掩体壕
と 聞いて
ピンときますか?
城井
じょうい
地区名 でしょうね
「じょうい」
すぐには 読めませんですが
小学校6年生の時
交流宿泊に クラスで 男女1名づつ 選ばれるんですが
男子は なんと 私が…
行った先は 愛媛 松山の南吉田 松岡君ち
下の名前忘れた…
松山空港の近くで 自転車に乗って 空港に行ったのよ
YS-11 とか 東亜国内航空 やった頃
そん時に 初めて 掩体壕 を見た
ゼロ戦好き少年には 衝撃やった
日本海海戦記 太平洋戦記 などなど
いろいろ読んでたけど 掩体壕は 知らなかった
お~い 松岡君 どうしてる?
そういうことで 宇佐の掩体壕も 見たかった
その話を するも
掩体壕とは どんなものなの?
さっぱりな スケールさん
特攻隊員 154名 名前を記した石碑
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百聞不如一見
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久々に見た
変換やから出るけど 書けません
最初から 造られてたわけではなく
1943年 昭和18年頃からのようで
戦局が 次第に悪くなってきて
最悪を考えてた
こうやって 機体を比較すると
ゼロ戦 ちっちゃ
九七艦攻 九九急爆も 大きい
一式陸攻は 当然大きい
双発なんで 入らないのは 一目瞭然
翼幅から 九七 九九 も入りそうにない
昭和20年3月
出撃前の 神雷部隊 桜花 を運ぶ 一式陸攻が
空襲を受け被害により 中止になってます
隠せなかったのですね
カモフラージュネットとか使ってたのですかね
畑の中に置いて 木の枝を 被せるとか…
2024.8.14. PM 13:33
頭の中で いろんなことが 錯綜しつつ
じわじわと 近寄る
ちょっと 言葉が…
田んぼの中で 通りから離れていて 車の音も聞こえない
近くに 大きな木がないせいか 蝉の声も聞こえない
ここに ゼロ戦が あった…
戦争があった…
特攻隊員が 飛び立って行った…
史実
奥は 機体形状に 合わせて 狭くなっている
穴は 湿気を抜く 通気口か
地面には 機影が…
1995年の 公園整備化 の時のものだろう
30年経って 遣れ具合が ちょうどよくなっている
天井は スラブの痕が
入口上部
川砂利や 川砂を混ぜたコンクリート
バラス 砕石を 使うようになったのは
昭和も40年代になってからだろうか
表面には 劣化防止の コーティング剤が塗布されている
厚さは こんなものか…
壕上部は もっと 厚いと思うが
厚さが しっかりわかるように 撮るべきだった
奥の部分は スラブ打ちの痕がなく
岩盤の手掘りみたいになってる
どういう工法なんだろう
前部の天井が高い部分だけスラブを組んで
後部は 土盛で 捨て打ちし
固まってから 掘った?
これで どれくらいの 防御力があったのでしょうね
飛行場ですから 焼夷弾じゃなく 通常爆弾
2000ポンド = 1トン
1000ポンド = 500㎏
500ポンド = 250㎏
だったと 思います
母の証言では
B29 昼間爆撃で
頭の上で 1トン爆弾が 落とされるのを見た
もうだめかと 思ったが 爆弾は ずーっと流れて行き
予科練に落ちた
そんな 低空で 爆撃してたということか
市街地の無差別攻撃は 夜間 焼夷弾
目標を確認しての 正確な 昼間爆撃
いやらしい奴らだ!
だとすると
宇佐海軍航空隊 飛行場も 1トン爆弾 だったかも
ただし それは 飛行場に 穴を開けて 使用不能に
それが ミッションならば
掩体壕に 直撃は無さそう
爆風でがれきが飛んできても 防げるだろう
だから 掩体壕は 滑走路に背を向けていた?
思うのですが、負ける戦はしてはならないのです。
これは戦国でも近代でも同じ。
どんな落ち方だったのでしょう…
エンジン止まって右に横転しながら?
不時着ではないですね