紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

ラストシーンから始まる人生:計画家・三島由紀夫

2005-08-15 08:39:45 | 小説・エッセイ・文学


ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルチモンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(『金閣寺』)

あまり露骨な哀訴の調子が言外にきかれたものか、彼女は一瞬おどろいたように黙った。顔から血の気の引いてゆくのを気取らぬように、あらん限りの努力を私は払っていた。別れの時刻が待たれた。時間を卑俗なブルースがこね回していた。私たちは拡声器から来る感傷的な歌声のなかで身動ぎもしなかった。私と園子はほとんど同時に腕時計を見た - 時刻だった- 。 私は立上るとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったと見え、空っぽな椅子が照りつく日差しの中に置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。(『仮面の告白』)

誠はこれを見ているうちに、その緑いろの鉛筆に見覚えがあるような心地がした。その日光の加減で光っている金文字にも記憶が滞っている。彼は思い出そうと試みた。そしてこの記憶の中に夢と現実との甚だあいまいな情景が現れ、そこから響いてくる声が、彼の耳の奥底に瞬時にひびいてすぎ去って行くように思われた。それはこう言っていた。「誠や、あれは売り物ではありません」その時日が翳ってきて、向こうの窓はたちまち光を失ったので、この声は掻き消えた光と一緒に彼の脳裏から飛び去った。(『青の時代』)


引用が長くなったが、「最後の一行が決まるまで書けない」と語っていただけあって、三島由紀夫の小説のラストシーンはいずれも唸るほど計算されつくしたうまさがある。吃音にコンプレクスをもつ若い修行僧が自分を束縛し続けた美の象徴・金閣寺を放火するまでの経緯を描いた、有名な『金閣寺』だが、放火を決行するまでの緊迫した精神状態、苦悩の描き方ももちろん素晴らしいが、放火した後に精神的に解放されて、ナイフや薬による自殺ではなく、煙草を選んで「生きよう」と思う。この一行があるだけで、ただの破滅的耽美小説で終わらず、普遍的な青春小説になっている気がして最初に読んだ時に感銘を受けた。

仮面の告白』は、三島の自伝的小説で、その同性愛的な感情と同性愛であるがゆえに初恋の女性・園子へ失恋したことを語った小説だが、三島好きだった大学の後輩は「普通の(異性愛の)恋愛小説として読みました」と語っていたのを思い出す。そうとも読める書き方になっているので、まさに二重の意味で「仮面」の告白なのである。

ここで引用したエンディングは、結婚した園子と「私」が再会してダンスホールで食事をしている場面だが、「私」は園子の存在を忘れて、思わずダンサーの男性を夢中になって眺めている。同席しているが関心の向かう方向がまったく違ってしまっている。そのズレと悲哀を巧みに描いている。

最後の『青の時代』は東大法学部生による闇金融詐欺事件「光クラブ事件」をモデルにして、その主犯の計画家・山崎に自己をかなり投影しながら、その半生を描いた小説である。このラストシーンでは、計画ばかりに縛られて生きてきた主人公が、自分のように優秀ではないがのびのび生きてきた従弟・易のデートの現場を眺めながら、すべてに自然体な易と、人工的で計算高い自分の人生とを対比しながら、子供の頃、文房具屋の看板の鉛筆が欲しいと親にねだって怒られたことを回想している。看板の鉛筆は人工物の象徴であり、「どこかで普通であることに憧れていながら、しかし決して普通になれない・なろうともしない」という三島文学に一貫した悲しさがうまく描かれている。

御存知のように三島由紀夫は自衛隊の市谷駐屯地で割腹するという衝撃的な最期を迎えたが、川端康成と三島由紀夫の書簡集を読んでいても、三島が小説のみならず最期まで自分の人生を計画しつくしていて、だからこそ計画に追い詰められ、老いていく自分に耐えられなかったような気がしてならない。遺作となった四部作『豊饒の海』は、松枝清顕の輪廻転生の物語で、転生していく主人公とそれを追いかけていく親友・本多繁邦を描いた長編小説だが、第4巻の『天人五衰』では、若い頃三島が自己を投影して描いたような計画家の若い天才肌の青年が出てくる点や老人が醜く描かれている点では、いかにも三島文学だが、もはや「若くなかった」三島は、尊大な若者への厳しい視線も忘れない書き方をしている点が異質である。

また松枝と死別した恋人で、今は尼になっている綾倉聡子と本多は、小説の結末で60年ぶりに再会するのだが、聡子は「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならっしゃったのですか?又、私とあなたと以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今、はっきりおっしゃれますか?」と、輪廻も松枝の記憶もすべて否定する。法則ですべて語れるような書き方で書いてきた三島が最後には自分の若い頃の投影のような若い主人公も、また輪廻の物語そのものも否定するような東洋的な曖昧な書き方で小説を終わらせ、直後に自決したというのが象徴的である。しかしその結末も最初から決めて書いていたのだから驚くしかない。

面白い連続ドラマを見ていても最終回で失望させられることが少なくないが、三島の小説の場合は最初に結末の文章を練りに練って考えているのでそのようなことは決してない。しかし人生はある一つのゴールに向かって一直線に計画的に進んでいくものではないだろうし、トンネルを抜けたら思ってもみなかったところに立っていた、という方が自然だろう。

三島が「自然」や「普通」にどこかで憧れていた反面、「選ばれたもの」としての極めて高い自意識をもち、平凡で流される「現実的な」人生を拒否して、徹底的に計画し尽くそうとした姿は彼の小説にも繰り返し反映されているが、どちらかというと破滅型で無計画な芸術家が多い中で、芸術至上主義者でありながら、計画にこだわり、計画で「破滅」した稀有な存在が三島由紀夫だったのだろう。彼が生きていれば今年で80歳だが、戦後60年を迎えた今日を彼だったらどのように捉えただろうか?それを見たくなかったから自決したのだろうか?そんなことをふと考えさせられた。