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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“北条氏忠”に仕えた嶋田氏はその後…… ―羽生城と嶋田氏(28)―

2007年03月08日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正2年(1574)閏11月の羽生城自落後、
佐野へ移った嶋田氏。
ただし、嶋田一族全員が移ったのではなく、
日向城に残って忍城主成田氏の支配を受けた一派もあったと、
前回述べました。
佐野へ移った嶋田縫殿助は宗綱の客将として迎え入れられ、
植野村からのちに田島村を与えられました。

天正6年、上杉謙信が死去します。
同10年には天下統一を目前にした織田信長が、明智光秀の謀反にあい自刃。
このとき関東では、滝川一益と後北条氏が干戈を交えました。
信長亡きあと、羽柴秀吉がその意志を継ぎ、
天下統一に向けて躍進します。
同12年には、秀吉と徳川家康が衝突。
いわゆる“小牧・長久手の戦い”が勃発しました。
このとき、かねてから外交面で活躍していた佐野昌綱の弟「天徳寺宝衍」の縁もあってか、
秀吉は長久手の戦いについて、佐野宗綱に書状を送っています。
その宗綱は翌13年に戦死。
これを耳にした後北条氏はただちに佐野へ侵攻し、
宗綱のあとを北条氏忠に継がせることに成功しました。
以後、天正18年まで氏忠が佐野領を支配することになります。

天正15年11月朔日、この氏忠から嶋田氏へ朱印状が発行されました。
嶋田内匠助の子「内膳」に、
小見郷・戸奈良郷「三貫三百五十文」を知行地として与えたという内容です。

  書出
 弐貫文     小見郷
 壱貫三百五十文 戸奈良
  巳上三貫三百五十文
 右、御料家之田地、為知行被下候、分配之
 処者如本郷可至所務、於走廻者弥可令
 加恩者也、仍如件

 天正十五年丁亥十一月朔日
 嶋田内膳殿
 (「嶋田家文書」)

縫殿助――内匠助――内膳といままで見てきた嶋田氏は、
北武蔵から佐野へ舞台を変え、武士として活躍していたのでしょう。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が勃発します。
佐野城主佐野(北条)氏忠は豊臣軍と敵対しましたが、
同年4月28日に落城しました。
このとき、嶋田氏がどのような動きをしたのかはわかりません。
おそらく城に籠もって戦ったと思われます。
しかし、佐野城が敢えなく開城すると、嶋田氏は帰農したと伝えられています。

 及氏忠自殺、禄不及内膳、内膳於之乎去武、而帰農
 (「祀日向八幡宮千田宗記」より)

天正18年、豊臣秀吉は天下統一を果たしました。
後北条氏が滅びると共に、嶋田氏も平穏のときを迎えたと言えます。
そのまま佐野に土着し、子孫は繁栄。
明和5年(1768)には嶋田嘉兵右衛徳遠が、
自家の由緒書である「祀日向八幡宮千田宗記」を記しました。
日向城(埼玉県妻沼町(現熊谷市)日向)の嶋田氏とは、
いつしか交流が途絶えてしまいましたが、
敷地内には日向村の八幡社(長井神社)から分祀したとされる八幡小祠が、
大切に祀られているそうです。
(「羽生城と嶋田氏(29)」に続く)

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4 コメント

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「羽生城と嶋田氏」 (あさり)
2010-09-09 14:42:00
はじめまして。
旧姓をいろいろ調べていたら、クニさんのこの題にたどり着きましたが、もう3年以上前に書かれていたものなんですね。私のコメントがお手元に届くか分かりませんが、コメントさせていただきました。
 というのも、私、この写真の場所で、幼少期に遊んでおります。昔は舗装もされておらず、森からつたうつるでターザンごっこなどをしており、母に見つかり、つたを切られました。
 私も子どもながらに(今もですが)、昔は道を挟んだ北側もだったのですが、なぜ下がっているのだろうと不思議でした。
 そして、私、実は今は結婚し、家を買ったがゆえに羽生市に住んでおりますが、この長い神社で幼少期を遊んでおります。神社の者ではありませんが、実家は縁のある家で、多分末裔の一枝になるでしょう。クニさんを信じれば、時代が時代なら、私は日向城の姫の一人だったかもしれませんね。
 今は道も舗装されて広くなり、鬱蒼とした木々も、あれでもかなりさっぱりしたんですよ。この数十年でさえそうですから、クニさんが研究されている時代は、もっとすごかったんでしょうね。
 私の実家が、大昔はお城の一部だったかもと思うと、元祖歴女(興味あることだけですが)としてはうれしいです。
 今、羽生市に住んでいるのも、何かの因果なのかと、勝手に思ってしまいました。
返信する
あさりさんへ (クニ)
2010-09-10 05:47:07
はじめまして。
コメントありがとうございます。
3年前の記事ということで、なんだか気恥ずかしいです。
写真もまだ携帯電話で撮っていた頃で、
デジカメで撮影したものと差し替えたいくらいですが、
この時期の空気感みたいなものが漂っていて、
このままでもいいかなと思います。

幼少の頃に日向城周辺で遊んでおられたのですね。
昔はもっと木々が鬱蒼としていましたか。
戦国時代はどんな景観だったのでしょうね。
お城と言っても、豪農の屋敷を武装化したものでしょうから、
田舎の集落という感じだったと思います。

羽生城研究にとって「嶋田家文書」は大きな発見でした。
亡き師は飛んで驚き、喜んだと思います。
忍城で「成田氏展」が開催されたときに師と一緒に見たのですが、
「こういう発見がまたあるといいなぁ」と言っていました。
とても貴重な資料で、文書をいまに残してくれた嶋田家には感謝です。

ちなみに、約20年前に師の出した『羽生城』がリニューアルされて、
戎光祥(えびすこうしょう)出版から再発行される予定です。
その中に、嶋田家文書に関する論文も収録される予定です。

現在羽生に在住していらっしゃるとのこと。
時代を越えて日向城との深い縁があるかもしれませんね。
確か荻野吟子さんも、親族が羽生と関係があったはずです。
土地に対する縁というのはあるものですね。
ターザンごっこのごとく、
歴女としてぜひ子から子へと歴史を語り継いでいただきたいと思います。
返信する
「羽生城と嶋田氏」2 (あさり)
2010-09-10 11:45:26
目に留めていただき、ありがとうございます。
難しいことは分からないので、
歴女と言うとおこがましいのですが、
子どもたちに語り継がせていただきます。

クニさんがお会いした老婆は、
もしかしたら母かも・・・などと、
子どもと笑ってしまいました。
今度実家に行ったときに確認してみます。

父の話では、あの辺も、よく福川が氾濫したそうです。
その関係でしょうか、あちこちに小さな池がありました。
私が家を出たここ十数年の間に、ほとんど埋め立てれたようです。
長井神社も、道沿いが池だったんですよ。
豪農屋敷の日向城は、忍城のように水攻めに絶えられるような高さにあったのでしょうか。
実家では、物置の柱をうまく使って、
上の位置に昔の農具(ほこりかぶっていますが)があります。
それが当たり前として育ったのですが、
今思うと、水から守るためなのかなと、
素人考えしてしまいました。
ずいぶんさっぱりしたものの、
まだ鬱蒼とした木々たちは、
その家の防風雨林にもなっています。
落ち葉拾いは大変ですが。
樹齢何年かは分かりませんが、
あの時代にはまだ若芽程度で、鬱蒼とはしていなかったかもしれないですね(笑)。

地元民なのに、その歴史は知らずに過ごしていて、目からうろこでした。
再発行される『羽生城』、ぜひ読ませていただきます。

荻野吟子さんは、地元が誇る偉人です。
三田さんが舞台をやったころ、
実家の茶の間に伝記が1冊ありました。
羽生と関係するとは知らず、
またまた目からうろこです。ありがとうございました。
返信する
あさりさんへ (クニ)
2010-09-11 06:44:48
ありがとうございます
この記事の写真も、川の流路跡の気がします。
福川はいまでこそ直線的に流れていますが、
往古は蛇行してかなり氾濫していたみたいですね。
その名残である池が埋め立てられていくのは、
時代の流れとはいえ少し寂しいですね。

妻沼も「水塚」が多くあったのではないでしょうか。
塚の上に蔵を建て、生活に必要な道具や食糧を入れた緊急避難場所です。
川沿いに住む人たちは、水と密接に関わっていますね。

屋敷林は好きです。
どの地域でも屋敷林を背負わなくなりましたが、
いまでも残っている家を見ると、つい目を奪われてしまいます。

地元であるがゆえに見えないものはありますよね。
学校で詳しく教えてもらうわけでもないし、
ぼく自身、「川俣締切跡碑」を見るまでは、
郷土史のことは全然知りませんでした。
そういう意味で、この拙ブログが身近な歴史に触れるきっかけになると嬉しく思います。
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