紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

政治とは何か?

2005-07-10 16:50:15 | 政治・外交
「論語読みの論語知らず」という言葉があるが、政治学をやっていて、「政治」を分かってるのかなあと思う人たちに出会うことが多い。政治学を学ぶ希望に溢れて大学に入学したものの1年次は教養科目ばかりで、「人類学」の授業で、どの角度から殴ればいい石器が作れるのかといった話を半年も聞かされたり、高校よりも簡単な英語のリーダーを読まされたりして大いに失望する日々だったが、そんな中で教養科目の「政治学」と専門基礎科目の「政治英書Ⅰ」という科目は先生の話術も巧みで面白かった。前者では高校の『政治経済』的な制度論とは全く異質な「政治システム」という考え方を学んで、理系的なセンスも感じて新鮮だったし、後者は英書講読といいつつも、テキストはほとんど進まず、先生の政治学や政治解説ばかりだったが、今でも記憶に残る台詞が多かった。

その中で特に印象的だったのは、「政治と言うのは、嫌なやつでも追い出さないで、何とか同じ社会の中で折り合いをつけていくことなんです。その過程で様々な交渉や説得、妥協があります。反対者を追い出してしまった瞬間に政治は終わるんです。それは独裁です。」という言葉だった。学部から大学院まで一貫して政治学を勉強してきた私は、数多くの政治学の授業をとったが、これほどシンプルにストレートに政治の本質を語ったのはこの先生だけだった気がしている。

政治の本質は考えや好みの違う人同士も関係を切らずに折り合いをつけていくことなのだが、当の政治学者でこれを苦手としている人が少なくない。たとえば自分の意見と違うことを言われるとすぐに癇癪を起こす人、平和主義を語りながら研究者仲間では喧嘩ばかりしている人、公開性や民主的手続きの重要性を説きながら、なんでも一人で決めてしまって異論に耳を傾けない人、身近な対立をさもないもののように見て見ぬ振りをする人など、大学教師がともすると小君主になりがちなせいか、およそデモクラシーの精神に反した人たちであふれかえっている。「偽善は悪徳が美徳に捧げる敬意のしるしである」(ラ・ロシュフコー)というが、自分の内なる悪と違う美徳を語ることが政治学なのだろうか?
 
自分とは異なった意見を根気よく聞き続けたり、見解の相違を超えて一つの方向性にまとめていくのは大変しんどい作業だが、それこそ日々における政治学の実践なのではないだろうか?自分の周りにおける異論をあっさり排除して、自分と同じ意見の人とばかり付き合っていながら、政治家に対して、寛容や多文化尊重の精神を説くのは虫が良すぎるのではないだろうか?そんな学者が多すぎる気がする。語弊があるかもしれないが、例えば数学や地球物理学の研究者が「研究者としてはピカイチだが、社会性がなくて、非常識」ということはありうるし、あっても構わないと思うが、政治学や社会学といった人間関係や人間集団を対象として研究し、それを教育している人が反社会的だったり、人間関係に鈍感だったりするのはあまり許されることではないはずだ。自己催眠ではないが、美しい理想を説いているうちに、自分がその理想を体現しているような誤解をして、何をやっても許されると勘違いしているかのように見える人もいた。全て自分のレベルに下げて考えるのはよくないが、かといって自分や自分の周りでできないことを他人や他国に期待するのも同様に問題があるだろう。

911テロが起こったとき、「アメリカ人は世界でアメリカがどれだけ嫌われているかわかってない。今回の事態を教訓とすべきだ」などと声高に語っていた人が、中国での反日デモに直面すると絶句したり、「愛国主義教育のせいだ」などと的外れな批判を始めたり、あくまでも当事者感覚を欠いた無責任な評論・論評も多すぎる。現代の政治学なり国際関係論が日々のデモクラシーの実践や改善に役立つべきものだとしたら、まずは自分の半径100メートルくらいの範囲で、普段、自分が授業で教えているようなことをどの程度実践できているか考えるべきだろう。念のために書いておくが、私自身がそれができていると自惚れているわけではさらさらないが、例えばアメリカ論の授業を教える場合も、日本人にできないことを安易にアメリカ人に期待するような論評はしないようにしているし、自分と違う意見にはできるだけ耳を傾ける努力は怠らないようにしているつもりである。それができているかどうかは学生や同僚の判断を仰がなければならないが、いずれにしても「学問と生活は別」という態度は私は嫌いだし、許されないと思っている。

グッド・リスナーの難しさ

2005-07-03 16:47:37 | 世間・人間模様・心理
大学に限らないだろうが、学校の教師になると自分と世代の違う人たちの話を聞く機会がぐっと増える。自分の親くらいの年齢の上司・同僚や自分が大学に入学した頃に生まれた学生たちの話を聞いていると、世代による見方の違いに愕然とすることもある。たまに同世代の同僚や大学以外の友人と話すと、いろんな社会的背景を共有しているのでとても話しやすく、楽だと思うが、違う世代の人の話を聞くのは発見も多くて、大学の教師になってよかったと思えることの一つである。

しかし特に教師をしている人に多く見られがちな傾向だが、自分のことを長々と話すのが人一倍好きなのに、学生や若い人の話をまったく聞けないという困った人も少なくない。それだけ自分の話をしたいのか、若いのは黙って聞いてろ、というのか、単に忍耐力が衰えてきているのか、わからないが、自分の話ししかせず、人の話を聞けない人が好かれたり、飲みに誘われたりすることは稀だろう。またいつも素朴に不思議に思っていることが、功成り遂げて、世間や社会やその業界で高い評価や地位を得ている人なのに、自分の自慢話を延々とする人がいる。人になかなか認めてもらえない人、自己評価と他者評価のギャップが激しい人が、自分の事を認めてくれと訴えるのは、痛々しい場合もあるが、まだわかるが、他人から十分すぎるほど認められている人が、それでもなお自慢し続けるのは何故なのだろうか?まだ褒められ足りないのだろうか?

私はわりと人の話を聞くほうだが、そういう人たちの話を聞かされると、自分もこれから長く教師をやっていたり、ある程度仕事で成果を収めたときにそうならないようにしないとと改めて思う。それに比べると研究室に話をしに来る学生たちの話を聞くのは面白い。彼ら彼女らも基本的には具体的なアドバイスを求めに来るというよりも、自分のアイディアを聞いてもらって、何らかの「承認」を求めに来ているのだが、自分のやっていることに確固たる自信を持っていない分だけ、まだ可愛らしい気がする。

しかしここまで書いてきて思ったのだが、自分の話を一方的に若い人に聞かせている(ように思える)年長の人たちも実は確固たる自信があるわけではなく、自分が間違ってないことを若い人と話す(聞かせる)ことで、自分なりに再確認したいだけなのかもしれない。グッド・リスナー(よい聞き手)にならない限り、人に好かれるグッド・トーカー(よい話し手)にはなれないだろう。教師がグッド・トーカーになる可能性は意外と低そうだが、これから自分が年をとっていっても気をつけないといけないと常々思っている。