永禄6年(1563)に松山城を攻略した北条・武田連合軍は、
その年の冬にも動きを活発化させます。
同年閏12月には、上野国の金山城を攻撃する動きを見せるのです。
松山城攻城戦の際は、救援に駆け付けたにもかかわらず、
相手方の手に渡してしまった上杉謙信です。
今回はみすみす金山城を渡すわけにはいきません。
そこでどうしたか?
北条・武田連合軍を壊滅すべく、
岩付城の太田氏と忍城の成田氏、
さらに小泉城の富岡氏を羽生城に参集させたのです。
(前略)従当口及後詰今般凶徒可根切、然者太田美濃守・成田左衛門二郎所へ、
早速埴生之地へ可相移由申遣候、彼両衆引付其稼専一候、有油断者不可有曲候(後略)
(「富岡家文書」)
閏12月5日付の日付で、謙信はこのように富岡重朝に書状を送りました。
書状に見える「埴生」は羽生のことです。
急遽、羽生は北条・武田連合軍との合戦を控えた陣所となったわけです。
各軍勢が参集する羽生領は、
物々しい雰囲気に包まれたことでしょう。
このとき羽生城主だった広田直繁は血をたぎらせ、
北条・武田連合軍との合戦をいまかいまかと待っていたでしょうか。
とは言っても、大名の連合軍と、国衆連合軍では歯が立ちません。
上杉謙信の到来があり、そこに加勢しての合戦を想定していたはずです。
このとき謙信は越山していましたから、
関東は緊迫した空気に包まれていたと思われます。
北条・武田連合軍は金山城を攻撃。
しかし、執拗な攻撃ではなく、陣を解くと足利や佐貫方面に移っていきます。
羽生に参集した国衆たちが、
このときどのような働きをしたのかは定かではありません。
後方部隊として待機し、連合軍に圧力をかけ続けていたのでしょうか。
ただ、気になるのはなぜ羽生だったかということです。
金山城へ駆け付けるのに、羽生よりも忍の方が最短です。
もっと言えば、上野国の富岡氏の本拠地でもいいわけです。
でも、謙信は羽生を選んだ。
上野国における北条・武田連合軍の動きに対し、
後詰の陣地として羽生が軍事的に適切だったということでしょうか。
一方で、羽生が何かしらの危機に見舞われていたと捉える向きもあります。
参集したのは羽生城を救援するため……。
にしては、太田氏・成田氏・富岡氏の三将を向かわせています。
余程の危機的状況だったということでしょうか。
この項では、金山城攻防戦に向けた援護部隊の参集だったと捉えたいと思います。
ちなみに、羽生に参集を命ぜられた岩付城の太田資正は、
連合軍の金山城の陣がとかれると、すぐに羽生から動いたと見られます。
そして年が明け、国府台にて里見義弘らと共に北条勢と激突(第二次国府台合戦)。
初戦は勝利しましたが、隙を突かれて敗北を喫します。
多くの者が討たれる中、資正も深手を負い、逃げ落ちたと言います(「江馬文書」)。
そもそも第二次国府台合戦の発端は、
北条・武田連合軍の松山攻城戦でした。
そして、国府台合戦の里見・太田勢らの敗北は、
資正の岩付城追放へとつながっていきます。
それぞれが連動し、歴史の流れを作っていることがわかります。
国衆たちが羽生に参集したことも、
その後の歴史を作る何かのきっかけとなったでしょうか。
利根川沿いに位置する羽生城は、
軍事的な理由での参集だったならば、その実績ができたことになります。
このことは、上杉氏や後北条氏の心に微妙な影響を与えたでしょうか。
のちに、上杉謙信が前線基地として情報を集めさせ、
後北条氏は氏繁が羽生領攻略に乗り出していくのも、
永禄6年の参集によって羽生城の意義が見い出されたから、
と言っても、全くの的外れではないかもしれません。
その年の冬にも動きを活発化させます。
同年閏12月には、上野国の金山城を攻撃する動きを見せるのです。
松山城攻城戦の際は、救援に駆け付けたにもかかわらず、
相手方の手に渡してしまった上杉謙信です。
今回はみすみす金山城を渡すわけにはいきません。
そこでどうしたか?
北条・武田連合軍を壊滅すべく、
岩付城の太田氏と忍城の成田氏、
さらに小泉城の富岡氏を羽生城に参集させたのです。
(前略)従当口及後詰今般凶徒可根切、然者太田美濃守・成田左衛門二郎所へ、
早速埴生之地へ可相移由申遣候、彼両衆引付其稼専一候、有油断者不可有曲候(後略)
(「富岡家文書」)
閏12月5日付の日付で、謙信はこのように富岡重朝に書状を送りました。
書状に見える「埴生」は羽生のことです。
急遽、羽生は北条・武田連合軍との合戦を控えた陣所となったわけです。
各軍勢が参集する羽生領は、
物々しい雰囲気に包まれたことでしょう。
このとき羽生城主だった広田直繁は血をたぎらせ、
北条・武田連合軍との合戦をいまかいまかと待っていたでしょうか。
とは言っても、大名の連合軍と、国衆連合軍では歯が立ちません。
上杉謙信の到来があり、そこに加勢しての合戦を想定していたはずです。
このとき謙信は越山していましたから、
関東は緊迫した空気に包まれていたと思われます。
北条・武田連合軍は金山城を攻撃。
しかし、執拗な攻撃ではなく、陣を解くと足利や佐貫方面に移っていきます。
羽生に参集した国衆たちが、
このときどのような働きをしたのかは定かではありません。
後方部隊として待機し、連合軍に圧力をかけ続けていたのでしょうか。
ただ、気になるのはなぜ羽生だったかということです。
金山城へ駆け付けるのに、羽生よりも忍の方が最短です。
もっと言えば、上野国の富岡氏の本拠地でもいいわけです。
でも、謙信は羽生を選んだ。
上野国における北条・武田連合軍の動きに対し、
後詰の陣地として羽生が軍事的に適切だったということでしょうか。
一方で、羽生が何かしらの危機に見舞われていたと捉える向きもあります。
参集したのは羽生城を救援するため……。
にしては、太田氏・成田氏・富岡氏の三将を向かわせています。
余程の危機的状況だったということでしょうか。
この項では、金山城攻防戦に向けた援護部隊の参集だったと捉えたいと思います。
ちなみに、羽生に参集を命ぜられた岩付城の太田資正は、
連合軍の金山城の陣がとかれると、すぐに羽生から動いたと見られます。
そして年が明け、国府台にて里見義弘らと共に北条勢と激突(第二次国府台合戦)。
初戦は勝利しましたが、隙を突かれて敗北を喫します。
多くの者が討たれる中、資正も深手を負い、逃げ落ちたと言います(「江馬文書」)。
そもそも第二次国府台合戦の発端は、
北条・武田連合軍の松山攻城戦でした。
そして、国府台合戦の里見・太田勢らの敗北は、
資正の岩付城追放へとつながっていきます。
それぞれが連動し、歴史の流れを作っていることがわかります。
国衆たちが羽生に参集したことも、
その後の歴史を作る何かのきっかけとなったでしょうか。
利根川沿いに位置する羽生城は、
軍事的な理由での参集だったならば、その実績ができたことになります。
このことは、上杉氏や後北条氏の心に微妙な影響を与えたでしょうか。
のちに、上杉謙信が前線基地として情報を集めさせ、
後北条氏は氏繁が羽生領攻略に乗り出していくのも、
永禄6年の参集によって羽生城の意義が見い出されたから、
と言っても、全くの的外れではないかもしれません。
そこで、戦国期の広田直繁や江戸期の天領時代の羽生城城代はどこで飲んでいたのか、飲んでいた店があったのなら、今のどの辺になるのか?と思い馳せています。
某TV番組のように「Bar うつけ」ではないと思います。
きっとこれからも個性的な店ができるんだろうな……
広田直繁は酒飲みで、
木戸忠朝は下戸。
そんなイメージがあります。
羽生城時代の飲酒はどのようなものだったのでしょうね。
羽生ではありませんが、戦場で主君から与えられた米を使って、酒にしてしまう雑兵もいたのだとか。
某TV番組のように信長ママがいたら、行きつけの店になりそうです(笑)