大久保忠常が騎西城主だった時代、
“冨塚久太夫”という重臣がいた。
この冨塚久太夫、羽生領経営にも関わっていたらしい。
慶長10年(1605)、羽生領稲子村(現羽生市稲子)に新しい寺を建てることになった。
「永ふく河原」を切り開き、
稲子村の「道原」という土地に寺を建て、
源長寺(同市)の末寺とした。
当時の羽生城代の“桑原九兵衛”と“佐伯図書助”が、
慶長10年12月10日付で源長寺宛てに証状を出している。
その添状として、同年同月同日付で冨塚久太夫が源長寺に発給しているのである。
当時、羽生城主は大久保忠常の父“忠隣”が就任していた。
忠隣自身が羽生城に足を運ぶことはなかったが、
何かと関わり合いがあったのだろう。
稲子道原に創建された寺と冨塚久太夫の接点は、
端的にそのことを示している。
ちなみに、その寺とは現在の源昌院だ。
「祥平山源昌院」と号し、利根川の土手のほど近いところに建っている。
とても落ち着いた風情のあるお寺で、
季節になると蓮の花に彩られることでも知られている。
“冨塚久太夫”という重臣がいた。
この冨塚久太夫、羽生領経営にも関わっていたらしい。
慶長10年(1605)、羽生領稲子村(現羽生市稲子)に新しい寺を建てることになった。
「永ふく河原」を切り開き、
稲子村の「道原」という土地に寺を建て、
源長寺(同市)の末寺とした。
当時の羽生城代の“桑原九兵衛”と“佐伯図書助”が、
慶長10年12月10日付で源長寺宛てに証状を出している。
その添状として、同年同月同日付で冨塚久太夫が源長寺に発給しているのである。
当時、羽生城主は大久保忠常の父“忠隣”が就任していた。
忠隣自身が羽生城に足を運ぶことはなかったが、
何かと関わり合いがあったのだろう。
稲子道原に創建された寺と冨塚久太夫の接点は、
端的にそのことを示している。
ちなみに、その寺とは現在の源昌院だ。
「祥平山源昌院」と号し、利根川の土手のほど近いところに建っている。
とても落ち着いた風情のあるお寺で、
季節になると蓮の花に彩られることでも知られている。
このお寺さんは蓮の花が綺麗で私も何度か
撮影に行きました(^^)
素朴ないいお寺さんですね(^o^)
源昌院さんはとてもいいお寺ですよね。
とても風情があって、心が洗われます。
そろそろ蓮の花の季節。
今年も源昌院さんは色鮮やかな蓮の花で彩られるのではないでしょうか(^_^)