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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

4月29日、豊臣秀吉から箕輪城へ届いた手紙は?

2025年05月03日 | 城・館の部屋
天正18年(1590)、豊臣秀吉勢は小田原北条氏を滅ぼすために、
その本拠である小田原城(神奈川県小田原市)に攻め寄せた。
全軍が小田原城に集結したわけではなく、
関東の主だった北条方の城を陥落すべく、豊臣方の各軍勢は諸城に向かった。

上野国の箕輪城(群馬県高崎市)も豊臣勢の攻撃を受けた一つである。
かつて武田信玄が陥落させ、
織田信長の重臣滝川一益は、厩橋城に入る前に同城を拠点とした城だった。
上野国の戦国史を見る上で、避けて通れない城の一つと言える。

しかし、天正18年の豊臣勢との攻防は呆気なく幕を閉じる。
信玄の支配下となって以降、武田家家臣の内藤氏が入城し、
北条氏邦の改修工事を受けた箕輪城だったが、豊臣勢と干戈を交えることなく降伏したらしい。

同城の陥落は4月24日で、その知らせを秀吉が受けたのは同月29日だった。
小田原城はまだ落ちていない。
が、近隣の諸城は秀吉に詫びを入れており、北条氏にとって戦況は悪化の一途を辿っていた。

4月29日付で、秀吉は箕輪城攻めにいた真田昌幸に対して書状を送っている(「真田家文書」)。
箕輪城内にある弾薬や武具、兵糧などは厳重に受け取ること。
戦乱で逃散した農民たちを村に帰させること。
また、東国の習いで女や子どもを人身売買の対象としないこと。
もし後日でも人身売買が発覚した場合は成敗する、などと、
その内容は箕輪城の措置に係る指示だった。

かくして、箕輪城の戦国時代は終わる。
徳川家康の関東入府後、井伊直政が箕輪城主となるが、間もなく高崎に移り、廃城となった。

箕輪城址は郭馬出と大堀切が目を引く。
発掘調査の成果に基づき、郭馬出に櫓門が復元された。
2014年6月より2年の歳月をかけて復元工事が実施されたという。

最後に同城を訪れたのはそれ以前だったから、櫓門に初入城のような感覚を受ける。
なお、根拠となった門の礎石は井伊氏時代の16世紀末のものという。
城址は整備され、土塁や堀、石垣など遺構も良好に残っている。

城址から群馬県庁舎や赤城山が見えた。
前者は厩橋城址でもある。
武田信玄や真田昌幸も、この地から赤城山や厩橋城を望んだのだろうか。
当時を生きた人々はいないが、城址は残り、遠い戦国期の歴史が刻まれている。





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