クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

ふるさとの“神社”を巡りませんか?(7)

2008年01月07日 | 神社とお寺の部屋
続いて41~45番の神社は以下のとおりです。

 41、八幡神社(須影)本殿の見事な彫刻は市の文化財
 42、八幡神社(中手子林)アマンジャク石の信仰は今も残る
 43、八幡神社(日野手新田)合祀されても祀られるあい八幡神社
 44、八幡神社(三田ヶ谷)領主の仁政をたたえる石祠「土岐社」
 45、八幡神社(名)ヨカヨカ飴屋や祭文語りでにぎわった祭り

全て八幡神社です。
この中で羽生城と関係しているのは、
中手子林と名の八幡神社。
両者ともに支城と推定されています。
確かなことは定かではありませんが、
地元ではこの周辺を「古城」(こじろ)と呼んでいるそうです。
近くを流れる葛西用水路に架かる橋はその名も「陣屋橋」。

後者の名(みょう)の八幡神社も、支城と推定される場所です。
近くに所在する“不動院”を含める一帯が城跡だったのかもしれません。
その支城の名は“堀之内城”。
伝説によると、城が自落し羽生を離れるとき、
堀之内城主の子は盲目であるため一緒についていくことができませんでした。

以後、その者は遠く離れた肉親に想いを馳せながら、
笛を吹いたそうです。
その笛の音色はどう響いたことでしょう。
笛はのちに八幡神社に奉納されたと伝えられます。
しかし、近年の社寺調査で確認することはできませんでした。
行方不明か個人宅で所蔵しているのかもしれません。
市内に数ある支城の中でも、
堀之内城は比較的趣深い伝説を残しています。

須影八幡神社は、本殿に美しい彫刻が施されています。
市の文化財に指定されているこの彫刻は、
“石原恒蔵主利”(上州花輪)と“入江文治郎茂弘”(下岩瀬)によるものです。
社殿は安政5年(1858)に羽生の宮大工“三村家”によって再建されました。

また、かつて荘厳に立っていたのは“源頼朝旗掛けの松”と呼ばれる松。
これは頼朝が奥州征伐の際に戦勝祈願をし旗を掛けたことから
そう呼ばれていました。
しかし、昭和の終わりに病気のためやむなく伐採。
現在は2代目が立っています。

以来、須影地区ではその松の大きさを上回るようなものは存在していませんでした。
特に目立ったものはなく、
2代目の松もさほどの大きさではありません。
ところが、2007年秋に大型ショッピングモールのイオンモール羽生がオープン。
巨大かつ広大な建物が突如現れました。
連日多くの人出で賑わい、
静かだった須影地区はにわかに活気を帯びてきています。
須影の八幡様は、その時代の変化をどのように見ているのでしょう。
もの言わずただ粛然とそこに鎮座しています。

※最初の画像は須影の八幡神社です。


中手子林の八幡神社


同上


名の八幡神社


堀之内城遠景


あい八幡神社。詳細は下記URL
http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/a238e1478a347290f403e9ac1610f9fa


三田ヶ谷の八幡神社。詳細は下記URL
http://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/e/a5c36e5c821662fbff8c4074e004f84c

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