、日本に一番乗りしたアメリカの外交政策ではどうか、というように問題を絞ってお答えします。他の諸国の場合は、現実性が乏しく、あえて述べる必要がないと考えます。
まず植民地の定義については、学界でも「定説」はなく、各種の歴史事典でも曖昧な書き方が多く、そもそも「植民地」という見出し語さえないものもある始末です。私は配布資料5ページ上に「(2)近代国際政治-4つの政体」を掲げ、その説明のなかで「立法・司法・行政の国家三権をすべて喪失」と定義しており、その意味で使います。
イギリスはインドを植民地とし(あの広大な領土ですから、一挙に植民地化するのは困難で、戦争を重ね、ベンガル地方から段階的に進めた)、そのベンガルで専売制により生産するアヘン(ケシの実から採る)を中国へ売り込みました。アヘン(主成分はモルヒネ)は同じ物質が最強の鎮痛剤であると同時に習慣性を持つ麻薬という両面を持ちます。イギリスが中国へ密輸したアヘンは鎮痛剤として必要とする量をはるかに超え、麻薬となりますが、自ら抑制することができません(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年をご参照ください)。この密輸を阻止しようと清朝政府が外商所有のアヘンを没収する策をとり、1839年、イギリス軍艦が挑発的な発砲を行い、実質的に戦争が始まります。イギリス派遣軍が到着したのが1840年6月、ここから戦争が本格化したという意味で、年表ではアヘン戦争(1840~42年)とされます。
1842年8月の「南京条約」は中国の敗戦を示す条約です。広大で強力な中国をイギリスは植民地とすることはできず、代わりに「敗戦条約」を科しました。本国との距離、文化の相違、両国の歴史的関係など多くの複雑な要因が関係します。「敗戦条約」の定義については上掲配布資料の「(2)近代国際政治-4つの政体」を参照してください。「敗戦条約」には「懲罰」として、賠償金支払い、領土割譲が伴います。割譲した領土(=香港島)が植民地となります。全国を一括して植民地とするかわりに、割譲した領土の一部だけを植民地としてうまく経営しようとする案です。コスト=ベネフィットによる計算です。このあたりの諸問題は拙著『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店 その増補版として、ちくま学芸文庫 1994年があります)をご参照ください。
この賠償金の完済(3年間にわたる6回分割払い)までイギリス派遣軍は舟山列島(長江河口近く)に駐留します。条約だけでは不十分と考え、実際に「銀塊」を手にするまで軍事力を行使しました。実はイギリス政界で南京条約で割譲した香港島(中国の最南に位置する)より、華中の舟山列島を植民地にすべしとの意見が根強くあったことも関係します。
いよいよ最終回分の徴収が可能な段階となり、撤退を目前にした1845年、通訳ギュツラフが「所見」を書き、香港総督へ提出します。アヘン戦争後の状況を踏まえて、中国周辺の4ヶ国(北から朝鮮、日本、安南=ベトナム、シャム=タイ)がどのような判断をしているか、これら4ヶ国の物流はどうか、通商条約を結び「貿易」を始める可能性があるか否か、等々の分析と提案をします。関心をお持ちの方は、『横浜市立大学論叢』第36巻2・3合併号(昭和60=1985年)に書いた拙稿「ギュツラフ<所見>(1845年)と東アジア」をご覧ください。横浜市中央図書館にはバックナンバーが入っているはずです。
4ヶ国ののうち日本がもっとも物流豊富であり、通商条約を結び国際貿易に参入する可能性がいちばん高い、これが結論の1つです。では通商条約を結ぶにはどうすべきかとみずから問い、使節派遣には科学技術の粋を集めた蒸気軍艦を使い、かつ土産の贈り物を持参すべしと書いてあります。ここで注目したいのは、戦争を予定しておらず、使節派遣による条約締結を想定している点です。つまり「敗戦条約」案ではなく、「交渉条約」案です。
あたかもペリー艦隊の日本派遣(1853~54年)を先取りするような内容ですね。ギュツラフは南京条約のイギリス側通訳をつとめたドイツ人宣教師であり、宣教師仲間が刊行していたThe Chinese Repository(英文の月刊誌、1832~51年)を通じて情報は世界に流布していました。ペリーも同誌をよく読んでいたことは間違いありません、またペリーの通訳の一人ウィリアムズも宣教師で、同誌の編集・執筆にも関わっていました。国籍を問わず、同誌の編集・執筆に結集していた宣教師の輪は強く、同誌は当時の最良の東アジア情報誌でもありました。
では、この<所見>を得たイギリス政府はどのように動いたか。結論を言うと、香港植民地の建設と五港(なかでも上海)を軸とする貿易振興に手いっぱいで、周辺4ヶ国への使節派遣と通商条約締結の余力がありませんでした。ましてや日本を植民地化しようとする意図はまったく持ち合わせていません。その間隙をぬって、基調講演で述べたように、太平洋の彼方のアメリカが登場します。
少し回り道をしましたが、ご質問に対する答えに戻ります。超大国イギリスはインド植民地で精いっぱい、中国全土を植民地化する意図はすでになく、アヘン戦争後の東アジア諸国に対して、もはや戦争を考えず、使節派遣による「交渉条約」の締結を優先していました。アメリカの意図については基調講演のなかで言及した通りです。 (以上)
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.2)
質問者
田中 幸子 様
質問相手
岩下 哲典
質問内容
オランダは出島で、自国がキリスト教国であることを隠していたのでしょうか?
礼拝などは守らなかったのでしょうか?
協会・十字架などは、どうしていたのでしょうか?
ご回答(岩下記)
オランダ人は、キリスト教徒であることを基本的に隠していました。それが知られると、日本から追放されることになるからです。したがって、教会や十字架はありませんでした。ロザリオ程度は、完全にもっていなかったかと言われると自信はありませんが、少なくとも出島の中に教会はありません。出島はもともと日本人(長崎町人)たちが、造成したもので、貸地・貸家です。オランダ人はそこに強制的に住まわされていたので、オランダ人たちは「国立の監獄」と呼んでいました。貸地・貸家ですから賃貸料を支払っていました。
出島には、誰でも入れるわけではなく、相当厳しい立ち入り制限がありましたが、長崎奉行所役人や日本人オランダ通詞は頻繁に出入りし、オランダ人を監視していましたから、オランダ人たちは、貿易ができなくなるようなリスクは避けたと考えるのが至当と思います。つまりロザリオもおおっぴらにできなかったと考えます。
なお、長崎市が出島を復元中ですが、そのいくつかの復元家屋では、キリスト教にかかわるようなものはなかったように記憶します。ぜひ長崎出島にいらっしゃってみてください。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.3)
質 問 者
萩生光紀 様
質問相手
有賀、加藤、今津
質問内容
日本が植民地化を免れた理由<A>が、いくつか指摘されましたが、その後の日中戦争から太平洋戦争に至る失敗に到った理由<B>を、上記の理由と比較して、何故だったのかと思われますか?
<A>の理由
1. 情報収集能力
2. 粘り強い外交交渉
3. 柔軟な変わり身の早さ
4. 外国人の日本人への畏敬の念
これらの理由<A>は何故<B>では機能しなかったのか?
ご回答(有賀記)
1. 確かに私は、パネリスト報告の中で、日本が植民地化を免れた理由として以下の4点を挙げました。
(1)徳川幕府の功績(情報収集能力、粘り強い外交交渉等)
(2)当時の国際情勢と日本自身の幸運さ(天の時、地の利、人の和)
(3)日本人の持つ特性(変わり身の早さ、教育水準の高さ等)
(4)植民地化を防いだ影の抑止力(外国人の日本人への畏敬の念)
このうち、(2)については、たまたま日本はラッキーだったと言うだけで、必ずしも日本自身の努力によるものではありません。従って、「日本自身の如何なる力によって植民地化を防ぐことが出来たのか?」との観点に立てば、ご指摘のように<A>の諸点が挙げられると思います。
2. では、なぜそれが、太平洋戦争当時、つまり、“幕末に次ぐ2回目の日米交渉”の時にはうまく機能しなかったのか? その理由<B>を考えることは、とても意味のある、日本人として決して避けて通ることの出来ない、重要な問題提起だと思います。(このようなご質問をいただいたことに感謝申し上げます。)
3. 正直申し上げて、私はまだ「この<B>の中身はこれだ!」と明確にお答えするだけの勉強をしておりません。今後、最も優先すべき研究課題の一つだとは考えています。その場合、参考にしたいのは加藤祐三先生のご提唱されている「近代国際政治の4つの政体」です。(レジメの5頁ご参照)
4. 加藤先生によれば、この概念図は、19世紀中ごろの東アジアを想定して考えられたもので、時代順には、①列強がまず②植民地を作り、③敗戦条約を結ばせ、最後に④の交渉条約として「日米和親条約」が出来、ここに4つの政治体制が生まれましたが、この体制が日清戦争を転機に変化するというものです。(中央公論新社『世界の歴史25 アジアと欧米社会』加藤祐三 / 川北稔 著)
5. 即ち、日清戦争の勝利により、日本は「懲罰」として清朝中国に③の敗戦条約を課し、多額の賠償金を取りました。また、②植民地として台湾を初めて領有しました。つまり、日清戦争を境に、日本は④交渉条約国から①列強の仲間入りを果たしたことになるわけですが、結局、列強同士の弱肉強食の関係においては、<A>は通用しなかったと言うことかと思います。そして、<A>が通用しないことがわかると、日本は<A>を放棄して、別の論理、即ち列強の論理(=これが、取りも直さず<B>の中身だと思いますが、)を国際関係において適用しようとしますが、日本がいくら にわか学習で学んだ<B>で勝負しようとしても、植民地支配にかけては何百年も先行している列強には歯が立たなかった、ということではないかと思います。
6. ただ、上記の<A>のうち、唯一「日本人の変わり身の早さ」だけは、間違いなく敗戦後も変わらなかった、と言えると思います。
薩摩も長州も攘夷を実行して戦争に負けると、あっという間に開国派に変身し、相手国とも仲良くなりましたが、太平洋戦争の時も全く同様です。
東京を大空襲で焼け野原にされ、広島・長崎に原爆まで落とされ、戦後は占領軍に支配され、それでもアメリカを恨むどころか、逆にアメリカべったりになりました。つくずく 日本は変わった国だと思います。中国のように相手を恨んでも少しも不思議ではないのに、そうならないのは何故なのか?これは、もう日本人のDNA(国民性)によるものとしか思えません。(因みに、アメリカのイラク占領の失敗の原因は、遡れば、日本での占領がうまくいき過ぎたことに対する過信から、イラクでも同じように出来ると安易に思ったことではないかと思えます。)
しかし、そのこと(アメリカべったりになったこと)が、戦後 日本がアメリカの傘の下で、驚異的な経済復興をもたらしたのだとすれば、結果は正解ということになるのでしょうか。(その代わり、日本は大事な<A>を失うという、大きな代償も払いましたが、、、。)
※ 私の「変わり身の早さ」という指摘に対して、加藤先生は、それは「ダーヴィン流に言えば、『強いものが生き残るのではない。環境に適応できるものが生き残る』(適者生存説)ということだろう。」とおっしゃいました。その通りだと思います。
ご回答(今津記)
小生は、日中戦争や太平洋戦争については、一般的な知識しかありませんが、次のように考えています。
1. 情報収集能力は基礎的な力としてきわめて重要であると思います。とりわけ、入手した情報を正しく認識する判断力、世界情勢を見極めて総合的に認識する力が大切であると思います。幕末の政府関係者はその判断力はあったと思います。残念ながら、認識していたにもかかわらず、金食い虫の大奥などの抵抗勢力に押されて適切な対応策を実施できなかったのは事実です。国家防衛の必要を主張した先見者はたくさんいたのに、その対応は遅れました。ただし、開港の後の対応は見事であったといえます。
2. 粘り強い、2枚腰、3枚腰の外交交渉は、国力の弱い日本のような国には必須事項です。日本より数段国力が上にあったアメリカ合衆国がペリー提督を派遣したときの命令書や、ペリー提督自身が考慮した交渉政策を読むと、交渉の方法を選択し、万が一、うまく行かない場合の「布石」をキチンと立てています。彼等の交渉は、そのときだけの行き当たりばったりものではありませんでした。
3. 交渉にあたって、老中首座阿部正弘は、アメリカが挑発してくることをあらかじめ予想しています。武力を持っている国は、挑発して戦争に持ち込めば、合法的に相手国を植民地化することが出来るわけですし、日本が戦争しておれば、敗戦となり、少なくとも懲罰的な領土割譲、賠償金の支払いが必要になったでしょう。それを避けるためには、何が何でも、戦争回避が必要であったのです。太平洋戦争で日本はアメリカの挑発に乗ったといわれています。向こう意気の強い軍人が挑発に乗らないようにすることや、出先の軍団が独断専行の先制攻撃をしないように統制することは中央政府にとって、決して生易しいことではなかったはずです。幕末、徳川政権はぐらついていたのですが、それでも見事に対外政策において、脅しに耐え、挑発に乗らずに戦争を回避することができたのです。脅しと挑発はまさに紙一重です。太平洋戦争の前、セオドア・ルーズベルト大統領は、"Speak softly and carry a big stick"と言ったそうです。つまり、「外交交渉の場では、やさしく発言せよ、しかし、同時に手には太めのステッキを持て」と、外交交渉に「脅し」が不可欠であることを明確に認識していたのです。幕末、幕府はペリー提督の「ステッキ」がどれくらい太いのか、十分に知っていました。そして、その対応をしたのです。
4. 外国人の日本人への畏敬の念についても、ペリー提督は持っていたと思います。その粘り強い「論理による戦い」に遭遇して、その日本人のしつこさに辟易している様子も見て取れます。そして、ペリー提督は日本人は中国人と違って、文化程度が高いとの評価もしているのです。その結果、論理の戦いにおいては、特に交易の拒否については、ペリー提督は敗退するのです。この交易は重要な交渉目的であったはずです。フィルモア大統領の書簡に最重要の項目として取り上げられているだけでなく、最初にペリー提督側が提案した條約案は、まさに、通商条約でした。(大日本古文書幕末外国関係文書之五pp.149-168)大日本古文書では、この条約案を「日米修好通商条約草案」と呼んでいます。これを幕府は拒絶したのです。交渉の仕方によっては、戦争になってもおかしくなかったと小生は思っています。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.4)
質 問 者
斉藤 彬 様
質問相手
有賀
質問内容
当時の徳川幕府は、現在の日本の中央集権社会と対比して地域分権社会であったが、250年もの間、平和が維持されたことは、驚嘆すべき期間であったと思うがどのように考えられますか?
ご回答(有賀記)
江戸時代は、参勤交代で諸大名が定期的に江戸詰めしなければならないことから、中央集権国家のように考えられがちですが、実は各藩ではそれぞれ独自の軍事・政治・経済・文化などの政策を行っていて、完全に地方分権制といえます。「幕藩体制」とは、中央政権の幕府が、地方の諸大名と強調する、いわゆる地方分権体制に他なりません。
全国の総石高は約3000万石、そのうち幕府の直轄領は400万石余り(約1割強)なので、その収入だけで見ると、如何にも幕府の財政基盤は脆弱に見えますが、それを補ったのが軍役制、参勤交代、普請役などの諸役でした。
ご指摘のように、幕府と諸藩の関係が250年もの間、協調関係にあったことは政治、財政、軍事の各方面において、日本が非常に安定していたことを示すものであり、このことも外国側に付け込む隙を与えなかったと言う点で、植民地化を免れた理由として考えられると思います。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.5)
質 問 者
磯野 圭作 様
質問相手
有賀
質問内容
上海と横浜及びその周辺地域に関してです。先ほど、「徳川幕府の努力があった。」とのお話しがありましたが、1850年代から60年代にかけて、横浜、及びその周辺の治安管理は誰が行ったのか? また、上海とその周辺は誰が行ったのか? 教えて下さい。
ご回答(有賀記)
上海租界と横浜居留地の運営上の違いを比較したのが次表です。居留地内の治安は、一応欧米人の指揮官と日本人巡査が一体で管理していたようです。
横浜居留地の取り決め(「神奈川地所規則」)は、一応上海の場合(「第一次土地章程」)をモデルにしていますが、インフラ建設の負担を始め、実際には大きくかけ離れていました。上海の場合は工部局という外国側の自治組織が力を持っていて、上海政府側は殆ど口を挟めなかったのに対し、横浜の場合は、「居留外国人の自治機構の活動は極めて微弱で、連続性に欠けるものであり、… (財政的理由もあって)まもなく活動を停止した。」「明治維新を迎える頃には横浜居留地は日本政府の管理と統制のもとに置かれていた。」とされています。(1995年横浜開港資料館刊『横浜と上海-近代都市形成史比較研究」より』
横 浜 居 留 地
上 海 租 界
主権
日本
名目上は中国(実質は外国側)
地元民の居住
日本人は不可
大部分は中国人
地元民の土地所有
日本人は不可
中国人も可
行政機関
居留地会議行事局
工部局
インフラ建設
日本政府が行う
工部局(列強側の行政機関)が行う
徴税
地租、警察税
住民税、地租、営業許可税、広告税等
外国人の参政権
有
土地所有者や一定額以上の納税者は有
地元民の参政権
無
土地所有者や一定額以上の納税者は有
地元政府の行政参加
居留地会議に知事が参加
無
外国領事の行政参加
領事が居留地会議に参加
領事団を構成し拒否権を持つ
警察署の構成
欧米人の指揮官に日本人巡査
列強の指揮官にインド人や中国人の巡査
外国人への司法権
列強諸国の国民には治外法権
列強諸国の国民には治外法権
地元民への司法権
日本側
本来は中国側
外国軍隊の駐屯
1875年まで英仏軍
以上
列強各国の駐屯軍+外人義勇軍
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(NO.6)
質 問 者
村田 禅 様
質問相手
全員
質問内容
日本人は日本の事を良く知らない。横浜の人は、横浜の歴史をよく知らない。どうしたら、これを克服できると思いますか?
ご回答(有賀記)
1. 日本の将来を担う若者たちが歴史に興味を示さないことは本当に悲しいことです。横浜開港150周年の今年は、彼らに横浜に歴史を知ってもらい、日本、及び世界の歴史に眼を向けてもらう絶好のチャンスだと思います。
横浜と言う街は、たとえ横浜の歴史など何も知らないで歩いても十分楽しめる街ですが、
横浜の歴史を知って歩くと、それまで見えなかった横浜の隠れた魅力を発見することが出来てもっと楽しめる、そんな街だと思います。
2.自分の住んでいる街の歴史には、誰しも多少は興味を持っていると思います。それが、歴史に関心を持つ第一歩だと思います。その興味をもっと深めてあげればよいのです。
私は、黒船研究会の今後のミッションは正にそこにあるのではないかと思っています。
3.幸い、先日シンポジウムにお見えになった横浜市の野田副市長からは、横浜開港150周年を機に、市内の大学生たちに開港の意義を知ってもらう企画を立案中なので、協力願いたいとのお話しがありました。こういう企画には、会として是非積極的に協力し、参画していくことを考えたいと思います。
また先日、シンポジウムの宣伝のため母校の高校を訪ねた際も、副校長より学生たちで作っているサークルの一つに「郷土史研究会」があるので、一度話してやって欲しいとの話もありました。
5. このように、その気になれば、機会はいくらでも作れると思います。会の方向性を明らかにし、外に向かって会の存在意義を示す良い機会にもなるとおもいます。今回のシンポジウムのアンケートにも見られましたが、そういうことの積み重ねによって、少しでも歴史に興味を持ってくれる人が増えていくようにするのが、今後の黒船研究会に対して期待されていることだと思います。
ご回答(大間知記)
多くの人が自分の国のことや、住んでいる場所に関心を持たないのは教育に関わる部分が多い。
日本人が国際人として諸外国の人と交流するに当たって自国のことを知らないのは恥でもある。
神奈川県では日本歴史が高校で必修になったばかりである。大学の先生に言わせれば、太平洋戦争はヒミコの時代と同感覚である学生が多いという。
自分のことを考えてみても関東大震災は遠い昔のことと子供の頃は考えていた。しかし、それは、私が生まれるわずか12年前のことである。それもあり、歴史に対する関心が私の場合は深まった。
子供の頃を思い出すと雑誌で源平の戦や日中戦争のことを読んだ。どちらかと言えば人物本位の史話であった。
歴史は今、事象を羅列して客観的にみることが教えられているが、歴史を理解するには人物本位から入ってその人物がどうしてそのような行動をとったか考えることが大切なのではないか。
ご回答(今津記)
1. おっしゃるとおり、日本人は日本のこと、日本の歴史をよく知らないと思います。その理由は、アメリカの占領政策、近隣諸国の政治的な圧力に屈していたからではないでしょうか?日本の教職員は、ペリー提督来航以降の歴史、とりわけ、第2次世界大戦以後の歴史をくわしく教えていません。小生も習った記憶がありません。これは、日本の教職員の怠慢というより、政治の怠慢なのだろうと考えます。
2. 50年以上経つと、外交資料をはじめとする歴史資料が公開されます。したがって、歴史は見直しをされなければなりません。歴史は、歴史家がつくるものであり、歴史家は政治家にコントロールされることが多いのです。新しい資料が公開され、または、発見されたときには、歴史は書き換えることになります。
3. このような背景から、われわれの世代をはじめ、日本の近代史と現代史についてよく知らない世代は、まず、自ら勉強するべきだと思います。われわれのような研究会活動はその機会を作っていると言えるのではないでしょうか?できるだけ多くの方にご参加いただいて、近代史・現代史を勉強しなおしたいと思います。
4. さらに、書き直された近代史・現代史を小学校や中学校で基礎的な教育をするべきと思います。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(NO.7)
質 問 者
小澤 宗之 様
質問相手
有賀、加藤
質問内容
植民地化を免れたのは、「日本の国の歴史(長さと深さ)」、「天皇家の存在」、「日本人の遺伝子」、「愛国心の強さ」、「教育レベルの高さ」などがあって、なかなか他国が入り込めなかったのではないでしょうか。その点の話が有賀さんからありましたが、これが第一で、これらを大切にすることがこれからも日本国存続にとって必要と考えます。
現在の世界の状況を見ると、国の存続はその国民の遺伝子にあるように思っています。
ご回答(有賀記)
日本が植民地化されず、横浜が第2の上海租界化を免れた理由としては、幕府が頑張って必死の抵抗を試みたことと、当時の国際情勢が日本にとってたまたまラッキーだったこと等に加え、ご指摘の点など いろいろ考えられますが、より本質的なファクターとして忘れてならないことは、この時期に日本を訪れた多くの西欧人が、(当時の)日本と 日本人に対し、少なからず敬意と賞賛の念を持ったことが大きく作用したのではないか、ということです。
幕末から明治にかけて、日本にやってきた多くの西欧人(主に外交官や旅行家)が書き残した本や記録が沢山残っていますが、そのどれもが日本及び日本人に対して大いなる賞賛や尊敬の念を表わしています。初めて日本を訪れた人々が、みな口をそろえて日本が如何にすばらしい国であるかを率直に語り、日本人の勤勉さ、凛とした態度、礼儀正しさ、親切さ、旺盛な探究心などを(こちらが恥ずかしくなるくらい)褒め称えているのです。
私は、このこと、即ち、多くの西欧人が日本に対し畏敬の念を持ったことが、結果としては、日本にとって 最も効果的で、且つ最強の安全保障対策として機能し、植民地化を防ぐための最大の(隠れた)抑止力として働いた(面がある)のではないか!と考えます。
小澤様のご指摘の通り、これらを守り大事にすることが日本の存続と、世界の中で日本のプレゼンスを高める上で、もっとも基本だと思いますが、現在の日本が、同じように世界から敬意を以って見られているか、はなはだ心もとない気がします。
しかし、表面的には変わったとしても、そうした要素は我々の遺伝子の中に脈々と受け継がれているのだとすれば、それが顕在化する可能性もあるわけで、横浜開港150周年は、歴史を学ぶことによってそうした遺伝子の存在を思い起こさせてくれる正に千載一遇のチャンスではないかと思います。 以上
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.8)
質問者
K.K. 様
質問相手
大間知
質問内容
ピョートル大帝の頃から、日本語学校があったと聞きましたが、日本語の先生は漂流民の船乗りであったと思われますが、生徒は何人位で、レベルはどの程度で、実際日露交渉の時に役立ったでしょうか?
ご回答(大間知記)
1702年、漂流民伝兵衛は江戸時代当時の国情からみれば破格の扱いを受けて、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたころ、ピョートル大帝に拝謁している。また、大黒屋光太夫は1791年エカテリーナ女帝に拝謁している。
ピョートル大帝は1705年モスクワに日本語学校を設置、伝兵衛を日本語学校の教師としている。また、大黒屋光太夫も1782年に漂流民となり、7年後、イルクーツクに到着、ここに設置されていた日本語学校の教師となり、エカテリーナ女帝に拝謁の機会を得ている。
1811年ロシアのディアナ号艦長は国後島で日本側に逮捕された。松前の牢屋に幽囚中、村上貞助にロシア語を教えている。間宮林蔵には測量技術を教えている。
2年4ヶ月の拘束後ゴロウニンは「日本幽囚記」を出版、牢屋にいた間、日本人から得た情報を数カ国で出版している。
1852年、クロンシュタットを出航したディアナ号に乗船していたロシア人作家の「日本渡航記」にはすでに過去、蓄積で得た日本に関する知識の一端が披露されている。
これらの100年余に及ぶ積み重ねが日露の国交交渉に大いに役立ったものと思われる。
1806年にはレザノフの部下フォボストフが日本人を数名連行したが、その中の中川五郎治が種痘法を勉強して帰国後実際に生かして種痘を実施した。ロシアでも種痘の実験に自らの身をはじめて提供したのはエカテリーナ女帝である。そういう環境にあって拘束されたものの日本には種痘の技術も伝わったのである。
『横浜開港150周年記念シンポジウム』 会場からの質問(No.9)
質問者
秋山 嵩 様
質問相手
今津
質問内容
① 西洋音楽(音階)は、この横浜開港時がはじめてなのか?
② 日本人が始めて見た楽器は何か?曲目は?
横笛、チャルメラ、大太鼓、小太鼓など、あるそうです。
奉行たちを艦に招いて、夜ドンチャンをした記事があります。
③ 食べ物・飲み物で目新しいものは何だったのか?
日本人はどのような態度で接待を受けたのか?
④ サムライ精神との関係
文化による交流はじめの観点で興味を持っています。
ご回答(今津回答)
① 西洋音楽(音階)を日本人が始めて聞いたのは、横浜開港時が初めてではありません。すでに、織田信長の時代にイエズス会のキリスト教宣教師が日本に来ていました。彼等は西洋音楽を演奏したようです。また、いわゆる「鎖国」が実施されてからも、オランダ人は長崎に駐在していました。彼等も、西洋音楽を楽しんでいたようです。
② 日本人が始めて見た楽器は何か?曲目は?イエズス会の宣教師たちがどのような楽器でどのような音楽を演奏したのか、浅学にして存知あげません。ただし、横浜開港の時にペリー提督の艦隊の軍楽隊の演奏は日本人の興味の的であったのは確かです。夜、海上の軍艦から聞こえてくる西洋音楽を聴いて、「伊勢音頭のような音楽が聞こえた」と興味深く記述している記録があります。また、日本の絵師はサキソフォン、ホルン、フルート、小太鼓などを描いています。(「黒船絵巻と瓦版」開港資料館を参照)ペリー提督が上陸時の音楽には、ヘイル・コロンビア、アルプス一万尺などがあったようです。(拙著「ペリー提督の機密報告書」p.105 参照)日本人を軍艦へ招待して宴会をし音楽を聞かせたのは、多くの記録があります。そのときのミュージカル・ショーをペリー艦隊では「エチオピアン・コンサート」と称していました。そのときの演奏プログラムが残っています。(Harvard Library Bulletin 1858)招待された日本人は、このショーを楽しんだようです。応接掛り(交渉代表)の偉い役人も、(多分始めて聞く)音楽にあわせて、足拍子を取ったとのことです。
③ ペリー提督来航のときの音楽については、笠原潔『黒船来航と音楽』(吉川弘文館)がご参考になると思います。(この参考書については、岩下哲典先生のご助言があったものです。)
④ 西洋料理と西洋の酒は、すべてものめずらしいものでしたが、美味しくいただいたようです。肉料理など豊富に用意されていたようですし、酒も、ワイン、マデイラ酒、ウィスキー、シャンパン、など各種用意されていました。(日米の食事接待について、詳しく研究されている会員が、黒船研究会におられます。)
⑤ サムライ精神との関係は興味のあるテーマですが、小生は研究しておりませんので、的確なご返事ができません。