クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(45) ―上杉謙信の失敗―

2008年09月10日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正2年(1574)4月、羽生城を目前にしながら、
上杉謙信の前に立ちはだかったのは“利根川”だった。
利根川は板東太郎の異名を持つ大河である。
おりしも雪解け水で増水し、
浅瀬もすでに深い川底になっていた。

謙信が着陣したのは「大輪」(群馬県明和)である。
現在の昭和橋から少し上ったところだろう。
当時の利根川は羽生で2つに分かれていた。
会の川(南利根)と浅間川(東利根)の2派であり、
一般的に文禄3年(1594)の締切工事が行われるまで、
“会の川”が本流だったと言われる。

謙信が「大輪」に到着したとき、
2派とも増水していたのだろう。
実はこの頃、会の川はすでに本流ではなかったのかもしれない。
謙信の行く手を阻むほど、浅間川(東利根)は大量に水を湛えていた。

水は滔々と流れ、減水する気配はない。
そこで謙信は、兵糧弾薬を羽生城に送り込もうとする。
ただ、対岸で謙信を動きを警戒する後北条氏に、
兵糧弾薬を奪われる危険があった。
このとき羽生の地形に詳しい“佐藤筑前守”は、
妨害される心配はないと謙信に言う(「志賀愼太郎氏所蔵文書」)。

佐藤筑前守は、舟30艘を1列に並べて兵糧弾薬を送り込もうとした。
これをみすみす見逃す北条勢ではない。
謙信の動きを監視していた北条は、
途端に妨害に打って出る。
謙信が懸念していたように、
北条勢は兵糧弾薬の全てを奪ってしまうのである。

羽生城の命運はこれで尽きたと言っても過言ではないかもしれない。
謙信は「佐藤ばかものニ候」と叱咤し、
「一世中之不足おかき候事無念ニ候」と苦しいその胸の内を、
羽生城将らに書き送るのであった。
(続く)

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