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RUNNING BEAR Ⅱ

くまこの日記です。コメントは承認制とさせていただきます。

ユニバーシアード。

2017-08-17 22:38:44 | 航平君記事
ユニバーシアードが始まりますね。

男子の代表選手は、

野々村笙吾選手(セントラルスポーツ)
谷川航選手(順天堂大学)
神本雄也選手(コナミスポーツ体操競技部)
千葉健太選手(順天堂大学)
長谷川智将選手(徳洲会体操クラブ)


女子は、

寺本明日香選手(レジックスポーツ/中京大学)
笹田夏実選手(日本体育大学)
内山由綺選手(早稲田大学/スマイル体操)
中村有美香選手(日本体育大学)
刀根綾菜選手(武庫川女子大学)



ユニバと言えば、航平君が畠田先生から、「とにかく日の丸を背負う団体のメンバーになれ!」と言われて、日の丸をつけて出た大会だったですね。
そして、そこで先輩方からいろいろなことを学んだというエピソードは、しばしば聞かれます。

昨年の、リオの団体金メダルを獲得した後に書かれた記事ですが、ユニバのエピソードが載ってます。

内村航平~絶対王者の見る世界~こちら

当時のユニバーシアード代表は、アテネ五輪団体金メダリストであり、日体大OBである水鳥寿思や、
後に北京五輪でともに団体銀メダルに輝く坂本功貴、そしてロンドン五輪で共に戦った田中和仁もいた。
合宿では目の色を変えて練習に取り組む先輩たちの姿に圧倒された。

内村選手が言うには、
「体操選手としての転機はあのときのユニバーの合宿です。
自分の弱点が何であるかが明確になり、世界での戦い方とはどういうものなのかを知ることができました」


水鳥さんとは、ユニバで同じチームで闘っているんだ~。そっかあ~。

この記事の、リオの団体のところが、胸キュンですね(*^。^*)。

内村選手とっても日本にとっても悲願の瞬間が訪れた。

鉄棒最終演技者としてピタリと着地を決め
「アテネ五輪以上の感動を日本中に届けたい」という夢は実現しなかった。

それでも、3種目目の跳馬以降はミスなく、すべて15点を超える高得点で演技をつなげた
「チームの力」は相当なもの。
「アテネは超えられないけれど、僕たちが新しい歴史を作れた」と胸を張った。

ただ1人全6種目、金メダルのために戦い抜いた。

最後の床運動を終えると、両手を膝について肩で息をした。

内村自身はアテネは超えられていないと謙遜するが、この四年間団体の金にこだわり続けた
その姿はアテネに負けず劣らずの感動を私たちに届けてくれた。

今の体操日本は間違いなく内村航平が作り上げたものだ。


私が、団体戦で一番印象に残った、最後のゆかの後の両手を膝に付いたシーン。
そう、航平君は、6種目、団体金メダルのためにやり抜いたのです。一番きつくて嫌だったというあん馬始まりからのローテ。
6種目演技をするエースの負担を少しでも減らそうと、考え抜かれた演技順。
みんなの力が、一つになる瞬間ですね。
航平君が望んだ、アテネのような最後にはならなかったけれど、航平君が言うように、違う歴史が作られた瞬間だった。

ユニバの話が、リオの話になっちゃった(笑)。

ユニバ、日本選手の皆さん、ガンバですヽ(^。^)ノ。

ロンドンの肩掛けジャージキングも見つけたので、貼っておこう(*^。^*)。









シェルボさん。(後半)

2017-08-02 23:19:55 | 航平君記事
一昨日アップさせていただきましたシェルボさんの記事の和訳、後半部分を頂きました(*^。^*)。
航平君のことはもう出てこないですが、面白い記事です(^^)。
いつもいつも、素敵な記事の翻訳頂くお友達に感謝ですヽ(^。^)ノ。

UEG: 今、オリンピックを観戦したら、あなたもそこで試合に出てみたかったな、と思いますか?

シェルボ:いいえ。私は良いタイミングで引退しました。成績が落ちて行って誰かに負けたりして競技生活を終えるのは良い気持ちではありませんので、勝者のまま引退しました。当初は2000年(のオリンピック)を目指し、個人総合と種目別4種目に挑戦したいと考えていましたが、そうしなかったことを本当に良かったと思っているし満足しています。怪我をして引退しました。神様が、今が引き時だよと教えてくれたことを幸せに思っています。神様に感謝しています。

UEG: ソ連の崩壊によってバルセロナオリンピックへの準備に悪影響があったでしょうか?

シェルボ:私たちはモスクワ近郊のオリンピックトレーニング合宿で、年間300日練習していました。1ヶ月半、時には2ヶ月間そこで過ごし、1週間帰宅し、また合宿に戻る、を繰り返していました。(ソ連崩壊の)その後、ベラルーシで同じシステムが取られました。ここ米国では、そこまで多くの合宿はなく、大きな大会前だけ2~3週間実施されるだけで、通常は地元で各選手が独自のコーチと共に調整しています。

UEG: 今もかつてのチームメイトと連絡をとっていますか?

シェルボ: もちろん、みんなと連絡を取っています。全員、スカイプのコンタクトリストに登録しています。今も話しますし。彼らの殆どは今米国にいます。試合で会って話す機会もあります。仲の良い友人たちと釣りやハンティングなどを共に楽しむこともありますよ。

UEG: 体操競技人生で一番好きだった瞬間は何でしょうか?

シェルボ: ちょうどシニアのナショナルチームに入った時です。体操選手のレベルを引き上げることに世界で最も素晴らしいコーチの1人であるレオニッド・アルカエフコーチに選ばれました。17歳の時、1年早かったんですがシニアのナショナルチームに彼から呼ばれました。私はシニアチームでは最年少のうちの1人となりました。

最初の合宿の後、それは悪いことで許されないことですが、喫煙が見つかって、活動を停止させられました。コーチは、どんな才能のある体操選手でも、スターでも(規律を守らねばならず)、いなくても構わないことを他の選手に示したかったんだと思います。鍛錬は最も重要なことで、私はチームから追放されました。それはとても衝撃的な辛いことで、チームに入れず、何も出来ないことから体操への興味を失って行きました。私にとってすべてが終わってしまったのです。ジュニアナショナルチームヘッドコーチのニコライ・アンドリアノフ(故人)は、私にとってとても良き親友でもあったのですが、彼が私を救ってくれたおかげで、スターになる前に自分自身を傷つけたり破壊したりせずに済みました。彼はアルカエフの生徒であり、何ヶ月もかけてアルカエフコーチを説得してくれました。「レオニッド、あなたは大きな間違いを犯しています。ビタリーにチャンスを与えるべきです。彼は本物です。彼は偉大な体操選手になるはずです。」と。アルカエフは最後は折れて、「OK。近々全ソ連選手権があるから、そこで彼が優勝したら考えてみよう」と言ったそうです。私にそう告げられました。そして、どうなったと思いますか? 最大8個の中で、私は6個の金メダル、銀メダルと銅メダルを1個ずつ取りました。種目別で4種目優勝し、残りは2位と3位。誰をも蹴散らしました。
でも、ナショナルチームの合宿が始まった時に、私は呼ばれず・・・。全てが終わったと考え、辞めることとし、体操をすることを止めました。合宿が始まって3日後に、私のコーチが朝8時に電話をかけて来て、「ビタリー、1時間後にモスクワ行きの飛行機がある」と。何故か?アルカエフが私のコーチにどうしたのか?と電話をしたそうです。合宿は既に始まっていて、三日経っていて、私がそこにいなかった! 彼は私を呼んでいなかったのだけど、ヘッドコーチとしては、彼の落ち度では無かったことを示す必要がありました。だから、私のコーチが、私たちはちょっと体調が悪かったから、と謝罪して、2時間以内に合宿に行くことにしました。アルカエフは「2時間以内に来れなければ来なくて良い」と答えたのでした。そして私は合宿に参加し、1ヶ月後の1989年、わずか17歳でシュツッツガルトで世界選手権のチームにいました。実際、私は補欠でしたのが、補欠として金メダルを戴きました。私のキャリアがそこで始まったのです。

だから、私は全ソ連選手権で優勝した時が自分のターニングポイントであり、自分を含め誰もが他の選手よりも優れていることを認め、ようやく喫煙事件は過去の物となりました。ご存知の通り、みんな飲酒や喫煙をしていました。私はただ、それが見つかっただけです。このことは生涯忘れません。何故ならばこのことがなければ、今日の私はいないからです。

今、アルカエフは私の親友のうちの一人となっています。彼が米国に来るたび、彼はラスベガスに私に会いに来て3日間過ごします。そして、私がモスクワに行った時は、彼の家に2~3日泊まって共に過ごします。彼は、今、本当は私を追放したくはなかった、私を怖がらせて、他の選手のために敢えてそうしたんだ、と言います。もちろん、それは本当ではないですね。



UEG: 大きな失望をしたことはありましたか?

シェルボ: あるとは言えないかな。うーん、大きな失望とは言えないのだけれど、でも、1996年のオリンピックですかね。個人総合で3位にはなれると思っていました。優勝できる可能性が少しはあるかもしれない、でも2位か3位になると想像していました。勿論金メダルを目指してはいましたが。そして、99.9%の確率で、跳馬、ゆか、平行棒の中で1~2個の種目別金メダルを獲れると思っていました。オリンピックまで、ゆかと平行棒は欧州選手権、世界選手権で優勝していましたから。私は当時、ゆかの第一人者でした。決勝の最初のタンブリングのとき、とても弾むゆかだったこともあり、美しい軌道を描いて着地をした時に、弾かれて手をついてしまいました。とても悲惨なことでした。ショックを受けました。ショックが大きすぎて、自分が今どこにいたのかすらもわからなくなりました。恐らく、これが最大の失望だったと思います。もし、ゆかで金メダルを獲ることが出来たら、多分、平行棒も勝てたと思いますので。平行棒は結局銅メダルでした。他の選手がとても良い演技をした中、私はゆかで勝てなかったことから自信をもてなくなっていました。

それでも、自分のキャリアが気に入っていますし、自分が成し遂げた成績を嬉しく思っています。世界選手権では全部の種目の金メダルを持っていますし、それは過去に誰もやったことが無く、今後も出来る人は出てこないことだと思っています。33個の世界選手権のメダルのうち、14個が金メダルでこれは本当に素晴らしいことだと思います。自分が出来る精いっぱいをやり遂げました。だから、もはやがっかりすることはありません。


UEG:いつ、米国に移住したのですか?

シェルボ:オリンピックのあと、1993年に米国を拠点として、ベラルーシ代表として大会に出場していました。試合や合宿のためにベラルーシにチームと共に帰国しました。1997年まで、移動を続けながら演技会や試合をこなしていました。2~3週間から1ヶ月ほど休みが出来た時は、家族と共に米国で過ごしました。

UEG: ソ連であなたがやってきた体操と今米国でやっている体操の違いはなんでしょうか?

シェルボ: えーと、1997年以降は引退しているので、米国とソ連やベラルーシとの体操の違いははっきりは判りません。いま、コーチをやっていて、自分の体操教室を運営する中では、完全に違いますが。ソ連やベラルーシでのかつての体操はプロフェッショナルで、今自分が携わっているのは、よりレクリエーション要素が強く、アマチュアスポーツですから。

UEG: あなたの体操教室でハイレベルな選手の指導はしていないのですか?

シェルボ: ハイレベルな選手はいますよ。でも、世界レベルではありません。主にジュニア選手で、彼らは18歳になると、大学に進学していいます。私はエリート選手は指導しておらず、殆どがジュニア選手や子供たちです。ジュニアナショナルチームに選ばれた子供たちもいますが、彼らは地方大会では優勝したりしています。最大の目標はお金と時間を投資した我々の体操選手たちが、大学で奨学金をもらえるレベルとなり、自分たちの勉強にそれを充てられるようになることです。システム及び生活は欧州ではまた違います。比べることは難しいです。ここではプロフェッショナルなスポーツと言うより、よりビジネスの要素が大きいです。欧州では、スポーツは主に政府や地域、市が支えています。ここではサポーターは私企業ですが。


UEG: あなたにとって大きなチャンスでしたか?


シェルボ: それが実は私が追い求めていたものです。生きて行くためには必要なことで、家族を支えて生活していかねばなりません。選択肢は、高いレベルの体操選手を育てると言う喜びよりも、ビジネスを展開するということが唯一の選択肢ですね。


ありがとう、ビタリー!

聞き手: Tina Gerets




器具とか、難度とか、ルールとか、時代によっていろいろ変わるので、どの選手が一番、ということは言えないと思います。それは、あえて競う必要はないですよね。それぞれの時代に、それぞれの素晴らしい選手がいる。
航平君は、長きにわたって王者でい続けるのが、すごいことだ、ってみなさん言いますよね。
世界選手権3連覇で、すでに前人未到だったのに、今6連覇中。
オリンピックもはさんでますからね。
シェルボさんは、勝ったまま引退した人だったんですね。




シェルボさん。

2017-08-01 22:47:41 | 航平君記事
航平君の金メダル記念日にふさわしい素敵な外国記事の訳が届きました~\(^o^)/。
長~い記事なので、航平君のことを語っている部分を、頂きました。
訳していただいているお友達には、本当に、いつもいつも感謝です私がご紹介させていただけることを、とても嬉しく思います

元記事は、こちら

ビタリーシェルボ(ベラルーシ)に直撃インタビュー!2017年7月25日

バルセロナオリンピックから25周年記念を迎えるにあたり、欧州体操連合会(UEG)はバルセロナオリンピックのスターであり史上最高の6個の金メダルを獲得したビタリー・シェルボ(1972年ミンスク生まれ)に直撃インタビューを試みた。ビタリー・シェルボは1990年に欧州選手権で3つの金メダル、1991年世界選手権で個人総合銀メダルを獲得する等の成功を収めて間もないころから体操ファンに注目されたが、1992年のオリンピックで彼はスターに上り詰めた。バルセロナでシェルボは6個の金メダルを獲得し、同オリンピックで最も成功したアスリートとなった。

現在、米国ラスベガスに居住し、そこに体操スクールを所有している。その45歳はフリータイムを友人と過ごしたりサウナを楽しんだり、トランプをしたり飲んだり、また家族とRUV(キャンピングカー)で出かけたりして過ごしている。しかし、彼の体操スクールに通う少年たちにコーチをして、彼の殆どの時間を今も体育館で過ごしている。


UEG:1992年のバルセロナオリンピックはもう25年前になります。信じられます?

シェルボ: いや、信じられないです!25年はまるでたった1年前のことのように思えます。でも、ともかく自分は歳を取ったと感じます。もう45歳になったか、と言う感じですね。

UEG: オリンピックで記憶に残っていることは何ですか?金メダルを6個獲った時はどのように感じたでしょうか? 当時、どれだけ特別なことを成し遂げたか実感ありましたでしょうか?

シェルボ:いいえ、無かったです。世界選手権、オリンピック、国内選手権、その他の試合であれ予選であれ、どの試合も私たちにとっては区別は無く、プロ意識を持って勝利を目指して臨んでいました。たとえ何があろうと、良い演技をすることを目指していました。勿論、アドレナリンがみなぎるとか、よりシャキッとする等は、世界選手権やオリンピックの時にはありますが、ポディアムに上がった瞬間、それら全てが消え去ります。私たちにとっては仕事みたいなものでした。勝つためにそこに来ていたし、勝つだろうことはわかっていました。メダルを獲るだろうことは分かっていたし、最低2-3個の金メダルと銀や銅メダルも何個か獲ることも。それは認識していたし、頭の中で計画していました。でも6個の金メダルを獲ったことは自分自身驚いたし衝撃的でしたし、最大8個のうちの6個の金メダルを獲ることがどういうことを意味するのかが分かっていなかったです。何ヶ月もの間、理解出来ていませんでした。
大人になって、自分のビジネスに従事する中で、生活が競技から遠ざかるにつれ、特に、オリンピックを見て、選手たちが1個か2個以上のメダルを獲るのに必死になっているのを見て、自分が成し遂げたことを認識するようになりました。1個のメダルを獲ることは誰もにとってものすごく大きなことであり、そこでやっと、自分がやったことを理解したのです。その頃は「何か大きなことだ」と言うような感じで、でも、まあそんなもんかな、と思いながらも勝てると期待していました。お察しの通りです。明らかなことです。傲慢さを申し訳なく思いますが、これが若いプロフェッショナルなスポーツマンの考え方だったのです。


UEG: 現在(の体操競技で)、6個の金メダルを獲得することは可能だと思いますか?

シェルボ: いいえ、無理だと思いますし、将来的にも二度と出来ないと思います。それはルールが変わっているからです。ルールが大幅に変わって、体操競技も大幅に変わりました。私が選手だった時、殆どの体操選手は個人総合を戦っていたし、1~4種目くらいはメダルを狙える得意種目を持っていました。個人総合の選手は今よりももっと敬意を表されていました。今は、体操競技では種目別のスペシャリスト育成に力を入れる国が増えました。いまや個人総合でメダルを獲るために対等にいるのは世界で6人くらいなのではないでしょうか。そして個人総合のメダルは、獲ることが難しいものでなのです。そして種目別でメダルを獲得するのには、特別なスキルと、並外れた演技が必要です。これが今の世界の状況なのです。個人総合を戦わない1~2種目のスペシャリスト達を擁する国が多く、このため個人総合の選手が種目別でメダルを獲ることは本当に難しいことになっているのです。

内村航平選手を見てみてください!私は彼が史上最高の体操選手だと思っています。将来的にも、単に彼の記録を破るだけでは無く、彼が成し遂げてきた、過去8年に亘り主要な大会を全て制して来ただけの実力を超える選手は出てこないとすら思っています。彼が最高の中の最高だと思います。もちろん、様々な解釈や議論、コメントが誰が最高かを語る人々の間であります。でも私の中では彼が史上最高であり、永遠にそうなることでしょう。彼は真のチャンピオンです! 私は自分は彼の足元にも及ばないと思っています。メダルの数で言えば、はい、もちろん(自分が1番)です。でも、私の時は良い時代、良い場所、そして準備も整っていて、とても幸運でした。内村が25年前に自分の位置にいたら、彼は3~4個の金メダルと2~3個の銀メダルや銅メダルを獲れているでしょう。もし、自分が現代の試合で戦ったとしたら、自分の才能を持って練習を積み重ねて、個人総合でトップ3には入るでしょう。私はオールラウンダーなので。でも、1~2個を超える種目別金メダルを獲ることは、運が良かったとしても出来ないと思います。彼は個人総合で金メダルを獲って、でも種目別では1~2個の銀メダルだと思います。このことがどれだけ彼がすばらしいか、そして、どれだけスペシャリストたちのレベルが高いかをも示しています。


何年か前のインタビューでは、その時代時代でレジェンドはいるので、その中の一人だとは思うが、史上最高ということは出来ない、というようなことを言っておられましたよね。
でも、今回は、史上最高で、将来的にも出てこない、と、言っておられます。
コマネチさんも、リオが終わって、航平君のことをすごく褒めたたえておられました。ロンドンでは、まだそこまでは言えなかったと。
東京世選で、前人未到の3連覇を成し遂げ、ロンドンの時にはもうすでにすごい選手でしたが、やはり先輩方は、そう簡単に史上最高とは言わない。
ロンドンからリオへの4年間は、本当にすごい4年間だったんだなあ~って、今更ながら思う。
先日、何かのニュースでサイン本のイベントの時の映像が流れて、女性が「同じ時代に生まれて幸せです」というようなことを言って握手をしておられましたが、ほんと、そういうことですよね。
出来れば、もう少し航平君に近い年齢で生まれたかったけど(笑)、そんな贅沢なことは言ってはいけません。
同じ時代に生きてるだけで、いいのです。


佐藤コーチ~その2

2017-05-07 20:15:32 | 航平君記事
GWも今日で終わり(^^)。

明日からまた日常が始まります。

航平君にとっては、おそらくGWなんてものはなく、N杯3週間前の日々・・・。
N杯に向けて、毎日毎日、練習に励んでいることと思います。

今日、こんな記事がアップされました(*^-^*)。


内村航平を支える20年来の親友「ひろ」こちら

佐藤寛朗さんという方が、航平君の新しいコーチになられたと聞いたときに、大変恐れながら、佐藤さんのことを知らなくて、どんな方なんだろう?と思いました。
朝日生命にいた方だということはわかりましたが、それ以上のことはわからなくて。
でも、少しずつ、どういう方なのかわかってきて、今回のこの記事でまたより詳しく知ることが出来て、とてもありがたいです(*^-^*)。

航平君の今までの体操人生は、本当にマンガのようだなって思っていますが、森泉コーチとの出会いも、とてもドラマティックだと思っていました。
そんな森泉コーチと別れることになったのはすごく寂しくて、ちょっと不安で、だからこそ佐藤コーチのことをもっと知りたいなあ~という想いが強かったのですが、佐藤コーチとの関係も、負けず劣らずドラマティックだった(*^。^*)。
まるで、この時のためにそれぞれ歩んできたような、そんな必然性を感じます。
航平君が幼いころ憧れて大好きだった塚原さんについていた佐藤コーチ。
その塚原さんの引退と、航平君のプロデビューが入れ違いでやってくるなんて、なんだか、「ほんとにそんなことあるの?」って感じです。
語学も堪能だなんて、世界王者に付くためにいるような方ですね(^^)。

この先、まだまだいろいろなドラマを魅せてくれるに違いない。
そんな予感がさらに強くなる、とっても素敵な記事でした

しっかし、「敬語にさせてください。」というコーチの申し出に、「やだ」って(笑)。
もう、いかにも航平君で、ほんと、いいわ~
「おまえしかいない」は、正確には、「ひろしかいない」だったんですね
更に胸キュン~





東京への想い。

2017-04-29 22:55:20 | 航平君記事
JALの機内誌に掲載されたという航平君のインタビューが、アップされています(*^。^*)。こちら

そして、アシックスさんのFBでも、東京への想いを語っています。こちら

どちらのお写真も、お洒落さんなキング

アシックスさんのインタビューの方で航平君が着ているのは、公式ライセンス商品のTシャツですね(*^。^*)。こちら
欲しいなあ~(^^)。
やっぱり、キングと同じグレーを買わなきゃ!ですよね(*^。^*)。

航平君は、いつも体操は宿命だといい、体操をするために生まれてきたんだと思う、って言います。
本当に、そうだなあ~って思うのですが、オリンピックに関しても、そのように言えると思うのです。
オリンピックが大きな国際大会のデビューだった航平君。それからロンドン、リオとオリンピックを経験していますが、どちらも、日本国内だけでなく、世界的にもオリンピックの顔となって、しっかり結果を残してきました。
航平君のオリンピックへの気持ちの強さも、ハンパないものがあると思うのです。

東京への盛り上がりは、当然のことで、航平君は、すでに東京の後のことも考えている。
東京が終わったら、そこがゴールみたいな感じになってしまわないだろうか。
そんなことを心配していると、吉田姉さんとの対談でも言っていましたよね。
あの時、本当に航平君は「オリンピック」を愛しているんだなあ~ってしみじみ思いました。
そして、オリンピックの神様にも、愛されている
オリンピックの魔物は、そこまでの特別な人にしか憑りつかないのだと、今でも私はそう思っています。
魔物まで惹きつけてしまうほど、航平君は魅力的だったんだな、って。

体操選手としてのピークは過ぎたという航平君ですが、その時期に母国開催の五輪が巡ってくるのも、五輪の神様に愛されているからだな~って思います。だって、そうじゃなきゃ、航平君、選手を終えていたかもしれないですもん。
もっとオリンピックに出て欲しい。
神様はそう思って、この時期に東京開催を決めたのだな、きっと。