〔15.3.3.日経新聞:エコノ探偵団面〕
「日本では戸建て住宅の価値は約20年で失われ、資産にならないんですね」。近所に住む米国人が事務所に来て驚きを伝えた。「欧米では古い住宅も値上がりします」。探偵の深津明日香は「えー、なぜそんなに違うのかしら」と調査を始めた。
明日香はまず明海大学不動産学部長の中城康彦さん(60)を訪ね、欧米ではなぜ中古住宅の資産価値が落ちないのか聞いた。「日本では住宅を『買う』と言いますが、住み替えが頻繁な米国では『投資』という意識が強く、買ったら終わりではなく、高く転売できるように購入後はメンテナンスするのが常識です」
米では高く転売も
中古住宅に対する買い手の認識も日本とは全く違うようだ。「新築よりも中古の方がリスクが小さいとみられています」。新しい開発地の新築住宅は、建物の不具合の有無や周囲にどのような住民が住むかわからず、植栽など街並みも未成熟なため、リスクが大きいと判断されるという。築年数が50年を超す木造住宅の売買も珍しくない。「古い家を買っても、将来より高く売れる可能性があるため、住宅購入が個人の資産形成につながるのね」と明日香。
次に日本の状況を調べた。戸建て木造住宅は通常、築20~25年程度で無価値と評価されるようだ。30年の住宅ローンで購入すれば、返済を終える前に資産価値はなくなってしまう。50歳以上の世帯(2人以上)では住宅(土地を含まず建物だけ)で平均約2000万円の「含み損」を抱えているとの試算もある。
日米の住宅投資の累計額と住宅資産の評価総額のグラフを見ると、両国の違いがよくわかった。日本は過去約40年間の累計投資額よりも資産評価額が500兆円以上も下回っているのに対し、米国は累計投資額と資産評価額がほぼ見合っている。「日本人の豊かさが欧米に比べて見劣りするわけね。でも、なぜ短期間に価値が下がるのかしら」
明日香は早稲田大学教授の小松幸夫さん(65)に聞いてみた。「財務省令で、木造住宅の耐用年数を22年と定めていることが大きく影響したと思います」。耐用年数は単に企業会計上の償却年数にすぎないが、使用限界と誤解されることが多く、築20年程度で無価値と査定する業界慣行につながったとみている。
戦後復興期や高度成長期に建った住宅の多くは性能が低く、「築20年で無価値」でもバブル崩壊までは宅地価格の上昇でカバーされたため、問題にならなかった。だが、その後、建物の質や耐久性が大幅に向上しているのに、評価方法は変わらず、資産価値が築年数に応じて一律に下落する状況が続いている。
取引、情報乏しく
小松さんは「日本では建物はいずれ無価値になるという前提に立つから、メンテナンスはしない、だから実際に価値が下がるという悪循環に陥っています。欧米とは対照的です」と指摘した。
住宅流通市場も欧米とは大きく異なる。欧米では年間の新築住宅の戸数よりも中古住宅の売買戸数の方が圧倒的に多く、英米では約9割(2009年)に達する。逆に日本では新築住宅が過半を占め、中古住宅の割合は約14%(08年)にすぎない。明日香が土地総合研究所専務理事の荒井俊行さん(63)に尋ねると、「日本の中古住宅取引は情報提供などが不十分なため、買い手は少なく、価格も低くなります」と指摘した。
経済学における「情報の非対称性」の問題だ。中古住宅の購入意向がない人への調査では「性能や質への不安」が理由に挙がる。買い手に十分な情報が提供されず、売り手との情報格差が大きいと、買い手は粗悪な物件を取得するリスクを考慮し、相当な安値でないと購入しない。その結果、優良物件の持ち主は不当な安値を嫌って売却をあきらめ、粗悪物件ばかり集まる悪循環になる。
国も活性化後押し
明日香が調べると、政府はここ数年、中古住宅取引の活性化に向けて様々な検討を重ねていた。リフォームの支援やインスペクション(建物診断)の普及、改修を価値向上に反映させるなど建物評価方法の見直し、金融業界と連携しての金融商品開発、仲介業者が消費者に十分な情報を提供できるよう集約した情報ストックシステムの構築など広範な分野に及んでいる。
ただ、日本大学教授の中川雅之さん(53)に聞くと「活性化は簡単ではありません」という。中古住宅取引で建物の質を評価する慣行はなく、「売り手は家をメンテせず、買い手はコストをかけて質を調べない」ことで「均衡」している。双方が利益を最大化しようとした結果で、一方だけが行動を変えれば損をする。ゲーム理論の「ナッシュ均衡」という状態だ。
この低水準の均衡から欧米型の「売り手はメンテし、買い手は質を調べる」という高水準の均衡に移るには双方が同時に行動を変える必要がある。容易ではないが、そうなれば日本でも質の高い住宅は資産価値が維持され、ライフステージに応じて住み替えしやすくなり、老後生活の安心にもつながる。「すべての関係者が目標を共有し、行動を変えていく必要があります」と中川さん。
「住み手の意識改革も求められています」。明日香の報告を聞いた所長は一言。「うちのボロ家にも買い手がつくように今から改修するか」
▽物件囲い込む仲介業者
国は中古住宅取引の活性化に向け、様々な改革に取り組むが、「重要な分野が欠けている」との指摘がある。それは仲介業者に対する規制だ。
不動産コンサルタントの長嶋修氏は中古取引の問題点として仲介業者による「情報の囲い込み」を挙げる。物件の売却を依頼(専任媒介)された業者は業界ネットワークに登録して情報を公開する義務があるが、実際は隠蔽行為が横行しているという。公開して他の業者が買い手を見つける前に自社で見つけ、売買の双方から手数料を受ける(両手取引)ためだ。
これはより早く高く売りたい売り手の期待に背くうえ、利益相反になる可能性もある。昨年参入したソニー不動産は両手取引を原則禁止し、売却依頼を受けると情報を広く流して買い手を探す。執行役員の風戸裕樹氏は「中古物件が高く売れない一番大きな理由は情報の囲い込み」と話す。
米国では情報囲い込みには罰金や免許剥奪など厳しい罰則を科し、詳細な情報が幅広く公開されている。このため、買い手は日本のように複数の業者を巡って物件情報を探し回る必要がない。
また零細業者に様々な改革への対応を求めるのは難しいため、仲介業の免許を「売買や賃貸など業務で分けた方がいい」(不動産コンサルタントの平野雅之氏)との声もある。活性化に向けて国の本気度が問われる。 (編集委員 谷川健三)
「日本では戸建て住宅の価値は約20年で失われ、資産にならないんですね」。近所に住む米国人が事務所に来て驚きを伝えた。「欧米では古い住宅も値上がりします」。探偵の深津明日香は「えー、なぜそんなに違うのかしら」と調査を始めた。
明日香はまず明海大学不動産学部長の中城康彦さん(60)を訪ね、欧米ではなぜ中古住宅の資産価値が落ちないのか聞いた。「日本では住宅を『買う』と言いますが、住み替えが頻繁な米国では『投資』という意識が強く、買ったら終わりではなく、高く転売できるように購入後はメンテナンスするのが常識です」
米では高く転売も
中古住宅に対する買い手の認識も日本とは全く違うようだ。「新築よりも中古の方がリスクが小さいとみられています」。新しい開発地の新築住宅は、建物の不具合の有無や周囲にどのような住民が住むかわからず、植栽など街並みも未成熟なため、リスクが大きいと判断されるという。築年数が50年を超す木造住宅の売買も珍しくない。「古い家を買っても、将来より高く売れる可能性があるため、住宅購入が個人の資産形成につながるのね」と明日香。
次に日本の状況を調べた。戸建て木造住宅は通常、築20~25年程度で無価値と評価されるようだ。30年の住宅ローンで購入すれば、返済を終える前に資産価値はなくなってしまう。50歳以上の世帯(2人以上)では住宅(土地を含まず建物だけ)で平均約2000万円の「含み損」を抱えているとの試算もある。
日米の住宅投資の累計額と住宅資産の評価総額のグラフを見ると、両国の違いがよくわかった。日本は過去約40年間の累計投資額よりも資産評価額が500兆円以上も下回っているのに対し、米国は累計投資額と資産評価額がほぼ見合っている。「日本人の豊かさが欧米に比べて見劣りするわけね。でも、なぜ短期間に価値が下がるのかしら」
明日香は早稲田大学教授の小松幸夫さん(65)に聞いてみた。「財務省令で、木造住宅の耐用年数を22年と定めていることが大きく影響したと思います」。耐用年数は単に企業会計上の償却年数にすぎないが、使用限界と誤解されることが多く、築20年程度で無価値と査定する業界慣行につながったとみている。
戦後復興期や高度成長期に建った住宅の多くは性能が低く、「築20年で無価値」でもバブル崩壊までは宅地価格の上昇でカバーされたため、問題にならなかった。だが、その後、建物の質や耐久性が大幅に向上しているのに、評価方法は変わらず、資産価値が築年数に応じて一律に下落する状況が続いている。
取引、情報乏しく
小松さんは「日本では建物はいずれ無価値になるという前提に立つから、メンテナンスはしない、だから実際に価値が下がるという悪循環に陥っています。欧米とは対照的です」と指摘した。
住宅流通市場も欧米とは大きく異なる。欧米では年間の新築住宅の戸数よりも中古住宅の売買戸数の方が圧倒的に多く、英米では約9割(2009年)に達する。逆に日本では新築住宅が過半を占め、中古住宅の割合は約14%(08年)にすぎない。明日香が土地総合研究所専務理事の荒井俊行さん(63)に尋ねると、「日本の中古住宅取引は情報提供などが不十分なため、買い手は少なく、価格も低くなります」と指摘した。
経済学における「情報の非対称性」の問題だ。中古住宅の購入意向がない人への調査では「性能や質への不安」が理由に挙がる。買い手に十分な情報が提供されず、売り手との情報格差が大きいと、買い手は粗悪な物件を取得するリスクを考慮し、相当な安値でないと購入しない。その結果、優良物件の持ち主は不当な安値を嫌って売却をあきらめ、粗悪物件ばかり集まる悪循環になる。
国も活性化後押し
明日香が調べると、政府はここ数年、中古住宅取引の活性化に向けて様々な検討を重ねていた。リフォームの支援やインスペクション(建物診断)の普及、改修を価値向上に反映させるなど建物評価方法の見直し、金融業界と連携しての金融商品開発、仲介業者が消費者に十分な情報を提供できるよう集約した情報ストックシステムの構築など広範な分野に及んでいる。
ただ、日本大学教授の中川雅之さん(53)に聞くと「活性化は簡単ではありません」という。中古住宅取引で建物の質を評価する慣行はなく、「売り手は家をメンテせず、買い手はコストをかけて質を調べない」ことで「均衡」している。双方が利益を最大化しようとした結果で、一方だけが行動を変えれば損をする。ゲーム理論の「ナッシュ均衡」という状態だ。
この低水準の均衡から欧米型の「売り手はメンテし、買い手は質を調べる」という高水準の均衡に移るには双方が同時に行動を変える必要がある。容易ではないが、そうなれば日本でも質の高い住宅は資産価値が維持され、ライフステージに応じて住み替えしやすくなり、老後生活の安心にもつながる。「すべての関係者が目標を共有し、行動を変えていく必要があります」と中川さん。
「住み手の意識改革も求められています」。明日香の報告を聞いた所長は一言。「うちのボロ家にも買い手がつくように今から改修するか」
▽物件囲い込む仲介業者
国は中古住宅取引の活性化に向け、様々な改革に取り組むが、「重要な分野が欠けている」との指摘がある。それは仲介業者に対する規制だ。
不動産コンサルタントの長嶋修氏は中古取引の問題点として仲介業者による「情報の囲い込み」を挙げる。物件の売却を依頼(専任媒介)された業者は業界ネットワークに登録して情報を公開する義務があるが、実際は隠蔽行為が横行しているという。公開して他の業者が買い手を見つける前に自社で見つけ、売買の双方から手数料を受ける(両手取引)ためだ。
これはより早く高く売りたい売り手の期待に背くうえ、利益相反になる可能性もある。昨年参入したソニー不動産は両手取引を原則禁止し、売却依頼を受けると情報を広く流して買い手を探す。執行役員の風戸裕樹氏は「中古物件が高く売れない一番大きな理由は情報の囲い込み」と話す。
米国では情報囲い込みには罰金や免許剥奪など厳しい罰則を科し、詳細な情報が幅広く公開されている。このため、買い手は日本のように複数の業者を巡って物件情報を探し回る必要がない。
また零細業者に様々な改革への対応を求めるのは難しいため、仲介業の免許を「売買や賃貸など業務で分けた方がいい」(不動産コンサルタントの平野雅之氏)との声もある。活性化に向けて国の本気度が問われる。 (編集委員 谷川健三)