
天正18年(1590)、豊臣秀吉勢は小田原北条氏を滅ぼすために、
その本拠である小田原城(神奈川県小田原市)に攻め寄せた。
全軍が小田原城に集結したわけではなく、
関東の主だった北条方の城を陥落すべく、豊臣方の各軍勢は諸城に向かった。
上野国の箕輪城(群馬県高崎市)も豊臣勢の攻撃を受けた一つである。
かつて武田信玄が陥落させ、
織田信長の重臣滝川一益は、厩橋城に入る前に同城を拠点とした城だった。
上野国の戦国史を見る上で、避けて通れない城の一つと言える。
しかし、天正18年の豊臣勢との攻防は呆気なく幕を閉じる。
信玄の支配下となって以降、武田家家臣の内藤氏が入城し、
北条氏邦の改修工事を受けた箕輪城だったが、豊臣勢と干戈を交えることなく降伏したらしい。
同城の陥落は4月24日で、その知らせを秀吉が受けたのは同月29日だった。
小田原城はまだ落ちていない。
が、近隣の諸城は秀吉に詫びを入れており、北条氏にとって戦況は悪化の一途を辿っていた。
4月29日付で、秀吉は箕輪城攻めにいた真田昌幸に対して書状を送っている(「真田家文書」)。
箕輪城内にある弾薬や武具、兵糧などは厳重に受け取ること。
戦乱で逃散した農民たちを村に帰させること。
また、東国の習いで女や子どもを人身売買の対象としないこと。
もし後日でも人身売買が発覚した場合は成敗する、などと、
その内容は箕輪城の措置に係る指示だった。
かくして、箕輪城の戦国時代は終わる。
徳川家康の関東入府後、井伊直政が箕輪城主となるが、間もなく高崎に移り、廃城となった。
箕輪城址は郭馬出と大堀切が目を引く。
発掘調査の成果に基づき、郭馬出に櫓門が復元された。
2014年6月より2年の歳月をかけて復元工事が実施されたという。
最後に同城を訪れたのはそれ以前だったから、櫓門に初入城のような感覚を受ける。
なお、根拠となった門の礎石は井伊氏時代の16世紀末のものという。
城址は整備され、土塁や堀、石垣など遺構も良好に残っている。
城址から群馬県庁舎や赤城山が見えた。
前者は厩橋城址でもある。
武田信玄や真田昌幸も、この地から赤城山や厩橋城を望んだのだろうか。
当時を生きた人々はいないが、城址は残り、遠い戦国期の歴史が刻まれている。


その本拠である小田原城(神奈川県小田原市)に攻め寄せた。
全軍が小田原城に集結したわけではなく、
関東の主だった北条方の城を陥落すべく、豊臣方の各軍勢は諸城に向かった。
上野国の箕輪城(群馬県高崎市)も豊臣勢の攻撃を受けた一つである。
かつて武田信玄が陥落させ、
織田信長の重臣滝川一益は、厩橋城に入る前に同城を拠点とした城だった。
上野国の戦国史を見る上で、避けて通れない城の一つと言える。
しかし、天正18年の豊臣勢との攻防は呆気なく幕を閉じる。
信玄の支配下となって以降、武田家家臣の内藤氏が入城し、
北条氏邦の改修工事を受けた箕輪城だったが、豊臣勢と干戈を交えることなく降伏したらしい。
同城の陥落は4月24日で、その知らせを秀吉が受けたのは同月29日だった。
小田原城はまだ落ちていない。
が、近隣の諸城は秀吉に詫びを入れており、北条氏にとって戦況は悪化の一途を辿っていた。
4月29日付で、秀吉は箕輪城攻めにいた真田昌幸に対して書状を送っている(「真田家文書」)。
箕輪城内にある弾薬や武具、兵糧などは厳重に受け取ること。
戦乱で逃散した農民たちを村に帰させること。
また、東国の習いで女や子どもを人身売買の対象としないこと。
もし後日でも人身売買が発覚した場合は成敗する、などと、
その内容は箕輪城の措置に係る指示だった。
かくして、箕輪城の戦国時代は終わる。
徳川家康の関東入府後、井伊直政が箕輪城主となるが、間もなく高崎に移り、廃城となった。
箕輪城址は郭馬出と大堀切が目を引く。
発掘調査の成果に基づき、郭馬出に櫓門が復元された。
2014年6月より2年の歳月をかけて復元工事が実施されたという。
最後に同城を訪れたのはそれ以前だったから、櫓門に初入城のような感覚を受ける。
なお、根拠となった門の礎石は井伊氏時代の16世紀末のものという。
城址は整備され、土塁や堀、石垣など遺構も良好に残っている。
城址から群馬県庁舎や赤城山が見えた。
前者は厩橋城址でもある。
武田信玄や真田昌幸も、この地から赤城山や厩橋城を望んだのだろうか。
当時を生きた人々はいないが、城址は残り、遠い戦国期の歴史が刻まれている。


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