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城004 雪の高取城(3) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)

2014-02-22 21:50:23 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県(ならけん)・高取町(たかとりちょう)にある高取城(たかとりじょう)を訪城した話の最終回です。

 下の写真は、高取城下町にあるビールのアルミ缶で作られた高取城天守閣の巨大オブジェです。江戸時代の天守閣と比較して、約100分の1の規模(高さ4.1m、横幅3.6m)ですが、
 なんと!日本一どころか、世界一の天守閣オブジェです。

 アルミ缶を使用した個数では世界一のオブジェとして、ギネス世界記録に認定されました。
 制作したのは高取町の60歳~83歳の方々で、使用した缶は3万5679個、103日かけて平成24年10月に完成したそうです。「世界一のものを作り、地域活性化の起爆剤にしよう」と話しあって作られたそうです。
 (ここまでは、ほのぼのしています)
 最近は、平成25年5月にサウジアラビアが6万6400個の作品をつくり、同年9月に愛知県豊橋市の吉田城の隅櫓(すみやぐら)の作品が10万4840個(数は「とよはし」の語呂合わせで決めたそうです。)で追い抜き、競争が激化してしまいました・・・・・・

 前回は高取城の「大手門跡」の所まで話が進みました。
 大手門はL字型に右に折れたクランク状の虎口になっていて、ここに大手門がありました。

 大手門を突破するまで、周辺の石垣にある建物にいる守備側から攻撃を受ける事になります。

 前回も載せました土佐街道の児童公園にあった城の見取り図です。大手門は二ノ丸と三ノ丸の間にありました。


 そして、大手門跡を通り過ぎると、再び、前方に城壁が立ちふさがります。この城壁の上には「十三間多聞(たもん)」と呼ばれる長屋型の建物がありました。大手門を突破した攻め手は、次の門に近づくまでに正面の石垣の上に建てられた多聞にいる防御側からの攻撃を受ける事になります。
 攻めてくる敵の勢いをそいで、防御しやすい様に、敵を直進させないように造られている分けですが、・・・・・・・

 少し左側に次の入り口があります。ここを進むと、「十三間多聞跡」の立て札がります。大手門と同じようなクランク状の虎口をもう一度通過する形で右に曲がった所に十三間多聞の門があります。

 上の写真の左上の石垣から「十三間多聞跡」の虎口を眺めたのが、下の写真です。右奥が大手門を通過してきた道です。十三間多聞は正面の石垣からL字型に曲がって、石垣の左に立ちふさがる門の上に乗った状態で伸びて、写真左外にある石垣まで伸びていました。
 攻め手としては、簡単に突破できないですから被害ばかりが増えていく事になります。

 (冷静に考えると、兵力差で圧倒して、守備兵の数が足りない場合以外では、ここまで到達することすら不可能ですが・・・・・・・・・)

 十三間多聞を通過すると、広さのある二ノ丸ですが、本丸に進むには、左手の石垣を回りこむように狭い所を進む事になります。そして、進む右手の石垣には「十五間多聞」が控えています。
 下の写真は、「十五間多聞跡」ですが、ここも門の上に長屋型の建物が横たわっていました。しかも「コ」の字状に城壁沿いに伸びていて、石垣の角部には隅櫓(すみやぐら)が2基もありました。

 下の写真は、大手門の所にあった説明板です。奈良産業大学が作成したCG(左)と昔の写真(右)がありました

 左上が天守群(大天守と小天守がありました)、右下が大手門です。真ん中の建物が十五間多聞ですが、長屋(横長)状の建物があり、角の部分に櫓(やぐら)が2基見えます。多聞と手前の石垣の間には門が見えています。

(1)前回、江戸時代の途中から高取藩(たかとりはん)は、徳川家・譜代(ふだい)の植村家政(うえむらいえまさ)が初代藩主となったことをお話ししました。植村氏は、徳川(松平)・普代の中でも最古参七家の一つです。
 その祖父(そふ)である植村家存(うえむらいえさだ、当初は家政)は、戦国時代の天文10年(西暦1541年)生まれで、天文18年の9歳の時から徳川家康に仕えることになります。家康は天文11年生まれですから、家康は8歳の頃でしょうか、ちょうど、捕虜交換で織田家の人質から今川家の人質になった頃ですね。

 十五間多聞を抜けて、やっと天守台が見えますが、江戸時代は、天守台の前にも門が2棟と虎口があったのです。

 天守台となりますと、石垣の隅(角)は、きれいに成形されています。

 天守台の石垣は「打込みハギ」で、隅部は「算木積み」で反りのない工法です。高さは8mもあります。


(2)その11年後、有名な桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で、織田信長(おだのぶなが)が今川義元(よしもと)を討ち取ったことにより、状況が一変します。城代が駿河に退散して空城となった岡崎城(おかざきじょう)に入城した家康は、今川家から独立して、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)を結ぶことになります。
 この時、清洲城に行く徳川家康の護衛を務めたのが植村家存です。同盟の会見場に向かう家康一行の中で、植村家存が家康の刀を持ったまま入室した時の逸話(いつわ)が伝わります。
 織田方の護衛役に何者かと咎められますが、家存の方は動じません。
  「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」
と豪快に言ってのけます。豪胆(ごうたん)な性格だったようです。
 この事を聞いて対応した織田信長も、護衛役の家存を称賛して、二振りの太刀を与えたとの事です。信長の性格の一端を垣間見ることができます。

 下の写真は、天守のあった台から天守台の登り口を見た景色です。
 天守台へ登るのも当然真っ直ぐには進めません。天守台を大きく回り込んだ上に、最後は「コ」の字型の虎口です。

 高取城は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟である秀長(ひでなが)の領地で、重臣の本多利久に与えられ、支城として整備した山城にも関わらず、思い切り豪勢な造りです。
 天守台の隅に大天守1基と小天守1基、櫓3基が配置され、横長の多聞櫓で接続して囲んだ「連立式天守」と呼ばれる構造になっています。
 通路の両側には天守や櫓があり、通路は多聞櫓が上にある門で防御されています。
 (本丸まで攻め込まれたら、防御側は負け戦でしょうが、簡単には勝たせてはもらえないようです。)

(3)植村家存は、酒井忠次(さかいただつぐ)、石川家成(いしかわいえなり)、石川数正(いしかわかずまさ)らと共に家康・前半期の家老として家康を支えていきます。
 元亀3年(1572年)には織田信長と上杉謙信(うえすぎけんしん)との同盟の仲介を行い、謙信からも刀と山伏具足を贈られたりしています。謙信の性格からすると、家存の豪胆さが気に入られたのでしょうか。
 しかし、家存は天正5年(西暦1577年)に37歳の若さで死去しました。
 天正5年は、信長が松永久秀(まつながひさひで)のいる奈良県・信貴山城(しぎさんじょう)の攻め落としたり、織田軍が上杉謙信に手取川の戦い(てとりがわのたたかい)に敗れた年です。まだ戦国時代です。

 天守台(本丸)に登ると下の町が見える展望ポイントがあります。朝のうちは晴れていたのですが、高取城を登っている間に曇ってしまい、なんとか見える景色を見ていると、だんだん遠くの景色が霞み、見えなくなりました。


(4)植村家次(うえむら いえつぐ)が、家存の後を家を継ぎますが、まだ11歳だったので、家康の長男・松平信康(まつだいらのぶやす)の小姓(こしょう)となります。
 ところが、わずか2年後、同盟国の織田信長から信康に嫌疑をかけられ、信康が切腹となると、流浪の身となります。(この頃になると、織田信長の勢力が強大になり、織田・徳川同盟は、対等同盟から従属同盟の関係に変化しています。)

 天気予報は晴れでしたが、「何か雪が降ってきそうだな~」と思っていると、案の定、雪が降ってきました。
 正面奥に見える石垣は天守のあった所です。下は本丸に登る道です。

 風も強くなってきて、吹雪いてきたので、高取城を下山しようと思ったら、今度は雪の降る中、日が差してきました。


(5)その後、再び、植村家次は家康の家臣(500石)となります。その子・家政は徳川秀忠(2代将軍)の小姓として仕え、家政の代になると幾度かの加増を経て、3代・家光(いえみつ)の寛永年間には9千石の旗本となっています。
 そして、寛永17年(西暦1640年)には高取藩・2万5千石の普代大名となりました。
 家次が松平信康の切腹後に流浪の身になってから61年の月日が流れていました・・・・・・・

 さらに、しばらくすると、青空が広がり晴れてしまいました。雪が降ってから晴れるまでの時間は10分程度でした!
 再び、天守台で撮影再開です。まずは本丸の撮影です。右奥が大天守、左奥が小天守、撮影している所が櫓のあった所です。この本丸を取り囲むように長屋状の多聞櫓で接続されていました。

 天守台の縁のみですが、このラインに沿って、手前から多聞櫓、櫓、大天守と続いていました。

 天守台から十五間多聞跡を眺めた風景です。

 左には「七つ井戸」に続く道があります。車で登れる時はここから登る事になります。
 天気も青空となり、雪もしっかりしているので、天守台の周りを一周して帰る事にしました。

 下の写真の石垣は角部分(隅石)ですが、自然石を使用した「野面積み(のづらづみ)」から、方形に成形した「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」への発展過程にある「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」の状態がわかるかと思います。
【打込み接ぎ(うちこみはぎ)】
 石垣に使用する石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法です。
 野面積みより高く、急な勾配が可能になります。


(6)高取藩の植村氏は、戦国時代から松平氏に仕えた最古参の一族の譜代大名であり、家康の代の植村家政の功績があることから、何度も改易(廃絶)の危機があったにも関わらず、藩の存続が認められて、幕末まで存続する事になります。

 最後に、高取城の帰り道に宗泉寺(天台宗)に立ち寄りました。1回目に載せた宗泉寺の写真です。

 平和の時代になると、高取城は山城のであるため不便となり、藩主・家臣は現在の山麓の土佐街道付近に移住して、城には城番が置かれるようになりました。
 ここは、元々は初代藩主・植村家政の下屋敷でした。元禄11年(1698年)に寺として創設されました。
 高取藩主・植村氏の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌を収めてある寺)として、植村氏の先祖の墓碑があります。

 高取城下の最も奥まった地にあり、静寂と幽玄(ゆうげん)を感じさせるお寺でした。

 高取城の見学も終わり、残った問題は、年末で町の店が休業中という事でした。
 お昼すぎていたので、「くまドン」は腹ペコで、途中で食堂を探しながら、次の奈良県の訪問地へ向かうのでした。

 一応、高取城の簡単な情報を再度載せておきます。
【高取城(たかとりじょう)】 百名城61番(スタンプは観光案内所の「夢創舘」、年末年始は町役場)、国指定史跡
 別名:高取山城
 分類:山城
 場所:奈良県高取町
 特徴: 三大山城の一つ(他の二つは岩村城(岐阜県)、備中松山城(岡山県))
     城内の面積は約1万平方m、城郭全域の総面積約6万平方mと、日本国内で最大規模の山城。
     高取山(583・3m)の山頂に築かれた、曲輪(くるわ)の連なった連郭式の山城ですが、
     当時の天守台には、三重天守だけでなく三重小天守もあり、天守を含めて城には櫓(ろ)が多くあり、
     山城とは思えない程の建物と広い敷地を持っていました。
     現代は山上の建造物はありませんが、大規模な石垣や石塁が往時をしのばせています。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 これで、高取城の訪城時の話は終わりです。とりあえず、一城分ですが、奈良県の「ごまさん」との約束の奈良県の城ブログができました。(予想より手こずりましたが・・・・)
 年末に訪問した奈良県の城の話は続くのですが、名所江戸百景(2月分はまだ2景のみ)の話が進まないので、
 奈良県の城の話の続きは、時間のある時に五月雨式に作らせていただきます。

 次回は、名所江戸百景の話になると思います。

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