文章を書いていて心がけていることと言えば、
ぼくの場合おおよそ3つのことが挙げられます。
(1)わかりやすい文章を書く
(2)文章の行き着く先をおおよそ把握する(見切り発車しない)
(3)自分の書きたいものを書く(小手先で書かない)
(2)については、見切り発車してもよい場合もあります。
ただ、途中で迷子になることが多く、
未完成に終わったものはだいたい見切り発車です。
上記以外に、「避けているもの」が2つあります。
それは、執筆中に好きな作家の本を読まないこと、です。
文体やリズムなど、かなり影響を受けてしまいます。
もう1つは、書店に行ったとき、関連するコーナーに足を運ばないこと。
こちらも、題材やテーマ、切り口や魅せ方など、
少なからずの影響を受けてしまいます。
「~をどう書かなければいけない」と思った瞬間、それは呪縛ですね。
発想の広がりがなくなります。
逆に、すすんでやっていることもあります。
それは“朗読”を聴くこと。
世の中には朗読CDという素晴らしいものが存在していて、
とても愛用しています。
浪曲、落語、講演、詩歌、古典文学とジャンルはさまざまで、
ぼくが愛聴しているのは文芸作品です。
拙著を書いているときもずっと聴いていました。
読むと聴くのでは、刺激を受ける脳の部分が違うのでしょうか。
不思議と文章に影響を受けません。
むしろ、聴いているときの方が、いざ自分が文章を書く段になると、
すんなりとペンが運ぶことが多いのです。
文章としてのリズムが、余韻として体内に残っているのでしょう。
そのリズムの延長として、スムーズに文章が書ける気がします。
「いや、むしろ影響を受けるよ」、と言う方もいるかもしれません。
でも、文章に慣れるという意味では、
朗読CDはお勧めしたい一品です。
特に、文芸作品に少しでも関心のある若い方には、
感受性が豊かなときに一度は触れていただきたいものです。
さて、朗読CDをどのタイミングで聴いているかというと、
車の移動時間です。
これまで色々な場所で試してきました。
電車の中、病院の待合室、ウォーキング、買い物、
料理、洗濯物干し、就寝前などなど……。
機会は無数にあります。
が、車の移動中が一番適しているというのがぼくの結論です。
運転に差し支えはありません。
聴き入って集中できなくなったことは一度もなく、
車の運転がさらに好きになったくらいです。
では、どんな文芸作品が朗読CDになっているのか。
いわゆる純文学と言われるものが多い傾向にあります。
「純文学は退屈」と思われている方も多いかもしれません。
ぼくも、読んでいて眠くなったことは一度や二度ではなく、
挫折に終わった作品もどれほど多いことか……。
ところが、朗読で聴いてみるとびっくりします。
時間が経つのを忘れるくらい面白いのです。
面白すぎて、遠回りして車の移動時間を伸ばしたくなるほどです。
ラインナップは、例えば「和解」(志賀直哉)、「夫婦善哉」(織田作之助)、
「蟹工船」(小林多喜二)、「ひかりごけ」(武田泰淳)、「恩讐の彼方に」(菊池寛)、
「人斬り以蔵」(司馬遼太郎)、「富嶽百景」(太宰治)、「山月記」(中島敦)、
「魔術」(芥川龍之介)、「真夏の死」(三島由紀夫)などなど、
短編~中編の作品が朗読化されています。
読書で駄目だった作品が、朗読ならばすんなりと頭に入ってくるのです。
眠くもなりません。
こんなに面白い作品だったのかと、目からウロコが落ちる思いです。
朗読者のテクニックも素晴らしいのでしょう。
さすがは名作と言われるだけのことはあります。
その魅力は、時を経ても色褪せる気配を見せません。
朗読を聴いて、改めて魅力を再発見することも多いと思います。
今後も、たくさんの作品が朗読化されることを希望します。
(朗読サービスを提供しているwebも有り)
ところで、ぼくは落語が大好きで、
落語CDも愛聴しています。
朗読CDに手を出す前は、落語ばかり聴いていました。
ところが、落語は落語の独特のリズムがあります。
小説とは違います。
落語は話芸、小説は文芸。
通じるものはありますが、
明確に一線を画すものがあると思います。
そのせいか、落語CDを聴いてもあまりペンが進みません。
大好きで、同じネタを何度も聴いてしまうのに、
ぼくの場合は文章に積極的に働かないようです。
執筆直前に落語を聴くことは避けていました。
片一方の想い。
ややストレスです。
そのため、過日落語家の柳家花緑さんが羽生で独演会を開催したときは、
生落語をたっぷりと満喫しました。
拙著
ぼくの場合おおよそ3つのことが挙げられます。
(1)わかりやすい文章を書く
(2)文章の行き着く先をおおよそ把握する(見切り発車しない)
(3)自分の書きたいものを書く(小手先で書かない)
(2)については、見切り発車してもよい場合もあります。
ただ、途中で迷子になることが多く、
未完成に終わったものはだいたい見切り発車です。
上記以外に、「避けているもの」が2つあります。
それは、執筆中に好きな作家の本を読まないこと、です。
文体やリズムなど、かなり影響を受けてしまいます。
もう1つは、書店に行ったとき、関連するコーナーに足を運ばないこと。
こちらも、題材やテーマ、切り口や魅せ方など、
少なからずの影響を受けてしまいます。
「~をどう書かなければいけない」と思った瞬間、それは呪縛ですね。
発想の広がりがなくなります。
逆に、すすんでやっていることもあります。
それは“朗読”を聴くこと。
世の中には朗読CDという素晴らしいものが存在していて、
とても愛用しています。
浪曲、落語、講演、詩歌、古典文学とジャンルはさまざまで、
ぼくが愛聴しているのは文芸作品です。
拙著を書いているときもずっと聴いていました。
読むと聴くのでは、刺激を受ける脳の部分が違うのでしょうか。
不思議と文章に影響を受けません。
むしろ、聴いているときの方が、いざ自分が文章を書く段になると、
すんなりとペンが運ぶことが多いのです。
文章としてのリズムが、余韻として体内に残っているのでしょう。
そのリズムの延長として、スムーズに文章が書ける気がします。
「いや、むしろ影響を受けるよ」、と言う方もいるかもしれません。
でも、文章に慣れるという意味では、
朗読CDはお勧めしたい一品です。
特に、文芸作品に少しでも関心のある若い方には、
感受性が豊かなときに一度は触れていただきたいものです。
さて、朗読CDをどのタイミングで聴いているかというと、
車の移動時間です。
これまで色々な場所で試してきました。
電車の中、病院の待合室、ウォーキング、買い物、
料理、洗濯物干し、就寝前などなど……。
機会は無数にあります。
が、車の移動中が一番適しているというのがぼくの結論です。
運転に差し支えはありません。
聴き入って集中できなくなったことは一度もなく、
車の運転がさらに好きになったくらいです。
では、どんな文芸作品が朗読CDになっているのか。
いわゆる純文学と言われるものが多い傾向にあります。
「純文学は退屈」と思われている方も多いかもしれません。
ぼくも、読んでいて眠くなったことは一度や二度ではなく、
挫折に終わった作品もどれほど多いことか……。
ところが、朗読で聴いてみるとびっくりします。
時間が経つのを忘れるくらい面白いのです。
面白すぎて、遠回りして車の移動時間を伸ばしたくなるほどです。
ラインナップは、例えば「和解」(志賀直哉)、「夫婦善哉」(織田作之助)、
「蟹工船」(小林多喜二)、「ひかりごけ」(武田泰淳)、「恩讐の彼方に」(菊池寛)、
「人斬り以蔵」(司馬遼太郎)、「富嶽百景」(太宰治)、「山月記」(中島敦)、
「魔術」(芥川龍之介)、「真夏の死」(三島由紀夫)などなど、
短編~中編の作品が朗読化されています。
読書で駄目だった作品が、朗読ならばすんなりと頭に入ってくるのです。
眠くもなりません。
こんなに面白い作品だったのかと、目からウロコが落ちる思いです。
朗読者のテクニックも素晴らしいのでしょう。
さすがは名作と言われるだけのことはあります。
その魅力は、時を経ても色褪せる気配を見せません。
朗読を聴いて、改めて魅力を再発見することも多いと思います。
今後も、たくさんの作品が朗読化されることを希望します。
(朗読サービスを提供しているwebも有り)
ところで、ぼくは落語が大好きで、
落語CDも愛聴しています。
朗読CDに手を出す前は、落語ばかり聴いていました。
ところが、落語は落語の独特のリズムがあります。
小説とは違います。
落語は話芸、小説は文芸。
通じるものはありますが、
明確に一線を画すものがあると思います。
そのせいか、落語CDを聴いてもあまりペンが進みません。
大好きで、同じネタを何度も聴いてしまうのに、
ぼくの場合は文章に積極的に働かないようです。
執筆直前に落語を聴くことは避けていました。
片一方の想い。
ややストレスです。
そのため、過日落語家の柳家花緑さんが羽生で独演会を開催したときは、
生落語をたっぷりと満喫しました。
拙著
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます